まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第35日(薩摩大口~枕崎)

2020年06月19日 | 机上旅行

ここまで長々と書いてきた宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。実際の旅行に出ることが難しい時期にあって、ブログを書く側としてはちょうどその空白を埋めるネタになったかと思う。ようやく最終日だ。

薩摩大口からは、これも民営化直前で廃止された山野線の区間を行く。山野線は水俣から肥薩線の栗野を結んでいた路線で、現在はこの区間は南国交通のバスが走っている。『最長片道』では唯一の快速列車に乗っている。川内川沿いの区間だが、ここまで来ると車窓の刺激も薄くなったのか、本文、取材ノートともに短く記されている。

そして肥薩線。栗野は前日通った吉松の隣の駅である。肥薩線は大畑ループ線やスイッチバック、そして球磨川の眺めを見たが、逆方向の隼人方面は霧島の山々を見る。途中通過するのが、現在では昔ながらの駅舎があることで人気の嘉例川。季節運転の特急「はやとの風」も嘉例川に停車する。それも時刻表の記載によれば5分、長いケースで8分停車する。ここで対向列車との行き違いがあるわけでなく、駅舎の見物、記念撮影の時間である。

JR九州はローカル線にイベント列車の要素もある特急を走らせている。いわゆる「水戸岡デザイン」というのは私個人的にはあまり好みではないのだが、こうした列車が観光客誘致に一役買っているのは確かである。リアルの2020年では列車の運休も余儀なくされていたが、これから運転も再開される。また九州の各線も実際に回ってみたいものだ。

隼人から日豊本線に入り、再びの錦江湾、そして桜島を見る。どうしても海側の景色に気を取られるが、『最長片道』では反対の山側の景色も面白いとしている。シラス台地がそそり立ち、クスノキやクロガネといった温帯植物が生い茂る様子に触れている。

鹿児島を通過する。鹿児島の玄関駅は隣の西鹿児島(現・鹿児島中央)で、鹿児島は通過駅だが、ここで連想するのがバファローズの西村徳文監督。宮崎の高校を出て、社会人野球の国鉄鹿児島鉄道管理局チームに所属していた。国鉄での最初の配属が鹿児島駅で、駅の改札で切符を切ることもあったそうだ。その時期を見ると、国鉄に入ったのが1978年の春のこと。つまり『最長片道』の旅の当時、西村監督が鹿児島の駅員だったということになる。午後は野球部の練習をしていたそうだから宮脇氏の乗った列車を見ることはなかっただろうし、こういうつながりを見つけるのも面白いものである。

社会人野球の都市対抗や日本選手権の前になると、現在プロで活躍している選手たちが社会人時代に「社業でこういうことをしていました」という記事が出る。純粋に野球だけに打ち込んでプロに入った学生出身(もちろん、学業もきちんとしていたと思うが・・・)と比べて、どこか人間味というか、世間を多少なりとも見てきたというところがあり、私も目を引くところである(別に私の勤務先企業に同様の人間がいるからというわけではないが・・)。

さて、西鹿児島(現・鹿児島中央)から最後の線区である指宿枕崎線に入る。机上旅行では12時発の枕崎行きというタイミングのいい列車がある。一方の『最長片道』では午後の列車だが、枕崎行きまでの時間が空くので、その前に出る山川行きに乗っている。鹿児島市内、路面電車とも並走する区間を過ぎて、今度は桜島を逆方向から眺める。喜入の石油備蓄タンクも登場する。

指宿を通過して山川に到着。現在も「日本最南端の『有人駅』」である(沖縄は除外)。『最長片道』では枕崎行きまでの時間、バスで港を訪ねたり、タクシーで鰻池を見物したりして過ごしている。

そして山川から出発。『最長片道』では、これまで200本近い列車に乗った中でこれほどの満員は初めてと触れているが、3両の車内は下校の高校生で混雑していたとある。これまで「ガラ空き列車の旅でもあった」としていたのが最後の最後でくつがえる。最後に見たのは開聞岳と、水平線の向こうに見える黒い雲。

枕崎に到着。高校生たちは駅ごとに下車しており、『最長片道』の本文ではあたかも淋しげな雰囲気で綴られているが、「取材ノート」では100人くらいがぞろぞろ降りたという記載がある。駅員も1日の締め作業で慌ただしく事務をしていたようで、しばらくは宮脇氏も声をかけるのを遠慮したようだ。一段落したところで、前日で効力の切れた「最長片道切符」を差し出して、下車印を押してもらっている。

・・・これで、北海道の広尾から続いた『最長片道切符の旅』も終了である。

『最長片道』では枕崎に着いたのが夕方の18時30分。それからどうしたかということだが、「取材ノート」にはその続きがある。もっとも、こういう舞台裏というか、楽屋の話をのぞき見するのが良いのか悪いのかは賛否があるように思う・・・。

最初の選択肢は、当時走っていた鹿児島交通の伊集院行き。当初はこれに乗ろうとしたが、車内の座席が汚いという理由で見送る。次は、指宿枕崎線で西鹿児島に引き返すか、それとも酒かと迷う。枕崎に泊まるという選択肢もあったが、旅館が見当たらなかったようだ。そして選んだのが、西鹿児島に行く列車までの20分、寿司屋で酒を飲むこと。イカ刺、鉄火巻、酒2本とある。さすがだ・・・。

帰りはガラ空きの指宿枕崎線で西鹿児島まで2時間半。本格的な夕食は鹿児島に戻ってからのようだった。そして翌日には東京に向かっている。

・・・一方の机上旅行。枕崎に到着するが、以前のように鹿児島交通の列車があるわけでもなく、当時の駅舎も新しいものになっている。まだ午後ということで枕崎駅周辺を少し散策して(さすがに居酒屋はまだ開いていないだろうが)、帰りは鹿児島交通のバスに乗る。薩摩半島を一跨ぎする形で鹿児島に戻る。

そして・・・鹿児島中央駅で1時間ほどインターバルを取った後でも、九州新幹線「さくら」に乗れば、その日のうちに大阪まで戻って来てしまう。まあ、リアルに枕崎、鹿児島まで行ったならばせっかくなのでどちらかに1泊するとは思うが、ここは2020年の机上旅行ということで、鹿児島から大阪まで4時間で行けるということを示しておく。鹿児島中央での待ち時間で薩摩料理のあれこれを仕入れて、「さくら」の車内で打ち上げ・・・。新大阪行きなので寝過ごす心配もない??

※『最長片道』のルート(第34日続き)

薩摩大口12:00-(山野線)-12:23栗野12:42-(肥薩線~日豊本線)-14:13西鹿児島14:54-(指宿枕崎線)-山川17:15-(指宿枕崎線)-18:30枕崎19:09-(指宿枕崎線)-西鹿児島

※もし行くならのルート(第35日)

大口7:15-(南国交通バス)-7:54栗野9:18-(肥薩線)-10:02隼人10:09-(日豊本線)-10:59鹿児島中央12:02-(指宿枕崎線)-14:41枕崎16:00-(鹿児島交通バス)-17:31鹿児島中央18:28-(さくら572号)-22:49新大阪

・・・当初は、1998年に「40年後の『最長片道切符の旅』はどうなるか」ということで北海道から机上旅行の記事を書いたが、東北まで来たところで中断。このまま打ち切りの感じだったが、2020年のこうした状況で旅行に行くこともならなかったことで、続きをまとめてみた。まあ、個人のブログなので話はどうでもいい方向に脱線するが(『「最長片道切符の旅」取材ノート』にどうでもいい脚注をつけていた某教授の筆力には及ばないが)、約40年前と現在の比較も面白かったし、懐かしく思うこと、また当時の世相と並べることで新たに気づくこと、いろいろあったと思う。

でもまあ、実際に行けと言われればどうだろうか・・・。関西近郊の2~3日なら現在でも「最長片道切符」のルートになっているところも多いのでたどってみるのも面白いが。一方、現在はもちろんこのようなルートの切符は発行できないので、乗車券もどのように購入すればよいのかということもある。JR各社が出しているフリー切符や、シーズンなら青春18きっぷを適宜使ったとしても、基本は個別に賄わなければならないので、当時と比べても交通費はバカ高いものになるだろう。

とはいうものの、現在もJR各社をつないだ「最長片道切符」は存在する。鉄道趣味の認知度も高くなり、またSNSや動画配信という手段で実際の旅行の様子も手軽に発信できる環境にある。この後、2020年現在のルートを紹介することにしよう・・・。

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第34日(都城~薩摩大口)・その2

2020年06月18日 | 机上旅行

1978年の宮脇俊三『最長片道切符の旅』は、68日という期限がゴールの枕崎を前にした八代で切れてしまった。有効期間は68日だが、旅の日数としては第33日、半分にも満たない期間である。最後は「継続乗車」という荒技を使って期間内にたどり着こうとしたが、宿での寝坊ということもあり失敗。もっとも、その前に仕事や所用が入ったり、また東京近郊では自宅の近所なのでついダラダラしてしまったり、秋から冬への変わり目ということもあって風邪で寝込んだり・・・机上旅行ではなく生身の人間だからさまざまなことが起こっている。

「最長片道きっぷ」で全国をめぐる旅は、時代によって国鉄~JRの路線網も変わるが(新たな区間ができたと思えば、赤字ローカル線はどんどん廃止されたり)、2020年までにそれなりの人数が実際に走破している。最近ではその旅の様子をYouTubeに掲載したり、SNSでリアルタイムに報告したりして、自分だけではなくそれを観る人たちも一緒に旅した気分にさせる発信の仕方もある。宮脇氏や、その後に国鉄バスも含めた「国鉄最長片道きっぷ」の旅を行ったレイルウェイ・ライターの種村直樹氏(故人)が2020年にそうした様子を見たら、「ぞっとしない」感想を持ったかもしれない・・・。

それはさておき、『最長片道』としてはある意味延長戦に入った第34日目。八代から枕崎までのルートの乗車券をどのようにしたかは本文、「取材ノート」ではわかりにくい。前夜、八代の駅員に「継続乗車」を断られた後で、酒に酔った勢いでその後のルートを通る乗車券を翌朝までに作るよう注文したか、あるいは真逆で、列車に乗るごとに短距離のきっぷを都度チマチマと買ったのか。

『最長片道』では八代を朝6時すぎの客車列車で出発している。駅には前夜応対した「額ハゲ」氏がいたかどうか。

八代から鹿児島本線を南下するが、九州新幹線の開業と引き換えに、八代~川内は第三セクターの肥薩おれんじ鉄道に転換されている。新幹線の新八代は八代の北にあり、現在の八代は鹿児島本線~肥薩線乗り継ぎで何とかJR在来線のルートを守ろうとした結果である。宮脇氏よりも昔の『阿房列車』シリーズで内田百閒が八代を何度も訪ねたことは本文中にも多く書かれていて、八代の定宿がかつての肥後藩の家老屋敷を受け継いだ松浜軒だったことも知られている。私も松浜軒を訪ねたことがあるが、宿のほうではかつての家老屋敷が旅館をしていたことが「黒歴史」と思われるのか、そうした紹介はほとんどなかったように思う。

松浜軒は駅から離れているので今回はパスして、肥薩おれんじ鉄道の出水行きに乗る。九州新幹線の開業を機にJRから切り離された八代~川内間を引き継いだ第三セクターである。第三セクター線が「県単位」で経営されるところが多い中、この路線は熊本、鹿児島両県にまたがっている。電化区間であるが、運行コストを下げるために気動車が使用されている。

JR時代よりは列車の本数を増やしたり、「おれんじ食堂」など観光列車も走らせているが、経営状況はやはり厳しいものがあるようだ。沿線は不知火海に近いところも走り、のんびりしたところである。リアルでも長く訪ねていないところで、久しぶりに乗ってみたい。

ツルの飛来地として知られる出水で列車を乗り継ぐ。『最長片道』では寝台特急「明星3号」に乗り換えている。「寝台」特急だが、朝になると一部の車両を席数限定の「座席」として開放する。逆に夜を迎える前にも同じ扱いをする。朝夕の特急として利用してもらおうというもので、業界用語では「ヒルネ」と言われていた。現在は寝台特急そのものが「サンライズ」しかなく、こうした運用も昔の話になってしまった。

川内からは宮之城線。薩摩北部の内陸地域と鹿児島本線をつなぐ路線として開業したが、その後はご多分に漏れず赤字ローカル線としての日常があり、民営化直前の1987年に廃止されている。宮脇氏の中では、『時刻表2万キロ』では、その時に乗り残していた線区として宮之城線がもっとも長かったことから、「未乗線区の横綱」としていたが、途中で睡魔に勝てず居眠りして、その対策で運転席の後ろに立って前面を眺めたとある。『最長片道』でも居眠りをしている。鹿児島にしては水田が多く、本州のローカル線とそれほど車窓の変化がなかったからとしているが。

机上旅行では、宮之城線が廃止になった後のバス路線をたどる。線名にもなっていた宮之城までは鹿児島交通のバスで行く。川内から1時間の乗車。リアルでも乗ったことがない路線、足を踏み入れたことがないエリアなので、ここは『時刻表2万キロ』や『最長片道』の記述を追うしかない。

宮之城に到着。この先は南国交通バスが担当する。時刻表でも別欄に記載されているのだが、机上旅行では現地で2分の待ち合わせで乗り換え可能とした。ただ、実際の現地ではどうなのだろうか。特に違うバス会社同士で乗り継ぐ場合、バス停の名前が異なっていても実際は同じところから発着するので特に問題ないこともあれば、その真逆もある。この場合は、宮之城を中心として各方面を結ぶバスが発着していると理解する。

・・・ということで、宮之城から約1時間で薩摩大口に着く。『最長片道』では、薩摩大口から山野線に乗って栗野まで移動している。この山野線、水俣から栗野までの路線で、その両線が合流する薩摩大口もそれなりの駅だったと想像するが、山野線も民営化を前に廃止されている。

机上旅行にて、川内~宮之城~薩摩大口とバスを乗り継いだが、薩摩大口に夕方に着いた時点でこの日は終了である。肥薩線の栗野まで行くバスはもうこの日の運行を終了している。

薩摩大口。ネット検索にて、一応駅近く(バス停近く)にビジネスホテルがあるのがわかったので、ともかく寝床を確保する。一方の『最長片道』では、山野線の乗り継ぎまでの1時間を利用して、タクシーで「祁答院(けどういん)」住宅に向かっている。薩摩大口の歴史は鎌倉時代の土豪までさかのぼるといい、その武家屋敷の様子を見ようということだ。

その祁答院住宅、訪ねる前は立派な武家屋敷を想像していたが、実際は薩摩藩の郷士(百姓武士)の一つだったようだ。それでも屋敷がそのまま残り、観光スポットの一つとして紹介されていたので宮脇氏も行く気になった。もっとも、この時は祁答院の屋敷をおかみさんの案内で一通り回ったようだが、現在ではそうして回るのは限りなくゼロに近いだろう。

まあ、こうした薩摩北部の町で一泊というのも悪くないだろう。そして翌日は旅の期間としては第34日。最終日である・・・。

 

※『最長片道』のルート(第34日)

(第34日)八代6:12-(鹿児島本線)-7:42出水8:04-(「明星3号」)-8:55川内9:05-(宮之城線)-11:01薩摩大口・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第34日続き)

八代12:09-(肥薩おれんじ鉄道)-13:42出水13:46-(肥薩おれんじ鉄道)-14:49川内16:13-(鹿児島交通バス)-17:13宮之城17:15-(南国交通バス)-18:21大口

