まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第15回九州西国霊場めぐり~第33番「観世音寺」(九州西国霊場・結願成就)

2023年01月30日 | 九州西国霊場

大宰府政庁跡、坂本八幡宮と回り、いよいよ観世音寺に参詣する。

観世音寺が開かれたのは古く、天智天皇が母・斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は百済救援のために出兵し、自らも筑紫まで遠征したが、その地で亡くなった。それから造営が進められたが、完成したのは奈良時代に入ってからのことである。後に鑑真が日本に渡り、日本における授戒の制度を整えた後は奈良の東大寺、下野の薬師寺とともに「天下三戒壇」の一つとされた。当時は大きな伽藍も有していたが、平安時代以降は寺の勢力も衰え、また何度も火災に遭ったことで建物も失われた。現在の建物は古いもので江戸時代の再建という。

まず、西にある戒壇院に向かう。戒壇院は聖武天皇の勅願により、鑑真により設けられた。案内板では「観世音寺・戒壇院」と記載されている。

正面の本堂は江戸時代の再建で、この時には禅宗様式で建てられている。なおこの時に戒壇院は観世音寺から独立したそうで、現在はあくまで別の寺院だという。そういえば、本堂の前に書置きの朱印が置かれていたが、その様式が九州西国霊場のものと違っており、「あれ?」と思ったものだ。戒壇院の本尊は東大寺と同じく廬舎那仏である。それはともかく、かつての観世音寺の一部ということでここでもお勤めとする。

さて、戒壇院で手を合わせていると、東の方向から何やら大きな叫び声が聞こえてくる。そして拍手も起きている。最初は、近くのグラウンドで運動会か、あるいは何かの集会でも行われているのかと思った。でも、1月下旬に運動会などないだろうし、この近くにグラウンドがあったかな。

戒壇院の横の通用口から観世音寺の境内に入る。するとそこには大勢の人だかり。そして、その向こうでは空手の道着姿の子どもや若者が集まっている。そして観世音寺の正面には「武神会館」と書かれた旗が掲げられている。

これを見た瞬間は、「せっかくの結願なのに、これではお参りできないではないか」と思った。本堂の前も立入禁止になっている。これは何の集まりかと調べてみると、「武神会」とは筑紫野市に本部がある空手道場で、この日(1月22日)は観世音寺にて奉納演武と成人式が行われていたそうである。朝に観世音寺を訪ねていれば、子どもたちを中心とした演武が見られたそうで、人だかりの多くは子どもの保護者たちのようだった。

先ほど、戒壇院の境内で聞こえた叫び声というのは新成人によるもので、両親への感謝や、これからの自分の夢について気合を入れて大きな声で語っていたそうだ。そして新成人は、周りの「バンザーイ」の掛け声とともに胴上げされ、最後は落とされて境内の砂(泥)を掛けられ、最後には師範、両親の元に駆け寄って抱き合って・・・という一連のお祝いの儀式が行われていた。

まったく関係ないことだが、新成人がこうして道場のみんなから祝福され、大人の仲間入りをする様子は、その昔、ここで授戒を受けて正式な僧侶として認められた若者たちも似たようなものだったかな・・と勝手に想像してみる(さすがに胴上げはなかっただろうが)。

最後に記念撮影を行って奉納演武は終了したが、まだ境内はごった返している。

本堂での参詣は後にすることにして、境内の一角にある宝蔵に向かう。かつて本堂(金堂)と講堂に祀られていた仏像の多くは、1959年に完成した鉄筋コンクリート造りの宝蔵に移されている。平安~鎌倉時代の作が多く、よりよいコンディションでの保存のためである。仏像を拝むのが目的なら、最初から宝蔵に来れば間近で拝観もできる。また朱印もこちらで受付しており、九州西国霊場が結願する旨を告げて、後で受け取ることにする。

宝蔵の2階に上がる。丈六(立像は約4.8メートル、坐像は約2.4メートル)の像が多く、九州西国霊場の本尊である聖観音像をはじめ、十一面観音像、馬頭観音像、不空羂索観音像、阿弥陀如来像などが並ぶ。台座、展示台と合わせると5メートル以上の高さであり、それらが何体も並ぶ姿は圧巻である。本尊がこちらにおわすということなので、この宝蔵の中にてお勤めとする。

また、宝蔵の完成にともない、本堂(金堂)や講堂から仏像が運び出され、宝蔵に搬入される様子の写真も展示されている。

大宰府といえばどうしても天満宮や九州国立博物館に目が行きがちで、最近は「令和」ゆかりの地として坂本八幡宮も有名スポットになっている。その間にあって観世音寺は目立たない存在かもしれないが、かつての国際都市である大宰府にあって、その仏教部門を引き受け、隆盛したであろう歴史はもう少し知られてもよいのではないかと思う(先ほど訪ねた大宰府資料館では、模型で当時の伽藍も表現されていたが)。

拝観を終え、朱印をいただく。通常の第33番・観世音寺の朱印のほかに、「結願成就」と書かれた朱印をいただいた。結願ということで、表彰状のようなものをイメージしていたのだが、こちらの朱印に、観世音寺の台紙をもう1枚いただいたのでそちらに貼り付ける。これも、いい記念になった。

もう一度金堂に戻ると、立入禁止のロープも撤去され、お堂の前に立つことができた。ここで改めて手を合わせ、結願とする・・・。

さて、2021年3月から始めた九州西国霊場も無事に結願となった。奈良時代の初め、仁聞菩薩と法蓮上人により開かれたとされる日本最古の霊場。種田山頭火も回ったことで知られている。BRTに転換される日田彦山線の彦山から始まり、中津の耶馬渓、宇佐八幡、六郷満山、別府の湯、臼杵の石仏などと合わせて回った大分県。噴火もあった阿蘇山に、宮本武蔵も修行した熊本の岩戸観音、復興途上の熊本城。大牟田の石炭遺産、カッパの田主丸の筑後地方。佐賀では清水の鯉料理、吉野ヶ里遺跡、有明海の景色も楽しんだ。そして長崎に入りオールスターゲーム、軍艦島、西九州新幹線、佐世保軍港。再びの佐賀ではイカ料理。そして福岡に戻り、糸島半島や美空ひばり観音、宗像の世界遺産を楽しみ、大相撲九州場所も。そして最後は大宰府で締めるという・・・札所めぐり以上に私なりの九州観光も楽しませていただいた。いろいろな列車、バスに揺られ、レンタカーで穴場を訪ね、夜の一献もできた。これまでには気づかなかった九州の面白さを感じられた貴重な体験だった。

これで中国、九州の観音霊場を回り、西日本の「百八観音霊場」をめぐるなら残りは四国三十三観音霊場となるが、こちらは今のところ考えていない。札所めぐりが多重になっているので、どこかを終わらせてからのことになるだろう。ただ、四国といえば本家の四国八十八ヶ所めぐりもあることで、下手すればその2巡目もやらざるを得ないのでは?とも思う。

また、九州では九州八十八ヶ所百八霊場もまだ序盤である。こちらも、この先どのくらいの時間がかかるかわからないが、より広い九州の魅力を楽しむことにしよう。

さて、これで一段落し、天満宮と九州国立博物館に向かう。ちょうど太宰府市のコミュニティバスが来たので、そちらに揺られることに・・・。

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第15回九州西国霊場めぐり~「令和」ゆかりの坂本八幡宮へ

2023年01月29日 | 九州西国霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでいったん田主丸に向かった後、本題の太宰府に向かう。久留米から鳥栖行きに乗り、そこから博多行きに乗り継ぐ。車内のドア脇に週刊誌の中吊り広告があるな・・とよく見ると、「佐賀空港」とある。空港の利便性をPRすべく、インパクトのある広告にしたものだという。

二日市に到着。JRとしては太宰府への最寄り駅であり、二日市温泉への玄関口である。一時は、こちらでの宿泊も考えた。駅のコインロッカーに荷物を預ける。この後は新幹線に乗るので、またこちらに戻ることになる。

西鉄の二日市に向かうが、バスもあるが徒歩でもそれほど離れていない。ちょうどJRと西鉄を結ぶグリーンベルトも伸びていて、それに沿って歩く。10分ほどで西鉄の二日市に到着した。

太宰府天満宮や九州国立博物館に行くのなら太宰府線に乗って太宰府に向かえばよいのだが、目指す観世音寺、そしてその前に大宰府跡や、「令和」ゆかりの坂本八幡宮にも行ってみたい。それなら、太宰府線に乗るより、天神大牟田線で1駅、都府楼前からアプローチしたほうがよさそうだ。

