まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~今回でいよいよ折り返しだが・・まずは都城へ

2024年01月30日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

2024年の札所めぐり、JR西日本「駅からはじまる西国三十三所めぐりデジタルスタンプラリー」において残り訪問すべき駅が(しかも遠方に)ある中、スタンプラリーの期限も近づいている。その中で、こちらはこちらで・・ということで九州八十八ヶ所百八霊場めぐりである。

前回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは2023年12月、えびの、都城と回り、第42番・弘泉寺、第41番・天長寺をたどって、宮崎県がコンプリートとなった。帰りは、南宮崎から日豊線全線開通100周年記念のイベント列車にて日向の車窓を楽しむことができた。

そして、今回の第14回、舞台はいよいよ九州南端の鹿児島県に移る。札所順でいえば、加治木にある第43番・法城院、そして鹿児島市に入って第44番・不動寺、第45番・大歓寺と続く。鹿児島県に入り、鹿児島市内に入ることで九州八十八ヶ所百八霊場めぐりもようやく折り返しとなる。もっとも、鹿児島県を薩摩、大隅で分けた場合、第43番・法城院を除いて全て薩摩に属する。そして大隅半島の札所がゼロなのに対して、薩摩半島は鹿児島、指宿、枕崎、そして伊集院と四隅に札所がある。他にも薩摩北部、かつてローカル線も走っていたエリアにも札所があり、鹿児島といってもほぼ薩摩だが、また何回かに分けて訪ねることになる。手始めの鹿児島行きは1月27日~28日の1泊2日とした。

まず目指す第43番・法城院の最寄り駅は日豊線の加治木。駅から徒歩5分ということで、この後は鹿児島市街なので今回も公共交通機関での巡拝が可能である。加治木は鹿児島からも近く、九州新幹線で鹿児島中央までアプローチして、日豊線に乗るのがよい。

ただ、八十八ヶ所めぐりとともに九州一周となると、鹿児島からアプローチした場合、前回までで九州東部をたどってコマが進んでいる都城、えびの、(あるいは志布志)とつながらなくなる。ここはもう一度、東からアプローチして加治木に向かうことにする。

その九州へのアプローチだが、前回と同様、九州新幹線で新八代に向かい、高速バス「B&Sみやざき号」に乗ることにした。前回はえびのインターで下車したが、今回は都城北まで進む。

もっとも、そこに至るまでにいろいろ検討した。関西から夜行フェリーに乗って九州に上陸する・・というのも旅の楽しみとしたい思いもあった。神戸発宮崎行き、あるいは大阪発志布志行き。土日の1泊2日しか時間が取れない現状だと、土曜日にいったん関西に向かい、神仏霊場めぐりをこなしてかあらフェリーに乗船。日曜日の朝に宮崎または志布志に上陸して西に向かうとして、時間的に加治木の法城院を回るのが精一杯で、そのまま鹿児島中央に向かって新幹線に乗ることになる。フェリー乗船はそれはそれで貴重な体験で面白いと思うが、南九州の滞在が弾丸ツアー並みの時間しかない。結局、関西、九州とも中途半端でしかなくなる。

都城北は高速道路上のバス停で、都城市街へは宮崎~都城間の路線バスで出ることができる。ただ、都城に着いたらそのまま日豊線で加治木に向かうかといえばさにあらず、ここで、ローカル線の吉都線、肥薩線への乗車を組み込む。これで九州一周のコマを鹿児島につなげることにして、27日の宿泊地は肥薩線と日豊線が合流する隼人駅・・の隣、霧島市の中心である国分とした。この地区に泊まるのは初めてで、一献の店も予約。フェリーで1泊とは別に、大隅のどこかの町に泊まることで楽しみも深まりそうだ・・。

いつも以上に前置きが長くなったが、1月27日、広島6時53分発「こだま781号」で出発する。日本旅行の「バリ得こだま」プランで西に向かう定番の列車である。8両編成のうち、指定席は5・6号車のみだが、同プランの利用客とおぼしきそこそこの乗車がある。とりあえず、終点博多まで700系レールスターの指定席でのんびり過ごす。

徳山周辺のコンビナートが朝の車窓なのも定番。

8時21分、博多に到着。次に乗るのは8時40分発「さくら403号」。博多始発で、JR九州の800系が使われているが、列車名は「さくら」である。途中の筑後船小屋、新大牟田、新玉名を通過するからだろう。

熊本を過ぎ、9時30分、新八代に到着。

前回新八代に到着した後は、えびのインターに停車する便に乗るべく「B&Sみやざき号」を1本遅らせて、駅前の「松中信彦スポーツミュージアム」にも立ち寄ったのだが、今回はそのまま接続する9時40分発「B&Sみやざき403号」に乗車する。新幹線駅といっても小ぶりなもので、乗り場も出口からすぐのところにあるので、乗り継ぎは10分もあれば十分。ただ気になるのが、「B&Sみやざき号」が高速道路での渋滞等により新八代に遅れて到着した場合。バスの接続を新幹線が待つとは思えない。

さて車内は半数あまりの乗車率である。九州新幹線と宮崎方面のアクセス向上として開かれたのが高速バスの「B&Sみやざき号」で、九州新幹線と組み合わせた割引きっぷも発売されているが、普通の週末ならばバス1台でまかなえるくらいの需要ともいえる。

八代インターから九州自動車道に入る。前回は雨の中だったがこの日は晴天で、周囲の景色も見通せる。煙がたなびくのは日本製紙の工場だろうか。八代にも札所が1ヶ所あり、そのために八代に来る日もいずれあることだろう。

2020年の豪雨で氾濫した球磨川、そして被災して現在も不通の肥薩線の線路を見た後、九州道は球磨川から離れて山間を橋脚とトンネルで突き抜けていく。人吉まで最短距離で結ぶかのようである。九州道が開通した時点で肥薩線はローカル線になったといえるが、球磨川沿いの車窓、人吉~吉松間のスイッチバック、ループ線を絡めた車窓は観光路線として存在感を示していた。SLをはじめとした観光列車も人気だったが、2024年に入っても運休は続き、路線をどのような形で再生するのかも決まっていない。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでいえば、人吉、そしてくま川鉄道沿線にも札所が固まっている。さすがに公共交通機関だけで回ることは難しく、レンタカーのお世話になりそうだ。

バスは矢岳越えの区間、6200メートル余りの加久藤トンネルを抜けて宮崎県に入る。

えびのジャンクションから宮崎道に入る。右手には霧島の山々がそびえる。このままバスで都城に向かうが、その後、吉都線で同じように霧島の山々を車窓で楽しむ予定である。えびの~都城の往復は無駄足とも思われるが、そこはローカル線にも乗るということで自分としては納得である。

都城インターの手前、高速道路上の停留所である都城北に到着。時刻表上ではこの便の到着予定は11時09分。都城駅方面に向かう宮崎からの路線バスは11時13分発とあるが、路線バスの乗り場までは200メートルあまり離れており、そもそも乗り継ぎは可能なのかと思っていたが、高速バスの到着が若干遅れた時点でアウト。まあ、もともとこの乗り継ぎは想定していなかったのだろう。

宮崎道の高架下のバス停に到着。バス停の名称は「高速都城北入口」。ちなみに今回、都城北から都城駅へのアクセスを探すのに苦慮した。宮崎交通のホームページなどにバス時刻の検索メニューがあるのだが、都城北からの路線バスを見つけるのが困難だった。検索メニューで「都城北」と入れたのではヒットせず、「高速都城北」と入れなければエラー画面となる。何やねんその柔軟性のない検索システム・・。

高速都城北入口の停留所から、11時43分発のバスに乗る。国道10号線に合流し、道の駅も経由する。

霧島酒造の工場の横も通る。九州、特に南に来ると焼酎は焼酎でも芋焼酎しかないお国柄だが、よりによってここが(宮崎県ながら薩摩の芋焼酎の)総本山か。この先も一献が控えているが、さすがに鹿児島まで来れば芋焼酎の軍門に下らなければならないかと、ある芋、もといある意味腹をくくるしかないかと思う。

・・・いや、単に芋焼酎が苦手なだけ。

都城駅に到着。ちょうど昼時なのと、この先吉都線、肥薩線で飲み鉄を楽しむための原材料を仕入れに、駅からいったん市街地方面に向かう・・・。

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佐々木朗希、契約はどうなるのか

2024年01月25日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

2月からはNPB各チームがキャンプに入る。広島ではカープの新井監督はじめ選手たちが広島護国神社に必勝祈願に訪れたとか、キャンプでの1軍・2軍の振り分けが決まったというのをローカルニュースでやっていた。

また、バファローズも宮崎でのキャンプである。私も、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりと組み合わせて宮崎へキャンプ見物ができないかプランニングしてみたが、宮崎の札所が残っていればまだしも、次の目的地である大隅との組み合わせだと限られた日程で両方めぐりのは難しい。まあ、キャンプの様子はJ-SPORTSでも観られるだろうから、それでもよしとするか。

