まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

夜の美観地区ライトアップ

2018年10月28日 | 旅行記F・中国
川辺宿駅14時13分発の「夢やすらぎ号」の車両で井原に到着。井原はデニムの町というのをPRしており、駅舎内にはデニムショップも設けられている。

このまま列車に乗るのなら15時09分発の神辺行きだが、今回は趣向を変えて、14時57分発の笠岡行きのバスに乗る。この路線バスに乗るのは初めてだ。かつては井笠鉄道という軽便鉄道の路線が走っていたが1971年に廃止、その後はバス事業を行っていたが2012年に事業を停止し、会社も解散した。その後は中国バスの社内子会社として井笠バスカンパニーという会社がバス路線を引き継いでいる。

バスは軽便鉄道とは違って峠を最短ルートで越えていくようで、順調に走って行く。30分ほどで笠岡駅に到着した。少し駅前をぶらついてもよかったのだが、駅に入るとちょうどホームに列車がやって来たのでそのまま乗ってしまう。

宿泊地である倉敷に到着。宿泊するサンプラザホテルは北口を出てすぐのところにある。駅前にはアリオ、三井アウトレットモールがあるが、かつては倉敷チボリ公園というテーマパークがあった。その名残が駅前のロータリーに残っている。

チェックインすると、いったん外に出た2号館を案内される。シングルルームだが、真ん中のベッドの奥にもう1台、ソファーとしても使えるベッドがある。実質ツインルームと言ってもいいだろう。なかなか静かな環境である。

さて夕食ということで出かける。岡山県第二の町ということで駅前にもさまざまな店がある。実はある店に行こうと思っていたのだが、開店時間の17時になっても灯りがつかない。のれんや看板は普通に出ているから閉店したわけでもないだろうが、ちょっと計算外れだった。駅前をぶらつき、結局入ったのはチェーン店の「はなの舞」。一応瀬戸内料理もあるというので入ってみた。造り盛り合わせ、黄ニラなどいただく。この日のお勧めはキビナゴとあった。キビナゴといえば鹿児島の名物ではないかと思うが、漢字にすれば「吉備女子」。瀬戸内に縁がないわけではなさそうだ。

さて倉敷といえば美観地区だが、夜間はライトアップをしているそうだ。今回施設の中に入ることはないが、せめて外観だけでも見ておこう。商店街を抜けた先が美観地区である。

ライトアップとは言うものの、灯りは全体的に抑えられているように見えた。シンボルの大原美術館は建物が目立つように照らされているが、その他は自然な感じ。すれ違う人の顔もはっきりとわからないくらいだ。

一通り散策したところで駅に戻る。翌日20日は大相撲の総社場所である・・・。
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西日本豪雨被災の真備町を歩く

2018年10月27日 | 旅行記F・中国
高架の吉備真備駅に降り立つ。7月の西日本豪雨から100日あまり経過したわけだが、その時のネット記事やニュース画像を見て、改めて被害の大きさを感じたことである。現在は並走する国道もクルマが行き交っているし、井原鉄道も順調で走っている。「がんばろう」の幟は立っているが、一見すると町は普通の営みに戻ったかのようである。

ただ、そう思ったのも一瞬だけだった。

まずは決壊した小田川の方向に行こうと、高架線路の南側に向かう。以前の姿と比較するということでスマホの地図を航空写真モードにする。

南側は畑も多いのだが、その中に新しい住宅も交じっている。ただ早速、窓が開け放たれ、中ががらんどうになっている家屋に出会う。その後も土手に近い、昔からこの地に住んでいる様子の家もあるが、床板もめくれてしまっている。2階も冠水した様子だ。住んでいた方は避難しているのだろうか。東日本大震災の津波では建物ごと、いや町全体が流されてしまったが、こちらの豪雨ではなまじ建物の外観だけがそのまま残っていて、それもやるせないのではと思われる。

土手に上がる。この先が小田川の決壊現場で、空き地には巨大な鉄の塀が設けられ、その内側が流木置き場となっている。真備町の被害は小田川の決壊によるものだが、その危険性はかねてから指摘されており、小田川の付け替え計画というのも進められていたという。過去の歴史を見ても決壊したことは何度もあったそうだ。

「川の付け替え」ということで思い出すのは、私の地元を流れる大和川の付け替え。昔は柏原で石川と合流して河内平野を北に流れ、最後は淀川に合流していたが、川の流れで運ばれた土砂が底にたまり、周りの田畑よりも高い位置を流れる天井川になっていたり、河口で土砂が堆積して流れが悪くなっていた。そのために過去に何度も大規模な水害が発生していた。それを江戸の元禄の頃、中甚兵衛という庄屋が中心となって大和川の付け替え運動を起こし、長年の歳月をかけて完成した。小学校の社会科の時間で、地域の歴史ということで教わったことである。小田川と大和川では背景が異なるので一くくりにはできないが、今回の決壊については行政の怠慢、人災だという声も挙がっているようだ。

土手を下りる。土手際の支援学校は校庭に設けられたプレハブで仮業務を行っている。ブドウ畑だったのだろうか。ハウスの骨組もめちゃくちゃになり、その中では身がついたまま枯れてしまったブドウの木もある。家によっては解体作業にとりかかっているところもある。その作業をする人や軽トラは見かけるのだが、住民の姿は見られない。平日と休日では事情が違うのかもしれないが、被災して100日あまりでまだ手つかずのところが多いのが気になる。

再び駅に戻り、今度は線路の北側を目指す。こちらは建物の1階相当のところが浸水したところが多いようだ。駅に近いところが倉敷市の真備支所(旧真備町役場)で、現在もボランティアセンターの役割があり、復旧に必要な工具類も置かれている。訪ねた翌日の20日には補償を求める罹災者の会、説明会が行われるとの看板もある。堤防の拡張のために一部住民に立ち退きを求める動きもあるようだ。

旧西国街道に出る。解体や復旧作業に従事する軽トラや災害ゴミを運搬するダンプカーがしきりに行き交う。この道沿いの家屋にも浸水が見られ、この辺りまでが被害の大きかったところと思われる。

まきび公園に行ってみようと思う。奈良時代の政治家・吉備真備に縁のある地ということで中国風に建てられた公園で、昔に一度訪ねたことがある。そこがどうなっているかということだが、ちょうど記念館の前のスペースで露店が出ていて、大勢の人たちが集まっていた。ただこれは何かの祭りというよりは、地元の人なのかボランティアの人たちなのかが開いたバザーのようだ。ちょうど昼時どが食べ物も炊き出しのような感じだし、ブルーシートの上に衣類が並べられているのも善意で寄せられたものだろう。さすがにこの中に入って何か食べ物をいただくというわけにはいかないだろう。

その奥には、吉備真備の菩提寺である真備寺がある。真言宗の寺院で、正しくは先にこの寺があり、それに隣接してまきび公園が造られたものである。本尊は薬師如来。今回被災された方のお見舞いと今後の復興を祈願して般若心経のお勤めをする。

もうしばらく付近を歩いた後で、吉備真備駅に戻る。ここから井原鉄道に乗ってもよかったが、まだ昼間である。もう少し、真備町の様子を見てみようと、隣の川辺宿駅まで歩くことにした。国道に沿って進み、途中から旧西国街道に入る。店舗も別の場所で営業している貼り紙もあれば、ホームセンターや中華料理店などは看板が残っても中がもぬけの殻だったりする。

途中の図書館には広い駐車場があるが、解体作業で出た廃棄物がダンプカーで次々に搬入されている。また、荷台から落下したものも道路上で結構見かける。

豪雨から100日が過ぎ、その後も台風21号や北海道胆振東部地震などの災害が発生したためか、今はニュースで西日本豪雨被災地関連のことがほとんど伝わってこない。今でも避難所生活を余儀なくされている方もいるし、また浸水した家屋建物もこれからどうするのか気がかりだ。たかが2時間くらい歩いただけで何がわかるのかと言われるだろうが、復興ということになるとまだまだだなと感じた。何だか気が滅入ってきたところもある。

さて、下ばかり向いてもいけない。復興に向けて明るい話題もある。旧西国街道を歩いて川辺宿駅まで近づいたところに、「かわはら」といううどん屋がある。ご夫婦で経営しているが、豪雨では店舗、自宅ともに浸水した。これからどうするかという中で、地元の人たちから早く再開するよう励まされ、被災に対する補助金の動向を待たずに自ら融資を受けて店をリニューアルした。そして10月7日に営業再開した。

ネットニュースでこの経緯に接したこともあり、昼食はここにしようと決めていた。入った時はたまたま出る客がいたためスムーズに座れたが、13時を過ぎても満席状態である。初めて入る店なので以前の様子を知らないのだが、内装は完全に新装開店だ。お祝いの花やご祝儀袋も飾られている。その中央には、自民党の加藤勝信総務会長の色紙がある。加藤・・・ああ、特に何か実績を出したわけでもないがなぜか安倍の茶坊主として重宝されて様々なポストを歴任して、いつの間にかポスト安倍の大穴か?といわれるようになった人か。地元(笠岡)選出らしい。

注文したのは、イカのゲソ天を乗せたぶっかけうどん。待つ間にも次々に客が訪ねて、大将夫妻とやり取りしている。地元客に支えられてきた店らしい。特に女将さんが元気で、愛想よい接客である。こういう人が地元への元気を与えるのだなと思った。ただ、こうして再開しているのはコンビニやごく一部の店だけで、多くは営業再開のめどが立っていないのも実態である。

