まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

四天王寺にて新西国霊場90周年「霊場巡拝いこか」

2019年06月08日 | 新西国三十三所

前の記事で、6月8日はBCリーグ観戦に敦賀、もしくは守山に行こうか、それとも四天王寺で開催される新西国三十三観音霊場発足90周年記念行事の「霊場巡拝(おまいり)いこか」(6月5日~6月9日)に行こうか迷っているとした。私のスケジュールの都合と天気の具合をにらめっこしてのことだった。

結局、雨雲は前日の夕方にはピークを過ぎたが天気がはっきりしないのと、今回限りのイベントが行われるということから、遠征は控えて四天王寺に向かうことにした。(結果を言うと敦賀での福井対石川の試合は中止、守山での滋賀対信濃は4対3で信濃の勝利。遠征するなら敦賀かなと思っていたが、強行しないでよかった)

JR天王寺駅には、前日の6月7日で大阪環状線の運用から引退した201系の写真パネルが展示されている。大阪環状線の車両置き換えは少し前から進んでいたが、6月7日で引退とは中途半端といえば中途半端。しかも午前中には最終運転が行われたそうである。環状線といえばオレンジ一色のイメージだったのだが、これも時代の流れだろう。

駅から北、四天王寺に着く。四天王寺は西国四十九薬師霊場の一つでもあり、いずれは先日始めたばかりのこの霊場めぐりでくじ引きとサイコロに導かれてお参りすることになるのだが、この日はそれは封印して、新西国霊場である。

境内のいたるところに、「霊場巡拝いこか」のポスターが掲示されている。またこのイベントに合わせて縁日露店が出ており、さまざまな食べ物やらガラクタ、骨董品などが並ぶ。

「霊場巡拝いこか」のチケット売り場がある。出開帳の参拝料として1000円を納める。これで中心伽藍に入るわけだが、中心伽藍は普通の参詣者、拝観の人も入る。それと区別するためか、チケットは手首に巻くタイプだ。

まずは新西国霊場の一番札所である救世観音が祀られる金堂に向かう。ちょうど時間的に、毎日行われる「舎利出」の法要が行われているところ。「舎利出」とは、金堂の舎利塔に安置されている仏舎利を出し奉り、僧侶が供養して参詣者の頭上にいただくもの。参詣者が釈尊と結縁すること、また精霊追善の功徳があるとして日々多くの人がお参りするという。実はこれをいただくのは初めてである。

その金堂、五重塔を囲む四方の回廊では「ご朱印巡礼」が行われている。新西国の33ヶ所、そして客番の5ヶ所の合計38の札所が回廊にずらりと机を並べ、その場で書く札所の朱印を授けるというものである。これまで新西国を回っていない人、また途中の人でも、期間中はここに来れば満願成就も可能になるというものだ。

ということで第1番の四天王寺に始まり、それぞれで朱印をいただく人が列をなしている。1ヶ所300円、それが38となると11,400円。専用の納経帳が1000円だから全てを回ると結構な出費になる。まあ、実際にその霊場まで足を運ぶとなると当然交通費もかかるし、公共交通機関だけではたどり着くのも困難な寺もある。

私は2016年1月~2017年7月までの約1年半をかけて一度満願しているし、別に重ね印をいただこうというつもりもなかったので、各寺のブースの前を通るだけ。それでも、それぞれの札所を訪ねた時のことを思い出して懐かしく思う。

これを一巡すると最後には「満願之証」までいただくこともできる。これで新西国を満願したことになる。ただ霊場会の本音としては、ここで朱印をいただくのは一つのきっかけとして、やはり実際に寺院までお参りに来てほしいところだろう。そこの寺に足を運ぶ、手を合わせることで得られるものもあるし、寺院全体の雰囲気、あるいはそこに行くまでの道中を含めて感じることも札所めぐりの面白さだと思う。

西国四十九薬師の札所である六時堂でも手を合わせた後、奥の本坊・五智光院に向かう。四天王寺でも訪ねる人の少ないところで、そもそも普段は入れるのかなというエリアだ。五智光院は五智如来を本尊として、平安末期に後白河法皇が創建したそうだが、現在の建物は江戸初期に徳川家光が再建、徳川初代~4代までの位牌も祀られている。今回、この五智光院で新西国のお砂踏み巡礼が行われる。

その入口が本坊の客殿だが、ここでは「ダンボール迷路巡礼」というものが行われている。漫画『ギャグマンガ日和』とのコラボ企画なのだそうだ。・・・と言われて、『ギャグマンガ日和』とは何ぞや?というところだが、漫画家の増田こうすけさんの作品で、集英社の『ジャンプスクエア』に20年近く連載されているそれこそギャグマンガのタイトルなのだという。

「霊場巡拝いこか」のポスター、パンフレットに聖徳太子のイラストが描かれているが、この聖徳太子は作品のキャラクターだという。といって歴史漫画ではなく、歴史上の人物や名作の登場人物をキャラクターにして、パロディで描いたもの。パンフレットに作品の一部が掲載されていたが、読んだ感想は、うーん・・・。

せっかく来たのでダンボール迷路にも挑戦する。ダンボールの壁にキャラクターのイラストや、漫画の中の台詞が登場する。ダンボール迷路には若い人の姿が目立ち、イラストや台詞を見つけてはそれに反応してスマホを構えている。若い人の間では結構人気があるのかな。作品を知っている人なら楽しめる企画だと思う。

ダンボール迷路を抜けて、五智光院の本殿に向かう(別にダンボール迷路巡礼を抜けずとも直接お砂踏み巡礼には行ける)。ここから先は撮影禁止である。

こちらでは札所順に仏像が並ぶ。また順路に毛氈が敷かれており、その下に、各札所からもたらされた砂が敷かれている。毛氈の上を歩き、仏像の正面に来るとお砂踏みとなる。小銭を用意しておけばよかったなと思いつつ、その一つ一つに手を合わせる。やはりこちらでも、それぞれの札所を訪ねた時のことが思い出される。新西国めぐりをもう一巡というより、その中でも特によかったところを何かの折にでももう一度訪ねてみるのもいいなと思う。

こちらでも38の札所を順に回り、出口にて結願之証をいただく。こちらは通常の文字タイプのものと、『ギャグマンガ日和』の聖徳太子のイラストタイプのものの2種類があり、どちらか片方を選ぶ。私は通常の文字タイプをいただいたが、後から思うに聖徳太子版のほうが記念になったかなとも思う。ただし、結願之証をいただいた時点で手首にまいたチケットにチェックを入れられるから、「おかわり」はできない。

この後は聖徳太子を祀る聖霊殿に向かう。こちらの絵堂では通常毎月22日の聖徳太子の月命日のみ公開される「聖徳太子絵伝」が特別に公開されている。聖徳太子の生涯が7面の障子絵で描かれ、改めて太子の業績をしのぶことができる。

聖徳太子といえば十七条憲法。その中に「和を以て貴しと為す」という言葉がある。この「和」は、新元号「令和」の「和」の由来であると、「令和」の考案者とされる中西進氏の講演を聴いたばかりである。四天王寺でも「霊場巡拝いこか」に際して、新元号「令和」の記念法要を行っている。

新元号となってちょうど1ヶ月が経過した。一時のブームは落ち着いたように見えるが、そうなるとこのところ続く暗いニュース、話題がまた影を落としてくるのを感じる。ただその中で、かつての偉人に思いを馳せ(『ギャグマンガ日和』ではかなりクセの濃いキャラクターで描かれているそうだが)、先人たちに学び、新たな時代をどう築いていくか考えるのは悪いことではない。また心のよりどころをどこかに見つけることで、落ち着いた日々の暮らしにもつながるのかなと思う。そんなきっかけになった「霊場巡拝いこか」であった・・・。

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「霊場巡拝いこか」!

