まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第12回四国八十八所めぐり~旅の最後は・・・

2017年10月31日 | 四国八十八ヶ所
松山市内には四国八十八所の札所は8ヶ所あるが、そのうち前半の浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺の3ヶ所を回り、久米駅で打ち止めということにした今回の四国めぐり。時刻は13時前で、帰りのJRバスは15時30分に松山駅を出発する。残った時間はあと少しである。

そんな中、現在地はその名も東道後温泉。ホテルの他に日帰り入浴ができるところも何ヶ所かあり、その一つである「東道後温泉 久米之癒(くめのゆ)」に向かう。この時点でまだ白衣を着ていたが、係の人や入浴に来ていた地元の人も別に驚く様子はない。

平日の昼間ということで、入っているのはほとんどが地元のお爺さんたち。料金も450円と「銭湯価格」なので、気軽に来ている感じである。洗い場の湯も温泉というのに驚いた。普通の浴槽や源泉かけ流しの露天風呂の他に、岩盤浴もある。サウナ室のようなところで、イス状に造られた岩盤に座って身体を温めるものである。

東道後温泉の歴史がパネルで書かれていて、安政の頃、この地で大地震が起きた時に、49番札所の浄土寺の境内に湯が噴き出して、石段に滝のように流れ出た。この時、道後温泉の湯が止まったので、道後の人たちは浄土寺に参って「道後にお湯を返してください」と願掛けをした。そのためか湯は元通りに道後に戻ったという。

浄土寺の隣に東道後神社というのがあるそうで、日、月、星の神様が祀られている。今の東道後温泉はこの神社の氏子の地に湧き出たということで地元の人に親しまれているそうだ。こういう話に触れると、先に浄土寺に行けばよかったかなと思うが、もしそうすれば東道後神社の存在には気付かなかっただろう。これもまた次の楽しみである。

ロビーが休憩所も兼ねており、おにぎりや麺類といった軽食も置いている。これにて今回打ち止めということで、まずは入浴後の一杯。あとは軽い昼食としてしばらく休む。

久米之癒から久米駅までは歩いて3分ほど。新しい感じの駅舎が出迎える。次回はここがスタート地点ということになる。やってきた電車で伊予市駅に出て、市内電車に乗り継いで松山駅に戻る。バスに乗る前に、駅構内のうどん屋「かけはし」で名物のじゃこ天うどんをいただく。

松山駅15時30分発の神戸・大阪行きは、西日本JRバスの「グランシート」。今回は早割で購入している。松山から大阪まで6900円のところが5000円となり、ネットでクレジットカード決済だと4900円である。ただし2席限定。予約時に窓側の席を指定した。

しかし、スマホ画面上にチケットを表示させてみると驚いた。座席が3列シートの真ん中になっていた。これは予約時の操作ミスだろうか。座席指定ができたつもりのところができていなかったとか。窓口に確認すると、早割の場合は座席の変更はできないと言われる。「今のところ満席ではないので、伊予三島のインターを過ぎるとどなたも乗って来ませんから、空いている席に移っていただいても結構ですけど・・・」と言われる。

どこか空いていれば移ろうかと思い、真ん中の席に座る。車内を見渡しても真ん中に座っているのは私だけのようだ。仕方ないかという感じで出発するが、このグランシート、座席はゆったりしている。また両側の客がカーテンを閉めれば(グランシート車両は、昼行便でも真ん中の席を含めた座席ごとにカーテンがある)プライベート空間が広がるように見える。こちらもリラックスモードだし、また外もそのうち暗くなるし・・・ということで、実際には後方の窓側の席もいくつか空いていたが、もうこのままでいいかということにする。

吉野川サービスエリア、淡路島の室津パーキングエリアという、高速バスでの定番のところで休憩し、順調に湊町バスターミナルに戻ってきた。2泊3日、いろいろなものに出会えた札所めぐりであった。

さて次回からだが、松山市内の残り5ヶ所、その次は今治シリーズと続く。これらはこれからの秋から冬にかけて回ることになるが、ど舞台が瀬戸内側に移るということで、アクセスも新しいパターンが出てくるかもしれない。また時刻表とにらめっこである・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~第48番「西林寺」

2017年10月30日 | 四国八十八ヶ所
重信川を渡り、交通量の多い県道40号線沿いに西林寺に着く。小川があり、それをまたぐ石の橋の向こうに山門がある。仁王像が立つ山門はこの日初めてである。

こちらは聖武天皇の勅願にて行基が建立したとされ、当初は別の場所に建てられたという。それが弘法大師が四国修行でこの地に来た時に国司と協議して、現在の場所に移したという。また、この頃村は干ばつで苦しんでいたが、弘法大師は錫杖を突くと清水が湧いたという。今回は行かなかったが、寺の西に杖の淵公園というがあり、現在では全国名水100選にもなっている。先の記事の衛門三郎ではないが、西林寺を市の北側の山の中から重信川の近くに移したというのは、治水との関係なのか、弘法大師に何らかの意図があったのだろうか。

境内には屋根つきの休憩所があり、雨宿りする人もいる。その中には朝方に浄瑠璃寺までのバスに乗っていた、白衣姿ではないほうの男性もいた。まずはお参りということで本堂に向かう。こちらは18世紀の初め、宝永年間の再建だという。本尊は十一面観音。

続いての大師堂は、本堂と比べて新しい感じがする。ネット記事によると2008年の再建とある。さらにその手前には何かのお堂の工事中である。古いものと新しいものが混在している感じだ。

こちらでご朱印をいただく。ちょうど12時を知らせるチャイムが鳴る。バスで浄瑠璃寺に着いたのが9時過ぎだったから、3時間で3つの札所プラス別格霊場一つを回ったことになる。お参りを終えて山門を出ようとすると、法衣姿の人たちが外からぞろぞろと入ってくる。遍路バスツアーの団体ではなく、プロの僧侶たちである。門の前に停まっていたバスの表札を見ると、高野山真言宗の僧侶たちだ。こういう人たちも四国八十八所の巡拝ツアーだろうか。

さてここからは伊予鉄の久米駅を目指して歩くことになる。クルマなら県道40号線をそのまま北上すれば着くところだが、ちょうど遍路道は県道から離れる。高井という地区を行く。昼食をどうしようかと思うが、このまま駅まで行ってしまうことにする。なお時間的には久米駅に近い浄土寺までお参りできるくらいの時間はあると思うが、これは次回に取っておくことにする。

近郊の住宅地の中を歩く。この日は右手に折り畳み傘、左手に金剛杖という格好で歩いているが、半日雨に降られるというのは初めてのことだった。四国めぐりも半分を過ぎたからか、あるいはこの雨のせいか、杖に貼っているステッカーも少しずつはがれてきている。バファローズのステッカーはともかく、四国アイランドリーグのロゴとキャラクターのシールはもう非売品である。これはこれで四国を回る印としてそのまま残しておきたい。

再び県道40号線に入り、国道11号線との交差点を過ぎる。この辺りから久米地区に入る。ここまで来ると住宅も増えてきた。沿道の久米小学校の校門の前には埴輪が並んでいる。6年生の卒業制作というが、この辺りも古墳の歴史があったのだろうか。

さてこのまま向かえば久米駅に着くわけだが、雨にも濡れたし、せっかくなのでひとっ風呂浴びることにする。何でもこの辺りは東道後温泉というところのようで・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~別格9番「文殊院」、札始大師堂

2017年10月29日 | 四国八十八ヶ所
47番の八坂寺を参拝した後、48番の西林寺に向かう。距離は4.5キロということで、1時間ほどで着く感じである。この辺りは恵原(えばら)地区というところで、周辺の案内板には「お遍路の里」という表示がある。遍路道は一旦ため池のほとりや諏訪神社の前を通り、来る時にバスで通ってきた古い集落の道に出る。

前の記事でも触れたが、この四国めぐりの時は総選挙期間中。候補者の宣伝カーも回っているところ。通りを歩いていると後ろからとある候補の名前を連呼する宣伝カーがやってきた。私を追い越す時、「お遍路中、後ろから失礼します!!」と呼ばれ、車内から運動員の人たちが手を振る。そういうので声をかけられたのは初めて。ちなみにこちらは松山市内でも愛媛2区に属する。

バスで浄瑠璃寺に行く途中に、弘法大師の石像が立つ寺があったのが気になっていた。そして、通りを行くとその寺にやって来た。四国霊場の別格9番の文殊院というところ。別格二十霊場については特に予習していることもなく、こんなところにもあるのかと初めて知った。別格二十霊場とは、八十八所とは別に、弘法大師にゆかりがあったり、伝説が残っていたりする寺で、私のこれまでの四国めぐりの中では、これまで鯖大師、龍光院、十夜ヶ橋というところを訪ねている。それらはスケジュールを組む中で立ち寄ろうとあらかじめ決めていたものだが、この文殊院というのは全くのノーマークだった。

ただ、道沿いの看板を見てうなった。「四国八十八ヶ所発祥の寺院 四国遍路開祖 文殊院」とある。弘法大師が衛門三郎の子どもの供養とともに悪因縁切御修法を行ったとある。衛門三郎というのは・・・第12番焼山寺からの下りにある杖杉庵で登場する。衛門三郎は伊予の長者・豪族で、強欲非道な人物とされている。ある日、屋敷の門前に一人の僧がやって来て食べ物を乞うたが、衛門三郎はこれを追い払う。その後、僧は何日も屋敷に来るが衛門三郎は食べ物を与えるどころか、僧が持っていた鉢を投げ捨てて割ってしまう。僧は立ち去ったが、あくる日から衛門三郎の子どもたちが次々と亡くなった。衛門三郎は、僧が弘法大師であることを悟り、無礼をお詫びしなければと弘法大師を追って四国を回るが、20回回っても弘法大師に会うことができない。そこで21度目に逆回りで回ったところ、焼山寺の麓でようやく弘法大師に出会うことができた。衛門三郎は一連の無礼を詫び、弘法大師もそれを許すとその場で亡くなった。

