まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第17番「曼殊院」~近畿三十六不動めぐり・30(叡山電車「ひえい号」と京都ラーメン)

2019年01月31日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりは残すところ7ヶ所の寺院。このうち最後に訪ねる予定の高野山の2ヶ所、そして比叡山の奥の院とでもいう位置にある葛川明王院を除くと、残りは京都市内にある門跡寺院となる。門跡寺院とは一般の僧侶とは異なり、代々皇族や貴族が住職を務める寺院をいう。前回訪ねた醍醐寺の三宝院も門跡寺院だし、近畿三十六不動でいえば嵯峨の大覚寺や仁和寺、大原の三千院、滋賀の圓満院なども該当する。三十六不動めぐりに門跡寺院が多いのは何か理由があるのだろうか。

今回は左京区編ということで曼殊院に向かう。同じ左京区なら聖護院も該当するが、京阪電車からさらに叡山電車に乗り継ぐか否かでエリア分けした。曼殊院の最寄駅は叡山電車の一乗寺、もしくは修学院となる。

1月27日に出かける。この週末は寒気が日本列島を覆い、北日本から日本海側にかけて大雪となった。関西でも滋賀や京都、兵庫の北部で結構な雪になった模様である。この分だと京都市内も雪があるかなと期待しながら家を出る。

まずは京阪特急に乗る。せっかくなのでプレミアムシートを利用する。運賃の倍の500円のプレミアム料金がかかるとわかっていても、ゆったりと過ごす価値はある。現に他の普通車両を見るとやはり混雑しているようだ。京都府に入ると日陰に少し雪が積もるのが見え、遠くの山の木々も白くなっている。

出町柳に到着。叡山電車のホームに行くと、鞍馬行きは観光車両の「きらら号」が発車を待っていた。一方、八瀬比叡山口行きには、昨年デビューした「ひえい号」の緑の車体が停まっていた。正面には楕円形のリングが大胆にあしらわれている。最初にテレビで見た時に「ひえ~」と思ったが、現物をナマで初めて見て改めて大胆な印象を持った。

車内は一人ずつのバケットシートで、内装も落ち着いた印象である。観光車両とはいうが「きらら号」同様特別料金もなく、あくまで定期列車の中の1両である。

さて曼殊院に向かうが、「ひえい号」に当たったことだし、修学院まで乗る。地図を見る限りでは一乗寺からでも修学院からでも同じような距離だ。

白川通、一乗寺といえば京都のラーメン激戦区で、店には詳しくないのだが、曼殊院参詣の後はどこかの店に行こうかと思う。そんな中で、「魁力屋」の本店が現れる。別の店で何度かいただいたことがあるのだが本店に当たるとは。時刻は11時を回ったところで、このまま曼殊院にお参りして戻って来るとちょうど昼すぎでどの店も行列だろう。それならば先にここで食べておけば・・という気になった。今ならカウンターも十分余裕がある。

「京都元祖北白川背脂醤油ラーメン」と呼ばれる醤油ベースのラーメン。九条ねぎは別に出てきて自由に追加できる。あまりしつこい味でないのがよい。まずはしっかり腹ごしらえして曼殊院に向かう。

緩やかな坂道を上る。少しずつ雪の量も増えてきた。このぶんだと曼殊院で雪景色が見られるかなと期待する。

魁力屋に立ち寄った時間を差し引くと修学院駅から15分ほど歩いて、境内が近づいてきた。「曼殊院門跡」の石碑がひっそりと立ち、正面奥には山門も見える。参道の最後は右手に武田薬品の薬用植物園を見て、上からは雪が解けて水滴が落ちるのを避けながら歩く。

曼殊院は紅葉、そして新緑の青もみじの名所として知られるが、この時季はご覧の通りである。なお山門と書いたが、正面のこの門は正しくは勅使門という。特別な方だけここから出入りできるというが、その「特別な方、特別な時」というのは、門跡寺院だけあって皇族が来る時である。勅使門の石段の下には(平成の)天皇皇后両陛下の行啓を記念した石碑もある。

また門の手前では、参道を挟んで「浩宮殿下(現・皇太子)お成り記念樹」、「礼宮殿下(現・秋篠宮)お成り記念樹」が植えられている。植えられたのが昭和の時なので以前の宮さまの名前なのだが、今から3ヶ月ほど後には平成から次の時代になり、宮さま方の立場も変わる。門跡寺院は今では他の寺院と同じように僧侶が住職を務めるとは言え、一つの時代の移り変わりに思うところは多々あるだろう。

これから参詣で、一般庶民向けの「北通用門」から境内に入る・・・。
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第23番「醍醐寺」~近畿三十六不動めぐり・29(台風21号からの復興を願う)

2019年01月29日 | 近畿三十六不動
醍醐寺の門をくぐる。オフシーズンということで混雑はさほどでもないが、それでも西国三十三所の先達用輪袈裟を首にかける人もいるし、冬晴れの境内をカメラに収める人もちらほら見られる。

まずは三宝院にて、下醍醐と霊宝館の共通拝観券を購入する。オフシーズンということで800円。共通拝観券と書いたが、実際はどれか一つだけ、あるいは二つだけという選択肢はない。

三宝院は2018年9月の台風21号で倒木や屋根瓦の破損があり、国宝の唐門の白壁も一部剥がれる被害があったが、台風が通過した9月4日から3日後の9月7日に拝観を再開した。下醍醐の拝観再開までは全ての納経、朱印を三宝院で対応したそうだ。建物手前にある樹齢160年の枝垂れ桜も枝が折れてしまったという。

庭園を見る。見た目には普段と変わらないように見えるが、瓦や回廊の床板がはがれたり、折れた木も伐採したという。

続いて霊宝館に向かう。前の記事にも書いたが、仏像館は冬の休館期間中で(まあ、春と秋に特別に開く)、平成館のみの見学である。平成館と言えば聞こえはいいが、プロ野球でいうなら若手の2軍という感じなのかな?

その2軍、もとい平成館だが、展示されているものそれぞれは立派なもので、一般の寺院ならこのうち一品を持っているだけでも寺宝として語ることができると言ってもいい。このあたりはさすが醍醐寺と言ってもいいだろう。どこの球団になぞらえるかは、この記事をご覧の皆様にお任せするとして・・・。

平成館にも五大明王は安置されている。このうち大威徳明王が平安時代のもので、残りは江戸時代の制作で豊臣秀頼の発願とある。今回の近畿三十六不動めぐりの直接の本尊ではないにしても立派な造りなので、手を合わせる。また奥の仕切られたスペースには千手観音像が安置されている。上醍醐が開かれた10世紀の作とされていて、これも西国三十三所の本尊である准胝観音とは異なるが、これも豊かな表情の仏様で、西国めぐりのつもりで手を合わせる。

他にも両界曼陀羅や三宝院の障壁画などを見る。これだけでも十分なラインナップだったが、また特別開館の時に仏像館を見てみたいものである。

そして仁王門をくぐり、下醍醐の境内に入る。

そこには驚きの光景が広がっていた。

確かこの辺りは木が生い茂り、青々としていたはずである。それが更地のようになり、工事中のフェンスやロープで仕切られている。台風21号では、醍醐寺全体で約2千本の樹木が折れたそうだ。折れた樹木を伐採したらこのような光景になったということだ。見ても痛々しい。これからどう復興させていくのだろうか。

建物は幸い大きな被害はなかった模様で、五重塔も変わりなく立っている。さすが、一千年以上の歴史を持つ建物だ。

本堂にあたる金堂で、安置されているのは薬師如来だが般若心経のお勤めとする。ともかく台風21号からの一日も早い完全復興をお祈りする。

隣の不動堂に参る。近畿三十六不動めぐりとしての本尊が霊宝館に移されている旨の札があり、内陣には小ぶりな不動明王像が安置されている。ここでもお勤めとする。

そのまま境内を進み、役行者の像や、祖師堂(弘法大師と理源大師を祀る)にも手を合わせる。広いしキャストが揃っているため、なかなか忙しい。

最後に観音堂に着く。現在は准胝観音の写し仏が西国三十三所の本尊で、周りにも幟が並んでいるが、中央奥にデンと座っているのは阿弥陀如来である。准胝観音はその手前の厨子に安置されているが、あくまでも間借りの立場である。ここでまたまたお勤め。西国めぐりで観音像に手を合わせているつもりが、実は奥の阿弥陀如来像を観音像と勘違いして・・・という人もいるかもしれない。

観音堂の中に納経所があり、ここは行列ができている。少し並んで、近畿三十六不動、西国三十三所の両方の朱印をいただく。バインダー式の近畿三十六不動の朱印は書き置きで対応する札所がほとんどの中、その場で一から墨書きしていただいたのにありがたく感じた。

これで西国三十三所めぐりの2巡目は姫路の圓教寺を残すだけとなったが、近畿三十六不動めぐりはまだくじ引きとサイコロがある。もっとも、選択肢は残り3つとなり、サイコロの出目も2つずつ割り当てる。

1、2.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

3、4.湖西(葛川明王院)

5、6.左京(曼殊院)

この中で出たのは「5」。また近々訪ねることにしよう。

そのまま下醍醐の境内を抜ける形で、回転式のゲートの外に出る。本来ならそのまま上醍醐を目指すところだが、ここまで触れているように入山はできない。その手前まで行ってみる。

そこには女人堂がある。長い歴史の中、上醍醐は女人禁制だったため、女性は山上の神仏に対してここから拝んでいたという。女人堂の本尊も准胝観音の分身という。

上醍醐への道は仕切られていて上ることはできない。今の立場は、その昔入山を禁じられていた女性たちと同じである。上醍醐に行ける日は結構先になるのかな。

女人堂の前に五体の仏像がならんでいる。左から不動明王、理源大師、大日如来、役行者、地蔵菩薩。これらも醍醐寺のオールスターキャストと言える。その前に水が流れていて、一つ一つに水をかけながら手を合わせることができる。私が訪ねた時も地元のお年寄りらしい人が代わる代わるやって来て、それぞれの像に水をかけて手を合わせている。有料拝観エリアの下醍醐、そして今は入れないが入れたとしても入山料がいる上醍醐の境目にあって、女人堂とその前の水かけ仏像だけは「無料」エリアである。地元の人の中には毎日でも醍醐寺に手を合わせたい人も多いだろう。ただ、醍醐寺は庶民信仰の歴史があるわけでもなく、境内も有料となれば毎日入るには無理がある。