2019年06月06日 | 新西国三十三所
新西国三十三霊場、このカテゴリで記事を書くのは久しぶりである。
 
新西国三十三観音霊場は1932年、当時の京阪神の新聞社が近畿2府4県の寺院の中から、一般読者の人気投票も踏まえて選定した38ヶ所の寺院で構成された札所めぐりである。私も、西国三十三所めぐりの後、2016年1月~2017年7月まで1年半あまりで一通り回った。
 
新西国の札所は観音霊場でも西国三十三所と重複しないよう選定され、また聖徳太子の「和の道」の精神に基づき、聖徳太子ゆかりの寺院も多く含まれる。その第1番は四天王寺で、飛鳥の寺院もあれば高野山の塔頭の一つもある。比叡山や洛中の寺院もあれば、兵庫県内にやたら広範囲に札所が並ぶ。最後は佐用町の瑠璃寺。確かに、個性的な寺院も多かった。
 
「霊場巡拝いこか」は、「おまいりいこか」と読む。新西国霊場発足90周年事業の一環とあるが、2019年だと・・計算が合わない。90周年なら2022年。あ、これは聖徳太子没後1400年となるな。こちらに照準を合わせたのだろう。ということは、2022年に向けてさまざまな行事やキャンペーンが展開されるのかな。
 
6月5日~9日まで四天王寺で開かれている「霊場巡拝いこか」だが、新西国霊場の38ヶ所が一堂に介してお砂踏みや朱印授与を行い、他にもイベントがある。出開帳揃い踏みは40年ぶりとあるから、前回は霊場発足50周年の行事だったのだろう。まあ、朱印は実際回った時にいただいたが(中には寺の人不在で後日駅から延々と歩いてようやくいただいたものもある)、納経帳目当ての客は一度に納経帳が仕上がり満願となるからいいだろう。
 
これあるを知ったのは、初日のニュースを見た昨日5日のこと。8日はBCリーグ観戦で敦賀、もしくは守山に出かける予定で、9日は仕事である。どうしようか。
 
ただ、7日~8日は広い範囲で雨の予報もある。野球は雨天中止かもしれないが、多少の雨なら試合開催かもしれない。また予報によっては8日の雨マークが消えているものもあり、判断に迷う。
 
野球にいこか、お参りいこか・・・?
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第33番「瑠璃寺」~新西国三十三所めぐり・39(そして次の札所めぐりへ)

2017年08月03日 | 新西国三十三所
瑠璃寺のお参りと森林浴?を終えて、山崎行きのバスに乗る。瑠璃寺は作用町にあるが、この辺りの人たちがクルマ以外の手段で作用町の中心に行こうと思うと、平日限りで1日2~3本のコミュニティバスになる。それ以外だとウエスト神姫バスで山崎に行くことになるわけで、日常生活では宍粟市とのつながりのほうが強そうである(この手の、平日限定の自治体のコミュニティバスというのは、果たして地元の人たちにとってどのくらい利便性があるものだろうか。またそういうのも見てみたいモノでる)。

さて山崎行きも、私が船越から乗った時は先客1名、その後も4~5人乗ってきただけである。それでも地元には「貴重な足」である。山崎の営業所に降り立った時には、先ほどの瑠璃寺の涼しさなど軽く吹っ飛ぶ暑さである。次の姫路行きのバスは25分後に出る。

それならばおとなしく待合室で待てばよいものを、また暑い県道に出ていく。バスの乗り継ぎ地として降りた山崎を少しだけでも歩こうという、無茶といえば無茶な動きだ。

山崎には黒田官兵衛が築いた山城があるという。ただそれは町並みの北のほうにあり、現在の町並みは江戸時代に池田氏~本多氏が山崎藩を治めるようになり形成されたそうだ。播磨と因幡を結ぶ街道沿いであり、揖保川の水運でも栄えたという。

バスの営業所の近くに山崎城跡がある。街道に面した大手門、そして城跡の石碑が建つ。鹿沢城とも呼ばれたそうだが、現在は小学校や町の図書館などの公共施設として受け継がれている。

県道を挟んだ北側が城下町だったそうで、路地を一本入ったところは今も面影を残す。・・・とは言っても、雰囲気があると目に止まったのは酒蔵である。

そんな景色を20分で慌ただしく回り、姫路行きのバスに間に合う。エアコンが心地よい。姫路駅までの1時間は路線バスの中でまったりと過ごす。

姫路の駅前は容赦ない暑さ。その中で海鮮系の店に入り、これまで回った新西国三十三所の一人打ち上げとする。こういう時の生ビールは・・・!

これまで新西国を回った順番は・・

四天王寺~清水寺~酒見寺~伽耶院~浄土寺~天上寺~金剛寺~観心寺~鞍馬寺~神呪寺~能福寺~須磨寺~飛鳥寺~橘寺~金剛城寺~萩の寺~満願寺~宝亀院~光明寺~道成寺~立木山寺~楊谷寺~叡福寺~西方院~当麻寺~鶴林寺~花岳寺~水間寺~大報恩寺~誓願寺~神峯山寺~安岡寺~斑鳩寺~太融寺~鶴満寺~太山寺~延暦寺~金剛城寺2回目~瑠璃寺

この札所めぐりでは、兵庫県をよく回ったというのが印象的だった。公共交通機関を乗り継いだり、時には長く歩いたりもあったが、それぞれ「行くこと」自体が楽しみであり、見つけたものも大きかった。

さて、これを受けて次はどうするか。現在四国八十八所めぐりの最中、また西国三十三所めぐりも2巡目ぼちぼちというところだが、関西にはまだいくつかのネットワークがある。

・・・またしばらくすると、それに挑戦しよう。例によって「くじ引き&サイコロ」で決めることになるだろうが・・・。
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第33番「瑠璃寺」~新西国三十三所めぐり・39(無事に満願達成)

2017年08月02日 | 新西国三十三所
山崎から船越のバス停に降り立つ。ここが瑠璃寺への入口で、看板には「西の高野山」の文字も見える。

また県道を行くクルマにもよく見えるようにと巨大な絵馬が掲げられている。今年の干支の酉であるが結構かわいらしい。地元の小学生がデザインして、作用高校の美術部が絵馬に描いたという。

仁王門に出る。昔はこれをくぐったのだろうが、今は寺の前までクルマで行けるとあり、そのために門を迂回する形で道路が取り付けられている。それをくぐると昆虫館に出る。夏休みとあって子ども連れが多く、昆虫採集の催しも催しも行われていた。この辺りはそうした自然が売りなのだろう。先ほど、同じバスを降りた母娘づれがリュックに入れていた棒のようなものは組立式の虫取網で、この後も参道の周辺や、時には瑠璃寺の境内でも虫を追い求めていた。

森と寺谷川の緩やかな上り坂、木陰だと涼しく感じられるところもある。石灯籠にも苔が生えている。

ただ一方で、森をよく見ると倒木の跡がすさまじかったり、沿道に掲げられているかつての絵馬も朽ちているものがあったり、台そのものがなくなっていたりする。今から8年前の2009年、台風9号のため作用町一帯は大きな被害を受けた。先ほど通った昆虫館や、これから訪ねる瑠璃寺も土砂災害に遭ったとのことだ。今でも山にはその痕跡が残るとは痛々しい。道端に山の木々を慰霊する(まだ新しい)石碑もあった。

バス停から15分ほどで瑠璃寺の長屋門に着いた。こちらにはまだ新しい石柱や、新西国の満願御礼で寄進したらしい石灯籠がある。石段を上って門に着くと小僧さんの人形が出迎える。その横には台風被害からの復旧を願う志納金を呼び掛ける手書きの張り紙がある。寺として拝観料、入山料を取るわけではないので、せめてもと少しばかり箱に納める。

正面には立派な木造の建物があるが、これは大師堂と本坊。本堂はこの先にあるが、脇の黒板には「ここでお参りしてもかまいません」とある。まあそれでも、新西国ということなら本堂に行かなければ。

そう思って本坊の脇を通って奥の建物に着いたが、ここは不動明王を祀る。ここはここで真言を唱えた後で、再び本坊から外に出る。こちらの門側は石段に生える苔と、目の上の青もみじがいい感じである。兵庫の山の中だからゆっくり眺めるが、京都市内にこの景色があればたちまち人であふれ返ることだろう。

瑠璃寺は奈良時代、聖武天皇の勅願で行基の手で開かれたとの言い伝えがあり、南北朝時代に赤松則祐により再興した。かつては塔頭寺院も多く抱え、それこそ「西の高野山」と称しても違和感がなかったとか。ただ、時代の流れである。またこういう地形だから、水害で壊れた建物もあったことだろう。今は小ぢんまりとした感じの山あいの寺院である。

本堂を目指すべく、苔むした石段を上がる。そしてやって来た境内。室町時代からの灯篭や鐘もあり、緑に囲まれるように本堂が建つ。他に人の姿はなく、ここで汗をぬぐって、新西国としては区切りのお勤めである。

そしてこの後、しばらく本堂の階段に腰かけてボーッとしていた。新西国を回り終えたという安堵の気持ちがあった。ただこの場ではそれ以上に、境内を抜ける風が涼しかった。この日も関西の平野部では34~35℃はあったと思う。それが本堂の周りだけは30℃を下回るのでは?と思わせた。

この瑠璃寺の上には、船越山のモンキーパークというのがある。野生の猿を観察できるという知る人ぞ知るスポットなのだが、そこに向かう坂の途中は暑く、またお金を払って猿を見るのもな・・・ということで引き返した。またその途中には瑠璃寺の奥の院に向かう細道もあるが、なぜかこれもパスした。また本堂に引き返し、なぜこの一角だけ涼しいのか思いながら、普段の生活ではなかなか感じられない静けさと涼しさを味わう。これは新西国の他の札所では感じなかったことだし、いつもなら慌ただしく次の目的地に向かうところ、折り返しのバスまでの時間が結構あったことからである。こうした札所めぐりの終わりもなかなかよかった。

