まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

西国四十九薬師めぐり~帰路は中国道にて

2020年12月31日 | 西国四十九薬師

福崎を出るのは15時半。帰りも延々と下道・・ではなく、高速道路で戻ることにする。軽自動車ならETC料金も割引になる。

距離でいえば、福崎から播但道を通り、姫路西から山陽道を走る方が近いようだ。ただ、福崎と言えば中国道であり、それほど走る機会がないのでこのまま広島まで行ってみることにしよう。この辺り、ローカル線に乗ろうという感覚に近いかもしれない。幸い、通行規制も出ていないようだ。

中国山地を縫うように走るため、細かなカーブが多い。ただ、通行量が少ないために周りをそれほど気にすることがない。そんな中、時折、「尾張小牧」、「湘南」、「習志野」といったナンバーのクルマが追い越して行く。別にメイン高速だから珍しいことではないのだろうが、この日(26日)から実質年末年始休暇に入る人も多い中で、朝から出てきてこの先の中国地方、あるいは九州まで帰省するのかなとも思う。一時のような他県ナンバー車への嫌がらせが今でもあるのかは知らないが。

岡山県に入り、勝央サービスエリアで休憩。早い夕食にするかとも思ったが、それほど食指が動くメニューもなかったので、その代わりに土産物をいくつか購入する。

山の中なので日が落ちるのも早い。この辺りは鉄道でいえば姫新線~芸備線と続く細々としたエリアだが、まだ17時、18時という時間帯だが周りを照らすものがない暗い景色である。高速道路がそういうところを走るから余計に感じるのだろうが。

広島県に入り、とっぷりと日が暮れた中を走る。休憩ということで七塚原サービスエリアに入る。ここも一応レストランはあるが、他に客もおらず、どうも入りたくなるような雰囲気でもない。まあ、ここまで来ればあと2時間もすれば帰宅できるので、食事は帰りに何か買って帰ることにしよう。

庄原インターを過ぎると、ちらりと両側にイルミネーションが灯るのが見える。あっ、と思ったが、そこは備北丘陵公園。ちょうど冬のイルミネーションをやっている時間である。次の三次で下りて引き返すとまではないかと思い。これは、また折を見て訪ねることにしよう。

そのまま三次を通過して、広島北ジャンクションから広島道、山陽道を経て五日市で下車する。帰宅したのは20時すぎ。この日は復路の中国道の距離が長かったため、往復で600キロ近くのドライブとなったが、少しずつ、昔の感覚がよみがえってきたところである。もっとも、これから春までの季節は中国山地、山陰方面にクルマで行くことができないのだが・・。

・・・これにて、さまざまな出来事があった2020年の拙ブログ記事の書き込みは終了。ご覧いただいた方、ありがとうございました。あと少しで迎える新たな年が皆さんによってよき年になりますように・・・。

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第24番「神積寺」~西国四十九薬師めぐり・28(福崎の札所と柳田國男)

2020年12月30日 | 西国四十九薬師

書写山から福崎を目指す。国道沿いで遅い昼食と給油を行い、福崎の町に入る。姫路の北にあって、中国道、播但道が交差する交通の要衝である。かつて播但線で福崎駅に来た時、駅周辺は住宅が広がるものの商店が少ないという印象だったが、インターチェンジの周りには駐車場完備の大型店や飲食店が並んでおり、よくある地方の光景である。

その町並みから少し入ったところに神積寺(じんしゃくじ)がある。地元では「田原文珠」として親しまれているそうだ。また、神積寺、悟真院、本寿院を合わせて「妙徳山」としている。修復工事中の仁王門の横を通って参道を歩く。朱印の受付は支院の悟真院で行うとの表示があり、これは帰りに寄ることにする。

神積寺が開かれたのは平安時代、10世紀末である。比叡山の僧である慶芳上人がこの地で文殊菩薩の守護を得て、一条天皇の勅願により開かれ、薬師如来を本尊とした。以後、朝廷との結び付きが強く、巨大な伽藍と多くの支院を持ち、播磨の天台六山の一つにも数えられたが、火災により焼失した。現在の本堂は戦国時代に建てられたものである。現在は薬師如来を本尊、文殊菩薩を脇仏として、両方セットでご真言を唱えるようになっている。

本堂に入る。すると内陣から何やら話し声が聞こえてくる。格子の向こうに、地元の人たちなのか、寺の檀家の皆さんなのか、ご年配の7~8人ほどが集まっておしゃべりをしている。ただ雰囲気は茶話会のようだ。格子なので締め切った状態ではないともとれるが、こういう状況なのでちょっと大丈夫かなと思ってしまう。お堂の外に出てお勤めを行い、そそくさと本堂を後にする。

本堂の横に、三十三観音めぐりのコースがある。「ふくさき三獅子山ふれあいの森」の中にあり、地元の人たちが里山散策を楽しむコースの一つになっている。今回は薬師めぐりで来たが、せっかくなのでこちらも回ってみることにする。元々の観音像がいつ頃置かれたのかはわからないが、入口に、石像の損傷が激しいので自らいくつかの像を新たに寄進したという方の碑が建てられている。元からあった像の中には顔がつぶれてしまったものもあるが、比較的最近置かれた像については体の輪郭や顔の表情もくっきりしている。

その途中に、突然建物が現れる。文珠荘という宿泊・研修施設である。

ちょっとした上り下りはあったが手軽に回れるほどの距離で、一周したところで奥の院の開山堂に出る。ここに慶芳上人が祀られている。

西国めぐりはあったものの、神積寺そのものの参詣は結構あっさり終わったかなという感じである。ともあれ、西国四十九薬師の播磨シリーズは終えたことになり、悟真院に戻ってバインダー式の朱印をいただく。

さて、これで今回の薬師めぐりは終了し、次の行き先である。

1.阪神(久安寺、昆陽寺)

2.高野山(龍泉院、高室院、プラス西国3番粉河寺)

3.北摂(花山院、プラス西国25番播州清水寺)

4.但馬(大乗寺、温泉寺)

5.南紀(神宮寺、プラス西国1番青岸渡寺)

6.京都(法界寺、醍醐寺、プラス西国10番三室戸寺、西国11番醍醐寺)

・・・ここで、但馬だの南紀だの結構厳しいところが出てきた。また一方では年末年始のスケジュールにも加えたいところもあるが、どうだろうか。

そしてサイコロの出目は・・・「4」。ここで山陰と来たか。広島からの距離は短いが、香住、城崎という日本海側だけにどうやってアクセスするか。そうした往復のルートを考えたり、冬の日本海や海の幸もどこかで楽しみたい思いもある。一瞬、年末年始にと思ったが、この年末年始は記録的な寒波が日本列島にやって来るという予報が出ている。避けたほうがよさそうだ。

神積寺を後にして、ほど近くにある「もちむぎのやかた」に向かう。福崎のもち麦は国内でも最高品質と評されており、前回来た時はもち麦で作った麺や、もち麦の焼酎をいただいた。今回は食堂の営業時間は終了していたが、もち麦の麺、そしてもち麦そのものを土産として購入。麺はまだいただいていないが、もち麦はさっそく米と一緒に炊いてみた。なかなかの味である。

また福崎は「遠野物語」など民俗学者で知られる柳田國男の出身地。「もちむぎのやかた」に隣接して生家が移築保存されている。後に「私の家は日本一小さい」と自ら評した家である。見る限りではそこまで小さいとは思えないし、建物としては当時のこの地域の農家の一般的な造りだったそうだが、他の兄弟と合わせて大家族で住むには確かに狭いだろう。ただ、それをバネとして学問で身を立てたという思いが込められているようだ。

民俗学の中には妖怪、お化けといったものの伝承も数多くあり、妖怪に関する著作もある。そのことから、福崎では妖怪を町おこしに使っており、町のあちこちに妖怪のオブジェが展示されている。

さらにこの公園にはかつて開催された妖怪造形コンテストの最優秀作品も集められている。

さて時刻は15時半すぎ、あまり遅くならないうちに帰ることにするか・・・。

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第27番「圓教寺」~西国三十三所めぐり3巡目・23(「衆怨悉退散」の願いを込めて・・)

2020年12月29日 | 西国三十三所

書写山ロープウェーの乗り場に着く。シーズンオフのためか乗客の姿も10人くらいのものである。

改札は発車3分前からとのことで、しばらく乗り場で待機する。圓教寺はこれまでに映画やドラマのロケで使われることがしばしばあり、出演者のサイン色紙が飾られている。その中で別枠で飾られているのが、映画「ラスト・サムライ」に出演した渡辺謙さん、トム・クルーズさん。圓教寺も、ハリウッド映画のロケ地にもなったことをPRの材料にしている。

また一方で、毎年大晦日から元日にかけてのロープウェーの終夜運転の取りやめの案内も出ている。大晦日の夜21時から、上りは24時まで、下りは26時までの運転とする。朝は8時半からの通常運転とある。終夜運転していたということは初詣だけではなく書写山からの初日の出を見に利用する人もいたはずだが、もし2021年の初日の出を見ようと思えば、山上で一夜を過ごすか、暗いうちから徒歩で登ることになるのだろう。