そんな中、まだ一般ニュースで大きく取り上げられはいないが野球ファンの中で「どないなっとんねん?」というのが、マリーンズ・佐々木朗希投手の契約更改がまだというもの。佐々木投手側が今オフでのMLBへのポスティング移籍を求めているのに対し、球団側が拒否していて契約更改がこじれているそうだ。

どうなんだろう。確かに佐々木投手はえげつない速球を投げるし、あの若さで完全試合も達成したとはいえ、まだシーズン通してローテーションを守ったこともなければ、タイトルも獲っていない。FAならともかく球団に決定権があるポスティングシステム、ましては25歳以下の選手ともなれば、吉井監督もいうように、まだまだチームへの貢献というのも必要ではないかと思う。これまでポスティングシステムで移籍した選手を見ると、やはりチームに何らかの置き土産を残した選手が多い。近い例なら、バファローズのエース・山本由伸投手がそう。ファンとしては引き続きバファローズでの活躍を見たかったが、リーグ3連覇、日本一にもなったし、3年連続投手四冠となれば、これはぜひドジャースでも頑張れ・・となる。

その佐々木投手、なんとプロ野球選手会も脱会しているという。選手会って脱会できる・・そもそも入会じたいが任意だったとは知らなかった。プロ野球選手は球団に雇われている「労働者」ではなく「個人事業主」として請負契約を結んでいるようなもので、個人事業主が集まって組合のような役目を果たしているのが選手会である。ユニオンショップとは異なるとはいえ、何かにつけ選手の地位向上のためにモノ申してきた集まりから外れるとは、どういう意図なのだろうか。選手会に魅力を感じなかったと言われればそれまで。もっとも、契約の件については本人の口から語られることがないが・・。

最悪のケースだと、契約更改交渉が行き詰まり、本人が任意引退扱い。しかしその後3年間は球団に保有権があり、メジャーはおろか、国内の他球団とも契約できないし、練習にも参加できないとなる。中途半端な浪人のようなものだ。

せっかくの球界の宝が、このような形で潰れるのももったいないのだが・・。

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第77番「龍光院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(被爆地の江波山へ)

2024年01月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりの江波編。まずは本川沿い、かき打ち通りにある不動院を訪ねる。そして、牡蠣の水産業者が並ぶ中、次の龍光院を目指す。

地図を見ると遠回りするのかなと思いつつ、龍光院の東にある衣羽神社に着く。さてこの「衣羽」だが、何と読むのだろうと迷った。きぬはね?きぬは?かと思ったが、「えば」と読むそうだ。ああそうか、「江波」だから。振り仮名がないのは、それは自明のことだからだろうか。なお、江波の地名の由来は、漁業の餌が豊富で魚が多く獲れたことから、「餌場」ということで「えば」となったという。後は、どのように漢字を当てたかの違いのようだ。

衣羽神社の創建は明らかではないが、古くとも平安時代末期には記録に出ている。平清盛が厳島神社に般若心経を奉納した時にはすでにあったのかな。石段を上がり、社殿にて手を合わせる。こちらの社殿も被爆建物とある。

境内からはちょうど周囲を見渡すことができる。衣羽神社を含む現在の江波山は、元々広島湾に浮かぶ島だったという。江戸時代の干拓に始まり、明治時代には舟入と陸続きになり、戦後の埋め立てで現在の地形になった。

その衣羽神社の社殿の奥につながる道がある。衣羽神社の駐車場があり、その中を抜けると寺の本堂らしき建物に続く。ここが目指す龍光院である。鉄筋コンクリートの新しい建物だ。

龍光院が開かれたのは大正時代。元々は江波の弘法大師信者の発願で高野山奥の院に供養塔として観音像を祀ったのを、昭和3年の辰年に江波山にお堂を建てて龍光院とした。別に衣羽神社と龍光院が神仏習合でつながっていたわけではないようだ。

本堂前にて朱印の引き出しを見つける。

龍光院の境内と言っていいのかどうか、隣接して江波山気象館がある。駐車場も寺のものか気象館用なのか、いや江波山全体が一つの公園なので広く開放されているのか。寺の参詣というより江波山の散歩として訪ねる人もちらほら見える。今回は時間の都合で入らなかったが、江波山気象館も被爆建物である。まあ、一口に「被爆建物」といっても、程度はさまざまだが・・。

江波山の車道を下り、江波の電停に戻る。今から帰宅すれば、この日(1月21日)広島で行われた全国男子駅伝の自宅近所観戦に間に合いそうだ。

この龍光院で77番目。八十八ヶ所もようやく終盤に来た。この先、己斐に1ヶ所残っているが、広島市中心部をコンプリートして、佐伯区、廿日市、そして宮島と、結願である弥山本堂に向けて西に舞台を移す。また少しずつの巡拝となるが・・・。

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第76番「不動院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(江波の港、かき打ち通りへ)

2024年01月23日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、伴中央にある第75番・薬師院の次は江波にある第76番・不動院、第77番・龍光院である。広島新四国もこの2ヶ所で市内中心部は終了し、以後は市の西側をめぐり、結願の宮島に続く。

薬師院に参詣後はアストラムラインで本通に戻り、その後はあの辺で過ごした。不動院、龍光院はまとめて訪ねるとして、日を改めて1月21日に出かける。

この日の午後から広島で第29回全国男子駅伝が行われるので、それまでに参詣を済ませ、自宅に戻って沿道から応援する予定である。江波まで行くならそのまま平和記念公園に向かってスタート、またはゴールの瞬間を見るほうがイベントを楽しむ感じがより一層強まるのだろうが、「全国の選手が自宅の近所を走る」というのを楽しもうと思った。

その「自宅の近所」は往路1区と復路7区のコースにあり、将来が楽しみな高校生区間の1区(ここを駆け抜けた有力選手は箱根駅伝にも出場する強豪校への進学が決まっている)、そしてその成長後の大学・社会人選手が走るアンカー7区、それぞれの思いを胸に駆け抜けていった。

さて、その前段である。自宅から江波まではクルマなら直線距離で近いのだが、ここは広電で向かう。土橋で江波行きに乗り換える。

終点の江波に到着。線路はその奥の車庫まで続く。同じ広島市内とはいえ、江波を目的地として訪ねる機会はそうあるものではない。

まずは第76番・不動院を目指す。そのまま住宅地を抜け、本川に出る。川沿いの道は「かき打ち通り」という名がある。江波港周辺に牡蠣の加工場が並ぶことからつけられたそうだ。ちょうど今は牡蠣の旬。

その通りに面した高台に不動院がある。この狭い石段の上にあるようだ。山というか丘というか、見張り台のようにも見える。元々は一つの島だったのかな。

不動院は当初、丸子社という祠だったのだが、江戸時代、江波の住人である仲屋幸助という船乗りがいて、筑紫に航海した時、豊後の海中で漁師の網にかかった不動明王をもらい受けた。これを祀ったのが始まりとされる。

小ぢんまりしたお堂が建つ。扉は開いておらず、そのまま外でお勤めとする。境内の外側には四国八十八ヶ所が囲んでいるが、限られたスペースの中である。

玄関横のポストに入っていた朱印をいただく。

この後、広島高速3号線の高架橋をくぐり、漁港に着く。かき打ち通りの名前にも現れる水産業者の店舗が並ぶ。牡蠣の業者もたくさんあり、それぞれ流通ルートがある。私が普段利用する近所のスーパーだと西の大野浦あたりの水産業者のものを見かけるが。

その一角に神社がある。海神宮とあり、江戸時代に江波港が開かれた当時からの建物で、8月6日の原爆にも耐えた被爆建物として紹介されている。先般、市街地から離れた草津の寺の本堂ですら被爆建物との紹介があったのを見て、それより近い江波でよく耐えたものだと思う。単純に爆心地からの距離だけではなく、さまざまな要因が重なって残ったのだろうが・・。

ところで、牡蠣で思い出した。先日のニュースにて、2月に開催予定だった「宮島かき祭り」が開催中止となったと報じられていた。画像は2020年2月の「宮島かき祭り」。新型コロナについてはちょうど感染者が増え始めたかなというところで、当時大阪から中国観音霊場めぐりと一献をかねて宮島に来た時のものである。この時点では、新型コロナがあれだけの騒ぎになること、そして私が広島に異動することになるとは思っていなかった。

2021年以降はコロナ禍の影響で中止されており、2024年は4年ぶりの開催が期待されていたが、夏の猛暑などの影響による牡蠣の生育不良が理由だという。

今季、かき祭りについては開催するところ、あるいは江田島のように中止するところとそれぞれ判断が分かれているそうだ。まあ、別に混雑する会場でなくとも、地元スーパーなどで別に品薄になっているわけではなく、普通に買って自宅でいただくだけだ。

この先、次の第77番・龍光院は近い・・・。

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第75番「薬師院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(市内から伴までぐるりと回る)

2024年01月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりを発願したのが2021年の元日。それから3年が経過し、2024年に入った。他にも札所めぐりを進めている中、もっともペースがゆっくりなのがこの広島新四国である。広島市内を中心としたエリアで、基本日帰りで回れるところばかりである(1回、気分転換を兼ねて泊まりで出かけたこともあったが・・)。他の札所めぐりなら旅の計画としてスケジュールを組むのだが、近くでいつでも行けるところだとつい後回し、先延ばしにするということはよくある話である。

