まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~芦北から八代へ

2024年10月01日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

小倉~八代間のツアー列車・リバイバル急行「ひのくに」乗車から始まった今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。九州一周を前倒しする形で八代、人吉の札所を回り、2020年の豪雨災害からの復興、あるいは復旧道半ばの様子を見たところで、ようやく最終ルートである。

国道219号線の不通区間を迂回する形で、県道27号線(芦北球磨線)を走り、国道3号線に出る。ここを右折してそのまま走れば新八代のニッポンレンタカーに戻れるのだが、まだ少し時間があるので、海べりのルートを少し走ることにする。芦北海浜総合公園の看板も見える。

途中、佐敷港を通る。かつては天草との間にフェリーが出ていたという。天草は島とはいえ、三角ルートで九州本土と直接結ばれているし、天草、そして鹿児島県の長島と連なって内海である不知火海を形成する。

その一角のスポットである野坂の浦を通る。奈良時代の皇族・官吏の長田王(ながたのおおきみ)が、八代の球磨川河口にある水島に遣わされた際(かつての景行天皇に関係するスポット)、ここ芦北から出航するに当たり「芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」と航海の安全を願う歌を詠んだとされる。その野坂の浦とされるのがこの地だという。

遣唐使のように外海に出るわけではなく、天草を目の前にした景色は瀬戸内海とも似ているように思うが、航海の安全を願うのはどのような海でも同じだろう。

そのまま海岸沿いに走り、芦北海浜総合公園に着く。来た時は、その辺にクルマを少し停めて海べりの景色を眺めてそのまま移動する・・というところだが、さすがに有名スポットのようで、その辺にクルマを停めて・・という様子でもなく、また駐車場も軒並み有料である。同じ料金を払うのなら、公園直営の駐車場が安心である。

その海浜公園は家族やグループで1日楽しむところで、海の景色を見るためにちょっとだけ立ち寄る・・というところでもないようだ。その中で、さすがに9月中旬となれば海水浴を楽しむ人はごく少ないが(それでもこの気温だと、海水に浸かっていても不思議ではない)、鶴ヶ浜海水浴場から眺める島々の景色を楽しむ。一勝地、球泉洞からそのまま国道219号線で直接八代に行けなかった分、こうした海の景色を見ることができたのは思わぬ喜びである。

この後、国道3号線に合流する。途中、肥薩おれんじ鉄道の線路と並走する区間もある。残念ながら列車と遭遇することはなかったが、次はぜひ八代~川内までをのんびり列車に揺られてみたいものだ・・。

そのまま八代市街に入り、前日宿泊したホテル近くのところを抜け、新八代駅に到着。無事、レンタカーの返却時間にも乗車予定の新幹線にも間に合った。

少し早いが、新八代からは17時08分発の「つばめ328号」に乗車。宮崎からの「B&Sみやざき号」で乗り継いだ客もそれなりにあり、新八代発車時は指定席もまだ空席があったが、次の熊本でほぼ満席となった。

この後も各駅に停まる中、筑後船小屋発車直後のタマスタ筑後には照明塔に灯りがともっていた。ちょうどウエスタンリーグのホークス対タイガース戦の試合開始直前だった。2軍の試合でナイターというのもなかなかないと思うが、設備が充実していて、ある意味プロ野球球団のホームタウンの一つである球場ならではのことだろう。ここはぜひ、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりと組み合わせたスポットとしなければ・・。

新鳥栖から博多にかけて、ちょうど日が暮れるところ。今は晴れているがこの日の九州北部はところにより豪雨となり、列車の遅れや運休もあったという。

博多到着後、18時53分発「こだま776号」に乗り継ぐ。帰りの「バリ得こだま」プランである・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~球泉洞をめぐり、海側への迂回ルートをたどる

2024年09月30日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの復路は、球磨川沿いの国道219号線を走り、先ほど「一勝地温泉かわせみ」に入浴した。その後、もう少し足を延ばしてみるとして、これも初めての訪問となる球泉洞に向かう。あ、駅ではなく鍾乳洞のほう。

一勝地を出て、引き続き国道219号線、球磨川、肥薩線、そして線路と並走する県道の眺めである。2020年の豪雨災害では球泉洞の駅や周辺の家屋も被災し、亡くなった方もいるとのこと。今は駅舎も解体されたそうだ。

ショートカットするトンネルを出たところに球泉洞の見学スポットがある。結構多くのクルマが停まっており、観光スポットとしては賑わいを取り戻しているように見える。ここ球泉洞も豪雨災害の時には周辺で土石流が発生したため、1年9ヶ月にわたり閉鎖されたそうだ。

球泉洞が「発見」されたのは1973年のことという。コウモリの巣があるとして知られていた山の中腹の穴を愛媛大学の調査隊が下ったところ、地下に鍾乳洞を発見した。全長約5000メートル、少なくとも3億年の歴史を持つという。現在、その一部を観光用に整備し、30分ほどで見学できるとのことで入ってみる。またこの他、1日数回、長靴、ヘルメット着用の「探検コース」というのもある。

地学のことはよくわからないが、鍾乳洞といえば一年を通して内部の温度が一定しており、特に今の時季なら涼しさを感じられるという期待はあった。この日の外の気温は相変わらず30度を超えていたが、洞内の温度は約半分の16度。

この後、鉄パイプやコンクリートで造られた通路をたどり、次々にスポットを見て回る(こんなところにも恋人の聖地?)。子ども連れでも安心で、子どもも珍しい石の数々や、ところどころで垂れ落ちる水に喜んでいる。

洞内は16度とはいえ、そこを歩き回るとちょっと暑く感じるのはなぜだろう。

さすがに諸説ある日本三大鍾乳洞の候補には挙がらないようではあるが、九州では最大級の鍾乳洞である。また球磨川の自然と合わせて楽しむことができる。今もこうして開業はしているが、国道219号線、そして肥薩線の全線復旧でようやく観光客を呼び込めるのかもしれない。その日が来るのを願うばかりだ。

鍾乳洞を出た後、物産コーナーでオリジナルのサイダーをいただき、熊本みやげをいくつか買い求める。

さて球泉洞まで来たわけだが、この先国道219号線は通行止めである。当初は、ここで折り返して人吉に戻り、九州自動車道で八代に戻るのかと思っていたが、カーナビだとこの先、県道芦北球磨線で海側の芦北に抜けるルートが表示された。八代からはかなり遠回りになるが、途中特に難所があるわけでもなく、芦北には南九州自動車道のインターもある。ならば無理に球磨川沿いの難所を国道で通すのもどうかという意見が挙がりそうだ・・(肥薩線ともども)。

橋脚の工事現場に出会ったので、少し先で停車してその景色を眺める。流失した大瀬橋の架設工事とのことで、ちょうどこの日(9月16日)、組み立てが終わった橋梁を油圧ジャッキを使って10分間でおよそ1メートルずつ川岸から送り出す工事が行われたばかりだという。一般の見学客の受け入れもあり、夕方の地元テレビ局のニュースでも取り上げられたそうだ。

一般車両は大瀬橋の少し先の神瀬橋を渡るよう案内標識があり、芦北方面に向かう。元々、熊本県南部どうしを結ぶルートだったようで、特に狭い区間があるわけでもなく、クルマの流れに沿って順調に走る。片方が崖で片方が急流で・・という景色からの変なプレッシャーもなく、スイスイ進む。途中、「道の駅 大野温泉」というのに一瞬惹かれたが、先ほど温泉には入ったし、この先の到着時刻を考えてさすがに湯ったりはできないなと、そのまま通過した。後で知ったが、この道の駅はは知る人ぞ知るスポットで温泉も有名。こういうクルマの旅ならちょこっと立ち寄ってみればよかったのかな・・。

九州新幹線の高架をくぐり、南九州道の芦北インターに着く。カーナビは南九州道に乗るよう案内するが、一方、芦北の海までもそう遠くない。ここは一つ不知火の海を見て、そこから八代に向かうことはできないか。無理やり、カーナビを無視して行けるところまで行ってみる・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~肥薩線不通区間と一勝地温泉

2024年09月29日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

人吉での八十八ヶ所百八霊場めぐりを終え、新八代に戻ることにする。往路は八代~人吉間が無料措置の九州自動車道を利用したが、復路は国道219号線を行くことにする。もっとも、2020年の豪雨で寸断されており、行けるところまで行こうというもの。