さて、札所めぐりの朱印である。先ほどの本坊に戻り、インターフォンを鳴らす。しばらくして寺の方が出て来て、「千手観音」と優しい文字を書いていただく。

また、新西国の満願ということで、「満願之証」を申し出た。寺の方は「名前は入れず、日にちだけ書きますがそれでいい?」と訊く。確かに、過去に満願となった方のブログやネット記事を見ると、表彰状のように名前が書かれていたが、そこは仕組みが変わったのだろうと思い、そのまま書いていただく。こちらは無料だった。A4より少し大きなサイズである。

さてこれで瑠璃寺を終えて、新西国めぐりは満願となった。何か急に良いことに出合うわけではないが、一つの区切りである。そろそろバスの時間が近づき、バス停まで戻る・・・。
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第33番「瑠璃寺」~新西国三十三所めぐり・39(満願への道)

2017年08月01日 | 新西国三十三所
2016年の1月に四天王寺から始めた新西国三十三所めぐり。これまで32の札所寺院と5の客番寺院を訪ねる中で、初めてのスポットも多く、新鮮な発見もあった。そしてとうとう満願となる33番の瑠璃寺に行くことになった。

瑠璃寺があるのは兵庫県の西の端にあたる佐用町。四天王寺から札所順にぐるりと線を書くと最も西にあたり、そのぶん最も遠いところに見える。ついにラスボスに当たるのかと思うが、この瑠璃寺、申し訳ないが全国に知られている寺院かと言われると疑問である。昭和の初めに新西国めぐりを成立させた人は、どのような意図で瑠璃寺を最後に持ってきたか。ただ西にあるから何となく・・という気もするが、そこは公式見解も何もないのでわからない。

ともかく瑠璃寺を目指すわけだが、アクセスは新西国めぐりで何度もお世話になった神姫バスで、船越というバス停から徒歩で1キロとある。まあ、ここまで来ると1キロというのはそれほど問題ではないが、バスが1日数本というローカル線で、それに合わせなければならない。船越へのバスは宍粟市の山崎から出ており、30分ほどで着く。その山崎には姫路からバスがあり、経由パターンはいくつかあるが約1時間である。神姫バスのサイトで検索すると、姫路駅9時25分発の便で山崎10時26分着。山崎10時45分発で船越11時15分着である。結構大変だ。

ただ改めて地図を見ると、山崎のある宍粟市は中国自動車道が横切っており、山崎インターもある。そして、大阪から津山への中国ハイウェイバスが山崎インターに停車する(神戸からだと三宮~山崎の高速バスもある)。これだと、大阪駅7時の津山行きに乗れば8時59分に山崎インターに着く。インターから山崎のバス停(営業所)は徒歩10分とあり、それで行くと山崎から1本早い9時25分発のバスに乗ることができる。ちなみに姫路からだとこの便には間に合わない。ここは、滝野社の光明寺以来となる中国ハイウェイバスに乗ってみよう。帰りは姫路回りにすれば、私が旅のプランニングでなるべく心がけている「循環ルート」が出来上がる。津山行きのバスは座席指定・定員制なので、前日にコンビニでチケットを買っておいた。

7月30日の朝、大阪駅北のバスターミナルに着いた現れる。ちょうど7時発の津山行きの改札が始まっていて、チケットを手にした客が乗り込む。それでも定員の半分にも満たず、2席とも空いているところも目立つ。そんな状態だが、私のチケットは通路側指定。このご時世、自分で席を選択できないのはどうかなと思う。大阪発車時点で窓側の席には客が来ないが、発車間際に運転手が「指定済」のカードを置く。空席に移ることができないか訊くと、カードが置いていない席なら良いとのこと。ちょうど最前列が空いていたのでそちらに移る。

バスは淀川を渡り、新御堂筋を走る。途中新大阪と千里ニュータウン(桃山台駅)に停車するが、その途中で一時強い雨が降る。このところ不安定な天候が続いており、この暑さで急に雨雲が発生して大雨を降らせている。これから向かうのは山の中だがどうだろうか。

池田から中国自動車道に入るが、休日朝の西行き車線につきものの渋滞である。上記の山崎インターから山崎への乗り継ぎだが、定刻で間は26分、徒歩移動がそのうち10分とすると、実質15分あまりしか余裕はない。ハイウェイバスのダイヤが渋滞をどのくらい見込んでいるのかわからないが、ひょっとしたら間に合わないかもしれない。まあ、間に合わなくてもハイウェイバスの責任ではないし、間に合わなかったら次の便まで山崎で時間をつぶすだけである。何かしらあるだろう。

しばらくウトウトするうちに渋滞は抜けたようで、また雨雲も抜けたようだ。その後はいい感じで走る。

8時36分、加西サービスエリアに到着。ここで10分の休憩となる。ドライバー、バスツアーの客などで賑わう。ここから山崎へは20分ほどとのことで、それならば船越へのバスも間に合いそうだ。

9時05分、山崎インターに到着。定刻から6分の遅れは、高速に乗った直後の様子を見れば十分取り返されていた。インターの出入り口に挟まれた中洲のようなところに降り立ち、道路の下をくぐって町中に出る。

佐用町方面に向かう県道沿いのバス停に着いたのは発車の10分前。

千種行きのバスは数人の地元の人や学生を乗せて発車。この地区は行政の補助でもあるのか、どこまで乗っても200円である。普段通勤で乗っている大阪の市バスでも210円で、それよりも安いとは驚き。ただ、そうでもしないと利用客の確保が難しいのかなと思う。数年先、この路線はちゃんと存続しているだろうか・・・。

中国自動車道に沿う区間や、地元の集落を抜けながら走る。船越の手前には自然観察村があり、多くの子どもたちが川に入っての水遊びの最中。涼しげな景色である。10時前に船越に到着。瑠璃寺に他に行く人なんかいるのかなと思いつつ降りると、私の前に座っていた母娘らしい二人連れも下車する。リュックから棒のようなものが伸びていて、何だろうと思う。

さて帰りのバスを確認とバス停の時刻表を見ると・・・当初の姫路発の便から1時間以上早く着いたが、帰りは12時51分発までない。何のことはなく、もう一本後の便、また当初の姫路発の便からの乗り継ぎでも良かったのだ。これで瑠璃寺に3時間近く滞在・・・となった。中国ハイウェイバスの便を見つけたのはよいが、全体像まで考えが及ばなかったことである。まあ、最後に来てそれもよしか。

どうするかは考えるとして、ともかくまずは瑠璃寺を目指すことに・・・。
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第30番「金剛城寺」~新西国三十三所めぐり・38(北近畿を乗り鉄)

2017年07月30日 | 新西国三十三所
新西国三十三所めぐりで福崎の金剛城寺を訪ねたあとは、寺前行きの列車で北上する。だんだんと山がちになるところである。福崎11時21分発のこの列車は、寺前から和田山行きの気動車に乗り継げる。

寺前に到着。駅の手前で、駅舎のあるホームに気動車が停まっているのを見て、これが乗り継ぎ列車かとあわてて跨線橋を渡って反対ホームに向かう。ただこれはその後の観光車両で、これから乗る和田山行きは電車が着いた同じホームの向かい側から発車である。結局もう一度跨線橋を渡る。

11時50分発の和田山行きは折り返しでやって来たキハ41という車両。片側運転台のキハ47を改造して両側運転台にしたもの。車両ファンの間ではゲテモノ扱いされているようだが、乗るぶんには旧国鉄型車両に乗れるのは昔ながらの雰囲気が演出である。天井にはいまだに扇風機が回っているが、昨今増えた「弱冷車」よりも涼しい。

播磨と但馬の境を越える道は「銀馬車の道」「鉱山の道」として日本遺産にも指定されている。それらを通り、竹田城の玄関である竹田に着く。ここで下車する人、乗ってくる人が入れ替わる。竹田城は、ちょうどブームになった時に一度未明からクルマと歩きで行ったことがあるが、今はどうなのだろう。また、駅からの登城ルートで行ってみたい気もする。

和田山に到着。ホーム向かい側に来た福知山行きに乗り継ぎ、福知山に到着。ここで時間があるので遅めの昼食とする。

待合室の一角に初めて見る店がある。「らいおん丸」という、チェーン居酒屋らしいところ。メインは夜のようだが、ランチタイムもあるようだ。ここで刺身定食をいただいたが、これに限らず、ランチでは御飯と辛子明太子がおかわり自由とある。

これでお腹もできて、福知山線に乗る。篠山口乗り換えで大阪まで。この車中はまったりと過ごす。

さてこれで、新西国三十三所も残り一つ、作用町の瑠璃寺だけとなった。またバス乗り継ぎとなるが、近くお参りして満願としたいところであるが、どうアクセスするか・・・。
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第30番「金剛城寺」~新西国三十三所めぐり・38(ご朱印再挑戦)

