まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11回四国八十八所めぐり~第43番「明石寺」

2017年08月31日 | 四国八十八ヶ所
特に関西に住む人間だと、タイトルの文字を見ると「あかしでら」「あかしじ」と読むのかもしれないが、寺の名前は「めいせきじ」である。だいぶ以前、八十八所の寺院の呼び方が12番の藤井寺(ふじいでら)を除くと「◯◯寺」は「◯◯じ」と読むと言うことを書いた。それがなぜなのかはよくわからないが、「じ」と読むなら、その上も音読みのほうがしっくり来るのかな。

宇和高校の横から坂道を上り、少し山の中の風情という感じの寺である。石段を上ったところに歩き遍路の姿があり、さらに次を目指すのだろう、山道の中に入っていった。駅から30分あまり歩いたがこの時点でタオルも汗でぐっしょり。手水の水をタオルにもかけて濡らして少しでも涼しくする。林の中、風が吹けば気持ちよいのだが。

寺の創建はかなり古く、伝説では欽明天皇の勅命で正澄上人が中国から渡来した千手観音像を安置し、伽藍を建てたのが始まりという。ゴホンといえば龍角散、伽藍といえば聖徳太子だが、四天王寺や法隆寺より前にそんな立派な伽藍ができたのか疑問視されている。まあ、あくまで伝説である。

一方で奈良時代にこの地に熊野権現を招き、修験道の道場になったという。そして後に弘法大師が再興した。・・・となると、元々修験道があり、そこに弘法大師が伝説をくっつけて、神仏習合の寺院・・・という歴史になったのだろうか。神仏習合といえば、前日訪ねた龍光寺が中央に堂々と稲荷社を構えていたのが思い出される。こちら明石寺にも本堂の脇に熊野権現らしきお社があるが、ちょっと寂れた感じである。

文字では「明石寺」と書き、「めいせきじ」と読むが、地元では「あげいしでら」、「あげいしさん」と親しまれているそうだ。これは「上げ石」から来ているそうで、昔、若い娘(千手観音の化身とも言われている)が一夜のうちに大石をかついで山上に登ろうとしたから・・・とある。「あげいし~あけいし~明石」というようだ。だとすると・・・淡路島への玄関であり、タコをはじめとして海の幸に恵まれ、駅前の居酒屋はなかなかええでという兵庫の「明石」のほうが、どういう由来なのか気になる。ここにも「上げ石」伝説があったのか、あるいは大胆な話として明石寺と関係があるのか。これはこれで、また明石に行った時にタコで一杯やりながら考えてみよう。

それはさておき、海の気配はないが山の雰囲気がよい本堂、大師堂でのお勤めである。立派な夫婦杉もある。朝の9時前、訪れる人もまばらで、まだ朝の清々しい空気が残っている。納経所で選手名鑑にサイン・・・もとい納経帳にご朱印をいただき、これで今回の予定の八十八所めぐり(39~43番)は完了。その中で歩いたのはごくわずかだが・・・。

上ってきた坂道を下り、再び宇和高校まで着く。そしてもう一度、今度は別の坂道を上る。こちらは車道、歩道とも広く取っていて、S字の道を金剛杖を突きながら上る。そして巨大な、現代的な造りの建物に出会う。愛媛歴史文化博物館である。先ほど山の中の札所で、木々を通る風を涼しく感じたこともあったが、やはり現代の空調(特に真夏のこういう時)の涼しさは格別である・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~卯之町へ

2017年08月30日 | 四国八十八ヶ所
宇和島でのアイランドリーグ観戦から一夜明けて18日。この日も宿泊は同じ宇和島のホテルである。ここをベースキャンプにしてということで、まずは第43番の明石寺を目指す。明石寺の最寄り駅は卯之町で、鉄道もしくはバスで行くことになる。駅からは徒歩30~40分の距離である。また卯之町は歴史ある町並みや開明学校といったスポットがあるし、愛媛県の歴史文化博物館もある。ここを回った後は、いったん伊予大洲まで足を伸ばしてから宇和島に戻ろうかと思う。

ホテルでバイキング形式の朝食を取り、7時38分発の特急宇和海6号に乗る。自由席なら「四万十・宇和海フリーきっぷ」でも乗れるが、宇和島から先、松山までの区間は片道きっぷの扱いで、逆走ができない。このため最終日の19日の移動用に取っておくことにして、この日は普通に券売機で乗車券と特急券を買う。3両編成だが、宇和島を発車した時点では1両に10人もいないくらいだった。

宇和島の市街地を数分で抜け、山がちな区間に入る。次に入り江が出てくると伊予吉田である。江戸時代には伊達家の宇和島藩から3万石を分知され、その領地の帰属をめぐっての争いもあったが、後には宇和島藩の支藩的な扱いとなった。前日訪ねた41番の龍光寺、42番の仏木寺はいずれも旧三間町にあるが、その辺り一帯は伊予吉田藩の領地だった。伊予吉田駅があるのは旧吉田町だが、平成の大合併のためこれら一帯は全て宇和島市となった。歴史でいうなれば宇和島藩の本家筋?に帰したようなものである。

伊予吉田を過ぎると再び険しくなり、立間を過ぎると次の下宇和まで勾配もきつくなる。長いトンネルが続く。いつしか高度が上がり、斜面にミカン畑、その向こうに宇和海という眺めである。この区間は予讃線の走行写真でもよく出てくる。

8時、卯之町に到着した。先ほど、卯之町のスポットを並べてみたが、まずは駅からもっとも離れた明石寺に行くとして、金剛杖をケースから取り出し、笈摺を羽織る。この日は平日の朝。国道も通勤のクルマが飛ばす感じで行き交っている。

ならば一本筋を入る。こちらが卯之町の昔ながらの町並みである。ここは後でもう一度来ることにして、まずは杖を突いて通り抜ける。それだけでも一瞬タイムスリップしたようで面白い。

古い町並みを過ぎて道幅の狭い一角を抜けると、宇和高校の前に出る。愛媛県歴史文化博物館への坂道が伸びるがそこはいったん見送ると、「四国のみち」の案内標を見つける。仏木寺から歯長峠経由の道が明石寺まで続く。仏木寺から明石寺まで峠越えを含めて10キロあまり。ここは歩くかどうか分かれる距離ではないかなと勝手に思う。

最後は石の鳥居がある。ここも神仏習合の歴史をとどめているのだろうか。200~300メートルほどの急な坂道を上り、山門の下に来た。さて、今回の八十八所めぐりの札所としては最後である明石寺にお参り・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~四国アイランドリーグ観戦(愛媛対香川@宇和島)

2017年08月29日 | 四国八十八ヶ所
8月16日~18日は、愛媛マンダリンパイレーツの宇和島3連戦が行われた(16日は対徳島、17日~18日は対香川)。この夏休みは四国八十八所めぐり、そして宇和島での試合に合わせるように日程を組んだ。17日夕方、幸い雨の心配もなく、宇和島の丸山公園野球場に着いた。

試合開始は18時、開門は17時である。世間は一応平日ということもあり、開門時には数えるくらいの客が来たくらいのものだ。すぐに入場して一塁側のスタンドに陣取る。早速、金剛杖をスタンドで立てて、これで「四国八十八所めぐりとアイランドリーグ観戦」という私の「ミッション」の3県目クリアとする。残るは香川ということになるが、高松になるか、丸亀になるか。今の四国めぐりのペースから行けば早くて来シーズンということになるが、いまから楽しみである。

その後でグラウンドの選手の動きから愛媛は三塁側であることに気づき、そちらに移動する。独立リーグで観戦する試合は原則ホーム側に座り、ホームチームの応援をするようにしている。四国についても特にどの県のチームを応援しているというものではないが、球場の雰囲気を楽しもう、地元のイベントをのぞいてみようという感覚なので、やはりホーム側のほうが面白い。球団、球場によって一・三塁側がころころ変わるのだが、別に前売り指定席ということでもないので、そこは現地で見やすいところに座ればいいだけのことだ。

四国アイランドリーグは前後期制を取っており、前期は徳島が優勝。そして後期はここまで高知(5勝3敗1分)が首位、愛媛(6勝4敗1分)でゲーム差なしの2位。以下、香川、徳島の順位だが接戦となっている。17日愛媛が勝てば、試合のない高知に替わって首位に立つ。

日中は立っているだけで汗が出るくらいの暑さだったが、ここは小高い山の上の球場である。そろそろ日が落ちてくると涼しい風も吹いてくる。海に近いということもあるし、大都市ほどヒートアイランド現象があるわけでもない。夕涼みにはいい感じなのかなと思う。

独立リーグの試合は「食事情」がよくわからないところがあるので、駅前のコンビニでビールその他の飲食物、さらにはじゃこ天も持ち込んだのだが、こちらでは夏祭りのような屋台が出ていた。生ビールも売っていたし、夏休みの子どもたちにはフライドポテトの袋詰め放題が人気だった。その中で見つけたのが「三津浜焼き」。そばの入った広島のお好み焼きと同じような一品だが、これはあくまでも「三津浜焼き」なのだそうだ。その定義はいくつかあり、この記事ではそこまで書かないとしても、いずれ四国めぐりでその辺りに行くことがあればぜひ食べ比べてみたい。

子どもたちや、仕事を終えてそのままという感じの観客がポツポツとやってきて、そろそろ試合開始である。メンバー紹介として両チームの監督、コーチ、選手がグラウンドに整列する。一塁側の香川を率いるのはこのチームの監督も長くなった元広島の西田真二。そして地元愛媛を率いるのは元巨人で今年新監督に就任した河原純一。またコーチとして元オリックスの萩原淳、元近鉄の武藤孝司が指導に当たっている。また、どうしても元NPB選手に目が行ってしまうのだが、愛媛には日本ハムで新人王を獲った正田樹や元横浜などの北方悠誠という投手もいる。ただ、その他の選手たちの中からも今後NPBで活躍する選手が出るかもしれず、しっかりと見ておきたい。

