まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回中国観音霊場めぐり~「SLやまぐち号」に乗る

2020年08月31日 | 中国観音霊場

津和野から「SLやまぐち号」に乗車する。列車が入線する時に撮影しようと多くの人が集まると安全上の問題があるためか、15時18分発の益田行きが出た後、ホームにいる人はいったん改札の外に出るよう促される。改札は、列車が入線して安全が確保されてから行うとある。

・・ただ、絶対いるな。こういう案内、指示を聞かない奴。いい歳して「何が悪いんや」とばかりにホームに居座っているおっさんがいる。改札口から駅員が声をかけるも動こうとしない。

列車が入線してホームに向かう。席はあるのだし慌てることもないのだが、やはり機関車の姿は見ておきたい。もっとも、見るのなら駅の外からのほうが、動輪の部分も見えるので適しているようで、初めは駅の外にいて、発車が近くなるとホームにやって来る人もいる。

機関車はC57 1号機。「SLやまぐち号」といえばこの機関車である。改めてプロフィールを振り返ると、製造は1937年。水戸~宇都宮に配属され、宇都宮では空襲のため損傷を受けている。以後、東北本線や羽越本線などで活躍し、1972年に定期列車の運用を引退した後は、千葉や京都梅小路で動態保存されていた。1979年から「SLやまぐち号」として復活、以後、さまざまな故障、不具合と修繕を繰り返しながらも、現在も元気に運転している。

記念撮影する子どもたちは相変わらずいるが、お盆休み最終日の8月16日ということもあってか、乗客も満員ということもないようで、ホーム上もそれほど混雑していない。

一方の客車。パッと見たところでは旧型客車そのものである。運転当初は青い12系客車がそのまま使われていて、その後は塗装を茶色にして車内も「明治風」「大正風」「昭和風」などと趣向を凝らしていた。これらの客車の老朽化を受けて、2017年に新たに35系客車として新造されたのが今目の前にある車両である。客車を新造するというのも珍しいことだが、何でも「最新技術で快適な旧型車両を再現」というのがテーマで、1920~30年代に走っていた客車の雰囲気を再現している。今から乗る普通車は「オハ35『風』」とでもいうところ。この辺りは、本物の旧型客車を使っている大井川鐡道と好みが分かれるかもしれない。

技術面の細かなところはさて置き、そこは現在の観光車両ということでボックス席にはテーブルもあれば、コンセントがあってスマホの充電もできる。もちろんエアコンも効いている。他にもバリアフリー対応が施されているとか、トイレがウォシュレットつき、洗面所もレトロ風ながら自動水栓とか、そこは現在の基準に沿っている。

車内には「SLやまぐち号」関連の展示もある。途中で山口線の運休などもある中で、足掛け40年以上にわたって運転されているSL列車。これだけでも一つの歴史である。

こういう車両なら「呑み鉄」と行きたいところだが、津和野の駅売店ではビールを売っていなかったし、どうせこの後乗る新幹線の車内で夕食となるからそこまで取っておく。

座席はボックスが4席とも家族連れで埋まるところもあれば、まるまる空席のところもある。私の座席には他に相客がなかった。こういう状況なのでなるべく相席にならない売り方をしているのか。もっとも現在は自分でもシートマップで座席が選べるから、席に余裕があるのなら散らばればよいことだ。

15時45分、汽笛が鳴って出発。駅の外から見物の人が手を振って見送りである。煙が前方から漂ってくる。

津和野の町を抜けると、里山の景色となる。こういう車両なので窓も少しだけだが開けてみる。窓から手や顔を出さないこと、トンネルの中では窓を閉めることの案内が流れる。津和野から次の船平山の区間が、県境越え、山越えの区間で、いきなりクライマックスが来たかのようである。煙も多く吐くので、外からの撮影ポイントも多いようだ。

トンネルが近づくと汽笛が鳴るのでそれを合図に窓を閉め、トンネルを出ると窓を開ける・・のを何回か繰り返すうちに、県境越えの白井トンネルが近づく。さすがにこの区間では、トンネルが長いので窓は必ず閉めること、展望デッキにいる人は必ず車内に入ることの案内が流れる。全長2キロ近くあるわけだが、窓を閉めても車内が少し煙るように感じる。そこはSL列車ならではだろう。

トンネルを抜けると山口市。町村合併が進み、山口市全体では県の南北を貫く市域となっている。だから「SLやまぐち号」が通る自治体は山口市と島根県津和野町だけである。

船平山を過ぎると田園風景が広がってきた。もう少しで豊かな実りを迎える田んぼと、そこに点在する集落。「この先しばらくトンネルはありませんので、どうぞ窓を開けて外の風を感じてください」という案内が入る。ただしばらくすると、「現在エアコンの出力を最大にしています。エアコンが効くように窓を閉めてください」という案内になる。あらあら。誰か車掌にクレームでもつけたのか。そこはSL列車の運転の難しいところだろう。

山口市に入ってからは阿武川沿いに走り、長門峡を過ぎる。反対側だったのでよく見えなかったのだが、駅のホームや、近くにある道の駅からは多くの人が見送りで手を振っていた。道の駅だと、SLの通過時刻も案内しているのではないだろうか。今さらだが、SL列車というのは外から見る、撮影するほうが感激も多いようだ。

篠目で、かつての給水塔の遺構の横を過ぎる。1922年に建てられ、1973年に山口線からSLが引退するまで使用されたものである。これは車内から見るより、外から一緒の写真にしたほうが映えるだろうな。

仁保から宮野にかけて少し山越えがあり、山口の市街地に入る。ここまで来れば新山口も近く、2時間の車内もあっという間に過ぎた感じがする。17時30分、新山口に到着。

「SLやまぐち号」はこの後引き揚げ作業に入る。その作業を見物しようという人がホームの端に集まる。客車はディーゼル機関車のDE10が牽引する。その連結風景を見て、まずは客車が回送される。

その一方で、C57 1号機がいつの間にか隣の線路に移っていた。これも後退して車庫に引き揚げていく。これで一連のイベントが終わり、それと共にこの旅もそろそろ終わりだなという思いが込み上げてきた。

これから新山口駅の自由通路を伝って、新幹線に乗る。往路がフェリー利用だったから大きな意味での「循環旅行」だが、いよいよこの旅最後の移動である・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~津和野に寄り道

2020年08月30日 | 中国観音霊場

8月16日、午後からは山口線に乗車する。まずは益田13時06分発の特急「スーパーおき3号」に乗る。山口線の益田側の鈍行の本数が少なく、津和野までは特急で移動する。「スーパーおき3号」は鳥取から新山口まで5時間以上かけて走る。在来線特急としては足の長い列車だ。

それに30分ほど乗車する。前日からの日本海とはうってかわって山村の景色となる。高津川をさかのぼるように走る。

途中、日原に停車した後、13時37分に津和野に到着。ここで途中下車して、次は15時45分発の「SLやまぐち号」に乗る。側線には「SLやまぐち号」用の客車が停まっていて、出番を待っていた。それまでの2時間ほどで津和野をぶらつくことにする。

とはいうものの、この暑さである。森鴎外の記念館や太鼓谷稲成神社はちょっと遠いので、殿町通りまで歩いて行くことにする。まずは駅前に展示されているSLに出会う。この日「SLやまぐち号」を牽引するC57 1号機は、津和野駅に入る手前の転車台で出番待ちだった。

少し歩くと、津和野日本遺産センターという建物に出会う。津和野町は、町並みや伝統行事、自然景観を守り伝えているとして、2015年に日本遺産に認定された。その元となった「津和野百景図」が紹介されている。

「津和野百景図」は、津和野の最後の藩主だった亀井茲監(これみ)に仕えた栗本里治の手による。津和野藩内を回り、殿様に仕えた当時の様子も思い出しながら、津和野の四季、自然、文化、食、祭事などを100枚の絵にした。その当時のいろいろなものが今も津和野の町に生きていることが、日本遺産たる所以である。見ていても、人々のいきいきした表情がうかがえるし、こういう津和野の楽しみ方もあるのだなと感心する。百景図の1枚1枚は日本遺産センターのウェブサイトでも見ることができるので、興味ある方は、ぜひ。

また、津和野に伝わる祭りの紹介コーナーもあり、まずここに来れば津和野のさまざまなことを知ることができるといっていいだろう。

酒蔵もある通りを抜けて、殿町通りの屋敷エリアに入る。

津和野といえばこの一角が有名である。水路に鯉が泳ぐ景色も涼しげ・・だが、その鯉のほうが暑苦しそうだ。何せ、どの鯉を見ても結構な体格だ。狭いエリアの中でずっと過ごし、観光客がひっきりなしに餌をやるので肥えるばかりである(体格のことを言われると私も心苦しいが)。津和野には鯉を食べる文化はないようだが、このくらいなら鯉の大トロ、中トロがあっても不思議ではない。やって来る観光客も、一言目は「大きいなあ」である。

殿町通りまで来たところで折り返し、駅前にある安野光雅美術館に入る。津和野出身のお歴々の一人に、画家の安野光雅氏がいる。その作品を紹介するスポットである。館内なら多少は涼しいだろうという思惑もあった。

展示室にはさまざまな作品が入れ替わり立ち替わり展示され、訪ねた時にまず出会ったのが「3びきのこぶた」。題名だけ聞けば童話の世界かなと思うが、これは算数、数学の本の絵である。3匹のコブタが、5軒ある家にどのように入ったかを、コブタを食べようというオオカミたちがあれこれ推測する話だが、結果として順列組み合わせ、確率論の入口の考え方を学ぶことができる。数学も身近な世界だというアピールに、安野光雅氏が一役買っている。

また、ユーモアの点では、続いての「イソップ物語」にも表れている。物語の場面を描いた絵に対して、たまたま「イソップ物語」の本を拾った無筆のキツネが息子にもっともらしいホラ話で講釈するのを描いた絵本である。その中身、落語のキャラクターにいそうだ。

他にもドイツを描いた原画もあり、図書室でも安野光雅氏が関わった書籍を見ることができる。あれこれ見るに、現代における「津和野百景図」て言ってもいいのではと思う。津和野に止まらず、世界に飛びだってはいるが。

