不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

8月6日の前日、広島・平和への祈り

2023年08月06日 | まち歩き

現在、7月に行った九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの記事を書いている最中だが、いったん中断して8月6日、広島原爆の日である。

8月6日は日曜日の当番に当たっており事務所に出社。とはいえ私一人ということもあり、ネットで配信されていた平和記念式典のライブ中継を見る。8時15分、職場の近くでもサイレンが鳴り、1分間の黙祷を行った。2回目の広島勤務で、8月6日が日曜日というのは初めてなので、式典をじっくり見たのも久しぶりである(仕事中は普通に時間が流れるだけなので)。

今年はG7サミットが広島で開催され、核兵器保有国を含む各国首脳が原爆慰霊碑への献花、平和記念資料館の視察が行われた。一方でロシアとウクライナの戦争の中でロシアが核兵器の使用をちらつかせるなど、核兵器や平和についてクローズアップされている。その中で広島からのメッセージも、例年のような通り一辺倒(に感じられる)の内容ではなく、真摯に訴えるものだったという印象である。

・・とはいえ、現実の世界を動かすのは容易ではない。その中で、(経済や社会に関する政策は評価しないし支持しないが)被爆地広島出身の総理大臣という、他の方にはない強いポイントがある岸田総理、ここはあなたにしかできないことである。頑張ってください。

さて、8月6日は朝は平和記念式典、そして夜は元安川での灯籠流しが行われるなど(最近はマツダスタジアムで「ピースナイター」としてカープの試合も行われる)、祈りの1日となるが、その前日の5日の夕方、広島市内に出向いてみた。

自宅近くから路線バスに乗り、平和記念公園に到着。団体用の観光バスが何台も停まり、資料館の入口にも長蛇の列ができている。6日当日は式典もあり中には入れないため、前日に手を合わせようと訪ねてみた。このタイミングで、プライベートで平和記念公園を訪ねるのは初めてである。

翌日の式典に向けての準備が進められている。新型コロナウイルスが5類に移行したことを受けて、今年は4年ぶりに一般参列者を入れた従来の形での開催という。

慰霊碑には手を合わせようと多くの人が行列をなしている。また、あちこちでは語り部の人たちが子どもや学生に向けて原爆の話を行う光景が見られる。

慰霊碑を前にする。

そのまま、平和の灯の横を過ぎて原爆ドーム方面に向かう。こちらにも大勢の人たちがさまざまな思いをはせているところだ。

そのままドームに向けて歩く。新型コロナウイルスによる入国規制も解除されており、外国人観光客の姿も久しぶりに多く見かける。G7サミットを機に広島を訪ねてみようという人が増えたのかな。

原爆ドーム前から広電に乗り、広島駅に移動する。8月5日の広島は1年のうちでもっともホテルの稼働率が高いと言われている。前日に広島入りして、昼のうちに原爆ドーム、平和記念資料館などを見学。夜は・・犠牲者の霊を慰めつつ一献(中にはマツダスタジアムに行く人もいるだろう)、そして6日の早朝から記念式典に向けて再び平和記念公園に行く行程。

その5日の夜に広島駅に向かったのは、「夏の夜、祈りと平和の夕べ」という行事に参加するためである。例年8月5日夜に平和関連のさまざまな行事、イベントがある中で、広島市のホームページで見つけたものだ。場所は広島駅新幹線口近くの二葉の里にある7つの社寺で、平和の灯から採火したろうそくでライトアップされるほか、犠牲者の追悼、平和への祈りを奉げるもので、2012年度から行われているそうだ。こういう行事があると知ったのは初めてで、現在広島新四国八十八ヶ所も回っていることからどのようなものか行ってみることにした。

その7社寺とは西から順に饒津神社、明星院、鶴羽根神社、広島東照宮、尾長天満宮、國前寺、聖光寺と宗派はばらばらだが、これらは「広島二葉山山麓七福神」を構成しており、こうした横のつながりがある社寺と、地元の人たちの手によって実施されている。

当日はボランティアガイドの案内により、東コース、西コースのいずれかを回る無料ツアーも行われるとあったが、そこは自分のペースで回ることにしよう。

そろそろ日が暮れようかとする中、新幹線口を出てまず向かったのは鶴羽根神社。こちらでは先着50名参拝者が献灯できるというので、それはぜひともということで早めに行ってみた。しかしさすがに早すぎたようで、まだ準備中のようだ。もっとも、受付開始と同時に先着50名のろうそくがなくなるほどでもないようで、係の人からは「先に『にぎつさん』や明星院さんに行かれたら・・」と案内される。ということで、西から順にお参りとする。

まずは饒津神社。山陽線の車内から見え、京橋川沿いの交通量の多い交差点からすぐなので神社があることは知っていたが、お参りは初めてである。江戸時代中期、広島城の鬼門を守護するために、浅野氏の開祖である浅野長政の位牌堂を建立したのが始まりで、その後、浅野氏祖先追悼の社殿が建てられた。かつては高い建物がなかったこともあるが、境内からは広島城を望むことができ、正に鬼門を守る存在であった。

原爆の時には爆風のため本殿その他が破壊され、出火もあって境内も全焼した。その中で市中心部から大勢の人が避難してきたが、ここで亡くなった方も多かったそうである。入口に、被爆樹木であるマツの切り株が置かれている。

次に明星院。こちらは6月に広島新四国八十八ヶ所めぐりで訪ねたばかりである。饒津神社に隣接しており・・というか元々は一体だったのが明治の神仏分離で分けられたように見える。

ここも参道でろうそくが照らされている。山門には「平和の鐘」があり、夕方の時間だがここで1回鐘を撞く。

境内には僧侶の読経の音声が流れる。本堂の扉も開放されており、中に入って般若心経のお勤めとする。浅野氏ゆかりの寺院ということで、本堂の内陣には四十七士の木像が祀られているのだが、さすがにこの時間だと中は暗いので外からにとどめる。

本堂の手前にランタンが置かれている。平和の灯から採火したもので、寺のろうそくの灯はこれから採るのかな。

そして鶴羽根神社に戻る。先着順のろうそくも準備ができており、「お待たせしました」と言われて受け取り境内に進む。他にもぽつぽつと、ろうそくを手にする人たちがお参りする。

鶴羽根神社の歴史は浅野氏よりも古く、平安末期、源平の戦いに敗れた源頼政の室・菖蒲の前が安芸に落ち延びたが(広島新四国の一つ、観現寺や福成寺に関連する)、その菖蒲の前の遺志により応神天皇、神功皇后を祭神といてこの地に社殿が建てられた。元々は椎の木八幡宮と呼ばれていた。その後、火災や戦乱で荒廃したが江戸時代に浅野氏により再興された。鶴羽根神社という名になったのは明治からで、二葉山が鶴が羽根を広げた姿に似ているとしてつけられたという。

鶴羽根神社も原爆の際に社殿が倒壊したが、石の鳥居や燈籠、手水舎などはそのまま残り、また被爆樹木も受け継がれている。

拝殿の前には風鈴も掲げられ、風に吹かれて鳴り響く。ろうそくと合わせて、これも被爆者の鎮魂かなと思いつつ、献灯台にろうそくをお供えし、手を合わせる。

辺りも暗くなってきた。その分、ろうそくの灯りがよりはっきりしてきた。広島高速5号線の工事中の高架をくぐり、広島東照宮に着く。ここで4ヶ所目である。

社殿に続く石段にろうそくで「祈」の文字が映し出されている。

石段下には原爆犠牲者の慰霊碑が建つ。

その横には、被爆体験をつづったことで知られる詩人、作家の原民喜の追悼碑がある。原民喜は被爆直後、広島東照宮の境内にて一夜を過ごし、避難して来た人たちの様子を手帳に記した。その手帳をもとに後に代表作「夏の花」などの作品を残したが、手帳に自ら記した「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」が碑文として刻まれている。

「祈」の文字の横を抜けて境内に入ると、30人ほどの人が何か聞き入っている。東照宮の宮司による被爆体験の語りである。私が訪ねた時はちょうど話も後半になっていたのではないかな。まずは拝殿にお参りすると、「祓いたまえ、清めたまえ」と神官から幣でお祓いを受ける。

東照宮が建てられたのは江戸時代。日光に東照宮が建てられたのを機に幕府は諸大名にも東照宮の建立を勧めたが、広島藩の2代目・浅野光晟は、母が徳川家康の娘だったこともあり、東照宮の建立に積極的に手掛け、建立後は社領も与えて保護した。

原爆投下時、爆心地から2キロあまりの場所に位置する東照宮は熱風により出火し、本殿、拝殿が焼失した。当時、東照宮境内には練兵場があって通信兵が常駐しており、バケツリレーで消火にあたったため延焼は防がれ、御神体も運び出すことができた。本殿、拝殿は戦後に再建されたものだが、唐門とその横の翼廊などは被爆建物として現在もその姿をとどめている。

被爆直後は、先に書いた原民喜も含めて大勢の人が東照宮に避難して来た。当時は高い建物がなかったこともあり、二葉山に鎮座する東照宮を信仰のシンボルとして逃れてきた人も多かったそうだ。しかし、ここで命を落とした人も多数いたという。

