まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第7回九州西国霊場めぐり~始まりは岩国から

2021年12月30日 | 九州西国霊場

前の記事で、28日夜に発生した山陽線の瀬野~八本松間での貨物列車の脱線事故について触れた。この影響で安芸中野~西条間が29日終日運休となり、安芸中野~岩国間も列車の本数を減らして運転することになった。運転再開については見通しが立たず、30日(土日祝日ダイヤ)も同様ではないかと思われる。

それを聞いて、私の九州行きにも影響が出ないか心配になった。予定では30日の朝、西広島6時発の岩国行きで出発し、岩国から先は様々な列車を乗り継いで宿泊地の久留米に向かうのだが、その岩国行きが通常ダイヤでは白市発ということもあり、運転取りやめの対象にならないか。JRに問い合わせればわかることなのだろうが、そこまですることもないかと思う。

そこで考えたのが、安全策を取って29日のうちに岩国まで移動してしまうということ。岩国から乗るのは6時44分発の下関行きで、朝も多少ゆっくりすることができる。当日の検索で、岩国駅前のホテルアルファーワンを素泊まり3960円で確保。これで宿泊経験地も1ヶ所増える。

西広島を21時前の列車で出発。29日はすでに年末年始休みというところも多いためか、帰宅客の姿も少ない。

岩国駅前にはイルミネーションも灯る中、忘年会帰りとおぼしきグループが騒いでいる。良くも悪くも、コロナ禍前の年末の姿に少しずつ戻りつつあるようだ。アルファーワンにチェックイン。

自宅にて夕食と入浴は済ませてきたのだが、こちらのホテルの最上階10階には大浴場がある。せっかくなのでもう一風呂としよう。大浴場といっても4~5人も入れば満員になるが、熱めの湯に入ってもう一度温まる。そのまま暖房をよく効かせてぐっすりと休む。

・・さて、翌30日。前日コンビニで買ったあれこれで朝食とした後、岩国駅に向かう。ここで青春18きっぷに押印。6時台ともなれば広島方面への列車も発車していくが、発車案内を見るとやはり列車が間引かれているようだ。

6時44分発の下関行きは岩国始発ということで通常運転で、下関方面から入線。115系3000番台の4両編成で、まず乗り込む客も少なく、楽勝で座席を確保する。

さて発車というところで、広島方面から列車がやって来た。何事もなければ今朝方西広島から乗ろうとしていた列車である。どうやらこの便は運転区間のみ短縮して通常に運転していたようだ。結果的に岩国に前泊する必要はなかったともいえるが、多少でもゆっくりできたのはよかった。

青春18きっぷのクロスシートの片側がきれいに埋まったところで発車。この時季だと日の出も遅く、通津から先の海岸も夜明けを待つところである。

柳井に到着。信号待ちのため6分停車。ホームの跨線橋が新しくなり、エレベーターも設置されている。バリアフリー対応の流れである。また改札口にはカバーがかけられた改札機がある。2022年春から、ICOCAをはじめとしたICカードの利用区間が南岩国~徳山間に拡大されるという。

徳山である程度乗客が入れ替わるが、同じ車両を見る限り、そのまま乗り続ける客も多い。私も3時間あまりの移動時間は景色を見たり、また読書などで過ごす。

戸田~富海~防府にかけての冬の周防灘の景色も好きなポイントだ。

新山口でも7分停車。車掌から「この先もどうぞお気をつけてお出かけください!」とのアナウンスが入る。山口線、宇部線に向かうために下車する客もいるが、私を含めてまだ数人が残っている。ここまで来ると終点下関、九州に向かうのだろう。

10時01分、下関到着。ここでホームが変わって小倉行きに乗り継ぐ。今回の九州西国霊場めぐりは第1回の英彦山以来の在来線・関門トンネル経由での九州入りとなった・・・。

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第7回九州西国霊場めぐり~引き続き、年末に九州を訪ねますが・・。

2021年12月29日 | 九州西国霊場

12月29日、私の職場も仕事納め。昨年の今頃は職場で複数の新型コロナ濃厚接触者が出て自宅待機となり、私も職場での対応担当者として大阪への帰省を取り止め、広島の自室にて新年を迎えることになった。まあ、濃厚接触者には特に何事もなく、今ではそんな新年を迎えたことも笑い話になるくらいだし、私も初めて広島で新年を迎え、元日に厳島神社を訪ねて広島新四国八十八ヶ所を発願したのも(1年が経過して思ったほど進んでいないのだが・・)何かのご縁である。

さて、2021年~2022年だが、とりあえず大阪の実家には顔を出す予定である。もっとも、オミクロン株がどうのとかで心配されるところもあり、実家には泊まらない。

ただ、そのルートは複雑である。記事のタイトルは九州西国霊場めぐり。12月に大牟田市、みやま市を訪ねたばかりだが、筑後シリーズの続きとして、久留米市にある2ヶ所を回ることにする。そうしていったん九州に渡った後、北九州まで戻って名門大洋フェリーに乗船してそこで年越し、後は関西を回る予定である。別に昨年の分まで・・というわけでもないが、関西でもさまざまなイベントを盛り込んで楽しむつもりだ。

予定では12月30日の早朝から、青春18きっぷを使っての山陽線乗り継ぎで九州に向かい、30日夜は久留米泊だった。

ところが、28日夜に、山陽線の瀬野~八本松、通称「セノハチ」の区間で貨物列車が脱線する事故が発生した。脱線したのは広島発東京行きで、発車した直後に事故という最悪の展開である。その昔、貨物列車の利用運送に携わっていた者として、この対応はどうなるのか非常に気になる。場所が場所だけにコンテナを引き上げてトラック、トレーラーに積み替えることもできない。コンテナの中の貨物も下手したらここで年を越すことになるかもしれない。保存が利くものならまだしも、冷凍しなければならないものや、(ないと思うが)引越貨物などが混じっていたらどうなることやら。

山陽線の運休は安芸中野~西城間だが、その前後の区間でも列車の本数を減らしての運行という。また、30日も同様の措置が取られるという。

そうなると、30日の早朝から西に向かう予定のところ、乗るべき列車が運休、あるいは遅延ということも考えられる。30日はとりあえず久留米まで移動して宿泊、札所めぐりは31日に予定しているが、久留米までの移動にもいろいろと盛り込んでいて、できれば影響は最小限にとどめたいものだ。

・・ということで、念には念を入れて前倒しで動くことにする。その分費用がかかり、青春18きっぷの効果が薄まるのだが、致し方ないだろう・・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~福岡からの帰途

2021年12月28日 | 九州西国霊場

12月19日、久留米での在来線から新幹線の乗り継ぎの間に一度駅の外に出る。時刻はちょうど18時のためか、駅前のからくり時計が動いているところだ。

そして駅の東西の自由通路を戻ると、そこに流れるのは松田聖子さんの「赤いスイートピー」。この自由通路では、時報に合わせて中村八大さんの「上を向いて歩こう」やチェッカーズの「涙のリクエスト」など、久留米にゆかりのある人の曲を流しているそうで、「赤いスイートピー」もそのひとつ。たまたまだとは思うが、タイミングがタイミングだけに切なく感じるところだ(娘の神田沙也加さんが亡くなったのは前日のこと)。

18時12分発の「つばめ326号」はJR九州の800系。熊本発博多行きだが、指定席も半数以上の客で埋まっている。まずは博多まで2駅進む。

18時30分、博多着。次の19時19分発「こだま872号」までは約50分の待ち時間がある。「バリ得」は山陽新幹線区間は「こだま」限定で、この時間帯だとどうしても間隔が空いてしまう。自由席であっても「のぞみ」や「さくら」に乗ることができない。もう少し空くなら博多駅で一献としてもよいのだがそれには中途半端だ。ならば改札内の売店であれこれ買い求め、広島までの1時間40分をそれに充てることにする。