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第34日(都城~薩摩大口)・その1

2020年06月17日 | 机上旅行

宮脇俊三が運賃計算キロ計13,319.4キロに及ぶ、当時の「最長片道きっぷ」を携えて北海道の今はなき広尾線の終着駅の広尾を出発したのが1978年10月13日。それから何度かの中断を経て、ゴールの枕崎まであと一息のところで有効期間の68日を迎えた。『最長片道』の旅としては実質第33日であるが、やはり途中でやむを得ない事情で旅を中断するとか、本人が風邪で1週間寝込んだとか、さまざまなハードルがある。鉄道趣味が現在のように認知されていない時代だから仕方がない。

2020年の現在なら、鉄道趣味は当時に比べれば認知されてきたし、「最長片道きっぷ」の距離も短くなったので、実践する人も増えているのではないかと思う。

それはともかく、『最長片道』では第33日の朝に志布志で致命的な寝過ごしをした後、大隅半島を回って日豊本線で都城まで来た宮脇氏。もうすでに有効期限終了までのカウントダウンが進んだところで、都城で打ち切るとその時点でゲームオーバー。夜の区間だが、宮崎発吉都線~肥薩線~鹿児島本線経由の博多行き特急「おおよど」で一気に八代まで向かう。

一方、すでに『最長片道』のペースからすっかり置き去りにされた机上旅行は、そもそもきっぷの有効期限など関係ないので、都城1泊から吉都線に乗る。えびの高原を抜ける列車だが、時刻表をいろいろ見ると、前日は都城で打ち切るのではなく、夕方の吉都線に乗って、終点吉松の手前にある京町温泉に泊まってもよかったかなと思う。翌朝乗る吉都線の列車は同じだし、リアルでもなかなか訪ねることのない山間の温泉というのもいいだろう。

吉松に到着。この先、肥薩線の人吉までの区間は日本三大車窓の一つともされる矢岳越えの区間である。JR九州も観光路線として位置づけていて、人吉から吉松に向かう列車を「いさぶろう」、吉松から人吉に向かう列車を「しんぺい」としている。気動車を改造した観光列車が走るが、それを含めても、吉松~人吉間は1日3往復しかない。私も観光列車で通ったことがあるが、乗っているのは観光客、中には旅行会社の団体ツアーもあったかもしれない、そうした人ばかりである。県を跨ぐ区間、しかもループ線とスイッチバックを兼ね備えるだけの区間なので、日常生活として地元の人が利用することなどほとんどないのだろう。

人吉に到着。机上旅行ではまだ昼間なので球磨川の景色を見ながら八代まで下るが、『最長片道』では車内で思考回路が停止したかのようである。日本三大車窓の一つも寝過ごしたために暗闇の中での通過となったが、宮脇氏は特急なので車内販売が乗務しているのをいいことに、ワゴンが通るたびに缶ビールだ、日本酒だと買い求める。これは飲み鉄というのではなく、そうしている間に「最長片道きっぷ」の期限が切れてしまう。だからといって誰に文句を言うのか。仕事関係の人たちか、余計な知恵をつけたのが完全に裏目に出てしまった種村直樹氏か、あるいは健康管理、自律がなっていなかった宮脇自身か。果ては、このきっぷに対して有効期間などというくだらんルールを決めた国鉄そのものに対してか。

車内販売でいろいろ買って、おそらく販売員の女性にちょっかいも出したであろう行程を経て、宮脇氏が乗った特急「おおよど」は20時30分を回って八代に到着。その時間だし、翌日の行程を踏まえると八代宿泊しかないと宮脇氏は決意する。そして八代駅改札の係員に、「継続乗車」の適用を申し出る。

当時に止まらず現在もJR各社で有効の「旅客営業規則」。その中の「継続乗車」とは、そもそもは、使用を開始した後で乗車券の有効期限が過ぎてしまった場合でも、目的地の駅までは通してあげましょうという考えが前提にある(もちろん、短距離の当日のみ有効、途中下車前途無効の乗車券はこれに該当しない)。ただし、有効期限が過ぎているのだからその先での途中下車は認められず、とりあえずさっさと目的地まで行け、という扱いである。

ただし、列車の運行時刻は限られているから、その途中で終電となり先に進めなくなることもある。かといって途中下車は禁止だから、それなら駅のホームで一夜を明かせというのか・・・という事態も想定される。その場合は、乗り継ぐ列車を駅員が指定して、その列車に乗せてあげるという証明印を押して駅の外に出してあげる、という措置を取ることになる。ただし、その措置ができるのも、その日にこれ以上先に進めなくなった場合のことで、まだ列車が動いている時間であれば、とりあえず行けるところまでは行け、というのが原則である。

八代の駅員は宮脇氏から「継続乗車」の申し出を受けたが、この後、21時57分の出水行きがあるので、それに乗って出水(23時37分着)で「継続乗車」の手続きをするように案内する。列車が動いている限り、とりあえず行けるところまでは行け、という原則である。これに対して宮脇氏は、仮に出水まで行って翌日その先を行っても、川内から乗る宮之城線(現在は廃止)に乗る列車は同じなので、そんな時間に出水まで行って宿を探すくらいなら、八代で「継続乗車」の扱いにしても同じではないかと食い下がる。ただ、「旅客営業規則」に従えば駅員に分がある。最後に宮脇氏は八代で泊まることを選択し、「最長片道きっぷ」の残り区間は放棄することにした。

「最長片道きっぷ」の有効期限は切れてしまったが、宮脇氏は八代の駅員とのやり取りについて、「思い返してみると、この駅員こそ私の最長片道切符に対して真正面から対応してくれた唯一の国鉄職員ではなかったか」と、さっぱりした気持ちになっている。この切符を手に北海道から乗車して、途中下車、車内改札は何度となくあったが、車内改札の多くは切符に驚くばかりでろくに中身も見なかったとか、途中下車印も面倒くさいので自分で押せとか、あまり関わりたくなさそうな職員も多かった印象である。八代の駅員はごく普通に「継続乗車」のルールに従った対応をしただけだったのだが、それが「真正面から対応してくれた唯一」と書かれるのだから、何ともいえない。この駅員、当時頭の禿げあがった中年だったから現在はもう退職して、果たしてご存命かどうかというくらいの方だろう。

これは「取材ノート」でも触れられているし、ネット記事やブログでも取り上げられているが、もしこの日の朝、志布志の旅館で寝過ごさずに予定の6時24分発に乗っていればどうだったか。午後の明るい時間に八代まで来て、その後出水も過ぎて川内に到着。しかし、その先の宮之城線の運転が終わっていて、川内で「継続乗車」の手続きとなる。「枕崎まで行くのが目的なら鹿児島本線で西鹿児島まで行け」と言われるかもしれないが、そこは乗車券の経路を尊重するのだろう。そして、翌日は途中下車できない制約はあるものの、「最長片道きっぷ」は無事枕崎まで有効で着くことができた。

一方で、ここまで来てしまうと、途中下車印で埋めつくされて券面に書かれている事項もほとんどわからなくなっていたし、68日の有効期間がこの日で切れるとしても、ふと魔がさしたり、あるいは本人がそのことに気づいていなかったりして、八代や川内で「継続乗車」の申し出をせず、そのまま枕崎までスルーできたかもしれないと想像する。いやいや、最後の最後、西鹿児島で気づかれてきっぷそのものを取り上げられて、不正乗車のペナルティを科されていたかもしれない。

最悪なのは、仮に枕崎までその状態で乗り終えたうえで『最長片道切符の旅』が出版された後で、読者からそれを指摘された場合。当時ならどういう反応が起きたかは時代背景の違いもあるのでわからないし、鉄道の知識に詳しい人がそれほどたくさんいたわけでもないだろうからごく一部の波紋にしか過ぎなかっただろう。これがもし現在のようにコンプライアンスに敏感な世なら、宮脇氏、国鉄の双方が責められ、鉄道紀行作家としての宮脇氏の人生もひょっとしたら終わっていたかもしれない。そうなると『時刻表2万キロ』も否定され、その後に鉄道趣味が世に認知されることも、そういうことを商売にする人が出ることもなかったかもしれない。この時の宮脇氏、八代駅員の「けじめ」が、いろいろなものを守ったとも言われている。

・・・机上旅行では八代着はまだまだ昼。ともかくこの先に進むのだが、本文が一つのクライマックスを終えたところで、ここでいったん記事を区切ることにする・・・。

 

※『最長片道』のルート(第33日続き)

都城17:37-(「おおよど」)-20:37八代

 

※もし行くならのルート(第34日)

都城6:37-(吉都線)-8:13吉松8:46-(肥薩線)-9:43人吉10:14-(肥薩線)-11:34八代・・・(以下続き)

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第33日(宮崎~都城)

2020年06月15日 | 机上旅行

1978年の宮脇俊三『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行、南九州編である。

机上旅行では宮崎9時08分と遅めのスタートである。日南線の始発は5時26分発の志布志行きだが、これでこの後のルートをたどったとして、この日は吉都線・肥薩線の分岐である吉松までしか行けない。その先、人吉に向かう列車は翌朝の便である。これなら、手前の都城に泊まっても同じことで、時刻表を逆算して宮崎がこの出発時刻となった。日南線じたいはその前にも列車があるので、早い時間に乗って青島で途中下車して、日南海岸や鬼の洗濯板を見てもいい。あ、リアルならそうするか。

日南線はプロ野球のキャンプ地として聞く名前の駅も多く、運動公園(宮崎サンマリンスタジアム)はジャイアンツのキャンプ地で、青島はジャイアンツが例年必勝祈願をする青島神社がある。また日南市にある油津、南郷はそれぞれカープの赤、ライオンズのブルーに塗られた駅舎が建つ。また串間はかつてドラゴンズがキャンプを行っていた。日南線も昔に比べれば利用客も減少しているが、キャンプシーズンとなるとキャンプ地めぐりのプロ野球ファンも少しは乗るようである。

『最長片道』では、12月の九州で日暮れも遅いとはいえ、ほぼ暗い中を走っている。線路に近い漁港では、岸壁の電気に照らされた漁船群を見ている。志布志までの3時間は現在も変わらないが、夜となると淡々と走る。宮崎を出た時は4両編成が満席だったのが、志布志に着いた時は宮脇氏を含めて4人だけになっていた。

そして志布志で1泊。駅前の酒屋で旅館を教えてもらって向かうが、ちょうど忘年会の真っ最中。玄関で案内を乞うても旅館の人はなかなか出てこず、千鳥足の客が「玄関に客がおるじゃないか」と伝えてようやく投宿。地方の駅前旅館は地元の人たちの宴会による売り上げが多い例として、この後の宮脇氏の文章にも出てくるが、今でもこの旅館はあるだろうか。

志布志は、大阪からのフェリーが発着するため、ある意味鹿児島の玄関口の一つと言える。私も学生時代に志布志に上陸して、南九州を回ったことがある。しかし鉄道のほうは、『最長片道』当時は日南線で着くと大隅線、志布志線と分岐していたのが、民営化直前で廃止。路線図だけ見ると最果ての終着駅にも見える。

そして『最長片道』の翌朝。6時24分発に乗る予定にして、前夜のうちに宿のおかみさんに話してチェックアウトの手続きをしていたのだが、目覚めたのが6時23分という大失態をやらかす。まあ、列車が出る1分前に目覚めたというのは、話を盛っているのかもしれないが(「取材ノート」では、夜中の2時40分に一度目を覚まして「おれはどこにいるのか?」と考え、志布志にいるのだと改めて気づき、その後わけのわからん状況になったようだが)。

寝過ごしは仕方ないとしても、ここに及んで致命的なのは、実はこのきっぷの有効期限がこの日で最終日を迎えていて、後でも触れるが「継続乗車」の特例を使って枕崎まで行くことが厳しくなったことである。ひょっとしたら志布志から予定通りに進んでいれば、この日の最後に行き着いた駅でまだ何とかなったかもしれないが、もうダメである。

旅の途中、どうしても仕事等の都合で中断を余儀なくされた区間もあったが、風邪で1週間ロスしたり、果ては寝過ごしである。何度読んでも、詰めの甘い旅行記だなという感想を持つことになる。宮脇俊三という人を鉄道旅行や時刻表の神様のように崇める方もいらっしゃるようだが、所詮はこの程度のおっさん。おっさんで悪ければ一人の人間である。

この先の行程が半日遅れになるところだが、志布志でじっとしても仕方ないと、1時間後の大隅線の列車で、とりあえず鹿屋に向かっている。私は学生時代の旅で志布志に着いた後は逆に日南線に乗ったので、大隅線や志布志線のルートは未踏である。机上旅行では、日南線から鹿児島交通のバスで、かつての線路に近いルートで錦江湾に面した垂水を目指す。志布志から鹿屋を経て垂水へは概ね1時間に1本の頻度で出ており、事前に時刻表を確認しておけば普通に移動できる。

『最長片道』で鹿屋に着いた宮脇氏は、3時間半の待ち時間を使って大隅半島を南下した根占に寄り道している。根占の先は九州本土最南端の佐多岬である。ここは私も昔に訪ねたことがある。鹿児島の鴨池からフェリーで桜島を眺めながら垂水に渡り、バスに乗った。確か岬への道は有料道路ではなかったかと思う。根占という地名も、バスの乗り継ぎだったと思うが、記憶に残る。

私の机上旅行のほうは、曖昧な記憶で垂水に着く。鴨池に渡るフェリーは健在で、バスのルートもフェリー乗り場を経由する。また、かつての垂水駅跡も残っているようだ。垂水では少し時間があるので、そうしたところを回るのもよいかな。

それよりも、錦江湾を渡るフェリーとか、佐多岬とか・・・某人気番組の「カブの旅」のキーワードが登場するところ。旅の終盤をイメージさせるエリアだ。この机上旅行ではそこを路線バスで逆走する。さらに、桜島を目にしてゴールが近づくのを感じるところ、そこも逆走してさらに熊本県まで戻るのだが・・・。

国分から日豊本線で都城に向かう。『最長片道』では1時間の待ち時間を利用してバスで日当山温泉というところに行っているが、特に温泉に入るわけでもなく、単に時間をつぶしただけのようだ。「取材ノート」によると、次の急行「錦江6号」を待つ間、国分の駅前でソバとビール大瓶の食事。小瓶がないからという理由で大瓶に行っている。まあ、わからなくもない。

乗り継いだ「錦江6号」の車中にて、鉄道マニアかと思われるお婆さんにも遭遇しているが、本文では触れずにサラッと進む。机上旅行も鹿児島県から宮崎県に入り、都城に到着。『最長片道』ではとりあえず行けるところまでは行かなければならないので吉都線に乗り継ぐが、机上旅行はこのまま行っても行き詰まるので、この日はここでおしまい。

机上旅行でたどっているのは現在のJR最長片道切符の旅でもなく、各地でバスや第三セクターやタクシーに乗り、果てはレンタカーまで使っている。そもそも1枚のきっぷですらないのだから、有効期限など気にする必要はない(それを言っちゃあ、おしまいだろうが?)。ともかく気楽に残りのコースを進もう・・・。

 

※『最長片道』のルート(第32日続き、第33日)

(第32日続き)宮崎17:36-(日南線)-20:36志布志

(第33日)志布志7:23(寝坊のため。。)-(大隅線)-8:29鹿屋12:01-(大隅線)-14:43国分15:55-(「錦江6号」)-16:50都城・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第33日)

