まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~延岡・北川で西郷隆盛とニニギノミコトが出会う・・

2023年05月31日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは大分県を抜け(もっとも、最後の札所である佐伯の大日寺の朱印をいただいていないのだが・・)、宮崎県に入る。これまでの九州北部とは異なり、県境付近は山深く、豊後と日向の国境を越えたなという印象である。

さてこれから延岡に向かうが、宮崎県に足を踏み入れたのはいつ以来だろうか、そしてこれまでに訪ねたスポットもごくわずかなものである。夜行列車で降り立ったことはあるが、県内に宿泊したのも、高千穂、都井岬といったところくらいで、その後は鹿児島や熊本方面に抜けている。

今回も大分南部まで来た勢いで宮崎県の札所も先行して2~3ヶ所回ろうというもの。宮崎といえば青い海のイメージで、天気が良ければ海岸沿いにのんびり走ろうかとも思ったが、あいにく降り続く雨。まあ、国道10号線を経由して宗太郎駅を見物できたのはよかったが、この駅もまだ大分県である。

延岡に行くにあたり、途中で立ち寄れそうなスポットを延岡市のホームページで見ていると、歴史スポットとして、手前の北川町に「西郷隆盛宿陣跡資料館」という文字が見えた。西南戦争に関連するところのようだ。西南戦争って、薩摩軍は熊本城や田原坂の戦いを経てそのまま鹿児島まで押し戻され、最後は西郷隆盛が桜島を望む城山で「もうここらでよか」と自刃して果てた・・というくらいの認識なのだが、同じ南九州でも反対側の延岡に陣を敷いたとは知らなかった。国道10号線からほど近いところなので、どのようなところか立ち寄ることにする。

大分市への近道である国道326号線と合流する。五ヶ瀬川に沿うが、依然として飴が強く、視界もよろしくない。それでも多少は景色が開けてきたようだ。

東九州道の北川インター、そして日豊線の日向長井駅に近い「道の駅北川はゆま」に着く。ここで日向長井駅の名を挙げたが、駅には行かなかったが時刻表は延岡方面が朝1本、佐伯方面が朝1本、夜1本だから、先ほど訪ねた宗太郎駅と同様である。もっともこれは日向長井だけではなく、延岡の一つ絵前の北延岡まで同じである。特急は2時間に1本(合計8往復)通過するが、普通列車は・・・。

一方で道の駅はインターに近いこともあり、雨の中でも駐車場は賑わっている。入口で出迎えるのは西郷隆盛をイメージしたキャラクター像である。道の駅ということで土産物も多く、宮崎に入ったことで地元北川産という地鶏焼きのパックや、肉巻きおにぎりなどを購入する。バッグの中が大分南部、日向北部のもので結構一杯になる。

クルマをもう少し走らせ、案内に従って日豊線の線路をくぐる。「西郷隆盛青空テーマ館」、「西郷隆盛 その魂に触れる場所」といった文字が見える。そして「西郷隆盛宿陣跡資料館」に着く。こちらは受付で住所、氏名を書いて無料で見学できる。

さて西南戦争だが、1877年2月に熊本で戦いの火ぶたが切られ、3月には有名な田原坂の戦いがあった。ここで敗れた薩摩軍は押し戻され、西郷隆盛も人吉に退却した。その後、宮崎方面から北上し、延岡に入った。そして8月15日、和田越での戦いで敗れた薩摩軍はこの北川に退却し、児玉熊四郎邸に陣を敷いた。その建物が現在の資料館である。

ここで西郷隆盛は幹部を集めて軍議を開き、薩摩軍を解散することを決めた。座敷ではその様子が人形で再現されている。結局ここで軍を解散することとし、多くの兵士は政府軍に降伏した。隆盛は重要書類や明治天皇から賜った陸軍大将の軍服を焼き、可愛岳を突破して鹿児島まで逃れた。そのため、事実上この時点で西南戦争は政府軍の勝利となったのである。

資料室では西南戦争の様子が紹介されている。数年前の大河ドラマ「西郷どん」の当時は出演者もここを訪ねたとある。

和田越で対峙した政府軍を率いていたのは山県有朋である。それにしても、西南戦争が宮崎県でも繰り広げられたとは初めて知ったし、その最前線で西郷隆盛自ら陣頭指揮を執っていたというのも意外だった。

さて、西郷隆盛宿陣跡資料館を地図で見つけたその近くに、「ニニギノミコト御陵墓参考地」という文字もあった。ニニギノミコト、高千穂に降臨した「天孫降臨」の伝説で知られる。来る前は、高千穂も含めた日向らしいスポットだなというくらいに思っていたのだが、いざこちらに来てみると、西郷隆盛とニニギノミコトがセットになっている。

和田越の戦いで敗れた隆盛がこの地に身を置いたのは、ここにニニギノミコト終焉の地の伝承があったことを知ってのことだったとされる。当時の明治天皇につながる祖先のニニギノミコトが葬られているとなれば、政府軍も攻撃することはないとのことからだという。はたして、政府軍がここで薩摩軍を攻撃することはなく、隆盛もしばしの安息を得ることができた。後に鹿児島まで帰ることができたのもニニギノミコトのおかげとして、地元では「時空を超えた出会い」「西郷隆盛を救ったパワースポット」として今に受け継がれている。

また、ここでしばしの安息、そして軍の解散をしたことで、薩摩軍に従軍し重傷を負った隆盛の長男・菊次郎を叔父の従道の元に投降させることができた。隆盛・菊次郎の永遠の別れの舞台となったわけだが、菊次郎は従道に引き取られたことで療養することができ、後に台湾政府の要職や京都市長も務め、隆盛の血筋は今に伝わっている。

延岡、西郷隆盛、ニニギノミコト・・・インパクトの強い歴史に一時触れることができたのも、ドライブ旅ならではの面白さといえる。日向について、一つ新たな知識を得た(画像に線路が写っているのは、日豊線の車窓からも望めるところという意味だが、ここを走る列車は1日あたり・・・)。

再び国道10号線に戻り、和田越はトンネルで抜ける。そして市街地が開け、延岡の中心部に入る。雨は依然として降り続ける・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~「秘境」宗太郎駅訪問

2023年05月30日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりはいよいよ宮崎県に入る。その前に日豊線の線路を見つつ、国道10号線を南下する。

鉄道の日豊線のほうは佐伯~延岡間がもっとも閑散としている区間だが、国道10号線も思ったほどクルマが走っていない。現在は海に近いところで東九州道が走っているし(しかも佐伯以南は無料)、大分市と延岡・宮崎方面を結ぶルートとしてはかつての日向街道にあたる国道326号線もある。

この先は延岡に抜けるが、日豊線の中でもっとも停車する列車の本数が少なく、秘境駅の一つにも挙げられる宗太郎駅に立ち寄ろうと思う。

その前に、国道沿いの直見に立ち寄ってみる。かつては貨物の取り扱いもあったそうだ。漢字はさておき、「なおみ」も正に人名である。

現在駅舎は撤去されているが、その跡に比較的新しいトイレが設けられている。せっかくなので?使わせていただく。

この直見、佐伯から南に2駅目だが、大分方面、延岡方面とも列車は朝1本、夕方・夜2本ずつしか停まらない。利用客もごくごく限られているだろう。それでもトイレだけ新しいのは、国道10号線を行くドライバーを含めた公衆トイレの役割もあるのだろう(付近はコンビニや道の駅もない)。

次の直川駅を過ぎると、国道326号線方面への標識が出る。そしてその方向への案内標識に、藤河内渓谷のほか、内山観音まで23キロの文字が見える。豊後大野にある前日訪ねた九州八十八ヶ所第27番・蓮城寺だが、案外近いものだ。

少しずつ山深くなり、重岡駅に着く。こちらもかつては木造駅舎があったそうだが、現在は東屋風の簡易な建物に替わっている。こちらもかつては貨物扱いがあった。

重岡の時刻表だが、大分方面は先ほどの直見と同じ朝1本、夕方・夜2本。そして延岡方面は・・・朝の1本のみ。佐伯からの夕方・夜の列車は重岡止まりである。だんだん、秘境に近づいてきた。

雨も強くなったので跨線橋の向こうの反対側ホームには行かず、駅舎側からの観察にとどめる。

この先、線路と何回も交差しつつ県境近くにさしかかるが、目指す宗太郎駅はまだ佐伯市内である。平成の大合併の結果とはいえ、この後の復路と合わせて佐伯市の広さを感じることになる。

カーナビの案内とともに宗太郎駅への標識が出る。細道に入り、10軒あまりの民家が並ぶ集落に入る。失礼ながら、集落が広がっているとは意外に感じた。駅は坂を上ったところだが、クルマが入るのは難しそうで、ちょっと路肩に停めさせてもらう。その前には佐伯市のコミュニティバスの停留所があるが、案内を見ると平日限定、しかも前日までの事前予約方式だという。