発車時刻となり、自分で往路の半券をちぎって箱に入れて乗車する。この日は天候もよく、遠くにうっすらではあるが淡路島の稜線も目にすることができた。

ロープウェーの進行右手に菜の花畑が広がるとの案内がある。かつては田んぼアートとしてロープウェーの乗客を楽しませていたところだが、今年、新型コロナウイルスの終息、疫病退散を願い、稲刈りの終わった田んぼに菜の花を植え、その中で「衆怨悉退散」の文字を浮かび上がらせるという。

この5文字は観音経の一節にあり、圓教寺の高僧の筆から起こしたものだ。「衆怨悉退散」じたいの意味は「人々の怨みをことごとく退き散らす」というもので、コロナウイルスの終息とは直接結びつかないように思う。ただ、「退散」の2文字というのはわかりやすいし、観音経の文脈でいえば、コロナ禍の中で人間関係がギスギスしたものになったり(自粛警察とかね)、直接会いたくても会えない状況が続いて鬱々とした人も多い中で、そうした心に溜まったものを吹き飛ばすことを願っている・・のではないかと思う。

菜の花は1月から2月にかけて見ごろで、その頃にはこの文字はもっとくっきりと姿を現すという。

ロープウェーの山上に着く。気温は10度を下回っているが穏やかな天候で、寒さはそれほど感じない。ここから仁王門を経て本堂の摩尼殿まで歩くことにして、まずは鐘を撞く。

圓教寺は、私の西国三十三所めぐりの2巡目の結願となった札所である。前回来たのが2019年の2月3日、ちょうど節分の日である。圓教寺が最後になったのは、2巡目からはくじ引きやサイコロの出目をなくして、他の札所めぐりと合わせて訪ねて行った結果、たまたまそうなっただけなのだが、節分会の豆まきにも参加して、悪いものが払われた気持ちになったものである。それはそうと、来年の節分で豆まきは行われるのだろうか。

参道の観音像たちを見ながら、仁王門をくぐって摩尼殿に向かう。境内それほど混雑していないが、参詣者のほかに登山姿の人も見かける。

外陣に上がり、まずはお勤めとする。内陣からも低い声での読経が聞こえてくる。毎日正午から、疫病退散、七福即生の祈祷が行われており、その様子は動画でも配信されている。コロナ禍で参詣が難しい人も、動画を見て手を合わせることができるようにと行われている。

先達用納経帳に朱印をいただく。西国三十三所の3巡目も残り10ヶ所となった。和歌山2、京都2、大阪1、兵庫1、滋賀3、岐阜1・・・まだまだ難所が続く。

そのまま境内を進み、大講堂、常行堂、食堂の「三之堂」エリアに出る。こちらの大講堂は釈迦如来を本尊としている。先ほどの長い柱の床下を持つ摩尼殿も含め、さすがは西の比叡山とも称され、堂々とした建築のお堂が並ぶ圓教寺である。

さらに奥の院である開山堂に向かう。圓教寺を開いた性空上人を祀る。

これで圓教寺の主なお堂を回り終える。姫路の観光名所の一つではあるが、寺としてコロナ禍に対してさまざまな発信を行っていることがうかがえ、私もまたこの時季を無病息災で乗り切れるよう気持ちを新たにすることができた。

ロープウェーで下山して、次の目的地である西国四十九薬師めぐりの神積寺を目指す。カーナビで今度は素直に神積寺と入力する。

途中、近郊の住宅地や陸上自衛隊の駐屯地などを経由するが、その途中に「増位山」への案内標識を見る。増位山といえば大相撲の元大関、そして元三保ヶ関親方で、定年退職後の今は現役時代からも手掛けていた歌手として活躍する増位山大志郎さんを連想する。その四股名もこの増位山からつけられたのだが、父親であり三保ヶ関親方だった先代の増位山大志郎から受け継いだものである。この先代増位山は姫路の出身で、郷土の山から四股名をもらったことになる。なお、四股名は「ますいやま」だが、山の名前は「ますいざん」という。

帰ってから知ったことだが、山の増位山には聖徳太子が開いた随願寺という古刹があり、播磨国の観音霊場、薬師霊場の札所の一つになっているという。ただ今の時点では、そこまでは付き合いきれず・・・。

このまま播但線の砥堀駅近くから国道312号線に入る。国道沿いで遅めの昼食を取った後、神積寺がある福崎を目指す・・・。

 

 

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第23番「斑鳩寺」~西国四十九薬師めぐり・27(1400年の歴史に思いを馳せる)

2020年12月28日 | 西国四十九薬師

広島から230キロほど移動して、兵庫の太子町の斑鳩寺に到着。太子、斑鳩という名前にもあるように、聖徳太子に縁のあるところである。寺の住所は「鵤(いかるが)」と表す。

こちらの斑鳩寺は、聖徳太子が推古天皇に法華経の講義を行った褒美として播磨の土地を与えられ、大和の斑鳩と同じく斑鳩(鵤)荘と名付け、伽藍を建立したとされる。

門前や境内には「聖徳太子1400年」の幟が立つ。聖徳太子が亡くなって(御遠忌)1400年ということだが、寺院によって2021年が1400年に当たるとするところもあれば、2022年が1400年に当たるとするところもある。私が日本史の授業や子どもの頃読んだ歴史漫画では確か「622年没」とあったと記憶しているので、2022年が該当するのではと思うが、年数の解釈もいろいろあるし、記念事業は前後して行われているので、だいたい1400年というところでいいだろう。現在行われている西国三十三所の開創1300年の事業も前後して数年に亘って行われている。

寺は室町時代に兵火により焼失したが、赤松氏の手により再興された。現在の三重塔、講堂、聖徳殿は450~460年前からの建物である。

前回訪ねた時は何かの縁日だったのか露店のがらくた市が並んでいたが、この日はそうした姿もなく静かな境内である。まずは正面にある本堂の講堂にてお勤め。薬師如来、釈迦如来、如意輪観音が本尊として祀られていて、今回は薬師如来の札所としてのお参りである。ただ本尊の真言は他の釈迦如来、如意輪観音も合わせて唱える。

続いては聖徳太子を祀る聖徳殿に向かう。この聖徳殿と、別にある聖宝殿は有料で拝観できる。前回は中に入ったのだが、その時は納経所で拝観料を納めると、わざわざ聖宝殿の係の人につないでもらって鍵を開けてもらい、聖徳殿も横扉の鍵を開けて案内していただいた。今回はそこまではいいかなと、外から拝むだけにする。

前回の記事を読み返してみると、聖徳殿の奥殿に祀られているのは聖徳太子16歳の像で、父の用明天皇の病気平癒を祈る姿を表しているとされる。そして貴重なことに、より本物に似せようとして、像の上からわざわざ着物を着させているのだが、それが代々皇族方から賜ったものだという話を聞いた。現在着ているのは1962年に高松宮から寄進された着物とのことだが、時代も移る中で今後皇族から新たな着物が寄進されるのかどうか。

また現在、講堂の奥に建つ庫裡が修復工事中である。こちらの庫裡は江戸時代に建てられたもので、それでも350年あまりが建っている。工事は来年あたりまでかかるとのことで、もし次に斑鳩寺に来ることがあれば、修復後の姿を見ることができそうだ。・・・とはいうものの、その時は何の札所めぐりになるだろうか。

ともかく、長い歴史を持ち、それがさらに工事を経て受け継がれる古刹である。

これで斑鳩寺を終え、次は西国三十三所めぐりの書写山圓教寺に向かう。カーナビで圓教寺を指定すると書写山の上にある寺が表示されるのだが、実際にはそこにたどり着くことはできない。カーナビだと山の中を迷うか、物理的に通れない細道で行き止まってしまうという。山上にはロープウェーの山上駅から本堂までのバスも走るし、境内には関係者のクルマも停まっているのでどこかに関係者だけが通れる道はあるのだろうが、一般の参詣者は徒歩またはロープウェーを利用するしかない。これは以前の札所めぐりで、前後の札所の納経所にそのような注意書きがあるのを知っていて、カーナビには書写山ロープウェーの駐車場を設定する。

太子町からは国道29号線バイパスを経由して、山陽自動車道の姫路西インターまで出る。後は高速道路沿いに走り、白鳥水上ゴルフセンターや兵庫県立大学の横を通る。兵庫県立大学には仕事の関係で何回か来たことがあり、ここまで来れば後の道は覚えている。

斑鳩寺からロープウェー乗り場まで20分あまりで到着。次のロープウェーの発車は12時ちょうどである・・・。

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西国四十九薬師めぐり~国道2号線

2020年12月27日 | 西国四十九薬師

12月26日、朝5時に広島西区の自宅を出発する。まず目指すのは西国四十九薬師めぐりの第23番・斑鳩寺である。

斑鳩寺があるのは兵庫県の太子町。自宅を出たのはまだ真っ暗な朝5時過ぎだが、一般道指定でカーナビを入力すると、到着予定は8時間後の13時過ぎと出る。斑鳩寺までは約230キロあるのだが、事前にネットのルート検索で入れたらおよそ6時間という表示だが、このカーナビは時速30キロ平均で計算しているようで8時間後と出たようだ。まあ、これは進むうちに詰めてくるだろう。