先代の宮司(現在語っている宮司の父親)は当時中学生で八本松に疎開していたが、広島に戻って来て市内や東照宮での惨状を見て、助けを求める同い年くらいの女学生を助けることができなかったという。長年そのことを悔いつつ、被爆体験のことは娘(現在の宮司)にも語ろうとしなかったそうだが、原民喜の追悼碑が広島東照宮に建てられることになったのを機に、自身も宗教者として伝えなければならないという思いが生じたそうだ。そして自らさまざまな活動を行うようになり、この「夏の夜、祈りと平和の夕べ」でも語り部となって東照宮の歴史や被爆体験を伝えてきた。2017年に亡くなった後は、現在の宮司に受け継がれている。

最後にはこんな内容の言葉があった。戦後78年経って、被爆した人たちも亡くなったり高齢化している。ただ、残された人たちや次の世代の人たちが伝えなければならない。伝えなければ忘れてしまう。忘れてしまうと歴史が繰り返される(再び、核の悲劇が起こる)。

最後に、笙の演奏により童謡「ふるさと」が合唱された。

東照宮の唐門からはちょうど広島駅周辺のビル群が並ぶ。駅の向こう、マツダスタジアムではカープとジャイアンツの1戦が行われているところで、この日もカープが優勢に試合を進めているようだ。広島の土曜日の夜は賑やかに、平和に過ぎていくが、どこかで先人たちに思いを寄せる一時もあってよい・・という気になった。暗くなり、「祈」の文字が一層くっきりと見えた。

本来であれば残りの3社寺(尾長天満宮、國前寺、聖光手)にも行くところだろうが、東照宮まで来たことでもういいかなという気になった。日が暮れたとはいえ蒸し暑く、汗だくである。この後でどこか一献ということもなく、そのままJRと広電を乗り継いで帰宅した・・。

平和を願う気持ちはそれぞれにあり、その表現の仕方もさまざまだろう。8月6日、平和記念式典の最中に周辺で大声でデモをしている連中もいたのかな(しかも、場違いな内容のコール)。それと比べるわけではないが、本来の祈りの場である社寺において、夜の静まった時刻に心を鎮めて手を合わせる・・。この「夏の夜、祈りと平和の夕べ」の取り組みがこの先も続くことを願うばかりである・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

自宅でオンライン飲み電~広電トランルージュ

2021年03月11日 | まち歩き

飲食ができる路面電車として運行されている広電の「トランルージュ」。このコロナ禍のために客を乗せての運行は休止中だが、このたび、乗っている気分をオンラインで楽しめるイベントが行われた。まさに「自宅で飲み電」。その初日である3月10日の便に「乗車」することができた。

事前に申し込むことで、当日のライブ配信に入るためのURL、パスワードが配信される。別途宅配便にて、飲み電を楽しむためのキリン一番搾り、氷結、そして牡蠣の土手鍋缶やレモスコいか天などのおつまみ、広島つけ麺、さらに広電の停留所名をあしらったオリジナルのコースターなどが送られる。後は当日19時の出発に間に合うかだが、何とか仕事を切り上げ、帰りにその他のアテも仕入れたうえで無事に帰宅できた。

パソコンを起動させ、専用のURLから入ると、トランルージュはちょうど起点の広島駅に向けて走っているところだった。MCの女性が早速車内から前説中で、他の参加者も少しずつログインするところである。名前を入れるとチャットに参加することもできる。この日は40人あまりの方が参加しているようだ。私も送られたアテなどを準備して発車を待つ。この後のチャットを見ると、地元広島だけではなく、大阪、京都、東京、鹿児島など、さまざまな地域から参加していることがうかがえる。特に遠方の方は、これからオンラインで広島旅行の一端を楽しむようだ。

広島駅を出発。このイベントのスポンサーであるキリンビールの方がゲストで登場。ここでビールの美味しい注ぎ方のレクチャーがある。その通りにすると、普段飲むよりも美味そうなジョッキが出来上がる。

そして乾杯!いいですなあ、路面電車の中で飲むというのは(リアルにはなかなかできないこと)。

チャットにも乾杯の文字が並び、この先もチャットの投稿をMCが拾いながらトークが進む。こういう状況なのでリアルに車内での会話とはならないが、それに近い雰囲気でこの先終点まで進む。

八丁堀でゲストが広島のタウン誌の女性に入れ替わる。ここからは広島弁丸出しの女子トークが広がる中、繁華街から原爆ドーム、相生橋というところを通る。いいなあ。運転手が紙屋町東などで見せる安全呼称にも魅力という話題も出る。

十日市町から横川に向かい、終点に到着。ここでゲストが入れ替わり、広電の方が登場する。ここからは鉄道ファンお楽しみの時間帯のようで、心なしかチャットの中身も濃くなり、かつ投稿も増えたように見える。

広電西広島に到着。ここで折り返しのためしばらく休憩。広島県の観光PR動画が流れる。私にとっても新鮮なところが多く、これから訪ねてみたいスポットも並ぶ。

西広島からは竹原市の方が同乗。県中部にあって、観光としては穴場ではないかと思う。その中で町並み、酒、大久野島などの魅力あふれるところのPR。

復路は他にもクイズコーナーなどある中、2号系統を広島駅まで戻る。広島駅を出てから1時間半ほどの行程で、普段の乗車では味わえない路面電車のオンライン乗車に満足する。7台のカメラで中継するということで、前後左右の景色、そして車内でのトークの様子を代わる代わる楽しむことができた。中には、常に前方または後方の景色は画面の隅でもいいので映してほしいという要望もあったが。

飲み電のほうでは、セットでついていた一番搾りと氷結1本ずつでは足りなかった方も多いのではなかったか(私もひっそりと、他メーカーのやつをお代わりして画面前で一献)。一方ではノンアルコールやソフトドリンクで参加していた方もいて、楽しみは人ぞれぞれ。チャットでも誰かに変に絡むとか、不快な書き込みをする人もおらず、いい空間を共有できたと思う。

この企画は今月の水、金曜日に行われ、日によっては満員御礼もあるようだが、まだ空いている日もある。それはそれでまた違ったメンバーが楽しませるのだろう。

こういう状況ならではの飲み電を楽しみたいものである。他の鉄道会社でもやってくれないかな・・・。

コメント

姫路の地元グルメ

2016年06月07日 | まち歩き
今回の姫路への遠征では、野球観戦の前と後でさまざまな味も楽しむことができた。

姫路駅から県立歴史博物館を回り、駅に戻る。その途中、駅前通りに面して「まねき」がある。姫路駅独特の「えきそば」の店である。和風だしでいただく中華そば風の麺。戦後のものが不足していた時期の産物であるが、これが長く親しまれている。私も、鉄道旅行をするようになった学生の頃から何度となく食べている。特に在来線の旅だと姫路乗り換えが多く、えきそばを食べるために大阪への新快速を一本遅らせるとか、逆に岡山に行く時は、本数の少ない岡山行から逆算して一本早い新快速に乗り、そばの時間を生み出したこともある。えきそば自体は阪神の地下でも出店があったり、カップ麺にもなっているが、やはり姫路で食べるのがより美味く感じられる。

大手前の店というのは初めてだが、改札をくぐらなくても食べられる(今回は山陽電車で来ているので)のはありがたい。ちょうど穴子丼とのセットがあり、えきそばメインだが穴子という瀬戸内のものもいただく。

・・・さて、試合終了後、バスで駅に戻ったのは15時半。駅前のみゆき通りや、その脇道の路地は結構飲み屋が多く、しかも昼から開けている大衆酒場も多い。酒場放浪記の吉田類さんが好きそうな店もあるのではないか。

兵庫ディオーネも勝ったことだし祝杯にしよう。これまで何やかんやで姫路駅前のいくつかの店には入っているが、今回はあえて駅前の姫路のれんに行く。ここで姫路の味をアピールしていた店の軒先に腰かける。店員も若い人ばかりで、大衆酒場という雰囲気ではないし、観光客向けのような感じだが、「姫路に来たらこれ」はメニューの一面を使って並べている。

姫路のアテとして名高いのが、姫路おでん。まずはこちらをいただく。姫路おでんを出す店は駅前だけでもたくさんあるが、しょうが醤油ベースという共通点はあるものの、出し方は店ごとに違う感じだ。姫路のれんのこの店は、テーブルにあるしょうが醤油を後からお好みでかけるタイプ。新幹線で出張で来る人を意識したのか、いろんな人の嗜好に合うようにしたのかな。

もう一品はひねぽん。卵を産まなくなった雌鶏をひね鶏というそうで、それの肉。噛めば噛むほど味わいが出るのだとか。「それって熟女と同じやな~」と、横で誰かが言っているように聞こえるが、それはさておき。

おでんにしても、ひねぽんにしても、それをメニューにしている店は駅前だけでも結構な数に上る。なんぼでも開拓できるような感じもする。同じ関西でも大阪とはちょっと系統の違う味が楽しめそうだ。ちょっとした「小旅行」感を楽しむのにはほどよい距離なのかもしれない。

締めというわけではないが、姫路独特の「粉もん」をということで、駅前の「喃風(なんぷう)」へ。姫路の「どろ焼き」発祥の店として知られている。お好み焼でもなく、たこ焼きでもない。かといって明石の玉子焼きでもない。それをベチョっと広げた感じだが、外はカリッと中はふわっと。これをだしにつけて食べるだけでなく、ソースをかけて、さらにそれをだしにつけてもいける。

それでも最後は姫路ちゃんぽんにも挑む。ちゃんぽんと言っても長崎の中華料理のそれではなく、うどんとそばを半分ずつ一緒に焼いたもの。これがもう少し西の地域ならホルモン焼きうどんになるのだろうが、東のそばめしと両方から引っ張られてできた一品のような感じである。

