まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

しばらくブログの更新を取り止めます。

2012年01月30日 | ブログ
いつも拙ブログをご覧いただきありがとうございます。

新しい年、気持ちを新たに頑張ろうとしていた矢先なのですが、とある不祥事を発生させてしまいました。
これからどうなるか状況を見ないといけないのですが、一段落落ち着き、結果が出るまでの間は、このブログの更新は取り止めることにしました。

まことに申し訳ありませんが、またの時までしばらくお待ちいただけますよう、よろしくお願いします。

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「名阪ノンストップ特急」が消滅

2012年01月28日 | ブログ

これも時代の流れというのか、それだけ経営が厳しくなっているということか。

3月といえば鉄道のダイヤ改正が行われることが多い。それにしても、なぜいつも「3月」なのかなという気がするのだが、まあ新たな年度を前にして、その移行も兼ねて3月に改正を行うということか。

この3月のダイヤ改正といえば、私としては寝台特急の「日本海」、そして夜行急行の「きたぐに」の定期運転廃止というのが大きなことである。そのお別れも兼ねてわざわざ青森まで行ったということもある。

一方では東海道・山陽新幹線から100系に300系が姿を消すという。100系はともかくとして、300系までがなくなるのは早いように思える。もはや、効率第一主義のJR東海からすれば、かつてのエースも単なる足を引っ張るヤツにしか見えなかったということか。名古屋の企業にとってビジネスとは切り捨てが当たり前のことなのだろうな。

さて、ついJRのダイヤ改正に目が行きがちであるが、鉄道のサイトを見るうちにあらっと思ったのが近鉄の記事。

こちらは利用客の減少に苦しんでいる様子がわかり、日中を中心として「列車の削減」というのが目立つ。数多くの特急ネットワークを擁する一方でローカル輸送に悩んでいる実態もある。経営の合理化を図る一方で利用者の増加を目指さなければならないということで。

Dscn4913そこで出たのが、何と「名阪ノンストップ特急」の消滅というもの。いやこれは何も「アーバンライナー」の運転をやめるということではなく、難波から上本町、鶴橋と停車して、次は名古屋まで停まらない・・・というのをやめるというもの。これまで朝や夜の特急は八木やら津、四日市に停車していたのだが、ダイヤ改正からは全列車が津に停車するという。

果たして津に停車させることでどのくらいの利用者が増えるのかはわからないが、まあ、それなりの根拠があっての結論なのだろう。新幹線、当時の国鉄への対抗ということでできた「ノンストップ」。この言葉こそ近鉄特急の看板であったのではないかと思うのだが、今となってはその看板を下ろさざるを得ない、そこまで来たのかというところである。

Dscn4810特急の停車駅増加ということでさらに驚いたのが、私の沿線である南大阪線にて、朝と夜について古市に特急を停めるということである。まあ通勤ライナーとしての利用客を見込んでのことだろうが、急行でもノンストップで行くのに果たして500円払って特急に乗ろうという人がいるのやら。そこまでやるのなら、この線については南海本線のように指定席と自由席をくっつけた特急の設定にするとかのほうがよいのではとも思う(特に吉野線は各駅停車とほとんど変わらないくらい停車するわけだし)。

まあそれでも、「このサービスがベスト」ということで提供するのが鉄道ダイヤ。これが利用者の増加、サービスの向上につながるものになるための鉄道側の姿勢として、見守っていきたいものである・・・・。

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百舌鳥・古市古墳群は世界遺産になるのか?

2012年01月26日 | ブログ

今や濫発しすぎてその価値がぐんと下がったかのように思える「世界遺産」。日本でもいくつものスポットが世界遺産に認定されているが、果たしてその中で「真の世界遺産」と言えるのはいくつあるのかなと、ふと腕組みをして考える。日本の人ですらその存在自体を知らないスポットも多く、そんなことを言っている時点で「世界遺産」を名乗るのはいかがなものかと思ってしまう。

さて、そんな中でも多くの世界遺産が集まるのが近畿地方。京都、奈良の寺社群、滋賀の比叡山、兵庫には姫路城があり和歌山には熊野古道がある。いにしえの日本仏教文化を伝えるところが多く国内外からの観光客も多いところである。

ただ、そんな近畿2府4県にあって、唯一世界遺産のないのが大阪である。まあ、阪神タイガースのキ○ガイのファンを「負の世界遺産」として告発するのは簡単な話であるが、それはさておくとして、関西の中心でありながら外に向けて発信できる文化がないところである。大阪城も通天閣も世界遺産になり得ない。

そんな中で、「大阪にも世界遺産を!」ということでPRを行っているのが「古墳」である。百舌鳥・古市古墳群。私の居住地もこのエリアに含まれ、市のほうもその運動の参画自治体ということになる。

かつて、藤井寺球場での野球の試合中継で、レフトスタンドの向こう側に緑生い茂る小山のようなものが映るカットがあったのだが、あれは誉田の応神天皇陵。あれのおかげで「藤井寺球場の周りには自然がある」と思った方もいらっしゃるのでは。

エジプトのピラミッド、中国の始皇帝陵と並んで、陵墓としては世界最大級の「前方後円墳」。これが集中しているのがこのエリアである。今から1500年~1600年も前のことである。当時どのくらいの人間と財力を投入したのだろうか、現在の国家プロジェクト以上の動きがあったのではないだろうか。現在の経済学風にいえば、古墳一つつくることで「国家経済」が活発になり生産活動も活発になったというところだろうか。

そうして河内、和泉の平野にできた古墳群が世界のものとして認定されようという動きである。その後の神社仏閣のような建築美があるわけではないが、あの形にはミステリー性もあると思う。上空から見れば鍵穴にも見えるこの形。そういえば昔読んだ『キン肉マン』でも、前方後円墳のあの形が何かの謎を解く「鍵」ということで、キン肉マンが自らの腕を鍵にして突っ込んだ・・・というシーンがあったっけ。

そんな古墳群であるが、このたび、世界遺産登録を目指していた古墳の2つが、実はただの「塚」であったことが判明したとか。まあ、ひょっとすればこういうケースはほかにもあるかもしれないな。それだけいろんなものが多いということで。

同じく世界遺産登録を目指す富士山に比べれば地味な存在ではあるが、間違いなく日本の一時代を築き、現在に至るまで緑の潤いを与えてくれる古墳群。もっと多くの人たちの目にとまればなと思うのであるが・・・・。

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2012年というのはやはり世界的に大きな動きが起こるのかしら

2012年01月24日 | ブログ

以前の拙ブログでも、今年の2012年というのは世界を見渡してもリーダーの交代、改選が行われる年ということで、何か大きな動きが起こるのではないかということを書いた。

昨年末の北朝鮮の政権世襲も入れていいだろう。1月の台湾総統選挙に始まり、アメリカの大統領選挙、中国の共産党大会、ロシア、フランス、韓国の大統領選挙など、主要国で政権交代する、あるいはするかもという年である。これだけ偶然が重なるというのも考えてみればすごいことである。

そして、日本である。本日から通常国会が始まったが、相変わらずの政局モード、与野党もしっかりせえやというところである。何だか、年を経るにつれてだんだんと国会のレベル、国会議員の資質というのが低下してやしないかと思うのである。

まあせいぜい国会での論戦を期待したいものだといっても、新聞を見れば「今年の衆議院選挙への立候補を予定している人たち」ということで、各選挙区、そして比例での出馬予定者のリストが載っていた。私の地元やら、個人的に気になる選挙区の予定者の顔ぶれを見て「こいつはまた出るのか」とか「今度こそこの人が当選するのかな」と思ったりもする。今度は「大阪維新の会」が多くの立候補者を出すのではないかという噂もある。まあ、こういうことを気にしている時点で自分も政局ムードに流されているのかもしれないが・・・・。

東日本大震災からの復興、原発問題、税と社会保障の一体改革、外交問題、民主党政権の是非・・・・さまざまな視点からある意味で注目されている国会だと思う。5ヶ月の長い期間、それが有意義なもの、「さすがセンセイ方が集まるとすばらしい政策が実現できますね」というくらいのものになってほしい・・・・というわずかな期待を持つことにしようと思う。

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「夜行列車の冒険」~旅と鉄道復刊3号

2012年01月23日 | ブログ

1月に発売となった『旅と鉄道』も隔月刊で3号を迎えた。かつて季刊の時に購読していた頃ほどのワクワク感じというのはないのだが、それでも現在の新しい旅の楽しみ方というのを提供してくれている構成になっていると思う。

