まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第29番「松尾寺」~西国三十三所めぐり3巡目・11(西国曼荼羅用紙に新たな発見)

2020年01月31日 | 西国三十三所

福知山からレンタカーで舞鶴~天橋立を回る1日。まずは舞鶴の東にある西国29番の松尾寺を目指す。福知山からだと40キロあまり離れていて、舞鶴若狭道も通っているのだがここは一般道を通って行くことにする。

大河ドラマで注目の明智光秀が築いたとされる福知山城の復元天守の近くも通る。ちょうど開館時間なので立ち寄ってもいいかなと思ったが、まずは札所めぐりを優先して、もし福知山に戻って時間があれば向かうことにしよう。

この日は天気が不安定で、雪が降るわけではないが雨が降ったり、そうかと思えば日が差してきたりと天気の移り変わりは激しい。特に綾部から舞鶴に向かう辺りではワイパーを速くするほどの雨になった。これから行く松尾寺へは一度小浜線の駅から畑の中や山道を40分ほどかけて歩いて上ったことがあるが、今日のような天候不安な日だったら難儀だろうなと思う。

舞鶴市街を通る。ちょうど海上自衛隊の基地や赤レンガ倉庫群も通るが、この日は横を通過するのみである。舞鶴だけだったら赤レンガ倉庫に立ち寄る時間もあるだろうが、まだまだ先は長い。9時すぎに福知山駅を出発して、舞鶴に入ったのは10時を回っていた。出発前は楽に行けるかなと思ったが、この分だと結構時間もかかりそうである。

国道27号線を東へ進むと、松尾寺口の見覚えのある脇道に出る。後はこれを上ればよい。雨も小降りになってきた。細い山道を上るが、歩行者はおろか対向するクルマもいない。

10時半近くになって松尾寺の駐車場に着いた。他にクルマの姿はなく、どうやら参詣するのは私だけのようだ。冬の時季、平日となるとそんなもので、団体のバスツアーもそうしょっちゅう催行されるものではない。傘をさして山門で一礼し、境内に入る。西国三十三所の徒歩巡礼を記念した「アリの会」の記念碑もある。昨年の西国先達研修会にて、かつてこの会を主宰していた松尾寺名誉住職の松尾心空猊下の記念法話を聴く機会があり、拝見したのは初めてだが、御年92歳にして足腰がしっかりしていて、声もよく通っていたのが印象的だった。

石段を上ると、陰のところに雪がちょっと見える。平年の冬ならもう少し積もっているのだろう。自然の石をくりぬいた手水場で手を清めた後、本堂でのお勤めである。

過去に訪ねたのが土日だったからか、あるいは夏や春だったからか扉を開けて外陣でお参りすることができたが、この日は正面の扉が開いているくらいで、中は見えるが照明もなく薄暗い。「扉が閉まっている時は中には入れません」との文字もあり、扉の外に立ってのお勤めとする。何だか冬の修行らしい。

訪ねる季節によって寺の表情というのもいろいろ変わるようだ。現在西国三十三所めぐりも3巡目だが、なるべく季節を変えて訪ねようとしている(必ずしも全てがそうというわけではないが)。冬のどんよりした曇り空、雨の中に静かにたたずむ風情というのも、これまでとは違った表情が見られたようでよい。

とはいうものの外陣にも入れないのであれば、お勤めをすると後はそれほど広い境内でもないのでお参りは終了である。また石段を下りて別の建物である納経所に向かう。

さて前の記事で、行きに利用した特急の車内で「しまった!」と気づいたことがあることに触れた。それが何かということだが、西国曼陀羅の八角形の用紙を持ってくるのを忘れたのだ。3巡目はこれを33枚集めることをミッションにしていたのだが、よりによって遠方の2ヶ所で忘れるとは、今さら取りに帰れないし、今から行程を中止して後日出直そうかなと思った。

ただ福知山まで来て、そういえば松尾寺、成相寺とも、西国曼陀羅の台紙を扱い、33枚の用紙のコンプリートで1巡とカウントしてくれる窓口だったことを思い出す。用紙と台紙のセットは3000円で売られているそうだから、もう一度ここまでの交通費をかけるくらいなら最悪1セットを買いなおせばよいかと思う。

納経所にはジャズのような音楽が流れ、若い僧が座っている。先達用の納経帳に重ね印をいただいた後、西国曼陀羅の八角形の用紙について訊ねてみた。すると、朱印代500円に用紙代100円を足した600円で1枚いただけるという。よかった、1セット買いなおさずに済んだ。

ここで思い出したのが、この前に施福寺を訪ねて八角形の用紙を出した時、「交換できないから100円で買ってもらわんとあかん」と言われたこと。つまりは用紙の実費という設定があり、一つの札所だけの「単品」でもいけるということだ。

ということで松尾寺の西国曼陀羅は無事に手に入った。この取り扱いなら成相寺も予定通り行けそうだ。

さて次は西国四十九薬師の多祢寺である。地図で見ると直線距離では近く、近道もあるようだが、カーナビはいったん国道27号線に出てぐるり回るルートを示す。まあ、地図に道があるがよほどの山道なのだろう。それでも昼前には多祢寺に着くことができそうだ・・・。

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第30番「多祢寺」~西国四十九薬師めぐり・13(冬の舞鶴から天橋立へ)

2020年01月30日 | 西国四十九薬師

札所めぐりの記事があちこち飛んでいるが、今度は正月の門戸厄神東光寺を受けての多祢寺である(正しくは「多禰寺」と表記するが、入力の文字変換で1回で出るので、この記事では「多祢寺」で統一する)。

この多祢寺は舞鶴市にあるのだが、冬の時季だが雪もほとんどない暖冬のために、今のうちに行って先につなげようと思う。また、せっかく舞鶴まで行くのなら、同じ舞鶴市内にある西国三十三所の松尾寺、さらには同じ丹後の成相寺にも行けないかなと考える。

日程は、有給休暇取得として1月21日の火曜日とした。これに向けてプランニングである。

今回メインで訪ねる西国薬師の多祢寺は舞鶴にあるとは書いたが、赤レンガ倉庫や海上自衛隊の基地がある東舞鶴や、田辺城がある西舞鶴の町中ではなく、若狭湾に突き出た大浦半島にある。太平洋戦争後にシベリアに抑留されていた人たちが帰還した(岸壁の母)桟橋などがあるエリアに当たる。バスの便があるかと調べると、東舞鶴駅から京都交通のバスが出ていて、最寄りの停留所からは徒歩20分とあるが、便数は1日3本。しかも、多祢寺のために利用しようとすると12時台の便で30分ほど揺られ、バス停から歩いて着いたはいいが、帰りに乗れるのは17時台の最終便である。現地でかなりの時間を持て余しそうで、これはいくら公共交通機関を最大限に利用するといっても現実的ではない。

ここはやむを得ず、「飛び道具」としてレンタカーを使うことにした。そのさらなる理由付けとして、これも駅から坂道を歩く松尾寺と、ならばいっそ成相寺もつけてまえということにした。実際に行った後で振り返ると、もし多祢寺へのバスにこだわっていたり、「駅から始まる」として東舞鶴から歩いていたらエラい目に遭ったかもしれず、素直にクルマで訪ねてよかったなと思う。

そのレンタカーだが、舞鶴ではなく福知山駅近辺で利用とした。もし成相寺まで行けたら、帰りのことを考えるとそのまま大江山を越えて福知山に戻ったほうがスムーズだと踏んだ。

さて1月21日の朝、通勤客で混雑するJR京都駅に現れる。これから乗るのは7時34分発の特急「きのさき1号」である。まずは福知山に行くのだから大阪から福知山線に乗ればよいのだが、そこは乗り鉄、行き帰りで違う経路を通り、なかなか乗る機会がない嵯峨野線~山陰線の景色も見ようというもの。「きのさき1号」の指定席券を持っているが、購入した時もすでにかなり埋まっていた。

指定席、自由席ともほぼ満席で発車。平日のためかビジネス利用も多く、私の前や通路向こうの席でもパソコンを開く姿が見られる。その一方で外国人観光客の利用も多い嵯峨野線のためか、英語や中国語で「この列車には特急券が必要です」や「嵯峨嵐山には停まりません」との案内が流れる。特急は二条を出ると亀岡まで停まらないが、なるほど、嵯峨嵐山に行こうとして乗る客がいてもおかしくない。

薄く雲に覆われる中、京都市街エリアを抜けて保津峡を抜ける。これからまずは丹波に入る。

亀岡を過ぎ、山がちな区間に入ると雨が落ちてきた。早速近畿北部エリアに入ったことを感じさせる。雪ではなく雨でよかったのかもしれないが。その後も降ったり止んだり、そうかと思えば青空も顔を出すところもあり進んでいく。雪がなくても冬の天気が変わりやすいのは日本海側の特徴が出ている。

この車内で、スマホの地図でこの日のルート確認などしていたのだが、この中で「しまった!」とあることに気づいてしまった。これ、せっかく来たけど途中で引き返すか、いやいやもう一度遠方まで来るのも大変だから何とかならないか考えようかと、しばし悩むことになった。結局は行けるところまで行き、だめだったらそこで断念して次に出直そうということにした。

そんなことを考えるうちに、綾部でそこそこ下車があり、福知山でまとまった下車となった。私もその中に混じって下車する。8時47分着。レンタカーは9時からの予約だ。

駅の南側の出口から外に出て、蒸気機関車の保存展示を見た後でレンタカー店に向かう。今回利用するタイムズレンタカーは、駅南口すぐのアールインホテルの2階にテナントで入っている。

今回のお供はマツダのデミオ。ホテルの駐車場から出発だが、レンタカー利用の際は、まずは席の調整やカーナビの操作確認などでちょっと時間がかかる。ゆっくり準備したいのだが、窓の外では係の人が見送ろうとじっと待っている。そんなのほっといてくれてええのに気をつかっていただいて申し訳ないので、急いでクルマを出す。一度福知山駅の駐車場に入れ直してセッティングする。

その道順だが、まずは舞鶴方面へ、最も東にある松尾寺を目指すことに・・・。

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第4番「施福寺」~西国三十三所めぐり3巡目・10(施福寺からの下り道を歩こう)