川辺宿駅に向かう途中、稲穂をつけた田んぼに出る。この辺りも浸水しているはずだが、苗が流されなかったためかこうして実りを迎えることができた。これも復興に向けての一つの明るい姿ではないだろうか。

川辺宿駅に着く。これからどうするは決めていないが、西の井原行きが先に来るのでそちらに向かう。この川辺宿駅周辺も浸水したところで、ボートで救出された人もいたところだ。

やって来たのは井原鉄道の夢やすらぎ号。水戸岡デザインながら多少年季が入ってきた内装だが、高架区間を快走する。真備町ともこれでお別れだ。

被災地の伝わり方、そして現状への見方はいろいろあるだろうが、現実はまだまだ厳しいものがあるのは確かだと思う。これからも関心を持ち、私でも何かできることはないか。そうしたことを考えなければならないなと、改めて感じたことであった・・・。
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宿場町矢掛

2018年10月24日 | 旅行記F・中国
高架ホームの矢掛で下車する。日中は係の人がいて乗車券や井原鉄道グッズの販売を行っている。また駅舎も昔の屋敷風にこしらえられている。

矢掛は山陽道(西国街道)の宿場町として栄えたところで、元禄の頃からは庭瀬藩の所領となった。幕末には天璋院篤姫も宿泊したという。

井原鉄道の駅から5分ほど歩くと西国街道に出る。現在の幹線道路は国道486号線だが、一本手前の旧道が観光スポットである。脇本陣の建物が残されていたり、昔の家を飲食店に改装したり、なかなか賑やかな通りである。毎年11月(今年は11日)に大名行列の祭りが行われる。奥方と姫君は毎年公募しており、大名行列の観光ポスターにも登場する。この時に来れば賑わう町の様子を楽しめるのだが。

その中心にあるのが本陣の石井家。造り酒屋を営む町庄屋で、代々本陣職を務めた。その建物は重要文化財として公開されている。こちらに入ってみる。

御成門というのがある。大名が宿泊する時はこの門から入ったそうで、表玄関の役目も果たしている。ここを正面として座敷が広がり、上段の間には簡素ながらも襖絵や欄間が施されている。

また、庭に面しては犬養毅の書も掲げられている。犬養毅の生家は庭瀬藩の庄屋で名字帯刀も許されていたそうだ。

敷地の奥は蔵がいくつかあり、酒造蔵が史料展示コーナーになっていた。宿場町としての矢掛の歴史が紹介され、どこどこの藩のご一行様がお泊まりという札も並ぶ。西国街道ということで薩摩や長州なども利用していたそうだ。

現在の石井家は醤油の醸造をしている。通り沿いの交流館では小瓶が売られていて、名物のゆべし餅と一緒に買い求める。アンケートに答えると100円引きというのをやっていた。矢掛の町もいろんな声を聞いて今後の活性化を図るということか。

先ほどの本陣石井家の受付でも、どこから来たか、泊まりはどこかと訊かれて、その答えを紙につけていた。宿泊が倉敷だというと残念そうな表情だった。逆に矢掛町内なら何か特典があったのか。「井原線は回数が少ないけぇ不便でしょう」と言いながら井原鉄道の紙の時刻表を渡してくれたが。

駅に戻り、11時33分発の清音行きに乗る。向かうのは吉備真備駅。矢掛町から倉敷市真備町に入ると再び豪雨災害の景色が見える。その中を少し歩こうと思う。野次馬的な感じで申し訳ないのだが・・・。
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井原鉄道へ

2018年10月22日 | 旅行記F・中国
19日の朝、大阪5時58分発の姫路行きに乗る。珍しく平日に遠出するわけだが、平日ダイヤだと近鉄の始発も早いため、この時間の列車に乗ることができる。その先も早い便につなぐことができる。大阪駅から座ることができたが、三ノ宮や明石、加古川など主要な駅では通勤通学客の入れ替えもあり、終点姫路に着く時にはかなりの立ち客もあった。なお天気予報では晴れだったが、兵庫県内は厚い雲が広がり、西のほうでは結構強い雨も降っていた。

7時30分に姫路に着き、ホームの向かいからすぐに発車する伯備線直通の新見行きに乗る。今回まず向かうのは井原鉄道で、その始発である清音、または総社は伯備線の駅だからちょうどよい。列車は通学の高校生を中心に満員だが、相生、そして上郡で下車して、上郡から先は2人掛けシートを一人ずつで占めるくらいの人数になった。平日の朝、通勤通学の移動が終わる時間帯である。また、秋の乗り放題パスの期間中ではあるが、青春18きっぷほど利用者もいないのだろう。連続した3日間有効だが、10月6~8日のような三連休でなければなかなか使おうとはいかないのかな。昔、JR西日本が西日本エリア限定で1日タイプのパスを出していたが、いつの間にかなくなってしまった。

列車は岡山県に入る。少しずつ雲も晴れてきたようである。そのまま順調に走り、9時08分に岡山に到着した。ここで10分停車である。

と、その前に、9時11分に山陽線の三原行きが先に発車するという。これは、と思いそちらに乗り換える。なぜかと言えば手荷物のためである。この先清音を含めた井原鉄道の駅にコインロッカーはなく、宿泊地の倉敷で下車して伯備線の列車を1時間後の便にするか、いったん先に総社まで行って、井原鉄道の列車を1時間後の便にするか(総社で預けるとまた戻ってこなければならない)どちらにしようかと思っていた。重いバッグを担いで回る選択肢はない。

そんな中で、倉敷まで先行する列車があったとは。これで倉敷まで行き、いったん改札口を出てコインロッカーに荷物を入れ、7分後にやって来た新見行きに乗る。時刻表のトリックというほどのことでもなく、現地のアナウンスで初めて知ったことだがラッキーだ。

さすがに岡山まで座っていた席には他の客が座っていたが、清音までは1駅、9時44分に到着した。次に乗る井原鉄道の9時48分発の神辺行きは、いったん駅舎を出て連絡通路から乗り換える。

井原鉄道は今年の正月休みの時に、その時は単に時間が余ったから足を延ばす意味で乗り通している。もちろんその時は西日本豪雨で運休になるなど全く思わなかった。7月6日~7日の豪雨で倉敷市真備町や総社市は大きな被害を受けたが、井原鉄道は多くが高架区間だったこともあり、路盤が土砂崩れの被害に遭うとか、線路が冠水するということはJRと比べては少なかった。ただ、電気系統の浸水被害もあり、三谷から神辺は7月10日に運転再開したが、清音から三谷まで再開したのは9月3日からとなった。関係者や沿線の皆さんの懸命の力だっただろう。

列車は清音を出て、高梁川の橋梁を渡り川辺宿に着く。ここから隣の吉備真備、その次の備中呉妹までが真備町で被害の大きかったところである。高架区間なので少し町を俯瞰する感じで走って行く。

以前に東日本大震災で町全体が津波に呑み込まれたところを訪ねたことがあるが、それと比べれば、パッと見た感じでは家は普通に残っているのでそれほど被害がなかったのだなと錯覚してしまう。しかし、走る列車の窓から見ても、家屋の窓にガラスがなかったり、堤防の修復箇所や流木その他の廃棄物の堆積場などが目につく。後ほど、吉備真備駅には戻る予定である。

「後ほど」としたのは、その前に矢掛に行くためである。これまで井原鉄道に乗った中で、沿線の代表的な観光地である矢掛には降りたことがない。今回は大相撲総社場所~真備町を歩く~が目的だが、時間を活用して隣町の矢掛も訪ねようと思う。こちらは同じ小田川沿いだが、真備町と比べれば被害はごく少なかった。地元の人にすれば微妙なすれ違いがあるのかもしれないが・・・。
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西日本豪雨の被災地へ~きっかけは大相撲秋巡業

2018年10月21日 | 旅行記F・中国
7月6~7日にかけて発生した西日本豪雨。その中で特に被害の大きかった地域の一つが岡山の倉敷市真備町である。高梁川に合流する小田川の堤防が決壊して広範囲で冠水が発生し、死者51人(豪雨全体では200人あまりの死者が出たが、その中でも最も多くの犠牲者が出た)、町の4分の1が浸水し、その深さは最大で5メートルを超えるものだった。避難指示への対応や、ハザードマップがどのくらい効果があったのかについてはさまざまな見方があって私がどうこう言えることではないが、今年のショッキングな出来事の一つであることには間違いない。

今年は自然災害にも悩まされる年で、西日本豪雨もそうだし、大阪でも大きな影響が出た台風21号(私の勤務先も被害に)や、北海道地震もあった。後は、冬になってまた記録的な豪雪で大きな被害ということのないよう祈るばかりである。

台風といえば、7月には日本列島を東から西に通過した台風12号というのがあった。この時、ちょうど大相撲の夏巡業見物と、西国三十三所めぐりの組み合わせで岐阜の大垣と谷汲に行く予定にしていた。しかし交通機関が止まる恐れも出たことから結局大垣行きは取り止めにした。結果としては台風は夜中に東海地方を通過したため、大相撲の巡業当日は交通機関は不通になることもなく、巡業も無事に行われた。チケットをフイにすることにはなったが、それは仕方ないと割り切るしかない。谷汲山華厳寺だけは後日日帰りで訪ねたのは、以前にも記事にしている。

