まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第26番「一乗寺」~西国三十三所めぐり3巡目・4(とりあえず手を合わせよう)

2019年09月29日 | 西国三十三所

加古川の鶴林寺にお参りした後、加古川線と北条鉄道を乗り継いで法華口駅に到着した。

法華口駅といえば法華山一乗寺の玄関口というよりは、駅舎が「モン・ファボリ」というパン屋であることで知られている。地元産の米粉を使っているのが売りである。また委託の女性駅長が凛とした姿勢で列車を見送る光景も人気で、パン屋と合わせて、法華口駅は北条鉄道に乗って、あるいは北条鉄道ではなくクルマで直接乗り付けて訪ねるスポットになっている。この駅と女性駅長は『サザエさん』のオープニングの兵庫県版にも登場したくらいだ。

私が法華口駅に着いたのは昼下がり、パン屋は営業していたが商品はこれまでに売れたようで、店先にはわずかしか残っていない。ただ、残っているパンを買うかとなると、そこまで無理することもないかな。また、女性委託駅長が見送りに出ることもなかった。まあ、昼を過ぎた時間である。この日もパンは順調に売れたのだろうし、駅長といっても24時間詰めているわけではなく、この日の勤務は終わったのだろう。

駅を出て踏切を渡り、バス停に向かう。県道沿いの歩道もないこのバス停から乗るのは3巡目にして初めてだ。社から姫路に向かう系統。今回、両方からのバスの時刻を確認したところ、この時間帯なら14時39分発の姫路行きに乗って一乗寺前のバス停に着き、1時間後の15時51分発のバスで姫路に行くのがスムーズだ。この時間帯の他のコースだと、一乗寺の時間がほとんどないか、2時間以上ぽっかり開いてしまうかのいずれかになってしまう。

以前に歩いた道をたどり、10分ほどで一乗寺の正面に着く。一乗寺はかつて広い境内を持っていて、その名残はバス道とは別の旧参道にある。山門と呼んでいいのか、今もバス道の脇に小さな門が建っている。

一乗寺と書かれた石柱の前で、白衣姿の男性が一心に何かを唱えている。耳をすませたところでは、西国三十三所の各札所のご詠歌のようだ。西国めぐりも数をこなしている人はたくさんいる。こうして熱心に回る人も一定数いる。私なんかかわいいものだ。

拝観料を納めて境内に入る。正面には162段の石段が続く。とは言っても一気に上るというわけでもなく、途中にある常行堂や、平安末期に建てられた国宝の三重塔を見ながらである。

江戸時代に再建された本堂に上がる。縁台からは先程の三重塔や石段を見下ろすことができる。山の中の古刹の雰囲気がある。

本堂でお勤めとした後、先達用の巻物の納経軸に重ね印をいただく。一乗寺は2巡目も早い時期に訪ねたために西国1300年の記念印がまだ入っておらず、この機に押していただく。デザインはやはり三重塔だ。記念印は2020年の事業終了までのもので、別に全部揃えなければならないというわけではないが、まだの札所もそれなりにあるので、他のお出かけと上手く組み合わせて回りたい。

奥の院に向かう。確か大雨の被害で立ち入りができなかったが、今回は修復が終わったのか道が通じていた。少し坂道を上がると開山堂がある。一乗寺を含めて播磨の寺院の開創にいろいろ登場する法道仙人を祀っている。

さらに奥には賽の河原があるようで上り坂が続いているが、次のバスの時間もそろそろ気になるし、どのくらいの距離があるのかわからなかったため、ここで引き返す。そのまま石段とは別の坂を下り、西国三十三所の本尊お砂踏みの一角を抜けて入口に戻る。

15時51分発のバスまで、参詣者用の休憩所に入る。無人だが、椅子や給茶器もあり自由に過ごせる。中には西国三十三所めぐりのJRのキャンペーンのポスターや、一乗寺が属する天台宗関連のポスターがあちこち貼られている。一乗寺の本尊である聖観音像は秘仏だが、こういう姿なのだなというのがポスターからうかがえる。

姫路駅行きのバスが来た。一乗寺からは40分あまりかかるようで、山間地域や山陽自動車道、いろいろ集落を進むうちに町の景色になった。姫路城の東側に来るルートで、最後は天守閣もわずかながら見ることができた。

さて姫路駅着。ここから新快速で大阪に戻るのだが、コンコースがざわついている。東加古川駅で人身事故があり、JR神戸線は姫路から土山まで運転見合わせという。復旧までの時間も読めないので、青春18きっぷを引っ込めて、山陽電鉄の姫路駅に向かう。JRからの振替利用の客も多く、梅田駅行きの直通特急の先頭車両まで行ってようやく座れた。

その後JR神戸線も復旧したようだが、すでに梅田行きに乗っているし、わざわざ乗り換えるのも面倒だとそのまま乗っていた。青春18きっぷもこの日の移動だけ見れば1日分の元は取れなかったかもしれないが、ここまでの「貯金」があるし、この後9月7日にも最後の利用があるので問題ない。

・・帰宅後に、この人身事故に関するニュースがあるのかネットで検索してみた。事故があったのは姫路行きの新快速が東加古川駅を通過した時で、亡くなったのは加古川市在住の男子高校生。駅のホームから線路に下りたようで、これは自殺として扱われた。

この9月1日はカレンダーの並びでたまたま学校の夏休み最終日だが、現在では休み明けの始業式の日、あるいは休みの最終日は子どもの自殺率が他の日と比べて断然高いのだという。この日東加古川駅で新快速に飛び込んで亡くなった生徒もその一人ということか。学校でどのような悩みがあったのかはわからないが、電車に飛び込んで自殺するくらいだから相当思い詰めてのことだろうし、周りも支えきることができなかったと言える。「死んだら負け」と簡単には言いたくないが、どうにかして自殺を防げる方法はなかったのかなと思う。

こういうことに対して、仏教の側で何かできることはないか、今の時代に仏教も捨てたものではないと思わせるものはあるか。

とりあえず手を合わせることから始めるのかな・・・?

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第22番「鶴林寺」~西国四十九薬師めぐり・6(四天王寺、3つ目)

2019年09月28日 | 西国四十九薬師

8月12日~17日までの栃木~宮城~岩手の旅行記を書くうちに9月も末となった。季節も少し進んだところである。

話は9月の初めに戻る。前回から少し間隔が開いたが、西国四十九薬師めぐりの続きを行うことにする。この記事を書くにあたり四十九薬師霊場会のホームページを久しぶりに開けてみると、すっかりリニューアルしていて(スマホ対応版もあり)驚いた。この9月1日から新しくなったそうだが、開創30周年ということもあるのかな。

6ヶ所目となるのは第22番の鶴林寺。加古川駅の南にある寺で、新西国三十三所の札所めぐりで以前一度訪ねたことがある。聖徳太子が建立したとされており、聖徳太子信仰にゆかりがあるということで新西国に含まれている。この鶴林寺だが、国宝にも指定されている本堂に祀られている本尊は薬師如来である。その薬師如来が西国四十九薬師めぐりの一つとなっている。まあ、一度訪ねているからいつでも行ける時に行こうというところだが、8月の猛暑も少しは落ち着いた9月1日に、青春18きっぷの残りぶんの使用も兼ねて行くことにした。偶然にも霊場会のホームページがリニューアルされたのと同じ日である。

合わせて、西国三十三所めぐりの3巡目も少しずつではあるが進めているところである。その中で加古川に比較的近いところで、第26番の一乗寺がある。一乗寺は姫路もしくは北条鉄道の法華口からバスで行くのが最寄りだが(にもかかわらず過去2回はいずれも法華口から1時間歩いたが)、JR西日本が引き続き行っている西国三十三所の駅スタンプラリーでは、一乗寺のスタンプの対象駅として加古川も含まれている。加古川から加古川線に乗り、粟生で北条鉄道に乗り換えとなる。ということで、今回は鶴林寺と一乗寺をセットで回ることとして、どちらから先に行くか、一乗寺へのバスは姫路から乗るか法華口から乗るか、また復路のバスはどちらに乗るか、いくつかの組み合わせが考えられる。結果、自宅をゆっくり出て先に鶴林寺に参詣し、その後で加古川から加古川線~北条鉄道~バスで一乗寺に向かい、一乗寺から姫路へ抜けることにした。

9月1日、雨の予報もあったが何とかなるだろうと、曇り空の中で新快速に乗車。11時すぎに加古川に到着した。前回は国鉄高砂線の跡を見ようと鶴林寺まで歩いて移動したが、今回はコミュニティバスの「かこバス」に乗ることにする。30分に1本のペースで出ており、次の出発は11時28分。

駅前には「棋士のまち加古川」という文字が目につく。地元ゆかりのプロ棋士(元プロも含む)を5人輩出していることから市のPRに使っているそうである。「加古川清流戦」という将棋大会が開かれたり、駅前の百貨店「ヤマトヤシキ」では将棋教室や自由対局のコーナーもあるようだ。

やってきた「かこバス」は座席が10席ほどのミニタイプである。「かこバス」には加古川駅から東加古川駅、または山陽電車の浜の宮、高砂駅を結ぶ系統がある。かつての国鉄高砂線や別府鉄道のルートに近いものがある。今回は鶴林寺にそのまま向かうが、バスの車窓には高砂線の野口駅跡を示す駅名標や車輪が残されている。

鶴林寺前でバスを降りる。寺に隣接した公園で保存されているC11を見た後で、改めて山門に向かう。

「聖徳皇太子御霊蹟」「聖徳太子新西国第廿七番霊場」の石柱が門の両側に立つ。これを見ても聖徳太子をアピールしていることがうかがえる。さらに、関西花の寺二十五ヵ所を示す新しい札が山門の正面に掲げられているが、西国四十九薬師はというと・・反対側の柱に目立たないように結構くすんだ札がある。

境内と宝物館のセット800円を納めて境内に入り、まずは正面の本堂に向かう。外陣には長椅子が並んでいて、ちょうどクラブツーリズムの20人ほどの団体が住職の法話を聴いているところだった。新西国めぐりか、聖徳太子の歴史ツアーか。

しばらく後ろに立っていると話も終わりの、団体は続いて宝物館に向かった。外陣が空いたので長椅子に腰かけてお勤めをする。

鶴林寺は聖徳太子にゆかりがあるということで改めて歴史を見てみると、恵便という高麗からの渡来僧が、物部氏ら排仏派の迫害を逃れてこの地にいる時に、聖徳太子が教えを乞いに訪れ、お堂を建てたのが始まりという。本格的に寺となったのは、後に聖徳太子が推古天皇に法華経の講義をしたご褒美に播磨の土地を与えられてからともいう。いずれにしても聖徳太子が開創したとされる。

