まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~「日豊本線開業100周年記念列車」、後半の夜空を行く

2023年12月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの帰途、「日豊本線開業100周年記念列車」にて南宮崎から小倉に向かう途中、佐伯で一息つく。

改札口には「浦100」のロゴが入ったのれんが出迎える。線路も描かれており日豊線の開業100年を祝ってのことかなと思う。ただ実際は必ずしもそうではなく、佐伯市観光協会の「100年後も人の営みが豊かな浦を残すための観光プロジェクト」だという。佐伯藩が魚類の生息を保護するために森林を残す御触書を出したのが1623年だそうで、2023年はちょうど400年。そして次の100年に向けて・・・ということだそうだ。鉄道のほうも、2024年春に福岡・大分ディスティネーションキャンペーンが行われ、日豊線も次の100年に向けて・・といっていいだろう。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでも佐伯に泊まり、さまざまな郷土の味、そして「ごまだしうどん」もいただいた。

佐伯を出発し、臼杵にかけてはリアス式海岸の入り江も見ることができる。豊後二見浦というスポットもある。そろそろ日が傾きつつある頃合いだ。途中、浅海井(あざむい)を通過する。ここで、ツアーガイドを務めるフリー鉄道アナウンサーの田代剛さんから「九州最東端の駅」というアナウンスが入る。これまでの観光や歴史も含めた案内とは異なり、こうした小ネタを入れるとはさすがである。

臼杵で列車行き違いのための運転停車。ここで、田代剛さんから臼杵の案内が入る。・・といっても、石仏や城下町としての臼杵ではなく、「う」と♡マークがあしらわれた「う好き」の駅名標の紹介である。今回は乗車位置の関係で見ることはできなかったが、これも新たな臼杵のPRである。

大分の市街地に近づき、夕景の大野川を渡る。そして16時47分、大分到着。ツアープランでは大分下車も選択することができ、ここで下車した参加者もいたようだ。特に何かあるわけでもなく、乗務員が交代するとすぐに出発。大分から小倉までは、885系は普段「ソニック」として走っている区間である。

別府湾沿いに走る。ちょうど日が暮れる時間帯で、海を眺めることができるほぼ最後の区間である。記念列車の復路ダイヤはちょうどここで日が暮れることを見越して組まれたのかなとすら思う。

列車行き違いの日出から先で暗くなった。元々前のシートには参加者がいなかったが、もうここまで来たので前のシートを転換させ、靴を脱いで足を伸ばす。まさか特急車両でこういう芸当ができるとは・・。

中津に到着。定期列車の博多行き「ソニック48号」を先に通すために約15分停車。佐伯以来となるホームに降り立つが、18時にしてかなり寒い。ホームには、同じ「ソニック」で使われる885系のためか、先に着いた列車は団体専用であることを強調している。特急車両同士の先発・後発というのもレアな光景である。

続いて暗い中を走り、行橋に停車。ここでも10分あまり停車。いったんホームに出て、また車内の様子も見て回る。中には参加者がほぼいない車両もある。途中の大分までのプラン用の車両だったのかもしれないが、このところのイベント列車といえばいずれも満員御礼、発売開始当日でも予約が困難というイメージの中、ここまでガラガラの列車というのも珍しいのではないか。

行橋では後続の「ソニック50号」を先に通すため・・と思っていたが、特急が来る前に記念列車が先に発車する。どうやら時間調整のためだったようで、「ソニック50号」に抜かれたのは運転停車した城野だった。ここまで来ると終点・小倉は近い。ツアーゲストの田代剛さんが乗客一人一人にお礼の挨拶をしてくれる。

運転停車の西小倉で、田代さんによる最後のアナウンス。内容は西小倉が最寄りの小倉城についてのもの。そして19時10分、小倉に到着した。

乗車時間6時間という長丁場だったが、もうそんなに経っていたかという感じである。乗車前は倒竹の影響で集合に間に合うかとハラハラし、宮崎出発後の大爆走、日向灘の眺め、宮崎郷土料理あれこれの弁当、飲み鉄、長時間停車、そしてアナウンサーによる定番から鉄オタネタまで幅広い案内・・・と、乗りごたえがあった。日豊線のさまざまな魅力に触れることができたのも、八十八ヶ所百八霊場めぐりのご利益の一つといっていいだろう・・。

小倉からは19時42分発「こだま870号」に乗り換える。少し時間があるので、ホームのスタンドでかしわうどんをいただく。

後は、飲み鉄の反動で寝過ごさないよう、広島に戻ることに・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~「日豊本線開業100周年記念列車」、日豊線を大爆走

2023年12月27日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの帰りにツアー参加をかねて乗車した「日豊本線開業100周年記念列車」。宮崎を13時08分に発車し、6時間かけて小倉まで日豊線をたどる。宮崎~小倉間はこれまでの九州八十八ヶ所百八霊場めぐりのアクセスとして「にちりんシーガイア」号に宮崎発、小倉発それぞれ乗ったのだが、いずれも所要時間は約5時間だった。それが6時間というのは、途中の停車駅でゆっくりするためと思われる。

宮崎発車後の車内放送では、小倉までの停車駅は延岡、佐伯、大分、別府、中津、行橋と流れる。ツアー申込画面では下車駅は大分、小倉のどちらかしか選べなかったのだが、ここに出た停車駅とはドアを開放する駅ということのようだ。

この先6時間と長い道のり、先ほど南宮崎駅近くのコンビニでしこたま仕入れたので「呑み鉄」としては何とか持つかなと思う。それにしても、宮崎を発車してから高速運転するのはいいが、揺れが激しい。これまでの宮崎への行き来で「にちりんシーガイア」として乗った787系ではそこまで感じなかったのだが、ひじ掛けから取り出すタイプのテーブルに缶を乗せると、振動で落ちてしまうのではとヒヤヒヤしてしまう。885系はいわゆる振り子車両だから揺れるのかもしれないが、実はこの先の区間だとそれほどストレスは感じなかった。まあ、日豊線でも13年ぶりに乗り入れる区間だから、線路のほうが追いついていなかったのだろう。

右手にシーガイアの建物が見えてきた。ここで、記念列車の復路のツアーゲストであるフリー鉄道アナウンサー・田代剛さんによる車窓案内放送が流れる。現役時代の姿を存じ上げないのだが、さすがアナウンサー、語りによどみがない。

この後、車掌の出で立ちの田代さんが乗車記念のピンバッジ、そして本物の?車掌が乗車記念カードを一人一人に配付する。

高鍋を通過して小丸川を渡る。ちょうど河口と日向灘が接するところ。ここからは海べりの雑草に視界を阻まれながらも日向灘を望む区間が続く。好天にめぐまれ、冬の太平洋ならではの透きとおった景色を眺める。

弁当とお茶の配付がある。列車の揺れは相変わらずで、自席と隣席のテーブルを広げて弁当を置く。渡された時、中身はごく普通の幕の内弁当を想像していたのだが、いざ開けてみると、宮崎の郷土らしさが詰められていた。

右下のメインディッシュにはタルタルソースたっぷりのチキン南蛮。そして右上はメヒカリの天ぷら。中央のシャケや玉子焼きを挟んで左上には鶏の桃焼き(地鶏かどうかはわからないが)。ご飯が巻き寿司なのは珍しいなと思ったが、後でわかったことだが、この巻き寿司は宮崎の郷土料理の一つ「レタス巻き」だという。このレタス巻き、宮崎市内の老舗寿司店「一平」の店主が、友人である歌手・作曲家の平尾昌晃さんとの会話の中で考案したメニューだそうだ。当時としては斬新なメニューだったが、現在はサラダ巻きも含めてコンビニやスーパーでも当たり前に売られている。それも含め一品一品、飲み鉄のアテとなったことである・・。

田代さんの落ち着いたアナウンスがあり、右手にリニアモーターカーの実験線が並走する。現在は太陽光パネルが設置され、都農町役場などの電源をまかなっていることも紹介される。

美々津を過ぎ、耳川を渡る。全長475メートル、風の影響もあって徐行で渡る。ここでも美々津の車掌アナウンスがある。

日向市は通過し、次に海を目にしたのは門川湾。ここも、九州八十八ヶ所百八霊場の札所の一つ、永源寺を訪ねたことで印象深いところである。

延岡に到着。パンフレットには、延岡でおもてなしが行われるような記載があったが、特にどうということもなく、2~3分ほどの停車で出発する。反対側のホームでは、これから別の列車に乗るのか、車椅子の男性が母親とおぼしき女性に押されて記念列車を見送っていた。

延岡~佐伯間は県境越えの難所で、市棚~重岡間の開業で日豊線が全通したところ。それからちょうど100年の歴史を感じつつ車窓を眺める。田代さんからも日豊線の歴史に関するアナウンスがある。市棚~宗太郎間には12個、宗太郎~重岡間いは14個のトンネルがあるとも紹介される。

市棚を過ぎ、注目の宗太郎も通過する中で何とかホームの様子を目にすることができた。ただ思うに、せっかくの「日豊本線開業100周年記念列車」なのだから、ドアを開けないにしても、1分でも2分でも停車して車内から駅の様子を見る時間があってもよかったのではないだろうか。

次の重岡も通過する。

番匠川を渡り、佐伯の一つ前の上岡で運転停車。駅舎は開業以来の木造建物だという案内がある。こうした、観光スポットとは言えない細かな鉄道関連のスポットを紹介するのがフリー鉄道アナウンサーならではである。

佐伯に到着。ここで20分ほど停車する。

佐伯では、車両側方の行き先表示をさまざまに切り替えるイベントが行われた。「つばめ 小倉」、「にちりん 西鹿児島」や「かもめ 門司港」、「ドリームにちりん 博多」など、現在では見られない行き先表示もある。電光掲示板なのでいかようにもアレンジできそうだが、これも鉄道の歴史を振り返るワンシーンである。「ドリームにちりん」か・・・その昔の急行「かいもん」や「日南」といった、九州内で完結する夜行列車に乗ったのを懐かしく思い出す。