こちらで多少涼むことができ、駅に戻る。駅舎内には「SLやまぐち号」の客がSLが来るのを暑さに耐えながら待ちわびている様子・・・。

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安倍首相、辞意表明

2020年08月29日 | ブログ

思わぬ形でこの政権が終わりを迎えることになり、驚いた。

8月28日に記者会見を開くということが発表されていたが、どうせ原稿を読むだけ、質疑にもきちんと対応しない中身のないものだろうと思っていた。それが急遽の辞意表明である。持病によるものということで、本人も実に無念という表情での会見に見えた。

あれだけ「一強」で、権力をふりかざしてさまざまな疑惑があり、このブログでも批判的に触れたところもあったが、やはり最後は一人の人間として、越えてはいけないぎりぎりのところで判断されたところ。

長きにわたり国のトップを務めたことに対しては敬意を表する。お疲れ様でした。
本来なら東京五輪を花道に、また憲法改正の道筋をつけてから引退というところが、コロナ禍で世の中が混乱している最中での不本意な退陣である。ある意味、この人もコロナ禍の「被害者」なのかもしれない。

さて、次の首相である。バファローズの監督代行を決めるのとは比べ物にならないくらい人選が難しい。9月15日までに総裁選を行うそうだが、国会議員票だけで決めるのか、全国の党員も参加するのか。私は党員ではないので参加できないが、臨時代理の意味で、次の任期満了までは菅官房長官でつなぐのが現実的かと思う。その間に、他に意欲を示す方々が自身の考えを表に出して、議論を活発にさせることかと思う。

一方の野党も合流新党だ、玉木新党だとやっているが、大丈夫だろうか。安倍首相はあなた方のお望み通り辞めますよ。その後、もしあなた方に政権を託しますとなったら、どうするのだろうか。

これでまたざわつきますな・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~第22番「多陀寺」

2020年08月28日 | 中国観音霊場

下府駅前の集落を抜けて、少し上り坂を歩く。途中に、この辺りの地勢について書かれた、地元の研究家による解説板を見る。

山門に続く石段に出る。一瞬ひるんで立ち止まるが、車道の上り坂はこの先も長く続くようだし、どうせ汗をかくのだからと、思いきって石段を上る。ちょうど山門の横に大きな楠や他の樹木が繁っていて、参詣の前に少し休む。

門の横に寺の行事や法要の予定が張り出されているが、今年はコロナ禍のために規模を縮小したり、本堂に入れる人数を制限するとある。

門をくぐる。ゆったりした造りの境内でまず目に留まったのが、屋根瓦。赤茶色の石州瓦である。石見の国の札所に入ったのだと実感する。普段見慣れた黒い瓦と比べて「焼き物」の感がある。

本堂に向かう。寺の方は朝の掃除でもしている様子だが、扉も開放されているので中に入る。もっとも、中に入ると風通しがよくなく余計にムシムシするのだが・・。ともかくお勤めだけしておこう。

多陀寺が開かれたのは平安初期のことされる。縁起によると、開山の流世上人は弘法大師空海の相弟子で、ともに唐に渡り、恵果阿闍梨から密教の教えを受けたという。流世は空海より2年早く帰国して、その時に持ち帰った観音像をこの地に祀り、加持祈祷を施して人々の信仰を集めたそうだ。「多陀」は古代サンスクリットで「如来」を意味する「タターガタ」から来ているそうで、多陀寺という名前の寺は全国唯一という。

由緒ある寺なのは確かなようだが、この流世上人というのはどういう人物なのだろうか。空海と相弟子(誰の?)で唐に渡り、空海より早く帰国したとあるが、空海ですら所定の期間より早く帰国したことで問題になったのに、流世は何もなかったのだろうか。優秀な僧ならば何らかの歴史関係の記述に出てきてもおかしくないが、「流世」で検索しても、そうした上人という記述はヒットせず、現在のいわゆる「キラキラネーム」の事例として出るばかりだ。いったい、どういう人物だったのだろうか。

寺のほうといえば、やはり空海を出している。境内で少し高い位置に大師堂があり、大師像の周りを回る形で四国八十八所のお砂踏みがある。いっそ、流世という正体のわからない上人より、弘法大師が石見に来た時にご縁があって寺が開かれたことにしたほうが通りがよいのではないかとも思う。何なら、流世とは世を忍ぶ仮の名前、実は空海その人だった・・というのでも。

また本堂の中には60体ほどの流木仏が祀られているそうだが、蒸し暑さもあって早くに本堂を出たので気づかなかった。

納経所で朱印をいただく。これで今回の札所めぐりで予定していた3ヶ所は終了。

次の第23番の神門寺は出雲市にある。このまま山陰線で東に向かい、神門寺に参詣した後で伯備線経由でその日のうちに大阪に戻ることもできただろうが、さすがにそれは次の機会である。そこまで行ったならば出雲大社にも行くことになるだろうし、他の札所も固まっている。中国地方一周を意図するなら、浜田から出雲市までつなぐ必要があるが、次の中国観音霊場めぐりは大阪から浜田まで高速バスで来て、後は山陰線でつなぐのがよさそうだ。浜田に行くのなら広島まで新幹線で行って、広島から高速バスに乗るのが最速ルートだが、乗り換えなし、また中国山地を延々とたどるバスというのも面白そうだ。

下府駅に戻る。参詣の時間が思ったより早かったので、山陰線で浜田経由益田まで行く列車には長い待ち時間である。浜田までバスで戻っても結局同じ列車に乗るのだが、その時間を浜田でつぶすのも中途半端だ(駅近くに、興味を引くようなスポットもなさそう)。

改めてバスの時刻表を見ると、下府駅口10時39分発の江津駅行きがある。江津駅に11時09分着で、江津発11時19分発の益田行きに間に合う。益田に戻る列車としていて予定していたものだ。これで、今回コマを江津まで進めておくことにする。バス、列車で涼むこともできる。

国道9号線を走る。エアコンに加えて、換気のために窓が開いていて風も入ってくる。この後に乗る山陰線の線路と並走するが、列車の姿を見ることはない。

この辺りは石見畳ヶ浦、石見海浜公園などの名勝もある。また海の反対側には県立しまね海洋館アクアスもある。こうしてバスで江津に向かってはいるが、後で振り返るに、こういうところを散策する選択肢はなかったかとも思う。もっともこの時間では後の予定からして無理だが、例えば益田を早い時間に出発して、先にこうしたところを見てから多陀寺に行くこともできたかもしれない。

浜田市から江津市に入り、国道沿いの店舗も増えてきた。秋に予定している次回の中国観音霊場めぐりでは石見から出雲に抜けるルートとなるが、宿泊を浜田にするか江津にするか迷っていて、いずれも泊まるのは初めてなので駅前の様子を見比べてみようという思いもある。江津といえば江の川、旧三江線、日本製紙の工場というのが私のイメージだが・・。

駅の手前で、新しく開発されたらしい公園の中を通る。シビックセンターというゾーンで、かつての工場跡地を再開発したところ。公園のほかに医療施設、行政施設、公営住宅が並ぶ。

バスは遅れなく、11時09分に江津駅に到着。益田行きには間に合いそうだ。駅舎の中はがらんとしているが、一角に石州瓦がぶら下げられていて、江津を訪ねた人へのメッセージが書かれている。先ほどから車窓を彩る石州瓦だが、江津はその生産の中心地ということでPRしているようだ。

ホームに向かう。ちょうど益田行きが到着して、対向列車との待ち合わせに入る。今度はキハ126の2両編成である。ワンマン運転のため、2両目の扉は途中の浜田のみ開閉するということで、2両目に陣取る。2両合わせて10人いるかどうかという客数だった。

隣の3番線はかつて三江線が発着していたホームだが、廃止されてもう2年半近くになる。先般、コロナ禍で外出の自粛が求められていた時に時刻表での机上旅行を行っていたが、その時に三江線廃止後の代替バスの時間を追いかけたことがある(その時の記事がこちら)。江津を朝出発したのはいいが、途中複数のバス会社を乗り継ぐ中でどうしても途中で数時間空いてしまうところが出るなどあり、三次に着いたのは夕方になってからのこと。さすがにそれをリアルで実行するかと言われれば考えてしまうが、何か石見の国をたどることはコースに組み入れてみたいとは思う。

先ほど走った国道9号線を見ながら、浜田に向かう。途中の波子で、アクアスに向かうらしい下車客がいる。

先ほど下車した下府駅にも停まるが、乗客はなかった。やはりこの区間内の移動は石見交通のバスが主流なのだろう。

浜田で客が入れ替わり、朝たどった区間を再度通る。海の景色は相変わらずで、同じように車窓を楽しむ。

12時30分、益田に到着。コインロッカーから荷物を取り出し、駅前のコンビニで昼食を仕入れる。これから山口線に入り、津和野を経て新山口に向かう・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~浜田から下府へ

2020年08月27日 | 中国観音霊場

長い紀行文もようやく最終日。8月16日も快晴で、また猛暑日になるとの予報が出ている。

ホテルをチェックアウトして益田駅に行く。まず乗るのは8時11分発の浜田行き。この日の行程は、浜田まで移動した後、バスで下府(しもこう)駅口まで行き、第22番の多陀寺に参詣。その後益田まで戻り、昼の特急「スーパーおき」で津和野に移動。津和野で時間が空くので町並みを散策した後に「SLやまぐち」で新山口まで南下。最後は新山口から新幹線・・・というものだ。当初は、浜田から大阪まで行く高速バスに乗ることを考えていたが、8月1日から「◯◯のはなし」とともに「SLやまぐち」の運行も再開されたことで、また山口県に戻る形にはなるが、この機会に乗ることにして指定席を買っておいた。

日曜日ということもあるのか、駅にはほとんど人の姿が見えない。浜田行きに乗ったのは私の他には地元の人らしいのが2人だけである。キハ120の単行だが、数少ないボックス席に陣取る。

益田を出ると市街地の外周を回り、前日に続いて海岸線に出る。今はこうしてワンマン仕様の小型気動車だが、30年以上前に初めて山陰線のこの区間に乗った時は、ディーゼル機関車に牽引された50系客車だった。その時は米子方面から乗車し、確か浜田から下関まで直通したと思う。ただ当時は乗りつぶし第一で、途中下車しようとか観光をしようということはほとんど考えていなかった。年月が経つと趣向も変わるもので、札所めぐりを軸にして四国一周や中国一周をすることになるとは、その時は想像しなかったことである。