帰りは500系、そしてかつてグリーン車として使われていた6号車を指定しており、ゆったりした座席に腰かける。気持ちよすぎて寝過ごさなければいいが・・。

こういう時に福岡の名店の辛子明太子が食べられればいいのだが、土産用は冷凍保存ばかりである。新幹線に乗っているだけでは自然解凍も間に合わないから必然的に持ち帰り用となる。まあ、辛子明太子はセブンイレブンのお惣菜でも売っているのでそれで代用とする。

そんな中、「有明の味」として見つけたのが「ポリポリむつごろう」、「ポリポリわらすぼ」というもの。一応今回は有明海に面した大牟田を訪ねたということで。むつごろう、わらすぼという有明独特の魚を干物にしてみりん味をつけたもの。特にわらすぼはその見た目から「エイリアン」と呼ばれていて、確かに面構えもグロテスクだ。今回はあぶった干物でいただいたが、味は悪くない。地元では刺身にもするそうだ。むつごろう共々、この先機会があれば食べてみたいものである。

途中ウトウトした区間もあったが、無事に寝過ごすことなく広島で下車。さらに在来線に乗り継ぎ、この日「木漏れ日の駅」としてリニューアルされた西広島に到着。

早いもので、今回で九州西国霊場めぐりも中間点となった。久しぶりに九州のあちこちを回ることがうれしくてペースも早くなっているように思う。後半戦、西九州を回るのも楽しみである・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~世界遺産・三池炭鉱跡を駆け足でめぐる

2021年12月27日 | 九州西国霊場

大牟田の石炭産業科学館を出て、世界遺産に登録されたかつての三池炭鉱関連の施設跡を見に行くことにする。スポットはいろいろあり、かつて走っていた三池炭鉱専用鉄道の線路跡をたどりながら、いったん万田坑跡のある熊本県荒尾市に入り、三池港までぐるりと回るコースがおすすめとあるが、時間の関係で三池港までは行けないなと思う。そこで、1時間半の持ち時間で回るポイントを宮原(みやのはら)坑跡、万田坑跡の2点に絞るが、それでも外をぐるりと回るくらいの時間かなと思う。

科学館からクルマを走らせる。先の記事でも触れた三池工業高校の横を通る。高校がここに移る前には三池集治監という囚人の収容施設があり、今でもレンガ造りの塀の一部が残されているという。

住宅地の中に入る。その向こうに櫓の骨組みが見えてくる。世界遺産に登録されたためか、大型バスも停められる駐車場も広がっている。かつて専用鉄道で活躍していた電気機関車を模したトイレもある。

駐車場・道路と櫓の間が切通のようになっている。ここが専用鉄道の敷地跡である。枕木が残っているのがわかる。

宮原坑跡は見学が無料というだけでなく、見学者それぞれにボランティアガイドがついて案内をしてくれる。こちらとしては残り時間が気になっており、自分でぐるりと見て回るくらいでいいなと思っていたが、こちらからお願いするというよりガイドの方が「どうぞどうぞ」と来られるので、無下に断ることもないかと案内をお願いする。お年は70歳代とも80歳代とも見えるが、話の内容からかつて三池炭鉱で働いていた方のようだ。話は明治の殖産興業の頃のことから始まったが、「ここ(三池)は三井だったんですが、今の国の重要なところといえば三菱が押さえているでしょ・・」と、ちょっとしたライバル心ものぞかせていた。

宮原坑は、従来の七浦坑、宮浦坑等の排水の効率が悪化したことから新しく開かれた竪坑で、開かれた後は排水、入排気だけでなく揚炭、人員昇降も兼ねる主力坑の役割を果たした。現在残っているのは主に人員昇降を担った第二竪坑の櫓と、レンガ造りの巻揚機室、ポンプ室であるが、その人員は三池集治監に収容されていた囚人が多かったという。1930年に炭鉱坑内での囚人労働の禁止令が出て、宮原坑は翌年に閉鎖された。

巻揚機やゴンドラもほぼ当時のまま残されている。ワイヤーの巻き方の仕組みについても説明していただく。

それにしても、囚人労働の跡地を世界遺産にしていいものかという気がするが、世界を見渡せば、かつて大英帝国の植民地だったオーストラリアにも、本国から流刑に処せられて資源の採掘や建設工事に従事させられた囚人たちの遺跡群もあるそうだ。産業、経済の発展というプラスの面がある一方で、囚人、あるいは植民地の人たちが強いられた過酷な労働という負の側面も忘れてはならないという意味も込められているという。

何やかんやで30分ほど案内していただいてお礼を言い、ちょうどバスでやって来た団体さんと入れ替わるようにして宮原坑を後にする。

さて、次は万田坑である。徒歩やレンタサイクルで時間があれば専用鉄道の軌道跡に沿って向かうのがおすすめのようだが、クルマだとそうはいかない。いったん離れてソーラーパネルが並ぶ一角を抜け、回り込む形で荒尾市に入る。あっさりと県をまたいだが、県境が川などで区切られているわけではない。また、大牟田市の中に荒尾市の飛び地もあるそうだ。県境(もっと昔の国境)は何らかの事情で定められたことだが、現実はともに三池炭鉱で栄えた歴史を持つこともあり、県境をまたいで一つの都市圏を形成しているという。一部では大牟田市と荒尾市で県をまたいだ合併の話もあったそうだ。さすがにそれは実現しなかったが、さまざまな面で連携が図られている。

ということで、万田坑は熊本県の観光スポットということになる。こちらは「万田坑ステーション」として整備されており、見学料420円とある。宮原坑からクルマを運転して来たが、この後大牟田駅まで戻ることを考えると滞在時間は15分ほどしかない。しかも、見学スポットして開放されているエリアは宮原坑よりも広いので、それこそ駆け足になってしまう。閉館まで時間が少ないこともあってか、同じように待機していたボランティアガイドも一緒に回ることなく、順路だけ教えてくれる。

万田坑は三井が総力をあげて整備した竪坑だそうで、大正から昭和にかけて設備の充実が図られ、日本最大級の規模を有したという。

採掘じたいは1951年に中止されたものの、1997年の閉山まで坑道内の管理業務を行っていたためか、宮原坑と比べても施設、設備の保存状態もよい。現在も世界遺産としての保全のためか、一部エリアが修復工事中だった。時間の都合でどちらか1ヶ所だけしか見学できないということなら、万田坑のほうがよいかもしれない。

また、トンネルを含めたさまざまなスポットがあるため、映画のロケ地になったり、コスプレ写真の撮影イベントが行われたりと、さまざまな活用がなされている。

構内を駆け足で回り、レンガ造りの巻揚機室に入る。巨大な歯車つきのウインチが完全な形で残されている。

最後にガイドの方から、「ここからの眺めがいいですよ」と、ちょっと柵を開けてくれる。ちょうど構内に専用鉄道の線路が伸びていて、そこに夕陽が差し込んでいる。かつての夢の跡を彷彿とさせ、なかなかうならせる眺めである。

2ヶ所の竪坑跡を見ることができて満足だが、できればもう少し時間を取って、他のところも含めて回れればよかったと思う。まあ、札所めぐり3ヶ所と合わせて1日でこなそうというプランもかなり無茶だったかな。荒尾市から再び大牟田市に入り、ニッポンレンタカーにクルマを返却したのは約束の時間であるちょうど17時。

そのまま駅に向かい、17時13分発の鳥栖行きに乗って久留米に向かう。この便を逃すと、久留米から博多乗り継ぎで手配していた「バリ得つばめ」プランが無効になってしまう。

時間に余裕があれば大牟田から西鉄に乗ってもよかったかなと思いつつ、日が落ちる中、2両のロングシート車で北上する。

17時52分、久留米着。次に乗るのは18時12分発の「つばめ326号」。少し時間があるので、いったん駅の外に出ることに・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~大牟田市石炭産業科学館

2021年12月26日 | 九州西国霊場

今回の九州西国霊場めぐりは目的の3ヶ所を回り終えて、大牟田に戻る。レンタカー返却までの2時間半ほどの時間でかつての三井三池炭鉱に関するスポットを回ることにする。ここは素通りするのはもったいないと思っていて、わざわざ日帰りででも1回分費やした次第である。