その中で、いったん改札の外に出る。ツアー参加中ということで改札の外に出られるのかどうかは定かではなかったが、自動改札もなく、駅員も引っ込んでいるのでいったん外に出る。駅横にコンビニがあるので、停車時間を利用して飲食物の補充を行う。もうこれで小倉まで大丈夫だろう。

佐伯を発車するとそろそろ夕方の車窓である。この先後半も楽しむことに・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~「日豊本線開業100周年記念列車」、出発進行

2023年12月26日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの帰りは、南宮崎~小倉間で運行される「日豊本線開業100周年記念列車」に乗車する。1923年に小倉~吉松(当時は現在の吉都線が日豊線の一部だった)が開業してから100年、現在も東九州においてなくてはならない路線である。

この記念列車は団体専用で、JR九州トラベルデスク主催のツアーに申し込む必要がある。今回、たまたまJR九州の列車ツアーのページを見ていて目に留まった。普段は大分までの「ソニック」として運転される885系が宮崎まで乗り入れる。12月16日の小倉~宮崎間、12月17日の南宮崎・宮崎~小倉間がそれぞれ単独のツアーで企画され、オプションとして、17日の午前中には南宮崎に隣接する宮崎車両センターでの運転体験や車両見学などのイベントも行われた。

さて、往路16日の小倉発の列車には、鉄道系YouTuberの西園寺さんがツアーゲストとして乗車した。西園寺さんといえば数多くの公共交通機関の乗車記、またゲーム感覚、チャレンジ要素のある旅を紹介しており、登録者は50万人以上という、その筋ではトップクラスの人気を誇る(私も登録はしていないものの、たまに動画は閲覧している)。16日の記念列車でのツアーガイドの様子は参加者のSNSからもうかがえ、「西園寺さんに会えてよかった」という投稿も結構目立った。

そして、これから乗る復路17日のツアーゲストは、フリー鉄道アナウンサーの田代剛氏。私は初めて目にする名前だが、宮崎出身で、徳島放送、宮崎放送の元アナウンサー。退職後はフリーアナウンサーとしての活動のほかに、宮崎の鉄道PR大使や、吉都線、日南線の応援大使にも任ぜられているとのこと。

今回のツアー参加費だが、私が乗る復路の場合、グリーン席利用で19800円、普通席の海側指定で11800円、座席おまかせ(山側含む)で9800円とある。ちなみに往路はそれぞれ2000円プラスとなっており、これは往路と復路の差なのか、ツアーゲストの人気の差なのか・・と勘ぐってしまうが、それは余計なお世話だろう。

復路の座席おまかせ9800円とは、乗車券+指定席特急券の定価とほぼ変わらない(JR九州のネットきっぷを使えばかなり安くなるが)。海側指定との差額2000円にしても、昼食の弁当と乗車記念品がついて、フリーアナウンサーによるガイドもあるとなるとそれほど高くない。ということで、海側指定で申し込んでいた。

ただ現地に来て、先ほど受付を行った際に係の人から案内があった。復路については座席に余裕があったため、座席おまかせでいったん山側の席を割り当てた参加者についても全員無料で海側指定にグレードアップしたという。そのこともあり、最初から海側指定で申し込んだ参加者については差額の2000円を返金するという。加えて、座席も1人で2席利用使ってよいという。あらら、思ったより参加者が集まらなかったのかな・・。

西都城から南宮崎に移動する手前の加納~清武間の倒竹の影響で、一時は列車に間に合わないかとヒヤヒヤしたが、無事に受付も済ませ、ちょっと外に出てみる。ちょうど隣接の宮﨑車両センターを連絡橋の上から見ることができ、気動車、電車に交じってこれから乗車する885系も出番を待っている。885系が宮崎を走るのは2010年以来13年ぶりのことだという。

待合室に戻ると係の人から、記念列車が1番線に入線したとの案内があり、参加証が入ったストラップをぶら下げて改札内に入る。

6両編成の885系、まだ扉は閉まったままだが先頭部は記念撮影で賑わっている。カメラを向ける人の数はそれなりにいるのだが、次の宮崎から乗る参加者がいるにしても、確かに6両すべてが埋まるほどの数はいないようだ。

編成を端から端まで眺めることができるのも、始発駅の特典である。次の宮崎では出発セレモニーが行われるとのことだが、停車はわずか数分のことで、車両をゆっくり眺めるなら南宮崎から乗車で正解だった(実際には、この先の停車駅でホームに出る時間があり、そこでもゆっくり眺めることができた)。

先ほどの倒竹の影響でダイヤが乱れており、列車の遅れ、発着番線の変更、一部運休といった案内が流れる。そんな中、遅れていた「きりしま8号」が到着。この列車から記念列車に乗り継ぐ予定の参加者もいたが、何とか無事に受付もできたようだ。

扉が開き、私が乗ったのは3号車。参加者全員が海側の座席に振り替えられたとのことだが、南宮崎発車時点ではそれでも空席が目立った。このシートを2席使えるとなるとゆったりできる。3号車は窓下にコンセントもついており、そちらの心配も無用。

885系じたいはこれまで「ソニック」や「かもめ」などで乗車したことがあり、設備にも見覚えがあるが、デッキ部分にフレースペースが多いのも特徴である。

13時04分、ホームからの見送りを受けて発車。宮崎との間に大淀川を渡る。朝方、都城での札所めぐりで渡った川の河口である。青空が広がり、堤防には多くの撮影者が出ていた。

宮崎到着。そのまま車内にとどまっていたので様子はわからなかったが、先頭の6号車付近では出発セレモニーが行われていたようだ。宮崎からの乗客を迎え、またホームからの見送りもあり、13時08分に発車。これから終点の小倉まで、約6時間のゆったりした乗り鉄である・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~都城見物の後、思わぬアクシデントで・・

2023年12月25日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

12月17日、都城の天長寺の参詣を終えて九州八十八ヶ所百八霊場めぐりも宮崎県をコンプリートした。福岡県東部、大分県、宮崎県と回ったことで、札所めぐりもそろそろ折り返しが見えてきた。

天長寺から西都城駅に歩いて戻る途中、先ほど建物を目にした都城歴史資料館に立ち寄る。都城という地名からして、かつて城があったと推察されるのだが、現在の町の中心部からは少し離れたところにある。城跡は資料館のほか、公園として整備されていて地元の人たちの憩いの場となっている。

まずは大手門風に再現された門をくぐる。

都城が築かれたのは南北朝時代、北郷義久による。この北郷氏は薩摩の島津氏の分家で、南北朝の戦いでは北朝方についた功績で都城の地を与えられた。その後、周辺の大名たちの勢力に押される中、北郷忠相の代に勢力の拡大に成功した。先ほど訪ねた天長寺を建立したのもこの忠相である。しかし、江戸時代以降は一国一城令のため、薩摩藩の城の一つであった都城は廃城とされ、北郷氏も本家に吸収される形で島津姓を名乗ることとなった。

石垣を見ながら石段を上がると狭野(さの)神社がある。狭野神社とは、前日吉都線で通った高原町にある神社で、神武天皇が過ごしたとされる地に建てられている。この都城に同じ名前の神社があるのは分社だろうと思うが、神武天皇が美々津から海軍で東征するにあたり、この地にも滞在して勢力を蓄えたとも考えられている。城跡に神社が建つのは、やはり地元の英雄、神様としての信仰である。

そして本丸に相当するスペースに着く。目の前の建物はかつての天守閣や櫓を復元したものではなく、林野庁の補助を受けて建設した総木造のモデル施設という。

建物の開館時間まで少しあるので、都城の街並みを眺めたり、外に展示されている石仏などを眺める。廃仏毀釈で破壊されながらも残った仁王像や不動明王、石敢当なども並ぶ。これらも廃仏毀釈が厳しかった都城の歴史といえるだろう。

そして建物の中へ。3階まで吹き抜けとなっており、随所に特徴的な木組み構造を見ることができる。そして展示スペースでは都城の歴史がさまざまな史料とともに紹介されている。やはり中世に広大な荘園を有した島津氏から派生した北郷氏(都城島津氏)に関する史料も多く、城としての都城の図面も残されている。

明治になり、一時期は「都城県」が置かれた。そして廃仏毀釈である・・。

また、明治以降は「軍都・都城」の歴史がある。旧陸軍の連隊が置かれ、現在の自衛隊の駐屯地にも受け継がれている。また都城には3ヶ所の飛行場が建設され、ここから特攻隊として出撃し、帰らぬ人となった兵士たちも多い。特攻基地といえば知覧などが知られており、かつて資料館を訪ねたこともあるが、都城にも特攻基地があったとはここで初めて知った。そもそも、なぜ都城が軍都になったかというところだが・・・

そろそろ列車の発車時刻が気になり、資料館を後にして歩いて西都城に着く。資料館からは徒歩15分くらいと思ったより早く到着した。晴れているが空気は冷たく、ホームで列車を待つ間も寒いので体を動かして少しでも温める。

乗るのは10時36分発の宮崎行き。車内はオールロングシート車だ。次の都城でもすぐに発車する。この先乗車する「日豊本線開業100周年記念列車」のツアー、南宮崎の集合時間は12時30分。西都城から宮崎行きに乗ると南宮崎には11時34分着。後続の西都城11時18分発特急「きりしま8号」でも12時07分着と間に合うのだが、早めに南宮崎に着いて、あらかじめ車内での飲食物など仕入れておくつもりである。

宮崎にちょうど昼に着く列車ということで、駅ごとに数人ずつではあるが乗客があり、立ち客も出るほどになった。そして、南宮崎の2つ手前の清武に到着。しばらく停車するのは列車の行き違い待ちかと思い気にしなかったが、それにしては長い。スマホ時計を見ると、発車時刻はとうに過ぎている。