その広島新四国、次は第75番・薬師院である。70番台となってから、市内中心部~宮島~市内中心部~草津ときて、今度は沼田、伴である。これまでもそうだったが、広島新四国は札所の移転、廃止・入替などの歴史があり、必ずしも札所順番とエリア順が一致しておらず、こうして飛び飛びになっている。まあ、その変化を楽しむためにあえて札所順で訪ねている。

これから訪ねる薬師院。記録によると、福島正則が広島を治めていた当時、堀川町の浄土宗の寺院を明長という修験者に賜るとある。明長の弟子の策雄の時に真言宗に改め、薬師如来を本尊として、師の名から明長寺と称した。その後、白島に移り浅野家の保護を受け、昭和の初めには南観音町に移った。そこで被爆。その後復興したが、平成になった1998年に現在地に移った。市内中心部の開発にともない、郊外に移転した札所もいくちかある。

さて薬師院へのアクセスだが、公共交通機関の最寄りは広電バスの「鳴る谷」である。路線図を調べると、広島バスセンターからくすの木台行きというのがある。日中は1時間に1本。1月14日、薬師院を目指して出発。

城南通りを行く。右手には新たに完成した「エディオンピースウイング広島」が姿を見せる。もう、ネット地図にもその名前が表示されている。サンフレッチェ広島の新たなメインスタジアムということで、いよいよ2月にはオープニングセレモニー、そしてプレシーズンマッチが行われる。普段、サッカー観戦はしないのだが、広島に新しいスポットができるとなれば、一度は訪ねてみたいものである(そう言いつつも、2回目の広島勤務にして訪ねたことがないスポットのほうが圧倒的に多いのだが・・)。

バスは高速4号線で西風新都方面に抜ける。広島市北西部へのアクセスもそうだが、高速バスも、中国道を利用する各方面への路線が高速4号線~広島西風新都インターを経由するため、重要な路線である。

トンネルを抜けたところで右折し、広島市立大学に到着。乗客も若い人が多かったが、ここでほとんど下車した。

この後、広島ジャンクションの下をくぐり、鳴る谷に到着。当初、薬師院へのアクセスを検索するにあたり、このバス停がなかなか見つからなかった。というのも、広島新四国のサイトに従って「鳴谷」で検索していたからである。てっきり、バス路線が廃止になったのかとも思った。「る」の送り仮名が入ると刃珍しいのではないだろうか。

バス停からすぐのところに薬師院の案内看板がある。合わせて、その先の権現峠(ごんげんたお)~火山(ひやま)への登山ルートへの入口でもある。

山陽道をまたぐ。すぐ先に広島ジャンクションとの分岐が見える。

少し坂を上り、薬師院沼田墓苑に到着。

立派な石垣も構えた堂々とした造りである。周囲の山々を見渡すこともできる。薬師院としてというよりは、沼田墓苑として一般向けのホームページが開設されており、気軽に墓の相談に応じるとある。墓か・・昨年、私の父が亡くなったのだが、まだ墓をどうするか決めていない。いや、墓地は本家筋のある某所にあるのだが、その本家筋じたいが先祖代々の墓じまいを検討しているとのことで、そこに入るのは現実的ではない。葬儀その他でお世話になった寺か、あるいはどこかの共同的なところで永代供養をお願いするか・・そろそろ、決めなければならないだろうな。

境内には大日如来を祀る一角があるが、石鉢の水にはさすがに氷が張っていた。

そして本堂だが・・・プレハブ造りの建物。平成になってからこの地に移ったとはいえ、それでも20年以上は経過しているはずだ。あくまで「仮」の本堂ということか。まあ、お堂の中には本尊薬師如来を中心に不動明王、弘法大師、観音像などが祀られ、法要も数多く行われて使い込んだ様子なので、本堂の役割は果たしている。ご自由にお入りくださいというのもいい。

なまじ建物ばかり新しく豪華なものになり、その代わり普段は扉に鍵をかけて閉めている・・という寺も多いが、そこはそれぞれの考え方や訪ねる人たちによるだろう。こちらは規模の大きな墓苑(土地はまだまだあるのでこれからも拡張できそうだ)があるので、お墓参りのついでに気軽に入ってもらおうと、ひょっとしたらあえてこの造りを続けているのかな。

薬師院の参詣を終え、先ほど下車した鳴る谷バス停に戻り、バスセンター行きの時刻を確認する。しかし、次のバスまでは40分以上待つ必要がある。周りには時間をつぶせるようなスポットもなく、それならば、地図を見てアストラムライン最寄りの伴中央駅まで歩くことにする。

畑の中に住宅地も広がる中、15分ほどで伴中央駅に到着。駅としては伴中央が最寄りといえるが、薬師院に関していえば、あらかじめ時間を合わてバスセンターから高速4号線経由の広電バスに乗って鳴る谷に向かうほうが便利である。

アストラムラインに乗り、ぐぐりと回り込むようにして本通りに向かう。行きは広電バス、帰りはアストラムラインという循環ルートで市内中心部に戻って来た。この後は、せっかく市街に来たということで昼の一時を楽しむ・・。

そして広島新四国だが、次の第76番、第77番で江波を訪ねた後は、いよいよ宮島に向けて西側のエリアとなる。何やかんやで、こちらも結願に向けて動き出すことにしよう・・・。

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第29回全国男子駅伝

2024年01月21日 | ブログ

1月21日、広島を舞台に行われた第29回都道府県対抗全国男子駅伝。

2020年10月に2回目の広島勤務となったが、コロナ禍の影響で2021年、2022年の大会は中止。2023年は3年ぶりに開催されたが、沿道での応援は控えるように・・ということもあってか、その日私は広島を離れていた。今回、従来からの応援スタイルに戻ったこともあり、せっかくなので沿道で応援としよう。

午前中に広島新四国八十八ヶ所霊場めぐりで江波地区を訪ねた後、自宅に戻る。広電の車内にはどこの県だろうか、応援の幟を手にした人も見かける。

レースは12時30分、平和記念公園をスタート。テレビで見届けた後、自宅近くの宮島街道に向かう。ちょうど1区の高校生区間である。選手がやってくるのに先立ち、白バイやパトカーが道路上のクルマをどかせる。ちょうど、沿道の店への納品のために停まっていた軽トラがいて、白バイから「運転手さ~ん!」とマイクで声がかかる。

待つ間、先頭がどのあたりに来ているかスマホ(NHKプラス)で見る。高校生とはいえ1キロ3分ほどで走るのだから、もうすぐにやって来る。

NHKの中継車、そして先導の白バイが通過する。いよいよ、選手がやって来る。

1区7キロの中盤ということで、20人近くが一塊になって通過する。この辺りは沿道の観客も1列になる程度だが、温かい拍手が送られる。

地元広島は中くらいの順位で通過したが、やはり拍手が大きい。

下位になると選手もぽつぽつと通過する中、最後にやって来たのは石川。遊学館高校の選手である。元日に発生した能登半島地震、200人以上の方が亡くなり、現在も避難生活を送る方が多い状況での出場である。トップ集団や広島チーム以上に拍手が送られた。

復路は最終7区で再びここを通過するため、いったん帰宅して、昼食を取りながら続きをテレビで観戦する。全国男子駅伝のコースは仕事等でクルマで通る機会も多く、沿道の景色で「だいたいあの辺り」というのがわかるので面白い。

1区はは長崎がトップで通過したが、2区の中学生区間は兵庫、長崎、埼玉が並ぶ展開。3区の大学・社会人区間は埼玉がリードして宮島口へ。そして4区の高校生区間で、高校駅伝で優勝した佐久長聖高校の選手の快走で長野がトップに立つ。

5区、6区も長野がトップで、最終7区に入る。もう一度観戦しようと、先ほどとはちょっとずれた宮島街道のポイントに向かう。往路の時は離れていて気付かなかったが、店舗の駐車場で太鼓の演奏が披露されている。「広島庚午太鼓団」によるもので、同じ町内でこういう活動があるとは初めて知った。

そろそろトップがやって来るようで、NHKの中継車、白バイに続き、先頭の長野がまず通過。箱根駅伝でも活躍した駒澤大学の鈴木選手である。

続いて上位チームが通過する。沿道で見ると、みんな速いわ・・。

その中で、広島は青山学院大学の箱根駅伝優勝メンバー・区間賞の倉本選手も健闘する。

そして、ここでももっとも拍手が大きかったのが最下位の石川。3区の大学・社会人区間では大会最年長の40歳のランナーも走っていたが、1区から結局順位を上げることができなかった。一緒に見ていた中で、「一番応援しよったのに、何でドベなんじゃろ・・」と半泣きになっていた方もいた。

再び自宅に戻り、ゴールの瞬間をテレビで観る。優勝した長野は3連覇、そして大会新記録も更新した。2位埼玉、3位千葉と入り、中国地方の最高は岡山の6位だった。ちなみに私の出身・大阪は(3区の葛西選手の区間新記録もあり)10位、広島は14位だった。