先ほど人吉駅で肥薩線の縁起のよい名前である一勝地駅の入場券を買ったが、その一勝地までは行けそうだ。またそこから少し奥に入ったところにある「一勝地温泉かわせみ」が営業再開ということで、クルマの機動性を活かして訪ねることにする。

青井阿蘇神社、高野寺の前を過ぎ、国道219号線に入る。標識は熊本、八代と出ているが、この先一般車両が行けるのは大野大橋までという。

相良三十三観音の札所への案内板を見る中、「急流と鍾乳洞の里 球磨村」の看板が現れ、球磨村に入る。ちょうど左手に肥薩線の線路があり、また工事車両も出入りし、ダンプカーともすれ違う。道路のほうも橋の架け替えなどの工事が続く。

国道沿いに渡駅が見えたので、いったんクルマを停める。2020年の豪雨では構内の路盤が流出したとのこと。ネット画像によると木造の駅舎が存在したが、豪雨災害のため解体され、今はホームも放置状態である。「震災遺構」を見ているかのようだ。駅名標が残されているのは、将来的に復旧させるという意思表示のように見えるが、何とも痛々しい。

駅前には代行輸送となるタクシーの案内がある。平日の朝、夕方のみ運行で、人吉~渡~一勝地、そして八代~坂本~葉木間のみである。国道219号線の不通区間とも重なるが、地元の人たち向けの代行輸送でもこのくらいでカバーできるのだろう。今は新八代~人吉~宮崎間は「B&Sみやざき号」が頻発しており、かつて肥薩線(元々は鹿児島本線の一部だった)が担っていた九州都市間輸送の役目は終わっている。全線復旧についてなかなか進まないのも致し方ないだろう。

この先、球磨川に沿って下る。人吉からは川下りやラフティングが出ており、渓谷の景色としてはよいのだが、2020年豪雨では川沿いの各地で大きな被害が出ている。水の力というのも時には恐ろしいものになる。

球磨橋を渡り、まずは一勝地駅に向かう。この「一勝地」という駅名、地名だが、元々は「一升内」と呼ばれていたそうだ。一枚の田んぼから一升の米しか収穫できないくらい小さな田んぼが集まっていることからついたとされ、現在も棚田景色が残るところだが、明治以降やはりイメージが悪いとして、球磨川で一番優れた景勝地という意味を込めて「一勝地」に改めたという。

駅舎は大正時代に建てられたもので、かつて駅務室だったスペースは観光案内所兼売店として使われており、またJAの建物も隣接する。肥薩線には昔ながらの木造駅舎がいくつも残り、登録有形文化財となっている建物もある。一勝地もその一つである。

ホームの一角には、2020年の豪雨災害の様子を撮影した写真・映像や、一勝地を訪ねた人たちの乗車券などが展示されている。かつて水害に遭い、周辺の家屋では2~4メートルほどかさ上げをしたそうだが、2020年の豪雨ではそれでも浸水したという。ただ、駅そのものは幸い大きな被害はなかったという。

さて、目的地の一勝地温泉である。駅前の道を行き、肥薩線のガードをくぐって坂道を上るのが正規のルートだが、駅前から見るに工事のため通行止めとある。一方、先ほどからホームの向こうを車両が行き来しており、こちらに迂回するようだが、ただ、そこに行く道があったかな・・。

一勝地駅を後にして、いったん川沿いをさかのぼる形で走る。途中、工事車両の出入口の表示が出るが、ここを入るのか・・入っていいのか? どうしたものかしばらく停車していると、警備の人が「温泉? ならここから入ってください」と誘導する。

そのまま走ると、路肩に鉄道の信号機があり、そして先ほどの一勝地駅の裏手に出る。これは本来肥薩線の線路だったところを舗装して復旧工事の車両が出入りできるようにしたところの一つのようだ。そういえば、肥薩線の一部でこうした措置を取っているところが何ヶ所かあるという記事を目にしたことがある。いずれ鉄道として復旧する際にはまた舗装をはがして線路を敷き直すということだが、東日本大震災での大船渡線、気仙沼線や、豪雨災害での日田彦山線のように、そのままBRTに移行した事例もある。さて将来はどうするのか。

一勝地駅の側線にあった車庫?もくぐり、不思議な感覚のまま一勝地駅を通過。この区間は車両の通行に合わせて片側交互通行である。

これで本来の道に入り、そのまま坂道、集落の中を走って到着したのが「一勝地温泉かわせみ」。豪雨災害やコロナ禍の影響でレストランや宿泊施設の営業を中止していたが、昨年リニューアルオープンしたという。

まずは入浴である。アルカリ性単純温泉で、美肌の湯として好評とのこと。内湯のほか、周囲の山々を望む露天風呂もある。夜は満天の星空を楽しむこともできるそうだ。こういうところで1泊というのもよいだろう。

入浴後、しばらく休憩スペースにてくつろぐ。

さてこれで一勝地まで来たが、この先にはもう一つ有名なスポットである球泉洞がある。肥薩線で駅は通ったことはあるが、球泉洞そのものはまだ見たことがない。まだ少し時間が取れそうなのでもう少し国道219号線を下ることにしよう。再び、一勝地駅構内の工事用道路を通過し、球磨川沿いに・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第50番「願成寺」(相良家菩提寺へ)

2024年09月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは人吉市内を回る。最後は人吉駅の東にある願成寺に向かう。地図を見ればすぐに着きそうに思うが、カーナビは遠回りのルートを誘導する。ナビが言うことだから何か根拠があると思うのだが、そのナビに従ったがために痛い目にあったことがあり、運転は慎重に。

そのため、くま川鉄道の線路をアンダーパスでくぐったかと思えば、踏切を渡ることになる。くま川鉄道は人吉温泉~肥後西村間が2020年の豪雨災害のため運休が続いているが、2025年に全線復旧の見込みである。その後押しとなったのが、新たな上下分離方式での経営とのこと。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、次回は今回いったんパスした鹿児島の北薩地区、そしてその次にこの先の多良木、湯前を訪ねる予定である。その時にはまだ全線復旧前ではあるが、くま川鉄道に乗る時間も作りたいところだ。

そして願成寺に到着。カーナビも近くまで来て案内を終了し、寺らしき建物が見えないなと思うと、その前のこども園が寺経営のようで、境内の一部だった。

願成寺が開かれたのは鎌倉時代、相良長頼による。相良氏は元々遠江の荘園領主で平氏方についており、平氏滅亡の時に領地を没収されたが、鎌倉時代に地頭として多良木、人吉の地に下向し、長頼はその初代である。それ以後、南北朝や戦国の戦いを経て、江戸時代には人吉藩、そして現在まで800年続く名家である。

願成寺は人吉城から見て北東、いわば鬼門の方向に位置している。現在地に本堂が建てられたのは戦国時代の相良義陽の頃だという。本尊は阿弥陀如来。

本堂に上がると、中では住職らしき方と、たまたま参詣に訪れたらしい年配の女性二人づれがお話し中。この時世における仏教や寺、僧侶の役割とは、というようなことを熱く語っている。

その中に入った状態で、その熱さに圧倒される形でお参りもそこそこに、話しながら押印いただいた朱印帳を手に本堂を後にする。

本堂の背後には、歴代の相良氏当主の墓地もある。多くの宝塔が並ぶ歴史的スポットだというが、結局初代の相良長頼の墓石だけ見て引き返す。

何だろう、この日訪ねた九州八十八ヶ所百八霊場の札所の中でもっとも有名といえる寺院に来たにも関わらず、あっさりと引き上げた感じは。この日4ヶ所目ということがあったのと、実は近くまで来た時に狭い道に誘導され、それにしては寺がないなということで、いったん共同墓地の駐車場にレンタカーを停め、その辺を歩いて回った。結局、寺の前の人吉こども園を目印にすればよかったということになった。

さて時間はちょうど昼過ぎ。当初予定したよりも早い時間で人吉の4ヶ所を回ることができた。新八代でのレンタカー返却まで時間はたっぷりあるので、もう少し人吉を回ろうかと思う。

願成寺のすぐ南でくま川鉄道の踏切を渡り、球磨川沿いに出る。今度は肥薩線の踏切を渡るのだが、その景色を見て唖然とした。クルマを脇道に停めて外に出る。

こちらは人吉~大畑間の線路だが、球磨川を渡る鉄橋は無事のように見えるが、その手前には線路がない。先ほど踏切を渡った・・つもりだったが、改めて見ると踏切には線路はなく舗装されていたし、遮断機もなかった。