するとワンマンの運転士から「この先、清武~加納間で倒竹があり、作業のため運転を見合わせています。なお、運転再開の目途は立っていません」というアナウンス。倒竹は強風のためと思われる。それはさておき、「運転再開の目途が立っていない」というのが気になる。南宮崎で「記念列車」のツアー集合時刻まで1時間弱の余裕があったが、下手すると間に合わないということにもなる。スマホで運行状況を確認すると、倒竹の発生時刻は10時44分とある。私が乗った列車が都城を出発してすぐくらいのことで、ともかく手前の清武まではたどり着いたが復旧がまだというところのようだ。こればかりはどうしようもない。

ともかく、ツアー案内に記載されたJR九州トラベルデスクの連絡先に電話し、下手したら間に合わないといたい現在の状況を伝える。担当者によると、後続の「きりしま8号」で南宮崎に着く予定の参加者もいるそうだ。「記念列車」の発車じたいは13時すぎともう少し時間があるし、こちらの落ち度ではなくJR九州の路線トラブルによるものだから、まさか積み残しにするとは思わないが、仮にそうなったら別途乗車券を買って後続の特急に乗るか、いっそのこと「B&Sみやざき号」で新八代に戻って新幹線で広島に戻るか・・。ただ旅行代金はどうなるのだろう。

そんな中、清武で40分以上待ったか。反対側から遅れていた西都城行きが到着し、これを受けて宮崎行きも発車した。倒竹の現場とおぼしき場所も過ぎる。この後は宮崎の郊外を快走しだしたのでどうやら集合時刻には間に合いそうだ。もう一度JR九州トラベルデスクの担当者に電話してその旨を伝えると、ともかく、南宮崎で下車するようにとの指示を受ける。

宮崎行きが着いたのは12時15分頃。改札口前に出ていたツアー受付デスクにて申し出ると、「間に合ってよかったですね」ということで、無事に受付完了となる。列車が入線次第案内があるというので、いったん駅近くのコンビニにてあれやこれやと買い求める。この遅れだと、後続の「きりしま8号」からの参加者についてもぎりぎりで受付が可能のようだ。

こうして宮崎県の札所コンプリートの打ち上げを兼ねた、「日豊本線開業100周年記念列車」による日豊線の長躯6時間の旅も無事に始まりそうだ・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第41番「天長寺」(これで宮崎県をコンプリート)

2023年12月24日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

11月27日、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの2日目。外はまだ暗いが、この日の宮崎県は晴れの予報である。朝5時から地下の人工温泉がオープンしているので入りに行く。普段はそうした習慣がないのに、大浴場つきのホテルに泊まると必ず朝風呂に行くのはどういうメカニズムなのかなと思う。

朝食まで少し時間があるのでテレビをつけていると、「さつま狂句」という番組をやっていた。鹿児島・南日本放送のローカル番組で、鹿児島弁をテーマにした一句を募集し、入選した作品を発表する内容。12月のお題が「沢山」というものだが、鹿児島弁では「ずばっ」とか「ずんばい」と読むそうだ。いくつかの作品がイラストとともに紹介される中、それを解説する先生らしいのがもう鹿児島弁丸出しで、何を言っているのかわからない。

さて、バイキング形式の朝食。チキン南蛮や、郷土料理の「ガネ」などをいただく。「ガネ」とはさつまいもなどを細切りにして、他の野菜も混ぜてかき揚げ風にした一品で、その姿が蟹に似ているk十から、蟹を意味する方言の「ガネ」と呼ばれるようになったとか。

ホテルをチェックアウト。駅に向かう途中、都城オフレールステーションの横を通る。

この日は第41番・天長寺に向かう。西都城駅から30分くらい歩くだろうか。西都城駅には以前はコインロッカーがあったそうだが現在は撤去。都城駅にはコインロッカーがあるが、昼から乗車する「日豊本線開業100周年記念列車」には西都城からそのまま移動するため、荷物をかついで移動することにする。

7時56分発の西都城行きに乗車。高架の西都城に着く。駅は無人で(窓口は一部時間のみ開いているようだ)、他にもいろいろな設備があったようだが撤去されてがらんとしている。

一方で駅前のロータリーは広く、宮崎交通のターミナルもある。地図を見ながらのんびり歩くことにしよう。

途中、「志布志線ウェルネスロード」の入口に差し掛かる。1987年、国鉄の民営化とともに廃線となった志布志線の線路跡のうち約6キロの区間を遊歩道として整備した。途中の駅跡も残っているようだ。

大淀川を渡る。宮崎市の中心を流れるあの大淀川の上流である。周辺は川の駅公園として整備されている。

日豊線の線路を挟んだ向こうに城のような建物が見える。かつての城郭をイメージして建てられた都城歴史資料館で、ここは帰りに立ち寄る予定である。

えくてくと歩くうち、天長寺に到着。天長寺が建てられたのは戦国時代、北郷忠相(都城島津氏)の菩提寺として開かれた。秀吉の天下統一後に北郷氏が薩摩の宮之城に移されたが、関ヶ原の戦い後に都城を奪回して復帰。以後、近隣の寺の総元締めとしての地位を築いた。

しかし明治の廃仏毀釈により、特に薩摩藩は廃仏毀釈を徹底的に行ったことにより、藩内の寺院はほとんど廃寺にさせられたという。その中にあって、天長寺には阿弥陀如来、不動明王、地蔵菩薩の石仏がかろうじて残されている。土地の人たちがひそかに守り抜いたのだろう。

現在の本堂は新たに建てられたもので、普通の玄関になっているが扉が開いており、中に入る。寺の本尊は不動明王でまずはお勤めとする。

朱印は道内の一角にあったのでセルフでいただく。

寺の裏手の高台には四国八十八ヶ所のお砂踏みがある。やや見えにくいが、石畳に札所の名前が掘られており、それを踏むことで一周する。

さてこれで前日先に参詣した弘泉寺と合わせて、宮崎県の札所はコンプリートとなった。次はいよいよ鹿児島県に入ることに・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~都城で一献

2023年12月23日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

12月16日、都城で泊まるのは都城グリーンホテル。

建物に向かうとフォーマルスーツや黒留袖姿の人を目にする。そしてクリスマスちりーも飾られるロビーでは数十人の人ががやがやしている。どうやら結婚式のようだ。こちらは単なるビジネスホテルではなく、会議や宴会、ウェディングにも対応しており、通りを挟んだ向かいに教会もある。ちょうどこれから教会で結婚式が始まるようで、ロビーで待っていた人たちがぞろぞろと移動する。

建物は本館と「ザ・プレミアムクラス」に別れており、私が泊まったのはリーズナブルな本館だが、シャワールーム、トイレ、洗面台がそれぞれ独立したセミダブルルーム。

さて部屋にはシャワールームがあるが、フロントでも勧められたのが大浴場。「ザ・プレミアムクラス」の地下1階にあるので本館からフロントの前を伝って移動する必要はあるが、館内は部屋着で自由に過ごすことができる。都城、西都城駅近辺にはそれなりの数のホテルがあるが、大浴場を備えているのは都城グリーンホテルが唯一という。もっとも天然温泉ではないが、北海道の二股温泉のラジウムを使った人工温泉である。二股温泉とは長万部の辺りにあるそうで、こういうところの温泉に都城で入れるとはどういう仕組みなのかと思う。

入口にはシャンプーバーがある。50歳のおっさんには特段関係ないところだが、これもホテルのセールスポイントである。女性客には喜ばれるだろうな。

さすがに16時前だと他に入浴客はおらず、浴槽でのんびりする。1日かけて札所一つだけ訪ね、人工温泉とは・・たまにはこうした早い時間にのんびりするのもいいだろう。

しばらく部屋でくつろぐ。宮崎といえば民放テレビは2局だけだったと思うが、鹿児島県境に近いことから(ケーブルテレビのプランなのだろう)、鹿児島の4局も映る。鹿児島のテレビか・・いよいよ、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりも南にやって来たなと実感する。

18時、一献のために外に出る。雨はもう止んでいるが風が強く冷たく感じる。

今回入ったのは「あぶり七輪しせん」。地鶏を自分で七輪であぶって食べるスタイルというのに惹かれて予約したが、都城駅近辺には他にも大衆酒場が何軒もあり、そうした店もよかったかなと思う。

まずはビールで乾杯。あぶりものを注文すると七輪が運ばれてきた。店内は暖房が効いていて温かいのだが、七輪を目の前にするとさらにほっこりする。七輪の炭はくぬぎを使っているとある。

前段で来たのはカツオのたたき。前回訪ねた日南はカツオの一本釣り漁の水揚げが日本一というのを思い出しての注文である。一方、鹿児島は枕崎もカツオが名物で、ここ都城のカツオはどちらから流通したのかなと思う。ボリュームを感じる。

続いては鳥刺しの2点盛り。むね刺し、たたき。

そしてメインのあぶり。宮崎赤鶏もも、せせりを選択。七輪の網に乗せて少しずつ、あぶりたてをいただく。しっかりした歯ごたえを楽しむ。

加減によっては七輪から炎が出るのも一つの楽しみ。カウンターの隣のカップルの七輪からも炎が上がる。二人の恋もそのくらい燃え上がって・・・とはおっさんのひとり言だ。

アルコールは途中から焼酎に切り替わる。南九州といえば芋焼酎の独擅場で、特に都城は芋焼酎の中でも名高い霧島酒造の本社があるところ。ただ、個人的には芋焼酎が苦手で、それ以外の素材のものがないか探す。その中で見つけたのが、柳田酒造の「駒」。柳田酒造じたいは明治の創業で芋焼酎を造っていたが、蔵の存続のために芋焼酎をやめ、麦1本でやっているそうだ。これがスイスイと入って来る。

いい感じで飲み食いし、冷える中をホテルまで戻る。もう一度、炭酸カルシウム温泉で温まろう。部屋着で「ザ・プレミアムクラス」棟に行くと、ちょうど宴会場では先ほどの結婚式の披露宴だろうか、たまたま扉が開いていて歓声が聞こえてくる。