書き手もかつてのレイルウェイライターとか、昨今その筋に受けている、秘境駅とか全駅下車の人たちを前面に出すのではなく、鉄道とはちょっと離れた物書きとか音楽関係者とか、聞いたことあるようなないような名前の人たちが出てくるが、それもまた一般人的な視点での作品になっており、それはそれで面白い。これからぼちぼちと継続されることだろう。

51urkxzoj8l__sl500_aa300__3さて、今回の特集は「夜行列車」。”タビテツ”にあってはかつては年に1回は特集していたであろう企画であるが、この時期というのがポイント。ちょうど前号の予告で「夜行列車」とあった直後に、「日本海」と「きたぐに」の定期運転廃止が発表されたのだから。

その「日本海」に「きたぐに」の乗車記もあり、今後貴重な写真となるのかなと思ってページをめくる。3月の廃止、おそらくそれまでに乗車する機会はもうないだろうが、せめてもう一度駅での見送りなどしてみたいものではある。

それにしても、現役で走っている夜行列車というのは13往復しかないという。北から「はまなす」、「北斗星」、「カシオペア」、「トワイライトエクスプレス」、「あけぼの」、「日本海」、「ムーンライトえちご」、「能登」、「ムーンライトながら」、「ムーンライト信州」、「きたぐに」、「サンライズ瀬戸」、「サンライズ出雲」。このうち「ムーンライト」のシリーズに「能登」は季節運転、「カシオペア」に「トワイライト」は曜日限定運転ということなので、毎日運転しているのはわずか7往復。さらに「サンライズ」は2本が東京~岡山まで1本の列車で行くわけで、さらに「日本海」に「きたぐに」が廃止となると、残りはいったい何本かということになる。

ページには昭和50年当時との比較がある。現在とは交通事情が違うといえ、寝台特急から急行、果ては列車愛称もない座席ばかりの夜行鈍行も合わせると135本が走っていたという。えらい減ったものだ。

ただ、現在の夜行バスの路線図を合わせると、輸送量は格段に違うとはいえ運転区間は結構複雑かつ全国に張り巡らされていると思う。仮に関西を見ても阪急梅田やJR大阪、なんば、あべの橋、堺、神戸三宮、京都、奈良、あちこちから乗ることもできる。私の地元駅ですら乗り換えなしで東京まで行く夜行バスがあるくらいだ(まだ乗ったことはないが)。だから夜に移動するという需要そのものがなくなったというよりは、コストパフォーマンスとネットワークのきめ細やかさで夜行列車が負けた、ということなのだろう。

それでも、旅情とか「乗る楽しみ」というのは列車のほうが上回る。またバスと比べればゆったりとできるし、ある程度体の余裕はできる(ゆとりということになればカーフェリーのほうがさらに上になるが・・・)。ということで利用してみたいのだが、私が乗ろうというとたいてい客の多い時期になるから、今度は寝台や指定席券を入手するのが困難で・・・。

こうなると西村健太郎著の『週末夜汽車紀行』のように、日常の仕事の帰りにふらっと別の路線に乗りに行って終電近くまで楽しむ「プチ夜汽車紀行」をやることになるのかな・・・・。

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把瑠都優勝

2012年01月20日 | ブログ

13日目で決まったというのが意外だったと思う。

大相撲の初場所は13日目を終えて、全勝の把瑠都が勝ち、2敗の白鵬が敗れたために把瑠都の初優勝が決まった。エストニアの出身では初めて、外国出身では9人目の優勝ということになる。このところ日本人力士が相次いで大関に昇進したこともあり、体格はいいのだがいつしかそれほど注目度も高くなくなっていた把瑠都、今場所は(ブーイングを浴びた一番があったにせよ)力強い相撲が取れていたようだ。

今場所については14日目、そして千秋楽での白鵬との直接対決に勝って全勝優勝を決めたいところだろう。そして初めて「横綱昇進への道」が開けるのだから。

横綱の昇進というのも曖昧さに満ちているように思う。一応の「内規」では「大関で2場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績」とある。

ただこれもあくまで内規で、過去には大関で連続優勝しても横綱昇進を見送られたり、毎場所「準優勝」に終わり、当時の横綱の壁をなかなか破れなかった力士とか、はたまたその一方で、優勝はしていないが「準ずる」の条文で強引に横綱に仕立てたとか、横綱というのもファジーな地位である。これがボクシングとか格闘技の世界であれば、チャンピオンに対して挑戦権を得た選手が勝負して、勝てばチャンピオンだし負ければただの人という、わかりやすい構図なのだが。

仮に把瑠都が14日目、千秋楽と敗れて13勝2敗ならば、春場所は「全勝優勝」でなければ横綱はないであろう。初場所の残り2日連勝しても、春場所はおそらく「14勝以上での優勝。あるいは、13勝の優勝でも白鵬に勝っていれば昇進かな」というのが条件だろう。それだけ横綱への道、そして白鵬の関門というのは厳しい。これが最初で最後のチャンスだと思って春場所には臨んでほしいものである。

・・・ただそれにしても、日本人大関2人は結局優勝することができなかった。琴奨菊に至ってはまだ勝ち越しもしていない。おいおい、そういうところまで福岡の偉大なる名大関の後を継がなくてもいいのにな・・・。早く、国技館の上段に日本人力士の優勝額が披露される日が来てほしいと願うばかりである・・・・。

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もしドラ

2012年01月19日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

「もしドラ」といえばアレですな。「もしもドラッカーが高校野球の女子マネージャーになったら」・・・・違うか。

あれは女子マネージャーと経営学という、一見まったく接点のないように見えるものに接点があったりするから面白いのであるが、ドラッカーがセーラー服着て高校野球のベンチに座って「経営学!」とか叫んでいたら何やねんコイツは・・・となるのがオチということで。

さて、今回取り上げるのはその「もしドラ」ではなく、こういう一冊の本。

『もしホシノさんがもう一度ドラゴンズの監督になったら』(マイナビ新書)

51x9kfzvpil__ss500_もっとも、「もし織田信長が本能寺で死ななかったら」とか「もし関ヶ原で小早川秀秋が裏切らなかったら」とかいう、仮想のプロ野球史を語ろうというのではなく、NPB12球団の著名人のファンとかOBが「自分の(ひいき)チームの将来について熱く語る」という内容である。「チーム改革論」というのがサブタイトル。

その顔ぶれを見ると2011年の順位で並べると・・・ソフトバンク・原口あきまさ、日本ハム・えのきどいちろう、西武・大塚光二、オリックス・山田真哉(あの『さおだけ屋~』の著者)、楽天・さとう宗幸、ロッテ・村田兆治、中日・鈴木敏夫(スタジオジブリ)、ヤクルト・ギャオス内藤、巨人・宮本和知、阪神・ダンカン、広島・山中秀樹、横浜(当時)・森永卓郎・・・というもの。

中には「お前には言われたくない!」と思わせる人もいるのだが、それぞれが自分のひいきとする、あるいはOBとしての立場からのチーム改革論を好き放題に語っている。ちなみにオリックスは元々阪急ファンだったという山田真哉氏ということで、どうしても書き方が「阪急」の視点になるのは仕方ないことだろう。それでも、「オリックスは”オールパ・リーグ”なんだという気持ち」と考えるようになった、というくだりには共感(一方で、章末の球団史では「近鉄」はこの世に存在しなかった扱いをされているのが気に食わないが)。

私も「関西のパ・リーグの系列を受け継いだのはこの合併チームになったのだから、ボロカスに言われようがファンが離れようが、このチームを応援しよう」と、奇しくも2004年9月26日のオリックス対近鉄の最終試合を観戦したその日に決めたのだが、それと似たようなところがあるのかもしれない。

チーム改革論といっても、それぞれ熱心なファンの立場、プロ経験のあるOBの立場、はたまた経済学者らしく理論武装してみて見せる立場・・・それぞれの視点があって面白い。それだけにそれぞれのチームのファンからはツッコミどころ満載なのかもしれないが、まあ固い話は抜きにして、居酒屋でプロ野球の話で盛り上がるとたいていこういう流れになるんだろうなという雰囲気が伝わってくる。これはぜひ居酒屋のカウンターで、周りで誰か野球談議をしているのに耳を傾け、そのうち首を突っ込むようになる・・・という雰囲気とだぶらせながら読むと面白いだろう。

年が改まったプロ野球はどうなるのだろうか。ダルビッシュが最高の評価を得てメジャーに移籍し、また国内では上の一冊が発売された直後に誕生した横浜DeNAという球団もある。早いものでもう10日もすればキャンプイン。何だかんだ言ってカレンダーが進むのが早い。