すっかり姫路の味を楽しんだ後でも、野球が早く終わり、また日の長い季節ということもあってまだ外は明るい。最後は山陽電車の直通特急に乗り、大阪までまったりぐったりと過ごすのであった・・・。

新西国の札所巡りでいずれはまた播磨の国に来ることもあるし、姫路にも来ることがあるだろう。また奥の深い播州の味というのも楽しみにしたいところである・・・・。
コメント

姫路城と姫路の味

2016年06月06日 | まち歩き
前の記事では4日に姫路で観戦した女子プロ野球のことを書いた。スコアは2対1で兵庫勝利というなかなかの熱戦だったが、翌5日に同じく姫路で行われた試合では、埼玉が16安打で13対0と、優勝した兵庫をフルボッコしたそうだ。時にはこうした一方的な試合もあるようだが、私の観た試合がこちらでなくてよかった。

さて、女子プロ野球だけを観にわざわざ姫路まで行ったわけではなく、午前中には姫路城を訪れていた。平成の大修理を終えた天守閣を外から見る機会は何度かあり、前には西国三十三所巡りで書写山圓教寺に行った帰りに入城したが、観光シーズンとも重なり結構な待ち時間だったので断念した経緯がある。ちょうどこの時期は観光客もそれほどいないだろうし、大修理の後の人気も落ち着いていることだろう(ちなみに、若狭まで独立リーグを観に行くという選択の場合は、小浜か熊川宿を見物するつもりだった)。

山陽電車の姫路駅から歩き、正面の門をくぐって天守閣と対面する。そして天守閣への入場券を購入するが、9時の開門前で100人ほどが行列を作っていた。このくらいなら入場規制もかからないし、ここから先も広いので混雑ということもないだろう。

まずは大天守閣まで迷路のようにぐるぐる回る。目指す天守閣はすぐそこにあるように見えて、なかなかたどり着かない。防御を意識した造りで、その間に狭間から鉄砲で撃たれたり、石を落とされたりしてしまう。姫路城が今の構造になってから城の攻防というのは結局なかったが、歴史の「もしも」で、例えば明治維新の前の戊辰戦争が姫路で起こり、幕府軍が姫路城で迎え撃つという展開になったらどうだったか。

天守閣の入口に着き、ここで靴を脱ぐ。当然昔のままの姿で残されているので、階段も急だ。また、大阪城や名古屋城、さらには先の地震で被災した熊本城のように再建された天守閣は、中が資料館も兼ねていてさまざまな展示があるが、国宝の城はそうではない。ともかく急な階段の上り下りである。

そして着いた最上階。神社の祠があり、上ってきた人の多くはまず手を合わせる。そして外を眺める。姫路駅が心持ち小さく見える。駅から天守閣は結構大きく見えるのだが。

天守閣を出て、お菊の井戸を見たり、西の丸から違う角度で天守閣を見ていると、観光の団体や修学旅行生が多数入場するところである。こういうのを見ると、やはり早い時間からの動きがベターだと感じてしまう。

この後は天守閣の東側を通る。こちらから仰ぎ見る天守閣、ちょっと見映えは劣るかもしれないが、現地に行かないとなかなか見ることのない顔だと思う。

なぜ東側に回ったかだが、この後で向かったのが天守閣の北東にある兵庫県立歴史博物館。この期間の企画展示で、「歴史をいろどる群像」というのをやっている。歴史上の人物や歴史的場面、そして土地の風景などを描いた、同博物館のコレクションを中心としたもの。歴史上の人物も古くは柿本人麻呂や嵯峨天皇に始まり、楠木正成、赤松円心、信長秀吉家康も揃う。黒田官兵衛の二十四将、宮本武蔵、高田屋嘉兵衛などは地元ゆかりというのもあるのかな。

この後のコーナーも含めて、国宝や重要文化財の作品があるわけではなく、多くは江戸時代を中心に当時の絵師が描き残したもの。元の絵があって、それを模写したとおぼしきものもある。ただそれらを含めて、何かを絵に残すということが素晴らしい技術だと思う。

この県立歴史博物館は、他に姫路城や姫路城下の歴史も紹介しているが、地下のフロアでは兵庫県全体についても触れている。改めて、摂津、播磨、丹波、但馬、そして淡路(ここ見落としがち)という5つの国で成り立っている兵庫県の多様性に思いを新たにする。

・・・というところまで書いて、記事は一旦止める。この後姫路で何を食べたかは次回で・・・(と、別に引っ張るわけではないが)。
コメント

大阪くらしの今昔館

2015年12月06日 | まち歩き
地下鉄の天神橋筋六丁目駅の真上にあるのが「大阪くらしの今昔館」である。「住まいのミュージアム」として、住宅の歴史や文化をテーマとした日本で初めてのミュージアムである。

以前にも行ったことがあるのだが、このミュージアムの面白さは江戸時代の大坂の町並みを室内に復元しているところ。店の中のこまごまとした商品も再現されている。

場内には着物姿の人が目立ち、店の前で記念撮影をする光景が見られる。ただその話している言葉を聞くと、日本語ではない。そう、中国語。

うーん、こういうところにも中国人観光客が押し寄せるようになったか。着物を着て町並みを歩くサービスがあるのだが、結構な時間待ちのようである。日本の古い文化を体験できるというのが人気なのだろうか。

下のフロアでは明治、大正、昭和の大阪の町並みを模型で紹介している。船場の賑わいや初代の通天閣もあれば、敗戦後のバス住宅というのもある。こういうのも見ていて飽きない。

さてこの日は、町家寄席というのが行われるというので再び上のフロアに行く。着物姿の中国人観光客で賑わう表通りから路地を入ったところ。こういうところで座布団に座って落語を聴くというのも風情がある。さすがに中国人観光客も、落語を聴いてもわからないからここまでは入って来ない。

出演は「らくてん会」というもの。上方落語協会のプロの落語家ではなく、落語好きのアマチュアたちの集まりである。町の公民館とか、こうした場所での落語会で落語を披露している。芸名も「五月家安庵」、「天満家哲ちり」(てっちりね)、「唐亭一寸風」(空手チョップ)、「柱祭蝶」(「桂」ではなく「柱」というのがアマチュアらしい面白さ)とか。いずれもプロ顔負けの年季の入った感じがする。中で面白かったのは最後に出てきた「柱祭蝶」。酒についてのくすぐりから「替り目」を演じたが、最後のサゲまでタップリと笑わせてくれた。

大阪にもまだまだいろいろな博物館、資料館スポットがある。また機会を見つけて出かけよう・・・・。
コメント

阪神・淡路大震災20年

2015年01月18日 | まち歩き
1995年1月17日5時46分。

あの阪神・淡路大震災が発生した時である。あれから20年ということで報道の取り上げも大きく、改めてその時のことを思い起こす。今でこそ仕事の関係もあり神戸の街も近く感じるのだが、当時大学3年生で藤井寺の実家に住んでいた私は、確かに大きな揺れはあったがそれだけのことで、テレビで次々に映し出される被害のすさまじさに驚いたものの、神戸そのものになじみがないこともあり遠くの出来事のように見ていた感もある。親戚知人で被災した人もおらず、避難所や仮設住宅に見舞いに行く必要もなかったことも、そう感じられた要因かもしれない。

ただ4年前の東日本大震災は、災害の規模が阪神淡路より大きかったこともあるが、社会人になって年月を経てやはり「自分の国の未曾有の出来事」という認識ができたのだろう、自分としても関心を持って見るようになった。ボランティアではないが被災地に2度訪問して、改めて津波被害の大きさと、復興への難しさにやるせなさを感じた。

そこで迎えた20年。朝のテレビでは各局が追悼式典の様子を中継しており、5時46分には私も自室で黙祷する。その後でふと、これまで「1.17」に神戸を訪れたことがなかったことから、「これは一度行かなければ」という気になった。

昼に三宮に現れる。多くの人に混じって東遊園地方面に歩く。その手前の神戸市役所前では「1.17追悼・連帯・抗議の集い」というのが行われていた。ぜんざいのふるまいの呼び込みがあり長い行列ができている。ただよく見ると公式行事ではなく、労働団体系のイベントのようである。歩道に新聞記事の拡大コピーが掲げられ、借り上げ復興住宅の期限である「20年」が過ぎたから退去を求められるとか、高齢化が進む中での孤独死や自治会の破綻といった問題に注目し、その問題をアピールするという主旨のようである。市役所の前で行われているし、三宮駅から歩いてくるとこの集会に先に出くわすので「これが公式行事?」と一瞬思うのだが、「抗議」という言葉にもあるように、もともとは市役所前での座り込み活動から起こった行事だという。それがいつしか市役所や警察も敷地や歩道の使用を正式に許可するようになったとか。

確かに震災から20年が経過して、街は復興したがこうした新たな問題も出ているのは確かである。当初は「20年もあればその間に問題は解決するだろう」と思っていたのかもしれない。ただ20年は長いようで短かったのかもしれない。東日本大震災も問題解決が進まない中でもう4年が経とうとしている。だからさまざま考えなければならないし、こうした集会を行うのが悪いとは言わないが、まずは静かに祈りを捧げさせてくれよとも思う。

東遊園地に到着。竹筒を燈籠のように並べて「1.17」の形をつくっている。ろうそくの配布所があったのでそこで何がしか募金して、水に浮かべるろうそくにもらい火をして点灯する。犠牲となった人、今も「復興」ができずに苦しんでいる人たちに思いを致す。

