まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

神仏霊場巡拝の道~まずはミナミにて忘年会

2022年12月31日 | 神仏霊場巡拝の道

12月30日、広島から大阪に向けて出発する。今回、大阪までは青春18きっぷを使っての移動だが、夕方になんば駅集合なので多少ゆっくり出ても間に合う。前日は私の年内最終の出勤日だったが、結構遅くまで残っていたので朝は少しゆっくり起きる。

西広島を9時23分発の白市行きで出発し、広島でいったん下車。次の糸崎行きが広島発9時50分で、1本早い列車での席取りのためである。白市~三原間は日中1時間に1本しか列車がなく、この糸崎行きも3両しかない。そのためか、広島出発時点で立ち客も出る。

そのまま下車する人もほとんどないまま進む。

11時05分、糸崎の一つ手前の三原に到着。ここで下車する。次の11時34分発の列車は愛生行き。2時間40分の長時間移動となるため、始発駅から座っていきたいところだ。あらかじめそれを狙ってか、大きな荷物を持った人が中心に早くも乗車口に列ができる。

こちらも座席がほぼ埋まって出発。次の糸崎から、先ほどの車内にいた人たちが乗ってくる。おそらく、スマホの乗り換え検索だと終点の糸崎まで案内して、次の愛生行きには座れないということだろう。

この後はのんびりと車内で過ごす。岡山を乗り換えなしで通過する。

14時18分、相生着。すぐに接続の姫路行きに乗車し、姫路駅ホームの「えきそば」で一息つける。注文したのはシンプル、昔ながらのメニューの天ぷらそばなのだが、このところはさまざまなトッピングができるようになっている。中には「姫路たこ焼き入り」などというのもある。見たところ一般的なたこ焼きだが、明石焼き(玉子焼き)なら出汁につけて食べるタイプなので結構会うかもしれない。

新快速に乗車し、三ノ宮で下車した。ここはら阪神電車に乗り換える。この区間に乗るのも久しぶりのことである。

到着したのは阪神尼崎。実は30日の宿泊は尼崎ということになった。忘年会はミナミなのであの辺りで宿泊するところだが、やはりこの時期、空いているのはカプセルホテルか超高級ホテル。さすがにカプセルホテルはいいかと、ミナミ以外で宿を探すと、阪神なんば線で一本の尼崎が手頃となった。私の前の大阪の職場の場合、出張で来る人は尼崎に泊まることが多かったのだが、この数年では新しいホテルもいろいろ建っている。

今回の宿泊はその新しい部類に属するプラザホテル。周りはパチンコ、飲食店などで賑わっているところだが、阪神の尼崎の近くといえばたまに発砲、銃撃のニュースが流れるところで・・・。まあ、普通にしていればどうということはないのだが。

部屋の広さは一般的なシングルルームだが、大浴場がついている。集合まで時間があるので、まずはひと風呂浴びる。ともかく、1年間お疲れと自分に言う。

阪神なんば線で夜のミナミへ。大学の同窓生6人が集まった。コロナ禍以来の顔合わせとなったが、中には誘ったものの「万が一」を考慮して不参加となった人もいた。まあ、そこはそれぞれの価値観である。

いわゆる「裏なんば」にある中華料理店があり、若い人たちで賑わう中でアラフィフが集まる。現在それぞれの分野で頑張っており、中にはヘッドハンティング?で会社役員を務めることになった人も。紹興酒に酔い、昔語りもいろいろとあって懐かしい時間を過ごすことができた。

これで尼崎に戻り、そのまま就寝。翌日大晦日はいよいよ神仏霊場めぐりで、まずは京都に向かうことに・・・。

さて、2022年の投稿はこれで終わり。ご覧いただきありがとうございました。来る年が皆さんにとって素晴らしい年になりますように・・。

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神仏霊場巡拝の道~年末年始は関西へ

2022年12月30日 | 神仏霊場巡拝の道

2022年も残りわずか。今年もさまざまな暗いニュースが相次ぎ、その一方でスポーツの明るい話題に心安らぐという世相だったように思う。私としては今季一番うれしかったニュースは、やはりオリックス・バファローズのリーグ連覇、そして日本一である。それで充分である。