衛門三郎が四国遍路の開祖であるとか、逆打ちの始まりだとかいう伝説であるが、上に書いたように伊予の国の長者・豪族である。その本拠地というのがこの恵原で、この文殊院は屋敷の跡に建てられたとされている。また、弘法大師も文殊菩薩に導かれてこの地に滞留したことから、文殊院の名前がついたという。

本堂と大師堂が並ぶ形で建っており、せっかくなので本堂でお勤めとする。「四國遍路開祖発祥地」という札が誇らしげに見える。

本堂の前に大きな弘法大師像が立つ。そしてその脇には衛門三郎と妻の石像が立つ。杖杉庵で見た衛門三郎像は、追い続けた弘法大師に許しを請う場面をイメージしていて悲壮感もあったように見えたが、こちらでは弘法大師に深く帰依して「どこまでもお供させていただきますよ」という感じに見える。

納経帳の残りページが少なくなっていることもあり、ご朱印まではいいかなと、再び傘をさして進む。「お遍路の里」を名乗るだけあって、遍路道の案内もきちんと出ており迷うことはない。郊外の住宅や田畑、工場などがある中を黙々と歩くうち、「札始め大師堂」という文字を見る。これは何だろうか。

遍路道沿いに小さなお堂があり、「四国霊場 遍路開祖衛門三郎 札始大師堂」の表札が掲げられている。脇には「お大師様お泊跡」の石碑もある。中にお入りください」との札があったので、雨宿りを兼ねて中に入る。奥には小さな弘法大師堂が祀られており、ここでもお勤めを行う。

この札始大師堂、小村大師堂という名前でその縁起が書かれた紙があったのでいただく。それを読むと、こちらでも衛門三郎に関する話が出てきた。その内容を書くと・・・。

弘法大師が修行と産業振興のためにこの地にやって来て、大河(現在の重信川で、当時は伊予川と呼ばれていた)を渡ろうとする時に日が暮れたので河の中洲の松の木の下で野宿した。しかし雨で川の水があふれて身動きが取れなくなり、弘法大師は法力でこの地ににわか造りの庵を結んだ。それが小村大師堂の由来だという。弘法大師はここを拠点として近隣を回る中で、上記の衛門三郎との話になる。衛門三郎が弘法大師を追いかけて四国を回るにあたり、ここで庵と弘法大師像を見つけて、自分の印として木の名札をお供えして旅立ったという。それが「納札」の由来とされている。

文章の中で目に留まったのが、子どもたちを亡くした衛門三郎が我が身を振り返るところで「上人は私に何か相談する事があったのではないか」と問いかけ、解説として「上人は当時の伊予川の治水に目をつけられたものと思われる。此の時衛門三郎が大師と共に工事をしていたら衛門川とか三郎川とかなっていると思われる」と書かれたところである。弘法大師が衛門三郎の屋敷の門前で食べ物を乞うたのが、地元の有力者に河川の治水への協力を依頼したことのたとえ話というのが興味深かった。実際には、慶長年間に松山城主だった加藤義明の家臣で足立重信という人が治水工事を行ったことから、現在重信川と呼ばれるようになった。

大師堂を後にして、遍路道も県道に出る。そしてその重信川を渡るが、川の上は風が強い。折り畳み傘の骨が折れそうだ。ここは我慢。対岸には河川敷のゴルフ場もある。治水が進んだ現代でもこれだけの広さの川で、弘法大師の当時というのはもっと暴れ川だったのかなと思う。

ここまで来れば西林寺は近い。川を渡るとまた風も穏やかになり、県道沿いに白衣姿の人も見える。これで到着・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~第47番「八坂寺」

2017年10月28日 | 四国八十八ヶ所
雨の中、浄瑠璃寺から八坂寺までの道を歩く。田園地帯と住宅が混在する緩やかな道が続く。四国遍路について書かれたサイトの中で、歩きの場合の雨対策についていろいろ書かれているが、山の中ならともかく、普通の道を歩くなら普通に傘をさせばよいのではないかと思う。暑がりなので、レインコートのほうが煩わしく感じるからだが、菅笠にレインコートでないといけない・・・という論調が多いように思うのだが、どうだろうか。

こちらの山門は仁王像がある堂々としたものではないが、小川にかかる橋に屋根がかけられた形である。その天井には阿弥陀如来のおわす極楽浄土が描かれている。このため山門には「極楽橋」の名がつけられている。

石段を上がると本堂に出る。最近再建されたのか堂々とした造りである。奥には本尊の阿弥陀如来像が見えるが、これはお前立ちのようで、本尊そのものは50年に一度の御開帳だという。

八坂寺は修験道の開祖である役行者が開いたという。今来た感じではそれほど山の中という感じがしないが、奈良時代初め、文武天皇の勅願によりこの地に寺が開かれた時に8ヶ所の坂道を切り開いたという。そこから「八坂寺」と名付けられたとか。その後弘法大師も修行したが、本尊の阿弥陀如来を造ったのは浄土教を広めた恵心僧都源信だという。その後、熊野の修験道の根本道場にもなった。阿弥陀如来と修験道・・何だかあまり結びつくイメージがないが。

本堂の地下には全国の信徒から納められた8000体の阿弥陀如来が並ぶ。かと思えば本堂の隣には閻魔堂があり、地獄道や畜生道などが描かれたパネルもある。地獄、極楽、なかなか慌ただしい。

続いて大師堂にお参りした後、「いやさか不動尊」の案内を見る。駐車場の奥にあるそうで行ってみると、堂々とした不動明王像がにらみを効かせている。「いやさか」とは「弥栄(ますます栄える)」という文字だろうか。こちらは平成17年に造られ、年に一度、護摩火渡り修行が行われるという。昔の修験道の修行を復活させたそうで、地獄、極楽、弘法大師、修験道と、ちょっとした仏教ワールドが繰り広げられている。修験道があるのは、2日前に回った大寶寺、岩屋寺あたりの延長線上なのかなと思う。

これも修行の一環なのか、毎年八坂寺の山伏と一緒に石鎚登山というのも行われているそうだ。

納経所に向かう。境内には平日であるがクルマや歩きで回る人の姿もそこそこあった。ここから次の西林寺に向けて歩く。少し雨が強くなってきた・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~第46番「浄瑠璃寺」

2017年10月27日 | 四国八十八ヶ所
10月16日、今回の四国めぐりの最終日である。天気は雨。この日は松山市郊外を行くコースであり、まだ耐えられるかなと思う。まずは松山市駅に移動して、2日前に久万高原に向かう時に通過した森松まで今度は伊予鉄バスに乗る。ここで丹波行きに乗り換えると、この日最初の札所である浄瑠璃寺の前に行ける。この日は46番の浄瑠璃寺をスタートして、47番八坂寺、48番西林寺を回り、伊予鉄の久米駅まで歩く。距離にすれば8~9キロというところで、久米駅をゴールにしたのは、その次の49番浄土寺が久米駅のすぐ北にあり、その後は道後温泉方面に札所が続くので、ちょうどよい区切りになるかと。

松山駅前のホテルでの朝食後に市内電車で出発したため、松山市駅に着いたのは8時前。森松へのバスは15~20分に1本のペースで出ているが、森松から浄瑠璃寺経由の丹波行きというのが1時間に1本しかない。そこは丹波行きに合わせようと、ホテルを少しゆっくり出た。ダイヤ検索では、松山市駅8時15分発の砥部線断層口行きで8時45分に森松着、8時52分発の丹波行きに乗り換えて9時09分に浄瑠璃寺前というものだった。

朝の松山市駅前。この日は平日、ちょうど通勤通学の時間帯で、郊外電車が着くたびに多くの客が駅前に出てくる。郊外電車から市内電車に乗り継ぐ人の姿も目立つ。ちょうどこの日は総選挙の期間中で、この時間には愛媛1区に希望の党から出馬した女性候補がロータリーで演説中だった。愛媛県内の選挙活動の様子や候補者の主張は地元の愛媛新聞でも読ませていただいたり、「加計問題」も地元の話として触れられていたが、中央とはまた違った捉え方があるようだ。そういうのは旅先ならではの面白さと思う。ただ、愛媛1区は自民党の塩崎恭久・元厚生労働相のお膝元。希望の党の候補も、私がバスを待ちながら耳にした演説の中でしきりに「しがらみのない政治」「私にはしがらみがありません」と繰り返していたが、中身はそれだけのことで、通勤客もそれに耳を傾ける様子もなく足早に出勤していく。結局選挙は塩崎氏の圧勝で、希望の党は比例復活もなかった。

・・・さて、話が長くなったところでバスに乗る。市の中心とは反対方向なので乗客は少ないが、それでも中心部の信号待ちで時間が思ったよりかかる。バスのダイヤもそれを加味している感じでもないようだ。ダイヤ上では7分の接続時間があるが、車内前方で時折流れる主要停留所の到着予定時刻が、表示のたびに少しずつ遅れた時刻で出てくる。スマホの時計と車内前方の表示、そして路線図を見て、「森松に着いたらバスは出て行った後だった・・・」ということになりはしないかと焦る。1時間後には次の便があるが、1時間待つのはもったいない。

時刻は8時52分を回っていたかもしれないが、森松に到着。すると、車道から一つ入ったスペースに「丹波」と表示されたバスが停まっていた。これはこちらの到着を待ってくれたのかと喜んで乗り移る。もう一人地元の方らしいのも乗り継いだ。私たちが乗るのを待って運転手が入り、「お待たせしました」と発車する。ローカル線列車の乗り換えのようだが、これが逆なら、松山市駅行きは問答無用で発車するだろう。