豪雨災害があったのは2020年、4年前のことである。いくら現在の日本各地で月ごとの輪番制のように自然災害に遭っているとはいえ、鉄道がこれだけ長期間運休、そして代替輸送もないというのは・・。肥薩線の中でも人吉~吉松間については、元々利用客が少なかったこともあり(観光列車の需要はあったが)、いつ頃を目途に復旧させるということすら決まってないようである。

このまま球磨川沿いに走り、人吉城跡に向かう。こちらも豪雨からの復旧工事中のようで、歴史館も休館中。駐車場も工事関係者用のようで、結局降りることなくそのまま走り抜ける。

近くには人吉温泉の元湯がある。人吉は温泉町としても知られており、昔の九州旅行時に元湯に入ったこともある。久しぶりに入浴しようかと思ったが・・・「清掃中」の札が立つ。ちょうど午前と午後の営業時間の間だったようだ。

まあ、人吉をどう回るかについて事前に綿密に計画していたわけではなく、今回は久しぶりにこの地を訪ねることができ、また2020年の豪雨からの復旧復興の様子(被災当時からそのままというのも含めて)を見ることができたことでためになったと思う。

ならばというわけではないが、今度は球磨川の流れに沿って下ってみよう。こちら側の肥薩線の様子がどのようなものか見ておくのもいいだろう・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第53番「観蓮寺」(相良三十三観音)

2024年09月27日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、青井阿蘇神社、そして高野寺を後にして、人吉駅の北西の村山公園にある第53番・観蓮寺に向かう。途中、肥薩線の踏切を渡るが、遮断機は折れて線路も草生している。2020年の九州豪雨以降、4年以上列車が走っていないわけだが、こうした踏切でも一旦停止は義務なのかと思う。

狭い道幅の上り坂を抜け、人吉市立第二中学校の前に出る。その先に墓地が並び、「南無観世音菩薩」の大きな幟が立つ。どうやら到着したようだ。ただ、山門の先に駐車スペースがあるものの、その手前にもお堂に続く参道があり、どこからどう回ったものか。

そこへ、法事帰りか単車に乗った僧侶がやって来た。「八十八ヶ所?」と声をかけられ、駐車した境内にあるのが本堂だが、札所めぐりなら手前の参道を上がった先のお堂に向かうよう案内される。その間に朱印帳を預かってくれるという。

改めて参道に出る。両脇には南無観世音菩薩の幟、そして西国か四国の本尊だろうか石仏がずらりと並ぶ。篤い観音信仰を集めているようだ。

そしてお堂に着く。九州八十八ヶ所第53番のほか、相良観音三十三ヶ所第9番「村山観音」の札が掲げられている。

観蓮寺が開かれたのは源平の戦いの頃。平重盛の菩提を弔うために開かれたという。先ほど訪ねた高寺院もそうだが、やはりこの一帯は平氏の影響が残るところである。戦国時代の兵乱で堂宇も焼失したが、江戸時代に再興された。

お堂の中に入ると、平安時代作と伝わる千手十一面観音が祀られている。仰ぎ見る形でのお勤めとする。

この「相良三十三観音」というのは江戸時代、相良藩の家老により成立したとされる。現在の人吉市を中心とした球磨地区をめぐるもので、ここ観蓮寺のように常時開帳している札所もあれば、春と秋の彼岸時期限定で開帳するところもある。この先の道路でも相良三十三観音の番号の案内板も見られ、地元では結構名高いのかなと思う。歩くとそれなりに時間がかかりそうだが・・。

淡島神社を挟み、大師堂がある。弘法大師像を中心として、九州八十八ヶ所百八霊場の納経軸も奉納されている。

本堂に戻ったところで、中にいた僧侶から朱印帳をいただく。平重盛、相良氏と、この辺りの歴史の深さを感じさせるエリアである。

これで残るのは第50番・願成寺。広い坂道を下り、今度は人吉駅の東側へ・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第99番「高野寺」(青井阿蘇神社と2020年豪雨災害)

2024年09月25日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

人吉駅からほど近い青井阿蘇神社に向かう。人吉の国宝が集まる有名スポットである。境内の駐車場にレンタカーを置いたが、改めて外に出て、赤い禊橋を渡って参拝とする。

青井阿蘇神社が開かれたのは平安遷都から間もない頃で、1200年の歴史を持つ。阿蘇神社から阿蘇三社の分霊を祀ったのが始まりとされ、後に相良氏の氏神として篤い信仰を受けた。地元では「青井さん」として親しまれている。

楼門をくぐる。この楼門から拝殿、幣殿、廊、そして本殿は江戸時代初期に造営されたもので、独特の茅葺屋根でできている。ただこれらの社殿も、2020年の豪雨災害では浸水の被害に遭った。先ほど渡った赤い禊橋も濁流で欄干が損壊し、その後修復、再建された印がある。やはり歴史ある神社ということで、多くの支援があったそうだ。

まずは拝殿にて手を合わせる。そして、一連の建物群を見る。これら社殿群は2008年に国宝に指定された。

そんな中、新しい木造の建物がある。「青井の杜国宝記念館」という。現在の社殿群の国宝指定10周年記念事業として計画された建物である。設計に携わったのは隈研吾氏で、球磨と同じ音の苗字だから依頼したわけではないだろうが、人吉やその周辺の豊かな木材がある中、木造建築の第一人者に依頼したのはうなずける。

そして設計図が出来上がり、着工しようとしたところで2020年の豪雨災害である。そこで収蔵室を2階に上げるなど設計を見直した。社殿の修復と合わせてさまざまな支援があり、泥水をかぶった刀剣類の修復にはクラウドファンディングも実施されたという。こうした支援の末、国宝記念館は2023年に完成した。

建物は参集殿と社務所、記念館が一体となっており、社務所で声をかけると扉を開けてくれる。木の香りが漂うように感じる。1階には球磨地方や特産品の紹介、そして青井神社の例大祭で使われる神輿等が展示されている。

そして2階へ。青井阿蘇神社の歴史に関する展示が並ぶ。

そして奥の展示室である。かつての神仏習合の歴史を伝える掛け仏もある。

そして、御神刀、奉納刀の展示。泥水から救済した刀剣は77本で、中には1000年の歴史があるものも含まれていたが、錆がついて修復を必要とした。これらの刀剣を今後1000年先まで大切に伝えていこうと、クラウドファンディングを実施したところ、全国からの支援で早々に目標額に達したそうだ。よみがえった刀の鞘には、クラウドファンディングに協力された人たちの名前が並ぶ。

その中央に一振りの大太刀が展示されている。紹介には「ドリフターズ 島津中務少輔豊久 大太刀(令和御神刀)」とある。

おお、ドリフターズ、島津豊久!!

漫画「ドリフターズ」は、島津豊久、織田信長、那須与一などといった歴史上の人物が「漂流者(ドリフターズ)」としてある世界で活躍する作品である。私はこの九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの中、鹿児島の伊集院で「ドリフターズ」のパネルに出会い、ネットであらすじを見て面白そうに思い、その後(古本ながら)全巻買い求めた。結構、面白いぞ。

その主人公である島津豊久が人吉に伝わる兵法「タイ捨流」の使い手という縁もあり、「ドリフターズ」の作者・平野耕太氏や出版社も支援に乗り出した。そして、錆がひどく修復が難しい刀剣をベースにして、新たな玉鋼を加え、島津豊久のイメージに合った新たな大太刀として生まれ変わったものである。

もっとも、すべての刀剣の修復には10年ほどかかるとのことで、現在は修復を終えたものを順次入れ替えながら展示しているという。それはそれで、また人吉に来た時には鑑賞したいものである。

境内の隅に、土俵入りをする力士の石像がある。江戸相撲の熊ヶ嶽猪之介とある。五木村の出身で、江戸相撲では大関を張った力士である。

さて、青井阿蘇神社を参拝した後で、本題の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの高野寺である。先ほどの禊橋とは道を挟んでほぼ斜め向かいといっていいくらいの近さである。高野寺を地図で検索した際、青井阿蘇神社とあまりに近いので、神宮寺の歴史でもあるのかなと思ったくらいである。

そして境内に入る。入ったすぐの左手には四国八十八ヶ所のミニ霊場が広がる。

こちら高野寺だが、別に青井阿蘇神社とのつながりはないようで、開かれたのは大正末期。弘法大師を本尊として、出世不動、愛染明王を祀る。

正面の本堂は八角形で、まだ新しい感じである。正面扉が開いており、そのまま入ってお勤めとする。朱印はセルフ式で、九州八十八ヶ所百八霊場としては弘法大師だが、九州三十六不動尊の札所の一つでもある。