そうしたさまざまなものの緩衝地帯が、この女人堂と五体の仏像だと言える。

そのまま下醍醐の外側を歩き、元の門に戻る。門前がバス通りということもあり、そのままバスに乗る。乗ったのは山科駅行きだが、タイミングが合えばJR京都駅行きの便もある。

そのまま山科駅前に到着した。前に来た時は昼飲みもできる店に入ったが、今回は大人しく駅前の餃子の王将でシンプルな昼食とする。

今のタイミングならそのまま次の札所の曼殊院まで行くこともできる。また曼殊院に行かなくても、ちょうどこの日京都で行われていた全国女子駅伝のコースのどこかに立つこともできる。ただそのいずれもせずにそのまま大阪に帰ることにする。

今回醍醐寺を訪ねたが、この寺にはこれからも来る機会があると思う。その時には上醍醐も含めて、かつての姿をまた目にしたいと思う。醍醐寺に対して頑張ろうというのはおこがましいのだが、ともかくここは「頑張ろう」ということで・・・。
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第23番「醍醐寺」~近畿三十六不動めぐり・29(第11番「醍醐寺」~西国三十三所めぐり2巡目・33)

2019年01月27日 | 近畿三十六不動
昨年からの年越し紀行、正月明けの鉄道旅行の記事が続いていたが、札所めぐりについてもそろそろ終盤に差し掛かってきた。近畿三十六不動めぐりの29ヶ所目の札所として今回訪ねるのは世界遺産の醍醐寺である。

醍醐寺といえば、西国三十三所の札所でもある。西国めぐりの2巡目もここ醍醐寺と姫路の圓教寺の2ヶ所だけとなったが、醍醐寺が終盤まで残ったのは、近畿三十六不動めぐりを兼ねて訪ねようと思っていたからである。不動めぐりのほうのくじ引きがなかなか出なかったのでこちらも終盤になったというところである。醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山としての歴史もあるし、上醍醐・下醍醐・三宝院らで構成する大伽藍を持つだけのこともあって、さまざまな札所に名を連ねている。

西国めぐりの本尊である准胝観音は上醍醐の准胝堂に祀られていたが、2008年に落雷による火災が発生して焼失してしまった。現在、その時たまたま海外の展覧会に出展していた分身像を本尊として下醍醐の観音堂にて祀っている。納経も観音堂で行っているため、上醍醐に行かなくても札所を打ったという扱いであるが、1巡目に訪ねた時は、やはり上に行ってみようということで片道1時間かけての山上りを行った。

一方、不動めぐりの本尊である不動明王をはじめとした五大明王も元々は上醍醐の五大堂に祀られていたが、准胝堂の火災のように本尊が焼失するのを恐れ、またリスク管理という面から下醍醐に下ろして、不動堂で祀ることになった。現在は霊宝館にて安置されている。仏像を本来のお堂に祀るか、博物館に収めて安置するか、賛否の分かれるところだろうがやむを得ないことだろう。まあ、今回も上醍醐まで上がって、昔からの信仰の歴史をたどってみるのもよいだろう。

スケジュールの都合で1月13日に訪れることにした。それにあたって醍醐寺のホームページをチェックしたのだが、ちょっと何だかなあという感じだった。

まず上醍醐。昨年9月の台風21号の影響で参道にも被害があったようで、安全確保のために入山が禁止されている。1時間の山上りがなくなってほっとするような、残念なような気持ちである。2008年の火災の後も半年ほど閉鎖されている。

また、霊宝館だが1月4日から2月末までは仏像館が閉館となっている。五大明王像は仏像館に安置されているので、これは残念だ。1月3日は大阪にいたので、もしその日に醍醐寺を訪ねていれば拝観できたのだが・・。なお、1月29日~3月24日の期間、大宰府の九州国立博物館で醍醐寺展が行われるとあり、五大明王や国宝の薬師如来像などが出展されるそうだ。

まあ、日付を選んでいたらいつまでも回ることはできないし、ともかく行くことにしよう。

13日、京阪宇治線の六地蔵駅に現れる。醍醐寺にどのように行こうかということだが、今回は南から行くことにした。京阪六地蔵から3分ほど歩くと地下鉄東西線の六地蔵駅に出る。ここから2駅、4分で醍醐に着く。

地下鉄の駅の上はアルプラザなどが入る複合施設となっており、東に向けて住宅街が広がる。

ここを10分ほど歩いて醍醐寺の入口に着く。これから拝観ということで・・・。
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とっとりの居酒屋(駅弁ではありません)

2019年01月26日 | 旅行記F・中国
境線で米子に13時06分に到着。さすがにこれから西に向かったのでは大阪に戻れないので、山陰線で鳥取に戻るか、伯備線で岡山に南下するかである。伯備線も久しく乗っていないし、循環ルートを取るならそうするところだが、この日は来た道を鳥取に戻るほうを選んだ。もう少し気動車に乗ろうかなというところである。

「鬼太郎列車」の境線から一転して、またシンプルな首都圏色のキハ47である。私の乗った車両は中央部分のボックス席の半分がロングシートに改造されたもの。それでもパラパラという人数で発車する。

車窓には伯耆大山の貨物駅が見える。現在山陰線で唯一貨物列車が発着する駅だが、昨年7月の西日本豪雨で山陽線が大きな被害を受けたことから、およそ1ヶ月間、伯備線~山陰線~山口線に迂回列車が走ったことがある。

途中には風力発電の風車も見られる。大山ウインドファームという地元向けの風力発電設備である。

前日の景色を巻き戻す形で、気動車の揺れについウトウトしながら、16時14分、鳥取に到着した。

この時間ならそのまま山陰線を浜坂、豊岡、福知山と乗り継いで大阪に戻ることができる。また、往路と同じだが、因美線、智頭急行、上郡と乗り継ぐこともでき、19時07分発の上郡行きまでなら大阪に戻れる。

だからということで?その時間まで鳥取で一杯とする。元々この旅は鳥取で1泊して、駅前の居酒屋で日本海の幸を・・というものだった。結果そうならなかったのだが、居酒屋のところだけはこのタイミングで切り出すことはできる。

今回入ったのは以前にも訪ねた「だいぜん」。昼のランチタイムと同時に飲みも始まる店で、店内にはすでに何組かがテーブルについている。入った時、カウンター席は空席だったが店の人が満席とでも言いたげな口ぶりで出迎える。

こちらでは造り盛り合わせ、はたはた焼きなどをいただく。

ただ接客が今一つという感じで、ここはすぐに出る。

隣の店に入る。「鳥取駅前酒場」。文字通り駅前で、ロータリーの先の道路を渡ったところにある。先ほど入った「だいぜん」の隣で姉妹店である。「だいぜん」をすぐに出たのも、こちらの立ち飲みのほうが気になったからである。

店は7~8人も入れば満員のようで、すでに常連さんらしいのとカップルがカウンターに陣取っている。鳥取市内では唯一の立ち飲み屋だそうで、まあクルマ社会ならそうなるだろう。だからこそ賑わうのかもしれないが。

メニューは飲み物、食べ物とも300円がベースで、支払いは先にマスにお金を入れておいて、店員がそこから引き上げるシステム。

店の一押しは肉豆腐。結構大きめの丼に出てきた。牛肉もほどよい甘さ。店内のカップルが肉豆腐のおかわりをしていたほどである。これにホッピーを合わせる。まさか鳥取の駅前でホッピーを飲むことになるとは(この4日前には新潟県でホッピー飲んでたっけ)。

この立ち飲み店のメニューは限られているようで、後はおでんや、その日によっての小鉢類とシンプルである。ただ日本酒は地元のものが複数ある。

店のおばちゃんも愛想良い感じで、だからかどうかはわからないが、時折扉が開いてあいさつだけして行く人の姿がある。年始のあいさつといった感じだ。「とっとりの居酒屋」は探せば他にいろいろあるようだが、この「駅前酒場」も良い店の一つに挙げられるだろう。

さて、19時何分だかの因美線~智頭急行に乗ろうかと思っていたが、割増を払ってもいいから少し早く帰ろうという気になった。乗るのは18時40分発のスーパーはくと14号、ただし大阪までは行かず、上郡までの乗車である。智頭急行の区間は元々別料金で、JRに戻る上郡からは再び青春18にしようと。

特急は京阪神に戻る客が多いが、それでも空席があり着席する。山陰の鳥取から山陽の上郡まで一気に移動する。

上郡に到着。次の姫路行きまで時間があるのでいったん駅前に出る。

上郡の駅前には冬のイルミネーションが広がるが、地元の人たちの手作り感にあふれている。カップルがロマンを求めるというより、小さい子ども連れでほっこり楽しむ感じだ。

この後は山陽線~新快速と乗り継いで大阪に戻る。

鳥取県を目指す乗り鉄(飲み鉄)、新たなスポットや楽しみを見つけることができ、今後にもつながるところもあった。また訪ねてみたいものである・・・。
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妖怪と海上交通の境港

2019年01月25日 | 旅行記F・中国
境港駅に到着。これからしばし境港の町並みをぶらつくことにする。

早速、水木しげるの妖怪ワールド全開ということで、駅前のロータリーに妖怪や鬼太郎のキャラクターの銅像が並ぶ。これらの像は公募により寄贈されたもので、後ろには寄贈者の名前のプレートがある。そのある一体に、「宮川大助」の文字があった。漫才師の宮川大助・花子の大助さんと、娘さんの名前がある。大助さんが境港の出身ということで寄贈したそうだが、漫才で花子さんから妖怪扱いされていたネタがあったなあと笑ってしまう。