時折砂浜の広がる海岸に出る。ところどころは海水浴場にもなっているのだろうが、泳ぐ人の姿はほとんど見えない。今年の夏は新型コロナウイルスの影響で海水浴場を開かないところも多いという。関西では最もメジャーといえる須磨の海水浴場が閉鎖されたが、ニュースによると、開いた海水浴場に多くの人が集まって密になったとか、閉鎖されたといっても立入禁止というわけではないので勝手に泳ぐ人が出て問題になっているとか、いろいろ言われている。ちなみに、比較的感染者数が少ない山陰の鳥取、島根両県を見ると、海水浴場の「開設率」は島根が9割、鳥取で3割と、隣り合った県だが率に開きがあるという。この差は関西からの距離、アクセスの差が関係しているそうだ。

三保三隅~折居の山陰線の撮影の名所を過ぎ、折尾に到着。駅舎を出るとすぐに海水浴場という駅である。ただ車窓から見る限りは泳ぐ姿はほとんど見えない。

益田から乗ってきた私以外の2人の客もいつしか下車してしまい、かと言って浜田に行くのに乗って来る客もおらず、車内の客は私一人という状態で浜田の港町に差し掛かる。9時07分、終点の浜田に到着する。

これから目指す多陀寺は山陰線で浜田から1駅先の下府が最寄駅で、駅から徒歩10~15分とある。しかし山陰線の浜田から先の列車の接続は悪く、一方で下府からは11時台に浜田を経て益田まで直通する列車がある。帰りにこれに乗ることも頭には入れておくが、浜田駅から下府駅口を経て江津駅まで行く石見交通の路線バスが、日中は40分に1本の割合で走っている。ここは鉄道だけにこだわらず路線バスで行くことにする。時刻表を見ると次の便は9時20分発ということでちょうどよい。

周布から江津まで走る路線、国道9号線を走り、山陰線ともモロに並行しているが、途中あちこちにバス停があるし、本数もそれなりにあるので地元の人は日常的にバス利用だろう。

一つ峠を越える。その途中、「次は、多陀寺口です」と案内が流れる。多陀寺へは下府駅から徒歩と予定していたところにこの案内である。一瞬、バスを降りるべきか迷ったが、ここで降りると山の中を歩かされるのではないかという嫌な予感がした。ここは通過して、予定通り下府駅口で降りる。多陀寺に向かう前に、橋の向こうに見える下府駅をのぞいてみる。

下府(しもこう)というのも難読駅の一つではないかと思う。「府」は「国府」で、これを「こう」と読む事例を知っているので、まあ、そう読めるなと納得する。地名にも国分町とか、この後に国分寺というバス停にも出会ったから、かつての石見の国府がこの辺りにあったことがうかがえる。

多陀寺は、そうした国府に昔からある寺なのかなと想像しつつ、駅から歩く・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~益田にて「整う」

2020年08月26日 | 中国観音霊場

東萩16時58分発の益田行きに乗る。キハ40の単行だが、東萩で下車する人も多く、空いた海側のボックス席を独り占めすることができた。先ほど乗った「○○のはなし」のような観光列車もよいが、原形そのままの車両でローカル線を行くのもよいものである。今回はさまざまな列車の乗り比べの面が強いが、昔ながらのキハ40の単行もその中に含まれる。

暑い中、簡易の冷房のほかに扇風機もフル稼働している。また前のボックス席に座っていた客が(換気の意味もあってか)上側の窓を全開にしていたので、気動車の走行とともに涼しい風が入ってくる。先ほどは萩の町を回っていてノックアウト寸前だったが、涼しい車内に戻って回復した気分である。

列車の本数が少ないのはこれから県境に差し掛かるからだろう。越ヶ浜、長門大井と、海沿いの集落と山間部の景色が繰り返し広がる。日の長い季節ではあるがそろそろ太陽も沈みかけるところ。

奈古、木与、宇田郷、須佐と、旅情をそそる駅名が続く。この辺りは山陰本線でも最後に開通した区間で、この中でも最後となった宇田郷~須佐間が開通したのが1933年のことである。東と西から少しずつ線路を延ばしてようやく合流地点となったところである。人家は少ないが、海に近いところを走るので眺めはよい。先ほどの暑さから癒される気分である。

その宇田郷から須佐にかけての途中に、惣郷川橋梁というのがある。これが山陰本線最後の開通区間にかかる構造物の一つで1932年に完成した鉄道橋である。波の浸食や潮風による塩害を避けるために、鋼ではなく鉄筋コンクリートで建てられたもの。また鉄橋の基礎も海岸から底上げして築かれている。餘部鉄橋ほどの知名度はないが、山陰本線の車窓を彩る橋梁で、撮影の名所である。特に、海に沈む夕日を背に列車が走る姿が風景画のようとされている。隣の集落からも遠くのコンクリート橋を認めることができ、通過する時は前のボックス席に座っていた人が立ち上がって、全開にしていた窓越しにカメラを向ける。この時、沿線から撮影した人がいたかどうかはわからなかったが、空もよく晴れていたし、気動車の朱色も夕日によく映えていたのではないかと思う。

飯浦から島根県に入る。中国観音霊場めぐりもいよいよ4つ目の県となる。益田の1駅手前の戸田小浜には駅舎の横に鳥居が建ち、柿本人麻呂の生誕地であるとの案内がある。駅から少し行ったところに、生誕地とされる場所に建つ戸田柿本神社というのがあるそうだ。この柿本人麻呂というのも謎の多い人物で、飛鳥時代から奈良時代にかけて、歌をもって宮中に仕えたことは確かで、多くの名歌は残されているものの、出生地や死没地については不明とされている。その中で、亡くなった地として有力なのも石見国とされている。亡くなった場所や死因もはっきりわかっていないが、亡くなったとされる場所には高津柿本神社というのが建っているそうだ。

戸田小浜から益田までも海岸線に近く、駅間も結構長い。そして18時10分、終点の益田に到着。駅のホームには柿本人麻呂の像も出迎えてくれる。この日はここまでで、無事に翌16日は浜田の多陀寺を訪ねた後に益田に戻り、山口線で新山口まで出るという見通しが立った。

益田に泊まるのは初めてで、この日選んだのは、駅から2分ほど歩いた「マスコスホテル益田温泉」。2019年にオープンしたばかりの新しいホテルである。どこかのチェーンホテルではなく、ウェブサイトによると、「地域に寄り添いながら、単なる宿泊施設にとどまらず、新しいカルチャーを発信する拠点となることを目的とした、島根県益田市発のライフスタイルホテルであると同時に、空間デザインやインテリア、器、ファブリックなどすべてにおいて、窯元や家具職人、縫製メーカーなどの地場産業と共同で開発することにこだわりぬいた、新感覚の『クラフトホテル』です」とある。単なるビジネスホテルとは一線を画しているようだし、また地元密着をアピールしているのもいいだろう。

実際に、館内で着用する浴衣も石見で縫製されたものだし、レストランの食器も石見焼や萩焼を多く使用しているとある。

今回の宿泊にあたり、GoToキャンペーンの恩恵を受けることにした。こちらについては宿泊予約サイトからの申し込み時に、35%引きのクーポン利用を選択することで、割引を受けた後の料金で現地決済ができた。もちろん、チェックイン時の検温はあったし、館内でのマスク着用についてはいたるところで厳しめに表示されていた。

部屋に入る。今回はシングルルームより少しだけ値が張る「旅館スタイル」というのを選んだ。6畳ほどのスペースにすでに布団が敷かれていて、床の間のようなスペースがデスク代わりである。大画面テレビが壁に掛けられていて、寝転がりながらテレビを見ることができる。島根県は民放テレビ局が少ない(テレビ朝日、テレビ東京系列がない)が、ホテルじたいが新しい分最新型のテレビが入っていて、YouTube、AbemaTV、hulu、NetFlixなどが配信されている。さらに、Wi-fiを経由してパソコン画面をテレビ画面に表示させることもできる。今頃のネット環境なら当たり前なのだろうが、ホテルでこうした対応に出会うのはなかなかないだろう。

ホテルの売りの一つが天然温泉。露天風呂はないが、浴槽も大きく取られていて快適である。海の車窓やこの湯船、東萩に泊まらず益田までコマを進めてよかった。

さて食事だが、駅前に回転寿司店があったり、道を一本入ると地元ならではの店も並ぶところだが、この日は結局安全牌に走るわけではないが、駅前の「さかなや道場」に落ち着く。先ほどから回復したとはいえ、食欲が万全という感じでもなかったので、手堅く済ませることにした。前夜が肉だったこともあり、魚メインがいいだろう。店はきれいだし、一人でも4人掛けのテーブルでゆったりできる。

山陰ということで白イカの刺身と、「さかなや道場」として九州の応援フェアをやっているとあり、その中で大分産のかぼす香るヒラマサが本日のおすすめ手書きメニューにも書かれていたので注文する。これは柑橘類を餌に混ぜて養殖した一品である。瀬戸内近辺ではすだち、オリーブ、みかん、かぼすと、さまざまな柑橘類と養殖魚のコラボがあり、今や地域ブランドになっている。

そこに加わったのが岩ガキ。隠岐の島のブランド「春香」である。名前にもあるように3~5月の春が旬というが、まあ、夏でも美味しく食べられるようにそこは上手くやっているのだろう。濃厚な味を楽しむことができた。ビールのジョッキも気持ちよく空いた。

部屋に戻り、どうせテレビを見ても面白い番組はないので、YouTubeをテレビ画面で見てくつろぐ。翌朝の目覚ましアラームもテレビ画面で設定する(部屋には時計がない)。

・・・翌16日朝、窓が明るくなって目覚める。

朝風呂に入った後、朝食会場のレストランに向かう。普段はバイキング形式だそうだが、こういう状況のため、メインのおかずはあらかじめパックに詰められている。朝からしっかり食べようと、ご飯とパン(サンド)のダブルで。

前夜からリフレッシュできて、益田で「整った」といえる。また益田で泊まる機会があれば利用したいなと思ったホテルを後にして、駅に向かう。この駅には昼にまた戻るので大きなバッグはコインロッカーに預けて、まずは浜田に向かうことにする・・・。

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河井夫妻?どうせ司法では有罪にならないのだから、いっそ私刑してしまえば?

2020年08月25日 | ブログ

検察がいくら頑張っても、この夫妻はどうせ無罪放免になるのでしょうね。

ならば、無罪放免でも仕方ないのだが、このままで世論が納得するのかね?