都府楼前で下車。「令和の里」という副駅名がつけられている。駅前には「令和」の記念碑も建てられている。元々、福岡のベッドタウンとして駅周辺にも住宅やマンションも建ち並んでいたところに、坂本八幡宮最寄りの駅ということで新たに「令和」の箔がついた形だ。

道案内に従って歩く。大宰府跡に近いことからか、近くの中学校の門もそれらしい姿である。改めて、歴史の町としてのPRをしているかのようである。

大宰府跡に到着。今は地元の人たちの憩いの場になっており、あちこちで家族連れが楽しんでいる。南大門からそのままメイン道路を進み、大宰府跡の石碑を見る。時代が少しずつ違うが、明治から大正にかけて順次建立されたものである。

平成から令和・・。この改元の前後、私は九州で過ごしていた。日付が変わるのを迎えるのは五島列島の福江島で、平成最後の日の入りと、令和最初の日の出を見ようというツアーに参加した。その前段で福岡入りし、夜まで自由行動だったので、太宰府エリアを訪ねた。その時は観光客でごった返していた。「令和」ゆかりの地となった坂本八幡宮も参拝客の行列ができていた。私も、菅官房長官(当時)の改元発表のように「令和」と書かれた額を掲げて写真を撮ってもらったものだ。

その坂本八幡宮だが、さすがに令和5年ともなれば当時のブームも落ち着いているようだ。「令和」の元となった万葉集の一文の「初春令月 気淑風和」。ある歌会の様子を表したものだが、その舞台が当時の大宰帥である大伴旅人の邸宅で、その場所が現在の坂本八幡宮の地と推測されることから、改元発表以降、大勢の人が訪ねるところとなった。私もその一人である。

テントにはその時と同じように記念撮影用の「令和」の額が置かれている。また、回っている札所以外の朱印にはそれほどこだわっていないのだが、せっかく訪ねたのだからと書き置きの坂本八幡宮の朱印をいただく。真ん中には「初春令月 気淑風和」の文字が入る。これも九州西国霊場めぐりの一つに加えることにする。

よく考えると、これまで日本に数多くの元号がある中で、その典拠が国内にあり、そしてその場所もある程度特定できるところというのも他にはないのではないか。現時点で、「令和」の次の元号がどうなるのかというのはまったくイメージできないが(その時には、ひょっとしたら元号そのものの存続の是非が問われているかもしれない)、「令和」の経緯からすれば、日本の古典に典拠を求めるのかなと思う。そうなれば、何十年か先にはまた別のところが賑わうことになるのかな・・。

大宰府展示館に向かう。「令和」の元となった大友旅人邸宅での梅花の宴を再現した人形や、大宰府政庁の模型が並ぶ。またここもかつての大宰府跡の一部として、発掘された姿や出土品なども展示されている。これだけ見れば立派な規模だし、大陸との玄関口として重要な拠点であったところだが、平城京、平安京の人から見れば「左遷」のイメージがどうしてもついて回るようである。

目指す観世音寺は大宰府政庁に隣接する位置に建っている。もう少し歩き、いよいよ、九州西国霊場の結願である・・・。

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第6回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第5番「大師寺」(もう一度、田主丸へ)

2023年01月26日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

この記事は九州八十八ヶ所百八霊場として書くことにする。鳥栖から久大線に直通する日田行きの気動車で出発する。久留米を過ぎ、郊外に向けて走る。久大線のこのルート、九州西国霊場でも訪ねたし、九州八十八ヶ所百八霊場でも甘木地区にある札所めぐりのために訪ねた。

その拠点として下車した田主丸に到着。河童伝説が残る町で、駅のホームにも河童の像が立ち、また駅舎自体も河童をイメージした建物である。

前回、田主丸と甘木を結ぶ甘木観光バスも活用して回ったのだが、第5番・大師寺だけは本堂、庫裏が改修工事中だったため、朱印も得られず、お参りにカウントしなかった。久留米市内は九州南部をぐるり回った後でまた何ヶ所か訪ねることになるのだが、久大線に入るということでこの機に押さえておこう。

大師寺の前にもバス停はあるのだが、田主丸駅からはそれほど離れておらず、徒歩圏内である。駅からまず直進の道を歩き、国道210号線に出る。田主丸中央というバス停もあり、周囲には小ぶりながら商店街や川魚料理の店、酒蔵も並ぶ。こういう町だったんだな。

田主丸の発祥といえる記念碑もある。江戸前期の慶長年間、筑後の菊池丹後入道という人物が、この地の125間を開いて町筋を創建したのが始まりという。そして田主丸(たぬしまる)の名は、「我楽しう生まる」という言葉からついたそうだ。

また田主丸近辺は植木、苗木の育成が盛んで、久大線に乗っていてもさまざまな苗木を沿線に見ることができる。江戸中期の元禄年間から行われるようになったが、久留米藩の財政が苦しかったこともあり、農民の副業として奨励された歴史があるそうだ。

10分あまりで大師寺の看板が見え、路地に入る。無事に改修工事も終わったようで、建物も新しい感じに見える。前回、暑い中やって来たのだが寺が工事中で、いやそれでもどこかに電話して朱印だけでもいただこうかとも思ったが、割り切って今回改めて訪ねてよかったと思う。

大師寺が開かれたのは大正時代、高野山開創1100年を記念してのことという。また、九州二十四地蔵尊霊場の一つでもある。その昔秋月城下で祀られていた地蔵菩薩がこちらに移され、お堂の外で人々を見守っている。

庫裏の玄関のチャイムを鳴らそうとすると、ちょうど寺の方が出てきたので、朱印をお願いする。九州八十八ヶ所百八霊場については札所番号順にこだわらないとしたが、さすがに5番が空いている状態が続くのもどうかと思った(その点でいえば、同じ久留米でまだ10盤も空いているのだが・・)。

さてここからどうするか。もう1ヶ所、さらに東へ進んで日田まで行き、1ヶ所だけポツンと存在する第94番・不動寺に行くか。ただ日田まで行ってしまうと、肝心の太宰府に入る時間が結構遅くなる。観世音寺だけでなく天満宮、さらに九州国立博物館で「加耶」展を見ようと思うと、ちょっとどうかな・・。

日田についてはまた考えるとして、今回はそのまま久留米、鳥栖に戻ることにした。田主丸駅まで行ってもいいのだが、次の久留米行きまで40分以上時間がある。そして、先ほど通った田主丸中央のバス停からは、8時55分発のJR久留米行きがある。行き帰りでルートを変えるのもいいだろう。

国道210号線をずっと走る。久大線よりもこちらのほうが商店その他も並んでおり、地元の人たちにとってはメインルートであろう。

西鉄久留米~JR久留米まで結構時間がかかったこともあり、田主丸からは50分ほどの乗車。駅間の移動の所要時間だけなら久大線のほうが30分ほどで着くし、運賃も若干安い。ただ、停留所の利便性なら西鉄バスのほうが使い勝手がよさそうだし、それぞれのメリットを活用できればいいのではないかと思う。

久留米からはちょうど鳥栖行きが来たので乗車し、朝、コインロッカーに預けた荷物を回収して、鳥栖始発の列車に乗り継ぐ。この後は太宰府に向かうのだが、JRの二日市に移動して、そこから西鉄に乗り継ぐつもりである・・・。

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第15回九州西国霊場めぐり~鳥栖にて前泊

2023年01月25日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの結願を前に、鳥栖で宿泊する。「前泊」というのもこれはこれで楽しみである。どうせならもう少し太宰府に近いところで宿泊すればよいのだろうが、実は、今回のついでで、九州八十八ヶ所百八霊場の札所にも行くことを考えてのことである。

九州八十八ヶ所については順当に行けば次は大分の中津から宇佐へと回るところだが、久大線の田主丸にあって、以前のシリーズで本堂・本坊が改装中でお参りができなかった第5番・大師寺がある。また、少し足を伸ばすが、大分県に入った日田に1ヶ所ぽつんと第94番・不動寺がある。太宰府に行く前に2ヶ所とも訪ねるか、どちらか片方だけにするかも含めて、いったんそちらに向かうことにしている。そのため、南寄りで宿泊地を探した。当初は久留米で考えたのだが、その手前、交通の要衝である鳥栖は佐賀県である。そこで予約サイトで佐賀県に切り替えて検索したところ、鳥栖、神埼エリアにて複数のホテルがヒットした。

宿泊するのは駅の斜め向かいにあるルートインホテル。結局チェーンホテルやないかという声も聞こえそうだが、ルートインなら外れはない。なお今回、全国旅行支援を利用することができた。ちなみに、ルートインの横にはグリーンリッチホテルもあるのだが、何だか建物に灯りがともっていないようだ。公式サイトによると、新型コロナを理由として2023年3月末まで臨時休館中という。今の状況で2年も「臨時」休館って・・・そのまま休業ではないのかな。