そして、宗太郎駅である。これまでJRの乗りつぶし、あるいは旅行の中で通過しているが、こうして現地に降り立つのは初めてである。こちらも駅舎は撤去されているが、なぜか当時の改札口(集札箱)だけは残されている。もっとも、この集札箱にきっぷや運賃が入れられることはまずないだろう。

この宗太郎駅だが、大分と宮崎の県境にあり、当初は信号場として開設された。駅に昇格したのは戦後になってからである。元々停車する列車本数じたい少なかったそうだが、現在は大分方面が朝と夜の1本ずつ、そして延岡方面が朝の1本のみである。その普通列車だが、いずれも特急「にちりん」に使われる787系が充当されている。

この宗太郎駅に列車だけで訪ねようとすると、延岡に前泊する必要がある。延岡6時10分発(始発は南延岡6時06分)の佐伯行きに乗り、宗太郎に6時39分着。しかし、この次の佐伯行きは20時35分までない。結局、6時54分発の延岡行きにて折り返さざるを得ない。延岡には7時26分に着くので、延岡に宿泊して、早起きの散歩のかわりに宗太郎駅まで列車で往復、現地滞在は15分だけだが、15分もいれば十分だろう。

宗太郎という名前の由来だが、かつて近隣には豊後岡藩が所管する山林が多くあり、その山林の見回りをしていた洲本宗太郎という人物から取られたという。

さて、先ほど宗太郎に列車だけで訪ねようとするとハードルが高いと書いたが、実はJR九州の観光列車「36ぷらす3」の土曜日コース(宮崎空港~別府)が、途中宗太郎、重岡の2駅に停車する。秘境であるがゆえに観光スポットになっている。「36ぷらす3」は前日の5月6日にも宗太郎を通ったばかりだ。また、他にも秘境駅を訪ねる団体臨時列車も運行されているようだ。

「36ぷらす3」などで宗太郎に降り立つ人が多いのだろうか。ホームのベンチに置かれた駅ノートには最近の書き込みも多い。そしてなぜか、来駅記念としてメッセージを記した石がベンチに並べられている。いつ頃、誰が始めたのは不明とのことだが、時を経るにつれて石は増えているそうだ。それにしても、これらの石はどこから持ち込まれたのやら。

私が訪ねた時は他に誰もおらず、雨のために余計に静まりがえった佇まいの山あいの秘境駅の風情にしばし身を置くことができた。

これで宗太郎を後にして、佐伯市と別れいよいよ宮崎への県境に入る。ちょうど日豊線の鉄橋とクロスするところが県境で、この先、延岡市に入る・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第30番「大日寺」(大分県最後のご朱印が・・)

2023年05月29日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

5月7日、朝のテレビの天気予報を見ていると九州東部は1日雨の予報。レーダーでもずっと雨雲がかかっている。

この日は、宿泊している佐伯セントラルホテルにほど近い第30番・大日寺を朝一番で訪ねた後、そのまま宮崎県に入る。宮崎県を訪ねるのは何年ぶりだろうか。そして延岡市の2ヶ所、門川町の1ヶ所くらいを訪ねようかと思う。そして折り返し、大分まで戻る。理想を言えば延岡あたりでレンタカーの乗り捨てができればよいのだが、大型連休中ということでそうしたプランが組めなかった。

朝食は前日コンビニで買ったもので済ませ、レンタカーは駐車場に置いたまま、傘をさして歩いて大日寺に向かう。ホテルからはほんの200~300メートルほどのところにある。商店街には雨に濡れた鯉のぼりが並ぶ。その中のポスターに、「商店街には全部で何匹の鯉のぼりがあるでしょうか?」というクイズというか、イベントが書かれている。ピタリ賞とか、ニアピン賞などあるようだ。

戦国時代の豊後は大友氏の支配にあり、このうち佐伯は地頭の流れを汲む重臣の佐伯氏が拠点としていた。しかし、豊臣秀吉が大友義統を改易したことにともない、佐伯氏の当主・惟定も浪人となった。その後に佐伯藩主として入ったのが毛利高政で(中国地方の毛利氏とは関係ない)、番匠川の河口に近い八幡山に新たに佐伯城を築いた。合わせて現在の佐伯の町につながる城下町を整備し、その時に藩の祈願所として建てられたのが大日寺である。

江戸時代に2度火災に遭い、現在の建物は江戸時代後期の再建とある。町の商店街の一角の寺ということで気軽にお参りできる雰囲気がする。

まず出迎えるのは本堂前の厄除大師像。その足元に屋根付きのスペースがあり、まずそこでローソク、線香をお供えする。

本堂に向かう。扉が開いており、中に入ってお勤めとしよう。こちらも江戸後期の建物である。鮮やかな天井絵も並ぶ。

他にも護摩堂、大師堂などに手を合わせる。

こちら大日寺では「菊姫伝説」というのが伝えられている。江戸時代、佐伯藩の家老の家に菊姫という娘がいたが、ある日菊姫の顔に無数の吹き出物が出始めた。そこで、大日寺の弁財天に連日願掛けを行ったところ、満願近くになり弁財天の後から大蛇が出てきた。そして姫が気づいた時、吹き出物はなくなり元の美しい顔になった。その後、弁財天のご利益で美しくなりたいという娘たちのお参りがひきもきらなかったという。現在は弁財天の法要と市の祭りとして、菊姫のお礼参りを再現した「菊姫行列」というのも行われているそうだ。

さて朱印だが、本堂の中にセルフ用の一式がなかったので庫裏を訪ね、インターフォンを鳴らす。・・しかししばらく待つが応答の気配がない。もう一度押してもだめ。何かの事情で留守にしているのだろう。セルフ式がないかもう一度本堂に上がるが、やはり見当たらない。

大分県の最後の札所でこういうことになるとは思わなかった。ただ幸いなことに、今回はレンタカーで延岡辺りまで行った後、大分へ折り返すルートのため、もう一度佐伯を通る。当初は東九州道か国道10号線で佐伯郊外を通過する予定だったのを、市街地を経由してもう一度大日寺を訪ねることにする。仮にその時も留守だったとしても、次回以降しばらくは九州の東側を進むので、行きがけに佐伯で途中下車すればよい話だ。

これから国道10号線で宮崎県を目指すが、その前に少し寄り道して、番匠川沿いの「道の駅やよい」に向かう。温泉施設や川魚の水族館があるがいずれも営業時間前。それを承知で立ち寄ったのは買い物のためである。ここで手に入れたのが、前夜うどんの出汁として味わった「ごまだし」。瓶詰のものが700~900円ほどで何種類も売られている。このうち、ポピュラーなエソを使ったものと、変わり種でアユを使ったものを買い求める。帰宅後、うどんやお茶漬けとしていただいたが、なかなかの風味である。

国道10号線を走る。日豊線の線路にも沿う。日豊線の佐伯~延岡間はこの線の中でもっとも列車本数の少ない区間で、途中には列車で訪ねるのが至難の業であるあの「宗太郎駅」も含まれる。今回列車には乗らないが、途中で立ち寄ってみることにしよう・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~佐伯にて1泊

2023年05月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

ここまで長々と書いてきた九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの1日目(5月6日)は、ようやく佐伯にて1泊するところ。

佐伯駅からもう2キロほど走り、市の中心部に近い佐伯セントラルホテルにチェックイン。ホテルのすぐ横、駐車場との間に神明神社の祠が建つ。

建物の外観は年季が入っているように見えるが、部屋はリニューアルされているようだ。壁掛け式のテレビはBSが映らないが、代わりにYouTubeやNetflixなどの動画が視聴できるタイプ。最近、この手のテレビを導入しているホテルも目につくようになった。

さて時刻は18時、そろそろ一献の時間である。幸い雨もやんだようで、ホテルのすぐ近くの「うまいもん通り」に出る。昔ながらの風情を感じる通りだ。こうしたところをぶらついて雰囲気のよさそうな店に入るのがいいのだろうが、大型連休の最中ということであちこち満席ということも考えられる。このところあらかじめネットで席だけ取っておくことも多く、そこで見つけた「喰いまくり会館」という居酒屋に入る。

ランチから夜の部まで通しでやっているようで、一人よりはグループ客向けの大箱タイプの店である。カウンターはなく、2人がけのテーブルに通される。実際来て見ると満席ということはなかったのだが・・。

まずは1日運転の後ということでビールを流し込む。まずアテはいかの塩辛と、大分の郷土料理であるりゅうきゅう(アジ)。さらには串焼きの盛り合わせ。

メニューの揚げ物の部に「チロリン」という文字が見える。何だろう、佐伯ならではのものだろうか。

恐る恐るではないが注文すると、出てきたのは鶏の唐揚げ。さっぱりした味付けで食が進む。「チロリン」とは佐伯独特の呼び名だそうだが、何でまたそういう名前がついたのか。