まず向かったのは駅の西側、三池港の北側にある大牟田市石炭産業科学館。隣接してイオンモール、帝京大学のキャンパスが広がるところにある。かなり以前、この科学館だけは訪ねた記憶がある。その時は駅から歩いたか、レンタサイクルを使ったか。ひとまずここで炭鉱のことに触れた後で、現在も残る産業遺産を回ることにする。炭鉱関連の遺産が世界遺産の一部になったことで、大牟田としてはそれらを観光資源としてPRしている。

室町時代に地元の農夫が「燃える石」を発見したのが大牟田の石炭の歴史の始まりで、その後は柳川藩、三池藩による採掘を経た後、1873年に官営の三池炭鉱となった。1889年に三井に払い下げられて規模も広がり、三池港も整備された。その発展に大きな功績を残したのが実業家の団琢磨である。かつては日本最大の生産量を誇っていた時期もあった。坑道は有明海の海底にまで深く伸びていた。

その一方で、歴史には光もあれば陰もあった。一時は採掘作業に囚人を使っていたり、朝鮮人や中国人を徴用したこともあった。科学館では採掘に従事させられたそうした人たちの史料も残されている。

歴史的に知られるのは、1960年に発生した三井争議、1963年に450人以上が犠牲となった三川鉱の炭じん爆発事故である。三井争議とは、戦後石炭産業が斜陽化する中で経営合理化のために指名解雇に踏み切った会社側と、それに対抗して113日にわたりストライキを行った組合側の闘争である。当時は安保闘争も繰り広げられており、人々のエネルギーがあちらこちらで爆発していた背景がある。ストライキの結果、会社は指名解雇は撤回したものの、労働者側も生活の困窮に耐えかねて退職する者が多く、結局は痛み分けのようになった。この闘争が労働環境を悪化させたのか、管理体制が弱くなったのか、3年後に発生したのが戦後最悪の労働災害となった炭じん爆発事故である。

そんな暗い中で大牟田の人たちを沸かせたのが、1965年夏の甲子園に出場した三池工業高校。現在の巨人・原監督の父である原貢監督率いる野球部は初出場にして奇跡の初優勝をとげた。近年は甲子園の優勝校も強豪の私立校が続いているが(原貢監督も後に東海大相模の監督として優勝するのだが)、三池工業はこれまでの甲子園の歴史にあって、工業高校として唯一の優勝校である。地方の無名の公立高校が名門校を破って全国制覇するというの日本人の判官びいきが好むストーリーだし、また当時の三池炭鉱の状況も相まって、今でも語り草になっている。

結局、エネルギーの主力が石炭から石油になったこと、また石炭も外国からの低価格の輸入炭が入るようになったこともあり、国内各地の炭鉱は相次いで閉山した。三池炭鉱も1997年に閉山となった。

科学館ではそうしたさまざまな歴史にも触れている。また映像コーナーでは大牟田市が「こえの博物館」として、当時の記録映像や、関係した人たちの証言をまとめた映像を視聴することができる。時間があればもっとじっくり鑑賞したかったポイントである。

さて、この科学館では地下400メートルの世界を見ることができる。坑道へ続くエレベーターに乗り込み、1秒間に10メートルの速さで地下400メートルへ降下する・・・。

・・というのは科学館の演出で、実際には先ほどの展示フロアと同じ高さに設けられた模擬坑道に到着。ここには採掘に活躍する様々な特殊機材が並ぶ。中には近づくとセンサーが感知して実際に作動する機材もある。炭鉱は閉山となったが、現在は三井三池製作所という会社が掘削機械や原動機、運搬機械などを製造しており、海外の炭鉱にも納入実績があるそうだ。炭鉱の技術は別の形で現在も受け継がれている。

これらを踏まえて、市内に残る産業遺産を回ることにする。見どころは結構あるのだが、時間的に宮原坑、そして県境をまたいだ荒尾市に入って万田坑を、それぞれ駆け足で見るくらいしかなかった。三池港エリアは完全に省略である。これも帰りの新幹線(「バリ得」のため列車変更不可)と、それに合わせたレンタカー返却の時間が近づいているからで、無理やり詰め込んだ結果で・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~第17番「永興寺」(8月豪雨を乗り越えて・・)

2021年12月25日 | 九州西国霊場

24日はクリスマスイブということで・・なぜか単身赴任のおっさん4人で勤務先最寄り駅近くにて忘年会。七面鳥、ローストチキンならぬ焼き鳥で一献。そうえば、広島に移ってから1年以上経つが、勤務先の人たちと私的に飲むのは初めてのこと・・。

さて、話は九州西国霊場の続き。みやま市の清水寺から、次に約3.5キロ離れた永興寺に向かうところ、「車両通行止」の看板が立つ。2021年8月の豪雨で道路が被災した模様だ。歩いてなら行けるのかもしれないが、そういう人はほぼいないだろう。

永興寺に続く道がここ1本しかないのならこれ以上は進めない。面倒だが、道路の復旧を待って再度訪ねることになるなと思いつつカーナビの地図を見ると、いったん県道に下りてまた別の坂道が表示される。距離にして合計7~8キロほどだからそれほどロスにはならないが、そもそもそのルートも通ることができるのか。ともかく、向かうことにする。

その入口には特に規制の看板もなく、何とか寺までたどり着けそうだ。急な坂が続き、周りは木々や竹藪に囲まれているが、走れないところではない。後で知ったところでは、豪雨の後しばらくはこのルートも通行止めとなり、永興寺への参拝も停止されていたそうだが、とりあえずこのルートだけでも確保したというところだろうか。それにしても、九州西国霊場のアクセスも結構ハードな道のりが多いように思う。

細い道で離合困難の区間も多いが、幸い対向車の姿もなく、そのまま上がることができる。途中には家が一軒あっただけで、そのまま永興寺に到着。駐車場は案外広く取られている。「青龍白龍大権現」の幟が並ぶ。

永興寺は平安時代前期、比叡山から来た僧により開かれたとされ(名前は明らかではない)、本尊は千手観音である。江戸時代に中興し、立花氏が東証大権現を勧請して代々保護されたという。

寺そのものは小ぢんまりとしており、本堂が一つ建つだけである。周囲にはいくつかの石仏、石碑や、なぜか曽我兄弟の供養塔も建つ。何か関係があるのだろうか。

ともかく本堂でお勤めとする。ちょうど目の前には各種の朱印が納められた箱が置かれていて、九州西国霊場では初めてのセルフ式となった。そもそも納経帳がバインダー式なので特に驚くことではないが、日付をそなえつけのマジックで書き足す。

本堂の裏手に新しい納経所の建物があるが、窓とカーテンが閉まっており、不在の場合は箱から持ち出すようにとの案内があった。

さらにその奥には真新しい馬頭観音像が建つ。ペット用の合同墓が建立されており、火葬後にそのまま納骨することができるという。ペットの安らかな眠りを願う絵馬も掲げられている。そういえば、先ほど見た永興寺の看板に「筑後ペット火葬センター」の文字があった。駐車場が広いのも、九州西国霊場というよりはペット葬で訪ねる人たちのためのように思われる。

さて、箱から朱印をいただいたところで奥の建物から人が出てきた。作務衣姿で、若い様子だがこちらのご住職かな。まさか人がいるとは思っていなかったようで、驚いた表情。手にはタバコを持っていて、「あ・・・朱印?」とバツが悪そうだった。本堂横の手水場の脇に灰皿があり、どうやらタバコ休憩で出てきたようだ。まあ、箱にあるのをいただいたから、今更別に何も言わない。本堂横の文字のように「笑」いましょう。

ともかく、駆け足になったが大牟田、みやま両市の札所3ヶ所を回り、早いもので九州西国霊場も第17番まで終わり、数としては半分に到達した。この先久留米から佐賀、長崎両県を回り、福岡県に戻る後半戦となる。

この後、みやま市を抜け、大牟田に戻る。この後は大牟田近郊の世界遺産スポットをめぐる。ここまで思ったよりも時間がかかり、またまた昼食抜きの行程である・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~第16番「清水寺」(ここにも清水観音)