創建時には四天王寺聖霊院という名前で、後の平安時代に鳥羽天皇の勅願寺となった時に鶴林寺に改められたという。この「鶴林」とは、四国八十八所の札所にもある名前だが、沙羅双樹の林という意味だそうだ。釈迦入滅の場所に生えていた沙羅双樹が、それを悲しんで鶴の羽のように白く変わって枯れたという言い伝えがある。

「鶴林」はそういう意味だったかと納得する一方で、「四天王寺」という言葉に反応する。四天王寺といえば大阪の、今の天王寺の地名にもなっている四天王寺があるが、この西国四十九薬師めぐりで津にある同じ四天王寺という名前の寺を訪ねた時、案内に「聖徳太子は全国に4つの四天王寺を建てた」とあったのに驚いた。4つの四天王寺と言っても残り2つがどこなのか書かれておらず、検索しても出てこなかったのだが、ここ鶴林寺の縁起にさらっと「四天王寺聖霊院」と書かれているのを見て(前回そこは気に留めていなかった)、ここが3つ目の四天王寺ということでよいのかなと思った。となると浪速、伊勢、播磨と出てきたが、あと1つはどこだろうか。

バインダー式の朱印をいただく。なお、今年2019年の7月から2021年の大晦日までの期間、西国四十九薬師霊場の開創30年記念印を押すという。各寺院でオリジナルの印があるが、これはまさしく西国三十三所の開創1300年にあやかったものだろう。1300年と30年では桁がすごく離れているが。この7月からこれが始まったとなると、これまで訪ねた札所をもう少しずつ後にずらして訪ねていればいただけたことになる。でもまあ、これもタイミング、ご縁だろう。先の記念印にしても、用紙を渡された時に「押してますんで」と一言添えられて初めて気づいたことである。

この後は太子堂、観音堂に手を合わせて、宝物館に入る。先の団体も若い僧侶のガイドを受けながら見学していて、そろそろ出ようかというタイミングである。入口に「鶴林」と書かれた額があり、署名に「公望」とある。これは西園寺公望のことかな?

宝物館のメインは、太子堂の中の壁画の再現図である。釈迦涅槃図、九品来迎図を描いたのを現代の技術で再現させている。

また、新西国の本尊である聖観音像もケースにて保存展示されている。白鳳時代の作とされていて、「あいたた観音」の別名がある。昔、盗人が鶴林寺に入り、この像を運び出した。溶かして売り飛ばすために壊そうとすると「あ痛たた・・」と声がする。見ると観音像が痛いと言っている。盗人はこれに驚き、観音像を寺に返して改心したという。

宝物館には他に聖徳太子絵伝もあり、現物の他にはタッチパネルで解説を読むことができる。

いつしか団体も出発したようで、境内も閑散とした雰囲気になった。

本堂を挟んで宝物館の反対側にある新薬師堂に向かう。こちらでは薬師如来の大仏と、その周りに控える日光・月光菩薩、さらに一部武器が失われているが十二神将が控えるという「チーム薬師」を目にすることができる。本堂の薬師如来は60年ごとに開帳する。ただ江戸時代に「それはいかがなものか、毎日手を合わせることはできないのか」と思った大坂の医師が建てたのが新薬師堂である。

薬師如来の両側に十二神将が祀られている。その1体が「ウインクする仏像」として知られている。元々は弓を持ち、片目をつぶって狙いを定める様子を表した形だったが、弓が失われて体だけが残ったため、ウインクしているように見えるものだ。

一通り回ったところで、次の行き先を決めるサイコロである。

1.河南町(弘川寺)

2.多気(神宮寺)

3.三田(花山院)

4.たつの(斑鳩寺)

5.長浜(総持寺)

6.湖南(善水寺)

この中で出たのは「5」。初めての滋賀県である。長浜・・先日竹生島に行く時にも通ったが、今度は長浜が目的地である。総持寺といえば茨木の西国22番の他に、横浜にある曹洞宗の大本山や、能登の輪島にある寺を連想するが、長浜にもあるとは。

帰りも同じく「かこバス」で加古川駅に戻る。次の加古川線まで少し時間があるので、高架下にある姫路の「えきそば」で昼食とする。姫路駅ホームのスタンドが有名だが、加古川駅では椅子席があり、セットメニューもいろいろある。

加古川からは13時42分発の西脇市行きに乗り、粟生では14時09分発の北条鉄道に乗り継ぐ。気動車にしばらく揺られて14時18分、法華口に着く。ここからはバスに乗り換えとなる・・・。

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旅の終わりは三陸自動車道と、再びの新幹線乗り継ぎ

2019年09月25日 | 旅行記B・東北

長かった宇都宮~三陸~岩泉の旅もそろそろ終わりに差し掛かる。一つの旅行記の記事でブログを1ヶ月以上引っ張ったのも初めてのことで、相変わらずの長い記事でうんざりしている方もいらっしゃるだろうが、それだけ印象に残る旅だった。この1ヶ月以上の間で世の中もさまざまな動きがあったわけだが、それはまた(逆にネタがない時にでも)書くことにする。

さて、最終日8月17日は岩泉にて龍泉洞の見物と、移動を兼ねてかつての岩泉線跡に沿って走り、昼前の時刻で茂市を出発した。すぐに国道106号線に出る。閉伊川に沿って走る。

市街地に入る手前の宮古根市インターから三陸自動車道に入る。この自動車道は部分的に少しずつ工事が進められたものであり、現在は気仙沼市の一部区間を除けば仙台港北インターから自動車専用道路で宮古まで結ばれている。その長さは約230キロ。松島以北は無料区間という位置づけである。宮古から北も順次工事が進んでいて、それらを合わせると2020年度末までに仙台から三陸側を経由して八戸にいたる道路網が完成する。なお三陸自動車道というのはこれらを合わせた総称で、細かくは「◯◯バイパス」とか「△△道路」とかいう呼び方である。

ほとんどの区間が片側1車線ずつ。地方によくある自動車道のこの構造だが、高スピードで駆け抜けようとあおってくるのが必ずいるのであまり好きではない。まあそこは需要と供給もあるし、費用面のこともあるのだろう。まずは片側1車線ずつの道路でもいいから、震災復興の後押しになるようネットワークを作るということが重要なのだろう。

前日に国道45号線の下道で少しずつ走ってきたところだが、自動車道となるとそれらをスムーズにかわして行く。特に渋滞することもなく山田町、大槌町、釜石市と南下する。国道45号線より内陸や高台に建設されたところが多く、インターチェンジが町並みから離れているところも多い。釜石の中心部もこの日の時間次第では回ることもできたかもしれないが、先の記事にもあるようにレンタカーの返却時間というのがある。またの機会に委ねるとする。

三陸自動車道は走りやすい道路だが、高速道路のように決まった間隔でサービスエリアやパーキングエリアがあるわけではない。そんな中、休憩ポイントとなるのは大船渡市に入って一度インターチェンジを出た45号線沿いにある道の駅「さんりく」。前日、三陸駅前の「ど根性ポプラ」に立ち寄る前に通っている。 こちらで「浜どこラーメン」という海鮮ラーメンと、単品の焼きホタテをいただく。

後はひたすら南下である。陸前高田では移転住宅の向こうに「奇跡の一本松」も見渡せるが、全体的に国道45号線と比べれば景色を楽しめるポイントは少ない。まあ、高速道路、自動車専用道というのはそのようなものだろうが。 自動車道は気仙沼市街に入る手前で一度途切れる。ここでしばらく渋滞に入る。

本吉から再び自動車道で、後はそのまま走る。時間からしてこのまま有料区間も利用しないと返却が間に合わない。幸い車線も増えてクルマの流れもより順調になったので、少しだけスピードを上げる。結構無茶したかもしれない。そのおかげかどうか、16時ちょうど、仙台駅前のオリックスレンタカーに到着した。車両確認を終えて無事返却である。

さてこれから新幹線乗り継ぎで大阪に戻る。大阪に深夜到着する時刻から逆算して、仙台17時43分発の「やまびこ154号」の指定席を取っている。あれ、レンタカーの返却は16時だったではないか。列車がそれなら17時返却でも間に合ったのではないか。

そこは、万が一大渋滞に巻き込まれてしまったら、ということで余裕を持たせたわけだが、仮にスムーズに、ともすれば早めの返却で時間が空いた場合は、仙台の味でも楽しもうかと思っていた。仙台も大きな街、昼飲みの大衆酒場くらいあるだろう。

ただ実際に16時にレンタカーを返却して、荷物を抱えて駅に向かううちに、もうこのまま帰ろうという気になった。やはり荷物が多いのと、疲れもあって早く大阪に戻ったほうがよさそうだ。残された休暇は翌日の18日まで。手持ちの指定席を先行列車に変えようとしたが、Uターンラッシュの最中で軒並み満席である。しかし東北新幹線は仙台始発の「やまびこ」も結構出ていて、並べば自由席に座れるのではないかと思う。

そのままホームに上がると、列車待ちの列はできているものの、数えれば2人席の窓側でも確保できそうだ。16時34分発「やまびこ148号」である。 仙台を発車したところで缶ビールの栓を開ける。あては夕食前に「ほや水明」と牛たんの燻製。これで十分だ。

福島で「つばさ148号」を後部につなぐ。そろそろ日が傾く頃である。仙台発車時点では自由席も結構空席があったが、むしろ福島、郡山、宇都宮と停まるごとに乗客が増える。

関東平野に日が落ちる。またこれらの地も訪ねたいなと思ううちに、列車の到着も近づく。18時36分、東京着。

東京駅はこの時間でもごった返している。駅弁コーナーでは売り切れの商品も多い中で弁当の取り合いになっている。予定より早く着いたので、この後に乗る予定ののぞみの指定席も早い時間に変更しよう。券売機では19時10分発「のぞみ125号」広島行きにこのタイミングでE席に空席がある。誰かが直前で変更したのだろう。これで着席して予定より1時間早く帰宅できる。駅弁もいろいろあるが、帰宅のお供に久しぶりに崎陽軒のシウマイ弁当を手にする。後はこれで2時間半は快適に・・・。

長かった旅も無事に戻ることができた。

久しぶりの東北被災地訪問の旅では、復興が進んだところ、途半ばのところ、ほとんど手つかずのところ、さまざまあった。もっとも、訪ねているのが仙台より北のところばかりで、仙台から南、さらに福島県には行っていない。また、訪ねたことがあるエリアでも、震災関連で訪ねていない、知らないスポットもたくさんあるし、今回まわってみてもこれで震災について理解した、学べたと言えるのか、言っていいのか。そうしたモヤモヤは消えていないし、却って高まってしまったのではないかと思う。