18時に試合開始。愛媛の先発は左腕の高下。確か5月に高知で高知対愛媛を観戦した時も、愛媛先発はこの投手だった。まずは初回を三者凡退、2回は2安打を許すが併殺で切り抜ける。

一方の香川の先発はストルザルカ。ポーランド出身で、米マイナーを経て香川にやってきた。荒削りながら左腕からグイグイと投げ込んでくる。先頭のポロが倒れ、続く岡村がヒットで出塁するも、太田がバント失敗でランナーが入れ替わり、その太田が盗塁を仕掛けるがこれも失敗。

2回裏、先頭の古川がヒットで出塁し、盗塁を仕掛ける。今度は捕手の悪送球で一気に三塁に進む。ここで「必殺仕事人」のテーマで登場したのが主将の四ツ谷。レフトへの飛球だが犠牲フライには十分か。三塁から古川がタッチアップするが、レフトの井戸川からいい返球が来た。これでタッチアウト。先制のチャンスを逃す。

先制したのは香川。4回表、井戸川が二塁への内野安打。ここで高下の牽制球を一塁のポロがポロっと後ろへ逸らして進塁を許す。続くクリスのライトフライでタッチアップして三塁に進み、加藤の三塁ゴロの間に生還する。1安打、それも内野安打からの1点とはいやらしい点の取り方である。

愛媛もすぐに反撃、太田、古川の連打で無死一・二塁とする。堀尾がここでバントを試みるが成功せず、最後はバント空振り三振。そして四ツ谷が6-4-3の併殺で無得点。愛媛の攻撃もどうもチグハグな感じだった。

試合以外のところにも目を向ける。過去にも見たことがあるが、イニング間でのスポンサー紹介では、大相撲の懸賞のように子どもたちがスポンサーの垂れ幕を持ってグラウンドを回る。また、山の上ということで涼しいのだが、そこは夏。係員が「ミストボーイや!」と言ってスタンドで手動のミストを出す。子どもたちが面白がってミストを受けて歓声を挙げる。夏休みの一ページになったかな。

5回表、香川はヒット2本と四球で二死満塁と追加点のチャンスを作るが、高下が井戸川を三振に打ち取って無得点。5回裏、愛媛がエラーでランナーを出すが、福田の空振り時の守備妨害などもありこれも無得点。5回まで1対0と香川リードのまま、高下、ストルザルカはともにこの回で交代となった。

試合が動いたのは6回表。愛媛2人目の片山が四球とヒット、さらにはパスボールで一死二・三塁のピンチを迎え、三好がレフトオーバーの二塁打。これで3対0となる。さらに四球とヒットで一死満塁となった場面では後続を退けたが、後半になって香川が試合の主導権を握った。7回にも井戸川ヒット、クリス二塁打でチャンスを作り、途中出場の具志堅がライトへの大きな当たり。一人が生還、二人目は本塁への送球でタッチアウトとなったが4対0。さらに三好の2本目のタイムリーで5対0と大きくリードした。

7回裏は愛媛のラッキー7。この日は観客一人に1本ジェット風船が無料で配られており、オレンジの風船が宇和島の夜空に飛ぶ。チームも声援に応えて二死一・三塁とチャンスを作り、香川3人目の三木田から福田がタイムリーを放ち、ようやく1点が入る。

8回、9回の愛媛は北方が登板。四球でランナーを出すがバックの好守もあり得点を許さない。

そして最終回の愛媛の攻撃は香川5人目の浜田から繁田、林の連打、福田の四球で無死満塁。ここで迎えるのはポロ。ここまでエラーしたり、チャンスに凡退を繰り返してはいるがここは一発のある人気選手。「やっぱこの男に回ってくるわ」「でも最後は何かやってくれそうや」と周りの客も期待で盛り上がる。もし一発が出れば一気に同点満塁本塁打・・・。

そのポロの打球はスタンドへ・・・ということはなく二塁へのゴロ。三塁ランナーの繁田はその間に生還して5対2。香川二塁の古田は二塁ベースを踏んだ後(これで一塁走者の福田はフォースアウト)、本塁に送球。三塁を回っていた二塁ランナーの林が三本間に挟まれてタッチアウト。無死満塁から1点入ったものの、二死一塁とあっという間に追い込まれた。スタンドからは落胆の声。続く岡村がヒットを放ち粘るものの、最後は太田が空振り三振に倒れて試合終了。5対2、3時間12分の試合はなかなかの熱戦であった。ちなみに観客は272人と、平日夜の試合ということを思えばこんなものかというところだった。

試合終了後は出口にて独立リーグ恒例のお見送りである。せっかくなので選手名鑑にご朱印・・・もといサインをいただくことにする。河原監督、武藤コーチ、正田、ポロ、古川というところからサインをいただく。夜ということもあり球団側も時間をきちんと切ってのお見送りタイムとして、最後は四ツ谷主将が「明日も宇和島の試合ですんで、ぜひ応援お願いします!」と締めた。

観客のほとんどがクルマでの来場で、街灯もほとんどない山道を歩いて下りるのは私くらいのものだ。帰りは龍光院の方向ではなく、球場の下の道から住宅地を抜けるルートを歩く。下り坂ということもあり20分ほどで駅前に戻ってきた。部屋に戻ったのは22時、今日も長い一日であった・・・。

(後日談)
試合を観戦したのが17日で、この記事が掲載されるのは2週間近く経った後のことである。ちなみに翌18日に同じ宇和島で行われた愛媛対香川は7対0で愛媛が圧勝、宇和島3連戦は愛媛が2勝1敗となった。その後の試合結果で、27日終了時点では愛媛が首位、以下、2位香川、3位高知、4位徳島と順位に変動があった。ただ4球団のゲーム差はさほど広がっていないし、9月もまだまだ試合があるので、後期優勝のチャンスはどの球団にもある。

そんな中で、BCリーグ優勝チームとの間で今季の独立リーグ日本一を決める「日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ」の日程が発表されている。5戦3勝方式で、10月7日~8日がBCリーグラウンド、そして10月14日~16日がアイランドリーグラウンドである。

先に、四国の特定のチームだけを応援するわけではないと書いたが、もし仮に、愛媛マンダリンパイレーツが後期優勝~徳島とのプレーオフを制してチャンピオンシップ進出ということになれば・・・と想像する。私の四国八十八所めぐりも現在愛媛編、予定で行けばこの次は松山地区に入る。チャンピオンシップはおそらく松山坊ちゃんスタジアムで開かれるだろうから・・・・。

要はそういうこと、後はお察しいただければ。私としての「ミッション・オクトーバー2017」・・・?
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第11回四国八十八所めぐり~別格6番「龍光院」

2017年08月28日 | 四国八十八ヶ所
17日の夜、宇和島の丸山公園野球場での四国アイランドリーグ観戦に向かう。駅の南東にある小高い山の上の球場だが、公園に向かうバス路線はなく、駅から20分くらいは歩くかなというところである。ホテルからわざわざ金剛杖を持って出たのは、私のミッションとして「スタンドで金剛杖を立てる」というためのものだが、変わった奴といえば変わった奴やな。

ただその途中に一つの「札所」がある。といっても八十八所とは違った「四国別格二十霊場」の一つ、龍光院である。駅、ホテルからもほど近く、ホテルにあった市内案内でも「宇和島市街地でお手軽にお遍路気分を味わえる」としている。

「四国別格二十霊場」とは、八十八所以外に、弘法大師が修行をしたとか、さまざまな伝説、信仰が残されている寺やスポットのうち、特に縁が深いとされている二十の寺院が集まってできたものである。創設されたのは1968年というからまだ50年くらいのものだが、八十八所とこの二十所を合わせると百八・・・人間の煩悩と同じになることから、「煩悩を滅する」として一緒に回るという人も少しずついるようだ。八十八を終えてからもう二十を回る、あるいは八十八を回る途中で二十も押さえる、とやり方はそれぞれだ。私の場合は、徳島で牟岐線の鯖瀬駅すぐ横にある別格4番鯖大師本坊には訪れたが、特段別格二十にこだわっているわけではなく(それ用の納経帳も持っていない)、行程の中で無理なく行けるところであれば立ち寄ろうかなという感じである。

駅前の商店や住宅が混在する中でいきなり「龍光院」の石柱が立ち、石段が続く。途中は八十八所のお砂踏みにもなっているようだ。

石段を上がって振り返ると宇和島の市街地が広がる。ちょうど正面には宇和島城の天守閣も見える。そして再び向きなおすと、新しい感じの本堂が建つ。ちょうど西日が映えるという感じである。

龍光院が開かれたのは江戸時代。伊達政宗の子・秀宗が宇和島藩主としてこの地に入った時に、宇和島城の鬼門に当たるこの地に、藩と領民の安泰を願って建てたのが始まりとされている。以後、宇和島藩の祈願所としても信仰を集めて現在に至るわけだが、それだけだと上記の「四国別格二十霊場」とされる弘法大師とはどうつながるのかがわからない。そこは但し書きがもう一つあり、弘法大師が四国で修行中に、この地があまりにも僻地なので都の文化を恩恵が薄いのを憂い、四国八十八霊場の発願してこの地にお堂を建てたのが始まりとある。いや、それは何だかこじつけのような気がする・・・。

もっとも、弘法大師が宇和島が僻地であるとしてお堂を建てたのはこの地ではなく、宇和島市街地から沖合にある九島(くしま)にある「願成寺(鯨大師)」というものだともされている。ただ、島に渡ってのお参りというのが困難だとして、やがて対岸に遥拝所として大師堂ができ、その後伊達氏の宇和島入りなどがあって、その辺りが合わさって龍光院になったというのが経緯のようだ。現在、その九島には橋がかかってクルマでも行くことができる。

市街地、宇和島の駅も見下ろせる境内で、本堂、大師堂に手を合わせる。願いの一つには、これから観戦する愛媛マンダリンパイレーツの勝利ということで・・・。ここは別格ということもあり、朱印はいただかなかった。