後日検索したところでは、佐伯には「チロリン」が名物の「ニ八(にっぱち)」という居酒屋があり、その前身である「二十八萬石」という店(県内に何店舗かある)の別府本店の初代オーナーが名付けたのだという。「チロリン」とはこのオーナーが海外に行った際に見つけた村の名前で、響きが可愛らしかったから付けたと紹介されていた。

ここで「二十八萬石」という名前にもひっかかる。別府の繁華街に今もある居酒屋とのことだが、別府は別に城下町でもなく、大分の松平氏もそこまでの石高はなかったはずである。これは米の石高ではなく、別府温泉の一日の湧水量だとか、末広がりの意味が込められているそうで・・。

何だか別の店の話が長くなったが、目の前の料理に戻る。キビナゴの天ぷら、そしてサバの塩焼きと続く。サバは豊後水道で獲れたもの・・だと思う。

酒のほうはビールから焼酎にチェンジ。普段焼酎の水割りはほとんど飲まないが、まあ大分南部まで来たということで、麦焼酎ならいいだろう。グラスは「木挽」のラベルだが、飲んでいるのは「西の星」という麦焼酎。「いいちこ」の三和酒類が出しているものだが、大分の新たな麦の品種「ニシノホシ」を使っているとのこと。すっきりした味わいである。

締めということでメニューを見ると「ごまだしうどん」という文字がある。「ごまだし」とは何ぞやと思いながら注文。これもまた美味かった。ゆでたうどんに「ごまだし」をのせ、お湯をかけるのがレシピだという。「ごまだし」は「チロリン」以上に佐伯の郷土料理、いや家庭料理だそうで、エソやアジなどの白身魚をごまと一緒にすりおろし、醤油などで味付けしたもの。うどんにのせるのがポピュラーだが、お茶漬けや冷奴の薬味や、他にも調味料として使われている。

今回、料理の下調べもしていなかったが、先ほどの臼杵の醤油、味噌とも合わせて、大分南部の味を楽しむことができた。九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは翌日の大日寺で大分県がコンプリートするが、よい前祝となった一献であった。

外に出るとすっかり暗くなったが、そのぶん「うまいもん通り」の赤ちょうちんが映えていた。誰かと一緒だったら「もう一軒行こう!」となるところだ・・・。

 

 

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第29番「海岸寺」(津久見の工場群に目を見張る)

2023年05月26日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

5月6日、臼杵まで来た九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、次は津久見である。津久見といえば何となく工業の町のイメージで、結構前に川崎憲次郎(元スワローズほか)投手を擁して甲子園に出場した津久見高校の名前が浮かぶ。これまで日豊線で通過しただけで、町を訪ねるのは初めてである。

臼杵の城下町では一時やんでいたが、国道217号線に入ると再び降り始めた。もう、この天気は仕方ない。

東九州道の津久見インターに続く交差点を左折する。トンネルを抜けると、鉄道の高架線らしきものが現れた。まさかこれが日豊線の線路ではないだろう。後で地図やネットで検索すると、かつての大分鉱業の専用線とある。津久見は日本有数の石灰石の産地で、セメントの生産が盛んだという。この専用線も現在は戸高鉱業社の長距離ベルトコンベアとして使われているそうだ。

その鉱業所の隙間からちらりと海を見て、集落の先にある第29番・海岸寺に着く。仁王像が立つ山門の奥にある丘には祠が見える。あちらに鎮守社があり、寺はその前を護る役目があるのかなと思う。

門をくぐってまず目に留まったのは右手のパゴダ。東南アジアを思わせるその塔の上には修行大師像が鎮座する。まさか、こんなところに祀られるとは。

その対面、左手の本堂の前には象の像が控える。この海岸寺、東南アジアとのつながりがあるのかな。

門から入った正面の建物は大師堂である。ご自由にとの貼り紙があるので中に入ると、正面には生身の姿に近い弘法大師像が鎮座する。九州でも有数の大きさの大師像という。ここでお勤めとする。

境内には他にもさまざまな石像があり、「潜り大師」というのもある。弘法大師像の下をくぐってご利益を受けるというものである。

こちらの不動明王像の横に立つのが伊能忠敬の石碑という。海岸寺の歴史について触れたものはほとんどなく、江戸時代後期に臼杵藩の祈願寺の一つになったというくらいしか触れられていないが、伊能忠敬が各地の測量、地図作成のために豊後を訪ねた際、この地に逗留したようである。豊後のこの先、差益を経て日向に続くところはリアス式海岸で、この先の測量に向かった忠敬にとっては厳しい地形でありながらも楽しい一帯ではなかったかと勝手に想像する。

納経所の窓を開けてセルフで朱印をいただく。

次は第30番・大日寺は佐伯の街中にあり、宿泊するホテルからもすぐのところにあるが、参詣は翌朝に回すとして、この後は佐栄の移動までとする。せっかくなので海岸線に沿って走ることにしよう。

カーナビは県道を指し示すが、そのまま走るとセメント工場の敷地に突入する。太平洋セメント、そしてその関連企業のプラントが左右に広がる。お好きな方にはたまらない景色だろう。

セメント工場群を抜け、津久見の中心部に入る。ホテルAZの前を通過する。今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでは佐伯に宿泊したが、一時は津久見のこのホテルに泊まることも考えた。今思えば、雨天だったとはいえ三海にも近く、セメント工場の夜景を楽しむこともできたのでは?という気もする。

この後は左手に津久見から佐伯にかけての海、そして右手には日豊線の線路と並走する。今回この区間を列車で走ることはないが、ほぼ同じ車窓を望むことができるとしてよしとしよう。雲が広がり、時折雨が落ちるのが残念だったが・・。

いつしか佐伯市街に入り、佐伯駅に到着。駅舎の右手にはファミリーマート、そして左手にはルートインホテルがあるが、町の中心からはやや外れている。ファミリーマートにて今夜、明朝までの飲食物を買い込む。

駅からもう2キロあまり走り、この日の宿である佐伯セントラルホテルに到着・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場~臼杵の城下町

2023年05月25日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

臼杵の高野山・興山寺を参詣した後、せっかくなので臼杵の城下町に向かう。かなり以前に一度訪ねたことがあるように思う。臼杵といえばどうしても石仏が有名だが、地元では城下町エリアもPRしている。かつて、「水曜どうでしょう」の第1貝サイコロの旅で「謎のまち 臼杵」という選択肢が出て、愛媛からフェリーで臼杵に上陸というのがあったが、八幡浜~臼杵のフェリーは今も健在である。

中心部の駐車場にレンタカーを停め、向かったのは臼杵城跡。臼杵城が築かれたのは戦国時代、大友宗麟による。以前は大分の府内大友館を本拠地としていたが、毛利氏との戦いに敗れ、また府内大友館では既存勢力が鬱陶しかったこともあり、新たに臼杵湾に浮かぶ丹生島に城を築いた。海に囲まれた天然の要塞で、その後、島津氏との激戦も繰り広げられた。

大友氏は宗麟の次の義統の代に秀吉により改易となり、関ヶ原の戦いの後、臼杵には稲葉貞通が入り、海につながる堀も埋め立てて現在につながる城下町の整備を行った。以後、稲葉氏が藩政を担ったが、明治維新により城は一部を除いて取り壊しとなった。

まず、曲がりくねった登城路を行く。馬具の鐙に似ていることから鐙坂と呼ぶそうだ。何でも岩盤崩落の恐れがあるとかで、現在は補強が行われている。

櫓を抜けて城内へ。ちょうど城下町を眺めることができる。

大友宗麟のレリーフもある。西洋風の椅子に腰かけ、鉄砲を手にしている。背景には南蛮船や十字架も描かれており、キリシタン大名としての宗麟のキャラクターを表している。

臼杵城跡は現在は桜の名所である公園として整備されており、また中心には稲葉氏歴代藩主の霊や戦没者の霊を祀る護国神社が鎮座する。城跡に神社が鎮座するのも各地で見られる景色である。

さて、城下町に行ってみる。こちらにも「う」+ハートマークでの「うすき」の文字が見える。まずは昔ながらの商家が並ぶ「八町大路」を歩く。

その中に「カニ醤油」というのがある。「カニ」といっても「蟹」ではなく「可児」である。創業は関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)で、当時美濃の領主だった稲葉貞通が臼杵に移るにあたり、先に視察に出た家来の一人が、味噌、醤油の商いを始めたという。「可児」とは美濃の地名からである。以後、九州最古の味噌・醤油屋として、その流れには九州で名の通ったフンドーキン醤油などがある。

