まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

「WEST EXPRESS銀河」紀南コースに乗る~いざ出発

2021年08月31日 | 西国三十三所

まさか、人気観光列車「WEST EXPRESS銀河」の2回目の乗車記を書くことができるとは思わなかった。

2020年9月に大阪~出雲市間の「山陰コース」に乗車したのに続き、今回2021年8月に新大阪~新宮間の「紀南コース」に乗ることができた。しかも、いずれも他のどなたかがキャンセルしたためか「繰り上げ当選」の恩恵にあずかった。こういうケースもなかなかないのではないか。

昨年同様コロナ禍の最中ではあるが(とはいえ、昨年の9月は「GoToトラベル」というのもやっていたな)、出発日が決まっていて、この機会は逃すものではない。「不要不急」の判断は個人に委ねる・・・ということで、そのまま行くことにする。本当に深刻な状況なら、この列車そのものの運行が中止されるはずである。まず、そこのところをお断りしておく。

さて、コースにつけられた「紀南」という言葉、これまであまり聞いたことがない。私はあの辺は「南紀白浜」のように「南紀」と認識していたのだが、「南紀」、「紀南」それぞれ意味があるそうだ。「南紀」とは「南海道紀伊国」の略で、紀州全体を指す言葉、そして「紀南」は「紀州南部」を指す言葉という。今回、紀勢線を運行するにあたり、日本旅行が宿泊プランや地元のおもてなしを提供しているのは周参見、串本、太地、紀伊勝浦、新宮といったこの「紀南」地域である。

コースは3つある。まず「Aコース」は、1日目往路「銀河」利用(夜行)~2日目現地宿泊~3日目復路「くろしお」で戻るプラン。金曜日夜に「銀河」が出発することもあり、こちらのコースを申し込んでいた。他には「Bコース」として、1日目往路「くろしお」利用・現地宿泊~2日目復路「銀河」利用(昼行)。そして「Cコース」は、「Aコース」の復路3日目も「銀河」利用(昼行)である。私が大阪在住ならどのコースでもよいが、「Bコース」、「Cコース」だと復路「銀河」の大阪着が夜遅く、そこからその日のうちに広島に戻るのが困難である。ということで「Aコース」1本に絞っていた。

そして当選したのは、8月27日夜出発の「Aコース」。「銀河」ではリクライニングシートに乗車、新宮到着後の28日夜は新宮ユーアイホテル(朝食付き)に宿泊。そして29日は新宮8時32分発の「くろしお16号」に乗るが、申し込み時、グリーン車で戻るオプションをつけていた。

新宮に9時37分に到着した後はフリータイムで、乗客それぞれが思い思いのところに行くのだろうが、私はもう「熊野三山詣で」一択である。そもそも今回、5月にエントリーした分の「繰り上げ当選」の通知が来たのが、8月はじめに熊野三山に行った直後のタイミングのことで、これはもうご利益そのものだと思っている。だから今回はお礼参りとしてのお出かけでもある。急遽レンタカーも申し込んだ(そのため、この旅行記のカテゴリは「西国三十三所」とする)。

出発の前週に乗車券、バウチャー、パンフレット、その他注意事項が送られてきた。バウチャーの中身は追々説明するとして・・。当日、発熱・体調不良は絶対にあってはならないことだ。

いよいよ出発の27日になった。「銀河」の新大阪発は22時16分のところ、ホームに21時50分集合である。当日はヒヤヒヤしたが仕事を無事に終えていったん帰宅し、シャワーだけ浴びて出発する。広島を出るのが遅くなったらその時点で「銀河」には乗れない。

広島発20時01分の「のぞみ64号」に乗車。この後の広島発20時27分の「みずほ612号」でもギリギリ間に合うのだが、1本余裕を持って出ることができた。この時間の「のぞみ」に乗るのはいつ以来だろうか。以前の広島勤務時、大阪に帰省する時も金曜の夜に慌てて新幹線に乗り込むこともほとんどなかったと思う。

車内で軽めの夕食とするうち、順調に新大阪に到着。

新大阪の集合場所は、「くろしお」が発着する3・4番のりば。「銀河」もここから発車する。階段下に日本旅行の係員が待機しており、あらかじめ配布されていた健康チェックシートを渡し、検温をクリアする。ツアー参加用のワッペンをもらい、袖に貼る。

入線まで時間があるので、蒸し暑いホームからいったんコンコースに上がり、飲み物など仕入れて待つことにする。この時間にここに座っているのは「銀河」に乗車する人たちだろう。

22時10分に入線ということで、そのタイミングでホームに下りる。京都側から、西日本の海や空を表現した瑠璃紺色をまとった117系がやって来る。この歳になっても夜行列車に乗れるだけでわくわくしてしまう。

まずは割当のリクライニングシートがある3号車へ。翌朝はそれこそ黒潮が車窓に広がるわけで、席の指定が気になっていた。指定されたD席は進行方向右側で、海側となる。これはラッキー。また、座席の一番前で、前方の壁に備え付けの木のテーブルが使えるし、改造車にありがちな窓枠がすぐ横にあるわけでもなく、大当たりの座席と言っていいだろう。個室のプレミアシートやグリーン席扱いのファーストシート、横になれるクシェットと比べれば「座席車」だが、この状況のため1人で2人がけを使えるし、この先ゆったり過ごせそうだ。

ホームで撮り鉄たちに見送られて出発。まずは貨物線経由で大阪環状線に入り、天王寺を目指す・・・。

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雨の津和野から日本海へぐるり

2021年08月30日 | 旅行記F・中国

8月22日の日帰り乗り鉄、「DLやまぐち号」で津和野に到着。津和野の駅は改修工事中で、売店が閉鎖されていた。それで改札の前に駅弁の立ち売りが出ていたのかな。

さてこの後だが、せっかくなので山口線のこの先の区間を抜けることにしよう。鈍行・・となると15時18分発の益田行きまで待つことになるが、その前に14時03分発の特急「スーパーおき4号」がある。これで益田まで行き、益田から鈍行に乗り換えて浜田、そして浜田17時発の広島行きの高速バスにつなぐ。そうすれば19時過ぎという手ごろな時間に広島バスセンターに戻れる(この後、15時18分発の鈍行に乗っても、益田から浜田まで特急に乗れば同じバスに乗り継げるのだが・・)。

それまでの1時間ほどだが、ちょうど雨脚が強くなり、観光スポットの殿町通りまで歩くのは億劫に感じる。そこで、駅前にある安野光雅美術館に向かう。ちょうど屋内だし・・。

安野光雅美術館には、この春「DLやまぐち号」に津和野から乗る前にも入った。その時は、安野氏が昨年亡くなったことを受けて開催の追悼展の第1期として「繪本 平家物語」が展示されていた。そして今回は第2期として「繪本 シェイクスピア物語」と「片思い百人一首」の展示である。

シェイクスピアの作品については、そもそも私があらすじを知っている話がほとんどないものだから、絵については「そんなものか」というところだった(無教養・・)。一方、安野氏直筆で一幅の書にした「片思い百人一首」は、上の句を安野氏が詠み、下の句を百人一首から取る「本歌取り」の手法である。解説では、上の句での「現代の『問い』」に対して、下の句で「王朝の人々の『答え』」をもらうということで、現代から昔への一方通行の「片思い」としている。展示の解説文には氏らしさのユーモアも込められている。こちらにはちょっと笑いも出た。

「片思い百人一首」は文庫本が出ていて、エッセイも載っているそうだ。ミュージアムショップにも置かれていたのだろうが購入せずにそのまま出てきた。またAmazonででも買い求めることにしよう。

外は引き続き雨だが、駅に戻り、乗車券と自由席特急券を手にホームに出る。次の「スーパーおき4号」だが、本来は鳥取行きのところ、山陰線の江南~田儀間が先日の大雨の影響で不通のため、浜田までの運転に短縮されている。この区間も代行バスは走っているが、9月上旬とされる山陽線と異なり鉄道再開の目処は立っていないそうだ。ネットに掲載されていた地元局のニュースによると、並走する国道9号線も地滑りで通行止めだが、その解除の目処が立たず、車両を入れて線路の修理に着手することもできないそうだ。

特急といっても2両編成で指定席・自由席が1両ずつだが、自由席にも2人並びの空席がある。窓が曇っていて外の景色は望めない。

益田までの時間を利用して、先ほど手をつけていなかった駅弁をいただく。新山口で買った「ふく福飯」。元々は下関の駅弁だったそうだが、調理元を見ると「広島駅弁当」とある。広島で山口の駅弁を作るとは妙なものだが、駅弁業者そのものが減っている以上、こうしたことは十分ありだろう。

「ふく福飯」はフグの出汁で炊いたご飯の上に、フグの天ぷらと唐揚げが乗っている。以前いただいた「ふく寿司」よりはこちらのほうが好みだ。買った時は、このフグの天ぷらや唐揚げをアテに「DLやまぐち号」の中で一献・・と目論んでいたが、他のおつまみで腹が膨れてしまい、酒だけ飲んで弁当は後回しになった。

結局、弁当をいただいているうちに益田が近づき、そのまま14時36分、到着。

次の浜田までは海沿いを走ることもあり、鈍行でゆっくりたどることにする。そのために津和野から特急に乗った。15時22分の発車まで時間があるが、駅前も雨で別に行くところもない。幸い、ホームには浜田行きのキハ120が停まっていて、すでに乗車可能なようだ。そのためさっさと改札口からホームに入り、まだ運転手以外誰もいない列車のボックス席に腰掛けて発車を待つ。単なる待ち時間でしかないが、こういうぼんやりした一時を過ごすことも今の生活の中では貴重に感じる。

発車時刻が近づくが、その筋の人が現れるわけでもなく、地元の人や高校生などが数人乗る程度で出発。

朝に瀬戸内海(周防灘)、午後に日本海という違った海を見ることができるのは中国地方の旅の楽しさの一つである。この日は瀬戸内、日本海どちらもどんよりした姿で、日本海を眺めると特に冬の景色をイメージする。益田~石見津田、三保三隅~折居~周布といった海に近い区間を過ぎる。

16時13分、浜田に到着。ここで青春18きっぷは終わり、高速バスで一気に広島に戻ることにする。次の広島行きは17時ちょうどで、それまで待つことに。

石見交通の車両に乗ったのは10人ほど。最前列のシートは運転手へのコロナ対策として着席できないので、2列目のシートに乗る。前回はこの春に広島から浜田まで乗り、後半は日が暮れた後だったので景色が見えなかった。今回はその逆である。