この札所に立ち寄ったのは、境内の奥を抜けると丸山公園に続く道路に出ることもある。境内の裏手には八十八所、そして別格二十霊場のお砂踏みがあり、墓地を抜けると観音像がある。中国から招かれたもので、一石彫では西日本最大とされる。現在の宇和島にあって地域の災いを除き、福を招くとして地元の人にも親しまれているそうだ。

この観音像の後ろから車道に出て、しばらく歩く。途中には宇和島の観光名物である闘牛場がある。これまで知らなかったのだが、闘牛といってもしょっちょうやっているものではなく、年に数回のものだそうだ。直近ではこの14日、つまり3日前に開かれたばかりだという。お盆休みに合わせてのことで、その意味ではちょっと惜しかった。

公園の中のアップダウンを歩き、前方に球場の姿が見えてきた。ちょうど試合前の練習中、選手の声や球場らしいBGMが聞こえてくる。別格とはいえ四国札所を回ったその足でそのまま球場に向かう。これまでの徳島(鳴門)、高知での観戦の時は、前日にお参りしてその次の日に球場に移動したとか、大阪から高知入りしてそのまま球場に向かったというものだったが、寺~球場というのは初めて。いよいよ、今回の大きな楽しみである・・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~第41番「龍光寺」

2017年08月27日 | 四国八十八ヶ所
仏木寺から「逆打ち」の形でやって来た龍光寺。境内横手の山道から墓地の中を通って石段に出る。ここは札所の山門に相当する建物が見当たらない。

正面に向かう。石段の途中にフロアがある感じで、左手に本堂、そして右手に大師堂がある。ここまではよいのだが、石段の上を見ると赤い鳥居がある。上に建つのが稲荷社で、あちらが本家で本堂、大師堂を見下ろすかのようだ。

これは、かつての神仏習合の歴史を今に残す貴重な姿と言われている。寺の開創は弘法大師とされており、かつてこの地を訪ねた時、白髪の老人に出会った。弘法大師はこれを五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を彫り安置した。さらに、その本地仏である十一面観音を彫り、他に不動明王や毘沙門天などと合わせて寺を開いたとされている。かつてはもっとも上が本堂だったのが、明治の神仏分離で十一面観音が中腹に下ろされる形で、新しく建てられた今の本堂に入り、昔の本堂は稲荷社となった。地元の人たちは「龍光寺」というよりは「三間のお稲荷さん」として親しんでいるようだ。大師像や地蔵像があるかと思えば、狐や狛犬がいる。神仏習合の歴史を持つ札所はこれまでにもいくつか出会ったが、神社と寺が離れていたり、道を隔てていたりというのがほとんどで、ここまで一体化しているというのも珍しいと思う。

境内からは三間町の田園風景を見ることができる。先ほどの仏木寺と同じように、里山の札所という感じである。

朱印をいただき、本来とは逆の動きだが石段を下りる。石段の下には石の鳥居があり、こちらから来ると神社に来た感じがより一層強かったかなと思う。

その鳥居の横に「長命水」という看板の店がある。長命水とは弘法大師の御加持水とされたもので、この店はその水を使ったうどんなどを出す食堂である。四国八十八所を歩いた菅直人元首相が訪ねた店としても、四国めぐりの中では知られているそうだ。私も菅元首相の遍路紀行を読んだことがあるが、その時は「遍路旅の中にはそうした出会いもあるだろうな」というくらいで特に意識していなかったので、現地に来てやっと気づいたものである。

当初のバス~歩き~予土線乗り継ぎならば、龍光寺でも時間は結構あったはずだったが、前の記事にもあるように、道を誤っての30分のロスタイムがある。次の予土線は伊予宮野下を14時11分発で、ここから歩いても間に合うが、「長命水」をのぞくだけの時間は厳しい。後になってネットで店の画像を見るとなかなか面白そうなスポットで、今回予土線を気にしてパスしたのが残念である。四国の2巡目というのがあるかどうかわからないが、もし次に龍光寺に来ることがあれば入ってみよう。

この時は駅に向けて歩く。三間町の中心部の古い町並みを抜け、三間高校の横を過ぎると寺から20分あまりで伊予宮野下に着く。元々は宇和島鉄道の駅として大正時代な始めに開業したところで、建物はかつては駅員がいて、出札口もあったかと思われる。今は全部取り払われてベンチしか残っていないが、地元の人たちが手入れをしている感じである。竹で作った風鈴がホームでカラカラと鳴っている。

やって来たのはもちろん1両の気動車。まずは1キロ先の務田に停まり、北宇和島に向けて峠越えである。前の席から運転台を見ると、時速は30キロとゆっくり走る。カーブも多いし、線路脇に伸びる木や雑草を払うかのような走りだ。

宇和島に到着。宇和島を出て4時間弱で戻る形になった。時刻は15時前だが、コインロッカーからキャリーバッグを出して、駅近くの宇和島グランドホテルにチェックイン。16時からなら近くの本館にあたる宇和島国際ホテルの大浴場が利用できるそうだが、ここまでで大汗である。部屋のユニットバスのシャワーでよいのでまずは浴びる。どうせ16時にはまた外出するのだから。

少し涼んだ後で着替えて、また金剛杖を手に部屋を出る。近くのコンビニで飲食物を仕入れ、いよいよアイランドリーグ観戦に向かう。ただその前に、「ちょっと寄って行かん?」という感じで、ある寺が私を出迎えるのであった・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~第42番「仏木寺」

2017年08月26日 | 四国八十八ヶ所
前の記事でこの日のルート取りについて書いたが、結局はバス、列車での移動を考えて42番の仏木寺から41番の龍光寺に向かうという「逆打ち」ルートを取ることにした。そこでバスで来たのは仏木寺。宇和島からのバスは朝の便が学校休みの日は運休で、仏木寺に11時半に着く便が「始発」である。全部で1日5本、うち1本が土日祝日運休、1本が学校休みの日運休では、四国めぐりのガイドブックでもバス便の紹介は難しいだろう。まだ、予土線の伊予宮野下(または務田)から龍光寺を経て歩いて1時間あまりとしたほうがアクセスしやすいのかもしれない。

周りはそろそろ穂をつけた田んぼが広がる、いかにも「村のお寺」という雰囲気である。山門をくぐるとまだ新しい感じの七福神像が出迎えてくれ、奥に鐘楼がある。この鐘楼、屋根が茅葺きというのが珍しいのだとか。境内に入ると奥に本堂と大師堂が並ぶ。

弘法大師がこの地を訪ねた時のこと。老人の勧めで牛の背に乗って進んでいると、楠の大木に出会った。その楠には、弘法大師が唐の地を離れる時に投げた宝珠がかかっており、これは霊地であるとして、その楠で大日如来像を彫り、眉間に宝珠を埋めて安置したという。これが仏木寺の由来で、牛の背に乗ってこの地に来たことから家畜守護のご利益があるとされている。

この「投げた宝珠」というので思い出したのが、36番の青龍寺。ここは唐の地から投げた独鈷が松の木に引っ掛かっていたのを霊地として寺を開いたとある。つまりは「ダーツの旅」方式で札所が決まったパターンである。青龍寺の時は、「弘法大師ももう少しコントロールがよければよかったのに」と思ったが、こちら仏木寺については、平坦なところということでまあいいか。

隣の大師堂でもお勤めをする。その横には仏木寺に多額の寄贈をしたことを記念する石碑があり、広島県の篤志家の名前が刻まれている。そういえば山門横の四国遍路の記念碑や、七福神の像もこれらの人たちの寄贈によるものだった。仏木寺に対して何かのご縁がある方なのだろうか。

本堂の横には家畜堂や家畜の慰霊碑が並ぶ。本尊の大日如来が牛や馬の守り仏だからということだが、ふと周りののどかな田園風景を見ると、大日如来とかは関係なく、地元の農村の人たちが昔から自然に農耕で働いてくれた牛や馬を祀ってきたのが受け継がれてきたのではないかなと感じさせる。昔のいつかの頃の住職が、大日如来だの真言宗だの難しいことを言っても民衆は理解しにくいから、「牛や馬は手厚く葬ってお参りしましょう」ということを方便にしたのかもしれない。それが現在では家畜にとどまらずペット全般の供養ということになっている。

境内には他に聖徳太子堂、不動堂などがあり、まずはのどかな雰囲気ということでご朱印をいただく。

さてこれから41番の龍光寺を目指す。その前に山門前の休憩スペースで、おにぎりとじゃこ天で軽い昼食を取る。龍光寺までは4キロくらいあるだろうか。まずは県道沿いの歩道を歩く。地元の三間高校の生徒の手で整備されているそうで、コスモスが何輪か咲いている。連日猛暑が続くが、秋の気配というのはひっそりと、しかし少しずつ訪れているのかなと思う。一方で、地元宇和島では27日に市長選、市議会議員選が行われる。こちらは暑い選挙戦になるだろうか(・・・いや、当選する人はもうすでに事実上決まっていたりして)。

一度県道を外れ、来るときにバスで通った集落を今度は歩いて通り抜ける。再び県道と合流するところで、「龍光寺、中山池自然公園」を示す看板に出る。龍光寺は県道沿いではなく、少し山の中に入ったところにある。これが順路かと看板に従って進む。途中で「四国のみち」の道標も出て、仏木寺と龍光寺の双方を指している。これは大丈夫だと、山道に入り、保護林の中を歩く。これは昔ながらの道かなと思いながら歩くうち、池のほとりの展望台に着く。対岸の様子もよく見える。

ではこのまま先に・・・というところで焦る。道がないのだ。これはおかしい、分岐を間違えたかなと思い引き返すが、よくわからない。途中で1ヶ所道が分かれていたが草ぼうぼうである。龍光寺への矢印はあったが、これはどういうことか。結局この中を突破するのはあきらめて、また県道まで歩いて戻る。30分近くロスしたことになり、余裕だと思っていた伊予宮野下から宇和島への列車に間に合うかなと別の焦りが出てきた。策に溺れるというやつで。