2017年07月29日 | 新西国三十三所
昨年の7月31日。青春18きっぷを手に朝の福知山線に乗り、山陰線~播但線と兵庫県の北部を回って、気動車と電車乗り継ぎで電化区間の福崎に降りた。目指すのは、新西国三十三所の一つ、金剛城寺である。

暑い中、駅から45分ほど歩いて寺に到着した。一連のお勤めを行い、「納経の方は鐘を突いてください」との案内にゴォ~ンとやって納経所に向かったのだが・・・誰もいなかった。このため、お参りはしたがその証を得られぬまま、ガックリして福崎の町に戻った(その時の記事はこちら)。

・・・さてそれから1年、新西国めぐりも進み、後は最終番号の瑠璃寺を残すだけとなった。ただ、金剛城寺の朱印がないと「満願」とは認められない。となると、やはりもう一度行かなければならない。ということで、青春18きっぷの有効開始を待って出かけることにする。7月23日の朝、大阪駅に現れる。

前回は「乗り鉄」を楽しみながら行こうと上記のルートを通ったのだが、今回はまず福崎を目指す。その後どうするかは、お参りの後で決める。そうして快速で姫路まで行き、駅そばで腹ごしらえをして播但線に乗る。日曜日だが朝の時間帯で高校生の姿も目立ち、8時54分、福崎に到着する。

金剛城寺へのアクセスは徒歩のみである。4キロほどあるが、何でこういうところが残ったかなと愚痴も出る。別に寺が悪いわけではないことを知っての上だが。まあ、この暑い中を歩くのは、来月にも計画している四国八十八所めぐり(今度は、歩きでの移動もある)に向けた練習とも思う。

ペースは前回と同じように駅から金剛城寺まで45分だったが、一回歩いているためか、平凡ながらも景色にも見覚えがあるし、そのために疲労感はそこまで感じなかった。

山門をくぐる。「納経の方は鐘を突いて・・」の文字は同じようにあるが、ここはまず本堂に向かいお勤めである。それにしても、他にお参りの人もいないし、境内に人の気配が感じられない。1年前のことが頭によぎる。もし今回も寺の方が不在ならば、ご縁がなかったのかなとして、新西国の満願の証明も諦めようかとも思った。

そんな中で鐘を突き、案内通り本坊の裏手に回る。本坊には人の気配がなく、裏手には離れのような家屋がある。しばらく待つとその家屋の引戸がごそごそと開き、年配の女性が顔を出した。ホッとした。おはようございますと納経帳を差し出すと、女性は本坊の戸を開けて、上がり口の机に向かう。上がり口には朱印の書き置きもあり、ひょっとすると不在時はそれで対応していて、前回もそれを受け取れたのかもしれない。まあ、それはもういい。納経帳を返してくれた時も、別に「1年前に来たけど誰もいなかった」と言うつもりはなかった。言ったところでどうなるものでもない。

ともかく、2回目に無事に朱印をいただけて今回の目的は達成である。やれやれ。

後は境内を一回りして、一角にある四国八十八所のお砂踏みを回る。この前の週に38番に達した。八十八所だからあと50残っているが、また少しずつ回ろうと気持ちを新たにする。

金剛城寺を回ってホッとした感じで再び駅まで歩く。着いたのは11時。暑い中を歩いたので、待合室で一息つく。誰かの置き忘れかあるいはおもてなしか、JR時刻表が置かれた台にうちわがあったのでバタバタとやる。

さて前回はこの地出身の柳田国男ゆかりの地などを回ったのだが、今回は省略する。うちわ片手に時刻表のページをめくると、11時21分発の寺前行きがあり、これに乗ると寺前から和田山行きの気動車に連絡しており、後は和田山、福知山、篠山口と乗り換えれば早い時間に大阪に戻ることができる。前回の逆回りだが、青春18きっぷでの移動だし、ここはその流れで・・・・。
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第16番「延暦寺横川中堂」~新西国三十三所めぐり・-37(根本中堂で気まぐれな天候に)

2017年07月07日 | 新西国三十三所
横川エリアからバスターミナルに戻る時に、空が暗くなっているのは感じていた。それが、休憩所で食事をして外に出ると強烈な雨である。クルマで来た人も駐車場の自分のクルマに戻るのすらためらわれるくらいだ。私もこの日は折り畳み傘をバッグにしのばせておいてよかった。

雨がすぐ止めばいいなと思うがどうもその気配はない。ならば雨宿りとして、バスターミナル側の入口に近い国宝殿に入る。この国宝殿の入館料だけは巡拝チケットの中に含まれておらず、別途500円を支払う。この「国宝殿」とは、モノとしての国宝に指定されている文物という意味ではなく、伝教大師最澄の「一隅を照らす、則ち国の宝なり」の言葉から取られたものである。やはり東塔エリアに来ると延暦寺の中心だなと感じる。ようやく最澄が出てくる。

国宝ではないが、重要文化財は数多く並ぶ。薬師如来、阿弥陀如来、不動明王、四天王などなど。また、横川でも触れた元三大師の木像もある。

企画展示の部屋では、比叡山の回峰行について紹介されていた。平安時代に、比叡山の最も奥の院とされる葛川明王院を開いた相応和尚が始めたものとされ、その歴史や修行の方法が紹介されている。有名なのが「千日回峰行」というもので、7年かけて行うという。1~3年目は年に100日、4~5年目は年に200日を行う。比叡山の山内、そして日吉大社も含めておよそ30キロのコースを、真言を唱えながら、あちこちのお堂にお参りしながら歩く歩く。それをクリアした後は「堂入り」として、無動寺のお堂に籠ったり、また赤山禅院まで往復したりと、よりハードな修行が続く。書くだけでも気の遠くなる修行だが、これを達成して「大阿闍梨」と称賛される方がいるからすごい。なお延暦寺では修行体験として「一日回峰行」というのを開いているが、「体力に自信のない方はご遠慮ください」とある。まあ、次の寺の行き先をサイコロに任せているようなおっさんには、修行そのものが高いハードルということで。

・・・という感じで国宝殿を回っても、外の雨はそのままである。これは仕方ないと、傘を差して大講堂を通り、根本中堂に向かう。途中の大講堂は広いこともあって雨宿りの場所にもなっていた。

さて根本中堂はこのたび大改修に入ったということで、お参りはできるがフェンスで囲まれている。また大屋根にも足場が組まれているし、重機も入っている。昨年から始まった大改修は10年をかけるという。有名な歴史的建物では京都の清水寺の本堂もそうで、清水寺の舞台のあの風景はしばらくフェンス込みとなるが、延暦寺に清水寺、ちょうどそういう時に差し掛かったのだと思う。

根本中堂は中でのお参りはできるので、靴を脱いで中に入り、子どもたちの書道の優秀作を廊下で見た後で外陣に入る。この外陣も広く作られているためか、雨宿りでくつろいでいる人の姿が目立つ。そんな中だが、せっかく来たのだからお勤めをする。1200年の間絶やさず守り抜かれたとされる法灯の前での般若心経である。

根本中堂から外に出ると少しは雨も収まったようだが、比叡山もこれでよしかなと、帰りは坂本ケーブルの延暦寺駅まで歩く。この駅からも大津市街や琵琶湖の眺望が良いのだが、やはりこの天候である。ちょっと惜しいかな。

坂本ケーブルで12分の乗り心地を楽しみ、坂本に降り立つ。この後京阪の坂本駅までは30分歩くのも風情があるが、今回は巡拝チケットがあるからと、接続の江若バスに乗る。石積の町並みが有名な坂本の町歩きは、またいつか来るであろう比叡山巡拝の時の楽しみとする。

さてこの後、石山坂本線で浜大津に出て、三条経由で大阪に帰ったのだが、先ほど比叡山上で遭った大雨も、浜大津に戻る頃には雨雲も切れるようになった。三条までの車中では西日すら差し込んできた。さらに、京阪の三条では傘を手にする人の姿もほとんどなく、挙げ句帰宅後には「雨なんか一日降っていない」と家の者に言われた。

あの雨は山の上ならではのものだったか。その時は、伝教大師と元三大師から、日頃の行いが悪いから喝を入れられたのかな~と、呑気に構えていた。

ただ、豪雨はそんな呑気な思いなど関係ない。

この記事を書いている時点で、福岡、大分での集中豪雨で、河川の氾濫や土砂崩れで多くの犠牲が出ている。この集中豪雨、このところ毎年エリアを変えつつ必ずどこかで大規模災害になっている。7月初めでこの有り様で、この先台風シーズンを迎えるとどこでどうなるやら。伝教大師や元三大師も、祈りの場にあれこれ担ぎ出されることになるだろうか・・・?
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第16番「延暦寺横川中堂」~新西国三十三所めぐり・37(豪華メンバー登場)