郊外の区間で乗客は少ないが、前には菅笠に金剛杖を備える男性と、そんな出で立ちではないが運転手と寺の話をする男性がいる。このバス路線、浄瑠璃寺へのアクセスとしての役割が結構あるのかな。

浄瑠璃寺前のバス停に着き、私と後2人の男性が降りる。菅笠と金剛杖の人はレインコートを着て、「これから三坂峠ですか?」と私に尋ねる。三坂峠は、この2日前に久万高原を訪ねた時に急な坂道をバスでたどったが、45番の岩屋寺から浄瑠璃寺まで歩くのに通る。ここも遍路道の風情があるとしておすすめだそうだが、私の場合は国道をバスで通過して終わりである。この人、浄瑠璃寺には目もくれずに峠に向かって歩き始めたのは、ここまで来た逆打ちか、あるいは三坂峠まで行ってからここに戻るのか。手慣れた感じだったので前者とは思うが・・。

浄瑠璃寺に入る。山門があるわけではなく、石段を上がると境内である。結構手狭に感じるが、緑に覆われている様子が風情を感じさせる。

浄瑠璃寺は奈良時代の行基が開いたとされていて、東方瑠璃光浄土から浄瑠璃寺の名前がついたとされる。本尊は瑠璃光浄土におわす薬師如来。奈良時代にまで起源をたどることができる寺院には薬師如来が本尊というのが多いように思う。

その後、弘法大師が再興して、いくつかの火災にも遭ったが江戸時代に現在に近い形で再建された。また、境内の中央にある巨木・イブキビャクシンは樹齢1000年を超えるという。これがご神木というか、寺のシンボルのように生えている。

納経所へ向かう。今年は雨が多いのが難儀だと、寺の方がいう。先月の台風上陸の時は、重信川も氾濫しそうになったし、この辺りも滅多にないくらいの大雨になったという。「高知や徳島ならこのくらいはよくあることかもしれませんが、松山はなかなかそこまで降らないので・・・」と恐縮した感じである。ちなみにこの日も雨で、翌週、総選挙と重なった22日は台風21号が西日本から東日本に大きな被害をもたらした。思えば、前回の台風による中止からの今回の四国めぐりだが、これをこの次の週末に始めていればまた台風襲来だったし、この日の雨も、「この程度の雨なら仕方ないか」と、割り切って納得しなければならないなと思う。

次の八坂寺へは700メートルとある。1キロないというのは気楽なものである。雨が降る中、ここまでは電車やバスでの移動だったので我慢していた折り畳み傘を取り出し、右手に傘、左手に金剛杖という格好で歩いて行く・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~松山での第2夜、ちょっと話は脱線しますが・・

2017年10月25日 | 四国八十八ヶ所
15日は伊予灘ものがたり、内子町と来て、伊予市まで戻ってきた。ここで下車したのは、伊予鉄の郊外電車の郡中線に乗るためである。ここでも行きと帰りでルートを変えてみる。こちらは15分に1本の頻度で走っているし、電車は元京王の車両とはいえ都市型である。また伊予鉄には独自のICカードもある。地元の足として根付いている感じがする。沿線も、予讃線に比べれば住宅の数が多いように見える。

25分ほどで松山市に到着。郡中線、高浜線、横河原線が集まる中心駅で、駅としては松山駅より近代的である。駅の真上はいよてつ高島屋百貨店もある。

まだ時間があるので、松山城とか坂の上の雲ミュージアムにでも行こうと思えば行けるが、雨も降り続いているし、また次回も松山に来るのでその時に取っておくことにする。しばらく百貨店の中の紀伊国屋書店で過ごし、市内電車で松山駅に移動する。これで、松山から伊予大洲までを8の字の形で回ったことになる。

向かったのは前日と同じ駅前の喜助の湯。雨に降られたので人心地つく。また、休憩の広間でやっていたのが、クライマックスシリーズのセ・リーグファーストステージ、阪神対DeNAの第2戦。あの、甲子園球場のグラウンドが田んぼのようになった中での試合である。ここのテレビで見たときはまだそこまででもなく、試合も阪神が優勢だったが、この後エラいことになった試合である。

いずれもドーム球場で順調に日程が進み、ソフトバンクが優勝チームの底力を見せて勝ち進んだパ・リーグに対して、セ・リーグのクライマックスは雨がいろいろ影響した。ファーストステージは最初「最悪全試合中止で阪神が不戦勝」ということも言われていたが、田んぼの中での1戦をDeNAが取ったことで、いい意味で吹っ切れたのだろう。阪神に連勝して広島に挑む。第1戦が雨のため5回コールド負けだったが、台風にともなう雨で2試合順延となったのが休養と投手陣の再編成につながった形になった。広島に4連勝で日本シリーズ進出となった。その「下克上」のきっかけになった田んぼの試合を松山のテレビで見たというのも、四国めぐりの思い出の場面になりそうだ(日本シリーズは、やはりパ・リーグのファンとして、ソフトバンクに頑張ってほしいが)。

話の脱線ついでに、独立リーグの日本一を決めるグランドチャンピオンシップにも触れておく。元々、松山での開催を期待してこの14日から来たわけなので。

全5戦、先に3勝すれば日本一で信濃と徳島の対戦となった7日、8日の長野での試合は、第1戦が信濃、第2戦が徳島が勝った。そして舞台を徳島に移した14日の第3戦は徳島が3対0で勝利して王手となった。

しかし、この15日、そして翌16日と2日続けて雨天中止。17日の第4戦は信濃が1対0で勝って2勝2敗。最終戦第5戦も1点を争う試合で、2対1で徳島が勝利した。こちらも2日連続中止は初めてではないだろうか。

なお、ドラフト会議は26日。独立リーグからどのくらいの指名を受けるか楽しみである。

・・・話が脱線したところで、夕食とする。この日もホテルサンルートの周りということで、ホテルの裏の「ぶらぶらある記」に入る。魚や郷土料理もあるが、普通に焼き鳥もあれば激辛の上海赤もつ鍋というメニューも出る。平日なら地元のサラリーマンが来そうな感じの店で、大衆的な感じもする。

鯛やヒラメの造り、鶏皮焼きなどを楽しむ。個人的にはホッピーがあったのはよかった。店員が中と外を別に持ってきたが、その場でビンに入った外を全部注ぐ。そこは自分で調節しながら、中と外のおかわりを繰り返すのがホッピーの面白さだと思うが、まあ、店の流儀なら文句は言わない。美味しくいただいた。

最後は鯛めしを注文。釜飯スタイルで、出来上がった状態の釜で来たが、これはこれで悪くない味だった。ここも、同じ鯛めしで南予・宇和島流か、東予・瀬戸内流か両方置いている。松山なら、複数人で来れば一度に両方が楽しめる。

この後はホテルに戻り、田んぼの試合の中継を最後まで観て早めに寝る。翌16日は貴重な休暇をいただいての最終日で、乗り鉄、呑み鉄への代替はできない。札所を回り、次につなげるようにする。さて天気はどうなるか・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~内子町歩き

2017年10月24日 | 四国八十八ヶ所
伊予大洲から松山には内子線回りで戻るとして、特急に乗車。内子で下車する。ここでは2時間あまりを町歩きとする。一度回ったことはあるがもう10数年前のことである。雨がやむ様子もなく、高架駅から傘をさして歩く。まず町並みまでは数百メートルの距離だ。

旧街道に入る。内子もかつての遍路道の一部であり、今も遍路宿として営業しているところもあるそうだ。この先は第44番の久万高原の大寳寺。歩くとハードなコースである。

まずは、内子で最も有名な建物と言っていい内子座に着く。大正天皇の即位を祝って、地元の有志が建てた芝居小屋。地元の人たちの娯楽の場としての役目を果たしてきた。一時取り壊しの話も出たが、町に寄贈され、改修も施して現在も劇場として、またまちづくりの拠点として活躍している。

公演がない時は観光客も見学ができる。舞台や枡席、地下のからくりや大向こうなど、さまざまな角度から芝居小屋を眺める。自分の体がデカイだけかもしれないが、枡席というのは疲れそうに思うが・・。ただ、こうした劇場での公演の雰囲気というのは、現代のホール式の建物とはまた違うものか、一度観てみたいなと思う。個人的には歌舞伎より落語のほうが魅力あるが。

内子座を出て先に進む。昔の警察署の建物がビジターセンターだったり、人形や調度品で昔の町家の店先を再現した商いと暮らしの博物館もある。ふと前を見ると、「南無大師遍照金剛」の白衣の上にレインコートを着て、菅笠に折り畳み傘という重装備の歩き遍路がいる。これから歩いて久万高原を目指すのだろうか。

伊予銀行の角を曲がると八日市の伝統的な町並みに行くが、いったん直進して細い路地を入る。着いたのは高橋邸というところ。高橋龍太郎という方の生家である。「高橋龍太郎て誰やねん」という方がほとんどだと思うが、戦前の産業界で大日本麦酒を経営していた方である。この大日本麦酒、現在のアサヒビールとサッポロビールの前身である。ビールを日本の大衆の飲み物に・・と尽力した人で、私にとっては手を合わせたくなるくらいの人だ。

邸宅の玄関で丁重に迎えられ(内子は人気でも、高橋邸に来る人はそれほどでもないとのこと)、座敷や応接間を見学する。ビール関係の展示もあるが、私がうなったのば別にある。というか、今回これを観るために高橋邸に来たと言ってもいい。