龍光寺にはどこかのタイミングで山道に入ることになると注意しながら県道を歩くと、右手の歩道の外に石碑を見つけた。その反対側には、畑の中の畦道がある。ひょっとしたらこれかとその中を進む。畑の奥には墓地があり、その横に上り道がある。そこを進むと、木にくくりつけられた「遍路道」の札に出会った。これで間違いない。後は金剛杖を支えに坂を上り、平坦になったところで石柱が現れた。仏木寺への近道であることを示すものだった。

するとまた墓地が現れ、その向こうに、山の斜面を利用して造った構えの堂宇が見えた。この角度から見ると風格ある寺に見える。無事に着いたようで、これなら予土線の列車にも十分間に合うだろう。

順打ちなら「寺の横の墓地を抜けて山道を行って・・・」ということで、何ら問題なく仏木寺に行ける道。それが仏木寺から来ると一時迷ってしまう。「逆打ちは難しい」と言われるのはこういうことも一因のようで、「四国のみち」の案内にもしっかりしてほしいのだが、まあそこは自分の下調べが不十分だったわけで・・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~宇和島でのルート選び

2017年08月25日 | 四国八十八ヶ所
17日、第40番の観自在寺で朝参りを済ませ、ホテルで朝食後再び観自在寺門前まで荷物を抱えて出て、8時56分発の宇和島駅行きのバスに乗る。行程としてはかなりゆったりしたものだ。

四国入りするまでに立てていた行程では、17日は午前中にゆったりと宇和島に移動して、午後は宇和島の町歩き、そしてナイターでの野球観戦というもの。翌日の18日は早朝から予土線で伊予宮野下駅まで行き、41番の龍光寺、42番の番の仏木寺と歩く。仏木寺は本数は少ないが宇和島駅との間に路線バスがあり、タイミングが合えばそれで宇和島に戻り、鉄道もしくはバスで卯之町に移動して43番の明石寺に行き、また宇和島に戻って連泊・・・ということを考えていた。また、もし仏木寺からのバスのタイミングが合わなければ、歯長峠を越える10キロ以上の道を歩いて明石寺に向かうことになる。それもまた四国歩きということでよいかな・・・というくらいに考えていた。

ただ、四国入りして(その前の大阪もそうだが)連日の暑さである。歩いて一度に回るのも、歩きの巡拝なら普通にやることなのだろうが、峠越えというのがどうかという感じである。そこで思い浮かんだのが、17日のうちに、龍光寺・仏木寺の2ヶ所と、明石寺のどちらかに行こうということだった。宇和島の町歩きを後回しにすれば、歩きでの峠越えが回避できるかなということである。

まずはそのことを考えながら、平城(ひらじょう)札所前からのバスに揺られる。まずは国道56号線でリアス式海岸の付け根を走る。路線バスではあるが、町中のそれとは違い結構スピード感がある。交通量がそれほど多くないのと、やはり周りのクルマが飛ばすからある程度流れに乗った走りをするのかなと思う。ローカルバスの場合、客がいなくても時折停留所で左に待避して後続車両を先に行かせることがちょくちょくあるが、この宇和島行きは乗降があるところは左に寄ったが、それ以外は結構攻めの走りをしていたように感じた。

そんな中で海にも近づく。入り江をぐるりと回り込んだり、また付け根を走ったりだが、景色にもバラエティがある。養殖用のいかだも多い。見ただけでは何を養殖しているかわからないが、鯛やハマチ、牡蠣、そして愛南町では高級魚のスマも育てているとのこと。こうした魚介類の名前を聞くと、黒潮から瀬戸内に移りつつあることを感じる。

少しずつ宇和島の市街地が近づく。途中で宇和島道路というのが分かれる。56号線のバイパス扱いだが、その先は松山自動車道に続いている。路線バスは市街地に入り、中心部にある宇和島城をぐるり回るように進む。途中には宇和島東高校もある。

ちょうど夏の甲子園の最中だが、宇和島東といえば一時甲子園に連続して出場し、センバツで優勝したこともある名門である。今は愛媛県では済美が強く、今年の大会にも出場しているが、両校を甲子園に導いたのが、今は亡き上甲正典監督である。確かにこの辺りには上甲さんという名字が結構目についた。話はそれるが、ここまで四国めぐりをする中で、高校野球の名物監督がチラリと出てくる。徳島は池田高校の蔦監督、高知は明徳義塾の馬淵監督、そして愛媛は宇和島東、済美の上甲監督。香川は誰だろう・・・とはこれからの楽しみとして、昭和・平成の四国の個性的な人物ということで、こういう方たちを並べてみる。

平城札所前から1時間15分で宇和島駅に到着。予讃線の終着駅で、ここに来るのも久しぶりとなる。ちょうど、予土線を走るトロッコ列車の発車時刻が近づいていて、家族連れなどが窓口で指定席券を買っている。私もふと、フリーきっぷを持っているからこの後はトロッコに乗って窪川まで往復してみようかと思った。ただ、そこまで行くとこの後の行程も影響が出るわけで、さすがにそれは見合わせた。またの機会とする。

さて先ほど、ここからどこかの札所を回れば・・・ということを書いたが、カギを握るのは予土線と、宇和島バスの愛治線の時刻表である。ここに来るまでにいろいろな組み合わせで時刻表をシミュレーションした結果、宇和島駅11時04分発の愛治行きでまず仏木寺を目指すことにした。この路線バスは平日で1日5本だが、そのうち1本は日祝日運休、もう1本は学校休みの日運休である。これから乗る便は幸い毎日運行だが、こうした数少ない本数の中で、実際に利用できる便が見つかるとなぜかニヤリとする。ガチの歩き遍路ではなく、クルマ利用の巡拝でもない、私のような中途半端な「公共交通機関メイン」の札所めぐりがうなることができる数少ない機会だ・・・ということはさておき、その後で、「逆打ち」の形になるが龍光寺まで歩き、最後は伊予宮野下から予土線で宇和島に戻るルートができあがる。龍光寺から伊予宮野下駅までは徒歩20分とある。伊予宮野下からの列車にうまく間に合えば宇和島には14時半すぎに戻るので、そのまま早めのホテルチェックインとしよう。

キャリーバッグをコインロッカーに入れて、駅売店で昼食におにぎりとじゃこ天を買う。じゃこ天ならビールでもほしいところだが、これから寺参りなので、ナイターまで我慢する。やって来た愛治行きだが、先客は地元の客が二人だけ。駅の北側に回り、御霊神社の前を通って宇和島の三間町方面に向かう。郊外型の大型店舗が並ぶエリアを抜けると峠越えである。予土線の線路も並走して、峠を越えると盆地のようにまとまった三間町に入る。そろそろ穂をつけた田んぼが広がる。

宇和島駅から30分ほどで、仏木寺のバス停に降り立つ。バス停の前が山門で、ここで笈摺を羽織り、カバーから金剛杖を取り出す・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~第40番「観自在寺」

2017年08月24日 | 四国八十八ヶ所
17日の朝、朝日が部屋に差し込む。テレビでは「関東は今日もぐずついた天気で」と言っているが、四国はまた今日も猛暑日近くなるのかなと思う。

この日は宇和島が宿泊で、天気も問題なさそうなので夜は宇和島の丸山公園野球場での四国アイランドリーグ観戦である。宇和島まではバスで移動するとして、朝7時前、朝食の前に観自在寺にお参りとする。金剛杖に、納経グッズ一式とタオルをリュックに入れ、その他の荷物はホテルに置く。寺までは歩いて10分かからない。その門前には他にも小さなビジネスホテルや旅館も並ぶ。また寺には宿坊もあるそうで、歩き遍路はこれらのほうに泊まるのだろうか。

道幅の狭い参道を上がると山門に出る。横からスクーターが上がってきて門の前に止まる。乗っていた人はヘルメットを脱いで山門に手を合わせて深々と頭を下げる。どうやらこちらにお勤めの坊さんのようだ。

観自在寺は「菩提の霊場」とされる伊予の国の最初の札所で、1番の鳴門の霊山寺からの距離がもっとも遠いそうだ。このため遍路の中では「裏関所」との呼び名もある。札所番号はまだ先だが、距離について言えばちょうど折り返しに来たのかなというところだ。寺の由来は、弘法大師が平城(へいぜい)天皇の命でこの地を訪れて、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇侍の阿弥陀如来と十一面観音を彫り、安置したという。平城天皇は、後の嵯峨天皇との争い、また藤原氏の勢力争いから起こった「薬子の変」で敗れ、仏門に入る。弘法大師が世に出たのは薬子の変の後ではなかったかなと思うが、ここは平城天皇が行幸し、遺髪も葬られているそうだから、平城天皇がオリジナルで弘法大師は後付けなのかもしれない。まあ、どちらでもいいことだが(ちなみに、このあたりの地名は「平城」と書いて「ひらじょう」と読む)。

本堂に向かう途中に八体仏がある。それぞれの干支の守り本尊で、丑年の私は虚空蔵菩薩。こちらに手を合わせて本堂前に立つ。境内は何度か火災に遭っており、現在の本堂、大師堂は昭和の再建である。まずは本堂の建物を入った外陣でお勤め。

続いて右隣の大師堂でもお勤めをする。大師堂の脇に、篠山明神の祠がある。この方向の遥か向こうに篠山という山があり、信仰を集めていたそうだ。観自在寺の奥の院に篠山神社というのがあり(かつては観世音寺というのもあった)、この辺りが篠山というのを信仰の中心にしていたのかなと思う。以前の記事にも書いたが、この辺りの札所は五来重の『四国遍路の寺』で取り上げられなかったところなので、奥の院も絡めた歴史的なことがよくわからない。