旅行記の中で、わかったような口を数々ほざいているが、地元の方々からみれば上っ面だけで実は何もわかっていないということになるのだろうか。

「復興」の定義って、いったい何なのだろうか、改めて考えることになる旅だった・・・。

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岩泉線廃線跡を行く~夏草の線路たち

2019年09月24日 | 旅行記B・東北

岩泉駅跡から国道455号線を走る。線路の路盤跡の行方を気にしながら走るうち、右手にちょっとした空間が見え、「二升石駅待合室」の看板がかかる小屋が見えた。

その敷地の中に入る。野菜の無人販売所があり、その奥の築堤を上がったところにホームと線路が見える。

近づくとホームの足場の向こうに線路や路盤もしっかり残っているのが見える。ここは岩泉の隣の二升石(にしょういし)で、岩泉までの開業時にできた駅である。二升石とは変わった名前だなと思うと、この辺りの旧家の庭園に米が2升入るくらいの大きな窪みがある石があったからとか、小本川に屏風二双ほどの大きさの石があったからとか言われている。

こんな感じで進んでいくのかなと再び走るうち、国道455号線と国道340号線の分岐点に差し掛かる。整理すると、国道455号線は盛岡から岩泉を経て小本まで、一方国道340号線は陸前高田から遠野、茂市、岩泉、九戸などを通り八戸まで続く。岩手県の真ん中を455号線は横に、340号線は縦に走りちょうどクロス(一部重複区間あり)している。これから走るのは340号線だが、心なしか急に道が細くなる。これは「酷道」と書くほうの国道かな。まあ、この道の整備が不十分だったから岩泉線の寿命が延びたようなものだが。

浅内(あさない)駅跡はちょっとした集落の中にある。岩泉線が岩泉まで延びる前はここが終着駅だった。かつては貨物も取り扱う駅だった。駅舎が残っているが中は資材置き場になっているようで入ることはできない。またかつては構内だったところも今はどこかの現場事務所のようで、資材が置かれていたりスーパーハウスが並んでいる。

そんな中で残るのは給水塔。蒸気機関車が走っていた当時のものだと思うが、今はカラスの寝床になっているのか、てっぺんには黒い姿も見える。

この駅は見ておきたかった。11年前に岩泉線に乗った時、浅内駅にて駅舎の向こうに私の勤務先企業の社名が入った建物を見ている。まさかこんなところにウチの営業所があるのか?・・とその時はそのまま列車で過ぎ去ったが、その後調べてみても浅内に営業所が現存するということはなかった。

そして今、その建物の前に経っているがもちろん現役ではなく、中は物置のようで雑然としている。浅内駅はかつて貨物も取り扱っていた駅で、貨物列車ではこの辺りで産出される木材や、変わったものでは牛も運んでいたことがあったという。それを踏まえるとこの営業所はそうした貨物関連の担当だったのかな。今この建物や土地の所有者が誰なのかわからないが(まさか勤務先企業のままということはないだろうな・・)、看板の字体はもはや遺跡である。これはこれで残しておきたいなと個人的には思う。

この先も線路が並走する。ところどころでは線路を砂利で埋めてしまってクルマが通れるようにしたところもあるが、相変わらず橋脚も残っている。次の岩手大川駅は国道340号線から少し離れるが、そこまでわざわざ追いかけることもないかなとそのまま国道を走る。

この先が押角峠で、岩泉線の難色区間である。ちょうど行政区画も岩泉町から宮古市に変わる区間で、2010年の列車事故があったのもこの区間である。国道も急なカーブが続く。

これが先ほど触れたように岩泉線が存続していた理由だったのだが、今は逆に岩泉線のトンネル、線路を転用する形で新たな国道340号線と押角トンネルの建設が進められている。確かに、列車が走ることができるだけの勾配で造られているしトンネルは先に掘られているということで転用は容易だったのだろう。津波被災区間のBRT転換にもヒントを得たのだろうか。

下り坂となり、この先に「秘境駅」として知られていた押角駅があるはず・・と走らせると右側に標識がある。ミラーを見ると「押角駅」という道路標識がまだ残っており、クルマをいったん停める。

元々が「秘境駅」の中でも上位にランクされていたくらいだから周りに人家などなく、また2016年の台風10号ではかつての駅跡に続く橋も流されたそうで、今や立ち入ることはできない。それでも国道から続く道が広場になっていて、スーパーハウスが建っている。押角トンネル、国道340号線の工事に携わる業者の現場事務所のようだ。それはいいとして、2014年に廃止になった駅への案内標識がまだ残っているのはどうだろうか。ここまで来ると、岩泉線の廃線跡めぐりというのが地元の一つの名所になっていて、それの案内も兼ねてわざとそのまま残しているのかなと思ってしまう。特に押角の場合はこれしか目印になるようなものがなさそうだし。

坂を下ると集落が開けてきた。建設中の押角トンネルとつながるためか国道の道幅も広くなった。そんな中やってきたのが岩手和井内駅。比較的新しい待合室タイプの駅舎とホームが残されている。2014年(平成26年)4月1日からJR岩泉線に変わって東日本交通の路線バス岩泉茂市戦が運行開始するという当時のポスターが貼られている。このバスは茂市から岩泉(現在の終点は岩泉病院)まで朝、夕、夜の合計3.5往復、1時間40分で結んでいる。列車の時と本数が変わらないうえ、所要時間が鉄道で約1時間だったのが結構延びたように見えるが、岩泉町内では町営バスと共用する形でバス停を増やしたり、おそらくお年寄りの利用があるだろう病院まで行くようにしたのがせめてもの利便性向上だろう。

この岩手和井内駅跡から次の中里駅までは「レールバイク」の乗車体験ができる。鉄道の線路を自転車の2人乗り・4人乗りタイプのレールバイクで走るものだ。そのため、この両駅間が現在でももっとも現役当時の姿を残しているといってもいい。本物のレールの上を走るとはちょっとした運転手気分だろう。

しばらく走ると中里駅に着く。現役当時はホーム1本だけの簡易な駅だったところ。

どうやら線路とはこの中里駅を最後にお別れのようである。国道340号線から脇道に出て茂市駅前の集落に入る。岩泉駅を出たのが10時前で、時刻は11時30分。ちょこちょこ立ち寄りを挟んだらこんなものだろう。

最後に、こちらは現役のJR山田線の茂市駅をのぞいてみる。現役といっても現在この駅を発車する列車は、宮古方面が快速を含めて1日8本、盛岡方面にいたっては1日6本しかない。おまけに、盛岡方面行きのうち2本は途中の川内までしか行かない。そんな中での11時30分、駅には誰もいない。

ホームに入ってみる。跨線橋の登り口には板が打ち付けられている。今年の8月5日から使用停止となり、列車が発着する向かいのホームには踏切を渡るようにとある。老朽化しているのだろうか。

駅前の観光案内図には今でも岩泉線が描かれている。観光名所といってもキャンプ場や歌碑めぐりのようなところが多いが、いずれも岩泉線の駅から何キロという表記である。超ローカル線とはいえ何とか利用してもらおうというせめてものPRだったのだろう。地元の人に訊いたわけでもないので何とも言えないが、やはりどこかで岩泉線を惜しむ気持ちというのは地域として今もあると思う。あらかじめ何日付で廃止になると決まっていたわけではなく、事故が原因で寿命が切られたようなものだから余計に心残りというのがあるのかもしれない。津波で被災したことで鉄道は廃止となり、BRTで引き継がれたというのともまた違うし。

これで今回の旅での見物、見学するところはおしまい。後は16時までに仙台駅前に戻るということで残り時間は4時間半。間で昼食も挟むし、果たして間に合うかどうか・・・?

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岩泉線廃線跡を行く~波乱短命のローカル線

2019年09月23日 | 旅行記B・東北

私が岩泉線に唯一乗車したのは2008年の9月の連休の時である。当時は東京勤務で、利用したのはJR東日本の「岩手・三陸フリーきっぷ」というものだった。東北新幹線の東京から岩手県内の新幹線駅までの往復と、岩手県内のJR在来線、三陸鉄道、IGRいわて銀河鉄道の乗り放題がセットになったものだ。JRで未乗車区間だった山田線の釜石~宮古(震災復旧後の現在は三陸鉄道に移管)、そして岩泉線に乗車して本州のJR全線の乗りつぶしを達成した。その時の終着駅が岩泉だった。

当時書いたブログ記事で振り返ると、東北新幹線で新花巻まで来て釜石線に乗車。その後釜石から宮古を経由して茂市まで来て、夕方の列車で岩泉にやって来た。ただ今回のように龍泉洞を見ることもなく、また町並みを見ることもなく、折り返しの列車で岩泉を後にした。要は乗りに来ただけである。

さらに記事を進めると、その夜は宮古に宿泊し、翌日は浄土ヶ浜を見物している。その時の書き込みでは浄土ヶ浜の後は三陸鉄道で島越まで出て北山崎めぐりの遊覧船に乗り、臨時快速「さんりくトレイン北山崎」で盛岡に出て新幹線で帰京・・・とある。あら、北山崎を見るのは今回が初めてだと先の記事で書いたが、陸地の展望台から見るのは初めてとして過去に海からは見物していたのか。そういれば特別な車両に乗った記憶もかすかにあるようだが、何せその時の旅行記は浄土ヶ浜で終わり、続きは別の記事(野球関連)なのである。

旅の思い出を書き残しておこう、それもネット上で・・ということで13年前に今の形のブログを始めたのだが、旅行記が旅の途中で終わっているのはどういうことだろうか。今のように細かなところまでは書かないにしても、日本観光の「特A級」の名所を見たのなら何がしか書いているだろうし、特別な列車に乗ったならそれじたいで1つの記事にすることもできる。それがないというのは、当時はなるべくリアルタイムで書きたくて東京に戻った後観戦した野球を優先させたか、あるいはその旅の残りの行程がそれほどのものでもなかったのか、今となってはよくわからない。写真データを引っ張り出して来れば思い出すこともあるだろうが・・・。