「高橋ユニオンズ」。かつてパ・リーグに所属していた球団である。パ・リーグ発足当時の不安定なリーグ運営の中で、言わば「個人出資」の形でできた高橋ユニオンズ。実質3年、しかも2年目はトンボ・ユニオンズの名前、成績も史上史上最弱と言っていいくらいの球団だったが、今でも語り継がれる球団である。フジテレビ「プロ野球ニュース」の佐々木信也さんの出身球団でもあり、この人のおかげで伝わっている話も多い。

「高橋」などと、オーナーの名前がそのまま球団名になったというのは過去にも現在にもないこと。見ようによってはオーナーのワンマンチームになるが、当時の世相ではそうではないはずだ。きっと、リーグの実情を見て、当時のパ・リーグ会長だった永田雅一に説得されて、男気なのか仕方なくなのかで引き受けたのだと思う。そうした方が内子の町中で静かに隠居しているようで、これも面白いなと感じる。高橋ユニオンズの歴史について書かれたノンフィクション『最弱球団高橋ユニオンズ青春記』(長谷川晶一著)の一冊を読んでみようか。

再び通りに戻り、八日市の町並みを歩く。ここについては内子の町並みの名所であり、その一々は触れない。歩いてみて、道の両側の建物の並びにうなるばかりである。

その一軒、中学校の向かいに堂々と建つのが上芳我邸である。内子は江戸時代から製蝋で栄えたが、その中でも大家だったところだ。今では内子で和蝋燭づくりを営んでいるのは別の1軒だけで、上芳我邸は当時の歴史を伝える役目である。

町並み保存の取り組みの一つとして平成に入って大修復をしたそうで、その様子も紹介されている。

また、別に建てられた木蝋資料館では、和蝋燭の製造工程が道具や史料、模型で紹介されている。ハゼの実が原料というのを初めて知った。ハゼの実を蒸して押し潰すと、脂肪分が採れる。これを型に取ったのが木蝋で、和蝋燭だけではなく、軟膏やクレヨンの原料、果てはCDにも使われている。へぇ~とうなったのは、大相撲の力士の髷つけ油にも使われていること。木蝋を椿などの油で伸ばし、香料を混ぜているそうだ。

ハゼの木は南から伝わったとされ、国内では主に九州や四国で生息、栽培されている。ただ、現在の生活で和蝋燭にせよ、洋蝋燭にせよ、蝋燭を使う場面というのはどのくらいあるだろうか。四国八十八所を回る中で蝋燭は灯しているが、100円ショップで買ったものである。内子の和蝋燭・・・寺の本堂なら使っているところもあるのだろうが、ただの札所めぐりとなると、こういうところが簡易なものになってしまう。線香も100円ショップ、数珠は・・・親からいただいた、奈良だったか京都だったかの仏具店のものを使っているが、今や数珠も100円ショップで売っている。

上芳我邸ではかつての製蝋の道具や工場も残されていて、内子のこの町並みを作る元となった伝統産業についてよくわかる。なかなか見ごたえのあるスポットだった。

ここで折り返しとして、町並みから少し離れた国道沿いのフジにあるセルフうどん「なみへい」でうどんと天ぷらの昼食として、駅に戻る。内子には「屋根つき橋」というのがあり、田丸橋や弓削神社の橋が知られているそうだ。私もある方が訪ねた写真を見せてもらうことがあり、行ってみたいと思ったが、クルマでないと行けないところとあって断念。またいつか、内子を訪ねることがあれば、レンタカーを使って行くとするか。

帰りは鈍行に乗る。13時55分発の松山行きで、キハ54の単行。全てロングシートだが、最近はこの手の座席の車両が増えているので慣れている。空いていれば脚も伸ばせて広く使えるのはよい。八幡浜のほうでちょっとした事故があったそうで、遅れた特急を先に通した後、定刻から10分ほど遅れて発車する。もう松山に戻るだけのことで、10分の遅れは別にどうということもない。

往路の「愛ある伊予灘線」を観光列車「伊予灘ものがたり」で優雅?にたどったのとは対照的に、山の区間をワンマンのローカル車両で地味にたどる。ただこれも鉄道旅行の楽しみである。向井原で「愛ある伊予灘線」と合流し、平野部に戻って伊予市に到着。このまま乗っていればホテル最寄の松山に戻れるのだが、ここで下車する。今日は呑み鉄・・もとい乗り鉄の日でもある。そのまま松山に戻るのも芸がないなということで・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~「伊予灘ものがたり」乗車

2017年10月23日 | 四国八十八ヶ所
10月15日、第12回四国八十八所めぐりの2日目は朝から雨だった。

ホテルサンルートは松山駅近く、また予讃線の線路沿いにある。ちょうど割り当てられた部屋が線路側で、列車が行き交うのを上から見下ろすことができる。通常の列車の本数よりも踏切が鳴って車両の音がする回数が多いように思うが、松山駅横の車庫の入出庫のために、一旦引き込み線でスイッチバックするためである。それがちょうどホテルの真横である。角度の関係で写真は撮らなかったが、特急車両、1両のワンマンカーが行き交うのは見ていて楽しい。

レストランでバイキングの朝食をとり、駅に向かう。この日は札所めぐりはお休みということで、金剛杖、白衣、納経帳などの用具は全て部屋に残す。今日は乗り鉄と観光である。

そのお目当ては観光列車「伊予灘ものがたり」である。3年前に予讃線の松山~伊予大洲、八幡浜間で運転を開始したが、伊予灘沿いの眺めのよいところを走ることや、列車の中で楽しめる料理が人気ということで、乗車率も高い。予讃線は前回夏の時に乗ったが、「伊予灘ものがたり」は時間帯が合わず(途中の駅ですれ違ったが)乗る機会はなかった。今回、当初の計画では14日の昼に松山入りして、午後は内子の町歩き、そして15日に1日かけて久万高原に向かう・・・というものだったが、天候の関係で14日に久万高原に行ったことはこれまで書いてきた通りである。このため15日がまるまる空きになったわけだが、土日祝日のみ運転の「伊予灘ものがたり」2往復4列車のどれかに乗れないかなという気になった。

前の日、人気列車でもあるし満席かな・・?と思いつつ、松山駅のみどりの窓口で「伊予灘ものがたり」のどれかが空いていないか訊いてみた。すると「道後編(夕方の八幡浜~松山便)『以外』なら空いています」とのこと。どれかが1席空いていればいいかなというくらいの気持ちで訊ねたので、これは意外だった。前週が3連休だったからその反動だろうか。どれにするか選べるというのも予想外だったが、松山を朝8時26分に発車する伊予大洲行きの「大洲編」を購入する。まずは伊予大洲まで予讃線の長浜回り(現在は「愛ある伊予灘線」の愛称)で伊予大洲まで行き、帰りに内子線経由で内子で下車、町歩きの後で松山に戻るというコースにした。

朝の松山駅の1番ホーム。8時10分発の岡山・高松行きの特急が出た後、ホームには「伊予灘ものがたり」の乗客が集まってくる。いかにもテツらしい姿は2~3人くらい(私もその中の一人かな)で、年齢層はさまざまだが女性の姿が目立つ。これは「車内での料理」というのが大きなポイントではないだろうか。ただの展望列車だったら子どもたちや「大きいお友達」の占める割合が高くなるだろう。

キハ47の2両編成がやって来た。乗車口は2ヶ所で、それぞれにアテンダントがお出迎えである。運転手、車掌の他にチーフ(車内放送)担当のアテンダント1名、そして各車両に2名ずつアテンダントがつく。大洲側の1号車に陣取る。進行方向右側(海側)のカウンター席が指定されている。進行方向左側(山側)の席も一段高いところに設けられているので海の景色は楽しめる。

それにしても、座席は列車というよりもレストランである。テーブルクロスもかけられ、席にはお手拭と箸、箸置きがセットされている。なお、「伊予灘ものがたり」は飲食物の持ち込みは禁止という。ペットボトルのお茶や水くらいならいいのかもしれないが、駅弁やコンビニ弁当はダメだろう。列車ではなく「動くレストラン」と考えれば納得できる。ならば私も料理を楽しめばいいのだが・・・食事は4日前までの事前予約制である。前日に思い立って指定席が取れてもそれにはありつけない。

2両とも半分ほどの入りで発車する。発車時にはホームで駅の人たちが手を振ってお見送りである。またアテンダントの案内で反対側を向くと、車両区の係員も傘をさして一列に並んで手を振ってくる。えらい歓迎ぶりである。

まずは市街地を抜け、市坪では坊ちゃんスタジアムの横を通る。そういえば、今回の四国めぐりではこの球場に来ていたかもしれなかったのだ。それが予定がいろいろ変わって「伊予灘ものがたり」に揺られることになるとは思っていなかった。

しばらくするとアテンダントがワゴンに料理を載せてやってきた。もちろんこれは事前予約の方用。順番に配膳される中、結局は私以外の全ての客の席に料理が載っていた。まあ、この列車のメインが料理なのだから当然といえば当然だろう。朝の大洲編は優雅な朝食ということで、手作りのこだわりパンに地元契約農家の生野菜サラダなどが並ぶプレートである。

先ほどホテルで朝食を取ってきたばかりだし、料理は事前予約なのだから仕方がないが、周りの皆さんが優雅な朝食の中で私一人テーブルに何もないのは、ちょっと淋しい。別にそう言われたわけではないが、「あの人は可哀そうな人なのかな」という視線を感じないこともない。

だからというわけではないが・・・幸い、この列車の中には単品メニューもある。そこで目についたのが、「飲み比べセット」。6種類の地酒の中から3種類を選ぶというもの。優雅な朝食に対して「呑み鉄」・・・。上等やないですか。そこで愛媛の酒米「しずく媛」でつくった「大辛口」、「初雪盃」、「宮の舞」という3種類を選択。それらに口をつけるうちに、列車は伊予灘にさしかかる。ここからは速度も落としての運転である。