当然ながら沿道の土産物店も鬼太郎、妖怪一色である。中には千代むすびという地酒の蔵元もあるが、そこも鬼太郎キャラクターのラベルを施した瓶やワンカップを並べている。

水木しげるロードは、1993年に境港市が町の活性化として妖怪の銅像23体を置いたのが始まりという。できた当初は銅像が壊されたり盗まれたりする事件が起こったが、逆にそのニュースで知名度が広がり、観光客が増えた。その後も銅像は増えていったが、市の財政難もあり活性化も頭打ちの感じがあった。そこで行政だけでなく、観光協会や商工会、さらには水木しげるのプロダクションも協力して官民一体で盛り上げるようにして、妖怪ブームや朝ドラの影響もあり、今では銅像は200体にも上る。今や外国からも多くの観光客を集めるまでになっている。2018年の夏にはロード全体がリニューアルされた。

妖怪神社というのがある。高さ3メートルの御影石と樹齢300年の欅の木を御神体とする。2000年1月1日午前0時に開かれたというから、古くから妖怪伝説を持つというよりは水木しげるロードの観光にリンクした神社と言える。

境内に目玉石というのが安置されている。神社開創に立ち会った水木しげるが、御神体の一部を差して「ここに目玉をつけると面白い」と言った。すると後でその部分がポロリと落ちた。これは偶然なのか予め仕組んでいたのかの詮索はさておき、目玉といえば目玉おやじということで、この目玉石、さらには妖怪神社自体もパワースポットになったとされる。まあ、信じる信じないは人それぞれ。

水木しげる記念館に着く。今や境港観光ならここには必ず来なければ・・というくらいのスポットである。初めてなのでどんな感じなのかなと入る。

まずはゲゲゲの鬼太郎のキャラクターについて、その設定が紹介される。合わせて、水木しげるの作品の概要が出てくる。鬼太郎だけではなく多くの作品を残した足跡がわかるようになっている。

世界各国を回った足跡も紹介されている。やはりその地の妖怪にも関心があったか、さまざまなものを持ち帰っている。ただこれらを見てみると、民族学・民俗学のフィールドワークに似ているなと思う。単なる鬼太郎の作者だとか妖怪マニアの漫画家とかいうのではなく、水木しげるは漫画を表現のツールにした民俗学者と言える。柳田國男の漫画版というと失礼かな。『遠野物語』の漫画版も出しているし、『今昔物語』の漫画版もある。以前に水木版の『今昔物語』を書店で手にしたが、さまざまある話の中で、いわゆる奇怪現象について取り上げた話について漫画にまとめていたのが印象的だった。

また『コミック昭和史』も独自目線の作品である。水木しげるが太平洋戦争の戦地で左腕を失うなど多くの苦難を強いられたからか、その期間の描写には力が入っている。記念館にて文庫版の全冊セットが売られていたが、荷物になるので購入は見送り。ただ、いずれはしっかり読んでみたいと思う。

少し、水木しげるロードから離れてみる。境港が妖怪や水木しげるで人気なのもここ最近の話で、元は漁港や海上交通の拠点として賑わったところである。水産物の水揚げも多いし、隠岐の島、さらにはウラジオストクへのフェリーが出ている。

海岸に出る。もっとも砂浜が広がるわけではなく、美保湾から中海につながる入江の部分である。目の前には漁船の他に海上保安庁の巡視船が停まっているし、対岸の美保関には航空自衛隊のレーダー基地がある。

そうしたハードな面もあれば、漁港として海の幸をもたらすのも境港である。そんな海とともに歩む姿を紹介した「海とくらしの史料館」というのがあるそうだ。実は大阪に戻った後で、ある方のブログにてこうしたスポットがあるというのを初めて知った。少し足を伸ばせば行けたのではないかと思う。また境港に来ることがあれば訪ねてみよう。

また、先ほどは妖怪神社というのがあったが、水木しげる記念館の近くには大港神社というのがある。創建時期は不明だが少なくとも江戸時代には八幡宮として、航海の神として船乗りたちからの信仰を集めていたようだ。鳥居や石灯籠、手水鉢などは摂津や若狭、丹後の回船業者から寄進を受けたとある。境内の外周にある寄進者の石碑にも、鳥取、島根両県の漁業や海運関係者の名前が並ぶ。私としてはこちらの神社の歴史のほうが興味をひく。

時間が経つに連れて観光客も増えてきた。駅前で食事ということで、観光案内所のある建物に入っている回転寿司店か、駅前にある食堂の海鮮丼か迷った後、後者の「丼や」という店に入る。

前日は皆生温泉泊ながら夕食が駅弁だったこともあり(駅弁としては美味かったが)、境港まで来たのだからと思いきって特上海鮮丼を注文。やがて来た丼にはこれでもかと刺身が盛られている。

これで境港を後にする。昼間歩くには面白かったが、夜はどうなんだろう。駅前に立派な温泉つきビジネスホテルはあるが、先ほどの水木しげるロードのさまざまな店は皆夕方に閉まってしまうそうだ。まさか妖怪たちが「夜は墓場で運動会」をするわけではないだろうが、境港の魚で夜の一杯・・はちょっと淋しいかもしれない。

12時24分発の米子行きはまたも「鬼太郎列車」で、今度は目玉おやじとねずみ男の組み合わせである・・・。
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境線は鬼太郎と妖怪が満載

2019年01月23日 | 旅行記F・中国
米子駅というところは山陰の鉄道のジャンクションである。皆生温泉の宿の中で、明日(1月5日)はどうやって大阪に戻ろうか時刻表をあれこれ眺めていた。乗り鉄に徹するなら、何と山陰線で宍道まで行き、木次線で備後落合、芸備線で新見、姫新線で津山、津山線で岡山、岡山から新幹線・・・という、中国山地のローカル線で、昨年の西日本豪雨で一時不通になっていた線を回ることも可能だ。

そうした大旅行にもひかれたが、今回は、米子から境港までの境線に乗ることにする。境線も前に乗ったのはいつのことやら・・というくらい久しぶりの乗車だし、境港の水木しげるロードが昨年リニューアルしたという。この水木しげるロードに行ったことがなく、これも観光の一つとして訪ねることにする。

境線は米子駅の0番ホームから出発するが、路線全体がゲゲゲの鬼太郎とコラボしていて、ホームには妖怪のさまざまなオブジェが並ぶ。山陰線や伯備線のホームとは明らかに雰囲気が違う。

これから乗る折り返し8時31分発の境港行きが着いた。その車体、キハ47の2両編成だが前日の首都圏色とは全く対照的で、こなき爺に砂かけ婆のラッピングが施されている。外側だけでなく、車内のシートや天井にもあしらわれている。

境線は「鬼太郎列車」が運行していて、他には鬼太郎、ねこ娘、目玉おやじ、ねずみ男の計6両がある。今回のこなき爺+砂かけ婆はキハ47どうし2両で走るが、後の4両はキハ40で1両での運行も可能である。日々、各車両の運用がわかるようになっている。

発車時刻が近づくに連れてそこそこ乗客が集まる。車両のあちこちにカメラやスマホを向ける旅行者や「その筋の人」も多い。一方で、地元の通勤通学客はこうした列車や撮影は見慣れたのか関係ないのか、淡々と乗ってきて仲間どうしおしゃべりしたり、スマホ画面をのぞいたりしている。

2両の座席の半分以上が埋まって発車。ワンマン列車のため車内放送は音声が流れるが、ゲゲゲの鬼太郎のアニメの鬼太郎、目玉おやじ、ねこ娘の3人が務める。その時間帯、家にいる時は張本さんの「喝!」を観ているので知らなかったのだが、リニューアルされたアニメが日曜朝9時から放送されているのだとか。そして、かつて鬼太郎の声だった声優の野沢雅子さんが、今は目玉おやじの声をしているという。リアルに世代を跨ぐとはすごいですな。

境線には駅ごとに妖怪の愛称がつけられていて、駅名標とは別に、妖怪版の駅名標がある。その駅の周辺に妖怪伝説があるというわけではなく、ランダムに割り当てただけだと思うが、日本の民俗学につながることでもあり、興味をひくところではある。

境線は全長約18キロという短い路線だが、以前の記事でも触れたが山陰でもっとも古い路線である(境港~米子~御来屋)。鉄道建設用の資材を船で境港まで運び、そこから鉄道で最前線まで運んで路線延長の工事に充てたという。その資材輸送の役割を終えた後も米子近郊の路線として駅の新規開業が相次ぎ、やがては「鬼太郎列車」の運転も始まる。全体で見ればローカル線なのだろうが、観光PRの役割もしっかり果たしている。

ターミナルや滑走路も近くに見える米子空港駅では、キャリーバッグを手にする多くの観光客が下車する。大陸の人たちが多いようだ。米子空港は10年ほど前に拡張され、その時に境線の線路の一部も付け替えられた。米子空港は「鬼太郎空港」の愛称があり、鳥取の「コナン空港」と並んで漫画・アニメのキャラクターである。前日、山陰線の由良駅が「コナン駅」になっているのを見たが、こちら境港のゲゲゲの鬼太郎とセットで、そうした聖地巡礼に対するお出迎えが県の東西で行われている様子を感じることができる。

終点の境港に到着。駅も鬼太郎、妖怪色が満載である。せっかく来たのでこの後は妖怪観光を楽しむことにする・・・。
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皆生温泉の波の音

2019年01月22日 | 旅行記F・中国
米子駅からバスに乗って20分ほどで皆生温泉のバス乗り場に到着した。1月4日、当初は鳥取駅前の大浴場つきビジネスホテルを予約していたが、当日になって急遽米子まで足を伸ばしたくなり、米子に来るなら初めて訪ねる皆生温泉に泊まろうということになった。

バス乗り場からまっすぐ海岸まで道が伸びている。突き当たりに銅像がある。皆生温泉の基盤を造った有本松太郎という人物である。

皆生温泉は鳥取県でもっとも多い年間40万人ほどが利用する温泉だが、歴史は比較的浅い。明治の半ば頃、沖合の海面が泡立っているのを地元の漁師が発見した。さらに浅瀬でも熱湯が沸き出るのが見つかり、ここを温泉地として開拓しようと工事が進められたがなかなか上手くいかなかった。そこに手を差しのべたのが、米子の土木業者で鳥取県議会議員も務めていた有本松太郎。温泉街として土地の整理を行い、鉄道敷設や娯楽施設を設けるなどして客の誘致に成功した。時代が下って現在は健康的な温泉のイメージ造りも行われていて、近隣の観光の拠点としてPRするとともに、日本のトライアスロン発祥の地として毎年大会を開いている。