この画像は、その時の岩泉駅のホームと列車である。

ついでに当時の他の画像データを見てみると、浄土ヶ浜を散策してさんま祭りで昼食をいただいた後は、宮古からいきなり「さんりくトレイン北山崎」に乗って、そのまま久慈まで展望車両で乗りとおしている。途中雨の景色も出ているから北山崎めぐりの遊覧船が欠航となったか、あるいは私の気が変わってそのまま乗りとおしたか。そして久慈まで行き、三陸鉄道の普通列車で宮古に戻り、そのまま山田線で盛岡に出ている。今のように何でもかんでも撮影していたわけではなく少ない写真からの推測だが、運転席前方の景色も何枚か写っていることから、ひょっとしたら席にありつけずに運転台横に立って過ごしたものと思われる。何や、この時に三陸鉄道にも乗っていたのか。

話を戻す。

岩泉線は小本川で採掘される耐火粘土の輸送のために山田線の茂市から建設された。その後、地元の建設運動により、町の中心である岩泉を経て小本(現在の三陸鉄道の岩泉小本)までつなぐ路線として計画された。

その後1972年に岩泉まで開業したが、その後は国鉄の赤字ローカル線問題の影響もあり、小本まで開通するどころか岩泉線そのものの廃止、バス転換が取りざたされる。しかし地元の存続運動により、並行する国道340号線がバスが運行できるほど整備されていないとして廃止は見送りとなった。全国で多くの路線が廃止となる中で何とかJR東日本に引き継がれた。

ただその後も岩泉線の利用者数は減少の一途をたどり、またバスも国道340号線を走らずとも直接盛岡や、小本から三陸鉄道に乗り継ぐ形で宮古まで結ぶ便などができて、地元にとっての利用価値はなくなった。最後のほうは1日3往復で、乗っている人といえば地元の人より鉄道ファンのほうが多いほどだと言われていた(私が乗った時もそんな感じだったと思う)。

そんな中で、2010年7月に発生した土砂崩れに列車が乗り上げる脱線事故である。それから長期の運休となるのだが、JRは岩泉線の復旧を断念。並行する国道340号線の改良にJRや岩手県が協力する話も出たことから、地元も廃止に同意した。結局、2014年4月に廃止となったが事故以来列車が運行されることがなかったため、いわゆる「葬式鉄」が列車を見送るとか、お別れのセレモニーが開かられることもなかった。岩泉まで開業してから廃止まで42年というのは短い歴史だったように思う。

こういう言い方は失礼と思うが、事故に遭った列車に乗っていた乗客は7名で、いずれも県外からの「乗り鉄」と推測されるそうだ。このうち3名が軽傷を負い病院で手当てを受けたが、結果的に岩泉線の負傷した人も時間が経てば「名誉の負傷」に変わったかもしれない。

さて、現在の岩泉駅である。この日は土曜日だからか商工会もお休みのようで駅舎には鍵がかかっている。前日のぞいていてよかった。

その代わりちょっと失礼して建物の裏にあるホーム跡に出る。駅名標も何もなく、線路跡には草が茂っていて線路があるのかないのかすらはっきりしない。ただホームから改札口に続く緩い階段は残っている。

また、改札口上には「歓迎 ようこそ岩泉へ」の横長の看板が掲げられている。この思いだけは線路がなくなっても変わることはないようだ。

さてここから国道455号線を小本川に沿って走る。早速、川を渡るコンクリートの橋脚が見える。脇道があるのでそちらに入り、橋脚のたもとに着く。銘板があるので見てみる。

「第8小本川橋りょう」とあり、設計は日本鉄道建設公団、「施行」は竹中土木とある。また昭和44年7月に着手、同年12月に「しゅん功」となっている。それぞれ「施工」、「竣工」ではないのかと思うが、まあ昭和のことだし、国鉄(役所)の仕事、またゼネコンの業界用語としてこういう標記で合っているのだろう。1972年に造られた橋なら現在でも普通に供用できるくらいの強度はあるだろう。ただ廃止されてから5年が経っているがそのまま残っているのは、解体するのがもったいなくて何かに利用しようと思っているのか、単にカネがないからなのか・・。

これから岩泉線の線路をいろいろ見ながら、茂市まで南下して行く・・・。

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龍泉洞見物

2019年09月22日 | 旅行記B・東北

8月17日、旅の最終日である。台風10号は前日夜に北海道の西で温帯低気圧に変わった。その影響かこの日は岩手県でも30度超え、35度近くまで気温が上がるのではないかとの予報である。

ただ天気はよい。これなら前日悪天候だった北山崎や黒崎灯台、またその手前にあり前日閉館時間を過ぎていた田野畑村の資料館に行ってもいいように思えた。しかしせっかく来たのだから龍泉洞には行きたいし、その後に行くとしたら時間が足りない。もう、行程だから仕方がない。

ゆっくり起床して朝食である。旅館の和定食ということで美味しくいただく。

龍泉洞へはホテルからクルマで5分ほどで行くことができる。見学が8時半からということでそれに合わせての出発である。観覧料は大人1000円だが、ホテルのフロントでは宿泊者向けに団体割引料金の観覧券があり、750円で購入できる。地元のシンボルとも言えるスポットだけにPRも兼ねているのだろう。

龍泉洞に向かう前に、前日暗くなってからのぞいた町並みに立ち寄る。町を包むようにそびえる山は宇霊羅山。「ウレイラ」とはアイヌ語で「霧のかかる峰」という意味だそうだ。龍泉洞はこの山の地下に広がっている。

また町並みにも昔ながらの建物や、龍泉洞の水が湧き出るスポットもある。ちょっとぶらつくにはいい感じのところである。前日もう少し早く来ていればこうしたところもいろいろ見ることができただろう。

町を離れ、山道を走って龍泉洞の駐車場に着く。まだ営業時間が始まったばかりだが大勢の観光客の姿が見える。やはりそれだけ名勝地ということだ。龍泉洞の名前にちなんだ龍の彫刻を見た後で、洞内に入る。洞内の気温は年間を通して10~11度という。外がすでに30度を超えようかという気温だけにより涼しく感じられる。

龍泉洞は現在確認されているだけで長さが3600メートルあり、このうちの700メートルが観光ルートとして公開されている。しかし現在も洞内の調査は続けられており、全長は5000メートル以上あるのではないかと推測されている。

洞内にはコウモリも生息していて、その巣穴もあるそうだ。コウモリにもさまざまな種類があり、龍泉洞では5種類が生息しているという。あまり見たいとは思わないが、コウモリのほうも観光客の前には姿は見せないようだ。

長い歴史の中でさまざまな形の岩がつくられている。亀に似たものや観音像、ビーナス像を彷彿とさせるものもある。観音像には賽銭箱があり、ビーナス像はわざわざ「洞穴ビーナス」とタイトルがつけられた額縁がある。こうした案内板があるからそう見えるのだが、何もない状態で岩の名前をつけることができるセンスというのはすばらしいと思う。

そして龍泉洞で特に見どころといえる地底湖に出る。現在は第三地底湖まで公開されているが、その奥には非公開の第四地底湖があり、さらにはまだ調査・解明されていない地底湖が複数あるとされている。この辺りの深い森林から集まったのが龍泉洞の地底湖であるが、照明の効果もあった神秘的なブルーに輝いている。底が見えそうで見えない。特に第三地底湖は水深が100メートル近くあるという。こういう地底湖では生物が棲むことはできるのだろうか(プランクトンくらいはいるだろうが)。

龍泉洞は、東日本大震災の時は地底が揺れたことで沈殿物が浮き上がり、透明度が一時的に失われたものの洞内に特段の影響はなく、1ヶ月半後には営業を再開した。しかし2016年の台風10号では地底湖の水が増水し、洞穴の入口から大量の水が流れ出て、洞内の照明灯も破損した。このため半年ほど休業となった。台風10号は岩泉に大きな被害を与えたと前の記事でも触れたが、こういうところにも影響していたとは。

ここで折り返しとなり、一気に階段を上がって出口に向かう。途中には洞内の冷気を利用したワインセラーが設けられている。そういえば前日の夕食の食前酒でこのブドウ酒があったような。

いったん外に出る。先ほどからそれほど時間は経っていないが余計に暑く感じる。川と県道を渡った向かい側にある龍泉新洞科学館に向かう。県道の拡張工事の時に見つかったそうで、鍾乳洞がよく発達していて学術的に貴重なことからそのまま科学館にしたものである。道路を拡張したら鍾乳洞が出て来たとは、地面を掘ったら遺跡や土器が出てくるというどこかの町とよく似た話である。

先ほどの龍泉洞は観光スポットということで洞内の撮影も自由だったが、こちらは科学館というためか内部の撮影は不可。そのため画像はないが、鍾乳洞が形成される現在進行形を見ることができる。下からタケノコのように伸びる石筍と、上からつらら状に垂れ下がる石が長い年月をかけてつながると石柱となるが、その途中の様子も見られる。さらに、人類の祖先が洞穴に住みついて原始生活を営んだ痕跡も残されている。土器や石器も出て来たし、食用の動物の骨も見つかったとある。さらには洞窟に描いたという壁画の痕跡も見られる。

特に自然科学、地学に興味のある人には面白く感じられるところだが、先ほどの龍泉洞とセットの観覧料であるにもかかわらず、科学館に入ってくる人はほとんどいなかった。

売店に立ち寄る。龍泉洞のミネラルウォーターやビール、地酒も並ぶ。もちろんビールを飲むことはできないので運転のお供にミネラルウォーターと、持ち帰り用として地酒「龍泉八重桜」を買い求める。これで内陸の観光もすることができた。

さてここからは仙台に向けての折り返しである。普通にカーナビでルート検索すると盛岡まで出て東北自動車道を通るルートが推奨される。盛岡まで出るのも時間がかかりそうだが、まあそうなのだろう。距離で見れば前日のルートを戻る形で国道45号線まで出て、並走する三陸自動車道を走ることになる。ただそこはあえて、岩泉に泊まった理由でもある岩泉線の廃線跡に沿っていったん茂市に出ることにする。距レンタカーの返却はこの日の16時ということにしているが、カーナビで時刻検索をするとそれをオーバーする。まあ、実際三陸自動車道は開通しているがカーナビが未対応だったり、あとは長い距離なのでスムーズに走れば時間を巻くこともできるかと思う。

町の中心部に戻り、岩泉駅跡にクルマを走らせる・・・。

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岩泉にて

2019年09月21日 | 旅行記B・東北

8月16日、今回の旅の最後の宿泊となる岩泉の「ホテル龍泉洞愛山」にチェックインする。1979年に開業というからちょうど40年である。建物は年季が入っているようだが、岩泉、龍泉洞観光の玄関口としての歴史がありそうだ。

部屋は8畳一間。今回の旅で唯一の和室ということで、洋室のホテルの椅子とテーブルと違う形でくつろげそうだ。部屋の窓からは周囲の山々を見ることができる。これまで津波の被災地ということで海べりをずっと回っていただけに、こうした山あいの町に泊まるのは旅の幅が広がって一層面白い。