そして、最下位とはなったが石川も完走し、平和記念公園に詰めかけた人たちからも大きな拍手が起こった。こうした地域応援、ふるさと応援というのもこの全国駅伝の特徴である。

・・さて、石川、能登の支援に少しでもつながればということで、ネット通販にて注文した「能登棚田米」が届いた。能登といえば白米千枚田をはじめとした、狭い土地を有効活用した棚田が多い。米じたいは昨年のうちに収穫済だったのでまだしも、このたびの地震では棚田にもひび割れ、地滑りなどの被害が目立ち、2024年は田植えができるかわからないとのことである。棚田を含めた地域復興全体がこの先どうなるかだが・・・。

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京都44番「三室戸寺」~神仏霊場巡拝の道・86(源氏物語ゆかりの寺は店じまいも早く・・)

2024年01月18日 | 神仏霊場巡拝の道

奈良の西ノ京と宇治を1日でめぐる今回の神仏霊場巡拝の道。時間的にこの日最後となる京都44番・三室戸寺に着いたのは14時30分すぎ。先ほど、京都45番・平等院では鳳凰堂の内部拝観があったが、13時50分からの組ということで時間を持て余すため、宇治川を渡り、宇治神社、宇治上神社の参拝、そして源氏物語ミュージアムの見学を経てこのタイミングでの到着である。

入口で拝観料を納め、境内の坂を上る。ちょうど、西国三十三所の先達輪袈裟や笈摺をまとった団体とすれ違う。入口の駐車場に観光バスが1台停まっていたから、西国バスツアーのようだ。私も今回、神仏霊場と西国三十三所の4巡目をかねての参詣で、さらにJR西日本のデジタルスタンプを3月末までにコンプリートしよう・・という慌ただしいプランである。

三室戸寺は花の寺、特に初夏のあじさいの名所であるが、真冬の1月となるともの寂しく、庭園も閉鎖されている。

最後は石段を上がる。まず出迎えるのは宇賀神の像。財運の蛇神である。

本堂に向かう。その前に祀られるのは狛犬ならぬ狛菟と狛牛。宇治は古来「菟道」と称されていた。宇治神社に祀られる菟道稚郎子命との関連もあるが、三室戸寺のホームページでの紹介だと、菟道稚郎子命は応神天皇と、宇治に住んでいた渡来人の和邇氏の娘との間の皇子で、この地を本拠地としていたとされる。「菟道」と書くのは、菟が菟道稚郎子命の道案内をしたからとか。仁徳天皇との皇位争いを嫌い自害し、葬られたのは現在三室戸寺の奥とされる。

その向かいには狛牛。宝勝牛とも呼ばれている。そういえば、西国三十三所めぐりを兼ねて、三室戸寺に参詣した後、バファローズの試合を観戦したこともあったなあ・・。

牛の前には、大相撲の若貴兄弟の手形。

三室戸寺が開かれたのは奈良時代末、光仁天皇による。平安時代からは西国三十三所の霊場として、一時はs結願の三十三番だったこともあったという。元々は「御室戸」という名だったが、光仁、花山、白河の三帝にゆかりがあるとして、現在に続く「三室戸」になったという。本堂の前にてお勤め。現在の本堂は江戸時代後期の再建。そうした由緒ある建物と、蛇、菟、牛を半ばキャラクター化した縁起物も同居する寺院である。

本堂から少し奥にある鐘楼の脇に、「浮舟之古蹟」の石碑があり、その奥に浮舟の墓が祀られている。浮舟は、「源氏物語」終盤の「宇治十帖」に登場するが、薫君と匂宮との間でさまざまに思い悩んだ末、宇治川に入水する。いずれもあくまで物語の中の人物だが、こうした石碑は、現在のアニメやドラマの「聖地めぐり」とも相通じるものがあるようだ・・。

納経所に向かう。受付には「光る君へ」にちなんだ切り絵の朱印が掲げられている。光源氏、薫大将、浮舟、紫式部の4種があるが、好評につき現在品切れとある。

無事、西国三十三所の重ね印と神仏霊場の朱印をいただく。

納経帳をリュックにしまっていると、納経所横の扉が閉まり、鍵がかかる。冬の時季の拝観は16時までとあり、もうそんな時間かと思う。境内を後にしようと坂道を下ると、正面入口はすでに閉じられており、案内の矢印の先には駐車場につながる回転扉がある。

ただ、改めて時計を見ると時刻はまだ15時10分をすぎたところ。そして、改めて入口の案内を見ると、拝観、朱印の受付は15時10分で終了とある。そんなに早く閉めるのかとも思うが、これまでの実績を踏まえてのことなのかもしれない。年中、7時~17時まで寺の門を開けている四国八十八ヶ所とは事情が異なる。

これ、平等院鳳凰堂の内部拝観の後、宇治神社、宇治上神社、源氏物語ミュージアムをじっくり回ってから三室戸寺に来たら、完全にアウトだったな・・。JRの西国三十三所のデジタルスタンプは駅で獲得できたが、肝心の朱印のためにもう一度三諸戸まで出直すことを考えると、鳳凰堂の内部拝観をあきらめてよかったと思う。

このまま歩いて京阪の三室戸駅に到着。そして六地蔵に移動する。

300メートルほど歩き、JR六地蔵に到着。

六地蔵というところ、JR、地下鉄、京阪と駅が集中しており、ベッドタウンとして駅前にはマンションも建ち並ぶ。ここで、今回訪ねることはなかったが西国第11番・醍醐寺のデジタルスタンプを獲得。これで残るスタンプは、青岸渡寺、紀三井寺、播州清水寺、成相寺、松尾寺となった(最後の華厳寺は最初からのサービスで獲得済)。

通常なら、三室戸寺にて次の行き先を決めるあみだくじとなるのだが、当面はJRのデジタルスタンプラリーを完結させるとして、神仏霊場めぐりは上記5つの寺(最悪でも最寄りの駅)を回ることを優先する。

六地蔵から京都行きに乗車。旧国鉄205系の4両編成は座席がほぼ埋まるくらいの乗車だったが、稲荷に着くと国内外の人たちがどっと乗車し、満員電車となった。1月6日といえばまだ初詣期間といえる。伏見稲荷大社・・私も前の大阪勤務時の職場では、半期、そして正月の行事として成田山不動尊と伏見稲荷大社を参拝しており、伏見稲荷大社では稲荷山を一巡というのがあった。その当時も、インバウンドの客が大勢押しかけていたな・・と思い出す。

京都に到着。新幹線は新大阪往復としているので、まずは新大阪に向かう。今回は16時30分発の「はるか43号」を選択。6両編成の前に3両を増結して、合計9両編成だ。9両とは新快速や「サンダーバード」よりは短いが、それでも堂々とした編成。

京都を発車してしばらくは貨物線ルートを通る。インバウンドの客(あ、インバウンドに限らず関空に向かう一般の日本人客も含む)にすれば別にどうでもいいことだが、新快速と比べると一部違った景色が楽しめる。

元々は札所めぐりに時間がかかることも想定し、帰りに新大阪で一献としようかと、新大阪を遅い時間に発車する列車を予約していた。本来なら指定の「のぞみ」でしか乗ることができないのだが、ここはあえて17時37分発の「こだま861号」に乗る。カレンダーでは連休中とはいえ、翌7日と8日は出勤なので、時間を巻いて早めに帰宅することにする。

・・・ならば、京都から追加料金で広島まで乗り換えなしの「のぞみ」に乗るか、新大阪到着後も「のぞみ」や「さくら」ところ。そこで「こだま」とは・・・500系が割り当てられているとはいえ、いったいこのおっさんは、早く帰りたいのか中途半端に遅く帰りたいのか・・・。

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神仏霊場巡拝の道~宇治川右岸をめぐる

2024年01月17日 | 神仏霊場巡拝の道

1月6日の神仏霊場めぐり、平等院に参詣後、次の三室戸寺まで歩くことにして、まず宇治川を渡る。先陣争いで知られる宇治川の戦いの石碑がある。源平の戦いの中で、源義仲と源義経の合戦で、佐々木高綱と梶原景季による先陣争いがあって義経軍が宇治川を突破し、京洛になだれ込んだことで勝敗が決まった。

その宇治川を渡ったところに宇治神社の鳥居がある。神仏霊場の札所ではないが、境内を抜けると三室戸寺への近道なのでお参りしよう。祭神は応神天皇の皇子である菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)。

応神天皇は、菟道稚郎子命を後継ぎに定め、兄の大鶴鷯命(おおささぎのみこと)を補佐とした。弟に継がせるのは当時の慣例だったようで、年が若い者に継がせたほうが一代の活躍期間が長く、その分国家が繫栄すると考えられていたという。しかし、菟道稚郎子命は渡来人たちの教育を受けていたこともあり、やはり兄が継ぐべきだとした。ただ、大鶴鷯命がこれを拒んだため、両者の譲り合いが数年にわたった。結局、菟道稚郎子命は自害し、大鶴鷯命が皇位に就いた。仁徳天皇である。