あとがきを読んで、「こういう姿勢がファンに必要なのかな」と、編集部が感心したこととして紹介されたのが以下の3点。

「野球人気は必ずしも落ちていない」

「各球団だけではなく球界全体としての取り組みが必要」

「ひいきのチームの勝敗に達観している」

というもの。ただ、私個人として「某局のアイツにコイツは、どことは言わないが朝から特定某球団ひいきの放送を展開し、朝から公共の電波を使って六○おろしを軍歌のごとく垂れ流しており、どう考えてもその球団のことしか考えていない」と腹の立つことはたくさんあるのだが・・・・。

まあ、これは一例として(特にオレンジや黄色のセントラル球団をひいきする)旧態依然のマスゴミの姿勢にも問い直す点が多いと思いますよ。プロ野球の改革には・・・・。

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大阪の区長公募

2012年01月18日 | ブログ

大阪市長に橋下氏が就任して1ヶ月になる。

先日、「混戦BB会」の新年会でいつものメンバーである大和人さんと鈍な支障さんとご一緒したのだが、その時には「大阪維新の会」が進めようとしている教育改革についての話でも盛り上がった。教員の評価制度や君が代斉唱時の起立問題といった、テレビや新聞で大きく取り上げられることだけではなく、「その裏で維新の会が進めようとしていることにはこういったことがある」「橋下さんはマスコミの使い方がうまいから、決して表にして波紋を広げるようなことはせず、目立たないところで着々と進めているのではないか」ということを紹介してくれるなど、なかなか深い話になった。

さて、一方で「大阪都構想」に向けての施策の一つともいえるのが、大阪24区の区長を公募するというもの。これまでは大阪市役所の役人の「出世コース」であり、区長といっても確か2年だったかの任期で任命されるもので、そこを無難に勤め上げれば次のポストが待っているというもの。これではなかなか思い切った「改革」はできない。

そこを、区長も公募制にして、財源の権限と責任を持たせてそれぞれが活気あるまちづくりをやってもらおうということ。なるほど、大阪といっても24区それぞれのカラーはあるわけだし、居住人口の構成も異なっている。これは一度やってみる価値はあるのではないかと思う。24区に対して1000人以上の応募があったとは、それだけまちづくりに興味を持っている、自ら行政に携わって実現したいと前向きに考えている人が多いということだろう(私は応募していませんが)。

そして、24区の中でももっとも運営が難しいと思われるのが西成区。生活保護者の割合も高く、高齢の単身世帯の割合も高い。一人あたりの医療費も高く、区内の不法投棄も問題化しており、都市の抱える課題がモロに集まっている区と言えるだろう。あいりん地区の日雇い労働者への支援問題も西成ならではのことだろうか。ここに税制上の「特区」を適用して、外からさまざまな施設、子育て世帯の誘致を図るというというのが橋下市長の構想という。このため、西成を「直轄区」として自ら区長を兼務するとか。

うーん、どうだろうか。確かに外から若い世代を呼び込もうという視点は街の活力化には必要なことだろう。ただ「西成」の地場の力というのは長年築かれてきたものであるし、そういう層(といえば失礼かな)には住み慣れてしまった街でもある。そこを無理に「きれい」にして、地区の人々の居場所をなくすようなことがあってもいけない。

大胆な改革は必要なのだろうが、あまりことを急いでもいけないと思う。支援する人たちとの対話を重ねて、少しずつよいものをつくっていけばいいのではないだろうか。

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寝台特急「日本海」への最後の乗車

2012年01月17日 | 旅行記B・東北

青森へのお出かけ旅もそろそろ終わりを迎えようとしているところ。

五能線から津軽鉄道に乗り継ぎ、五所川原からバスで青森市街に戻る。そろそろ暗くなるかという時間帯であるが、青森駅からまた歩いて10分ほどで、先ほどバスの中から見つけたスポットへ。

Dscn2598それは青森駅に近い「まちなか温泉」。今回東北まで来たにも関わらず温泉に入るということがなかったのだが、最後に来て入浴の機会が見つかった。ちょうどこの後は夜行列車に乗ることもあり、その前にさっぱりするのもいいだろう。入浴料は420円。タオルのセットの追加も200円で済む。結構広い浴槽に何種類かの風呂があり、露天風呂もある。ここでじっくりと浸かって旅の疲れを癒すことに。

湯上り後は広間でくつろぐ。もうここで夕食も済ませて列車に乗り込むのがいいのかもしれないが、せっかく青森まで来たのだからもう一晩ということで、郷土の味が楽しめる店を探すことに。そしてやってきたのが、駅前の新町通りに面したビルにある「弁慶」。

Dscn2600ここも海鮮を売りにしているが、元々は八戸の店が青森まで進出してきたとのこと。雰囲気はチェーン居酒屋に似ており、注文はテーブル備え付けのタッチパネルでやるというもの。前日の「鱒の介」とは異なり、地元の人らしいのが早速に新年会とか、あるいは年明けに仲のいい人たち同士でマッタリとやるとか、いずれにしても利用しやすそうな感じの店である。

ただ、味のほうは・・・うーん、悪くはないが、やはり雰囲気としては「鱒の介」のほうがよかったかな。とはいうものの入りなおす時間はもうなく、また次の、いつになるかはわからないが青森を再訪した時の楽しみということにする。

売店でいろいろと買い求めてホームに出る。乗車するのは19時31分発の寝台特急「日本海」である。これで学生時代から通算して4度目の乗車になるが、この3月のダイヤ改正で定期運転がなくなるということで、おそらく最後の乗車ということになるだろう。

Dscn2607跨線橋の上にはカメラを構える人たちが並ぶ。私もその中に混じり、ちょうど南方面からディーゼル機関車に牽引されて入線してくる列車を見る。こういう入線、今でも「終着駅」の構造を残す青森駅ならではである。

Dscn2626入線後、先頭の電気機関車から順に客車を見て回る。青色の車体は白く包まれた構内によく映えている。夜行列車にこの色を採用しようと発案、決定した人たちのセンスのよさに敬意を表したくなる。

Dscn2644最後尾には「日本海」のテールマーク。今やこうしたマークのついている列車を探すほうが難しいくらいであるが、この列車名も旅情を誘うものである。

Dscn2636開放型のB寝台。今後、この手の車両に乗る機会というのはいくらほどあるのだろうか。少なくとも関西からはこのタイプのB寝台はなくなるということである。写真にも撮るし、目にも焼き付けようとする。

Dscn2648さて時間になり発車。青森を出発した時点ではまだ半分にも満たない乗車率。秋田まで座席指定で開放している車両もあるが、まずは静かな滑り出しである。通路に備えられた引き出し式のイスに腰掛けたり、まだ誰も乗ってこない隣のコンパートの下段席に腰掛けてビールを飲んだりしながら、とっぷりと暮れて外は白い雪しか見えなくなった車窓をぼんやりと眺める。なにせ大阪までの所要時間は15時間。それだけの時間を列車の中で、乗り換えることなく過ごせるというのは贅沢な話である。ふと、宮脇俊三の旅行記集『旅の終わりは個室寝台車』というタイトルを思い出す。

Dscn2634まずはゆったり過ごせる寝台であるが、内心ではやはり不満というか未練がある。「日本海」廃止報道を受けてこの年末年始はおそらく連日満席が予想されることもあり、JR西日本が年末年始の事前予約を受け付けたのに申し込んだ。それも、通常ネット会員であれば正規の発売開始である1ヶ月前のその1週間前に事前予約を受け付けるところ、今回はそれよりもさらに先行して電話予約を受け付けるというのに申し込んだ。まあ、電話予約受付開始日はなかなか電話がつながらなかったのだが・・・・。

こうして、おそらく最も早いタイミングでの申し込みを行ったにもかかわらず、返ってきた答えは「下段は満席」というもの。仕方なく上段を押さえるのがやっと。電話予約といっても、通常の発売開始日に予約受付順に列車の照会をしているようで、これならば1ヶ月前の朝10時ちょうどにどこかの駅の窓口に並んで一番に操作してもらったほうが早かったかもしれない。いくら人気といっても、そこまで秒殺で列車全体が完売になるものでもなかろうに。ちょっと作戦失敗かなと思う。

上段ならではの利点はある。レールの振動が伝わりにくいとか、荷物置き場を優先的に使えるとか。でも、下段のほうが「座る時」「寝る時」、いずれも自然体で過ごせそうである。上段のほうがやはり下の客を含めて周りに気をつかってしまうというか。