食事の前に入浴とする。大浴場には「炭の湯」という名前がついている。温泉かと思ったが厳密には温泉ではなく沸かしたものである。ただ、その元の水は翌日訪ねる龍泉洞と同じ源泉の水で、石灰岩の地質を流れることで温泉のような水質に変わるそうだ。さらにその水を地元の木炭や玉川温泉のラジウム鉱石を通すことで柔らかく滑らかな湯の感触を楽しめるとある。ちょうど他の入浴客と入れ替わる形だったのでしばし浴槽を一人占めする。

ロビーで面白いものを目にする。「もう一つの岩泉線プロジェクト」と題して、ホテルの中に岩泉線全線を模したNゲージのレイアウトがある。壁伝いにずっと敷かれていて、山田線と接続する起点の茂市から各駅を伝って、終点の岩泉まで敷かれている。それぞれの駅や周囲の特徴も再現されているそうで、「秘境駅」として有名だった押角も奥のほうにあり、終点の岩泉の近くにはこのホテルも建っている。かつての走行風景の写真も飾られていて、当時をしのぶことができる。

岩泉線は波乱に富んだ歴史を送ったように思う。その詳細はまた後の記事で触れようと思うが、2014年に廃止となった。世間の一部には他の路線とごっちゃになって「東日本大震災の影響で廃止になった」と思っている人もいるようだが、岩泉線はまた別だ。震災前の2010年、押角~陸中大川間で土砂崩れがあり、そこに気動車が乗り上げる事故が発生した。結局そこからの復旧をあきらめる形で廃止となった。路線の廃止といえば、それを聞きつけた大勢のファンが殺到するとか、お別れ列車が走ることもあるのだが、岩泉線に関しては土砂崩れ→そのまま廃止という残酷な終わりとなった。この「もう一つの岩泉線」というプロジェクトも、現実的にはもう廃止確実だろうなという中で、それでも何らかの形で後世に伝えられないかという思いである。

先ほどのブルートレインと岩泉線の模型レイアウトで鉄道気分になったところで夕食である。パーティーにも使える広間にテーブルが並び、部屋ごとの料理も揃っている。

夕食は岩手の地のものを盛り込んだ「岩泉山海御膳」。造りにはマグロやカジキが並び、ホヤの姿造りもある。メインの焼き物は岩手牛と、カサゴの塩焼き。他の料理も岩手産、三陸産を工夫して様になっている。締めは鮭の釜めし。そりゃあ、地のものを売りにした居酒屋とか郷土料理店でアラカルトで注文するのと比べれば見劣りするかもしれないが、ホテル全体でみれば満足である。このコースをもって「三陸の味覚を十分に堪能した」と言いきってもいいと思う。

食後、少し外を散歩する。時刻はまだ19時だが灯りもほとんどなく真っ暗に感じる。これでは外で夕食処を探すのも大変で、2食付きにしてよかった。その中で町の中心部を流れる小川の流れに触れたり、提灯が並ぶ昔からの商店街に触れる。いずれにしても静かなところで、こうした夜も旅先ならではである。

部屋に戻りテレビをつける。売店で購入したのは龍泉洞の水から作られた地ビール。BSを含めればナイター中継もある中、チャンネルをいろいろ変える中で見つけたのが「サンテツがゆく」というNHKの番組。金曜日の19時半~21時のNHKは地域によってはオリジナルの番組の時間帯だが、「サンテツがゆく」はこの日東北地方限定で放送された特別番組である(後に特別版が全国放送された)。

途中から観始めたのだが、三陸鉄道のイベント列車を仕立てて、千原ジュニアさんとベッキーさんが三陸を南から北へ旅するものだ。途中の駅ではイベントがあったり、車内にはガイドとして震災の語り部をしている人や、「あまちゃん」の鉄道の場面で運転手をしていた本物の運転手が登場する。震災の体験談に二人が涙ぐむシーンもあった。

番組の後半には、薬師丸ひろ子さんがこの番組の企画として島越駅で行ったミニライブの模様も流れていた。「あまちゃん」の中では大物女優役として出演したが、撮影当時、島越駅は津波被害からの再建の途中だった。今年三陸鉄道が新たに開業したお祝いということで、ここをライブの会場に選んだとのことである。前日に三陸鉄道に乗ったこともあり、見た景色も流れたのでより親しみをもって観ることができた。

今回は東日本大震災の津波被災地を中心に回ってきたのだが、ここ岩泉も「被災地」である。といっても津波ではなく、震災後の2016年のことである。恥ずかしい話だがそこまでの被害だったとは来るまで知らなかった。

2016年8月末に発生した台風10号。日本列島の西側を通るかと思いきや、途中でUターンするなどして迷走し、上陸したのは大船渡だった。東北地方の太平洋側に上陸したのは気象庁が統計を取り始めて以来初めてのことだったという。北海道のじゃがいもの収穫に大きなダメージが出て、ポテトチップスの一部の生産・発売が中止になった・・ということで記憶している方もいるのではないだろうか。

この台風が岩泉を直撃し、高齢者施設を含めて24人が犠牲となった。町のいたるところが冠水して、数日にわたって孤立した集落もあった。

それにしてもこの数年、毎年夏になるとどこかしらで豪雨や台風の大きな被害が出ている。今年もこの旅と前後して、長崎や佐賀では豪雨の被害となったし、9月に発生した台風15号では千葉県内で大規模な停電が発生し、この記事を書いている時点でもまだ全面復旧していない。毎年のように「数十年に一度の災害」が連発するものだから、一つ一つ覚えていられないくらいだ。

さて翌日17日は旅の最終日。まずは岩泉に来たのだから日本三大鍾乳洞の一つである龍泉洞に向かうことにする・・・。

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かつての終着駅・岩泉へ

2019年09月20日 | 旅行記B・東北

普代村まで来たところで国道45号線を南下して、今回の一連の「被災地復興を見る」シリーズは一区切りとなる。翌日8月17日は三陸自動車道で仙台に戻るが、おそらくこれ以上震災遺構を見る時間はないだろう。

8年半前に発生した東日本大震災。今、これをどう伝えていくかが被災地の中でも課題になっていることが感じられた。被災した建物、例えば役所や学校といった公共施設を震災遺構として保存すべきかどうかは地元でも意見が二分されている。その結果、遺構として公開したものもあれば慰霊碑のみとしたものもあるが、結局ここに出てくるのは「被災者の感情」と「カネ」のいずれかなのだなと感じた。

そんな中、この一連の記事を書く中で震災からちょうど8年半との報道に接するが、明らかに扱いは小さい。全体的には風化と取られても仕方ないようだ。津波の語り部のツアーも、一時と比べれば回数や参加者数は減っているとのことで、また町並みの復興で新たな建物や整備された宅地群を見るとそこが被災地だったと言われてもピンと来ないという話もあるそうだ。次に震災について大きく取り上げるとすれば、ちょうど10年となる2021年なのだろう。

今は映像技術も発達し、また誰もがスマホなどで動画が撮れる。動画サイトには今でも津波の映像が多くアップされている。それらに自分から進んで接する、自分から震災や津波のことを学ぼうとする人にはいいのだろうが、そうではない人のほうが圧倒的に多い。そうした人たちにどうすれば関心を持ってもらえるかは、人間の心理にも関係することで絶対的な正解はないのだろう。かくいう私も常に震災を意識しているのかと訊かれればごめんなさいと言うしかない。

再び田野畑村に入る。向かったのは田野畑村の民俗資料館。時刻は16時を少し回っているが、資料館なら17時までは開いているかと駐車場に入る。他にクルマが1台も停まっていないのが気になるが。

そして玄関に向かうと、「本日閉館」の文字。アラッと思いよく見ると、16時で受付終了とある。他に見学者もいないからさっさと戸締まりもしてしまったのだろう。時間を読み違えた。ドアの向こうに「三閉伊一揆」と書かれた幟があるのだが、「本日閉館」を前にして一緒に討ち死にしてしまったようにも見える。

なぜ残念がるかということだが、江戸時代にこの一帯で起きた「三閉伊一揆」に関する展示がある。

江戸時代後期、ちょうど日本沿岸に外国船が相次いで姿を見せる頃である。ロシアのラクスマンの来航を機に、幕府は盛岡藩に北方の警備を命じた。これにともない盛岡藩は石高を増やされたが、実際の土地が増えたわけでもなく、一方で軍備だけは石高相当の負担となったために、財政が一層苦しくなった。

その中で石高のベースである稲作を強行したが、三陸沖の海霧から生まれた「やませ」が吹き寄せる。今のように寒さに強い品種のコメはないので、例年凶作となる。コメの不作をカバーするために領内に重税を課したため、民衆の不満が高まる。その結果の一揆である。民衆はさまざまな要求をしたが、その中で藩の枠を飛び越えて仙台藩に訴えたものもあったという。三閉伊の民衆を盛岡藩から仙台藩、もしくは幕府の天領に編入してほしいという内容だったとか。

一揆の結果、盛岡藩が頭を下げ、家臣たちにも罰を与える形で収束するのだが、お決まりというか、一揆の主導者は最後は捕らえられて処刑、あるいは獄死する。資料館の一角には一揆の英雄を称える像が建っている。

なぜ一揆についてここまで触れるのかだが、三陸の「やませ」と、中央から見た「暗い歴史」である。今でこそ岩手県は日本有数のコメどころで、高い質の品種も多い。また海の幸も豊富なところとして知られているが、私の勝手なイメージとしては冷害や貧困というのがついてくる。コメが不作の時は、いや不作だろうが豊作だろうが民衆はアワやヒエを主食としていたとか、娘を東京の金持ちに売るとか、あくまで社会科の資料集の1ページで見た印象を今もそのまま引きずっている。

それだけ厳しい土地なのである。それを何とかしないかと立ち上がった民衆がいたことに思いを致すことが大切なのだろう。それにしても、資料館の時間を確認せずに思い込みで乗り込むって・・・つくづく自分をアカン奴やと責めてしまう。

国道45号線から離れて、岩泉を目指す。内陸に入ったので、津波からもいったん離れることになる。

道の駅がある。鉄道の岩泉線は廃止になったが、道の駅はあちらこちらでドライバーたちの安息の地になっている。岩泉の町中よりかなり東よりだが、ここも人気スポットだという。

道の駅とは別経営ながら、さまざまなキャビンを構えた宿泊施設がある。その中に、3両つないだブルートレインの寝台車が見える。そのヘッドマークは「日本海」。かつて大阪と青森、函館を結んでいた寝台列車である。