あいにくの天候ではあるが、こういう車両の中から見る海もよいものである。パンフレットそのままという景色というのはそうそう見られるものではない。

列車は途中唯一の停車駅である下灘に到着。下灘といえば海に面した駅ということで最近特に人気が集まっている駅である。ここで8分間停車。駅には地元の人がお出迎えである。乗客それぞれが写真撮影をする。天気のせいで海の色が暗いのは残念だが、列車と海の組み合わせはやはりすばらしい。下灘の駅に降り立つのは初めてだったが、ホッとできる一時だった。

この後は隣の串駅を出たところの鉄橋、ホームの中央に伊予市と大洲市の境界線がある喜多灘駅を通る。これらも車窓ポイントとしてアテンダントからアナウンスがある。また、乗客一グループごとにアテンダントが声をかけ、自分のカメラやスマホでの記念撮影をしてくれる。「伊予灘ものがたり」のボードを持ち、「ハイ、チーズ」の代わりに「ハイ、伊~予(い~よ)」の掛け声でシャッターを押してくれる。私も呑み鉄の後でご機嫌な顔をしていたかもしれない。

伊予長浜で伊予灘から離れ、肱川沿いに走る。肱川の河口には、国の重要文化財である赤い長浜大橋が架かっている。現役日本最古の可動橋ということで、車窓を見ると橋げたが上がっている。「伊予灘ものがたり」の通過に合わせて上がっているという案内があり、車内から歓声があがる。こうしたことも含めて、地元の人たちの歓迎ぶりというのが伝わってくる。

歓迎ぶりといえば、伊予大洲の手前の五郎駅もそうだ。五郎駅は駅に野生のタヌキがやってくることから「たぬきの駅」ということでPRしているそうだが、駅に近づくと沿線の人たちが家の前に出て手を振ってのお出迎え。またホームにはタヌキの着ぐるみをまとった「たぬき駅長」もいる。列車はゆっくりと通過するが、車内の人と手を振り合う光景というのも心和むものがある。

アテンダントから乗客一人一人の席に挨拶があり、10時28分、松山からゆっくり2時間かけて伊予大洲に到着。ホームには折り返し便となる「双海編」を待つ乗客もいる。「大洲編」に乗った人の中にも折り返し「双海編」に乗る人もいるようだ。

さて私はといえば、伊予大洲は前回町歩きをしたので今回はいいかなと思う。ただ、次に内子に向かう列車は1時間待ち。その間、駅から歩いて数分のショッピングセンターのフジグランに向かう。雨も降っているし、確か書店があったのでそこで時間をつぶそうと思った。そこでフロアに上がったのだが、ふと見るとヘアカットの専門店がテナントで入っていた。ちょっと気分転換に入ってみる。顔そりはないが髪型を整えてもらい、それでも次の特急に間に合った。

今度は先ほどと対照的に山の中を走り抜け、内子に到着。雨が降っていたがしばし町歩きということで・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~松山での夜、明日はどうするか

2017年10月22日 | 四国八十八ヶ所
14日、久万高原町の札所二つを回り終えてバスで松山駅まで戻る。時刻は20時前。

この日は松山駅近くのホテルサンルートにチェックイン。松山にはこれまで何回か泊まったことがあるが、道後や繁華街というところが多く、JR駅前に泊まるのは初めてである。市の中心部から外れているが、行きが列車、帰りがJR高速バスという今回の移動では都合がいい。

半日歩いて汗もかいているが、腹も減っている。また松山に来たからには温泉に入りたい。ということで、まずは部屋のシャワーでさっぱりとしてから夕食とする。ホテルの中にもレストランがあるが、外に出る。かと言って今から道後や大街道まで行くのは面倒ということで、駅前に何かないかと思っていた。

ただそれは心配無用で、ホテルの向かいに「たべもの市場Sai」という店がある。松山に何店舗かある地元チェーン店とあり、地元料理もいただけるようでこちらを選択する。まずはビールでお疲れ様だ。

10月は愛媛県で国体が行われていて、この店では記念メニューということで「ひめ・さぶろう」という三点セットがある。じゃこ天を揚げたじゃこカツ、地鶏の炭火焼、地元産の玉子を使っただし巻のセットで、まずは酒のアテとしてちょうどよい。

じゃこわさびというのもある。じゃこ天の上にわさびが乗っていて、いわば板わさのようなもの。こういう食べ方もあるのだ。

また刺身もいただく。やはり瀬戸内となると鯛やハマチがメインとなってくる。

締めは鯛めしとする。鯛めしというと、前回の四国めぐりで南予~宇和島を回った時にいただいたが、鯛の切り身をだし汁になじませて、ご飯にかけて食べるもの。ただ同じ伊予でも東部のほうは、鯛の炊き込みご飯である。大きな釜に鯛がまるまる一匹乗ったものを旅やグルメ番組で見ることがある。松山は県の中心、中央ということもあってか、その両方を味わうことができる。この店では「宇和島鯛めし」と「鯛釜飯」ということで両方あったが、さすがに両方は無理なので、四国めぐりで初めてとなる鯛釜飯を選ぶ。固形燃料のコンロで、25分ほどかかる。だからこれは早めに注文しておいたほうがよい。炊き上がるにつれていい香りがしてくる。

そして出来上がりがこちら。さすがに鯛一匹ではないが、切り身も食べやすい感じで入っていて、愛媛東部流の鯛めしもなかなかいける。

これで食事も落ち着き、向かったのはすぐ近くのキスケBOX。前回訪ねて気に入った喜助の湯に入浴とする。道後まで行かなくても、駅前で道後の湯が楽しめるところだ。アルカリ単純泉の椿の湯や、ナトリウム泉の炭酸の湯、その他露天風呂や壷湯などが楽しめる。浴槽に浸かりながら、明日はどう動こうかなと思う。

今回は16日に有給休暇をいただいたので、松山滞在はこの日を入れて3日間。札所めぐりということなら、次は46番の浄瑠璃寺から始まり、松山市街の南部から東部を回り、道後の51番石手寺まで6つ、市街北西部の三津浜にある太山寺、円明寺の2つと、松山市には8つの札所がある。2日間あれば十分回れる範囲にあるが、せっかく松山まで来ているのだし、他の観光地も回りたい。また、これまでで通ることができなかった内子にも行ってみたい。元々一度で片づけようとは思わず、何回かに分けて回るつもりである。

ホテルに戻り明日以降の天気をチェックする。15日は完全な傘マーク、16日は曇りと傘マークである。今日は何とか乗り切ったが、明日からは雨からは逃れられないようだ。そこで決めたのは、15日は札所めぐりは完全にお休みとして、内子まで出向くことにする。そして16日は朝から浄瑠璃寺に向かい、3ヶ所を回って伊予鉄の久米駅をゴールということにした。ガチの歩き遍路が聞いたら目を剥きそうな、なめとんかと言われそうな動きである。

15日に西のほうに向かうことにしたのは、今回愛媛で人気の「あの列車」に乗ることができることもある。雨というのは残念だが、乗り鉄としては楽しみということで・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~第45番「岩屋寺」

2017年10月21日 | 四国八十八ヶ所
大寶寺から八丁坂を経て、ようやく下りにさしかかる。遍路ころがしとは言わないが、最後は結構長い下りである。目につくのは道沿いに点在する小さな石像。岩屋寺までの丁石かと思うがそうでもない。また、彫られているのもこれまでの道沿いにあった観音像や地蔵像とは一味違う。

前方に大きな岩が見えてきた。二つに割れていて、その真ん中には扉、そしてお堂がある。祀られているのは赤い不動明王。ここが逼割禅定(せりわりぜんじょう)と呼ばれる行場である。

岩屋寺というところは古くから山岳信仰、修験道の修行の場として開かれていた。寺の伝説によれば、弘法大師が修行の地を探してこの山にやってきた時、そこで800年の間修行をしていたという法華仙人という女性に出会う。法華仙人は弘法大師を立派な僧だと見て帰依し、この山を修行の場として献上したという。その後も多くの人が修行の場として訪れており、踊り念仏の時宗を開いた一遍上人も伊予の産まれだからか、逼割禅定でも修行したそうだ。

その逼割禅定は岩場を梯子や鎖で上って行く。ただ、これは誰でも行けるわけではなく、納経所で扉の鍵を借りて中に入るという。観光気分ではなく、やはり修行という気構えが必要なのだろう。もっとも、現在梯子の老朽化ということで立ち入りはできないとある。後で納経所に行った時、梯子や鎖の修復の寄進を受け付けていた。

改めて見ると、道沿いにある石像は不動明王の眷属三十六童子であるのがわかる。ところによっては童子の名前が書かれた幟もある。これまで、西国三十三所や四国八十八所のお砂踏みというのに出会ったことはあるが、三十六童子めぐりというのは初めてである。今、近畿三十六不動めぐりも並行して始めていることもあり、これにはうなる。岩屋寺の本堂から一巡するコースにもなっていて、今回は八丁坂の方から来たので裏側から入って通り抜ける形になった。時刻は16時を回っており、それらを見て回る時間がないのが残念である。朝から久万高原に来ていればこうしたところも含めて歩けたのになと思うが、そういう選択をしたのだから何も言わない。

三十六童子を回るうち、下のほうから団体が唱える般若心経、不動明王の真言が聞こえてくる。そして山門をくぐる。ここに山門があるということは、昔の遍路道から見ればこちらが正門なのかな。