醤油を使ったソフトクリームが人気で、家族連れなどが店頭で手にしていたが、私としてはやはりこういうのを目にしたら、味噌、醤油は日常で口にするものだからと土産として購入する。生醤油のボトルのほか、冷奴用のミニボトル、そして、即席味噌汁。そこに、臼杵の福良八幡宮にて疫病退散の祈願を行った後の即席味噌もおまけでついてきた。味噌汁はその後2~3回いただいたが、結構味わい深い。

そのまま進むと「ニ王座歴史の道」に出る。阿蘇の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、道を通すためにあちこちの岩を削り取った。ちょうど切り通しができており、近くの寺、武家屋敷などと合わせて風情のあるところだ。

そうかと思うと、キリシタン大名だった大友宗麟にちなんでか、教会風の建物も点在する。こうしたところも人々の交流スポットになっている。

九州西国霊場めぐりで臼杵に来た時には、どちらかといえば石仏に近い郊外の温泉宿に泊まったが、こちらの城下町エリアで1泊というのもよかったかもしれない。今回は札所が点在している分、大分からレンタカーを使い、臼杵より南の佐伯で泊まり、翌日の夕方に大分まで戻る。ただ、この辺りの鉄道に乗れないのが心残り・・。

そのまま駐車場に戻り、臼杵を後にする。臼杵駅に立ち寄ることもなく、国道217号線を行く。次に訪ねるのは津久見の第29番・海岸寺である・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第28番「興山寺」(高野山ゆかりの寺)

2023年05月24日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは第27番・蓮城寺から臼杵石仏を経て、第28番・興山寺に向かう。以前、九州西国霊場めぐりでも訪ねた寺である。カーナビはその時とは違い、多少遠回りとなるルートを選択する。どうやら、途中の道が工事中で通行止めになっているようだ。

興山寺への曲がり角に日豊線の上臼杵駅が見える。道路は駅舎と反対側なのだが、駅のホームが目に入る。そこに見えたのは「かみう」の後に赤のハートマークがあしらわれた駅名標。ははあ、「かみうすき」の「すき」のところを「ハートマーク」にしたわけだ。木次線の木次駅にも「き」+「ハートマーク」の駅名標があるが、どうやら臼杵や上臼杵のほうが先のようだ。

しばらく住宅地の中を走り、上り坂となる。興山寺へのアクセスは上臼杵駅から徒歩でも15~20分とあるが、歩くとなると相当きつそうに感じる。こちらでも道路工事が行われている。

最後はクルマが1台通れるかという狭い山道。そしてぐるりと回り込んで境内に到着した。

前回来た時は境内に岩があり、地蔵菩薩像があちこちに乗っていたと思うが、それがきれいに取り払われ、建物の基礎のようなものができている。何かできるのだろうか。

興山寺は高野山の流れを汲む寺と伝えられている。戦国時代、秀吉の紀州攻めで高野山にも兵火が及ぼうとした時、秀吉に謁見して和議を結んだのが木食応其上人である。そして高野山は応其上人を通して秀吉の庇護を受けるようになり、現在の金剛峯寺別殿の場所に興山寺が開かれた。

そして、明治時代になり興山寺は青巌寺と合併して金剛峯寺となる。由緒ある寺の名前が失われるのを惜しんだ山縣玄浄僧正が、臼杵の稲葉氏の協力を得て高野山から寺号を移し、この地で再興したのが現在の興山寺である。

お堂が二つ並んでいて、右が本殿、左が客殿である。二つの建物は庫裏を通してつながっている。以前九州西国霊場めぐりで来た時には、中から出て来られた住職らしき方に、「九州西国ならこちら」と、左の客殿に通された。そちらでは観音霊場として十一面観音が本尊だった。

外でごそごそしているのに気づいたようで、本殿の扉が開く。九州八十八ヶ所百八霊場ということで、そのまま本殿に通される。こちらは興山寺の本尊である無量寿如来(阿弥陀如来)が祀られている。納経帳を預かってもらい、その間にお勤めとする。

最後の回向文が終わったのを見計らって、こちらのお子さんらしいのがお盆の上に納経帳と、お接待のお菓子を乗せて持ってきてくれる。広島から来たという話になると、広島市の三瀧寺や宮島の大聖院の話が出る。そして、それら中国観音霊場とともに「百八観音霊場」をなしている九州西国霊場めぐりを「九州北部だけなんですけど・・」と勧められる。いや、実は先に九州西国霊場で来ているのだが・・それを切り出すのもどうかと思い、差し出されたパンフレットを頂戴する。

そういえば、中津にある九州西国霊場第2番・長谷寺の朱印も、寺が無住ということで興山寺で受けたような・・。

ここに来て雨は降ったりやんだり。この先の道はまだ長いが、九州西国霊場の時にはパスした臼杵の城下町エリアをのぞくことにしよう。坂道を下り、上臼杵駅からすぐの線路下をくぐって城下町エリアに向かう・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~臼杵石仏「内閣」を拝観

2023年05月23日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、第27番・蓮城寺の次は第28番・興山寺に向かう。いずれも九州西国霊場の札所でもあり、2021年に回った時は興山寺、蓮城寺の順に回り、その間に「臼杵湯の里」での宿泊・入浴、そしえ臼杵石仏の拝観を挟んだ。

興山寺に行く途中、やはり通り道沿いにある臼杵石仏は拝観するべきだろう。そのつもりでレンタカーを走らせていると、雨が落ちて来た。まあ、予報どおりである。

途中、仕事に関する電話がかかったりしてクルマを停めて話をしたこともあり、蓮城寺から臼杵石仏まで1時間かかる。この先も長く、どうやらこの日も昼食抜きになりそうだ。まあ、そこは夜の佐伯に期待するとして・・。

受付を済ませ、傘をさして石仏が祀られている一帯をめぐる。先の蓮城寺の記事で、真名野長者が臼杵石仏を造ったともされる・・と触れたが、実際の研究では平安後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたものとされる。もっとも、誰がどのような目的で彫刻したのかはいまだ謎に包まれているという。それも不思議なことである。これだけ立派なブツ・・もとい仏が揃っているのだから、何らかの史料が残っていてもおかしくない。戦乱によりそれらがすべて焼かれて何も残っていないとか・・?

まずは不動明王、阿弥陀三尊、九品阿弥陀が並ぶ「ホキ石仏第二群」。連休中ということで参詣の人もそれなりにいて、ローソクの炎、線香の煙も絶えない。

次は「ホキ石仏第一群」。地蔵菩薩、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来などそうそうたるメンバーが並ぶ。現在は保護のための屋根がかけられているとはいえ、800年経過してもこうした状態で残されていることじたいすばらしいことである。

少し離れているのが「山王山石仏」。こちらは薬師如来を中心に三体で小ぢんまりとまとまっている。

そして最後に、臼杵石仏のメインエリアといっていい「古園石仏」。こちらも、かつては崩壊、損傷のため首が落ちた状態で公開されていた大日如来をはじめとしたオールスターキャストでのお出迎えである。ちょうど周囲を見渡す高台にあり、お堂もできた中で首も元に戻った大日如来が荘厳な雰囲気を発している。

こちらに、「国宝臼杵石仏 第一次美仏内閣 本格始動」と書かれた看板がある。前回臼杵石仏を訪ねた時は、美仏の「総選挙」が行われていた。立候補者?の「選挙ポスター」が掲げられていて、拝観の人たちは古園石仏のスペースにて投票する仕組みになっていた。その後、総選挙の結果により内閣が誕生したようである。

そして、内閣総理大臣となった大日如来をはじめ、9つのポストが決まったようである。防衛大臣・不動明王、文部科学大臣・阿弥陀如来といった顔ぶれである。「総選挙」で私は「ホキ石仏第一群」の阿弥陀如来に1票を入れたと思うが、そちらは官房長官になっていた。

意外にも、古園石仏の大日如来は内閣に入っていなかった。というか、そもそも総選挙にも立候補していなかったのでは。何か、それらを超えた存在とでもいうこ

こうした総選挙~組閣が臼杵の観光にどのくらい効果をもたらしているかはわからないが、数々の石仏が残り、それぞれ選挙ポスターや大臣プロフィールになるキャラ付けができるのも臼杵ならではであろう。

臼杵石仏を後にして、この後は臼杵、津久見と回って佐伯を目指す・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第27番「蓮城寺」(内山観音、現在のコロナ状況は・・?)