銅像の背後には日本海(美保湾)が広がる。午後になり雲が広がって来たが、それでも左手に弓ヶ浜から美保関にかけての海岸線がよく見える。右手の大山の上のほうは残念ながら雲に隠れてしまっているが。

この日の宿は「ホテルシーサイド海の四季」。先ほどの有本松太郎の銅像のある通りの両側に建物があり、文字通り海岸に面した建物である。

通されたのは西館3階のシングルルーム。全室オーシャンビューを謳っている通りに、部屋から先ほどの景色を見下ろすことができる。これは素晴らしい。

早速温泉大浴場に入る。ちょうど1階下の同じ位置に浴槽があるので、入浴しながら同じ景色を楽しむことができる。露天風呂だと波の音や海岸べりでの話し声も聞こえる。裸で立っていると海岸から見えるのではないかと思うくらいだ。この時間相客もほとんどおらず、ほぼ貸し切りの感じで楽しめた。これは1月4日という微妙な暦によるところもあるだろう。

さて夕食。ホテルシーサイドでは会席料理やカニ料理のプランが好評とのことだが、当日予約のためそれらはいただけない。また、温泉地は旅館やホテルで夕食というのが基本のためか、周辺には普段の旅で入るような居酒屋や郷土料理の店もほとんどなく、あるのはスナックとか、夜食のラーメン屋くらいのものだ。郷土料理にこだわるなら米子駅前のビジネスホテルのほうがいいだろう。

これを見越したのかどうかは別として、食事は鳥取の駅弁を買っている。その名も「とっとりの居酒屋」。鳥取県内の名物を少しずつコンパクトに折り詰めしたものである。かつてはイカでつくったお猪口も入ってたこともある。

また、鳥取の「かにめし弁当」もある。同じカニの駅弁でも「すし」よりは「めし」派なので、これも楽しめる。一応、鳥取県でカニも食ったということにしておく。

他にはあごの竹輪とかホタルイカの干物もあるし、鳥取から米子、境港にかけての地酒もある。旅館の豪華な夕食とはいかなかったが、これで十分満足である。結局紹興酒の出番はなく、こちらは大阪への土産となった。

飲み食いするうちに外は真っ暗になったが、それでも窓の外を覗くと砂浜に打ち付ける波の先端の白いのが見えるし、テレビの音を消せば波の音も聞こえてくる。冬だから窓は閉めているが、夏ならオープンにすれば潮風を受けて気持ちいいだろう。

翌朝、外はまだ暗いが日常と変わらずに起床し、温泉地ならではの朝風呂に入る。

当日予約したのは素泊まりプランだったが、チェックイン時に時間指定制の朝食の追加ができたので7時にレストランに向かう。部屋ごとにテーブルに準備されていて、しじみ汁やカレイの干物などが並んでいる。

朝食の売りはTKGこと卵かけご飯とある。卵と炊飯ジャーが共通のテーブルに並べられているのは普通として、合わせる醤油が8種類ある。ガチで合わせるなら卵8個、ご飯は(茶碗でも)8杯か・・・とは思うが、それはさすがに無理。メニューの中で面白そうな醤油を試すにとどめたが、出汁を効かせた醤油もあり、日常でも楽しめそうだ。たぶん土産物コーナーにもあったはずで、買って帰ればよかったかな。

せっかく温泉地に来たのだからもっとゆっくりした移動プランにすればよいのだろうが、朝食を終えると速やかにチェックアウトして、バス乗り場から米子駅に向けて乗車していた。やはり一ヶ所でのんびりより、あちこち動いてしまう。

朝の8時過ぎに米子駅に着く。さすがにこの時間から大阪に向かうのももったいなく、久しぶりの乗車となるあのローカル線に乗るとしようか・・・。
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東郷湖に広がる中国庭園と、山陰最古の駅舎

2019年01月21日 | 旅行記F・中国
山陰線の松崎で下車。東郷湖に面した東郷温泉がある。かつては多くの旅館やホテルが軒を連ねていたそうだが、現在はひっそりした雰囲気である。

温泉の玄関駅で降りたのだから立ち寄り入浴するのかと思いきや、向かったのは旅館街のその先。そこに現れたのは中国風の建物の立派な門である。燕趙園という中国庭園である。

燕趙園は鳥取県と友好都市である中国河北省の友好のシンボルとして1995年に建設された庭園で、ここにはかなり昔に一度訪ねたことがある。現在の河北省は古代に燕と趙の両国があり、それにちなんだ名前である。河北省の技師が建物の設計、資材調達を行い、中国で一度仮組した後でいったん解体し、日本に輸送した後で再度建設するという本格的なものである。

歴代の皇帝が所有した「皇家園林」を再現したもので、池の周囲に回廊をめぐらせる。

合わせて28の景色が見られる。さまざまに角度を変えて見ると、目の前の東郷湖や周囲の山々を借景にしているのもわかる。この東郷湖の対岸にあるのははわい温泉。中国とハワイが向かい合う・・・という景色だ。

こうした中国風情を味わうのもなかなかないことで楽しめる。

別エリアには孫子や孔子、孟子の像もある。

隣接する売店、そして国道の向かい側にある道の駅では、地元の土産物に加えて中国の食材も販売されている。中国輸入の紹興酒もあり、小瓶を1本手に入れる。今夜の宿で飲むつもりだ。

あ、宿ということだが、前の記事では鳥取駅前のホテルに泊まることを書いたが、松崎まで来て気分が変わった。山陰線の鳥取~米子の区間というのも久しく乗っておらず、もう倉吉の近くまで来ているのだから、そのままもっと西に行くことにしよう。鳥取のホテルをキャンセルして(キャンセル料なし)、米子で泊まろうかと検索したが、少し足を延ばして皆生温泉というのはどうだろう。温泉付きのビジネスホテルタイプの宿が見つかったので、素泊まりで予約する。気まぐれといえば気まぐれなのだが・・・。

松崎13時52分発の倉吉行きで1駅、倉吉に到着。14時28分発の米子行きに乗り継ぐ。駅舎も2011年に橋上駅舎に改装されている。ここからはキハ121系での旅となる。鈍行列車には大陸からの観光客の姿も目立つ。

2つ目の由良駅は「コナン駅」の愛称がある。ここ北栄町は『名探偵コナン』の作者である漫画家の青山剛昌さんの出身地ということでその愛称がついたようで、大陸からの観光客もここで下車して行く。駅周辺には『名探偵コナン』のキャラクターのブロンズ像もあちこち建てられているそうで、またアニメも中国や東南アジアの国々で上映されていて人気とのこと。列車に乗っていた人もいわゆる聖地巡礼で来た人のようである。

御来屋で列車行き違いと後発の快速「とっとりライナー」を先に通すために21分停車する。ホームに降り立つと大山の姿も見える。ホームにはかつての貨車の車掌車を改造した待合室がある。

御来屋駅は1902年に官設で境港~米子~御来屋間が開業した当時の建物がそのまま残されている。現在は「山陰最古の駅舎」ということで登録有形文化財にもなっている。改札口の手すりや(現在は使われていないが)出札口の窓口もそのままだ。日本最古の駅舎となると滋賀県の旧長浜駅舎であるが、長浜が現在は鉄道資料館になっているのに対して、御来屋は現役の駅舎として使われているのがすごい。

また駅舎内には現役時代の小荷物運賃表が掲げられ、山陰線の歴史についても紹介されている。現在駅はもちろん無人なのだが、かつての駅務室は曜日によって地元の産直市である「みくりや市」というのが開かれている。駅舎が良い状態で保たれているのはこうした地元の人たちの活用によるところもあるようだ。

このまま鈍行で行ってもいいのだが、皆生温泉に早く到着しようということで後から来た快速に乗り換える。やはり鈍行と比べてスピードがある。左手の大山も少しずつその姿を変えて行く。

米子に到着。ここからバスに乗り換えて皆生温泉を目指す・・・。
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鳥取県に乗り鉄に行こう

2019年01月20日 | 旅行記F・中国
2019年1月もすでに下旬となったが、まだ正月中の記事を・・・。

私の勤務先企業(職場)は例年1月5日が仕事始めなのだが、今年はその日が土曜日ということで休みの扱いとなり、ありがたいことに7日の月曜日にずれ込んだ。

この機会を利用するということで、2日、3日はゆっくりして、4日~5日で乗り(飲み)鉄に出かけようと思う。ここで2日行程にしたのは青春18きっぷの残りが2回分というのと、6日の日曜日はオフとするためである。日帰り2回でそれぞれ別の方向に行こうか、あるいは泊りがけで出かけようか。

年始も4日となるとホテルも空室が出始めて、料金も普段の価格に近づく。今回その事象を活用して、年末年始にいろいろ迷った東に向かうか、いやいや東北に行くのだからこれは西やろという間で迷った。結局は西、その中で以前から正月中に訪ねたこともある鳥取を目指すことにした。大阪からも近い中で、日本海側の風情も楽しめる。一泊の乗り鉄の旅には手頃なエリアで、それなら同じ日本海側で北陸はどうかというところだが、ここに「ローカル線の気動車、中でも旧国鉄型」というのが出てくる。

1月4日、世間は仕事始め、平日ダイヤである。ただその中にまだ休みという人が交じる状況で、大阪から平日ダイヤの姫路行き新快速はそうした人たちが混在する混雑である。

姫路から乗り継いだ8時01分発の岡山行きは青春18の客の割合が高いようで、まずは満員である。その中で上郡で下車して、鳥取に抜ける智頭急行の8時50分発の普通列車に乗り換える。この線は土日祝日の他に青春18利用期間中に1日フリーきっぷを発売している。上郡から智頭まで乗り通した運賃が1300円のところ、フリーきっぷは1200円。特に同じ日に往復するなら半額以下で利用できる。