そして入った境内、これもまたワイルドな感じ。山門側から大師堂、本堂である不動堂の順に並ぶが、その背後は無数の穴が開いた巨大な岩山である。大昔は海底だったそうで、それがこの高さまで隆起したものだという。また本堂の下には、弘法大師が修行したとされる穴禅定というのもある。

ここまで四国八十八所の半分の札所を訪ねてきたが、このワイルドさというのは実に印象に残る。岩場の風情(まさに岩屋寺の名前の通り)を感じながらお勤めとする。そして大師堂に移ると、階段の下から、ここまで抜いたり抜かれたりしてきた二人連れがやってきた。「お兄さん早いなあ~」と言われる。ただ下から上ってきたということは、八丁坂は通らずに古岩屋からの車道を歩いてきたのだろうか。私が境内で休んでいるとまた階段を下りて行った。

16時半を回り、納経時間切れまであと少しというところでご朱印をいただく。

この岩屋寺、八丁坂方面から来たら下りの途中に境内がある形だが、クルマで来たら駐車場から長い参道を歩くことになる。完全にクルマはシャットアウトで、クルマやバスツアーで来た人にとっては「難所」とされている。岩屋寺と聞いて頭に浮かぶのは、「水曜どうでしょう」。ちょうど冬場に来たどうでしょう班、凍結した参道で滑ったりするが、この山の景色を見て大泉洋さんが「ありがたいなあ」と「悟りを開く」という場面である(その後駐車場やクルマの中でディレクター陣と食べ物を巡って揉めるのがお約束で・・・)。全く予備知識なしで来て「ありがたいなあ」という言葉が出たのは素の反応で、大泉さんにそう言わせるだけのものが岩屋寺にはあるのかなと思いながら来たわけだが、私も「ありがたいなあ」と素直に感じた。

参道を下りる途中で17時となり、「夕焼け小焼け」のメロディが流れる。「山のお寺の鐘が鳴る」の歌詞の通り、後で鐘の音が一つゴーンと鳴る。坂道を下り、橋を渡ったところにバス停があった。小屋になっていて、17時40分までバスを待つ。半日歩いて汗をかいたし、他に乗客の姿もないのでシャツを着替える。途中少しだけ雨に降られたが、何とか岩屋寺まで行くことができてよかった。日程変更も当たりだったと思う。これで明日からの予定も変わってくる。

ただ、ここからバスまでの時間が長く感じる。17時を回って急に暗くなってきた。参拝者も次々とクルマで国道33号線方面に向けて出て行く。そんな中でもうすぐバスの時間と言うことで小屋の外に出ると、1台のクルマが停まった。運転手は笈摺を着ていて「乗りますか?」と声をかけてくれる。ありがたかったが、バスがもうすぐ来るということもあり、そこはお礼だけ言って辞退する。

17時40分を回ったが、バスは来ない。来るのは間違いないはずだが、山の中、しかも暗くなっていくところで一瞬不安になる。ローカルバスに乗りたいからと、クルマに乗せていただくのを辞退したが、ふと、これはありがたく受けたほうが良かったのかなと思う。

ただ、そんな不安は一瞬のことだった。5分ほど遅れたが、バスはやってきた。途中渋滞するわけでもないだろうに遅れるのはなぜかと思うが、久万高原では待ち時間があるので影響はない。1日3本、曜日や季節によってはさらに少なくなるこの路線、ともかく来てくれて安心した。久万高原から景勝地の面河渓まで走る便だが、乗り込むと先客は一人だけ。整理券を取るろうとすると、運転手は「番号覚えておいてください」と運賃表示板を指さす。整理券が出ないのか、客が少ないから出さないのか。ここから県道を一気に走るが、暗いので景色は見えない。二人連れが泊まる古岩屋荘の灯りも山の中の一軒宿の風情である。私の八十八所めぐりでは町のビジネスホテルに泊まるのだが、時にはこうしたところに泊まってもいいかなと思う。

途中歩いて来た区間も通り、20分ほどで久万高原に到着。時刻は18時過ぎだがすっかり真っ暗である。久万中学校のバス停から松山駅行きのJRバスは18時41分。来る時に立ち寄った道の駅の売店は営業時間が終わっていたので、バス停向かいのドラッグストアで時間をつぶす。

やって来たバスも少ない乗客だった。後はこれに乗って松山駅まで1時間揺られる。少しずつ周りが明るくなってきたのでホッとする。そして市の繁華街、三番町から一番町を通る。バス通り沿いの風俗店の無料案内所を覗き込む人の姿もある。土曜日の夜、これからが賑わう時間帯である。

19時50分、松山駅に到着。この14日、15日は駅前で連泊となる・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~八丁坂から岩屋寺へ

2017年10月20日 | 四国八十八ヶ所
公民館でのお接待(ここまでのものを受けたのは初めて)の後、再び県道を歩く。岩屋寺まではまだ6.5キロあるが、しばらくは平坦な道である。集落を抜けると、「四国のみち」の標識と遍路道の札やステッカーが出て、県道脇の道を歩く。

ここで再び、バスからの二人連れを追い越す。周りをキョロキョロ見渡している中で、先に行ったはずの私が後ろから来たのに驚いた様子である。まずは、「この道で合ってますかね?」と訊かれる。私も初めてなので断言はできないが、標識もあるし、これで合っているはずである。そして「どっか行ってたんですか?」と来る。先ほど公民館でのお接待所で少し休んでいたと言うと、「しまった!」と残念がっていた。この前の大寳寺で、歩きの人から途中にお接待所があると聞いていたそうで、それがどこなのかをキョロキョロ探していたという。残念ながら過ぎた後ということで、苦笑い。この後、岩屋寺まで行った後は県道沿いの国民宿舎古岩屋荘に泊まるとのことで、帰り道で寄ることができればと思う。

再び追い越す形になって、県道から山道への入口にさしかかる。するとここで雨粒が落ちてきた。しかも、強い感じ。さすがにこれはこのまま歩くことはできない。ベンチでリュックを下ろし、レインコートを取り出す。とりあえず上だけ羽織っておけばよいか。実はこれまでの四国八十八所めぐりで雨具を使ったのは、阿波の焼山寺に向かう前に歩いた徳島線鴨島駅から藤井寺の間だけである。まあ、雨が降らないタイミングを選んで四国に来ていただけなのかもしれないが、ここで四国初めてのレインコート。

この後、しばらくの辛抱だと言い聞かせて山道を歩いて進む。何本もの倒木に出くわす。これを退かせるところまでなかなか手が回らないのだろう。山道を歩くとこうした放置プレイを見かけることがあるが、ここまで巨木が何本も道を塞ぐ形で倒れているのを見ると、わざとそうしているのかなとも思ってしまう。

ここは比較的平坦だったが、八丁坂の上り口に着く。ここで15時。岩屋寺までは3キロほどだが、ここからが正念場の上り坂である。岩屋寺での山岳修行の一環の八丁坂、1キロ近い道のりである。幸い雨が止んだので、レインコートをリュックに戻して、改めて白衣姿で出発する。

この八丁坂が「遍路ころがし」に数えられているかはわからないが、やはりキツい。最初は勢いで上ったが、そのうち息が切れる。ただ、立ち止まってしまってはダメで、杖の力を借りながら一歩ずつでも足を前に出す。足を出しながら、遍路ころがしとしてこれまでにたどった焼山寺や太龍寺などはどうだったかと思いを致す。

長い時間のように思えたが、坂を上りきった石碑のところで、20分ほどだった。かつてはこの石碑があるところに茶店があったという。ここでしばらく息を整えて落ち着く。岩屋寺まではまだ2キロほどあるが、上り坂のキツいのはこれで終わりということで、やれやれ。納経所のリミットである17時は無事にクリアできそうだ。

後は多少のアップダウンを繰り返しながらの岩屋寺への道である。現在の県道をクルマで走ってから入るのとは反対の方向から行くわけだが、こうした道だからこそ通りすがりに見るものもある。次は岩屋寺の記事だが、そのことについても合わせて書いてみよう・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~岩屋寺への道

2017年10月19日 | 四国八十八ヶ所
44番の大寳寺を出たのが13時、この後およそ10キロを歩いて、岩屋寺の参拝を17時までに終わらせるのがこの14日の行程である。もちろん、その後岩屋寺17時40分発のバスに乗らなければ松山に戻ることはできない。「四国のみち」と遍路道の看板を頼りに歩くとする。まずは、3キロ先の河合というところが目的地になる。

細い車道から遍路道が分かれる。早速上りである。ここに来て雨粒を感じるが、降っているという感じではない。木についていた水滴が風に吹かれて落ちてきたようだ。地面には少し川状に水が流れていて、沢蟹も見つかる。

上りが続く中、先ほどの二人連れに追い付く。お二人の間でもペースが違うようで、挨拶して一人ずつを追い越す形になる。別に速さを競うものではなく、それぞれのペースで行くわけだが・・。

上りきったところに石の祠や木のベンチがあり、今度は一転して下りに変わる。この祠は峠御堂と呼ばれている。まずは一つ峠を越えたわけだ。上りはしんどいが、まだ杖を頼りに、最悪這ってでも何とかなる。ただ、下りは足元に気を使うし、滑る危険もある。私の場合は、下りで膝の後がピリッと来ることがあるので慎重になる。追い越した二人連れの足音が聞こえてくる。

ともかく降りきると車道に出た。そこは県道12号線の峠御堂トンネルの東側の出入口。クルマならトンネルを通るし、歩きでもトンネルを行けば距離と時間は軽減できる。ふと、高知の土佐市で36番の青龍寺を目指した時のことを思い出す。トンネルでなくわざわざ峠道を歩くのはしんどいが、歩いたら歩いたなりのことはあるなと思う。