2023年05月22日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、次に目指すのは第27番・蓮城寺である。もっとも地元では蓮城寺というより「内山観音」という通称で知られており、途中の道路標識にも内山観音と出ていたように思う。

豊後大野の玄関駅である豊肥線の三重町駅前を過ぎ、国道326号線に入る。大分市から宮崎へは国道10号線、また現在は東九州道がメインルートで、この326号線は番号が3ケタということで整備もされていないのかなというイメージを持っていたが、道路の改良もあり、現在では大分市と宮崎方面を結ぶ意味では国道10号線より最短かつメインのルートとなっているそうだ(その代わり、臼杵や佐伯といった大分南東部のエリアは経由しない)。元々、日向への街道はこのルートを通っていたという。

326号線から少し外れたところ、その中で存在感を出しているのが蓮城寺である。駐車場の案内板にも「内山観音略案内」とある。欽明天皇の頃から1400年以上の歴史を有している。中国の天台山からやって来た僧蓮城が開山し、真名野長者が創建したとされる豊後最古とされる寺である。本尊の千手観音は蓮城が持って来たとされ、秘仏の扱いである。

まずは本堂の前にてお勤めとする。

真名野長者といえば、元々炭焼きをしていたが仏の数々の軌跡により長者となった人物とされる。その娘が般若姫で、都から忍びで来ていた皇子(後の用明天皇)と結婚する。後に般若姫は皇子のもとに行くべく船に乗ったが、途中周防灘で嵐に遭い、身を投げて亡くなってしまう(海の龍神の怒りを鎮めるためだったと言われている)。娘の死を嘆き悲しんだ真名野長者が建てたのが山口県の平生にある般若寺であり、(この後で行く予定にしている)臼杵の石仏とされている。まあ、臼杵石仏についてはあまりにも時代がかけ離れているのであくまで「伝説」とのことだが・・。

真名野長者と般若姫については、一寸八分の観音像を祀る長者堂にその足跡が残る。

他にも、四国八十八ヶ所のお砂踏みもあるのだが、シャッターが下りていて開放の気配はない。

反対側の、境内の経堂や、水子地蔵が並ぶ一帯にも向かう。この辺りも緑が濃い。

境内の一角にあるのが大師堂で、九州八十八ヶ所百八霊場の札はここに掲げられていた。あら、観音霊場と八十八ヶ所百八霊場とでは別のところだったか・・。

隣接する敷地にあるのが薬師堂である。こちらには998体の薬師如来が祀られており、観音と薬師ということで種類は異なるが、その数の多さで京都の三十三間堂と並び評される。それはよしとして、ただ九州八十八ヶ所百八霊場の公式サイトでの蓮城寺の解説文には、「この蓮城寺にたくさんの薬師像が安置されているため、本尊千手観音にちなみ通称『内山観音』と言われています」とある。・・・薬師と観音がごっちゃになっていないか・・。この文面なら「内山薬師」とならないかな。

蓮城寺じたいは観光寺院というわけではないが、桜や紅葉の名所としてシーズンには近隣から多くの人たちが訪ねるそうだ。そのために、公園の意味合いも兼ねて駐車場も広く取られている。

さて、最後に朱印である。今回蓮城寺に来るにあたり懸念していたのがこの朱印である。九州西国霊場めぐりで蓮城寺を訪ねた2021年9月といえば、緊急事態宣言、まん延防止等重点措置が取られていた最中。その中で蓮城寺は特に敏感だった印象がある。納経所には「参拝の自粛を御願い申し上げます」の張り紙もあった。その時は呼出しのチャイムを鳴らして、寺の方に書置きの朱印の紙をいただいたが(九州西国霊場はもともとこのスタイル)、何も言わずにピシャッと扉を閉められたように思う。

そして九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでふたたび蓮城寺を訪れることになったが、同霊場の公式サイトによると、少なくとも2022年5月~11月の間は朱印を休止とあった。これもコロナの警戒から・・?

で、2023年5月である。「参拝の自粛を御願い申し上げます」の張り紙は相変わらずである。この期に及んでまだこうした張り紙があるとは、単にはがし忘れているだけとは思うが、ひょっとしたら今でも本気で自粛を呼び掛けているのかもしれない。そうとらえると、四国八十八ヶ所のお砂踏み霊場のシャッターが閉まったままなことや、境内の手入れが行き届いていないことについても話は通る・・。

ここのためにもう一度出直すのもな・・と、納経所の窓の張り紙を見ると、朱印はこちらという矢印があった。それは納経所の建物の横扉で、扉を開けると物置のようだが、テーブルも置かれ、一角に九州八十八ヶ所百八霊場のセルフ用の朱印一色と、九州西国霊場用の書置きの紙が用意されていた。セルフ朱印、十分です。

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでは、大分県をクリアしたそのままで宮崎県に入り、延岡近辺の札所まで回ってしまおうと考えている。延岡に行くならこのまま国道326号線に乗れば近道だが、この後、臼杵、津久見、佐伯と回ることになる。まあ、そちらはそちらで魅力的なところだし、そもそもこの日(5月6日)は差益で1泊としている。

いったん進路を東に取り、まずは臼杵方面へ・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第96番「賢龍寺」(弘法大師の教え)

2023年05月21日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

5月6日、大分駅前からレンタカーに乗り、国道10号線、さらに犬飼千歳道路などを走り、50分ほどでこの日最初の目的地である第96番・賢龍寺に到着する。第96番というからかつては「八十八ヶ所」の番外だったのが、新たに「百八霊場」となった時に加わった札所である。

入口の石段の脇に細い坂道がある。大丈夫かなと思うが駐車場の矢印がそちらを向いており、何とか上がる。そしてレンタカーを停め、改めて石段の下に出る。

石段の下には真言宗醍醐派の文字が見える。そして、山門の仁王像の代わりに文殊・普賢両菩薩の席王が出迎える。他にも観音像、八十八ヶ所お砂踏み、地蔵像などが並ぶ。

石段を上がると、正面の本堂の手前に護摩堂がある。「大野川流域奥豊後不動霊場 第十三番」とある。この時は、こういうところにもローカル札所があるものだなと思ったくらいだったが、後で調べてみると、豊後大野、豊後竹田の両エリアにまたがる28ヶ所プラス番外2ヶ所から構成されているそうだ。そして、こうしたお堂の仏様以外にも、磨崖仏も対象となっている。さすが石の国・豊後である。

さて本堂へ。お自由にお上がりとなるので障子扉を開けて中に入る。

賢龍寺は室町時代、京の僧が将軍愛宕地蔵尊(愛宕権現)と不動明王を本尊とする「妙光寺」を断てたのが始まりとされる。その後兵火により寺は焼失したが、両本尊は持ち出されて難を逃れた。江戸時代前期に一度復興したが後継者がなく衰退し、現在地に移り再び復興したのは江戸時代後期のことという。

内陣の前には軸がかけられている。そのうち一方に「昇墜は他の意に非ず 衰栄は我が是非なり」とある。弘法大師の「十住心論」の一節で、「自分が向上するのも墜落するのも、他人のせいではない。栄えるのも衰えるのもみな自分自身によるものである」という意味とある。

悪いことやつらいことがあると他人のせいにしたり、物事がうまくいかないのを社会や環境のせいにすること・・・私もしょっちゅうある。「そんなん理不尽や」と。しかしそうではなく、本来は自分の是非、心がけや行動によるものだと諭している。他にも弘法大師にまつわる言葉や絵巻の写しなどが室内に掲げられている。こうしたところで住職が法話をすることもあるのだろう。

セルフにて朱印をいただく。

境内は周囲を見渡せる場所にあり、里山の景色が広がるところだ。

さて次は同じ豊後大野にある第27番・蓮城寺に向かう。賢龍寺からはしばらく大野川沿いに走り、そのまま南下して豊肥線の三重町駅前を通過する。この先、九州西国霊場めぐりで訪ねたことがあるところで、見覚えのある景色が広がる・・・。

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第10回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり〜大分から豊後大野へ

2023年05月20日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

5月の大型連休の後半。暦の上では5連休で、当初の計画では4日に福岡でのホークス対バファローズのデーゲーム観戦後、九州八十八ヶ所百八霊場の前回のゴール地点である大分まで移動して宿泊、そして翌5日~6日にかけてレンタカーで大分県の札所を回ることとしていた。大分県も残り5ヶ所で、豊後大野に2ヶ所、臼杵に1ヶ所、津久見に1ヶ所、そして佐伯に1ヶ所である。5日は佐伯に宿泊し、翌日は県境を越えて宮崎県の2~3ヶ所くらい回れるかなと考えていた。

早々に宿やレンタカーを手配していたのだが、どうしても仕事の都合がうまい具合に調整できず、5連休については結局4日の福岡行きは何とか死守したが、翌5日は広島で出社せざるを得なくなり(自分で出勤をコントロールできない「名ばかり管理職」の定め・・)、6日の朝移動で大分に向かい、6~7日で九州巡拝となった。九州~広島の交通費が1往復余計にかかるし、普通の土日に出かけるのと変わらないが、レンタカー、宿も確保し直すことができた。後は天気がきになるのだが・・。

5月6日、広島6時43分発の「さくら401号」で出発する。広島を出発した時は雨が降っていなかったが、天気予報は西から下り坂で、特に7日は九州では終日雨の予報である。