ちょうど大相撲初場所の14日目で、しばらくテレビ桟敷にて相撲観戦。14日目を終えて、3敗で大関貴景勝と平幕琴勝峰、4敗で小結霧馬山と平幕阿武咲の状況となった。千秋楽の取組はこの後決まるのだが、結局3敗同士の直接対決ということになった(優勝の可能性にかすかな望みを持っていた4敗の2人はがっくりだろうが仕方ない)。なお、翌日の千秋楽結びの一番で貴景勝が琴勝峰に勝ち、一人大関の責任を全うする形での優勝を飾った。これで春場所は「綱取り」になるのかな。

さて、夕食の一献ということで外に出る。鳥栖というところは鉄道の町であるが、最近ではサガン鳥栖の本拠地「駅前不動産スタジアム」が駅前(駅裏)にあるし、この春には久光スプリングスの新たな練習拠点も完成する。

一方、駅前(駅表)には、かつてのJTの工場跡地に建つ大型ショッピングセンターのフレスポがある。結構な数のクルマがひっきりなしに出入りしている。ちょっとのぞいて見ると北海道展をやっていたので、ラーメンやらいかめしなどを買い求める。広島の人間が鳥栖に行って北海道の物産を買い求めるとは・・・(別に、広島で北海道展が行われないわけではないのだが、今回の土産に九州ものがなく北海道ものばっかりだったので)。

さて、北海道展で買ったものが入ったビニール袋をぶら下げて入ったのが、フレスポの敷地内にある「竹乃屋」。「博多ぐるぐるとりかわ」で知られる店である。家族連れを中心に賑わっており、あらかじめカウンターを予約しておいて正解だった(コロナ対策でカウンターは座席が間引かれていた)。

前菜、アテとして、ちくわサラダ、ごまサバをいただく。このあたりは九州の郷土料理である。

この店では日によって呼子直送のイカが出ることがあるそうだが、残念ながらこの日は入荷なし。その中でイカの沖漬を注文。これはこれで歯ごたえあり。

サーモンの刺身をごまだれに絡めた「まるでレバ刺し生サーモン」というのは、竹乃屋のオリジナルメニューだろうか。牛レバ刺しの店での提供が禁止になったのが2012年の6月だからもう10年以上経つが、サーモンでもその食感が出せるんやと感心した。ごまタレも大きな要素である。

そして串焼きの盛り合わせと、最後に待ってました「ぐるぐるとりかわ」が出てきた。鶏の皮を串にぐるぐる巻く焼き方は博多が発祥とされており、各店で味を競っている。何本単位で注文するかというところだったが、他の料理もあるので最少の5本盛りで。「竹乃屋」については、以前の九州西国霊場めぐりで店に入ったこともあるし、ペイペイドームにも出店していて野球観戦のお供にしたこともあった。そして今回、鳥栖でいただいた次第だ。焼き鳥は塩味派なのだが、「ぐるぐるとりかわ」についてはタレの味も大きなウエイトを占めていると思う。

さて、全国旅行支援を利用すると宿泊の割引に加えて、地域クーポンがついてくる。昨年までは、その県内の提携店で使える紙のクーポンをフロントでもらっていたが、今年に入ると、紙のクーポンではなくQRコードが入った用紙を渡される。まず、「region PAY」というアプリをダウンロードし、用紙に印刷されたQRコードを読み取ると、その地域のクーポンに、利用可能金額がチャージされる。利用する時は会計時に店のQRコードを読み取り、利用金額を入力して店の方に承認してもらう。全国旅行支援の再開に合わせてこの「リージョンペイ」を新たに導入した都道府県も大幅に増えたそうだ。

今回は佐賀県のクーポン「佐賀旅PAY」だったが、あくまで福岡県内を移動するのに九州新幹線、鹿児島線が鳥栖を通っているための宿泊であり、この先佐賀県のあちこちを回るわけではないので、おのずと鳥栖駅近辺で使うことになる。もっとも、先ほどの「竹乃屋」はクーポンの提携店ではなく、またフレスポ内の北海道展も現金のみの決済だった。そのため、駅前のコンビニでの買い物で消費した。地域支援が建前のクーポンといいつつ、全国チェーンのコンビニで利用することが、果たしてどれだけその目的にかなうものかよくわからないのだが・・。

ホテルに戻り、人工温泉の大浴場にてリラックスする。

そして部屋での二次会。チェックイン前に買っておいたのが、鳥栖駅の「焼麦(しゃおまい)」。これまでの九州西国霊場めぐりで、帰りの土産、新幹線車内でのアテとして何度も買っていたが、結願を前に、本場にて入手した。こちらをつまみつつ、結願の前祝とする・・。

さて翌22日、ホテルでの朝食を終え、鳥栖7時31分発、久大線の日田行きに乗車する。太宰府に向かう前にいったん久大線に入り、九州八十八ヶ所百八霊場の札所に向かうことに・・・。

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第15回九州西国霊場めぐり~いよいよ、結願に向かいます

2023年01月24日 | 九州西国霊場

2021年の3月から始めた九州西国霊場めぐり。福岡、大分、熊本、佐賀、長崎各県にある33ヶ所プラス特別霊場1ヶ所をめぐるこの札所も、結願となる第33番の観世音寺を残すのみとなった。旧国名でいえば、豊前、豊後、肥後、筑後、肥前と来て筑前で終わり。九州においては現在九州八十八ヶ所百八霊場めぐりを行っているが、この先大分、宮崎と進む中で、先行している九州西国霊場は結願しておこうと思う(何分、札所めぐりの多重債務状態なもので・・)。

観世音寺があるのはかつての大宰府跡に隣接するところ。観世音寺そのものは以前にも訪ねたことがある。ちょうど、元号が平成から令和に代わろうとするタイミングで、太宰府天満宮から「令和」ゆかりの坂本八幡宮に向かう途中に立ち寄った。その時は「由緒ある寺」と思ったものの、九州西国霊場を回ることは全く頭になかったので、改めてここが結願の地になるのかとうなることになった。英彦山に始まり、大宰府で終わる九州西国霊場。

あえてその結願の札所を残す形をとり、その機会をうかがっていたが、1月から、太宰府天満宮に近い九州国立博物館にて特別展「加耶」が行われると知った。そして、特別展の記念講演会が1月29日に行われるという。どうせならこの講演会に参加しようと、サイトから事前抽選に申し込んだ。これに当選したとして、観世音寺への参詣を1月29日に予定した。場合によってはどこかで前泊もありかなと。

ここまで、昨年末の話である。

年が明けて半月後、九州国立博物館の講演会の抽選発表である。17日にメールが来たのだが、その結果は残念ながら「落選」。これは仕方ない。まあ、講演会は聴けずとも、展示が観られればいいか。

ならば、九州国立博物館に29日に行くことにこだわる必要もなくない。実は年が明けてから、私のほうもいろいろ状況の変化があり、それなら前倒しでも行ける時に太宰府に行って結願しておこうと思う。そして、自身の予定とも合わせて1月21日の午後に広島を出発し、その夜は太宰府の近くに前泊。そして22日に観世音寺に参詣、そして九州国立博物館で「加耶」展を見学することにした(・・・当日になって、当初の予定通り1月28日~29日で行けばよかったものの、日程を早めたことが結局裏目になった。まあそのことは後で書くことに)。

さて、1月21日。午前中の所用を済ませて、広島発14時19分の「こだま849号」に乗る(「こだま」に乗るのは、日本旅行の「バリ得」のため)。500系で運行されており、それだけでも今となっては貴重なものなのだが、この列車に充当されるのは「ハローキティ新幹線」。500系の青、紫のラインをピンクを基調としたものに塗り替え、車両のいたるところ「ハローキティ」色にしたものである。

これまで、「ハローキティ新幹線」は駅の停車中や走行中で見たことはあったが、乗るのは初めてである。別に狙っていたわけではない。

だからといって「キティちゃ~ん♡」などとニヤニヤしながら車両にカメラを向けたり、1号車にある「ハローキティ」イベント車両に行ったりというのは、彼女や子ども連れならまだしも、アラフィフのおっさんが一人なら「キティ」ならぬ「キティガイ(キ○○イ」扱いである。

救いだったのは、室内はあくまで「普通の500系」に維持されていたこと。

それでも、途中の駅ではホームに出て、「ハローキティ」塗装車両の写真を撮っていたなあ。

時間帯のせいか列車じたいはガラガラのまま、16時11分、博多に到着。「こだま849号」はこのまま博多南線の列車となるが、ホームには行列ができている。博多まで乗って来た客よりも、むしろここから博多南まで乗る客のほうが多かった。