Dscn2662弘前でポツポツ、大館でも少しの乗客がある。この分だと秋田あたりで結構乗って来るかな。空いていた下段でくつろいでいたがそろそろ自分の寝床である上段に移ることにする。シーツを敷いて、ハシゴをどっこらしょと上がり、カーテンを閉めてしまえばそれなりに自分のスペースはできる。うん、レールの継ぎ目などの振動はほとんど伝わって来ない。これなら少しはゆっくりと眠ることができそうだ。

車掌のお休み放送があった後で到着した秋田で結構の乗車があったようだ。周りの寝台も埋まっていくようで、この分だと本当に満席なんだなと思いながら、そろそろ私も横になることに・・・・。

・・・・朝というか、日付が変わってどのあたりを走っているだろうか。携帯電話の時計画面を見て、それから時刻表を見ると富山が近いようだ。下段の客が降りるのだろうか、荷物を出して厚着をしてぼんやりと寝台に腰かけている。放送も何もないまま富山に到着したようで、他にも下車する人の足音がする。青森・秋田からわざわざ寝台を使って富山に行くというのも、短時間利用ということで(特急券や寝台券の料金は、青森から大阪まで乗りとおすのと同額)この列車の贅沢な使い方。それよりも、北東北と北陸を結ぶ需要があるというのが驚きである。「日本海」は何も関西対北東北、というだけのものではなく、北陸など途中駅の利用もあるというものだ。定期列車廃止にあたっては、そのあたりまでの事情までも考慮することはなかったのかどうか。

普段の仕事の日ならともかく、この後列車に乗っておけばいいという状況で無理に5時半に起床する必要もなく、二度寝ということにする。気が付けば金沢を過ぎたようである。いつしか下段が2つとも下車したようで、それならばと下段に神輿を移す。まあ、こうやって多くの部分を下段で過ごすことができたわけだから、事前予約で上段しか取れなかったのを必要以上に残念がることはないか。おかげで上下段両方の乗り心地を味わえるのだから。座っていくのは下段、寝るのは上段・・・こんな結論でいいかな。

この列車、朝の金沢から敦賀までの間が唯一の車内販売区間で、最悪食料はこのタイミングで調達できる。ただ前日にこれでもかというくらいの食料を買い込んでおり、朝食はそれで済ませることに(駅弁を売っていたのだが、もう一つ「これ」というインパクトに欠けていたので・・・)。そうするうちに車窓も明るくなってきた。北陸地方であるがまだ穏やかな天気が続くようで、低く上る太陽の姿も見ることができた。

Dscn2672敦賀到着。ここで機関車の付け替え、さらには特急2本を先行させるということで20分ほど停車する。車内放送も「記念撮影やホームの散歩はいかがでしょうか」とやっている。それを知ってか、駅の進入直前にはデッキに行列ができ、ドアが開くとダッシュして列車の前のほうに移動する人の姿が目立つ。やはり「その筋」の早朝からのバイタリティ(というか野次馬根性)はすごいものがある。私はむしろ「この時間で敦賀の駅そばとか昆布の土産物でも買えないかな」と思っていたのだが、ホームは改装中で売店が消えており、また特急券利用の身ということで改札の外には出られないのを残念がる。

Dscn2675しばらくすると大阪方から、トワイライトエクスプレス塗装の機関車がやってくる。その連結の瞬間を捉えようとカメラが一斉にそちらのほうを向く。

Dscn2679私は・・・といえば向かい側のホームから。列車編成の全体がよく見えるところである。

Dscn2690発車時刻となり、車内に戻る。ここでも結構な下車があったようで、誰もいなくなったコンパートメントを占領する形に。新疋田のループ線、近江塩津でのダイナミックな分岐、そして高架橋から見る琵琶湖など、それらを寝台に横になりながら見るというのもいいものである。さらに残った客の多くが京都で下車すると、より一層世間から隔離された車内の雰囲気を味わうことになる。その一方で沿道のゲリラ・・・もとい撮影を楽しむ「その筋」の姿も増えてきた。駅のホームの先端はともかく、沿道の草むらに身を隠して「あいつのタマ獲ったり(撮ったり)ました!」という人たちは本当にお疲れ様である。

Dscn2702新大阪を過ぎ、10時27分、15時間の長旅を終えて到着。大阪駅はちょうど年始の人出でごった返しているところ。その中に、ちょっと別な時間が流れた感じの寝台列車がやってきた。新装間もない大阪駅に彩りが加わる。

Dscn2699しばらく停車しており記念撮影タイムということになる。その中で「回送」となるべく車両横の方向幕が回るのだが、中には「今はなき寝台列車」が出てくるシーンもあり、これはこれでファンサービスなのかなと思ったりする。

Dscn2705最後は尼崎方面に向けて回送されていく客車を見送る。まあおそらく今後この列車に乗ることはないだろうが、せめて大阪駅の発着いずれかのシーンは、廃止まで残り少ない時間であるがまた目に焼き付けたいと思うのである・・・・。

冬でもいろいろな表情を見せる東北、青森。おかげで東北新幹線、竜飛、五能線、津軽鉄道、そして日本海・・・という、「乗り鉄」としてはまたとないさまざまな列車を楽しむことができた今回のお出かけであった。

ただ気候の厳しさはこの冬もエスカレートしているようで、その後たまたまJRの駅で「日本海運休」の貼り紙を見ることがあった。テレビニュースでも青森の例年以上の豪雪を伝えている。もしタイミング悪ければ「乗ろうと思っていた日に運休」ということになったかもしれない。その意味では本当に出かけやすかった、気候の落ち着いた時期であったなということに感謝するのである・・・・。また行きたいな。

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津軽鉄道ストーブ列車

2012年01月15日 | 旅行記B・東北

Dscn2589五所川原の駅でストーブ列車のきっぷを購入。前に一人おり、窓口の係員からは「車内でも買えますからどうぞ先に乗ってください」と言われる。ただ、売りさばいているのが今となっては珍しい硬券の乗車券ということで「それ(硬券)で欲しいので」ということで売ってもらう。ついでに売店で酒とスルメを買っての乗車。

Dscn2518ストーブ列車には以前に一度、同じように五能線と合わせて乗車したことがある。その時は乗車券だけでよかったはずだが、最近では「ストーブ券」ということで別途300円が必要とのこと。ストーブ列車の維持(そりゃ、あれだけのものを動かすのは結構コストがかかるだろうな)のためということで、ただでさえ経営が苦しい地方のローカル鉄道、これまで追加料金なしで乗れていたのが奇跡的だったのかもしれない。

Dscn2514機関車が1両に、旧国鉄で使用されていた客車が2両、そして別料金なしで乗れる気動車が1両連結されている。団体客も多く、そういうところはあらかじめ仕切りをしておいて、残りの席に座ることになる。ほぼ満席となって出発。

Dscn2521客車1両の中に2ヶ所ストーブがある。さっそくにストーブの上の網でスルメを焼く光景も。そうそう、これが楽しみで先ほど買い込んだものだ。

Dscn2523私もスルメを袋から出して順番を待とうとすると「よかったら焼きましょう」という女性の声。制服に身を包んだアテンダントさん。そういえば、津軽鉄道にもアテンダントが採用されたという話を聞いたことがある。お願いしますと差し出すと、「他にスルメ持っている方はお知らせくださいね」と声をかける。

するとそこへ「酒っこ、ビール、スルメっこ」と言いながらワゴンがやってくる。何だか楽しいイベント列車になってきた。300円のストーブ券はこうしたスタッフの費用にもなるのかなと思いながら、わざわざ遠くからやってきた人にとってはイベントとして旅の思い出となることであるからいいだろう。

Dscn2526「お客さんスルメ焼けましたよ」と、先のアテンダントがわざわざ胴と足を食べやすいようにちぎって、私が時刻表を敷紙にしたその上へ盛り付けてくれる。客車列車、スルメ、酒・・・・何ともまあ贅沢な昼食となりそうだ。それを噛みながら、雪一面の車窓を見る。

Dscn2531アテンダント1両ずつ2人乗務しており、もちろんスルメを焼くだけではなくピンマイクを使って観光案内や津軽鉄道のPRも行う。案内といっても通り一片の原稿を読むのではなく、津軽弁丸出しでアドリブも聞かせながら、乗客とやり取りしながら進む中、車内でも笑い声が起こる。この日は変わりやすい天候ではあるが、それでも寒さを吹き飛ばそうと元気である。前日訪れた外ヶ浜とは異なり、厳しい気候の中にも、平野部にはどこか豊かさ、余裕のようなものがあるのだろうか。太宰治も金木の名家の出、最近なら吉幾三とか羽柴誠三秀吉とか「名士(?)」もいるわけで・・・・。