・・・ただ、ここ高野寺も2020年の九州豪雨で大きな被害を受けたとある。本堂の一角には当時の写真も掲示されている。球磨川が氾濫し、この辺りも地面から4.5メートルの高さまで水に浸かり、本堂、本尊、その他寺の境内も大変なことになったそうだ。高野寺のホームページにも当時の写真が掲載されており、隣接する建物の2階部分まで浸水した様子がうかがえる。

また、他の記事では境内の集会所で住職の奥様が開いていたピアノ教室のピアノも水害に遭ったり、そんな中でも寺の再建、また地域の人たちの心の支えとしてのさまざまな活動について紹介されている。この日は再建なった本堂で手を合わせただけだが、地域全体で見ればまだまだ支援が必要であることがうかがえた。

・・・そして、この一連の記事を書いている間にも、能登半島では先の集中豪雨により大きな被害を受けた。元日の地震からようやく復興しようか、春日大社の宮司も祈っているというのに、ある意味地震よりもダメージが大きい豪雨被害である。いくらこのところ激甚化する自然災害が「輪番制」のようにどこかの地域に被害を及ぼすとはいえ、年に2回もこうした被害に遭ってしまうとは何と意地悪かと思う・・。

ここは祈るしかないのかな・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~列車が来なくなった人吉駅へ

2024年09月24日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの人吉シリーズ。この日、レンタカーで新八代を出発し、九州自動車道の無料特例で人吉に到着。手前の山江村にある第52番・高寺院に参詣した後、人吉市街に入った。

市内3ヶ所をどう回るかは後で考えるとして、まずやって来たのは人吉駅。肥薩線の中心駅で、第三セクターのくま川鉄道もここから発車する。2020年の九州豪雨で両鉄道は大きな被害を受け長期運休となった。このうち、くま川鉄道は現在肥後西村~湯前間が運転再開、代替バスが走る人吉温泉~肥後西村間も2025年度中の復旧、全線運転再開を目指すというが、肥薩線についてはまったく目途が立っていない。ただその中でも、鉄道による復旧を目指すとしているそうだが・・。

列車が来なくなって4年以上になる。それでも駅舎は観光の玄関口として、観光案内所もあれば駅の窓口も開いている。私が訪ねた時は、有人窓口にて新八代から新幹線で関西方面に向かうきっぷを買い求める客がいた。往復、それもグループ利用のようで、購入額は総額で10数万円。これが人吉駅の売り上げにどのように反映されるかはわからないが、新八代までは「B&Sみやざき号」、あるいはクルマで出るとしても、やはり鉄道駅としての機能は残しておきたいところだ。

待合室では肥薩線の写真展が開かれている。八代~人吉の「川線」、人吉~吉松の「山線」。私もかなり前に乗ったきりだが、いずれの車窓も見どころが多い。「SL人吉」や「いさぶろう・しんぺい」、「かわせみ・やませみ」といった観光列車も走っていたが、これらの列車は働き場所を失い、あるものは廃止、あるものは他線区での出稼ぎの日々である。

窓口で、肥薩線の一勝地駅、真幸駅という縁起の良い名前の駅の入場券を売っていたので、せめてもの支援として買い求める。

その人吉駅に隣接して、「人吉鉄道ミュージアム MOZOCA(もぞか)ステーション868」というのがある。その建物からは、人吉駅構内の石造りの人吉機関庫が見える。

中はといえば・・・いかにも子どもウケを狙った造りには見える。ちょうどミニ列車が発車するところで、子ども連れ何組かで出発進行!

この「MOZOCA(もぞか)」とは、この辺りの言葉で「かわいい」の意味だという。そして「868」という数字だが、現在運休中の八代~人吉~吉松の営業キロが86.8キロということから来ているのだろう・・。あちこちにある「M」のマークが真ん中でぐるり回っているのは、大畑ループをイメージしたものだろう。

全体としてはお子様向けの施設かと思うが、一角では肥薩線に関するものの紹介や、鉄道書籍も並ぶ。国鉄~JRへの移行の中で廃止となった路線も多く、かつての「鹿児島本線」であった肥薩線も存続の危機に立たされているというのも厳しい話である。このところ、利用客の減少に加えて自然災害の影響を理由として廃止となる鉄道が増えているが、この先、肥薩線もその運命をたどることになるのだろうなと思う。この後、そのことをより実感することになるのだが、それはまた別の記事で・・。

人吉に来たなら、2020年の九州豪雨で大きな被害を受けた青井阿蘇神社も気になる。そして、青井阿蘇神社のすぐ向かいに、九州八十八ヶ所百八霊場の第99番・高野寺がある。ならばということで次はこちらを訪ねることにする・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第52番「高寺院」(山江村の毘沙門天)

2024年09月23日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

9月16日、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは人吉シリーズである。まずは前日宿泊の八代から1駅、新八代に移動する。駅前のニッポンレンタカーに向かい、この日の移動手段である軽自動車の手続き。

さて新八代から人吉だが、高速道なら九州自動車道、そして一般道なら国道219号線で向かうのが一般的である。国道219号線は球磨川、そしてJR肥薩線と並走しているのだが、2020年の豪雨被害のため、今でも国道は寸断されており、肥薩線も八代~人吉~吉松間が運休となっている。ここは九州自動車道で向かうことになる。

ETCを挿入し、八代インターから九州自動車道に入る。このルート、これまでにも都城、宮崎への「B&Sみやざき号」で利用したことがあり、かつて肥薩線が担っていた宮崎方面へのアクセスも、高速バスを含めてこの道路に移っているのが実態である。

九州自動車道は球磨川より東のルートだが、いずれにしても険しい山の中をトンネルで切り開くところ。鉄道ではなく道路だから通せたルートといえるが、宮崎県が希望しているという「東九州新幹線」についても、大分回り、鹿児島回りに次いで新八代ルートという候補もあるそうだ。

全長6340メートルの肥後トンネルを抜ける。九州では最も長いトンネルである。同じ熊本県内どうしだが、難工事だっただろうと思う。

八代を出て、次のインターが人吉である。その手前にある山江サービスエリアに立ち寄る。人吉市に隣接する山江村に位置しており、栗の名産だという。その昔、米ではなく栗で年貢を納めていたとある。こちらに、九州自動車道4車線化完成の記念碑が建つ。運転するうえで、高速道路の4車線化は必須であり、ありがたいことだ。

人吉インターに到着。ETCのゲートをくぐると、料金表示は「0円」だった。NEXCOによると、2020年の九州豪雨で国道219号線が通行止めになったことにともない、生活支援、復興支援として八代~人吉間の利用に限り無料の措置が取られているとのこと。

さて、人吉には4つの札所がある。そのうち、第52番・高寺院が山江村で少し離れているので、まずはそちらに向かい、その後、市内の3つを回ることにする。新幹線の都合で17時には新八代に戻る予定だが、どう回るかはその時の状況により考えることにする。

少し離れているといっても人吉インターからは3キロあまり、人吉の中心部からも4キロほどである。しばらく県道を走り、山江村の役場を抜けたその先に、一見民家風の高寺院がある。駐車場がないようなので、坂の手前の空き地に停めさせてもらう。

ここ球磨地方はもともと平氏一門が荘園を有していたところで、源平の戦いで平氏が敗れた後も、落人の伝説が残る一帯である。ここ高寺院も平氏滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が重盛の菩提を弔うとして、重盛の念持仏だった毘沙門天を胎内に納めた毘沙門天像を祀ったのが始まりとされる。一説には室町時代に快親という僧により開かれたともされるが、いずれにしても長い歴史を持つ寺院である。現在の本堂は民家風なのは、元々庫裡だった建物のようだ。

本尊の毘沙門天は本堂の先にある収蔵庫にて祀られている。

その先にもう一つお堂というか、祠がある。その奥には石柱があり何か祀られているが、手前には数々の書物が並べられている。並んでいるのは教養書もあれば漫画もあり・・古本屋にいるかのようだが、こうしたお堂が開放されているのは寺としても何らか意味があるのだろう。

さて、ここに看板があり、本尊毘沙門天はそもそもこの上にある奥の院・毘沙門堂に祀られていたという。375段の石段の先にあるといい、本尊そのものは手前の収蔵庫にて祀られているとはいえ、ここは目の前の石段を上がるべきだろう・・。