さてこの後だが、新幹線ホーム同士での乗り継ぎである。乗り継ぐのは、16時24分、博多始発の「さくら409号」である。こちらはN700系車両。

博多から新幹線に乗ってどこまで行くのか、目的地は太宰府だろうに・・というところだが、目指すのは次の新鳥栖である。もっというなら、在来線の鳥栖である。太宰府を目指すなら博多駅近辺、その気なら太宰府市、筑紫野市で宿を探すこともできたが、あえていったん南に行くことにした。そこはちょっとした思惑もあって・・・。今回、宿泊先を福岡エリア、筑紫野エリア、そして久留米エリアで探していたのだが、初めて宿泊する町を増やそうという思いもあった。そこで出たのが鳥栖である。宿泊検索だとまずは都道府県単位での検索のため、同じ鹿児島線、九州新幹線沿線でも、佐賀県にある鳥栖は外れるのだろう。これは盲点だったなあ。改めて、鳥栖で宿泊地を確保。

新鳥栖で下車する。コンコースでは、鳥栖を拠点として活動するJリーグのサガン鳥栖、そしてバレーボールの久光スプリングス関連が出迎える。

そこに隠れた形だが、鳥栖市出身の緒方孝市・元カープ監督の展示もある。

そのまま新幹線改札口から出て(「バリ得」のきっぷはここで全て回収)、そのまま在来線改札口を通る。やって来て列車にて、次の鳥栖で下車する。在来線の鳥栖が目的地なら、博多で在来線に乗り換えるのと、新鳥栖まで行って乗り換えるのと、はたしてどちらが合理的だったかなと思うが・・。

そのまま1駅3分乗車し、鳥栖に到着。鉄道のジャンクションの町での初めての宿泊である・・・。

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第56番「棲真寺」その2~広島新四国八十八ヶ所めぐり(小早川氏ゆかりの寺から広島空港大橋を・・)

2023年01月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりの最東端ということで、同じ広島県内ながら前泊を前泊を含めた前後編となった。

気分転換を兼ねて、第56番・棲真寺の参詣を前に、河内インター近く、広島空港手前の「ホテルエリアワン広島ウイング」にてゆったりした部屋と温泉、朝食を楽しんだ。曇り空なのが残念だがこれから出発する。

空港の手前で、分岐する広島中央フライトロードに入る。「地域高規格道路」との位置づけのようだ、現在は大和町まで開通しているが、最終的には世羅町まで伸ばして尾道道とつなぐことで、県北からの広島空港、あるいは山陽道方面へのアクセス向上を目的としている。ただ、現在はその手前の三原市大和町までである。

インターチェンジやホテルのある「河内」から棲真寺がある「大和」に向かうというのも、私にとっては関西での国境越えのような気分で面白い。もっとも、広島のそれは「こうち」から「だいわ」なのだが・・。

走るうち、トンネルを抜けて姿を現すのは、沼田川にかかる広島空港大橋(広島スカイアーチ)。フライトロードのシンボルと言っていいだろう。

こうしてクルマで実際に渡る分には、これも「ただの橋」という感じがしないでもないのだろうが、私の印象としては、JR山陽線に揺られる中で、河内~本郷間に見える高い橋がこれである。確かに、この谷を橋一本で渡すことにより南北の距離がぐっと縮まったといえる。

その先の棲真寺インターで下車する。出口には「棲真寺公園」と書かれた案内板があり、そちらに沿って走る。

そして到着。寺の境内といっても山門があるわけでなく、オープンな雰囲気である。今は冬の時季でこれといった見どころはないが、桜や紅葉など楽しむことができそうだ。

棲真寺が開かれたのは鎌倉時代とされる。源頼朝の家臣・土肥實平が源平の戦いの後、中国地方の追捕使に任ぜられ、備後の国に拠点を置いた。そしてその子・遠平は頼朝の娘を妻に迎えた。その妻は若くして亡くなるのだが、その追慕としてこの地に七堂伽藍を建てたのが棲真寺の始まりという。なお、この遠平の子孫が後に備後で地頭~国人領主となった小早川氏である。そういえば、かつて小早川隆景も拠点にしていた新高山城はここから近いところにある。今思えば、少し足を延ばして見に行ってもよかったかな・・。

寺じたいは江戸時代に火災に遭ったり、明治の廃仏毀釈で一時は廃寺となったが、後に復興した。また、1991年の台風で大きな被害を受け、現在の本堂は1996年の再建という。それを記念する碑文も建てられている。

久しぶりに里山の景色の札所を見たように思う。改めてその本堂に上がり、お勤めとする。

隣の庫裏も田舎の家の庭先といった感じで、縁側に書き置きの朱印やお守りが並べられていてセルフでいただけるようだが、私が集めている小型サイズの朱印がない。仕方なく玄関のチャイムを押して住職に出てきていただく。

「公園」ということもあり、境内を一回りする案内板もある。向かったのは写経堂で、茅葺きの建物が残されている。明治時代のものだそうだが、ちょっと屋根の傷みが激しいようにも見える。

200メートルほど山道を進む。

その先に小さな展望台があり、木々の向こうに、先ほど渡った広島空港大橋が見える。この高さから橋を眺めるのは初めてだが、あんなに高い位置でこの谷を越す必要があるのかなとも思う。広島空港との勾配差を最小限にしたとも取れるが・・。

しばらく立っていると、電車のモーター音が聞こえてくるような感じがした。この橋の上を列車が走るのなら、鉄道写真の絶好のスポットになったことだろうが、山陽線の線路はこの下、沼田川沿いである。

ここで折り返しとしてフライトロードに乗り、そのまま河内インターに出る。前日チェックイン時に発行された全国旅行支援の1000円分のクーポンは、小谷サービスエリアに立ち寄り、広島ご当地のレトルトカレーなどの購入の一部に充てた。レトルトカレーなら普段食に使えるし、日持ちもするので・・。

さて、次の第57番の福寿院だが、西条の街中にある。このまま西条インターで下車すればすぐで、これで東広島以東の札所はコンプリートするのだが、結局通過した。以前、西条を訪ねた時にこの福寿院の前も通ったが(札所順に回るルールのため参詣せず)、その場所というのがモロに酒蔵通りの中なのである。やはり行くなら西条の酒とともに・・となると、今回はクルマなので無理。そこは改めて訪ねることにしよう。

この先、西条、倉橋島、海田町、熊野町とたどってようやく第60番まで到達する。広島新四国八十八ヶ所の後半もまだまだ続く・・・。

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第56番「棲真寺」その1~広島新四国八十八ヶ所めぐり(同じ県内だが、わざわざ前泊で出かけました・・)

2023年01月21日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、次の第56番は棲真寺である。この前まで広島市内を回っていたが、今度は一気に東に飛ぶ。

棲真寺があるのは三原市で、三原市といえば備後の国ではないか?と思ったのだが、元々は賀茂郡大和町である。賀茂郡なら安芸の国か。その賀茂郡の町村のほとんどは東広島市や呉市と合併されており、大和町も当初は東広島市との合併を検討していたそうだが、住民投票の結果、豊田郡本郷町、御調郡久井町とともに三原市との合併となった。いろんな思いがあったことだろう。

棲真寺があるのは広島空港の北東で、行くならクルマ一択である。こう書くとかなり遠い印象だが、広島市内からだと山陽道経由で1時間あまり、下道経由でも2時間あまりで着くところである。早起きして出かければ十分事足りることだが、同じ広島県内ながら広島新四国で最も東端ということもあるので、泊まりで出かけてみるか・・ということにした。私の中で、ちょっと気分転換を図りたかったこともある・・。

1月14日、この日は夕方まで出社しており、仕事が終わった後の18時半頃、そのままクルマで出発(荷物はあらかじめクルマに積んでいた)。日が落ちた後の広島高速~山陽道と乗り継いで一定のペースで走り、小谷サービスエリアに立ち寄る。ここで夕食でもよかったのだが、食事は宿に着いてからにしよう。酒のアテ、土産などを買い求める。

小谷サービスエリアからすぐの河内インターで下車する。このまま取付道路を走れば広島空港に着くのだが、途中から側道に入る。

到着したのは「ホテルエリアワン広島ウイング」。山の中にポツンと建つ立派な建物である。棲真寺まで10キロほどのところにある。獅子伏温泉という温泉もついている。以前は別の名前で営業していたが、今はエリアワンというホテルチェーンの一つである。聞いたブランドかなと思うと、同じ広島県内で福山に泊まったことがあった(その時は芸備線~福塩線で広島県内をぐるりと回り、宿泊翌日は福山、尾道で中国四十九薬師の札所をめぐった)。