朝の時間帯ということで目立った混雑もなく、小倉に到着。8時ちょうど発の「ソニック3号」に乗り継ぐ。これまでの巡拝で日豊線の特急「ソニック」または「にちりんシーガイア」に乗ったが、「白いかもめ」、「黒いつばめ」編成だった。そして今回は「青いソニック」883系である。「ソニック」という言葉には「音速の」という意味があり、スピード感が表れる車体、色合いである。

中の座席も宇宙船でもイメージしたもので、軽量化が図られている。振り子式の特性を活かしてスピードが出る分、結構揺れも激しいのだが・・。

大分県に入る。まだ雨は降っていないが雲が広がる中、宇佐から豊後の山岳区間に入る。

別府を過ぎ、別府湾沿いに走る。

9時32分、終点の大分に到着。前回は大分城跡の一角にある第26番・福寿院まで来ており、今回は大分南部がターゲットである。大友宗麟像が出迎えるが、もともと拠点としていた臼杵にも行くことになる。久しぶりに日豊線の大分以南の列車に乗ることができればよいのだが、駅から寺に行くのが不便なのでレンタカーのお世話になる。

駅から5分ほど歩いて日産レンタカーに向かう。大型連休中ということでレンタカーも満杯、あるいは割高となるのだが、直前の日程組み直しの中で翌日まで14000円あまりで借りることができた。乗るのは「ノートe-POWER」。乗車時に係の人が操作方法をレクチャーしてくれる。これは2日乗っての感想だが、ハイブリッド車として燃費もよかったし、勾配、カーブの多い中で制動が楽だった(ブレーキペダルを踏まずとも、アクセルを話すだけでクルマのほうで適正な速度まで落としてくれる)。

まずは豊後大野を目指す。第96番・賢龍寺、第27番・蓮城寺の2ヶ所である。このうち蓮城寺は九州西国霊場でも参詣したところ。

大分川を渡り、東九州道の大分米良インターからは国道10号線バイパスに入る。関サバ、関アジで有名な佐賀関の文字が遠ざかる・・。やがて大野川沿いを走る。対岸には豊肥線が走っている。

熊本方面に続く国道57号線・犬飼千歳道路に入る。千歳インターで下りて、まず今回最初の巡拝となる賢龍寺へ・・・。

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大型連休中~野球観戦前の博多での一時

2023年05月17日 | 旅行記H・九州

5月の大型連休の後半。暦の上では5連休で、当初の計画では4日に福岡でのホークス対バファローズのデーゲーム観戦後、九州八十八ヶ所百八霊場の前回のゴール地点である大分まで移動して宿泊、そして翌5日~6日にかけてレンタカーで大分県の札所を回ることとしていた。大分県も残り5ヶ所で、豊後大野に2ヶ所、臼杵に1ヶ所、津久見に1ヶ所、そして佐伯に1ヶ所である。5日は佐伯に宿泊し、翌日は県境を越えて宮崎県の2~3ヶ所くらい回れるかなと考えていた。

早々に宿やレンタカーを手配していたのだが、どうしても仕事の都合がうまい具合に行かず、5連休については4日の福岡行きは何とか死守したものの、結局5日は広島に居ざるを得なくなり、6日の朝移動で大分に向かい、6日~7日での巡拝となった。結局飛び石連休の形で、普通の土日に出かけるのと何ら変わりないが、大分からのレンタカー2日間利用と、6日の佐伯の宿は何とか確保することができたのでよかった。ただ気になるのは天気で、週間予報では6日~7日は西日本で雨の予報・・。

さてその前に、飛び石での休日となった5月4日である。ペイペイドームに向かう前にどこかに立ち寄ることにしよう。乗るのは広島6時43分発の「さくら401号」である。連休期間の中日、そして朝の時間帯ということで指定席も十分空席が見られた。徳山、新山口と停車した後に新関門トンネルで九州入り。小倉からはそこそこ乗車があった後、博多に到着。「さくら401号」は鹿児島中央行きで、むしろ博多から熊本、鹿児島方面に向かう客のほうが多かった。

博多に着いたのは8時前。ペイペイドームに向かうまでの時間をどう過ごそうかと、新幹線の中でもいろいろ考えていた。新しく博多まで開通した地下鉄に乗るとか、九州西国霊場めぐりの後でパスした九州国立博物館まで足を延ばすとか、海の中道から志賀島もいいかなとか・・・。

乗車券は福岡市内行きなので、とりあえず在来線乗り換え口から在来線ホームに出る。そして、門司港行きの快速に乗り、香椎で下車した。

2022年秋の九州西国霊場めぐりの時、福岡東部の札所を回るのに和白のホテルに泊まった。ホテルで日本シリーズのテレビ中継を観たというのもあったが、西鉄とJRの乗り換え駅として香椎を経由し、香椎宮にも参拝している。また、松本清張の「点と線」の舞台ともなったところである。駅周辺は開発により当時の面影はほとんどないそうだが、松本清張とも触れ合ったとされる桜の木は場所を変えて今でも乗客を出迎えている。

そんな駅前の理髪店で散髪する。香椎に来たのは、ちょっとこのところバタバタしていて散髪の機会がなく、合間の時間で刈っておくか・・ということもあった。

さっぱりしたところで西鉄貝塚線に乗る。天神から南に延びる西鉄各路線からは独立した存在で、軌間もこちらだけ狭軌である。ガタゴト走り、終点の貝塚に到着。そのまま改札を抜け、地下鉄箱崎線に乗り継ぐ。かつては地下鉄箱崎線と西鉄貝塚線を直通運転する構想もあったが(ちょうど西側で福岡地下鉄とJR筑肥線が直通運転しているが・・)、費用対効果が薄いとして凍結されたそうだ。

そのまま地下鉄に乗り、筥崎宮前で下車。午前中の途中下車スポットとして筥崎宮を選んだ。これまで参拝したことがなく、九州西国霊場めぐりの時は香椎宮に立ち寄ったが、私の頭の中で香椎宮と筥崎宮がごっちゃになっていたこともある。

地上に出るとそこは参道の一角で、そのまますぐに正面の鳥居に着く。福岡県には何度も足を踏み入れているが、筥崎宮が初めてとは・・。

筥崎宮は日本三大八幡宮の一つとされる。あと2ヶ所は宇佐神宮、そして石清水八幡宮である。遅くとも平安時代には創建されており信仰を集めていたが、筥崎宮が歴史の表舞台に登場するのは鎌倉時代の元寇の時である。博多の地、朝鮮半島、そして中国大陸との表玄関である。当時の亀山上皇が「敵国降伏」を祈願したとされる。

正面の楼門には「敵国降伏」の扁額が掲げられている。この楼門を建立したのは毛利氏の勢力拡大で豊前、筑前を治めていた小早川隆景だが、その際、亀山上皇の御宸筆を拡大して奉納したものだという。なお、この「降伏」とは、武力で相手に「参りました!」と言わせるのではなく、徳の力で相手を導き、相手自らこちらになびかせるという意味だという。もっとも、そんな理屈が通じる相手だったかどうかはさておき・・。

元寇、特に文永の役の時は筥崎宮の周辺も含めて元軍のなすがままになったが、暴風雨の影響で元軍は撤退、そしてその後築いた土塁、石塁により弘安の役では元軍を退けることができた。この時も暴風雨があったとされ、これらを含めて筥崎宮の「敵国降伏」が叶ったとされた。

小早川隆景の後は黒田長政に受け継がれ、現在まで海上交通、海外防護の神として信仰を集める。やはり必勝祈願のスポットであり、御神木の周りには福岡ソフトバンクホークスやアビスパ福岡などが祈願に訪れた際のサインが掲げられている。おお、これからペイペイドームに行く身としては格好のスポットだ。「めざせ世界一!」・・元軍よりも野望は高い。

ちなみに・・・この後訪ねた試合はホークスがバファローズにサヨナラ勝ち・・。福岡の神様側から見ればまさに「敵国降伏」であり、試合前にここで手を合わせた私に対して、バファローズファンからは「いらんことすんなボケ!!」てなもんだろう・・。

ふたたび地下鉄に乗り、中洲川端で下車。ここでもう1ヶ所と立ち寄ったのが「福岡アジア美術館」。アジアを対象とした美術館というのはそうあるものではなく、ここは日本におけるアジアの玄関口を自負する福岡ならではのスポットである。

企画展として「古代エジプト美術館展」が行われている(5月28日まで)。渋谷の「古代エジプト美術館」のコレクションを紹介するもの。古代エジプトと言われてもピラミッドくらいしかイメージできないのだが、先王朝時代を含めると3000年の歴史を持つ。