智頭急行の1両の鈍行もボックス席に相席が出るくらいの乗客で発車する。鳥取まで行く客も多そうだ。智頭急行は兵庫、岡山、鳥取の3県をまたぐ路線。まず兵庫県の区間は冬の間の晴れ間の景色で、高架橋を順調に走っていく。空は青いが気温が低いためか沿線には霧が広がる。

続いて岡山県。こちらで名高いのが「宮本武蔵」駅。

この先は岡山県でももっとも奥まったところで、あわくら温泉では雪景色となった。車内の人もこの景色にスマホやカメラを向ける。この先鳥取となるとさらに積もっているのだろうか。

鳥取県に入り、恋山形駅に着く。智頭急行の開業時に「因幡山形」とする予定だったが、「来い山形」⇒「恋山形」と名付けられた。そして「恋」とつく全国的にも珍しい駅名ということもあり、2013年には駅全体をピンク色の「恋」一色にしてアピールしている。この列車もちょうど対向列車との行き違いとなっていて、2分ほど停車。多くの人がホームに降りて撮影する。

智頭から因美線に入り鳥取に向かう。しばらくは雪も残っていたが、市街地に入るとすっかりなくなった。冬の日本海側だがこの期間は穏やかな天候に当たっていたようだ。

10時55分、鳥取着。ここからは11時20分発の倉吉行きに乗り継ぐ。この日はいったん西に向かい、その後で鳥取に戻って駅前のホテルに泊まる予定である。キハ47の首都圏色、これに乗りたかったために鳥取に来たと言ってもいい。

この先も晴天が続き、雪もない。年末の最強寒波襲来とかいうニュースはあったが、やはりこの冬は暖冬なのかなと思う。地元の人たちにとってはほっとすることだろう。

倉吉の一つ手前の松崎に到着。東郷湖を前にする駅である。ここで下車したのはある「日本にいながら異国情緒を味わえるスポット」に行くため・・・。
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新潟から夜行バスで帰阪

2019年01月19日 | 旅行記C・関東甲信越
元日の夕方18時半を回り、新潟に到着。ここまで来ると雪はなく小雨に変わっていた。

この夜22時05分発の高速バスで大阪に戻る。それまでの時間をつぶすわけだが、万代橋など街の中心部まで行くこともないかと、駅前で店に入ることにする。ただ元日の夜ということで休業の店もあるだろうし、開いている店も新年会と称して混雑しているかもしれない。これが17時頃なら空席もあるだろうが、18時半といえば人出も多い時間帯である。「きらきらうえつ」に乗るにあたりそこの点だけは気になっていた。

駅前に以前入ったことのある郷土料理店があり、まずそこをのぞいたがやはり満席。他にも何軒か海鮮系の店を当たるがいずれも満席。駅ビルのテナントをのぞいてみればよかったのかもしれないが、その時はそこに頭が回らなかったし、そちらも果たして空席があったかどうか。まあ、元々この旅は長岡、新潟を目指すはずだったのが、急展開で宇都宮~福島~山形を回る旅になり、最後にちょこっとだけ新潟に寄ることにした。その報いなのかもしれない。

駅前を回る中で「いっぱいいっぱい」という店があった。窓がガラス張りの大衆酒場という造りで、外からでもカウンター席が空いているのが見える。周りが混雑しているのにこの店だけ空席があるのは何か裏があるのかもしれないが、焼き鳥、焼きとんの店で日本海の幸や郷土料理とは行かないが、ホッピーがあるのに引かれてここに入る。何かのチェーン店だろう。

串の盛り合わせや、店の一押しという白レバ焼きなどを注文する。味はいずれも悪くない。唯一郷土料理としてあったの栃尾揚げもいただく。これらを相手に、まずは新潟限定のサッポロ「風味爽快ニシテ」をいただき、その後はホッピーで押していく。

新潟といえば日本で指折りの地酒ところであるが、元日の夜にホッピーで押す展開になるとは思わなかった(こういう店なので置いている日本酒が吉乃川くらいのもの――大阪の大衆酒場で日本酒は大関とか菊正宗くらいがあるようなものか――ということもあったが)。

他からの注文が重なっているためか、串焼きの時間がかかっているようだ。ただこの日はバスの発車まで結構な時間を過ごす必要があったため、料理を待つぶん長居ができたのはかえってありがたかった。結局19時すぎから入って、たっぷり2時間半を過ごすことができたのは良かったと思う。

新潟駅前の高速バス乗り場はターミナルではなく、普通の道路沿いのバス停である。行先表示を見ると昼行便は県内各地や会津若松、仙台、そして東京行きもある。新潟から東京といえば新幹線のイメージだが、やはり安く行きたいという需要もそれなりにあるのだろう。関越道で県内の各地に停まりながら池袋まで5時間とある。

バスは2台運行でやって来た。行きの大阪~宇都宮は2階建て車両だったが、今回は普通のハイデッカータイプの阪急バスである。2台運行だが満席とまではならなかったようで、3列シートの真ん中の席に空席が目立つ。運転手2名体制で、阪急の運転手だからか関西弁でやり取りしているのになぜかホッとする。路線名は「おけさ号」。また新潟にはいつの日かメインで来てみたいものである。

走り初めて1時間経たないうちに、北陸道の栄パーキングエリアで休憩となる。場所は燕三条と長岡の間でる。夜はこの1回休憩で、翌朝にもう一度休憩を取る。

この後は帰宅するだけだし、行きの2階建て車両と比べて揺れが少なく感じたのか、行きよりは多少は眠れたと思う。途中運転手交代か休憩かで停車していたところもあったが、もうスマホで位置検索もしない。

翌朝5時、名神高速の菩提寺パーキングエリアで朝の休憩。この日は順調に走っているようで、停留所の京都駅八条口には所定より20分以上早く到着した。その後は名神高速のバス停にも停まるのだが、残りの乗客全てが終点梅田までの利用ということで通過していく。結局そのリードを保ったまま、7時前に阪急梅田三番街バスターミナルに到着した。夜行バスで始まり、鉄道で北関東から南東北を循環し、夜行バスで終わるという乗り物づくしの年越し旅行も終わりである。

今回は関西からなかなか訪ねることの少ないエリアを回ることができたと満足である。中でも東北はご無沙汰のところも多いし、東日本大震災の被災地の「その後」も気になる。またこちらの方面にも関心を持ちたいものである(坂東三十三所や東北三十六不動めぐりは別として)・・・。
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「きらきらうえつ」乗り納め

2019年01月17日 | 旅行記B・東北
陸羽西線から酒田に出る。酒田の街の中心は駅から離れていて、かつて来た際も駅前が寂しかったのを覚えている。

そして今回降り立つと、駅前には大きな空間ができていた。再開発事業として「酒田コミュニケーションポート」事業というのがあり、2021年度を目処に「光の湊」というホテル、ライブラリーセンター、観光情報センター、マンションなどの複合施設を建設するとのことだ。「酒田人×来酒人」というのがコンセプトだそうだが、「来酒人」というのが「酒田に来る人」とわかっていても、「酒を飲みに来る人」と訳してしまう。最上川の酒がまだ腹に残っているのかな。

次に乗るのは16時10分発の快速「きらきらうえつ」新潟行きである。これで一気に新潟まで下る。「きらきらうえつ」はこれまでも乗ったことがあり、日本海の景色、そして車内のラウンジでは新潟の地酒を味わうことができる列車として思い出ある列車の一つである。途中の日本海を目の前にした桑川駅で降りて民宿に泊まり、海の幸を堪能したこともある。

ただ冬に乗るのは初めて。そしておそらく今回で乗り納めとなるだろう。というのも、2019年の10月に新潟~酒田間に新型観光列車「海里」というのが走るそうで、いわば「きらきらうえつ」の後継列車である。

まあ、観光列車のリニューアルといえばそれだけの話なのだが、この列車の引退となると世の「その筋の人たち」は心中穏やかではないようである。それは「きらきらうえつ」の車両が国鉄特急型車両として本州、九州各地で活躍した485系というもので、この数年で次々に引退していったものだからだ(関西では大阪と北陸を結ぶ「雷鳥」で使われていた)。485系は特急としての役割を終えても「きらきらうえつ」のような観光列車に改造されていくつか残っていたが、とうとうその役割も終えようとしている。

仮に9月末に引退するとしても5月の連休や夏休みの期間に乗ることは可能なのだが、私がその時季にこの地方に来る可能性も低いと思うので(決して新潟や山形がダメということではなく、今度は別の地方を回りたいと思うだろうから)、私としては「乗り納め」になるなと思う。

この日でも多くの鉄道ファンがお目当てにしているようで、入線すると一斉にカメラが向けられる。

「きらきらうえつ」は全席指定。指定券はJR西日本のみどりの券売機で押さえていた。乗車区間と時間帯を入力すれば購入でき、おまけに座席指定も可能。慣れない区間の列車の座席を窓口の係員に注文するよりスムーズだ。早い時期に購入したが、それでも海側窓側のA席はほぼ満席だった。乗ってみると、車両の端で反対側は隣の車両との通路になっている席だった。列車を待つ間に酒田駅の券売機を操作して空席状況を見ると、列車全体では空席も目立つが、海側窓側のA席だけは完売だった。

定刻に発車。それでも車内のいろいろを撮影する人もいるし、何だか落ち着かない。かくいう私も2号車のラウンジカーに行き、新潟限定のサッポロ「風味爽快ニシテ」など買い求める。「きらきらうえつ」のグッズをあれこれ買う人もいる。

先ほど通り過ぎた余目を過ぎ、鶴岡からは結構乗客があった。

まだ車窓に日本海が見えないが、わかっていても気を揉む。時刻はまだ17時前だが、この季節である。もう辺りは暗くなりつつあり、果たしてこの旅初めての海を見ることができるだろうか。「きらきらうえつ」は夏などは新潟県に入った桑川駅に長時間停車して、駅から間近に見える日本海に沈む夕日を見せてくれるのだが、とてもそこまで持ちそうにない。それでも海は見たい。