このブルートレインも宿泊棟として開業している。外から見ると当時のB寝台そのままの造りだ。施設「ふれあいらんど岩泉」のホームページによると、4人向い合わせの寝台1ボックス単位や、1両貸切の料金がある。また3両のうち1両はA寝台だ。

もっとも寝台では文字通り寝るだけで、食事や入浴は隣接の建物でとある。家族連れ、グループ、部活の合宿での利用に適しているそうだ。それでも鉄道ファンが一人で1両まるごと貸切にすることもあるようで、ネットにはその旅行記もちらほら出てくる。1両貸切とは鉄道ファンとしては夢のようだが、ただ走行音も振動もない寝台車で一夜を明かすとは、眠ることができるだろうか。それでも、この宿泊施設の存在を以前から知っていたら、結果論かもしれないが今回の宿泊地に加えていた可能性は高い。トレーラーハウスとの対照というのもありだったかと思う。

岩泉の町内に入る。やって来たのはかつての岩泉駅。列車が来なくなって何年も経つが駅舎は商工会か何かが入っていて現役だし、駅前のバス乗り場では三陸鉄道の岩泉小本駅行きなどが発着する。翌日はこの岩泉線跡に沿って走ることになる。

この日の宿泊は「ホテル龍泉洞愛山」。老舗の観光ホテルである・・・。

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被災地復興を見る~田野畑、北山崎、黒崎海岸

2019年09月19日 | 旅行記B・東北

台風の間接的な影響で雨が強く降る中、島越駅から北に進む。走るのは県道44号線で、「陸中海岸シーサイドライン」という旅情をそそる愛称がついている。この辺りは海の近くを通る。これがもし青空が出ていればドライブとしては気持ちの良いところだろう。またこうした海を見ていると、震災があったことが嘘のように思えてくる。普段は穏やかな海なのだろうが、地震が発生し、津波が起こると人々に牙をむいて襲い掛かってくる。

田野畑駅を過ぎてしばらく走り、海べりの民宿が建つところに入江がある。明戸海岸というところだが、ここにも震災遺構がある。雨の中だが駐車場にクルマを停めて外に出る。

明戸海岸、明戸浜は江戸時代に盛岡藩による製塩も行われたところで、震災前は広い砂浜とクロマツの防潮林があったそうだ。また周囲にはキャンプ場やマレットゴルフ場、海産物販売所などがあるレジャースポットで、1969年に防潮堤が築かれた。しかし震災ではここも約17メートルの高さの津波が押し寄せ、防潮堤を破壊してしまった。

その破壊された防潮堤をそのまま震災遺構として残している。全長378メートル、高さ9メートルあった。現在駐車場がある防潮堤からまっすぐ延びたところにコンクリートの塊が見える。

ちょうどコンクリートの塊の周囲に見学用通路があり一回りする。海中に埋められている消波ブロックも打ち上げられている。ブロックの重量は1基8トンもあるそうだが、軽々と運ばれてきたものだという。そして引き波が防潮堤のブロックを破壊し、東日本大震災の前に防潮堤の無力さをさらした形になる。

新しい防潮堤は県道44号線の路盤も兼ねて新たに建造されたものだが、これで絶対大丈夫というわけではないことは地元の人たちも承知だろう。ただ外から来た者には実感しにくい。こうしたシーサイドラインからも見える場所にかつての防潮堤の遺構を残すというのは、被害の大きさを視覚的にとらえることができる。

県道44号線を走る。再び山の中に入り、案内に従って到着したのは北山崎。先ほどの鵜の巣断崖に続いての名勝地である。これまでずっと走って震災遺構や現在の町の様子を見てきた「被災地復興を見る」もここで終わり、この先は名勝地を見るドライブモードに切り替わる。

北山崎も三陸を代表する名勝地の一つである。先ほどの鵜の巣断崖とほぼ同じ高さ200メートルのところに展望台があり、田野畑村のホームページでの紹介文によれば、北山崎は日本交通公社(JTB)の「全国観光資源評価」の「自然資源」の部で「特A級」の評価を得ているとある。特A級とは、JTBの資料によれば「わが国を代表する資源であり、世界に誇示しうるもの。日本人の誇り、日本のアイデンティティを強く示すもの。人生のうちで一度は訪れたいもの」で、他には大雪山、奥入瀬渓流、十和田湖、尾瀬、日光杉並木、富士山、黒部、立山、穂高岳、吉野山、瀬戸内海の多島群、阿蘇山、屋久島、慶良間諸島といった限られた場所しかない(世界自然遺産に認定されている知床や白神山地が入っていないというのとはどういう関連があるかは知らないが)。今挙げたところでは訪ねたことがない場所のほうが多いのだが、今回こうして北山崎に来ることができた。

駐車場にクルマを停めて遊歩道を歩く。鵜の巣断崖とは異なり土産物店や食堂、民宿もある。ちょうど同じタイミングで観光バスの団体さんと一緒に歩くが、雨がますます強くなってきた。

そしてウッドデッキの第1展望台に着く。霧と雨でかすんでいる向こうに「海のアルプス」と評される断崖が広がる。ただ海べりに来ると今度は風も強くなってきた。折りたたみ傘が役に立たない。これは台風のせいだろうか。他の観光客も立っていられないとばかりにすぐに展望台を後にした。私も早々に引き返す。本当はこの先に迫力ある第2展望台、さらに先には第3展望台があり、海べりに下りることもできる。ただこの時はとてもではないが先に行く気になれなかった。北山崎滞在はごくわずかでクルマに引き返す。

続いては黒崎海岸に向かう。当初、この夜はここにある国民宿舎を予約していたが、旅の途中で気が変わって岩泉に変更した。

せめてどんなところか訪ねてみるのだが、先ほどからの大雨と強風が続いている。もし当初のままだと、翌日の天気がどうなるかはともかくとしてチェックイン後の時間が心細かっただろう。また周りには商店も何もない。

この黒崎には灯台がある。ちょうど北緯40度線上にあり、東北では日本海側にある男鹿半島の入道埼灯台と対をなしている。この北緯40度線上を西にたどると、北京、アンカラ、マドリード、ニューヨークという主要都市がある。ヨーロッパだとギリシャ~イタリア~スペインをたどるところで、ヨーロッパというのが全体的にイメージよりも北にあるのだなということも改めてわかる。

灯台は階段を下った岸壁にあるのだが、雨のためにあとわずか行くのをためらってしまう。まあ、黒崎宿泊を途中でキャンセルしたからこうなったのかなと思う。手前の「恋人の聖地」の写真だけ撮って、そのまま後にする。

県道44号線はまた高さを下げて普代村の中心にさしかかる。そのまま走り抜け、国道45号線に合流して普代駅に着く。

ここまで来て雨はピタリと止んだのは、やはり上記の理由だろう。 この日のドライブでは朝の時点ではこの先の十府ヶ浦海岸や陸中野田を経て久慈まで行けるかなとも思ったが、それは見通しが甘かった(ここまででもだいぶ無茶をして、途中の観光スポット、震災遺構もかなり割愛することになった)。岩泉に行く時間を考えれば普代で方向転換するのが限度のようだ・・・。

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被災地復興を見る~島越、鵜の巣断崖

2019年09月18日 | 旅行記B・東北

国道45号線をベースに北上する今回の旅。道端の標識で仙台からの距離が300キロを指している。乗り始めたレンタカー店は起点から少しずれているし、途中45号線を外れて走行したところもあるので完全に沿っているわけではないが、遠くまで来たものだと思う。

この次の目的地は田野畑村の島越駅だが、その前に被災地めぐりからいったん離れて鵜の巣断崖に立ち寄ることにする。宮脇俊三の初期の紀行文『汽車旅12ヵ月』でスリルある場所として紹介されたのを読んだのは随分前のことだが、訪れるのは初めてである。この日もレンタカーだから立ち寄ろうとしたのであって、公共の乗り物だとバスの便もなく、1日2便、予約制の観光乗合タクシーで行くことになる。

国道45号線から右折して人気の少ない集落の中を抜ける。そのどん詰まりに駐車場がある。断崖の展望台へは遊歩道を10分ほど歩くことになる。

松林が続き、歩道にはふかふかしたウッドチップが敷き詰められている。ただ雲のような海霧のような、どんよりした空である。そしてこの先にあるのが断崖・・・となると、何かサスペンスとか、自殺とか、そうしたネガティブな言葉も連想させる。決して鵜の巣断崖が悪いわけではなく私が勝手に思っているだけだが、そういえば宮脇俊三は『殺意の風景』でも鵜の巣断崖を舞台にしているなと思い出す。

もっとも、鵜の巣断崖がモデルとして登場する文学作品といえば、吉村昭である。『星への旅』は太宰治賞に選ばれ、吉村昭が作家として、その後三陸や東北を舞台にした作品を多く書くきっかけとなった作品である。その一節が文学碑として飾られている。碑文にはこのように刻まれている。

「水平線に光の帯が流れている 漁船の数はおびただしいらしく 明るい光がほとんど切れ目もなく 点滅してつらなっている それは夜の草原に壮大な陣を布く 大群の篝火のようにみえ 光が水平線から夜空一面に広がる 星の光と同じまたたきを くりかえしていた」

展望台からその景色を見る。遥かに東に広がる水平線も壮大だが、やはり見どころは隆起海岸である。五層の屏風のような断崖が続く。高さは200メートルほどという。柵で囲った展望台がある。真下は木で覆われているので恐怖感はそれほどなく、山の上から遠くを展望するのと似たような景色である。今は昼なので真逆だが、夜に来ると吉村昭の文章のような景色が見られるかもしれない。ただ、夜にここに来るというのは結構勇気が要りそうな気がするのだが・・。

駐車場に戻ると雨が落ちてきた。そういえば当日(8月16日)、台風10号はまだ日本海を北上しているところだった。

島越駅に向かう。鵜の巣断崖から直線距離だと3~4キロという距離だが、先ほど見た断崖には道は通っていない。いったん国道45号線に出て、少し走って県道に入る。道をたどると10キロ以上かかる。その間に200メートルの高さを下って、海べりに出る。

島越からは北山崎めぐりの遊覧船が出るのだが、台風の影響によりこの日は運休とある。そのためか人の姿もほとんど見えない。漁港を抜けた先にあるのが島越駅である。

元々は海側に駅舎があったが、震災の津波で駅舎だけでなく高架橋の線路ももろとも流されてしまった。営業再開に当たっては山側に元の駅舎をモデルとして新たに駅舎が建てられている。駅周辺の集落も内陸の高台のほうに移転したようである。