しばらく広場にいると、ポツポツと雨が落ちてきた。やがて降りが強くなり、傘を持っていないのでどこかに避難することに。震災へのメッセージの寄せ書きをするテントがあったのでそこに入る。同じように雨宿りをする人たちで一杯だ。雨が止むのを待つ間、その分さまざまな寄せ書きを見ることができた。20年前に実際に被災した人、まだ産まれていなかった人、東北から来た人・・・さまざまな人たちの、さまざまな思いがそこにある。

そんな寄せ書きを見て回ると、ふと同じテントの中に見覚えのある顔。

「支障さんじゃないですか」

声をかけると果たして鈍な支障さんで、やはり震災20年ということで三宮にやって来ていた。当時すでに社会人として働いている中で、知人にも被災された方がいるとのこと。当時の状況はやはりショックだったそうだ。

これが男女の出会いなら何とまあ偶然からドラマチックだろうかと思うが、お互いおっさん同士、時間がよければ三宮のガード下にでも一杯やりに行こうかという口である。さすがに時間も早く、私も夜は大学時代のメンバーと一席あるのでそれはなかったが、せっかくなのでそれまで神戸歩きとする。

「久々に雨男本領発揮ですわ」と話す支障さんだが、その雨も小止みになったのでテントを出る。これからHAT神戸にある人と防災未来センターに向かう。また雨が降ってもいけないので、三宮から春日野道まで阪神で一駅乗車する。地下ホームから地上に出るとまた青空が広がっていた。

ちょうど広場では震災の追悼式典やイベントが行われており、耐震や防災について紹介するテントも並んでいた。私たちが広場に着いたその時、サイレンを鳴らして救急車が入ってきた。急病人か?と救急車の行く先を見ると、停まったのは赤十字社のテントの前。どうやら救急救護の訓練イベントだったようだ。

訓練イベントの一環か、ちょうどそこに海上保安庁の巡視艇がやって来た。巡視艇「ふどう」。船内の一般公開が行われるとのことで、私たちも列に加わる。大阪湾から播磨灘を担当しており、消防救助活動に当たる。

しばらく着岸を待つうち、海上保安庁と言えば「海猿ですなあ」と支障さん。目の前では「リアル海猿」が着岸作業を行うが、なかなか位置が決まらず何回もロープを巻き直している。後ろの人たちは「普段一般の人乗せへんし、安全にロープとか張っとかな何かあった時に責任になるからなあ」と話すが、それにしては時間がかかる。支障さんも「ドラマの海猿の伊藤英明のほうが早かったりして」などと言い、さすがに監督らしいのが「おい○○!」と呼んで自分の左手首を指差す。停泊時間も限られている中、当事者から見ても時間がかかっていたのだろう。ようやく見学開始で、一度に30名程度が入れ替わって中に入る。

巡視艇「ふどう」は前方、中段、上段に計4門の放水銃を持つ。放水のイベントがなかったのでわからなかったが、威力は相当なものだろう。尖閣諸島沖での中国船との衝突ではないが、武力がない中で相手に対抗するには水鉄砲くらいしか手段がないのだし、それなりのものはないと・・・。舵が自動車のハンドルと形が似ているのに意外さを感じる。

続いては消防挺の「くすのき」に乗船。こちらは神戸市消防局の船である。小型な分機動力がありそうだ。こちらも両弦にホースが扇状に立てられており、各方面への放水が可能である。こうした船が出動する事態にならないに越したことはないが、万が一の時の安心ということで。

この日のイベントはさまざまな車両が並び、自衛隊の風呂用の給水車や人員輸送車、装甲車があるかと思えば地震の揺れの体験車両もある。特に子どもには好評のようだった。

そしてやって来た「人と防災未来センター」。阪神淡路大震災を伝えることで、震災を風化させないとともに防災意識を高めようということでできた施設である。昨年、「関西私鉄サイコロしりとりの旅」で阪神春日野道に降り立った時に訪れ、内容の濃さに「神戸観光のスポットとしてお薦め」と感心したものだった。ちょうどこの時期震災20年の特別展示が行われており、しかも1月17日は入場無料である。

タイミングよく、待たずに最初のシアターへ。ここでは震災を特撮と音響、CGで再現。淡路島、三宮、阪神電車、阪急伊丹駅、阪神高速、病院、商店街などが倒壊する映像がこれでもかと続く。その作り込みは一瞬「震災の瞬間を狙って、そこにカメラを仕掛けてたのでは?」と思わせるくらいのリアルさである。

もちろんそんなことはなく、これはあくまで特撮の映像なのだが、その次の部屋で見た「震災から復興までの様子を一人の女性の体験談風に綴る」映像に流れるのは実際の光景である。20年前の映像を見て、今とは違うと思う反面、今でも同じと感じるシーンもあり、うなるしかない。

映像を観た後は、さまざまな写真、遺品、語りで満たされたフロアへ。目につくのは小さな子どもを連れた家族。両親は私と同じかそれより若い感じ。話したわけではないのだが、両親のいずれかあるいは両方が何らか被災し、その後さまざまな苦労を越えて結ばれ、今度は子どもに伝えようということだろう。子どもがこの日どこまで理解したかはわからないが、そんな光景が「自然に」あちこちで見られたことに「ええなあ」と思った。

この後で、特別展示を見る。改めて20年を年表で振り返る中での震災。前日の1月16日の神戸新聞では、神鋼ラグビー部の日本選手権7連覇を伝えていたが、その翌日の夕刊は・・・。

被災地の様子を3D眼鏡で観るコーナーもあるが、その横で目にしたのがブルーウェーブの44番のユニフォーム。高橋智のもので、右袖に「がんばろうKOBE」のワッペンが光る。仰木監督の采配とイチローを軸としたあの年のブルーウェーブの快進撃は他を圧倒するものだった。個人的には藤井寺球場で(近鉄ファンなのだが、当日は同行のブルーウェーブファンにお付き合いする形で三塁側で)佐藤義則の当時最年長のノーヒット・ノーランをナマで観たのが印象的だった。もうこれは敵ながらあっぱれとしか言いようがなかった(一方で、にわかブルーウェーブファンで佐藤の投球には興味がないのか、それほど遅い時間でもないのに、試合終盤だがイチローの最後の打席が終わるとともに席を立つ人も結構いたのも憶えているが)。

2015年、震災20年の記念行事の一環ということもあり、4月に神戸で行われるオリックス対西武戦は、ブルーウェーブの復刻試合となることが発表された。5年前は日本シリーズを争ったヤクルトとの交流戦がそれだったが、今度はペナントを争った西武戦である。これはぜひとも行かなければ・・・(ただ、私が「BlueWave」とデザインされたレプリカユニフォームに袖を通すかどうかは、もう少し心の整理が必要だと思うのだが)。

その後で、東日本大震災とのデータ比較、南海トラフ地震、首都圏直下型地震に関する展示を見る。

首都圏直下型地震のコーナーでは「さて、あなたは、どこにいますか?」という結び言葉とともに、首都圏のあちらこちらで地震が起こったとしてどのような被害が想定されるかのイラストが展示されていた。名前は明らかにしていなくても、イラストはどこを描いたのかは作品や解説を見れば明白である。ただ、それぞれの解説文の末尾につけられている「さて、あなたは、どこにいますか?」というフレーズは、「あなたはこのイラストのどこにいますか」ということではなく、「これだけの数のイラストがあるなら、どれかのイラストの、どこかにあなたはいるでしょう」という意味合いなのだろうか。仮に私の以前の東京勤務がその地震の日まで続いているとすると・・・確かに、どこかにはいると言えるだろう。その瞬間にどういう行動を取るかはわからないが・・・。

最後に避難所の一家族のスペースを再現したコーナーを見て、見学は終了とする。センターの下にあった慰霊碑に手を合わせる。沈みゆく夕日が物悲しさを際立たせる。

「人と防災未来センター」は、阪神・淡路大震災を総括するとともに防災教育の場として充実しているし、やはり多くの方に来ていただきたいスポットだと思う。その一方で、震災から4年が経とうとしているのに復興の「ふ」の字が出ているかどうかという状況である東北はどうなのかと思う。福島原発がもたらした暗く深い闇や、津波被害の甚大さはわかることなのだが、それを割り引いても復興が進んでいないのが事実である。

これは乱暴な意見で、たかが一ローカルブログを綴る者の酔言でしかないのだが、「津波で逃げ遅れた自動車学校の生徒たちの親などが起こした訴訟に対して、自動車学校の安全配慮義務違反を認めて、原告の訴え通り19億円の損害賠償の支払いを命じた」という判決に現れていると思う。あるいは、石巻の小学校の津波被害に対して損害賠償を訴えた保護者たちの姿勢にもつながる。

20年前とは訴訟に対する意識の変化もあるし、「何事も訴訟」という西洋式の考えが浸透したということだろう。震災被害の広がりは天災ではなく人災だというのが今の主流の考えである。ただ、何事も人災だとして、その解決を損害賠償に求めるというのは、何か違うと思う。阪神・淡路大震災の時はどうだったか。何でも安全配慮義務として裁判を起こしたのか。神戸の人々とは違い、東北はそういう連中ばかりなのか。もしそれが本当なら、石原元環境相が言った「要は金目でしょ」は事実をよく言い表したけだし名言となる。そんな訴訟の損害賠償でカタがつくのなら、「絆」って何やねんと思う。カネで結びついた「絆」か、それなら納得。その一方で、損害賠償で多額のお金を得たのなら、そんな連中に義援金はビタ一文配分してほしくない。