いったん、国道9号線の自動車専用区間を走り、浜田インターから浜田道に入る。雨の中、また工事のため片側交互通行の区間もあったが、順調に走る。

こうした片側1車線の高速道路、バスに揺られている分には気楽なものだが、自分で運転するとプレッシャーを感じる。絶対、普通の高速を走る感覚で後ろからあおってくる輩に出会うので・・・(追越車線が出てくるまで辛抱するのがつらい)。

広島県に入り、寒曳山パーキングエリアにて休憩。こちら上り線(中国道方面)には小さなスナックコーナー、売店があったのだが、今年の3月末で営業を取りやめたとある。委託業者が撤退したためだが、コロナの影響なのかどうか。その前に、こういうローカルな高速道路の売店で採算が取れていたのかなという気がするが。すでに一部で実施しているように、道の駅とのタイアップで、サービスエリア代わりにETCでの途中下車を認めたほうが現実的なようだ。

中国道に入った後はウトウトしていたようで、気づけば暗い中、広島西風新都を走っていた。ここからは都市高速4号線を伝って広島市街に入る。広島バスセンターに到着し、そのまま広電で高須まで戻る。後は翌日からの仕事に備えて眠るだけだ・・・。

これで青春18きっぷの2回目となったが、有効期間が少なくなる中、せっかくなので使いきりたい。中国地方のローカル線などを回るプランを立てるところで、あの指定席入手困難な列車についても日々空席が出るのを待つばかりである・・・。

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「DLやまぐち号」 DE10重連運転に乗車する

2021年08月27日 | 旅行記F・中国

8月22日、小郡・・ではなかった新山口駅の1番ホームに降り立つ。これから乗る「DLやまぐち号」の入線を待つ人の姿も多い。個人的には、現役のSL時代に乗ったことがない代わりに、ディーゼル機関車が牽引する客車列車には高校生、大学生当時に山陰線などで乗ったことがあり、「懐かしさ」という点では後者のほうに魅力を感じる。

グリーン車の展望車を先頭に、DE10が押し込む形でゆっくりと入線。多くのカメラやスマホが向けられる。DE10は普段車両区などでの入換作業に従事しているそうだが、この夏は2台で主役を張ることになる(大雨のために出番が限られてしまったのだが・・)。

今回乗車するのは津和野寄り先頭車両5号車のオハ31。こちらにも展望デッキがあるのだが、機関車からの排気ガスを受けるために立入禁止である。

個人客、グループ客など合わせて1ボックスに1~3人ということで、乗車率はまずまず。一応、ボックス席の真ん中のテーブルにはアクリル板が設置されている。ちょうど飲み物など立てるのにもよい。

10時50分、ホームからの見送りを受けて発車。SLのように蒸気音がするわけではないが、どこか哀愁を帯びた警笛が鳴る。津和野まで2時間の行程だ。先頭車なので、前方の扉の窓から機関車の背中も見える。

ところどころ雨が落ちる中、湯田温泉、山口と停車する。ここから乗車する人もいるが、私のいるボックス席は相客がなかった。この先にもいくつかの駅に停車するが乗車する人はいないだろうから、このままゆったりと津和野まで楽しめそうだ。

・・ということで、車窓のお供を。この日はクルマを運転する予定はない。

これまで「SL(DL)やまぐち号」に何回か乗っているが、いずれも津和野からの便ではなかったかと思う。旅のスケジュールがそうだったこともあるし、津和野発のほうが指定席が取りやすいという事情があったためだろう。地形からすれば、新山口発のほうが途中の上り勾配も多く、特にSLならばそれだけ蒸気も上がるので見栄えがいいとされる。

沿線のところどころではこのように撮り鉄が並ぶ。「DLやまぐち号」でDE10が重連で牽引するのはこの夏が初めてということで、これはこれで多くの人を集めている。JRとしても、SL不在の間も何とか「やまぐち号」の利用客をつなぎとめようというところだ。

仁保に到着。5分ほど停車ということで、雨の中ホームに出る。ホームや跨線橋で傘が開き、ちょっとした撮影タイムとなる。山間の小駅に客車列車・・国鉄末期のローカル線の写真集や宮脇俊三の紀行文の世界だ。

この仁保から次の篠目までがコース一の難所で、本格的な上りに差し掛かる。いくら機関車の重連とはいえ、ここではスピードが落ちる。トンネルも続くので窓を閉めるようアナウンスが入る。

係の人が乗車記念券を配りに回る。普段「DLやまぐち号」に従事しているDD51をデザインした1枚に加えて、夏のイベントとして、瀬戸内のアイドル「STU48」とのコラボとして、STUメンバーの瀧野由美子さんがプロデュースしたオリジナルデザインの乗車記念券が加わる。

上りを終えて、窓を開けてもよいとのアナウンスが入る。車内はほどよく空調も効いているし、外は雨がぱらついているのだがせっかくなので窓を開ける。周囲の家の屋根も石州瓦に変わり、同じ山口市内でもエリアが動いたのを感じる。

長門峡の辺りではまた沿線にギャラリーが増える。

12時16分、地福に到着。12時30分までの停車で、ここも撮影タイムとなる。

跨線橋はなく、構内踏切を渡って駅の外にも出てみる。バス停はあるが、現在はコミュティバスが出るのみだ。

この後はりんご園のある徳佐を過ぎ、島根県との県境に入る。再び少しずつ山深い車窓となる。

船平山の県境を越え、島根県、津和野町に入る。そういえば、前の記事で紹介した「山口ゆめ回廊博覧会」の7つの自治体の中に、島根県だが津和野も入っている。やはり「SL(DL)やまぐち号」の終点でもあるし、「萩・津和野」と観光でもセットになることが多いことがある。

津和野の町の中心部に入り、12時58分、津和野到着。

新山口から2時間の乗車だったが、車内、車窓ともローカル線の雰囲気を満喫することができた。またこの秋はD51が検査・修繕を終えて復帰する予定で「SLやまぐち号」に戻るが、期間限定のこの「DLやまぐち号」も、春と合わせて上下線乗ったことで私にとって懐かしい「汽車旅」を楽しむことができた。また他の路線でも客車列車に乗りたいものである。

さて津和野からどうするか・・・。

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「DLやまぐち号」重連運行を目当てに新山口へ

2021年08月26日 | 旅行記F・中国

8月22日、1日だけ空きがあるのでどこかに行くことにする。前週(8月14日~15日)大雨のために延期した中国四十九薬師めぐりの続き、あるいは中国地方のローカル線乗車ということも考えたが、芸備線の東城~備後落合間などで運休している。

中国地方のローカル線といえば木次線があり、「奥出雲おろち号」が運転されている。ただ、2023年度での運行休止が公表されているためなのか、とにかく指定券が取れない。JRのe5489で「1ヶ月と5日前」の事前申し込みで上下列車の予約にも挑戦したが、両方外れたこともあった。どんだけ人気やねん。

その一方で、山口線の「DLやまぐち号」の記事を見つけた。この春、検査中のSLに代わってDD51が牽引する「DLやまぐち号」が運転されているが、限定日でDE10の重連運転が行われるという。もともと、8月1日~15日での運転だったが、大雨による運休が続いたため、8月21日、22日、29日も追加で運転するとあった。DE10が重連で運転するのは今回が初めてとのこと。そこで22日の空席を検索すると空きがあったので、新山口からの席を確保した。普通車であれば青春18きっぷでも利用可能だ。

さて8月22日、西広島から山陽線に乗車し、岩国に到着。このまま山陽線に乗るところだが、「DLやまぐち号」の発車までは余裕があるので、岩徳線経由で行くことにする。少し時間があるので駅前に出る。この日も時折雨が降る予報で空はどんよりとしている。

折り返しとなる7時19分発の岩徳線経由徳山行きが到着。沿線で倒木があったとかで数分遅れての運行である。キハ40の2両編成で、2両合わせて10人ほどの客で出発。観光列車ではない一般車両で走るのも少しずつ貴重なものになりつつある。ボックス席の前に足を伸ばしてくつろぐ。

川西の先の信号場で錦川鉄道と分かれ、欽明路のトンネルを抜ける。クルマで広島から徳山方面に行くならば欽明路経由が最短距離で、山陽自動車道もこの辺りを通っているのだが、鉄道ではローカル区間である。もともと山陽本線として開通したが、複線化にあたり勾配やカーブ、そしてトンネルをもう1本掘らなければならないことがネックとなって、複線化は柳井回りで実施された。山陽本線の名称も柳井回りに譲り、こちらは岩徳線としてローカル輸送を担うことになった。もっとも、山陽新幹線ができた際は運賃計算キロは岩徳線経由のものが適用されたのだが。

沿線の駅にはかつての幹線の名残も残されている。今は線路も撤去されているが、行き違い用の長いホームがそのまま残されている駅もある。例えば今、それこそ「DLやまぐち号」のような列車を岩徳線で走らせることはできないかなと思う。

岩国を出た時は数分遅れていたが、途中の周防高森での行き違い停車の間にダイヤは正常に戻った。徳山が近づくにつれて少しずつ乗客が増え、8時49分、徳山に到着。

ホーム向かい側に停車中の8時52分発の下関行きに乗り継ぐ。あいにくの天候で、富海あたりの周防灘の車窓もぐずついている。

さて、この列車の行き先表示は下関と出ているが、8月12日からの大雨で山陽線の厚東~厚狭間は運休が続いている。そのためこの列車も厚東止まりとなり、厚狭までは代行バスが運転されている。また、新山口~厚狭間で新幹線による振替輸送が行われていて、8月13日以前購入分であれば青春18きっぷでも同区間の自由席を利用できるそうだ。

8月中旬の大雨で、また各線に運休等の大きな影響が出ているが、それほどニュースには出てこないが貨物列車の輸送に大きな支障が出ている。広島・新南陽~北九州・福岡間でトラックによる代行輸送が行われているとはいえ、通常時の輸送力と比べると限定的でしかない。貨物列車といえば大量輸送、定時運行、環境にやさしい・・というので最近見直されているが、この数年では「災害に弱い」という弱点が目立っている。

9時34分、新山口に到着。厚東止まりとなる下関行きは10時09分まで停車する。「DLやまぐち号」は10時50分発と1時間以上待ち時間があるが、次の山陽線の列車だと発車10分前の到着と慌ただしい。