宮崎9:08-(日南線)-10:30油津10:46-(日南線)-11:57志布志12:44-(鹿児島交通バス)-14:42垂水港16:00-(鹿児島交通バス)-17:11国分17:19-(日豊本線)-18:17都城

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『最長片道切符の旅』をたどる机上旅行~第32日(肥後大津~宮崎)

2020年06月14日 | 机上旅行

2020年のリアル社会は各地で梅雨入り。これからは大雨にも注意が必要、熱中症にも注意が必要ということで、日頃の備え、体調管理も大事になってくる。

このところ、毎年のようにどこかの鉄道が長期にわたり不通になる事例が出ているが、『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行でも影響が出ているのがこれから進む豊肥本線である。2016年4月の熊本地震による土砂崩れで線路に被害が起こり、2020年の8月、お盆休みを前にようやく運転再開の運びとなった。リアルの運転再開後に机上旅行も再開すればよいことだが、後数日でゴールの枕崎に着くこともあり、このまま「強行」することにする。

そこで登場するのがレンタカーである。バス、タクシーと来て、とうとうクルマにまで手を出してしまった。レンタカー確保のために肥後大津からいったん熊本に戻った形で、このまま阿蘇駅まで乗ることにする。レンタカー会社もいろいろあるが、その中でトヨタレンタカーを選択する。阿蘇駅前にも営業所があり、同一県内であれば乗り捨ても無料である。時刻表によると、阿蘇駅から先の列車は始発が8時19分発で、その次は13時05分発までない。逆を言えば、13時前までに着けばよいことである。熊本駅前の営業所の8時の開店直後に出発すれば十分間に合う、何なら阿蘇周辺も回れるのでは・・・とも思う。

クルマで行くならどのルートか。国土交通省からルートマップが出ており、これによるとまず国道57号線で肥後大津まで行き、「ミルクロード」というのを通る。県道339号線、同12号線、同45号線を走るが、これが阿蘇の外輪山の北側を通り、沿道には牧場、草原が多いことからこの名前が着いた。何だかこれだけ見ると、豊肥本線を行くよりも楽しそうなルートに思うが・・。

さて、『最長片道』に目を向ける。急行「火の山」で一気に九州を横断するが、少しずつ外輪山が近づき、立野で三段式のスイッチバックを通る。私もかつて、この線を走っていたSL「あそBOY」に乗ったことがあり、SL列車でスイッチバックを上るというのに興奮したのを覚えている。

宮脇氏はこの時、立野のスイッチバックで「1号車普通車、2号車グリーン車、3号車・・・」と、窓から首を出して列車の編成を大きな声で確認する老人男性に出会っている。自身も内心では列車の様子もむちゃくちゃ気にしているのだが、そこはさすがに紳士なのか、あるいは性格なのか(やっていることは極道だが)、そこは黙っている。その老人男性を見て本文では「鉄道マニアが齢をとるとこうなるのだろうか」としつつ、「取材ノート」ではストレートに「頭のおかしい人あり」、「私もああなるか」と書いている。現在では鉄道ファンの認知度も世間では多少高まったと思うが、それでも一般の人から見たらちょっと敬遠したくなる存在と感じるところだろう。1978年ならばなおさらだ。

阿蘇からは机上旅行も豊肥本線に復帰する。阿蘇から宮地、波野という、九州でもっとも標高の高い区間を通る。何とか、九州横断も無事に行きそうだ。なお、豊肥本線の阿蘇までの区間で『最長片道』のペースが机上旅行を再び追い越した。九州に入ってから、かつての廃線をバスやタクシーで回ったり、また早い時間で宿泊したりするうちに『最長片道』のほうが追い付き、急行「火の山」で追い越した。

豊後竹田に到着。滝廉太郎の『荒城の月』で知られるところで、その岡城跡へは私は行ったことがないので、リアルの旅なら途中下車するところだが、机上旅行では『最長片道』に追い越されたこともあり、先に進む。

大分に到着。『最長片道』では5分の接続で急行「日南3号」に乗り継いでいる。机上旅行では特急「にちりん」が出たばかりなので、1時間あまり大分で待ちとなる。ここからの大分、宮崎両県だが、私もリアルでこのところすっかりご無沙汰である。大阪からなら新幹線とソニック、にちりんの乗り継ぎ割引きっぷもあるし、フェリーという選択肢もある。行ってみたい。

大分の工業地帯を過ぎ、臼杵、佐伯といった複雑な海岸線の区間を行く。大分と宮崎の県境にある重岡~宗太郎も通過。この区間、特急は1時間に1本通過するが、各駅停車は1日にわずか1本しかないことで、その筋では知られている。例えば、その名前も一風変わっている宗太郎駅で、紙の時刻表でもいいしネットの乗り換え検索でもいいが、2020年のダイヤでは、延岡方面は6時54分発、佐伯方面は6時39分発、20時07分発、以上である。もっとも、こういうダイヤに目をつけて、延岡から朝の佐伯行きで6時39分に宗太郎駅に来て、6時54分発で延岡に戻るという剛の者もいるとかいないとか・・・。

かつて高千穂線~高千穂鉄道が分岐していた延岡を過ぎ、日向市に入る。日向と聞いて思い浮かべるのは、かつての近鉄バファローズのキャンプ地である。私はプロ野球のキャンプ地訪問というのはしたことがないのだが、宮崎県は沖縄、高知と並んで(キャンプする球団や場所はいろいろ変わっているが)キャンプ地として人気である。

一方『最長片道』では日向市にあるリニアモーターカーの実験線に目が行っている。本文では「いずれ実用化される日が来るとして、その頃の日本の交通体系はどんな具合になっているのかしらん、と思う。私が生きているかどうかのほうが問題だが」としている。宮脇氏が亡くなったのは2003年。そして2020年だが、実験線は宮崎から山梨に移り、2027年の東京~名古屋の開業を目指して実際の建設も一部では進められているが、ここに来て難航している。一部の地元自治体との間で環境対策をめぐって対立が出ているうえに、このコロナ禍で現場がストップして、工事そのものにも影響が出ている。リニア建設が政府主導からいつの間にかJR東海の自己負担に変わったことで、企業としての判断も出てくるだろう。

宮崎に到着。『最長片道』では時刻が17時前、九州ではまだ日がある時間帯ということもあり、宮脇氏は宮崎に泊まるかこの先の日南線に乗るか迷い、結局日南線で志布志に向かう選択をしている。一方の机上旅行では夜のそれなりの時間での宮崎到着。ここは迷いなく宮崎に宿泊である。やはり夜は地鶏料理となるか・・・。

 

※『最長片道』のルート(第32日続き)

(第32日続き)熊本9:27-(「火の山1号」)-12:54大分12:59-(「日南3号」)-16:51宮崎・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第32日)

熊本-(レンタカー)-阿蘇13:05-(豊肥本線)-13:51豊後竹田13:52-(豊肥本線)-15:06大分16:05-(「にちりん19号」)-19:23宮崎

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第31日(伊万里~肥後大津)

2020年06月13日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』を追いかける机上旅行も残りわずか。第31日は、モノレールを除く普通の「線路」を走る鉄道としては日本最西端の松浦鉄道である。『最長片道』では博多から筑肥線~唐津線~筑肥線と通ってきた直通の佐世保行きで松浦線に入っているが、現在は伊万里駅舎の改築にともないその線路も完全に分断されている。

JR発足直後の1988年に第三セクターに転換したが、国鉄時代と比べて駅の数、列車の本数も格段に増えている。早い時間の列車ということで、6時30分発の2番列車に乗り込む。まずは伊万里湾に面した工場群を抜け、松浦湾に出る。この辺りの海岸線も複雑に入り組んだところである。自然の景色があるかと思えば、巨大な火力発電所のすぐ横も通る。駅間の距離も短いので、2~3分も走れば次の駅に着く。

日本最西端の駅(モノレールを除く)であるたびら平戸口を過ぎる。平戸も観光で訪ねたことがあるが、海の景色、教会、素朴な港などなかなか面白いところ。また機会があれば松浦鉄道に揺られて行ってみたい。

そうした松浦線、松浦鉄道だが、かつては松浦線からの支線がいくつかあった。いずれも炭鉱からの石炭を運ぶための線路で、そうした需要がなくなるとあっさりと廃止された。『最長片道』の時にはボタ山や無人の炭鉱住宅など、宮脇氏の気が滅入るくらいの名残があったようだ。炭鉱と鉄道というと北海道や筑豊のローカル線をイメージするが、長崎県も炭鉱の多いところだった。世界遺産の観光スポットとして人気の軍艦島も炭鉱の島である。

佐世保に到着。机上旅行ではまだ午前中だが、『最長片道』では夕刻の時間帯である。佐世保線からの大村線は大村湾の近くを通る眺めのよい路線だが、この時は大村湾に差し掛かる前に日が落ちたようである。乗っていたのはDD51が牽引する客車列車。この時海を照らしたのは、太陽ではなく車内の灯りだったようだ。途中、列車交換のため数分停車した駅で、DD51の姿に改めて感心している。私も乗ってみたい。

諫早に到着。『最長片道』では夜行急行の新大阪行き「雲仙」に乗車している。寝台やグリーン車もない座席夜行だが、その分、佐賀や博多までの利用客向けの列車としても使われていたようだ。宮脇氏も、湘南電車や横須賀線のグリーン車よりも乗り心地がいいとご機嫌。しかし車内販売での夕食に当てにしていた駅弁は売り切れ、缶ビール、ワンカップ、チクワでしのいでいる(他にもゆで卵、ポテトチップスもあったようで、宮脇氏は一応栄養を気にして食べなかったが、こういうのを客車に揺られて食べるのもよいものだ)。

『最長片道』の第31日は佐賀で終了。駅からやや離れたホテルニューオオタニに宿泊している。

明けて第32日は、佐賀から瀬高までの佐賀線に乗車。6時49分で、12月の九州ではまだ夜が明けていない。この佐賀線も、国鉄民営化直前の1987年3月に廃止されている。机上旅行では西鉄柳川まで西鉄バスに乗ることにする。バスは1時間に1~2本運転されているから、国鉄時代より利便性はよいのではないだろうか。

佐賀線の名所として昔の写真でも出てくるのが筑後川に架かる橋梁。舟運との共存のために可動式なのが特徴である。佐賀線の廃止後も歩行者用の橋梁として現役で、現在は国の重要文化財にも指定されている。柳川行きのバスの途中の停留所からも歩いて行ける距離のようなので、途中下車して見物するのもありだろう。

バスは西鉄の柳川駅に向かうが、佐賀線は柳川の町はずれを通っていたようだ。当時の筑後柳河駅は、先ほど亡くなった大林宣彦監督の『廃市』という映画の舞台にもなったところ。

西鉄柳川からは堀川バスというローカルバス会社の路線である。これで瀬高まで向かい、鹿児島本線に合流する。九州新幹線の開業で、鹿児島本線もここまで来ると通勤通学輸送が中心となる。その中で机上旅行の時刻表を見ているのだが、昔に比べて瀬高から大牟田方面の列車が減っているように感じる。私がリアルに九州に鉄道旅行していた時も、鹿児島本線の熊本方面へは「快速 大牟田、荒尾行き」というのが頻繁に出ていたと記憶しているが、今は朝夕を除いてそうした運転がなく、快速は久留米やその一つ先の荒木止まりとなっている。むしろ、鳥栖から瀬高、大牟田、荒尾も過ぎて一気に八代まで行く鈍行が中心となっている。

熊本県に入り、田原坂を過ぎて熊本に到着する。『最長片道』ではこの後急行「火の山1号」で豊肥本線で一気に九州を横断して大分に向かっているが、机上旅行ではここで大きな災害の影響を受けることになる。2016年4月に発生した熊本地震である。4月14日の「前震」、4月16日の「本震」、いずれも深夜時間帯に最大震度7を計測した。熊本城の倒壊や、阿蘇地方での土砂崩れの映像はまだ記憶に新しいところだ。

鉄道も特に豊肥本線、そして立野から分岐する南阿蘇鉄道に大きな被害を及ぼした。2020年5~6月の机上旅行では、豊肥本線は熊本近郊で空港にも近い肥後大津までは行けるが、肥後大津~阿蘇間は不通。ただ、5月にJR九州から発表があり、2020年8月8日から同区間の運転が再開されるとのことである。九州横断、そして観光路線の位置づけもあるので、JR九州としても(日田彦山線とは違って)この区間は復旧させたかったのだろう。立野のスイッチバックも同じように通るのだろうか。

一方、立野から分岐する南阿蘇鉄道は、終点の高森~中松間は運転再開し、トロッコ列車も走っているが、立野からの区間はようやく復旧工事に着手したところで、まだ全線での再開目処は立っていない。

8月まで待てば机上旅行でも(その先のリアル旅行でも)豊肥本線で阿蘇を横断することができるが、6月時点ではどうするか。列車代行バスはない。となればここで中断とするか、それとも究極の奥の手を使うか(リアルに使えるのかどうかはわからないが)。

机上旅行ではいったん肥後大津まで進み、ここで折り返して熊本での宿泊とする。馬刺し、有明の魚、辛子レンコンを味わい、地震からの復興に向かっている街を応援することにしよう・・・。

 

※『最長片道』のルート(第31日続き、第32日)

(第31日続き)博多12:09-(筑肥線~唐津線~松浦線 伊万里通過)-17:24佐世保17:30-(佐世保線~大村線)-19:10諫早19:21-(「雲仙」)-21:14佐賀

(第32日)佐賀6:49-(佐賀線)-7:35瀬高7:47-(鹿児島本線)-9:11熊本9:27-(「火の山1号」)-12:54大分・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第31日)

伊万里6:30-(松浦鉄道)-9:05佐世保9:18-(佐世保線~大村線快速)-10:29諫早10:38-(「かもめ16号」)-11:35佐賀12:02-(西鉄バス)-12:50西鉄柳川13:26-(堀川バス)-13:43瀬高14:19-(鹿児島本線快速)-15:19熊本15:27-(豊肥本線)-16:05肥後大津

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第30日(直方~伊万里)

2020年06月12日 | 机上旅行

1978年、宮脇俊三の『最長片道切符の旅』、舞台は九州に移る。

42年前の国鉄と2020年のJRを比べてみると、新幹線の距離は各方面に延びた一方で、赤字ローカル線の多くが廃止され、バス転換または第三セクターへの移管ということになっている。また昨今では、新幹線を新たに開業させる代償として、並行する在来線をJRから切り離し、沿線の県単位に第三セクター路線を運行させるということになっている。東北本線、信越本線、北陸本線、鹿児島本線などがズタズタに切り裂かれている。

それでも、まだ鉄道として残っているところは(採算の面はさておくとしても)まだ存在感を維持できているのかもしれない。ただ、廃止後に転換されたバス路線も廃止・統合されるところもあるし、近年激甚化している災害に遭った後の町づくりの中で鉄道の存続をあきらめるところも出ている。特に北海道や九州のような、もともとの鉄道会社の経営基盤が厳しいところでそうした事態が地元を直撃しているように見受けられる。

机上旅行の第30日。まだ『最長片道』よりは1日早いペースで来ているが、そろそろ九州の鉄道の現況の影響を受けそうな気配である。

まず、『最長片道』の第30日、直方で夕食を取り、伊田での待ち時間で立ち寄った駅前の一杯飲み屋で、田川の住宅がかつての坑道跡の空洞のために陥没しやすいという話を聞いている。その後で暗闇の中、それでも決められた所作を守って運行する運転士や駅員たちの姿に感動した後、日豊本線との合流駅である行橋に着く。忘年会シーズンということで行橋の駅前には帰宅のタクシーを待つ客が並ぶ様子を見て、日田彦山線との分岐駅の城野はそのまま通過して小倉で宿泊している。本文でも「長かった一日が終った」とあるが、確かに島根県の益田から山口県を縦走し、九州に入って筑豊の炭鉱線区をジグザグに移動した一日だったから長く感じたことだろう。