宇治川の右岸には応神天皇の離宮があり、菟道稚郎子命もここに住んでいたとされている。そのため、御神霊を祀ったのが神社の由来とされる。

境内の横手から抜け、しばらく歩くと宇治上神社がある。宇治神社と対をなしているが、宇治上神社だけが京都の世界遺産の一つとなっている。こちらは、先の菟道稚郎子命に加えて、父・応神天皇、兄・仁徳天皇が祀られている。平安時代には「宇治神社二座」として一つの扱いとされていた。

宇治上神社だけが世界遺産に登録されているのは、平安時代に造営され、神社建築として現存最古のものとされる本殿があるからのようだ。

宇治上神社の先にあるのが「宇治市源氏物語ミュージアム」。「源氏物語」の最後、宇治十帖の舞台であることから建てられ、そして今年2024年は紫式部が主人公の大河ドラマ「光る君へ」ゆかりの地としてPRしている。

「源氏物語」の最後の舞台が宇治になったのはなぜか。宇治は貴族の別荘地であり、平等院鳳凰堂もその地に建てられたが、一方では、都から落ちる途中に位置していることから敗残者のイメージもあったそうだ。百人一首の一つにも「世を宇治(憂し)山」と詠まれている。物語の世界観を変えたかったのか、登場人物も政争に敗れたわびしい人、つらく悲しい人生を歩んだ人が中心である。もっとも、「宇治十帖」のほうにこそ「源氏物語」の核心があるという声もあるそうだ。

この先、三諸戸寺に向かう。途中歩くのは、「宇治十帖」の一編にちなんだ「かげろう(蜻蛉)の道」である・・・。

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京都45番「平等院」~神仏霊場巡拝の道・85(鳳凰堂は外から鑑賞)

2024年01月16日 | 神仏霊場巡拝の道

1月6日、日帰りで出かけた神仏霊場巡拝の道めぐり、西ノ京の薬師寺、唐招提寺の次は、近鉄京都線の大久保に到着。ここで、JR宇治、京阪宇治を経由してJR黄檗まで行くバスに乗車する。当初は、大久保から歩いてJRの新田に向かい、奈良線に乗るつもりだったが、現地でこうしたバスルートを見つけるのも旅の面白さである。

バスは住宅地の中を行く。スマホで地図を見ると「カムループス通り」とある。カムループスとはカナダにある市で、宇治の友好都市だという。宇治と町の景色が似ているから・・とのことだが、どのあたりがそうなのだろうか。

立命館宇治高校に到着。女子駅伝、野球、アメフトなどの強豪で知られている。部活動だろうか、大久保から乗って来た学生らしき客が一斉に下車する。まずは部活動のことについて触れたが、学業の偏差値も高い学校。さらに、ホームページやネットの口コミを見ると、(コースにもよるが)学費もべらぼうに高いようだ・・。

この後は植物公園や宇治市役所前を通り、JR宇治駅に到着。ここで下車する。

まずは改札口に向かい、JR西日本の「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」の三室戸寺のデジタルスタンプを獲得する。まずは神仏霊場めぐりとして平等院に行くが、その後、三室戸寺まで歩くつもりである。

駅から一本入った通りには宇治茶の店舗が並ぶ。日本で茶の栽培が行われるようになったのは鎌倉時代で、明恵上人が地形や土質が茶の栽培に適しているとして宇治で栽培を始めた。その後、茶の湯の広まりとともに栽培法の改良が評価され、宇治茶の名声が確固たるものになった。

それでも現在は昔ながらの茶葉のほかに、抹茶はさまざまな料理に使われているし、抹茶アイスや抹茶パンなどで気軽に味わうことができる。

その途中の写真店のショーケースに、ユニフォーム姿の野球選手の写真があったのに目が留まる。胸にタイガースのロゴがあり、「宇治出身の虎戦士 西垣一選手の記憶」とある。タイガースといっても「大阪タイガース」だから、えらい昔の選手である。この西垣一(まこと)選手、調べてみると宇治出身で、城南高校からタイガースに入団したが、在籍4年で1軍登板は1試合のみ。勝ち負けともになかった。

プロ野球では結果が出なかったが、退団後は京都の日本新薬に入社し、選手、そして監督も務めた。監督としては都市対抗野球に3回出場し、教え子には元近鉄・吹石徳一がいる。後に、同じ京都のニチダイ野球部の監督も務めた。野球人としてはプロ退団後に成功したともいえるが、わざわざ写真店に展示があるのはどういう理由だろうか。

宇治橋に出る。橋のたもとには紫式部の像。2024年の大河ドラマ「光る君へ」は紫式部が主人公ということで、「源氏物語」の舞台である宇治も観光PRに熱心である。大河ドラマじたい観ないので別にいいのだが、「源氏物語」をドラマ化するならともかく、紫式部でドラマが1年続くものかな・・と思う。

平等院の表参道を行く。こちらにも宇治茶の店が並ぶ。本格的なものだと値が張るので、ペットボトルとか、ティーパックのお茶でも買いますか。

平等院の門前に到着。インバウンドの客も含めて結構な列ができる中、拝観料を納めて中に入る。

これから拝観する平等院鳳凰堂、お堂に上がって内部を拝観するには境内の受付にて別途拝観券を手にする必要があるが、一度に入れる人数が限られており、次の順番は今から1時間後の13時50分。1時間か・・どうするか考えたが、内部拝観は以前にも経験があるし(この時は西国三十三所めぐりの1巡目で、三室戸寺参詣の後、宇治のウォーキングを経て平等院を訪ねたが、拝観時間は実質10分ほどだった)、この先もあるので、今回は外からの拝観に留めることにする。

鳳凰堂。この日は薬師寺、唐招提寺に続く国宝、いや世界遺産の建物で、ここまでですでにお腹一帯である。

宇治のこの地は平安中期から天皇家や貴族の別荘地とされており、藤原道長の別邸「宇治殿」となった。道長の子・頼通の時に、末法の世が訪れたとして宇治殿を寺院とした。鳳凰堂は阿弥陀如来を祀るために建てられたものである。

観光客が目立つので、後ろに下がった位置で鳳凰堂に向けてお勤めとする。鳳凰堂に祀られている定朝作の阿弥陀如来像の顔だけは見ることができるが、ただ、どこかしっくり来ない。目の前に賽銭箱があるわけでもなく・・・。

庭園の奥に「集印所」がある。平等院では「朱印」ではなく「集印」と称しているとのこと。拝観の証明として印を紡いでいくのだそうだ。寺院によっては、朱印とは納経をした証と定義づけるところもある中、そうした考えもあるようだ。「鳳凰堂」と「阿弥陀如来」のいずれかを選べるとのことで、せっかくなので「鳳凰堂」を選択する。

ミュージアム鳳翔館に向かう。平等院、鳳凰堂が有する数々の宝物を保存展示する博物館。梵鐘や一対の鳳凰、十一面観音をはじめとした寺宝が並ぶ。現在の鳳凰堂の屋根に乗っている鳳凰一対は複製で、鳳翔館内のガラスケースに鎮座するのがオリジナルという。

また鳳翔館には、極楽浄土で阿弥陀如来の徳をたたえ、笛や琵琶などを奏でる「雲中供養菩薩」の数々が並ぶ。鳳凰堂の内部拝観は待ち時間の関係でパスしたが、こうした宝物を鑑賞できる鳳翔館も十分価値がある。

鳳翔館を出た後は、再び鳳凰堂の前を通る形で入口に戻る。ただ、この記事を書くにあたり振り返ってみると、惜しいことをしたなと思う。平等院は鳳凰堂がシンボルなのは間違いないが、寺としての平等院は別である。

平等院は平安時代以降、さまざまな歴史を経て、江戸時代には天台宗と浄土宗をかねていたという。現在は特定の宗派に属さないものの、本山修験宗の聖護院の末寺である最勝院と、浄土宗の浄土院というかつての塔頭寺院二つが共同で管理しているそうだ。神仏霊場めぐりなら、そちらの二つの塔頭で手を合わせるべきだったかもしれない(鳳凰堂だけ拝観するなら、単なる観光客と同じ・・)。

ひとまず、平等院を後にする。ここから三室戸寺までは歩いて行こう。源平合戦の折、宇治川先陣争いの舞台となったところを渡り、宇治川の右岸に向かう・・・。

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奈良11番「唐招提寺」~神仏霊場巡拝の道・84(鑑真和上、そして宇治へ)

2024年01月15日 | 神仏霊場巡拝の道

薬師寺の参詣を終え、そのまま5~6分歩いて唐招提寺に着く。この寺に来るのは、私がさまざまな札所めぐりをするようになってからは初めてである。

門をくぐると、幅広い参道の向こうに金堂が広がる。この光景である。

唐招提寺といえば鑑真和上である。奈良時代、僧たちに戒律を授けるために唐から招かれた僧である。これまで日本では正式な授戒の制度がなく、課税を逃れるために勝手に出家して相を名乗る者も相次いだ。そんな中、遣唐使船で普照と栄叡の2名の留学僧が唐に渡り、鑑真に対して授戒僧を日本へ派遣してほしいと願い出た。ところが鑑真の弟子たちは航海の危険を理由に手を挙げようとしない。そこで鑑真自らが日本に渡ることとした。