観自在寺が昭和の再建のために新しい感じに見えた後で、再び本堂に入り、中の納経コーナーに向かう。「えらい汗やな」と、先ほどのスクーター乗り付けとは別の坊さんが扇風機を向けるてくれる。「もう少し右に立ち。そこやったら、風行ってる?」と言う。ありがたく、ちゃんと来てくれている。坊さんはそう言いつつ、私の納経帳の奥付を見て、「大阪藤井寺・・・うーん、大阪のどの辺?」と尋ねる。大阪市街地から見れば南東、地図なら右斜め下と答えるが、今一つピンと来ない様子である。

「堺の隣?」いや、そうではない。

「近くは何市なん?」羽曳野、柏原・・・。

「うーん、知らんなあ・・・ごめんな」・・・まあ、そういうものだろう。

山門を出る。脇には、この先の遍路道について解説した看板がある。宇和島に向かう遍路道は三つあり、灘道、中道、篠山道とある。今はその中で国道56号線とも重なり、宇和島行きのバスも走る灘道がメインルートだが、歴史探訪ということなら残りの2ルートも歩く価値はあるそうだ。

朝に札所一つを回ることができて、ホテルに戻り朝食。和定食をいただき、新聞も見ながらゆったりである。先ほど宇和島まで三つの遍路道・・・と書いたが、今回はそれらは無視してとりあえずバスで移動する。朝の一時で、来る前のプランからいろいろ動かすことにした。その中身はまた次の記事にて・・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~御荘にて宿泊

2017年08月22日 | 四国八十八ヶ所
16日は15時のバスで宿毛から移動して、愛媛県に入った愛南町の御荘平城という地区に泊まる。次に目指す第40番の観自在寺の門前町といったところだ。バスが走る旧街道から国道56号線に出て、国道沿いにある「青い国ホテル」にチェックインした。時刻はまだ16時だが部屋に入り、シャワーを浴びて汗を落とす。

今回日程が長いため、荷物も多い。また初日に歩きの行程があったことから、大きなキャリーバッグを初日の宿泊となるこのホテルに宅配便で送っておいた。翌日はこれを転がすわけだが、このバッグの扱いも、ベースキャンプや移動手段など、旅の計画に影響を及ぼすものだった。今回については、送っておいて正解だったと思う。

国道の向かいには道の駅「みしょうMIC」があり、国道を行き交うクルマが結構利用する。農作物、魚介類が店頭に並び、愛媛・高知両方の土産物も店内に並ぶ。会社、自宅への土産は今のうちに購入して、宅配便で発送してもらう。

そして早めの夕食。また国道を渡った向かい側、ホテルからだと2軒となりにある「なにわ」という店に入る。地元の人気店のようで、ホテルの宿泊者にもお薦めという。愛媛まで来て「なにわ」とは面白い。

夜の部が17時開店というので直後に行くと何と「満席」の看板が出ていた。開店直後でほんまかいなと一応中をのぞくと空席はたくさんある。一人というと通されたし、後から来たカップルや家族連れも普通に入ってきた。看板は何かの手違いだったかな。ただ、予約が何組も入っていたのは確かで、もしグループでこの店を訪ねるなら予約しておいたほうが良いかもしれない。

さてこの店の一番の売りは「びやびやかつお」というもの。表にも「鰹たたき」の幟が出ていた。鰹料理は高知の名物で、愛媛県に入っても鰹?と一瞬思ったが、愛媛といってもこの辺りは黒潮のエリアに入るのだろう。御荘の南にある深浦漁港というのが愛媛県で唯一鰹の水揚げがあるという。「びやびや」は「新鮮な」という意味のこの地の漁師言葉で、「びやびやかつお」とは愛南町が定めたブランド魚で、早朝に出航して、一本釣りか曳縄釣りしたものをすぐに活締め、血抜きを施し、その日のうちに水揚げされる。ただ鰹なら何でもいいわけではなく、愛南町が定めた品質基準を満たすものだけが名乗れるとか。この「なにわ」のメニューにも「びやびやかつお」があるが、4~6月が旬ということもあり、8月のこの日は置いていないとのこと。

それは残念だが、いわゆる普通の鰹たたきはあるので注文。これでも十分「びやびや」で、ジョッキのビールにもよく合う。いや、愛媛で鰹たたきの延長戦ができるとは思わなかった。この日の宿泊地の候補に宿毛を挙げていたのも、高知の締めの夜として鰹たたきをいただこうかと思っていたこともあるが、愛南町で思わぬ出会いとなった。

そしてメインは、これは愛媛が本場の鯛めし。定食にすると鰹のハランボや川エビの唐揚げなどもついてきた。これらをビールのアテにした後で、鯛めしをいただく。愛媛(特に西南部)の鯛めしは、鯛の切り身を玉子を溶いただし汁に漬け込み、ご飯にかけるもの。昔の船上料理から生まれた一品だが、これもまたよし。大袈裟に言うと、鰹と鯛のアベックホームランを打たれた感覚である。

食後、まだ少し明るいので海まで歩く。これでも外海だが、入り江が深い。高知県で見た海は果てしなく広がる黒潮の雄大さが印象的だったが、この辺りはリアス式海岸というか、入り江がさまざまに入り組んでいる。こうした天然の良港というのが歴史を作る一つの要素になったのも確かである。

暗くなり、この後は部屋でブログ記事の書き込みなどしながらゆっくり過ごす。国道56号線沿いということでクルマの走行も多いが、騒音も気になるほどではない。この日は水曜日で、地元のあいテレビ(JNN 系列)では地元発の番組をやっていた。19時台は愛媛県内のグルメスポットなどを紹介する番組で、20時からは夏休みだからか、吉本新喜劇の愛媛県での公演をやっていた。辻本茂雄さんの「茂造じいさん」が道後温泉の旅館でむちゃきちゃしながら事件を解決する・・・という筋書きだったが、地方巡業らしいアドリブや地元出身の役者へのむちゃぶりなど、見ていて面白かった。普段、平日のこの時間にテレビを見ることはまずないのでそのぶん新鮮だったかな。また、愛南町のケーブルテレビもあり、地元の手作りニュースを見るのもよかった。

初日の16日はこれでおしまいだが、翌日からはどう回るか。当初、時刻表を見て組んでいた公共交通機関プランも、現地に来ると変わるものである。そこはまた翌日のこととして、そろそろ床に着く・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~宿毛の偉人たち

2017年08月21日 | 四国八十八ヶ所
39番の延光寺から宿毛の市街地に入る手前で、赤い看板の建物に出会う。「サッポロ一番館」。昔ながらのラーメン店という感じだが、外見からするとちょっと入るのがためらわれるようにも思う。ただこの日の私はここで昼食にしようと、珍しく迷うことなくドアを開ける。時刻は13時前、現場仕事の人たちが何人か昼食後のテレビを見ていた。やっていたのは高校野球で、ちょうど高知代表の明徳義塾が前橋育英と対戦していたが、最後残念ながら敗れてしまった。それがちょうど昼休憩の終わりのタイミングと重なったので、「ごちそうさん」と出て行き、客は私だけになった。

この「サッポロ一番館」に入ろうということになったのは、朝方やって来た窪川駅の壁に貼ってあったこのメモ(画像がピンボケして見づらいのはご容赦を)。誰が貼ったのかはわからないが、この時の私には「歩き遍路向けの情報かな」と思われたのだ。確かに、店内の壁には何枚かの納札が貼られていた。

メニューの先頭にあったみそラーメンを注文したが、いろいろな味が出せるみそラーメンにあって、昔食べていたそれこそ「サッポロ一番」のみそラーメンのスープの味にそっくりだった(麺はもちろんインスタントのそれではないが)。ある意味懐かしい味というのか、暑い中歩いて来た後で熱いものを食べると余計に汗が出てきたが、これもまたよいだろう。

ここで羽織っていた笈摺を脱いで再び歩く。店から数百メートルほどのところで松田川に出る。堤防には桜の木が植えられている。

川にかかる橋を渡ったところに遍路用の休憩スペースがあった。「遍路小屋」と呼ばれるものの一つで、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」という団体の手で40番の観自在寺への看板があるが、その下に「住民力」という小さな石碑がある。説明によると、この土地はかつて暴力団の組事務所の設置の動きがあったのだが、地元住民たちが運動を行って資金を集めて土地を買い取り、公共的な施設ということで遍路小屋を建てたという。その記念が「住民力」という言葉になっている。宿毛の札所は町の中心部から東に外れた延光寺しかないが、観自在寺に向けて多くの人が宿毛の町を通るということもあってのことだろう。すれ違う小学生の子どもたちも、私のような者にでも「こんにちは」「がんばってください」と自然と声をかけてくれる。

この遍路小屋から右に曲がり300メートルほど行くと、宿毛文教センターという建物に出る。図書館や学習用のホールがあり、3階に、今回立ち寄り予定に入れていた宿毛歴史館がある。再来年の3月末まで高知県内で広く開かれている「志国高知幕末維新博」の「宿毛会場」にもなっている。エレベーターで上がると受付があり、ガイドの男性が「ささ、どうぞ」という感じで隅々まで案内してくれる。本音をいうと、暑かったので少し休んで自分のペースで見学しようと思っていたのだが、せっかくのご厚意を無にするのも悪いかなということでお任せとした(撮影禁止だったかどうかはわからなかったが、ガイドが横にびったりついているので、カメラを取り出すことができなかった)。

宿毛は中世は一条家、そして戦国時代の長宗我部元親の支配を経て、江戸期には土佐に封じられた山内一豊の甥・可氏(よしうじ)が土佐藩家老として6000石にて支配していた。

現在の宿毛では、明治以降、政治・産業・文化の各方面に活躍した地元ゆかりの「21人」を偉人として顕彰しており、歴史館の中でも一人ずつ遺品や文献など展示している。ガイドの説明も含めてその中で目立った人を何人か挙げると・・・