ちょうど、これから「DLやまぐち号」を牽引するDE10機関車が2両連結されて停まっている。周りにはカメラやスマホを手にした人たちが撮影中。こうした連結を見るのも貴重な機会である。しばらくして誘導の係員が先頭部に乗り込んで、機関庫へと回送されていった。この後、客車を押し込んで入線してくるのでしばし待つことにしよう。

改札口には山陽線の運休に関する情報が出ていた。厚東~厚狭間には宇部、小野田とそれぞれ宇部線、小野田線が接続しており、それらの線にも一部影響が出ている。運転再開は9月上旬とあるが、果たして順調に行くだろうか。

垂直庭園がある自由通路を抜けて、いったん新幹線口(南口)に向かう。これから新幹線に乗る観光客らしい姿も目につく中、無料のPCR検査場も開かれている。

駅前に降り立つと出迎えるのは種田山頭火の像。昨年来た時は駅前の改修工事のため柵が設けられていたが、今はこうして近づくことができる。「まったく 雲がない 笠をぬぎ」の句がある。防府出身の山頭火は、私も今年新たな札所めぐりとしている九州西国霊場を歩いたとして、同霊場のPRに登場している。私もこの先めぐるにあたり、一言ご挨拶を・・。

自由通路では「山口ゆめ回廊博覧会」開催の看板が出ている。全く知らなかったのだが、今年の7月1日~12月31日の開催で、どこかのパビリオンで開催される博覧会というよりは、観光キャンペーン、各地でのイベント開催のようだ。山口県中部の7つの自治体(山口市、宇部市、萩市、防府市、美祢市、山陽小野田市、島根県津和野町)を舞台に、7つの回廊(芸術、祈り、時、産業、大地、知、食)をテーマとしてさまざまなイベントや体験、ツアーなどが開催されるとある。

新山口の在来線側(北口)には、この博覧会の「7つの自治体」、「7つの回廊」を七福神に見立てた宝船のオブジェが飾られている。よく見ると船体にも山口県にちなんださまざまなものがあしらわれている。機会があれば何か参加してみようかな。

そろそろ「DLやまぐち号」も入る頃だろう。ホームに向かうことにする・・・。

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第48番「水観寺」~西国四十九薬師めぐり・42(第14番「三井寺」~西国三十三所めぐり3巡目・30)

2021年08月25日 | 西国四十九薬師

広島から延々と青春18乗り継ぎでやって来た大津。京阪石山坂本線の三井寺で下車。途中の乗り継ぎ時間を含めると、自宅を出てすでに8時間近くかかった。

三井寺駅に「三井寺妖怪ナイト」の看板があるが、その上から「中止」のお知らせが貼られている。8月7日~9日の期間、夜の三井寺を妖怪がさまよう肝試しイベントだが、コロナの影響を受けての中止である。

少し雲が出てきた中を歩き、大門で拝観料を納めて境内に入る。三井寺は天智・天武天皇の頃からの歴史を持つ寺院だが、建物の多くは豊臣秀吉の桃山時代~江戸時代にかけてのものである。まずは右手にある食堂に向かう。現在は釈迦如来が祀られている。

そして本堂に当たる金堂へ。秀吉の正室・北政所により再建された建物で、本尊弥勒菩薩を祀る。この弥勒菩薩は用明天皇の時に百済から伝えられ、天智天皇も深く信仰したといい、三井寺が何度も兵火にさらされたり、秀吉の怒りをかって一時廃寺扱いになったりする中でも無事に残ったという。

靴を脱いで上がり、弥勒菩薩に手を合わせて外陣をぐるりと回る。三井寺を再興した智証大師円珍像や、平安時代以降の大日如来、不動明王など数々の仏像が四方を護るかのように祀られている。この金堂だけでも見ごたえは十分ある。

金堂の前に、近江八景の「三井の晩鐘」で知られる鐘楼がある。除夜の鐘で撞かれることで有名だが、平常でも撞くことはできるそうだ。ただ、鐘楼の前に行くと一撞き800円・・。さすがにいいかなと思う。

三井寺でもう一つ有名な鐘として「弁慶の引摺り鐘」がある。その昔、山門(比叡山)と寺門(三井寺)で争いがあった際、山門の修行僧だった弁慶がこの鐘を奪い、叡山まで引き摺って帰った。そして山門で撞いてみると「いのー、いのー(去のう、去のう)」と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と鐘を谷底に投げ捨ててしまった。

弁慶と言えば、三井寺のゆるキャラ「べんべん」の由来にもなっている。三井寺から見れば「敵方」だった比叡山の僧をゆるキャラにするのも妙な話だが、弁慶関連では他に門前の名物で「弁慶力餅」や「ひきずり鐘まんじゅう」というのもあるそうだ。三井寺にしても「引摺り鐘」伝説がある弁慶のおかげでずいぶん儲けさせてもらっているというところか。

引き続き、三重塔や唐院などを見ながら境内を歩く。それぞれのエリアが独立していてもいいくらいの規模だ。他にも文化財収蔵庫があるが、こちらはコロナ対策のため休館中(トイレのみ開放)だった。

さて、境内も進んできたところでいよいよ水観寺に入る。境内周辺には「三福神」の幟が目立つ。

水観寺は平安中期に明尊大僧正によって三井寺の別所寺院の一つとして創建された。三井寺には5つの別所寺院があったそうだ。京阪石山坂本線の三井寺の隣の駅である大津市役所前は数年前まで別所という名前で、水観寺もかつてはその辺りにあったようだ。

現在の水観寺の本堂は江戸時代前期の再建だが、1988年に現在地に移転してきた。結構最近のことで、その辺りの事情はわからないが、結果、別院寺院を三井寺の本体が吸収した形に見える。一体で管理しているのだろう。

本堂といっても小ぢんまりとしたもので、さしずめ三井寺の薬師堂といった感じである。その扉も開け放たれてオープンな雰囲気だ。本尊の薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将がまとまって祀られている。ここでお勤めとする。

そして、次の間には七福神のうち弁財天、大黒天、毘沙門天が並んで祀られている。元々は三井寺の金堂などで別々に祀られていたが、コロナ終息祈願として昨年の11月から水観寺に集めて公開しているという。薬師如来は病苦、災難から人々を救うとして信仰されていて、それに福をもたらすとしての取り組みである。この三福神をお目当てにお参りする人の姿も見られた。

納経所は独立してあり、西国薬師のバインダー式の朱印をいただく。第48番ということで「もう一周終わられるんですね」と声を掛けられる。いや実際はもう少し残っているのだが・・。

これで水観寺を回り終えたとして次の行き先を決めるサイコロにするところだが、今回はそのまま同じ三井寺の境内で西国三十三所の本尊である観音堂に行くので、それを終えてからにする。

石段を上がり、観音堂の前に出る。三井寺の駅から寺の境内を歩いただけだが、この日は蒸し暑く汗だくになる。観音堂は大津市街を見下ろす高台の上にあるので多少は涼しいかと思ったが、ほとんど変わらない。こちら観音堂は平安時代に創建され、室町時代に現在地に移された。現在の本堂は元禄期のものである。板張りの堂内にそのまま上がり、ここで観音経のお勤めである。

先達用の納経軸に重ね印が入る。これで西国三十三所3巡目も残すは第10番・三室戸寺、第11番・醍醐寺、そして第22番・総持寺の3ヶ所となった。そして、このうちどこで満願となるかは、西国四十九薬師めぐりの出方次第となる・・。

そして次の行き先を決めるサイコロの出目は、

1.大阪(四天王寺プラス西国22番総持寺)

2.橿原(久米寺)

3.阪神(久安寺、昆陽寺)

4.京都(法界寺、醍醐寺プラス西国10番三室戸寺、11番醍醐寺)

5.振り直し

6.振り直し

・・・観音堂から琵琶湖を見渡す展望台でのサイコロ(アプリ)。その結果は、「2」。この前に名張の弥勒寺を切り離されて残った橿原の久米寺である。西国三十三所めぐりがどこで満願になるかは、これでひとまずおあずけだ。

何やかんやで1時間以上三井寺に滞在し、気づけばそろそろ帰りの新幹線も気になるところ。そのまま三井寺駅に向かい、往路と同じびわ湖浜大津乗り継ぎで山科に戻る。帰路は新快速で新大阪に向かい、予定の新幹線に間に合った。

20番線はどこからともなく熱風が舞い込む感じで、「こだま」の入替作業を待つ間、実に暑い。その中で、バファローズのユニフォーム姿でキャリーバッグを持った人を見る。こんなところで珍しいな・・あ、そういえばこの日(8月8日)は京セラドームでエキシビションマッチ(対ベイスターズ)が行われていたっけ。連休を兼ねて大阪に来ていたのだろう。東京五輪の裏で、ましてや公式戦ではないので結果が報じられることもなく、どのくらいの人が観戦していたのだろうか。

余談だがこのエキシビションマッチ、広島でも何試合か組まれていて観戦できるのかなとチェックしていたが、結局一般販売はなく、年間指定席、あるいはファンクラブ会員からの抽選での招待制だった。

今回は17時32分発の「こだま865号」に乗車。500系使用で、6号車の旧グリーン車の座席を確保。そこそこの数の乗客がいる。

帰りの車内は在来線側の売店で買った缶チューハイをカップの氷でいただく。大阪府に緊急事態宣言が出ているために、新幹線改札内の売店ではアルコールの販売を休止している。以前、それで残念な思いをしたために在来線側で飲食物を仕入れた次第。

順調に各駅に停車し(岡山では19分停車)、広島に無事に帰還。この時は台風の影響はまだなく、そのまま帰宅できた。

そして翌日9日の朝、九州を通って来た台風9号が呉付近で再上陸、中国山地を縦断していった。この時も交通機関等への影響もあり、結局9日に出かけなくて正解だったのだが、ひどかったのがその後、13日以降の豪雨である。ひっきりなしに警報音が鳴るし、広島県内も(以前の広島豪雨や西日本豪雨ほどではなかったにせよ)土砂災害が発生した。私が住む同じ広島市西区でも、山の手の住宅では家屋の損壊もあった。

そして呉線、芸備線の一部はこの記事を書いている今でも運休で・・・。

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西国四十九薬師めぐり&西国三十三所めぐり3巡目~日帰りで三井寺へ