2020年01月28日 | ブログ

槇尾中学校前からのオレンジバスである。バスはバスでも12人乗りのマイクロバスで、月曜日~土曜日が1日5往復、日曜日・祝日が1日8往復する。これからの乗るのは9時40分発の便である。少し前に泉大津、和泉府中方面から来たバスから乗り継いできた施福寺お参りの人に加えて、小学生の子どもたちも3~4人乗って来る。まさか子どもたちだけで西国めぐりか?と思ったが、外では母親が見送っていて、運転手に「お願いしますね」と言っている。

マイクロバスは山道を走り、途中で青少年の家に立ち寄る。子どもたちはここで降りて行った。槇尾山までの途中はフリー乗降区間だそうだ。またぞろぞろ歩くトレッキングのグループも追い越す。この人たちも施福寺か、あるいはダイヤモンドトレイルめぐりか。

10分ほどで参道入口に到着する。折り返しのバスを待つ人が何人かいる。この人たちは1時間前のバスで到着して、そこから参道を往復してきたのだろう。私の場合、今からだと急いで往復すれば折り返しは11時発の便に間に合うと思うが、別に間に合わなければ12時発の便でもいいかなということで出発する。この日は施福寺をお参りすれば予定終了だ。

さて坂道に向かう前に、赤い鳥居をくぐって満願滝弁財天に向かう。実はこれまで2回施福寺を訪ねているが時間が早かったために門が閉まっていて入ることがなかった。せっかくなので行ってみる。参道の左手にお堂があり、その奥には稲荷大明神の祠と、滝が落ちる岩場がある。

満願滝は落差50メートルあるという。この時季だからか水の量は少なく見えるが、その昔、役行者や弘法大師空海も修行をしたという。施福寺は山岳修験の寺として栄えた歴史があり、役行者が法華経を奉納したという話も残っている。法華経の最後の8巻目を意味する「巻尾」を納めたのがこの山ということから「巻尾山」と呼ばれ、後に「槇尾山」となったそうだ。また弘法大師空海が剃髪したのも施福寺とされている。山中に多くの塔頭寺院を持っていたが、この弁財天もそうしたお堂の一つが残ったものだろう。

さて、施福寺がパワースポットであり、さまざまな仏の世界が広がっていることをアピールする立看板に迎えられての坂道。まずはコンクリートで所々に段差を設けた道である。「観音八丁 登れば足守の馬頭さん」の看板がある。一丁が約109メートルだから、八丁だと900メートルほどの道のりである。ふと「胸突き八丁」という言葉が頭に浮かぶ。元々は富士山の頂上までの残り八丁が険しい道だったことから「正念場」という意味に転じたものだが、施福寺の場合はバスを降りていきなり「さあ胸突き八丁だ」と言われているようなものである。

この八丁から六丁までのコンクリートの坂が急で、目の前のコンクリートが壁に見えなくもない。これを上がると山門がある六丁。まずは門を護る仁王像や、健脚を願って奉納された草鞋に手を合わせて門をくぐる。

ここからは石積みの階段が続く昔からの姿を残す。石垣が残るのは過去の塔頭寺院の跡である。道幅も狭くなる中、上り下りで行き交う人も結構いて、その都度挨拶をしてすれ違う。胸突き八丁のうち残り三丁、二丁という辺りが結構しんどい。これは札所めぐりで坂道を上がる時に感じるのだが、だいたい全体の6~7割くらいのところがきつく、それを越えると先が見えてきて少し楽になる。

ここも残り二丁というところで木々の向こうに遠方の景色を望むスポットがある。天気が良く、大阪湾の向こうの六甲の山々や神戸の建物群もくっきりと見える。これで気持ちをリセットしてもうひと踏ん張り。

残り一丁となり、弘法大師空海が剃髪をした場所跡とされる愛染堂や、髪を納めた御髪堂を過ぎると最後の階段でようやく本堂エリアに着く。結構時間が長く感じたが、時計を見ると八丁のところから20分くらいだった。

しばらく息を整えてお参りとする。そうする中で参道をやれやれという感じで上って本堂に着く人が結構いる。冬にしては暖かく天気もよいのでちょっと体を動かそうという感じかな。確か参道入口近くの駐車場には多くのクルマが停まっていた。

納経所にて重ね印と、これまで埋まっていなかった西国1300年の記念印をいただく。また西国曼荼羅の八角形の用紙に朱印・墨書をいただのだが、八角形の用紙を出した時、それを手にした係の人が「うーん」という顔をする。そして「ちょっとシワよってるんで、(書き置き分と)替えることがでけへん。100円で買ってもらわな」と言う。用紙にシワがあるとは気付かなかったが、持参のケースから取り出す時にできたのかもしれない。

これまでの経験で、八角形の用紙を出すと書き置き分と交換する形でいただくことが多かったのだが、シワがよったのを他の人に出すわけにはいかないから、朱印代の500円とは別に用紙代として別に100円取るということなのかな。そう考えていると「いや、このまま書いてええんやったら別にいりまへんが」という。用紙に極端な折り目がついたならともかく、シワといっても見た目にもほとんど目立たないレベルだから別に支障はない。むしろ書き置きを渡されるより持参の用紙に直接書いていただいたほうがありがたい。

「本堂内では日本唯一の方違観音や足守の馬頭観音などが拝観いただけるので、よろしければ」と納経所に来る人には声がかかる。拝観料は500円だがせっかくなので拝んでいくことにする。先達用の朱印帳によると前回施福寺に来たのが2016年4月で、西国1300年の記念事業が始まって間もなくのことだった。従来、内陣は5月の期間限定だけ公開していたのを西国1300年記念事業を機に通年公開されている。

まずは正面の中央に弥勒菩薩、そして西国三十三所の本尊である十一面千手観音が祀られている。この前に座ってお勤めをする人もいる。

さらに奥に進んで、方違観音。「凶と出た方角をよい方角に変えてくださる」ということで、転勤・転職・旅行など、何かの方角・方向が変わる時にそれがよい方角・方向に向かうようにするというご利益があるとされる。

本尊の裏手に当たる面には、「立体曼荼羅」とでもいうべき数々の仏が安置されている。弘法大師、元三大師、伝教大師、弁財天はじめ七福神、釈迦涅槃像、さまざまな菩薩像・・・。中央にいると前後左右から護られているような感覚になる。

そして馬頭観音。日本唯一とされているのが、座っている足の裏が正面を向いているというもの。ちょっと普通の人間ではできない座り方だが、世界には体が極端に柔軟な人も多くいるから、この座り方も可能かもしれない。お参りする人の足腰が丈夫であるようにとの願いが込められているが、特に足の裏は「第二の心臓」とも言われるほど人体にとって大きな役割があるだけにそうした思いが強く込められているのだろう。

前回は「ちょこっとだけダイヤモンドトレイル」ということで「裏参道」から下りて、そのまま1時間半ほどかけて金剛寺まで歩いた。それはバスの乗り継ぎの関係で、先ほど上って来た参道を下りてもオレンジバスの時間まで間隔が開き、またそのまま槇尾中学校前、横山高校前に戻っても金剛寺に向かうバスの間隔が開くためだった。結果としては待ち時間の合計よりも歩いたほうが早かった。

今回はそうした別ルートを取ることもなく、先ほどの「表参道」をそのまま下る。しんどそうな顔で上がって来る人とすれ違うが、下りは速いペースで進む。特に山門を出た六丁から八丁にかけての急なコンクリート坂は、下手にブレーキをかけるよりもそのまま大股で走るように歩いたほうが足にも負担がかからないように感じた。バス停まで来た時にはちょうどバスが出たばかりだったが、今回はこのまま槇尾中学校前まで歩いて行こうと思う。下り坂ならそれほど負担にもならない。

槇尾川に沿って下り道を歩く。オレンジバスで上って来た時には気づかなかったが、道端には本堂への道標となる丁石を見つける。これが少しずつ数を増やしていくわけだが、途中、なくなったか見落としたかで番号も結構飛んでいる。

一方では道路工事が進んでいる。槇尾川の治水対策ということで河川の改修事業が行われている。河川の幅を広げたり河床を掘り下げたりするもので、そのために今の道路に替わる新たな道路を造っている。また新たな植林事業も行われている。元々は治水対策としてダムの建設が進められていたが、大阪府の橋下知事の時に事業が中止となり、改めて検討した結果、河川の改修工事を行うことで進められることになった。ダムの建設というのはいつも賛否が別れるものだが、結局はどちらが正しいのだろうか。昨年秋の台風、豪雨で東日本の広い範囲で冠水被害が生じた時は、ダム推進派の声が大きかったように思うのだが。槇尾川の河川改修が治水対策としてベストだったのかは、また後の世で判定されることだろう。

それでも、もしダムができていたらこうした丁石や、なぜかある釣り堀などもなくなったかもしれないなと想いながら下る。丁石もいつしか三十近くまでカウントされる。この後三十四丁、さらに文字はよく見えなかったがおそらく三十五、三十六丁らしき丁石もあったが、果たしてどこまで続いていたのだろうか。

山道も終わり、いつしか集落に出てきた。みかんなど柑橘類の畑もあり、道端では無人販売のスタンドもある。たまにはこうして歩いて周りの景色を見るのも悪くないなと思う。

槇尾中学校前までどのくらい時間がかかるかなと思ったが、参道入口から45分くらいで槇尾中学校前の奥にある槇尾山口のバス停に着いた。するとちょうどそこに泉北高速の和泉中央駅行きの便がやって来た。別にどこの駅行きでもよかったのでそのまま乗り込む。

和泉中央からは南海直通の急行に乗ってそのままなんばに出る。昼はちょっと回ったが、西国三十三所の中でも徒歩でのアクセスが結構厳しい中に入る札所をお参りしたことで、やれやれの一杯である・・・。

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第4番「施福寺」~西国三十三所めぐり3巡目・10(前置きは施福寺の参道より長い)

2020年01月27日 | 西国三十三所

2016年から5年にわたり展開されている西国三十三所草創1300年の記念事業。2020年はその最終年度となる。さまざまな記念行事や昨今の朱印ブーム、JR西日本のキャンペーンも合わせて、参詣する人も増えているという。昨年参加した先達研修会でも、先達補任者の数の伸び率がアップしているとの話も出ていた。