大相撲の本場所は大阪や、東京在住時代は両国国技館で観戦したことがあるが、これまで地方巡業というのは見たことがなかった。関西なら春場所後の春巡業や、九州場所前の秋巡業でチャンスはあるのだが、平日開催というのが多くなかなかきっかけがなかった。大垣での巡業に行けなかったことを受け、何となくプレイガイドのサイトでスケジュールを見ていると、10月20日の土曜日に、岡山の総社市で「総社場所」が行われるとあった。岡山なら日帰り圏内であるのと、先ほど書いた西日本豪雨のことが結びついた。真備町に隣接する総社市でも被害があり、おそらく、豪雨からの復興支援のような位置づけになるのだろう。別に私は被災者というわけでもないが、中国・四国というところは応援したいエリアである。ともかく、チケットを購入した。

ただし書きのようだが、別に西日本豪雨の被害があったから総社での巡業が決まったわけではない。サイト情報では6月には開催が決まり、チケットの前売りも始まっていたという。

巡業のスケジュールは朝8時に開場、公開稽古や取組がメインで、合間には初切や相撲甚句、力士との握手会なども行われる。興行の要素が強いのだが、これまで相撲の稽古というのをナマで観たことがないので(大阪場所があるとは言っても、さすがに早朝から部屋の宿舎を訪ねようというまでのパワーはなく)、また違う部屋や一門の力士どうしがぶつかるのも見てみたい。ただ、20日の土曜日の早朝に新幹線で大阪を出ても、総社に8時に着くのは無理。

それならばということで、前日19日は金曜日だが有給休暇を取った。有給を取るようにという職場の勧め?もあったのだが、前日泊で移動しておいて、当日朝から会場に行けるようにした。総社には宿泊施設がほとんどないので、手前の倉敷でホテルを押さえる。で、19日に倉敷に泊まるのなら、夕方からではなく早い時間に移動して、現地での時間を増やしたい。

であれば、19日の日中に真備町を訪ねてはどうかと思う。西日本豪雨から3ヶ月以上が経ったためか地元の様子が全国ニュースになることはほぼないが、訪ねてみて改めて何か思うところも出てくるかもしれない。外から訪ねる者としては、被災地を一度見て、それから復興祈念の巡業というのが一つの線になるのではと思った。

ちょうど、青春18きっぷの秋版と言える「鉄道の日記念 秋の乗り放題パス」の利用期間である。連続3日間有効で7,710円。大阪から倉敷、総社までの往復だけで元は取れる。現地へは伯備線の倉敷と総社の間の清音から出る井原鉄道で訪ねる。さて、どのような行程となっただろうか・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~第82番「根香寺」

2018年10月19日 | 四国八十八ヶ所
白峰寺から遍路道を歩いて2時間弱でやってきた根香寺。こちらは堂々とした山門が出迎えてくれる。

根香寺も弘法大師、智証大師の両方が創建に関わっているとされる。弘法大師は五色台のうち青峰にお堂を建てて護摩供を修法したと伝えられており、また智証大師は蓮華谷の霊木で観音像を造り安置したとされる。この霊木が香木で、切り株から芳香を放ち続けたことから根香寺の名前がついたという。

またこの寺には牛鬼伝説が残されている。江戸時代、この地には牛鬼がいて危害を加えていたが、弓の名手であった山田蔵人高清により退治された。その牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納して菩提を弔ったという。山門の外、駐車場の奥に牛鬼の石像がある。わかりやすいキャラクターやな。

山門をくぐると石段はいったん下りになる。しかし30~40メートル歩くと再び上りの石段になる。山門を下った後で長い石段を上ることはこれまでにもあったが、いったん下るというのはなぜだろうか。

石段を上り、大師堂や納経所などがあるエリアまで行くともう一段石段がある。上ると神社の拝殿のような建物がある。ここから左右に回廊があり、本堂はその突き当り、正面奥にある。ただこの回廊は左側から時計回りに通ることができ、全国の信者から奉納された観音像がズラリと並ぶ。

まず回廊の半分を通って本堂の外陣に着く。ここでお勤めをした後、右側の半分の回廊を伝って元に戻る。こういう方式で回る札所というのも他にはなかったと思う。

石段を下りて大師堂に向かう。最近建てられた様子の建物である。

また反対側には五大堂があり、五大明王が祀られている。中でも中心となる不動明王は鎌倉時代、元寇の折伏祈願のために造られたものだという。

境内からは木々の向こうに高松の市街地を望むことができる。今回は先に市街地まで行っているが、順路通りで来ていれば根香寺まで来てようやく高松の街並みを見ることになり、安堵感がこみ上げるのではないかと思う。納経所で朱印をいただき、ベンチに腰掛ける。

ここまで歩いて来たのだからベンチで休憩がてら昼食としてもよいのだが、汗をぬぐって時計を見ると12時50分。そういえばとメモした根香口バス停の時刻表を見ると、次が13時42分、その次が14時47分である。リミットである15時42分より早い便に乗れるのは間違いないが、ふと、13時42分発に乗れないかと思う。納経所横の壁に貼られた地図によれば、バス停までは4キロとある。バスの時間まで50分、寺からは下り坂が続くだろうから時速も上がるだろう。これはチャレンジしてみるか。

この先遍路道は香西方面に続くがそこは通らず県道を歩く。また走り屋らしいクルマも行き交う。五色台というのはそういうスポットなのだろうか。歩くうちに展望も開けてきて、高松市街や、前日訪ねたレクザムスタジアムも遠くに見下ろす。グラウンドに人の姿も見えるが、グランドチャンピオンシップはこの日(8日)は丸亀での試合だから、別の何かの試合なのだろう。

最初はどうかなと思ったが、結構いい感じで下っている。少しずつ下の集落の姿も大きくなってきた。根香口のバス停に着いたのは13時38分、バス発車の4分前である。やれやれ。

高松駅へはことでんバスに揺られる。高松駅まではおよそ30分である。思っていたより早く到着するということで、予定していた16時30分発のバスを早い便に変更することにする。スマホをいじってみると、同じ高松エクスプレス号には空きがなかったが、別路線扱いとなる15時45分発のフットバスに空きがあった。

高松駅に到着。実は昼食がまだだったので、駅前のチェーンうどん店の「めりけんや」で釜玉うどんをいただく。後はターミナルで時間をつぶすなどするうちに時間となった。

フットバスは高松エクスプレスという会社が運行する路線バスで、高松~神戸間のジャンボフェリーの系統である。フェリーとの組み合わせだと特別なチケットが売られている。今回はたまたま利用することになったが、次回シリーズではその組み合わせで高松入りしてみようかなと思う。

高松駅発車時点で結構な乗車があり、市内の途中の停留所からの乗客と合わせるとほぼ満席となった。後は高松道から淡路島へと快走する。淡路島の室津パーキングエリアの手前でちょうど日が暮れた。

3連休の最終日ということで大きな渋滞が予想されたが、阪神高速の神戸線は渋滞していたものの、いつもの「迂回ルート」で新神戸トンネルを通ることで、10分程度の遅れで大阪駅(桜橋口)に到着。ここで大半の乗客が下車した。後は湊町バスターミナルに到着。早いバスにしたぶん早く帰宅することができた。

さてこれで八十八所めぐりは残り6ヶ所となった。一気に行こうと思えば行けるところなのだが、最後にもう少し楽しんでみたいし、いろいろな乗り物にも乗ってみたい。何だか複雑な気持ちである・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~根香寺道を歩く

2018年10月18日 | 四国八十八ヶ所
81番の白峰寺から82番の根香寺まで5キロの道を歩く。この根香寺道は香川県の史跡にも指定されている。台風の影響かどうかはわからないがところどころぬかるんで泥水が出ているところもある。

500メートルほど進んだところに、囲いで覆われた摩尼輪塔がある。この塔は鎌倉時代に建てられたとの銘がある。横には江戸時代に建てられた「下乗」の石柱もある。ここからが聖域だから馬や輿から降りろというものだが、ここは先ほどの白峰寺の入口に当たるということか。

この先は石畳の道もある。ここまでは丁石が順調にカウントダウンされている。山道には違いないがそれほど急な勾配があるわけでもなく、いわゆる「遍路ころがし」とまでは行かない感じだ。ただ金剛杖はあったほうが気分的にもよい。

右手にフェンスが現れる。立入禁止の札もあるから何かなと思うと、自衛隊の演習場とある。自衛隊も遍路道ぎりぎりのところで敷地の境界線を設けたかのようである。

この先、ところどころ水が流れ落ちるところを通る。ちょうど三十四丁のところに閼伽井があるが、この周りもやや崩れている。ここでいったん休憩すると、後ろから白衣と錫杖姿の人が追い越して行った。「この間の台風ですかねえ」と訊かれるが、どうだろうか。

さらに進むと、「陸軍用地」という碑がいくつか見える。陸軍というから明治~昭和にかけて建てられたものだろうが、先ほどの自衛隊の演習場とも関係があるのだろうか。それとも五色台全体が陸軍の管轄にあったとか。