ここは展示物のあれこれを見て、ファラオ(国王)を頂点とする国家の営みや、古代エジプトの人たちの衣食住や死生観を今に伝える品々を通して感心するばかりである。エジプトは現在も砂漠が広がるが、そうした乾燥した土地だったから古代からのさまざまな品物がよい状態で出土するとされている。

エジプトといえば、テレビ番組の「世界ふしぎ発見!」とか、エジプト考古学者の吉村作治氏が連想されるなあ・・。

福岡アジア美術館の通常展示のコーナーに向かう。通常展示といってもさまざまな企画展、コレクション展と豊富にあり、アジアの近現代美術を広く取り扱っているのが特徴である。

アジア・・・日本や韓国、中国という東アジアもあれば(そして、中国の領土は広い・・)、ベトナムやタイ、インドネシアなどの諸国がある東南アジア、そしてインド、パキスタンを中心とした地域、さらには現在の中東やトルコといったところまで含まれる。それぞれの地域やお国柄が現れる絵画もある。

もっとも、いわゆる現代美術となると国境は関係ないようだ。一応、作品の紹介文を見てどこの国の作者なのかはチェックするが、それを確認したところでどうということもない。欧米よりもアジアにゆかりある方たちの作品ということで親近感を増すだけのことである。

インドネシアの「ケチャ」にまつわる作品も1コーナーとなっていた。

一通り鑑賞した後で地上に出る。この日(5月4日)は博多どんたくの最中である。博多の街全体がお祭り会場で、各地でさまざまなイベントが行われる。福岡アジア美術館も入るリバレインセンタービル前にはステージや屋台も出ていた。

また、少し先の博多座の前では、当日の上演を楽しみに訪れる客の前で「オッペケペー節」が舞われていた。外国人観光客含め、足を止めて見物する人も多い。「オッペケペー節」は、博多生まれの川上音二郎の出し物で、明治の自由民権運動に絡めた歌詞が当時大いに人気を博したそうだ。もっともこの演者、上流座敷での余興のように大人しい歌声で、こういう場ならもっとはじけてもよかったのではないかと思う・・。

そのまま地下鉄に乗り、唐人町で下車。大勢のファンとともにペイペイドームに向かった・・・。

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京都32番「聖護院」~神仏霊場巡拝の道・51(関空特急「はるか」にも乗る)

2023年05月16日 | 神仏霊場巡拝の道

4月30日の神仏霊場巡拝。京都33番・平安神宮を出て北の方角に歩く。目指すのは京都32番・聖護院である。こちらは近畿三十六不動めぐりの時に参詣しており、この時は逆に聖護院から平安神宮、さらには青蓮院まで訪ねている。

「聖護院八ツ橋」の総本店に出る。またその向かいには「本家西尾八ツ橋」の暖簾も見える。八ツ橋についてはその発祥、創業年の表示だったか何かをめぐって裁判にもなっていたように思うが、その結果はどうだったっけか。まあ、八ツ橋を扱う老舗はいろいろあり、「元祖」と「本家」のどちらが先か・・ということでもめ事になるのは、伝統的な業界ではよくある話のようだが。

聖護院に到着。参詣の順序としてまず本坊らしき建物に上がる。そして階段で2階の広間に向かう。聖護院は書院その他が見どころだが、秋の期間限定での公開とのこと。

2階の仏間がお勤めの場である。不動明王、役行者、毘沙門天、阿弥陀如来などの像を前にして、じゅうたんに腰を下ろしてのお勤めとする。

聖護院は修験道の中で熊野三山を拠点とする本山派の中心寺院で、現在は本山修験宗の総本山である。平安時代後期に、修験道の僧だった増誉が、白河上皇の熊野詣の先達を務めた功績により与えられたのが始まりである。後に、後白河法皇の皇子である静恵法親王が寺に入り、それ以降、明治を迎えるまでは天皇家や摂関家の門跡寺院として受け継がれた。

受付に預けておいた納経帳を受け取る。真ん中には不動明王の梵字が墨書されている。

順序が逆かもしれないが、境内に出る。正面に建つのは宸殿。江戸時代の建物で、当時は仮の御所として使われたこともあった。こちらの内部は特別期間のみ拝観できる。

そして奥の不動堂に着く。元々はこちらが本堂に当たる建物だそうだ。こちらでもう一度手を合わせる。

今回は平安神宮と聖護院を回ったところで終了として、次回の行き先を決めるあみだくじである。まず予選のくじ引きで出てきたのは・・

・水無瀬神宮(大阪21番)

・根来寺(和歌山9番)

・松尾大社(京都7番)

・長田神社(兵庫6番)

・熊野那智大社(和歌山3番)

・百済寺(滋賀9番)

・・・聖護院の歴史の中で熊野三山との結びつきが強いこともあってか、熊野那智大社がここでも顔を出した。それを含めて神社が4ヶ所。

そしてあみだくじの結果は、5枠に入った水無瀬神宮。大阪は大阪でも北東にある島本町だ。この周辺だと、高槻の神峯山寺、茨木の総持寺あたりとセットになるかな。神峯山寺は以前新西国三十三所で訪ねた時、「拝観」ならぬ「拝仏」を経験したことがあり、その時に住職から「神仏霊場巡拝の道」というのがあるとの話をうかがったことがある。実はこの次は5月14日の京セラドームでのバファローズ対ホークス戦観戦と絡めて、その前日の13日の関西入りを予定している。ということで、早速神峯山寺の「拝仏」を予約しようか・・。

このまま地下鉄の東山まで戻り、東西線~烏丸線で京都に戻る。さすがにこの時間となると外国人を含めた観光客でごった返している。これだけの数の外国人の姿を一度に目にするのも久しぶりだ。この大型連休期間中、久しぶりに「オーバーツーリズム」「観光公害」という言葉もニュース等で目にするようになった。

さてこれから京セラドーム大阪に移動するのだが、わざわざ特急料金を追加して「はるか」に乗ることにする。こちらも外国人の利用客が目につくものの、時間帯のせいか、列車そのものはそれほど混雑していなかった。

あえて「はるか」を選んだのは、大阪駅の「うめきたエリア」の地下区間を通過するためである。先般、おおさか東線の列車で新大阪から大阪まで乗ったが、今回はその先、地下区間を抜けて大阪環状線に合流するところを見ようと思った次第だ。

京都を発車してからしばらくは貨物線、側線を走るのも珍しく映る。

そして新大阪を過ぎ、地下線に入って大阪に到着。大阪から乗って来る客も見られた。大阪駅、梅田からは従来なら関空快速に乗るところだったが、特急料金は発生するものの「はるか」に乗る選択肢ができたのは大きい(関西空港行きの「はるか」以外にも、和歌山方面の「くろしお」も同じく)。

「はるか」はもちろん大正駅を通過し、天王寺に到着。

ここでいったん改札を出て、昼食を兼ねてあべのの立ち飲み「赤垣屋」に向かう。コロナ対策としてかけられていたパーテーションも取り払われ、店内もすっきりした様子だ。店の賑わいも戻った感がある。

ここで一献として、大正駅まで戻る。そして京セラドームへ・・・。

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京都33番「平安神宮」~神仏霊場巡拝の道・50(大型連休中の京都へ)

2023年05月15日 | 神仏霊場巡拝の道

今年の大型連休はコロナ禍以降さまざまなことが解除、緩和されたことで各地も旅行客等で大いににぎわったところだ。私も祝日に勤務割を入れたりしたが、何やかんやで野球観戦、札所めぐりで過ごしたことである。

もう半月前のこととなる連休の前半(といっても4月29日、30日は土日で、通常の週末と変わることはなかったのだが)は、30日に日帰りで京セラドーム大阪にバファローズ対マリーンズの観戦に出かけた。結果は延長の末、若月のサヨナラ打で「Bsオリ達デー」を盛り上げた。

その前段、限られた時間であるが関西に行くということで神仏霊場めぐりをくっつける。3月上旬にこれもオープン戦観戦とくっつけて奈良23番・室生寺を訪ねて以来。当初は、同じエリアで残す形となった奈良22番・長谷寺を訪ねようかとも思ったが、前回のあみだくじで決まった京都33番・平安神宮を訪ねることにした。平安神宮じたいはこれまでにも参拝したこともあるので、次への通過点といったところだ。

この日は早朝、JR西広島まで始発に間に合うように歩き、広島6時00分発の「のぞみ74号」に乗る。これで京都まで直接向かうことにする。広島始発ということもあり自由席でも座席は余裕で確保でき、また早朝なので途中駅からもそれほど乗客があるわけではない。

普段の土日と変わらない様子で、新大阪を過ぎ、7時43分、京都に到着。

わざわざ広島6時00分発に乗ったのは、京都での滞在時間をそれなりに取るため。さすがにこの時間だと観光客の動きもまだそこまで大きくない。

地下鉄烏丸線に乗り、烏丸御池で東西線に乗り継ぐ。東山に到着。京都駅から平安神宮に向かう場合、バスだと乗り換えなしの利点はあるが、時間的には地下鉄乗り継ぎと徒歩でもそれほど変わらない。