国道2号線、まずは広島の市街地を抜ける。以前と比べても新しい道路もできている。

海田町を抜け、瀬野のあたりから上りに差しかかる。電柱に表示された気温はマイナス2℃、マイナス3℃という表示である。この先凍結注意の電光掲示もある。無鉄砲といえばそうなのだが、軽自動車が履いているのはノーマルタイヤ。まあ、前回の広島勤務時もノーマルタイヤで過ごしていたし(その代わり、冬に中国山地の向こうに行くことはなかったが)、積雪情報はないのでそのまま行くことにする。

西条バイパスを抜け、出発から1時間あまりが経過した東広島の上三永にあるセブンイレブンで休憩。ガソリンスタンドも横にあり、この辺りのピットポイントのようだ。ここで仮眠を取るトラックの姿も多く見る。早い出発で朝食がまだだったので、こちらで購入して車内でとる。

日の出の時間が遅いうえに、山の中なのでなかなか明るくならない。ようやく明るくなったのは三原に入ってから。三原バイパスも糸崎辺りまで延びているが、その先の尾道バイパスまではまだつながっていない。まあ、そのため下り口で瀬戸内の眺めを見ることができる。

この後は尾道バイパス~松永道路を経て、ようやく福山市に入る。芦田川を渡り、福山といえば・・ということで「洋服の青山」の本社、本店も通過。

何やかんや言って広島県は広い。ずっとバイパス含めた下道を走り、途中休憩をとったものの、岡山県に入るまで3時間近くかかった。こうしたドライブは久しぶりなのだが、以前国道をひた走っていた時もこんなにかかったかな、と思う。

次は岡山県に入った里庄のセブンイレブンで2回目の休憩。岡山県内は走りやすく、高梁川を渡り、倉敷から岡山にかけて順調に進む。この辺りの国道2号線は市街地中心部を避けており、いつしか通過するという感じである。

岡山市を抜け、吉井川を渡ったところにある長船サービスエリアで3回目の休憩。まだ開店時間前であるが、レストランでは新幹線のNゲージが走り、そして窓の外には吉井川を渡る本物の新幹線も見ることができる。また温泉もある。

クルマを停めて、すぐ裏の土手に上がる。早速、岡山方面でヘッドライトが見えたかと思うと、16両編成の「のぞみ」が轟音とともに鉄橋を渡る。これは結構いい角度だ。

その一方、敷地内にある新幹線の高架下に古い車両が展示されている。下津井電鉄の車両たちである。下津井電鉄はかつて茶屋町~児島~下津井を走り、下津井から丸亀までの航路につながる鉄道である。ただ、クルマ社会の発達や、瀬戸大橋線の開通などもあり、1990年に廃止された。

ここにあるのは、かつて走っていた気動車改造電車(クハ6)、軽便列車用客車(ホハフ2)、そして貨車(ホワ10)である。下津井とはまた離れた場所にあるものだが、先ほどの新幹線ともども、ちょっとした鉄道スポットである。ちなみに、鉄道で行くなら赤穂線の香登が最寄り駅である。

備前焼の伊部、三石を過ぎ、船坂トンネルを抜けて兵庫県に入る。ここまで5時間を少し過ぎたところで、順調に来ている。カーナビの当初の予想時刻からはかなり詰めてきた。

上郡から相生、山陽線の竜野を過ぎて、国道2号線から離れる。時刻は11時前、ネット検索で出た6時間を切るタイム(何だか、長距離駅伝の記録みたいだが)で斑鳩寺に着いた。鉄道の旅ばかりではなく、たまには、こうして長い時間ハンドルを握るのも面白いものである。

さてここから、3つの寺を順次回ることに・・・。

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西国四十九薬師めぐり~年の瀬、弾丸で

2020年12月25日 | 西国四十九薬師

12月25日、2020年も実質今日で仕事納めというところも多いのではないだろうか。少し早いが1年を振り返ると、今年は夏の猛暑の中という批判がありながらも東京五輪、札幌マラソンで賑わう1年になるはずのところ、コロナ禍一色であった。テレビのニュースはといえば連日コロナばかりで、一時はテレビそのものを一切見なかった日もある。

私自身は異動、転居ということで大きな環境の変化はあったが、今年は四季を通して何だか季節の旬の話題というのも少なかったように思う。前夜はそういえばクリスマスイブだったのだが、そのことも気づかずにいつものように帰宅時に夕食の献立を買い求め、家で普通にビールを飲んでいた。元々クリスマスイブに縁のない人間とはいえ、例えば夕食も洋風のものをいただくとか、ビールではなくワインとかシャンパンとか、ちょっと飲むものを変えるとか、何かしらあったのではと思う。

それはさておき、部屋の大掃除は27日に行うとして、26日はちょっと出かけることにする。幸い、GoToトラベルキャンペーンで夏の中国観音霊場めぐりで利用したフェリー(個室)代、ホテル代の還付請求分が指定口座に入金されていた。GoToトラベルもこのたび一時停止になるし、還付金額もわずかなものであるが、忘れた頃にこうしたお金が出るというのもちょっとしたクリスマスプレゼントのようなものである。

出かけるにあたっては、西国四十九薬師めぐり&西国三十三所3巡目の続きである。前回の亀岡シリーズの次にサイコロで決まったのは、播磨シリーズ。西国四十九薬師めぐりでいえば、兵庫の太子町にある第23番の斑鳩寺、同じく福崎町にある第24番の神積寺。そして、その間に挟まる形で、まだ西国3巡目では訪ねていない第27番の圓教寺。

これらを1日で回るとなると結構忙しい。斑鳩寺は、新西国三十三所の札所で訪ねたことがあり、その時は山陽電車の網干から、JRの網干を経由する路線バスで移動して参詣し、その後は本竜野に抜けている。そして圓教寺は姫路からバス~ロープウェイ。神積寺は、播但線の福崎から徒歩3キロあまりとある。福崎も新西国三十三所の札所の金剛城寺で訪ねたことがある。金剛城寺は一度参詣した際、寺の方が誰もいなくて朱印がいただけず、後日改めて出直したことがある。柳田國男の生誕地で、先日訪ねた三次と同じく「妖怪」での観光PRを行っている。

・・・列車で網干~竜野~姫路~書写山~姫路~福崎と移動するのも結構慌ただしい。そこで、広島からまだ近いという理由で、今回は軽自動車を走らせることにする。広島から福崎までが250~260キロといったところ。そして、高速道路で単純に往復するのではなくて、あえて「国道2号線をひた走る(バイパス含めて)」ことをやってみる。

かつての広島勤務時代も、高速代を惜しんで国道2号線を東へ西へと走ってみたことがしばしばある。それを久しぶりにやってみようかなというところだ。予報を見る限りでは山陽側では天候の心配はなさそうだ。3つの寺を日帰りで回ることをベースとして、時間があればプラスアルファ、それもクルマならではというところに立ち寄ってみよう。

では、安全運転で・・・。

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青春18きっぷで広島県循環~福塩線

2020年12月24日 | 旅行記F・中国

三次駅から14時43分発の福塩線直通府中行きに乗る。キハ120の単行で、青春18らしい客は私の他にもう一人、後は地元の買い物客が10人ほどの乗車である。

福塩線というのも中国山地のローカル線としてなかなかハードルが高く、福山~府中間は電化区間で通勤通学の足としてある程度機能しているが、府中から先が厳しい。両方向とも朝3本、午後1本、夕方から夜にかけて2本というもので、よほど列車の時間に合わせてスケジュールを組む必要がある。

車内には福塩線のちょっと懐かしい風景の写真がポスターとして飾られている。キハ120に置き換わる前の気動車の写真もあれば、「花嫁が鉄路の如く、幸福な未来へ向かっての第一歩」とつけられた写真もある。昭和58年撮影というから40年近く前のことだが、踏切があるようにも見えないところで、ローカル線といえども今こうした写真を撮ったら怒られるだろうな。

三次を出発して、塩町から福塩線に入る。路線の分岐駅とはいえ、駅周辺は特にこれというスポットがあるわけではない。

列車は三良坂から吉舎に進む。その途中に立派な高架橋が現れる。尾道と松江を結ぶ中国横断自動車道、通称「中国やまなみ街道」である。尾道と松江を2時間半で結び、しかも一部区間を除いては無料である。最近の高速道路の中には、高速道路会社ではなく国や地方自治体が整備し、完成後は無料で走らせる道路が増えている。従来からあった国道のバイパスという位置づけでもあるが、そりゃ、こうした道路ができればこの福塩線や芸備線、木次線といった鉄道路線は太刀打ちできない。これらの路線はかつて国が建設したり買収で保有していたにせよ、今はJRという民間会社に委ねられているのだから、限界になれば廃線とせざるを得ないだろう。

福塩線は2年前の西日本豪雨では府中~上下間では5ヶ月あまりにわたって不通となったし、2020年7月の豪雨でも1ヶ月不通となった。これからもこうした豪雨災害の発生リスクは多分にあり、福塩線のこの区間も果たしていつまで維持できるかというところである。