・・・本気でこう書けばそれこそ簀巻きにされることだし、そうは思いたくない。思うに、2011年に阪神・淡路大震災が起こっていたら、東北と同様にこのような訴訟が起こされ、その件数も東北とは比べ物にならなかったかもしれない。ただ結局は、地元民がというよりは、一部の「プロ市民」がそそのかしていることだろうか。21世紀に入って顕著になった、人の弱みにつけ込み、問題解決を装いながら結局は自身の懐を肥やす「プロ」の「市民」。それって、どうよ??ようわからん。

そんなことはこの時に鈍な支障さんに答えを求めるものではなく、そろそろセンターを出て大阪に戻ることにする。最後にセンター横の慰霊モニュメントに手を合わせる。6434名の犠牲者たちは、20年後の今の姿を見て何を思うのだろうか・・・・。
コメント

近鉄・阪神・山陽横断ツアー~姫路城へ

2014年07月20日 | まち歩き

Dscn8029 5時間半近くの乗車の後、ツアー参加者の行動はそれぞれ。すぐに山陽電車に乗って引き返す人、「帰りはJRにしようか」と言う人、そしてせっかくなので周りをぶらつこうという人である。イベント参加の特典で、姫路城にある大河ドラマの展示館の入場料の割引券というのがついていたが、大河ドラマはいいとしてせっかくなので姫路城に行ってみる。これで、奈良の興福寺・東大寺という世界遺産~甲子園という日本の野球文化遺産~そして日本で最初に世界遺産に認定された姫路城・・・と、文化遺産ラインが完成する。

5年前、姫路城が現在の形に築かれて400周年を迎えたのを機に始められた大天守の大規模な改修工事。大天守が工事用のフェンスにすっぽりと覆われ、屋根の高さから工事の様子が窺えるという、その時ならではの見ものもあったのだが、今年の5月に久しぶりに大天守の姿が披露された。

その様子が「白過ぎ城」ということで一部話題になったそうだ。ただ元々「白鷺城」と呼ばれていたのは漆喰の白さから来ているもので、普段見慣れていたのは経年によるカビや汚れでそれなりに色のついた姿だという。前回の大改修が50年あまり前のことというが、その時の映像でも真っ白な姿を捉えている。

Dscn8030 商店街を抜ける。軍師官兵衛にちなんだグッズや土産物を売る店があったり、大河ドラマ館の周りにも官兵衛見物客を当て込んだ店が並ぶ。やはり姫路は官兵衛に姫路城で賑やかなことである。

Dscn8032 Dscn8038 その城郭に入る。大天守はまだ改修中のため内部に入ることはできないが、とりあえず、行けるところまで行ってみよう。現在は西の丸から化粧櫓の中を歩き、大天守の下まで行くことになる。蒸し暑く感じるがテクテクと歩くことにする。

Dscn8041 ここから先は柵に行く手を阻まれて進むことはできない。内部の公開が再開されるのは来年の3月末の予定であるが、またその後も大勢の観光客で賑わうことだろう。その時を楽しみにする。

Dscn8045 その代わりといっては失礼だが、りの一櫓にて官兵衛やその家臣団ゆかりの武具が展示されているのを見る。

結構歩き回ったようにも思うが、図面を見ると敷地の半分くらいのものである。改めてこの城のスケールの大きさを感じる。また来てみたいと思う。

さて少し早い時間であるが夕方の食事ということにする。姫路のB級グルメとして有名なのが姫路おでん。生姜醤油で食べるのが特徴ということであるが、甘辛く煮た「関東煮き」の味を調整するためだとか、風味をつけるためだとか、ルーツはいろいろあるという。醤油といえば近くの龍野という名産地があるし、姫路の辺りでは生姜も栽培されていたということもあって、地元の食材を生かしたということもあるだろう。

Dscn8050 特に専門店を下調べしたわけではなく、商店街にあった昔風情の居酒屋に「おでん」の文字もあったのでそこに入る。いくつか料理をいただき、締め代わりにおでんを注文。夏におでんというのもどうかと思うが、リーズナブルだし、栄養のバランスも取れるし、アテにもごはんのおかずにもなる。食べ比べをしていないので相対評価はできないが、味はまずまずのものだった。

行きに奈良にJRで向かったこともあり、帰りも目先を変える意味でJRで帰る。新快速は確かに早い。ただあまりに機能的過ぎるように見えることもある。やはり半日私鉄に揺られたからだろうか。明石、姫路、この辺りは往路と復路で目先を変えて、また訪れてみたいものである・・・・。

コメント

近鉄・阪神・山陽横断ツアー~奈良の寺社めぐり

2014年07月14日 | まち歩き

いつぞやの記事 でも書いたのだが、近鉄の奈良を出発し、普段の相互乗り入れの相手である阪神の路線を通り抜け、最後は山陽電車の姫路に至るという「直通列車」がイベントツアーで実現する。奈良を朝の10時前に出発し、途中、普段は入ることのできない車庫への線路を走ったり、駅での小休止も挟み、山陽姫路に着くのは15時半頃。普通の電車であれば各駅停車ばかりを乗り継いでも早く着くのではないかというほどのものである。

この企画は昨年、山陽姫路から近鉄奈良行きで一度行われており、その時は定員の何倍もの応募があり、結局参加者は抽選で選ばれたという。今回はそこまで行かず、近鉄の駅ポスターで告知を見て何日か後に申し込んだらすんなりとOKだったが、最後は200名の定員はいっぱいでキャンセル待ちとなったそうである。やはり好きな人は多いものである。

考えてみれば、南大阪に住んでいる人間がわざわざ朝から奈良に行って、大阪を素通りして姫路に向かう・・・何だか滑稽な話である。ただ、かつて「山陽姫路から各駅に停車して近鉄名古屋を目指す」ということや、関西私鉄のあちこちの駅をサイコロとしりとりを駆使して回ってみようとか、そういうアホなことに比べれば、将来の関西私鉄の活性化につながるかもしれない3社横断列車というのは価値があるだろう。

さて、出発地となる近鉄奈良には朝の8時半~9時半に集合して受付となる。自宅のある藤井寺からだと阿部野橋~鶴橋と乗り継いで奈良線で行くのが普通であるが、近鉄奈良線はどうせ後で走る線区。なるべくなら「一筆書き」というか、同じルートを少しでも減らすのが面白い。ならば橿原神宮前~大和西大寺と回る手もあるが、これだとあまりにも時間がかかる。そこで思いついたのが、道明寺から近鉄道明寺線で柏原に出て、JRの奈良に向かうもの。JRの奈良から近鉄奈良まで移動するついでに、どうせなら世界遺産見学としよう。終点の山陽姫路には姫路城もある。世界遺産同士を結ぶ横断列車ということであれば、乗り鉄の要素も歴史好きの要素も満たすことができる。

Dscn7846 ということで、JRの各駅停車で奈良に到着。あいにくと小雨がぱらつく。天気予報では午後にかけて雨足が強まるとも言われており、ちょっと心配である。

まだ近鉄奈良に向かうには早いので、このまま三条通を猿沢池方面に向けて歩く。奈良を舞台にした落語に「鹿政談」というのがあるが、そのマクラで奈良の名物の一つに「町の早起き」というのがある。今でも奈良公園を中心に数多くいる鹿だが、奈良では春日大社のお使いとして大切にされている。その昔、鹿を殺したり危害を加えたりすると罰せられたとある。そんな中、朝起きて扉を開けるとたまたま行き倒れになった鹿の死骸が横たわっていたとする。このままだと自分の家に疑いがかけられて罰が及ぶので、こっそりわからないように隣の家に死骸を追いやる。後から起きてきた隣の家で扉を開けると鹿の死骸が横たわっていて・・・(以下繰り返し)ということもあることから、自分の家に鹿の死骸を押しつけられないよう、自然と「町の早起き」が習慣になったとか。

もちろん現代の行政では罰するにしてもちゃんとプロセスを踏むだろうが、三条通ではごく普通の都市の日曜の朝独特の気だるい雰囲気が漂う。奈良の町で飲んだことはないのだが、現代風のチェーン居酒屋も並び、土曜の夜はさぞ賑やかなことだろう。

Dscn7847 朝早い時間のこととて観光客の姿もほとんどない中、猿沢池に着く。写真ではそれほど感じないのかもしれないが、池のほとりに立ってみると、池の水は濁って淀んでいる。ところどころに鯉の死骸が上がっている。う~ん、いかんいかん。鹿だの鯉だの、死骸ということを考えるのはやめておこう。

Dscn7852 興福寺に上がる。五重塔、東金堂を眺め、これからの旅に思いを馳せる。さすがに朝7時半では阿修羅像のある宝物殿は開いていないが、古の建物を見るだけでもありがたいものである。興福寺といえば南円堂が西国三十三ヶ所の札所である。現在、JR西日本が中心となって三十三ヶ所めぐりのスタンプラリーのキャンペーンが行われている。四国八十八ヶ所のお遍路といえばハードだし、西国三十三ヶ所も徒歩だとハードであるが、幸い鉄道・バスの交通手段に恵まれている。今度は、これを公共交通機関で順番に回るということもやってみようか。

Dscn7855 Dscn7881 そして奈良公園。鹿もそろそろ起き出したようで、ぶらぶら歩いたり草をついばんだりする。鹿せんべいの売り人たちもそろそろ店支度で、そちらに向かう鹿もいる。それでも奈良の鹿は人に慣れているのか、あまりにも町に溶け込んだ生活を送っているのか、結構大人しい。同じ世界遺産で鹿もたくさんいるのが安芸の宮島、厳島神社前だが、あちらの鹿はすぐに参拝客、観光客にちょっかいを出してくるように思う。鹿にも地域による特性というのがあるのだろうか。