その記念事業の一つに「記念印」がある。これは通常の本尊の朱印とは別に、各札所ごとにオリジナルにデザインされた特別な印を希望者に無料で納経帳に押すもので、2017年から始められ、2020年の事業終了日(時期は未定)までの期間限定である。デザインは朱印というよりはJR駅のスタンプに似たようなもので、寺のお堂や見どころ、シンボルをイラスト化したものもあれば、シンプルに「西国三十三所草創一三〇〇年」の文字を角印にしたものなどいろいろある。

この記念印が始まった時、私は西国三十三所めぐりの2巡目に入っていたところで、先達用の巻物納経軸にも記念印が入っていて賑わせている。ただ2020年初めの時点でまだ埋まっていないのが、4番の施福寺、8番の長谷寺、12番の岩間寺、13番の石山寺と4ヶ所ある。いずれも2巡目で早いうちに回ったところだが、一方でそれから間隔が開いているも言える。いずれも自宅からそう遠くはないところなのでいつでも行こうと思えば行けるが(施福寺は30分の山道の参道、岩間寺はバス停から1時間の上り坂だが)、記念事業の終わりまでには行っておきたい。

その中で1月19日、施福寺に行った。天候もよくこの時季にしては暖かかったのだが、このタイミングで訪ねたのは鉄道絡みである。その内容が一風変わっていた。

施福寺への公共交通機関でのアクセスは槇尾中学校前からの和泉市オレンジバスだが、槇尾中学校前に行くには南海泉大津~JR和泉府中~泉北高速和泉中央を経由する南海バスに乗る。ただ一方で、私の地元藤井寺からだと近鉄で河内長野に南下して、南海バスで横山高校前まで乗るルートがある。横山高校前から数百メートル歩くと槇尾中学校前に着くことができ、トータルではこちらのほうが短時間である。1巡目は河内長野ルートを知らなかったのと、JRのキャンペーンのスタンプのために泉大津からバスに乗ったが、2巡目は河内長野市内にある新西国三十三所の札所、金剛寺や観心寺との組み合わせもあり、河内長野ルートを通った。

3巡目も行きは河内長野ルートを取るのだが、鉄道絡みというのは近鉄の河内長野駅にある。

近鉄のトピックスにて「河内長野駅設置の『字幕回転式行先表示機』が令和2年1月30日に役目を終える」というのがあった。「字幕回転式」というのは、列車の行き先や種別の案内表示が「準急 あべの橋」などと書かれたフィルム式の行先幕がくるくる回るタイプのものである。車両の前や横で行き先を表示させるのにも使われている。

この行先表示機、河内長野駅には1976年に設置されたものがそのまま使われているが、これは近鉄の駅の中で最後まで残っていたものだそうだ。私の子どもの頃は他の駅でも普通にあったが、いつしかパタパタ・・と行き先がめくれるものや、電光掲示板、最近だと大型ディスプレイでの表示に置き換えられ、近鉄では河内長野が最後まで残っていたそうだ。さらに、他の鉄道会社を見渡しても字幕回転式の案内というのはほとんどないのではともされており、日本で最後かもしれないという説もあるようだ。

別に路線や列車、車両がなくなるわけではなく、それほど大げさにすることでもないと思うが、最後というのなら一応見ておこうと思う。なお近鉄では字幕回転式の終了を記念した入場券を1月23日から河内長野駅で限定発売したのだが、翌日にはもう完売御礼が告知ポスターに貼られていた。

例によって前置きが長くなったが、今回はそういうわけで河内長野駅に行ったついで?に施福寺まで足を延ばすことにした。朝の列車で藤井寺から河内長野に移動する。
 
河内長野は南海高野線の主要駅で、近鉄長野線は端の1本だけのホームに間借りのように停まる。そのホーム中央、に1台あるのが字幕回転式行先表示機である。同じ列車で来た人が3~4人、カメラを向けていた。そして折り返しとなる大阪阿部野橋行きの準急が出発すると、字幕が回転するのを心待ちにしていた人もいたようだが表示はそのままである。

沿線の人なら周知のことだが、日中にこの駅を出る列車は全て「準急 あべの橋」である(ひょっとしたら回送もあるのかもしれないが)。早朝や深夜なら「急行 あべの橋」や「普通 古市」などもあるが、日中はパターンダイヤで同じ行き先のため字幕を回転させる必要がない。隣の南海高野線は特急「こうや」をはじめとして急行、準急などいろんな種別があるし、河内長野止まりの列車などさまざまなパターンがあり、パタパタ式の行先表示機がホームで活躍している。近鉄は字幕回転式の次はどのようなタイプにするのだろうか。この記事を掲載してあと数日は残っているので、もしご覧になりたい方は、ぜひ。

ホームには字幕回転式のこれまでの歴史を紹介したポスターがある。長い間使っていたために修復の跡があるとの記載があり、よく見るとテープでも貼ったような跡もわかる。

行先表示機は一応見たことにして改札を出る。次に乗るのは8時36分発の光明池駅行きで、これが横山高校前を通る。手前の金剛山ロープウェイ行きの乗り場にはトレッキング姿の中高年が列を作っている。金剛山は私の小学生当時は冬の耐寒登山の場所で、雪が積もる中アイゼンをつけて歩いたり、アルミホイルに包んでもやっぱり冷たかったおにぎりを食べたのを今でもかすかに覚えている。今は暖冬傾向だし、学校教育も時代が変わっているのでそうした行事はやっているのだろうか。

光明池駅行きのバスは10人ほどの客で発車するが、金剛寺に着くまでに下車してしまい、私だけになった。国道170号線の旧道沿いの集落を縫いながら走り、30分ほどで横山高校前に着く。泉大津から槇尾中学校前を結ぶ系統との交差点だ。ここから数百メートルの歩き。
 
ここまで何度か「横山高校前」とバス停の名を書いているが、その高校は現在閉校である。跡地は和泉市のスポーツセンターとして、人工芝のサッカーグラウンドや照明設備もついた野球場になっている。日曜の朝、グラウンドではボールに触れる姿が見られる。横山高校が閉校になったのは10年以上前のことで、今なら「スポーツセンター前」とでもしたほうが実態に合っていると思うが、地元の人や南海バスには横山高校というのに思い入れがあるのだろう。

さて、槇尾中学校前に着いた。オレンジバスの発車まで時間があるので隣接のコンビニで過ごす。この後9時40分発の便で施福寺の入口を目指す・・・。
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第9回中国観音霊場めぐり~福山駅かいわい(自由軒、草戸千軒)

2020年01月26日 | 中国観音霊場

明王院のお参り、鞆の浦訪問を終えて福山駅前に戻る。時刻は14時前。

遅めの昼食として向かったのは初めての店である。駅前から天満屋百貨店の前を過ぎたところの小道を入ったところにある「自由軒」。のれんや提灯に「おでん」「洋食」と書かれている。見たところは大衆食堂だが、大衆酒場の匂いもする。そこに「洋食」とは似合わないようにも思うが、ここは福山の名店だそうで、今回訪ねてみたのは吉田類さんの酒場放浪記の記事からである。昼から営業とあったので鞆の浦から戻ったら行ってみようと思っていた。これなら、飲み食いが終わってから鈍行でも帰れる(夕方からの店なら帰りは新幹線に)。

行くと店の外では2人並んでいる。ガラス戸から中をうかがうと、コの字形のカウンターにぐるり20人くらいが詰めあって座っている。壁にはメニューがびっしり並び、定食や一品ものがさまざま。ただし日本酒については冷やか燗の二択で、広島県だからといって地酒が何種類もあるわけではないようだ。この辺りは大衆食堂の色合いが濃いのだろう。

少し待つと席を立つ客がいて、前の2人も順に入っていく。私が先頭になるが、後ろに1人、また1人と並ぶ。この時間で行列というのもすごい。

順番になって中に入る。壁にカープのカレンダーやポスターも多数あり、店内では広島(備後)弁が飛び交う。この日(4日)が今年の店開きのようでそんな挨拶も出る。

まずはのれんや看板にもあるおでんをいただく。味噌だれがかかっているが、福山での一般的な食べ方ではなくこの店独特のようだ。八丁味噌かな。ちょっと甘い味だがこれはいける。

洋食もいろいろあって迷うが、店の名前がついた「自由軒かつ」を注文。タルタルソースがついていたので、かつの中身は?といただくと、エビとイカをそれぞれ串カツにしたもの。タルタルソースだけでも一品のアテになるものだ。

福山の味覚ということでくわいもいただく。くわいといえば「芽が出る」ということで縁起物として正月のお節料理に出てくるが、福山が国内生産量の大きなシェアを占めている。私は子どもの頃はお節料理にあっても食べなかったが、大人になるとホクホク感がいいなと思うようになった一品である。普段の大阪の居酒屋ではまず出てこないメニューで、福山らしさを味わう。

熱燗もいただいたのでご飯ものは取らなかったが、「自由軒」ではオムライスやヤキメシも名物だという。他にも大衆酒場メニュー、食事メニューも豊富である。福山まで気軽に来る機会はそうないが、どこかの帰りにまた一杯で来てもいい店だと感じた。

駅コンコースを抜けて福山城に向かう。福山城は初代藩主の水野勝成の手で1622年に完成したが、現在「築城400年」に向けて様々な記念事業が行われているという。

本丸に向かうに連れて歓声やマイクの音が大きくなる。天守閣前は結構な人だかりだ。何やら「日本一早い豆まき」という「福まき」が行われているようだ。このイベントは4年前から行われているそうだが、私が着いた時には豆まきも終盤。残念ながら豆を取ることはできなかった。

混雑しているので天守閣には上らず、そのまま広島県立歴史博物館に向かう。通称は「ふくやま草戸千軒ミュージアム」とあり、明王院の記事でも触れたが草戸千軒跡からの出土品が保存展示されている。また草戸千軒だけではなく、昔から瀬戸内海を舞台に栄えた交通や交易の歴史も紹介されている。先ほど訪ねた明王院の国宝の本堂、五重塔の模型や絵画もある。