無罪放免でシャバに出てきてもいいけど、どう見ても道義に反することをしていながら、いけしゃあしゃあと権力の座に居座っている輩。

これ、私刑にできませんかね。

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第14回中国観音霊場めぐり~第21番「観音院」

2020年08月25日 | 中国観音霊場

第20番の大照院の参詣を終え、玉江方面に向かう。ちょうど駅に出てきた。地図を見る限りでは次の観音院も程近いようだ。

小型漁船が停泊するが入江に差し掛かる。入江を挟んだ高台に変わった屋根の建物が見える。あれが目指す観音院のようだ。

港町の昔ながらの集落という風情の町並みに入ると、丘を削ったような地形に石段が現れる。ここが観音院だ。数十段とはいえ、ここに来て急な石段かと力を入れて上る。これだけでまた汗が出てくる。

そして観音堂の前に来る。ここで塀越しに外を見ると、橋本川の河口に架かる橋、指月山、萩の港町の景色が見える。この景色、萩の穴場ではないかと思う。

観音院が開かれたのは戦国時代、永禄年間とされる。本尊の聖観音像は大内義隆の念持仏だったとされている。毛利氏が萩に城下町を築いてからは、「玉江観音」として海上安全の護り観音として人々の信仰を集めたという。中国観音霊場のウェブサイトでの説明文に「大道無門に境内を開放していた」ので、幕末には志士たちが集まって激論を繰り広げていたとある。城を向かいにして激論というのも活気ありそうだが、気になるのは「大道無門」という言葉。

観音院は臨済宗の寺なので禅に関する言葉なのかなと調べると、宋の僧侶の言葉だそうで、大きな道には門がなく誰でも行き来できるのと同じように、仏の悟りへの道は広く開かれていてどこからでも入ることができるという意味。転じて、何でも受け入れる懐の深さという意味だそうだ。長州藩の保守勢力から抜け出して、志士たちが新しい時代に向けて動き出す舞台にもなったんだ・・というアピールも込められているのかな。

ここでお勤めとして、一段下がったところの本堂に向かう。こちらはお堂というより、どこか田舎のお宅にお邪魔したかのような佇まいである。

ちょうど寺の方の姿が見えたので、朱印をお願いする。しばらく待って納経帳を返してもらう時に、「これをどうぞ」と折り紙の包みをいただく。中は飴ちゃん。

萩の2ヶ所を回り、中国観音霊場の山口県の札所は終わりになった。回ってみて、大内氏、毛利氏と関係が深く、禅宗系の寺が多かった印象である。そのためか、本堂その他のお堂はシンプルな造りが多かったように思う。その中で、寺を通して山口県を回るという、一味違った観光、町歩きもできた。萩を大照院と観音院を軸に回るというのも、なかなか。これで翌日は浜田の多陀寺に行くことも可能だ。アクセスが難しい日本海側、コマをもう少し進めることにしよう。

この後は城下町を回って東萩駅に戻ることにする。ただ、目的の札所を回り終えてホッとしたのか、暑さがこたえるようになった。その中で橋本川を渡り、萩城跡に向かう。毛利輝元の像にも出会う。ただ、外から石垣だけ見れば十分かなと、中には入らずにそのまま自転車でお堀端を回る。

萩博物館というのがある。萩の歴史について紹介するスポットで、比較的新しくできたところなので(吉田松陰歴史館と異なり)冷房も効いているだろう。ただ、そこに入るのもしんどく、手前の木陰で座り込む。今思えばこの時点で熱中症の手前、下手すれば初期症状が来ていたかもしれない。四国八十八所めぐりで暑かった日のことを思い出すと、似たような状態だった。

次の列車まで時間があり、もう少し萩の町を回るだけの時間的余裕はあるが、身体のほうが参っている。博物館はパスして、城下町エリアも流すくらいにする。30年以上前に家族で来た時よりは、間違いなく暑さが厳しくなっているぞと言い聞かせながら・・。

何とか倒れることなくレンタサイクルを返却して、東萩駅のベンチで休憩する。駅舎内は風通しがあまりよくなく、早めにホームに出てベンチに座る。ちょうど日陰になっていて、時折風がそよぐ。当初の予定通り東萩宿泊にしていれば、今頃はシャワーでも浴びてベッドで休憩かなというところだが、この先もう1本列車に乗って益田まで行くことになる。

16時58分発の益田行きが入って来た・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~第20番「大照院」

2020年08月24日 | 中国観音霊場

レンタサイクルで東萩駅から市街地の東側から南側へ走り、萩駅に到着する。

萩の駅舎は1925年に建てられた。その後は駅の無人化や建物の老朽化で、取り壊しの話も出ていた。それが登録有形文化財に登録され、修復工事が施され、現在は当時の姿を残すレトロな建物として観光スポットにもなっている。

その正面に銅像が建つ。萩出身で、「長州ファイブ」の一人である井上勝の像である。その中で「日本の鉄道の父」と呼ばれている。日本で最初の鉄道となった新橋~横浜間をはじめ、明治時代に主要な幹線の建設を手掛け、今の鉄道網の基礎を築いた人物である。

駅舎内は鉄道の展示物や萩の自然に関するミニ資料館となっている。それを見ているとちょうど線路をカラカラという音が聞こえてくる。東萩方面から気動車がやって来た。14時29分発の長門市行きである。

ここで小休止という形で、大照院を目指す。萩駅から1キロほど進んで大照院踏切を渡る。道端に灯籠が並ぶ細い参道を行くと、突き当たりに山門が見える。ようやく到着した。

正面には大ぶりな鐘楼門が建つ。もっともこれ自体をくぐることはできず、参拝順路は横からというのでそれに沿って進む。

横の入口に拝観受付があるが、新型コロナウイルスの影響で、拝観受付閉鎖という表示がある。拝観料200円は箱の中に入れるようにとある。境内に入り、本堂があるが障子扉が閉まっていて、開けてよいものやら迷う。こういう時は中に入れないのだろうと、本堂の前でお勤めとする。マスクは先ほどからずっと外しているのだがそれでも暑い。

大照院は元々平安時代、観音寺という寺がこの地にあったのだが、鎌倉時代に歓喜寺として再興された。後に荒廃したが、長州藩の二代藩主である毛利綱広が、父で初代藩主の秀就の菩提寺として再建し、秀就の法号から大照院と名付けられた。また建物が新しく見えるのは、数年前に大改修を終えたばかりのためという。

本尊は釈迦如来、他には重要文化財として赤童子像があるが、観音は・・?一応、中国観音霊場の一つだからどこかにはあると思うが、他に大照院について紹介するウェブサイトなどたどっても、それについて触れる記事が見当たらない。まあ、釈迦如来の脇に観音像もあるのだろう。

奥の墓所に向かう。前の記事で東光寺を訪ねた時、長州藩の毛利家の墓所が東光寺と大照院の2ヶ所に分かれていることについて触れた。こちら大照院は初代の秀就、二代の綱広をはじめ、四代から十二代までの偶数の藩主が葬られている。秀就の墓所だけ別格のように独立して建てられ、残りはまとまっているのだが、東光寺と同じように多くの灯籠で埋め尽くされている。

なお、毛利家の菩提を弔うお盆の行事として万灯会が行われており、萩の夏の風物詩となっている。8月13日にはここ大照院で迎え火、15日には東光寺で送り火として、それぞれの石灯籠に火をともすもの。しかし今年は新型コロナウイルスのために万灯会は中止となった。もし15日夜に萩に宿泊なら東光寺まで見物に行ってもよかったところだが、中止なら仕方ない。それも、宿泊を益田にした一因である。

これだけなら東光寺と同じように萩の観光名所としてもう少し知られていそうなものだが、他に訪ねる人もなく静かなものである。あちらは松下村塾や松陰神社などにも近いということもあるのだろうか。

この後庫裡にて朱印をいただく。ようやくこの旅で初めての札所めぐりである。

次に向かうのは玉江にある観音院。橋本川の河口が近くなり、川幅も広くなる。その先には指月山というところ・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~萩の町レンタサイクルめぐり

2020年08月23日 | 中国観音霊場

「◯◯のはなし」に乗ってやって来た東萩。これから中国観音霊場めぐりとなるが、観光地としても有名な城下町ということで、その辺りも一緒に回ろうと思う。実は萩の観光というのは私が中学生の時、家族旅行で来て以来だから30年以上ぶりのことである。その時は親が運転するクルマで秋吉台や青海島などを回っており、鉄道には乗っていない。ちょうど鉄道の乗りつぶしに興味を持ち始めた時ということもあって、萩に泊まった時に東萩と萩の駅舎を見に行った。

さて、これからレンタサイクルということで駅前の店をのぞく。他にも「◯◯のはなし」で来た客もいて、折り返し便は14時13分発とあるから1時間あまり城下町エリアでも散策するのがちょうどよさそうだ。

電動自転車と普通自転車があり、それほど坂道を行くわけでもなかろうと普通自転車を選択。地図をもらう時に「どちらへ行かれる?」と訊かれたので、大照院と観音院に行くと答えると「へぇ!」と驚かれた。これにプラスして松陰神社、松下村塾くらいは行っておこうと言うと、観光地図にボールペンで道順を書き、松陰神社、松下村塾、そして東光寺のエリアで1時間、あとは川沿いに走って萩駅を目指す。萩駅から大照院までは比較的近く、「観音院はこの辺ですわ」とボールペンで印がつく。そこまで行くと萩城跡も近く、最後は城下町エリアを回って市街地一周する形になる。次の列車まで4時間あれば大丈夫と踏んで出発する。

歩くことを思えば自転車は移動が楽。しかし猛暑日の炎天下の中である。外なのだからとマスクは取り、代わりに帽子をかぶる。それでも汗は次々に出てくる。しばらくペダルをこいで、まずは松陰神社に到着。

その境内にあるのが松下村塾。山口県で「先生」と言えば吉田松陰で、当時の建物が保存されている。2015年には明治の近代化遺産の一つとして世界遺産にも認定された。実際に松陰が塾生たちの指導にあたったのはわずか2年ほどなのだが、その門下生たちは尊王攘夷をかかげて活動した者や、倒幕、明治新政府に大きな役割を果たした者が多く出ている。

奥に松陰神社の拝殿がある。明治時代、松陰の生家である杉家の人たちが松陰の遺品をご神体として祀ったのが由来で、後に伊藤博文らの手により土蔵造りの社殿が建てられた。現在の社殿は戦後に建てられたもので、かつての土蔵造りの社殿は松下村塾の門下生たちを祀る松門神社となった。師弟がこうして神となって祀られているわけだが、私としてはあまり好みではない。