・・一方の机上旅行は、直方で一泊を選択し、それでも6時台の列車でまずは行橋に向かう。筑豊の線区の中で、伊田線、田川線、糸田線を引き取る形で発足した平成筑豊鉄道の区間である。

10年近く前に平成筑豊鉄道に乗る機会があったのだが、車両や運行形態は第三セクターらしくまとまったものかなということで乗ったが、国鉄時代からの開業当初と比べて駅の数が増えているとともに、当時からはやっていた「ネーミングライツ」を取り入れていたのが印象的だった。

その一つが「MrMax田川伊田」とか、「神田商店上伊田」とかいうものだったが、今でも印象に残っているのが「れいめい拳.com崎山」という駅名である。2020年現在ではスポンサー契約も切れて元の「崎山」駅になっているそうだが、乗車した時は、「駅の名前に『ドットコム』がつく時代になったのか~」とか、「そもそも『れいめい拳』とは何ぞや」という感想を持ったのを覚えている。「れいめい拳」は企画・宣伝共同組合の名前とあるが、他にはいわゆるスピリチュアルに関する事業もやっているようで、見る角度によっては妖しい団体のようにも見えるのだが・・。

一時はこうしたスポンサーがついた駅名も多かったようだが、2020年現在はその数も内容もだいぶ縮小しているように見受けられる。スポンサーとしての効果が乏しいのか、そもそもそうした費用を出そうという企業・団体が減っているのか。

行橋に着いて、日豊本線を北上する。『最長片道』では宿泊のために城野を通過して、ダブリ乗車となる小倉に行って翌日に折り返しているが、机上旅行では午前のそれなりの時間ということで城野で乗り換えとする。『最長片道』のような小倉駅周辺の「トルコ街」は見なかったことにして。

日田彦山線を南下する。北九州の市街地を抜けると、石灰岩の山肌を露出してワイルドな景色をさらす香春岳に出る。一時は筑豊の石炭のボタ山と対峙するようにそびえていた香春岳も、セメントの原材料として山肌がだいぶはぎ取られたようである。福岡県のこの辺り、そしてセメントといえば・・・もうおわかりですよね。あの財務相の地盤に入ったということ。

普通に列車に乗るぶんには、日田彦山線をこのまま香春~田川伊田~田川後藤寺~豊後川崎~添田とたどるのだが、田川伊田、田川後藤寺、豊後川崎で前日のルートと重なってしまう。『最長片道』ではここで登場するのが添田線である。香春から添田までをショートカットするように走り、かつ交差する田川線との連絡駅はないのでこのルートに登場した。当時のダイヤでは、日田彦山線の日田行きが8時09分に香春に到着して、8時13分発の添田線経由の添田行きというのがある。宮脇氏はこの列車に乗り換えて、添田には日田彦山線の列車より5分早く到着している。そして香春まで乗ってきた日田彦山線の列車にそのまま乗り換えている。

『最長片道』では、香春で下車する時にわざと座席上の網棚に新聞紙を乗せている。そして添田で再び乗車した時にその新聞がそのまま乗っていたのを確認している。別に車内で何かが起こったわけではないが、ちょっとした「トリック」である。

こう書くと、添田線というのがバイパス線として重宝された歴史があったのかと思わせるが、実態は真逆だった。石灰石や石炭を運ぶ路線として日田彦山線のバイパス線の役割は確かに担っていた時期はあったが、田川の中心地である伊田や後藤寺を経由しなかったために旅客、貨物とも利用客は少なく、ローカル線の赤字係数としては北海道の線区とともにワーストの常連だった。民営化を待たず1985年に廃止されている。

2020年の机上旅行では香春から添田までバスで結ぼうかと検索したが・・・転換後のバス路線も現在は廃止されている。前日の上山田線もそうだったが、自治体のコミュニティバスは走っているが限られたエリアの中を、1日わずかな本数が結んでいるだけである。自治体のアリバイ作りであるかのような運行でしかない。・・・そうなると、香春から添田まではまたしてもタクシー利用となる。現在の車道に面して、あるいは少し離れたところにかつての遺構や記念碑も残っているそうだから、その辺りをちらりと眺めるとするか・・。

日田彦山線との合流駅である添田に到着。よし、ここから鉄道の旅再開だ!・・・と意気込むところだが、実はこの先も列車は走っていない。

まだ記憶にも新しい2017年の九州北部豪雨。彦山川沿いの一帯で大きな被害を受け、日田彦山線の線路も路盤の崩壊、盛り土の流出、橋脚の破損などもダメージが大きかった。その後、同じように被害を受けたが復旧工事が行われた国道、県道を使ってのバス代行が続いている。

そんな中、復旧費用が巨額にのぼること、そして復旧した後の十分な利用客が見込まれないことから、JR九州としては単独での復旧は難しいとして、地元自治体にも何らかの負担を求めるための協議に入った。議論も長引いたが、先日、東日本大震災後の大船渡線・気仙沼線と同様のBRTによる復旧ということで話がまとまった。一部の自治体は最後まで「鉄道廃止」に難色を示していたが、福岡・大分の県境にある釈迦ヶ岳トンネルを含めた日田彦山線の休止区間の線路跡を最大限に活用することで何とか妥協したという。災害によって鉄道の維持を断念した事例の一つとして取り上げられている。

机上旅行もようやく昼を回ったところだが、この先は一気に西九州に向かう。久大本線の夜明に到着して、『最長片道』では鹿児島本線に乗り入れて博多まで向かう鈍行に乗っている。こちらは久留米まで気動車で出て、快速に乗り換える。現在は久留米から博多は新幹線で2駅の区間で、在来線の快速で30分、新幹線なら18分で到着である。わざわざ久留米から博多まで新幹線に乗る客がどのくらいいるか知らないが。

博多からは筑肥線である。もっとも、『最長片道』当時と現在では路線の姿はまるっきり変わっている。

筑肥線はもともと博多~伊万里間の私鉄路線だったが、後に国有化された。『最長片道』当時は非電化の路線だったのが、1983年に福岡市営地下鉄との相互直通運転を開始し、並行する博多~姪浜間の廃止、姪浜~唐津・西唐津間の電化、唐津駅近辺の線路付け替えということがあった。1993年に博多~福岡空港間が開業して、福岡の玄関路線としての機能も持つようになった。現在は日中ダイヤで、地下鉄の半数が姪浜行き、もう半分のうち4分の3が筑肥線の筑前前原行き、残りの4分の1が西唐津に向かうという運転系統である。

『最長片道』の時は筑肥線から松浦線(現・松浦鉄道)を経由して佐世保に向かう鈍行に乗っている。8両編成で、前4両が伊万里行き、次2両が有田行き、そして後2両が佐世保行きということで、宮脇氏は佐世保行きの車両に乗る。博多を12時09分に出発して、佐世保着は17時24分。現在なら、海辺の区間を走る列車として、水戸岡デザインの直通気動車を走らせるかもしれない(地下鉄に乗り入れるのは厳しいだろうが)。

この列車の通路向かいのボックス席にはおっさんが陣取っていて、窓枠に缶ビール、缶コーヒー、コーラ、ウイスキーの小瓶、せんべい、ゆで卵、ちくわ、駅弁、もう一つ何かを売店のように並べている。そしてまずゆで卵、コーヒー、ウイスキーの順で口にしている。ただそれらも、車窓が糸島半島を抜けて虹の松原に沿って走るうちに全て消えたとある。現在の「呑み鉄本線」など足元にも及ばない豪快なスタイルである。つい最近まで、特に地方にいけばこうした「ボックス席宴会」というのはちょくちょく見られた光景。

『最長片道』当時は東唐津だったが、現在は線路の付け替えもあり、唐津で分岐する。唐津~山本は唐津線の上を走り、山本から伊万里まで再び筑肥線となる。かつての歴史の名残化、唐津~山本は地方交通線、山本~伊万里は幹線の運賃体系となっている。列車の本数でいえば唐津線の佐賀行きが、筑肥線の伊万里行きの倍あるのだが。

机上旅行では、18時を回った伊万里でこの日の行程を終了する。この先は松浦線を受け継いだ松浦鉄道に入るので、ちょうどきりがいいという判断である。伊万里といえば焼き物のイメージがあり、地図をよく見ると深く切り込んだ入江の奥にある町だが魚は名物なのだろうか。宿泊は問題ないとして、玄界灘、対馬沖の魚などいただける店があるといいのだが、果たしてどうだろうか・・・。

※『最長片道』のルート(第30日続き、第31日)

(第30日続き)直方20:30-(伊田線)-20:56伊田21:41-(田川線)-22:20行橋22:57-(日豊本線 城野通過)-23:31小倉

(第31日)小倉7:19-(日豊本線~日田彦山線 城野通過)-8:09香春8:13-(添田線)-8:35添田8:40-(日田彦山線)-9:32夜明9:34-(久大本線~鹿児島本線)-11:22博多12:09-(筑肥線~唐津線~松浦線 伊万里通過)-17:24佐世保・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第30日)

直方6:30-(平成筑豊鉄道)-8:11行橋8:20-(日豊本線)-8:46城野9:32-10:05香春-(タクシー)-添田11:30-(代行バス)-12:45夜明13:22-(久大本線)-14:13久留米14:57-(鹿児島本線快速)-15:27博多15:51-(福岡地下鉄)-16:08姪浜16:09-(筑肥線)-16:50唐津17:32-(唐津線~筑肥線)-18:24伊万里

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第29日(益田~直方)

2020年06月07日 | 机上旅行

1978年の宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。舞台は中国地方からいよいよ九州に入る。

『最長片道』では朝の急行「あきよし」に乗車している。この急行、江津発天ヶ瀬行きとある。天ヶ瀬とは大分県の久大本線の駅だが、そんな列車があったのか。かつ宮脇氏が「好都合な列車」としているのは、まず山陰本線を走り、長門市から美祢線に入って厚狭に出て、山陽本線から九州に入るためである(「あきよし」はその後小倉から日豊本線、日田彦山線、久大本線で天ヶ瀬に至る)が、長門市~下関は美祢線経由のほうが「遠回り」になるので、「最長片道」にはうってつけである。

益田からの区間は山陰本線の中でも海岸風景のきれいなところだが、机上旅行では朝の6時前に益田を出発、日の短い季節ならまだ夜が明けない時間である。現在の山陰本線の益田~下関間は特急、急行は走らず鈍行のみで、また長門市からの美祢線も2時間に1本しかない。この先の行程を考えての始発での出発である。

『最長片道』では萩で客車列車の鈍行とすれ違う。門司5時20分発、福知山23時51分着という、当時最長距離の鈍行列車。かつてはこうした鈍行が走っており、宮脇氏も後にこの列車に18時間揺られることになる(『旅の終りは個室寝台車』所収)。現在、この通りに門司から福知山まで特急、快速を使わず鈍行のみで移動するとなれば、門司から関門トンネルをくぐる列車はこの時間にはなく、下関5時39分発で始めたとして、益田、浜田、出雲市、米子、鳥取、浜坂、豊岡と乗り継いで、福知山23時22分着。かつて長時間停車していた駅が次の列車への乗り換え駅になった形だが、これ、リアルでやってみても面白いかな・・・。

長門市から美祢線に入る。長門湯本温泉を通り、秋吉台で知られる石灰岩地帯を行く。当初は、大嶺炭田の石炭を宇部港まで運ぶために開かれた線で、その後も石灰石輸送でも賑わった。後に宇部興産が石灰石輸送の専用道路を設けたこともあり貨物輸送は現在は廃止されているが、路線として「幹線」扱いなのはその名残である。

厚狭から山陽本線に入り、下関に到着。ようやく本州の西の端に到着した。リアルの旅行からこの港町でゆっくりしたいところだが、すぐに関門海峡を渡る。『最長片道』では門司で急行「あきよし」とはお別れして、鹿児島本線の快速に乗り換えている。机上旅行では小倉まで行った後、この後の行程を考えて特急「ソニック」に乗る。博多と福岡県東部、大分を結ぶ特急だが、小倉やその先の駅からでもそこそこ利用客がある列車である。次の「ソニック16号は香椎にも停車する。

香椎からは香椎線。路線としては非電化なのだが、2019年からは全て「電車」が走っている。JR九州が開発した「DENCHA」という車両で、電化区間ではパンタグラフから電気を取って走行して、走行・停車中に蓄電池に充電する。そして非電化区間では蓄電池の電力で走行する。電化工事にかかる費用を抑え、二酸化炭素の排出も抑制する画期的な取り組みである。香椎線のほか、筑豊本線の折尾~若松(若松線)にも使われている。運転区間が比較的短く、架線のある路線や駅に乗り入れての充電が容易ということからこの2路線での運用という。これもいずれリアルで乗ってみたいものだ。

香椎から30分ほどで終点の宇美着。『最長片道』では勝田線に乗り換えている。両駅はそれぞれ別の私鉄だった歴史から離れた場所に位置している。その勝田線、筑豊の炭鉱線の一つだったが1985年に廃止されている。炭鉱が廃止になったこともあるが、その後沿線は福岡のベッドタウンとして人口が増えたにも関わらず、輸送ダイヤのテコ入れも行われなかった。一方で西鉄が人口の増えた沿線にバスを走らせており、利便性もよかったので勝田線が廃止になっても特に困らなかったようである。机上旅行でも、西鉄バスの路線図から海駅近くのバス停を見つけ、これで吉塚まで移動する。途中、福岡空港の近くも通る。

吉塚からは篠栗線。現在は筑豊本線とともに「福北ゆたか線」の愛称を持つ。現在は電化され、福岡近郊の通勤通学路線。『最長片道』では乗ったのが土曜日の昼下がりで、土曜日の通勤客で混雑しているとある。当時は土曜日が「半ドン」だったのだろう。

途中、長者原を通る。『最長片道』当時は、篠栗線のうえを香椎線が跨いでいたが、香椎線の駅は設けられていなかった。そのために香椎線~勝田線~篠栗線というルートとなったが、JR発足後にホーム1本きりながら乗換駅が新たにできた。

『最長片道』では、ボックス席の前に座っていた中年の客が「齢をとると忘年会が二日がかりになる」と話しかけてくる。前日の夕方から飲み続けていて、文字通りの「二日がかり」になったようだ。ちょうど12月、忘年会シーズンということもあったのだろう。

それはそうと気の早い話だが、2020年のリアル社会では「忘年会」というのは行われるのだろうか。私は飲むのは好きだが、大人数で集まる会というのは苦手なので「忘年会」はなくてもどちらでもよいが、飲食店にとっては死活問題だろう。「新しい生活様式」では密集を避けることが求められるし、食事についても向かい合わせで座らない、会話を控える、大皿料理ではなく個人ごとに取り分け(ということは、大勢で鍋をつつくのはNG)、お酌も控えるとなると、やる方も今までとは違ったスタイルでなければならない。それなら無理にでもやらなくてもいいのでは、となるだろう。

『最長片道』では飯塚で下車して上山田線に乗っている。九州のスケジュールを立てるにあたってはこの線が核になっていたとある。途中の上山田~豊前川崎間が1日4往復しかなく、そのうち3本は早朝と夜で、手ごろな時間の列車は飯塚16時21分だけという状況。この列車に乗るために前日6時の東京発の新幹線に乗り、そしてこの日の行程が小倉23時半までとなった。