下り坂になり、後ろから走ってきた男性に道を譲る。この男性、先ほど摩尼輪塔の手前あたりですれ違ったのだが、その時も走っていた。あのまま白峰寺まで行って、まだ戻ってきたということか。トレーニングなのか、それとも「走り遍路」というのがいるのか。この根香寺への道中で歩行者に出会ったのは先ほどの白衣と錫杖姿の人と、この男性、そしてもう一人途中ですれ違っただけ。まあ、一定の間隔を持って歩いているから出会わないだけなのかもしれないが。

出発して50分ほどで二十五丁の丁石に着く。距離としては半分で、2時間と言われている中では結構いいペースで来ているのではないかと思う。

さらに10分ほど歩き、十九丁の丁石に着く。ちょっとした広場になっており、ちょうど西洋人の歩きのグループが席を立つところだった。根香寺からの十九丁地点は、東に根香寺、西に白峰寺、南に国分寺という道が合流している。私は前日国分寺を訪ねた後は電車で高松に行き、そして今朝は坂出から高屋回りで白峰寺に来たが、ガチの歩き遍路なら国分寺からこの十九丁地点まで上って来て、いったん白峰寺まで行き、そして同じ道を戻って根香寺に向かうルートなのだという。

しばらく上ると県道に出た。そこはちょうど坂出市と高松市の境界で、これで高松市に戻ってきたことになる。山道の遍路道はここまでで、ここから県道を歩く。それほど急なアップダウンもなく、一時の猛暑もすっかり収まった中では汗はかくものの気持ちのよい歩行だった。

県道沿いに足尾大明神というのがある。足の病気にご利益があるそうで、遍路道沿いだからか弘法大師も祀られている。

県道は結構クルマが飛ばして行く。普通のドライブがほとんどだが、時折スポーツタイプのクルマが轟音を鳴らして通り過ぎる。そんなところで再び山道の遍路道が分かれており、ほっとした感じでそちらに入る。山道はクルマの心配をしなくてよい。

途中に遍路小屋の休憩所がある。テントには、地元の障がい者施設の人たちが栽培したハーブで作ったとあるハーブティーのお接待があり、喉を潤す。ここまで来ると根香寺も近いようで、最後は山道を下って行く。

白峰寺から2時間弱かかったが根香寺に到着。早速お参りとする・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~第81番「白峰寺」

2018年10月17日 | 四国八十八ヶ所
白峰寺の山門前に立つ。18世紀に建てられたものだが、両側に仁王像が立つものではなく、高麗様式というものだそうである。山門をくぐると右手の客殿の門である御成門がある。寺というよりは屋敷の雰囲気である。

山門を入った突き当たりには護摩堂がある。本堂、大師堂はさらに石段を上ったところにあり、足腰の弱い人はここで代わりにお参りくださいとの立札もあるが、ここまで西行法師の道を上がって来たのだからもう何段かは上がらなければならないだろう。なお納経所は護摩堂の中に併設されているので、またここに戻ってくることになる。

急な石段が50段くらいあったか。上りきったところが本堂である。

白峰寺は弘法大師と智証大師の両方で創建されたと伝えられる。まず弘法大師が白峰山頂に如意宝珠を埋めて衆生救済の請願をしたとされる。また智証大師は山頂に輝く光を見て白峰山に上り、白峰大権現の神託を得て、瀬戸内海に浮かぶ不思議な光を放つ霊木に千手観音を刻んで安置したとされる。智証大師もこのところちょいちょい顔を出すようになっている。こちらの本堂は慶長4年(1599年)に再建されたもので、現存する寺の建物としては最も古いものである。なお、白峰という名前は、白峰、黒峰、黄峰、青峰、赤峰という五つの色の名前を冠した峰の一つで、「五色台」という名前はそれから来ている。

連休中のためかお参りをする人の姿も目立ち、次々に白衣、笈摺姿の人たちがやって来る。大師堂は本堂に向かって右手に並ぶ形で建っており、本堂でお参りするとそのまま横にずれて大師堂にも手を合わせる。まずはここまで来たこと、そしてこの先も無事に歩けるよう祈願する。

先ほど境内の石段を上って来たが、一番上の段に本堂、大師堂があり、さらには阿弥陀堂がある。脇を下りる石段もあり、中段には行者堂、下段には薬師堂があり、寺全体で十は二支の守り本尊が祀られているという。なお私の干支の丑年の守り本尊の虚空蔵菩薩は中段の行者堂に祀られており、こちらもしっかり拝んでおく。

石段を下りきったところにもう一つ門がある。この奥にあるのが頓証寺殿である。山門から入って来て護摩堂のところで曲がった突き当たりにあるので、最初はてっきりこちらが本堂なのかと思った。この頓証寺殿は崇徳上皇の御廟所である。室町時代に後小松天皇が崇徳上皇の成仏を願い扁額を奉納しており、現在の建物は江戸時代に再建されたものである。扉が閉められて見えないのだが、門の両脇には源為義、為朝親子の像が祀られているそうだ。ともに保元の乱で崇徳上皇側についたが敗れ、為義は同じ息子の義朝の手で斬首、為朝は八丈島に流刑となった。普通の仁王像ではなくこうした人物の像があるというのも、崇徳上皇ゆかりの地らしい。

この頓証寺殿のさらに奥には崇徳上皇白峰御陵の遥拝所があり、脇には西行法師の石像もある。四国の札所で、ここまで特定の年代の歴史上の人物が登場するところというのはあまりなかったのではないかと思う。御陵だけではなく後に御廟所や遥拝所まで設けられるとは、崇徳上皇の怨霊というものがどれだけ恐れられていたのかと思うが、一方で崇徳上皇は讃岐、四国の守り神として信仰を集めたという見方もあるそうだ。そうした歴史の一端がうかがえるのも面白い。

護摩堂まで戻り、奥に祀られている不動明王に手を合わせた後、ご朱印をいただく。時刻は10時半を回ったところだ。

次は根香寺を目指すが、ここからは昔ながらの遍路道が残るコースである。丁石があり、根香寺までは五十丁(一丁=約109メートル)だから5.5キロほどの距離である。ものの本では2時間ほどかかるという。ちょうど昼にかかるかなということだが、どのくらいの山歩きになるだろうか。車道との境界である鎖をまたいで遍路道に行く。
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第21回四国八十八所めぐり~崇徳上皇葬送の地へ

2018年10月16日 | 四国八十八ヶ所
独立リーググランドチャンピオンシップは15日に前橋で第4戦が行われ、4対2で群馬ダイヤモンドペガサスが勝利して、香川オリーブガイナーズに対して3勝1分で見事独立リーグ日本一となった。井野口、富田に本塁打が出て、第2戦で完封したトーレスが完投勝ちを収めた。「力」の群馬が「技」の香川を圧倒した形である。ペガサスナイン、そしてファンの皆様、おめでとうございます。

また一方で、今月25日にはNPBのドラフト会議が行われる。今年のドラフト会議は甲子園を沸かせた高校生たちに注目が集まっているが、私としては独立リーガーが何名指名を受けるのかも楽しみにするところである。

さて話を8日、八十八所めぐりの2日目に戻す。この日は81番の白峰寺、82番の根香寺を訪ねる。ルートとしては高松からいったん坂出に移動して、琴参バスで高屋というところまで乗る。ここからは歩いて2つの寺を回り、前日訪ねたレクザムスタジアム近くの根香口というバス停まで行く。そこから高松駅に戻るというものだ。途中五色台の山越えがあり、合計で12キロほどの歩きとなる。坂出からのバスは一日数本というレベルで、土日祝日ダイヤだと8時40分発の始発に合わせて動くことになる。これなら高松を極端に早い時間に出発することもない。

朝風呂にも入り、6時半からホテルのレストランでバイキング形式の朝食を取る。宿泊したセンチュリーホテルではバイキング形式の朝食の価格設定が2種類あり、パン、サラダ、ゆで玉子のビジネス型と、ごはんや和洋のおかずも含んだ一般型がある。受付で渡されるトレーの色で区別されており、後者ではお椀に入った一口サイズのうどんもあり、自分で湯通しして出汁をかけて味噌汁代わりに一杯いただく。

少し早いが、7時48分発のマリンライナー12号に乗ることにして、高松駅に向かう。そこに停まっていたのは寝台特急の「サンライズ瀬戸」。この日は琴平まで延長運転するようで、そのための長時間停車となっている。高松で下車したのか乗客はほとんどいないようだが、買い物をしたり、朝食をホームの「連絡船うどん」でとっているのかもしれない。大阪では見ることのない車両なだけに、より珍しく感じる。

マリンライナーで前日通った国分や八十場は一気に通過して、坂出に到着する。この駅も何度も通っているが、改札口を出るのは初めてである。8時40分発のバスの時間まで30分以上あるが、駅前のイオンが7時から開いており、この先の飲み物などを仕入れておく。またバスの路線図も見るが、瀬戸大橋を渡り、与島で乗り継いで児島まで行くローカルバスの便があるのを見つける。1日7~8便ほどだが、こういう四国の渡り方というのも面白いかと思う。

やって来たバスは王越線の木沢行きで、乗客は私ともう一人だけ。坂出の市街地を過ぎ、田園風景の中を行く。

20分近く揺られて9時に高屋というバス停に着く。これから目指す白峰寺への公共交通機関の最寄停留所で、道案内ではここから6キロとある。思っていたより長い距離だ。6キロだったら1時間半以上かかるかな。今回大阪への帰りは高速バスを予約しており、そこから逆算すると根香口15時42分発のバスに乗る必要があるのだが、果たして大丈夫だろうか。今回は笈摺の着用は省略して、金剛杖をカバーから取り出して歩き始める。