2018年に「学びの道」というのが新たに設けられ、松陰の語録を記したポールが立てられている。

吉田松陰歴史館がある。松陰の生涯を蝋人形の渾身の作品で紹介するというもので、中に入ってみる。

70体ほどの人形で20の場面が繰り広げられる。それはいいとして・・・古い建物のために冷房もなく、非常に蒸し暑い。扇風機があちこちで回っているが、追いつけるものではない。

最後のコーナーに、山口県出身の総理大臣の蝋人形が並んでいる。総理大臣の出身地がどこかというのは現在の公式見解では、戦前は出生地、戦後は選挙区で分けるという。それはともかくとして、まずはどっかりと座っているのが伊藤博文と山県有朋という長州閥の元老たち。

それと向かい合っているのが、桂太郎、寺内正毅、田中義一(ここまでが戦前)、そして岸信介、佐藤栄作の兄弟である。で、いずれはここにあの男も加わるのだろう。憲政史上最長、また連続在任日数史上最長などの肩書をつけて、デカデカと・・・。まあ、松下村塾だって安倍のごり押しで世界遺産に登録されたところ。何なら、松陰神社の横に「安倍神社」でも建てて神として崇めたてまつればいかがかな。

外に出たが、今思えばこの歴史館の蒸し風呂で体力がだいぶ奪われたのかもしれない。

この後は少し上りになるが、奥にある東光寺に向かう。この後大照院に向かうのであれば、この東光寺にも行っておく必要がある。

東光寺は江戸時代の元禄年間、長州(萩)藩三代藩主の毛利吉就が開いた黄檗宗の寺院である。開くに当たっては京都の黄檗山萬福寺に範を求めて広大な敷地に伽藍を建立した。後に毛利氏の菩提寺となる。まずはベンガラ塗の総門をくぐり、拝観料を納めて山門に向かう。こちらは江戸後期の文化年間に建てられたものという。

緩やかな上り坂を進み、正面には堂々とした建物が鎮座する。大雄宝殿である。黄檗宗では、釈迦如来がいらっしゃるところという意味で、本堂を指す。黄檗宗の寺というのもなかなか珍しく、建物のところどころに中国の香りを感じるところである。

その東光寺で有名なのは、奥にある毛利家墓所。長州藩三代藩主の吉就以降、五代、七代、九代、十一代と奇数代の藩主とその夫人の墓がある。これに対して、初代秀就と、二代、四代、六代、八代、十代、十二代の偶数代の藩主の墓があるのが、この後行く大照院である。ちなみに、十三代以降は前回の中国観音霊場めぐりで訪ねた山口の香山公園にある。

家臣たちが寄進したという石灯籠がずらりと並び、荘厳な景色である。毛利氏のせめてもの威信とでもいおうか。なお、奇数代と偶数代で寺を分けているのは、中国古来の昭穆制(しょうぼくせい)にならったのではないかと言われている。太祖を中心に置き、太祖を背にして左側に偶数代(昭)、右側に奇襲代(穆)の廟を交互に並べたものである。レンタサイクル店の親父は、「お父さんとは離れ離れで、おじいちゃんと孫が一緒に祀られるんですね」と表現していたが・・。

ここから萩の町の三角州を形成する松本川から橋本川沿いにかけて走る。この辺りが結構きつかったが、まだ大照院にもたどり着いていない。とりあえずは萩駅を目指して自転車を走らせる・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~「◯◯のはなし」で山陰線をたどる話

2020年08月22日 | 中国観音霊場

下関を出発した「○○のはなし」。下関からの乗客もあり、全体では8割以上の席が埋まったように見える。この夏出かけることについてはさまざまな声があがっていたが、行く人は行くものである。観光客らしい人もいれば、その筋らしい出で立ちの人もいる。

今回私が乗車したのは1号車の1人席。指定席を購入したのは結構早かったので、みどりの窓口でも「どの席にしますか?」と訊かれた。駅の係員は座席の見取り図が入った手元資料を見せてくれて「こんな感じです」という。2号車の洋風客室は2人がけソファーシートがずらりと並ぶが、誰かと隣り合わせになるのも何だか気まずい。その点、1号車の和風客室は1人掛けのカウンター席がある。一人旅ならこのカウンター席が一番適しているだろう。ちょうど海の方向を向いており、改造されて窓も1枚窓になっている。下関発車時点でこの1人席は満席になっていた。

先ほどが車内にはずっとBGMが流れている。オリジナルのテーマソングで、山口県を中心に活動しているシンガーソングライターの原田侑子さんの「はなしをしよう」という曲。原田さんには実際に列車に乗ってもらい、見た景色や感じた思いを曲に込めてもらったという。

車掌から列車の案内がいろいろある。列車のコンセプトについても説明する。続いて2号車のカウンターからも案内がある。新型コロナウイルス対策ということで車内での飲食物の販売は中止で、また普段は車内イベントも行うそうなのだがこれも取りやめという。だから純粋に「乗る」ことに徹する。まあ、私としてはこれで東萩間で一気に行けるだけでよい。テーブルの上に時刻表を取り出し、列車がどの辺りを走っているか見ながら進むことにする。

幡生でしばらく停車した後、山陰線に入る。下関近郊の住宅地を抜け、国道191号線と並走して進む。やがて日本海の響灘が近づく。中国地方を回る旅も瀬戸内から日本海へ、いよいよ後半のスタートである。この日は雲がほとんどない晴天で(その分余計に暑く感じるのだが)、海も鮮やかに見える。

少し山がちな区間となり、車内放送があって梅ヶ峠(うめがとう)駅を通過する。梅ヶ峠は本州最西端の駅(東経130度54分)ということで、PRの看板も出ている。九州に続いているということで最西端は下関かなというイメージがあるだけに、梅ヶ峠が本州最西端の駅と言われてもなかなかピンと来ない。ちなみに、土地としての本州最西端はここからクルマで20分ほどの毘沙ノ鼻という。

最初の停車駅は川棚温泉。もっとも、ここでの乗降はなかった。午前中に温泉に向かう人というのもいないだろう。もしろ、帰りの東萩発の便に乗れば川棚温泉には17時03分と手頃な時間に着くことができる。

次の小串は下関近郊の北端にあり、山陰線の下関からの列車の半数以上が小串までの運転となっている。

小串から次の湯玉の間で、響灘を見る絶好のスポットということで、列車はいったん停車する。遠くに男島、女島を望み、海面も透き通って見える。こういうところが観光列車ならではのサービスである。山側のシートに座っていた客も、海側のドアやフリースペースまで移動してカメラやスマホを向ける。

次のビュースポットは、宇賀本郷から長門二見にかけての区間。ここには二見夫婦岩というのがある。ビュースポットにしてはかなり手前に停まるようで、遠目に何やら岩があるのを見つける。古くからの漁師町で、二見夫婦岩は神聖な岩として信仰されているという。また夕日のスポットでもある。地名が「二見」なのは、やはり伊勢の二見浦にあやかっているのだろう。

ここで再び内陸に入り、滝部、そして難読の特牛(こっとい)を通る。この辺りは角島への玄関駅でもある。特牛ではわざわざホームに見物で出迎える人の姿も見える。

角島にかかる角島大橋は、この中国観音霊場めぐりの途中で訪ねることを検討していたスポットである。2000年に架けられた橋だが、山口県の新たな観光名所として、そしてクルマのCMのロケ地の舞台になることも多い。周辺の海が白い砂地で、海水も澄んでいることから、海水の色合いの微妙な変化が見られるという。この日は晴天とあって、海の色もさぞ鮮やかに見られることだろう。

阿川に到着。阿川駅はごく普通の無人駅だったが、2020年3月、新しく商業施設「Agawa」がオープンしたという。ガラス張りのカフェやオープンスペースを備えており、鉄道だけでなく地元の人たちの立ち寄りスポットになっているようだ。ローカル線の駅も生まれ変わるものである。列車が停車するとホームから多くの人が手を振って出迎えてくれる。東萩行きはそのまますぐに発車するが、帰りの新下関行きはそちら側のホームに停まることもあってか、5分ほど停車するという。

また海に出る。下関市から長門市に入ったところで、今度は油谷湾沿いに走る。対岸にあるのは向津具(むかつく)半島。この一角にある二尊院には楊貴妃の墓と伝えられる五輪の塔がある。楊貴妃は安禄山の反乱の時に長安から逃れようとして殺されたとされているが、実は殺されておらず、船で日本まで逃れてきたという伝説がある。その楊貴妃が流れ着いたのがこの油谷で、流れ着いた時には息も絶え絶えで、土地の人の手当てもむなしくここで亡くなったという。うーん、どちらのほうがよかったのかな。伝説の続きでは、玄宗皇帝の夢枕に楊貴妃が現れ、自分が日本で亡くなったことを告げる。これを受けた玄宗皇帝が日本に仏像や宝塔を送り、さまざまな経緯があって楊貴妃の墓がある寺に祀られた。阿弥陀如来と釈迦如来の2体があるので、寺の名前も二尊院になったという。

人丸に到着。向津具半島のつけ根になるこの辺りが、安倍首相の父方の家のルーツである。

最近読んだ本の中に、ジャーナリストの青木理の『安倍三代』というルポ作品がある。この「三代」というのは、安倍首相の母方の祖父・岸信介ではなく、あくまで父方の祖父・安倍寛(かん)にスポットを当てている。安倍家は江戸時代にはこの一帯の庄屋で、酒や醤油の醸造も行っていた。作品内で筆者はたびたびこの地を訪ね、安倍寛、そしてその子の晋太郎について、当時の様子を知る人たちへのインタビューを重ねている。そして、人格者で、情もあり立派だった二人に比べて「三代目」の晋三と来たら・・・という流れで話が進んでいく。作品は数年前に出されたもので、根っこのテーマは世襲政治に対する批判なのだが、今まさに直面しているコロナ禍をはじめとした問題に対する政治家の発言や行動を見ていると、そのデメリットの部分がもろにあぶりだされているといってもよく、読んでいてため息が出る一冊だった。その最たるものが現在の首相ということで・・・。

近くには安倍家の墓があり、安倍首相は例年お盆の時期には墓参りと地元長門市、下関市の支援者への挨拶回りをするそうだ。ひょっとしたらニアミスしていたかもしれない。しかし今年はこういう状況のためにゴルフやお国入りは断念し、だから代わりに病院に検査に行くと健康不安説、政局にも影響?・・とボロカスである。これも「安倍三代」の末路なのだろうか。