数々の展示の中で目を引くのが、発掘調査をもとに実物大で再現された草戸千軒の町並みの一角である。時代は今から650年ほど前の南北朝の頃、初夏の夕暮れ時という設定である。店が並び、中ではさまざまなものが商われている。細部の小物までリアルに表現されていて、見ていて面白い。このまま時代劇のセットでも使えそうだ(時代劇ではないが、過去には実際に映画のロケでも使われたことがあるそうだ)。

そろそろ夕方になり、大阪に戻ることにする。往路で「飛び道具」を使ったので、帰りはおとなしく鈍行で戻る。ちょうどやって来たのは16時06分発の姫路行き。福山から座ることができたので、このまま岡山~姫路の混雑区間も行ける。まずは姫路までどっぷりと2時間半、各駅に停まりながら進む。その後は「駅そば」を夕食でいただいての新快速・・・。

結構スローペースで進んでいる中国観音霊場めぐりだが、これで備後まで終わり、次は広島・宮島シリーズである。この先、夏までの期間で中国地方の西の端である下関まで行く見通しを立てた。まあ、その予定通り順調に行けるかはわからないし、またこれまでのように直前になってルート変更してしまうかもしれないが、単なる観光地めぐりではなく一つの「軸」を持って中国地方を回るということを、これからも楽しみたいものである・・・。

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第9回中国観音霊場めぐり~鞆の浦

2020年01月25日 | 中国観音霊場

トモテツバスで鞆の浦に着く。バス停の前が観光センターになっていて土産物の販売や、映画のロケ地案内などがある。

その一角には、1913年~1954年まで走っていた軽便鉄道「鞆鉄道」のミニ資料館がある。当初は小型の蒸気機関車に小さな客車、貨車を連結させていて、後にはガソリンカーも登場した。鞆の浦はかつて瀬戸内海の良港として繁栄したが、山陽線のルートから外れ、また四国との国鉄連絡ルートは宇野~高松となったために衰退が危ぶまれた。そこで福山~鞆の浦の交通機関として地元の有志が設立した鉄道だったのだが、並行する自動車、バスとの競合に負ける形で廃止。今はバス会社にその名をとどめる。

さてこれから少し町をぶらつく。まず向かうのは福禅寺。平安時代に開かれたとされる寺で千手観音を本尊とする。

この寺で有名なのは本殿と棟続きの客殿である対潮楼。江戸時代の元禄年間に建てられ、朝鮮通信使のための迎賓館としても使われた。

「日東第一形勝」と書かれた額がある。対潮楼から目の前の仙酔島や弁天島の景色を見た朝鮮通信使が評した言葉で、「日本一の景勝地」の意味である。窓によりかかって身を乗り出して見るのではなく、赤い毛氈に座り、柱を額縁に見立てて眺めるのがおすすめとある。ちょうど晴天で、穏やかな景色が広がる。朝鮮通信使も道中で日本のさまざまな景色を見たことだろうが、一行の中にここを日本一と評した人がいてもおかしくはない。まあ、景色以外のいろいろな要素が合わさってのこととは思うが。

この後は路地をぶらつく。鞆の浦一帯は江戸時代当時の町割りがほぼそのままの形で残されているという。歴史的に見れば交通の近代化により港町の役割が薄れていき、地形的に開発が難しかったために取り残されたとも言えるが、それが今では開発の波に飲み込まれずに古い町並みを今でも残す観光地として人々を集めるようになった。今は春~秋の期間、同じ港町の尾道との間に観光船も出ている。何がどう転ぶかわからないものである。

以前、鞆の浦に新たなバイパス道路を通そうという計画があった。広島在住時期には県内ニュースでもしばしば取り上げられていたのを覚えている。鞆の浦の道幅が狭いために渋滞解消や歩行者の安全性確保を目的として、鞆の浦の港湾を埋め立てて新たな橋を架けようというものである。これに反対する住民が県を相手に提訴して、開発と景観保護をめぐって長い間論争となった。鞆の浦が宮崎駿監督のアニメ映画『崖の上のポニョ』の舞台になった場所ということでこの論争も全国的に注目されたそうだ。計画当初から30年近く議論されたが、裁判では開発の許可を差し止める判決が出て、これを受けた広島県が埋め立て、架橋を断念することで決着となった。

このために鞆の浦の景観は守られたと言えるが、一方では観光地として名前が広まっために観光シーズンな渋滞がひどくなったという。また住民も狭さを嫌って同じ福山市内でも他の地区に移る人が増えて、鞆の浦地区の人口減少や高齢化が問題になっているという。何が一番よい道なのか、答えを出すのは難しいし、「開発」「景観保護」「地元の人たちの日常生活」の三者をどう折り合いつけていくのかの議論は今でも、これからも続く。

鞆の浦名物の保命酒や鯛の竹輪など買い求め、灯籠のある岸壁に出る。

坂本龍馬が率いる海援隊のいろは丸と紀州藩の船が衝突した「いろは丸事件」に関する資料館もある。坂本龍馬と紀州藩が談判したのが鞆の浦で、近年では海底に沈んだいろは丸の調査でさまざまな物も引き揚げられている。坂本龍馬と海援隊を一躍有名にした出来事ということで、龍馬ファンの方なら必須スポットだろう。

鞆の浦をじっくり楽しむなら山手の一帯を回ったり、渡船で仙酔島に向かうのがおすすめだが、そろそろ引き返す。鞆の浦で昼食を取らなかったが、これは思惑もあってのことである。バスに乗り込み、福山駅まで戻る・・・。

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第9回中国観音霊場めぐり~第8番「明王院」

2020年01月24日 | 中国観音霊場

福山駅から歩いてやって来た明王院だが、まずはその手前にある草戸稲荷神社にお参りする。鳥居から拝殿にかけて列ができていて、また拝殿の前に階段があることから、事故防止のために係員がロープで仕切って一度にお参りする人数を制限している。例年、草戸稲荷は福山市で最も多く、また広島県内でもベスト3に入るほどの初詣客を集めているそうで、3が日の次の日の4日であるが大勢の人が訪れている。私も少し並んだ後で順番が回ってきた。拝殿の中では昇殿しての祈祷を行っているところで、祝詞の声が聞こえてくる。

草戸稲荷は明王院に隣接しているが、元々、明王院を開いた弘法大師空海がその鎮守社として建てたとされている。当初は横を流れる芦田川の中洲に鎮座していたが、洪水のために流失することも多かったそうだ。

芦田川のこの辺りといえば江戸時代前期の洪水で消滅した草戸千軒という町があったところだ。この草戸千軒については町の様子を書いた記録がほとんど残されておらず、長年想像上の町と言われていたが、しかし昭和になって芦田川の河川工事を行った際に多くの遺物が出土し、その後の本格的な調査で中世頃に実際にあった町の全容が判明した。そのことから「日本のポンペイ」と呼ばれるところである。草戸稲荷は、町が消滅する前に福山藩の手で現在地に移されたようである。境内には草戸千軒に関するミニ資料館もあるが年末年始休館だった。ちなみに草戸千軒については福山城内にある広島県立歴史博物館で詳しく紹介されており、後で時間があれば見学するつもりだ。

拝殿の奥に要塞のような造りの高い建物がある。その上に鎮座するのが本殿で、建物なら4階くらいに相当するだろうか、そこまで階段で上がることができる。昭和にコンクリート造りで新たに建てられ、本殿が移されたものである。お参りの中で上まで行く人はそう多くないようだが、せっかくなので行ってみる。裏の山とくっつくように建てられている。

本殿でも手を合わせる。ちょうどその前が舞台のようで、芦田川とその向こうの福山の市街地を見渡すことができる。まさかかつての草戸千軒を展望するために建てたわけではないだろうが。

草戸稲荷を後にして明王院に向かう。参道には多くの屋台が出て活気がある。その奥に隠れるようにして明王院の入口がある。

この明王院も先に触れたように弘法大師空海が開いた寺で、草戸千軒はその門前町であった。なぜこの地に名刹ができたかだが、やはり瀬戸内の航路に面していたからなのかなと思う。当時の海岸線は今よりもずっと手前にあり、鞆の浦とも合わせて港としての役割もあったようだ。江戸時代に福山藩主だった水野氏の手により今の芦田川の対岸地域が干拓され、新田も開発された。

石段を上がると境内にはいずれも国宝の本堂と五重塔が並ぶ。やはり初詣となると神社に行く人のほうが多いのか、先ほどの草戸稲荷と比べれば人の数も少なく落ち着いた雰囲気だ。本堂は鎌倉時代末期の建物で、和様建築に大仏様、禅宗様を折衷させた建物の代表例とされている。まずはこちらで、参拝の列からちょっと離れたところでお勤めとする。

本堂の前には、浩宮親王(当時。現在の天皇陛下の来山を記念して植樹された松がある。天皇陛下の学生時代の研究テーマは中世の海上交通についてであったが、その研究の旅行で草戸千軒の遺跡も訪ねたそうである。

また五重塔もしっかりした造りである。長い年月の中で修復も施されているのだろうが色もしっかり残っている。この五重塔と本堂の組み合わせは、尾道の浄土寺の本堂と多宝塔のそれを連想させる。

そういえば天皇陛下は研究旅行で浄土寺も訪ねていたっけ。明王院と浄土寺に何か共通するものを感じる。もちろん寺の歴史はそれぞれ違うわけだが、同じ瀬戸内の港で栄えた人たちの支えというものが繁栄を生み、現在にも残されているのだなと感じさせる。

明王院は五木寛之の『百寺巡礼』の一つであるが、私はこの時気付かなかったが境内に五木寛之の文学碑が最近建てられたという。

最後に書院のある本坊にて朱印をいただき、これで明王院のお参りを終える。中国観音霊場で一つ飛んでいた札所もこれで埋まり、備後シリーズも終了となる。

さてここからは帰りの時間まで福山めぐりだが、せっかく来たので鞆の浦を目指すことにする。明王院から芦田川沿いに数百メートル河口方面に下ったところの草戸大橋に鞆行きのバス停がある。福山駅~鞆の浦間のトモテツバスは日中でも20分に1本と割り合い多い数が走っている。全国の交通系ICカードの利用も可能だ。