まずは緩やかな上り坂を歩く。500メートルほどでカーブになっているが、その角に神社の鳥居が見える。高家神社(血ノ宮)、観音寺とあるので立ち寄ってみる。鳥居の扁額には「高家神社」と「崇徳天皇」が併記されており、こちらも讃岐に流された崇徳上皇と関係がありそうだ。

崇徳上皇が讃岐で亡くなり、その遺体を清水に浸けていると光を発したことから八十場の地に白峰宮、そして天皇寺ができたことは先の記事でも触れた。その遺体を八十場から白峰山の頂上へ葬送していると、その途中この地で風雨雷鳴が起こった。葬送の列はしばらく棺をこの地に置いて一時待機したが、棺を休めた台の石に血が流れ出たという。これに恐れた人々はこの地に神社を建て、崇徳上皇の御霊を奉納したとされている。

また、高家神社の神宮寺なのか、境内には観音寺という寺院が併設されている。こちらは四国曼荼羅霊場の一つであり、崇徳上皇の念持仏だった十一面観音像を本尊としている。また奥には三面大黒天を祀るお堂もある。今回は国分寺、崇徳上皇と結構古い時代の歴史に接している形である。

高家神社の前から本格的な上りになる。ただ車道も広く、それほど急勾配というほどでもないので歩きやすい。斜面のみかん畑の向こうには田園地帯と瀬戸大橋を望むことができる。こういう角度から橋を眺めるのも初めてである。

左手に斜面を見ながら車道を行くうちに、白峰寺まで車道4キロ、歩道1キロという分岐の看板が現れた。高屋のバス停から2キロほど歩いたことになるが、なるほどこの差というのが、車道の道案内を見た時に当初思っていたのと比べて感じた差だったのか。それにしても、クルマで4キロかかるところを1キロで行くというのは近道だが、絶対何か裏がありそうだ。どうせ急な上り坂があるとか。

ここからは崇徳上皇と西行法師の和歌の石碑が道端に並ぶ。落語のネタ「崇徳院」に出てくる「瀬をはやみ~」の碑もあるだろうか。西行法師は崇徳上皇が亡くなって3年後に白峰山を訪ね、崇徳上皇の亡霊とも対面したとの言い伝えがある。それを記念してか、「西行法師の道」として2004年に整備した道だという。だから昔ながらの遍路道とは異なるが、白峰寺への徒歩ルートになっている。

最初は石畳の道で、沿道の石碑も流し目で見ていたが、途中からはるか上まで上る石段となった。やっぱりな・・・。何段あるのか数えるのもうんざりなのでそのまま黙々と、しかし途中で休みながら上がる。「瀬をはやみ~」の碑があったかどうかはどうでもよくなった。

石段を上りきると、崇徳上皇の白峰御陵の案内の立札が出る。その方向には御陵に見られる柵があるが、その前にはまだ石段が・・・。石段はもういいやと、石段の下から手だけ合わせる。なお歴代の天皇陵で四国にあるのはここだけだという。

御陵を過ぎて20段ほどの石段を上ると白峰寺の駐車場に出た。結構多くのクルマが停められており、白衣や笈摺姿の人も目立つ。結局石段でショートカットした形になり、高屋のバス停からは高家神社のお参りなど含めても50分ほどで着いた。まず最初の上りを終えて、これで見込み通り、高松までのタイムリミットまで何とかつながりそうだ。白峰寺のお参りについてはまた次の記事にて・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~観戦記・独立リーググランドチャンピオンシップ第1戦香川対群馬@高松

2018年10月14日 | 四国八十八ヶ所
独立リーググランドチャンピオンシップの第1戦・香川オリーブガイナーズ対群馬ダイヤモンドペガサスは、高松のレクザムスタジアムで7日の18時30分から行われた。

球団のホームページでシャトルバスの案内があり、1便は16時40分に高松駅発とある。ただ高松駅発とざっくり言われてもな・・・と思う。田舎の駅ではなく四国の玄関駅で、バス乗り場も多くあるのだが、どこから出るとは書かれていない。一応貸切バス扱いの12番乗り場に「ガイナーズシャトルバス」という文字があるので、ここかなと待ってみる。まあ、時間になれば地元ファンらしい人が来るだろうから、その流れに沿えばいいか。他にも2人バス待ちらしい人がいた。

そこへ、ガイナーズのレプリカシャツを着た人がやって来た。こういう人が来るのならバスはここで良かったのだなと思っていると、「すみません、スタジアムのバスはここですかね?」と逆に訊かれてしまった。これを機に、バスを待つ間少し言葉を交わす。「群馬って強いんですよねえ」「(愛媛に競り勝った)チャンピオンシップの戦いができれば大丈夫」と楽しみな様子である。大阪から来たというと「どちらを応援しますか」と尋ねられる。この試合に関してはオリーブガイナーズの勝利を期待している(だからというわけではないが、八十八所めぐりの金剛杖も持って来た)。まあ、前橋で同じことを訊かれたらダイヤモンドペガサスと答えるんだろうなあ・・・。

さてバスは・・・と思っていると、車体にオリーブガイナーズのロゴが入った定員20人ほどの「マイクロ」バスがやって来て、待っていたスペースとは別の路肩に停まった。慌てて移動する。ロゴを見て初めてバスに気付いた人が他にも何人か集まってきて、合わせて10人ほどが乗り合わせた。この後20分ほどかけてスタジアムに移動し、スタンドの入口の真ん前に横付けされた。

17時30分の開門に先立ち、ちょうどチケットの販売が始まったところで数十人の行列ができている。ガイナーズのチームカラーの緑をまとった人が多く、あちこちで常連ファン同士の挨拶が交わされる。その中でダイヤモンドペガサスの白地にスカイブルーのロゴが入ったレプリカユニフォーム姿の一団がいる。前橋から応援バスを仕立ててやって来た団体だろう。四国アイランドリーグとBCリーグの対戦は普段ないことで、これら応援団同士の挨拶も交わされている。

入場までの間には200人以上が列を作り、スタッフもチェーンで導線を作るのに大慌てである。独立リーグ日本一決定戦となると普段とは勝手が違うのだろう。

そして開門、一塁側のベンチ上の席に陣取る。また、コンコースではクイズに答えて抽選で香川の特産品が当たるというのをやっている。お題は「この日対戦するのは、『○○』ダイヤモンドペガサス」というもので、とりあえずエントリーしてくださいというものだ。

グラウンドではちょうど選手たちの試合前練習も終わりのところである。まずは腰を落ち着けたところで、早速今回の夜の八十八所として一杯やる。球場でゆったりと夜風を受けながらのビールというのもいいものだ。

18時すぎ、まずは両チームの監督がメンバー表の交換に出る。香川はアイランドリーグ創設時から長くチームを率いる元カープの西田真二監督、一方群馬は就任3年目で2回目のリーグチャンピオン、2年前は独立リーグ日本一にもなった元ドラゴンズ、ライオンズの平野謙監督。ともに独立リーグの指導者として申し分ない実績を残している。試合前の評価では、「力」の群馬、「技」の香川という見立てだった。

この後は両チームの監督、コーチ、選手がマウンド周辺に集まり、チャンピオンシップの記念撮影。そしてメンバーの紹介となる。香川の人たちは心優しく、群馬の選手たちにも大きな拍手を送り、特に主砲のカラバイヨの時は拍手も大きかったように思う。

さて試合開始。香川先発は今季6勝の畝。登場曲が名前(UNE)にちなんでか、DA PUMPの「U.S.A.」。これにはスタンドもあのポーズで盛り上がる。

初回、群馬先頭の青木がセンターへの当たりを放つ。青木は俊足を飛ばして二塁へ。続く藤井は四球で無死一・二塁と早くもチャンスを迎える。ここで登場するのはBCリーグ創設時からのベテラン・井野口。今季も70試合出場で23本塁打、84打点と長打力は健在だ。ここは外に逃げるボールで空振りの三振となる。

そして迎えるのはカラバイヨ。こちらは27本塁打、86打点とリーグの2冠王だ。センターに大きな当たりを飛ばすが追いついて凡退。

大砲2人を抑えて二死までこぎつけたが、続く富田がセンター前にタイムリーを放ち群馬が1点を先制する。

一方の群馬先発は5勝の柿田。ストレートは140キロを軽く超える。初回から地元香川の大きな声援が飛ぶがまずは三者凡退。

それでも2回裏、香川は2つの四球とエラーで無死満塁の絶好のチャンスを作る。一気に逆転と行きたいところだったが、続く白方が4-6-3と最悪の併殺打。この間に三塁ランナーが還って1対1の同点となるが惜しいチャンスを逃した。

直後の3回表、群馬先頭の青木がセンターの頭上を越す打球を放ち、一気に三塁まで行く。一死後にまた井野口、カラバイヨという大砲が登場で勝ち越し打がかかるところだが、ここも上手く打ち取って井野口は空振り三振、カラバイヨはショートゴロでピンチを脱する。

4回からは香川の投手は石田に交代。チャンピオンシップは7日、8日の次は13日なので、先発型投手でもどんどん中継ぎに注ぎ込むことができる。好守もあり無得点に抑える。