その人丸と次の長門古市が、元乃隅稲成神社への最寄り駅である。この神社に行けなくなったことは前にも触れた。また何かの縁で訪ねることができれば。

黄波戸からも入り江の景色である。今度は対岸に青海島を見る。海の色が美しく、日本海という感じがしない。

長門市に到着。向かいのホームでは歓迎の旗を持った駅員たちがお出迎えである。東萩行きはこのまま山陰線を走るが、帰りの新下関行きではいったん仙崎支線に立ち寄り、仙崎で30分停車というのがある。30分では青海島には渡れないが、まあ駅舎を見たり土産物を買うくらいはできるだろう。この列車、東萩から乗ったほうがより楽しめそうだ。

この長門市から東萩までが難関だったが、「◯◯のはなし」のおかげでいい時間帯で抜けることができる。この区間に乗るのも久しぶりである。飯井、三見、玉江にかけての海岸を見た後で、萩市内に入る。この辺りは後ほどレンタサイクルでも来るところなので、車窓の様子も気になる。

線路は玉江から萩の市街地の外周を回るように走り、萩に到着。ここでは駅に隣接する観光協会の人たちが出迎える。昔訪ねた時は木造の古びた駅舎の印象だったが、最近観光用に改修も行われたようだ。

そのまま市街地の外周を抜けて、12時52分に終点の東萩に到着。下関から2時間半というのも乗り鉄としてはちょうどいい時間だが、車窓の見どころも多く、退屈することがなかった。

この次に乗るのは16時58分発の益田行きを予定していて、それまで4時間ある。4時間あれば萩市内の2ヶ所の参詣、そして市内見物には十分かと思う。ここでは観光ループバスに乗らず、レンタサイクルにて自分のペースで移動とする。この後、午後の厳しい暑さにさらされることになるが、それは次の話・・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~「◯◯のはなし」に乗る話

2020年08月21日 | 中国観音霊場
中国観音霊場めぐり記事の途中だが、バファローズの西村監督が辞任(事実上の解任)というニュースを目にして驚いた。発表されたのは20日の試合終了後だったが、早くに寝ていたのでそれを知ったのは21日朝のこと。
 
まあ、この成績なら致し方なく、シーズン終了を待たずに途中のタイミングでの辞任となったのは、西村監督も観念したのだろう。経緯については多くのバファローズファンの方々が触れているので省くが、現役時代「走る将軍」と呼ばれていた西村監督としては、打撃が非力なぶん走力を活かすことに活路を開こうとしたが、結局機能しなかった形だ。今のパ・リーグの野球についていけなかったことだろう。采配や選手起用については多くの批判もあるが、選手にももっと奮起してほしかった。
 
あたかも20日夜に急に決まったかのようだが、水面下ではコーチの入れ替えも含めて、話は進んでいたのだろう。このブログの前の記事で触れたホークス戦の敗戦の時には、もう秒読みになっていたのだろう。
 
まずはお疲れ様でした。後任は中嶋監督代行ということで、これから少しでもプラスになる材料を増やしてほしいものである。
 
・・・話を中国観音霊場めぐりに戻る。
 
8月15日、関門トンネルを門司側からくぐり、下関に到着。いよいよ、中国観音霊場に向けての移動である。

この日訪ねるのは、萩市内にある第20番の大照院と、第21番の観音院である。最寄り駅でいえば大照院が萩、観音院が一つ長門市寄りの玉江となるが、山陰線でそれぞれの駅で降りて回るには列車本数が少なすぎる。萩市内は観光ループバスもあり、これを活用する手もあるが、はたして効率よく利用できるだろうか。いずれにしても、市の中心駅である東萩をベースにしたほうがよさそうだ。

今回の行程を考える際にあれこれ組み合わせてみるが、それにしても、山陰線のダイヤが厳しい。長門市から東萩方面に向かう列車で9時39分発というのがあるが、この列車は厚狭から美祢線経由で長門市から山陰線に入る。できれば下関から山陰線経由で行きたいということで時刻表を見ると下関7時27分発の列車があるが、これは長門市9時46分着とタイミングが悪い。東萩への列車は7分前に出たばかりで、次は14時50分発までないというえげつない間隔。ならばそれに間に合うように下関を出るとなると、朝5時台の出発となる。小倉に泊まっている場合ではない。

下関から長門市までは山陰線経由で行きたい、札所は萩に2ヶ所ある、また萩に行くのなら松下村塾などの歴史スポットは外せない・・などと考えると、15日は東萩までの移動にとどめ、東萩駅前で宿泊。翌日の朝から萩市内を回ろうかということにする。萩市内を回るなら観光ループバスもあるが、レンタサイクルも定番である。ということで何となくこういうルートを決めていた。

・・7月下旬、そこに転機が訪れた。観光列車「◯◯のはなし」、「SLやまぐち」の運転再開である。当初、春季の運転計画まで出ていたが、コロナ禍にともなう緊急事態宣言により運転が中止され、その後、「当面の間運休」となっていた。今回の当初の計画時も運転しないものとして通常列車での移動を考え、上記の行程とした。ただここに来て、8月1日からの運転再開が決まった。これは観光列車に乗ることに加えて、長門市から東萩までの移動問題も解決するうれしいニュースとなった。「◯◯のはなし」は下関10時20分発、長門市から先へも直通して、東萩には12時52分に着く。午後から夕方にかけての時間を、萩の町歩きと札所めぐりに充てることができる。

結局、夕方の列車で東萩からさらに益田まで進んで宿泊とすれば、翌16日は浜田にある第22番の多陀寺まで行くこともできるし、もし15日午後の萩市内が時間切れとなれば再び東萩に戻り、昼過ぎのバスで津和野に抜ければ「SLやまぐち」にも間に合う。書いていて何のことやらだが、今回の一連の行程で鍵を握ることになったのが「◯◯のはなし」と思う。

さて、現地にて乗車の話である。先ほど、下関10時20分発と書いたが、列車の始発は新下関で、9時59分発である。これは新幹線から乗り継ぐ人を意図してのことである。指定席券は新下関から買っているし、乗車券は青春18きっぷなので、こちらから新下関まで出迎えに行く。

その前にいったん下関の改札を出る。前回いただいた「下関三海の極味弁当」を求めに、改札外のイズミゆめマートに向かう。しかし、弁当の販売は10時30分からとある。列車には間に合わず、残念。

下関から鈍行で新下関に向かう。幡生の手前には車両基地があるが、役目を終えた車両たちが解体される現場でもある。黄色一色の国鉄型車両が解体を待つばかりに朽ちている一方、とうの昔に引退した焦茶色の旧型国電車両(本山支線を走っていたやつ?)が遠くに鎮座している。あえて保存しているのだろうか。

新下関に到着。売店その他がある新幹線口へは動く歩道まである長い連絡通路を渡らなければならないので、そのまま反対側の下関方面ホームに移動する。列車は2両、新下関のホームは長いが、わざわざ新幹線ホーム下の狭い空間に停まるという。

下関行きの列車が出た後、新山口側から気動車が入ってくる。新下関では折り返し運転ができないため、新山口寄りの小月までいったん走った後に折り返すのだそうだ。ホームにはそこそこの数の客がいてカメラやスマホを向ける。

これでいったん下関まで行くが、到着までの数分間が車内撮影タイムのようだ。列車は2両編成で、まずは1号車が先頭で下関に向かう。下関からは運転方向が逆になり2号車が先頭車となる。

「○○のはなし」の「はなし」は、沿線の萩(は)、長門(な)、下関(し)の頭文字から取るとともに、これらの沿線には、日本と西洋を引き合わせた長州の人たちの歴史や文化、海の幸や地酒、金子みすゞの詩など、さまざまな「はなし」が息づいていることからつけられた。かつては仙崎まで「みすゞ潮彩」という名前で運転されていたキハ47気動車をさらに改造して2017年から運転されている列車で、私自身「○○のはなし」としては初めての乗車となる。

車両も日本と西洋というのを意識しており、2号車は「西洋に憧れた日本」というコンセプトで、洋風にデザインされている。全席が海側を向いた2人掛けのソファータイプの座席となっている。

一方の1号車は「西洋が憧れる日本」というコンセプトで、和風にデザインされている。木目調の壁に、1人席、2人ボックス席、4人ボックス席が並ぶ。一部の席では足載せに畳が使われている。また地元の工芸品や郷土料理もケースに並べられ、沿線のPRにもなっている。

10時08分、下関に到着。12分の停車である。こちらもなぜか改札に続く階段から離れた位置にポツンと停まる。先ほど新下関では慌ただしく発車したので、ここが車両の撮影タイムである。時刻表を見ると、この先で車窓見物のため一時停車するところはあるものの、長時間停車する駅はないため、外から眺めるのはこれで最後となる。

定刻となり、駅員の見送りを受けて出発する。この先、どのような「はなし」が繰り広げられるだろうか・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~小倉日記

2020年08月20日 | 中国観音霊場

8月14日、小倉にて宿泊。翌日は山陰本線に乗るので下関に泊まるのもいいかなと思ったが、これまで泊まったことがないということで小倉を選択した。

小倉には多くのホテルがあるが、今回選択したのは西鉄イン小倉。西鉄グループならば地元資本ということで、全国ネットのホテルに泊まるよりも地域貢献をしている感じがするだろう。

また今回小倉に決めたのは、北九州市が独自で行っている宿泊モニターキャンペーンというのを見つけたこともある。9月末までの期間、北九州市内のホテルについて、1人1泊「1000円」、「2000円」、「3000円」(いずれも税抜き)のいずれかで利用できるというキャンペーンで、西鉄イン小倉はシングルが「2000円」で利用できるとあった。通常料金が6200円~7200円くらいなので、十分にお得である。

ホテルは小倉駅から徒歩5分ほどのところにある。道の向かいには北九州予備校の小倉寮というのがあり、「森鴎外が雌伏の時代を過ごした小倉で学ぶ」というキャッチコピーがある。予備校に寮があるのにも驚いたが、ここで森鴎外が出てくるとは。