2021年08月24日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐりの次の行き先は第48番の水観寺である。水観寺は三井寺の別院で、三井寺の敷地の中にある。そのため、水観寺を訪ねるなら三井寺の拝観料を納める必要がある。それはともかく、西国三十三所の第14番の札所である観音堂も訪ねることになり、薬師と観音、両方の札所を一緒に進めることができる。そろそろいずれの札所めぐりも終盤に差し掛かっている。

この水観寺を含む三井寺は、もともと8月28日に訪ねる予定にしていた。翌29日は京セラドーム大阪でバファローズ対ホークスの試合を観戦する予定で(ちょうど、首位攻防のラウンドである)、先にチケットを確保しておいた。そこに、28日に訪ねる札所をくじ引きとサイコロで選んだ結果、大津行きとなった。青春18きっぷで大津まで行き、参詣後は大津泊まり、翌日大阪に移動して野球観戦後に新幹線で戻る予定にしていた。

ただそんな中、先の記事にも書いたように「WEST EXPRESS銀河」で行く紀南コースの「繰り上げ当選」である。8月27日夜に新大阪から乗車して車中泊、そして28日は新宮泊、29日朝の特急「くろしお」で大阪に戻るプランを申し込んでいた。紀南コースも運行開始以来人気だというので、まさか乗車のチャンスがめぐってくるとは思ていなかった。これも熊野三山のご利益で舞い込んできたものとして、ありがたく申し込みを行う。

ならば三井寺と野球はどうするか。29日の帰りに京セラドームに行けないこともないが、時間的に中途半端かな(球場で観るなら試合前の練習やスタメン発表から観たいので)。そこはどうするかはもう少し考えるとするが、28日の三井寺については別の日である。

・・宙ぶらりんになったが、ここだけ単独で行ってしまおうか。

8月7日~9日、東京五輪閉会式が絡む3連休。その連休は予定を入れていなかったのだが、間の8日に日帰りで大津まで行くことにした。台風9号、10号が日本列島に接近中だが、8日ならまだ大丈夫そうだ。青春18きっぷ乗り継ぎで大津に行き、帰りは新大阪から「新幹線直前割きっぷ」にて「こだま」で安く帰ることにする。三井寺に行って帰って来るだけの行程。

・・・そして8日朝。関西まで青春18きっぷでの乗り継ぎで出るのも久しぶりである。まずは西広島6時19分発の糸崎行きで出発。早朝から東方面に行く時に乗っている列車だ。もっと早く、5時台に出る便もあるのだが、最寄りの広電がまだ動いておらず、かといって西広島まで歩いて行くほどでもないということでまだ乗ったことがない。

糸崎ではすぐの接続で7時57分発の瀬戸行きに乗り継ぐ。これもこのところのパターンである。この日は台風の接近を感じさせない穏やかな空で、糸崎から尾道にかけての海景色を楽しむことができた。

このまま岡山まで乗り続けてもいいのだが、今回は福山で下車する。実は岡山を過ぎて終点の瀬戸まで行っても、後続の相生行きが福山始発のため、座席を確保しようというものだ。岡山~相生間は青春18きっぷの時季は混雑するところ。9時05分発、福山からの折り返し列車は6両編成だが、相生へ行くのは前3両のみで、後3両は岡山で切り離される。

岡山に到着。乗客が入れ替わるが、思ったほど青春18らしい客の姿は見えない。時間帯もあるだろうし、まあこういう状況だからということもあるのかな。駅ごとに下車する人も多く、兵庫との県境が近づくと転換クロスシートにも空のシートが出てきた。

11時18分、相生に到着。同じホームに、播州赤穂から運行の姫路行きが到着する。日中の時間帯は相生で接続するパターンとなっていて、姫路から出る列車は播州赤穂行き。そして山陽線の列車は相生で折り返す。そのほうが車両運用などの都合がいいのだろう。

姫路に到着。すぐに新快速が発車するが、1列車遅らせて昼食とする。ここまで来れば新快速を含めて列車本数が増え、先の見通しも立つ。姫路に来たならばホームにある「えきそば」のスタンド。ここは外せないところだ。

今回は昼食が欠食になることなく、11時57分発の新快速長浜行きに乗車(乗ったのは米原までの車両)。その快走ぶりを堪能する。明石海峡大橋、須磨の海岸など、車窓の見どころも多い。

そのまま三ノ宮、大阪、京都と走り抜け、京都の次の山科で下車。山科は今年が開業100周年ということで、通路や駅前でそのPRが行われていた。

山科からは京津線のびわ湖浜大津行きに乗る。長いトンネルで通過するJRとは一味違って、逢坂山の急勾配をカーブで抜け、最後は道路上を走る区間である。ガタゴト電車の走りを楽しむ。

びわ湖浜大津から坂本行きの列車に乗り継ぐと、「伝教大師最澄一千二百年魅力交流」というヘッドマークと塗装をあしらった車両がやって来た。2021年は延暦寺を開いた伝教大師最澄が亡くなって1200年ということで、大遠忌の法要をはじめさまざまな行事が執り行われているそうだ。時期は若干ずれているが、聖徳太子が亡くなってから1400年でもあったな。弘法大師とはまた違った仏教の大きな流れである・・・。

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西国三十三所めぐり3巡目~十津川村を縦断、そして熊野三山のご利益が・・?

2021年08月23日 | 西国三十三所

熊野本宮大社の参詣を終えて、国道168号線を北上する。県境を越え、十津川村から五條市を経由するルートである。この国道168号線は新宮から続いていて、奈良県に入った後も他の国道と重複しながら大阪府に入り、終点は枚方の天の川交差点だという。枚方が終点とは知らなかった。

以前にも国道168号線で十津川を経由して熊野に行ったこともあるし、大和八木から新宮まで結ぶ「日本一長い路線バス」に延々揺られたこともある。そもそもが「酷道」の部類に入るのだが、それでも新しいトンネルや橋梁の工事が進められていて、谷間に建設中の橋脚を見ることもあった。そして通るたびに少しずつ新しいルートができつつあるのを見る。この辺りは自然災害で何度も道路が寸断される被害に遭っており、そのたびに沿道の人たちの生活に大きな影響が出ている。また、紀伊半島の沿岸部・内陸部の交流の促進や、奈良県南部の活性化もあり、道路を整備しているところだ。

ただ、それもまだまだ工事は道半ばである。十津川村内では昔からのカーブが連続する区間が続き、スピードが出ないため移動するクルマが列をなす。そして新しいトンネルや橋になると、こらえきれなくなった飛ばし屋が一気に車線をはみ出して追い越しをかける・・ということもしばしばある。中にはトンネルの中で追い越しをかけ、対向車が不意に現れて慌てて元の車線に戻るという輩もいて、見ていてヒヤッとする(奈良ナンバーではなかったので、よそから来たのだろう)。こんなところで無茶して事故が起きても、救急車はなかなか来ないぞ。

一般のクルマはこうした広い道も通れるが、路線バスはやはり停留所のある旧道を忠実に走っているのだろう。集落と集落を結ぶ役割もあるし、それだと現行の八木~新宮6時間半というのは変わらないのだろうな・・(ちなみにこの道中で新宮行き2本とすれ違った)。

さて、この日は昼食が欠食になるが、せめて温泉に浸かることにしよう。十津川温泉は通り過ぎてしまったので、村役場に近い温泉地(とうせんじ)温泉に立ち寄ることにする。この読みは、かつて薬師如来を祀る「東泉寺」という名前の寺があったことに由来するという。

立ち寄り湯の「泉湯」に入る。小ぢんまりとした湯だが、川を見下ろす露天風呂もあり、ちょうど家族連れが出た後だったので浴場を独占する。30分ほど、気持ちよい時間を送る。

先頭の横によろずやがあり、目の前には缶ビールも並んでいる。湯上りに・・・とはいかず、大阪まで我慢だ。

この後、巨大なダム湖を持つ風屋ダムの横を過ぎる。クルマを停めてダム湖をのぞくが、結構横の地肌も見えていて、貯水率という点から見ると「大丈夫かな?」と思った。ただこの辺りのダムとなると、下流の水がめというよりは発電に使われているし、また今後の大雨をにらんでわざと水位を低くしているのかもしれない。

この先には有名な谷瀬の吊橋がある。高いところが苦手で吊橋を渡るのは無理にしても、せめてその姿を見よう。ただ、国道からの標識を見落としてそのままトンネルに入ってしまう。まあ、わざわざ引き返すのも面倒だからそのまま進む。

大規模工事、離合がやっとの道、十津川もさまざまな動きがある。次に来る時にはどのような新しい表情を見せるだろうか。

十津川村を後にして五條市に入る。まだまだ山間の区間で厳しいカーブも連続する。

そんな中、前方に高架橋が見えてきた。幻の五新線の跡である。かつて、紀伊半島を縦断する形で五條から新宮を鉄道で結ぶ構想があり、その前段で五條から阪本まで先行開通させるとして工事が進められた。しかし、時代の移り変わりの中で国道168号線の整備も進み、工事は凍結、鉄道が走ることはなかった。その後、建設された区間はバス専用道としても活用されたが、その運行も取りやめとなった。

さらに時代は進み、現在は国道168号線も新たな道に生まれ変わりつつある。さすがに高速道路とまではいかないが、全通すれば十分なインフラになる・・ということか。

少しずつ周りが開けてきて、五條市の中心部に入る。その後は京奈和道から南阪和道に入り、順調に大阪府に戻る。レンタカーは18時までの契約だが、30分以上余裕を残して返却することができた。1泊2日、三重県の西国四十九薬師の札所、熊野灘の眺め、そして熊野三山とさまざまな歴史文化や景色を堪能することができた。

さて、予定より余裕を持ってレンタカーを返却できたので、新幹線の時間も変更する。帰りは「こだま」限定の「新幹線直前割」ではなく普通に指定席を買っていたが、18時06分発の「みずほ613号」に変更する。少しでも早く帰宅しようということで、新幹線の中でようやく缶ビールにありつく。

・・・さて、西国四十九薬師プラス熊野三山という大回りをした後の8月6日(広島原爆の日)。夕方にふとメールをチェックすると、このような文言のメールが入っていた。

「WEST EXPRESS銀河の旅 繰り上げ当選について」

この夏以降、京都から紀勢線に向けて運行される「WEST EXPRESS銀河」。5月だったか、その新宮行きの8月27日夜~28日朝運行分の申し込みをしていたのだが、相変わらずの高倍率で当たるわけもなく、いつの間にか当選者への通知日も過ぎていた。まあ、それも見越して8月29日に京セラドームでの野球観戦を予定し、その前日には西国四十九薬師めぐりのサイコロで大津を訪ねることにしていた。