この後はゆっくり休む。明日は天気が回復するかな・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~吉都線で都城入り

2023年12月22日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、札所順が逆になるが、まず第42番・弘泉寺に参詣後、吉都線のえびの飯野駅から都城行きに乗車する。

吉都線が開業したのは大正時代の初め。当時鹿児島線の駅だった吉松から小林までが宮崎線として開業し、間もなく都城まで延伸した。宮崎線はさらに豊州線として大分方面まで延伸し、最後に県境の宗太郎越えの区間が開業して日豊線となった。それが今からちょうど100年前の1923年のことである。翌日には「日豊本線開業100周年ツアー」としての貸切列車に南宮崎から乗車するのだが、今、えびの飯野から都城行きの乗るのも日豊線の一部を走っているといえる。

1932年、都城から先の現行の日豊線ルートが開業したことで吉松~都城は吉都線となった。かつては博多~宮崎の特急も走っていたが、やがて典型的なローカル線となり、現在はJR九州の中でもワーストといっていい輸送密度だという。

今回はえびの飯野~都城という区間乗車だが、次の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでは肥薩線と合わせて乗り通すプランを考えたいものである。吉都線、肥薩線は昔ながらのキハ140系が使われており、また古くからの駅舎も点在するので、汽車旅の風情も味わえることだろう。

さて車窓だが、天気が良ければ右手には霧島の山々が見えるところ、依然として雨の中である。なおのこと、もう一度乗りに来たい理由となる。そんな中、町並みが広がり小林に到着。駅伝で知られる小林高校は駅から徒歩15分ほどとある。駅伝部の生徒なら3分そこそこで行けるところ・・?

その小林高校、男子駅伝では歴代4位となる7回の優勝を誇る。これは世羅、西脇工、仙台育英に次ぐ回数だが、小林が全国制覇したのは1960~70年代にかけてのことで、最後の優勝は1978年。この24日に行われる高校駅伝に男女揃って出場するが、古豪がどこまで食い込めるか。世羅、西脇工といった公立高校の古豪と合わせて応援したいところだ。

高原(たかはる)に停車する。ここは天孫降臨の地とされる高千穂峰の玄関口としてPRされている。天孫降臨といえば同じ宮崎県でも北にある高千穂ではないかと思うが、こちら霧島の山々と推定する声も多いようで、高千穂峰の頂上には、かつて神々が日本列島を創り出した際に使ったとされる鉾が突き立てられている。県の南北において、「高千穂論争」とも呼ばれているそうだ。

記紀の内容と実際の歴史がどうだったかというのはさまざまな推測があるところだが、日向に来る最中で読んだ梅原猛「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」では、「高千穂移動説」を支持する内容になっている。まあ、いずれにせよ日向から東征して熊野に渡り、大和に入って橿原で朝廷を開いたのが神武天皇・・・という大筋は変わらないようだ。

駅ごとにぽつぽうと乗客がある。高校生だろうか、着飾った女の子の3人組も乗って来る。それにしてもこの寒い時季にミニスカートって・・。都城にそうしたいで立ちで遊びに行くところがあるのか、それとも乗り継ぎで宮崎まで行くのか。

天候のほうも気まぐれで、空が晴れて霧島の山々がちらりと見えたかと思うと、また雨が降って来る。まあ、冬ならではの不安定な天候である。この列車が都城に到着した後、3分の乗り継ぎで日豊線の西都城まで行けば、この日のうちに第41番・天長寺に参詣することもできるのだが、駅からは徒歩30~40分の距離。天候が不安定な中、重い荷物をかついで歩くこともないだろう。

14時41分、都城到着。宮崎県南部の玄関駅だが、駅舎も閑散とした感じである。

駅に着いた時はたまたま雨はやんでいたが、依然として風は強い。札所めぐりは翌17日の天候に運を任せるとして、この日の行程は早々と打ち切りとする。

この日の宿泊は、駅から徒歩5分ほどの「都城グリーンホテル」。15時からチェックイン可ということで、いったんコンビニであれこれ仕入れてから向かう。その駅前にも冷たい風が吹き抜ける。

そして都城グリーンホテルに到着。この後は部屋でゆっくりしよう・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第42番「弘泉寺」(えびのの札所とえびの飯野駅)

2023年12月21日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

「道の駅えびの」で、荷物になるとわかっていながら地場のみやげを買い求め、小林駅行きのバスに乗る。いよいよここからが今回の札所めぐりで、まずは第42番・弘泉寺を目指す。昼間の時間帯というせいか、バスには先客が誰も乗っていない。まあ、たまたまだと思いたいが・・。

国道221号線を少し走り、えびの市役所やえびの駅がある加久藤地区を回る。この辺りがえびの市の中心といっていいだろう。もっとも駅があるといっても、実質の玄関口はえびのインターである。仮に肥薩線が災害前の時のように運転されていたとしても、広島からえびのに来るだけで1日仕事になっていたことだろうから、新幹線プラス高速バスというのは大きい。

雨の中、バスは淡々と走る。国道に戻り、今度は文化センター・図書館にも立ち寄る。その手前に城のような建物が見えたが、島津義弘に何か関係あるのかな(後でわかったことだが、この城のような建物は「森岡城」といい、地元出身の不動産会社社長が半世紀かけて「築城」したものだという。内装も昔の城を意識した障壁画などが備わる本格的な造りで、一般公開もしているそうだ)。

飯野の集落に差し掛かると、また国道から分かれて市民病院にも立ち寄る。バス路線としては、えびの市の主要なところを回る役割がありそうで、逆に平日だとそれなりの利用があるのかもしれない。

五日市バス停に到着。これから目指す第42番・弘泉寺までは徒歩5~10分ほどとの案内だが、雨もそれなりに降っているし、風もきつい。寺までの道が長く感じられる。八幡丘公園の山麓に沿って進む。観光だとまずこうした道を通ることはないだろう、これも札所めぐりならではである。

弘泉寺に到着。山門はないが、新しく建てられたらしい大きな石柱と仁王像が出迎える。石柱の間を抜けると広い敷地が広がる。駐車場でもあり、不動明王の護摩供が行われるスペースも広がる。

弘泉寺は、霧島の山々を望む八幡山の頂上に大正時代に開かれた寺である。その後現在地に移り、高野山真言宗の鰓として信仰を集めている。九州八十八ヶ所百八霊場が開かれたのは1984年のことだが、どこに札所を置くかにあたっては、宮崎県内の広い地域から札所を出すことに加えて、高野山真言宗ということもあったのだと思う。九州一周としては、都城からは吉都線~肥薩線と回るルートになるが・・。

まず見えるのは阿弥陀堂で、本堂はその奥にある。

普通の一軒家と変わらない造りで、玄関の扉を開けると上り口があり、奥には電気もついている。中から「お参り? どうぞ」と寺の方が顔を出したので、上がらせてもらう。「朱印帳があればお預かりします」というので預け、まずはお勤めとする。本尊は大日如来。

ちょうど地元の方か、こちらにゆかりのある方もくつろいでいるところ。南国宮崎とはいえここは山の中、焚かれていたストーブの熱気が心地よく、眼鏡も曇る。

朱印とともに、ジップロックに入れられたお菓子がお接待で出てくる。

元々本堂があった八幡山の頂上には奥の院があるそうだが、この雨だし、このまま都城に移動することにしておりそのまま寺を後にする。意外なルートでえびのの札所を参詣できたことで、この後の展開も楽になる。

さて、このまま歩いて吉都線のえびの飯野駅を目指す。案内では徒歩25分ということで、本数の少ない吉都線の次の都城行きは13時37分発。寺を出たのが13時前で、何とか間に合いそうだ。これを逃すと次は2時間44分後の16時21分発までない。

雨はまだ降っているが、風は少し落ち着いたようだ。そのままテクテク歩き、列車には十分間に合う時間でえびの飯野に到着。駅舎は昔ながらの建物だが、隣接するトイレは最近建て替えられたもののようだ。

駅としては無人なのだが、駅舎の中にはさまざまなものが集められている。手作りの歓迎メッセージや、巨木を利用したベンチ、そしてかつての事務室は「茶のん場」として活用されている。窓越しにのぞいてみると何かの作業中で、一見さんが扉を開けて入るのはちょっとためらわれるが・・。

そんな中、吉都線と「キットカット」のコラボ企画である絵馬の奉納場がある。吉都線の線名とかけて「キット、願いが叶う」ということである。普段寺社参りしても絵馬は書かないのだが、これは面白いということで、経営が厳しい吉都線、肥薩線の存続を願うメッセージを書いて奉納する。

列車の到着時間が近づくと地元の高校生ぽつぽつ姿を見せる。やって来た都城行きには10人くらいが乗車。キハ140の単行で、それでもボックス席を独り占めできる。久しぶりの吉都線の乗車を楽しむことに・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~「B&Sみやざき号」でえびのへ

2023年12月20日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、新八代と宮崎を結ぶ「B&Sみやざき号」に乗車する。新八代10時28分発の「543号」はJR九州バスの車両。窓側の席がほぼ埋まるくらいの乗車率で、実質1人で2席を使っての移動である。窓側の壁にはUSBポートも備え付けられており、またWi-Fiもあるので移動時間も退屈しない。

この「B&Sみやざき号」は、2011年の九州新幹線全通に合わせて運行を開始した路線で、新幹線が走らない宮崎方面への利便性向上を目的としている。「B&S」とは「バス&新幹線」の意味である。走行する九州道~宮崎道はJR肥薩線~吉都線~日豊線と並走するが、JR九州も難所区間を走る在来線より、高速道路を利用してフレキシブルな運用ができるバスを活用する現実策を取っている。