2017年07月06日 | 新西国三十三所
比叡山上のシャトルバスで横川に到着。比叡山の中でも奥に位置するためか、ここまで来る人はそれほど多くないようだ。

入口にて京阪の巡拝チケットを提示すると、各エリアの境内図が書かれたパンフレットを渡される。これにスタンプが押してあり、これが拝観券代わりとなる。

延暦寺といえば天台宗を開いた伝教大師最澄が創建した・・・と、学校の歴史の時間には習うかと思うが、これだけの規模の寺院が全て最澄一代でできたわけではない。この横川は第3代の天台座主である慈覚大師円仁の手で開かれた。その後は比叡山の修行の場としても受け継がれている。

境内の参道には、さまざまな宗派の開祖たちがこの横川で修行したと、パネルが紙芝居のように並ぶ。鎌倉時代に興った宗派では、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、そして日蓮宗の日蓮というそうそうたるメンバーである。座禅、念仏、法華経という、大乗仏教のオールラウンド的な天台宗から興ったもので、各分野の中からこれらの逸材が出ているわけだ。

参道を抜けると、石垣の上に舞台造りの土台が組まれていて、朱塗りの建物がある。これが横川中堂。遣唐使船をモデルにしたそうで、現在の建物は昭和の再建である。こうした舞台造りの本堂、西国三十三所めぐりの札所でもいくつかあったように思う。それらの札所はいずれも天台宗系で、横川中堂を真似たのか、あるいは天台の教えにそのようなものがあるのか。

靴を脱いで外陣に入る。ここは聖観音を真ん中にして、左右に毘沙門天と不動明王が安置されている。内陣の扉にお参りの作法が書かれていて、これら三種の真言を唱えるとある。一段下がったところで懺悔文、開経偈、般若心経、真言をモゴモゴとお勤めする。横川中堂の中は一巡できるが、それぞれに奉納された観音像が並ぶ。長年の信仰の積み重ねであろう。これらの観音像があることも、横川中堂が新西国の一つに選抜された要因だろう。

横川エリアはさらに奥に広がるので回ってみる。参道は木々に覆われていてなかなかの雰囲気である。やって来たのは恵心堂。阿弥陀如来を祀り、平安時代に浄土信仰、南無阿弥陀仏を広め、後の浄土宗や浄土真宗のベースを作った恵心僧都源信も祀っている。ここは毎日扉を開けているわけではないようで、「本日公開しています」との貼り紙があった。お堂の外には源信が書いた『往生要集』の一節が掲示されたり、中には案内の方もいる。このお堂の存在価値をアピールしているかのようである(帰りに近鉄駅にて、奈良国立博物館での源信展のポスターを見かけた。浄土信仰の源を見るという意味では興味深い)。

さらに奥に進むと、元三大師堂に出る。元三大師良源は、第18代の天台座主で、天台宗の中興の祖と称される。一方で「角大師」「豆大師」「おみくじの起源」などさまざまの異名を持つ。いや、「元三大師」というのも異名と言える。さまざまな超人的な逸話や伝説を持ち、乱暴な言い方をすれば、生真面目キャラの多い天台宗にあって、唯一真言宗の弘法大師と力の真っ向勝負ができるのでは?と思わせるところがある。横川エリアに来る人の中には横川中堂よりも元三大師堂がお目当てという向きもあるそうだ。お堂の扁額にも元三大師信仰が現れていて、比叡山の奥地によく似合うように思えた。

こうした諸堂を回る参道には西国三十三所の各本尊の石像が置かれている。横川を一回りするだけでもさまざまな祈りができる仕組みである。

さて横川の門前に戻る。新西国については、この後は金剛城寺(リベンジ)~瑠璃寺と、回る順番は決まっているのでもうサイコロで行き先を決める必要はないが、比叡山全体がさまざまな札所めぐりのポイントになっている。またここに来る日があるだろう。

山内のシャトルバスに乗り、今回は西塔エリアはそのまま通過して、ただ根本中堂には行こうとバスセンターまで戻る。昼を回って食事がまだだったが、バスセンターの休憩所に、延暦寺御用達、坂本の本店が有名な鶴喜そばのカウンターがある。ここで昼食のせばをいただき、土産物も購入してさて根本中堂に向かおうとしたのだが、外はえらいことに・・・。
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第16番「延暦寺横川中堂」~新西国三十三所めぐり・37(比叡山乗り継ぎ移動)

2017年07月04日 | 新西国三十三所
5月に新西国めぐりで高槻の神峯山寺を訪ねた際、「拝仏」と祈祷の対応をしていただいた副住職から、「ぜひ最後は比叡山で締めてください」と言われたことがある。神峯山寺は天台宗の寺院で、その総本山を薦めるのは自然なことだろう。

私としては、途中はくじ引きとサイコロで行き先を決めているが、新西国の最後はやはり末尾の瑠璃寺(佐用町)としている。ただ、神峯山寺以降、いくつかの札所を挟んでラスト一つ手前で延暦寺が当たったというのも、何かのご縁かと思う(もっともこの次は、前回訪ねた時に寺の方が不在で納経帳が埋まらなかった金剛城寺(福崎町)に行かなければならないが)。

日程の関係で、7月最初の週末に行くことにした。ただ週末の天気予報では、1日の土曜日は関西の天候も今一つで、2日の日曜日のほうが良い感じだった。ということで2日に行くことにして、京阪の淀屋橋に現れる。

比叡山へのアクセスは京阪電車を選んだ。鉄道だと京都側からは出町柳から叡山電車に乗り換えて八瀬比叡山口、一方大津側からは京阪石山坂本線の坂本が玄関で、いずれも駅からケーブルカーなどで山に上る。また、新西国の札所として目指すのは、メジャーな根本中堂のある東塔エリアではなく、もっとも奥に位置する横川エリア。山上での移動はシャトルバスとなる(修行にも使われる山道を歩く、という手もあるが・・)。

それにうってつけなのが、京阪の「比叡山延暦寺巡拝チケット」。京阪全線、叡山電車(出町柳~八瀬比叡山口)、京都地下鉄・京阪大津線(三条~浜大津)、叡山ケーブル、叡山ロープウェイ、坂本ケーブル、江若バス(坂本ケーブル~京阪坂本駅)、比叡山上シャトルバスが一日乗り放題で、さらに延暦寺3エリアの拝観料込みで3300円。他にも、チケットの提示で割引が受けられる店もある。単純に大阪から比叡山を往復するだけでも同じくらいの運賃になりそうで、これに拝観料とシャトルバスがつくとはかなりお得である。これを使い、今回は八瀬方面から比叡山に上り、先に目的地の横川まで行き、帰りに根本中堂まで引き返して坂本回りで戻るルートにした。家を出たのがゆっくりだったので、坂本の町を歩くとかいうまでは時間的にちょっとしんどいかな・・・。

淀屋橋10時発の快速特急「洛楽」に乗る。京阪の昔の特急のように京橋~七条間がノンストップである。こういう列車だが、意外に空席もある。今の特急は途中の駅にも停車するが、こうした駅での乗り降りや乗り換えで利用する客が多いとも言える。

淀屋橋から50分で出町柳に着き、叡山電車に乗り継ぐ。先発の鞍馬行きは展望車両ということもあり満員で出る。その後で1両の八瀬比叡山口行きが出たが、途中駅で下車する客が多く、終点まで来たのはそれほど多くなかった。

この週末、大阪は一気に本格的な暑さになった。だから山の上なら多少は涼しいのかな?という期待はあった。叡山電車で降り立った八瀬比叡山口は、さすがに市街地を少し離れて、周りは緑、そして小川のせせらぎが涼しげだが、私が暑がりのせいか、それでもムシムシしたものを感じる。まあそれはあくまで個人的な体感で、京都で涼しくということなら叡山電車がお勧めである。

駅から少し歩いてケーブル駅に着く。待合室に「能行不退」と書かれたパネルが掲げられている。これは毎年延暦寺が「今年の言葉」として発表している言葉の2017年版である。「野球まみれ」と同じようなチームスローガンと同じようなもの・・・もといメッセージとして発表したものである。この4文字を意訳すると、「途中であきらめずにひたむきに前へ進め」ということだそうだ。

そんな言葉に押されるようにケーブルカーが動く。日本でもっとも勾配がきついケーブルカーとの案内がある。確かにケーブルカー独特の後ろから引っ張りあげられるような乗り心地だが、周りが自然に囲まれてくる様子が実感できる。

ケーブルカーの終点に着くと、乗り継ぎとなるロープウェイがある。もっとも、ここからは比叡山頂までの遊歩道も整備されているためか、ここまでのケーブルカー以外の客も含めて歩く人の姿も目立つ。近隣のプチ登山というと六甲山とその周りをイメージするが、比叡山もその対象なのかなと思う。修行は別として。

ロープウェイは3分の乗車だが、一気に高度を上げる。眼下に京都市街を眺める。快晴の天候ならもっとくっきり映っただろうが、そこは自然である。同乗の客たちも一斉に喜んでいた。また、歩いて山上まで上ろうという人の姿もあり、ちょうどロープウェイが上を通過すると手を振ってきた。