宿泊サイトで見ると、基本となるダブルルームも広く、一晩ゆっくりするのもいいかなと思って予約した。河内インターからすぐのところとはいえ、周りにあるのはコンビニだけで、他には何もなさそうだが、たまにはこうした場所に泊まるのもいいだろう。

チェックイン後、部屋に向かう。施設全体でさすがに年季が入った感はあるが、部屋は宿泊サイトにあった通り結構広い。ユニットバスを含めた全体の広さでいえば、今の私の自宅より広いのではないだろうか。

部屋着に着替えて温泉に向かう。日帰り入浴もやっており、この時に限っていえば宿泊より日帰り入浴のほうが多いように思えた。通常の大浴槽、ぬる湯、サウナと合わせて露天風呂も広い。外にいると何やら轟音が聞こえるのだが、それが温泉設備によるものなのか、空港が近いので飛行機の離発着によるものかはわかりにくい。ただ、後で部屋に戻った時に同じような音がしたので窓の外を見ると、ちょうど空港の滑走路に向けて飛行機が飛んでいくのも見えた。

まあ、温泉と広い部屋があったから泊まってみようと思ったわけで、寺に行くだけが目的なら普通に朝早起きして出てくればいいだけのことである。なおこの日の宿泊はちょうど全国旅行支援もあり、1泊朝食つきで8000円であった。

館内にはレストランもあり、到着時点ではまだ営業していたのだが、夕食は小谷サービスエリア、そして河内インター出口にあるセブンイレブンで買ったもので済ませる。セブンには西条の賀茂鶴もあったので、これで「旅先で広島の酒を楽しんだつもり」に・・・。

さて翌15日。天気は曇りで、ホテルから朝日を望むことはできなかったが、朝風呂をいただく。朝の時間帯は宿泊者専用ということで、入浴の人も少なくゆったりできる。同じ県内ではあるが、市街地とは全く別の山の景色ということでちょっとした旅気分も味わうことができる。

バイキング形式の朝食。さまざまなメニューがある中で目を引いたのが、カキの天ぷらに甘えび。広島なのでカキが盛られるのは別に珍しくないとしても、甘えびが頭つきでテーブルにどっさり盛られていたのは驚いた。広島と甘えび、ちょっとイメージが結びつかないだけに・・。

引き続き部屋でゆっくりして、9時前に出発する・・・。

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第55番「長性院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(比治山の札所の後は、流川で一献)

2023年01月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月18日、比治山にある広島新四国の2つの札所をめぐっている。第54番の多聞院の次は、すぐ近くにある第55番の長性院である。電車通りから細い道を入っていく。どうやらこの突き当りの坂を上り切ったところにあるようだ。この先の駐車場は長性院への参詣、もしくはその手前の接骨院用とある。お寺が接骨院も経営しているようだ。

長性院は広島新四国の札所であるが、宗派は浄土宗である。弘法大師と浄土宗とはなかなかイメージとして結び付きにくいのだが、いくつかそうした札所がある。

長性院が開かれたのは江戸時代初期。信州松本の僧である正誉玄斉が諸国を修行で回る中で、この地に感得して背負っていた阿弥陀如来を祀り、「栄山庵」を開いて念仏の修行を行ったという。玄斉はいつしか庵を出てそのまま戻らなかったが、その後に紀州の僧、白誉が庵を継ぎ、その時に長性院(浅野藩の寺西将監利之の妻の法名)が銀三十貫を寄進したことで堂宇が建立され、現在に続く寺の形となった。

長性院は原爆により本堂、諸堂は壊滅して、現在の建物はその後の再建である。先ほどの楼門には仁王像が建っており、参詣の時は何の気なく手だけ合わせて通ったのだが、この仁王像は、原爆に遭った楠を用いて、長性院の檀家の方が制作したものだということを後から知った。作者の方も幼少の頃に被爆し、命からがら長性院にたどり着き、他の多くの人たちが苦しんでいる光景を目の当たりにしたそうで、原爆犠牲者供養、世界平和を願って1995年から4年の歳月をかけて彫ったものである。

・・いや、こういうことを後から知ったのではよくないな。札所へのアプローチはさんざん調べ上げるくせに、肝心の札所の歴史についてはもう少し下調べをしたほうがよさそうだ・・。

扉が閉まっている本堂の前でお勤めとして、その前の地蔵堂に向かう。こちらは扉が開いていて中に入って手を合わすことができる。身代り地蔵とある。

本堂横の本坊のインターフォンを鳴らして、住職らしき方からバインダー用の朱印をいただく。「ちょっと待って・・」として、お接待にお菓子の小袋もいただく。

さてこれで比治山の2ヶ所を回り、次の第55番は一気に三原市まで飛ぶのでそれは次の機会として、ちょうど時間は夕方近くである。この時間からなら、中心部で一献やってから帰宅してもいいだろう。前回、宇品から薬研堀近くまで回った時は、さすがに時間が早くて店が開いていなかったので・・・。

ちょっと時間をつぶしてから向かったのが、流川にある「豚寅」。文字からわかるように焼きとん、もつ焼きの店である。東京勤務以来、ホッピー、キンミヤと焼きとんの組み合わせが絶好となった私、二度目の広島勤務でそうした店があるかなと探した中で出会った店である(焼きとんの店じたいは他にも何軒かあるが)。チェーンではなく、店のインスタの紹介文では、「もつ焼きを広島に浸透させる為と自分が行きたい店を作りました」とあるように、単独の店である。以前にも来たが、今回広島市内の一つの区切りとして訪ねてみる。

時間が早かったのですんなりとカウンターに陣取り、ホッピー、キンキヤ酎、刺盛り、煮込み、串と王道のごとく、そしてさらに珍しい部位も含めて楽しむ。広島でもこうした東京流のもつ焼きがいただけるのだとうなる店である。

・・・と言い切ったのはいいが、広島ネイティブの方からは、もつ焼き、ホルモン焼きならむしろ広島が元祖ではないか・・という声も聞こえてきそうだ。あらゆることにおいて「広島が元祖」と主張する人や、主張の対象となるものが多いのも広島の特性のひとつなのだが、そう言われれば、広島では西区(福島町)が発信地となって、せんじがら(豚のホルモン揚げ)もコンビニや高速道路のサービスエリアで気軽に売られているし、ホルモンの天ぷらも、お好み焼や牡蠣とはまた違った人気メニューである(あ、「カープ鳥」もそこに入るかな・・)。

広島新四国も中盤戦真っ只中である。この先何ヶ所か県東部を回り、そしてまた広島市内に戻ることに・・・。

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第54番「多聞院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(比治山の被爆鐘楼)

2023年01月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月の初めに久しぶりに広島新四国八十八ヶ所めぐりを行ったが、その続きとして出かけたのが12月18日、午後からのことである。次は比治山の麓にある第54番・多聞院、第55番・長性院の2ヶ所である。

また広電に乗り、的場町の電停から宇品行きに乗り換えて比治山下に到着。電停前には坂道があり、ここを行くと比治山に向かう。比治山公園や、現在リニューアル工事中の広島市現代美術館がある。

その手前に建つのが多聞院である。まずは本堂に向かってみる。

多聞院が開かれたのは平安時代、高倉天皇の勅願で呉の音戸に建立された。本尊は、後白河法皇のお手製によるという毘沙門天である。音戸といえば音戸の瀬戸で、平清盛が沈む夕日を扇で呼び戻し、1日で掘削したという伝説があるところ。ちょうど、平清盛が厳島神社に般若心経を奉納したのとも関係するのかな。

多聞院は後に毛利元就により吉田郡山に移され、毛利輝元の広島築城の際に三滝山麓に移り、現在地に来たのは福島正則の時である。

そしてこの多聞院、比治山の西に建っていたこともあり原爆の被害も受けたが、本堂や庫裏、鐘楼は大破しながらも焼け残った。一時的には被爆者の救護や、県庁の機能もこの多聞院に置いたという。本堂その他は戦後の再建だが、鐘楼と石造りの十三塔は今も当時の姿をとどめている(鐘は、戦後に新たに鋳造されたとのこと)。

本堂の扉が開いており、まずはこちらでのお勤めとする。こちらの本尊は虚空蔵菩薩である。

広島新四国としての本尊である毘沙門天は、この先の毘沙門堂に祀られている。さまざまな石仏、石碑が建つ境内を抜ける。原爆の慰霊碑もあれば、「非理法権天」と刻まれた楠木正成の追慕碑というのもある。