Dscn7879 東大寺までやってきた。大仏殿は朝7時半から開けているということで、やはり奈良のシンボルといえば・・・ということでお参りする。まずは金剛力士像に挨拶して南大門をくぐり、境内を歩く。朝から蒸し暑さを感じる。雨は降ったりやんだりである。

Dscn7863 朝のこととて、訪れた時には20人ほどがいるに過ぎず、静かな佇まいである。大仏はそんなことは小さいことと言わんばかりにゆったりと安座している。

Dscn7873 何度か拝んでいる大仏だが、美術作品として見れば金剛力士像や阿修羅像、四天王像と比べて単純な姿形に見えたとしても、すべてを受け止めるゆったり感、安心感というのが、奈良の顔として世界にその名をとどろかせている。人がいない分、落ち着いて四方から見上げることができる。

Dscn7882 さすがに二月堂や春日大社方面まで行くだけの時間はなくなったので、近鉄奈良駅に向かう。ここから山陽姫路まではおよそ126km。果たしてどのような列車の旅となることだろうか・・・・。

コメント

最後の交通科学博物館見学

2014年03月23日 | まち歩き

しばらく書き込みを休んでいました。また再開しようと思います・・・。

さて、世間は連休、春休みということであちらこちらに出かけられた方も多いことだろう。

Dscn5916 23日、市内で所用があり、その中で時間ができたこともあり、弁天町の交通科学博物館に出向いた。この4月6日で閉館になるということで別れを惜しんでの見学者が多いのはわかっているが、「なるべく混雑する前に行こう」と思っていてもなかなか行く機会がなかった。閉館までの私のスケジュールを考えると、この日が最後の機会かなということで出かけてみた。

Dscn5804 いろんな方のブログなどで最近の訪問の様子を見るに、日曜などは入場に30分待ちなどというのもあった。よほど混雑しているのだろうと思ったが、この日の午後のある時間では、建物の外の広場に並ぶよう誘導されたが、ほとんど待つこともなく入場できた。

Dscn5807 それでも館内はびっしりである。館内展示の「目玉」とも言える0系新幹線の運転台の見学には長蛇の列ができており、こちらは30分待ち。まあ、行列はパスして、他の展示もいそいそと見て回る。もう、解説を読みながらゆっくり見学するという雰囲気ではない。これも仕方ないことだろう。

Dscn5819 Dscn5829 かつて全国を走り回っていたブルートレインのヘッドマーク。ブルートレインも先日の「あけぼの」廃止で国内からはほぼ全廃の雰囲気だし、ヘッドマークというものも、最近の特急型車両というのが前面にそういうのを掲げない構造になっており、往年のものでしかない。それでもこうして揃うのも圧巻である。

Dscn5817 Dscn5816 その他にも鉄道に関するものが満載である。先ほどのブルートレインが花形とすると、こうした急行などはシブいところである。野球で言えば、「かつてこういう外国人選手がいたなあ」と、ちょっとマニアックなところの選手名を出してくるようなものだろう。でも一番味わいがあるのが、鈍行列車のサイドボードの「○○行」だったりして。

Dscn5878 Dscn5882 「交通」の博物館であるから、鉄道以外の自動車や飛行機、船舶に関する展示も行われている。

Dscn5888 Dscn5889_2 新しく京都にできる博物館は鉄道に関するものになるということだが、引き続き「交通全般」ということでこれらの交通機関についても触れてほしいと思う。さまざまな交通機関との組み合わせによって人々に利便性をもたらすということを考えれば、鉄道だけが全てではないと思うのだが・・・。

Dscn5891 ジオラマは幾重にも人垣ができているのでそちらもパスして、企画展示「52年の軌跡展」を見る。交通科学館(当時)の設立や、数々の鉄道車両の搬入の様子をパネルで紹介したり、昔展示されていた車両模型や実物の一部などもある。大阪近辺で子ども時代を過ごした方なら、遠足とか社会見学で訪れたという方も結構いるだろう。

Dscn5895 私も幼稚園だったか小学校の低学年だったかで訪れたのが初めてで(そういうのも「鉄」になるきっかけかな)、その後は何年かに一度、思い出したようにやってきたというところである。JRのガード下という限られた空間で、これだけのものがよく展示できたものだと思う。最近は地方でも鉄道に関するミニ博物館があったり、かつての車両や駅舎を保存して公開しているところもあるが、やはり関西なら梅小路か、ここ弁天町がメインスポットである。

Dscn5907 屋外展示へ。以前はガラスケースに収蔵されていた義経号も外に出されているし、展示車両にも閉館のヘッドマークが掲げられている。

Dscn5845 Dscn5864 車両の内部公開も行われて、往年の汽車旅の風情を少しでも感じてみる。ちょうど宮脇俊三の初期の作品を読み返しているのだが、当時は(SLはもうないにしても)旧型の電車や気動車や客車はまだまだ走っていたので、なおのこと思いを致すことになる。

Dscn5914 何だかバタバタであったが、そろそろ出ることにする。これから閉館日に向けてますます見学客が増えることだろう。ともかく長い間一定の役割を果たしてきたということで、どうもお疲れ様でした(建物に向けて言うのも変だが)。京都に新たな博物館を造るための発展的な閉館であり、今度はどのような形での展示が行われるかが楽しみである・・・・。

コメント

あべのハルカス近鉄百貨店オープン

2013年06月13日 | まち歩き
うーん、これを建てるためにバファローズとローカル線を切ったんやな・・・などというひねくれた考えはやめよう。

日本で最も高いビルであるあべのハルカス。その先行として、近鉄百貨店がオープン。初日とあって昼間は入場制限も行われたそうだ。

毎日の通勤路であるあべの、帰宅時でもレストラン街を中心に混んでいた。

これまでどうしても梅田、難波と比べてマイナー感のあったあべの、天王寺である。同じ関西に住んでいても、あべので飲むと言うと地の果てに連れて行かれるのかと拒絶した人がいる(それは極端な例だが)。まあ、そんなエリアだが、これを切り札に賑わってほしいものである。

あべの天王寺界隈には、下町風情、いい意味でも悪い意味でも大阪らしさが濃く残っている。300メートルのビルのすぐ下に昭和の路面電車が発着するのも妙である。

新しいスポットの一方で、どこかにそういう泥臭さも残してほしい。いろんな混沌を一色単に味わえるのがこのエリアの強みだと思う。雪駄履きでも気楽に入れる高層百貨店であってほしいと願っている。

また落ち着いたら、百貨店内をブラブラとしてみよう・・・。


コメント

阪堺電車まつり

2013年06月08日 | まち歩き

6月10日というのは「路面電車の日」だそうである。なぜ6月10日なのか。例えば日本で初めて路面電車が走った日なのか。そう思って調べてみると、「6=路」「10=ten=電」ということで、「路電(路面電車)」という、言うなればごろ合わせである。各地に残る路面電車の利用促進、PRを行おうということで、この日に合わせて各地でイベントが行われている。

Dscn1176大阪と堺を結ぶ阪堺電車、市民の足としてもそうだが、最近では大阪の下町風情を感じさせるものとして観光客の人気も出ている。その本社に車両基地があるあびこ道で行われた「阪堺電車まつり」。もう15回目だそうだが、初めて出かけてみることにした。

今年は混雑を緩和するために、事前応募により早い時間から入れる客と一般客とを分けたということである。事前応募の人のほうがゆったりと車両の撮影ができたり、グッズ販売で早い者勝ちでお目当てのものを購入したりできるそうだが、私はそこまでの気合いがあるわけでなく、昼食を済ませてからのお出かけである。

天王寺駅前。あべのハルカスの近鉄百貨店先行オープンを間近に控え、何だかざわつきを感じる。ここから電車に乗るがラッシュ時のような混雑ぶりである。電車まつりに行く人も結構いるのだろう。

Dscn1213あびこ道に到着。電停のすぐ大和川よりが車両基地となっており、大勢のファンや家族連れで賑わっていた。そのまま街中を歩かせると結構怪しい感じに映る人もいるが・・・。

Dscn1187検査車両を使用したステージが設けられ、こちらではゆるキャラの登場や楽器演奏などが行われている。その進行を務めるのは朝の番組のお天気キャスターで、鉄道好きということで知られる斉藤雪乃さん。鉄道の制服に身を固めての進行で、来場者の中には彼女目当てという方も結構いるのではないかと思う。

Dscn1200そして阪堺電車の歴代の車両たち。

Dscn1199Dscn1223どの車両が何形式で、何年の製造かという詳しい解説はその筋の皆さんのブログなどご覧いただくとして、どれも個性的で味がある。かつては大阪市内を網の目のように走っていた路面電車であるが、それが地下鉄に置き換わった後でも頑張る上町線に阪堺線。

Dscn1202Dscn1205昭和3年の車両は内部見学もできる。冷房装置がないために夏場は出番がないとのことだが、「窓全開にして、冷房ありませんと予め言っておいて走らせても人気出るんじゃないの?」などという人もいる。確かに走っている時はいいが、停まっている時は暑苦しそう。現にこの日も暑く感じた。