一部には手すりもあるが、基本的には昔ながらの石段である。参道の両側には西国三十三所の本尊らしい石仏も並ぶ。やはり、もともと本堂はこの先にあったのが、石段を上るのがしんどいのか、いつしか石段の下の本堂、収蔵庫に移ったということのようだ。

石段の数が合っていたかはさておき、いったん上りきった後は苔も生える山道を進み、最後の毘沙門堂に到達する。本尊の毘沙門天を含む諸仏は下に移っており、お堂の中はがらんとしているが一応手を合わせる。

道がこの先まで続いているようなので行ってみると、先ほど通った九州自動車道を跨ぐ橋に出た(画像は、北側にある山江サービスエリアの方を向いたところ)。もっとも橋を渡った先に何かあるわけでもないようで、ここで引き返す。

本堂の玄関でインターフォンを鳴らし、朱印を求める。「どうぞ中でお参りください」と、横の縁側に回るよう案内される。本堂内の本尊や内陣を横から見る位置から手を合わせる形である。

せっかく来たのでこの山江村でもう少し滞在してよかったのかもしれないが、高寺院で折り返しとして人吉に戻る。市内3ヶ所をどういう順番で回ろうか考えてみるのだが、ひとまずはスポットである人吉駅に向かうことにする・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~八代で一泊

2024年09月22日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、八代にある第54番・医王寺を訪ねた後、すぐ隣にあるホテルルートイン八代にチェックイン。

ルートインといえば大浴場。ラジウム温泉「旅人の湯」に入り、まずは急行「ひのくに」乗車後の疲れをいやす。ちょうどこの日は大相撲秋場所の中日で、入浴後はテレビで土俵の熱戦を見る。今場所の成績に大関昇進をかける大の里がストレートでの勝ち越しを決めた。

この記事を書いている後日談として、大の里は14日目の取組に勝って2回目の優勝を決め、大関昇進を確実にした。一方、大関復帰を狙ったものの首の故障で休場の貴景勝が引退を発表。今場所は一つの節目となる場所となった。

さて八代での一献。ホテルの周辺は繁華街のようで飲食店もいろいろあるが、この日は日曜日ということで休みの店も多いようだ。

そんな中、予約しておいたのが「美食酒家ゆめぜん」。この店だが、ホテルウィングインターナショナル八代の1階にある。ならば宿泊もここにすれば早い話で、一時は検討したのだが、結局宿泊はルートイン、一献はウィングということになった。

まずはビールで乾杯。

そして熊本ということで馬刺しの盛り合わせ。霜降り、たてがみといった部位も味わう。

続いては店員さんおすすめのサーモンのマリネ。何でも八代では陸上養殖の「桃太郎サーモン」を新たな名物として、まずは地元のスーパーや一部飲食店で提供しているとのこと。

他の八代産のおすすめは、きくらげの刺身。きくらげといえば中華料理の木耳肉や、豚骨ラーメンの具材のイメージだが、こういう食べ方もあるのか。プリプリ、コリコリである。

しかるべく飲み食いした後、ホテルに戻る。再び入浴し、その後は部屋でのんびりと・・・。

さて翌朝。

この日の行程だが、新八代駅にてレンタカーを借り、人吉を目指す。人吉近郊には九州八十八ヶ所百八霊場の札所が4つあり、その先の多良木、湯前にも2ヶ所あるが、今回は人吉の4ヶ所を回れば十分である。2020年の九州豪雨で肥薩線が長期運休となる中、その様子を見ることもできるかと思う。

朝食後、時間があるのでしばらく周辺を散策する。近くには八代城跡がある。

八代城はもともと南北朝~戦国時代に現在より東の山麓に名和氏、相良氏の城であったが、後に勢力を拡大した島津氏の城となった。豊臣秀吉の九州攻めの後、小西行長が肥後南部に入り、球磨川の三角州に麦島城を築いた。関ヶ原の戦いの後は熊本の加藤氏の支城として、一国一城令でも肥後は例外的に熊本、八代の二城体制が認められた。

その後、大地震により麦島城が倒壊、新たに球磨川の北岸に現在の八代城が築かれた。これも例外的に認められたのだが、南の島津氏や、対岸の天草のキリシタンの抑えのためとされている。加藤氏の改易後、肥後には細川氏が入り、八代城は筆頭家老の松井氏が代々城主を務めた。

そして明治維新の時に廃城となり、その後に勧請されたのが八代宮。後醍醐天皇の皇子で、南朝の征西大将軍として肥後を拠点として活躍した懐良親王を祭神とする。後醍醐天皇の皇子たちは傑物揃いというが、中でも懐良親王は武闘派の一人で、自らの手で一時は九州を統一しようかというくらいだった。

明治維新後、南朝の功労者を祀る神社を創建しようという動きが高まり、「建武中興十五社」というのが結成された。吉野神宮(後醍醐天皇)、湊川神社(楠木正成)、阿倍野神社(北畠親房、北畠顕家)などある中、九州ではここ八代宮と菊池神社が含まれている。

こちらで手を合わせた後、向かったのは松浜軒。江戸時代の肥後藩の筆頭家老で八代城主だった松井氏の邸宅、庭園である。開園時間前ということで門の前まで行く。この松浜軒だが、内田百閒の「阿房列車」シリーズで、百閒お気に入りの旅館として何度も登場する。阿房列車で九州を訪ねるごとに、通り道の時もあるが、時にはわざわざ八代に足を延ばして泊まりに出かけるくらいであった。

かつての殿様の邸宅、庭園だったのが旅館として営業していた・・というのは松浜軒にとっては以前は黒歴史とされていたようで、以前訪ねた時も阿房列車や内田百閒について触れたものはなかったように思う。

城跡をぐるり回った後、ホテルに戻り改めてチェックアウト。コミュニティバスで八代駅に出る。

熊本行きの列車で一駅、新八代に向かう・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第54番「医王寺」(八代城主の祈願寺)

2024年09月20日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

9月15日、リバイバル急行「ひのくに」の終点、そして現在の鹿児島線の北側の終点(八代~川内間は肥薩おれんじ鉄道)である八代に到着。ここから肥薩おれんじ鉄道の普通列車に乗っても夕方には川内に着くことができ、九州一周の前回の続きにもつながる。

また改札の外では、これから上りの「ひのくに」に乗るらしい客の姿も目立つ。中には往復乗車という猛者もいることだろう。

八代は鹿児島線、肥薩おれんじ鉄道、そして現在も運休が続く肥薩線のジャンクションで、周辺の九州新幹線の新八代駅、九州自動車道・南九州自動車道の分岐も含めると、九州南部への交通の要衝である。もっとも、かつての八代城を中心とした市の中心部からは若干離れており、駅のすぐ横には日本製紙の八代工場が広がる。

さて今回だが、九州一周の続きとして北薩地区の札所を回るところ、リバイバル急行「ひのくに」で来たことだし、せっかくなので八代で1泊としよう。ちょうど札所もあるので、先に南九州への要衝である八代を押さえることにもなる。

駅前から市内循環のコミュニティバスに乗る。以前八代に来た時、八代城周辺エリアまで行ったことがあるが、その時は駅から20分ほど歩いて結構遠かった記憶がある。その時にコミュニティバスがあったかどうかはわからないが、メインストリートの歩道には地元ゆかりの有名人の手形のモニュメントがあったのを覚えている。

駅から10分弱で総合病院前のバス停に着く。この日の宿泊先であるホテルルートイン八代はバス停のすぐ近くにある。大浴場、朝食つきで安定のルートインということもあるが、ここを選んだのは、八代の札所である第54番・医王寺がすぐ近くにあることから。ルートインが医王寺の宿坊・・というわけではないが、いったんは別のホテルを予約していたが、改めて医王寺との距離を見てルートインに変更した。

それならば、チェックイン可能時間に入っているのでいったん荷物を置いてから参詣すればよいのだろうが、今は駅から到着したばかりなので、先に荷物を持った状態で参詣し、その後でチェックインしたほうが楽ではないかと思った。

さまざまな建物に囲まれた一角にある寺院。山門の代わりに石像の仁王像が出迎えるが、耳元に手をやって「え?今何言った?」と聞き返している姿のように見える。

この医王寺、その名前から薬師如来が本尊なのだと推察する。開かれたのは平安時代と伝えられたが、キリシタン大名の小西行長によって破却され(その時にもそういうことがあったのか)、江戸時代に八代城主となった松井氏により再興され、祈願寺となった。