そんな福塩線だが、かつて石見銀山で採掘された銀を瀬戸内まで輸送する石見街道、通称銀山街道をなぞるように走る。

備後安田に着く。ホームには「◯福塩線全線開通  周年」という横断幕がある。この「開通」と「周年」の間が空白に見えるが、よく見ると「80」という文字が赤く書かれていたようだ。そして最初の「◯」は「祝」である。調べてみると、福塩線が全通したのは1938年のこと。だから横断幕は2018年に掲示されたと思うが、赤い文字というのは消えやすいものである。そして、2年以上放置しているのもいかがなものかと思う。ひょっとしたら、2028年になってここに「90」の文字を書き足そうとでも思っているのかな(もっとも、上に書いたことを踏まえると、無事に90周年を迎えられるかは予断を許さないのではないかと気になるのだが)。

福塩線に入ってからスピードを落として走る頻度が増える。JR西日本の中国山地の路線でよくある時速25キロ制限の区間である。見通しが悪い、路盤状態を慎重に確認する必要があるなどの理由で取られる措置だ。これは仕方ないし、これ込みの時刻表である。

上下に到着。福塩線の最高地点、標高383.74メートルとある。ただ、数少ない乗客も上下でとうとう4人にまで減った。

20年以上前になるかな、上下にはかつての広島勤務時代にクルマで訪ねて一度泊まったことがある。今のようにブログ記事やデジカメ写真が残っているわけではないので記憶も薄れているのだが、上下というよりは矢野温泉にあるユースホステル(その筋では結構有名なところ)に泊まったのは覚えている。そして翌日には、泊まり合わせた人を旅は道連れと誘ってクルマに乗せて(今なら考えられない)尾道まで南下したのだが、途中に立ち寄ったのが上下の町。そこは石見銀山の街道沿いということでかつて天領で、白壁の町並みが残されていた。さらにその当日は、天領だったことにちなんだ祭りが行われていたと思う。飛び入り参加したのが、瓦ドミノ。

結局福塩線関係ないやん、というところだが。

その上下は現在も福塩線の数少ない列車が行き違うところ。これまで山深かったところも少しずつ開けてくる。

次の備後矢野では反対側のホームに木彫りの布袋像が見える。この駅は駅舎がうどん屋を兼ねていて、福塩線にちなんで「福縁」スポットとして知られているそうだが、やはり福塩線に乗って訪ねるとなるとかなりハードルは高い。

八田原ダムの建設にともない付け替えられたルートの長いトンネルを抜け、河佐に着く。このまま芦田川沿いに出て、16時32分、三次から2時間近くかけて府中に到着。

府中からは16時41分発の福山行きに乗り継ぐ。今度はロングシートの105系。最近まで関西でも奈良・和歌山両県で走っていた車両だ。紀勢線の105系は2021年春のダイヤ改正で全て置き換わるそうだが、中国地方にあってはもうしばらくこの形式は走ることになるだろう。

先ほどまでと違って駅間隔も短く、ガタゴト走る。下校生同士の会話を横に聞きつつ、少しずつ暗くなる外の景色を見やる。

福山に到着。県東部の都市に敬意を表してどこかで飲んで帰ってもいいかなと思ったが、この日は「飲み鉄」として飲食物を仕入れて、鈍行の車内でいただくことにする。

一度外に出る。福山駅前にはバラの町らしくバラ園が広がっているのだが、時節柄イルミネーションが灯されている。バラの色が数秒おきに変わるのが美しい。

福山からは17時47分発の三原行きに乗る。すっかり暗くなったが、途中では尾道水道の夜景も見る。気候がよい時季なら、尾道で下車して、駅前広場で行き交う船を眺めながら一杯やるというのもありだ。

列車は三原行きだが、次の乗り継ぎ列車の始発ということで糸崎で下車する。18時29分発の徳山行きに乗る。列車を待つ間に、貨物列車が先行する。

この後は、淡々と進む。他に客が少ないのをいいことに、文庫本を開きながらの「飲み鉄」である。時刻はまだ19時台だが、こういう移動もある種贅沢に感じる。

そのまま広島に着くが、土曜日の夜だが乗り込む客も少なく、そのまま西広島まで移動する。

JRの西広島のロータリーの向かいには広電の西広島(己斐)があり、その駅前は「KOI PLACE」、略して「コイプレ」がある。ここもちょっとした憩いの場で、ささやかながらイルミネーションが灯るのも、電車乗り換えの際にはほっとするものである。

今回はさらっとローカル線を乗り継いだ形だが、同じ広島県内でもまだまだ訪ねたことがないスポットのほうが多い。これからも時間を見つけて、あちこち出かけることにしよう・・・。

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三次もののけミュージアムと、ワニの刺身を楽しむ

2020年12月23日 | 旅行記F・中国

12月19日、思わぬところで東京五輪の聖火と対面することがあったので、記事が長くなった。改めて、三次もののけミュージアムに入館する。

三次もののけミュージアムは、正式には「湯本豪一記念日本妖怪博物館」という、おどろおどろしい名称である。日本妖怪博物館はともかく、湯本豪一というのはどんな人なのか。今もご健在の民俗学者にして、妖怪研究家という。妖怪に関するさまざまな史料の蒐集を行っていて、そのコレクションは5000点を超えるという。これを三次市に寄贈することになり、妖怪の博物館が誕生した。

妖怪、お化け関連といえば同じ中国地方の境港にある水木しげる記念館が人気だが、あちらが水木しげるの劇画によってさまざまな妖怪が紹介されているのに対して、三次もののけミュージアムは、江戸時代以降を中心に、人々の暮らしの中で描かれてきた当時の姿を史料として紹介しているのが特徴である。もののけミュージアムの紹介文によると、古来人間は、自然現象による災害や疫病など人知を超えた現象を「もののけ(妖怪)」に由来するものとして、畏れ、時には敬いながら共存してきたとある。単に怖がるというより、ある種「神」のような存在と言ってもいいだろう。

まずいろいろと出てくるのが「百鬼夜行」。深夜に徘徊する鬼や妖怪の群れのことで、古くは平安時代の説話集にも出てくる。それがさまざまな絵巻物で表現されている。妖怪の列伝といったところで、現在にも伝わるものも多い。

他には、饅頭のような形の頭を持つ「人面」や、ユーモラスに造られた妖怪たちの根付もある。根付も精巧に造られていて、中には手足が動いたり、目が飛び出したりするからくりを仕込んだものもある。

また、妖怪を立体的に表すものも。

もっと古い時代のものなら、源頼光とそれに従った「四天王」たちが酒呑童子や土蜘蛛、鵺を退治したとか、妖怪を題材にした作品は数多く残されている。

そうした妖怪も、人々は全く拒絶したわけではなく、何やかんやで日常の中で受け入れてきた長い歴史がある。さまざまな形で残されていたり、衣装や娯楽に登場させるのもその一面である。

また企画展では、京都にある国際日本文化研究センター(日文研)が所蔵する妖怪関連の史料も数多く紹介されている。

その中の一つに「諸病諸薬の戦い」という、江戸後期の錦絵がある。文字通り、さまざまな薬たちが力を合わせて、妖怪の姿に描かれた諸病を退治するというものである。正に現在のコロナ禍の状況である。現在なので、電子顕微鏡に映し出されたあの丸型のウイルスのニュース画像が流れるが、一昔前までは病の正体は得体が知れない、正に妖怪、もののけのようだというのが普通だったことだろう。

さて、企画展とは見学順が逆になるが、三次が「もののけ」の地としてPRするようになったのは、別に多くの史料を寄贈した湯本豪一氏が三次の出身だからということではない。そこには「稲生物怪録」という、江戸時代に書かれた妖怪物語の存在がある。

今から270年ほど前の江戸時代中期、三次の町内に当時16歳の稲生平太郎という人物がいた。そのもとに突如怪物姿の魔王が現れる。それから1ヶ月ほどの間、平太郎はさまざまな妖怪によって脅かし続けられるが最後まで耐え抜いた。平太郎は成人後に稲生武太夫という広島藩の武士になるのだが、その時の体験談を聞いた同僚の柏生甫という人が書いたのが「稲生物怪録」である。それが内容の奇抜さから多くの文人たちの興味を引き付け、絵巻物になり、江戸時代の国学者である平田篤胤もこれを広めた。時代が下るにつれてさまざまに脚色され、講談や小説、漫画の題材にもなった。水木しげるも「稲生物怪録」をテーマにした作品を描いている。これも一つの民俗学の流れといっていいだろう。

それにしても、妖怪が次々に平太郎のもとに現れたのはなぜだろう。連日次から次へと奇怪な現象が起こるというのは一体・・? それに耐え抜いた平太郎という人物も大したものである。もののけならぬ、もののふである。

ただ、ここまで多くの妖怪が登場しているとはいえ、昨今の怪談やホラー作品のように誰かを呪い殺すとか、怨霊がどうだとかというのとはちょっと違うようにも思う。この違いも時代によるものかな。