2021年12月23日 | 九州西国霊場

第15番・普光寺を後にして、次の第16番・清水寺に向かう。九州西国霊場にも「清水寺」を名乗る寺は複数あり、宇佐市の第3番・清水寺(せいすいじ)、これから向かうみやま市の第16番・清水寺(きよみずでら)、そして長崎市にある第25番・清水寺(きよみずでら)と並ぶ。京都の清水寺をはじめとした「全国清水寺ネットワーク」というのも形成されている。

まずは三池の集落を抜け、新幹線の新大牟田駅近くを通る。この駅を利用したことがないので何ともいえないが、果たしてどのくらい利用客がいるのやら。列車本数が1時間に1本なのは仕方ないとしても、新大牟田駅~大牟田駅間は路線バスで30分ほどかかってしまう。あ、今回の帰りに新大牟田から「バリ得」を使ってもよかったかな。こういう時でなければ新大牟田に乗り降りすることはないだろうから。

カーナビは距離が近いルートを選んだためか、広域農道に入った後、急なカーブが続く山道に入る。大牟田市からみやま市に移動するだけなのに、ちょっとした山越えである。九州西国霊場めぐり、なぜかこうした山道に出会うことが多い。

さて、みやま市である。いわゆる平成の大合併で、瀬高町、高田町、山川町が一緒になってできた市である。「みやま」とは、三池郡、山門郡の頭文字から取ったもので、親しみやすさを出すためにひらがなにしたそうだ。

県道から清水寺への案内板が出る。もっとも、清水寺そのものよりは麓の清水寺本坊庭園、清水山荘などの案内が目立つ。本坊庭園は雪舟が造ったと伝えられており、こちらのほうが有名なようだが、私はそこは省略してともかく寺を目指す。途中、ハイキング姿の人をちらほら見かける。寺に行くのがちょっとしたハイキングコースなのかな。

仁王門に着き、いったんクルマを停める。門の下には五百羅漢の石像が並ぶ。ここから車道、歩道が分かれていて、本来ならこの歩道を登るところだろうが、このまま車道で行けるところまで行くことにする。

山の上が清水公園となっており、茶屋のある駐車場までがクルマが行ける終点。

寺の境内としては裏手から入るようで、先に三重塔や乳父観音を過ぎる。乳父観音は母乳の出がよくなるとして古くから信仰されていて、おっぱいをかたどった絵馬も奉納されている。

本堂の前に出るが、石段の下に山門が見えたのでいったん石段を下りる。途中クルマで楽をしたので、せめて山門だけでもくぐることにする。

清水寺は1200年あまりの歴史を持ち、伝教大師最澄が開いたとされる。最澄が唐から帰国した際、有明海の東の山中に一条の光を見つけた。その光を求めて、一羽の雉を道案内にして山中に入ったところ、苔むした合歓の霊木に出会った。最澄はこの木から千手観音を彫り、お堂を建てて祀ったという。

時代が下り、清水寺は柳川藩の立花氏の保護を受けたという。山門は6代藩主立花貞則が願主となって建てられ、その他の仁王門や三重塔も地元の民衆の願いで建立されたそうだ。

境内には「夜観音 朝観音」のポスターが掲げられる。清水寺にとって年に一度の大祭で、8月9日の夜から10日の朝にかけて大掛かりな祈祷が行われ、この日にお参りすると四万六千日お参りした功徳があるとされる。四万六千日は観音を本尊とする寺で行われることがあり、もっとも有名なのが浅草の観音さんだと思うが、どういう由来なのだろうか。諸説あるそうだが、米一升が約46000粒ということで一升=一生と掛けたとか、46000日は約126年で人の寿命の限界、つまり一生・・というあたりから出た数字だという。

本堂に上がる。扉の前には「清水寺 豪雨災害への寄付のお願い」の看板が立つ。2021年8月の豪雨ではみやま市にも大きな被害が出て、清水寺も三重塔の地盤に亀裂が入り、参道の石段も土砂に埋まったとある。そういえば先ほど三重塔から本堂に向かう道の一部がシートで覆われていて、足元注意の貼り紙もあった。こうした被害に対して行政の支援を受けられるものもあるが、寺自身で修復しなければならないものが多いようだ。

本堂の外陣でお勤めとして、朱印をいただく。

さて、清水寺の周囲は清水公園として整備されていて、茶屋の向こうにも展望台がある。そして行ってみるとちょうどみやま市の市街地、エリアでいえば瀬高あたりだろうか、平野の景色を見ることができる。雲がかかっていてはっきりとは見えないが、その先の有明海、さらには島原半島らしき形も望める。

北原白秋の「山門の歌」の歌碑がある。その一節に「山門はも うまし邪馬台 いにしへの 卑弥呼の国」とある。近畿か、九州かと昔からその場所が論争になっている邪馬台国。少なくとも白秋は山門から邪馬台国と来て、卑弥呼の国と歌っているから、九州派なのだろう。それは考古学的にどうというより、ここから見た一帯の景色の豊かさから連想されたものと思われるが、ここに立ってみるとそれもわかるような気がする。

邪馬台国の九州説といっても、九州は広い。吉野ヶ里遺跡の発掘であの辺りが有力とも言われているが、ここから見る瀬高近辺、あるいはここから北にある八女近辺も捨てがたいところだという。

これで清水寺を後にして、次の永興寺に向かうことにする。駐車場には清水寺の案内板の横に、永興寺まで3.5キロとの看板があった。

しかし、そこに行くべき道には「車両通行止」の文字・・。これも2021年8月の豪雨のせいだという。幸い、いったん県道まで下り、また別の道から上がるとたどり着けそうだ。遠回りになるが、せっかくここまで来たのだ、ともかく向かうことに・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~第15番「普光寺」(「三池」の名の由来となった古刹)

2021年12月22日 | 九州西国霊場

広島から新幹線でいったん熊本まで行き、在来線で大牟田に戻るという荒っぽい行程。九州西国霊場めぐりの駒を熊本県から福岡県に進めるためである。

大牟田はかつて三井三池炭鉱で栄えたところで、現在はその炭鉱跡が世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一角を構成している。そうしたところもぜひ見てみたいが、まずは札所めぐりである。第15番の普光寺は大牟田駅から1~2時間に1本ほどバスが出ているが、その次、みやま市にある第16番・清水寺、第17番・永興寺となると公共交通機関の手段はない。地図で見ると山の中腹にある様子で、歩くとなるとまた大変だろう。

ということで、今回この3ヶ所をレンタカーでめぐることにした。種田山頭火は歩いて回っただろうが、現在の九州西国霊場の案内もクルマで行くことが前提となっているようで、私のほうも交通手段にはこだわりがなくなって来た。レンタカーを含めてクルマでアクセスした寺が圧倒的に多い。もっとも、これまでの各地の札所めぐりを通してタクシーだけは利用していない。公共交通機関利用をベースとして、自分でクルマを運転するのはまだ自分の力で向かっていると言える。ただ、タクシーは単に「連れて行ってもらった」だけ・・・というのが私の基準である。

大牟田駅で利用するのはニッポンレンタカー。ちょうど冬の格安プランということで、11時~17時までの予約で料金は3300円。これで難関の札所を回れるのなら安い。そして大牟田市街に戻り、残った時間で炭鉱の産業遺産を見学して、17時すぎの在来線の列車で久留米に移動、「バリ得」で広島に戻るのがこの日の予定である。

この日乗ったのはトヨタのヤリス。まだ4000キロほどしか走っていないとのこと。世界遺産である宮原坑への案内板もあるが、それは後にしていったんは駅から東にある普光寺を目指す。途中、三井化学の工場群を抜けていく。大牟田には今も三井化学の主力工場が残る。