それが、ここに来ての「繰り上げ当選」である。キャンセルが出たためと思うが、私にとっては昨年9月運行の出雲市行きに続いての「繰り上げ当選」。そんなことが2回もあるとは恐れ多い。一番シンプルなリクライニングシートで、宿泊先は新宮のビジネスホテル。それでもすごい倍率である。

・・・これ、熊野三山のご利益といってもいいだろう。ちょうど行き先が紀勢線の新宮である。そこから帰ってきてしばらくしてこうした通知だから、何かあるといってもいいのではないかな(前回の出雲市行きが中国観音霊場のお導きだったことも踏まえて・・)。

野球観戦のことも頭には浮かんだが、即決して旅行代金を決済した。いやこれは、行くべきでしょう・・・。

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西国三十三所めぐり~熊野本宮大社へ

2021年08月21日 | 西国三十三所

西国1番の青岸渡寺を回り、そろそろ大阪に向けて戻ることにする。現在の時刻は12時を回ったところで、レンタカーの返却は18時。まあ、間に合うとは思うが・・。

ここまで来たので、熊野三山めぐりの最後である熊野本宮大社に参詣し、そのまま十津川村を経由して紀伊山地をぶち抜くルートで戻ることにする。再び国道42号線に戻り、新宮高校がある交差点から国道168号線に入っていく。熊野川に沿って走る国道である。熊野本宮までは35キロとある。

熊野川に沿って走るうち、雲が広がって来る。朝は雲一つない晴天だったのだが、場面が山になるとまた変わりやすい天候となる。

そして突然の大粒の雨。前日も、昼間の時間に局地的な大雨に遭った。

かと思えばすぐに青空が姿を現す。引き続き熊野川だが、川幅に比して水量が極端に少なく、河原の砂利が目立つ。結構中まで乗り入れるクルマも目立つ。

熊野本宮大社に到着。隣接する駐車場にクルマを停めて、熊野大権現の幟がずらりと並ぶ長い石段を上がる。途中、祓戸大神に手を合わせる。

神武東征の折、熊野から八咫烏の導きで橿原にて即位したことで知られている。熊野本宮大社の創建は不明だが、第10代の崇神天皇の頃、家都美御子大神、熊野夫須美大神、速玉之男大神の神勅により現在の大斎原の地に社殿を設けたという。この家都美御子大神は熊野坐大神とも呼ばれ、奈良時代以降は仏教とも融合して、熊野権現として信仰を集めることになった。言うまでもなく、全国の熊野大社の総元締めである。

その後、平安から鎌倉にかけて多くの法皇や女院たちが参詣したのをはじめ、中世以降は庶民も多く参詣するようになり、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど盛んになった。

かつては上社・中社・下社十二殿を有していたが、明治の大水害で中社・下社が倒壊し、現在の地に上社を移して現在に至る。

ここまでクルマでやって来たわけだが、かつての熊野詣はいくつかのルートがあるにせよ、いずれも難所が続いており、厳しい道中だった。それだけに熊野本宮までたどり着いた感動はひとしおだっただろう。

新宮、那智と回って本宮に来たわけだが、これまでの朱色のイメージから昔から続く木の色が基調で、重みを感じる。また神門の両脇にはメッセージが書かれ、訪れる人に訴えるものがある。

門をくぐり、第一殿から第四殿まで順に手を合わせる。

境内には八咫烏の風鈴や、黒い八咫烏ポストもある。

社務所の玄関に「前」という文字が掲げられている。熊野本宮の宮司の揮毫で、「祈コロナ終息」とある。毎年、来年への期待を込めて一文字をしたためるそうで、この「前」も昨年の12月に書かれたものとある。ちょうど昨年はコロナ禍で足踏みの1年で、新しい年に少しでも前(未来・夢・目標)を見据えた1年になるようにとの願いだが、8月を迎えた現時点で、その願いは果たして叶ったのかどうか・・・。

これで熊野三山めぐりを無事に終えた。これから遅めの昼食としようかと周囲を回るが、入りたい店もなく、多少これかなという店も行列で、この日も昼食は欠食。まあ、この後紀伊山地の山深いところを抜けなければならないので悠長に食事をしている場合ではないのだが、ともかく大阪に向けて出発・・・。

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第1番「青岸渡寺」~西国三十三所めぐり3巡目・29(熊野三山めぐりその2)

2021年08月20日 | 西国三十三所

西国四十九薬師めぐりから西国三十三所めぐりにバトンタッチして、そこに熊野三山めぐりを組み合わせるというありがたい旅。

熊野速玉大社を出て、那智山、青岸渡寺を目指すべく国道42号線をそのまま進む。途中から紀勢線の電化区間に沿って走り、海べりも通る。

那智駅前から山道に入る。途中、大門坂の入口を通るが、その向かいの駐車場にはかなりの数のクルマが停まっている。それだけ熊野古道の最後を歩いて上がろうという人が多いのかな。この暑い最中だが・・。

この道を自分で運転して上がるというのも楽しみではある。いくつかのS字カーブを曲がりつつ、その前方にちらりと那智の滝のてっぺんが見えるのもよい。

那智の滝への入口である飛瀧神社前を過ぎ、土産物・食堂が並ぶ通りを行く。そのまま観光センターまで走り、バス停と合わさった無料の駐車場に停める。

さて、ここから400段あまりの参道である。ちょうど大門坂からの熊野古道を上がって来る人もいるが、一様に汗だくで疲れているようだ。そういう中でもきちんとマスクをしているから余計にしんどそうだ(特に親の言いつけをきちんと守る子ども)。屋外の歩きで、人混みがそれほどでもなければマスクは外してもいいと言われている。熱中症とコロナ、どちらが命に関わることだろうか。私はマスクを外し、ただ外道の輩ではないことを示すために手に持って石段を上る。

那智大社と青岸渡寺の分岐に到着。これまでもそうなのだが、まずは那智大社への石段を上がる。西国三十三所をめぐっていても、やはりここは那智大社があって、青岸渡寺はその次という位置づけに見える。

那智大社の拝殿にて手を合わせる。那智大社の祭神は熊野夫須美大神で、速玉大社にも祀られていた。

その脇の入口から青岸渡寺に入る。かつては神仏習合で、青岸渡寺は元々熊野那智権現の中で如意輪観音を祀る如意輪堂として存在していた寺である。本堂は豊臣秀吉により再建されたもの。明治の神仏分離、廃仏毀釈の中でも、西国三十三所の第1番ということもあり、破壊されずに残された。そして新たに青岸渡寺として独立して、現在にいたる。まあ、こうした山の中に並ぶのだから、那智大社、青岸渡寺それぞれがお互いに人々の願いを叶えましょうやという感じだ。

その青岸渡寺だが、ちらほら「施無畏」の文字が入ったTシャツ姿の人が本堂の内外で目につく。施無畏とは観音菩薩の別称だが、西国めぐりのグループか何かだろうか。

本堂の外陣にてお勤めとする。ちょうど内陣ではどなたかのご祈祷か、観音経の偈文が唱えられていた。

そして先達用納経帳の第1番に朱印をいただく。これで西国めぐりの3巡目は残り4ヶ所。このうち第14番の三井寺は8月末に訪ねる予定で、それ以外の残り3ヶ所のどこで満願となるかが楽しみである。

那智大社~青岸渡寺と来れば、この先那智の滝まで下りるコースである。滝と三重塔のツーショットを収めた後、ぶらぶらと坂道を下る。

そしてやって来た那智の滝。ここ飛瀧神社は現座には那智大社の別宮だが、那智大社よりも人出が多く、そこらじゅうで記念撮影である。先ほど、那智大社と青岸渡寺の神仏習合、神仏分離がどうのこうのと書いたが、ここ那智全体では、この「瀧」が「絶対」といっていいだろう。そもそもこの滝を拝むことが那智権現の成り立ちであった。

飛瀧神社では延命長寿の水をいただける。参入料(300円)を納めると、滝により近づくことができる。その前に湧き出ている水を汲む。ちょうどペットボトルがあったのでこちらにいただき、この先の道中でいただく。ありがたいものだ。

これで那智を回り、今度は車道を歩いて上って観光センターの駐車場に戻る。この先は熊野本宮大社にて熊野三山めぐりとして、大阪に向かうことに・・・。

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西国三十三所めぐり~熊野の奇勝と新宮速玉大社

2021年08月19日 | 西国三十三所

8月1日、前日に引き続きレンタカーを使用して、熊野市から熊野三山を回って大阪に戻り、新幹線で広島に戻る1日である。ここからは旅のカテゴリを西国三十三所とする。

朝食を終え、7時半前に「ホテルなみ」をチェックアウト。ホテルの前が鬼ヶ城へ続く道となっていて、そのまま鬼ヶ城センター前に駐車する。こちらが鬼ヶ城の東口で、反対側の西口まで約1キロの遊歩道が続いている。太陽も空高く、また海や岩場に照り返すので歩く前から暑いのだが、ともかく西口まで向かうことにする。

鬼ヶ城はかなり以前に一度訪ねたことがあるが、その時はおそらく熊野市駅に近い西口から回ったのではないかと思う。ならば今回は逆方向からとなる。

その昔、熊野の海を荒らし回り、鬼と恐れられた海賊の多娥丸(たがまる)という人物が根拠にしていて、それを坂上田村麻呂が征伐したという伝説がある。そのことから鬼の岩屋、鬼ヶ城という名前になったが、いかにもそうしたならず者が根城にしていてもおかしくない造りである。

鬼ヶ城は志摩半島から続くリアス式海岸の最南端で、熊野灘の波に削られた無数の海食洞が、地震によって隆起したものという。さすがに風だけではこれだけの「自然の造形物」はできないだろう。

まず目を見張るのが千畳敷。高さ15メートル、広さ1500平方メートルある。1500平方メートルは畳に換算すると900畳ほどというから、千畳敷という表現も言い得ている。ここが多娥丸の根城だったと言われると素直に納得する。

千畳敷から西は厳しい地形が続く。岩を加工して階段にしたり、手すりも設けられているが、結構スリルがある。また岩と岩の隙間も多く、鉄橋も架けられているが、一つ間違えば落ちそうだ。これまでにも、台風などの被害で通行止めとなることもしばしばあったそうだ。