チェックインする。ここでもアルコール消毒と検温があり、また体調不良などがないかの問診票を記入を求められる。もっとも、問題があればチェックを入れる方式で、何もなければ署名だけして終わりだ。また北九州市の宿泊モニターキャンペーンについては、モニターアンケートの記入を求められる。こちらは住所氏名の記入のほか、小倉への訪問目的を観光、ビジネス、帰省等の中から選択する仕組み。そこに宿泊の領収書を添付するのだが、これはホテルが発行する領収書をホテルがコピーして貼り付けていた。料金はキャンペーン価格の2000円に消費税200円が加算され、北九州市の宿泊税150円と福岡県の宿泊税50円が加わり、しめて2400円。税金だけ見ればホテル代の20%に相当する。

部屋はダブルサイズのベッドがデンと置かれている。それよりも大浴場である。前日は船内浴場に入ったとしても船中泊だったし、朝から暑い中を列車や町歩きをして大汗をかいている。ともかく風呂に入ろう。

こちらの大浴場も感染対策ということで利用人数をしぼっている。入口でカードキーをかざすのでそこで人数をカウントしているのかもしれないし、脱衣所も半分以上のロッカーがキーを抜かれて利用中止となっていた。もっとも、時刻が16時前ということで他に入浴する客もおらず、広い浴場にてリラックスすることができた。

湯上りには部屋でしばらく休憩。テレビをつけると、ちょうどテレビ西日本にてホークス対バファローズ戦の中継をやっていた。この日はデーゲームだったのか。試合は7回まで進んでおり、1対1。バファローズは先発の山﨑が初回に同点打を許したもののそれ以降は無得点に抑えており、ホークス側の実況、解説(池田親興氏)も好投を讃えていた。

そして迎えた8回裏、2つの四球で二死一・二塁となったところで打席には柳田が入る。実況も「山﨑にとっては、これからのプロ野球人生に向けて大きな場面と言っていいでしょう」と力が入る。

2-2となった5球目の内角の球、決して甘くはなくコースぎりぎりをついた1球だったが、柳田がそれを振り抜く。打球はそのままライトスタンドの中段まで飛んで行った。決勝の3ラン・・アギャーと叫んでそのままベッドにひっくり返ってしまった。

柳田に対して、「かつての王会長、長嶋茂雄さんもそうだったと思いますが、こういう所で打ってしまうのがスターです!」「(打った瞬間のアップのスローモーションを見て)一球で仕留める、この表情がすごいですね」という称賛が続く。一方で打たれた山﨑はガックリ、ベンチに下がって目を真っ赤にはらしていた。また実況の「ライトの吉田正尚が一歩も動かず、打球の行方を悔しそうに見ていたのも印象的です」というのもあった。試合はこのまま4対1でホークスが勝ち、(14日時点で)バファローズは7連敗、借金14といよいよ泥沼にはまった・・・(翌日15日はバファローズがブルペンデーで勝ったものの、16日はホークスに地力で寄り切られ、結局ホークス6連戦は1勝5敗に終わった)。

・・・バファローズの敗戦を見届けたうえで、外に出る。早い時間に呑んで、さっさと切り上げて寝るに限る。

小倉駅周辺には魚町商店街など、飲食店をはじめとしたさまざまな店が集まっている。四つ角には居酒屋の客引きもいるが、少し回って自分で探してみる。特にグルメサイト等での予習はしていないし、どこの店でなければならないということはない。

その中で「大衆酒場 餃子のたっちゃん 本店」というのを見つける。一応はチェーン店のようだが、店も新しい感じで、また外とは扉を取っ払っているので開放的である。また、18時まではハッピータイムということで、生ビール、檸檬フィズ、そして焼き餃子が半額とある。ここにしよう。

中は地元の人が中心だが、関西弁で大声で賑やかにしているグループ(旅行者?)もいる。カウンターに座り、まずは生ビールを注文。餃子以外にも一品ものがあり、ビールをすぐに飲みほした後は檸檬フィズに切り替える。

焼き餃子は、王将の餃子のようにしっかりしたつくりというよりは、おやつ感覚で一口でいけるタイプ。これなら焼き餃子をもう一皿、あるいは身がしっかり詰まっているなら鉄板に乗って出てくる肉汁餃子を注文すればよかったかなと思う。

「よかったかなと思う」というのは、餃子と並んで店のお薦めメニューということで注文した鶏の半身揚げのため。四国の骨付鶏のようなものを想像していたのだが、出てきたのは本当に「半身」だった。胸から手羽、ももまですべて入っている。ある程度店の人がブツ切りして出てきたが、後は自分でハサミで適当に切って食べる。スパイスが効いていて飲み物が進むのはよかったが、何せボリュームが多く、腹がふくれてこれ以上他の食べ物の注文ができなくなった。

まあ、店そのものは初めての人も入りやすい雰囲気で、店員の愛想もよかったので、また小倉に来ることがあれば入ってもいいかな(昼から営業しているようだし)。

こういう状況なので2軒目に行くこともなく、コンビニで何がしか買い物をして部屋に戻る。ちょうど福岡のローカルニュース、博多華丸・大吉が出る福岡のローカル番組をやっていたのでゆっくりと過ごす・・・。

・・・さて翌15日。

この日は朝10時に下関にいればよいので時間はある。ホテルでの朝食はつけなかったので、早朝に出発することもできる。前夜、時刻表をあれこれ見ながら、早起きしてどこかの線区を乗り回そうかとも思っていたのだが、結局どう回っても中途半端になりそうなのでやめにして、朝はゆっくりと部屋を出ることにした。ということでまずは朝風呂である。この日も暑い一日になりそうだ。

ただ朝食は出発前にとっておこう。モノレールの平和通駅近くのアーケードにある「資さん(すけさん)うどん」に向かう。北九州を中心に展開する老舗チェーン店で、この店は24時間営業である。福岡のうどんのトッピングは「かしわ」や「肉ごぼう天」というのが人気のようで、店の看板メニューである肉ごぼう天うどんをいただく(値段は多少張るが)。

やってきた一品。牛肉が甘辛く煮ているためか、ダシも多少甘く感じる。ごぼう天もダシが浸み込むと味わいが深くなる。それにしても、なぜ福岡ではごぼう天が人気なのだろうか。特にごぼうが特産という話も聞かない。うどんがやわらかいから歯ごたえのある天ぷらが合っているのかな。

チェックアウトして、小倉駅に向かう。8時58分発の門司港行きに乗り、次の門司で9時08分発の下関行きに乗る。いよいよ、関門海峡をくぐって本州に渡る。ようやく中国地方上陸である・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~小倉城、松本清張記念館

2020年08月19日 | 中国観音霊場

門司港から再び鹿児島本線で小倉に戻る。昼食ということで駅ホームのスタンドでとんこつラーメンをいただく。時間帯なのか、あるいは手軽に食べられるためか客が次々にやって来て満席になる。密がどうのというのは関係ないようだ。

後続の列車で1駅、隣の西小倉まで移動する。これから目指す小倉城は小倉駅からも徒歩圏内であるが、西小倉のほうが近い。この暑さにあって、徒歩15分と徒歩5分の差は大きい。駅前からの街路樹の下はいくらか涼しいが、それ以外はアスファルトからの熱がはねかえってきて息をするのもしんどい。当然、マスクは外すことになる。この時の小倉の気温は36度あったようで、夕方のNHKニュースで猛暑の様子を伝える画像に、ちょうどこの時間の小倉駅周辺の様子が映っていた。私の姿はなかったようだが・・。

石垣の向こうに櫓が見える。リバーウォーク小倉に面した側で、こちらから入ると八坂神社に出る。この境内を抜けていくと本丸に入る。1959年に建てられた復興天守が出迎える。

その前に2体の像がある。宮本武蔵対佐々木小次郎。いずれも小倉藩、細川氏とつながりのある剣豪である。

天守内に入るとまずアルコール消毒、検温があり、特に問題なく先に進む。小倉城の展示室も最近リニューアルしたそうで、小倉の町の歴史を人形のジオラマで紹介したり、俳優の草刈正雄さん(小倉出身)がナビゲーターを務める映像を流したりしている。他にも展示品に触れてプチ体験できるコーナーもあるが、こちらはコロナ禍のために休止中。

小倉に城が建てられたのは毛利氏の時。その後、豊臣秀吉家臣の森吉成らが居城したが、本格的な城ができたのは関ケ原の戦いの後、丹後から小倉に移った細川忠興の時。後に細川氏が肥後に移り、入城したのは小笠原忠真。今回初めて知った人物だが、忠真の母・福姫は、徳川家康の長男・信康と、織田信長の娘・徳姫の間に生まれたということで、信長、家康それぞれの曾孫というものすごい血筋の人物だ。本人も文武両道に優れており、大坂夏の陣でも奮戦して家康に「鬼孫」と言わしめたとある。徳川譜代として、九州の抑えの役割で小倉にやって来た。宮本武蔵が客分として迎えられたのもこの時だし、後には養子の伊織が小倉藩の家老を務めるまでになった。

江戸時代には細川、鍋島、黒田、島津といった名家が並ぶ九州にあって幕府からのお目付け役として存在した。そして幕末にあっては幕府側として第二次長州征伐にも参加する。小倉から関門海峡を挟んで長州藩と激闘を繰り広げたが、幕府や他の九州諸藩の援護がなく、最後は小倉城を焼いて後退する。後に、長州側の山県有朋は、幕府への忠義、小笠原家の存続のために奮闘した小倉藩士を称賛したという。なかなか、地元に来て初めて知る歴史というのがあるものだ。

上の階では宮本武蔵と佐々木小次郎の人生に焦点を当てている。

それぞれ人生に謎が多いこともあってか、小説などの材料になりやすい。有名なのは吉川英治の『宮本武蔵』で、そこから派生した映画の『宮本武蔵』シリーズや、漫画の『バガボンド』などが紹介されている。

その合間になぜか、「血闘!巌流島」ということでビデオテープが置かれている。1987年、アントニオ猪木対マサ斎藤の「巌流島決闘」。まあ、「巌流島」というのは「決闘」の代名詞のようなもので、プロ野球でも(古い話だが)三原脩対水原茂というのも「巌流島の対決」と呼ばれていた。ただ最近はあまりこうした「決闘」というのは好まれないのか、巌流島という言葉もそれほど出てこないように思う。

最上階は小倉市街の展望台。ただ、窓は少し開いているものの蒸し風呂状態。さっと写真だけ撮ってエレベーターで一気に入口階まで降りる。

続いては同じ小倉城の一角にある松本清張記念館に向かう。こちらも以前に一度訪ねたが、最近、松本清張の作品から見た昭和史、そして鉄道史というのが注目されているようで、これらに関連した書籍を読んだこともある。それもあり、小倉に行くのならここは訪ねようと思っていた。ここでもアルコール消毒と検温、さらには連絡先カードの記入を求められる。