進むうち、「普光寺(臥龍梅)」の案内が見える。どうやら寺の名物のようだ。

15分ほどで普光寺のバス停に着き、そこからさらに上る。その途中、紹運寺という寺の前を通る。「紹運」といえば、戦国時代の武将・高橋紹運を思い出すが(かつてプレイしていた「信長の野望」から)、果たして紹運の墓所もある寺だという。紹運が自刃したのは大宰府の近くにある岩屋城の戦いだが、次男の統増が後に立花直次となり、その子種次が加増されて三池藩主となった。そのこともあって菩提寺にしたのだろう。

もう少し坂道を上り、普光寺の駐車場に出る。そこから梅林を抜けると境内に出る。その一つが臥龍梅で、全長28メートル、樹齢450年以上という。さすがにこの時季は花も開いていないが、2月頃の開花時期には大勢の人が観梅に訪れるそうである。

普光寺が開かれたのは1200年ほど前、嵯峨天皇の皇子が建立し、慈覚大師円仁が本格的な寺にしたと伝えられる。江戸時代には三池藩の立花家から領地を寄進されている。本尊は千手観音だが、他の仏も祀られていてそれぞれの真言を唱える。

ここ普光寺は三池山の登山口にもなっている。登山客については駐車場代200円申し受けるとある。山頂付近の三池宮には3つの池があるが、伝説では、この地のお姫様を襲う大蛇をツガニ(サワガニ)がはさみで3つに切り刻み、その血が3つの池になったという。それが三池の地名の由来ともされる。

本堂の下には不動堂やなまず堂がある。ホワイトボードに寺の案内やありがたい言葉が並ぶ。「鬼滅の刃」から引用されたセリフもある。

なまず堂には「なまずさま」という霊水がある。特に皮膚病の回復にご利益があるそうで、真言を唱えた後で水を飲むか、患部につけるかという。その隣の不動堂には、板石に彫った不動明王も祀られている。さまざまに手を合わせるところがある。

納経所の建物には三池大権現も祀られている。かつての神仏習合の名残だそうだ。ここで九州西国の朱印をいただく。

さてここから次の第16番・清水寺を目指す。カーナビで場所を入れると、いったん大牟田駅近くの国道に戻るのかと思いきや、そのまま最短ルートを通るようである。効率重視のようだが、せっかくの機会なのでみやま市の2ヶ所もそのまま回ることに・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~リニューアルした西広島駅から「バリ得」で出発

2021年12月20日 | 九州西国霊場

12月19日、第6回となる九州西国霊場めぐりのために早朝から出発する。やって来たのは、ちょうどこの日に駅舎が新しくなった山陽線の西広島駅。たまたま、いい具合に日が重なった。

橋上駅舎となり、駅の東西を結ぶ自由通路ができたのが大きく変わったところである。

新しい駅は「木漏れ日の駅」というのがコンセプトだそうで、天井や壁にはヒノキがふんだんに使われ、(この時間はまだ暗いので実感できないのだが)大きなガラス張りも採用され、太陽の光がよく入るように造られている。

また自由通路内にセブンイレブン、むすびの「むさし」が出店しており、セブンイレブンでは早速開店セールが行われていた。いずれ、ここで「若鶏むすび」を買うこともあるだろう。

一方、これまでの「みどりの窓口」は閉鎖され、新たに「みどりの券売機プラス」が設置されている。有人窓口を減らそうというJRの流れに沿ってのことである。まあ、私もJR券は「e5489」で事前予約して、「みどりの券売機」で引き換えることがほとんどになったので支障はないが、やはり「窓口」がないと不安という乗客の方もまだまだいるだろう。

そんな駅舎を朝早くから見に来る人もいる中、改札を通ってホームに下りる。まだホームの改修や従来の跨線橋の撤去などがあり、完工までもう少しかかるとのことだ。2030年頃にはアストラムラインも延伸されるというが、果たして・・。

西広島から山陽線で移動し、広島6時47分発の「こだま781号」に乗車する。「バリ得こだま」として購入したが、今回は九州新幹線にも乗るためか、券面は「バリ得つばめ」と表示されていた。

夜が明けてきたが、この週末は今季一番の冷え込みとなっており、外も完全に冬の空である。暗い雲が空を覆っていて、時折パラパラと雨も落ちてくる。しまった、傘を持って来るのを忘れたな・・。

8時15分、博多に到着。次に乗るのは8時39分発の「さくら403号」である。あれ、「さくら」にも乗れるのかな?と思ったが、ネットでの購入時には発着駅、そして出発または到着時刻を入れると発売可能な乗り継ぎが提示され、その中に含まれていたようだ。ただ、この「さくら403号」は博多始発で、車両もJR九州の800系である。山陽新幹線直通の列車は適用外で、それぞれで完結する列車が利用できる仕組みのようだ。

九州新幹線じたい、九州西国霊場めぐりがきっかけで久しぶりに乗ったが、いずれも広島との直通運転のN700系だった。800系に乗るのは、九州新幹線が当初新八代~鹿児島中央間で先行開業した時以来ではないかと思う。

その内装も独特のデザインだが、いわゆる「水戸岡デザイン」である。日本の「和」をコンセプトとして、座席背面にはクスノキ、シートには西陣織、車内の床板やブラインドにも木が用いられており、温かみを感じさせる。「のぞみ」で使われているN700系とは対照的だ。

相変わらず空がどんよりとする中、新鳥栖、久留米と停車して次は熊本だ。途中の筑後船小屋、新大牟田、新玉名は今回も結局素通り。筑後船小屋駅のすぐ近くにホークスのファームの拠点であるタマホームスタジアム筑後が見えた。機会があればこの球場も訪ねてみたいものだ。

9時17分、熊本に到着。前回の九州西国霊場が熊本で終了しているとして、そのつなぎとして今回わざわざ熊本まで来た。もっとも、熊本城などの観光地に行くまでの時間はなく、今回の目的地である大牟田まで折り返すだけだ。しばらく時間があるので構内の「肥後よかモン市場」で熊本土産を購入する。やはり馬肉の加工品は欠かせない。

大牟田へは在来線で移動する。9時52分発の鳥栖行きは2両編成。九州新幹線が開業して10年が経過するが、それまでは特急「つばめ」「有明」などがバンバン走っていた区間も2両編成のローカル列車が行き来するさびしい運転形態となった。札所へはクルマを使うことが大半だが、乗れる鉄道、ローカル列車についてはせっかくの機会なので乗っておきたい。そうこうするうち、2022年には西九州新幹線の長崎~武雄温泉間の開業が予定されているが、この札所めぐりの乗ることになるかどうか、微妙なところだ。

田原坂に到着。一帯は西南戦争の激戦地として知られる。標高差じたいはそれほどでもないのだが、北からの街道が通じているのがここだけということで戦いのポイントとなった。熊本城に入った加藤清正が北の守りとして田原坂を天然の要害にしたという。西南戦争ではここが破られたことで薩摩側が一気に不利となり、鹿児島に押し戻されて敗戦となった。

新幹線の駅は離れたところに造られたが熊本北部の中心的な町である玉名や、金魚の町をPRする長洲を過ぎ、荒尾に到着。世界遺産の一つである万田坑への最寄り駅とのPRもある。

10時39分、大牟田着。荒尾から県境を越えて福岡県に入った。もっとも、荒尾、大牟田両市は県が異なるものの、ともに三井三池炭鉱によって発展した歴史もあってさまざまなところで連携しているそうだ。

列車は鳥栖行きだがほとんどの客が下車し、多くは向かい側ホームに停まっていた小倉行き快速に乗り継ぐ客、連絡通路を通って西鉄に乗り換える客に分かれ、その残りが大牟田の改札を出る。

大牟田は炭鉱の関連で世界遺産の町としてPRしているが、まずは九州西国霊場めぐりである。ちょうど、雲も取れて青空が見えるようになった。この後の時間割をすると結構ハードな動きとなるが、ともかく進めることにしよう・・・。

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第6回九州西国霊場めぐり~今回から筑後編

2021年12月18日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりは3月に豊前の第1番・霊泉寺から始まり、その後大分、熊本と回って来た。札所はここから南には行かず、北に向かうことになる。