スルメをかじり、酒を飲み、アテンダントのトークを聞きながらそんなことを思ううち、金木に到着。ここで団体客を含め、8割方の客が下車した。アテンダントも一人がここで下車。車内はいっぺんに空席が目立ち、残ったのはやはり「その筋」の人たち。

Dscn2536ということで席をストーブの前に移す。やはりその熱は強く、ストーブのすぐ前の席だと熱く感じる。でもまあ、屋内ではこのくらい暖めておかないと外に出た時に寒さが堪えるというものだろう。アテンダントやワゴン売りのおじさんらが車内の片づけやら炭の補充を行うのを見る。アテンダントが紙を見ながら手すりに仕切りのチェーンをひっかけている。恐らく復路もいくつかの団体が乗ってくるのだろう。

Dscn2547終点の津軽中里に到着。機関車の折り返し作業を見た後で、20分後に出る折り返しの列車に乗ることにする。どうやら年始でも金木の観光施設や開いているようなので途中下車してもよかったのだが、前にも訪れたこともあるし、特に太宰ファンというわけでもないのでもういいかということで、五所川原まで買い求める。今度はこちらからの復路に乗ろうという団体もいて、小さな駅舎の中は混雑している。

Dscn2550「日本最北の民鉄」というのが津軽鉄道。ああそうだったかと改めて思い出す。札幌の地下鉄や函館の路面電車は市営だから。

Dscn2559帰りもほぼ満席となって発車。ここに来て日差しも出てきて、白い雪面からの照り返しがきつい。帰りもアテンダントにワゴン販売で賑やかな車内。ここでもう一本酒を購入「お客さん、飲み鉄ね」と。周りでも同じように買っていた人もおり、「飲み鉄、上等やな」という声も。

Dscn2565金木に到着。ここで、先ほど下車した一人のアテンダントも乗り込んできた。「あらー、いっばいのおぎゃぐさんで、えがったねぇ」と(すんません、津軽言葉を活字にするだけの力がなく)と、より一層車内がにぎやかなことに。結局このままのテンションで五所川原に戻ってきた。

Dscn2558冬の津軽・・・と聞くとわびしいイメージがあるものだが、こういう正月らしい賑やかさというのもいいものだと思う。現在は1日3往復ということだが、時間帯がいいのかもっとも利用客が多いようである。「もっとひっそりとしたストーブ列車を静かに味わいたい」という向きは、午後からの3便あたりがいいのかな。

Dscn2578Dscn2540当初は津軽鉄道沿線の途中下車でもいいかなと思ったが、予定より早く五所川原に戻ってきた。

結局この後は青森に戻るのだが五能線の便は2時間以上待つことに。一方で駅前のバス乗り場を見ると、青森行きの路線バスが30分に一本の割合で出ている。少し早いが青森に戻ることにしてバスに乗車。駅から離れた郊外は国道沿いのどこにでもある眺めで、ショッピングモールや大手のチェーン店が並ぶ光景。別に「五所川原にこういうものがあってはならない」とは思わないし、それをファスト的光景であるとか地方の風情が薄れるというのも一方的な意見かなと。そりゃ、こちらの人だって大型のショッピングセンターくらい行きたいだろうし。

1時間あまりで青森の中心街へと入り、駅に到着。この日の夜は寝台特急「日本海」で帰阪することになる。それまで残り少なくなった時間、青森の最後の夜を楽しむことに・・・。

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五能線へ

2012年01月14日 | 旅行記B・東北

前日に、「青森から三厩を経て竜飛崎に行くのに、青森を何時の列車で出発すればよいか」ということを、居酒屋で隣り合わせになった旅行者から尋ねられた、ということを書いた。その時は、青森を朝6時過ぎに出発してその後乗り継いで竜飛に行ったところで、何もない風雪のところで3時間過ごすことになる、という旨を話した。

Dscn2442さて私はといえば、その朝6時よりももっと早く、5時過ぎにはホテルをチェックアウトして(精算がなければキーボックスにルームキーを放り込んでおいてくださいという方式)、夜も明けぬ青森駅のホームに立っていた。ちょうど、札幌からの急行「はまなす」が到着して、ホーム向かいの特急「つがる2号」に乗り換える人の姿が目立つ。ああ、「客車急行」というのも、今となってはこの「はまなす」が残るのみ。果たしてこの列車もいつまで走るのやらというところである。

Dscn2441_2私も「つがる2号」の客となり、5時46分に出発。手には「五能線フリーパス」というのを持っている。もっとも、「つがる」に乗っているようでは別料金が結構発生しているので、果たしてこの日の行程の中でこのきっぷを持っているのがどれだけ効果的なのか、という疑問はあるのだが・・・。

今回の青森行きについてはさまざまなプラン変更があったわけだが、当初のプランは、前日に秋田に宿泊して早朝の列車で東能代に移動、そして五能線・・・というものだったのが、日程をいじる中で五能線自体を断念することになるのかな、という行程になった。ただ唯一、青森から「つがる2号」で東能代まで出れば、乗りたいと思っていた五能線の列車に間に合うことがわかり、奥羽線から五能線をぐるりと回るプランになったということだ。

「つがる2号」は次の新青森で半数近くの乗客を降ろす。青森~東青森は自由席であれば特急料金なしで利用できるということで、ここから新幹線に乗り継ぐ人が多いのだろう。まだ夜が明けない津軽地方を淡々と走っていく。雪を掻きわけるためか、ボコボコいう音が響く。

Dscn2443秋田県に入り、豪雪地帯を行く。県北の大館を過ぎ、東能代に到着。ここから5分で五能線の弘前行きに乗り換え。

Dscn2445五能線は気動車が3両。日本海に接するローカル線ということで全国的に超人気のところだけに、「はたして座ることができるのか?」というのが心配どころであったが、この日の朝の列車に乗車していたのは私を含めて6人。それも2両目に固まっており、1両目と3両目は無人である。楽勝で海側のボックス席を占領。

次の能代で地元の人らしいのが3人下車して、残ったのは「その筋」とおぼしき人ばかり。まあ、「その筋」は日替わりで替わるのだろうから、普段の時はそれなりに混むのだろうが、学校も何もない時期の乗り具合というのはこういうものかもしれない。それにしても、ここまでガラガラとは淋しい限りである。

Dscn2447まずは秋田県側を淡々と進む。空はどんよりとしており、今にも雪が降ってきそうな重々しい感じである。

Dscn2453Dscn2452県境に近い岩舘着。ここからが五能線らしい海岸線を楽しめる区間である。五能線、これまで列車で2回、並走する国道をレンタカーで走ったのが1回あるが、夏によし、冬によし、日本海という、その季節ごとにさまざまな表情を見せてくれる海に沿うロケーションは何度訪れてもいいところである。実は後続の「リゾートしらかみ」の指定席も入手したのだが、客がほとんどおらず、ボックス席を占領することができる状況ということであれば、もうこのまま乗っていこうということになる。

Dscn2455Dscn2458Dscn2469この後は次々に展開される鉛色の日本海。青森県に入ると雨というのか、みぞれのようなものが降ってきて列車の窓ガラスを叩く。まあこの日はまだ大人しい車窓だったのかもしれないが、侘しさは満点である。

Dscn2477実はどこかで途中下車して、その後で後続の「リゾートしらかみ」に乗ろうかということも考えていたのだが、この車窓を見ると「ここから降りて1時間以上吹きさらしになるのは嫌だ」という気持ちが起こってきた。

Dscn2479日本海の荒波近くを走るローカル線、それにゆったりとしたスペースを取りながら乗るほうがよほど贅沢なような(「リゾートしらかみ」がほぼ満席で、私が取れた席もどうやら山側だったようだし)。乗っている人も皆一人で、車内は物音ひとつしない。外を見てもクルマがそれほど行きかうわけでもなく、気動車のエンジンの音と、窓をたたく風雨の音だけが広がる。実にモノトーンなひと時。

Dscn2481ただそんな沿線もぽつぽつと乗客も増えてきて、沿線の中間点にあたる深浦に到着。北前船の寄港地でもあり、街並みもそれなりに風情があるのだが、列車交換の間の10分ほどの停車ではそれらを見ることはできない。