比叡山上に到着するとその前にはガーデンミュージアムがあり、こちらに向かう人と、山上のバス停に向けて歩く人が半々となる。数分で開けたバス停に出る。展望台からは大津市街の景色を見ることもできる。12時発のバスで、まずは終点の横川を目指す。片道運賃が760円のところ、バスの1日乗車券は800円である。さらに大阪から京阪で来るなら巡拝チケットの中にバス1日乗車券分も含まれる。

根本中堂最寄りのバスターミナルで乗客が入れ替わる。まずは根本中堂・東塔エリアを訪れ、その後で西塔、横川と順に回る人が多い。また峰道には琵琶湖を眺めるレストランがあり、こちらでの昼食目当てで乗る人もいる。私は根本中堂は行ったことはあるが、横川エリアは初めてである。順番が逆かもしれないが、まずはこちらで新西国の札所めぐりとする・・・。
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第25番「太山寺」~新西国三十三所めぐり・36(明石めぐり)

2017年06月04日 | 新西国三十三所
明石駅に到着。時刻は13時半ということで昼食である。明石といえば魚の棚商店街が有名であるが、私として気になる店がある。それは駅前。

以前に「道場」という居酒屋があり、何かの時に明石で途中下車して、地元の大衆酒場という感じの店を何度か楽しんだことがある。ただ、明石駅前の再開発工事が始まり、その店も姿が見えなくなった。

そこへ来て、駅前には今年の1月に新たにオープンした「パピオスあかし」という複合ビルがある。どんなものかとのぞいて見ると、1階が飲食店街になっている。ひょっとしたらと案内板を見ると、ありました「酒道場」。店の内装も前のイメージを踏襲した感じである。

明石ということでやはりたこのメニューである。まずはジョッキで本日の新西国めぐりを締め、たこぶつや煮付けなどいただく。関西では少数派のホッピーが置いてあるのもポイントである。日曜の午後ということで観光客の姿もあるが、地元の常連客らしいのも多い。新しいビルにこうした昔からの店が引き続いて入るのも、集客には欠かせないだろう。

そんな「道場」だが、実は明石名物の玉子焼きはメニューにない。こればかりは他に譲ることにして、締め代わりに入ったのが同じビル内の「まるまる」。こちらも古くからの店のようだ。ノーマルな玉子焼きの他に、割ったたこせんの間にたこ焼きを挟み、ソース味に仕上げた「たこせん」をいただく。こうした玉子焼きなどをいただくと、播磨の国に来たなと感じられる。

さてお腹もでき、心地よくなったところで、腹ごなしとして駅北側の明石公園に向かう。駅のホームから明石城の櫓は見るのだが、実は行ったことがなかったのでこの機会に行ってみる。明石城は現在は明石公園として野球場や陸上競技場もある。そういえば以前、独立リーグの関西に「明石レッドソルジャーズ」というのがあったよな・・・と思い出す。

明石城は江戸時代初期の建造である。山陽、山陰方面の押さえとして、徳川秀忠の命により小笠原忠真の手で造られ、合わせて城下町も整備された。その後は城主が何代か入れ替わり、松平氏の居城となった。今は二つの櫓を残すのみである。そのうちの一つ、坤櫓が公開されているので入ってみる。ここから見る市街地というのもよいものである。

ちなみに明石公園の前に一体の銅像がある。林兼商店の創業者、中部幾次郎である。林兼商店とは後の大洋漁業、現在のマルハニチロであるが、その創業者である。大洋といえば下関のイメージなのだが、創業者が明石の出身というのは初めて知った。

少し回ったところで山陽電車で明石を出発。向かったのは舞子公園。明石海峡大橋を間近に見るスポットである。こちらも地元の人、観光客の憩いの場で賑わっている。また釣り糸を垂らす人も多い。太陽はまぶしいが潮風が心地よく、しばらくそこにたたずむ。

さてこれで新西国も残りは3つ。これから暑くなる時期である・・・。
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第25番「太山寺」~新西国三十三所めぐり・36(神戸市唯一の国宝建造物)

2017年06月01日 | 新西国三十三所
6月に入ったが、いったん時計の針を5月に戻す。

先の記事で大阪市内2ヶ所の参詣を書いたが、その翌28日、勢いついでに次の太山寺にも行っておくことにした。6月がなかなか新西国のための時間が取れないかもしれないので。

太山寺は神戸市の西区にある。この新西国めぐりのくじ引きのグループ分けでは、当初、兵庫区の能福寺、須磨区の須磨寺と同じグループにしていたが、ちょっと離れているなとして途中で別にしたところである。公共交通機関では、神戸地下鉄の名谷駅~伊川谷駅間のバス路線が門の前を通っている。さらにそのバスは明石駅まで通っており、もしJR西日本の西国三十三所めぐりのスタンプラリーが新西国でも行われるとすれば、明石駅もスタンプ対象になるかなというところだ。

そんな中で、地下鉄の最寄り駅となると学園都市駅である。地図で見れば2キロあまり、十分行けるところだ。ということで、行きは学園都市駅から歩いて太山寺に向かい、帰りはバスで明石に出ることにする。遅めの昼食は明石の海の幸になりそうだ。

梅田から阪急で三宮、そして地下鉄に乗る。神戸でのバファローズ観戦の時にはお世話になる路線だが、総合運動公園から向こうはほとんどなじみのないところである。そして学園都市に到着。駅は地下ではなく、丘を切り開いた半地下のような造りである。学園都市という名前らしく周りには高層マンションも建ち、周辺への路線バスターミナルもある。須磨、舞子方面に向かう系統もある。

まずは寺を目指して歩く。駅前のショッピング街や住宅街、そして流通科学大学のキャンパス横を過ぎる。ただ、歩いて10分経つか経たないうちにそれらが途切れて森が広がる。

そして坂を下ると昔造りの家屋や田畑が広がる。先ほどとは対照的だ。改めて神戸市の広さ、多様さを感じる。ここから県道を歩くと太山寺温泉『なでしこの湯」というのがある。食事もいろいろありそうで少し気持ちが向かうが、まあその前にお参りだ。

太山寺のバス停があり、その奥に国の重要文化財の仁王門がある。オリジナルは鎌倉時代のものが、室町時代にこの地に移築されたという。ここをくぐるとすぐに境内・・・というわけではなく、クルマも通れる石畳の道の両側に普通の家屋がある。その向かいは酒屋で自動販売機でビールを買うこともできる(買わなかったけど)。

太山寺は奈良時代、藤原鎌足の孫・宇合(うまかい)が元正天皇の命で伽藍を建立したのが最初とされ、初代の住職は鎌足の子(宇合の伯父)である定恵上人とされている。その後、藤原氏の寺として多くの支院を持ち栄えたが、鎌倉時代に火災に遭って全焼。その後再建され、本堂と仁王門はその時からの建物である。また支院のいくつかは今も残っている。その一つの安養院の庭園は名勝に指定されていて、春と秋の一時期のみ公開されている。

そんな中を通りながら、中門で拝観料を払って境内に入る。落ち着いた空間が広がる。正面の石段の上に本堂がある。これは国宝で、神戸市にある唯一の国宝建造物だ(神戸市にあるものとしては、他に古文書2件、銅鐸1件が国宝に指定されているそうだ)。神戸というとかつては平清盛の福原京があったにせよ、開かれたのは近代の神戸開港からの歴史のイメージが強い。同じ市内に、鎌倉、室町時代からの国宝の建物があったというのが意外な発見だった。これも昭和に大修復を行い、柱の朱色も当時の様子を伝えてくれる。

スリッパで板張りの外陣に上がり、ここでお勤め。格子の向こうの内陣には本尊薬師如来や新西国の千手観音、さらには千体地蔵などが祀られている。

本堂に向かって左手には阿弥陀堂があり、重要文化財の阿弥陀如来が祀られている。他にも三重塔や護摩堂などがあり、これらは江戸時代の再建である。時代ごとに再建はいろいろあるが、古くからこの地で信仰を集めてきた歴史が積み重なっているのを感じる。

一通り回って朱印をいただき、次の行き先決めである。といっても選択肢は2つ。

1、2、3・・福崎(金剛城寺)

4、5、6・・比叡山(延暦寺横川中堂)

サイコロは「6」。ここで比叡山が出る。新西国の対象となっているのはその中で最も奥の横川中堂だが、比叡山へのアクセス、そして山内の移動を考えると結局は根本中堂のある東塔エリアも含めて回ることになるから、1日仕事である。

さて、太山寺にはもう一つ有名なスポットがある。不動明王の磨崖仏である。一度県道に出て名谷方面に少し歩くと脇道がある。そこには、磨崖仏への矢印があるが、その下には「磨崖仏は見学できません」の看板がある。