展示室を後にした売店で、現代の小説家であり妖怪研究者の一人である京極夏彦氏の訳による「稲生物怪録」の文庫本(角川ソフィア文庫)が売られていたので購入した。「遠野物語」とはまた違った世界が広がるのだろう。これから読んでみることにする。

この後は三次のかつての商業町エリアを歩く。観光客を意識してか道に石畳を敷き詰めたり、これは古くから残る卯建の家々が並ぶ。この辺りはかつて江の川の水運で栄え、備後の小京都とも称されるところである。三次人形を店頭に飾る店も見かける。

これでかつての五日市地区を出て、巴橋を渡って十日町地区に入る。そろそろ昼食の時間である。

この日のお目当ての一つとして、三次では「ワニ」を食べようと思っていた。ご存知の方も多いと思うが、ここでいう「ワニ」とは、アリゲーターでもクロコダイルでもなく、サメの一種、ワニザメのことである。「古事記」で因幡の白ウサギが毛をむしられたとか、先般訪ねた中国観音霊場の鰐淵寺では寺の縁起として仏具を咥えて淵から上がったとか、山陰には「ワニ」に関する伝承が残る。

その昔、山間部では魚は貴重なもので、その中にあってワニの身は腐りにくいために重宝された。現在では魚の保存技術や流通ルートも整っているので、中国山地の真ん中でも漁港直送の新鮮な魚が手に入るが、ワニも郷土料理として残されている。ただ、三次といえどもワニが食べられる店は限られていて、三次駅から東に10分ほど行ったところにある郷土料理店に行くつもりにしていた。以前の広島勤務時も、ワニは食べることがなかった。

歩く最中、ネットでの紹介記事を思い出すと「スーパーにも並ぶ」とある。三次駅まで戻り、その郷土料理店に行くまでに、中国地方に広がるイズミのゆめマートがある。地元の大手スーパーなら鮮魚コーナーに並んでいるかもしれない。試しにのぞいてみよう。

大勢の買い物客で賑わう食品コーナーに入り、鮮魚コーナーに行くと、果たして「ワニ」の刺身が他の切り身に交じって普通に置かれていた。一応「地元名物」というポップも置かれていたが、ラベルに書かれていたのは「静岡産」。静岡から三次まで輸送するコストも結構かかるのではと思うが。

・・・ふと、これからわざわざ郷土料理店に行かずとも、サクではなく切られて売られているので、これを買って食ってしまえばよいのでは・・?という気持ちが沸いてきた。値段も料理店より安いし(おそらく、そうした料理店でもワニそのものは山陰ではなく他の地区から運ばれたものだろう)・・。バーターではないが、他の食材と一緒にカゴに入れてレジで精算する。

この買い物では箸と醤油がつかなかったのだが、そこは一計を案じる。同じフロアにフードコートがあり、そこのテーブルで飲食ができる。一角のセルフうどん店でうどんと天ぷらを買い、天ぷらの皿にちょっと多めに醤油をかける。この醤油でワニの刺身の醤油もまかなう。何だかやってることがセコイが、そこはフードコートでの飲食の延長ということで・・。

はい、先ほどビールも一緒に買ったので、三次のフードコートでワニを肴に昼飲み・・・という、旅の恥は何とやらという形になった。

その中でいただいたワニだが、まあ、赤身と白身の中間のような味である。決して不味くはないのだが、ではこれが毎日の食卓に上るとなると・・ちょっと勘弁してほしいなというくらいの位置づけである。中国地方の山間にやって来て、郷土の味としていただくというのがちょうどいい付き合い方だろう。

今回は機会がなかったが、ワニ料理ということで、店によってはワニのフライとか、ワニバーガーとか、アレンジした一品が置かれているとのこと。また一方、私としては、サメのほうのワニはクリアしたので、今後機会があれば、アリゲーター、クロコダイルのほうのワニもいただいてみたい。あちらはもっと肉の食感がするのだろう。ネット通販ではそっちのワニ肉を扱う店もあるのだが、試すにはちょっと勇気がいるかな・・。

次に乗る福塩線の列車までは時間もあるし、こうしたショッピングセンターなので人の目もそれほど気にならない。昼食後もしばらくこの建屋内でブラブラしたので、長い待ち時間も何とかクリアすることができた。

少し時間に余裕がある中で、そろそろ駅に戻ることにする。三次はまた機会があれば、夜の部込みで訪ねたい(芸備線で帰れる距離にはある)ところである・・・。

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三次で東京五輪の聖火とご対面

2020年12月22日 | 旅行記F・中国

三次駅に到着して、まず向かうのは「三次もののけミュージアム」。三次駅からは市街地を循環するコミュニティバスも出ているが、バスの時間まで間があるのと、ミュージアムまでは2キロあまりということもあるので、徒歩で向かうことにする。

三次市は広島県北部の中心的な町といっていいが、江戸時代には中期まで広島藩の支藩として三次藩というのが置かれていた。馬洗川の西側に陣屋が置かれ、中心地は五日市とも呼ばれ、昔ながらの商家や寺が並んでいる。現在の駅や市役所がある馬洗川の東側はかつては十日市と呼ばれていたところである。

その馬洗川にかかる巴橋を渡る。江の川に注ぐ下流側には三江線の鉄橋が残されている。先日、三次から江津まで三江線の廃線跡に沿ってクルマを走らせたことがあるが、廃線から2年半が経過してもまだ線路、駅ホーム、鉄橋の多くが残されている光景を目にした。こうした設備の撤去も費用がかかることでなかなか思うように進まないこともあるし、一方では「江の川鐵道」のように鉄道遺産をイベント等で活用しようという動きもあるので残しているところもあるだろう。

三江線は鉄橋からそのまま高架橋、そして築堤と続いている。線路沿いに進むと見えてきたのが、尾関山駅。

ホームの反対側の築堤を上り、ちょっと線路を跨いで駅舎側に出る。先日三江線沿線を訪ねた時は、三次の次に訪ねるカーナビをこの先の長谷にセットしていたため、この尾関山は飛ばしていた。今回訪ねてちょうどよかった。

駅舎じたいは鍵がかかっていて中に入れないが、地元の有志「みよしSL保存倶楽部」というのが、尾関山駅周辺を鉄道公園として整備する活動を行っていて、扉の前には駅ノートも置かれている。またイベント時には駅舎も開放するようだ。

尾関山駅の周囲が三次藩の中心に近いところで、「三次もののけミュージアム」も徒歩圏内にある。2019年にオープンしたこの施設、テレビのニュースでユニークな博物館として開業したのを見たが、訪れるのはもちろん初めてである。

ただ、それにしては警察官の姿が目に付く。ここに来るまでも巡回のパトカーを何回か見ており、何かあるのか気になる。

博物館前の広場や隣接する交流館で、何やらイベントが行われている。来年に延期された東京五輪関連のようで、何と、五輪の聖火が展示されているという。これはまったく知らなかったのだが、東京五輪の聖火を活用した地域創生事業の一環ということで、11月から14の道・県を聖火が回るものである。広島県内では前日の12月18日が安芸高田市、そしてこの日が三次市、以後、呉市、福山市でもランタンに入った聖火を見ることができる。

広場のトラックでは、聖火リレーで使われるトーチやユニフォームが展示されていて、トーチを手にして記念写真を撮ることができる。せっかくなので私も何枚か撮ってもらう。思わぬ出会いである。

そして交流館へ。聖火の見学は無料で、入口でコロナ対策としての検温、連絡先を記入するだけ。警察官の姿も見えるが、聖火の撮影も自由だし、オープンな雰囲気である。

聖火を見る前に、「坂井義則氏の軌跡」という写真展がある。坂井義則という名前に私も「誰だっけ?」と思ったが、1964年の東京五輪の聖火リレーで最終走者を務めた人と紹介され、思い出した。聖火台に聖火が灯される時の映像というのは、五輪関連の番組で流れることも多く、映像で見たことがある方も多いのではないだろうか。

三次市出身ということで今回紹介されており、聖火の最終走者に決まったことを受けての地元の盛り上がりの様子や、早稲田大学での練習風景の写真などが紹介されていた。生まれたのが1945年8月6日・・・広島に原爆が投下されたまさにその日というのが、最終走者に選ばれた理由とある(先に書いたように三次出身で、特に本人が被爆者というわけではないのだが、世界への大きなメッセージにはなった)。

そして、聖火である。来年に延期された五輪だが、聖火リレーは日程はそのまま、しかしながら有名人や芸能人の参加は見送り、イベントも縮小されることになった。広島県内では当初、坂井義則に敬意を表する形で三次市をスタートする予定だったが、延期後もそれは変わらないとのことである。

現在、世界的にコロナ禍の拡大が止まらず、果たして東京五輪が開催されるのか不透明なところも多いが、何やかんや理由をつけて、観客を制限したりイベントを縮小する形で開催するのではないかと思う。まあ、いろんなものがなし崩しになっているので。ちなみに、聖火ランナーの最後を務めるのは誰だろうか。これは延期前でも発表されていなかったはずで、1年延期が何か左右することになるかどうか。