そして4回裏、加藤の四球の後、中村がチーム初安打となるレフトへのタイムリー二塁打を放つ。これで2対1と勝ち越し、スタンドも盛り上がる。

すると群馬ベンチは先発の柿田をあきらめ、今季12勝のセンテノを送り出す。こちらも150キロ前後のストレートで押しまくる。この投球の前にクリス三振、白方はバントを試みるもキャッチャーフライ、井戸川三振と後が続かない。

5回表には先頭の鹿沼がライトへの打球。ライトがもたつく間に一気に三塁に進む。青木が四球で続き、藤井にタイムリーが出て2対2の同点となる。なおも無死一・三塁で井野口、カラバイヨとなるが、ここは石田が連続三振でしのぐ。おそらくこの2人に対して香川は徹底的にマークしていたのだろうか、この後の打席も2人からはヒットは出なかった。

ただ香川打線もセンテノの前には沈黙で、4回2三振の後は、5回から6回にかけて4者連続三振。四国にはなかなかこうしたパワーピッチャーが少ないためか苦戦しているようだ。

5回終了時には先ほどのクイズの抽選会。なかなかこういう抽選に当たるものではない。ここまでで持参してきた「燃料」が切れたために、追加を購入する。お金を払うと、氷水の入ったケースから勝手にどうぞというスタイル。

7回表、香川は3人目の又吉が登板したが、先頭の鹿沼に二塁打、バントで一死三塁となって藤井にこの日2本目のタイムリーを許す。これで3対2、群馬が再び勝ち越した。

そして7回裏には緑のジェット風船が飛ぶ。何とか1点をというところだがセンテノの前にあっさりと三者凡退。

逆に8回表、香川4人目の箱島に対して、二死から途中出場の李がレフトへの本塁打を放ち、4対2と突き放す。試合の流れが徐々に群馬に向いて行った。

8回裏、香川打線がようやくセンテノを攻略する。先頭の途中出場の梶原がライト前ヒットを放ったのに続き、妹尾が三塁へのバントヒット。次の岡村のバントはセンテノが三塁に送球して封殺したが、それでも一死一・二塁。スタンドからはホテル・カリフォルニアのメロディに乗せたチャンステーマが続き、打者もファウルで粘るが結局無得点。9回表は香川の抑え・原田が群馬打線を退け、最後の攻撃に託す。

9回裏は群馬の抑え・荻野が登板し、難なく三者凡退。4対2、第1戦は群馬の勝利となった。勝利投手は中盤好投したセンテノ、荻野にセーブがつき、敗戦投手は3点目を許した又吉となった。3時間11分はなかなか内容の濃い試合で、香川が負けたのは残念だったが楽しませてもらった。なおこの試合の観客は870人ということで、もう少し入ってもよかったのではないかと思う。

試合終了の20分後には送迎バスが出発するというのでそうゆっくりもしていられないのだが、試合後は恒例のお見送りである。香川の試合は8月に観戦して何名かの選手のご朱印・・もといサインをいただいたのだが、西田監督のものがまだだった。せめて監督の分だけでもと思っているとちょうど選手の後に出てきたので、名鑑に書いてもらう。敗戦のショックという様子はなく、「明日頑張りますよ!」と力強い声だった。

もう一人意外だったのが、元スワローズ、ドラゴンズの川崎憲次郎投手コーチ。いつの間にここにいたのかという感じだった。

そろそろバスの時間も近いということで乗り込んだ。行きは3便に分かれての運転だったが帰りは2便ということで、行きよりも乗客の数は多く席はほぼ埋まった。15分くらいで高松駅に戻って来た時には10時を大きく回っていた。ホテルには5~6人入れる大浴場があり、一風呂浴びた後はブログ記事を書くこともなくそのままコテンと寝てしまった・・・。

四国八十八所めぐりの中で1県で1回は四国アイランドリーグの試合を観戦する・・・これを私なりのミッションの一つとして四国を回ってきた。球場に金剛杖を持ち込むという無茶ぶりでここまで鳴門、高知、宇和島、川之江、丸亀と来て、札所が80番台になって最後は高松、それも独立リーグ日本一決定戦という巡り合わせ。それぞれの地域の楽しみを一緒に味わえたということで、札所と合わせてよい思い出となった・・・。

・・・さて、今回の初めに「時系列で書きます」としたにも関わらずここで先回りする形になるが、チャンピオンシップのその先の結果にも触れておく。

第2戦は翌8日に丸亀で行われ、3対0で群馬が連勝した。この試合は群馬先発でリーグ最多勝(15勝)のトーレスの150キロ超の投球の前に香川が完全に沈黙して、ヒットはたった1本、17三振というものだった。また香川にはエラーでの失点やチャンスでの走塁死もあったようで、連敗と後がなくなった。

そして13日、前橋に舞台を移しての第3戦はシーソーゲームとなった。初回に香川が暴投で1点を先制したが、その裏に群馬青木の先頭打者本塁打で同点として、2回裏に2点追加。4回に三好のタイムリーなどで3対3と追いつくが、その裏にカラバイヨが2点タイムリーを放つ。その後5対4と群馬1点リードの8回に、香川白方の2点タイムリー二塁打で6対5と逆転。しかしその裏に群馬藤井のタイムリーで6対6となる。そのまま延長10回、規定により引き分けとなった。

群馬2勝1分と日本一に王手をかけた状態には変わりないが、香川としては首の皮1枚つながった形である。これから行われる第4戦以降、どのような試合になるだろうか・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~香川「独立」の父

2018年10月13日 | 四国八十八ヶ所
予讃線で高松駅に戻って来た。球場に移動する前にホテルにチェックインしようと思うが時刻はまだ14時。それまで駅前をぶらつくことにする。

向かったのは高松城跡(玉藻公園)。天守台に上ったり、お堀の手漕ぎ舟を見下ろしたりする。高松城の堀は海水が使われており、鯛などの海の魚が泳いでいる。手漕ぎ舟から鯛にエサを撒くことができるので、舟の周りではバシャバシャと水しぶきが上がる。

海沿いにある月見櫓や、松平氏の庭園であった披雲閣庭園などを見て、東門から外に出る。

向かったのは香川県立ミュージアム。駅近くで時間をつぶすにはちょうどいいところだろう。このミュージアムは今年10周年ということで、「目からうろこのミュージアム!」という特別展示が行われていた。ちょっと昔の着物や家具、食器、小物など、ミュージアムの収蔵品である生活用品をさまざまに展示している。昔のブリキのおもちゃや懐かしいレコードなどもある。

常設展では20世紀初頭の絵画、彫刻を展示したコーナーがあるかと思えば、弘法大師空海の生涯について紹介するコーナーもある。展示室には後七日御修法が行われる空間が再現されており、五大明王図、両界曼荼羅図の模写が飾られている。

また別の展示室では、「明治150年」の関連企画として「高松藩の明治維新」という展示がされていた。高松藩は松平氏が治めており、藩主松平頼聰(よりとし)は井伊直弼の娘を正室に迎えていた。ただ高松の松平氏は水戸の徳川家からの分家で、幕末には尊王攘夷を唱えた徳川斉昭と井伊直弼が対立したが、その板挟みになった形である。結局鳥羽・伏見の戦いでは幕府側についたために朝敵となったが、後に許されて松平頼聰は伯爵に列せられた。

このコーナーに、香川「独立の父」という文字が見えた。別に、この後独立リーグのチャンピオンシップを観に行くからではない。中野武営(「たけなか」、または「ぶえい」)という人物の紹介だった。その横には、「香川がもし愛媛の一地方だったら、いや徳島だったら、現在の香川県はどうなっていただろうか」という文章がある。これはどういうことだろうか。

現在の四国4県は香川、徳島、高知、愛媛の4県で、ほぼかつての讃岐、阿波、土佐、伊予の4ヶ国と同じ区割りになっている。もっとも、明治の廃藩置県の当初は元の藩を県に移行するところが多く、讃岐でも高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩や天領はなぜかいったん倉敷県となり、その後合併して香川県となった。これが1871年~1872年のこと。まあ、こうした動きは他の地方でもあったことなので珍しくない。

しかし、こういう歴史があったとは知らなかったのだが、1873年には讃岐、阿波、淡路の3ヶ国のエリアが合併して「名東(みょうとう)県」という名前になった。名東というのは現在の徳島市の元の郡名で、今で言えば徳島県の中に香川県と淡路島が編入されたのと同じである。さすがにどうかと思ったのか、2年後の1875年には再び香川県として分離された。

ただ、その翌年の1876年、香川県は今度は愛媛県に編入された。政府が全国的に県の統合を進めていたとはいえ、香川というのは他県が編入したくなるほどの地域なのだろうか、それとも、単独ではやっていけない県だったのだろうか。ただ徳島、愛媛と地理的要因や文化的要因も異なることもあり、単独としての香川県の設置を望む声が高まり、政府への上申も行われた。