札所順で次は筑後に入り、大牟田の第15番・普光寺である。普光寺、どこかで聞いた名前だなと思うと、11月に訪ねた中国四十九薬師めぐりの岡山県美咲町の札所だった。全国にも同じ名前の寺は何ヶ所かあるようだ。

今回から筑後シリーズである。第15番の普光寺から始まり、第19番の観音寺まで5ヶ所ある。鉄道の駅から離れているところがほとんどだが、レンタカーを使って1泊2日で回れる位置関係である。ただそこは、年末年始旅行との絡みもあり、大牟田への日帰りとする。第15番・普光寺に加えて、回れればみやま市の第16番・清水寺、第17番・永興寺くらいまでレンタカーで進めておこうかと思う。

というのも、前回第5回の続きということで、いったん熊本まで行き、そこから大牟田を目指すためである。また、せっかくなのでかつて炭鉱で栄えた大牟田の産業遺産(世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一部でもある)も見てみたい。

また一方、少しでも安く行きたい。そこで見つけたのが、日本旅行の「バリ得こだま・ひかり」である。広島からだとJR西日本の「新幹線直前割きっぷ」が重宝するが、日本旅行のホームページにて、小倉、博多のほかに九州新幹線向けのプランがあるのを見つけた。利用できるのは「こだま」と各駅停車タイプの「つばめ」で、博多で乗り継ぐ形ではあるが、広島からだと筑後船小屋を除く九州新幹線各駅向けのプランがある。前回は直通の「さくら」・「みずほ」に乗ることができるということで広島~熊本間の「スーパー早特きっぷ」を使ったが、「バリ得」があるのを知っていれば、別に「こだま」・「つばめ」の乗り継ぎでもよかった。

この「バリ得」、年末年始は9500円と割高になるが(いや、年末年始にも設定されているのがすごいが)、それ以外なら広島~熊本は7700円である。旅行会社の企画商品なのであらかじめ列車を指定し、その後の変更は一切できないという制約はあるが、前日までスマホ、ネットで購入することができ、乗車前に駅の「みどりの券売機」で受け取る仕組みだ。これは便利。事前に旅行会社からきっぷが送られる方式だと、私の場合受け取りも結構手間なので(単身で日中不在なので再配達してもらうとか、こちらが取りに行くとか、職場に転送してもらうとか・・)。

今回のプランでは、いったん熊本まで行った後、今度は在来線で大牟田まで戻り(新大牟田まで戻ってもまたバスに乗り継がなければならない)、大牟田でレンタカーを利用する。そして各所をめぐった後、夕方に在来線で久留米まで駒を進める。次回、年末年始絡みの旅を見据えてのことだ。復路は久留米から同様に「バリ得」の乗り継ぎで新幹線を利用する。

出かけるのは12月19日とした。さすがに翌週末は年末に向けて部屋の大掃除くらいはしなければならないだろう。

その12月19日は、私がJRに乗る時に利用する西広島駅の新しい橋上駅舎がオープンする日である(画像は、西国中先達申請で大阪に向かった12月12日のもの)。別にそれを狙ったわけではないが、まだ早朝の暗いうち、出発前に新しい駅の様子を見ることができる。さぞかし大勢の人たちでごった返すのかな・・・?

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大阪北新地でビル火災、何とも痛ましい

2021年12月17日 | ブログ

17日午前、大阪北新地の雑居ビルで火災があり、これまでに24人の死亡が確認されたという。何とも痛ましい限りだ。

現場は国道2号線と四ツ橋筋が交差する桜橋交差点のすぐ近くで、私も大阪勤務時代にクルマでも何度も通ったところ。あんなところで大規模な火災とは。ニュース映像を見て驚くばかりである。

火元は4階の心療内科、精神科のクリニックで、亡くなった方はこのクリニックにいた人たちだという。居合わせた男が持っていた紙袋から火が出たとの証言もあり(この男も搬送されたそうだ)、放火、殺人の疑いで調べが進んでいるとのこと。建物の構造上、そこで火をつけられたら避難するのはほぼ無理だったようだ。

場所がこういうクリニックで、火をつけたとされる男は患者とも言われている。そうなると、「だから精神障碍者は・・」と話が極端な方向に持って行かれることが多い。ただ、この手のクリニック患者の多くはさまざまな悩みが原因で心に不調を来たしている方であろう。何とか医療の力を借りて復帰しようと取り組んでいるところだ。

ただ、こうした医療には特効薬があるわけではなく、長い目で見て少しずつ回復させるものだという。ただ患者から見れば、クリニックに通っていても改善の兆しがなかなか見られないことに対する焦り、苛立ちを感じることもあるだろう。しびれを切らして「ここの病院は話にならん」と思う人もいるかもしれない。

仮にその男が犯人だとして、いったいどういう理由からなのだろうか。いずれにせよ、悲しいことである。

12月の年の瀬になり、気のせいか救急車や消防車のサイレンを聞くことが増えたように思う・・・・。

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第5番「葛井寺」~西国三十三所めぐり4巡目・2(西国三十三所「中先達」昇補申請します・・)

2021年12月14日 | 西国三十三所

西国三十三所の3巡目を終え、これまでの先達で2巡を終えたことから、めでたく「中先達」に「昇補」する資格を得た。ただこの「昇補」という言葉、他では目にしないように思う。「昇格」や「昇進」とも違うようで、ネットで検索してもこの先達の事例しか出てこない。専門用語なのかな。

これにあたっては三十三所いずれかの納経所に出向いて、先達用の納経軸に2つ朱印があることを確認し、申請書に証明印をいただくことになる。私の場合、第11番の醍醐寺で3巡目が結願となったが、ここは先達の時と同様、地元藤井寺(今は離れて広島にいるが)にある第5番・葛井寺でいただくことにしよう。先達の番号には年度と札所番号が入るため、葛井寺の「5番」は入れたいところだ。

大阪への帰省を兼ねて正月に訪ねようかと思ったが、初詣の時季、境内や納経所は混雑するだろう。その中で中先達の申請をして手を煩わせるのも申し訳ないかなということで、年内に訪ねることにする。証明印をいただいた後の申請書の提出は後日でもかまわない。

12月の宿泊も計画していたが、結局12日に日帰りで向かうことにした。広島から「新幹線直前割きっぷ」を使い、朝6時14分発の「ひかり500号」で新大阪に移動。そこから地下鉄と近鉄を乗り継ぎ、葛井寺に着いたのは9時半すぎ。

葛井寺は2025年に本尊千手観音の開基1300年を迎えるにあたり、「令和の大改修」が行われている。その第1弾として南大門の修復工事が行われ、2021年の7月に完了した。耐震工事と朱色の塗り替えが行われたそうで、それまでの色褪せた様子からぐっと締まった感じに見えた。細部の塗り替えも行われ、落ち着きと華やかさが合わさった雰囲気となった。

現在は、南大門から入って左手にある阿弥陀堂の再建、阿弥陀三尊二十五菩薩像の修復が行われている。阿弥陀堂も南大門と同じく江戸中期の建物だというが、新たに耐震性、耐火性に優れた建物にリニューアルするそうだ。

その一方で、かつて藤井寺駅の通路に掲げられていた近鉄バファローズの試合速報の看板は変わらず残っている。これが今では藤井寺市のPRにもなっているようで、SNSの投稿がポスターにもなっている。「メガホンのポコポコ音とオジちゃん達の愛あふれる野次が名物だった。こうして形を残して下さっているから懐かしむことができる。藤井寺、いいまちだ」 なんかうれしい。

本堂に向かう。まずはお堂の外でお勤めとする。西国三十三所3巡達成のお礼参りであり、すでに第1番の青岸渡寺で始めているのだが4巡目としての発願でもある。

そして納経所へ。ちょうど前の方が掛け軸に朱印、墨書をもらっているくらいで行列はなかった。やはり12日にして正解だった。

私の番になり、中先達への昇補を申請したい旨を申し出る。「回りはったんやねぇ」と歓迎される。合わせて、3巡目でいただいた西国曼荼羅の八角形の用紙33枚も提出する。この西国曼荼羅の八角形の用紙だが、これを33枚揃えて指定の札所で提示すると、特別にもう1巡したものと認定され、先達用の納経軸に特別印を押してもらえる。中先達で3巡(通算6巡)すれば大先達への昇補の資格が得られるが、この特別印があることでこれが2巡(通算5巡)に短縮される。