雨の中駅舎内に入る。震災関連の展示コーナーがあり、震災前の島越駅周辺のジオラマや、岩隈久志投手のメジャー時代に寄贈されたユニフォームが飾られている。

その奥には三陸鉄道の車両をバックにした横綱白鵬関と志村けんさんのパネルや、鉄道写真家の中井精也さんの三陸鉄道写真の数々が飾られている。

さらには、ホワイトボードに描かれた寄せ書きの中に、田老に続いてバッファローマンのイラストに出会う。多くの人が三陸、そして島越に思いを寄せて来たか。展示にはその感謝の気持ちも込められている。

列車が来ない時間帯だが、ホームに出てみる。線路を挟んで駅前に慰霊碑、そしてすぐ先では防潮堤の工事が進んでいる。防潮堤といえば、この三陸鉄道も営業再開に当たっては高架橋ではなく土台を築き、いざという時の防潮堤の役目を持たせている。

待合室には吉村昭の文庫が並ぶ。先ほど触れた『星への旅』だけではなく『三陸海岸大津波』の取材でも何度となく三陸を訪れた縁もあり、吉村自身が著作を寄贈したのが始まりだったが、震災の津波で流されてしまった(吉村は2006年に亡くなり、東日本大震災を見ることはなかったのだが、もしその時存命だったら何を思い、何を文章としただろうか)。駅舎の再建にともない、吉村の夫人で作家の津村節子さんが改めて「吉村文庫」として作品を寄贈した。

駅舎を出て海側に向かう。元々はこちらが駅の玄関口だった。今は「島越ふれあい公園」として慰霊碑が建てられている。そしてかつての駅の名残として、旧駅舎の水色の丸屋根、駅舎へ続く階段(の一部)が置かれている。震災遺構という扱いではないそうだが、かつて親しまれていた駅舎のせめてもの名残である。

そんな中、津波にも耐えて当時の姿をそのまま留めているのが、宮沢賢治の「発動機船 第二」の詩碑である。賢治が三陸を旅した時に、田野畑から宮古まで船で移動した時の光景を詠んだ詩の一節である。当時はもちろん三陸鉄道も通っていなかったから、沿岸の集落から集落への移動は船というのが一般的だったこともうかがえる。

ポールのようなオブジェが立つ。先端の高さは17メートル、これは東日本大震災の津波と同じ高さとある。これも津波を忘れないようにとのことだ。

ここに来て雨が強くなってきたが、もうしばらく田野畑村を走ることにする・・・。

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被災地復興を見る~田老

2019年09月17日 | 旅行記B・東北

三陸鉄道の線路と久しぶりに合流するのが田老。前日に三陸鉄道に乗った時も触れたが、田老は「万里の長城」と呼ばれる大規模な防潮堤がある町である。高さが10メートル、総延長が2433メートルで、海側と山側でX字形で二重に築かれている。

道の駅にクルマを停めて、その防潮堤に上がってみる。田老は「津波太郎(田老)」と呼ばれるほど過去から津波の多いところで、1896年の明治三陸大津波、1933年の昭和三陸津波では大きな被害を受けた。そのために巨大な防潮堤を築くことになり、1957年に陸側、1978年に海側が完成した。その後の津波では防潮堤を超えることもなく、地元の人には安心感を与えたが、東日本大震災に限ってはそれが死角になったといえる。高さ16メートルの津波は防潮堤を乗り越え、また一部を破壊して町に押し寄せたが、「まさか」「大丈夫だろう」と思っていた人たちは逃げ遅れ、犠牲となってしまった。

また建物も並ぶようになり、海べりではまたさらに新しい防潮堤の建設が進んでいる。従来X字形で造られていた防潮堤の海側を改修し、さらにかさ上げするというもののようだ。ハード面の整備ということでは一つの安心ではあるが、それが「油断」につながらなければとも思う。

道の駅のすぐ横、防潮堤の内側に野球場がある。宮古市田老野球場で「キット、サクラサク野球場」とう看板が掲げられている。球場じだいはどこの町にもあるような建物だが、復旧にあたっては野球を通した地域密着や三陸鉄道の活性化ということで、三陸鉄道と、東北復興キャンペーンにも取り組んでいるネスレ日本がスポンサーに名乗りをあげた。そして誕生したのが草野球チーム「三陸鉄道キットDreams」である。

それにしても、イラストのキャラクターにはどこか見覚えがある。あれは『キン肉マン』のバッファローマンではないか。最初はそれに似せたオリジナルのキャラクターかなと思ったが、正面のプレートを見ると本物である。これは作者のゆでたまごさんが地元支援にとキャラクターを提供したもので、キャラクターがバッファローマンなのは岩手特産の短角牛になぞらえてのことだそうである。

スタンドに入れるようなので上がってみる。シート一面に「キットカット」のロゴが入っている。このくらいの収容人数があると独立リーグの試合もできそうな感じである。

さて、防潮堤からも見えているところにあるのがたろう観光ホテル跡である。こちらも震災遺構ということで向かってみる。

たろう観光ホテルは6階建てだったが、16メートルの津波で4階まで浸水し、1階、2階は津波の衝撃で骨組みだけ残った。この建物はこの震災で初めて国費による震災遺構整備の支援を受けたところで、津波の脅威と防災について伝える役割を持つことになった。かつて、テレビの情報番組で「震災◯年」を特集して、このたろう観光ホテルの上の階の中継で放送していたのを見た覚えがある。

内部の見学は事前に宮古市への予約が必要とのことで外観のみぐるりと見るだけだったが、やはり現地に来てみると津波の高さや威力というものを写真で見るよりも実感が沸く。なお現在たろう観光ホテルは場所を海岸寄りに変えて「渚亭 たろう庵」として新たに営業している。多少値段は張るが三陸の海の幸が満喫できるそうだ。

朝に大船渡を出てからここまで結構北上したように思うが、道のりはまだまだ続く。その中であちらこちらの見学をしているために時間は結構かかっている。ようやく宮古市を抜けて、北リアスの田野畑村に入る・・・。

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被災地復興を見る~宮古

2019年09月16日 | 旅行記B・東北

国道45号線を北上して宮古市に入る。津軽石から宮古湾に沿うようになり、防潮堤が目立つ。

閉伊川にかかる橋を渡り、国道106号線との合流地点に着く。歩道橋があり、東日本大震災の津波の到達地点を示す看板がある。正面の奥は宮古市役所があった場所だが、津波被災や老朽化もあり昨年宮古駅前に移転した。町の中心部だけに、津波の映像では多くのクルマ、そして漁船も流される様子が残されている。

時刻は11時、早めの昼食ということで海べりにある道の駅に向かう。震災からの岩手県の復興の様子を紹介するコーナーもある。

2階のレストランはレストランというより食堂の雰囲気だが、ここで海鮮丼、さらに海藻ラーメンをいただく。海鮮丼よりはあっさり塩味の海藻ラーメンのほうに三陸らしさを感じた。

さて三陸の中心である宮古だが、10年以上前に一度宿泊したことがある。その時は浄土ヶ浜を訪ね、またちょうど9月のシーズンということで「さんま祭り」をやっていて旬のものを味わった。宮古のさんまは、「さんまは目黒に限る」の目黒のさんま祭りにも提供されるほどのものである。ただ、今さんまと聞くと「不漁」という言葉がついてくる。気候変動で日本近海のさんまの数じたいが減少したからとも、中国や台湾の漁船による乱獲のためだとも言われている。

宮古に来たからには名勝地の浄土ヶ浜を訪ねるところだろうが、やはり時間というのか、詰め込みすぎコースのためか、今回は素通りすることにした。その代わり、宮古市に残る震災遺構を見に行くことにする。こういうスポットがあることも今回現地に来て初めて知った。

国道45号線から離れて細い道を走らせて海べりに出る。小さな港があり、その脇にあるのが震災メモリアルパーク中の浜。かつては海岸をすぐ近くに臨むキャンプ場、海水浴場だったところで、地元の人たちにも親しまれていたそうだ。

震災ではここも15メートルを超える津波が押し寄せた。幸い、3月、雪も舞う頃でキャンプ場も無人だったので犠牲になった人はいなかったそうだが、もし夏休みなどで子どもたちも多く来る時季だったら果たしてどうだったか。

トイレ・シャワー室や炊事場がそのままの形で震災遺構として保存されている。また、流された漁具が木に引っかかっているのも、津波の高さを示すものとして保存されている。

中央には展望の丘というのが造られている。津波で出たガレキ由来の再生資材で造られたもので、この上に立つとちょうど津波と同じ高さで周囲を見ることができる。

ただ実際に津波が遡上した場所や高さとなるとさらに奥まで続いており、展望の丘に立ったままだと津波に呑まれてしまうという。本気で逃げるなら両側の斜面の上まで行かなければならないということだ。案内板が続く先の展望台で高さ30メートルである。

震災遺構としての知名度はそれほど高くないようだが、もしこうした自宅や勤務先以外の「非日常」の場所にいた時に津波の危機がやって来た際にどうすべきか考えさせられるスポットだと思う。

これで宮古の市街地を抜け、再び国道45号線に戻る・・・。

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被災地復興を見る~大槌町

2019年09月15日 | 旅行記B・東北

釜石市の隣の大槌町に入る。国道45号線をいったん離れて県道を走る。ここでも駅に立ち寄ってみる。

大槌の駅舎の屋根はひょうたん型をしている。沖合いにある蓬莱島が『ひょっこりひょうたん島』のモデルの一つとされているからで、そういえば原作者の井上ひさしは大槌町内の吉里吉里の名前を冠した小説『吉里吉里人』もあり、この辺りに何か感ずるものがあったのかなと思う。駅舎内や展望デッキにはひょうたん島のキャラクター人形もお出迎えする。

また、宮沢賢治の「旅程幻想」という詩が石碑になっている。「生き残った私たちは亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の『利他の精神』がその道しるべになると考える」と、石碑を建立した主旨が書かれている。「旅程幻想」は賢治が三陸を一人旅した折、大槌で詠んだとされる一節という。地元の有志がクラウドファンディングで資金を集めて建てたもの。

大槌は「南部鼻曲がり鮭」のゆかりの地であることを示すモニュメントがある。近くの大槌川が鮭の遡上する川で、岩手県内でも早期から人工ふ化に取り組んだところだという。

大槌町は震災の報道でよく目にした町の一つである。それは地震発生時に災害対策本部を町役場に立ち上げるために庁舎に参集した町長をはじめ、数十人の職員が津波の犠牲になり、町の行政機能がしばらくマヒしてしまったことによる。