で、中野武営である。初めて聞く名前であるが、高松藩の勘定奉行の家に生まれ、本人も勘定奉行として藩に仕えた。明治維新後は高松県、後には農商務省や内務省の官吏を務めたが、国会開設後は大隈重信の立憲改進党に参加し、愛媛県議会議員となった。この愛媛県とは、香川県が編入された当時の愛媛県である。中野は県議会では議長も務める一方、水面下では「香川独立」の動きを展開した。そのアプローチはさまざまで、改進党ルートで大隈重信、農商務省ルートで黒田清隆、内務省ルートで松方正義、その他旧高松藩ルートで陸軍の大山巌といった大物たちに働きかけたとされている。その結果、愛媛県編入の12年後の1888年に香川県の再設置が認められ、「独立」ということになった。1888年といえば今からちょうど130年前のことだが、この「独立」が現在の四国4県の形となり、現在に至っている。もっといえば、この時までにはすでに他の県は現在の形になっており、香川県が最後に誕生、現在の47都道府県の形はこの時にできたことになる。

香川県といえば四国の玄関口のイメージがあるし、四国の行政機能や企業の四国支社などは今も高松に集まっていることが多い。それが徳島と愛媛の間で行ったり来たりした歴史があったとは勉強になった。

ただこの「47都道府県」も、現在ある意味では怪しくなってきている。例えば参議院選挙では、徳島と高知が2県で一つの選挙区となっている。これは「一票の格差」とかいうよくわからん縛りのせいで、議員定数と人口分布の兼ね合いで無理やりそうしたものだ。またこれから人口減少社会になって行く中、行政のあり方の見直しとなれば「県同士の合併」という話が出てこないとも限らないだろう。

中野武営は後に香川県議会議員、衆議院議員、東京市議会議長など行政に携わったほか、実業家としても活躍し、香川新報(現在の四国新聞)の設立や、百十四銀行、高松電灯(現在の四国電力)、高松琴平電気鉄道(ことでん)などへの支援、東京商業会議所の会頭なども務め、1918年に70歳で亡くなった。明治・大正期の香川における弘法大師のような人物だったと言えば言い過ぎかもしれないが、年譜を見てもさまざまな分野で才能を発揮したことがうかがえる。

今回香川県立ミュージアムでこの展示を行っていたのも、「明治150年」、「香川県独立130年」、そして「中野武営没後100年」という節目で、「郷里の近代化に決定的な役割を果たしながら、香川では永く『無名』に近い扱いを受けてきた人物」(パンフレットより)を顕彰しようというものだった。ちょうど訪ねた7日の翌日、10月8日は命日に当たるそうで、ミュージアムでは香川県知事や高松市長も参加してのシンポジウムが行われるとあった。翌日は札所めぐりの続きなので参加はできないが、こうしたパネル展を見てこの人物を知ることができただけよかった。

この後、別フロアで香川県の古代から現代までの歴史展示を見学する。全体を見て回ったら結構時間がかかる。

時刻は16時ということで、ホテルに向かう。この日宿泊するのは、駅から5分ほど歩いたところにある高松センチュリーホテル。最近リニューアルしたホテルのようである。

いったん荷物を置き、再び駅に戻る。さてこれからいよいよ本題の?野球観戦である・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~第80番「国分寺」

2018年10月11日 | 四国八十八ヶ所
予讃線の国分駅で下車する。次に向かう国分寺は先程の天皇寺同様に駅から近い。道路沿いの駐車場にさしかかると、先ほど天皇寺の手前ですれ違った先達の団体が乗って来たであろう観光バスがちょうど出て行くところだった。

国分寺といえば奈良時代、聖武天皇の勅命で日本各地に建てられた寺院だが、奈良朝の衰えとともに多くの国分寺は廃れていった。ただ四国については阿波、土佐、伊予、そして讃岐の4ヶ国とも国分寺が残っており、いずれも四国八十八所の札所となっている。直接奈良時代から続いているわけではないにしても、少し場所を移したり別の寺が再興する形で今に至っている。なお、讃岐の国分寺は創建当時の伽藍と重複しており、またその跡地の保存状態も良いとして史跡に指定されている。

山門をくぐる。建物は後世のものだが、創建当時の中門の跡に建てられたとされている。

境内でまず出迎えるのは、参道の両側にあるミニ八十八所である。阿波(発心)、土佐(修行)、伊予(菩提)、讃岐(涅槃)と各札所の本尊像と真言のパネルが続き、それぞれの国の最初には修行姿の弘法大師像が立つ。お参りの前にまずこのミニ八十八所をめぐってみた。ちょうどこの国分寺で80番である。何だかここまで来たということで、これまで回ってきたことなども思い出したりする。

境内の中央には礎石が並んでいる。創建当時の国分寺の本堂である金堂の跡地だという。等間隔に並んでいるのが今に残るのも珍しいそうだ。

その奥が現在の本堂だが、こちらは創建当時は講堂があったところだ。中門~金堂~講堂が南北に一直線に並び、金堂の横、ちょうどミニ八十八所の後半が囲むエリアには七重塔も建てられていた。大官大寺の伽藍様式だそうで、その跡地がきちんと利用されている点は、四国の4つの国分寺の中でもっとも「国分寺らしい国分寺」と言えるだろう。なお、現在国分寺では大日如来像の修復に向けた寄付金の募集を行っている。

本堂でお勤めの後に大師堂に向かう。境内には金箔を貼られた弘法大師や「金箔縁結び」というのもある。金箔を貼りつけて願掛けをするそうだ。他にも弁財天を中心とした七福神像もあれば、願掛け不動明王像もある。古くからの歴史と現世利益が混在する寺に感じる。

で、大師堂はといえば、納経所の中にあるという。正しくは納経所の建物の中に祭壇を設けて、そこから大師堂の内陣を拝むというものだ。納経所の建物の中は撮影禁止なので画像はないが、建物の中には遍路用品やら御守、国分寺オリジナルのグッズなどがたくさん並び、その中央に燭台がある。一方、室内でロウソクや線香を使うのですすけた感じがする。「線香は一人3本まで」の貼り紙もあるが、団体が来た場合などごった返すのではないだろうか。こういう形でのお参りも珍しい。

先にも書いたように現在の国分寺の境内は創建当時の国分寺の伽藍と重複しているのだが、外も史跡公園として保存されているというので行ってみる。もう一つ別の寺が隣接するが、その奥は広場になっている。そこには創建当時の国分寺を石で再現した模型が置かれ、土塀の一部、僧坊の一部も復元されている。創建当時の規模は南北240メートル、東西220メートルという規模だったとある。

史跡公園の外に讃岐国分寺資料館がある。展示スペースは小ぶりだが、当時の金堂の復元模型や、国分寺跡地の発掘調査で出土した瓦や土器も展示されていて、国分寺の紹介映像を見ることもできる。この時は若狭から越後までの北陸各国の国分寺について紹介するコーナーがあったが、寺の形はほとんど残っておらず、わずかな遺跡を留めるに過ぎない。さまざまな歴史があったにせよ、四国に4つの国分寺が受け継がれているというのは、八十八所の信仰文化というのが何か関係しているのだろうと感じさせる。

門前に戻ると、国分寺から81番の白峰寺、82番の根香寺への道案内の看板が出ている。この2つは五色台シリーズとでも言おうか。国分寺から遍路ころがしの山道を上り、途中に十九丁という分岐点がある。それを西に行けば白峰寺、東に行けば根香寺に行くというコースで、国分寺からだといずれも所要2時間とある。ちょうど三角形の位置関係にあるが、その通りに歩くとなると結構ハードな感じだ。

その2ヶ所は翌日に回すとして、ここはいったん国分駅に戻り、貨物列車の通過も見た後で再び高松駅を目指す・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~第79番「天皇寺」

2018年10月09日 | 四国八十八ヶ所
10時55分着の列車で八十場駅に降り立つ。駅舎もなく、対向式ホームのみの駅だ。昭和の時代にできた駅だが、当初は仮乗降場のような位置づけだったようで、普通列車でもほとんどが通過していたという。JR化以降はホームも伸ばして普通列車が停まる駅として地元の人も利用しやすくなったようだ。ただホームの幅は狭く、帰りの列車を待つ間に特急や快速が通過していったが、風圧が結構すごかった。

天皇寺に向かう。まず出迎えるのはこの方のポスターで、今回の札所めぐりの中で坂出市のエリアでは結構多く見かけた。国民民主党という全国支持率が1%あるかないかの政党ではあるが、それでも一応党の代表を務めるくらいだから地元ではそれなりの支持を集めているのだろう。

駅から少し上り坂を歩くと、横を大型バイクが3台、爆音を響かせながら横を過ぎていく。白い笈摺が見えたからバイク遍路というやつだ。ああおいう回り方も面白そうだ(二輪免許は持っていないが)。一方で、上下とも白衣をまとい、菅笠に錫杖(これを持てるのは先達資格のある方)という集団とすれ違う。その他の荷物はほとんど持っていないので、これは団体さんだろう。そういえば八十場駅の横の空き地に観光バスが停まっていたが、バスツアーで回る人たちだろう。回る姿もいろいろである。

通りの突き当りに朱色の鳥居が見え、「白峰宮」との看板がある。その横に「天皇寺」の石碑が立つ。元々は神社で、その中に神宮寺があるという神仏習合の歴史がありそうだ。それにしても寺に「天皇」という名前がつくとは由緒がありそうだ。

この「天皇」とは、平安時代の崇徳上皇を指す。平安の末期、武士が政治の舞台に出るようになったきっかけが保元・平治の乱だが、このうち保元の乱で敗れたのが崇徳上皇で、讃岐に流された。流された生活の末には自ら舌を噛みきってその血で写経に殴り書きをしたとか、髪や爪を伸ばし続けて夜叉、天狗の姿になったといわれている。また崩御後に勝者の後白河上皇に近い人物が相次いで亡くなったり、都での大火や鹿ヶ谷の陰謀事件が起こったが、人々は崇徳上皇の怨霊によるのではないかと思ったそうだ。崇徳上皇は怨霊のキャラクターとして後の世の物語でも描かれている。