その上山田線も筑豊の炭鉱線の一つで、JR発足後の1988年に廃止されている。その後は西鉄バスに転換されたが、そのバス路線も廃止・統合されている。私も周辺地図や西鉄バスの路線図・時刻表をいろいろ見たが、結局はこの後経路がかぶることになるが、いったん隣の新飯塚駅まで行き、6分の連絡で上山田行きのバスに乗る。このバスは上山田線のルートというよりは、JR発足前に廃止された漆生線のルートに近いところを行く。いずれにしても私はこの区間は訪ねたことがないので、YouTube等に掲載されているかつての動画で往年の様子をうかがうことにする。

かつての上山田駅に近い山田図書館で下車する。ここから日田彦山線の豊前川崎に向かうが、この区間を結ぶバス路線が廃止されている。嘉麻市、川崎町それぞれの域内を走るコミュニティバスはあるが・・。

ここで、北海道のサロマ湖以来となるタクシーの登場である。豊前川崎発の列車まで2時間あるので、時間的には問題ないだろう。

17時を回った豊前川崎。『最長片道』でも同じ時間帯に通っており、宮脇氏はともかくこの日のうちに筑豊の炭鉱線を抜けようとこの後も乗り続ける。その結果、日付が変わる直前に小倉に出ることになったが、机上旅行ではどうしようか。ともかく田川後藤寺に出て、これはJRとして現存する後藤寺線に乗り換えて、新飯塚に到着。福北ゆたか線で直方に出る。18時44分着。

この先は伊田線、田川線という、現在は平成筑豊鉄道に転換された路線である。列車はまだまだ走っている時間帯で、また平成筑豊鉄道になってから本数が増えたこともあり、『最長片道』の時よりも早い時間に小倉まで行くことはできる。ただ、机上旅行とはいえなるべく明るい時間に乗りたいし、おそらく普段の観光旅行なら泊まることがないであろう筑豊地区に宿泊するのもいいだろう。ということで直方に宿泊とする。駅からは少し離れるがホテルもある。

直方は言わずと知れた炭鉱の町だったが、近年では大相撲で長く大関を張った魁皇(現・浅香山親方)の出身地として知られる。九州場所での熱狂的な応援も印象的だったし、現在も福北ゆたか線では「かいおう」という名前の特急が運転されている。

『最長片道』では列車の接続が悪いこともあり、直方で途中下車して夕食としている。駅前を歩くと、飲み屋街から一本裏通りを入ったところには格子戸の家が並び、「高山だ、津和野だ、小京都だと言うけれど、この通りのほうがよっぽど情緒があるではないか」と記している。今でもこの通りは残っているのだろうか。

行程を少し先に進めると、宮脇氏は次に下車した伊田(現・田川伊田)でも待ち時間があるので、燗酒とおでんで一杯やっている。店の女将との会話で、田川の町の下が穴だらけということを聞く。無数の坑道が掘られたのが放置されて空洞化し、その上にある家が陥没することがあったようだ。その飲み屋の裏の果物屋も陥没して地下の倉庫に水が溜まり、消防が水汲みをやったとある。今から42年前の話。現在は炭鉱というのはもう歴史の教科書の範囲になるのかもしれないが、現在はそうした事態はないのだろうか。

まあ、そうした当時の趣を想像してみるのもいいだろう・・・。

 

 

※『最長片道』のルート(第30日)

(第30日)益田7:11-(「あきよし」)-11:10門司11:20-(鹿児島本線)-12:40香椎12:46-(香椎線)-13:10宇美13:48-(勝田線)-14:09吉塚14:50-(篠栗線)-飯塚16:21-(上山田線)-17:10豊前川崎17:12-(日田彦山線)-17:20後藤寺17:23-(後藤寺線)-17:48新飯塚17:52-(筑豊本線)-18:07直方・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第29日)

益田5:56-(山陰本線)-7:46長門市7:54-(美祢線)-9:01厚狭9:09-(山陽本線)-9:43下関10:09-(山陽本線~鹿児島本線)-10:23小倉10:41-(「ソニック16号」)-11:21香椎11:51-(香椎線)-12:22宇美-宇美町役場入口12:48-(西鉄バス)-13:23吉塚二丁目-吉塚13:44-(福北ゆたか線)-14:29新飯塚14:35-(西鉄バス)-15:16山田図書館-(タクシー)-豊前川崎17:19-(日田彦山線)-17:29田川後藤寺17:48-(後藤寺線)-18:09新飯塚18:28-(福北ゆたか線)-18:44直方

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第28日(松山(堀江)~益田)・その3

2020年06月06日 | 机上旅行

まだやっているのか、いつまでやっているのかというこの机上旅行。1978年の宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行である。

この『最長片道切符の旅』をキーワードにすると、私のように机上旅行で済ませるのではなく、過去には実際に、途中の交通機関の形態が変わったとしてもリアルにそのルートをたどったという旅行記をいくつも見かける。移動のペースは人それぞれだが、やはり実際にその跡をたどって旅を完成させたのが素晴らしい。

さてこの机上旅行、前の記事では三原~岩国までと短区間の記載だった。そしてその大半が『最長片道』関係なく、何やら現在の自民党と、それに対する広島県ゆかりの宏池会のことについての内容だったが、それはさておき山口県に入る。

岩国から徳山までは2本の路線がある。山陽本線と岩徳線だが、当初は現在の岩徳線が山陽本線の線路だった。しかし戦時中、岩徳線区間は勾配のある路線のため輸送力増強のネックとなり、遠回りでも比較的平坦な地域を走る当時の「柳井線」が山陽本線となった。この区間は山陽本線の中でもっとも長く海と接する区間で、車窓から穏やかな瀬戸内海、そして大きく見える周防大島の景色も楽しめる。

徳山近辺でコンビナートの景色を見る。『最長片道』、2020年机上旅行ともに、ここの夜景を見ることなく日中に過ぎる。宮脇氏も「いかなる現代彫刻も及ばぬ迫力がある」としている。私も中国観音霊場めぐりで徳山まで進んだが、その時はコンビナートの景色を見なかった。この後再開する札所めぐりの中で、時間を取ってリアルで見ようと思うがどうだろうか。

小郡、現在の新山口から山口線に入る。『最長片道』、2020年机上旅行ともに、列車名は「おき」である。「おき」でも指定券を1車両に固めて発売していたようで、宮脇氏は車掌が来たら文句を言ってやろうとしていた。しかし、素朴な車窓の景色、そしてここで「日本の『国果』は柿、『国菜』は大根なのだろうか」という名言が飛び出す。平凡かもしれないが、ひょっとしたら中国地方の山間というのは日本のそうした平凡な山村の風景の代表とも言える。またこの後に車内改札に来た車掌の対応に宮脇氏もニンマリとして、そうした文句などどうでもよくなったという。

『最長片道』で宮脇氏は津和野で途中下車している。山口線内で1ヶ所くらいは途中下車可能としての計画のようだ。駅から歩き、森鴎外、西周の旧居を訪ねている。ちょうど当時が「ディスカバー・ジャパン」で萩・津和野が小京都のセットとしてブームになりだした頃という。宮脇氏も水がきれいということに感心している。私も久しぶりに訪ねてみたい町である。

津和野から山口線を進み、益田に到着。『最長片道』では駅の裏手にある「ニューフジタ」というビジネスホテルに宿泊しているが、駅から大きく回らなければならないようで、結局タクシーを使っている。そんなに遠いのかとホテル名前で検索すると、現在も健在のようだ。国道9号線に近く、イオンが目の前にある。ただ「駅前」という感覚ではなく、駅からだと線路を跨線橋から地下道で回らなければならないので、この日の早朝に東京を出発して、三原からは在来線を乗り継ぎ、津和野に途中下車した後だと、歩くのはちょっときついかもしれない。

さて次の日はいよいよ九州に入る。『最長片道』当時と比べて2020年の鉄道の状況ががらりと変わっていることを、改めて感じさせる日が続くことに・・・。

 

※『最長片道』のルート(第29日)

(第29日)宮脇氏自宅から東京6:00-(「ひかり21号」)-岡山-(「こだま◯◯号」)-三原11:07-(山陽本線)-12:26広島12:28-(山陽本線快速)-15:06小郡15:09-(「おき6号」)-津和野18:00-(山口線)-18:39益田

 

※もし行くならのルート(第28日続き)

三原11:59-(山陽本線)-14:07岩国14:42-(山陽本線)-16:33新山口17:12-(「スーパーおき6号」)-18:48益田

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第28日(松山(堀江)~益田)・その2

2020年06月04日 | 机上旅行

前回は四国から中国に戻り、呉線で三原まで来たところで中断となった『最長片道切符の旅』。1978年に宮脇俊三が訪ねたルートを2020年に机上旅行でたどろうというブログ記事だが、ようやく終盤戦に差し掛かる。

『最長片道』では北海道から始まった後、何回かに分割して旅をしたが、それも今回の三原からの再開が最終となる。この先6日間でともかく枕崎まで行き、翌日に東京まで戻るという旅程である。本文の第29日の章からも、どこか悲壮感すら漂ってくる。この旅を終えるとしばらくは旅に出ることもできないという・・・まあ、この旅行を一冊の本にせよという「仕事」があると、それだけの日数をかけて執筆しなければならないだろうから・・・。

『最長片道』では東京を始発の新幹線で出発し、まずは岡山に向かう。その「ひかり」が三原に停車しないために「こだま」に乗り換える。三原からは11時07分の在来線の広島行きに乗る。

一方の机上旅行、四国から中国への移動は、今は無い仁堀連絡船の代わりに松山観光港から呉港までフェリーに乗り、仁方駅にも立ち寄った後、呉線で瀬戸内を眺めながら三原まで来ている。第28日の正午前のことで、『最長片道』の再開と似たような時間帯である。

三原から山陽本線を行く。『最長片道』では沼田川の車窓に加えて、東広島の内陸部でも見られる石州瓦の集落についても触れている。山陰、特に石見の国と安芸の国でも西条あたりで似たような瓦が目立つのは、何かいわれがあるのだろうか。

山陽本線のこの区間は、2018年の西日本豪雨で、土砂流入、橋桁流出、斜面崩壊など甚大な被害を受けた。当然東京や大阪から九州を結ぶ貨物列車には大打撃で、一時的に伯備線~山陰本線~山口線経由の貨物列車を運行する事態にまでなった。

復旧までに3ヶ月弱かかったが、よく3ヶ月弱で復旧できたものだと思う。広島県では他にも呉線、芸備線などで大きな被害があり、県内の全線が復旧まではかなりの時間を要した。

その西日本豪雨に関して、今では報じられることもほとんどないが(まあ、それ以上のことをやっても平気という無神経だからだろうが)忘れられない行動があった。

豪雨があった当日夜に、東京にて「赤坂自民亭」という会合を開き、そこで乾杯している記念写真が世間に出回るということがあった。その中心にいた安倍は別にどうでもいいが、その会を仕切って、自慢げにSNSに配信していたのが、あの西村康稔である。今ではご立派にご出世なさって、「ポスト安倍」にもおなり遊ばされたそうだ。アベノマスクを拒否して、ご自身の下着を切って作ったかのようなマスク姿が女性(おばはん)に人気があるということで、本人も木に登った豚の気分で「ポスト安倍」にかなり色気を見せているようだ。

西村は安倍の腰巾着をやっていれば立身出席できるということを身を以てお示しされている。ぜひとも次の総選挙ではその色気を存分に発揮して、国内のええ加減な連中の票を獲得してもらいたいものだ。

・・・・・・ってなるかボケ。加藤を見ても人畜無害なので何とも思わないが、西村を見るとAV男優にいそうな顔で虫唾が走るわ。「ポスト安倍」といってもこの程度しかいないのか。

かつては、「三角大福」のように自民党の総裁=総理大臣のポストをかけて、今でこそ「派閥政治」と否定されているが、同じ党内でもガチンコの政争、ヤクザ顔負けの仁義なき闘いを繰り広げ、その中で自らの政策をアピールしていた時代があった。自民党の中でも常に官僚対党人、タカ派対ハト派、財政出動対緊縮財政など、時々によって主流派と反主流派のせめぎ合いがあった。

それが次代を経て、小選挙区制の影響もあるが、現在はそうした論争などまったくなく、自民党は安倍の顔色だけうがかい、たかが安倍の腰巾着風情がデカい顔をしている有様である。

『最長片道』をたどる机上旅行は広島県内を行く。その広島県もかつての自民党、特に池田勇人からの宏池会の流れを汲む王国である。その別の流れからは、県東部から中部にかけて強い勢力を持った亀井静香という人物もいたが。

それが今では安倍・菅のゴリ押しで、党本部から巨額の応援の金が流れたおかげで、何の主義主張もなさそうな(というか、人間味が全く感じられない)河井克行・案里といった輩が当選する土地になってしまった。それに対して何の反論も、自分の政治姿勢も主張することができず、ただ「禅譲」を狙って小さくなっているのが現在の宏池会の岸田文雄。こんな奴が「ポスト安倍の一番手」と言ってもいいのか。そうこうするうちに、西村とか、加藤勝信のような輩にすら存在感を抜かれてしまった。下着マスクの西村や、ご飯論法の加藤よりは岸田のほうがまだマシと思うが、時代劇や小説なら、ここから岸田文雄がキャラクターが変わって一気に大逆転をする展開なのだろうが、今のところそうしたことは微塵にも感じられない。

広島の自民党も落ちたものだ・・・。

・・・机上旅行ではそうしたことを思ううちに広島を通過。宮島を望む区間を走り、山口県に入って岩国に着く。しんどいし、書いている自分が不快になったので、ここで机上旅行記もストップする・・・。

 

※『最長片道』のルート(第29日)

(第29日)宮脇氏自宅から東京6:00-(「ひかり21号」)-岡山-(「こだま◯◯号」)-三原11:07-(山陽本線)-12:26広島12:28-(山陽本線快速)-15:06小郡15:09-(「おき6号」)-津和野18:00-(山口線)-18:39益田

 

※もし行くならのルート(第28日続き)

三原11:59-(山陽本線)-14:07岩国14:42-(山陽本線)-16:33新山口17:12-(「スーパーおき6号」)-18:48益田

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第28日(松山(堀江)~益田)・その1

2020年06月03日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』から40年以上後にそのルートをたどる机上旅行。今回は四国を後にして中国地方に戻る。

かつての仁堀連絡船。戦後の1946年に、宇高連絡船の輸送力増強のために設けられた航路である。四国の西側で広島県と愛媛県を結ぶものだが、仁方(呉線)、堀江(予讃本線)ともに駅から連絡船乗り場まで離れており、鉄道で利用する客も少なかったという。また、堀江から呉の阿賀港まで結ぶ民間の呉・松山フェリーにも利用客を取られている。『最長片道』当時では1日3往復の運航だったが、1982年の廃止時には1日2往復となり、ほとんど話題になることもなく廃止となった。

『最長片道』の宮脇氏の描写から、当時の様子が伝わってくる。出航まで1時間以上あるので店をのぞいたり、呉・松山フェリーの船員が買い物かごを提げて劇画雑誌や妖しげな週刊誌を手当たり次第詰め込むのを見たりする。現在の堀江港だが、ライバルだった呉・松山フェリーも「しまなみ海道」の開通の影響で2009年に廃止され、こうした旅客船の姿を見ることはない。「うみてらす」という海の駅があるくらいだ。