これはどうしたことかととりあえず進むと、道路がフェンスに阻まれていた。その脇、少し山の斜面から歩行者が入れるくらいのスペースがあるが、「見学できない」と看板にもあるし、フェンスを越したことで不法侵入に問われてもいけない。太山寺のホームページやパンフレットには特にただし書きはなかったが、何かの事情で見学を取りやめているのかと思い、引き返す。フェンスの前には西国三十三所のお砂踏みの山道があるが、こちらも第1番の向かいに第20番があるなど、よく整備されていないようですぐに引き返す。この辺りは歴史があるのだろうがよくわからないままに終わった。

門前の「なでしこの湯」に立ち寄ってもいいかなと思ったが、バスの時間が近いのでそのまま明石まで移動する。横に流れるのは伊川で、伊川谷の名前もここから来ている。駅を過ぎると神戸市~明石市にかけての郊外の住宅地で、バスもそこそこの利用がある。太山寺から30分あまりで明石駅に到着した・・・。
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第3番「鶴満寺」~新西国三十三所めぐり・35(上方落語の舞台)

2017年05月29日 | 新西国三十三所
太融寺から続いて鶴満寺を目指す。交通機関なら地下鉄谷町線で東梅田~天神橋筋六丁目まで乗るコースだが、太融寺から東梅田へは結構逆に戻る形である。日射しはあるがひどく暑いというほどでもなく、歩数稼ぎで直接歩いて行くことにする。

しばらく東に向かうと扇町公園に出る。グラウンドでは子どもや学生たちが体を動かしている。その向こうには関西テレビの社屋も見える。

やがて天神橋筋の商店街に入る。最近はこの商店街でも以前と比べて中国語や東南アジアの言語が飛び交うようになったと感じる。この商店街が観光名所とは思わないが、黒門市場ともども地元のスポットとして口コミでも広まっているのだろうか。まあ、そういうところにも行きたいという旅行者心理はわからないでもない。

商店街の北の端の天神橋筋六丁目駅から進路を東に取り、数分でマンションに囲まれた寺の建物に出る。これが鶴満寺。うーん、新西国霊場というつながりがなければ一生訊ねることはない建物だと思う。町の中にたまたまある寺の一つという扱いでしかなかっただろう。

山門は西に向いているが、門扉は閉ざされている。入れないのかと一瞬焦ったが、北側が開放されている。鶴満寺は寺に隣接して保育園や特別老人ホームをやっているそうで、その入口とかねているようだ。「ポケモンGO禁止」と書かれた英語の看板もある。そういえばこのゲームの話題も聞かなくなったが、当時は外国人も多くこの辺りをスマホを手に現れたのだろうか。

その老人ホームやマンションを含めて周りをぐるりと高い建物で囲まれているのは太融寺と似ている。ただ、太融寺はいくつかのお堂や庭園、史跡もあったのに対して、鶴満寺は本堂と鐘楼、観音堂のみである。これまで訪ねた新西国の札所の中では最も狭いクラスの敷地ではと思う。本堂の本尊は阿弥陀如来、廊下でつながる観音堂には子安観音を祀るとともに、西国、坂東、秩父の百観音を祀るという。

鶴満寺は元々河内の国にあったものを江戸中期に大坂の豪商がこの地に移したものである。その際、忍鎧上人を中興の祖として、本尊の開眼を行った道元法親王を開創としている。その時に枝垂れ桜が植えられ、長くこの寺の見所として、また桜の名所として親しまれたそうだ。

上方落語に「鶴満寺」というのがあるそうだ。私もこれまで知らず、桂雀々師匠による音声を初めて聴いた。花見の時季、船場の旦那が芸者や幇間を連れて鶴満寺に遊びに来る。しかし、寺男の権助は住職から禁じられているからと断る。そこで権助に「袖の下」を渡して中に入り花見の宴会が始まるのだが・・・という噺。途中からキャラが変わる権助が主人公であるが、桜のきれいな寺であれば、噺の舞台は鶴満寺でなくてもいい。それがわざわざ「鶴満寺」という演目なのはどういうことだろうか。

史実の鶴満寺の枝垂れ桜だが、明治時代に大阪で起こった水害で浸水し、枯死してしまったそうだ。ならば、落語のネタは元々は枝垂れ桜へのレクイエムで作られたのかもしれない。

奥に納経所があり、朱印と子安観音の御影をいただく。当て紙には鶴満寺の由緒が書かれているが、寺の宗派としては「天台真盛宗」とある。天台真盛宗とは室町時代に天台宗から派生したもので、総本山は比叡山の麓の西教寺。仏教のオールラウンドを目指す天台宗にあって、念仏(阿弥陀如来信仰)と戒律を二本柱としたものである。鶴満寺の本尊が阿弥陀如来で、山門が西を向いているのもわかる。新西国の観音霊場に選ばれたのは、百観音と上方落語のためかなと思う。

さてこれで今回の札所めぐりも終わりで、次の行き先である。もっとも残りは少なく・・・

1、2・・比叡山(横川中堂)

3、4・・西神明石(太山寺)

5、6・・福崎(金剛城寺)

サイコロの出目は・・・「4」。明石か。うーん、先月訪ねた高槻の神峯山寺の副住職のいう通り、天台宗の総本山である比叡山が「締め」になるのだろうか・・・?

2ヶ所を回り、再び天神橋筋六丁目駅から天神橋筋商店街を歩く。昼食がてら、天満界隈には入りたい店がいくつかあるのだが、昼間から満席が続く。そんな中で運良く入れたのが環状線ガード下のこちら。この辺り、天満価格ということでビールの大びんが350~360円というのが相場である。

・・・だからと言って、あまり調子に乗りすぎると、先の落語の寺男と一緒である。そこはちゃんと自制しないとね・・・。
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第2番「太融寺」~新西国三十三所めくり・34(寺や神社の周りというのはそういうものなのかな)

2017年05月27日 | 新西国三十三所
新西国の観音霊場めぐりというのは33番まであり、そこに客番というのが5つあって合計38ヶ所あるのだが、その34番目にしてようやく2番、3番というところを訪れることになった。別に四国八十八所の逆打ちのような回り方をしているわけではなく、これらは全てくじ引きとサイコロによるものである。

これまでは、「その札所にどうやって行くか」ということも楽しみの一つであり、中にはそうした移動だけで一つの記事になったこともあるのだが、今回訪れる第2番の太融寺、そして第3番の鶴満寺は大阪市街のど真ん中にあるところである。駅から延々と歩くとか、山登りをするとかいうことはない。

さて、太融寺への最寄駅というのは、JR大阪駅、そして私鉄、地下鉄各線の梅田である。天王寺から四天王寺に行くのと変わらない感じである。久しぶりにこうした「都市の寺院」に行くことに。ただ、これから向かう太融寺、そして鶴満寺は初めて訪れるところである。まずは大阪駅に降り立ち、隣の阪急百貨店ビル、そして現在改修工事が進む阪神百貨店ビルを見る。ここが出発点というのも何だか複雑な気分である。太融寺町や、隣接する兎我野町というのは、その名を聞くとあるエリアとしてピンと来る方も結構いるのではないかと思う・・・。

阪急百貨店前から扇町通りを5分ほど東に歩くと、それまで飲食店などが建ち並ぶビルが続いていたのが急に寺の外塀となり、「太融寺」の石柱が現れる。その横には「一願不動明王」とあり、さらに、今回の目的である新西国霊場を初めとして、近畿三十六不動やおおさか十三仏霊場など、大阪にあって数々の札所めぐりの寺であることが示される。こう見ると、大阪にあっては結構メジャーな寺であることがうかがえる。

そして山門に出る。「源融公旧跡」の石碑もある。この太融寺は弘法大師が嵯峨天皇の勅願により開かれたとされているが、本尊に千手観音を迎え、本格的な伽藍にしたのは嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)である。寺の名前は源融から取られているそうだ。その後は大阪の地で広大な敷地を持ち、多くの参詣者で賑わったとある。江戸時代に大坂城落城の際に兵火で焼けたが復興。しかし太平洋戦争の大阪大空襲でまた焼け、現存する建物はいずれも戦後の再建のものである。

山門から入ると本堂の横に出て、改めて正面に向かう。本堂の中は自由に入れるようになっており、せっかくなので靴を脱いで上がり、畳の上に座ってお勤めとする。大阪の梅田にほど近いところで般若心経を唱えるというのも、何だか妙な感じである。ただそうする間にも本堂の外ではお賽銭をジャランと放り込む人の姿もあるし、ちょっとした都市部のオアシスなのかなとも思ったりする。