サルでもここから引き返す猿戻り、犬もここから引き返す犬戻りという断崖もある。緊張と暑いのとが合わさって結構汗だくになる。そんな中、多少足元に余裕がある岩場では釣り糸を垂らす人もちらほら見かける。これぞ磯釣りという光景だ。実際、鬼ヶ城は釣りのスポットとしても知られており、結構大物も揚がるそうだ。

その後、鬼の見張り場、水谷、鬼の洗濯場などの場所を過ぎる。それぞれ鬼の生活の場としての名前だが、海賊たちもこうしたところを使っていたのだろうか。

30分ほどで西口に近づき、遠くに七里御浜を見る。リアス式海岸は一転してまっすぐ伸びる砂浜の海岸線となる。この組み合わせも不思議といえば不思議である。

さて、体は西口に来たがクルマは東口に停めている。鬼ヶ城をもう一度眺めながら東口に戻るところだろうが、先ほどの断崖で結構ヒヤッとしたものだから1回で十分である。松本峠をくぐる歩行者用のトンネルがあるので、そちらをくぐることにする。

集落の先にトンネルの入口がある。木本隧道と呼ばれているが、現在の国道42号線や紀勢線のトンネルよりも古く大正時代の開通である。509メートルは当時の車道トンネルとしては長いもので、かつては国道42号線の一部としても使われた。新たに国道42号線の整備で鬼ヶ城トンネルができたので、そちらを自動車専用にして木本隧道は歩行者・自転車用となった。熊野古道ならばこの上の道を行くところだが、ここはショートカットする。トンネルの中なので多少は涼しい。

東口に戻ってレンタカーで出発する(これなら、ホテルの駐車場に停めておいてもよかったかなと思う)。今度は国道トンネルを通り、熊野市の市街地に入る。国道沿いの堤防の向こうが七里御浜で、先ほどとは対照的な穏やかな景色が広がる。その昔、伊勢方面から熊野詣に来た人たちもホッとしたことだろう。

そんな中でアクセントなのが獅子岩。

その南にあるのが花の窟神社である。ここも熊野古道の世界遺産の一つである。以前に三重県内をサイコロの出目に従ってめぐる旅をしたことがあるが、その時に熊野市まで南下して(北は桑名から南は熊野市まで、三重県は「長い」と感じた次第)花の窟神社にも参詣した。

花の窟神社はイザナミノミコトを祭神として、日本最古の神社と言われている。国産み伝説の中で、イザナミノミコトは火の神であるカグツチノミコトを産んだ後に陰部に火傷を負って亡くなるのだが、その亡骸がここ熊野に葬られたという。同じようにイザナミノミコトが葬られた場所として、中国地方では比婆山が該当するというが、まあ、その辺りは諸説いろいろということで。

神社といっても立派な社殿があるわけではなく、目の前にそびえる巨大な岩がご神体である。この麓の岩陰にイザナミノミコトが葬られたとして、玉垣で囲んだ拝所がある。

またその対面には、火の神のカグツチノミコトの墓所とされる岩もある。一応、母と子が向き合ってという形である。

花の窟神社で知られるのは年に2回の大祭。高さ45メートルのご神体の岩の上から巨大な綱を境内のご神木に渡す「御綱掛け神事」が行われる。しかしこの1300年以上続くというこの神事も、昨年の10月、そして今年の2月と、コロナの影響で中止されたという。とすると、今垂れ下がっている綱は昨年の2月の神事のものかな。コロナが騒ぎになり始めたのは確かその頃だから、コロナの災厄がこの綱にも集まっているようにも感じられる。

国道42号線を走る。左手には七里御浜が広がるが、道路との間には防風林があって見通すことはできない。そんな中、熊野市から御浜町に入り、七里御浜ふれあいビーチに差し掛かる。ちょっと面白そうなのでこちらに立ち寄ってみる。

ヤシの木など植えて南国ムードを出している。三重県とは思えない景色だが、この向こうはどこまでも続く太平洋。ここまで来た甲斐があったと思う。

熊野川の橋梁を渡り、これで長かった三重県とはお別れ、ここから和歌山県に入る。熊野川を渡ってすぐのところに、熊野三山の一つである熊野速玉大社がある。駅から中途半端に離れていることもあり、鉄道の旅で新宮は何度か通っているがかなり前に一度参詣したくらいだが、今回は絶好の機会ということで、まずはこちらのお参りとする。

熊野速玉大社・・・かつては紀勢線の夜行列車に「はやたま」というのがあったがここから来ている。その昔、熊野速玉大神と熊野夫須美大神が神倉山のゴトビキ岩に降り立ち、景行天皇の時代に現在の地に遷座したという。新しく宮が設けられたから、この地を「新宮」と呼ぶようになったと伝えられる。

「新宮」という名前は「熊野本宮」に対する「新宮」だと思っていたのだが、そうではないようだ。当の速玉大社がそう言うのだから、そういうことなのだろう。

現在改装のため休館中の神宝館の前に、武蔵坊弁慶の木像がある。ここ新宮は弁慶の出身地という・・・。あれ、弁慶は同じ紀州でも田辺の生まれではなかったか。いや、以前に島根県に行った時には松江の出身という案内もあった。父親が熊野大社の別当とされることからこの新宮出生説もあるそうだが、物心ついた時から一族で住んでいたわけでなく、各地で修行生活を送っていたら、弁慶本人ですら自分がどこの生まれかわからなくなった・・ということもあるのではないかと思う。

朱塗りの拝殿にて手を合わせる。速玉宮、結宮、上三殿、八社殿などを順にお参り。今は神社として神を祀るが、かつては神仏習合の歴史があった。境内にそうした案内はないが、記録によると速玉宮に祀られる熊野速玉大神の本地仏は薬師如来、結宮に祀られる熊野夫須美大神の本地仏は千手観音という。

その脇に新宮神社というのがある。新宮市内のさまざまな神々を一緒に祀ったそうで、ここにお参りすればあらゆるご利益が一気に受けられそうな気がする。ここにも手を合わせた後、ちょうど神官の方たちもお参りをしていた。

拝殿の前に「熊野御幸」と書かれた石碑がある。平安時代後期から盛んに行われた皇族方の熊野参詣の履歴がずらりと並ぶ。合計23名、141回(度)とあるが、最も多いのが後白河上皇(法皇)の33回、次いで後鳥羽上皇の29回、鳥羽上皇(法皇)の23回、白河上皇(法皇)の12回などとなっている。その中に交じって、花山法皇の1回というのがある。西国三十三所の中興の祖である花山法皇だが、この1回の時に那智山にて修行し、青岸渡寺を含む三十三所のベースを作ったと伝えられる。

それにしても、一度や二度ならまだしも、33回も行くとはかなりのものである。当然現代のような交通手段があるわけでなく、1回の御幸で往復1ヶ月ほどかかるといわれており、上皇(法皇)となると当然多くのお供がつくわけで、費用も多くかかったはずだ。まあ、それだけ力を持っていたとも言えるが・・。

これで熊野三山のうち熊野速玉大社を終え、いよいよ西国三十三所の那智山、青岸渡寺に向かう・・・。

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西国四十九薬師めぐり~熊野灘を望む宿で一泊

2021年08月18日 | 西国四十九薬師

7月31日の宿泊は熊野市の「ホテルなみ」。奇勝・鬼ヶ城の入口に近いところで、海と接する岸壁の上に建つ。熊野市駅の近くにもビジネスホテルはあるのだが、案内を見てもあまり食指が動かず、今回はレンタカーで回っていることもあってこちらのホテルを選んだ。

部屋は普通のシングルルームだが、窓のすぐ外に海を見ることができる(予約時に山側、海側を選ぶことができ、海側の部屋のほうが若干料金が高い)。オーシャンビューを売りにしているだけのことはある。ちょうど入江のところで、正面には鬼ヶ城センターの建物が見える。その鬼ヶ城は翌朝見物する予定である。

この夜は町で一献とはせず、2食付きプランとしている。食事は1階のレストランで取るが、18時台はちょっと混んでいるので時間をずらしたほうがよいとのこと。ならばということで先に大浴場に向かう。温泉ではないがそこそこの広さの大浴場で、こちらからも熊野灘を眺めることができる。ちょうど他の客もおらず、浴槽を独り占めすることができた。

19時頃にレストランに向かう。家族連れも多く、まだ食事が続いている様子だが席は空いていた。今回は「松」コースを予約しており、予約の札を出す。飲み物や単品の追加はテーブルのタッチパネルにて行う(食後にレストランのレジで別会計)。ではではということで生ビールを注文すると陶器のジョッキで出てきた。

地酒も飲もう。この辺りでポピュラーなのは、「太平洋」などの銘柄で知られる新宮市の尾﨑酒造。その中で注文したのは純米酒の「松本峠」。ちょうどホテルの横にある峠で、今は自動車用、歩行者・自転車用のトンネルが掘られているが、かつての熊野古道の一つで、峠の上からは七里御浜の景色を望むこともできる。

「松」コースは会席になっており、献立のお品書きを渡される。前菜、造り、陶板焼き、天ぷらなど品数は豊富である。

まずは先付でクボ貝の塩ゆでと、前菜三種として尾鷲のもずくと豆アジの南蛮漬け。

造りはマグロ、シマアジ、アオリイカ、タイ、オオモンハタ。オオモンハタとは聞き慣れない名前だが、本日のおすすめの魚とあった。魚そのものはスズキ目に属していて、体じゅうに紋様があることからこの名がついたようだ。

オオモンハタはこの後焼物、そしてあら汁の具でも登場した。

この他にも牛すき鍋、天ぷら盛り合わせあど盛りだくさん。料理の単品を追加する必要はまったくなく、テーブルにてしっかり堪能することができた。

後は部屋に戻ってゆったりする。こういう部屋なら窓を開けて潮風を受けて・・というのもいいだろうが、虫が入る、また転落防止ということで窓を開け放たないよう注意書きがある。それでもちょっとだけ窓を開けたのだが、潮風といえどもムワッと感じたので、そのまま閉めてエアコンの風に当たる。

ちょうどこの時は東京五輪の期間中だったが、五輪の放送は観ないと決めていたので他の番組を見ようとチャンネルをザッピングする。三重県という地理的なものか、あるいはケーブルテレビに加入しているためか、名古屋のテレビ各局、三重テレビに加えて関西の一部テレビ局が入る。まあ、それほど観たい番組もなく、持参のパソコンにてブログ記事の更新とする。