Dscn2485みぞれが降る中、最近改装されたらしい駅舎を出て駅前の商店へ。この日は朝食をとっていなかったのでここで食料を調達。なんとか人心地ついた。

Dscn2492Dscn2498Dscn2500Dscn2506深浦から広戸、追良瀬、驫木というあたりの海岸線も厳しく、ちょうど波しぶきが線路の近くまでやってくる。何とも荒涼とした眺めではあるが、それでも左手前方のほうは明るい。

Dscn2503はるか遠くに見るのは小泊半島、そしてその先には雪山が連なるように見える。あれが北海道で、あの陸地までたどり着けば北の港町・松前に出る。

Dscn2484こうして見ると、北前船の航路というのも厳しいものが想像されるが、少し晴れれば北海道も望めるというのであればまだ針路の分かる航路ということであろう。日本海側を回るのは各地の産物に恵まれていたからということもあるが、日本の場合は西から東に風が吹くことが多い。そうであれば、仮に日本海で事故があったとしても、本州のどこかに流れ着くことができる(現に、大陸から東北あたりに流れ着く人もかつてはいたわけだし)。そのことも日本海航路の強みであっただろう。

千畳敷を過ぎると針路を東に取り、内陸の平野部に入る。鰺ヶ沢に到着。ここから乗車する人が多い。行き違いの停車時間を利用して少し外に出てみる。

Dscn2512鰺ヶ沢といえばかつての技能力士・舞の海の出身として知られ、少し歩いたところにある相撲の記念館にも訪れたことがある。舞の海だけではなく津軽出身の力士の色紙もあったかな。かつては相撲といえば北海道、青森の出身者が多かったように思うが、どうだろう、現在は青森なら安美錦とか高見盛、若の里あたりががんばっているが、北海道出身の関取はいるのかしら。

Dscn2511そのことを象徴するわけではないだろうが、駅前の観光案内の看板に出ていたのは「ブサかわ犬」の「わさお」である。まあ、このところ人気の低迷している相撲と比べれば、こうした癒し系のキャラクター、特に動物となるとかわいらしく人気の出るところであろう。

さらに走って五所川原に到着。ここで東能代から4時間近く乗車した五能線列車ともお別れ、津軽鉄道のストーブ列車に乗ることにする。今回の鉄道旅行のポイントの一つ。確かストーブ列車は1時間後で、まあ駅の様子だけでも見ようと思って改札を出て津軽鉄道の駅舎に向かったのだが、どうも様子がおかしい。時刻表をよく見ればあと5分で発車とある。うわっと、これは急がなければ・・・・。

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青森での一時

2012年01月11日 | 旅行記B・東北

津軽線で三厩から竜飛崎まで往復し、青森に戻る。この日も青森泊まりということになる。駅前から伸びる新町通りであるが、大晦日はほとんど真っ暗だったのが、年が明けてみると営業している店も結構あり、本州最北の都市らしく賑わいを感じる。

Dscn2433さて、寒い体を温めようと向かったのはその通りに沿った一軒の店。ここで刺身などを食べるが、どうも雰囲気が落ち着かない。店員もどこか無愛想な感じもするし。味はまあまあだったので「二度と来るか!」ということにはならないが、ちょっと期待はずれな感じがして早めに切り上げる。

次に向かったのが、駅のすぐ前にある郷土料理の店「鱒の介」。ここは前回の青森紀行の時に訪れたことがある店で、結構いい感じであった。前日も店の名前はうろ覚えながら場所には覚えがあったので通ってみたがあいにく休業。年が明けてからの営業となるようだ。

Dscn2435カウンターが運よく空いており陣取る。まあ年始のこととて全てのメニューができるわけではないようだが、前の店で何かしか食べたので、貝焼きとか津軽なまことか、食事よりはアテのような感じでいただくことにする。

Dscn2436酒のほうも地酒の飲み比べセットがあったり、津軽を代表するらしい「田酒」というのも味わえた。他のを飲んでから田酒を注文したら、「お客さん、まず田酒を飲まなくちゃ。順番間違っているよ」てなことを言われたが。

駅前という場所がらか、あるいは元日から飲むのはこういう人種なのか、旅行者らしい人の姿が目立つ。カウンターも6~7席あったようだが陣取っているのはいずれも旅行者のようで、右隣のお二人さんはお連れさんではなくたまたまこのカウンターで意気投合した人のようである。いろいろと旅の話をするのを聞いていると私も興趣がわいてきて、スッと話の中に入っていく。お隣が神戸あたりの人で、その向こうは江戸の方のようだ。さらにその向こうには名古屋の人がいて・・・と面白い。

銘柄で「竜飛」というのがあったので、それを注文。「今日、竜飛崎へ行ったんですよ」ということを女将さんに話をすると、これまで左隣で一人静かに飲んでいた女性が「竜飛に行かれたんですか?」と声をかけてくる。何でも翌日に竜飛を訪れるそうだが、青森から列車で行くのに朝6時過ぎの便で行くか、私と同じく10時過ぎの便で行くか、バスの時刻表も書いたメモを片手に思案しているとのこと。ちなみに、朝の便で竜飛に行けば折り返しは3時間後、10時の便なら1時間40分後。

うーん、早く行って現地でゆっくり過ごす(宿泊は蟹田らしい)のもいいとは思うが、先ほど竜飛に行ってきた者としては、どこも施設や店が開いていない中では、朝の便で行って3時間をあそこで過ごせと言われれば結構厳しいのではないかとおもう。よほど体力があって「3時間あればどこなりと歩く」というのなら別だが、普通で行けば1時間40分でも持て余したくらい。まあここは青森でゆっくりして出かければいいのではないですかと答えたが、果たして翌日どのような動きをしたことやら。

Dscn2438そんな話をするうちに右隣の人はお開きになり、代わりにやってきたのはいかにも「その筋」という男性。海鮮丼とけの汁を注文し、「19時30分に間に合いますかね?」と女将に言っている。その時間といえば・・・大阪行きの「日本海」の出発である。それまでに食事を急いで済ませようというところだろう。幸いにも早く料理が出てきて、男性はそれを書き込むようにして席を立つ。まあ、19時30分発車といってもそれまでに翌朝までの食料の買い出しもしなければならないだろうし、写真も撮らないといけないだろうから実にあわただしいものとなる。

江戸のお父さんも左隣の女性もホテルに引き上げるということで、カウンターではいつしか私が尻が長くなった。この後は千葉から来たという旅行者と隣り合わせになり話がはずむ。この日はいろいろな人に会うことになった。前回はこういうことはなく、やはり年明け、雪の中という環境が、人と人を近づけるのか、特に旅行者は話し相手がいないわけで余計にそうさせるのか。いずれにしても面白い一時となった。

Dscn2437その地酒の竜飛とともに味わったのが、マグロの酒盗。「辛いよ」と言われたが本当に辛く、その分わずかな量ながら酒の相手ができるのがすごい。瓶詰めでもあれば買って帰りたいところだ。

結構長居して「鱒の介」を後にする。次に青森を訪れるのがいつのことになるかはわからないが、次に来た時もこの店には入ろうと思う。旅先でお気に入りの居酒屋が見つかるのは喜ばしいことだ(まあ、太田和彦氏や吉田類氏のような大家は訪れないだろうが・・・)。

恥ずかしながら、この後もう一度アスパムに上がって青森の夜景を見ようかとか、そういうプランもないわけではなかったが、ここまで来たらもうええかという雰囲気になり、そのままホテルの部屋に戻った。

Dscn2440その日の夜はどういうテレビをやっていたかは全く知らない。気が付けば日付を超えた辺り。着衣も乱れっぱなしである。次の朝は先ほど「竜飛には何時の便で行こうか」と話していた女性より早く出発することになるため、きちんと寝ておこうともう一度寝支度をするのであった・・・・。

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竜飛崎へ

2012年01月10日 | 旅行記B・東北

Dscn2381津軽線の終着駅・三厩で下車。ここで折り返しの列車に乗ろうという人、そしてバスに乗り継ぐ人と分かれた。竜飛行きのバスに乗ったのは私を含めて7人。「辰年」ということもある。龍にちなんだ土地を訪れるのも面白いだろう。

この外ヶ浜町営バス、何と運賃は100円均一である。以前に竜飛を訪れた時は距離に応じて普通に運賃を取っていたと思うが、利用客の増加につなげようということか。それでも、元日のバスに乗る人などほとんどおらず、三厩の集落から竜飛に向けて細々とした集落を抜けていくが、2人の客が降りた後は乗降客ともいない。国道は海岸線に沿ってバイパスのように抜けているが、こちらのバスは細い道の集落を縫っていく。時折、前から来たクルマと離合することができず相手のクルマを後退させたりという場面も。