ちょうど比治山の傾斜を利用して四国八十八ヶ所と西国三十三所のお砂踏みが広がっている。その向こうに広島市現代美術館の建物も見えるが、直接そこにつながる道はなさそうである。

毘沙門堂にて改めてのお勤めである。毘沙門天が本尊というのは、第19番の毘沙門堂(安佐南区)以来ではないかと思う。

朱印は本堂や毘沙門堂に書き置きがなかったので、横の会館を訪ねる。

さて、次は同じ比治山の西にある長性院である・・・。

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第53番「興禅寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(市街中心部へ)

2023年01月17日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月4日、広島新四国めぐりで宇品地区を訪ねた後、県立広島大学前から八丁堀方面へのバスに乗る。県立広島大学、以前の広島勤務時代にはなかったと思うが、県立広島女子大学、広島県立大学(庄原にあったのを覚えている)、広島県立保健福祉大学が統合して2005年に開設された大学である。

平和大通りの手前の富士見町で下車する。次に向かうのは第53番の興禅寺で、平和大通りと駅前通りが交差する田中町交差点に近い。

その平和大通りには点灯前のイルミネーションが並ぶ。「ひろしまドリミネーション2022」で、11月17日から1月3日まで開催されていたイベントである。このところの広島の冬の風物詩だそうだが、まだ行ったことないなあ・・。

交通量の多い2つの通りだが、そこから1本中に入ると飲食店も多い一角である。その中に、立派な構えを持つ本堂が姿を見せる。こちらが興禅寺である。

興禅寺は室町時代の頃から吉田郡山城の麓にあり、毛利元就が吉田郡山城に入ってからも信仰を受けた。そして毛利輝元が広島城に移るにあたり、興禅寺も広島のこの地に移された。その後も広島藩に入った浅野氏の歴代藩主から保護を受け、広島でも有数の名刹となったという。

しかし、明治に入るとそうした勢力もなくなり、また原爆にも遭って建物や寺宝も失われた。戦後に再興されたが、市街地とあって最小限のスペースで維持されているようである。江戸時代当時はもっと広大な敷地を持っていたのかな。

本堂の扉は閉まっており、外からのお勤めである。朱印は、本堂右手にある台の引き出しの中に書き置きがあった。

このまま平和大通りを東に進み、京橋川を渡った比治山の麓に次の2ヶ所の札所があるが、この日はそろそろ夕方近くなったので次に回すことにして、今回は終了とする。

興禅寺から歩いてすぐのところに、薬研堀、流川といった歓楽街である。時間邸にまだ開けている店は少ないが、そろそろ賑わいを見せる頃だろう。なかなか市内中心部に出ることもないので久しぶりにどこかで一献と思ったが、結局この日はそのまま八丁堀の電停まで出て、そのままおとなしく帰宅したのであった・・・(ちなみに、画像の店は「カープ鳥 薬研堀本店」・・)。

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第52番「法眞寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(宇品線跡に出会い、ひとっ風呂浴びる)

2023年01月16日 | 広島新四国八十八ヶ所

元宇品にある観音寺を訪ねた後、元宇品口の電停から歩いて北上する。先ほどは「元」の札所だったが、次に向かう宇品御幸にある第52番・法眞寺で、広島新四国の続きである。広電で行ってもいいのだが、停留所2~3つ分ならそのまま歩いたほうがよさそうだ。

この辺り、明治時代に宇品に港を建設するにあたり干拓が行われて陸地が広がったそうだ。元宇品口から北に伸びる道路を境に左右で段差ができているが、当時の堤防と新たに干拓された一帯の境目の名残だという。そして山陽鉄道(現在の山陽線)の広島開業、日清戦争の開戦にともない、宇品港が兵士や物資の輸送拠点となったことで広島は軍の拠点として重要なところとなった。

現在の宇品御幸は碁盤の目のような街並みに住宅が密集しているが、その一角に、他の住宅地とほとんど変わらない様子で法眞寺が現れた。看板がなければわかりにくいところだが、それでも限られた敷地に祠や石像が所狭しと並んでいる。こうした「まちかど札所」も久しぶりだ。

法眞寺は当初、ある篤信家の霊夢によって高野山から弘法大師の像をいただいて大師堂を建てたのが始まりとされる。大正から昭和にかけて高野山大師教会の宇品支部となり、また地元の篤信家から土地の寄進を受けて本堂の増改築をなした。場所が場所だけに本堂は被爆し、その後も残っていたが現在の建物は平成になって建て替えられたものである。

おそらく寺の方は家にお住まいなのだろうが、朱印も書き置きが箱に入っているし、特に話す必要もない。普段は静かなのだろうが、何か特別な法要があれば扉が開き、祈りが捧げられることだろう。その中で、寺に居ついているのか、猫が出迎えてくれる。猫よ、悪事ニャンを逃れさせたまえ・・。

次の第53番・興禅寺に向かう前にもう少し宇品地区を歩いてみる。広島郵政研修所の跡地や(何が建つのかな?)、イオンの前を過ぎ、養徳院という寺の前を過ぎる。

この養徳院は広島新西国のかつての第11番札所だったが、2019年に札所を返上したところだ(現在は東区の安楽寺が第11番)。そこにも何らかの事情があったことだろう。

東に進んで海岸通りに出る。また一段高くなっており、線路の路盤の跡が見える。ここはかつて国鉄の宇品線が走っていた跡地である。宇品線は日清戦争の時に軍事専用線として建設され、広島駅と宇品港を結んでいた路線である。日清戦争後は旅客営業も行うようになり、沿線の人たちの足となった。原爆投下の際も、比較的被害が少なかったために被爆者の輸送も行われたことがあった。

戦後、広島の復興が進む中で広電の宇品線や路線バスの利便性が高まったこともあり、宇品線は大きく客足を落とし、旅客営業を廃止し、国鉄の貨物線扱いとして維持されていたが、民営化前の1986年に全面的に廃止となった。

その後、線路跡のほとんどが道路に転用されたが、宇品線跡地を示すスポットがいくつか残されている。都市部にある廃線跡としてネットでも訪問記がよく取り上げられている。その一つが丹那駅周辺である。線路跡を地元の人たちによる花壇として整備し、後付けで宇品線の歴史についても記された丹那の駅名標もある。

その宇品線跡沿いにある「宇品天然温泉 ほの湯」に立ち寄る。姉妹店の「ほのゆ 楽々園」には何度か訪れたことがあるが、宇品は初めてである。花崗岩層から湧き出る温泉にはミネラルが豊富に含まれており、代謝を助け、肌のバリア機能を高める効果があるとされる。ここでしばらく休憩とする・・・。

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(元)第51番「元宇品観音寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(宇品港と平和の鐘)

2023年01月15日 | 広島新四国八十八ヶ所

相変わらず各地の札所めぐりについて書いている中、広島新四国八十八ヶ所については佐伯区にある第51番・観音寺で記事が止まっている。観音寺を訪ねたのは11月19日のこと。この時はそのまま島根に抜けて、石見地区の中国四十九薬師の札所を回った。

実は広島新四国も12月に少し進めている。ここで各地の記事が長々と続いたが、一段落したところでようやく書くことにする。まず訪ねたのは12月4日のこと。順番でいえば第52番の法眞寺だが、まず向かうのは宇品港である。

佐伯区にある第51番・観音寺でも触れたが、「佐伯区観音寺」とともに「元宇品観音寺」というのがある。広島新四国の札所としては元宇品から佐伯区の観音台に移った形だが、寺そのものは残っているし、せっかくなので番外編として訪ねてみることにした。

ともかく宇品港に向かおう。広電の2号線で高須から西広島まで乗り、3号線で宇品港を目指す。乗り換えが適用されるので運賃は220円なのだが、ここからが結構時間のかかるところである。紙屋町西から本通、市役所前、広電前を経由し、皆実町六丁目から宇品に向かう。路面電車もなかなかスピードが出ない乗り物で、西広島から宇品に行くだけで1時間近くかかる。まあ、休日に乗る分にはのんびりしていいのだが(どうせならこの昭和の型式に乗ってみたかったのだが・・)。

宇品港からの眺め。この先の島々に思いを馳せる。この先の倉橋島に第58番の白華寺があるだけで、そこはクルマで行くことができる。50番台だから、そう遠くない時期に行くことになるだろう。

桟橋ではテントが出てイベントが行われている。その中を抜けて目指すのは元宇品である。見た目にはわかりにくいが、この先は宇品島という一つの島である。目指す観音寺はこの先の小高い丘の上にあり、地図を見ると島の東側、西側両方から行けそうだ。ということで海を左手に見て、東側から行く。