雨が降りしきる中、先ほどの松中信彦スポーツミュージアムの横を通る。こちらからだと建物の壁面にバッティングフォームを見ることができる。

八代インターから九州道に入る。前回宮崎からの帰りに「B&Sみやざき号」に乗った時はすでに暗い時間帯で景色も見えなかったが、今回は雨ながら外を見ることができる。

橋梁とトンネルで一気に抜ける感じだ。その途中に球磨川を渡る。見えなかったが、この球磨川沿いを肥薩線の線路が通っている。その肥薩線、2020年7月の豪雨の影響で八代~人吉~吉松間の運休が続いており、復旧の目途はたっていない。沿線自治体とJRの協議も思うように進んでいないようだ。鉄道での復旧にこだわるのか、日田彦山線のようにBRT方式を採用するのか。

やがて球磨川から離れ、より険しい山の中を突き抜ける。その途中、反対の上り車線では改修工事が行われており、その工事区間に向けて渋滞が発生している。「B&Sみやざき号」の新八代での新幹線との接続時間は約10分だが、渋滞の影響でバスの到着が遅れたらどうなるのかなと思う。

前方の景色が開け、人吉インターに到着。3~4人が下車した。バス停から人吉駅までは2キロほど離れているようだ。もっとも、現時点では人吉駅まで行っても、肥薩線、そしてくま川鉄道いずれも列車は走っていない。鉄道が来なくなった人吉の現在の様子がどのようなものか気になる。九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの札所は人吉近辺にも結構固まっているが、そこにたどり着く時、鉄道はどうなっているだろうか。

さてここから矢岳越えの区間である。肥薩線だと大畑ループ、そしてスイッチバックという「日本三大車窓」の区間。こちらも運休中である。列車の来ない大畑駅、現在はどのような様子なのだろうか(以前列車で訪ねた時、駅舎の壁に名刺を貼り付けたことがある)。

一方の九州道は6264メートルの加久藤トンネルで一気に宮崎県に入る。

11時27分、えびのインターに到着。下車したのは私ともう一人。九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは私にとってさまざまな交通機関を楽しむ旅でもあるのだが、まさかこういうアクセスで札所に向かうとは思わなかった。インター横の道を歩き、国道268号線に出る。

この「えびの」というひらがなの地名。今でこそひらがなの自治体名もあちらこちらにあるが、「えびの市」が誕生したのが1970年、前身の「えびの町」は1966年に発足と結構古い部類だというから、当初からひらがなで表記する必要性があったと思われる。

検索すると、自治体の名前となった「えびの」は、漢字だと「海老野」でも「蝦野」でもなく「葡萄野」と書くとある。秋になると高原のススキが葡萄(えび)色になることから、高原にその名がつけられたという。確かに漢字だと「ぶどうの」と読みそうだが、ならば「葡萄」を「えび」と読むようになったのはなぜかと思う。さらに検索を進めると、「山葡萄」と「伊勢海老の甲羅」の色が近いということでこの読みができたという。いつ頃からそう呼ばれたのかはともかく、古代の人たちの色に対する感性が豊かだったことの一端がうかがえる。

さて、九州八十八ヶ所百八霊場の第42番・弘泉寺に向かうべく宮崎交通バスに乗るのだが、えびのインターの近くに「道の駅えびの」があり、そこにバス停がある。ちょうど次の小林駅行きのバスまで20分ほど、ほどよい待ち時間である。

九州道で来ると宮崎県の玄関口にあたるところ。駐車場の入口では宮崎牛の像がお出迎え。宮崎牛といえば、大相撲の優勝賞品の一つである。また、バファローズのファンクラブ入会特典の一つについたこともあった。店内の物産コーナーには宮崎牛も並ぶがさすがに買うわけにはいかず、宮崎牛入りのレトルトカレーやふりかけを自分土産とする。

一方で、宮崎といえば鶏肉の生産でも名高い。えびのの鶏肉専門店「えびチャン本店」の焼き鳥のパックが売られていて、こちらも買い求める。この焼き鳥は、この夜宿泊した都城のホテルにて美味しくいただいた。買い求めたのは昼、いただいたのは夜だが、冷めても美味い。

駐車場の中央に武将の像が立つ。戦国時代の名将・島津義弘である。この辺りは日向の伊東氏と薩摩・大隅の島津氏の勢力争いの場になっていたが、島津義弘の活躍で伊東氏を破り、九州に版図を広げるきっかけとなった。その義弘が26年間拠点としていたのが近隣の飯野城ということから、没後400年の事業として道の駅に像が建てられたという。

11時51分発の小林駅行きのバスが到着。このバスの始発は京町温泉だが、先客はゼロ。私だけが乗り込んで雨の中東に進むことに・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~八代・松中信彦スポーツミュージアム

2023年12月19日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、宮崎の札所最後となるえびの~都城をたどり、当初は鹿児島に出る計画だったのを宮崎に向かい、日豊本線開業100周年ツアー列車に乗るルートである。

宮崎県には新八代から「B&Sみやざき」でアクセスするが、途中のえびのインターに停車する便まで少し時間がある。ということで、駅から200メートルほどのところにある「松中信彦スポーツミュージアム」をのぞくことにした。新八代での約1時間の待ち時間を過ごすのにはぴったりだろう。

松中信彦・・・ダイエー~ソフトバンクとホークス一筋で、ダイエー球団として最後のシーズンとなった2004年には、「平成唯一」となる三冠王を獲得した選手である。2000年代初期の松中、小久保、城島、井口、バルデス、ズレータ、川﨑らが並ぶ「ダイハード打線」は実に強力だった。

また、松中は私と同じ1973年生まれ。この年生まれのプロ野球選手も実に豪華で、打者では松中のほかに何といってもイチロー、中村ノリ、小笠原らが並ぶ。また投手では石井、三浦といった今季監督を務めた顔も並ぶ。ジョニー黒木も同じ年だ。野球関連の記事で、生まれた年ごとのベストナインを取り上げるのを見ることがあるが(暦日で見るか、学年の年度で見るかによって若干入れ替えはあるが)、1973年というのは豪華メンバーが揃う年の一つである。

その中で松中は八代出身ということで、八代の玄関口である新八代駅前に2009年に開館した。昨日今日できた充て物ではないのだが、八代を訪ねる機会もそうあるものではなく、今回、「B&Sみやざき」のダイヤの関係でようやく訪ねることができた。

ちょうど雨が落ちて来た中、円柱形のミュージアムの前に着く。ただ、開館は10時とある。次に乗る「B&Sみやざき543号」の発車は10時28分で、見学できるのは20分ほどしかないのが残念だ。駆け足での見学となるが仕方ない。

開館までの時間、同じ敷地内にある「八代よかとこ物産館」に入る。道中が始まったばかり、しかも目的地は宮崎だが、せっかくなので熊本のあれこれも買うことにする。馬刺しの燻製、有明海苔、はては太平燕の即席スープなんてものも買い求める。

さて開館時間となり、入場する。館内はスタジアムをイメージした造りで、スタンドに擬した廊下での展示が中心である。まずは生い立ちからプロに入るまでのエピソードが並ぶが、その中で初めて知ったのが、左投げの松中が高校から社会人にかけての一時期、右投げに転向していたことである。

左ひじの故障により、野球そのものを辞めようかと思っていた時、父から「左が無理なら、右で投げればいいじゃないか」との言葉で右投げに転向し、必死の練習でモノにすることができた。故障をきっかけに利き腕を変えるのはたまにある話で、私が知る中で有名なのが、元々右利きだったのが子どもの時のケガで無理やり左利きにさせられた鈴木啓示。父親が左利きの川上哲治に憧れていたそうで、息子がケガをしたのをこれ幸いとばかりに矯正してしまったという。さて現代、こうした親の方針は世間で認められるのかな・・。

左投げ用、右投げ用のグローブが展示されているが、松中の場合は社会人になってから手術で回復し、再び本来の左利きの選手として活躍することになった。

また、グリップのところで折れたバットも展示されている。2001年の対ライオンズ戦で、松坂のストレートに対してバットが折れながらも打球がそのままスタンドインした・・その時のバットである。その時のテレビ映像をYouYubeなどで見ることができるが、打たれた松坂も「うそでしょ?」という表情だったし、ベンチでそのバットを手に松中を迎えた王監督も半ば呆れた様子だった。

グラウンドをイメージした中央の展示スペースの壁面にはこれまでの表彰で授与された品々が並ぶ。残念ながら名球会の2000本安打には届かず現役を退き、その後は解説やキャンプの臨時コーチなどで野球との関わりはあるものの、ホークス以外を含めてのコーチや監督経験がないのももったいないように思う。

指導者や指揮官としての向き・不向きもあるのかもしれないし、ネットなどでは球団とのソリが合わないからだとか、本人の素行や性格に問題があるからだとかいろいろ取り上げられているが、どうなのだろう。2024年、ホークスは「切り札」ともいえる小久保監督が就任したが、松中にももう一度ホークスのユニフォームを着てほしいと思っているファンも多いのではないかと思うのだが・・。

さて、奥のスペースは「企画展」コーナーといったところだが、この時は2023年の日本シリーズの新聞切り抜きが並んでいた。あの、バファローズとタイガースによる「決戦・日本シリーズ」である。上段がタイガース、下段がバファローズなのは日本一になったかそうでないかの扱いの差だが、改めて死闘のシリーズだったことが思い出される。

また、このコーナーの一角では八代出身のバファローズ選手として、小田、そして難病のため2020年で引退した西浦が紹介されている。松中信彦ミュージアムなだけにホークス推しも強いのだが、他チームとはいえ地元出身の選手を応援する姿勢が強いのも九州の特徴の一つだと思う。先ほどの中央の展示スペースにも、熊本県出身の歴代の選手が紹介されていたが、名球会入りの成績を残した選手だけでも、川上哲治、江藤慎一、秋山幸二、前田智徳、荒木雅博と並ぶ。また名球会入りはならなかったが松中信彦、そして村上宗隆という三冠王2人もいる。先ほどの1973年生まれ・・に続いて、熊本県出身のベストナインもそうそうたるメンバーが並ぶ。