船の形は瀬戸内海によくある「枠だけ載せたよう」なものだったが、船内には椅子席、桟敷席、甲板席と一通り揃っていて、売店もある。仁方まで1時間40分で結んでいたから、クルマやトラックの運転手にはちょっとした休憩時間になったことだろう。

宮脇氏も海や島の景色を眺めるが、鉄道とはテンポが違うようで退屈した様子だ。これはわかるような気がする。別に海や島の景色に限らず、同じような景色が続くと人間の心理として飽きが出るのではないかと思う。甲板の席で風邪をひきそうになったか、売店で日本酒とキャラメルを買ってしのいでいる。

・・・さて、2020年の机上旅行ではどうするか。前日に堀江港の様子を見に行った後で松山に宿泊したが、この日は松山観光港6時25分発の広島宇品行きのフェリーに乗る。この時刻に間に合うよう、松山駅からタクシーでも乗ったことにする。松山からは石崎汽船のスーパージェットで向かうのが最速だが、早朝便は呉に寄港せず、瀬戸内海汽船のクルーズフェリーのほうが早く着く。仁堀航路の西側を通るが、瀬戸内の島々の景色を眺めながらというのもいい。2019年には新造船「シーパセオ」が就航しており、ひょっとしたらこの便に当たるかもしれない。

音戸の瀬戸も通過して呉に到着。仁方駅などに立ち寄らず、呉駅に向かう途中で「大和ミュージアム」を見学してもいいが、そこはルール優先で先に進む。呉線に限らず広島近辺の電化路線に投入された227系の「レッドウィング」で広に行き、さらに乗り継いで1駅先の仁方まで行く。ここでいったん下車して、かつての仁方港まで向かう。もっとも、現在はこちらも他の航路はなく、対岸の下蒲刈島との間も「とびしま海道」として安芸灘大橋で結ばれている。かつて呉線が広島に向かう幹線だった名残が仁方駅のホームの長さに残っているというが、現在のところはどうなのだろうか。

1本後の列車で呉線を東に進み、途中の車窓で瀬戸内海を見る。須波から三原にかけての区間ものんびりと走るところだ。

三原に到着。『最長片道』ではここで中断して宮脇氏は東京の自宅に戻っている。この時は12月8日。「取材ノート」によると、12月9日~14日は仕事の都合もあったのだろうが、12日になって風邪をひきかけるとある。この方は12月、1月の時季はよく風邪をひいていたようで、かつての『時刻表2万キロ』の旅でも、年末の乗りつぶし旅行

の無理がたたって正月を布団の中で過ごしたという記載もある。また「取材ノート」によると、レイルウェイ・ライターの種村直樹氏にも相談して「出発を1日延期して」12月15日に東京から三原まで移動している。

種村氏にどのような相談をしたのかはわからないが、後々の結果として、『最長片道』は枕崎に着く前日に切符の有効期限が切れてしまう。体調を考えれば無理をしないほうがよかったのだろうが、ひょっとしたら種村氏に相談したのも、このままの行程で行くと枕崎に着く前にタイムアップになってしまいそうだが「最長片道切符」は現地レベルではどのような扱いになるのか?という内容だったのかもしれない。種村氏はそれに対してご自身の解釈で「15日に出発しても大丈夫、枕崎まで継続乗車できる」と宮脇氏に回答したのかもしれない。「取材ノート」にそこまで書かれていないが、同じ鉄道旅行のプロ同士でそうしたやり取りがあったのかな。

結果的に『最長片道』では有効期限最終日の夜、宮脇氏は八代駅で駅員と押し問答となるが、最後はあきらめて八代で期限切れとなった。しかし、その背景に国鉄規則に対する種村氏の解釈の相違があり、宮脇氏はそれに乗る形で「出発を1日延期」してしまった・・・のかどうか。あるいは、当初の宮脇氏の行程、そして種村氏の規則解釈では問題なくセーフだったのが、結局は宮脇氏が鹿児島県の志布志の旅館で朝寝過ごしたからご破算になっただけなのか・・・。

まあこの辺りは「その筋」の方々がとっくにお見通しだろうし、別に私がここに書いたからといって別に偉くとも何ともない。

このブログもこれまでのペースなら益田まで先行するところだが、三原まで来たところで一息入れることにする。机上旅行には切符のような有効期限はありません。この後も休み休み書くだけのこと・・・。

 

※『最長片道』のルート(第28日続き)

(第28日続き)松山9:50-(予算本線)-堀江11:43-(仁堀航路)-13:23仁方14:07-(呉線)-15:27三原・・・この後帰宅

 

※もし行くならのルート(第28日)

松山-(タクシー)-松山観光港6:25-(瀬戸内海汽船)-8:20呉8:34-(呉線)-8:48広8:53-(呉線)-8:57仁方10:23-(呉線)-11:45三原・・・(以下続き)

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第27日(阿波池田~松山(堀江))

2020年05月31日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』(宮脇俊三著)のルートを訪ねる机上旅行。現在のJR最長ルートでは通ることのない四国を回っている。

机上旅行の第27日は四国のど真ん中の阿波池田から出発。特急「しまんと」でまずは大歩危・小歩危を抜ける。結構トンネルも多いところ。また『最長片道』でも触れられているが、並走する国道32号線の拡張工事のために景勝が減殺されているとある。よく、こうした渓谷沿いを走る列車を道路の側から撮影して、「ローカル線の旅はいいですなあ」とやっているが、実際に列車に乗ると川の対岸の道路のガードレールの白さが目につくことが多い。

また谷が深いところなので、田畑や家が崖の上に作られる。これも四国らしい景色の一つといえる。

山深い沿線を抜けて、高知平野に下る。高知を素通りするのも惜しいのだがそのまま先に進む。高知といえば太平洋、黒潮のイメージだが、高知から先もしばらくは比較的内陸のほうを走る。海に出るのは須崎からである。

窪川に到着。『最長片道』では1時間あまりの待ち時間があるが、見物のあてがないとして駅前の喫茶店で過ごしている。この日の宿泊を宇和島にしたが、時刻表の巻末の旅館案内を見て何軒か電話してもつながらなかったり、満員だったりという状況。そういえばかつての時刻表の巻末にそうしたページがあったのを覚えている。日観連とか、ビジネスホテル協会とか、そういう団体に加盟している施設が掲載されていて、そういうところのホテルなら問題ない、安心だというので私も高校生や大学生当時はユースホステルとともに活用していた。現在のようにネットの予約サイトでパソコンやスマホからサクサクと予約できるのとはまた違った味わい。

机上旅行では14分の連絡で9時40分発の予土線の列車がある。この前が6時22分発で、1本後が13時21分発だからこの時間に乗るのは貴重である。この列車は「鉄道ホビートレイン」で運転とある。0系新幹線をイメージした車体で、団子鼻もデザインされている。「四国のローカル線に新幹線が走っている」としてネタにされる車両である。予土線には他に「海洋堂ホビートレイン」や「しまんトロッコ」といった面白車両が走っており、観光路線の要素も担っている。

予土線は元々は宇和島~吉野生までの路線だったが、戦後になって愛媛と高知を結ぶことを目的とするようになり、江川崎、そして中村線(当時)と合流する若井まで2回にわたり延長された。若井まで延びたのは1974年のことだから『最長片道』の時はまだ4年しか経っていないことになる。この時も、線路の敷き方がトンネルや鉄橋でどんどん短絡した「新幹線的」として、この区間では鉄道が自動車より優位に立っているとしている。国鉄のローカル線廃止問題が出た時、予土線も輸送量では存続基準を下回っていたが、並行する道路が未整備ということで廃止を免れた歴史がある。私も四国八十八所めぐりの途中、四万十川に沿ってレンタカーを走らせたのだが、国道といいつつも道幅が狭く、離合するのも厳しいところもあった。四万十川の清流のイメージがあるからあからさまな新道を造るのも難しいのだろう。

この例外措置というのが明暗を分けたところがあり、窪川~若井~中村の中村線も存続基準を下回ったが、並行する道路も整備されているとして廃止となってしまった。実際は第三セクターの土佐くろしお鉄道に移管して線路は残り、後に宿毛まで路線も延長されるのだが、国鉄・JRとしては窪川~若井を手放した形になる。ということで、窪川から予土線の列車に乗ると、土佐くろしお鉄道の運賃210円が自動的に加算される。もちろん青春18きっぷの対象外で追加運賃を支払うことになる。「区間」ではなく「路線」単位、しかも数字だけで物事を決めた結果と言える。

江川崎に着く。『最長片道』ではここで宇和島行きに乗り換えとなっている。江川崎、かつて「日本一暑い町」の称号を得たことがある。2013年に当時の国内最高となる41℃を記録した。その日を含め、日本で初めて、40℃以上を4日連続で記録したという。江川崎ではこれを町おこしのネタとしてPRしていて、私が訪ねた時も江川崎駅に「日本一暑い らぶらぶベンチ」というのがあった。気候の暑さとカップルの熱さをかけたものだが、2018年に埼玉の熊谷が41.1℃を記録したために日本一はそちらに譲った。そのベンチ、今でもあるのだろうか。

愛媛県に入り、近永あたりからは宇和島近郊という感じになる。予讃線と合流する北宇和島は通過して、終着宇和島まで乗り越しとする。『最長片道』では、宇和島での宿がまだ取れていなかった宮脇氏が駅前の電話ボックスに入り、10円玉を電話器の上に積み上げて腰を据えて何軒でもかけるぞとダイヤルを回す。これも時代の光景だなと思う。幸い、最初にかけた1軒で空室が見つかり、無事にチェックイン。「取材ノート」によれば駅前にある宇和島国際ホテルで、これは私も泊まったことがある。

また「取材ノート」では、宮脇氏はホテルで紹介してもらった「魚亀」という店を訪ねている。カレイの唐揚げや縁側をいただいたとある。宇和島は魚の美味いところだが、郷土料理としては他に鯛めし、さつま汁も有名だ(さつま汁といえば、宮脇氏は後に『途中下車の味』という作品の中で宇和島を訪ねるのだが、同行した編集者が「カマボコになる前のドロドロしたもの」があると聞いて来て、その正体を町の人や店の人に尋ねるというくだりがある)。

机上旅行でもこの後の列車の関係から宇和島で1時間半の時間を取っている。ちょうど昼時、鯛めしでもさつま汁でも、ともかく海の幸をいただくことにする。

宇和島から予讃線に入る。ここは特急に乗り、宇和島の街を外れると法華津峠に差し掛かる。ミカン畑が山の斜面を覆うところで、愛媛らしい景色の一つとして鉄道写真の場所でも知られている。『最長片道』ではこの先三原まで進んだところで一時中断として東京に戻る予定となっている。「取材ノート」のメモには、「帰ってからの仕事の予定。宇和島でやるつもりがダメ。新幹線の中でメモろうと思う」とあるが、やはり旅先に仕事を持ち出してもなかなかはかどるものではなかっただろう。宿泊した宇和島ではまた深酒をしていたようだし。

八幡浜から伊予大洲に向かう。『最長片道』ではそのまま特急に乗り続けて松山まで行っているが、机上旅行では伊予大洲でいったん下車となる。1時間近く待ち時間があるが、大洲城や臥龍山荘を回るには足りないかな。

この先予讃線に乗るのだが、『最長片道』当時とは状況が変わっている。伊予大洲からは予讃線と内子線の2つのルートがあるが、『最長片道』当時の内子線は、伊予大洲の次の五郎から分岐して内子までの行き止まり線だった。当然特急や急行は伊予長浜経由の予讃本線を走っていたが、1986年に向井原から伊予大洲に向かう短絡線が開通し、内子線もその中に組み込まれた。このため、特急はすべて内子線経由となり、元の予讃線の伊予長浜経由の区間は鈍行だけが走るローカル区間となった。

この伊予長浜経由の区間だが、伊予大洲からは肱川の流れに沿い、伊予長浜からは伊予灘の景色を楽しむことができる。現在は「愛ある伊予灘線」の愛称があり、伊予灘を見下ろす下灘は青春18きっぷや他の旅行ポスターにも使われることが多い。机上旅行は「平日ダイヤ」ルールを取っているが、シーズンの土日であれば観光列車「伊予灘ものがたり」でたどるのもいいだろう。

向井原で内子線経由の短絡線と合流し、伊予市からは電化区間となる。松山に到着する。

『最長片道』ではこの後、予算本線で3駅先の堀江まで進み、仁堀連絡船に乗っている。宇高連絡船に加えてこの連絡船があるから『最長片道切符の旅』でも四国を回ることができた。ただ「連絡船」といいつつも堀江には鈍行しか停まらず、駅からも離れている。またその鈍行の松山での接続も悪く、乗ったのはいいが2駅目の伊予和気で列車の行き違い、追い越しで16分停車と、結構時間がかかっている。

さて机上旅行ではどうするか。もちろん仁堀連絡船は廃止されており、本州に渡るとなれば松山観光港から石崎汽船のスーパージェット、または瀬戸内汽船のクルーズフェリーに乗ることになる。時間は夕方なので松山に宿泊することにして、フェリーは翌日のこととする。ただ、かつてのルートの名残をということで、予讃線の堀江、そして呉線の仁方には立ち寄ることに・・・。

※『最長片道』のルート(第27日続き、第28日)

(第27日続き)阿波池田11:41-(「あしずり5号」)-15:00窪川16:11-(予土線)-17:07江川崎17:28-(予土線)-北宇和島通過)-18:46宇和島

(第28日)宇和島7:30-(「しおかぜ2号」)-9:14松山9:50-(予算本線)-堀江・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第27日)

阿波池田7:06-(「しまんと1号」)-9:26窪川9:40-(土佐くろしお鉄道~予土線 北宇和島通過)-12:23宇和島13:59-(「宇和海18号」)-14:42伊予大洲15:35-(予讃線愛ある伊予灘線)-17:11松山17:40-(予讃線)-17:55堀江・・・松山

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第26日(福山~阿波池田)

2020年05月30日 | 机上旅行

まだまだ続く『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。記事のタイトルに「阿波池田」という文字があるのでこの先四国に渡ることになるのだが、宮脇俊三が旅をした1978年と比べてみても、2020年はガラッと状況が変わっているところである。この日の行程はそれも含めての移動となる。

さて2020年の机上旅行の第26日は福山から出発。別に倉敷からでもよかったのだが、前日が江津から福山に移動するだけでも1日がかりの行程で、福山まで来たところで力尽きたといってもいい。そこはこの旅初めての瀬戸内の幸で回復したということで。

倉敷から伯備線に入る。す特急「やくも」に乗ってもいいが、この先の乗り継ぎを見れば鈍行でも同じである。ここは高梁川沿いにのんびり進むことにする。一方の『最長片道』ではとりあえず倉敷から備中高梁行きの快速に乗っているが、気動車が使われている。伯備線は1972年に新幹線が岡山まで開通したのを機会に、山陰方面の連絡線のエースとして活用されることになり、特急「やくも」も誕生したが、1978年当時は非電化路線だった。現在も走る振子車両が「やくも」に投入されて全線電化となるのは1982年のことという。

もっとも、2020年の時刻表を見ると、電化された伯備線の新見~伯耆大山~米子間で、普通列車に気動車の運行を表す「D」の番号が振られている列車があるのがわかる。キハ120という中国山地の各線を走るワンマン運転仕様の車両だが、客が少ない時間帯なのか、津山~新見の姫新線の運用の間に米子まで出稼ぎをするのか、何だか時代をさかのぼっているかのようである。