ちょうど船舶が停泊しているのだが、防波堤には「放置船」の警告を示す張り紙がある。勝手に係留するだけならともかく、それが放置されたままということで当局も警告を発しているようだが・・。

なお、この先にあるグランドプリンスホテルは、2023年5月の広島サミットの会場に予定されている。島でサミットを行うとは、警備のしやすさなどから伊勢志摩サミット(賢島)と同じ発想だろうが、その中でもこうした放置船がテロに使われないとも限らない。サミットを前にして、強制的に撤去するとか、何らかのことは行われるのだろう。

丘の上に寺の建物が見える。住吉神社の脇から石段を上るが、こちらは裏口だったようで本坊の庭先に出る。そこを通って改めて本堂の前に出る。

現在の札所は佐伯区観音寺であるが、元宇品観音寺にも広島新四国の立て札が残っている。せっかく来たのだからとお勤めとする。

改めて観音寺の由来に触れると、本尊の十一面観音は元々坂上田村麻呂の守り本尊で、後に源範頼の手に渡ったが、源平の戦いで西に向かう途中に行方不明となった。後に、宇品島の漁師の網にかかって引き揚げられ、それ以後、毛利輝元や小早川隆景、その後の浅野氏も船から礼拝したという。今は周囲にもマンションなどが建ち並んでいるが、ちょうど海から拝むには格好の存在だったことだろう。

ケースには書き置きの朱印も入っていた。観音寺の朱印が二つあることになるが、それもまたよいだろう。ただ、納経帳は寺の案内が書かれた専用の台紙に貼るタイプなので、元宇品についてはどうしようかと思案するところである。

玄関の横に鐘が吊るされている。「第4代平和の鐘」という説明書きがある。「平和の鐘」とは、毎年8月6日の平和記念式典で鳴らされるもので、この鐘は1965年、66年の2年間使われたとある。それまで、第3代の平和の鐘として中広の光伝寺の鐘が使われていたが、1965年に光伝寺が火災に遭ったため、代役として観音寺の鐘が使われたとのことである。ちなみに現在使われている平和の鐘は、この後に新たに鋳造された第5代のものである。

入ったのとは逆の西側が寺の正面入り口のようで、クルマで来るならこちらからである。坂道を下り、宇品島の西側に出る。ちょうど宇品港を見渡すところで、松山からの「シーパセオ」が入港するところだった。

元々の第51番を訪ねて、次の第52番・法真寺を目指す。こちらも宇品にある寺で、広電で行ってもいいのだが2~3つで下車するのも中途半端なので、直接歩いて向かうことに・・・。

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奈良5番「帯解寺」~神仏霊場巡拝の道・45(皇室も詣でる安産祈願の寺)

2023年01月14日 | 神仏霊場巡拝の道

大安寺から帯解寺に徒歩で移動する。最後は万葉まほろば線の線路を越し、帯解駅を右手に見る。昔から安産、子育て祈願の寺として信仰を集めており、私も名前は知っていたが訪ねるのは初めてである(それにしても、各種の札所めぐりをするようになって初めて訪ねることになった寺社の多いこと)。安産、子育てに縁がないからかな・・。

帯解寺は元々霊松庵といい、弘法大師の平城京における師であった勤操によって開かれたお堂の一つであった。平安時代、文徳天皇の皇后である藤原明子(藤原良房の娘)が長らく世継ぎに恵まれなかったが、当地で祈願したところ皇子(後の清和天皇)が産まれた。このことで文徳天皇の勅命により帯解寺という名を与えられ、伽藍も建立されたという。

また江戸時代には2代将軍秀忠の妻・江が帯解寺で祈願して家光が誕生し、長く世継ぎに恵まれなかった家光の側室・楽もここで祈願して家綱が誕生した。近年も現在の上皇后、皇后さまをはじめ皇族方も安産祈願を行ったそうだ。そういう方たちが祈願に訪ねるくらいだから、一般家庭でもここはぜひ祈願していただきたいところだろう。

それだけ歴史のある寺ならさぞかし規模も大きい寺というイメージを持って来たのだが、立派な信徒会館はあるものの、境内じたいはシンプルである。別に大きな伽藍があるわけでも、新興宗教にありがちな巨大な本堂や拝殿があるわけでなく、どこか温かく受け入れてくれそうな寺の印象である(私の頭の中には、宝塚にある西国三十三所の札所でもあるあの寺のイメージがあったのかもしれない)。

本堂の外陣に上がる。ちょうど内陣では安産祈願が行われており、読経の声がスピーカー越しに聞こえてくる。今中に入っているのは2組のようだが、タイミングが重なると内陣には入りきらず、外陣で祈祷を受ける人も出てくるのだろう。祈願文では住所を言うのだが、1組の家族は関東地方の住所だった。また、それぞれの出産予定日も祈願文に込められている。

朱印をいただく。「帯解子安地蔵」の文字が入る。それにしてもこの「帯解」というのはどういう意味だろうか。ネットによると、子どもが初めて付け帯をはずし、普通の帯を用いる祝いとして、室町時代あたりから行われている儀式だという。男の子が5歳、女の子は7歳ということで、七五三の祝いとも関連しているそうだ。幼児から次のステップに上がるというのかな。さすがに現代では帯を着けないからそうした儀式もほとんどないようだが・・。

さて、近くには興福寺や元興寺、東大寺に春日大社といった神仏霊場の札所もあるが、この後、昼過ぎの高速バスで広島に戻ることにしているため、年末から続いた札所めぐりは帯解寺で終了とする。そして、次回の札所決めである。その候補は・・・

・興福寺(奈良3番)

・枚岡神社(大阪19番)

・廣峯神社(兵庫9番)

・中宮寺(奈良14番)

・清荒神清澄寺(兵庫14番)

・多賀大社(滋賀1番)

・・・くじ引きの最初に興福寺が出たのには思わず笑ってしまった。もし興福寺が出たなら、さすがにそのまま行かざるを得ないだろう。高速バスは1本遅らせるとして(それでも空席はあるようだ)。同じ奈良でも中宮寺だと、法隆寺などほかの斑鳩の寺院と一緒にしたいので、次回かな。

そして出たのは、あみだくじで3枠の廣峯神社。姫路にあり、黒田官兵衛ゆかりの神社という。これで次回、ようやく初めて兵庫県の札所となる。その兵庫でも西のほうなので、近くの園教寺、さらには赤穂大石神社といったところもセットにしようか。

帯解駅に出る。1月1日~3日は沿線の初詣対応のため、万葉まほろば線も特別ダイヤで増便されている。これで奈良に出て、大和路快速に乗り継ぐ。線路内の点検を行ったとかで20分ほどの遅れだったが・・・。

時刻は昼時、天王寺に到着ということで、さくっと昼飲みとしよう(その時間を確保するために帯解寺で切り上げたといってもいいだろう)。

訪ねたのは定番の赤垣屋。この時間から満員御礼の盛況である。メニューがいくらか減ったように感じるのは正月の営業だからかもしれないが、その中で冬の定番である寒ブリ造りや、縁起物でにしんの紅白なますなどをいただく。かす汁と熱燗の組み合わせって、実に温まるのでこの店で締めに頼む組み合わせだ。ふぐのひれ酒がメニューから外れていたのだが・・。

天王寺からJR大阪駅に移動。乗るのは、13時30分発の「グラン昼特急広島3号」。広島まで約5時間の道のりである。この時間からなら青春18きっぷでの乗り継ぎ移動もできるのだが、年末年始をまたいでの旅で荷物が多く、バスのトランクに預けてゆったり移動するのと、成人の日の連休で18きっぷの残りを使う予定があったためである。

バスは順調に走る。この年末年始、各地の高速道路は大きな渋滞はほとんど見られなかったそうだが、それでも中国道、山陽道とも、反対側の大阪方面の車線では何ヶ所か小規模な渋滞があった。

そのまま日没が近くなり、広島に入ると暗くなった。この日はそのまま帰宅し、翌4日まで休みなのでゆっくりと過ごした。2023年、あちこちの寺社に詣でたからというわけではないが、良い年になってほしいものだ・・・。

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奈良4番「大安寺」~神仏霊場巡拝の道・44(かつての大官大寺はがん封じの寺へ)

2023年01月13日 | 神仏霊場巡拝の道

1月3日、連泊となった河内松原を出発し、大阪阿部野橋に向かう。広島に戻るまでの時間、札所めぐりの続きである。この日は奈良に向かうのだが、訪ねるスポットとしてはJR奈良のほうが便利なので、大和路快速に揺られる。