20分ほど走ると左手に穏やかな海が見えてきた。鞆の浦もそろそろ近づいてくる・・・。

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第9回中国観音霊場めぐり~「飛び道具」で福山へ

2020年01月22日 | 中国観音霊場

年末年始の新潟~酒田~会津若松行き、1月3日の西国四十九薬師めぐりの門戸厄神と経て、令和2年の始めに当たって中国観音霊場めぐりも続きである。行き先は前回(11月)に順番を飛ばす形となった福山の第8番・明王院。

行くにあたっては昨年のうちから、青春18きっぷを使うにしても日帰りにするか1泊するか、いろいろとプランニングしていた。広島、宮島の札所は次回に取っておくとして、中国山地のローカル線乗車を交えてもいいかなと思っていた。芸備線や福塩線という線にも久しく乗っていないので、そうした線にも乗りつつ三次あたりで1泊しようかとか、大阪からの高速バス(大阪~新見・三次、または大阪~福山)を往復のどちらかで使おうかというのも含めて、何パターンかの行程ができていた。

ただ結局は、年末年始旅行も結構派手なものになったこともあり、中国山地への寄り道プランは全部ひっくり返して、シンプルに山陽線往復の日帰りで行くことにした。とは言え、福山に行くのなら明王院の先にある鞆の浦くらいは訪ねようかなと思う。

予定では大阪から西に向かう定番の6時25分発の姫路行きからスタートして、姫路~岡山~福山と乗り継ぐ。そのために大阪メトロで梅田に向かったのだが、降りずにそのまま新大阪まで乗る。

姫路行きを1駅手前の新大阪で捕まえることができるのだが、いざ新大阪まで来ると、ふと「青春18きっぷの元は取っているのだから、新大阪から新幹線に乗ってしまおうか」という気になった。大阪から姫路へは新快速のイメージだが、実はこれから乗るのは快速で、明石から先は各駅停車である。土日祝日ダイヤではこの時間の新快速がないのでそのまま乗っているが、以前から結構かったるいイメージはあった。そこで今回気まぐれで「飛び道具」を利用することにした。

それならいっそ福山まで行けばいいものの、さすがに高くなるので姫路までとする。中途半端といえば中途半端だ。
 
新大阪6時25分発の「さくら541号」に乗れば、姫路には6時53分着で、7時05分発の山陽線三原行きに間に合う。これで福山まで乗り換えなしで行ってしまおう。
 
事前にいろいろ考えた結果、これで行こうと決めたのに当日現地でひっくり返す・・一人だからできることかな。新大阪からあっという間に姫路に着いた。いくら何でもこんなのありかな・・とボヤきながら、在来線との乗り換え口を通る。
 
これから乗る山陽線の姫路~岡山は青春18きっぷの時季には特に混雑する区間であるが、さすがに7時05分発だと神戸、大阪方面からの乗り継ぎ客もさほどなく、また普段の通勤通学ラッシュ対応のためか、いつも会う3~4両ではなく6両での運転である。転換クロスシートの窓側の席で姫路から座って行くことができた。4日も晴天に恵まれ、霜は下りているものの穏やかな天候である。
 
岡山で乗客が入れ替わる。時刻表を見るとこのまま三原(もしくは1つ手前の糸崎)まで行くと、その先の広島方面岩国行きに乗り継ぐことができて、広島には12時前に着く。一瞬、中国観音霊場として先に広島の三瀧寺を日帰りで取りに行こうかとも考えたが、そうすると前回も三原、尾道に飛び越された福山がいつまでも残ってしまうので乗車は福山までとする。
 
9時37分、高架の福山に到着。新幹線に乗ったことで1時間前倒しでの到着である。
 
福山はバラの町ということで駅前にも花壇が設けられているのだが、バラの開花のシーズンは春か秋。さすがにこの時季は限られた品種のものが数株咲いている程度である。
 
それはそうと、福山に来るとバラの町というのが盛んにPRされているし、同市に本社がある某大手運送会社もトラックに「バラの町福山」というラッピングがあるが、どういう理由からだろうか。そこには太平洋戦争からの街の復興の歴史がある。福山は空襲により大きな被害を受けたが(福山での被害が最大だったのが、広島の原爆投下後の8月8日~9日にかけてのものという)、建物などの再建復興と合わせて、街に潤いを与え、人々の心に和らぎを取り戻そうと植えられたのがバラの花だった。後に地元の人たちによって市内にバラの公園が設けられたのをきっかけとして、現在に続くバラの賑わいとなった。
 
さてこれから明王院に向かうが、交通機関の案内を見ると明王院の前にバス停があるが、ここを経由するのは1日1往復しかない。最寄りのバス停は松永・尾道方面行きのバスで国道2号線の神島橋で下車するようである。また少し遠くなるが、鞆の浦行きに乗って草戸大橋で降りるという手もある。
 
ただ、いずれもバスのタイミングが合わないようである。1月1日~3日の間は、明王院に隣接する草戸稲荷神社へのシャトルバスが運転されていたようだが、4日のこの日はそれもない。ただ、地図をよく見ると福山駅から明王院までは2キロほどの距離である。ならば、バスを待つのも同じだから歩いていくか・・。
 
駅前の大通りを抜け、国道2号線に出る。右手に福山市役所の建物を見つつ西に進む。天気もよく、歩いてもちょうどいい感じである。
 
芦田川にかかる神島橋を渡る。前回、三原、尾道と回った後、帰りは尾道から高速バスに乗ったのだが、福山駅に着く手前で渡ったのがこの橋である。その意味ではここで前回からの続きとも言える。

ちなみにその高速バス「びんごライナー」だが、年末年始旅行で郡山~あべの橋で利用した「ギャラクシー号」の記事を書くために近鉄高速バスのホームページを開くと、トピックスとして2月1日にダイヤ変更を行うとあった。その内容は「減便」。しかも、午前の大阪~福山・尾道行き、午後夕方の福山・尾道~大阪行きの運転を取り止めるというものだった。これにともない、当該便を運行していた近鉄高速バスが撤退となり、それぞれの逆方向の便を中国バスが運行するのみとなった。近鉄高速バスは合わせて大阪~日立・いわきの夜行バスのも運行取り止めとあり、区間によって高速バスの路線維持も難しいのかなと見受けられる。明王院を訪ねる行程を作る中ではこのような話はなかったので余計に驚いている。

さて神島橋を渡り、側道を少し歩くと草戸稲荷神社の立派な本殿が出てきた。前回のお参りの帰りにバスの車窓に見えたのは、明王院ではなく草戸稲荷神社の社殿だったようだ。まあここまで来れば、札所というわけではないが明王院の前にまずはこちらにお参りするのが自然だろう・・・。
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第20番「東光寺」~西国四十九薬師めぐり・12(つまりは門戸厄神)

2020年01月21日 | 西国四十九薬師

正月3日、大阪近辺は晴れの穏やかな天候である。2日朝に大阪に戻ってからの通常の初詣はここ数年定例としている地元の葛井寺にて観音経のお勤めを行ったが(この参拝は西国三十三所めぐりにはカウントしない)、残りの休みを利用して札所めぐりも進めておきたい。まず3日は手近な西国四十九薬師めぐりということで、サイコロの出目で回ってきた第20番の東光寺に向かう。

東光寺という名前を聞いて、どこにある寺なのかピンと来ない方も多いと思う。私も札所めぐりのリストを作る際に、西宮の東光寺という名前を見た時は、西宮も広いからこれまで知らなかった寺もあるものだなと思っていた。

実はこの東光寺というのは寺の正式名だが、つまりは「門戸厄神」のことである。門戸厄神なら阪急今津線の駅名にもなっているし、厄除け祈願で特に関西では有名なスポット。私も訪ねたことがある。厄神明王とは愛染明王と不動明王が一体となったものであり、こちらが本尊なのだが、薬師如来も祀っているとある。東光という名称も東方浄土から光がさすという意味で、これは薬師如来を指すとされている。門戸厄神は関西の中でも有数の初詣で賑わうところで、あえてその気分を味わうために混雑する3日に出かけることにした。以後、この記事では東光寺、門戸厄神の両方の名称が出てくる。

普段の通勤ラッシュとも、週末の行楽日和ともちょっと違う正月ムードの阪急梅田から特急に乗り、西宮北口に向かう。ここで今津線の宝塚方面に乗り換えて1駅で門戸厄神に着く。

数年前に、この駅で乗り降りしたことが何回かある。当時私と同じ勤務先企業の支店に勤めていた50歳代の方がいたのだが、ガンと診断されて自宅近くの病院に入院していた。その様子伺いや、長期療養で休職扱いとなるための手続きのことなどで、上司とともに定期的に病院を訪ねるのに乗り降りしたのがこの駅だった。入院のベッドの横に、病気平癒を祈願してか門戸厄神の御札があったのを覚えている。しかしガンの進行が思ったよりも早く、また他の病気も併発したことで、残念ながら在籍のまま早くにお亡くなりになった。そんなことも思い出す。

さて駅から東光寺へは歩いて数百メートルのところ。途中に昔の道標もあるが、往復とも参詣者が絶えないので道に迷うことはない。細い道であるが両側に屋台が出て食べ物のいい匂いを出している。帰りに何か買うかどうしようか。

駅から歩くと南門から入るのが近いが、初詣期間中ということで出口専用に規制されている。そのため北側にある表門から入るよう誘導される。まあ表門から入ることは問題ない。

その表門に向かう参道、東光寺の外壁に当たるところに、劇画調に描かれた龍の壁画がある。厄神龍王という。龍は厄神明王の化身として描かれていて、碧眼の長さは30メートルにもなる。厄除け開運、そして「登竜門」ということで龍となったそうだ。原画はゲームのキャラクターのデザインも手掛けているイラストレーターの内野和正さんで、空を泳いだり、一方では森の中で眼光を光らせたりとさまざまな姿の龍が描かれている。ちょうどこの1月1日から公開されたばかりで、警備の係員は写真を撮るなら参道下のスペースがおすすめだと案内する。確かに30メートルもあれば、全体像を写すならある程度離れたところのほうがよさそうだ。

厄神龍王の壁画を見て進むとそのまま表門に着く。42段の男厄坂、33段の女厄坂と上るが、階段の脇には厄除けで落とす1円玉の受け皿が置かれている。厄除けとして階段に小銭を落とすのはたまに見る光景だが、受け皿が置かれているのは散乱防止というか、しっかりしている。