Dscn2389それにしても、陸奥湾に面していながら「外ヶ浜」とは妙な言い方である。陸奥湾のほうが内海で、日本海側のほうが気候的に厳しいだろうに・・・と思うのだが、これは鉄道や国道を中心とした地理観や歴史観を持つものの発想ということになるそうだ。津軽平野を半島の中心とみれば、そこから山を隔てた蟹田とか三厩というのは「外」ということになるようである。むしろ、日本海に面した小泊だの十三湊だのというのが日本海を通した交易の拠点で、そちらのほうが玄関口のようなものだったという。そういうことはなかなか学校の歴史の時間では教わらないことである。

Dscn2412こうして乗ること30分あまりで竜飛の集落にやってきた。その昔、太宰治が『津軽』の中で「鶏小舎」と表現した集落である。その突き当りの漁港でいったん方向転換をし、少し手前から坂道を上って到着したのは竜飛崎灯台のたもとである。

竜飛岬は確か17年前の春先に一度来たことがある。この時も荒涼とした天候で、長いこと立っていることができずに土産物屋に飛び込んだのを憶えている。この日は空はどんよりとしており、風もそれなりにあるものの、来る前に想像していたような雪まみれになるということもなく、何とかしのげそうである。

Dscn2391灯台のバス停の近くに、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の碑が立っている。冬の風情を感じさせる名曲である。ボタンを押すと「上野発の夜行列車降りた時から~」ではなく、「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと 見知らぬ人が指をさす~」と流れる。この時間では津軽海峡を渡ろうというフェリーの姿は見えなかったが、船から見れば竜飛も北のはずれにポツンと見えるのだろうか。景色の雄大さでは下北半島の脇野沢のほうがいいのだろうが、こういう演歌となると津軽側をうたったものが多いのはどういうことだろうか。

Dscn2396さてその灯台に上がる途中で見るのが「階段国道」。元々は現地の地形を実査することなく、地図上で通れそうなところを中央の役人が勝手に指定したことで、道路ではなく階段を通してようやく国道が開通したというもの。杓子定規で融通がきかない役人の象徴であるかのようにも思えるが、今となっては竜飛、いや津軽半島有数の観光名所となっているのも皮肉なものである。ただ残念なことに、「凍結の恐れあり閉鎖中」の表示。柵から覗き込むと結構吹き溜まりになっているところもあり、数十メートル下に降りる道のりでも結構苦戦するだろう。階段国道を体験できなかったのは残念だが、それもこういう冬季に訪れるのであれば仕方のないところだ。

Dscn2400ということで、灯台に続く階段(こちらも他人の足跡があるものの、時々深みにはまることもあり結構歩くのに難儀した。これなら階段国道閉鎖も納得)を上って灯台に到着。対岸の下北半島、北海道、そして小泊岬も結構くっきりと見える。

Dscn2406雲の隙間から太陽も顔をのぞかせようというくらいで、本当にこの時期としては穏やかな天候なんだろうなと思う。

Dscn2409私が立っている真下を青函トンネルが通っているのだなと確認したうえで、バスで通ってきた車道を歩いて竜飛の集落へ。「本州の極地」「本州の袋小路」と『津軽』の中で太宰治は表現したが、そういう先入観で見ると「やはり極地なんだなあ」と感じさせる。確かに灯台へと続く車道を歩けば西のほうに抜けることができるのだが、この集落は本当に行き止まりである。

Dscn2411太宰も宿泊したという旅館もあるが冬季は閉館。また袋小路の竜飛集落に向けて歩くが、道中で身を寄せるところがない。

Dscn2413階段国道の竜飛集落側の上り口にやってきた。この辺りかなと思うが確証が得られない。ただそんな中、「国道379号線 階段国道」と書かれた標識が道端に倒れているのを発見。これは何らかの理由で倒れてしまったのか、あるいは閉鎖時に上る人がいないようにわざと倒しているのか。果たしてどうだろうか。

Dscn2419小さな漁港の周りには時折クルマがやってきたり、家の軒先からテレビの音も聞こえるので人の気配は感じられるのだが、まずもって外に出ている人はほとんどいない。そんな中を、寒さを紛らわせるために(穏やかな天候、と先に書いたが、風は結構ある。大阪の基準で行けば結構寒いのは寒い)集落を行ったり来たりするのだが、こうして歩いているとそれこそ大陸からの不審な密航者と思われやしないかとも思う。

Dscn2425竜飛にやってきて1時間40分ほど、灯台からのバスが降りてきて竜飛の集落へ。行くときに見た同じ顔ぶれでそのまま三厩駅まで乗車。途中に義経渡海伝説の義経寺があるのだがそれも通過。また細々とした集落を抜け(途中、1台のクルマが路上駐車していたためにバスが前に進まなくなり、運転手がクラクションを鳴らしてようやく運転手が家の中から出てきた、という場面も)、三厩駅に到着。待合室のストーブが暖かかった。

Dscn2428列車の時間まで少しあるので落ち着いて待合室を見渡す。『津軽』の竜飛崎のくだりをモチーフにした絵が壁に飾られていたり、なぜか窓際にはマグロの尾がおかれていたりする。外ヶ浜もマグロの産地。まあ、津軽海峡でいえば大間のマグロが築地のセリで何千万円もつくというのが有名であるが、同海峡を泳ぐマグロは同じ。大間の漁師が獲るか、あるいは函館か、はたまた外ヶ浜の漁師か、結構、同じマグロでもどこの港に上がったかで値段に差がある世界ではないだろうか。

Dscn2430そろそろ青森行きの列車が入ってくる頃。すると三厩駅に観光バスが横付けされた。そこから、添乗員に連れられた10数人の熟年旅行者がやってくる。津軽半島を周遊するコースなのだろうが、ここは「本州最果てのローカル線」などと銘打って「青森までローカル線で移動しましょう」ということだろう。「青森駅からは歩いてホテルに向かいます」と言っていたし。

まだ15時を回ったばかりだが、北国の日暮れは早い。どんよりとしていただけに余計に暗くなるのが早いように思う。毎日毎日こんな天候ならそりゃ気分も滅入ってくるだろうなと思う。15時を回ればもう仕事したくなくなるとか。

団体さんがやってきても2両の気動車には十分な余裕があり、折り返し列車でやって来た人たちとともに南下する。本日はこのまま青森まで下り、そのままホテル連泊ということになる。結局竜飛には日中のかなりの時間をかけて往復したということになる。

Dscn2405途中で列車の交換、追い越しなどあり結構時間がかかる。その途中でとっぷりと日が暮れた(といってもまだ17時)。すっかり夜の景色となって青森到着。さて、この日も青森の地場料理を探し求めるとしようか・・・・。

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津軽線の旅

2012年01月09日 | 旅行記B・東北

年越しをして朝を迎える。外はもう明るくなっており、時折雲の間から日差しが差し込む。

朝食会場にはお節メニューや青森の惣菜が並ぶ。まずはこちらでしっかりと腹ごしらえ。

Dscn2352外に出る。ホテルの近くにあるのが善知鳥(うとう)神社。「青森市発祥の地」ということであるが、記紀の世界で北国の夷人山海の悪鬼を平定してこの地を治め、その神々を祭ったのがご由緒とされている。また坂上田村麻呂も再建に携わったという由緒ある神社である。どうも「大和朝廷」や農業、陸の部分を中心とした歴史観では、東北というのは未開の地、あたかも文明も歴史も存在しない土地であったかのような描き方をされやすいが、いくつもの文献を読んでみても、海を通した交易等で文化の交流が古くからあったことも最近では注目されている。

ここで初詣ということで、新たなる年の思いを祈念する。

Dscn2356続いて向かったのは三角形にデザインされたアスパム。元日から開いているということで物産館をひやかし、13階の展望台へ。青森の周囲を見渡すことができる。

Dscn2364雲は広がっているものの雪も降らず、昨夜訪れた八甲田丸を初めとして市街地、港もくっきりと見える。南には八甲田山、西には岩木山の頂を見る。青森を代表する山々を目にすることができるとはラッキー。

目を海のほうに転じてみると、陸奥湾の両側に広がるのは津軽半島に下北半島。その半島の向こうが津軽海峡である。青函連絡船はもうないが民間の航路は今でも出ているようである(学生の頃、宿代わりに一度利用したことがあった)。また北海道に渡る機会があれば、それぞれ乗り場までのアクセス時間はかかるがそういうルートで行ってみるのも面白いだろう。