「三次もののけミュージアム」に入るまでが長くなったので、博物館の中は次の記事にて・・・。

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青春18きっぷで広島県循環~芸備線

2020年12月21日 | 旅行記F・中国

冬の青春18きっぷの2回目。今回は日帰りで近場、広島県内を回ってみる。

目当てとなるのは三次、そして福塩線である。芸備線には、先般庄原を訪ねる日帰りツアーで「庄原ライナー」に乗ったが、その途中にある三次は素通りしている。また、福塩線も長いこと乗っていない。今回は芸備線、福塩線を使って広島県内をぐるり循環することにする。

ここで鍵となるのが、福塩線の府中~塩町(芸備線で三次まで直通)の非電化区間。1日6往復しかなく、それも朝3往復、昼間1往復、夕方1往復、夜1往復という過疎ぶりだ。朝の列車が出た後、次の昼間の列車まで7時間待ちというえげつないダイヤである。こうなると、昼間の便に乗ることを考える。三次から南下するか、福山から府中を経て北上するか、それぞれ考えたが、ここは三次の町を訪ねることもあり、まずは三次に向かい、三次発14時43分発の府中行きに乗ることにする。このルートだと福山に着く頃には暗くなっているが、山陽筋はまたそれはそれで訪ねることにする。

12月19日、そろそろ年の瀬の声が聞こえてくる中、朝の広島駅に現れる。これから乗るのは7時53分発の三次行きである。三次着が9時53分発で、福塩線の府中行きまでは5時間弱のインターバルがある。芸備線は福塩線に比べれば本数は多いので何もこんな早い時間に出なくてもいいのだが、そこは見物と食事に時間をかけるということで。

朝の列車はキハ47の4両編成。通学生の姿も目立つ。もっとも、後2両は途中の下深川で切り離して、その先三次へは2両編成、ワンマン運転で向かう。まずは青空が広がる中、広島市東部の市街地を走る。

20分ほど走って下深川に到着。ここまでで乗客の数も少なくなっており、ボックス席に一人いるかいないかという乗車率になった。

上に書いたように芸備線には先月「庄原ライナー」で乗ったのだが、これは快速列車で下深川からは志和口、向原、甲立のみ停車だった。今回各駅停車なので、前回には気づかなかった車窓や駅の様子も伝わってくる。この先、芸備線への熱いメッセージもいろいろ見かける。

狩留家を出て、西日本豪雨で流された後に復旧した鉄橋を渡り、白木山に着く。ここで軽登山の格好をした人が何人か下車する。

白木山は標高889メートル、広島「市内」にあって、近場で手軽に登山を楽しめることで広島では知られている。登山口から片道2時間という距離だが、中には一日何度も往復する人もいるという。ちょっと私には考えられない。その白木山駅の裏手には何十台ものクルマが路上駐車している。先月通った時には何の車列かと思ったが、今回合点がいった。ドアを開けて軽登山スタイルの人が出てきており、要はこの辺りの路上に停めて、白木山の山頂まで往復するようだ。いいのか?

中三田で行き違い停車。

まだ広島市である志和口に到着。この辺りまで来ると山間部の天候になって来て、雲が広がってくる。そして外はパラパラと雨のような、雪のような水滴が落ちてくる。ふと、傘を持って来るのを忘れたのに気づく。冬の山陰に行くのなら「弁当を忘れても傘を忘れるな」という言葉が頭に浮かぶのだが、同じ県内といえど広島市街と北部の山間部の気候は別物であるというのが抜けていた。

そのまま安芸高田市、そして三次市に入る。国鉄型気動車に2時間揺られるというのも、休日の息抜きには結構いいものである。

9時53分、三次に到着。外は雨がぱらつくが、雲も薄いし、別にコンビニで傘を買わなくても、上着のフードで大丈夫かなと思う。駅の周りの歩行者もこのくらいならと、傘を差す人もいないようだ。

さてこれから5時間弱を三次で過ごすことになるが、まずはこのところ三次市もPRに力を入れている「三次もののけミュージアム」に向かうことにする。市内中心部の循環バスもあるのだが、時間は十分すぎるほどある。徒歩30分というところだが、このところの運動不足を補う意味でもテクテク行くことにする・・・。

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西国四十九薬師めぐり~グラン昼特急→夜特急

2020年12月20日 | 西国四十九薬師

京都めぐりから大阪に移動して、16時発の高速バス「グラン昼特急広島5号」に乗車する。大阪駅に立ち寄り、バスの中での食材を買い求める。広島までは5時間の道のりである。

今回は最前列の座席を確保する。乗客は定員の半分くらいだが、他の乗客はなぜか真ん中のエリアに集中している。他の席が空いているのに、わざわざ他人同士が隣り合うA席、B席に固まっている。こういう状況だから分散して座ればいいのになと思うし、ネット予約ならば購入時に座席指定もできる。私が座ったのは1A席だったが、隣のB、C席、そして2列目の3席とも空席だった。

大阪駅を出発して、福島から阪神高速池田線、そして中国池田から中国自動車道に入る。夕方の時間帯だが、反対側の車線も順調に流れている。

日曜日の夕方、特に宝塚トンネルの手前と言えば10キロを超す渋滞が当たり前だったのだが(私がそれを感じるのが、兵庫県内でゴルフをプレーしての帰りのこと)、新名神高速道路の延伸でクルマが分散されたこと、そしてやはりコロナ禍でゴルフコンペを中止する動きが広がったこともあるだろう。私の大阪の前の職場でも春と秋に取引会社を交えたコンペを行っていたが、このご時勢で今年は春、秋ともに中止、この状況だと来年春も果たして行うのかというところだ。職場が変わったのでどちらでもいい話だが。

ちょうど沈む太陽を追いかけるように走るが、追いつくものではない。

5時間あまりの運転ということで、途中休憩は3回取る。初の休憩は山陽道に入った淡河パーキングエリア。長距離ドライブ向けにコインランドリー、シャワールームも兼ね備えている。

ここで日が暮れ、後はクルマのヘッドライト、テールランプを見るばかりである。次の休憩は岡山県に入った吉備サービスエリア。

最後は、広島県に入り八幡パーキングエリア。この辺りまで来ると売店を物色しようということもなく、寒くなって来たのでトイレに行くとすぐ車内に戻る。

昼から夜にかけての特急ということで、車内でのんびりすることができた。広島インター手前でも渋滞することなく、定刻より若干早くに市街地に入った。

今回は広島バスセンターで下車。そのまま紙屋町西から広電に乗車して帰宅した。

西国四十九薬師めぐりも半分を超えたが、未踏の地はまだ関西各地に散らばっている。コロナ禍も広まる中でGoToトラベルも一時全国停止が発表されるなど、出かけることについてはばかられる雰囲気も出ている。まあ、別に旅行を禁止されているわけでもなく、GoTo中止についても定価で移動したり宿泊したりするぶんには支障がないので、そこは個人で日々の予防を心がけるしかないのかなと思う。どうだろうか・・・。

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第19番「革堂」~西国三十三所めぐり3巡目・22(京都からは気動車特急で・・)

2020年12月18日 | 西国三十三所

亀岡まで行き、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車に乗った後で、ことのついでに急遽組み入れることになった西国三十三所第19番の革堂。西国四十九薬師めぐりのくじ引きの選択肢で、法界寺や醍醐寺と合わせた「京都」シリーズに入れていたのだが、他の札所が洛南から宇治にかけて並んでいるのに対して、京都市街、それも二条あたりとなるとぽつんと離れている。この先いつの日か京都を訪ねるとして、時間を有効的に使えればということで。

地下鉄の京都市役所前から地上に出ると、小雨がぱらついていた。雨の予報は出ていなかったと思うが、冬の湿った空気で変わりやすいのも確かである。

寺町通りを北上して、「こうどう」という看板に出る。寺町という名前らしく、周囲の商店街にも自然に溶け込んだ山門である。

正面の本堂でお勤めとする。

本堂に併設された納経所に向かう。革堂の納経所といえば、「スタイリッシュすぎる御朱印」とか、「妖怪ばばぁ」とか、ネットでは以前いろいろと言われていた庵主さんが名物だった。私もそのスタイリッシュすぎる墨書きをするとされるご老体と、初めての革堂の時にはご対面したのだが、結局は別の方に書くよう指示していた。そのご老体も2年ほど前にお亡くなりになったという。

この革堂は都七福神めぐりの札所の一つとなっていて、寿老人が本尊である。ちょうど、都七福神めぐりの朱印集めの色紙を持った人も納経所を訪ねていた。コロナ禍が続き、神社仏閣でも新年の初詣の時期をずらすようにとか、年内の「幸先詣で」を勧める動きもある。まあ、それはどちらでもいいのだが・・。

帰りは京都御所の南、丸太町通を歩く。そこに、「第4中継所」の看板がある。12月20日に行われる全国高校駅伝の男子の中継地点である。京都の冬の風物詩の一つであるが、今回についてはコロナ禍でさまざまな大会が中止となる中、何とか開催にこぎつけた形である。密を避けるために沿道での応援は自粛するよう呼びかけられているが、何とか無事に開催してほしいものだ。