阪神淡路大震災後に再建された中楼門をくぐると、正面の本堂である厄神堂にかけてものすごい人だかりである。ロウソクと線香をお供えするのだが、窓口でそれらを受け取り、ロウソクの燭台は隣のスペースだからよいとしても、線香をあげる香炉までは離れている。その中を線香を持って大勢の人が移動するので、この辺りはやや煙たいくらいの状況にもなっている。

まずは厄神堂で手を合わせる。大勢の人がお堂の幅いっぱいに広がって次々にやってくる。

東光寺を開いたのは平安時代、嵯峨天皇と弘法大師空海によるとされている。嵯峨天皇の41歳の厄年に当たり弘法大師が厄除け祈願を行ったが、その時に出てきたのが愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王である。この厄神明王はあらゆる災厄を打ち払うとされており、弘法大師は三体の厄神明王像を刻み、それぞれ高野山の天野大社(丹生都比売神社)、石清水八幡宮、そして東光寺に祀った。今でもこの三社寺は「日本三大厄神」と称されるが、現在残されているのは東光寺だけだという。またその先を見るといわゆる八幡神も厄神と称するところがあり、私がこれを書く中で連想した加古川線の厄神駅も、宗佐厄神八幡神社から取られた名前という。神社と寺の両方が出るから、神仏習合の一種なのだろう。

続いて右手の薬師堂に向かう。西国薬師の本尊としてはこちらになるが、やはり厄神堂に比べるとお参りする人が少ないように思う。薬師如来は、「あらゆる病をことごとく除き、身も心も安楽になる」という仏だが、ここ東光寺にあっては門戸厄神という名前で知られるように、すべての災厄を打ち払うという点で厄神明王に主役を譲るかのようである。ここでお勤めとする。

厄神堂と薬師堂の間に納経所があり、長い列ができている。本尊なら「厄神明王」と墨書してもらうところだが、私の場合は西国薬師のバインダー式の朱印である。「薬師のバインダー」と言うと、あまりそれを頼む人がいないのか一瞬慌てたような反応だった。

また、先ほどの厄神龍王関連のグッズも扱っているようで、その中に厄神龍王の朱印というのもあった。これは龍のイラストが描かれた台紙に墨書と朱印が印刷されたものである。一つの記念と言えば記念になる。普段、自分が回っている札所本尊以外の朱印はいただかないのだが、何かありがたそうなので1枚求める。

この後は厄神堂の後ろを回る形で、稲荷明神や奥の院の不動明王に手を合わせる。境内にはさらに大黒堂、愛染堂、延命魂、弘法大師堂と並ぶが、この中では延命魂と弘法大師堂に長い列ができている。延命魂とは、高野山奥の院の弘法大師御廟近くにかつて生えていた杉の幹と根を切り出したものだが、その樹齢は800年もあったそうだ。特に根は直に触れると延命や病気平癒のご利益があるという。

初詣の大勢の客ということで流れに沿う形でのお参りとなった。こうした札所めぐりもいいだろう。この後、おみくじを引く人でまた長い行列ができているが、私の場合はおみくじよりも、次のお参り先について薬師如来(今回は門戸厄神明王も入るかな)とサイコロによるご神託をいただかなければならない。その出目とは、

1.舞鶴(多祢寺)

2.たつの(斑鳩寺)

3.丹波(達身寺)

4.加茂(浄瑠璃寺)

5.福崎(神積寺)

6.奈良北(般若寺)

西から北への出目が多いところで、出たのは「1」。薬師如来と門戸厄神明王が示したのは日本海、舞鶴である。この時季で舞鶴が出たか・・。もっともこの冬は暖冬傾向だから雪の心配はほぼなさそうで、ならば早いうちに行ってしまおう。なお多祢寺に行くならば西国三十三所の札所で同じ丹後の成相寺、松尾寺もセットで行くつもりで、移動手段も変則ルールを適用する予定だ。これについてはその時に詳しく。

さてこれで門戸厄神東光寺のお参りを終えて、次々にやって来る初詣客とすれ違いながら駅に戻る。結局屋台では買い物をせず、このまま梅田に行って立ち飲みにでも入ることにする。

門戸厄神から西宮北口まで1駅戻り、梅田方面に乗り換えようとしていったんコンコースに上がると、日本盛のスタンドを見つけた。もっともここは立ち飲みスタンドではなく、蔵元直送の生しぼりたて原酒の量り売りをする店である。お土産で300mlの生原酒を注文すると、空の瓶を取り出して後ろにあるサーバーに注ぎ、そこで封をする。初めて見る光景である。

一般に店舗で売られている日本酒は殺菌のために加熱され、さらにアルコール度数の調整のために水を加えて出荷されるのに対して、生原酒は熱や水を加えないものである。昔は酒を造っていた人たちしか飲めなかったという貴重なものだが、今は保存技術が進んだためかこうして「駅ナカ」でもいただけるものになった。これは地元ならではだろう。ただし一般の日本酒と比べると賞味期限が購入後1週間と短く、必ず冷蔵庫で保管するように言われた。

この生原酒の画像がないのが残念だが、帰宅後何日かしてお神酒代わりにいただいた。水で調整していないためにアルコール度数が18~20%ほどのままで、ちょっときつく感じる。それでもこれが日本酒元来の味なのかなとふわ~っとした心持ちになる。どっしりした味だが、先の新潟旅行から持ち帰ったアテともよく合った。

さて令和2年に入ったが、西国薬師めぐりもこれからが本格的になっていく・・・。

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大学の体育会系って・・・

2020年01月20日 | ブログ

いいよね、羨ましいよね。

確かに上下関係が厳しいし、先輩の言うことは絶対服従。先輩や監督、コーチから「やれ」と言われれば相手チームの選手に負傷させるくらいは朝飯前。

ただ一方で女とはヤリたい放題だし、就職活動では体育会系というだけで優遇されるし、大麻も吸い放題。

羨ましい。

こういう環境の連中が五輪代表でデカイ面をしているとか、長年の◯◯大学の伝統をカサにエラソーにしている。それが生涯通用するのだから、いい身分ですこと・・・。

 

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夜行バス「ギャラクシー号」にて帰阪

2020年01月18日 | 旅行記B・東北

4日間にわたる年末年始紀行もようやく最終の夜となった。帰りに乗るのは福島・郡山~京都・大阪を結ぶ夜行バス「ギャラクシー号」である。近鉄バスと福島交通が運行しており、元日夜の福島~大阪便は福島交通の担当。ネット予約時に座席図を見るとちょっと変わった形だったので確認すると、2階建てタイプの車両とあった。

今回は郡山駅から乗る。改札を出るとイルミネーションが出迎える。その中に「楽都 郡山」とある。郡山は戦後の復興の中で音楽活動が盛んになり、市民の人たちの音楽への情熱がいつしか「楽都」に発展したという。その復興の様子は「東北のシカゴから東北のウィーンへ」と称されるそうだ。

駅前にもオブジェがあり、郡山で結成された音楽グループのGReeeeNの歌詞も紹介されている。今も地元の若者が集まり、イルミネーションとともにスマホカメラに収まっている。

コンビニで何がしか買い求めてバスが来るのを待つ。先に名古屋行きの便が来て、その後に大阪行きが来た。果たして2階建て車両だ。郡山駅からは10人あまりが乗車のようである。

今夜の座席は1階席の入口脇。2階は3列シートが並ぶが、1階席は1-2人掛けシートが2列だけ。その中の2列目の1人掛けシートである。前には先客がいるが後ろは席がないため、リクライニングも気を使わずに済む。もっともこの日はこのスペースが荷物置き場になっていて、そう深くはシートを倒せなかったが。

この先2ヶ所乗車停留所がある。消灯までまだ時間はあるし、通路向こうの2人掛けシートはまだ客がいない。夜行バスではタブーだが、カーテンを開けて外の景色を見る。スマホの位置情報ではまず国道4号線を南に向かっているようだ。

20分あまり走った須賀川で、1階席の通路向こうの2人席に男性が一人ずつ座った。この先須賀川インターから東北自動車道に入る。最後の矢吹泉崎バス停では乗客がなく、後はこのまま京都、大阪を目指す。1階席はちょっとした個室感覚で、夜行バスとはいえどもある程度は眠りのよい状態で一夜を過ごせそうだ。

22時すぎ、栃木県に入った那須高原サービスエリアで休憩。外に出られる休憩はこの1回だけということでほとんどの客が外に出る。トイレを済ませて土産物コーナーに向かう。

高原に近いサービスエリアということで乳製品や肉製品、洋菓子などが並ぶ中、やはり栃木~宇都宮ということで餃子の土産も並ぶ。そこで見つけたのが「ご飯にかけるギョーザ」の小瓶。こうしたものがあるのは初めて知ったのだが、発売以降テレビでもたびたび紹介され、ネットでも話題になっているそうだ。名前の面白さにひかれ、今回の旅の最後に思わぬ形で栃木土産も加わった。

餃子の餡をご飯にかけて・・というものだが、肉の代わりにおからを使っている。また歯ごたえの面ではピーナッツを使っている。餃子の風味はごま油とラー油。帰宅後にご飯にかけていただいたが、食感は餃子そのもので美味かった。また冷奴に乗せてもよかった。他にも薬味代わりに使えそうだ。

後は眠るだけである。1-2列シートのために3列シートよりも通路が広く取られているので隣を気にすることもない。まあ、それでも乗務員の休憩のために停車する時は目が覚める。スマホで位置を確認すると、1時半で東名高速道路の足柄サービスエリアだったが、その次が5時前で新名神高速道路の土山サービスエリアだったので、その間はしっかり眠ったようである。

定刻では京都駅着が6時23分とあったが、40分ほど早く到着した。ここで下車する客もそれなりにいる。

確か時刻表では名神大山崎、高槻、茨木を経由するとあるが、多客期ということで客扱いは行わないという。そのため京都駅からは第二京阪~近畿道~阪神高速東大阪線~環状線~守口線という変わったルートを通り、東梅田に到着。東梅田と、次の湊町バスターミナルでほとんどの客が下車した。