しかし当時の唐は出国を禁止しており、鑑真の渡航も極秘裏に進められた。しかし密告、嵐による船の難破などもあり、5回にわたり失敗。おまけに鑑真も失明してしまう。6回目にしてようやく琉球、薩摩を経て日本に渡ることができた。日本に正しい戒律を伝えてほしいという日本からの招きによるとはいえ、国禁を犯してまで自ら海を渡ろうとしたのはなぜだったのだろうか。現代に置き換えてみて、発展途上国に渡って教育振興や技術伝承に貢献する・・というのとも違うと思う。一介のボランティアではなく、国の宝ともいえる高僧が海を渡ろうというのだから・・。

平城京に着いた鑑真は東大寺大仏殿にて聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇をはじめ、僧たちに戒律を授けた。その功績によりこの地を与えられ、戒律の道場として唐招提寺が開かれた。合わせて開かれたのが律宗で、南都六宗の一つとなった。鎌倉時代に、西大寺の叡尊により真言律宗が生まれた。

一方で唐招提寺は、平安中期以降は戒律も崩れたために衰退し、その後は戦乱や出火もあり、復興と衰退を繰り返した。先に書いた鑑真の渡航の苦労が世に知られるようになったのは、井上靖の「天平の甍」によるところも多いそうで、恥ずかしながら未読のため、一度手にするとしよう。

元々が戒律の研究所、道場として開かれたため、観音霊場や薬師霊場のように一般の人たちが気軽に参詣する・・という性格の寺ではなかった。そのため、札所めぐりには入ってこなかった。

金堂は奈良時代建立のものとして唯一現存する建物である。格子の間から内陣をのぞくと、中央に廬舎那仏、右に薬師如来、左に千手観音が並ぶ。いずれも国宝に指定されている重厚なラインナップである。この前でお勤めとしたが、本尊の真言を唱えるところではどれを選択するか・・いや、ここは三尊ともだろう。

金堂の後ろにある講堂も国宝で、平城宮の東朝集殿を移築したものだという。こちらには弥勒「如来」が祀られている。

この後は鑑真を祀る奥の院エリアといえるところで、開山堂、御影堂に向かう。御影堂は、あの鑑真和上坐像も安置されているが、公開は開山忌の6月5日~7日に限られているという。

さらに進むと、鑑真の墓である開山御廟がある。この一角をパワースポットとして紹介する向きもあるようだ。門から入ると苔が広がり、その奥にこんもりした丘がある。これが御廟で、周囲を一回りする。

朱印をいただく。墨書は金堂の中央に祀られている廬舎那仏である。

今回の日帰り神仏霊場めぐりの目的地はここ唐招提寺だが、JR西日本「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」をコンプリートするため、この後は京都南部の2ヶ所、三室戸寺と醍醐寺のデジタルスタンプを取りに行く。さらに、残りのスタンプである青岸渡寺、紀三井寺、播州清水寺、成相寺、松尾寺を取るため、神仏霊場めぐりについてはあみだくじによる行き先決定はしばらくお休み・・。

次に目指すのは宇治。まずは西ノ京駅に戻る。ちょうどやって来たのは京都行きのビスタカー。ここで特急に乗ってもあまり意味がないので見送り、次に来たのは大和西大寺行きの急行。

大和西大寺で京都国際会館行きの急行に乗り継ぐ。

そして到着したのは宇治市に入った大久保。ここで下車したのは、地図で見るとJR奈良線の新田駅が近くにあり、乗り継ぐと宇治駅にて西国三十三所のデジタルスタンプを取ることができる。この駅で下車するのは初めてである。

高架下の一角にある立ち食いうどん・そば店「へそ」で昼食とした後(カレーも美味い)、さて新田駅に向かおうとしたが、駅前のバスターミナルにJR、京阪宇治駅方面という文字を見つけた。それなら、いったん新田駅に向かわずともそのままJRの宇治駅に向かうことにしよう。こういう抜け道を見つけるのも札所めぐりの楽しみである・・・。

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奈良12番「薬師寺」~神仏霊場巡拝の道・83(修理を終えた東塔に歴史時間を感じる)

2024年01月14日 | 神仏霊場巡拝の道

2024年の年末年始、3日に広島に戻り、4日は広島でのさまざまな用事を済ませ、5日から仕事始め。そして6日が休日で、7日と8日は当番勤務という変則的な動きとなった。

正月休み後の3連休の初日である6日、日帰りで再び関西を目指す。神仏霊場めぐりの続きに加えて、JR西日本「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」の追い込みである。今回取りに行くのは、西国第10番・三室戸寺(宇治駅または黄檗駅)、醍醐寺(六地蔵駅または山科駅)である。

その前に、神仏霊場めぐりで次の行き先となった奈良11番・唐招提寺に行くことにする。そして、唐招提寺と近接する奈良12番・薬師寺もセットで参詣することに。まずは西ノ京の2ヶ所を回り、近鉄で北上して宇治方面に向かう。宇治では京都45番・平等院、京都44番でもある三室戸寺と回る。最後の京都46番でもある醍醐寺の参詣は時間的にどうかと思うが、その場合でもデジタルスタンプだけは獲得しよう。

広島6時45分発の「のぞみ78号」で出発。そこそこの乗客がいる。新大阪に到着したが、正月に続いての連休ということで駅も多くの人で賑わっている。

難波まで移動して近鉄奈良線に乗車。神仏霊場めぐりも札所の半分以上を回っているが、奈良エリアについてはこれから向かう西ノ京の薬師寺、唐招提寺のほか、東大寺、春日大社、興福寺、法隆寺などといった名だたる寺社がまだまだ残っている。なかなかくじが回ってこないためだが、後半に盛り上がりを取っているかのようだ。

大和西大寺に到着し、橿原線に乗車。西ノ京で下車する。橿原神宮前方面のホームに「薬師寺」の石碑が建つ。まず、駅からすぐの薬師寺に向かう。

本来であれば線路沿いにもう少し南下して、正面に当たる南門から入るところだろうが、西ノ京駅を出てすぐの與楽門にある北受付から境内に入る。

薬師寺は天武天皇により、当初は飛鳥の藤原京に開かれ、平城京への遷都の後、現在地に移された。薬師寺式伽藍という独特の建物の配置だが、裏門といえる與楽門から入った道順でまずは大講堂に向かう。2000年の再建である。こちらの本尊は弥勒「如来」。弥勒「菩薩」が56億7000万年の修行を終え、悟りを開いた姿とされる。

続いて伽藍の中心である金堂と、その両脇を固める東塔、西塔である。こちらの金堂は1976年の再建。有名な薬師三尊像が本尊として祀られている。神仏霊場として、ここでお勤めとする。堂内には能登半島地震被災地向けの義援金募金箱も置かれている。私も何がしか入れたが、今回の能登半島地震、復旧・復興には相当時間がかかると見込まれる。半島部での地震ということでルートが限られること、また海底の地形上、大型船舶を港に横づけすることもできないという。

そして東塔、西塔である。東塔は薬師寺で唯一奈良時代から残る建物である。とはいえ、これまでの歴史で何度も修理が行われており、私が前回、西国四十九薬師めぐりの発願として訪ねたのは2019年のこと。この時は塔を解体して全面的に修理をするため、塔そのものがすっぽり覆われていた。工事は2020年に完了したが、コロナ禍の影響で落慶法要が行われたのは2023年4月になってのことである。

東塔、西塔とも内部が公開されており、釈迦八相を描いた彫刻作品が納められている。西塔は1981年の再建で、東塔と西塔を並べて眺めると、何かこう、時の移り変わりを感じることができる。上手く言えないが、仏教の教えの一つを体現しているかのような・・。

朱印をいただく。

この後は北境内地に向かい、玄奘三蔵院伽藍へ。こちらは1991年に建てられたものだ。玄奘三蔵の坐像と、遺骨の一部が祀られている。「不東」という額は、天竺に着くまでは一歩も東(唐)には戻らないという意志を表しているそうだ。これにちなみ、伽藍の後ろには平山郁夫の「大唐西域壁画」が保存されており、訪ねた時はちょうど公開期間中だった。壁画のスケールは実に圧巻で、現地を訪ねてみたいと思わせるものだった。

こうして、薬師寺の数々の建物を回ったが、薬師寺が現在あるのは伽藍復興に力を注いだ高田好胤による。戦後、薬師寺は老朽化で荒れていたが、管主に就任した好胤が再建を志し、写経の勧進を広めて全国の篤志から費用が集められた。金堂、西塔を再建し、大伽藍の復興に道筋をつけたところで亡くなったが、その遺志は受け継がれ、東塔の解体修理も落慶した。

これで薬師寺の参詣を終え、與楽門の前の道を直進して唐招提寺に向かう・・・。

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能登半島地震に揺れた2024年正月

2024年01月12日 | ブログ

2024年は元日に発生した能登半島地震、2日に羽田空港の滑走路で発生した旅客機と海上保安庁の航空機の衝突事故という、何とも衝撃的な出来事から始まった。亡くなられた方、被災された方にはお悔やみ、お見舞い申し上げます。