『最長片道』では、乗った列車が備中高梁までということもあり、次の新見行きまでの1時間18分の待ち時間を利用して、タクシーで備中松山城を訪ねている。タクシーで中腹まで行った後に急な石段を上ったとあるから、本丸まで行ったのだろう。「汽車の中に坐ってばかりいて体がナマった」「満員の通勤電車も大変だが、この石段を通勤するのも相当なことだ」と、ガチで山城を訪ねたことの感想が綴られている。備中松山城に行ったのは、列車に乗り詰めで内心おそらく退屈しているだろう同行の栗原氏への気分転換の意味合いもあったのだろう。

机上旅行では伯備線は高梁川の渓谷の景色はそのまま走り抜け、新見に到着。1時間の待ち時間はとりあえず駅前をぶらつくくらいか。『最長片道』では夕方の日が暮れた時間に降り立ち、淋しい商店街に流れる『ジングルベル』を耳にしている。この淋しさ、現在でも同じようなものだと思う。そうした情景も目に浮かぶ。

『最長片道』と机上旅行では、それぞれ夜と午前中ということで車窓の雰囲気も随分異なるところだが、新見~津山の区間というのも中国山地の中ののんびりした区間である。宮脇氏にすれば『最長片道』本文で「新見から岡山までがもっとも出来がわるい」としているが、それは前後の接続を考えるとどうしようもない。時刻表頼りの長い行程を組んでいると、必ずどこかでそういう区間も出てくるものだ。

津山に到着。『最長片道』では列車の待ち時間が40分あまりあるので駅前で夕食もとったが、机上旅行ではわずか1分の接続で岡山行きの快速「ことぶき」に乗り換える。津山駅の構造として姫新線の新見方面行きと津山線は同じホームから発着するはずだから、「すぐの乗り換えです」で実際は問題ないだろう。津山の扇形機関庫を見る時間がないとか、それはまたリアル旅で補うことにして、ともかく岡山まで南下する。この先しばらく慌ただしい乗り継ぎが続く。

『最長片道』では津山を発車したのが20時48分、岡山までの最終列車である。6両編成だが1両に1人か2人しか乗っていないとある。現在はおそらく2両での運転だろうが、それでもこの時間なら1両に数人しか乗らないのではないか。夜、外にはネオンが灯るわけでもなく暗い中を淡々と走るのも悪くない。同行の「星の王子さま」こと新潮社の栗原氏が「一日じゅう汽車に乗っているのは・・・山登りに似てます。山登りは歩いているときがおもしろいのです・・・それだけです」という名言とも迷言ともつかない感想を漏らし、後に宮脇俊三関連の作品やネットの掲示板でもネタで取り上げられることになったのもこの区間である。

特に津山線は2020年でも(窓は開かないが)国鉄型の気動車が走る路線。この机上旅行では昼過ぎの移動だが、夜の移動もローカル線の楽しみに加えてもよいところで、いずれリアルでもやってみたいことだ。

岡山に到着。まず『最長片道』のまとめをする。22時17分に到着して、さすがに駅の中にほとんど乗客もおらず、改札口の端の囲いにぽつんと立っていた改札係に切符を見せる。「これ何ですか。これでも切符ですか」という反応。ここまでの間に無数の途中下車印が押され、券面の記載事項もほとんど見えなくなっていたと推測される切符である。

その岡山で1泊して、当初の予定では栗原氏とはここでお別れだったが、宮脇氏が早朝にホテルのフロントに下りると、栗原氏が笑顔で立っていた。栗原氏は結局岡山から高松までの切符を買い、宮脇氏とともに宇野行きの列車に乗る。当時、四国に渡るルートというのは宇野から高松への宇高連絡船である。宇野に到着し、そのまま高松への連絡船に乗る。2人は船旅ということではしゃいでいたが、時間は朝の7時台。当時は宇高連絡船を使っての通勤通学客というのもそれなりにいたようだ。宮脇氏が女子高生の一人に話しかけ、連絡船で高松の高校に通っているとの返事に「いいなあ」と言って、女子高生の頬がプッとふくれるという一幕もある。何や、ええオッサンが朝から女子高生にナンパですかいな・・・と見えなくもない。そんな中、時季的にちょうど日の出にいい時間だったようで、水平線からの太陽の景色も楽しんだようである。

・・・一方の机上旅行。津山で1分乗り継ぎの津山線快速で岡山まで来たが、今回は後の行程を考えてわずか6分で宇野線(瀬戸大橋線)の列車に乗り継ぐ。岡山駅はこれまで何度も利用しているので、経験上、津山線の列車に遅れがなければ乗り換えは(隣のホームの先だし)問題ないとして先に進む。現在四国へは瀬戸大橋を渡るルートだが、茶屋町で乗り換えて「宇野みなと線」の愛称がある宇野線の末端区間に向かう。

ご存知の方も多いと思うが、現在のJR線で「最長片道切符の旅」を行うと、四国はまるまる外れてしまう。1978年当時は、この先の松山の近くにある予讃線の堀江と、対岸の呉線の仁方を結ぶ「仁堀航路」というのがあり、宇高連絡船と合わせて四国の出入り口になっていた。今は両航路ともないが、それに近い手段で中国地方と四国地方を行き来することにする。

・・・その「宇高航路」じたいが運航休止となったのは今でも驚きである。2019年12月のこと。私も休止の前々日に乗りに行き、デッキでうどんを食べた。国鉄の連絡船の他に宇高国道フェリーなどの会社も運航していたが、最後残っていたのは四国フェリーだった。やはり利用客の減少、高速道路や瀬戸大橋通行料の値下げの影響である。

では、宇野まで来て高松までどうやって行くか。高松への直行便はないわけで、途中の島に渡って乗り換えである。その中で時間、距離とも最短なのは四国汽船の直島便である。かつての宇高航路に近いルートを取り、島の西側の宮浦乗り場には宇野、高松双方からの便が発着する。直島は最近はアートの島として人気なので、フェリーを利用する観光客も目立つ。

普通の旅行なら直島で時間を取ってアート現物も面白そうだが、今回はかつての宇高連絡船の代替ルートである。宇野から13時50分発の高速艇に乗り、15分で宮浦に着く。そしてその15分後の14時20分発のフェリーで高松に向かう。高松着がその1時間後なので、宇野から合計1時間30分。たまたまダイヤの接続がよかったのだが、一応海路でもそれなりの時間で行けることがわかる。フェリーにうどんがあるかどうかは知らないが、このルートでの四国行きというのもリアルでありだと思う。

高松からは高徳線である。『最長片道』では連絡船で高松に着いたところでそのまま折り返す栗原氏と別れ、すぐに急行に乗車する。一方机上旅行は高松で少し時間が取れるので、うどんの1杯くらいいただいてから特急に乗る。行程を見返すと新見を出てから慌ただしい乗り換えが続いていた。津山で1分、岡山で6分、せっかく寄った直島で15分とか。

一息入れたところで特急「うずしお」で徳島に移動する。屋島、五剣山といった四国八十八所めぐりでも訪ねた景色を懐かしく見る。

四国八十八所めぐりだが、次にもし四国を訪ねる機会があれば、四国八十八所の2巡目ではなく別の札所めぐりをしようと考えている。それは「新四国曼荼羅霊場」というもの。1989年(平成元年)にできた新たな札所めぐりだが、特徴的なのは「神仏習合」。88ヶ所のうち81ヶ所は寺院だが、7ヶ所は神社である。鳴門市の東光院(種蒔大師)から始まり、最初は鳴門近辺を回った後、反時計周りに香川、愛媛、高知、徳島と回る。四国八十八所には含まれない高知や徳島の山中も訪ねる。もし行くとなれば例によって公共交通機関利用で(この札所めぐりはあまり「歩き遍路」というのは想定していないようだ)、その意味での「難所」も結構ありそうだが、四国のより濃い部分に入って行くようなイメージがある。もっとも、行くとすればかなり先のことになると思うが。

徳島県に入り、板野や板東といった四国八十八所めぐりの発心の道場に縁のある駅を過ぎて、吉野川を渡って徳島市街に入る。徳島線の分岐である佐古は通過して徳島に到着。机上旅行では徳島着が17時過ぎで、時間的にも徳島の大衆酒場で一杯やるところだが、この先の行程を考えてもう少し先に進んでおく。特急「剣山」で徳島線に入る。

吉野川に沿って遡るように走る。四国の中心に近づくにつれて平野部が少しずつ狭くなり、山がちな区間となる。佃の手前で土讃線に合流する。その土讃線だが、讃岐山地を越えて箸蔵から一気に下り、吉野川の手前で急カーブのUターンを描いて川を渡り、徳島線と合流する。『最長片道』の時は、ちょうどこの後に乗る急行が急勾配を下って来るのが見えたとあり、宮脇氏も「写真ででもいいから人に見せたい。カメラを持ってくればよかった」と記している。普段カメラを持ち歩かない宮脇氏がそうした感想を持つくらいの景色で、私も四国の車窓では好きなポイントなのでうなずける。

阿波池田に到着。『最長片道』では3分後に到着したその急行「あしずる5号」に乗り継ぐ。机上旅行では19時すぎ。この後しばらく待って特急に乗れば高知まで行って、時間は遅いが高知で一杯ということも可能だが、せめて大歩危は明るい車窓で見たいし、この日の移動もハードだったので阿波池田宿泊とする。ホテルも何軒かあるが、目に留まるのは駅前にあるその名も「ホテルイレブン」。このイレブンが意味するのは、もう昔の話になるがやはり池田高校の「さわやかイレブン」だろう。阿波池田のある三好市のゆるキャラに、蔦監督をモチーフにした「つたはーん」というのがいるくらいだから。

かつてはその池田高校も全国的な人気を博した甲子園だが、2020年のリアル社会では全国大会が春夏とも中止ということになった。当然賛否両論あるわけだが、今は全国から大勢の人が参加するイベントというのがまだ難しいということであれば致し方ないだろう。「オンライン」というわけにはいかないし。

高校はともかく、阿波池田の夜というのはどのような感じなのだろうか。さすがに静かに過ごすことになるのかな・・・?

 

 

※『最長片道』のルート(第26日続き、第27日)

(第26日続き)福山13:47-(山陽本線)-14:27倉敷14:38-(伯備線)-15:18備中高梁16:36-(伯備線)-17:25新見18:04-(姫新線)-20:03津山20:48-(津山線)-22:17岡山

(第27日)岡山6:07-(宇野線)-6:56宇野7:15-(宇高連絡船)-8:15高松8:25-(「むろと1号」 佐古通過)-9:45徳島10:12-(「よしの川3号」)-11:33阿波池田・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第26日)

福山6:33-(山陽本線)-7:14倉敷7:25-(伯備線)-8:52新見9:53-(姫新線)-11:30津山11:31-(津山線快速)-12:39岡山12:45-(宇野線)-13:06茶屋町13:11-(宇野みなと線)-13:34宇野13:50-(四国汽船)-14:05宮浦14:20-(四国汽船)-15:20高松16:12-(「うずしお21号」 佐古通過)-17:15徳島17:57-(「剣山9号」 佐古通過)-19:17阿波池田

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第25日(江津~福山)

2020年05月29日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』(宮脇俊三著)のルートをたどる机上旅行。『最長片道』本文では第26日、そしてこの机上旅行は第25日と、ここまで机上旅行のほうが早いペースで来ているのだが(別に競争するわけではない)、机上旅行はここでリアルの壁に阻まれる。

この日はまずたどるのは三江線。最近の出来事なのでご記憶の方も多いと思うが、三江線は2018年3月末をもって廃線となった。営業キロは108キロあり、国鉄時代にも多くの路線が廃止されたが、JR発足後に100キロを超す長い路線が廃止されたのも極めて異例のことである。この区間を机上旅行でどうたどるか。代替バスがあるとはいうものの、JTB時刻表では路線図が途中で切れてしまっている。北海道の湧網線の区間以来のタクシーの登場というのも想定される。

まずは、1978年の『最長片道』で三江線を行くことにする。前日の倉吉から宮脇氏は「星の王子さま」こと新潮社の栗原氏と一緒に動いている。前夜は江津に宿泊して、当日朝6時24分発の三次行きで出発。12月のことでまだ暗いが、3両の座席は途中駅からの乗車も合わせて通学生で乗車率100%とある。高校生が膝の上に立てた鞄に顔を伏せて眠っているとあるが、社会人ならともかく高校生には朝6時台、それが毎日というのはつらいだろう。

車窓には常に江の川が見えるといっていい。列車は川べりぎりぎりを走り、堪えきれなくなったらトンネルに入るというのを繰り返す。また江の川の流れを利用するのか、川べりにはザッパ船がもやっているとある。今でもあるのだろうか。

駅ごとに乗って来て満員になった高校生含めてほとんでの客が、石見川本で一斉に下車する。三江線の主要駅といってもいい。ここで下車の様子が記されているが、まず下車する客が降り、乗車する客が乗る。これは当たり前のことだが、乗車する客の後にゆっくりと腰を上げた一団が降りるとある。石見川本では何分か停車していたのかもしれない。

ちょっと話を現在に戻すと、最近のローカル線の鈍行はワンマン運転が多く、途中の一部主要駅を除くと、乗車は1両目の後ろ側の扉、下車は一番前、運転席のすぐ後ろの扉からという方式が目立つ。そういう駅では2両連結だと2両目の扉は開かない。そんな運転なので、下車駅が近づくとあらかじめ運転席後ろの扉に移るところだが、中には2両目に乗っていて扉が開かないのを知っていても、駅に着いてからゆっくりと腰を上げて、1両目との連結部の扉を開けてのんびりと運転席後ろの扉まで行く客もいる。運転士もその辺りは毎度のことなのか、一々急かすようなことはしない。

さて三江線は再び江の川に沿い、三瓶山を見る区間も走りながら粕淵、浜原とたどる。この浜原は「三江北線」の終点であった。

三江線は三次側、江津側からそれぞれ建設が進められ、「三江南線」、「三江北線」と呼ばれていた。このように、いずれは結ばれることを企図して南北両側から建設を進めた路線は全国にもあるが、採算性、モータリゼーションの普及などの影響で建設が中止された区間も多い。そして、そうした南北路線のほとんどは行き止まり線単体ではやって行けず、そのまま廃止、あるいは第三セクター移管となった。

三江線はその中にあって全線が開通した。1975年8月のことだから広島東洋カープがリーグ初優勝に向けて快進撃を続けていた頃である。宮脇氏は三江線の全通前に、「陰陽連絡線」が新たに出来ることでせめて1本くらいは急行が走るのではないかと期待していたとある。『最長片道』本文によると、急行の名称は「ごうがわ」として、三江線経由の岡山~浜田行きとしている。また岡山発、浜田発それぞれの時刻表も設定して、岡山での新幹線の接続にも気を配ったと得意げにしていたが、実際ふたを開けてみると、急行はおろか三次~江津の直通列車すら走らなかった。事実は、全通当初は信号関係の工事が未完成だったために、「三江南線」の終点だった口羽駅構内で線路がつながっておらず、直通運転が始まったのは1978年になってからのことだったという。『最長片道』の時はまだ文字通りの全線開通から間もない頃である。

この新線区間に、山間部のトンネルとトンネルをつなぐ高架橋の上に建てられた宇都井駅というのがある。高さ20メートル、エレベーターもなく112段もある階段の上り下りが必要というのは当時のローカル線の駅では珍しく、その後も車窓のポイントになっている。

途中の区間は通学生もいなくなって空いていたが、口羽でまとまった乗車があり、そのまま三次まで向かう。江津から三次までの所要時間は3時間半。江の川沿いにのんびりとした走りだった。