八角形の用紙の裏に確認印を押してもらい、納経軸に特別印を押す中で、先達で2巡したことも確認してもらう。その間、ノートに氏名、住所、電話番号を書くように言われる。葛井寺から先達申請した人の名簿のようなものだ。周辺人口は多いが、葛井寺で先達申請する人というのは西国三十三所の中でどのくらいの割合なのだろうか。ただそれでも、そもそも西国三十三所めぐりを発願したのは地元葛井寺だし、先達の申請もここで行った。名札に書かれる「5番」にはこれからもこだわりたいところだ。

先達申請書に葛井寺の証明印が入る。

合わせて、葛井寺の欄には4巡目の印を入れてもらう。納経軸上では、ここにもう一つ印が入れば大先達に向けて1つ札所をクリアしたことになる。

その4巡目だが、何と組み合わせようか。2巡目ではカラーの御影、3巡目では西国曼荼羅の八角形の用紙をいただいた。4巡目はそうしたアイテムとは別で、とあることに挑戦することにした。それは・・・・。

葛井寺の参詣を終え、ここで西国四十九薬師めぐりで残っている池田の久安寺に行ってもいいかなと思ったが、梅田まで来て心変わり。帰りに予約した高速バス、16時発の広島行き「グラン昼特急広島5号」を1本早い13時30分の「3号」に変更し、それまでの間、梅田で一献することにした。中先達昇補に向けての祝杯だ。

入ったのは、ホワイティ梅田の一角にある立ち呑みの「赤垣屋梅田店」。コロナ対策でカウンターにもびっしりとビニールカーテンが下ろされている。これはこれで1人ずつのスペースがはっきりしているのでちょうどよい。

12月14日は「討ち入りの日」である。赤垣屋だけに。忠臣蔵の中で酒のエピソードが有名な赤垣源蔵から店の名前を取ったこともあり、ファン感謝デーのようなものだ。私も大阪時代にその日におじゃまして、限定の日本酒小瓶をいただいたこともある。

そんな中で立ち呑み料理をいろいろ。期間限定でホタテ、とり貝、アワビの盛り合わせもあり、大阪名物のビーフカツもあり。その一方でホッピーをやったり、冬だからというのでフグのヒレ酒(&継ぎ酒)。年末にちょっと贅沢させてもらった。

そしてJR大阪駅から「グラン昼特急広島3号」に乗り込む。新幹線よりも時間はかかるが乗り換えなしで安く行けるのはよい。「3号」なら広島着もそれほど遅くならないのでちょうどよい。

隣客に気兼ねしないプライベートカーテンがあるのはいいが、まさか前方が夜行バスのようにカーテンで覆われているとは思わなかった。西に向いて走るので太陽除けだとは思うが、視界が妨げられるのはよろしくない。プライベートカーテンを広げれば周りに影響がないと判断して、前方のカーテンのボタンを外す。特にどうのこうの言われることはなかった。

「5号」の時は淡河パーキングエリア、吉備サービスエリア、八幡サービスエリアの3ヶ所での休憩だったが、こちら「3号」は時間帯的に混雑しないためか、白鳥パーキングエリア、八幡サービスエリアの2ヶ所での休憩。途中も快調に走り、私も結構な時間は爆睡のうちに通過したようだ(単に酔っぱらっていただけなのかもしれないが)。5時間の行程もあっという間に広島市内まで戻ることができた。

4巡目をどのようなルールを作って回るかはいずれ発表するとして、なんやかんやで西国三十三所めぐりはこれからも続くことに・・・。

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第5回中国四十九薬師めぐり~第7番「佛教寺」(札所めぐりの後は・・・)

2021年12月13日 | 中国四十九薬師

津山線、国道53号線シリーズの今回の中国四十九薬師めぐり。11月14日も午後となり、この日最後の目的地である第7番・佛教寺に向かう。

カーナビは国道53号線から斜め右後ろに誘導する。「仏教寺南参道」の案内板が出ているが、南の岡山市内から来るならともかく、北から入るには結構厳しい。「北参道」というのがあるのかどうかは知らないが、いったん路肩に寄せて、対向車、後続車がいないのを確認してUターンして参道に挑む。離合が難しい上り坂の参道が続くが、クルマが通れるだけよかった。仮に弓削駅から歩くとすると結構厳しいアクセスである。

立派な構えの山門があり、その麓が駐車場である。山門の、本来なら仁王像か四天王像が祀られているであろう場所には「建築年月日不詳、正徳五年(1715年)再建、天保七年(1836年)、明治四年(1871年)修理」の看板だけがある。なお、仁王像は保存のため収蔵庫に移されているそうだ。

山門の奥には本堂を中心とした境内が広がる。佛教寺は奈良時代、肩野部長者乙麻呂が喜恵上人を招いて開いたと伝えられる。奈良時代の元明天皇や平安時代の陽成天皇の勅願寺にもなったことがあり栄えたが、戦国時代の兵火で焼失し、江戸時代に津山藩の森氏により再興されたという。しかし明治時代には衰え、本堂も崩壊したために同じ境内の文殊堂だった建物を移築して本堂にしたり、かつてあった三重塔の跡地に別のお堂を建てたりしたそうだ。こうした山間の寺ということでなかなか経営も厳しいところだろう。

本堂の裏手には鎮守社本殿が鎮座する。かつて神仏習合の歴史があったのかな。

さて納経所は・・と見るに境内にそれらしい建物が見当たらない。しかし道路を隔てた向こう側に本坊の建物があった。本堂から行くと門があり、扉が閉まっているのでその横を抜ける。扉の後ろにゴルフの練習用ネットがあるのは見なかったことにして・・。

納経所は独立した建物である。ここもセルフ式かなと扉に手をかけるが開かない。どうしたものかと、本坊のインターフォンを鳴らす。寺で飼っているのか、何匹もの猫も出迎える。

寺の方が出てきて納経所の扉を開けてもらい、書置きの朱印をいただく。これで今回の津山線・国道53号線シリーズの3ヶ所を回り終えることができた。49の札所のうち通算7ヶ所を回り、ちょうど7分の1となった。

旭川沿いに国道53号線を南下し、岡山市街に入る。岡山駅西口のトヨタレンタリースで乗り捨て返却とする。トヨタの場合、運営会社が同じためか、同一県内なら乗り捨てが無料なのがメリットで、今回のような変則行程に役立つ。

時刻は16時を回ったところ。ちょうど頃合いよしということで、岡山駅コンコースを抜けて東側にあるミシュラン居酒屋「鳥好」に向かう。この店になるべく早い時間に入ることが目的で、美咲町の卵かけごはんをあきらめたのもそのためである。いや、卵かけごはんと「鳥好」なら、私の場合後者がマストである。

「鳥好」もほぼ1年ぶりかな。16時開店ですでにカウンターがほぼ埋まり、テーブル席も次々に客が埋まる。だから早めに来たかったということで。このご時勢、よいか悪いかは判断の分かれるところだろうが、カウンター、テーブル間でアクリル板の仕切りやビニールの幕があるわけでもなく、人々の会話も賑わうところである。このところ目にする「感染対策」という点で見ればおすすめできないのかもしれないが・・。

キリン岡山工場直送の一番搾りをグッとやり、まずは名物の鳥酢、シャコ酢から入る。

煮込み、造り盛り合わせも安定の一品だ。結局いつも同じようなものを頼むのだが・・。

私がカウンターに座った時に隣にいた客はすぐに出て行ったが、その後で腰かけた地元の常連さんらしいおっちゃんと話が盛り上がる。ボトルキープが焼酎ではなく日本酒の「剣菱」なのが豪快で、私に「お兄さんもよう飲まれますなあ」というところから会話となった。コロナ禍以降、カウンターで隣り合わせた客と話が盛り上がる経験は初めてだ。おっちゃんのリクエストで店のテレビが大相撲九州場所の初日の中継に変わり、しばし相撲談義も。

ここでの締めは、これもいつも注文する「のりくらっち」。

私が広島から来たというと、「広島にもここの系列店があるよ」と教わった。場所は八丁堀あたりと言っていたが、後で調べたその店はこことは趣が異なるようだ。それより別のところ、広島駅からマツダスタジアムに行く途中(かつての通勤ルート上)に同じ名前の店があったように思う。ちょうど野球もシーズンオフだから、機会を見つけて行ってみることにするかな・・?