そして本堂を出て南門の方向を望むと・・・・こういう景色が広がる。お二人様専用ホテル、つまりはラブホテル街である。先ほど「あるエリア」と書いたのは、つまりはこういうことである。これはいらん妄想だが、たまたま本堂の前で手を合わせているカップルを見ると、この二人はこの後で近くのホテルにて「休憩」するのかな・・・?と、そっちの方にイメージしてしまう。大阪は寺社とラブホテルが何か関係があるのか、こうした太融寺町もそうだし、南へ行けば上本町の生国魂神社、さらには四天王寺と、すぐ近くがラブホテル街である。ラブホテルに一緒に行く相手がいないのでその辺りの探索はできないが・・。

そうしたラブホテル街も元々は太融寺の境内だったところだが、現在の寺はそうしたものなどに囲まれて小ぶりである。ただその中にさまざまなものが収められており、枯山水風の庭園もある。そこには国会期成同盟会がこの寺で開催されたことから「近代日本政党政治発祥の地」ということでの石碑があったり、現役中に亡くなった横綱玉の海の慰霊碑などもある。玉の海が大阪出身というわけではないが、大阪で後援会を結成していた当時の衆議院議員の手によるもののようだ。

こちらの塔の建物には、大師堂、護摩堂の他に不動明王を祀る不動堂がある。一願不動尊ということで、近畿三十六不動霊場の札所にもなっているところである。後ろでは意図のような滝が水を落としている。こちらは「一願」とあるように、願い事を一つ叶えてくれるというご利益があるそうだ。そこで手を合わせてした一願とは・・・・「オリックス・バファローズの勝利」。その願いがどうなったかについては、スポーツニュースをチェックしていただくとして(・・・結果は、信心が足りなかったということで)。

これらを回り、納経帳に朱印をいただく。墨書、そして朱印押印のそれぞれのたびに軽くドライヤを当てる丁寧な対応である。

改めて境内を見渡す。弘法大師の開創ということで弘法大師像がある。四国でもよく目にした修行姿ではなく法衣をまとった姿だが、その向こうにラブホテルの看板が入ってくるのが何だか笑えてくる。

他には大坂夏の陣で自害した淀殿の墓というのもある。元々は別の寺にあったものが明治時代に太融寺に移されたものだという。こうして見ると、梅田の地にあってさまざまな歴史が受け継がれてきた寺院であるなと改めて感心する。

さて次に向かうのは第3番の鶴満寺だが、最寄りの駅は天神橋筋六丁目。ただ、気候もよいし、そのくらいの距離なら歩こうということで、歩みを進める・・・。
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第32番「斑鳩寺」~新西国三十三所めくり・33(城下町龍野)

2017年05月23日 | 新西国三十三所
斑鳩寺の参詣を終えて、10時17分発の龍野経由山崎行きのバスに乗る。いつしか揖保川を渡り、龍野の中心部に着く。なお、このバスで終点の山崎まで行き、そこから乗り継ぐと船越というバス停に出る。するとバス停から徒歩で、33番の瑠璃寺に行くことができる。32番と33番はそうすると1日で回れるわけだが、ここは当初の決め通りに、瑠璃寺は最後にする。またここにはどうやって行くかの計画を組むのが楽しみである。

さて龍野の町歩きである。バス停から町中に向けて歩くと風情ある建物が集まってくる。その中に一つだけ洋風に造られた建物が見える。ここがうすくち龍野醤油資料館である。

龍野は醤油の町でもある。中では醤油づくりの工程が映像で紹介され、蔵の部分では仕込み桶や圧搾機、さらには揖保川の水運に使われた舟なども展示されている。醤油の作り方についてはここでは書ききれないが、展示物を見るに連れて口の中に唾液が広がってくる。うすくち醤油も揖保川の水の賜物で、龍野の経済を支える役割を果たしている。現在はヒガシマル醤油を中心として、いくつかのメーカーが組合として昔からの醤油文化を受け継いでいる。

町を見下ろすように建つ龍野城跡に向かう。途中には武家屋敷や家老屋敷もあるが、現在は小学校や文学館として残されている。昔の町並みの案内看板もあり、今との比較もできる。

さて城跡に入る前に昼食とする。揖保川と言えばもう一つ有名なのがそうめん。「揖保乃糸」など、お中元としての需要もある。城の下にある「霞亭」に入る。小ぢんまりとご家族でやっている感じだが、ご主人がすごくソフトな感じの方。文学の町にあって、商売人というよりは童謡の歌詞を創っていそうな感じである。

メニュー選択に迷う。「霞亭」はにゅうめんがベースのようだ。ただ、この日は5月だが30度近い気温。当然、冷やしそうめんにも引かれる。ただ最後は、龍野のうすくち醤油をベースに、いりこなどで取った出汁が自慢ということで、さまざまな具材が乗った「霞亭にゅうめん」をいただく。さすがは「揖保乃糸」で麺は申し分ない。また出汁もあっさりしながら醤油のしっかりしたところが残っている感じがして、最後まで飲み干した。さすがに冷やしそうめんのつゆでは、こうはいかない。この醤油とそうめん・・・西播磨の平野で採れる米、小麦、大豆、そして揖保川の水に赤穂の塩。この風土の賜物であると改めて感じる。

お腹もできて龍野城跡に入る。龍野城は室町中期に赤松氏が気づいたが、その後は豊臣秀吉の支配下となった。その後、龍野藩の京極氏が治めたが、先の記事にも書いたように丸亀に国替えとなった。実はその時に一度取り壊したのだが、後に入った脇坂氏が再建した。ただし、時は江戸の徳川時代で、幕府に遠慮して立派な建物は造らず、平屋の本丸御殿とすることで幕府の許しを得たそうだ。赤松氏の頃は、さらに山の上に城郭を構えた山城だったとある。その本丸御殿は1979年に昔の図面をもとに再建されたが、今の建物はまた改修したのか、まだ新しい感じがする。ヒガシマルをはじめとした醤油の組合のご厚意で金を貼り巡らした部屋も再現されている。

同じ城内には歴史資料館もあり、企画展で、藩祖脇坂安治らに対して豊臣秀吉や徳川家康が送った朱印入りの書状などが公開されている。JRの「ちょこっと関西歴史たび」に引かれて来たとおぼしきグループも、あれやこれやと楽しんでいる様子だ。

町中を隅々まで回るならまだまだ見所はあるが、本日はともかくここまでかなと、町の中心に下りる。

中心部に来ると、先ほどのヒガシマルの資料館の近くにも煙突が1本見える。カネヰ醤油の工場である。

そして、その構内入口にこのようなものに出会った。見た目はレトロな感じにした自販機なのだが、缶コーヒーやお茶に交じって、醤油のボトル、瓶がある。それだけでなく醪もある。いずれもカネヰ醤油の商品だが、「醤油と醪の自販機」というのが面白い。観光パンフレットにも載っているから今さら珍百景でも何でもないが、記念にはなる。

醤油の小瓶を自販機で買ったが、普通に飲み物を買うようにキンキンに冷えていた。醤油をキンキンに冷やすのは、品質的にどうなのかな・・・?

これで龍野の町歩きは終了して、歩行者自転車用の橋で揖保川を渡り、ヒガシマル醤油の工場内の道を通りながら姫新線の本竜野駅に着く。ちなみに、山陽線には竜野駅があるが、市街地からはかなり離れたところにある。

本竜野駅に着いたタイミングが悪く、ちょうど姫路行きが出たところだった。次の列車まで30分をつぶすわけだが、駅構内の物販コーナーを見た後、歩いてすぐのイオン系のスーパーに向かう。地元の人で賑わっている。そこで自然に醤油のコーナーに行ったのだが、さすがは龍野でヒガシマルをはじめとした地場の醤油も並ぶ。ただそれ以上に、キッコーマンやヤマサといった、関東の野田や銚子のメーカーの醤油が、あたかも国内標準であるかのような並ぶ。また、イオンのプライベートブランドの醤油もあるが、これも関東の濃口醤油。うーん、流通のやり方もあるのだろうが、うすくち醤油の本場でも、スーパーのレベルになると国内標準の濃口醤油になるのかなと。で、売上は濃口醤油が上と・・・(見方によっては、「うすくち醤油の本場だから、地元産を少しくらいなら店頭に並べるのを許す』とでも言われたかのような品揃え)。いや、龍野の人たちも、今は醤油の味など別にどっち向いていてもいいて思っているのかな・・・?

そうするうちに姫新線の気動車がやって来て、姫路まで揺られる。まだ時間はあり、これから西国三十三所の書写山圓教寺にも行こうと思えば行けるが、また一方では姫路駅前での昼飲みの誘惑が強いのだが、それらはグッとこらえてとりあえず今回は終了として、山陽電車の姫路に乗り換える。また西播磨には近々来ることになるだろうし。

・・・で、大阪まで戻ったが、須磨の海を見て地下区間に入るとウトウトした。目が覚めると窓の外は地下で、三宮かと思ったが周りの様子がおかしい。誰もいなくなる。・・・そこは梅田だった。まあ、後は帰宅するだけだし、意識もはっきりして帰宅したが、須磨から梅田まで爆睡とは・・疲れているのか??

・・・気をつけなければ。
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