現在の町役場横の坂道を上がる。この先は中世の城跡である城山公園がある。ここに避難した人も多かったが、津波では町の人口の1割を超える1500人以上が犠牲になった。当時この城山公園から津波の様子を撮影した動画もある。

ここに「希望の灯り」がある。震災の翌年に置かれたもので、神戸市、南相馬市、陸前高田市にある慰霊と復興を祈るガス灯から分けられた灯りだ。ちょうどこの先の斜面に墓地があり、多くは以前から建っていたものだが、中には震災で亡くなった方も葬られている墓があるかもしれない。

一方では同じ敷地内に納骨堂が設けられている。

被災当時の大槌町役場庁舎は昨年2018年に解体された。震災遺構として保存すべきか、解体すべきか、多くの議論があったという。

・・・この旅の後、旅行記がなかなか進まない中で、9月に入ってNHKで大槌町を取り上げた番組を見た。日曜朝の、いわば緩い時間帯で流れる番組である。この8月、大槌町では遺族や町職員の証言をまとめた『生きる証』という冊子を発行した。製本されたものは有料だが、大槌町のホームページからPDF版を無料で入手することもできる。

震災当時、町職員はどのような動きをしたのか。数少ない生存者や、遺族による証言をベースに綴られたドキュメント。当時は役場の対応の不備を責める論調も多く、これまで語ることを拒む人もいたが、改めて番組で当事者の証言に触れると、当時ではわからなかった人々の行動も少しずつ明らかになる中で、単純に対応が良い悪いで評価できるものではないことがわかる。彼らにしかわからない苦悩が今も続いている。番組を見たからというのがあるが、どのようなものか、改めて全文を読みたいと思う。

さて、先ほど触れた吉里吉里から浪板海岸に差し掛かる。浪板海岸は、寄せる波はあっても返す波がないという世界でも珍しい「片寄せ波」だという。そのため特にサーフィンのスポットとして人気があるという。ちょうど海岸を見下ろすホテルの脇から海岸に下りる道があり、クルマを停めてしばし波と戯れるサーファーたちを眺める。私には全く縁がない遊びやなと思いつつ。

今はのどかな景色、ホテルもサーファーや観光客で書き入れ時だが、震災で砂浜が「消滅」した時はこの観光ホテルも浸水した。宿泊客は何とか無事に避難させたが、その支配人が行方不明となった。

ホテルの駐車場の片隅に、津波到達を示す石柱がある。ホテルの高さだと3~4階に相当する。海岸まで結構高さがあるように見えるが、津波はそれを超えたのである。いかに東日本大震災の津波が強烈なものだったかがうかがえる。

また、ここにも宮沢賢治の詩碑が建てられている。「暁穹(ぎょうきゅう)への嫉妬」。「暁穹」とは「あかつきのそら」という意味だろうか。この海岸から東の空を眺めるというのもロマンだろう。その意味でこのホテルも泊まってみたくなるが、それらを一変させる自然の脅威というものを改めて感じる。

高い防潮堤が築かれ、町並みの再建も進む陸中山田を過ぎる。本州最東端のトドヶ崎(トドは魚偏に毛)の標識が出て、一瞬そちらに行ってみようかという気になった。ただクルマをいったん停めて情報を見ると、灯台のある場所へは直接クルマで行くことはできず、駐車場から山道を歩いて1時間かかるという。完全に秘境だ。

ということでそのまま宮古に向かう。まだまだ先は長い・・・。

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被災地復興を見る~釜石・鵜住居

2019年09月14日 | 旅行記B・東北

釜石市の鵜住居地区にやってきた。町に入る前に向かったのは根浜海岸。海水浴場があり、釜石市の名所の一つだったが、東日本大震災の津波で砂浜が1.3キロにわたって消失した。その後再生工事が進み、今年の夏、震災以来初めて海開きが行われたという。ただ天候が悪いものの人の姿が見えないなと思ってみると、海水浴場は8月12日までの開業だったそうだ。引き続き再生工事を進め、来年には元通りにしたいという。

この海岸を見下ろす高台に集落ができている。津波で失われた集落が移転したもので、海べりの民宿も移っている。曇っているのは残念だが海の景色は素晴らしい。高台に移転した後も、海のある景色をということで防潮堤も最低限の高さにとどめたという。

町中に入る手前に鵜住居復興スタジアムがある。かつては鵜住居小学校と釜石東中学校があったそうだ。三陸では数多くの人が津波の犠牲になったが、釜石では市内の小中学生のほぼ全員が無事だった。これは「釜石の奇跡」として多くの人に希望を与えた。ただ、年月が経ちさまざまな検証が行われる中で、これは「奇跡」ではなく「当然の結果」だという評価が出るようになった。「日常の訓練、教育」「防災意識の高さ」「的確な判断での避難」・・・釜石の取り組みは震災後も各地から注目され、教育関係者が釜石に防災教育の手法を学びに来ることもあるという。

その学校の跡地に建つスタジアム。9月からのラグビーワールドカップでは2試合(フィジー対ウルグアイ、ナミビア対カナダ)組まれている。普段でもメインスタンドの一部を見学用に開放しているとのことでのぞいてみる。

スタジアムは陸上のトラックがない球技専用である。スタンドのベンチには杉の木が用いられ、一部には旧国立競技場や東京ドームなどから寄贈された「絆シート」というのもある。スタンドとグラウンドも近く、どの席に座っても見やすい傾斜である。ラグビーの試合も迫力あるものに映るだろう。現地で観戦することはできないが、どんな様子だったか、ニュースを通してでも見てみたい(大勢の観客で賑わいますように)。

前日通った鵜住居駅に着く。ラグビーにちなんで「トライステーション」という愛称がつけられている。また駅前は「うのすまい・トモス」という交流施設になっている。

その中心にあるのが「釜石祈りのパーク」で、震災犠牲者の追悼施設となっている。先ほど「釜石の奇跡」で市内の小中学生のほぼ全員が無事だったと書いたが、全体で見れば1000人を超す犠牲者が出た。やはり悲劇は悲劇である。今年の3月に完成した碑文には震災の教訓として「命を守る」市民憲章として、「備える」「逃げる」「戻らない」「語り継ぐ」を掲げている。これはどこの被災地にも言えることだし、津波に限らず台風や豪雨災害にもつながる話だと思う。

その横に資料を展示する交流館があり、開館予定の9時になったので入ろうとするが鍵が閉まっている。先ほど、周囲を清掃していたスタッフの方もいたので休業ということはないだろうが、しばらくしても開く様子がない。まあ、まだまだこの先の行程も長いし、鵜住居ではスタジアムの中を見ることもできたということであきらめて先に進む。

釜石市を抜け、隣町の大槌町に入る・・・。

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被災地復興を見る~三陸町越喜来

2019年09月12日 | 旅行記B・東北

8月16日、この日は日本海を北上する台風10号の影響で、岩手県沿岸も午後から雨の時間帯があるという。まあ、直接東北を通過するわけではないのでマシである。

さて、大船渡プラザホテルを朝の6時半に出発する。前からの記事で、この夜の宿泊地を普代村の黒崎から別の地に変更したと触れているが、その場所とは内陸部に入った岩泉である。たまたま、温泉ホテルの和室2食つきが空いていたのを13日に見つけて予約した。岩泉に泊まる気になったのは、今は廃線となった岩泉線の終着駅があったところで、当時、東北のJR全線の乗りつぶしを達成したのがこの駅だった思い出がある。一方で、その北にある日本三大鍾乳洞のひとつである龍泉洞には行っていないのと、並走する道路をたどって岩泉線の廃線跡を見てみようということもある。これらは最終日の17日に取っておいて、そのまま宮古まで出て三陸自動車道で一気に仙台に戻ることにする。

その前に16日だ。岩泉には明るい時間に着くとなると移動も結構ハードである。被災地めぐりもあるが、三陸のリアス式海岸の名勝も見たい。国道45号線で行けるところまで行くことにする。大船渡から盛にかけての市街地を抜ける。朝からどんよりした天気だ。市街地を抜けると山深い景色になる。

視界が開けて、大船渡市三陸町に入る。越喜来(おきらい)という集落があり、国道からいったん離れたところに前日通った三陸鉄道の三陸駅がある。この辺り全体を指す地名を町や駅の名前にするとはスケールが大きい。

駅からも見えるのだが、ここで訪ねたのは「ど根性ポプラ」。津波に耐えて生き残った1本の木といえば陸前高田の「奇跡の一本松」が有名だが、今回来るまで、こうしたポプラがあるとは知らなかった。まあ、高田松原という景勝地の松が全滅する中で1本だけ残ったというのは奇跡と言っていいだろう。

このポプラは、昭和のはじめにここに店舗兼自宅を構えていた人が家の庭に植えたものである。その後、1933年の昭和三陸地震の津波、1960年のチリ地震の津波、そして2011年の東日本大震災の津波・・と三度の津波に遭った。それぞれの津波で越喜来の集落は大きな被害を受けたが、このポプラは残った。特に東日本大震災の津波では10数メートルの高さまで来て、ポプラの3分の2が水に浸かったが、それでも耐え抜いた。その姿が「ど根性」となり、周辺を整備することになった。

ポプラじたいがそうした災害に強いのか、あるいはこの木だけが特別なのかはさておき、三度の大津波を耐え抜いたというのはど根性ものである。もう少し注目されてもよいのではないかと思う。

国道45号線に戻り、大船渡市から釜石市に入る。山道から海沿いに下りた国道沿いにあるのが三陸鉄道の唐丹(とうに)駅。ホームがあるだけの小さい駅だが、国道から駅前に入るところに石柱がある。「伝えつなぐ大津波」とある。駅、国道は集落を見下ろす高い位置にあるように見えるが、駅の高さ(ホームも完全に浸かったそうだ)まで津波が来たそうだ。

国道45号線はそのまま釜石の市街地に入る。前日三陸鉄道に乗った時は釜石駅の改札口を出ることもなかった。釜石といえば釜石大観音もあるし、鉄の歴史館、世界遺産の橋野高炉跡もある。本来であればこうしたスポットを訪ねて釜石らしさを楽しむところだが、開館時間前を理由に素通りする。一つ一つ回っていたのでは岩泉に着くのが何時になるのやらということもあった。いや、今回の旅では「震災遺構>観光スポット」という縛りを自分で作っているのもある。

そのまま釜石の中心部を抜けて、来たのは釜石市の鵜住居地区。ここではまた国道45号線を離れて集落の中に向かう・・・。

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