本堂の扉が半分だけ開いており、中に入ったものかどうしようかと思ったが、結局外でお勤めとする。

手狭な境内ながら、他にも祠が数々残る。青面金剛堂は「足手荒神」として地元の人たちから信仰されているそうだ。

玄関から声をかけ、朱印をいただく。これで八代を押さえたことになり、この後の薩摩北部、肥後南部も柔軟に回ることができそうだ。

そしてそのまま、すぐ近くのルートイン八代にチェックイン・・・。。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~リバイバル急行「ひのくに」が火の国に到着

2024年09月19日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

さて、昼食時間帯となった鳥栖を過ぎ、811系使用リバイバル急行「ひのくに」は鹿児島線を南下する。

筑後川を渡り、久留米では少しの運転停車。

そして差し掛かったのが筑後船小屋。駅前にあるホークスのファーム本拠地・タマホームスタジアム筑後を見る。この九州八十八ヶ所百八霊場めぐりで九州を回る中、このスタジアムでの野球観戦を組み合わせたいものだと思う。近くに札所があるのかなと地図で検索すると、何と、筑後船小屋駅、タマスタ筑後に隣接する形で第59番・光明寺があるではないか。行基により開かれ、筑後ではもっとも古い寺院だという。これはぜひホークス戦に合わせての巡拝としたいところで(別にバファローズ相手でなくてもよい)、順番、そして日程的には来年春以降の楽しみである。

次の瀬高でドアを開けての停車となる。ここでも方向幕の入れ替えがあり、「急行 瀬高」の字幕が現れた。ただこの辺りまで来ると、ホームに出てくるツアー参加者もさすがに最初ほどの熱気はなくなっているようだ。鳥栖を出て間もないこともあるだろうが・・。

瀬高の周辺案内に「清水観音」とあるのは、九州西国霊場めぐりで訪ねた清水寺である。また、卑弥呼が治めた邪馬台国はこの辺りではないかとの説もあり、観光PRの一つにもなっている。少し北に行くとあの吉野ヶ里遺跡があるし、甘木鉄道の終点・甘木にも卑弥呼関連の伝説がある。まあ、中心部がどこだったかはさておき、邪馬台国というのは筑後一国くらいの規模を持っていた「クニ」として考えれば、いずれもその一部となりすっきりするように思う。

13時03分、大牟田着。本来このツアーでは、途中駅で改札の外に出ることは想定していないようだが(行程表でも、約40分停車の鳥栖について「改札外に出ることはできません」とあった)、ここまで来ると係員のいる改札(もっとも、係員も席を外しているのか実質無人)を出ても特に何も言われることなかった。一応駅舎を外から眺め、改札外のコンビニで買い物もできた。

大牟田から荒尾にかけて県境を越え、「ひのくに」は火の国・熊本県に入る。ここからはまた快走に入ったようで、なかなか訪ねる機会のない区間の車窓を見つつ、一方では長時間の乗車も後半に来たことでウトウトした場面もあった。

13時54分、賑わいを見せる熊本に到着。ふたたび、地元の人を含めたギャラリーが増え、「ひのくに」にも多くのカメラが向けられる。実際の列車であれば、熊本で多くの客が下車して・・というところだろう。

そしてこのツアーはこの先、八代まで走る。最後は熊本の平野部を、遠くに雲仙を望みつつ走る。

手前の新幹線駅・新八代を通過し、14時45分、長い道のりの末、八代に到着。途中いくつかの駅での長時間停車はあったが、トータルで約6時間。いや~乗りごたえあったなあ・・。

乗って来た811系をしばらくホームで眺めた後、改札を出る。

改札の電光掲示板には「急行 火の国 15時45分 博多」の表示がある。今度は復路、博多までの別のツアー列車として運行される。八代からの復路だけの参加者もいれば、先ほど乗って来た中には復路も申し込んだという猛者もいることだろう。いずれにしても、多少時間はかかるがリーズナブルに長距離を乗り換えなしで移動できるかつての「急行」の風情を楽しもうというところである。

さて私だが、この「ひのくに」は九州八十八ヶ所百八霊場めぐりのアクセスとして乗った形である(どちらが主でどちらが従ということではないが)。当初はこの先、肥薩おれんじ鉄道を乗り継いで川内まで行き、翌日に薩摩北部の札所を回って鹿児島県をコンプリートする計画だったが、直前になって八代宿泊に変更した。乗り鉄と札所めぐりを兼ねる、これも「八代行き急行」にふさわしい行程ではないだろうか・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~リバイバル急行「ひのくに」が筑紫を駆け抜ける

2024年09月18日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

順番を繰り上げて熊本南部の札所を訪ねることにした九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。そのアクセスとして選んだのが、JR九州主催のイベント列車・リバイバル急行「ひのくに」である。九州北部で活躍する811系の登場当時の「未更新」車両を使っての運転で、小倉を出発し、一路八代を目指す。

今回のイベント列車は、小倉を8時56分に発車し、八代には14時45分に到着する。一応「急行」を名乗っているが、途中駅で長時間停車もあるため、単に移動するだけなら小倉をこの後の区間快速、そして普通列車を乗り継いだほうが早く着いてしまう。まあ、現在の普通列車はロングシート車なのに対して、イベント列車は転換クロスシートを一人で実質2席使いながら移動できる・・。

小倉を発車後、行橋駅駅長による案内放送が入る。現在は駅長だがかつては九州内のさまざまな列車に車掌として乗務されたとか。急行「ひのくに」や811系の解説が入る。

今回運転されている「ひのくに」だが、1961年に大阪~熊本間の寝台急行として登場。1968年(昭和43年)の「ヨンサントオ」ダイヤ改正で電車特急「金星」となり、後に西鹿児島行きの「なは」として運転された。その後「ひのくに」の名前は小倉・博多~熊本間の急行(あるいは臨時急行)として運転され、今回使用の811系も使用されたことがあるそうだ。

一方、現在「ひのくに」といえば福岡~熊本間の高速バスの愛称というのが一般の認識のようで、ネットで急行「ひのくに」を検索すると、高速バスの記事のほうが多く登場する。ただ目的地が「火の国」であることは共通している。ある意味熊本の代名詞といえるだろう。

さて小倉を発車後、途中運転停車を挟みつつ北九州市内を駆け抜ける。そして黒崎を発車すると「この列車は筑豊本線の線路を通ります」との案内が入る。かつて、折尾で立体交差していた鹿児島本線と筑豊本線を結ぶ短絡線が存在していたが、その名残を通ってみようということのようだ。その途中の陣原では筑豊本線側のホームにて運転停車。

そして折尾を通過。先ほどまで途中駅で運転停車したのに対して、特急も含めすべての定期列車が停車する折尾は通過である。「珍しい『折尾飛ばし』をお楽しみください」というが、パンフレットにもわざわざ「折尾は通過します」と書かれていた。それだけ地元の人にとってはレアなことなのだろう(九州人ではないのでそこまでの感覚がないのだが・・)。

遠賀川を渡り、福間に到着。10時20分発まで約35分停車。他の列車の運転のためにここで大幅な時間調整である。「光の道」で人気の宮地嶽神社へのアクセス駅。一応、改札の外には出られないルールなので構内で過ごすことに。

長時間停車を利用して、方向幕の入れ替えイベントが行われる。方向幕は左側の列車種別、右側の駅名をパターン番号で選択することでさまざまに入れ替えることができる。駅名は何が出るかな~と見るに、鹿児島線は門司港~八代、日豊線は佐伯まで、長崎方面は長崎、佐世保といったところが表示される。西九州新幹線開業に合わせて改名された肥前山口、江北それぞれの幕もある。811系の運用区間は九州北部ということで、さすがに宮崎や鹿児島中央といった表示はなかった。停車中、参加者からのリクエストも含めて実際にはなかったであろう列車種別と駅名のパターンを表示させる計らいもあった。

その間に特急の通過あり、後から来た列車(同じ811系の未更新車両)が先に発車し、また向こうのホームからは福間折り返しの列車が発車したりと、福間から普通に列車を利用する人が出発する中、端のホームでは独特の時間が流れる。方向幕入れ替えもよいが、暑いのでその後は車内にて過ごす。冷房を利かすために3つある扉の2つを閉め切っている。

定期列車の邪魔にならないタイミングで発車したようで、途中短い運転停車を挟みつつ、博多に到着。

10時58分まで16分停車。やはり一般客も多い駅のため、「ひのくに」にカメラ、スマホを向ける姿も目立つ。定期列車で走る車両ということで誤乗防止のため、車両、ホームの表示は「団体」となっている。博多には改札内にもコンビニがあるので買い物利用もできる。