外に出ると雨がぱらついていた。鳥居をくぐった先では何かイベントでも行われるのか、テントの設営中である。

応天門に到着。平安時代の「応天門の変」や、「弘法も筆の誤り」の舞台となったところ。「弘法も筆の誤り」とは、弘法大師が応天門に奉納した扁額の「応」の字の点がないことに気づき、筆を投げて天を打った・・とされる伝説がある。現在の応天門は当時のものを縮小したものだが、当時の高さに筆を投げることが可能なのか。先日、NHKーBSの番組「偉人にチャレンジ」で、現在の科学と技術を用いて挑戦したのを観た。結果は失敗だったが、あながち嘘偽りのない伝説という構成だった。

応天門をくぐり境内に入る。平安神宮は往時の平安京、朝廷の風情を伝えるスポットであるが、ご承知のとおり、創建されたのは明治中期の1895年である。平安遷都1100年の記念行事の一つとして、社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院、そして正門は先に記した応天門をそれぞれ8分の5のスケールで復元されたものだ。

雨ということでそそくさと境内を渡り、社殿の屋根の下に入る。祭神は平安遷都を実現した桓武天皇、そして平安京で過ごした最後の天皇である孝明天皇である。この社殿も、火災により焼失した後、1979年以再建されたもの。平安京の長い歴史を現在に伝えるスポットだが、建物じたいは近代のもの。これも京都の一面である。

本来なら回遊式庭園である神苑を回るべきなのだろうが、雨模様だし、大阪に移動する前にもう1ヶ所くらい回って、次の行き先を決めるあみだくじにつなげたいところ。

応天門横の授与所にて朱印をいただく。「由緒ある神社価格」の500円だ。それにしても、なぜ「由緒ある神社」は朱印で500円を取りたがるのかねえ。寺院の相場は一律300円だが。このくらいになると境内にも外国人観光客の姿も見えるようになるが、やはり神宮というよりは、かつての平安京の姿を復元したスポットとして、記念撮影に持ってこいといった様子で見物する人がほとんどだ。

さて次の1ヶ所だが、先ほどの東山駅側に戻って京都35番・青蓮院、または北に行った京都32番・聖護院のどちらに行くか。いずれも過去に近畿三十六不動めぐりで訪ねたことがある。

ここは、平安神宮からより近い聖護院に行くことにした。傘がいるかいらないかというくらいの雨脚の中、テクテク向かうことに・・・。

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第25回中国四十九薬師めぐり~三朝温泉にて「整う」

2023年05月09日 | 中国四十九薬師

三佛寺の参詣を終え、立ち寄り予定の三朝温泉に向かう。「ラドン熱気浴」を予約していた「ブランナールみささ」に向かうのだが、その前に広場があり人だかりができている。

舞台を見ると、先ほど三佛寺でトラックに積載されていた神輿が上がっている。ここで法要を行い、三朝温泉の温泉街を時代行列が行くそうである。客席には来賓や、さまざまな衣装姿の関係者が準備、待機中である。

時間があるので、いったん川の反対側の温泉街をぶらつく。前に来た時、橋のたもとにあった源泉かけ流しの公衆浴場「たまわりの湯」に入ったのだが、施設の老朽化を理由にこの3月で閉館したとある。その代わりではないが、レトロな感じの旅館、飲食店が並ぶ一角にある「薬師の湯」という足湯があるので浸かってみる。今回の中国四十九薬師めぐりの後をしめるのに格好の名前である。

広場に戻って来ると雅楽の奉納が行われており、その間に参列者からの玉串奉奠が行われる。三佛寺や塔頭寺院の住職も玉串を奉納する。僧侶で玉串とは見慣れない光景だが、これも神仏習合の歴史から来ているものだろうか。

他にも来賓として先日再選されたばかりの平井鳥取県知事をはじめ、鳥取県、三朝町関係者らも同様に玉串を奉げる。政教分離の観点で大丈夫か?と一瞬思ったが、別に知事が玉串奉奠したからといって三佛寺に特別に有利になる政策を行うわけでもないし(「三佛寺を世界遺産に!」というPRはまた別物だろう)、地元にすれば幅広い意味での公式行事の位置づけなのだろう。

そして三佛寺一同から祈願文が読み上げられる。この後、御輿の行列もあるのだが、祈願文の途中でラドン熱気浴の受付時間となった。御幸行列があると事前にわかっていれば、ラドン熱気浴の予約時間、いやその前の旧国鉄倉吉線の廃線跡を歩く時間も前後にずらしていただろうが・・。

広場向かいの「ブランナールみささ」に向かう。本来は宿泊施設なのだが、昼間も1時間ごとにラドン熱気浴を受け付けている。レストランでの食事付きのプランもある。

ラドン熱気浴の利用料は3500円とちょっとお高めだが、前日宿泊した「サンシャインとうはく」にて、全国旅行支援の1000円クーポンを受け取っており、ここで利用する。

入浴の手順だが、受付にてタオルと作務衣を渡され、ロッカーにて着替える。そして体温と血圧を測定し、問診票のいくつかの質問に回答する。まるで病院か人間ドックに来たようだが、温泉入浴も病気の治療お一環という見方もできるので、それもよい。そしてあらかじめ水分を補給し、浴室に通される。この後は、作務衣は着ているが何も持てず丸腰のため、画像はない。詳細は「ブランナーレみささ」の公式サイトなどをご参照いただければ。

室内は室温40度前後、湿度90パーセントほどに保たれている。蒸気が充満していて視界がよくない中、入口で選択したシートに向かう。この時間帯は私のほかに女性客1名のみで、先に奥のシートに陣取ったとのこと。そこは一応気をつかって少し離れたシートを選ぶ。1室そこに40分、シートに身を預けてリラックスする。日常生活でこの温度、湿度なら耐えられない(真夏の猛暑日以上の過酷な条件)のだが、浴室だと心地よく感じるのはどういうメカニズムなのだろうかと思う。

蒸気を意識して吸うようにとのアドバイスがある。三朝温泉には「浸かってよし、飲んでよし、吸ってよし」という言葉があるそうで、鼻呼吸によりラドンを体内に取り込むのだという。

普段、スーパー銭湯でもサウナコーナーにはほとんど入らないのだが、この熱気浴はミストサウナを濃くしたようなもので、このくらいの条件なら耐えられそうだ。ただ、この蒸気で周りが見えず、今どのくらい時間が経過しているのかもわからない。40分が結構長く感じるのだが、まあ、そうしたことも気にせずリラックスするのもこの熱気浴のポイントなのだろう。

半分の20分が経過したようで、係の人が合図を兼ねて水分補給として温泉水を持って来る。

その後もボーッと過ごし、40分が終了したとして係の人が知らせに来る。立ち上がった時にちょっとふらつきかけたが、何とか大丈夫だ。

そしていったんロッカーから衣類を取り出してビニール袋に入れ、大浴場に向かう。最後は「浸かってよし」である。他に入っている人はおらず、ここでもしばらくリラックスする。

1回利用しただけで身体にどのようなよい影響があるのかはわからないが、今はやりの「整う」という感覚は少なからずあった。このままビールでも飲んで客室でゴロンとできればなおよかったが・・。それでも、また三朝に来る機会があればもう一度入ってみたいと思う。なお、ラドン熱気浴は「ブランナーレみささ」以外でもいくつかの施設で利用できるようだ。

外に出ると広場は閑散としており、スピーカーからは雅楽の音が聞こえる。神輿は町のどこかを練り歩いているところのようだ。再び広場に戻り、そして三佛寺へと帰っていく。そこまでいると夕方になるし、この日は三朝から一気にクルマで広島にあまり遅くならないうちに戻る必要があり、ここで後にすることに。

倉吉、三朝から広島というのも結構時間がかかるもので、まずは国道179号線を走る。行き先表示に「人形峠」とある。かつてウラン鉱石が採掘され、原子力に関する研究も行われていたところ。ただ、人形峠を越えて着くのは津山である。こちらは国道482号線で真庭市に入り、津黒高原から国道313号線で湯原温泉を経由する。

湯原インターから米子道~中国道と経由。三朝温泉を出てからそのまま走り通し、4時間かけての帰宅となった。日が暮れる前に帰宅できたので、翌日の月曜日もいつもと変わらない心持ちで出勤できる。

さて、これで中国四十九薬師めぐりは残り6ヶ所と、結願が見えてきた。とはいえ、鳥取東部の広い範囲にわたっており、一気に回って結願とするか、いやいやもう少し時間をかけて鳥取を回るか。次のプランニングも楽しみである・・・。

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