今回の目的地は奈良5番の帯解寺だが、その前に、奈良4番の大安寺に向かうことにする。JR奈良からは少し離れているが、奈良交通のバスが出ているのでこれで行くことにする。シャープの天理工場、あるいはイオンモールの大和郡山店に行く系統で、大安寺バス停へは10~20分ごとに1本の割合で走っている。

5~6分で大安寺バス停に到着し、そこから西に10分ほど歩くと大安寺に到着する。

大安寺の歴史は古い。元々は飛鳥時代、聖徳太子の遺志を受けた舒明天皇が建てた百済大寺という官寺で、その後平城京への遷都にともない、奈良に移り、大官大寺という名になった。平城京では東大寺や興福寺、薬師寺などと並び「南都七大寺」の一つとして朝廷の保護を受けた。平城京の南部に巨大な伽藍を構え、三論宗の中心だった。唐やインド、ベトナムからも高僧が来日して、大安寺にて教えを広めたという。

都が平安京に移った後、弘法大師も一時大安寺の別当を務めたこともあったが(この縁で現在真言宗なのかな)、火災で伽藍が焼失したこともあり、時代が下るにつれて次第に衰退していった。現在の形に復興したのは明治になってからだという。

その中でも奈良時代から受け継がれた仏像があり、宝物殿も設けられている。ただ現在は改修工事中で、中の仏像たちも東京国立博物館に出張中である。

境内のあちこちにはだるまみくじが並ぶ。箕面の勝尾寺をイメージさせる。大安寺に来るのは初めてだが、こういうスポットだとは知らなかった。

本堂に上がる。本尊は十一面観音である。大安寺は現在はがん封じの寺として信仰を集めている。ちょうど病気平癒の祈祷を待つ人がいたので、祈祷が始まる前にこちらのお勤めとする。

奥の嘶堂(いななきどう)では馬頭観音が祀られていて、お堂の周りには四国八十八ヶ所と、釈迦由来のインド八聖地のお砂踏みがある。

納経所で朱印をいただく。御守などと並んで大安寺に関する書籍も売られているのだが、その中に「大安寺の365日」という一冊があった。大安寺の副住職によるエッセーで、後で紹介文をネットで見たところ、2022年の12月に発売となったばかりである。著者の河野副住職は大学卒業後に南都銀行に勤めたのだが、25歳で結婚(寺に婿入り)したのを機に銀行を辞め、出家して高野山で修行したそうである。修行の様子や、寺での日々の生活についてもいろいろ書かれているそうで、後から注文した。墨書していただいた方も若かったが、ひょっとしたら副住職だった?

境内の外には、かつての伽藍跡についても触れられている。

これで大安寺を後にして帯解寺に向かう。一度バスでJR奈良駅に戻り、万葉まほろば線で2駅の帯解に行くのが楽だが、地図を見ると直接行けないこともない。天理のシャープ行きのバスで途中まで行けそうに思えたが、バスは大安寺の停留所を先ほど出たばかりである。15~20分待つことになるが、待たずにそのまま歩くことにした。

地図を見ながら歩き、進路を南から東へ取る。結局40分ほど歩いて帯解寺に到着する・・・

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大阪18番「葛井寺」~神仏霊場巡拝の道・43(帰省を兼ねて河内松原で連泊し、実家へ)

2023年01月12日 | 神仏霊場巡拝の道

元日の夕方、長浜から一気に大阪に戻り、そのまま市内を通過して近鉄南大阪線に乗る。いよいよ実家のある藤井寺が近づくのだが・・・。

準急で1つ手前の河内松原で下車する。このまま実家に戻ると思いきや、ここで宿泊である。日が落ち、一応イルミネーションはあるものの駅前の店舗もほとんど閉まっている駅前に降り立つ。

帰省したというのなら実家に泊まればよいではないかと思われるだろうが、物理的に私が横になれるスペースの確保が難しいし、またいい年して両親に面倒をかけさせたくないし・・という思いがある。何となく気恥ずかしいというのかな(別に、家族仲が悪いというのではない)。

当初は大阪市内に泊まろうかと思い宿泊予約サイトを見ていると、河内松原駅前に新しくホテルができていたのを見つけた。(松原市には失礼ながら)こんなところにホテルができたのかと思わずうなったものだ。これも一つのネタになるかなと、元日、2日と連泊することにした。実家には2日に顔を出し、姉夫婦も交えて箱根駅伝を見ながら昼食会ということになった。

宿泊するのは「ザ・セレクトンあべの松原駅前」。駅の南西すぐのところにあり、しかもゆったりとした駐車場つきである(しかも無料のようだ)。ここは以前何の建物があったのかなと思う。朝食付き、2泊で14100円。価格は変動制で、予約当初は正月価格でもう少し高かったが、思ったほど客室が埋まらなかったか、日が近づくにつれて価格が下がり、この値段に落ち着いた。正月で1泊あたり7050円なら妥当なところではないかと思う。

部屋はダブルルーム。テーブルが部屋の1辺ずっと続いており、物を広げても全く余裕である。

大浴場がついているのもポイントだった。浴槽は4~5人が入れるくらいの広さだが、宿泊中、夜、朝通して他の客と一緒になることがほとんどなく、ゆったり利用できた。

さて夜の部だが、元々河内松原駅周辺は居酒屋などほとんどないし、またあったとしても元日で休みのようだ。また、駅前ビルにあるスーパーも元日は休み。ある程度予想できたことなので、夕食は割り切ってコンビニで購入したもので済ませる。ちなみに、このホテルでは夕方の時間帯、カレーライスの無料サービスをやっている。朝食でも同じものがいただけるので夕食では利用しなかったが、これも一つポイントといえる。

後は部屋でテレビ(ネット対応)で過ごし、朝早くから動き回っていたこともあり、そこそこに就寝・・・。

・・・さて、翌2日。出発はゆっくりなのだが、朝食は早い時間から向かう。バイキング形式の朝食会場に人はまばら。ただ、平面駐車場はそれなりに埋まっており、後で見たところ近場、遠方さまざまなナンバーがあった。正月休みに大阪や奈良の観光の拠点として、駐車場つきの穴場として結構知られているのかもしれない。鉄道だと大阪阿部野橋(天王寺)まで10分と便利だが、それ以上に阪神高速、近畿道、西名阪道、阪和道のジャンクションも近いので、そうした需要もあるのかな。

朝食後もしばらくゆったりした後、藤井寺に向かう。改めてホテルの外観はこのとおり。2日夜もここに宿泊である。

実家に戻る前に、葛井寺に行こう。西国三十三所の第5番であるし、西国三十三所の先達、中先達もここで申請した。そして神仏霊場めぐりの一つにもなっているので、この機にお参りとする。葛井寺については、前日のあみだくじの結果にかかわらず訪ねることにしていたが、今回は帯解寺に向かう途中としても不自然ではない。

山門に初詣の文字が掲げられているが、2日からだろうが、それほど混雑しているわけではない。

この、藤井寺球場で行われた近鉄バファローズの試合速報を伝える掲示板もまだ境内に残されている。2022年、「バファローズ」は初めて日本一をつかんだぞ!!

阿弥陀三尊二十五菩薩が祀られる阿弥陀堂が改修中である。

奉納者として吹石一恵さんの名前がある柄杓も復活していた。

本堂にてお参り。普段なら本堂の外で靴を脱いで上がるのだが、初詣期間は一面にマットを敷いて靴のまま上がることになる。初詣として三井寺にはじまり滋賀県内の寺社を回ったが、やはり地元の寺に来ると改めて新年の祈りということになる。

西国三十三所の重ね印をいただく。これで、西国曼荼羅コンプリートでの1巡と合わせて、先達納経帳の5ヶ所の押印欄がすべて埋まった。まだ、西国4巡目も前半戦だが、葛井寺だけ先行して、これで大先達につながる1巡が始まることとなった。

そして、神仏霊場の朱印である。「どちらにします?」と尋ねられる。通常なら観音菩薩を祀る「大悲殿」で、西国三十三所はその文字が書かれるのだが、神仏霊場の場合はもう一つ「蓮華王」という文字を選べるという。「蓮華王」とは葛井寺の本尊である十一面千手千眼観音を指すそうだ。西国三十三所と区別するのもいいだろう。真ん中の朱印には、梵字を中心として周りに千本の手が描かれている。蓮華、蓮の花に見えなくもない・・?

この後実家に戻り、両親、姉夫婦と昼の一時を過ごした。今思えば、後何回こうした時間が過ごせるのかな?と思うことになったのだが・・。

2日夕方、河内松原に戻る。駅前のスーパーが開いていたので何がしか仕入れて、やはり部屋でのんびりする。河内松原での連泊というのも、なかなかない経験をしたものだ・・・。

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