Dscn1190一方では新車のお披露目も。この8月から堺市内を中心に運転される通称「堺トラム」の新型車両である。最近路面電車が見直しされている中で、広島や岡山、高岡を初めとして各都市でこのようなトラム型、LRT型といった車両が投入されているが、ついに阪堺線でも新しい目玉である。何でも和のテイストをコンセプトとしているそうで、阪堺線の緑、千利休の「わびさび」を表した白茶色、堺刃物をイメージした黒のライン・・・。この日は事前に整理券を入手した人を対象に内部見学も行われたそうである。

Dscn1191個人的には昔の形式の油臭さというのがいいが、沿線の人たちの利便性を考えればこうした快適な車両の導入というのは、路面電車が生き残るために必要なことだと思う。今年度中には天王寺駅前にも顔を出すことになるそうで、あべのハルカスと堺トラムが出会う光景も今から楽しみである。

Dscn1237車両基地、電停の周りも大勢の人で賑わい、次々にいろんな広告をまとってやってくる電車には多くのカメラが向けられる。

Dscn1254一通り見学を終えたところで私も電車に乗り込み、住吉大社に向かう。せっかく来たのだからお参りをしよう。住吉大社の常夜灯と電車の組み合わせというのもなかなか絵になる景色である。

Dscn1246住吉大社は海上交通安全のご利益があることで知られるが、いろんな摂社、末社がありその中には縁結びもある。こちらのほうもしっかりとお参り。

Dscn1248また五所御前の石の玉垣の中にたくさんの石が敷き詰められているが、その中には「五」「大」「力」と書かれた石が交じっている。この石を拾って一組揃え、それをお守りとすると五つの力(寿力、福力、体力、智力、運力)を授かるという、パワースポット的なところも。しばらく探すうちに3つ揃ったので袋を買い求め、バッグに入れる。これで力が湧いてくるかな。

Dscn1256帰途は混雑するあびこ道方面からの電車を避け、もう一つの終着駅である住吉公園から乗車。短い時間の阪堺電車乗り歩きはこれで終了。

Dscn1180この日は昭和3年の現役車両とこれからの新型トラムの両方が一堂に会するということで、なかなか面白かった。この先に向けてまだまだ路面電車の存在価値を見出すことができたように思う。旅先で路面電車に乗る楽しみもあるが、こちら阪堺電車についても、ちょっとした街並み散歩ということでこれからもちょくちょく訪ねてみたいものである・・・・。

コメント

汐見橋線に乗ったり降りたり

2013年05月02日 | まち歩き

南海汐見橋線の乗り歩き。

Dscn0185汐見橋を出た2両編成の電車はガタゴト言いながら南へ走る。左手には阪神高速の高架と、かつてホームレスが寝起きしていたスペースの歩道が続く。そうするうちに前方にJR大阪環状線の高架。日々の通勤で使っている環状線からこの汐見橋線の線路はよく見えるのだが、こうして高架を仰ぐのも逆に新鮮に見える。それをくぐってすぐのところで芦原町駅に到着。環状線と交差するところに駅がないのが不思議に思う。

Dscn0190続いて停まるのは木津川駅。ここで下車する。

Dscn0195Dscn0194現在は島式ホームが一本使われているだけだが、駅舎に至るまでに2本の側線跡を渡る。その昔、汐見橋線が高野線として元気だった頃のことだろうか、貨物の取り扱いで賑わったというらしい。紀伊山地で伐採された材木を橋本あたりから貨物列車で運び、水運の利のあるこの木津川から舟に積み換えられ、周囲の工場に運ばれていった歴史がある。

Dscn0192ただそれも今は昔。線路も草むしており、野良猫が自由気ままに構内を遊びまわるところ。この駅の構内だけが大阪市内にあって時間が停まっているかのようである。見ようによってはこれも立派な「秘境駅」ではないかと思う。都会型のそれとして・・・。

Dscn0196日中のこんな時間に降り立つのは私一人、と思うが、駅舎のほうから水の流れる音がする。水洗トイレのそれとは違うようだが、いざ駅舎に入るとびっくり。駅の片隅の水道を使って何やらしているおっちゃん一人。一瞬の出来事に「顔を合わせたら何を言われるかわからん」ということでそそくさと改札を出る。何せ、どうみても「部外者」という出で立ちで降り立ったものだし。

そして外から見た木津川駅。駅前の道は何と砂利道。自転車やらクルマやらはいっぱい停まっているのだが、果たしてこれ、駅を利用するために停めているのはどのくらいあるのだろうか。高速道路や市営住宅は遠くに見えるが、駅の周りは実に殺風景なものである。

Dscn0199さてここからは隣の津守まで歩いてみることに。砂利道の駅前から舗装された道に出て、南の方角に歩く。時折ダンプカーや高級乗用車が通り抜ける。この辺りは水運の利もあるのか、運輸関係、そして町の鉄工所といった建物が並ぶ。降り立ったこの日は平日だったので、機械の動く音があちこちから聞こえるのだが、これが日曜日にでも訪れようものなら、人っ子一人いない、それこそ誰とも出会うことのない殺風景な景色に映るのだろうなと思う。都会の中の秘境といってもいいだろう。

Dscn0200それでも津守駅に向かうにつれて工場も大きくなる。昔ながらの佇まいの建物も見る。今でも現役で頑張っているのだろう。

Dscn0201線路を渡ったり、昔ながらの住宅街を抜ける。すぐ横に錆びれた線路を見るが、これも大阪の一つの顔なのだなと改めて思う。西成高校、そして西成公園にやってくるが、学校や公園の周囲は高いフェンスで囲まれている。よくは見なかったが、公園の向こう側にはテントが見える。行政がホームレスの公園への侵入を防ぐために取った措置だろう。

Dscn0205津守駅と公園が向かい合うところであるが、公園のほうから私をギロリと睨む複数の視線を感じる。カメラはバッグの奥深くにしまい、駅の中に入る。

Dscn0207列車を待つうちに、おそらくロシアとか東欧の人なのかなと思う女性二人連れがやってくる。先ほど乗ってきた車両に乗り込み、次の西天下茶屋で下車する。

Dscn0211この辺りまで来ると、先ほどまでの地区とかホームレスとかいう言葉は脇に飛ぶことになる。大阪の中でもディープなところというか、下町風情満載のところである。ちょうど昼時ということで地元の人たちも買い物に出てくる頃合いである。

Dscn0214私は見ていないのでよくわからないが、NHKの朝のドラマでも舞台になったというこの西天下茶屋商店街。さまざまな店が軒を連ね、スピーカーからは昭和風情の歌謡曲が流れる。私も一時、昔ながらの風情に身を任せる。これが日曜日なら一斉に店を閉じて、訪れる者には「シャッター商店街」と揶揄されるところだろうが、平日となればまだまだ活気のあるところである。

Dscn0219商店街をそのまま通り抜けると線路から遠ざかるので、適当なところで方向を立て直す。途中、高さ1.8mというところをくぐる。こういうところが残っていること自体、汐見橋線の昭和風情は侮れないなと感心する。

Dscn0223このまま終点の岸里玉出まで歩く。途中、国道26号線をまたぐ昔ながらの鉄橋がある。それに沿う歩道橋に陣取って、やってきた2両の列車を撮影する。30分に1本、思い出したようにやってきて、渋滞の国道26号線をあざ笑うかのように通過する風情もいいものである。南海らしいといえば、実に南海らしいなと思う。

結局岸里玉出には歩いて到着。南海本線のホームに上がる。難波方面に向かって左前に、この日のメインの汐見橋線ホーム。ちょうど、汐見橋に向けて出発するところであった。一方で右前方にあるのは高野線ホーム。今や汐見橋という駅なぞ知らないと言わんばかりに、次々に列車がホームを通過していく。これらも時代の流れだろうか・・・?

Dscn0225これで汐見橋線の乗車記は終わり。ただ南海はグループ会社を含め、私にとってまだまだよく知らない路線が多いところ。これから少しずつ知識を深めるとともに、純粋な気持ちで高野山をはじめとしたあちこちのスポットと訪れてみたい。その一方で大阪下町の居酒屋訪問も続けてみたいところである。

まだまだ、鉄路の旅は続く・・・・。

コメント

南海汐見橋駅

2013年05月01日 | まち歩き

このところ、近鉄対南海復刻試合のことや、堺市博物館で南海ホークス関連の企画展示を見学したりと、「南海」がらみの記事が続いている。

だからというわけではないが、南海の本業である鉄道のことも触れてみようと思う。南海と昭和・・・ということで思いついたのが、現在の大阪市内にあって昭和のローカル線風情を残す「汐見橋線」である。汐見橋から岸里玉出までは普通に乗車すればわずか9分というところであるが、せっかくなので沿線との歩きを絡めながら進めてみようと思う。

Dscn0154難波から1駅、阪神なんば線と地下鉄千日前線の駅である桜川。この隣にある四角い建物が汐見橋駅である。桜川駅では南海乗り換えの表示はあるものの、電車に乗っても「南海線はお乗り換えです」とは言われないところが、どこか忘れ去られた感じのする路線である。

Dscn0156この一角だけ「昭和」の空間が残っているように思える。現在でこそこのようなさびれた風情の終着駅であるが、歴史を見れば南海高野線の始発駅である。かつては出札口や売店もあったようだが、現在は閉じられておりポスターの掲示やパンフレット置場になっている。

Dscn0165改札口の上には「昭和30年代のものです」と但し書きのある路線図がある。右上の大阪側にはなんば、汐見橋、そして天王寺とターミナルが3つあり(といっても、ターミナルとしてはなんばの一人勝ちだっただろうが)、さらには阪堺線、上町線、平野線といった支線も見られる。昭和30年代、南海ホークスがパ・リーグの強豪として君臨していた頃である。路線図からも当時の活気のようなものが伝わってくる。