怨霊とは少し違うが、「水曜日どうでしょう」の四国巡拝の2回目の時に、ここで「怪奇現象」が起こっている。内容はここでは省くが、改めて動画を見て、その時にディレクターが「崇徳上皇の怨霊か?」とでもナレーションすればより真実味が出たのではと思う(別に歴史番組ではないのでそれを求めるのは違うのだが)。

で、この白峰宮だが、上皇の遺体を当地の清水に浸していたところ、毎夜清水が光を放ったことから上皇を祀るために造営された。この神社と、行基が建てて弘法大師が再興したとされる摩尼珠院が崇徳上皇を祀る寺社として一体化され、神社は「崇徳天皇社」、摩尼珠院は「天皇寺」と呼ばれるようになり、全体で79番札所とされた。先に崇徳上皇の怨霊と書いたが、その後の長い歴史の中では、讃岐の守り神として多くの信仰を集めていた。ただ、明治の神仏分離、廃仏毀釈の中で崇徳天皇社は白峰宮、天皇寺は廃寺とされ、後に末寺の高照院が移転してきて79番札所を引き継いだ。

そうなると白峰宮からお参りとする。珍しい形の鳥居をくぐり、正面の拝殿に向かう。この日は秋祭りが行われるそうで、境内にも屋台が出始めていたり、大人たちが山車の準備を始めるところだった。

天皇寺高照院は鳥居をくぐった中の両脇が敷地である。左手の一角に十一面観音を祀る小ぶりな本堂と大師堂が密接して並んでいる。こう見ると神社の片隅に居候させてもらっている印象だ。

連休中のためか、先ほどの大型バイク遍路も含めて笈摺、輪袈裟姿の人も結構見かける。ただ、私の見る限りでは白峰宮の片隅の天皇寺だけお参りして、中央の白峰宮には手を合わせない人がほとんどだった。先ほどすれ違った先達の団体はどうだったか。

本堂、大師堂と反対側にある納経所で朱印をいただく。

この後、八十場名物のところてんを出す清水屋に向かう。このブログを書くよりも前に、会社の高松の先輩の方に連れてきてもらったのを思い出す。その時は八十八所めぐりは頭になく、讃岐のうどん屋めぐりの後で、変化球ということでところてんを味わった。崇徳上皇が流された地とは聞いたが、天皇寺にお参りしたわけではなかった。

八十場の清水の脇には地蔵堂があり、さらには江戸時代からところてんを商う清水屋がある。味付けの種類は辛口から甘口まで10種ほどある中で、最もシンプルで古くからの味という辛子酢醤油味をいただく。

この清水が、崇徳上皇の遺体が浸けられても光を放ったとされるのだが、古くは日本武尊の時代、魚の毒にやられた80人の兵士たちがここの水を飲むとたちまち蘇ったという伝説がある。それだけありがたい水というわけだ。普段ところてんを食べることはないのだが、由緒ある清水に縁があるということで美味しくいただく。個人的には、こういう風情のところでは豆腐(冷奴)なんかもいいかなと思う。

駅に戻り、11時59分発の高松行きに乗る。次に目指すのは予讃線の国分駅近くにある第80番の国分寺・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~とりあえず時系列で書くことにします

2018年10月08日 | 四国八十八ヶ所
10月7日~8日の2日間で坂出~高松の札所めぐりを行った。何度も書いているように、この日程で札所めぐりに行ったのは独立リーグのグランドチャンピオンシップ第1戦・四国ラウンドが香川オリーブガイナーズ対群馬ダイヤモンドペガサスで行われ、四国八十八所めぐりと独立リーグ観戦という、私なりの八十八所めぐりの楽しみ方の「総決算」とも言える試合があるからだ。

野球の観戦記は早くに書いたほうがいいのだろうが、一応八十八所めぐりの中の楽しみという位置づけにして、紀行文は時系列で書くことにする。ただ結果だけ先に書くと、私が観戦した高松での第1戦は4対2で群馬の勝利。そして丸亀での第2戦も3対0で群馬の勝利。3戦先勝方式のため、群馬がアウェイで連勝して独立リーグ日本一に王手をかけたことになる。次週13日~15日は前橋で群馬のホームゲームとなる。このまま群馬が日本一ということになりそうだが、香川も精一杯意地を見せてほしい。

さて、話を7日の朝に戻す。今回は高松が目的地となるが、JR高速バスを選択する。第21回ともなると四国へのアクセス手段も多様になるが、大阪~高松は高速バスで3時間半の行程で、鉄道だと新幹線~快速マリンライナーよりは時間がかかるものの、価格では3900円という設定で鉄道の半額以下である。ちなみに鈍行乗り継ぎと高速バスだと、(青春18きっぷの時期でなければ)高速バスのほうが価格、時間の両方でJRに勝る。

それを表すかのようで、6時55分湊町バスターミナル発の高松行きはほぼ満席。また同じ高松行きでは、JRバスや阪急バスの系統と、たかなんフットバスの2系統があり、それぞれが結構な本数を走らせている。

連休の中日ということか、阪神高速も特に渋滞なく順調に走る。明石海峡大橋から淡路島に入り、定番の室津パーキングエリアでの休憩。

四国に入る。この路線は高松道の各バス停での降車も扱っている。それぞれの停留所で1人、2人と下車して行く。高松だけでなく香川東部と関西を結ぶ役割もあるようだ。阪神高速が順調に来たのが大きかったのか、定刻より早く進んでいる。

高松中央インターで高松道を降りて、インターバスターミナルやゆめタウン前、栗林公園前など、市内のいくつかの停留所でも下車がある。それでも定刻より15分ほど早い10時すぎに高松駅に到着した。

さてこの日の行程は、第79番の天皇寺、第80番の国分寺にお参りした後で、高松駅からレクザムスタジアムまでの送迎バスに乗るというもの。天皇寺、国分寺とも予讃線の八十場、国分の駅から歩いて数分のところにあり、列車もおよそ30分に1本はあるから移動にはそれほど苦労しない。ちなみに送迎バス(第1便)は高松駅16時40分発で、それまでに高松駅近くのホテルのチェックインを先に済ませるとしても、時間には余裕がある。

列車に乗る前に、早いが昼食ということにする。駅バスターミナルの向かいにあるセルフ式のうどん「味庄」に入る。いわゆる行列のできる有名店というわけでもないが、高松駅のすぐ近くというのと、朝5時から営業しているということで知る人ぞ知る店という感じである。注文の時はうどんの玉だけ丼に入れてもらい、だしは給湯器から自分で注ぐ。天ぷらなどと合わせてその後で会計をするのは讃岐方式だ。旅行の客でも駅前でお手軽にローカルな雰囲気を味わえる店という意味ではまずまずの店である。

食後、発車間際だった10時26分発の琴平行き普通列車に乗る。高速バスが定刻で走ったとして10時54分発の多度津行き普通列車に乗ろうかと思っていたが、これでなお早い時間での移動となった。香川県に入って何度も乗っているこの形式の車両に乗り、各駅に停まりながら移動する。

目指す天皇寺の最寄駅である八十場に到着する。直線の区間に簡易な対向式ホームが並ぶだけの駅だが、予讃線の多度津まではICカードが使用できるので、下車時に簡易のカード読み取り機にタッチする。ただ、他の客の動きを見ても四国ではICカードを利用する人はまだまだ少数派のようだ。

さてここから天皇寺に向かう。寺に向かうのは初めてだが、実はこの辺りには過去に一度連れてきてもらったことがあって・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~何とか天気は大丈夫そうだ

2018年10月07日 | 四国八十八ヶ所
10月7日~8日にかけて八十八所めぐりである。

今回は先にも書いたように、高松で行われる独立リーググランドチャンピオンシップ、香川オリーブガイナーズ対群馬ダイヤモンドペガサスの第1戦観戦と合わせての札所めぐりである。

これについては気がかりなことが2つあるとした。その一つ目の球場へのアクセスは、行き帰りとも高松駅からシャトルバスが出るという。これはありがたい。群馬から来る人もいるだろうからどうするのかと、ダイヤモンドペガサスのホームページを見てみると、前橋から応援バスツアーが出るという。それも7日の早朝に出発して高松まで走り、7日夜の第1戦を観戦して高松宿泊。翌8日は日中自由行動の後に第2戦を観戦し、そのまま車中泊で前橋に戻る。えらい強行軍だ。私なら翌9日も有給で休むだろう。

またもう一つ気がかりだった台風25号は6日のうちに九州の北から日本海を通り、温帯低気圧に変わった。先月の台風のような大きな被害もなかったようでよかった。

さて私は7日は朝の高速バスで高松に向かう。今回は第79番の天皇寺、80番の国分寺を回った後に球場に向かう。翌日はどうしようと思っていたが、高松宿泊を利用して当初は予定していなかった81番の白峰寺、82番の根香寺も行くことにした。81~82番は山越え、旧遍路道のハードコースだが、雨も降らないようだし、今回で回ることにする。さてどのような2日間になるか・・・。
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