・小野義真・・・岩崎弥太郎と組んで三菱を興す。日本鉄道(現在の東北本線)創立。岩手の小岩井農場創立。

・竹内綱・・・政治家。吉田茂の父。

・吉田茂・・・戦後の首相。「この人は選挙の時に国に帰らなくてもほぼ無投票状態で当選してましたな」(ガイド談)

・竹内明太郎・・・竹内綱の長男、吉田茂の兄。小松鉄工所(現在のコマツ)創立。

・中村重遠・・・明治新政府の軍人。政府が姫路城取り壊しの方針を出すと、保存の意見書を提出。これで取り壊しを免れた姫路城は現在は世界遺産。

・小野梓・・・東京専門学校(現在の早稲田大学)創立。「早稲田といえば大隈重信ですが、あの方はシンボルとして、そして小野は実務面を担当したそうです。大隈重信が早稲田創設の父とすると、小野梓は早稲田創設の母といえるでしょう」(ガイド談)

・本山白雲・・・彫刻家。桂浜に立つ坂本龍馬の像はこの人の作品。他にも室戸岬の中岡慎太郎や、高知城の板垣退助の像も手がけた。

この中で名前を知っていたのは吉田茂くらいのもので、その吉田茂にしても高知県出身とは知っていても宿毛がルーツ(本人は東京生まれ)とまでは知らなかった。こうして並べてみるとまさに現在の政治、産業、文化にも息づいているところにシブく関わっているのが面白い。土佐の端ではあるが郷中の教育水準が高かったとか、海に面していて「外向き」の指向があったとか、あるいは隣国の宇和島藩との文化交流があったとか、背景はいろいろあるようだ。なかなか面白く学べた一時であった。

市街地にはこれら偉人たちの生誕地跡の碑や顕彰の碑もある。市街地マップにもなっており、それらを探すのが宿毛の町歩きということになる。

さて、当初の予定では宿毛駅まで移動して、宿毛駅15時07分発の宇和島行きのバスに乗ることにしていたが、歴史館から宿毛駅までは2キロほど離れている。そして、このバスは宿毛駅が始発だと思っていたのだが、実はこの文教センターの真ん前に停留所がある。また、バスの始発は文京センターから200メートルくらい歩いた宿毛営業所である。ここが15時ちょうど発。ならば、わざわざ駅まで行かなくても、宿毛営業所から乗ればよいことである。四万十・宇和海フリーきっぷは「宿毛~宇和島間のバスは乗り放題」とあり、この「宿毛」に宿毛営業所が含まれるかどうかはわからないが、少し時間があるので、営業所の待合室で待つ。

時間となり乗り込んだのは私一人。先ほどの文教センターの前を通り、市街地を回り込む形で、市役所前などを経由して宿毛駅方面に向かう。今回の札所めぐりの初日、宿毛に泊まるということも考え、あるホテルも予約していた。その後時刻表を見ての計画の練り直しで結局ボツということになったので、バスの中から町の様子を見ることにする。宿毛まで土佐くろしお鉄道が延びたのは平成になってからのことで、先ほどの文教センターや市役所を含めた昔ながらの市街地とは対照的に、東宿毛駅から宿毛駅までの間は新たに町並みが整備されたようで、郊外型の大型店舗などが並ぶ。まあ、今の地方の町らしいといえばそれらしい。

宿毛駅で5人ほどの乗客があり、国道56号線を走る。途中の集落に寄るために旧道に入るところもあったが、その辺りを回る中でいつしか県境を越えたようである。これで、甲浦から始まった高知、土佐の国シリーズは終わりとなり、次は愛媛、伊予の国という新たなシリーズということになった。

この日の宿泊地に選んだのは、愛媛県の最南端に位置する愛南町。愛媛でもとっかかりのところである。城辺営業所で運転手が交替して、御荘という地区に入る。ここの平城札所前で下車。「札所前」というくらいだから、次に目指す40番の観自在寺の門前である。時刻は15時46分、納経所は17時までなので巡拝しようと思えば十分時間はある。

ただ、この日の私は観自在寺とは逆の方向に歩いた。この日の宿泊はバス停から5分ほど歩いたところにある。お参りは明日の朝に行うこととして、もう泊まりということに・・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~第39番「延光寺」

2017年08月20日 | 四国八十八ヶ所
・・・現地で旅行記の投稿を行おうといいながら、結局間が空いてしまいました。まあ、ここからは少しずつ、ぼちぼちと書くことにします(この調子だと、17日の四国アイランドリーグの観戦記にたどり着くのはシーズンの終盤くらい・・・?)ので、気長におつきあいいただければと思います。

16日の10時半、土佐くろしお鉄道の平田駅からの3キロを歩く。駅からすぐのところで国道56号線に出る。角にローソンがあり、正面には「スワロー会館」なるものがある。レストランだが、ウェディングにも対応しているのだとか。直接関係ないのだろうが、「スワロー」と聞くと旧国鉄と何か関係あるのかなと連想してしまう。

国道56号線は四国の「左下」を行く道とあって交通量も結構あるが、歩道は確保されている。歩いて数分しか経たないがもう汗が滴り落ちる。少し離れたところが土佐くろしお鉄道の高架線路で、ちょうど宿毛からの列車が走り抜けていった。

国道から離れて歩き用の案内板が出ている。距離的にも少しショートカットする形で、沿道の人にあいさつなどしながら歩く。そのうち残り1キロとなり、クルマでの道案内や、この先のホテル、民宿の案内の看板が見える。次の40番はいよいよ伊予の国である。

少し坂を上り、延光寺の山門に着く。平田駅から35分ほどかかった。境内には笈摺、輪袈裟姿の人が何人かいるが、クルマ利用だろうか。

山門をくぐったところに亀の像がある。延光寺の山号は「赤亀山」という。元々は聖武天皇の勅願で行基が建立した「亀鶴山宝光寺」という名前だった。その後10世紀のはじめ、寺の池にいた赤亀がいなくなったことがあった。人たちが亀を捜すと、やがて梵鐘を背負って亀が海から現れた。竜宮城に行っていたのだという。そこで現在の「赤亀山延光寺」に名前を改め、梵鐘も寺に安置されたという。

亀という生き物は何かを背負う習性でもあるのだらうか。親亀の背に子亀、その子亀の背に孫亀・・・という言い方はあるし、浦島太郎も亀に乗って竜宮城に行った。また、西国の総持寺で見たのが、亀の背に観音像が乗っかっていたり、寺の山号寺号が乗せられていたもの。亀の顔が気のせいか痛そうな顔をしていたように見えたのを思い出す。

四国八十八所の札所ごとの歴史についての考察が書かれていて、ブログ記事の参考にしている五来重の『四国遍路の寺(上・下)』があるが、なぜか今回訪ねる39番の延光寺から43番の明石寺までについては同書では取り上げられていない。セミナーか講演をまとめたものを元にした著作ではあるが、時間的なものでここまで取り上げられなかったのか、あるいは歴史的に魅力を感じずに触れなかったのか。著者はすでにお亡くなりになっているのでその経緯はわからないのだが、何だかマイナーな印象を受けてしまう(この後実際に訪ねた中ではそういうことはなかったが)。

本堂、そして左の大師堂にてお勤め。その間にも汗は止まらなかったが、ともかくこれで土佐の国の札所をクリアすることができた。札所の数としてはまだ半分に達していないが、ステージの終わりというのは区切りができてうれしいものである。

本堂から納経所に向かう途中に「眼洗いの井戸」がある。この地の人たちが日照りでの水不足に苦しんでいたのを見た弘法大師が錫杖で地面を突いたところ、水が湧き出た。それがこの井戸と伝えられているが、いつの頃からか特に眼病に効くとして信仰を集めるようになった。具体的に眼病に効く成分が含まれているわけではないのだろうが、水が命の源であることがより具体的に表現されたことなのかなと思う。私も柄杓で水をすくって、目に当ててみる。パソコン、スマホの使いすぎか、あるいはそろそろそういうお年頃か、このところ目が疲れるのを感じることがある。冷たい水を当てると普通に気持ちよく、少しご利益をいただけた気分だ。

時刻は11時半すぎ。延光寺からの折り返しの道は、途中から先ほど平田駅から歩いてきた道との分岐を過ぎてまっすぐ国道56号線に出る。この地点に寺山口というバス停がある。中村~宿毛間を走るもので、公共交通機関での延光寺へのアクセスはこのバス停が最寄りである。土佐くろしお鉄道とバス、平田駅と寺山口バス停、今回の巡拝でどう組み合わせるかあれこれ考えていた。その流れも、大阪からのアクセス選定に影響を及ぼしたかもしれない。何も前の晩から夜行バスに乗らなくても、朝の新幹線・特急乗り継ぎや朝発の高速バスでもよかったのかもしれない。まあ、それらはいずれも結果論である。

今の時間でいうと、次は宿毛行きが12時15分に寺山口を出るとある。時間は40分ほどある。バス停には屋根つきの待ち合わせベンチがあるが、待つのももったいないように思う。

そこで出した結論は、宿毛の市街地まで歩くというもの。寺山口から宿毛駅までは8キロほどあるし、歩く途中でバスが追い越すのは仕方ないとして、次は宿毛駅を15時過ぎに出発する宇和島行きのバスなので、時間はある。宇和島行きの本数が限られているため、元々、宿毛で昼食と町歩きの時間を取っていた。

道はシンプルで、国道56号線をひたすら歩く形だ。その途中に、宿毛では行ってみようと思っていた宿毛歴史館があるので、まずはそこを目標とする。

・・・という感じで歩き始めたが、歩道はついているし安全は安全かなと思う。ただ、ここから緩い勾配ながらもだらだらと長い上りが続く。これはこれで結構こたえるものがある。ふと前のほうに小さいながらも白衣姿の人がいるのを見かける。先ほど境内にいた人だろうか。そういえば、寺の山門の脇に「歩き遍路みち」と看板があった。平田駅前の遍路道の看板にも宿毛市街地方面の道として示されていたのを思い出す。これを通ると多少ショートカットができるのだろうか。