博多発車後、弁当とお茶の配布。(写真を撮っていないのだが)福岡の焼肉店「ヌルボン」製のすき焼き弁当。竹下や南福岡の車両区も望み、二日市でしばらく停車する。

鳥栖の手前にある弥生が丘で扉が開く。列車退避のためで、ここでも方向幕の入れ替えイベントが行われる。ただ、先ほど同じイベントがあった福間と比べるとカメラを向ける人もそれほどいない・・。

11時43分、鳥栖に到着。12時22分まで約40分の停車。方向幕は「団体」のままだったが、電光掲示板では「811系リバイバル急行ひのくに」と、限られたスペースをフルに活用して表示されている。

鳥栖にはホームの真ん中にスタンドがある。先ほどの弁当もよいが、ここではホームの立ち食いうどんが人気である。かしわうどんをいただく。

そして、鳥栖といえば焼麦。私の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりには欠かせない一品である。この日宿泊した八代にて、夜食でいただいた。

改札は出なくとも、昔ながらの鉄道駅で長崎方面との乗換の風情を感じることができ、滞在時間は満足できるものだった。広告も独特。サガン鳥栖、久光スプリングス、駅前不動産・・・。

この後は筑後、そして肥後の国に入る「ひのくに」である・・・。

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第17回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~目指すべきは北薩だが、リバイバル急行「ひのくに」で八代を目指す

2024年09月17日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

前回、6月最後の週末に薩摩半島を回った九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。レンタカーで半島をぐるりと回り、九州一周のコマは薩摩川内まで進んだ。

エリア順で次に回るのは北薩の内陸のさつま町にある第46番・峰浄寺、第48番・薩摩薬師寺。その昔は国鉄宮之城線、山野線といったローカル線が近くを走っていたところ。ここは、薩摩川内か出水での宿泊とレンタカーを組み合わせて回ろうと思っていた。第三セクターの肥薩おれんじ鉄道にも乗りたいので、九州新幹線で新八代まで行き、その後はローカル列車で不知火の海を眺めながら移動するのもよいだろう。今回で難関とされた鹿児島県も今回でクリアの運びである。

ただそんな中、不定期にチェックしているJR九州のオリジナルツアーのサイトを見ていると、面白そうな列車イベントを見つけた。JR九州では同社自慢のD&S列車を使ったツアーが開かれる一方で(このところ、50系客車の登場回数も増えているようだ)、かつての車両をそのまま使った九州島内夜行列車ツアーや、車両区でのイベント向け専用列車ツアーなど、その筋の人向けの企画も混じる。私もこの九州八十八ヶ所百八霊場めぐりとの組み合わせで、日豊本線開業100周年記念のイベントとして南宮崎~小倉間を885系特急車両使用の特別ツアー列車に乗ったことがある。

今回見つけた列車というのが、9月15日に運転されるリバイバル急行「ひのくに」のツアー。現在のJR九州の主力車両といえる811系使用とあるが、この形式は実際に急行としても使われたこともあったそうだ。今ではセミクロス化、あるいはロングシート化された型式だが、登場当時そのままの転換クロスシート車両(その筋では「未更新」というそうだ)を使い、往路は小倉~八代間、復路は八代~博多間を走るとある。あくまで団体専用のイベント列車である。

小倉から八代まで在来線をひた走るというのが面白いと思った。ツアー案内を見ると小倉8時56分発、八代14時45分発とあるから6時間弱の乗車。現役当時の急行はこれより所要時間も短かったと思うが、ツアーということで途中長時間停車もあるようだ。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでいえば、八代に到着後、そのまま肥薩おれんじ鉄道に乗り継げばまだ日のある時間に川内にもたどり着ける。そのまま宿泊して、翌日は川内からレンタカーで出発、北薩の札所を回り、トヨタレンタカーならではの県内乗り捨て利用で出水に行くのがすっきりしたルートといえる。

・・・ただ直前になり、そういえば八代にも札所があるし、熊本県内に入ると人吉、湯前あたりに札所が固まっているのが目に入る。ふと、今回はリバイバル急行「ひのくに」で八代に着いた後、そのまま八代に泊まり、翌日、人吉方面を先に抑えてしまおうかという気になった。鹿児島は鹿児島で直接向かったほうが、現地での滞在時間も長くとれそうだし・・。

9月15日、広島6時43分発「さくら401号」で出発。日本旅行の「バリ得こだま」が使える6時53分発「こだま781号」でも集合時間に間に合うのだが、余裕を持って・・。

小倉に到着。いったん在来線ホームに出て、かしわうどんをいただく。さらに改札外に出て飲食物(主に呑み鉄用)の調達。博多出発後に弁当の提供があるし、途中の長時間停車もあるが、トータルで6時間の乗車となると・・。

コンコースに戻るとツアーの受付客が並んでいた。乗車券代わりに座席番号入りの参加票のネットストラップ、そしてクリアファイルと記念の硬券急行券が渡される。オプションとして、運転士用、車掌用の時刻表をあらかじめ申し込んだ人も多い。まあ私は乗れればいいので、あまりグッズには頓着せず・・。

ホームの案内板には「ひのくに(団体) 八代」と表示される。8時42分頃入線、8時56分発車との案内である。

そして門司方面からやってきた811系。4両編成である。八代方の先頭には阿蘇をあしらった「ひのくに」のヘッドマークが掲げられている。

当初は「団体」という行き先幕だったが、そのうちくるくる移動してあちこちの駅名が表示された後、「急行 八代」となった。そのまま運転すればよいのにと思うが、発車前にはまた「団体」となった。まあ、この行き先幕はこの後いくつかの駅でくるくる回るサービスタイムを演出するのだが・・。

私もクロスシートに陣取る。全体の参加者だが、家族やグループ参加は車端部のボックス席が割り当てられていたが、ほとんどが一人参加。クロスシートを前向きにしても空きがあり、一人参加同士が相席になることもなかったようだ。長時間乗車する分にはストレスなくてよいのだが、主催者としてはもっと多くの乗車を見込んでいたのかどうか。現役でも走っている811系使用というのが「乗り鉄」へのインパクトが今一つだったのかもしれない(それでもこの先、沿線各地に出没するスナイパー・・・もとい「撮り鉄」どもはわんさかいたようだが・・)。

さて、リバイバル急行「ひのくに」は小倉を出発。この後は札所めぐりを前に長々とした乗車記である・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~坊津から薩摩半島北上

2024年07月11日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりはこれから徐々に北に向けて駒を進める。枕崎の火之神公園を出発する。

国道226号線に入り、耳取峠を越える。その先が坊津である。

歴史資料センター「輝津館」に入る。こちらは南さつま市役所の坊津庁舎も兼ねた建物である。坊津の歴史、民俗についての紹介が充実した施設だった。館内撮影禁止のため画像はないが・・。

坊津は古くから立地的に海上交通の要地であり、遣唐使船の寄港地となっていた。仏教の公式的な伝来よりも先に龍蔵寺一乗院という寺が建立されたし、この先の秋目地区には鑑真和上が唐から上陸している。

また中世では倭寇や遣明船、琉球貿易の拠点にもなっていた。明の歴史書「武備志」では近隣の地誌も紹介しており、「日本三津」として安濃津、博多津と並び、ここ坊津を挙げている。同時期に日本で成立した式目では「三津」として安濃津、博多津は同じだが、もう一つは堺津を挙げている。当時の状況からすれば堺のほうが大きかったに違いないが、大陸の人たちから見れば薩摩半島の港とのつながりが強かったといえるだろう。

江戸時代になると鎖国政策もあり、外国との交易の中心は長崎に移ったが、坊津は薩摩藩主の直轄地として、琉球を介した大陸との貿易が続けられていた。貿易額や品目には厳しい制限が設けられていたものの一応幕府の公認だったが、それを超える「抜け荷」が密貿易として行われていた。こうして得られた利益が薩摩藩の財力になったという。

しかし、江戸中期の享保年間、坊津に一斉に取り締まりが入り、商人や船舶が逃げ出すという事件があった(坊津の唐物崩れ)。もっとも薩摩藩は坊津だけでなく、志布志、種子島、奄美大島など他の拠点で密貿易を続けており、坊津の取り締まりは幕府の目をそらすため薩摩藩じたいがわざと行ったのではないかともいわれている。

その後の坊津はカツオ漁で栄えた。鰹節の製法が伝えられたことも大きい。当初は近海に限られていたが、徐々に海域が広がり、船も大型化された。それでもカツオといえば一本釣りで、次々に釣りあげられる様子をとらえた映像は圧巻である。また大漁を祝う「茜かぶり」という行事もあり、地元の人たちの笑顔も印象的だ。