駆け足で見て回った形でミュージアムを後にする。係の方から「どちらから来られましたか?」と声をかけられ、「また八代に来られたら、秋山さんのギャラリーに行ってくださいね~クルマで約10分です」と、案内の紙を渡される。秋山さんこと秋山幸二(ライオンズ~ホークス、監督)は八代市の北にある八代郡氷川町出身とのこと。「秋山も八代出身」というのが私の認識だったが、正しくは氷川町だったとは。そしてこの氷川町も今は合併して八代市の一部・・ではなく、平成の大合併で2つの町が合わさって誕生したのが氷川町だという。

さてこの記事は札所はまったく出て来ず、完全に野球ネタになったのだが、駅に戻ると、これから乗る「B&Sみやざき543号」はすでに乗り場に停まっていて、ちょうど新幹線からの乗り継ぎ客を出迎えるところ。私も、「ちょうど新幹線を降りたところ」という顔をして乗車列に加わる。

40人乗りの車両だが、窓側の席がほぼ埋まるといったところで出発。これからの雨が気になるが、いよいよ札所めぐりの舞台である宮崎県に向けて出発・・・。

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第13回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~宮崎県のコンプリートに向けて、行程をいろいろ思案

2023年12月18日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

第13回となる九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。前回は9月、NPBのペナントレースも終盤に差し掛かった頃で、行き先はカープのキャンプ地でもある宮崎県日南。この時は札所2ヶ所に参詣したほか、青島神社、鵜戸神宮にも参拝、さらには日南線で終点の志布志まで足を延ばし、帰途にはライオンズのキャンプ地である南郷から特急「海幸山幸」にも乗ることができた。ある意味「日南線シリーズ」といっていい。

それ以来、およそ3ヶ月ぶりとなる九州行きだが、都城にある第41番・天長寺、そしてえびのにある第42番・弘泉寺と回り、宮崎県の札所がコンプリートとなる。時計回りの九州一周のコマでいえば、都城からそのまま日豊線を進むのではなく、吉都線のルートに入る形だ。

この中で気になったのは、えびのの弘泉寺へのアクセスである。検索したところ、弘泉寺へは鉄道だと吉都線のえびの飯野駅から徒歩20分ほど、そして、宮崎交通バスの京町営業所~小林駅の路線だと、五日市バス停から徒歩5分ほどとある。これなら、吉都線と宮崎交通バスをを組み合わせることで公共交通機関で回れそうだ。ただ、それぞれ本数も限られているため、どのように回るかあれこれ思案する。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりを一種の九州一周とすれば、そのコマは南宮崎駅前にある宮交シティまで進んでおり、高速バス「B&Sみやざき」で帰途についている。一応都城北、えびのインターは通過しているので、九州めぐりはそこまで進んでいるとみなすこともできる。まあ、そこは私自身のルールで、別にどう回ってもいいのだが・・。

やはりネックになるのは吉都線のダイヤである。1日8往復のローカル線で、その本数も朝と夕方・夜に固まっていて、午前と午後の便の間には5時間の空白がある。初日に都城に宿泊して、翌朝早朝にえびの飯野まで行けばまだ何とかなるのだが・・。

そんな中、「B&Sみやざき」の一部の便がえびのインターに停車するのに着目する。宮崎交通バスの路線はえびのインター入口の停留所も経由しており、えびのインターの到着時間からそれほど待たずに接続する便があるのを見つけた。これで五日市まで行き、先に弘泉寺を参詣。そして、徒歩でえびの飯野駅まで移動して、それほど長時間待たずに吉都線の都城行きに乗ることができるルートを見つけた。これだと都城には14時41分着で、そのまま都城の天長寺を回ってもよし、翌朝に回すこともできそうだ。

そして翌日、九州めぐりのコマを進めるのと、ローカル線乗車を兼ねて、吉都線~肥薩線をたどり、鹿児島県に入る。次の札所である第43番・法城院は日豊線の加治木駅近くにあり、そこまでコマを進め、帰りは鹿児島中央から九州新幹線でそれなりの時間に広島に戻ることができる。これで最難関の鹿児島県入りだ。年末の慌ただしい時季にもかかわらず、あえて12月16日~17日でのお出かけとして各種交通機関、そして16日夜の都城の宿と一献の場所を手配する。

・・・さて、出発まで1週間ほどというところ、私はふとJR九州の列車を使ったツアーを検索していた。さまざまな観光列車もあるし、「SL人吉」の蒸気機関車も引退間近というので連日盛況のようである。その中で目に留まったのが、「日豊本線開業100周年記念ツアー」というもの。

日豊線は1923年に重岡~市棚間の開通により全線開業した路線である。もっとも、当時の日豊線は都城から現在の吉都線を経由した吉松が終点で、吉松からは現在の肥薩線を経由した鹿児島線に合流していた。さらに、その後の開通、路線名変更を経て日豊線が現在の鹿児島までの区間となったのは1932年のことである。

このたび、開業100周年記念ツアーとして、普段は大分以南には乗り入れない885系を使用した特別列車が運転されるという。16日の往路が小倉~宮崎、17日の復路が南宮崎~小倉の運転である。ツアー案内によると、16日の往路には鉄道ユーチューバーの西園寺氏、17日の復路にはフリー鉄道アナウンサーの田代剛氏がゲストとして乗車するとある。鉄道アナウンサーの田代氏は初めて目にする名前だが、ユーチューバーの西園寺氏は私も動画をいくつか拝見したことがあり、その筋ではトップクラスの人気者である。

これで私が西園寺氏の熱心なファンなら、何としても小倉から宮崎まで移動し、そのうえで九州八十八ヶ所百八霊場めぐりのプランを練り直したことだろうが、そこまでのこだわりはない。むしろ、南宮崎からの復路なら、復路の移動を兼ねて乗ってみるのも面白そうだ。午前中に都城の参詣を終え、その後で吉都線~肥薩線には乗らず移動すれば間に合いそう・・・ということで、復路の記念ツアーを予約した。その乗車記もいずれ書くことに・・。

・・・いつもながら前置きが長くなったが、11月16日、広島6時53分発「こだま781号」で出発する。冬至に近い日の短い時季に加えて、低気圧の影響で天候が思わしくない。西日本は気温が下がり、雨風も強まるとの予報も出ているが。こればかりはどうしようもない。

日本旅行「バリ得こだま」のプランで、広島~博多~新八代の指定席を予約している。乗り込んだ6号車はそこそこの乗車率で、駅ごとに乗客も増える。女性客の割合が多い。九州向けの同じ「バリ得こだま」プランなのかな。

ようやく外が明るくなり・・といっても限りなく曇天だが、そのまま博多に到着する。次の8時40分発「さくら403号」までは約20分の待ち時間だが、あっという間に経過する。

次の「さくら403号」、「さくら」とはついているが九州新幹線内のみの運行で、車両もオリジナルの車体、内装の800系が使われている。博多を出発すると、日本語、英語、中国語、韓国語による案内放送が流れる。ただでさえ必要以上に?長いと感じることもある日本語の案内放送、それをもう3ヶ国語で放送するのだから、長い。放送が終わる頃には次の新鳥栖が近く、また延々と4ヶ国の案内が流れる・・・といえば大げさだが。

九州に入るとより雲が厚くなり、ところにより雨も降っているようだ。新鳥栖、久留米に停車した後、筑後船小屋、新大牟田、新玉名は通過する。3駅通過が「つばめ」と「さくら」の差といったところか。熊本ではやはり何割かの乗客が入れ替わる。この先、鹿児島中央までは各駅に停車する。

9時30分、次の新八代に到着。席を立つ人も目につく。もちろん八代近辺が目的地という客も多いだろうが、「B&Sみやざき」で宮崎方面に抜ける客もそれなりにいると思う。

さて、その「B&Sみやざき」だが、新幹線との接続を考慮したダイヤとなっており、バスの番号もそれに合わせている。ここまで乗って来た「さくら403号」に新八代駅前バス停で接続するのは、9時40分発の「B&Sみやざき403号」。乗り継ぎ時間の10分というのは慌ただしいようにも感じるが、新八代駅じたいシンプルな構造だし、バス乗り場も駅建物を出てすぐのところにあるので問題ないところ。

もっとも、何らかの理由で九州新幹線のダイヤが乱れて遅れた場合、「B&Sみやざき号」は待ってくれるのか。あるいは、宮崎方面からの高速道路が渋滞して新八代到着が遅れた場合、新幹線は待ってくれるのか。関係者に確認したわけではないが、前者ならまだ融通が効くかもしれないが、後者なら新幹線のネットワークを崩すわけにはいかず、新幹線はそのまま発車、乗り遅れた客は後続列車の自由席に乗車となるのだろう。ただ中には、新幹線に乗り遅れたばかりに当日中に目的地まで行けなくなった客もいたのではないかと思う。その場合のルールはどうなるのだろうか。

・・・で、この「B&Sみやざき403号」、新八代下車後、余裕で間に合ったのだがバスを前にそのまま見送った。別にこれは乗り遅れではなく、行程を決めるうえでそうなったことである。

今回の私の行程は、「B&Sみやざき」に乗るものの、まずは途中のえびのインターで下車して宮崎交通バスに乗り継ぐもの。もっとも、えびのインターに停車する便は限られており、先ほどの「403号」はえびのは通過扱いである。そのため、次にえびのインターに停車する。新八代駅前10時28分発の「B&Sみやざき543号」の席を確保した。

思わぬ形で新八代で1時間近く待ち時間ができたように映るが、新八代駅で時間が取れれば・・ということで、バス乗り場から徒歩2~3分ほどのところにあるスポットに立ち寄ることにする。ヒントは、八代が生んだ「平成唯一の三冠王」・・・って、ほとんど答え言っとるがな・・・。

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最後の「サロンカーなにわ」金沢~新大阪に乗る(その3)