定刻では8時着のところ、40分早いままにあべの橋に着いた。ここで下車するのは私だけだった。終点はUSJということで、私のキャリーバッグだけをポンと下ろすと、そのままあっさりと行ってしまった。終わりは何ともあっけないものだった。

まだ7時30分にもなっていないが、百貨店の初売りを待つ客の行列が伸びている。構内には琴のメロディも流れる。正月朝独特の雰囲気である・・・。

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駅前温泉と会津郷土料理

2020年01月17日 | 旅行記B・東北

会津若松駅に戻り、雨の中を駅前にある「富士の湯」に向かう。前の記事で、温泉に「心当たり」があると書いたのはここのことである。

とはいうものの久しぶりに来るところで、確か以前は光明石を使った人工温泉ではなかったかと思うが、今は天然温泉を名乗っている。それでも入浴料金が450円と安く、タオル類を借りようとしたら280円の「やすらぎセット」というのがあった。合計730円で館内着つきなら妥当な値段である。

浴槽はさまざまあり、まずは室内には大浴場と薬湯、サウナがある。また外には石造りの露天風呂、壺湯、炭酸泉などが揃っている。いろいろな風呂を入り比べるというのもよい。外はガラス窓で仕切られているが、先ほどの雨が雪に変わった。1日の中で目まぐるしく天気が変わる。

会津若松に来たら歴史ある東山温泉に浸かるのがよいのだろうが、駅前で銭湯価格で入れる「富士の湯」は鉄道旅行の強い味方である。元日営業で大勢の客で賑わっているが、観光で訪ねた人も少なからずいるかもしれない。

しっかり入った湯上りだが、ビールは夕食時までお預けとしてしばしリラックスすることにする。2階に休憩処があるが、やけに静かだと思ったらここは仮眠室の扱いで、「やすらぎセット」の館内着利用のみが入ることができるとある。タオルを借りるつもりで追加購入したが、休憩処利用もできるとあれば、さらにお得感が出てきた。

他にも寝ている人がいるが、静かだし、ホットカーペットが敷かれているし、これはリラックスできる。元日の昼下がり、ちょっとだけ「寝正月」としよう・・・。

心身がリラックスできたところで、そろそろ夕食の時間である。入ったのは駅前の「こだわりやま」で、別に会津若松のオリジナル店ではなく、大手居酒屋チェーンの支店である。会津の郷土料理をいただける店ということで事前にグルメサイトで検索したが、行くのは元日ということで多くの店が休業であった。ただその中で、チェーン居酒屋だが会津料理もいろいろあるのを見つけ、また座席のみ予約していた。前夜の新潟同様、開いている店が少ないので満席だったら困る・・・ということで予防線を張ったのだが、結果としてはそこまでする必要もなく、スムーズに入ることができた。

会津に来たからには馬刺しである。この店でも一番人気のメニューだという。盛り合わせがあり、赤身、ふたえご、あともう一つはどこだったか珍しい部位の三種が出てきた。これを辛子味噌、にんにくをふんだんに混ぜていただく。会津で馬肉が郷土料理なのは、元々交通の要衝で馬の需要があり、その中で自然と馬肉を食べる文化が育ったとか、戊辰戦争の時に負傷した兵士の回復のために馬肉を食べさせたというのが広まったからとか、いくつかの要素があるそうだ。ただこれは前に別の店でいただいた時に聞いた話として、現在流通する馬肉の多くは外国からの輸入品か、あるいは外国から生体の馬を輸入して、日本で飼育した後に加工したもので、純国産というのはなかなか出回らないという。まあ、私としては特に地元産にまでこだわってはいないのだが。

いきなりメインディッシュを味わった形だが、これでひとまず安心し、あとはこづゆ、にしん山椒、いか人参という昔からの郷土料理をいただく。このこづゆ、会津では元々武家の食事メニューだったが、今でも祝い事の席に必ず出るという一品である。この後会津若松を出発する時に土産物コーナーをのぞくと、自宅でも手軽に食べられるようにカップに湯を注ぐタイプのものや、具材をレトルトカレーにしたものなどもあり、身近な一品といってもいい。もっとも、こづゆと、前日までいただいた新潟ののっぺ、似たメニューである。

こうしたメニューとなると、飲み物も自然に地酒に移行する。ここも別紙や壁紙に地酒のメニューが並び、会津の酒がその特徴とともに紹介される。その中で南会津の「國権」の力強い書体に引かれて一杯飲む。その字体を見て、会津の「ならぬものはならぬものです」という精神や、そういえば自由民権運動も盛んだったよな等と想像しながらいただく。他には猪苗代の「七重郎」というもの。

十分満足して、これで会津若松めぐりは終了である。外は暗くなり、雪もいつしか止んだようである。駅内の土産物コーナーで買い物をして、バッグの中は越中、越後、庄内、そして会津のいろいろなもので一杯になった。これを片付けるのには結構時間がかかりそうだが、その分長く旅の思い出に浸れそうである。

会津若松発19時05分の郡山行き快速に乗る。当初、遅れている会津鉄道の列車の接続を待つために発車が数分遅れるとの案内があり一瞬ヒヤッとしたが、乗り継ぎ客もほとんどなかったようで定刻に発車する。夜なので磐梯山も猪苗代湖も見ることなく淡々と進む。

20時15分、郡山に到着。これから乗るのは21時発の夜行バス「ギャラクシー号」だが、列車が無事に間に合ってよかった。最後はこのバスに乗れば、あべの橋まで乗り換えなしである・・・。

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会津若松の羽黒山「元朝まいり」

2020年01月16日 | 旅行記B・東北

鶴ヶ城の「元旦登閣」から循環バス「あかべぇ」に乗って会津武家屋敷に着く。「あかべぇ」はこの先東山温泉まで運行するのだが、昼の時間帯は東山温泉まで行かずここで折り返す。

会津武家屋敷は確か以前にも入ったことがあるスポットで、武家屋敷だけではなく資料館や体験工房も備えた「会津の感動歴史ミュージアム」という。元日も開いているので入ればよいのだが、なぜか見送る。この時の気持ちを振り返るに、ちょっと工房や土産物販売が前面に出ているように感じられ、ならば別にいいかとなったようである。

東山温泉までは歩いてもそれほど遠くないが、だらだらした上り坂が続く。おまけに、これから向かう場所への分かれ道から先はさらに上りとなる。今からこれでいい「準備運動」か。

着いたところには「羽黒山」と大きく書かれた額が掛けられた鳥居がある。その奥には樹齢も長そうなもみの木がご神木のように伸びている。ここは羽黒山湯上神社。2020年の初詣は出羽三山の一つ、羽黒山ということになった。

もちろん、会津と出羽は離れていて、ここにあるのは出羽三山そのものではないが、密接なつながりはあるそうだ。歴史を見てみると、羽黒山湯上神社は奈良時代に行基により開かれたとある。三本足の烏に導かれたのがこの地だそうで、その由来も出羽三山の羽黒山と似たものがあるそうだ。長く修験道の拠点として神仏習合の歴史があったが、明治以降は堂宇は廃されて現在の神社となった。

東山温泉じたい来るのが初めてだが、目的地が羽黒山湯上神社というのはなぜか。会津若松の観光サイトで見つけてしまったのだから仕方がない。会津若松で元日でも回れるところというので検索したら、まず先ほどの鶴ヶ城の「元旦登閣」があった。会津盆地の眺めも見られたし、縁起物もいただいたのでよかった。

そこに出てきたのが、「東山羽黒山元朝まいり」というものである。福島県の観光情報サイトの記事には、「みちのく独特の白い雪の中、1225段の階段の参道を登り元朝参りする会津の伝統行事。善男・善女で賑わいを見せる。天平元年(729年)建立で会津地方で最も古くから参拝者で賑わう寺社の一つです」とある。今は昼を回っているが、夜から朝にかけては地元の人や東山温泉の宿泊客が初詣に多く訪ねたのだろう。

そこにある「1225段」に目が止まった。札所めぐりをする者に対する何か挑発のような、誘惑のようなものを感じた。ただ冬のことである。雪に覆われていたらいくら伝統行事といえども無理な話だろう。そこは天候を見て決めようと思っていた。それが見ての通り、雪など全くない市内である。これは行かなければならないだろう。

階段の登り口の両側に小屋があり、両側に座る巫女さんから「おめでとうございます」と声がかかる。1200段か・・西国や四国を見て、遍路道ではなく境内の参道でこの数の階段を上らせるところがあったかなと振り返る。

階段の脇には「◯番」と刻まれた石の観音像がある。これは1丁ごとと間隔が決まっているわけではなく、いわゆるお砂踏み霊場なのだが、これが三十三番まで数えられると到着なのだろう。歩く時の目安になる。

もっとも、観音像も長年の風雪のためか崩れているものも多い。そうした脇には地元の人が改めて奉納した像も並ぶが、観音像とは限らず、大日如来や不動明王も多い。阿弥陀如来もあったかな。そこは神社だからこだわりはないのだろう。それにしても、神社の参道に今でも三十三観音が並ぶというのも貴重なケシキだと思う。

ただ、坂は結構ハードだった。上り始めからいきなり真っ直ぐ伸びる長い階段である。それでも下りて来る人と「おめでとうございます」と声を掛け合いながらすれ違う。賑わうというほどではないが、子どもからお年寄りまでそこそこの人がお参りしている。日付が変わる頃から明け方にかけてはより多くの人が上ったことだろう。帰宅後に過去に参拝した人の記事など見ると、積雪時の参拝は実に難儀するもので、途中で断念して引き返すケースもあるようだが、この日は全く問題ない。
 
途中立ち止まって息を整えたり、階段脇の観音像を数えながら歩くこと25分くらい、ようやく最後の石段が現れて、その奥に小さな木造の社殿が見えた。
 
「羽黒山」の額がかかる社殿は防寒のためか扉が閉められていたが、お参りの人が入れ替わり出入りする。雰囲気からして普段は無人かと思うが、元朝参りだからか中には巫女さんもかしこまって座っている。ここで手を合わせて、2020年の初詣とする。
 
外にはスポーツウェア姿の男性の姿がある。会話しているのを聞くと、この日すでに7往復くらいしているという。1225段は格好のトレーニング場のようだ。そういえば社殿の壁には(もちろんいけないことなのだが)、どこかの部活で登頂したことがいくつも落書きされている。
 