丸太町から地下鉄で京都まで移動する。

さて、この後は大阪駅から16時発の高速バスで広島に戻るが、時間はもう少しある。これが大阪に住んでいた時なら普通に新快速に乗るとか、あるいは革堂を出た時点で京阪や阪急に乗るところだが、今回はある意味「おのぼりさん」なので、これまでできなかったことをやってもいいかなと思う。そこで頭に浮かんだのが、自由席特急券を別に購入して、京都から大阪まで特急で移動するというもの。

それならば大阪行きとなる「サンダーバード」に乗るところだが、駅の時刻表を見ると、14時52分発の「スーパーはくと9号」鳥取行きというのがある。同じ乗るなら、なかなか機会がない気動車特急に乗るのも面白そうだ。大阪までの自由席特急券は660円。

鳥取方向の先頭車両は自由席。最前列は前面展望が効く窓のつくりだが、早くから狙っていたのか先客が陣取っている。私はどうせ大阪で降りるのだからと、数席後ろのシートに収まる。まあ、首を上げれば前面展望も見える。発車を待つ間に隣のホームから新快速、快速が出ていくが、追加料金を払ってもゆったり座って行けるのはありがたい。

同じ車両には他に4~5人の客が乗って来て、時刻となり出発。新快速に負けず劣らずの速度でぶっ飛ばす。それが電車ではなく気動車なので、最初からエンジン全開でより一層飛ばしている感じが伝わってくる。新快速が停車する高槻を通過するというのも、さすがは優等列車だ。

ただその時間も30分足らず。新大阪を経て大阪に到着。また鳥取方面に行く機会があれば乗ろうということで下車するが、驚いたことに同じ車両に乗っていた他の客(最前列でかぶりついていたお兄さんは除く)が全員下車した。混雑時期はともかく通常期なら、着席保証のような使い方もあるのだろう。一方、大阪からならそこそこ乗車があるのかなとも思って発車を見てみたが、時間帯のためか、列車全体がガラガラのままだった。

広島行きの高速バスまでは30分あまり。ちょうどよい待ち時間となった・・・。

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第43番「神蔵寺」~西国四十九薬師めぐり・26(嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車で紅葉を・・)

2020年12月17日 | 西国四十九薬師

嵯峨野線の馬堀から歩いて、嵯峨野観光鉄道のトロッコ亀岡に着く。親子連れ、カップルの姿も見える。

保津川下りの船乗り場へ向かう馬車が停まっている。馬に餌やりをすることができる。馬の餌といえば人参が定番だが、なぜ人参なのかな。

トロッコは5両で運転される。今回乗るのは最後尾の1号車で、亀岡では乗車前の改札は行わないとのことで勝手にホームに入る。線路の向こうでは信楽焼のタヌキたちがお出迎え。「他(た)を抜く」ということでの縁起ものという。

嵯峨方面からトロッコがやって来る。機関車は嵯峨側についていて、後ろから押される形だ。

先頭の5号車は「リッチ号」である。確か以前に乗った時はこの車両だった。窓ガラスがなく、天井がガラス板で上の景色が見え、床も金網が敷かれて路盤も見えるというもの。「リッチ」とはあるが一般車と料金は同じだ。ただ冬に差し掛かる時季、乗るには寒そうだが、よりトロッコらしいということで乗客は多い。

ということで一般車へ。こちらも貨車を改造した客車。窓ガラスつきではあるが、風を感じるのと、今のご時勢なら換気の意味合いで上半分の窓が開いている。1ボックスに一組の乗車率で発車する。

1989年に複線化~電化されて現在の線路となる前は、この保津川沿いの線路が山陰本線だった。数々の特急もこの区間を走り抜けたわけだが、今は観光鉄道として景色を楽しむのにもってこいだが、「幹線」という見方をすると、よくもこういう険しいところを走っていたものだと思う。

保津川下りの舟やカヌーを追い越し、トロッコ保津峡に着く。いわゆる秘境駅の一つではあるが、ハイキングコースの入口にもなっている。ここではクリスマス仕様の信楽焼のタヌキたちがお見送り。

鉄橋を渡り、保津川が進行方向右側に変わる。ここからは嵐山の奥の一帯だが、これまで以上に紅葉の景色が鮮やかだ。ここまでの紅葉を見るのも今季初めてである。12月も半ばであるが。30分あまりの車窓を満喫する。

ここまで、ポイントごとに車掌がアナウンスしてきたが、最後に「クリスマスも近いので一曲お送りします」とあった。アカペラで流れてきたのは、浜田雅功さんの「チキンライス」。歌声はなかなかだったが、クリスマスと目の前の紅葉というのにいくらかのギャップを感じた。

トロッコ嵐山に到着。嵐山観光はここが最寄りということで、多くの客が下車する。ホームが短いため、後部の2号車、1号車はトンネルの中。3号車から降りるよう案内があり、ぞろぞろと前方に移動する。結局1号車に残ったのは私だけだった。

この後は嵯峨野線の線路上を走り、トロッコ嵯峨に到着。ここで巨大ジオラマを見物するとか、何なら嵐山散策を楽しむこともできるのだが、そのまま隣接する嵯峨嵐山駅に向かう。

実は、予定より1時間前倒しとなり、その時間をどうしようかという中で、札所をもう一つ回ることにした。目指すのは、西国三十三所の第19番の革堂。ここは、西国四十九薬師めぐりの選択肢の「京都」シリーズに入れていたのだが、他にあるのは法界寺や醍醐寺といった洛南にあるところで、革堂だけがぽつんと残されていた。今回、亀岡から市内に戻ったこともあり、ついでに回ることにする。

嵯峨野線を二条で下車する。高架下で近江ちゃんぽんの昼食として、地下鉄で京都市役所前まで移動する。そして寺町通りを北上する・・・。

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第43番「神蔵寺」~西国四十九薬師めぐり・26(京の奥座敷、丹波の酒蔵)

2020年12月16日 | 西国四十九薬師

西国三十三所の穴太寺を回り、いよいよ今回のメインの目的地である西国四十九薬師めぐり第43番の神蔵寺を目指す。これまで穴太寺を訪ねた後はそのまま亀岡駅に戻っていたが、今回はさらに先を目指す。電動自転車のレンタサイクルの本領もここから発揮する。

穴太寺から亀岡市の運動公園に出て、国道372号線に入る。「とうろう街道」ということで、沿道には灯籠型の電燈が並ぶ。灯籠にちなんだ祭りから名前がついたようだ。

京の奥座敷として知られる湯の花温泉の看板がある。今回神蔵寺を訪ねるにあたり、湯の花温泉の近くという案内も見たのだが、隣接しているわけではない。観光案内のイラストというのはデフォルメされていることが多いので。その中で湯の花温泉から外れる形で神蔵寺の案内板も出るが、残り数百メートルからは上り坂。ここで電動式の威力が発揮される。

まさに山中の寺院。小川を渡る橋のたもとに入山料を納める箱がある。そして山門に出る。

亀岡は昔から交通の要衝で、その西部にある朝日山の東山麓に伝教大師最澄が道場を開いたのが神蔵寺の始まりとされる。その後、巨大な伽藍を持ち、源氏とのつながりもあったという。源平の戦いで源頼政が平氏打倒のために挙兵した際、これに味方した三井寺が挙兵したのに呼応する形で神蔵寺も参戦した。しかし頼政は敗れ、その影響で神蔵寺も領地を没収された。

その後鎌倉~室町時代には勢力を取り戻したが、明智光秀が丹波を攻めるに当たり、寺全体が焼き討ちにあった。その時に本尊の薬師如来などの仏像は信者たちの手により山中に隠されたという。亀岡の英雄として親しまれ、ついに大河ドラマの主人公にもなった光秀だが、時の世の習いとはいえ、焼き討ちにされたほうの歴史があったとは意外だった。

江戸時代に亀岡を治めていた松平氏により再興され、臨済宗の僧を招いて以降、現在にいたる。もっとも、伝教大師の頃からの流れを汲むとはいえ、こうして来てみると田舎の小ぶりな家に招かれたような、小ぢんまりとした寺である。

石段を上り、本堂である瑠璃殿にて手を合わせる。

瑠璃殿の前に、「結縁」と書かれた賽銭箱がある。「明智光秀公 駒返しの大桜 大賽銭箱」とある。この説明文でも、明智光秀が丹波攻めでこの寺を焼き、本尊の薬師三尊仏が山中にて菰にくるまれて埋められて難を逃れたことが触れられている。後に光秀は「敵は本能寺にあり」と、丹波と摂津の国境にて馬を都に向けて返したのだが、その軍勢を見下ろす山桜の幼木があった。その桜は後に大木となったが、伝教大師が寺を開いて1200年となる1990年に伐採された。それを因縁として有志縁者により賽銭箱として奉納されたとある。天下和平、万民和楽、諸縁吉祥を願うとある。

伝教大師と明智光秀を結ぶというのもスケールが大きい話だが、今は地元の英雄としてPRされている光秀に焼かれた寺・・というのも、亀岡にあっては複雑な心持ちなのではないかと思う。