松本清張は小倉の出身として紹介されているが、さまざまな資料によると実際に生まれたのは広島市で、生まれてからすぐに両親が炭鉱景気にわいていた小倉に移り、そこで出生届が出されたと言われている。まあ、実際には小倉の小学校を出て、後は印刷工をはじめ小倉でさまざまな職を転々としていたから、小倉の出身としても差し支えないだろう。

展示コーナーでは、まず清張の著作のカバーがずらりと並んだパネルが出迎える。その後は清張と日本の年表、さまざまな著作のジャンルが紹介され、その中には直筆の原稿や、本人の肉声インタビュー映像も入る。また、多くの作品が映画化・ドラマ化されており、その予告編をまとめた映像も流れている。この中ではやはり野村芳太郎監督の『砂の器』が印象的である。

圧巻なのは、東京の高井戸にあった自宅の外観や応接間、書斎、書庫を清張が亡くなった当時の状態で忠実に復元した展示室である。中には入れずに外から見るだけだが、書斎については机にできたキズや、タバコの灰でカーペットが焦げた跡といった細かなところも再現されている。

また書庫はスケルトンのように中の棚を見ることができるが、数多くの歴史関連本が並ぶ。まあ、実際にすべての書物を読破するというよりは、執筆にあたっての参考資料に供するものが多いと思うが、全部で何冊くらいあるのだろうか。東大阪にある司馬遼太郎記念館には高さ11メートルの大書架があるが、あれが2万冊あるという。そこまではないにしても、作家の世界の一面を見ることができて面白い。ひるがえって私の部屋の本棚に並ぶものといえば・・・・まあ、いいでしょう。

この書庫は書斎と隣接している。解説にあったのは、現在執筆中の作品に関係の深い書物は書斎の机の周りに置き、執筆が終わったばかりのもの、また自分が興味のあるテーマで、手元に置いていつでも読みたい書物は書斎に近いところに置いたという。亡くなった当時の書庫の並びを見ると、日本の古代史、考古学に関する書物が多かったという。さまざまなジャンルの作品を手がけた清張だが、最後は歴史に関することを中心にしていたことがうかがえる。

記念館の中は撮影禁止のため画像がなく、詳しくは記念館のウェブサイトをご覧いただければ。

さて、せっかくなので何か書籍を買おう。数々の名作の文庫版や、かつての特別展の図録などがいろいろ並ぶ。その中にあったのが『清張鉄道1万3500キロ』。朝日新聞の記者だった赤塚隆二という方の著作で、清張の作品で「乗り鉄場面」が出るところを抽出し、その線区や駅を一覧にまとめる。その初乗り区間を通算すると、なんと1万3500キロにわたるという。その様子を当時の作品世界や、鉄道史とも絡めた1冊ということで、これも清張に関する新たな分野なのかなと、面白そうだということで買い求める。こうして清張と鉄道に関する書物が私の部屋の本棚の1冊に加わった・・・まあ、こういうもんです。

小倉近辺には他にも見るところはあるのだが、時刻が15時を回ったところでこの暑さ。もうホテルに向かうことにしよう。ただ、大きなバッグを小倉駅のコインロッカーに入れているのでいったん戻らなければならない。西小倉駅まで戻って列車に乗るか、小倉駅まで歩いて行くか。まあ、西小倉駅に戻ろうかと横断歩道を渡ると、右折中の西鉄バスが私が渡るのを待っていた。行先を見ると小倉駅とある。確か市内中心部は運賃100円だったはずで、バス停もすぐ近くにあったので乗り込む。すぐに小倉駅に到着。

さてこの後は夕方からの話で・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~「かわせみ やませみ」・「いさぶろう しんぺい」連結特別列車

2020年08月18日 | 中国観音霊場

博多駅の1・2番ホームには多くの鉄道ファン、子ども連れがそわそわした様子で列車の到着を待っていた。これから乗るのは「かわせみ やませみ92号」・「しんぺい92号」の門司港行きである。

このところ、毎年のように日本のどこかで豪雨や台風による被害が発生している。2020年は7月に九州で豪雨が発生し、鉄道では特にJRの肥薩線、くま川鉄道、肥薩おれんじ鉄道が大きなダメージを受けた。特に肥薩線は球磨川にかかる明治以来の橋脚が流されるなど被害が大きく、復旧のめどは立っていない。

そんな肥薩線の応援企画として、この8月8日から同線を走る観光特急「かわせみ やませみ」、「いさぶろう しんぺい」の2列車を連結させ、鹿児島本線の博多~門司港を往復する臨時列車が運転されることになった。運転日は8月中は毎日、9月~11月は土日祝日。7月の終りに発表されたもので、たまたま鉄道関連のニュースサイトを見ていて目に留まり、全席指定とのことで、JR九州のホームページから購入。特急なので青春18きっぷは使えず、乗車券も別途購入だが、せっかくの機会である。自分が肥薩地方をどのくらい応援できるのかは別として。

10時40分の発車だが、博多駅は多くの列車が発着することもあり、入線したのは4分前。車外・車内で慌ただしく撮影が始まる。

まずは青の車体の「かわせみ やませみ」。2017年にデビューした列車で、車内はこうした山鳥が棲む自然、球磨川の景色をイメージして、青や緑をベースとしたシートを用いたり、内装にも人吉・球磨産の杉やヒノキが使われている。

また車内も通常のリクライニングシートの他に、ボックスシート、ベンチシートなどさまざまなタイプの座席がある。今回の運行に当たっては通常シートのみ販売されており、ボックスシート、ベンチシートはフリースペースの扱いとなっていた。私も最初こちらに座ったが、隣席にオッサンがどっかりと座り、車内探索には気を遣うかなと思い席を立つ。

もう一方の「いさぶろう しんぺい」は2004年から導入の車両で、こちらは私も過去にちょい乗りしたことがある。熊本・人吉から吉松に向かう下り列車は「いさぶろう」、吉松から人吉・熊本に向かう上り列車が「しんぺい」と列車名が別で、今回私が乗るのは上り列車ということで「しんぺい92号」である。「いさぶろう」とは人吉~吉松間が開業した当時の逓信大臣だった山縣伊三郎、「しんぺい」は当時の鉄道院総裁で、後に内務大臣として関東大震災後の東京復興計画の中心となった後藤新平からつけられている。JR九州はこうした感性があるのかな。そりゃ、大関魁皇も特急列車の名前になるわな。

今回の豪雨時には肥薩線の真幸駅に閉じ込められていたがその後脱出して、日豊本線経由で博多まで来ることができた。

こちらは木目調のテーブルつきボックスシートが並ぶ。実は過去に「しんぺい」に乗車した時は、乗客が多かったためかボックスシートの居心地があまりよくなく、結局立ち客用のスペースで矢岳越えの景色を楽しんだ。ただ今回、両列車の様子を見ると、さまざまに意匠を凝らして目で楽しませる工夫がちりばめられている「かわせみ やませみ」ではなく、「しんぺい」のほうが落ち着いて、かつての汽車旅のムードが出ているなと感じた。これは、「かわせみ やませみ」が観光に特化しているのに対して、「しんぺい」が本数の少ない人吉~吉松間のローカル輸送も担っていることもあるのかなと思う。結局こちらのシートに落ち着く。

実は、「かわせみ やませみ」そして「しんぺい」の2列車それぞれの博多~門司港間の指定席を購入していたのだ。これは不正乗車になるのかどうかわからないが、2つの列車を乗り比べてみようという思惑もあった。いずれの車両もいわゆる「水戸岡デザイン」で、この言葉にはいささか食傷気味なのだが、個人的には「いさぶろう しんぺい」車両はまだ落ち着いていて好みに近い。他の相客もおらず、こちらでのんびりと行くことにしよう。

途中の駅では駅員さんの盛大なお出迎え、お見送りがある。また沿線にも撮影の人、見送りで手を振る人も多い。

車内販売のカウンターが「やませみ」の車両にある。球磨焼酎があるということで、普段は乙類の◯◯焼酎はほとんど飲まないのだが、せっかくなので行ってみる。ただし大勢の客が並んでいて、行列は隣の「かわせみ」の車両まで延びている。待つ間に八代~人吉間の沿線の観光スポットを紹介した映像など眺める。球磨川がつくりだした美しい自然も多いところだが、一方では今回の豪雨災害をもたらした暴れ川でもある。また、沿線の特産品についても紹介されている。

結構待った後、球磨焼酎の飲み比べセットを購入して座席まで持ち込む。常圧(原料の味わいや旨味がしっかり残る)、減圧(クセがなくすっきり)、そしてオリジナルの牛乳焼酎(フルーティーさも加わる)の3種類。いずれもストレートで、チェイサーの水もついてくる。外に広がるのは筑前、豊前の平野だが、肥後の雰囲気を楽しむ。肥薩線の復旧にはかなり時間がかかることだろうが、またいずれ、彼の地も訪ねてみたいものである。

博多からの停車駅は香椎、折尾、黒崎、小倉、門司だが、この他にも途中駅で後続の快速列車の通過待ちをするなど、あくまで観光臨時列車。先を急ぐことなくのんびり進む。

博多から1時間半あまり、12時14分に門司港に到着。門司港に入線する時は速度を極端に落とす。終着駅(正しくは鹿児島本線の始発駅なのだが)に敬意を表しているかのようである。ホームはかつての風情を残すシンプルな構造だが、こうした列車にはよく似合う。

到着後しばらくは撮影タイムとなる。「もじこう」の駅名標を一緒に入れるのもいいだろう。

改札を出て、門司港駅舎の前に立つ。先月来た時は雨の中だったが、今回は見事な晴天である。いやこの晴天以上に暑さが強く、すぐに引っ込んでしまう。暖冬~コロナ~豪雨~猛暑・・・2020年の日本の気候風土も厳しいものになっている。今回の行程は16日まで続くが、体力が持つかどうか・・。

本来ならばここで門司港レトロや九州鉄道記念館を訪ねるところで、他の乗客もこうした観光に向かう人が多かったが、これらは先月に訪ねたこともあり、今回は省略。かと言って関門海峡を船で渡ることもせず、この日は北九州内で過ごすことにしている。そのために再びホームに戻り、小倉まで列車で移動することに・・・。

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