さて翌朝。この日も晴れ予報である。5時を過ぎてもう外は明るい。部屋から日の出が見えるかなと窓の外をのぞくが、ちょうど陸地の陰に当たっているのか、水平線からの朝日・・とまでは行かなかった。

朝食は同じくレストランにてバイキング形式。和洋各種のおかずが並ぶ中、各テーブルに卓上コンロが置かれている。鉄板の上に玉子を落として目玉焼きを作るのがおすすめという。最後、白身が鉄板にくっついてはがしにくかったが、ちょっと時間をかけたぶん美味しくいただいた。

さてこの日のルートは、ホテル近隣のスポットを回った後、そのまま国道42号線を南下して西国三十三所の青岸渡寺に向かうが、せっかくなので那智大社と合わせて、途中にある新宮速玉大社、そして熊野本宮大社にも参詣して、「熊野三山めぐり」としよう。

次からはブログのカテゴリも西国四十九薬師から西国三十三所にスイッチする・・・。

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西国四十九薬師めぐり~奥伊勢から東紀州へ

2021年08月17日 | 西国四十九薬師

7月31日、西国四十九薬師めぐりの2ヶ所を回り終え、これで三重県の札所はコンプリートとなった。翌日、西国三十三所めぐりとして那智の青岸渡寺を目指すにあたり、宿泊地への移動である。宿泊地は熊野市で、同じ三重県でも伊勢から紀伊へと国が移る。

国道42号線に沿って紀勢自動車道が走る。先ほど訪ねた神宮寺の近くに勢和多気インターがあるが、まずはそこを素通りして42号線を行く。また青空が戻ってきた。紀勢線の線路も見えるが列車がやって来る気配はない。

大紀町に入り、道の駅「木つつ木館」に立ち寄る。奥伊勢のさまざまな産品が売られている。

駐車場に隣接して鳥居があり、「瀧原宮」の文字がある。ちょっと行ってみることにする。

この瀧原宮は伊勢神宮の内宮の別宮である。先に、国道で奈良県の御杖村を通った時、垂仁天皇の皇女・倭姫が天照大神を祀る場所を探していたことに触れたが、伊勢のこの地にふさわしい場所を見つけ、新しい宮を建てた。後に天照大神は現在の伊勢神宮に移るのだが、その後も別宮として現在まで受け継がれている。

瀧原宮が内宮に似ているのか、あるいは内宮が瀧原宮を受け継いでいるのか、規模の違いはあるが、参道の風情もどこか通じるものがあるように見える。内宮には五十鈴川のほとりに御手洗場が設けられているが、こちら瀧原宮にも宮川の支流である頓登川が流れており、ここで手を清める。

奥には瀧原宮、瀧原竝宮(ならびのみや)、若宮神社、長由介神社という4つの宮があり、順番に手を合わせることになっている。

手前に同じくらいのスペースがあるのはひょっとしたら・・と思うと、瀧原宮でも伊勢神宮に準じて20年に一度式年遷宮を行っているとあった。現在の社殿は平成26年(2014年)に建てられたもので、まだ真新しい姿の社員が載るパンフレットと見比べると少しは年季が入ってきたのかなというところである。

こうした山の中に神が鎮座するというのも神秘的だとは思うが、もし伊勢神宮がずっとこの地にあったならば、後の世に一般庶民を含めてここまで伊勢参りがブームになることはあっただろうか。最寄りの紀勢線滝原駅まで松阪方面から線路が延びてきたのは大正時代の終わり頃だったが、さすがに近鉄がここまで線路を延ばして特急を走らせるなどということはなかっただろう。伊勢神宮が現在の地に移された経緯は諸説あるようだが、やはり今のところでよかったのではないかと思う。

さて、もう少し南下しよう。大内山、梅ヶ谷という力士のような駅名が続く地区を過ぎ、荷坂峠に差し掛かる。伊勢と紀伊の境である。熊野古道のスポットであるが、国道は坂道とトンネルで越えていく。

紀北町に入り、遠くに熊野灘を見はるかす。

一気に峠を下り、道の駅「紀伊長島マンボウ」に到着。今「マンボウ」というとコロナ対策のあの言葉が連想されるが、ここのマンボウとはもちろん魚のマンボウのことである。この辺りはマンボウを食べる習慣があるそうで、道の駅の食堂でもマンボウ料理が提供される。残念ながら食堂はすでに閉店時間で、土産物コーナーには冷凍のマンボウ料理もあるが、旅の途中では持ち帰ることもできない。またそうしたものも味わいたいものだ。

この先尾鷲までは海岸をちらりと見る区間も走るが、尾鷲を過ぎると海べりの紀勢線に対して、トンネルと勾配で最短距離で熊野市を進む。すると再び空に雲が広がり、雨が落ちてきた。やはりこの日は不安定な天候である。紀勢自動車道の無料区間に入ったということで多くのクルマがそちらに向かったこともあり、交通量が少なくさびしく感じる中をひた走る。

尾鷲市から熊野市に入り、紀勢自動車道の現在の終点である熊野大迫インターと合流。ようやく海が見えてきた。18時を回ったところでこの日の行程を終了する。

この日の宿泊は、国道42号線沿いにある「ホテルなみ」。今回の三重・和歌山行きを7月31日~8月1日にしたのは、このホテルに宿泊するというのが決め手だった。熊野灘にも面したこの宿でとりあえず夜はゆっくり過ごすことに・・・。

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第35番「神宮寺」~西国四十九薬師めぐり・41(丹生のお大師さん)

2021年08月16日 | 西国四十九薬師

三重県を走るうちに視界が効かないほどの大雨に遭ったが、短時間でまた小降りとなり、雨が上がったところで目的地の神宮寺に到着した。

この神宮寺だが、カーナビで目的地を入れても出てこなかった。神宮寺という名前は各地にあるので目次にはずらりと並ぶが、なぜかここだけ出てこなかった。そこでふと、「丹生大師」と入れると一発で出てきた。地元では「丹生のお大師さん」として親しまれているそうで、こちらのほうが通りがいいのだろう。

山門は令和元年に修復を終えたばかりということで真新しい。四天門となっていて、道路側には仁王像、境内側には四天王のうち多聞天、持国天が祀られている。

参道がまっすぐ伸びていて、まずは弁財天を祀る池がある。その先は閻魔堂、その向かいは不動明王を祀る護摩堂である。

この先に本堂にあたる観音堂、そして薬師堂があるが、まずは参道の突き当りにある鳥居をくぐる。ここが丹生神社である。お察しのとおり、かつてはこの丹生神社と神宮寺は一つのもので、神仏習合の名残を見ることができる。丹生という言葉には水銀の意味があり、奈良時代、東大寺の大仏建立に必要な水銀の産出をこの地の神に祈ったところすぐに出てきたことから丹生明神という名がつけられた。後には伊勢神宮や紀伊藩主からの保護も受けたという。

神宮寺の境内に戻る。西国四十九薬師めぐりの本尊である薬師如来は薬師堂に祀られているが、ここはまず本堂にてお勤めとする。

こちら神宮寺に伝わる縁起では、奈良時代、弘法大師の師である勤操大徳が開いたという。後に弘法大師が伊勢神宮参拝の折にこの地を訪ね、自分の師が開いた寺であると知って、新たに伽藍を建てたという。現在の本堂は江戸時代の再建とあり、近世の真言宗の仏堂の正統的技術が保持されているという。

続いて薬師堂へ。他の建物に比べれば、「薬師如来も祀られていますよ」というくらいの扱いに見える。ともあれ、ここが札所めぐりの本尊ということでもう一度お勤めである。

本堂の奥に石段が続き、その横には回廊がある。ここを上ると弘法大師を祀る大師堂がある。丹生のお大師さんと呼ばれているのはこの大師堂で、こちらが本堂といってもいいくらいの雰囲気だ。

というわけで、ここでもお勤めとする。ふと見ると大師堂の扉に何枚もの名刺が差し込まれている。何かそういうことでご利益が授かるのだろうか。

大師堂の横には四国八十八ヶ所のお砂踏みがある。大正から昭和にかけて四国八十八ヶ所を3度巡拝した人が、札所から持ち帰った砂を奉納したとある。

こうした山中にといっては失礼だが、丹生大師の近辺は伊勢参宮の経由地の一つでもあり、また水銀の産出やそれを商う人たちが集まって門前町が形成された歴史がある。寺、神社のほうもさまざまな神仏を祀り、信仰を集めてきたのだろう。

客殿にある納経所に向かう。客殿の入口には公文式教室の幟が出ている。寺院の副業は珍しいことではないが、公文式とはまさに「寺子屋」のようだ。西国四十九薬師の他に、伊勢西国三十三観音、三重四国八十八ヶ所、そして東海三十六不動とさまざまな霊場の札所を兼ねている。西国と東海が交じり合うところが三重らしい。

そして、次の札所を選ぶくじ引きとサイコロ。神宮寺に来たことで大阪から極端に離れた札所はこれで終わり。この次出たところは、8月29日の京セラドームでの野球観戦とセットで、前日の28日に訪ねることになる。

1.橿原(久米寺)

2.京都(醍醐寺、法界寺プラス西国10番三室戸寺、11番醍醐寺)

3.大津(水観寺プラス西国14番三井寺)

4.阪神(久安寺、昆陽寺)

5.大阪(四天王寺プラス西国22番総持寺)

6.振り直し

今回、新たに「大津」という出目が加わった。当初、第48番の水観寺は第49番(結願)の延暦寺とセットで最後に訪ねるとしていたが、西国三十三所めぐり3巡目も進めておきたい。水観寺は三井寺の境内にあるので、延暦寺と切り離して先に訪ねることを考えて新たに出目に加えた。

そして出たのは・・「3」。水観寺が一発で当選である。となると、8月28日は大津にでも泊まって翌日大阪に向かうというルートになりそうだ。

神宮寺を後にして、栃原から国道42号線を南下することにする。まだ記載していなかったが、この日の宿泊地は熊野市。このまま下道を通っても日があるうちには着けそうだ・・・。

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西国四十九薬師めぐり~伊勢本街道を行く

2021年08月15日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐりの弥勒寺を終えて、多気町の神宮寺に向かう。と、ルート選びで一般道を選択して地図を見ると、国道368号線を走る途中に名松線の伊勢奥津駅がある。これは面白い。