Dscn2359下北半島のさらに向こうに雪山の姿が見える。あれは北海道だろう。確証はないのだが、あの独特の山の形状は駒ヶ岳だろうか。いやいや、いくらなんでもそれは遠すぎるか。

駅に戻る。駅に隣接したショッピングセンターでは初売りが行われていた。駅前のデパートでも初売りが行われているようで、観光客や地元の人で賑わっていた。しばらく中に入り、書店で買い物。

Dscn2370そろそろ列車の発車が近付き、ホームに出る。本日は津軽線で終点の三厩を目指す。三厩に行く列車の便は少なく、この前となると青森を6時過ぎに出ることになるがいくらなんでもそれは早すぎ、この時間ということになった。まず乗車するのは途中の蟹田行きである。

Dscn2369その前に、反対ホームにやってきたのはブルートレイン。上野からの「あけぼの」である。今や希少価値となったブルートレイン(今回の出歩きの目的の一つにそれもあったのだが)。長旅を終えてやってきた姿はやはり凛々しく感じられる。

「あけぼの」の回送を見送って、蟹田行きに乗車。雪の中をロングシートの列車で淡々と進む。途中で行き違いの停車もあるが、暖かい車内、さすがに外に出よう・・・という気にはならなかった。

Dscn2371蟹田の手前では外ヶ浜の海岸を見る。対岸の下北半島もくっきりと見える。ここまで、実に穏やかな天候である。

蟹田に到着。ホームの向かいには三厩行きの気動車が停車している。一方は北海道へと結ぶ青函トンネルへと続き、もう一方は非電化のローカル線。この区間に乗るのも学生時代以来のことである。

Dscn2376「蟹田ってのは、風の町だね」の看板に見送られて発車。車内には旅行者らしい人の姿も見られる。冬の津軽という言葉に魅せられてのことだろうが、国鉄型の気動車に揺られて終着駅を目指すのも今はなかなかできないことである。それにしても、将来北海道まで新幹線が開通した時には、この区間は存在しているのだろうか。

Dscn2379津軽二股に到着。時刻表の路線図では大きく離れているように見えるが、津軽海峡線の津軽今別駅とは通路でつながっている。もっとも、2駅あわせても津軽二股は1日5往復、津軽今別に至っては停車する特急(特急しか走っていないのだが)はわずか2往復。そんな駅だが、北海道新幹線開業の折には「奥津軽」とかいう駅ができるとか。まあ、乗客を見込むというよりは鉄道施設としての役割が強いのだろう。

Dscn2385Dscn2431蟹田から40分ほどで終点の三厩着。ホーム1本きりの駅は荒涼とした感じがする。「終点に来たなあ」と実感するところだ。

Dscn2390Dscn2427ただ駅は無人ではなく係員もおり、待合室にはストーブも焚かれている。下北半島を走る大湊線の終点・大湊もどん詰まりの駅だが、あちらは港町として開けているし、駅に隣接してJRのホテルもある。それに比べればうら淋しい感じだが、終着駅としての風情はよろしい。

Dscn2388ここからは外ヶ浜の町営バスに乗車する。三厩駅に降り立ったのは15人ほどだが、このうち6人がバスに乗り込む。この先目指すのは、津軽半島の最先端である・・・。

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青森の年越し夜

2012年01月08日 | 旅行記B・東北

東北新幹線の新規開業区間の乗りつぶしを終え、新青森から青森駅に到着。ベイブリッジ、三角形の姿が印象的なアスパムを見るのも久しぶりで、本州最北の都市にやってきたことを実感する。

Dscn2302今回の旅では年越しと翌日の夜と青森に連泊する。その拠点となるのがハイパーホテル・パサージュ。駅前に伸びる新町通り沿いにある。まずはいったんチェックインし、しばし休憩。温泉大浴場がないのが残念だが、自宅よりも広い部屋、バスとトイレもセパレートされており、ゆっくりとできる。まずはしばらく休憩。

18時を回ると周囲はすっかり暗くなっていた。大阪よりは寒いものの、雪も降っていないし極端に冷えを感じるほどではない。後で聞いたところではクリスマスの頃は大寒波がやってきたものの、年末年始は穏やかな天気が続いたというところである。そんな中で夕食の場所探し。駅前通りである新町通りはほとんどがシャッターを下ろしており(そりゃ、大みそかだし)、以前に入ったこともある駅前の郷土料理屋も閉店。まあ、チェーンの居酒屋は開いているし、それも気が進まなければコンビニで酒やつまみを買っての部屋飲みでもいいか。

Dscn2286しばらく歩いて見つかったのが、ビルの2階にある「磯々亭」というところ。1日から休みとあり、「本日のおすすめ」の貼り紙が出ていた。地物のメニューもあるようで、それならばと入ってみる。中には旅行者らしい先客のグループもいる。

Dscn2283Dscn2280地物ということで注文したのが、タラの昆布〆、ホタテの貝焼き味噌、アワビの刺身といったところ。普段の日に来ればもっといろいろなメニューが出てくるのだろうが、まあこの時期ならば店が開いていること自体ホスピタリティを感じる。

Dscn2284特によかったのが、子持ちのハタハタの塩焼き。秋田の名物であり今回はお目にかかれないかなと思っていたが味わうことができた。ハタハタといえば山陰沖でも結構とれるのだが、やはりこうして卵のボリュームある食感は秋田のものである。

これらの料理をやりながら田酒とかじょっぱりとかいう地酒を味わう。店内のテレビの音声はいつしか紅白歌合戦に変わった。紅白かあ・・・、まあテレビがついていれば見るかな、という程度のものだが、では他の局が面白いかと聞かれれば「別に」というところである。

十分に温まり、メニューにそばもあったので「年越しそば」と行こうかとも思ったがそれはカップのそばでも買って済ませることにして、たらのじゃっぱ汁で締める。一度ホテルに戻り、少しウトウトとする。

Dscn2298時刻は23時、もう一度外に出る。向かったのはベイブリッジの方向。駅前からは「あおもり灯りと紙のペーシェント」というイベントで、雪だるまや球状に組まれたぼんぼりというのか、紙灯籠が通りに並び、そのイラストで訪れる人を温かく包んでくれる。こういう手作り感のあるイルミネーションもいいものである。

Dscn2290やってきたのは旧青函連絡船で活躍し、現在はメモリアルシップとして係留されている八甲田丸。残念ながらこの時期見学は休みであるが、この年越しに合わせてカウントダウンのイベントをここでやるというのでやってきたのだ。青函トンネルが開通してもう20年以上経過するが、今でも連絡船というのは旅情を掻き立てるものとして人々の心に残っているものだろう。

Dscn2306船内の多目的スペースではジャズの演奏が行われており、200人くらいはいただろうか、地元の人、旅行者らしい人で結構賑わっている。ミニバーもできており、こちらで飲み物を注文してジャズの演奏とパワフルな歌声を楽しむ。何だかこちらのほうが紅白よりも面白いような・・・・。こうやって歴史的なスポットで年を越すのもいいものである。

Dscn231523時45分となったところでジャズ演奏は終了。これからは八甲田丸の前に出てカウントダウンを行うという。すでに酒が入ってにぎやかなグループもあり、司会者の演出もあってムードは盛り上がる。そこに、乾杯用ということで酒の入った紙コップが配られる。少しずつ、カウントダウンへの緊張感が高まってくる。

Dscn2351そして、59分となり117の時報が流れる。そして「午前0時ちょうどをお知らせします」の声。大きな歓声が上がると同時に、海の方では花火が打ち上げられた。それでまたさらに歓声が大きくなる。この日は実に空気も済んでおり、花火の光が夜空によく映えていた。

Dscn2327新年を迎え、青森市長のあいさつ、その後で「2012年の抱負を発表していただきます」ということで3組の人が八甲田丸の階段にあがって抱負を述べる。新しい年、それぞれが何かに思いを致す時である。私も自分自身に置き換えてあれこれと胸にいだく。

Dscn2334この後で番外編ということで、「1月1日に入籍します」というご夫婦が登場。結構いるのではないだろうか、元日入籍。それはもうおめでとうございます、お幸せにということで、訪れた人たちから祝福を受けていた。うん、こういう報告のやり方もあるんだなとふと遠くの空を見やる。また花火が一発あがった。

Dscn2335青森市長や商工会議所の会長さんたちによる鏡開きが行われ、これで年越しのイベントは一区切り。この後再び船内でビンゴ大会や餅つき大会も行われるようだがもういいかなと、ホテルに戻る。本州最北から始まる2012年、夜が明ければまたさらに北を目指して出ることに・・・・。

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