私もゆっくり下る。終盤のほうで、先に下りていた男性がまた小走りに上ってきたので道を開ける。それにしてもタフな方だ。
 
上り口の巫女さんから「よくお参りでした」と送られ、樽に入ったお神酒をいただく。往復で1時間あまりの道のりだった。
 
帰りは東山温泉の旅館街を歩く。チェックインには早い時間のためか人の姿はまだほとんど見えない。東山温泉は先ほどの羽黒山と同じく行基により開かれた長い歴史があり、江戸時代には会津藩の湯治場であった。民謡で「朝寝朝酒朝湯が大好きで」と歌われた小原庄助が入っていた朝湯とは東山温泉とされる。
 
せっかくなのでと案内板を見ると、この先に足湯があるという。それならと行くが・・・冬季休業。浴槽はあるが湯は入っていない。まあ、そうだろうな。
 
戊辰戦争の時には新撰組の土方歳三も傷を癒したそうで、その岩風呂もある。ただこれは見学用で立入禁止。
 
元日なので閉まっていた観光案内所には日帰り入浴可能な旅館の案内図が貼られていたが、時間も合わないし値段も高い。まあ、ここで無理に入浴しなくても、私にはこの後に心当たりがあるので、そちらに向かうことにする。
 
帰りのバスは東山温泉経由だったので乗り込む。循環ルートの北東部を通り、橡生の飯森山入口からは白虎隊史跡帰りの客が乗り込んでくる。もうすぐ駅というところで雨が落ちてきた。先ほど羽黒山湯上神社を目指す途中で雲が広がってきたのだが、ここで雨になったか。羽黒山の神と観音さんは雨を避けてくれたようだ。
 
駅に到着。まだ早い時間だが、町歩きはおしまいにして郡山行きの列車までゆったり過ごすことにする・・・。
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鶴ヶ城「元旦登閣」

2020年01月14日 | 旅行記B・東北

元日の午前、会津若松の駅前は青空が広がっていた。久しぶりに会津を訪ねるのだが、その時は2月の雪の時季で、雪のイベントも行われていた。この冬は暖冬傾向ということはかねてから言われていたが、ここまでとは思わなかった。新潟、山形まで来たところで、前日の大晦日は強風こそ吹いたものの、降ったのは雪ではなく雨だったし、吹雪くということはなかった。

全国各地のスキー場でもこの冬は雪不足のために営業ができないという悩みがあるようだ。その原因は地球温暖化にあるとする声も高くなっている。私も冬の鉄道の旅では雪景色を期待して出かけることが多く、今回もそれを意識したコースを取ってはいるのだが、山間部に薄くあった程度である。ただ一方では地元の人たちにとっては雪がないのはありがたいことではないのかとも思う。雪国では道路の除雪作業、家の雪かき、それが連日続く。それがカネになるのならまだしも、日々の暮らしの中で余分な時間と労力が割かれているのではないか。「雪が少なくて面白くない」というのは、雪がない地域に住む人間の勝手な言い分ではないかとも思うのだが・・(と書く一方で、雪解け水は農業のための水資源になるから翌年の作業に影響するのでは、という声もある。一概に良し悪しは言えない)。

というか、「雪がなくて物足りません」って、雪国の連中は何を贅沢なことを言っているのか?これまで悩まされてきた雪による障害がなく、快適な暮らしが得られているではないか?「表日本」からの差別がなくなってよいことではないのか??どないせえちゅうねん???その「北から目線」、実にムカつく。私、何か間違ったこと言ってますか??

さて、会津若松である。見どころがいろいろある中で行き先は絞った。たたその中で鶴ヶ城は外すことはできないだろう。元日は休館となる施設が多い中で、鶴ヶ城は毎年「元旦登閣」というのが恒例となっているそうだ。そしてあともう1~2ヶ所回った後で会津料理で一献、郡山に移動である。

鶴ヶ城をはじめとした市内の観光スポットには循環バスの「あかべぇ」、「ハイカラさん」がある。これに乗ればよいのだが、せっかくなので歩いて向かうことにする。多少ひんやりとはするが澄んだ空気を感じると、大阪にいるのとさほど変わらないようにも思う。

街の中心部を歩いて30分ほどで鶴ヶ城内に入る。途中で長い行列ができているが、城内にある稲荷神社へのお参り客である。

今の鶴ヶ城の元となる黒川城は約600年あまり前の南北朝時代に芦名直盛により建てられた。その直盛だが、当初築城のための縄張りをするもののなかなかしっくり来るものができなかった。そこでこの地の田中稲荷に祈願したところ、夢の中で狐のお告げを受けた。直盛が目覚めて外を見ると雪が積もっており、狐らしき足跡が残っていた。この足跡をたよりに城の縄張りを行ったところ、見事なものが出来上がった。これにより建てたのが黒川城で、田中稲荷を城内に勧請したのがこの鶴ヶ城稲荷神社である。これだけ並ぶとは、地元の人たちには身近な初詣の神社なのだろう。たださすがに長時間並んでまでとは思わず、列の向こうからちょっと手だけ合わせる。

やってきた天守閣。鶴ヶ城の天守閣は明治時代に解体され、戦後になってから復興再建されたものである。私が見覚えがあるのは黒い瓦屋根だったのだが、今来てみると赤くなっている。これは2010年~2011年にかけて行われた修復工事によるもので、何でも解体される以前は赤い瓦屋根だったそうである。白虎隊も仰ぎ見た当時の姿に再現したということか。

天守閣の入口では「縁起めしべら」というものをいただいた。「食事に不自由しない」とか「敵を召し取る」という意味がある縁起物である。これも「元旦登閣」の先着順の進呈だそうだ。また「初夢大抽選会」というのもやっていて、縁日にあるようなくじを引くのだが、残念ながらこちらははずれだった。

まずは鶴ヶ城の歴史ということで、先に書いた芦名直盛からはじまって、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明、保科正之といった歴代の黒川城~鶴ヶ城にかけての城主の紹介がある。復元された甲冑も飾られている。

保科正之以降は松平氏が代々治めた会津だが、やはり歴史の中で大きく登場するのは戊辰戦争、白虎隊である。特に白虎隊は悲劇のヒーローとして現代でも人気が高く、こちらの展示コーナーは特に大勢の人が時間をかけて見学している。

数年前の大河ドラマの主人公である新島八重のパネルもある。新島襄の妻ということだが歴史的知名度があったわけではなく、やはり東日本大震災からの復興支援で無理にでも東北を取り上げなければならなかったのだろうと推察する向きもある。まあそれでも、今は会津ゆかりの歴史的人物の一人となっている。さまざまなきっかけはあるものだ。

最上階から会津盆地の景色を見る。見渡す限り雪の気配はない。城内の松に被せられた雪避けも今のところは効力を出していない。

元旦登閣は好天という巡り合わせで満足して、鶴ヶ城を後にする。次は循環バスの「あかべぇ」で東山温泉に向かう。別に温泉に入るわけではなく、たまたまあるスポットを見つけ、そこを初詣の地とすることにしたからである。新年早々、そこそこハードな初詣になったのだが・・・。

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磐越西線で会津の地へ

2020年01月14日 | 旅行記B・東北

明けて2020年。この記事を掲載しているのはもう松の内も明けた頃合いだが、紀行文の中では謹賀新年、本年もよろしくお願いしますである。

このブログでは元日付で「謹賀新年」の投稿を行っているが、夜中に一度目が覚めた時にスマホでポチポチ入力したものである。そしてもう一眠り。なんとまあ。

起きたのはいつもの生活と同じ朝の5時、テレビをつけると「日本で一番早いお笑いバトル」という「フットンダ王決定戦」をやっている。「布団がふっ飛んだ」というダジャレにかけて、大喜利のお題が出てそれがウケたら布団が飛ぶというやつである。このところの年越し旅行で、年明けになぜかチラ見する番組である。

それはいいとして、途中のCMがローカル局らしい。新潟の街並みや、富士山などをバックにして地元企業の「謹賀新年」のメッセージが流れるCMである。そのCMを出すのも地元の「◯◯工業」とか「△△不動産」とか、新潟市内のスナックとか、日常の番組ではCMなど流さない企業がほとんど。ここに初詣の案内ということで白山神社や新潟県護国神社も加わる。これは他の局も同じようなものだったから、元日の早朝のスポンサー枠を埋めるのも大変なのかなと思う。

何となくボーっと過ごすのももったいなく、大浴場でシャキッとした後で朝食会場に向かう。新潟の郷土食材もあるし、正月ということでおせち食材もあり、雑煮の注文もできる。本格的な正月料理は翌朝大阪に戻ってからのことだが、まずは旅先で年の始めである。

さて朝の8時、結局新潟市内の神社には向かわず新潟駅に向かう。仮設の8・9番線から出るのは8時25分発の快速「あがの」会津若松行きである。この日は会津若松に向かい、日中はこの町中で過ごした後で郡山に移動。郡山から大阪行きの夜行バス「ギャラクシー号」に乗る。大阪まで夜行バスに乗るのなら新潟からでも長岡からでも便があるが、ここまで来たのだから久しぶりの会津若松も訪ねてみようと思った。

「あがの」はキハ110の3両編成。元日だからか乗客の数もそれほどなく、誰もいないボックス席もある状態で発車する。会津若松までは2時間20分の旅だ。

新津から磐越西線に入る。雪がちらついており、車窓ではおそらく数センチくらいしかないだろうが積もっている。内陸部に入るからだろうか。

馬下、咲花あたりから阿賀野川沿いに走る。ここからは渓谷が左右に移るが、車内が空いているのでその都度席を変えて車窓を見る。この時季なのでモノトーンの風景だ。磐越西線の新津から会津若松までの区間は「森と水とロマンの鉄道」という愛称があるが、その名前がよく合っているように感じる。

いつしか新潟県から福島県に入る。だからというわけではないが空も晴れて来たし、雪もなくなった。

喜多方からはそこそこの数の乗客があった。左手には磐梯の山々が見えるはずだが高いところは雲に覆われている。もうすぐ会津若松である。

10時46分、会津若松の行き止まりホームに到着。この駅のホームに降り立つのも久しぶりである。この日は夕方まで会津若松を回ることに・・・。

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