国道沿いの大きな病院のあたりで12時のチャイムが聞こえ、道も峠を越えたようで下りに転じる。気分も多少楽になる。この区間は写真を撮っていないがご勘弁のほどを。

ローソンの看板を見る。宿毛の市街地まであと一息だが、ここは少しエアコンの風に当たろうと休憩に入る。買いたかったのは冷凍のペットボトルで、これで身体を冷やすのも気持ちいい。店の道路に面したところで一人の男性の歩き遍路がタオルを路上で乾かすように広げて休んでいた。こちらに気づいて手を挙げたので、私も頭を下げる。特に言葉は交わさなかったのだが、後で振り返りのために遍路のポータルサイトを見ていると、紀行文に逆打ち区切り遍路の様子を掲載している記事があったのだが、日時、場所からしてその主はこのローソンで休憩していた方ではないかと思う。「1時間休んでいる間に5名の歩き遍路が前を過ぎて行った」旨の一文があり、だとすると私もその一人で、前か後にもう四人いたことになる。歩いている途中はなかなか他の方に会うこともないのだが、定点観測のような見方からは、それなりの人たちがこの暑さの中を歩いている、どこかで目撃されて何かの線でつながっているものだなということだろうか。公共交通機関メインで、歩きといってもごく限られた区間しか歩いていないので私がどうこう言うことではないが・・・。

国道56線から市街地へと入る道がある。1時間あまりの歩きでようやくめどがついたようだ。ただ一方、ローソンでは飲み物を買っただけで、どこかで昼食としよう。そんな時に道沿いで赤い看板が目についた。この店とは果たして・・・?
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第11回四国八十八所めぐり~黒潮を眺めて

2017年08月17日 | 四国八十八ヶ所
高知5時39分発の窪川行き気動車は1両、乗客も10数人で出発する。学生たちも夏休み中なので普段の乗客がどのくらいなのかわからないが、まずは空いた状態である。外は晴天。実は数日前までの予報では高知県内に傘マークが出ていて、歩く行程がある中で雨も気になっていたが、どうやらその心配はないようである。

伊野から佐川、そして須崎へと何回かの列車行き違いを繰り返して進む。高知方面に向かう列車は2両、時には3両というのもある。佐川には選手寮がある関係で高知ファイティングドッグスの幟が立つが、こちらもしばらくお別れである。今年はマニー・ラミレスの加入で話題となり、前期限りで契約満了、そのまま現役引退・・・という流れだったのが後期も再度契約した。さすがにこれが最後だとは思うが・・・。

ホームのすぐ前が海という安和から、しばらく黒潮を見ながら走る。

7時59分、窪川に到着。37番の岩本寺は駅から歩いて5分ほどのところだが、次に乗る中村行きは8時27分の発車である。さすがにバタバタするかなということでそれは見送る。この後乗る列車の線路がちょうど岩本寺の本堂の裏手を通るので、その時に手を合わせてみよう。

しばらく土佐くろしお鉄道の待合室で待機。日常利用の人や、自転車を輪行用カバーに入れた客などがいる。待合室には土佐くろしお鉄道の割引きっぷや観光案内のポスターやパンフレットがいろいろとある。前回利用した、土日祝日に普通列車が1日乗り放題で500円というフリーきっぷもある。16日は平日なのでこのきっぷは発売されていないが、今回は「四万十・宇和海フリーきっぷ」を持っている。また、四国と中国、九州間のフェリー(松山、三津浜、佐田岬、八幡浜、宿毛)利用客向けのフリーきっぷもあるようだ。

また、11月にはこんなツアーが組まれる。土佐くろしお鉄道は西部の中村線・宿毛線と、東部のごめん・なはり線と離れた区間で営業しているが、途中に土讃線を挟んで両方の路線を直接結ぶ特別列車ツアーである。ごめん・なはり線の展望車両を使い、奈半利発、宿毛発それぞれの設定がある。列車は2日かけて奈半利~宿毛を往復するが、参加者は1日は列車に乗り、もう1日はエリア観光を行う。同じ高知県でも室戸から宿毛というのは結構な長さがある。その意味では高知県も広いものだと思う。

中村行きに乗車する。岩本寺の裏手を過ぎ、若井からトンネルのループを抜けて高度を下げる。土佐佐賀から再び海である。前の時も思ったが、こういう車窓は缶ビールでも飲みながら眺めてみたいところだが・・・これから寺参りである。

土佐入野で下車する人がそこそこいる。駅から歩いて数分の入野松原は砂の美術館として知られている。前回はこの砂浜に出向き、波乗りを楽しむ様子を見たり、金剛杖を砂浜に立ててみたりしたところである。前日の15日は夏のイベントということで、キス釣り大会や夜の花火などが行われたそうだ。

中村に到着。次に乗る10時07分発の宿毛行きまで40分ほどある。ちょっと送金の用事があったので駅前の郵便局に行った後、待合室で列車を待つ。コンセントがあってスマホの充電もできる。中には、複数のスマホ、タブレットを接続して動画を見ている若者もいる。

そろそろ列車の時刻となり、ホームに向かう。そこにやって来たのが高松からの特急「しまんと1号」である。そこから宿毛行きに乗り継ぐ客も結構いる。実はこの「しまんと1号」、高知を朝の8時20分に出発する。実は私の持っている「四万十・宇和海フリーきっぷ」は、高知からの特急の自由席にも特急券なしで乗ることができる。つまり、朝の5時39分に乗らなくても、高知で朝をゆっくりと過ごして乗ってきてもよかったわけだ。一時は、はりまや橋の近くに24時間営業のサウナがあるので、そこで朝風呂に入ってから特急に乗ってもいいかなとも考えていた。ただ、やはり今回の四国八十八所めぐりの起点は中村だということがあり、そこをわずか3分の乗り継ぎで済ませるのはどうか・・・との思いもあった。そして、のんびり鈍行で黒潮を眺めることもできた。だから今回の移動はこれでよかったと思う。

中村から宿毛までは旧国鉄中村線ではなく、土佐くろしお鉄道となってからの区間である。そのため全線が高架である。まずは中村の市街地を抜ける。郊外型、大駐車場完備の全国チェーンの家電量販店や紳士服店などが並ぶ。市街地を抜けると田園地帯。国道56号線とも並走する。

そして10時27分、平田に到着。結局高知から鈍行乗り継ぎだと、乗り換えの待ち時間が合わせて1時間ほどあったとしても5時間かかったことになる。来るだけでも大変なものである。平田駅は高架ホーム1本だけだが、階段(エレベーターもあり)を下りると待合室、トイレもある。

今回、39番の延光寺へは3キロほどの距離があるとのことで、そのくらいならと、待合室で金剛杖を取り出し、笈摺を羽織る。いよいよここから巡拝開始である・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~初めての夜の出発

2017年08月16日 | 四国八十八ヶ所
この記事は、16日の宿泊地であるホテルの部屋から発信している。少しずつ書き進めてはいくが、一つの記事が長い文章とあってはとうてい追いつくものではない。まあ、別に速攻で投稿しなければならないということもないのだが(野球の四国アイランドリーグについても、今回はかなり遅めの観戦記の投稿となるだろう)、そこは少しずつ消化をしていきたい。

さて、今回の四国八十八所めぐりは、大阪から始めての夜の出発である。15日は出勤していたが、一旦帰宅してから夜の湊町バスターミナルに現れる。時刻は22時前、大阪から各方面への夜行バスが出発していくが、それに混じって徳島や高松行きの「最終」バスも出る。最終ということは仮に0時を回っても到着するということで、夜行とは少し違う。そんな時間でも誰か駅まで迎えに来るとか、それらしい人たちが乗り込む。

今回乗るのは22時15分発の高知行き。多客期だが1台での運行である。割り当てられたのは先頭の座席。夜行バスというもの、何回乗っても本当に熟睡できた・・と実感できたことがないのだが、今回は先頭の座席ということである程度自分の空間がキープできそうだ。

大阪駅から来たバスは湊町に停車後、USJに向かう。ここから乗車する客も結構多い。さらにその後は三宮に停車するが、USJを出たところで通路のカーテンを引く客の姿も出てきた。私のところもカーテンを引くと、プライベートな感じのミニ空間が出来上がる。

いつしか三宮を過ぎ、時刻も0時を回ったところで淡路島の室津パーキングエリアに着く。ここで10分ほど休憩タイムである。一度外に出る。

室津を発車すると完全消灯となる。冷房は良く効いており、暑くて寝苦しいということはないのだが、やはり揺れと不自然な体勢というのはなかなか寝付けない。身体を動かしたり何やかんやしながら時間が過ぎるの待つ。長く停車しているなということで位置情報を検索すると、吉野川サービスエリアである。ここは乗務員の休憩ポイントで、乗客は外に出ることはできない。前回、同じコースを午前中に5時間で走ったが、夜はこうした休憩の時間調整が入る。

5時を回り、高知インター南で最初の下車がある。その後、5時23分に高知駅に到着する。夜行バスにありがちな早着ではなく定刻通りだが、今回は遅れなければそれでよしである。

駅の南口に出て、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の3人の像を見る。これまでの高知編で何回か駅前で見た偉人像だが、今回はこのまま愛媛まで抜けてしまうため、しばし見納めとなる。

高知から西に向かうのは5時39分発の窪川行きである。この日の巡拝地である39番の延光寺へは、土佐くろしお鉄道で中村の先、宿毛の手前の平田から徒歩である。このため、窪川、中村と鈍行列車を乗り継いで向かう。手ごろな時間の便に乗り継げるのはこの組み合わせだけである。そのため、高知駅滞在わずか16分、その間に駅前で偉人像の写真を撮ったりしたものだから、バタバタで列車に乗り込む。

そしてまずこの後は、西へ向かう鈍行列車の旅ということで・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~今回いよいよ伊予へ