名松線は松阪から伊勢奥津までのローカル線だが、元々はその名前が示すように、名張まで結ぶことを目的として計画された路線である。しかし、後の近鉄大阪線が開業したことでその意義も失われ、長く盲腸線のローカル線となった。その後、たびたび台風の被害を受け、そのたびに廃止の話も取りざたされた。直近では2009年の台風被害でJRは家城~伊勢奥津間のバス転換の方針としたものの、その後の地元との協議で、地元の協力を条件に存続を決め、2016年に全線復旧となった。私もその後で乗りに行き、伊勢奥津駅から周遊バスを使って北畠神社や道の駅を訪ねるミニツアーに参加したことがある。

伊勢奥津と名張の間はバスが運行されていたが、このたび直通運転がなくなり、鉄道~バス乗り継ぎで「名松線」とするのは事実上不可能となった。まあそこはクルマであるが、その後を想像しながら走るのもいいだろう。

今回たどるのは名張からではなく隣の桔梗が丘からだが、ベッドタウンとして開かれた一帯を抜けて山間部に入る。

桔梗が丘ゴルフクラブを過ぎるとダム湖が広がる。比奈知ダムである。名張川から木津川を経て淀川へとつながるところで、ここにも淀川水系があるのかと感心する。こうして見ると、三重県でも名張というのは(水系でいえば)関西とつながっているのだなということが窺える。

この先は名張川に沿って走る。ダム湖の上部は清流といってもよく、鮎などの川釣りのスポットのようだ。時折、川の真ん中に入って竿を構えている人の姿を見る。

名松線の名張までのルートはこの名張川に沿ったものだったという。ただ、近鉄(当時は前身の大阪電気軌道や参宮急行電鉄)が青山トンネルを開通させたことで、ここに鉄道が走ることはなかった。今は国道368号線とはいいつつも、時折道幅が狭い区間に出会う。

名張市から津市に入ったが、なぜかその後に「奈良県」の表示が出る。これには驚いた。別に、道を間違えていないよな・・・。この辺りは地形も入り組んでいて、部分的に奈良県の御杖(みつえ)村が含まれる。紀伊半島の中でどっぷり奥深いところの一角と言えるだろう。

そこに道の駅が見える。道の駅伊勢本街道御杖というところで、大和から伊勢へ続く伊勢本街道との合流地点ある。伊勢本街道は奈良の桜井から榛原、宇陀、曽爾村、御杖村を経て伊勢に入る、伊勢への最短ルートである。現在の国道369号線に受け継がれている。入口の前にはマスク姿のせんとくんが出迎えており、間違いなく奈良県である。

御杖という地名も由緒ありげだがはたしてそうで、その昔、垂仁天皇の皇女である倭姫が、天皇の命で天照大神を祀るのにふさわしい地を探して各地を回った。その途中、この地に立ち寄った際、候補地ということで杖を残したという。結局天照大神を祀る地に選ばれたのは現在の伊勢神宮なのだが、その倭姫の話からここが御杖という名前になったという。

時刻も12時を回っていて、せっかくなので昼食とする。道の駅には日帰り温泉もついているが、この先はまだ長く時間が読めないので、食事だけいうことで。併設のレストランにて、「やまと姫御膳」というのを注文。古代米に3種類のそば、天ぷら、刺身、肉の煮つけなど結構種類がある。クルマの移動でなければ一献やってもいいくらいだ。

再び三重県に入り、沿道には伊勢本街道の幟も見える。もう少し走ると街道の宿場町だった奥津に差し掛かる。

その中にあるのが伊勢奥津駅。ちょうど10分ほど前に松阪行きの列車が出たばかりだったのが残念。まあ、ここは狙っていたわけではないのだが。人の姿もほとんどないが、駅前にクルマを停めて少し周辺を散策する。

駅のホームにも上がる。現在は行き止まり式のホームが1本あるだけだが、かつては引き込み線などもあった。そして奥には今も給水塔が残る。ツタに覆われてすっかり周囲の自然の景色に溶け込んでいるように見える。

宿場町も少し歩く。周辺の家々は町の雰囲気を少しでも出そうと、軒先にのれんをかかげている。名松線で来ると奥深い終着駅だが、伊勢本街道を西から来るとちょうど集落が開けたところに位置しており、ほっと感じるものがある。

先ほどから空には雲が出ていたのだが、伊勢奥津駅を出発するのに合わせたかのように雨粒が落ちてきた。雨の予報は出ていたかな。まあ、夏場の山の中だから天気の急変があってもおかしくない。この先、宿に着くまでの間に雨は降ったりやんだりを繰り返す。

伊勢本街道は伊勢奥津駅を出て少し先の踏切で名松線と別れる。

しばらくするとまた道幅が狭くなり、これまでにないカーブの連続となる。仁柿峠越えの道で、急勾配とまでは行かないまでも山肌にへばりつくように道をつなげることで高度をクリアするのだが、そのぶん行き違いも難儀する。走るのは国道だが、どちらかといえば「酷道」の部類だ。しかも雨の中。

4~5キロほど走って集落に出て、酷道区間も終了。茶倉という道の駅に立ち寄る。茶倉とはまた独特な名前である。展望台に上がると茶畑を見下ろすことができるが、伊勢茶から来ているのかな。

ここから神宮寺までもう一息というところで、雨脚がより一層激しくなった。ワイパーを最大にしても視界が十分に取れない。午前中は晴天だったのにえらい違いである・・・。

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第36番「弥勒寺」~西国四十九薬師めぐり・40(重要文化財に身近に触れる気さくな寺)

2021年08月14日 | 西国四十九薬師

8月12日から雨が続く広島、13日は広島市内から県北部を中心に大雨特別警報が出たり、河川の氾濫、浸水の被害が出た。幸い、大きな人的被害は出ていないようだが、引き続き警戒が呼びかけられている。

明けて14日にかけては九州北部でも被害が出ていて、住宅地も広く浸水し、ボートで救助される映像も流されている。被害という点では広島より九州のほうが大きそうだ。

こうした状況なので、13日は中国地方のJRの多くの路線が運転見合わせとなり、13日の夕方には、翌14日も引き続き多くの路線で終日運転を見合わせることが発表された。

実は、14日~15日の予定で中国四十九薬師めぐり、それに合わせて青春18きっぷを使って広島~岡山のローカル線めぐりをしようと予定していたのだが、上記の理由で中止した。こればかりはどうしようもない。早く雨雲が抜けるのを願うばかりである。ローカル線めぐりと霊場めぐりを切り離すことも含めて、また計画の練り直しである・・。

・・さて、話は7月31日に戻る。新大阪からレンタカーを使って高速と名阪国道経由で三重県入り。向かうのは、西国四十九薬師めぐり第36番の弥勒寺。「南無薬師如来」「南無大師遍照金剛」の幟がはためく。また、西国薬師のほかに、三重四国八十八ヶ所、伊賀四国八十八ヶ所の札所であることを示す石碑もある。

弥勒寺が開かれたのは奈良時代、円了上人による。当初、弥勒仏を本尊としていたことからこの名がついたようで、後に良弁上人により大伽藍が建立されたという。しかしその後の長い年月の中で自然に荒廃し、現在は本堂を中心とした里山のお寺という雰囲気のところである。その本堂も鉄筋コンクリート造りの改築ものである。

まずは本堂の外からお勤めとする。

隣の納経所に向かう。500円で内部の拝観ができるということで、もう一度本堂に靴を脱いで上がる。しばらくして住職らしき方が来られて、中を案内するという。

弥勒寺の伽藍は自然に荒廃したというが、さまざまな仏像がこの本堂に集まっている。この地にあった寺院から移った、あるいは他の廃寺から移されたなどさまざまな説があるそうだが、寺のパンフレットに「仏像は何も語らないが、すべてを知っているのは、これらの仏像たちだけである」とあるように、平安後期から鎌倉時代に造られたとされる仏像が、さまざまな経緯を経て今に残されていて、歴史の証人となっている。

本尊は平安後期の薬師如来。左手に持っている薬壺をよく見てくださいいうことで顔を近づけると、菊の御紋があしらわれているのが見える。昔はそれなりの地位の方が祀っていたのではないかということである。

続いては十一面観音像。こちらは国の重要文化財に指定されている。

その横には役行者の像がある。役行者像そのものは各地で祀られているが、等身大の造りというのは珍しく、現存するのは全国で4ヶ所だけという。

ここで、弥勒寺がNHKの「ブラタモリ」のロケ地になったことが紹介される。2020年2月の放送で、その回は見ていなかったが伊賀を取り上げたのだという。「なぜ伊賀はNINJAの里になったのか」というお題で、忍者のルーツの先に弥勒寺があったという。伊賀には高さ1~2メートルの土塁に囲まれた農家が今でも残されているが、土塁が造られたのは、川の氾濫に備えて高い場所を奪い合う中で農民が身を守ることにあったという。そして、その武装農民が伊賀忍者のルーツという。弥勒寺はそうした地域の中心にあった。

役行者像が祀られているのは伊賀で修験道が盛んだったことの現われで、山伏から武装農民たちが情報収集、地形把握、薬草などの知識を学び、それが忍者としての活動に役立った。そうした「授業」も弥勒寺で行われたのだろう。

本堂の反対側に回り、聖観音像、そして弥勒如来像を見る。こちらの聖観音像も国の重要文化財に指定されている。

こうして本堂内の仏像の画像を載せているが、ここ弥勒寺では珍しく本尊はじめ仏像の撮影は自由だという。何なら仏像のツーショットもOKという。明治の頃、寺の荒廃により仏像を骨董商に売りに出す話が出たことがある。それに反対したのが村の人たちで、何とか売却を免れた。こうしたエピソードも、村の人たちの信仰心とともに、親しみを持ってもらおうとオープンな拝観につながっているのかな。

他にも聖観音、四天王、そして理源大師軸などがある。この理源大師の肖像画は「八方にらみ」になっていて、左右どの方向から見ても視線が常にこちらを向いているように見える仕掛けだ。

一通り案内された後で「どうぞごゆっくり」と住職が下がる。先ほどの画像はこの後で撮ったもの。

しばらくすると別の拝観者が来て、ふたたび住職の登場である。暑い中、立て続けでお疲れ様です。

朱印の他に御札、お下がりのお菓子などもいただき弥勒寺を後にする。これから多気町の神宮寺を目指すのだが、近鉄電車はまた違った「裏ルート」を通るようだ・・・。

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