ただ、今の坊津にはそのカツオ船もいなくなった。大型船が接岸できる枕崎に集約したためである。そして現在は養殖漁業が主な産業となっている。なかなか、変化に富んだ歴史がある。

本来なら2階のテラスからの眺めがよいのだが、外壁の工事中で入れない中、建物の前で背伸びして沖合いの名勝・双剣岩を何とか眺める。

せっかくなのでこの先の鑑真和上上陸の地など、海沿いをもう少し走りたかったのだが、ゴールの川内駅のカーナビ到着予測時刻がこの時点でギリギリとなった。

途中で詰めることはできるだろうが、ここからは山道の県道でショートカットして国道270号線に向かう。途中の山上には風力発電の風車も見える。

この国道270号線に沿う形で、かつて鹿児島交通枕崎線が走っていた。現在の南さつま市の中心である加世田のバスセンター内には鉄道記念館もある。ただ、どこかのスポットに立ち寄って見学するだけの時間は厳しそうだ・・。

温泉や砂浜で有名な吹上浜も通過。ただ、到着予測時刻は少しずつ早くなってはいる。そのまま国道を走るうち、サイクリングロードの案内とともに「永吉駅跡」の標識が見える。鹿児島鉄道の旧駅ということで、これはぜひ立ち寄ってみよう。

永吉駅は伊集院駅から12.7キロのところ。線路や駅舎は撤去されているが、ホームの一部が残り、駅名標も後から設けられている。廃線めぐりといえばひそかに人気が広がるジャンルだが、鹿児島交通枕崎線は結構あちこちに遺構がのこされており、永吉駅跡も知る人ぞ知るスポットである。

国道270号線に戻り、交差点で待っていると右前方から枕崎行きのバスがやってきた。

さらに北に進んだ江口浜で、左手に急に東シナ海が広がった。思わず駐車スペースにクルマを寄せる。少しずつ日が傾くところ。

もう少し走らせると崖のすぐ下に海岸が広がる。海にはサーファーの姿も見える。薩摩半島にこういうスポットがあるとは知らず、今回の車窓の中で印象に残るスポットとなった。

国道270号線から国道3号線に出る。カーナビは無料の南九州西回り自動車道を案内するようだが、そのまま下道を走る。鹿児島線の線路とも並走し、野球、サッカー、駅伝などの強豪である神村学園の前を通過する。鹿児島の学校とはきいていたが、串木野だったのね。

レンタカーの返却時間も気になる中、トヨタレンタカーの川内駅前店に到着。

そのまま歩いて川内駅に到着。駅前に像があるので近づくと、大伴家持とある。薩摩の中心といえば現在の鹿児島市のイメージだが、古来の薩摩の国府は川内にあったという。万葉集の編者として名をのこしている家持だが、本人は時の政争に巻き込まれたこともあり、都と地方を行ったり来たりしている。その中で薩摩守に任ぜられたことがあったのだが、それも左遷人事だったという。

次回は北薩の山中の札所をたどるルートで、川内からふたたびレンタカーにて向かうつもりだ。

川内は九州新幹線、鹿児島線、そして肥薩おれんじ鉄道が乗り入れる駅で、かつJR貨物の駅もある。地方によくあるオフレールステーションではなく、今も東京、名古屋、大阪、北九州への直通コンテナ列車が発車する。またこれらの貨物ターミナルでの中継を経て、全国への長距離輸送が可能である。

これから乗るのは18時06分発「みずほ610号」。広島までの停車駅は熊本、博多、小倉だけという最速タイプで、所要時間は2時間10分。さすが新幹線だ。

レンタカーの利用後のお楽しみということで、「みずほ」指定席に陣取っての一献である。最速タイプだけに寝落ちして広島を寝過ごすことのないように・・。この日(6月30日)は朝の鹿児島中央駅から雨に遭うことはなかったが、「みずほ」に乗って熊本、博多に差し掛かるとまた強い雨になった。まあ梅雨空の下、帰りの新幹線で雨というのも仕方ないだろう。

・・それほど遅くならない時間に広島に着き、西広島まで戻って来た。こちらはしっかり雨が降っていた・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~枕崎・日本最南端の終着駅でかつお三昧

2024年07月10日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

先ほどの大国寺から一気に山道を下り、枕崎の市街地に入る。そして、日本最南端の終着駅・枕崎に到着する。前回に続いての来訪だが、前回は列車乗り遅れのためタクシー移動、そして今回はレンタカー・・。列車から終着駅に降り立つ、という演出はならなかった。

ちょうどこの時間、列車の姿はない。もっともこの日(6月30日)は先日来の大雨で指宿枕崎線じたい運転を見合わせている。

しばらく、誰もいない終着駅の雰囲気を楽しもうかと思ったが、それより先に食事である。枕崎に来たからにはかつお料理をと思っていたが、いろいろ立ち寄っている間に時刻は14時すぎ、そろそろ昼の営業を終えている頃ではないだろうか。幸い、駅の目の前にある「一福」は14時30分ラストオーダーでまだ営業中だった。駅の見物は後にして、先に食事にしよう。

いただいたのはかつお定食(松)。メインはかつおのたたきで、その他、腹皮の天ぷら、温泉玉子と酒盗、内臓煮、かつお味噌がついてくる。かつおのたたき以外は、かつおの漁港以外だとなかなか食べる機会もないだろう。これらのおかず、せっかくならビールのお供にいただくのがよいが、指宿枕崎線で帰るならともかく、この先もレンタカー移動が続くので残念だが・・(無理にノンアルコールビールは注文しない)。

そして、これは枕崎ならではのものというのが、かつおのビンタ。ビンタとは鹿児島弁で頭を指し、これを味噌で煮込んだものをそのまま大皿に盛り付けたものだ。見た目、一瞬どきっとする。この料理、枕崎でさかんなかつお節づくりの際に不要となった頭の部位を無駄なくいただく郷土料理、家庭料理だが、現在は観光客にも人気のおもてなし料理となっている。

この食べ方に特に決めごとはないが、魚といえば目の周りの肉が美味いところである。それで目のところをぐりぐりやる。この感覚、私が先般受けた白内障手術の光景に似ているような気がする(嫌なものを思い出したものだが・・)。それはさておき、頭頂部などの身をほじるようにいただいた。

これでかつおのさまざまな料理をいただいたが、他にも枕崎ならではということで「ぶえん鰹」や、「枕崎鰹船人めし」なるものがあり、今思えばこちらも頼めばよかったところ(定食のごはんを追加料金で船人めしにすることもできた)。それはまた今度の楽しみとしよう。

向かいの観光案内所で、「日本最南端の始発・終着駅のある町 到着証明書」をいただく。枕崎といえばどうしても「終着駅」という見方になるが、「終着駅は始発駅」という言葉もある。

改めて駅に向かう。第36代木村庄之助の筆による駅看板、そして始発・終着駅を感じさせる数々のモニュメント。

ここまで来て、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりと合わせた九州一周も本当の折り返しになった。ここからは少しずつ北上することになる。

ここからは薩摩半島の西側を通る。まず目指すのは古くからの港町・坊津である。

レンタカーを進める。市街地の向こうには薩摩酒造の「明治蔵」もある。うーん、時間の都合で枕崎は通過せざるを得ないが、今にして思えば、せっかくなら枕崎に1泊するつもりで、こうした市内のスポットや、かつお料理にしても一献やりながら味わうとか・・そうした楽しみもできたのではないかな。1泊2日は何とかなるが、2泊3日が難しい立ち位置にある。また、あくまで目的地は札所・・・。

このまま坊津に向かう前、ふと標識を見て向かったのが火之神公園。海岸にろうそくのように浮かぶ立神岩で知られる。この一帯は訪ねたことがなく、枕崎の景色ということで行ってみることにする。

こちらも先ほど訪ねた番所鼻と同じく、溶岩と灰が混じった溶結凝灰岩でできている。

また、法面整備のため車両乗り入れができず立ち寄らなかったが、この公園の一角には平和祈念展望台がある。ここでは、太平洋戦争の沖縄作戦に出撃したが、枕崎の沖合200kmのあたりで米軍の攻撃を受けて沈没した戦艦「大和」をはじめとした第二艦隊の戦没慰霊碑もあるという。

知覧、枕崎・・本土最南端は本土最前線として歴史の舞台になっている。そして坊津も・・・。

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