ここからしばらく車道を歩くが、歩道があるわけでなく、白線とガードレールの間のわずかな空間が頼りである。遠くのほうから、総選挙の支持を訴える選挙カーの声が聞こえてくる。地元の人たちにはどのように響いているだろうか。

車道から脇道の階段があり、これを下りると河合の集落に出ることになる。最短距離ならこのまま車道を行けばいいのだが、ここは案内どおりに行く。階段を下りると古い家屋が並ぶ細い通りに出る。標識に従って進むと、屋根つきのベンチとトイレのあるスペースがある。この河合の集落はかつて遍路宿が軒を連ねていたそうだ。四国八十八所の札所めぐりの道は、ガチの歩きなら「一筆書き」がベースである。ただ、大寳寺と岩屋寺の間は、「打ち戻り」として、岩屋寺が行き止まりの終着点の形で、再び大寳寺に戻ることになる。鉄道の本線から分岐した盲腸線のようなものだ。このため、岩屋寺まで歩く人のために、河合の遍路宿で荷物を預かるというのが行われていたとある。今はクルマで行く人がほとんどとあって、ここで泊まる人も荷物を預ける人もほぼいないのだろう。もっとも、私は夕方のバスで岩屋寺から一気に久万高原の町中に戻るので、預けようにも預けられないが。

時刻は14時、集落の家並はそのまま続き、住吉神社の横から信号のある交差点に出る。岩屋寺にはここを右折とあるので曲がろうとする。その時、交差点の左斜め前から呼び声と拍手の音がした。そちらに目を向けると、「ちょっと休みませんか~!」と声がする。そちらには公民館があり、歩きの人向けのお接待所とある。

「どうぞごゆっくり」と言われ、「これはお接待」と、リンゴやようかん、トマトなどが盛られた盛られた紙皿が出る。さらには熱いお茶、甘酒、缶のお茶も出る。テーブルの上にはボウルがあり、地元産のトマトが浮かんでいる。それも渡される。ここまでの「お接待」は初めてで、実に恐縮する。

テーブルには女性の先客が一人いて、岩屋寺を回った帰りだという。ちょうど出るタイミングで、紙皿に残った食べ物は係の人がビニール袋に包んで持たせていた。河合の集落は岩屋寺への「打ち戻り」だと書いたが、今は公民館がその役割を果たしている様子だ。ただ、こうした形で開けているのは春と秋だけで、この秋も次の週末までだという。「せっかくなのでご記帳を」と言われ、台帳に住所氏名を書く。それを見て「藤井寺・・・昔の藤井寺球場やね」と、相手の大将が言う。昔、少しの間大阪にいたそうで、その時に球場の名前は聞いた覚えがあるとか。「藤井寺→藤井寺球場」という連想に出会えたのはうれしい。藤井寺球場が近鉄バファローズの1軍本拠地でなくなってから20年あまり、今やそうした連想に触れることもなかなかないだけに・・。

記帳を見ると、この日の欄に名前があったのは10人ほど。「お遍路は歩く・・というイメージありますが、歩いているのは全体の何パーセントだけですよ」「春と秋だったら、春のほうが多いやろうね」と言われる。私のような公共交通機関ベースの札所めぐりの割合がどのくらいなのかわからないが。

話をしている間に、先ほど二人連れが交差点からそのまま岩屋寺の方向に曲がって行った。お接待所から「お~いお遍路さん!! ちょっと休んで行きませんか~!!」と、大声と拍手で呼びかけるが、気づかない様子でそのまま歩いて行った。あらあら。でも、そうした「おせっかい」が苦手な人たちなのかもしれない。

これから岩屋寺を目指すと言うと、「2時間半あれば着くけど・・お兄さんならもう少し早いかもしれないけど、ここを14時半には出なければ」と言われた。時刻は14時を回っていて、ならばギリギリの時間になるのかな。であればなおのこと早く出なければ。結局私も皿のものを袋に包んでいただいて出発となる。「今日はどうするの?」と訊かれて、岩屋寺からバスで久万高原に戻り、乗り継ぎで松山に戻るというと「松山まで下るの??」と驚いた感じだった。今からなら岩屋寺に着くのは夕方、暗くなってから松山に「下る」ことができるのか??という様子だった。

ともかくここでお礼を言って、これから本格的になる岩屋寺までの遍路道を進むことに・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり・第44番「大寳寺」

2017年10月18日 | 四国八十八ヶ所
JRバスの久万高原線を降りて、12時ちょうどに大寳寺に向けて歩き始める。久万中学校のバス停からは1キロあまりで、まずは足慣らしというところだろう。

さて歩くか、というところで20メートル進んですぐに立ち止まる。道端に小さなお堂があり、「於久万(おくま)大師」という額が掲げられている。ここは今の久万高原町の由来にもなっているそうだ。

その昔、この村に「おくま」という娘さん(記事ではお婆さんとしているのもあったが)がいた。ある日一人の僧がおくまの家にお経を唱えて物乞いに来た。おくまの家は貧しいのだが、嫌な顔もせずに食べ物や織物をあげた。僧がそのお礼に「何か願いを叶えてあげよう」と言ったところ、おくまは「ここはさびしい村なので、賑やかな町にしてほしい」と答えた。すると数年して、この町は人々が行き交う賑やかな町になったという。この僧は弘法大師その人で、おくまが自分の幸せよりも村の皆の幸せを願ったことに感心してご利益を与えたということである。この「おくま」の名前が現在の「久万」につながっており、その時弘法大師に施した饅頭が、地元名物の「おくま饅頭」のルーツだという。このお堂も言わば町の中心に建っているというところだ。この言い伝えでは、弘法大師がどのような方法で村を賑やかにしたかは触れられていないが、この後で訪ねる岩屋寺での山岳修行ともども、土佐と伊予を結ぶ現在の国道33号線の元となる道を造ったりしたのだろうか。

さて大寳寺に向かう。下校の中学生たちが「こんにちは」と挨拶してくれる。比較的新しい家も目につく。先ほどバスで乗り合わせた学生たちの会話によると、久万高原町の中心部と松山市内ならクルマだと40分くらいの距離だという。松山近郊の感覚で住む人もいるのだろう。

住宅地を抜けて坂道を上ると駐車場に出る。本堂にはさらに上りが続いていて、途中から石段の山道になる。ぐっと、山の中の札所の雰囲気が高まった。

金剛杖を突きながら山門に出る。やけに大きな草鞋が門の両側に奉納されている。足腰の健康を願う人たちの手で毎年掛け変えられているという。

山門をくぐろうとすると、ちょうど境内から出てきた50歳台くらいの男性に、「ちょっと、ええこと教えてあげますよ」と手招きされる。別に松山の道後や三番町のその手の店を教えようというのではなさそうで。

「この石の下を見てください」という。しゃがんで見ると、石の下に1メートル四方ほどの空間があり、蛙と蛇らしき石像がある。真ん中にも何かあるが、蛙と蛇とくれば、三すくみでナメクジかな?

「そう、ナメクジなんですよ。私も地元の人間やけど、80越える婆さんが『百年以上前から居る』言うて。ただ、真ん中が何かはさっき納経所できいてわかった」と。80を越えるお婆さんなら、蛙~蛇~ナメクジの「蛙拳」はご存知だと思うが、それはさておきこの場所にこういう彫り物があることは知らなかった。この方とすれ違わなければ気づかなかったことで、教えていただいたのはありがたく思う。

なぜここに三すくみ?というのは男性も知らないようだった。私は、かつて仏様をここに祀っていたのかな?と言ったが、正解は何だろう。ネット検索したが、三すくみというのは実は「安定」の表現で、この上に仁王門をはじめとした境内の諸堂が安定して建っているということの願いが込められているという。蛙、蛇、ナメクジ・・・いずれもどちらかと言えば軟らかいほうの生き物だと思うが、そうした生き物がこの堂宇を支えるとはね。

三すくみの山門を抜けて境内に入る。先ほど同じバスで来た二人連れも手水場の脇にいてお話し中である。石段の上に本堂がある。周りは木々で覆われていて、山の中の風情が感じられる。まずは本堂で今回の札所めぐりで初めてのお勤めを行い、続いて横の大師堂に向かう。大師堂の地面は正方形というのが多いが、大寳寺のそれは横幅が長い。こちらでもお勤めである。

この「大寳寺」、読み方は「だいほうじ」であるが、由来は飛鳥時代の「大宝律令」と同じ「大宝」の元号からという。当時、安芸から来ていた兄弟の狩人がこの地で十一面観音像を見つけて祀っていたのが、ときの文武天皇の耳に入り、ならば寺院を建立せよとなった。それが大宝年代のことだったので、寺の名前もそのまま大寳寺になったとされる。それだけ歴史の長いところというのが意外だった。

一通りお参りをしてご朱印をいただき(文字がやけに左下になっているのはご愛嬌)、手水場の横のベンチで軽く昼食。

これで44番までを終え、札所数でいえばちょうど半分である。大寶寺は「中札所」の言い方があるそうで、これから残り半分、どういう展開になるかが楽しみである。

さて、後半最初となる岩屋寺までは歩いて行くわけだが、時刻は13時、距離はおよそ10キロである。平地の道なら2時間半あれば着く距離だが、これから行くのは昔の遍路道、自然の山道である。途中には八丁坂という急に上り坂もある。納経所のタイムリミットは17時で、まあそれまでには着けるかな。ここまで雨もなく進んだが、果たしてどうだろうか・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~JRバス久万高原線