元日の16時すぎの地震発生時、私は奈良県の橿原神宮前から近鉄南大阪線に乗車中で、電車の中で一斉にスマホのアラームが鳴り出し、何事かと動揺した。電車の中だと特に地震の揺れを感じることはなく、電車はしばらく徐行したものの安全確認できたとして通常運転に戻った。それでも、能登半島の地震で奈良や大阪にまでアラームが鳴るとは・・と思ったが、藤井寺の実家マンションに戻った際、この辺りでも結構揺れを感じたとのことだった。

テレビはどの局も地震特番、画面には「津波」「逃げて」の大きな字幕とともに、北陸や山陰の一部に大津波警報が出ていると報じられている。この時はまだ被害の状況もつかめておらず、テレビを見ても限られた定点カメラからの映像の繰り返し。正月どころではなく不安な思いである。

また北陸の交通も全面的にストップしたようで、先ほど京都駅で乗車案内を見た「サンダーバード」も、発車後に途中で運転取り止め、あるいは途中で立ち往生となったのかなと気になる。

そこに時折関西のスタジオからのニュースも入るが、山陰の豊岡や浜坂では大津波警報のため避難指示が出たところもあるという。先ほど乗った「きのさき5号」で城崎温泉、さらにその先に乗り継いだはいいが、避難を余儀なくされた方もいたかもしれない。北陸にせよ、山陰にせよ、ひょっとしたらこの年末年始に回ってから帰省することも一時考えていただけに、もしその場に居合わせていたらどうなっていたかと思う。

元日は夕食もそこそこにとりあえず横になる。

翌2日、大津波警報は解除されたものの、依然として余震、津波の危険への呼びかけが続く。もっとも、箱根駅伝は通常に中継され、サッポロビールをはじめとしたCMも入った。これで気が紛れたように思う。

その2日の夕方に発生したのが羽田空港の事故である。ちょうど夕方の地震関連のニュースを見ていたのだが、画面が急に羽田空港で炎上する航空機に切り替わった。

最初は、能登地震の影響で新たに発生した火災の映像かと思ったが、羽田空港設置のカメラのものだという。少しずつ状況が明らかになり、新千歳から羽田に到着したJALの旅客機が、被災地に救援物資を届ける海上保安庁の航空機と衝突。旅客機の乗客乗員が全員無事に脱出できたのは奇跡である(一方、海上保安庁の職員5名がこの事故で亡くなったのは悼まれる)。こちらはこちらで、帰省ラッシュにも大きな影響となった。

3日、ともかく広島に戻る・・・。

その能登半島地震、時間の経過とともにっ被害状況が明らかとなってきた。避難所に多くの人が身を寄せる一方で、まだ孤立している集落もあるし、安否がわからない方もまだいるという。復興まではかなりの時間がかかることだろう。能登に行ってどうのこうのとはいかないが、何らか、支援したいものである・・・。

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京都50番「穴太寺」~神仏霊場巡拝の道・82(元日の参詣、そしてその夕方・・・)

2024年01月11日 | 神仏霊場巡拝の道

2023年~2024年の年越し神仏霊場めぐりは、京都大原、近江八幡の札所を訪ねた後、もう一丁ということで京都まで出て、亀岡にある京都50番・穴太寺を訪ねることにした。こちらを押さえると、西国三十三所の4巡目も進むし、期限切れ間近のJR西日本「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」も進む。

京都に到着。この先のJR嵯峨野線だが、今やインバウンドの影響で混雑路線のイメージがついてまわる。また、この先の行程を考えて、短区間だが亀岡まで特急で移動する。乗るのは京都11時25分発の「きのさき5号」。J-WESTチケットレス特急券利用で特急料金は600円。なお現在、北近畿方面の特急は全車指定席である。

城崎温泉行きだが、正月をあちらで過ごすとおぼしき旅行客も目立つ。あるいは城崎温泉のその先、香住や浜坂まで乗り継ぐ客もいることだろう。一方、嵯峨嵐山は通過するため、発車前、発車後には「嵯峨嵐山には停まりません」という英語の案内が何度か流れる。インバウンドの客に人気なのは嵯峨嵐山エリア。列車事情がわからず特急に乗る人もいるのだろう。

京都の洛西から保津峡の渓谷を越え、亀岡に到着。明智光秀の居城・丹波亀山城があることから、以前この地を訪ねた時には、明智光秀を大河ドラマの主人公に・・というPRが福知山ともども行われていた。それが実を結んだのが2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」。ちょうどコロナ禍の始まりで収録の休止が長期化し、ドラマの放送も一時休止になった。その影響で最終回が年越しの2021年2月という異例の事態に。

光秀ブームはひと段落したのか、現在の亀岡のPRはJリーグ・京都サンガである。京都サンガは当初西京極をホームスタジアムとしていたが、Jリーグが定めるライセンス要件を満たさないとして、新たなスタジアムの建設が課題となっていた。そこで京都府が亀岡に「サンガスタジアム by KYOCERA」を建設した。はい、ここにも京セラ。さすがに、京セラドーム大阪や近江鉄道の京セラ前駅と間違える人はいないだろうが・・。

さて、穴太寺である。これまで3巡した中では、最初は亀岡駅からずっと歩き、2巡目は京都先端科学大学行きのバスに乗り、途中のバス停からそれなりに歩いた。3巡目は、西国四十九薬師めぐりの札所である神蔵寺との組み合わせで、亀岡駅からレンタサイクルで向かった。一応、穴太寺前というバス停もあるのだが、そちらに向かう便はほとんどなかったと思う。

それが今回、穴太寺へのアクセスを調べる中、亀岡駅から穴生寺前に向かうバスが1時間に1本あるのを見つけた。これには気づかなかったが、前回の参詣から間隔が空いていることもあり、その間に新たに設定された系統だろうか。

乗客は私一人のまま発車。亀岡市役所前を通過し、ここからは私にとって初めての道に入り、道の駅と多目的ホールを備える「ガレリアかめおか」を経由する。元日だが、営業しているのかしていないのか、車窓からははっきりわからなかった。

この先、亀岡運動公園を経由して穴太の集落に入る。そして門前の三差路を曲がり、穴太寺の駐車場に設けられたバス停に到着。こういう形でのアクセスは初めてだが、このバスがあるなら、札所への最終アクセスという面で見れば、西国三十三所の中でも便利なほうに含められる。

穴太寺、元日の昼下がりということもあってか、大勢の参詣客がいるわけでもなく、クルマで訪ねた少数のグループがぽつぽついる程度。特に観光名所というわけでもないが、そのぶん落ち着いた佇まいにある。まずは本堂の前で手を合わせる。

穴太寺が開かれたのは奈良時代のはじめ、文武天皇の勅願で、大友古麻呂によるとされる。「身代わり観音」の名がある聖観音が祀られていることから西国三十三所の札所なのだが、寺としての本尊は薬師如来だという。

これに気づいたのは、本堂前でお勤めとした後での納経所でのこと。西国三十三所の先達用納経軸とともに、神仏霊場の朱印帳を差し出す。西国の納経軸には大悲殿の文字の上に重ね印をいただいたが、神仏霊場の朱印帳はちょっと墨書の文字が違っているように見えた。こちらは薬師如来を意味する「醫王善逝(いおうぜんぜい)」と読むそうだ。

冬の時季は本坊や庭園の拝観は停止中だが、別途本堂に上がることができる。本尊の薬師如来や聖観音に手を合わせるとともに、奥の間に祀られている釈迦涅槃像も拝観できる。この涅槃像には布団がかけられているが、それをめくって?お願い事をする部位をなでることができるのが特徴だ。ええ?布団をめくってそんなことするなんて・・・。

参詣を終え、駐車場にあるバス停に戻る。冬の空ということで一時雨が落ちるが、駐車場に生える大木の下、何とか傘なしで耐える。そして次のバスがやって来た。1時間に1本というのも、寺にゆっくりお参りするにはちょうどいい間隔である。

このバスは亀岡駅から穴生寺前を折り返しとする循環ルートのようで、運動公園まで戻った後は、穴川集落の細い道を走る。昔ながらの家屋も並ぶが、この先丹波篠山方面に続く街道の旧道らしい。

亀岡駅に戻り、JRのデジタルスタンプを無事確保する。京都へは、亀岡始発の普通が発車するところでそれに乗り込む。馬堀、保津峡まではガラガラだったが、やはり嵯峨嵐山で乗客がどっと増え、立ち客も多く出るようになった。

京都に到着し、ホームの電光掲示板に「サンダーバード金沢行き」が並ぶのを目にした。金沢まで30分おきとは、改めて結構な頻度だなと思う。先ほどは山陰に向かう特急に乗ったが、こちらはこちらで、北陸に向かう多くの人たちを乗せることだろう。北陸新幹線の敦賀開業まで2ヶ月半となり、「サンダーバード」へのお別れ乗車というのも悪くない・・。