Dscn0172Dscn0179当時はどのくらいの列車が走っていたのかはわからないが、現在は閑散としたもので、列車は日中は30分に1本。1編成の車両が行ったり来たりする路線である。それでも阪神なんば線の開通により、こちらへの乗り換えで利用する客も増えているようである。やってきた電車からの10人あまりの下車客の多くは、阪神桜川駅に続く階段へと吸い込まれていく。

Dscn01802両編成の車両は「角ズーム」と呼ばれる支線用のもので、昭和45年の製造とある。昼間の時間のこととて、乗客はわずかに4人。ガタゴト言わせて岸里玉出に向けて出発する。

Dscn0183汐見橋駅の駅前から線路脇、そして阪神高速の高架下というのはかつてはホームレスの拠点であったところで、私も以前にこの線に乗った時にはビニールシートやテントや段ボールをでできた住居を目にしたが、このところの再開発事業(阪神なんば線の開通もそうかな)にともない強制排除されたという。線路と道路の間の歩道の中央にも高いフェンスが張り巡らされ、そのフェンスに囲まれたスペースが、人一人が寝るのにちょうどよい空間であったことを物語る。

このまま乗っていてもいいのだが、せっかく時間があるのでどこかで降りてみることにしようか・・・・。

コメント (2)

奈良・京都県境でのクリスマスイヴ

2012年12月24日 | まち歩き

この数年、天気予報で聞かれる「クリスマス寒波」。この24日のクリスマスイヴはこの冬の最低気温を更新したところも多いようだ。ホワイトクリスマスやなあ、と言っているのは呑気な話で、日本海側などは豪雪となればそれどころではないだろう。

Dscn7850そんな中でちょっとお出かけをしたのだが、奈良・橿原は午前の11時で結構雪が舞っていた。橿原神宮前から近鉄ビスタカーの乗り鉄を行ったが、雪の向こうにオレンジの車体が停まっている光景もなかなか見られるものではないだろう。

Dscn7854ただそんな雪も橿原神宮前を出発してすぐに晴れ、ただ風や冷気は結構強い天候で大和西大寺に到着。ここで各駅停車に乗り換えて高の原に到着。駅前のイオンモールへ。敷地の中に奈良県と京都府の境界線が走ることで知られている。そういえば高の原と聞いて、奈良県だったが京都府だったか、どちらでも言えるなと。

広大な敷地にはいろいろなショップも入っているので時間を過ごすには適しているし、こちらもクリスマスムード満点。多くの買い物客、あるいは映画を観ようかという客で賑わっている。今や郊外の街中にあって一日を楽しく過ごすスポットとして定着しているのがイオンやアリオを初めとした大型ショッピングモールであるといっていいだろう。

Dscn7858奈良県側の「平城コート」では京都芸術デザイン専門学校の学生たちの手による「海の中のクリスマス」というオブジェが展示されている。さまざまにデザインされたクリスマスのキャラクターたちが躍動感たっぷりに飾られていて、ちょうど先週に京都水族館を訪れたこともあって、あのさまざまな魚が泳いでいた大きな生簀・・・もとい水槽を彷彿とさせる。

一方の京都府側の「平安コート」では、クリスマスのハンドベルのコンサート。披露してくれたのは京都イングリッシュハンドベルという名前だったか、これまでもあちこちのイベント会場で演奏活動を行っているとのこと。ハンドベルの本格演奏を聴くのは初めてだが、クリスマスソングとベルというのはよく合っていると思う。

Dscn78785人の演奏者がベルを両手に持ち、メロディーを奏でるのだが、ベルというのもそれぞれ出す音が異なるそうで、曲によって担当の音が入れ替わる。また鍵盤のように左からABCDE・・・と行くわけではなく、AとCを持ったり、BとGとFだったり、自分の前に何個かのベルを置いてそれを操る。見ている分には易しそうに見えても、やっている分にはリズムよくベルを上げなければならないし、ベルを間違えてもいけないし、やはり難しいことなのだろう。

「きよしこの夜」「ジングルベル」などのクリスマス定番曲に加え、最後はアンコールで「ムーン・リバー」を披露。司会の説明では、通常人15人で演奏するところを3人でやるという「アクロバット」。確かに手元に10個くらいのベルを置いて、それを間違えず、間髪入れずに鳴らすのだから相当なテクニックが必要。ゲーセンの音楽ゲームでもなかなかこれはないだろう。

建物の中といっても外からの風が来るので結構寒かったが、それでも心温まるベルの音色、何だか久しぶりに「クリスマス」の実感をしたような一日であった・・・・。

コメント

京都水族館

2012年12月21日 | まち歩き

Dscn7743今年の3月に京都梅小路にオープンした京都水族館。水族館といえばだいたいが海べりにあるものというイメージだが、内陸、それも京都という街に造ることについては賛否両論があったものの、蓋を開けてみれば京都の新しい観光スポットとして賑わいを見せている。

今回同行のKさんと京都に来ようというのも、まずはこの京都水族館がきっかけである。その前座で梅小路の蒸気機関車館を楽しんだ後にやってきた。入口に行列ができる・・・というまでの混雑はなかったが、ここのチケットはローソンのチケットでも前売りで購入(ただし当日券と同額)できるとあって、入場はスムーズだった。

Dscn7746まずは「京の川ゾーン」。京都の有名な川といえば市街を流れる鴨川に、日本海に注ぐ由良川。まずは水槽の水の透明さ、そして子どもでも等身大で、川の水の中を眺めることができる展示が目を引く。

Dscn7749中でも見どころはオオサンショウウオ。鴨川にはオオサンショウウオが生息しているとかで、この水族館で人気の?生き物なのだが、よく見ると水槽のコーナーにへばりつくように何層にも重なってじっとしている。「オオサンショウウオってこんなだっけ?」と、Kさんも興味津々で眺める。うーん、これだけ重なっているのを見るのは初めて。オオサンショウウオといえば赤目四十八滝とか、岡山の人形峠でそれぞれ水槽にいるのを見たことがあるが、それらはせいぜい1~2匹単位での展示。それが「こいつら一家か?」といわんばかりに多く展示されているのを見るのは初めて。結構うならせられる。

Dscn7759Dscn7784この後はアシカやアザラシのいる海獣ゾーン、そしてペンギンのゾーンと続く。それぞれ餌をやったり調教をしたりと、見物する人を飽きさせない。旭山動物園のブレイクがきっかけとなった「見せ方」にも工夫がなされており、心なごませる。一人旅ならなかなか来ることのできないこの手の水族館であるが、この日はKさんという心強いパートナーがいる。お互いにいろいろ感想を言い合いながらこれらの生き物たちの躍動を楽しむ。

Dscn7773そしてやってきたのが大きな生簀・・・・もとい水槽。ここでは500トンという豊富な水量の中を、エイやらアジ、ジンベイザメ、カメ、アオブダイなどのいろんな魚が動き回る。その他熱帯魚もいるし。

Dscn7775うーん、こういうのを見るとやはり「生簀」と思ってしまう。ただそこはKさんから「水族館でそれは禁句!」と突っ込まれる。でも、多くの魚が生き生きと泳ぎ回る姿というのは心がなごむ。大水槽はさまざまな角度で眺めることができ、いろんな表情を見られるのはいい。

Dscn7830Dscn7837Dscn7844_2Dscn7825_2それとは別に海洋ゾーンというのも面白い。普段なかなか見られないようなエビ、カニの仲間たちや、いろいろなクラゲ。それぞれが種を保存し、生き延びていくために変容していった独特の身体つきである。Kさんも面白がって眺める。改めて、これら珍しい生き物を捕まえて水族館で展示する・・・というのが難しいものだと思いを新たにする。一般大衆には受けにくいところだろうが、こういうのも含めての「水族館」だと思う。

Dscn7797Rscn7805さて最後を締めるのはイルカショー。すでに客席はびっしりと埋まる。「HELLO 仲間のあかし」ということで、4頭のイルカがパフォーマンスを見せる。イルカの生態や特徴をイルカ自らが実演してみたり、あとはジャンプしたり。また子どもと握手をしてみたりというのもあった。途中、ジャンプして水中に潜る際の水しぶきが観客にかかるハプニングもあったが、15分というショーは歓声の中で終わった。

Dscn7796この客席から見る梅小路公園の開放的な景色がよい。イルカの水槽の向こうには芝生の広場が広がり、その向こうには東海道線の線路で、新快速や貨物列車が走るのが見える。あ、その前にさっきのSLスチーム号が白い煙をはきながらやってきた。また、線路の奥には新幹線の高架があり、ちょうど東寺の五重塔も見えるというロケーション。この造りもなかなかのものだが、Kさんからは「イルカよりそっち(鉄道)のほうが気になってたやろ」と聞かれる。うーん、否定しない。

最後に再び京都の豊かな自然を紹介するコーナーとなり、これで一通りの見学が終わる。京都博物館、他と比べれば小ぢんまりしているのかもしれないが、見せ方にも工夫が凝らされているし、なかなかのところではないかと思う。京都観光といえばどうしても神社仏閣とか紅葉とかに目が行きがちだが、新しいスポットとして梅小路は一日楽しむことができる。蒸気機関車館のほうも数年後には拡張され、弁天町の交通科学博物館の車両もやってくる予定である。

夜は何を食べようか。先ほどは水槽で魚たちを見たこともあり、今度は本当の生簀に入った魚たちをいただくとしようかな・・・。

コメント (2)