三江線が全線開通したのが1975年で、廃止されたのが2018年。たった43年というべきか、43年もよく持ったなというべきか、その判断は難しい。地元の人にとってもどちらとも言い難い面があるだろう。ただ三江線の場合は、元々利用客が少なかった実態はあるが、それ以上に何回も豪雨災害に見舞われて、その復旧ひようがかさむという不運も大きかったように見える(特に2000年代に入ってからは、各地のローカル線が災害からの復旧断念で廃止されるケースも目立つ)。

そして廃止になってからの交通手段だが、三江線の線形が沿線の人の流れに必ずしも沿っていなかったことや、沿線の集落が江の川の対岸にあるところもあり、江津と三次を結ぶ、あるいは島根県側、広島県側それぞれの全域をカバーするバス路線はなく、複数のバス業者がそれぞれの駅、地域を補う形で運転系統が細分化された(例えばA駅からB駅まで、これまでは三江線で直接結ばれていたが、廃止後はA駅跡からCバスセンター行き、CバスセンターからB駅跡行きと別々のバス路線を乗り継ぐということ)。だからそれぞれの駅の様子を見ながらバスでたどるのは事実上不可能で、三江線からは外れても三次まで行けるルートを探す必要がある。

こういうのは自治体のホームページを参照するのがよいようで、三次市のホームページに掲載されている乗り継ぎマップがわかりやすかった。また沿線の川本町や美郷町も代替バス各線のダイヤを掲載しており、これらを見ながら進めてみる。代替バスには乗ったことがないので、完全に机上旅行である(時刻については、これまでの机上旅行と同じく「平日・通常ダイヤ」縛り)。

まずは江津から石見交通の路線バスで石見川本を目指す。この区間はJTB時刻表にも掲載されているが、1日6往復。このうち江津駅前を出る朝の便は2本あり、6時04分発か7時06分発かというところだが、その後の乗り継ぎを見ると6時04分発ではその先の待ち時間があまりにも長くなるため、7時06分発とする。バスは江の川に沿い、かつて駅があった地区をトレースしながら進むようだ。これで1時間あまり乗車して、8時20分に石見川本到着。休日ダイヤであればこの先浜原方面に向かうバスが9時ちょうどに出るのだが、今回は「平日縛り」。そうなると石見川本からの次のバスは11時ちょうどまでない。かと言って江津を1本後に出るバスでは11時発に間に合わない。駅前に商店街があるようだが、ちょっと2時間半の待ち時間は持て余しそうだ。

次に乗るのは大和(だいわ)観光という業者の路線バス。川本美郷線という、川本町と美郷町を結ぶ路線でこれが浜原駅まで行く。しかし本数はこちらもわずか6往復。しかし石見交通と大和観光の相互乗り継ぎはほとんど考慮されていないようで、あくまで川本を中心に各地を結ぶ運行体系となっている。なおこれは余談だが、山陰本線の大田市駅から、世界遺産の石見銀山を経由して川本まで走る系統もあるようだ。

石見川本でどうにか時間をつぶして、11時ちょうど発の浜原駅前行きに乗る。これで終点の浜原駅前に行ってもいいのだが、またしてもそこで3時間ほど時間をつぶさなければならない。そこで目に留まったのが、川本から30分ほど走ったところにある「ゴールデンユートピアおおち」というバス停。調べてみるとその名前のリゾート施設があり、温泉もあれば土地の料理がいただけるレストランもある。リアルでは木曜日定休日だそうだが、机上旅行ではそれを避けることができたとして、ここで時間を過ごす。三江線に乗りっぱなしではできない寄り道だ。次はこの「ゴールデンユートピアおおち」始発の14時18分発の上野行きに乗る。

次の乗り継ぎポイントは14時49分着の「グリーンロード大和(だいわ)」。三江線の駅でいえば新線区間の石見都賀が近い。ここには道の駅があり、バス乗り換えの拠点ともなっている。乗るのは備北交通作木線の14時57分発の三次行き。作木線のグリーンロード大和~伊賀和志間は1日2本しかなく、しかもこの便が最終である。乗り換え時間はわずかしかないが、まあ、よほどのことがない限り大丈夫だろう(さすがに道の駅で買い物する時間はないか)。これに乗れば「三江南線」の終点だった口羽地区も通過して、1時間20分ほどで三次駅前に到着。

ただし、この作木線は途中からは江の川沿いに走らず、国道54号線に入ってかつての布野村の一帯を走って直接三次に向かう。高架駅の宇都井や、かつて「秘境駅」にもランクインしていた長谷は通らない。三江線のルートに沿って走ることにこだわるなら、途中の「川の駅常滑(港別)」で別会社である君田交通の川の駅三次線という路線に乗り換える必要がある。ただし作木線との接続は悪く、20分前に出たばかりで次は18時台までない。というわけでルートからは外す。

朝7時に江津を出て、途中2時間半~3時間のインターバルが2回あったことを含めて三次に着くのは9時間後である。他の時間帯であればまた乗り継ぎのパターンも異なるだろうが、石見交通~大和観光~備北交通というのが一応三江線の後釜のルートということになりそうだ。ただいずれにしても、三江線の代替バスとはいうものの、江津から三次まで一気通貫で結ぶことは全く考えられておらず、それぞれの地区内の生活維持でかろうじて走っているのが現状のようだ。実際どのくらいの乗車があるのだろうか。またバスといっても実際はマイクロバスだったり、下手すればワンボックスカーを使っていたりというものかもしれない。

通勤を含めた日常生活ではクルマという人がほとんどだろうし、バスに乗るといっても結局は地元のお年寄りが病院や役場に行ったり、たまに江津や大田、三次に出ようかという時くらいだろう。あるいはスクールバスのようなものか。ちょっとこれでは外部の人に向けて、三江線の代替バスで観光に来てくれとは胸を張って言いにくいだろう。

そんな三江線の代替バスの旅行記がないかなと探したのだが、その前に目に留まったのが、2018年に廃止された直後の様子を、なんと江津から三次まで2日がかりで歩いて踏破したという記事である。それがpatoさんというライターが書いたこちらの記事(実は、以前に見て知っていたのだが)。沿線の雰囲気はこれでよくわかるし、バカバカしいことを大真面目にクリアする、ある種、宮脇俊三氏の世界に似ていなくもない。また最後の一節は、地域活性化というものについても考えさせられる内容になっている。

ともかく、相変わらず長々と書いたがようやく三江線区間をクリアした。この後は福塩線に乗り継ぐが、こちらも途中の府中までの非電化区間は本数が少ないところ、40分ほどで接続である。宮脇氏から車窓の地味さを評価?される路線だが、途中で暗くなり、福山に到着。結局は山陽側に出るだけで1日かかってしまった。

『最長片道』のほうでは昼過ぎに福山に到着。新幹線も停まる駅に来たことで同行の栗原氏は「大都会に来たようですね」とコメントしているが、駅の真横に福山城があるとはいえ、確かにそのように見えるだろう。この後は夜まで乗り継いで岡山まで行っているのだが、机上旅行では福山に宿泊。この旅で初めてとなる瀬戸内の幸をいただくことにしよう・・・。

※『最長片道』のルート(第26日)

江津6:24-(三江線)-9:55三次10:57-(福塩線)-12:44府中-(福塩線)-13:40福山・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第25日)

江津駅前7:06-(石見交通バス)-8:20石見川本11:00-(大和観光バス)-11:29ゴールデンユートピアおおち14:18-(大和観光バス)-14:49道の駅グリーンロード大和14:57-(備北交通バス)-16:15三次駅前16:53-(芸備線~福塩線)-18:37府中18:42-(福塩線)-19:30福山

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第24日(松崎~江津)

2020年05月28日 | 机上旅行

宮脇俊三著『最長片道切符の旅』のルートをたどる机上旅行も中国地方に入る。

『最長片道』の第25日、第26日は宮脇氏の旅に珍しく「同行者」がいる。本文中では「星の王子」、「王子さま」と呼ばれているが、「取材ノート」ではこの作品を出版した新潮社の「栗原氏」と記載されている。宮脇氏の鉄道旅行とはいかなるものかを見定めようというのが目的、とある。確かに、現在のように「乗り鉄」が社会的にも認知されているわけではなく、変わった存在にしか見られていなかっただろうから、宮脇氏の旅とはどんなものなのか、物珍しさということだろう。

星の王子は寝台特急「出雲1号」で倉吉に到着ということで、宮脇氏も松崎の旅館を早朝に出発する。鳥取では朝が早すぎるし、米子だと経路をはみ出すので、間の倉吉を選んだのだろう。宮脇氏のことだから、時刻表であらかじめ乗るルートの列車を決めておいて、事前に星の王子に寝台券を倉吉まで買うよう連絡したことだろう。当の本人は松崎に泊まったが、倉吉から乗る予定にしていた米子経由境港行きの鈍行に1駅前から乗った形で、倉吉のホームで無事に合流する。

一方こちらの机上旅行は、これまでの中ではもっとも遅いだろう、松崎を9時すぎとゆっくりの出発である。別に朝6時でも7時でも早起きして出発していいのだが、時刻表でこの後の行程をたどって行くと結局どこかで長時間の待ち時間となるので、ならば温泉地をゆっくり出発するのもいいだろう。たまにはこういう日があってもよい。

倉吉から伯耆大山にかけての距離も鈍行で淡々と進むのがよい。天気がよければ左手に大山の姿が見える。この山も、見る方向によって全く異なる景色が現れる。東側から来るとアルプスのように荒々しくとがった稜線が見える。山陰地方最古の駅舎が残る御来屋のホームから眺めることもできる。

伯耆大山で伯備線に乗り換える。特急「やくも」で突っ走ってもいいが、ここではちょうど鈍行列車が接続している。今度は大山も「伯耆富士」と呼ばれる三角錐の姿を見せる。陰陽連絡の幹線であるが、車窓は日野川に沿ったローカル線である。現在は2~3両の115系が走るが、『最長片道』の時は旧式の気動車6両が連なったとある。通学の高校生が座席でドスンドスンとやっていて、その振動が背中合わせに座っていた王子さまに伝わる。最近はマナーがよくなったのか、ローカル線でもそうした高校生も見なくなったように思う。おしゃべりくらいはするだろうが、多くは向い合わせでそれぞれスマホの画面に夢中である。

鳥取県から岡山県に入る。芸備線との分岐駅の備中神代に着く。『最長片道』では宮脇氏も王子さまも朝から何も食べておらず、駅前に何かないかと車内から目を凝らすが、ホルモン焼きの看板しか見えなかったとある。「石灰岩でも掘ったあとで焼酎をひっかける店」とあるが、どんな感じだったのだろうか。結局新見まで乗車する。経路計算なら備中神代~新見間の飛び出し乗車も可能だが(例:伯耆大山から特急「やくも」に乗って芸備線に乗り継ぐ場合、備中神代は停車しないので新見まで行ってから芸備線に乗り換えても同区間の運賃は取らない)、新見で改札口を出るとなると話は別で、きっちりと同区間の往復運賃を取られる。新見で無事に駅弁を仕入れることができたようだ。

机上旅行では備中神代で下車する。12時53分に着いて、芸備線は13時12分発である。そのまま新見まで行っても芸備線の同じ列車に乗れるが、乗り換え時間は2分しかない。それであれば、おそらくホルモン焼きの店など今はないだろうが、備中神代で20分ほど駅前の様子を見たほうがよさそうだ。こんな時でなければまず降り立つことのない駅だろう。

『最長片道』でも机上旅行でも、このエリアでネックなのは芸備線の備中神代~備後落合、そして木次線の備後落合~宍道の両区間である。特に芸備線の備後落合までの区間は、現在は1日4往復しかない(途中の東城まではもう何本か走っている)。備中神代13時12分発の前は朝7時29分発、後は18時25分発なので、この乗り継ぎはタイミングがドンピシャと言える。

以前に私が実際にこの区間に乗った時、踏切で引っかかって列車の通過を待っているクルマを見たことがある。開かずの踏切ならまだしも、1日わずか数本の列車が通過するタイミングである。この運転手はよほどこの日の運勢が悪かったのかなという感想を持ったのを覚えている。

『最長片道』では、王子さまが新見駅で購入した「備中新聞」に目を通している。「7人生まれて7人死んでいる」と、新見市で生まれた赤ちゃんと亡くなった方の住所年齢が書かれている。現在でもこうしたローカル紙ではこのような情報もあるのかな。なお、本文では「備中新聞」とあるが、「取材ノート」では「備北新聞」とあり、ネットで検索すると「備北新聞」と「備北民報」が出てくる。

広島県に入り、備後落合に到着。『最長片道』当時は広島~松江間の急行「ちどり」も走っていたが、現在は特に備後落合~出雲横田間は1日3往復しかない。備後落合に14時25分に着いて、14時41分発の宍道行きに乗り継げるのは、先ほどの伯備線~芸備線の乗り継ぎともどもドンピシャである。

とはいうものの、この木次線も難関の路線である。列車本数が少ないのはさておき、豪雨・豪雪による運休が少なくない。特にこの数年では、冬の時季は実際に積雪があるかどうかにかかわらず長期運休の印象がある。あるブログで「冬眠に入る」という表現があったが、言い得て妙である。実際には代替手段としてタクシーが運転されているようだが、クルマなら「おろちループ」などを通って普通にクリアできる区間である。かつてローカル線の廃止が相次いだ頃、木次線も営業係数上ではその対象となるところが、沿線道路が未整備ということで外されたことがあった。この先の三江線が廃止された時、「次は木次線が危ない」という噂も出たが、現時点では廃止の予定はないとのこと。それでも上記の「タクシー代行」の実態もあり、この先も予断は許さない。

出雲坂根のスイッチバックを通り、出雲平野に向けて下って行く。宍道から『最長片道』では浜田行きの鈍行に乗っている。福知山始発の客車列車で、この頃の山陰本線にはこうした長距離運転の客車列車がまだまだ残っていた。出雲市を過ぎ、石州瓦の民家の間から日本海の車窓を見る。

机上旅行では宍道に着くのが17時半すぎなので、この先の日本海の景色は厳しそう。出雲市から鈍行に乗るが、日が暮れた後を淡々と進むことになるだろう。

この日の打ち止めは『最長片道』、机上旅行とも江津である。翌日の三江線のこともあるが、『最長片道』はよいとして、机上旅行では廃止後の三江線のルートをたどることになる。これは手持ちのJTB時刻表に掲載されていない区間もあり、ネットにてルートを検索する必要がある。

それは翌日のこととして、江津に宿泊。『最長片道』では、炉端焼きと寿司屋を兼ねた店に入り、ハマグリやら寒ブリのカマなどを食べている。王子さまも酒が強いようで、「昼間は一人旅がいいが夜は誰か相手がほしい」という考えの宮脇氏も楽しい夜になったのではないだろうか・・・。

※『最長片道』のルート(第25日)

松崎6:14-(山陰本線)-7:42伯耆大山7:49-(伯備線 備中神代通過)-新見10:18-(芸備線)-11:49備後落合11:55-(木次線)-14:42宍道15:39-(山陰本線)-17:13大田市17:21-(「石見1号」)-18:10江津

※もし行くならのルート(第24日)

松崎9:13-(山陰本線)-10:38伯耆大山11:14-(伯備線)-12:53備中神代13:12-(芸備線)-14:25備後落合14:41-(木次線)-17:37宍道18:04-(「やくも17号」)-18:15出雲市18:30-(山陰本線)-20:12江津

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