帰りも「新幹線直前割きっぷ」を予約していたので大相撲の結びの一番まで見ることなく駅に戻る。500系の「こだま」にて一人二次会として広島に戻る。

さて、これで中国四十九薬師めぐりも備中、美作から山陽本線沿いまで進んだ。この先は瀬戸内側が中心である。初見の札所も続々と登場するが、それも含めて中国地方のさまざまなところを回りたいところで、また楽しみである・・・(広島新四国八十八ヶ所めぐりも進めなければならないが)。

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第5回中国四十九薬師めぐり~第6番「普光寺」(美咲町の卵かけごはんは・・)

2021年12月11日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは津山市から美咲町に入る。平成の大合併で中央町、柵原町、旭町の3つの町が統合されて発足した町で、町の形が花びらのように見えることからつけられた名前である。

亀甲駅の手前で国道53号線から県道に入り、5~6分走ると高台に寺が見える。あそこが第6番の普光寺である。

墓地の周りに観音像が並ぶ参道を歩き、山門に入る。いかにも里山の寺といった風情である。

中世の兵火で焼失したこともあり、普光寺の詳しい歴史はよくわからないが、聖武天皇の時代に行基が開いたとされる。行基が諸国を回っていた時、この地のケヤキの木の下で仮泊したところ、ケヤキを白雲が覆い、一条の光明がさした。行基はこれに仏を感じ、そのケヤキの木で千手観音を彫って祀ったという。

小ぶりな本堂に向かう。本尊は千手観音で、脇仏は不動明王と毘沙門天とある。案内板もある。

あれ?薬師如来は?

別に本尊でないにしても、どこかに祀られていそうなものである。別にお堂があったか、あるいは本坊の中におわすとか。

納経所は無人で、ケースに書置きがあった。こちらをいただき、あっさりと第6番はおしまい。

あっさりと参詣を終えたのは、この次のお楽しみである。美咲町といえば卵かけごはんが有名だったな・・ということで店を検索する。その中で出たのが「食堂かめっち」というところ。普光寺からも近く、国道53号線に戻り、美咲町中央運動公園に向かう。食堂は坂道を上った先にあるが、駐車場が満車なので下のグラウンドの仮設駐車場に停める。ちょうど体育館で部活動の大会が行われていて多くの車が停まっている。

そして結構な人だかり。受付用紙に名前を書いて待つことにする。ただその応対は「待たせて当然」。まあ、ちょうど昼時だから仕方ないか。待つことにする。

卵かけごはんを広めた人物とされるのが、明治時代のジャーナリストで現在の美咲町出身の岸田吟香である。「鶏卵和」という名前で紹介されている。時代が下り、地元の棚田で作った米と養鶏場の卵、そして開発した出汁醤油が組み合わされた卵かけごはんが美咲町の町おこしで名物となった。

美咲町の観光案内図の中に、柵原ふれいあ鉱山公園の文字が見える。かつての同和鉱業片上鉄道の吉ヶ原駅が廃線後も保存されていて、気動車や客車列車も残されている。気動車は有志の手で構内運転も行われており、私も乗車したことがある。同じ町内なのか。

それにしても、一向に順番が来ない。コロナ対策で席数を減らしているのはわかるが、別に凝ったコース料理というわけではなく、言っては悪いが卵かけごはんではないか。ごはん、卵のお替り自由とはいうが、それにしても回転が遅すぎる。

私も自分のクルマで来ていて、後は広島に戻るだけならいくらでも待つ。ただ、この後もう1ヶ所札所に行かなければならないし、レンタカーの返却時間、さらにはその後の一献・・と予定がある。1時間半以上待ったが順番が一向に来ないので、自ら用紙の名前を消した。その時、表にいた店員から「申し訳ありません」の一言もなかったのは残念だ。

表で地元の名産を売っているテーブルが出ていて、米や卵も売っているが、帰りに新幹線に乗るので卵を持って帰るわけにもいかない(割れてしまう)。そこのおばさんからも「今日はまだ少ないほうよ」「2時間待ちは当たり前」「それくらい待てないのか」と上から目線。出汁醤油くらい買って帰ろうかと思ったがやめた。

さぞかし美味しいのだろうが、戦時中や共産圏の国じゃあるまいし、卵かけごはんで何時間も待つなんて私にはできない。また、店の対応も印象悪い。まあ、二度と来ることはないだろう。

このまま国道53号線を南下して、美咲町を後にする・・・。

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第5回中国四十九薬師めぐり~第5番「長雲寺」(津山城下にて)

2021年12月10日 | 中国四十九薬師

11月14日、津山城のもみじまつりを楽しんだ後、津山駅前のトヨタレンタカーに向かう。国道53号線に近い中国四十九薬師の札所3つを訪ね、岡山まで南下する。今回はコンパクトカーのパッソ。

まず向かうのは、第5番の長雲寺。津山駅前からいったん西に向かい、吉井川を渡る。駅からだと徒歩20~30分ほどの距離かな。郊外店が並ぶ城北通りから細い道に入る。まずは「薬師院長雲寺」の石柱が建つ石段に出るが、駐車場はそこから回り込んで坂道を上がったところにある。

駐車場から山門までは近いが、ここは石段を上がることにしていったん坂道を下る。まあ、大した段差ではないのだが。

正面に本堂がある。金剛杖が1本奉納されている。中国四十九薬師めぐりで訪ねたが、「美作八十八ヶ所霊場」という文字も見える。四国八十八ヶ所の写し霊場だ。

本堂の扉が閉められており、その前でお勤めとする。

長雲寺の歴史は古く、聖武天皇の時代に行基が開いたとされる。その後は栄えたものの兵火で焼失し、江戸時代に復興したという。中国四十九薬師の本尊薬師如来はその焼け跡から見つかったものだとある。津山藩の森氏の時、藩主の娘が病にかかり、その平癒祈願をしたところ無事に快癒した。その御礼として新たにお堂を建てたそうで、それが現在の本堂である。

境内には墓地が広がり、その向こうには先ほど訪ねた津山城の石垣が見える。城から見ればちょうど西に位置するのがこの長雲寺である。

「黒猫の子は黒猫や寺涼し 雨町」という句碑がある。武久雨町という人の句というが、この句から何を読み取れというのだろうか。今は澄んだ青空が広がる時季だが、もし真夏の猛暑日にこの石碑を目にしたら、「全然涼しくないやんけ」とぼやくところだろう。

本堂の奥には西国三十三所のお砂踏み霊場もある。中央には熊野三山のご本尊が祀られる。

さて朱印である。納経所の看板が出ているわけでもないが、本堂に隣接した真新しい建物が本坊だろう。そこのチャイムを押すと寺の方が出てきて、本堂の扉を開けていただく。といっても鍵がかかっているわけではない。どうやら、参詣者は自由に扉を開けて中に入ってお参りして、朱印も書置きのものをいただく方式のようだ。それならそうと案内があればよいのに(「ご自由にお入りください」とか)。

「美作(八十八ヶ所)ですか?」と尋ねられたので「お薬師さん」と答える。所定の書置き済の朱印用紙と、中国四十九薬師のパンフレット、さらにはお接待としてお菓子もつけてくれる。かえって恐縮する。

この先、いったん前回第4回の宿泊地であった院庄まで行こうかとも思ったが、そのまま国道53号線を南下する。津山線の線路も並走する中、津山市を抜けて美咲町に入る・・・。

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