2017年10月17日 | 四国八十八ヶ所
松山駅前からJRバスの久万高原線に乗る。かつては国道33号線を経由して高知まで国鉄~JRの急行バスが走っていたそうだが、川之江ジャンクションを中心とした四国4県の高速バスネットワークができたこともあり、路線が一部廃止。現在は久万高原までの運転となっている。何でも久万高原というところは「四国の軽井沢」とも呼ばれているそうで、それだけ観光やレジャーの場としても人気、また四国八十八所めぐりの札所が二つあるということで、私のような者でもだいぶ楽にアクセスできる。松山近辺に幅広く路線を展開している伊予鉄バスもここまでの路線はないようだから、JRとしても引き続き運行するところだろう。

窓口で久万高原線の1日乗車券を買う。通常の片道運賃に近い値段の1400円で、また車内でも運転手が発売するというので、これはかなりお得。ただ、こういうきっぷを出して、運転手もそのPRをするとは、やはりこの路線の乗客は少ないのだろう。

14日の場合は乗客が多かったようで、「南無大師遍照金剛」の笈摺を着た人もいたが、大学生の男女が15人ほど乗ってきた。会話の内容から愛媛大学の学生のようだが、前に男子、後ろに女子ときれいに分かれる。後ろに座っていたおっさん(私のことです)は、女子大生に囲まれる形となり、何だか妙なものを感じる。隣に座っていた学生たちは3年生か、来年からの就職活動も気になるようで、県内の地元に残りたい人、松山に残りたい人、東京か大阪に出ることも考えている人・・・考え方や家庭の事情もそれぞれあるようだ。今の私が新卒の採用関係の業務もしているせいか、「出るか、残るか、最後の選択の機会やけん・・・」という一人の学生の言葉が耳に残る。

さてバスは県庁前から大街道に出て、一番町~三番町の繁華街を通る。通り沿いに風俗店の無料案内所もあり、さすが四国一の賑やかな街だが、何もこの道を路線バスが通らなくてもと思う。まあ、そうしたほうが利用客に便利なのだろう。

松山市の中心部は路面電車が走り、また交差点も歩車分離式が多いので抜けるのに時間がかかったが、ようやく郊外に出た。途中の砥部町までは伊予鉄バスの路線と同じルートのようで、伊予鉄が前を走っていたり、停留所にポールが2本立っていたりする。

重信川を渡る。先月、四国行きを中止する原因となった台風18号の時は松山近辺も豪雨となり、重信川の水位も氾濫危険水域を超えた。さいわい家屋への大きな被害はなかったが、堤防の一部が損壊する事態になったという。その台風18号が四国を通過したのは、ちょうど、計画では久万高原に向かう予定にしていた17日のことだった。

重信川を渡り砥部町に入ると、サッカーJ2の愛媛FCの幟が目立つ。バス路線沿いの総合運動公園が本拠地のようだ。私は四国アイランドリーグのほうに興味があるが、地元の人たちにとってはJリーグは2部といえども全国を相手にする勝負、また今後の1部昇格という目標があるのは応援のしがいがあるだろう。

砥部で総選挙の候補者のポスターの顔ぶれが変わったのに気付き(松山市を囲むように、今治市あたりと同じ選挙区というのが意外)、国道33号線に入ると高度を上げる。急に山がちな区間になる。学生たちもそのまま久万高原まで行くようである。

上り坂とカーブで高度をかせぎ、塩が森というバス停を通過する。45番岩屋寺から46番浄瑠璃寺へ下る途中のポイントで、バス停から浄瑠璃寺までは3キロあまりあるそうだ。

国道33号線のバイパス道路として、三坂道路という自動車専用道路に入る。長いトンネルで一気に走る。ふと、先日訪ねた天川村を思い出す。あの時もローカルバスに揺られ、途中、自動車専用ではないが新道を長いトンネルで抜けていった。

久万高原町に入る。「高原」とはどの程度の高さ、広さなのかよくわからないが、国道沿いで見る限りでは、山合の細々した感じではない。田畑も広がっている。そんな中で、久万高原の一つ手前の久万中学校前に着く。学生たちはそのまま乗っているが、前方の席に座っていた笈摺姿の人、、そのお供らしい人が下車したのに続いて、私も降りる。降りたところには伊予鉄南予バスの営業所がある。私はこの日の夕方、この営業所に戻ってくる予定である。下車したところで二人連れから、「(44番の)大寳寺はどの道ですか?」と訊かれる。私も初めてなので正確には即答できないが、まずはバス停の交差点から県道に入るルートかと思う。それで二人は歩き始めた。

私はといえば、国道を100メートルほど松山方面に戻ったところの道の駅「天空の郷さんさん」に立ち寄った。地元の農産物や食品がいろいろ並ぶ。ここで昼食用におにぎり、パンを購入する。ラップに包まれた手作りの焼おにぎりがおすすめというので買い求める。山道の道中食にお似合いだ。ちなみに、この道の駅では地元食材のランチバイキングが有名とのことで、普通のドライブにはおすすめである。

昼食購入、トイレ休憩、笈摺着用と準備するうち、ちょうど12時のメロディが鳴った。別にこれを狙っていたわけではないが、ちょうどいいタイミングかなと、道の駅を出て歩き始める・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~まずはしおかぜに乗って

2017年10月16日 | 四国八十八ヶ所
14日の早朝に自宅を出て、新大阪6時25分発の「さくら541号」に乗る。車内放送では「本日指定席は満席です」と言っていたが、乗った車両では乗車率は半分くらいである。途中駅からの乗車があるからだろうか。

7時15分、岡山に到着。8分の連絡で特急「しおかぜ1号」に乗り換える。今回はこれで松山に行くのだが、四国八十八所めぐりで予讃線を行くのは初めてである。新たな展開を迎えるのだなと感じる。5両編成のこちらも混雑を予想して指定席を購入していたが、私の乗った車両は10人あまりの乗客である。先週の3連休ならそれなりに混雑していたのだろうが、1週遅れの普通の土曜日の朝の列車というのはこういうものだろうか。

瀬戸大橋を渡り、宇多津に到着。ここで後部に高松からの3両の「いしづち1号」をつなぎ、総勢8両という長い編成ができる。これまでの四国の列車といえば、鈍行だと1両が基本(たまに2両以上になるくらい)、特急ですら2両~3両で走っていたのが当たり前のところに8両とは、やはり四国のメインルートである。

土讃線との分岐である多度津では駅のホームが工事中である。この駅も高架化するのか?と思ったが、駅の西側にある高架橋の架け替えだという。それなら駅舎も橋上化するのかと思うが、そこまでではないようだ。

海岸寺から海に出る。この区間を列車で行くのは久しぶりのことで、これほど海に間近に走るのかと車窓に見入る。海側の席を取っていてよかった。この辺りも香川の札所が多いが、ここまでたどり着くのはもう少し時間がかかりそうだ。

愛媛県に入り、川之江、伊予三島と通る。川之江(現在は四国中央市)は紙の町として知られており、大規模な製紙工場もある。伊予三島の手前には大王製紙の専用線があり、多くのコンテナが並ぶ。昔、JR貨物コンテナの仕事をしていた時に、紙輸送というのは貨物列車の輸送量の10%あまりを占めている「お得意さん」であることに触れ、いくつかの駅は実質「紙列車」専用だというのを知った。伊予三島もその一つである。

新居浜に停車。翌日15日から秋の太鼓祭りが行われるという横断幕が出ている。こちらは駅から離れているが、住友関連の工場が多いところ。山側に行けば別子銅山がある。そして伊予西条は水の町。駅横には四国鉄道資料館がある。伊予西条駅近くには札所はないが、少し西に行けばいくつかある。その時には西条の町も立ち寄り地として回ることになるだろうか。

今治に到着。この今治も札所が多いところで、こちらも回るのが楽しみ。ここからは造船所の大型クレーンや石油工場が見える。この予讃線、何だか車窓で愛媛県の主要産業を見物しているかのようだ。これまで八十八所で回ったところの車窓とは雰囲気が違う。

ここから芸予諸島の島々が遠くに見えるが、これまでのところ雨の気配はない。それどころか時折日差しも出てきた。スマホで今後の雨雲の予報を見てみると、秋雨前線は南のほうに下がっているようだ。そろそろ松山も近くなり、この後どう動くかを改めて考える。松山着は10時05分。

当初の予定では、14日は移動日として松山から先の内子など見物して、15日朝から久万高原町に向かうことにしていた。しかし、列車に乗っている中で雨の様子はない。ただ、15日の予報が傘マークである。町歩きは雨でも仕方ないが、山歩きが雨というのはちょっとつらい。結局、これからの予定を変更することにした。

松山駅から久万高原へのJRバスは本数が少ないが、直近で10時30分発がある。11時39分に久万高原に着き、ここから大寶寺、岩屋寺と合計12キロほどを歩く。なお、久万高原から松山への最終バスは18時40分発。久万高原での時間は7時間ということで、往復24キロを歩くのは無理。ただ、岩屋寺には伊予鉄南予バスのバス停があり、土日祝日ダイヤで1日3本しかないが、17時40分発の最終便がある。これが18時に久万高原に着くので、松山へのJRバスには十分間に合う。岩屋寺には納経所が閉まる17時までに着けばということで、5時間で12キロを行けばよい計算。これなら行けるだろう。行きは歩き、帰りはローカルバスということで、「公共交通機関遍路」としてはかえって収まりがよくなったかな。よし、これで行こう。

松山に到着。途中駅からの乗車もあってか、自由席車両からも結構多くの客が降りてきた。また、この先内子、伊予大洲、宇和島方面に乗り継ぐには同じホームの先に停車する特急宇和海に乗り継ぎとある。松山駅のホームはそれほどまでに長いなと感心。

前回の札所めぐりを終了した松山駅前から出発となる。バスの時間は10時30分発で、それまでの時間で大きな荷物をコインロッカーに入れ、久万高原線の一日乗車券を購入する。この先何とか天気が持ってくれるかどうか・・・。
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