三瀬を過ぎたところ、漁村の向こうに暗い色の海がちらりと見えた。ようやく日本海にたどり着いた。その後はトンネルと海岸がしばらく交互に現れる。写真となると手持ちのカメラでははっきり映らないが、冬の景色を目に焼き付けることはできる。白い波が岩場に打ちつけるが、冬ということを考えればまだ穏やかなほうなのかなと思う。

あつみ温泉、鼠ヶ関と山形県の端の駅に停まる中で、そともすっかり暗くなった。それでも波の先の白いところだけは辛うじて見えるかなという感じである。新潟県に入り、昼間なら良い景色が広がる笹川流れもそんな感じで過ぎて行った。

後は「きらきらうえつ」、いや485系の走りを体感するだけだ。485系そのものは特急型車両ということでそれほどたくさん乗ったわけではないが、国鉄~JRにかけて一時代を築いた形式である。新年早々に「平成最後」と言うのも妙なものだが、これも時代の移り変わりなのだなと月並みながら思うところである。

新潟県に入ると雪はすっかりなくなり、外は雨粒である。大規模な改装中の新潟駅に到着、同じレベルに新幹線のホームがある。ともかくここで「きらきらうえつ」、ひいては485系ともお別れである。これまで長年お疲れさまでした・・・。

さて旅は新潟駅前から大阪までの夜行バスで終わる。バスの時間まで3時間余り、その 間の「元日の夜」をどう過ごすか・・・。
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最上川芭蕉ライン舟下り

2019年01月16日 | 旅行記B・東北
山形新幹線で新庄に到着して、陸羽西線に乗る。「奥の細道最上川ライン」という愛称がついている。11時15分発の酒田行きには観光客や鉄道旅行らしい人の姿も目立つ。この線に乗るのも久しぶりだ。

出発するとまず右手に機関庫が見える。1903年に新庄駅が開業するのと同時に竣工した建物で、同時期に県内で建てられた中では唯一現役で稼働していて、当時の姿をとどめている。新庄は奥羽線と陸羽東線、陸羽西線の接続駅で、奥羽線のこの先秋田県への区間は難所のため補助の機関車もついていたという。

陸羽西線も本数は少ないが、山形県の内陸部と庄内地区を結ぶ主要ルートである。例えば東京から鶴岡、酒田に行く場合、新潟から白新線・羽越線ルートというのが主要だと思うが、山形新幹線から陸羽西線回りということも考えられる。

2駅目の羽前前波を過ぎると右手に川が見える。最上川かと思ったが、その上流、最上川に注ぐ鮭川という。「鮭」とつくくらいだから鮭がここまで遡上してくるということか。後で調べてみるとこの上流に鮭川村というのがあり、今も鮭の稚魚の放流や、秋には遡上する鮭の一本釣りというのも行われるそうだ。もっとも鮭釣りは誰でもいつでもできるものではなく、あくまで生態調査の一環という扱いで、事前の申し込みで日時や人数が決められているそうだ。

次の鉄橋で最上川を渡り、11時34分、古口に到着。ここで10人ほどの観光客とともに下車する。ここは最上川下りの観光船「芭蕉ライン」の乗り場の最寄駅である。元日の行程は最上川下りの観光船がメインである。10年以上前、夏の時季に一度乗船したことがあるが、今度は冬の時季である。周りの雪も十分で、冬らしい景色が期待できそうだ。

駅を出ると観光船の送迎バスの運転手から「川下りですか?」と訊かれてバスを勧められるが、確か歩いても10分かからないところで、舟の時間まで余裕があるのでそのまま歩いて行く(ちなみに古口駅から渡し舟の乗り場までバスを利用した場合の運賃は100円)。

到着したのは戸沢藩船番所。新庄からの道は最上川沿いに進むが、ここ古口以降の川下は最上峡と呼ばれる難所で、陸路も整備されていなかった。そのため行き交う人たちは古口で舟に乗り換える必要があった。この辺りを治めていた戸沢氏の新庄藩はここに目をつけて番所を設け、代官を置いて舟の荷物や人物の出入りを監視した。

現在は陸路として鉄道も国道も通っていて、舟は川下りの観光船である。そしてかつての番所跡は「乗船手形出札処」ということで観光船の乗り場だけでなく土産物や飲食コーナーで賑わっている。元日の昼、ちょうど団体の観光バスも到着して店内は賑わっている。代官に扮した係の人の出迎えもあれば、正月だからか振る舞い酒も用意されている。

実は今回、事前に乗船予約をしていた。実際は当日飛び込みでも追加の舟を仕立てるなどして対応はしてくれるようだが、今回は元日ということと、船内での昼食をいただくということで予約していた。乗るのは12時50分発で1時間ほどあるが、待ち時間は船番所の飲食コーナーに座っていてもいいということでしばし待つことにする。大きな荷物はここで預ければ無料で下船地まで届けてくれる。また船内での食事を予約していなくても酒を含む飲食物の持ち込みはOKなのでここで調達も十分可能だ。待っている間にもお菓子などいろいろ試食を勧められる。

そろそろ時間となり、自分の名前が呼ばれて乗り場に向かう。途中「航海安全観音」というのがあるので手を合わせておく。観光バスの団体だと一艘貸切で、その他個人客は乗り合わせである。私の乗る舟には小グループ、家族連れ、ご夫婦、カップルという組み合わせで、一人旅は私のみである。

この便の特徴が、舟の中にこたつが置かれている。燃料は豆炭だという。その上にこの日の食事がすでに準備されていて、そこが自分の席である。東京から来たという50代くらいのご夫婦と一つこたつでご一緒させていただく。

弁当は3種類あり、私が注文していたのは「最上川おしん弁当」。地元産の魚や野菜が使われた一品である。そして単品で芋煮汁。鍋に盛られたばかりで温かい。・・・となればということで、待ち時間に購入したその名もズバリ「最上川」のワンカップを取り出す。「飲み鉄」ならぬ「飲み川下り舟」だ。

船頭も2人がかりで、後方で艪を操る男性と、前方でガイドを担当する女性が務める。山形弁での案内というのも舟下りの風情を演出する。まずは景色も大人しく、「ビバリーヒルズと呼ばれる閑静な住宅地」が広がるところなので、食事をお楽しみくださいとのこと。その間にも最上川についての案内があるので、耳はそちらに傾ける。

「昭和19年7月21日洪水」という看板がある。最上川は山形県と福島県の境を水源として、県を南から北へ、そして西へと流れているが、最上峡のような峡谷も多く、また春の雪解け水や夏の大雨の影響で昔から洪水の多い川でもある。米沢の直江兼続や山形の最上義光も治水事業を行っている。その中で古口地区は最上峡があること、そして先ほどの鮭川との合流点下流に位置することからたびたび洪水に見舞われている。もっとも水位が高かったのが唱和19年の豪雨による出水で、最上川の水位も9メートルほどになったという。

ところが、昨年平成30年にもそれに匹敵する豪雨がこの地を襲ったという。昨年といえば記憶に新しいのが7月の西日本豪雨だが、8月には東北、特に山形県にも記録的な豪雨となり、この辺りも24時間で300ミリを超える雨が降り、昭和19年の看板に近い水位まで来たという。堤防が決壊するということはなかったが、川下りも運休する影響があった。山形でもそうした豪雨があったとは知らなかったのだが、前月の西日本豪雨のような大きな人的被害がなかったこともあるが、それよりも300ミリという数字はさほどでもないという感覚のマヒのようなところがあるのが怖い気もする。

この時季ならではということでつららもあちこちにできている。「インスタ映えするところですねえ」というが、私から見て対岸側になるのでなかなか上手く写真には収まりにくい。まあそこは目でしっかり見ることにする。またつららと言えば国道のシェルターにも結構長いのがぶら下がっている。ちょうど上に滝ができていて、流れた水が凍ってつららになっている。これは舟からでしか見えない景色だ。

最上川は天然杉の宝庫なのだという。最上峡でも樹齢800~1000年のものが群生している。杉がはっきり見えるのは他の木々が葉を落としている今の時季ならではの景色だとか。

「そろそろアトラクションがないと退屈しますねえ」という案内とともに、峡谷の狭いところでは波が立ち、舟も揺れる。そうしたところも何か所かある。

舟下りといえば船頭による民謡の披露も名物で、まずは「真室川音頭」が披露される。そして、NHKの朝ドラ「おしん」のロケ地となった河原では「おしんの子守唄」。「若い人はご存じないでしょうが、あの頃は『おしん』とつければ何でも売れてて・・・」という。先ほどいただいたのも「おしん弁当」だが、「おしん弁当ってつけてますが、大根めしではなかったでしょ?」というフリに笑ってしまう。

仙人堂というスポットがある。かつて源義経が奥州に逃れる途中に最上川を上ったが、この地で一時体を休めた。その時従者だった常陸坊海尊は、自分が負傷していて足手まといになるのを恐れてこの地に残ることにした。その後海尊はこの地で修行を積んで仙人になったという伝説があり、それにちなんで祠が建てられた。それが仙人堂の由来だという。ただ現在は縁結びのパワースポットとして注目されているそうだ。仙人堂に行くには対岸から出ている別の会社の観光渡し舟に乗って行くことになる。義経と従者がここで別れたのに縁結びとは妙だが、こちらの船頭によればご利益は五穀豊穣、家内安全、交通安全、身体健康、学力向上、金運アップ何でもあり・・・ということで、「とりあえず、前を通る時に手を合わせましょう」となり、柏手を打つ。

最上川は松尾芭蕉も『奥の細道』で通っており、「五月雨を あつめて早し 最上川」の句が残されている。この句は上流の大石田に滞在していた時に詠んだが、その時は「あつめて涼し」だったという。ここで言う「五月雨」は今の暦なら梅雨前線が活発な時季で、先ほど書いた洪水の話ではないが、最上峡を下る時は水量も多く波しぶきも高かっただろう。その印象が強かったのか、『奥の細道』では「水みなぎつて舟あやうし」として、「あつめて早し」に改作されている。もっとも「あつめて涼し」のままだったら最上川の一面しか伝わらず、最上川下りが現在のように多くの観光客を集める乗り物にはならなかったのではないかとも思う(別に芭蕉は後の世の観光業界のことまで考えて句を詠んだわけではないだろうが)。