2023年12月13日 | 旅行記D・東海北陸

11月26日、金沢から乗車した「サロンカーなにわ」も敦賀まで走り、いよいよ新大阪までの終盤である。もっとも、敦賀の発車は17時19分だったが、新大阪着は20時14分。この先は湖西線を経由するのだが、特急なら1時間10分~20分、新快速で2時間のところ、所要時間3時間である。途中駅での列車退避の待ち時間が多いためだが、少しでも長く「サロンカーなにわ」の風情に浸ってほしいというクラブツーリズム鉄道部の思いもあるのかな。

敦賀を発車した後に通るのが、北陸線上りの鳩原(はつはら)ループ線。1957年の北陸本線新鮮として建設されたところである。乗務しているJR西日本のレジェンド・長尾車掌からループ線の案内がある。ループ線を上る途中、進行方向左手には、先ほどいた敦賀の市街地の景色を眺めることができることでも知られている。日が落ちた後の時間帯、私が座っていたのとは反対側の車窓となるが敦賀の夜景が広がっていたことだろう。

長尾車掌の案内だと(画像は、車内イベントのじゃんけん大会のシーン)、日本にはループ線が6ヶ所あるという。その一つがこの北陸線の鳩原ループ線。あとの5ヶ所はどこかというところだが・・・私が思い浮かべたのは肥薩線の大畑ループ線(肥薩線は現在長期運休中で、果たして大畑ループを列車が走る日は来るのやら)、上越線の湯檜曾ループ線、松川ループ線、そして予土線と土佐くろしお鉄道が分岐する川奥ループ線だが、あと1ヶ所は・・・おろちループ?? 違うか。

湖西線に入ると、長尾車掌から琵琶湖を月明かりが照らしているとの案内が入る。反対側なので見ることはできないのだが、秋晴れに恵まれた1日、琵琶湖にも月明かりが映えることだろう。トワイライトからムーンライトへの移り変わりだ。ムーンライトか・・・かつて各地を走っていた夜行快速列車の名前だったは。その代表格は「大垣夜行」こと「ムーンライトながら」だが、大阪出身の私とすれば、「ムーンライト山陽」、「ムーンライト九州」、「ムーンライト八重垣」、「ムーンライト高知」などがなじみである。青春18きっぷに指定席券をプラスするだけで利用したのも懐かしい。

この「サロンカーなにわ」だが、夜行列車としての運用も想定されていたそうである。そのために高速バスを意識した3列シートを採用したという。そしてこのツアーにおいて、車内の消灯、そして翌朝の再点灯という夜行列車ならではの場面を、長尾車掌による「おやすみ放送」、「おはよう放送」とともに演出するという。

「トワイライトエクスプレス」の札幌行きをイメージした「おやすみ放送」が流れ、車内が消灯される。長尾車掌の落ち着いた語り口がよい。「クロスオーバーイレブン」の津嘉山正種さん、「ジェットストリーム」の城達也さんとまではいかないにせよ、夜の雰囲気を演出している。

そして約10分後、長尾車掌による「おはよう放送」が流れる。外は真っ暗なのだが、そこは日の出が遅い冬の時季をイメージする。そしてふたたび車内が明るくなる。こうした演出ができるのも新大阪行きの復路ならではである。申し込んだ当初は、後半暗い中を走って外が見えないので退屈になるかなと懸念していたが、むしろこうした演出の復路を予約してよかったと思う。客室内からも「たまらんわ~」といった雰囲気がにじみ出ていたし、隣の東京からの男性も感激の様子。

おごと温泉に運転停車。この停車時間中、最後尾・5号車の展望室の利用時間となる。5号車には車掌室があるが、長尾車掌が「どうぞどうぞ」と中の撮影を勧める。車内で流れる「ハイケンスのセレナーデ」の音源もここにある。

展望室には先ほどと同じような顔ぶれが集結する。同じ展望車形式のスロフ14だが、先ほど利用した1号車とは違って、車両の半分は一般客室で、同じようなリクライニングシートが並ぶため、展望室のスペースとしては小ぶりである。

おごと温泉を出発。写真はきれいに撮れないのだが、大津から京都にかけての区間を快走し、すれ違う列車のテールランプを追いかける。ほんの少しの時間、夜汽車の風情を追体験する。

東海道線と合流し、京都に到着したところで展望車両の交代時間となった。同じように、無人の展望車両を2~3枚撮影する一時があった。ホームには多くの人たちが「サロンカーなにわ」目当てに集まっていたようだ。2分停車ですぐに発車するが、5号車車掌室から長尾車掌がホームにいた人たちに手を振って別れを惜しんでいた。

京都まで来れば新大阪までは30分かからない距離だが、途中の山﨑で36分運転停車する。19時台といえば夕方の列車本数の多い時間帯で、臨時列車はその間を縫っての走行となる。

この時間、サプライズ企画ということで、もう一度夜行列車の疑似体験として減光、消灯が行われた。「おかわり」じたいはよいとして、やはり走行中の消灯とはちょっと違うなと思う。夜行列車というよりは、途中のサービスエリアで乗務員の休憩のため1時間くらい停車している夜行バスに近いものを感じた。夜の乗り物、途中で長く停まっているのに反応して目が覚めるという、あのパターンである。

それはさておき、再点灯後もまだ停車時間があることから、クラブツーリズム鉄道部からの挨拶、今後のツアー告知があった。クラブツーリズム鉄道部としてはこれまでJR東日本、あるいは親会社である近鉄を利用した鉄道ツアーの実績をあげてきたが、JR西日本エリアではライバルの日本旅行が食い込んでいる関係で、なかなかツアーを企画できなかったたそうだ。

この「サロンカーなにわ」に乗車するツアーも、これまで日本旅行が独占する形で食い込めなかったという。その中で、長年にわたらさまざまな方向からのアプローチを続けた結果、ようやくこの10月のツアーで、最後の北陸線を舞台に実現にこぎつけたという。これをきっかけに、西日本でも今後さまざまな企画をやっていきたいという。西日本エリアなら私もまだ参加しやすいので、これからも情報をチェックするとしよう。

山崎を出発し、長い旅もラストスパートとなる。

20時14分、新大阪到着。6時間あまりの長旅を終え、列車はしばらく停車後、回送される。ホームには乗客のほかに、あらかじめ待ち構えていた人たちが一斉に集まる。

「サロンカーなにわ」は製造からちょうど40周年。北陸線での運行はこれで最後だろうが、客車じたいの引退の話は出ていないようで、もうしばらくは西日本のあちらこちらで走る姿を見ることができそうだ。今回、「サロンカーなにわ」は最初で最後かな・・という思いで乗車したのだが、またチャンスがあれば乗ってみたい。何せ「客車列車」そのものに乗車する機会がごく限られたものになっているし・・。

車内で隣だった東京江戸川からの男性はこの後夜行バスで東京に戻るそうで、先ほど車内の洗面台で髭を剃ったという。夜行バス2連発、きつかろうがどうぞご無事で。そして私は、この時間ならまだバリバリ走っている山陽新幹線で広島に戻る。そう遅くないうちに帰宅できそうだ。

次に北陸に行く時は同じ鉄道でもずいぶん違った感覚になるだろう。それはそれで楽しみ。久しぶりに富山県、新潟県にも足を踏み入れたい・・・。

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最後の「サロンカーなにわ」金沢~新大阪に乗る(その2)

2023年12月11日 | 旅行記D・東海北陸

11月26日、おそらく北陸線を走るのは最後になるであろう「サロンカーなにわ」に、クラブツーリズム鉄道部による貸切ツアーにて乗車する。金沢を13時59分に発車し、途中加賀温泉で27分停車してドア扱いの下車タイムがあった後、福井で運転停車。ここまでおよそ1時間半だが、「サロンカーなにわ」の旅はまだ5時間近く続く。

この先も、本日乗務のJR西日本のレジェンド車掌といえる長尾車掌によるエピソードの披露などもあり、15時43分、武生に到着。

ここでも29分停車だが扉は開かない。その間に、「サロンカーなにわ」を一目見ようとホームに多くの人が集まる。乗客としては座席で待つほかないが、現在はほぼすべての人がスマホを持つ時代である。乗客の一人だろうか、これまでの様子を投稿する人もいるし(画像の片隅に私もちらりと写っていたぞ)、沿線での撮影の成果を見ることもできる。便利な世の中になったものだ(乗車から2週間以上経過してこうした記事を載せるというのは遅れている・・・)。

待つ間に後続の「しらさぎ12号」、そして敦賀行きの各駅停車に追い越される。北陸新幹線の新駅「越前たけふ」はここから2キロほど東に新設されるが、地元の人たちとして利便性はどうなるのだろうか。

そして武生出発の直前に、先頭1号車の展望室の利用時間となった。このツアー、先頭1号車、最後尾5号車の利用時間がそれぞれ20分ずつ設けられており、各回10名あまりで展望室の乗り心地を楽しむことができる。

展望室のすぐ前にはディーゼル機関車が陣取る。この状況にはうなるばかりで、「へぇ~」と言っている間に武生を発車する。客室で私の隣に座る東京からの乗客も「本当に豪華ですね!」とご満悦の表情を見せる。

20分という短い時間だが、お互いに席をいろいろ替わりながら乗り心地と車窓を楽しむ。ちょうど夕暮れ近い南越前の景色。

「サロンカーなにわ」の1号車であるスロフ14は、前半分が展望スペース、そして後ろ半分がカウンターになっている。その内装たるや、昭和から平成にかけての時代、当時としては「ハイカラ」な造りだったことがうかがえる。私の子どもの頃、いわゆるお金持ちのお宅の応接間ってこんな感じだったな・・ということすら思い出させる。このスロフ14はお召し列車の展望車として使われたこともあり、そのためにこの車両の窓ガラスは防弾仕様だという。また、車内のトイレも他の車両が和式なのに対して、この展望車に隣接する2号車のトイレはお召し列車仕様として洋式だとの紹介もあった。

ただ令和となってから、コロナ禍で天皇皇后が地方でお出ましになる機会が減ったこともあるが、お出ましの際もわざわざ専用車両を使ったお召し列車を仕立てたということを聞かない。JR西日本としても、さすがにこの先、皇室の方が「サロンカーなにわ」に乗ることは想定していないだろう。