京都から実家の藤井寺まで近鉄でたどることにする。京都14時50分発の橿原神宮前行き特急に乗る。ビスタカーの上段席。橿原神宮前まで50分あまりというのもちょうどいい過ごし方である。途中、西ノ京にも停車。あみだくじで出た唐招提寺の最寄り駅である。

橿原神宮は有数の初詣スポットということで、駅構内も賑わっていた。その中で、16時03分発の大阪阿部野橋行き急行に乗り換える。

列車の接続待ちか、若干遅れて発車。この先は直線区間でスピードも出る区間である。

・・・その最中、私のスマホも含め車内で一斉にアラーム音が鳴り・・・。

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滋賀10番「日牟禮八幡宮」~神仏霊場巡拝の道・82(参拝はしたが、札所めぐりにはカウントせず・・)

2024年01月10日 | 神仏霊場巡拝の道

2024年の元日、まずは神仏霊場と西国三十三所をめぐりが合わさった長命寺に参詣。新たな年がよき年になることを願った。その帰途、八幡山の麓にある日牟禮八幡宮に向かう。こちらも神仏霊場の札所で、近江八幡の地名の由来となったところである。

日牟禮八幡宮の由来は長命寺よりも古いようだ。西暦だと131年、成務天皇が即位の折、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが始まりとされる。その後、平安時代になって八幡山の上に社が建てられ、宇佐八幡を勧請したという。その後、豊臣秀吉の甥である秀次が近江八幡に入り、八幡山に城を築くとともに、山麓を城下町として整備した。城は廃城となったが、城下町は近江商人の拠点として整備され、日牟禮八幡宮はその守り神として信仰を集め、現在にいたる。

境内横の八幡堀は近江八幡の観光スポットで、時代劇や映画のロケでも使われるところ。

元日も10時頃となれば多くの人たちが行動を開始する時刻である。日牟禮八幡宮の境内も、大混雑とまではいかないものの、次々に初詣客が訪れる。正月らしい光景である。

さて、ここで神仏霊場めぐりの朱印をと思ったが・・・。授与所の案内では、正月三が日は書き置きのみでの対応とある。私の前にも、汎用型の朱印帳を手にした人たちがいたが、その案内を受けて脇の窓口で書き置きの朱印を受け取っていた。

・・・う~ん、そうなったか。現実に忙しい、手が回らないというのもわらかないでもないが、こういうあからさまな対応は神社が寺を見下していることの現われである。かつて、神仏分離の下、廃仏毀釈を推し進めた連中だからな・・・。

専用の朱印帳で回る中で、諸般の事情で書き置きでしか対応しないところはどうするか。これまでにも何度か、住職が不在とか、あるいはコロナ対策のためとか、持参の納経帳に直書きの朱印をいただけなかったことがあった。ただ、この神仏霊場めぐりは関西のオールスターを表敬するようなもので、書き置きでいいです・・という気にはならない。タイトルは「82ヶ所目」としたが、日牟禮八幡宮はノーカウントとする。

そうとわかっていれば、前日(大晦日)に無理して日牟禮八幡宮だけでも訪ねればよかったのだろうが、まあ、滋賀県の札所もまだ残っているし、懸案となっていた近江八幡駅のデジタルスタンプも獲得できたので、次以降に改めて参拝するか。

日牟禮八幡宮の朱印が正月は書き置き限定だったことを受けて、この先をちょっと考える。前日に続き、近江鉄道の北半分に乗って、神仏霊場の札所でも多賀大社に向かおうかと思っていたが、この分だと、多賀大社も正月三が日は書き置き対応ということも考えられる。電話で訊けばわかることだろうが、ただでさえ慌ただしい元日にそうした問い合わせも相手を煩わせるだけと、こちらもまたの機会とする。

一応ひと段落として、次の行き先を決めるあみだくじとする。候補となったのは・・。

・神護寺(京都10番)

・今宮戎神社(大阪4番)

・生田神社(兵庫1番)

・中宮寺(奈良14番)

・四天王寺(大阪2番)

・唐招提寺(奈良11番)

今宮戎神社に四天王寺と、実家に戻る途中にある札所も並ぶ。もしこのいずれかだったらこのまま参拝しよう。

この中で出たのは、3枠の唐招提寺。近江八幡を出て京都に向かい、近鉄で西ノ京まで南下すれば、隣の薬師寺を合わせて参詣できそうだ。

ただ、JR西日本の「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」を考えると、唐招提寺は別日として、この機にどこか回ったほうがよさそうだ。そこで目を付けたのが、大晦日の宿泊先候補の一つだった亀岡。神仏霊場の京都50番であり、西国三十三所の第21番である穴太寺に行ってみよう。

近江八幡から京都に向かい、JR嵯峨野線に乗り継ぐことに・・・。

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滋賀11番「長命寺」~神仏霊場巡拝の道・81(新年は808段の石段から)

2024年01月09日 | 神仏霊場巡拝の道

「吉田類の年またぎ酒場放浪記」を見ながらのカウントダウンで2024年を迎え、もうしばらく飲んでから横になる。元旦、太平洋側では初日の出が期待できるという。近江八幡だと八幡山が初日の出スポットということで、日牟禮八幡宮から八幡山行きのロープウェーが早朝運転される。ただ、ロープウェー乗り場まで歩くにはさすがに遠く、初日の出よりは朝食と朝湯を選択した。

朝食会場へ。特に正月メニューがあるわけでもないが、リーズナブルなビジネスホテルだから仕方ない。まあ、この日(元日)の夕方には藤井寺の実家に戻ることにしており、昨年父が亡くなったことで正月飾りもせず質素にするが、ささやかながら雑煮やおせちは用意するつもり。

チェックアウト後、荷物を駅のコインロッカーに入れ、7時30分発の長命寺行きバスに乗る。長命寺といえば参道の808段の石段が有名で、2024年最初の札所めぐりはいきなり難所に挑むことになる。長命寺からの帰りに日牟禮八幡宮に立ち寄ることにしている。

長命寺行きの始発バスの乗客は私一人。途中から乗って来る人もおらず、20分ほどで長命寺バス停に到着。

西国三十三所としては4巡目となる長命寺。過去3回の巡拝のうち、808段の石段を歩いて上がったのは1巡目以来となる。2巡目、3巡目はクルマで参道を上がり、山門手前の駐車場から100段ほど石段を上がっただけである。下からだと徒歩20分ほど。新年早々、こうして身体を動かすのもいいだろう。

・・・とはいうものの、やはり石段はきつい。コンクリートで整備された階段ではなく、昔ながらの石積みの階段で、一段一段の段差も高く、かつ不規則である。途中何度か立ち止まって息を整える。途中何回かつづら折りになっているが、最後はまっすぐ上まで石段が延びる。これが精神的にきつい。

ようやく、途中の駐車場にたどり着く。最後もう少し階段があるとはいうものの、ここまでクルマで上がることができるのはありがたいことである。そのうえ長命寺は、入山料や駐車料金を徴収するわけではない。

最後の階段を上がると本堂から読経の声が聞こえ、ようやく境内にたどり着く。雲は少しあるものの、穏やかな琵琶湖の眺めにほっとする。西国三十三所でも難所に分類される長命寺だが、参道を上って来ただけのことはある。

この琵琶湖を眺める位置に「琵琶湖周航の歌」の歌碑がある。その一節の「西国十番 長命寺」から始まる歌碑がある。ご案内のとおり、長命寺は西国三十三所の第31番なのだが、作詞した第三高等学校(現在の京都大学)のボート部員だった小口太郎が、「語呂がいいので『十番』にした」と言われている。西国の寺として名高いということであれば、そこまで番号には頓着しなかったのだろう。

本堂に上がる。先ほどから内陣では新年のお勤め、祈祷のようである。観音経が唱えられ、願主の名前が読み上げられる。先ほど石段を歩いて上がり、汗すら出てきたのだが、山の中腹の本堂ということで、床はひんやりとしている。そこに座り、2024年最初のお勤めとする。

元日だがこの時間ということもあってか、境内はそれほど多くの参詣者がいるわけではない。西国の先達用納経軸への重ね印、そして神仏霊場の朱印をいただく。「令和六年一月一日」・・・新たな年に身が締まる思いだ。

そのまま伽藍の各堂、そして奥の太郎坊権現社にも手を合わせる。こちらからは近江富士の方角を望むことができる。初日の出とは逆の方角だが、新年最初の朝の穏やかな景色である。

帰り道、鐘楼のところから見る三重塔を含めた伽藍の景色も長命寺の見どころである。

さて下りだが、石段を歩いて下るのもそれはそれできついと思われる。そこで、駐車場まで階段を下った後、車道を歩いて下った。時折、上って来るクルマとすれ違い、また下りのランナーが私を追い越していく。この車道の上り下りというのも結構ハードなトレーニングが積めそうだ。

車道といっても勾配には限度があるので、どうしても距離は長くなる。結局15分ほどでバス停まで戻ったが、クルマ向けの案内板には1.3キロと表示されていた。

帰りは日牟禮八幡宮に立ち寄ることにして、再びバスに乗車する・・・。

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