瑠璃殿の奥に薬師堂がある。先ほど本堂と見た瑠璃殿の本尊は実は釈迦如来で、肝心の薬師如来は新たに建てられた薬師堂に祀られている。寺の奥まったところにあるので、山全体を護っているようにも見える。

納経所に向かう。チャイムを鳴らしてもしばらく反応がなく、これはまた出直しかと思ったところでようやく寺の方の姿が見えた。京の奥座敷、紅葉の穴場と言われてはいるが、決して観光寺院ではない。

ここで、次のスポットを目指すくじ引きとサイコロ。

1.播磨(神積寺、斑鳩寺、プラス西国27番圓教寺)

2.但馬(大乗寺、温泉寺)

3.京都(法界寺、醍醐寺、プラス西国10番三室戸寺、11番醍醐寺、19番革堂)

4.阪神(久安寺、昆陽寺)

5.北摂(花山院、プラス西国25番播州清水寺)

6.湖東(西明寺、桑實寺、善水寺、プラス西国31番長命寺、32番観音正寺)

・・・東西に万遍なく出たかなというところ。これから本格的な冬に入るが、どう出るだろうか。そこでサイコロアプリが出したのは・・・「1」。福崎~姫路~たつののルートで、西国四十九薬師めぐりの中ではもっとも南西に当たり、広島からも近い。どう回るか、いろいろ考えてみよう。

これで亀岡の2ヶ所を回ったが、時刻はまだ10時前。やはりレンタサイクルで移動できたのが大きかった。帰りの嵯峨野観光鉄道の12時30分発の便まで時間があり余る。

ということで、亀岡駅まで戻る途中で、国道372号線沿いに目についたスポットに立ち寄る。この地の産土神として五穀豊穣のご利益がある稗田野神社に手を合わせ、すぐたもとにある大石酒造をのぞく。

大石酒造は元禄年間の創業で、明治時代には「酒喜屋」の屋号、そして現在は「翁鶴」の銘柄を出している。当初から保津川の水、そしてここも丹波ということで杜氏の技術が受け継がれている。現在はさらによい酒造りの環境を求めて、かやぶきの里で知られる美山に蔵を移し、小規模ながらも存在感を出している。

こちらでは酒造りの資料館と地酒販売が行われている。酒樽で仕込んでいるマネキンの蔵人がイケメンとして、一部その筋では人気があるとされているが・・。

せっかくなので丹波の地酒を買うことにしよう。昨夜の京都駅前のホテルでGoToキャンペーンの1000円クーポンをいただいており、今回は亀岡が目的地なのでここで酒購入の足しにしよう。

そこで買い求めたのが、丹波の黒豆の炒り豆(これがつまみにいい)と、翁鶴の中の「明智越」。大河ドラマ、明智光秀のPR商品の一つと思うが、サムライブルーを意識した色の瓶、重厚感を意識した金色と明智家の桔梗の紋をあしらったラベルで、見た目は豪華である。まだ蓋を開けていないが、これに「麒麟」ビールなど合わせて一献やるのもいいだろう(大河ドラマは見ていないが)。

レンタサイクルで亀岡駅に戻る。まだ時刻は11時前ということで、4時間コースを目いっぱい使ったわけではないが、今回の大当たりだった。運営する「コギコギ」もベンチャー企業の一つで、実態はまだまだ発展途上だと思うが、今後こうしたスタイルのレンタサイクルは増えてくると思う。またどこかで利用する機会もあるだろう。

一つ気になる点があるとすれば、メンテナンスはいつどのように行っているのかな・・というところだ。特に、電動自転車の充電。自転車はあるが電動の充電が残り少ない、あるいは切れているとなるとどうだろうか心配だが、そこは管理するシステムがあるのだろう。例えば充電が少なくなった自転車は、システムと連動して、借りる人がスマホで選ぶ際にも選べないようにロックするとか。

駅の窓口で、12時30分発の嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車を1本前の11時30分発に変更する。これで大阪駅からの帰りのバスまでの時間も1時間増えたことで、プラスアルファのことができるだろう。

10時52分発の京都行きに乗り、次の馬堀で下車。ここからトロッコ亀岡駅に移動する。やはり、「乗り鉄」の要素は少しでも組み入れたいものだ・・・。

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第21番「穴太寺」~西国三十三所めぐり3巡目・21(亀岡をレンタサイクルで巡る)

2020年12月15日 | 西国三十三所

12月13日、京都駅前のホテルで朝を迎える。今回は西国四十九薬師めぐりの第43番の神蔵寺に向かうのだが、同じ亀岡にあるということで、西国三十三所の穴生寺とセットで回る。亀岡駅周辺には手頃なホテルがなかったので、京都駅近辺での前泊とした。

朝食がついていなかったので前夜にコンビニで買ったもので食事として、7時18分発の亀岡行きに乗車する。晴れているような、薄曇りのような微妙な天候である。

まずは右にカーブを取り、京都鉄道博物館に隣接して昨年開業した梅小路京都西を過ぎる。まずは高架線で市街地を抜ける。

嵯峨嵐山では出番待ちの嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車を見る。実はこの日の動きだが、午前中に亀岡の2ヶ所の寺院を回った後、トロッコ亀岡12時30分発のトロッコ列車に乗る予定で、あらかじめ指定席券を入手している。穴太寺には過去2度訪ねたことがあり、一度目の時にはトロッコ列車、二度目の時には足を延ばして美山のかやぶきの里を訪ねている。今回は冬に入った時季、窓の開いたトロッコでは寒いかもしれないが、鉄道の旅を楽しむ予定である。

亀岡に到着。駅の北口には、前回来た時にはなかった巨大なスタジアムができていた。サンガスタジアムbyKYOCERA。正式には京都府立京都スタジアムと呼ぶそうだが、Jリーグの京都サンガの運営会社等が実際の運営に当たっている。京都の競技場といえば西京極が連想されるが、新たに専用球技場を建設することになり、県内のいくつかの候補地の中から亀岡に決まった。嵯峨野線で亀岡というと結構遠いイメージがあるのだが、京都駅から約30分、列車も15分に1本ということでギリギリセーフかな。これまでPRしていた明智光秀に加えて、京都サンガも前面に出している。

さてこれから駅に近い順に穴太寺、神蔵寺と回るが、穴太寺はまだしも、神蔵寺へはバス、徒歩だと結構難関である。かといってレンタカーを使うのはもったいない。そこで亀岡の観光を調べると、レンタサイクルが見つかった。これなら、午前中で2つの寺を回って駅に戻ることもできそうだ。

このレンタサイクルだが、一般的に駅前の観光協会や土産物店でやっている普通のレンタサイクルではなく、都市部で見かけるシェアサイクル方式である。今年の10月から、シェアサイクルの導入を支援する「コギコギ」という会社のサービスを導入している。あらかじめ、コギコギのアプリをスマホにダウンロードしておき、現地にて空いている自転車を選択して、スマホをかざしてロックを解除する。利用プランを選んで、料金はカード決済だ。この方式だと24時間利用することができるし、人を介しての手続きも不要で、これもコロナ禍を経ての新しい生活様式、ビジネススタイルの一つなのかなと思う。

亀岡では大河ドラマの舞台となったのを機会に観光客を取り込もうと、「スマートかめまる観光レンタサイクル」として、亀岡駅だけでなく隣の馬堀、千代川、そしてスタジアム内の大河ドラマ館にもスポットを設け、相互に乗り捨て自由としている。今回、4時間1000円のプランを選択して、電動自転車に乗り込む。

電動自転車に乗った経験はこれまで数えるほどしかないが、やはり通常の自転車と比べて快適である。特に漕ぎ始めからスピードに乗るまでのアシストがよい。駅の北口から南口へは、サンガスタジアムの前を通った後で高架橋を渡るのだが、その上りもそれなりの力だけでクリアできる。

南口から丹波亀山城の堀に突き当たるところに、明智光秀の像が立っている。こちらも2019年に完成したもので、武将というよりは文化人としての光秀を強調しているという。また周囲のぐにゃぐにゃした金属は、亀岡独特の朝霧を表現している。

ここから郊外に向けて自転車を走らせる。明智光秀像から20分弱で穴太寺に差し掛かる。

朝のことで参詣者の姿はほとんどなく、静かにお参りできる。コロナ対策ということで手水場の水が止められ、鰐口を鳴らすための紐も柱にくくりつけられている。それほど「密」になる場面はないと思うが、念には念を入れてのことだろう。

穴太寺の見どころは、本堂に安置されている釈迦如来像。涅槃の姿を表す寝姿の像だが、布団が掛けられていることで知られている。撫で仏として、自分がよくなってほしいと思う身体の部位を撫でてお願いするのだが、相手が布団に入っていることで、寝込みを失礼するというか、夜這いするというか、妙な心持になる仏像である。

また穴太寺は本堂内部とセットで庭園の見学もできるが、冬季は閉鎖されている。それでも境内のあちこちでは、紅葉の名残らしきものが見られる。これから本格的な冬に入っていく。

納経所で先達用納経軸の重ね印をいただき、この先の神蔵寺を目指す。距離にすれば5キロあまりあるだろうか・・・。

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