列車は次の今庄で運転停車。ここで私たちの1号車の時間切れとなった。しかし退出前に、無人の展望室を撮影する時間が設けられた。一人2~3枚撮るくらいのわずかなものだが、貴重な瞬間である。こうしたサービスも「鉄道部」ならではの思いつきだと思う。

次のドア開放の停車駅である敦賀までの間には北陸トンネルがある。少し早いが夜の雰囲気である。

17時05分、敦賀着。14分停車で、これも後続の特急などの退避のためだが最後のホームからの撮影タイムである。

ちょうど暗くなりつつある時間ということで、客車もよりシックに映える頃合いである。申し込み時、金沢からの復路は後半が暗くなって車窓が見えないな・・という先入観があったが、トータルでみれば客車列車の昼夜両方の風情が楽しめる、より印象深いツアーになることだろう。

先ほどの加賀温泉と同じく、客車の最後尾のマークと「サンダーバード34号」を見送る・・・。

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最後の「サロンカーなにわ」金沢~新大阪に乗る(その1)

2023年12月10日 | 旅行記D・東海北陸

11月26日、クラブツーリズム鉄道部主催の貸切ツアーにて、金沢から「サロンカーなにわ」に乗る。今回のお出かけはこの「サロンカーなにわ」に乗るためのもので、その前段として金沢市内散策、北陸線の特急や鈍行での移動、敦賀での宿泊・一献、神仏霊場巡拝の道めぐりである・・・。

金沢駅兼六園口の地下に行くと、クラブツールズムの係員が受付の最中で、すでに100人ほどがそこら辺りにたむろしている。私も人のことは言えないのだが、その筋の人たちがずらり固まる光景、他から見たら異様だろうな。

クラブツーリズム鉄道部の2023年のツアーリストが書かれたクリアファイルの中には、座席指定や行程が記された用紙、オリジナルのサイドボード、記念乗車証などが入っている。行程によると、「サロンカーなにわ」は13時52分に入線、13時59分に発車。途中、加賀温泉と敦賀でドア開放があり、終点新大阪には20時14分着。また、この客車の目玉である先頭の1号車、最後尾の5号車の展望室については順番に時間を決めて入ることができるそうで、私に渡された行程表では、先頭1号車は16時10分~16時30分、最後尾5号車は18時40分~19時00分とある。これを行程表に当てはめると、1号車は武生~今庄間、5号車はおごと温泉~京都間のようだ。

6時間以上の長旅だが、途中駅で改札の外に出られないので、飲食物は金沢でそろえる必要がある。一応これでもかと買っておいたが・・。

団体用の改札を通りコンコースに上がる。入線まで少し時間があるということで、改札内のミニコンビニにも長い列ができる。ホームには先発の「サンダーバード26号」が停車中。金沢駅で「サンダーバード」の姿を見るのも私としてはこれが最後だろう。北陸新幹線の敦賀延伸にともない、列車は「かがやき」、「はくたか」、「つるぎ」が踏襲されるそうで、「雷鳥」からの流れを汲む愛称が北陸から消えることになる。

さて時間となり、DD51が牽引する5両編成の客車が入線。電化区間ながらディーゼル機関車が牽引というのも貴重である。新大阪~金沢の「サロンカーなにわ」だが、10月のクラブツーリズム鉄道部主催の貸切ツアーに続いて、11月初めには日本旅行主催のツアーがあり、そして今回追加開催となった今回のクラブツーリズム鉄道部主催のツアーが本当のラストとなる見通しだ。

数分の停車中に何枚か撮影後、割り当ての車両に入る。シートは1列ー2列の配置だが、それが交互に配列されている。私が割り当てられたのは窓側の1人席。ともかく腰を落ち着けよう。

ホームから多くの人の撮影、見送りを受けて出発。客車列車らしい、機関車からの独特の衝撃を感じる。

発車後、クラブツーリズム鉄道部のスタッフから各種案内がある。また、かつて「トワイライトエクスプレス」の最終列車にも乗務したJR西日本の長尾寛車掌が「サロンカーなにわ」に乗務し、この先さまざまな案内や演出があるという。その筋にとっては「レジェンド」のお出ましといった歓迎ぶりである(私自身「トワイライトエクスプレス」に乗ったことがないのでその辺りは何とも・・)。

北陸新幹線の高架橋、そして日が西に回ったことでその姿がくっきり見えるようになった白山の山々を見る。

さて、おそらく最初で最後の乗車になるだろう「サロンカーなにわ」について触れておく。1983年に製造され、今年でちょうど40周年である(この貸切列車には「40周年記念」の意味合いもあり)。いわゆる「ジョイフルトレイン」の先駆けともいえる車両で、夜行列車への運用も想定してゆったりしたリクライニングシートを採用した。なおシートは45度ごとに向きを変えることができ、さまざまな使い方ができる。

「サロンカーなにわ」は団体貸切列車として運用されるが、お召し列車つぃて走ったこともある。そして今回、おそらく最後となる北陸線での走行である。

「豪華な列車ですね」と、2列席の男性から声がかかる。昨夜、東京から夜行バスで金沢に移動し、午前中は万葉線の乗車や、兼六園の見物などしていたという。この列車の撮影記録や乗車記は多くの人がSNSにアップしており、車内からの実況中継もある。まあ、私のこのブログの駄文より、そちらで撮ったもののほうが画像もきれいなのでそちらをご覧いただくとして・・。

巨大な観音像が見え、14時31分、加賀温泉に到着。後続列車に道を譲るため14時58分まで停車するが、ドア開放ということで実質ここが乗客にとっての撮影タイムでもある。

最後尾5号車の車掌室から長尾車掌が顔を出し、気さくに記念撮影に応じる。

金沢では時間がなく見られなかったが、ようやく最後尾の展望室を眺める。

そこへ、後続の「サンダーバード28号」が到着する。ホームの後ろでは、「サンダーバード」と「サロンカーなにわ」の貴重な組み合わせを収めようと多くの人が集まる。

加賀温泉を過ぎ、福井県に差し掛かる。かつて夜行列車などでの定番だった「ハイケンスのセレナーデ」の各バージョンの聴き分けや、記念乗車証への改札印押印などのイベントがある。

九頭竜川を渡り、15時27分、福井到着。福井ではすぐの発車。そろそろ日が西に傾きつつあるところ・・・。

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金沢城、石川県立博物館で加賀・能登の歴史に触れる

2023年12月09日 | 旅行記D・東海北陸

11月26日、「サロンカーなにわ」に乗る前の金沢散策。ひがし茶屋街から金沢城まで歩き、石川門をくぐる。

金沢城があるこの台地は、かつて加賀の一向一揆の拠点であった尾山御坊があったところ。寺というよりはそれこそ城郭のような造りだったそうで、織田信長が一向一揆を鎮圧した後、佐久間盛政が金沢城を築いた。後、盛政が賤ヶ岳の戦いに敗れたことで、豊臣秀吉が前田利家に加賀を与え、金沢城は大規模な改修が施された。

当初は天守閣もあったが関ヶ原の戦いの後、落雷により焼失。しかし徳川方の目を気にして天守閣は再建せず、三層櫓が建てられた。

明治時代になると陸軍の拠点となったが、火災により多くの建物が焼失。戦後は金沢大学のキャンパスとなった。百万石の加賀藩の居城だったとはいえ、隣の兼六園は昔から有名だが、金沢城じたいが公園として整備されるようになったのは平成になってからである。

城内はちょうど紅葉も見頃である。

そのまま城内を抜ける。近くには金沢21世紀美術館があるが、そちらとは反対の坂を上る。向かうのは石川県立博物館。金沢における赤レンガの建物で、かつて陸軍の兵器庫や金沢美術工芸大学の学舎として使われていたのを移築したもの。金沢が陸軍の街であったことの歴史も象徴している。

企画展を見る時間まではなさそうで、常設展の見学である。地域の歴史博物館について、いわゆる縄文・弥生時代はどこも似たような展示となるが、古代以降となると地域の特色が出てくる。石川県は能登半島が飛び出ていることもあり、古くから日本海を通じた交流が盛んで、大陸とのつながりがあったところ。「海から見た日本史」の第一人者である網野善彦が早くから着目したエリアである。

また信仰文化としては、白山の神仏習合の歴史、そして一向宗である。一向宗が加賀を中心に北陸一帯に広まったのは蓮如の影響も大きいが、加賀が「百姓の持ちたる国」にまでなったのは北陸の地域性とか、人々の気質も何か関係しているのかなとも思う。

そして加賀藩の時代。金沢に城下町としての賑わいが生まれる。

加賀藩といえば参勤交代の大名行列である。常時2000人、多い時は4000人が随行したとあり、絵巻物から再現した模型や映像でその様子を紹介している。江戸までのルートがちょうど現在の北陸新幹線に近いというのも面白く、映像の中でも「今なら江戸まで2時間半で行けるんですが~」と紹介されていた。

後半は民俗のコーナーとして、加賀、能登に伝わる祭礼に関する展示が充実している。そして最後は祭礼の様子を巨大スクリーン、スピーガー、床からの振動で体感できる映像コーナー。ちょうど能登の御陣乗太鼓が上映されていて、その荒々しさに少しばかり触れる。

博物館は駆け足で回った形だったが、建物じたいも含めて展示も充実していながら、金沢観光の穴場スポットと思う。

そろそろ「サロンカーなにわ」ツアーの集合時間が気になり、金沢21世紀美術館前のバス停から金沢駅に戻る。尾山神社、長町武家屋敷、香林坊、近江町市場といったスポットはまた今度である。その時は北陸新幹線で訪ねることになるだろう・・・。

金沢駅に戻り、車内での飲食物をいろいろ買い求めた後、集合場所である兼六園口の地下に向かう。そこには独特の空気を漂わせる集団がすでに広がっていて、私もその中に加わることに・・・。

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