2017年08月15日 | 四国八十八ヶ所
会社の夏期休暇を利用してお出かけをしているが、今年はそれを四国八十八所めぐりに充てることにする。今回は四国の西、ある意味大阪からもっとも遠いエリアを回ることになるため、まとまった日数がほしいなというところである。これが松山市街から東になると、また1泊、あるいは日帰りでも行けるエリアとなる。

前回は足摺岬の38番金剛福寺まで進んでいて、高知県最後となる39番の延光寺をあえて残して、四万十川の沈下橋めぐりをした。そうしたのは、今回で高知~愛媛、土佐から伊予への県またぎをしようとしたからである。また、区切り、ぶつ切りで回るなら、なるべく前回中断したところから再開して、四国一周の形を取りたい。昨年7月から始めて、1年少しで2国を回ったことになる。これが早いのか遅いのかはさておくとして。

今回の再開場所は土佐くろしお鉄道の中村駅である。大阪からなら、前回帰りに利用した近鉄の夜行バスで直接アクセスできる。バスのチケットも取ろうと思えば取れたのだが、今回は一見面倒臭そうなルートを取ることにした。出発は8月15日の夜、夜行バスは夜行バスでも、高知駅行きである。そして土讃線~土佐くろしお鉄道を乗り継ぎ、最寄り駅となる平田から3キロほど歩いて39番の延光寺にお参り。高知から鉄道利用としたのは、黒潮の車窓をもう一度気動車の中から見ようというものである。その後は宿毛に出て、宿毛~宇和島のバスで県またぎをする。初日の宿泊は途中の愛南町で、伊予の最初の札所である40番の観自在寺は近い。その翌日以降は宇和島に出て、ここをベースに41番の龍光寺、42番の仏木寺、そして卯之町の43番明石寺まで行く予定だ。これに加えて、ちょうど宇和島で開催される四国アイランドリーグ、愛媛マンダリンパイレーツの観戦も私の中のミッションに盛り込む。このエリアを回るに当たり、どの日に行くかについてはまずは野球の日程が軸となった。何と良いタイミングだろうかと思う。宇和島でのチャンスは2回あるので、後は天気が持ってくれることを願う。最終的には松山まで鉄道で出て、高速バスで帰阪する。

今回の回り方をするのに適したのが、JR四国の「四万十・宇和海フリーきっぷ(片道用)」である。窪川~宇和島間は、土佐くろしお鉄道、予土線、宿毛~宇和島のバスが乗り放題で、これに高知~窪川と宇和島~松山間の片道が利用できる(途中下車、特急自由席利用可)。4日間有効で4940円とはお買い得で、バスを高知行きにしたのはこのきっぷを有効に使いたいということもあった。JR四国直営の旅行会社「ワープ」の大阪支店が梅田にあるので、あらかじめ購入しておいた。

さて、この記事を書いた数時間後にはバスの車中である。これまでの四国八十八所めぐりの中でもっとも大がかりになるであろう旅の始まりである・・・(画像なしですみません)。
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第25番「播州清水寺」~西国三十三所めぐり2巡目・16(気温より涼しい温泉)

2017年08月13日 | 西国三十三所
播州清水寺に到着。昭和40年の台風で全壊し、その後昭和55年にこの場所に新しく建った山門をくぐる。今はほとんどの参詣者がクルマ、もしくは1日2本の路線バスでこの駐車場に来るため、寺のシンボルといってもいいだろう。この日も大阪、神戸は気温が35度近くと暑い日だったが、さすがは山の中である。境内の木陰に入ると少しは涼しく感じる。祝日の「山の日」にふさわしいレベルの登山はしていないが、こうした木々の自然に触れるということで、多少はこの祝日の意義に接することができたかな。

手水で手を清め、まず向かったのは目の前にある薬師堂。こちらも昭和の再建であり、中央の薬師如来像を両側から囲むように十二神将が並ぶ「チーム薬師」のお出迎えである。前回も覚えがあるが、この十二神将は、奈良の「せんとくん」の生みの親でもある彫刻家・籔内佐斗司さんの制作によるものである。十二支が独特のキャラクター的にとらえられているのが面白い。

大講堂に向かう。こちらは靴を脱いで外陣に上がる。格子を隔てた内陣には千手観音が祀られている。西国札所としてはここが25番の本尊ということで、まずはお勤めである。盆休みに入ったということで他にも何組かの参詣者もいたし、先ほどバスに乗っていた人たちも清水寺が目的地だったが、お勤めをするのは私だけ。だからと言って別にえらいわけでもなく、そこは粛々と一連のお経を読んでご朱印をいただく。JRのキャンペーン期間中にいただく観音経の一文字の散華のほかに、播州清水寺オリジナルデザインの散華をいただく。現在次のオリジナルデザイン散華の図案を募集しているそうで、最優秀の作品は翌年度の散華で使われるという。

縁台からは明石海峡、淡路島の方向が眺められるのだが、やはりこの時季は空気中に湿気を多く含むためか、なかなか遠方は見えない。おそらくそれらしき建物群がもやっと見えるかなという程度である(この写真だと全然わからない)。

大講堂で西国札所のお勤めをしたり、ご朱印を受けたりお守り等の販売も行っているのでここが寺の中心に位置づけられているが、そのうえには天台宗としての寺の中心である根本中堂がある。前に来たのは2年半前のことだが、1月という時季もあり、根本中堂の前に大きな絵馬が奉納されていた。その奉納者というのが、私と同じ藤井寺市在住の川林栄二郎氏と書かれていた。播州清水寺の住職と、台湾の巡礼ツアーで意気投合したのがご縁で、2011年の末に、翌年の干支である「辰」の絵馬を奉納した。私が見たのは「未」だったから4作品目だった。その同じデザインの絵馬は地元の葛井寺にも飾られていたが、昨年の「申」、そして今年の「酉」というのは見覚えがない。どこかの記事だったか、川林さんがお亡くなりになったというのを見た気もするが・・・勘違いでご存命だったらすみません。

根本中堂には十一面観音が本尊として祀られており、厨子の前にはお前立ちの観音像が安置されている。今年の11月には30年に一度の御開帳されるとある。清水寺を開いた法道上人(西国、新西国で摂津、播磨の札所を回る中で何回か登場した、インドからやって来て鉄の鉢を飛ばして食物を乞うていたという、あのおっさん・・・もとい上人)の作と伝えられている。11月か・・・ちょうど播州清水寺の紅葉のタイミングでもある。西国2巡目は特にくじ引きやサイコロによる行先の縛りがないのでいつ行ってもいいのだが、どうせならその時季に来ればよかったかなとも思う。

さらに奥に進むと滾浄水(こんじょうすい)という湧水がある。法道上人が水神に祈ると湧き出たとされ、現在は「おかげの井戸」として、覗き込んで自分の顔が水面に映ると寿命が3年延びるという言い伝えがある。そこで覗き込むのだが、水面は確認できるが何も見えない。元々周りが木々に囲まれているし、屋根もついている。光線の加減もあるのだろうが、見えることじたい難しいのではないかなと思う。まあ、寿命が3年延びなかったので勝手に焦っているだけなのかもしれないが。

この後、昭和40年の台風で被害に遭い、その後取り壊された多宝塔の跡を見て、仁王門に戻る。相野駅行きの「最終」バスまで少し時間があるが、行きのバスに乗ってきた人たちはちゃんとバス停に戻っていた。また、先ほど麓の清水バス停から旧参道を歩いて上ってきた人も無事に間に合った。再び3キロの専用道路を下り、清水寺を後にする。

このまま相野駅に戻ってもいいのだが、往路で陶の郷に立ち寄ったこともあり、帰りもどこかに寄ることにする。それにぴったりなのが、清水寺から20分ほど乗ったところにある「こんだ薬師温泉」。清水寺からの「最終」バスを途中で降りて大丈夫かと思う方もいるかもしれないが、他にこんだ薬師温泉~相野駅間運転の便というのがあり、このバスの1時間後にも出る。1時間というのは入浴、休憩にちょうどいい感じだ。

「こんだ」は漢字で「今田」と書く。現在は篠山市の一部だが、合併前は今田町という町名だったところ。薬師というのは、近くの山に地元の人たちが薬師如来を祀っていることからつけられた。薬師如来は現世利益、病気を治してくれる仏様とあれば、温泉の名前には合っているだろう。あまり「不動明王温泉」というのは聞いたことがない(あったとしたら、むちゃくちゃお湯が熱そうだ)。こちらは地元だけでなく京阪神の人たちにも知られているようで、駐車場にも結構多くのクルマが停められている。

入ったのは丹波の岩(播州から再び丹波に戻っている)を使った浴槽で、大浴槽、源泉風呂、露天風呂、サウナがある。まずは屋内の大浴槽に入ると、こちらは41度という表示。ただ、その他の浴槽は39度、38度とぬるめの設定である。そして、浴槽が小さいということもあるが長く入っている人で結構込んでいるのが源泉風呂。少ししてスペースが空いたので入ってみると、何と温度は31度。この日だと、外の気温より低い温度だ。だから冷んやりと感じるし、長く入っていられる。かと言って水風呂ともまた違う。なかなか出る人がいなかったのも納得である。

湯上り、もう少しだけ時間があるので休憩スペースで一休み。テレビではちょうど高校野球の中継中で、それを見ながらビールというのも、夏の過ごし方である。これができるのは鉄道・バス乗り継ぎならではだなと思うし、結局はこの時季に訪れてよかったなと思うのである。帰りは売店にて丹波杜氏による地酒の「鳳鳴」と、黒豆、しいたけといった丹波名物を購入した。この日は札所としては「播州」だったが、まわり方として「丹波」を楽しんだ一日であった。

さて、西国の2巡目はこれで16ヶ所と、33ヶ所のおよそ半分となった。別に急ぐわけではなく、他の観光や札所めぐりとも組み合わせながら、いろいろと楽しんでみたいものである・・・。
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