12キロ、およそ1時間の川下りも終盤ということで「お待たせしました」と、「最上川舟唄」が一節披露される。続いては英語版も。「世界三大舟唄の一つで・・・」とあるが、まあそれはお国自慢というものだろう(後の二つは何だろうか)。

最後に白糸の滝を見て、その対岸にある終点の川の駅、最上峡くさなぎに到着。「最上川には春夏秋冬それぞれの良さがあるので、ぜひ4回乗ってみてください」と見送られる。

預けた荷物を受け取り、送迎バスで古口駅に戻ることにする。1時間かけて川下りしたところをバスだと10分で走って行く。先ほど見た景色を復習するかのように遡って行く。

先ほどはすぐに歩いて出た古口駅だったが、列車まで少し時間がある。待合室には沿線の観光パンフレットも置かれているのだが、その中で「陸羽西線」(奥山えいじ)というご当地演歌のポスターがある。どんな歌詞なのか検索してみるとキャッチコピーが「男は列車の中で、己の心に問いかけながら、愛する女への想いを走らせる・・・」。すごいねえ、「飲み鉄」の私にはなかなかできない芸当である。ちなみに1番の歌詞を引用させていただくと、「最上の川面をすれすれに 一羽の鳥がひるがえる おまえも群れにはぐれたか それとも何かをなくしたか 陸羽西線こころは揺れて 車窓(まど)に面影ゆきすぎる」

14時36分発の酒田行きに乗る。今度は先ほどの区間を列車で走る。3とおりの交通手段で最上峡を行ったり来たりする形だ。次の高屋を過ぎ、舟を下りた川の駅最上峡くさなぎの横を過ぎたところで峡谷ムードも終わり、川沿いも開けてきた。

沿線に風力発電の風車がいくつも建っている。ここ庄内町は「清川だし」という独特の風が吹く地域である。夏には奥羽山脈からの南東の風が新庄盆地を経て、最上峡を吹き出し口としてこの地に強風をもたらす。逆に冬は北西からの季節風が吹きつける。この風が農作物の生育に影響することもあるのだが、1980年代から風力発電の技術が開発されるようになると、その強風をエネルギー活用と町おこしに利用しようと、民間や第三セクター、さらには町営の風力発電施設を建設した。現在の発電量は町内の消費電力の約57%を風力でまかなうところまで来ているという。

余目に到着して羽越線に入る。この辺りまで来ると雪もほとんどなくなった。およそ2日間続いた雪景色ともお別れである。この後は新潟に向かうのだが、いったんこのまま終点の酒田まで向かう。酒田からあの列車の乗り納めということで・・・。
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山形県護国神社で初詣

2019年01月14日 | 旅行記B・東北
元日の移動はまず山形8時42分発の新庄行きで出る予定だった。いつもの鉄道旅で言えばゆっくりした出発だが、その前に初詣に出かけることにした。山形に泊まったがただホテルにいました・・だけというのもさびしい話である。

山形市内で初詣に訪れる人が多いのは山形県護国神社という。ただホテルからの経路を検索すると徒歩で20分ほどかかるという。年が改まった瞬間、あるいは未明に訪れればいいのだが朝食の後に行くので、その列車に乗るのは厳しいかなと思いつつ、とりあえず荷物は部屋に残したまま出かけることにする。

ホテルキャッスルのある十日町から七日町にかけてが山形の繁華街だという。もちろんこの時間は開いているのはコンビニくらいのもので、人通りもほとんどない。

山形市役所の前を過ぎ、通りの正面にデンと構えるのが文翔館。こちらにはかつて一度入ったことがある。かつての山形県庁舎の建物で、1975年までは現役の庁舎として使われていたが、その後修復工事を経て、郷土資料館として保存されている。

そろそろ山形県護国神社が近く、初詣客のクルマが渋滞するようになった。やはり駅から離れていることもあってか、初詣客もほとんどがクルマで来るようである。その手前に出羽国分寺というのがあり、まずはそちらに入ることにした。

出羽国は現在の山形県(羽前)、秋田県(羽後)を合わせた国。大和朝廷が東北に勢力を伸ばして行く中で成立したのだが、その国府は蝦夷との境界で軍事拠点の役割を持っていたという。当初庄内地方にあり、その後は現在の秋田市に移り、蝦夷の反乱により現在の酒田市に移転するというように、蝦夷との争いの中で動くこともあったようだ。

国分寺は国府とセットで設けられることが多いのだが、出羽の国分寺も当初は酒田にあったようである。それがいつ現在の地に移されたのかははっきりしていないが、現在の国分寺は元々は柏山寺という寺だったそうである。案内板によると行基により開かれ、慈覚大師円仁を中興の祖として、源頼義、藤原秀衡、大江広元らによっても保護された。前日訪ねた本山慈恩寺を復興させた斯波兼頼も金堂塔を造営したとか、戦国大名最上義光も領地を寄進して山形城の鬼門擁護の霊場としたという。現在は出羽国分寺薬師堂ということで、本尊薬師如来を祀っている。まずはここで手を合わせて一年の息災を祈る。

山形県護国神社は国分寺に隣接している。やはり初詣は神社ということか、こちらのほうが参詣者が多い。例年初詣で10万人以上が訪れるという県内有数のスポットである。

意外にもこちらは国分寺と比べれば歴史は新しい。1969年、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士の慰霊のために創立されたもの。だから今年がちょうど150年ということになる。その後戊辰戦争、西南戦争の戦没者が合祀され、大正時代には日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦没者が合祀された。さらに戦前に現在地に社殿が造営され、満州事変の戦没者も合祀された。だから昔ながらの神社というよりは「護国の英霊」が祭神とされている。個人的にこうした「戦時色」というのは好きではないのだが(神仏分離、廃仏毀釈を推進した連中と重ね合わせて)、来てしまったのだからお参りすることにする。

参拝の結構長い列ができていて、この時点で8時42分発の列車に乗ることはあきらめた。その次ということで別料金になるが10時08分発の「つばさ123号」に乗ることにする。こちらでも一年の息災を祈る。

再びホテルに向けて歩く。結構強い雪が舞うようになった。この日も天候がころころ移り変わるのだろうか。部屋でしばらく温まった後でチェックアウトして駅に向かう。

元日は帰省ラッシュとUターン列車の狭間のようなところで、列車の席も比較的空いている。それでも一応指定席を押さえて新幹線ホームに向かう。この辺りは新幹線といっても線路は単線で、東京行きと新庄行きが同じホームに発着する。この新幹線に乗るのも久しぶりで、E6系という車両は初めてである。

北に向けて走る中で雪も舞うし、積雪量も増えているように見える。さらに奥に進むような気持ちでわくわくもするが、あまり降りすぎるとこの後の行程に影響が出やしないかヒヤヒヤもする。天童、さくらんぼ東根、村山、大石田と進んでいく。

10時54分、新庄に到着。ここからは進路を西に取り、陸羽西線に乗る。ここからは「奥の細道最上川ライン」という愛称にもあるように最上川を下って行く・・・。
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平成最後の年越しの夜は「酒場放浪記」とともに・・・

2019年01月13日 | 旅行記B・東北
大晦日の夕方、山形駅に戻る。この日の宿泊は駅から徒歩7分、十日町にあるホテルキャッスル。駅前のホテルも空いているのだが、山形市内では老舗の部類に入るホテルで、部屋が広いのと朝食が立派なのとで決めた。駅からキャリーバッグを転がしたが、歩道も積雪や凍結があるし、横断歩道の角には除雪した雪が積まれていて、それを乗り越えるところもあった。沿道の郷土料理を謳う飲食店も開いていたが、これまでの道中でもういろんな食材も買っているし、それらをいただきながら部屋でゆっくり過ごすことにする。

ホテルキャッスルはブライダルにも力を入れていたり、宴会場も持つ。宴会場のご一行様に山形県内の終着駅を回るイベントの懇親会とあり、どんなものか気になる。

部屋はセミダブルベッドや壁側備え付けのデスクの他に、独立した椅子とミニテーブルがある。ゆっくり食事が取れそうだ。

今回キャッスルホテルに決めた要素の一つに、地酒1本サービスというのがあった。選んだのは男山酒造の爽快冷酒という普通酒。これに、途中の米沢駅、寒河江の羽前高松駅前のマックスバリュで買ったそれぞれの地酒が並ぶ。写真左から男山酒造の「爽快冷酒」(地酒のサービス分)、寒河江の月山酒造の純米吟醸「銀嶺月山 雪中熟成」、置賜の樽平酒造の特別純米酒「住吉」、寒河江の千代寿虎屋の本醸造「千代壽」。これに普通のビールもあるから、酒どころでの年越しに相応しいラインナップである。

これらの相手は順番に。まずは山形を代表する郷土料理である芋煮汁。駅の土産物コーナーではパックに入った一人用サイズが売られていて、電子レンジで温めるものだがそのままでも食べられるようになっている。温かいほうが当然美味しいのだろうが、これだと新幹線の車中のつまみにもいけるのではないか。

続いてはこれも山形ではスタンダードの玉こんにゃく。羽前高松のマックスバリュで120円で売っていた。先ほどの芋煮汁の器に移していただく。これも温めれば美味いがそのままでも食べられるというやつである。山形でこんにゃくが多いのは山寺を開いた慈覚大師円仁が中国から持ち帰り、精進料理として広めたからとも言われていて、丸い形なのは食べやすいようにちぎって調理したことから来ているのだとか。

寒河江のそのままズバリ「サガエ納豆」は結局自宅まで持ち帰り、ご飯のお供にいただいた。粘りが強く、豆も大粒なのは昔ながらの納豆という感じだった。また納豆といえば米沢駅で買った「雪割納豆」もある。これは豆を二つに割って冬の間麹と塩に浸けて発酵させたもので、普通の納豆とは一味違う食品である。この記事を書いている時点ではまだいただいていないが、ご飯の友、酒のアテとして少しずつ味わうもののようだ。

さらに豆といえばこういう一品もマックスバリュで買った。数の子豆(豆入り数の子)という。正月用のお節料理や惣菜のコーナーに普通に並べられていたのだが、青豆と数の子を和えたものである。これも福島から山形にかけての郷土料理だという。芋煮や玉こんにゃくに比べれば知名度は低いと思うが、私としてはこの日に買い集めた食材の中で一番のヒットで、酒も進んだ。これは山形の居酒屋メニューにあるのかな?

食事については、米沢の有名駅弁である「牛肉どまんなか」。年越しそばはどん兵衛で済ませることにする。土産物コーナーの一品、スーパーの食材、駅弁という酒宴は、温泉旅館の豪華夕食と比べたら貧相かもしれないが、なかなかに面白いものだった。

その中でのテレビだが、大晦日の紅白、ダウンタウン、格闘技・・・別に観たいと思わない。適当にBSなどチャンネルを変えながら流していたのだが、番組表で目に止まったのが、「吉田類の酒場放浪記」の年越しスペシャル。

大晦日のうちは酒場放浪記のスペシャル版で、年跨ぎの瞬間は乾杯の映像が流れるというのだが、今回の放浪記のテーマが、何と西国三十三所という。札所を回り、その後でその地の居酒屋を楽しむ・・・私もそれなりにやっているアレやん。ただ、吉田類さんが回るとサマになってしまうのが、さすがプロの酒飲みである。

札所がいくつか紹介されるのだが、その中でびっくりしたのが、私の地元・藤井寺に来ているのである。

駅前での一言に始まり、西国第5番の葛井寺にお参りする。その後に入ったのが駅前の「谷酒店」。線路に面した表通りでは酒屋だが、筋を入ったところでは立ち飲み店を営んでいる。

この店での飲み比べや一品料理を味わい、店主家族とのやり取りがあり、最後は一句詠んで藤井寺を後にする一連の流れにうなった。

最後に詠んだ一句は、「幽か(かすか)なる 秘仏の光 葛枯れて」。いつ収録されたのかわからないが、これだけで年の最後にいい番組を観させてもらったと、一人盛り上がる・・・。

・・・2019年、明けましておめでとうございます。

年越しは吉田類さんの乾杯で・・とか言っていたにも関わらず、寝落ちではなくしっかりと布団に入って寝ていた。その分早起きして初詣に出かけようかとも思っていた。そして実際早く起きたのはいいとしても、いざ朝になると、朝食の後でもいいのではとズルズルした感じである。年明けのお屠蘇とか何とか言って昨夜開けなかった地酒の封を切ったりする。まあ、こうした年明けもいいのではないか。

6時半から朝食ということで1階レストランに向かう。入口で「明けましておめでとうございます」と係の人からお神酒をいただき、バイキング形式の朝食である。芋煮汁も玉こんにゃくも温かい状態で提供されるし、正月料理もあった(数の子豆はなかったが)。また卵料理は注文を受けて調理するとあり、オムレツ、目玉焼き、スクランブルエッグなどの別注文が相次いでいた。私は目玉焼きをいただき、山形米「つや姫」とのコラボを楽しむことができた。そろそろ外も明るくなってきた。

元日に山形から新潟に向かう経路は、奥羽線~陸羽西線~羽越線~白新線である。まず奥羽線で新庄に向かうのだが、当初よりもゆっくり出ることにして、まずは山形で初詣をしよう・・・。
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冬の山寺立石寺はプチ修行

2019年01月12日 | 旅行記B・東北
左沢線と山形線(奥羽線)、そして仙山線の列車はいずれも北山形駅を通るが、今回左沢線と仙山線の乗り換えのために一度山形まで戻り、13時56分発の快速仙台行きに乗る。青春18の旅なので柔軟に動けるし、山寺まで15分とは言え始発駅から座って行ったほうがよい。

北山形を過ぎて、山形新幹線の車両とすれ違い、羽前千歳から仙山線に入る。山形~羽前千歳間は、標準軌の山形新幹線・山形線と、狭軌の仙山線がそれぞれ独立して走っている。そのため複線のようにすれ違うこともある。

仙山線に入るとまた雲が広がり、雪も舞うようになった。空模様の変わりやすい大晦日である。

山寺に到着。この駅に降り立つのも10年以上ぶりのことだが、冬に来るのは初めてである。それ以上に前来た時との違いを感じるのが、大陸や半島の言葉にあふれていることである。インバウンドとやらの恩恵は山形にも着実にあるようで、そういえば山形に着いて駅前に出た時にも、蔵王行きのバスに並んでいたのはほとんどが大陸からの客だった。

駅前の土産物店が並ぶ通りを抜けて、山寺に着く(寺としては正しくは立石寺と書くべきだろうが、この記事の中では山寺で通す)。まずは根本中堂にてお勤めとする。山寺というと山上にあるお堂や石段、岩肌のイメージだが、あくまで本堂はこちらである。

山寺は平安時代に清和天皇の勅願で慈覚大師円仁により開かれた古刹で、現在の根本中堂は南北朝時代に山形城主の斯波兼頼により建造された。ブナで造られた建物としては現存する最古のものだという。冬ということで扉も閉じられ中に入れない様子だが、延暦寺から分けられた「不滅の宝灯」が灯されている。延暦寺が織田信長による焼き討ちに遭った時には逆に山寺から灯を分け与えたために宝灯が絶えなかったという。山形の地にあってそれだけ由緒ある寺である。

そして有名なのは芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句である。今は蝉はおろか他の虫の声も聞こえない雪の中。もしこの時季に山寺を訪ねたとすればどのような句を詠んだことだろうか。

山門に着く。ここからが山寺のメインと言ってもいいだろう。奥の院まで約800段の石段が続く。山門の前には足元が滑りやすいので注意を促す立て札と、16時半までには下山するようにとの注意書がある。この先は照明もなく、もし雪の中下りられないとなるとどうなるか。現在14時半を回っていて、2時間あれば往復できるとは思うが・・。

受付の御守授与所にスペースがあり、長靴の無料貸し出しを行っている。私が履いている靴も一応雪仕様にはなっているが、こういうところでは長靴が良いのだろうと履き替える。長靴を履かない人は本格的な登山靴だったり、中にはアイゼンを着けている人もいる。

準備を整えて出発。石段の脇には雪に埋もれた地蔵や観音の石像も見られる。ゆっくり上がっていくが、途中前が支えるところも多い。

石段には手すりがあるが、参道の片側にしかない。また石段は雪が積もるというよりは凍結しているところが多く、滑りやすくなっている。特に下りが危険だ。そのため手すりに掴まってそろりそろりと下りてくる人を石段の踊り場や折り返しで待つことになる。長靴だからと言っても安心はできない。私も多少ビビりながら石段を上がっていく。

この後、芭蕉が蝉の句を着想した場所とされるせみ塚や、弥陀洞を通る。弥陀洞は高さ5メートルほどの凝灰岩が風化したもので、阿弥陀如来が座っているように見えることから名前がついた。ただ、阿弥陀如来が見えるのは仏の心を持つ人だけだとか。私はどうかというと・・・まだまだ修行が足りないようだ(笑)

仁王門に着く。ここからが奥の院の境内となる。

そして着いたのが開山堂、五大堂。山寺といえば根本中堂よりもこちらのお堂のほうが有名だろう。開山堂は慈覚大師を祀るお堂で、左の小さなお堂は納経堂。この辺りが山寺の中で最も早く開かれたという。

その上が舞台造りの五大堂で、五大明王を祀る。由緒ある建物だが、現在では山寺随一の展望スポットである。門前町や周囲の山々を見渡すことができる。ちょうど居合わせたのは大陸の女性ばかりで、まあ、モデル気分でスマホの撮影会が繰り広げられている。これには少しため息だ。

さらに、五大堂の内部は落書きだらけである。文化財につき落書き禁止の札は出ているが、それでも最近の日付の落書きもあれば、名刺を壁に貼り付けているのもある。山寺随一のスポットと言っても係の人がついているわけでもなく、誰かがやっていたらそれを正として他の人が続くという悪い見本のようである。大陸の文字も見える。さすがにこれは良くない。

奥の院の境内にも奇岩がいろいろある。この一帯は古くから修行の岩場であり、転落して命を落とす者も多くいたようである。現在一般の参詣者は立入禁止となっている。山寺はその名の通り、山岳信仰、修験の地としての姿を今に伝えている。

奥の院の境内にいくつかの支院があるのだが、その中に郵便ポストがあるのに驚く。これは山寺から観光客が絵はがきでも投函するのかもしれないが、支院それぞれに住職家族がいるからとされている。この人たちも含めて、日本の隅々まで郵便のサービスを受けられるようにというのが法律の中にあり、そのために局員がここまで郵便物を配達して、ポストで集荷する。

そして奥の院に到着。観光客、参詣者の多くは開山堂、五大堂を奥の院と認識してそこで引き返すが(私も前に来た時はそうだったと思う)、最も奥にあるこの建物まで来る人はそれほどいないようだ。扉は閉まっているが、ここまで来たということでもう一度お勤めを行う。平成最後の年越しに・・と言えば大袈裟だが、山寺の根本中堂、そして奥の院の両方で般若心経のお勤めができたのは、気持ちを新たにする意味でも良かったと思う。

で、下りである。上りの時よりも石段が滑りやすく感じるし、何回かコケそうになった。何とか手すりに掴まり膝を曲げることで尻餅はつかずにすんだが、やはり大変だった。

そろそろ山門が近くなり、時刻も15時半を回ったが、この時間から軽装で上ってくる団体がある。胸に某旅行会社のバッジをつけているが、この時間からどこまで行けるか心配である。年越しは蔵王温泉か作並温泉かという感じで、すれ違う時に「あとどれくらいかかりますか?」と尋ねられたが、ここまで来たらぜひ上まで行ってほしい、ただ時間が・・という答えである。その後この一行が五大堂まで行けたか、途中で引き返したか、五大堂まで行ったが帰りに遭難したかどうかはわからない。

受付で「お帰りなさい」と迎えられ、長靴から履き替えて駅に戻り、16時01分発の列車に乗ることができた。駅のホームや列車から改めて山寺を見たが、よくもあの中を上って行ったなと振り返る。

山形に到着し、後はゆっくりと新たな歳を迎えるだけと思うとようやくホッとした・・・。
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