さて、2022年~2023年の年越しをどうするか。昨年は九州西国霊場めぐりで久留米を訪ね、新門司港からの名門大洋フェリーに揺られて船内で新年を迎えた。翌朝、大阪南港に入る手前で雲の上越しに初日の出を見ることができた。

今年はどうするか。当初は、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの続きを考えていた。前回11月に北九州を回っており、続きは中津から宇佐、別府にかけてである。この九州八十八ヶ所だが、六郷満山と呼ばれ多数の寺院を有する国東半島の中に札所がないのも特徴だ。宇佐神宮近くの大楽寺の次は杵築の光明院である。まあ、六郷満山は天台宗の実践の場として開かれた霊場であり、真言宗で、しかも今から40年ほど前に光られた札所めぐりとしては、そこはスルーしたことがわかる。

年末に大分県の豊前から豊後にかけての区間を回り、別府からフェリーに乗るか、あるいは新門司まで戻ってフェリーに乗るか、いずれにしてもフェリーで新年を迎えようと、それぞれの便の予約をしていた。最終的に片方に決めて、片方はキャンセルするのだが・・・。

そんな折、大学の同窓生から久しぶりの連絡。以前は年に1回は忘年会と称して集まっていたものだが、コロナ禍になったし、私がその渦中に広島に移ったものだから顔を合わす機会もなかった。第8波で感染者が増えているというものの、世の中はさまざまな活動が元に戻りつつあることから、久しぶりに忘年会を開くとの知らせである。といっても大規模なものではなく、幹事役の彼が声をかけた中で8人の集まりとなった。

なお、集まるのは12月30日だという。私の予定では九州にいるはずだったが、せっかくのお誘いなので前倒しで広島から直接大阪に戻ることにした。そして忘年会を楽しみ、31日と元日は関西での神仏霊場めぐりということにした。大阪の実家に戻れば・・ということも考えたのだが、実家の事情で私が泊まることが難しく、年が明けてから昼間に顔を出すことで決まった。ということで正月期間中はどこか宿で過ごすことになる。

前回、高野山で行ったあみだくじの結果、目的地は京都の泉涌寺と決まっている。30日は大阪への移動日、そして忘年会。そのまま宿泊し、31日に京都を訪ねることにした。泉涌寺とその周辺のいくつかの札所を回った後、あるところで宿泊である。そして元日は初日の出を見てから、今回あえて(あみだくじではなく自分の一存で)ある札所を目指すことにする。その場所がどこかは今は触れないが、ヒントとしては広島から見て札所の中では遠く離れたところである。そして2日に実家に顔出し、3日に広島に向けて移動ということになった(3日も、状況次第で神仏霊場めぐりの続きをするかもしれない)。

さて、どんな年末年始紀行になるやら・・・。

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第22回中国四十九薬師めぐり~萩から長門市、美祢線へ

2022年12月29日 | 中国四十九薬師

東萩駅にて「○○のはなし」の発車を見送り、14時24分発の長門市行きを待つ。ここで雨が本降りになってきた。もう少し駅に戻るタイミングが遅かったら、しっかり雨に濡れていたところだ。

益田からやって来たのはキハ40の単行。1両でも乗客も少ないのは少ないのだが、海側のボックス席はそれぞれしっかり独占されている。やはりその筋の人たち、あるいは一般の旅行者で、益田から長門市まで直通する列車が限られる中、時刻表を読んでこの貴重な列車狙いのようだ。この前の列車は3時間以上前だし、後の列車は2時間後である。

ロングシートは空いているのだが車内で昼食をということでちょっと座りにくい。幸い、山側のボックス席に一つ空きがあったのでそちらに陣取る。まずは萩の市街地の外周をぐるりと回る。玉江で阿武川の河口に近づき、再びどんよりした日本海の景色を見る。山側のボックス席から隣のボックス席越しに何とか海の景色に触れる。

三見から飯井にかけてはより海に近づく区間。萩市から長門市に入る。

長門三隅からは仙崎湾に出る。ここで空が明るくなった。先ほどからの雨雲も萩市付近にだけかかっていたようである。この区間はこのところ「○○のはなし」で通ることが多く、一般の列車に揺られるのは久しぶりだが、ローカル線の雰囲気を楽しむなら昔ながらのボックス席のほうがしっくり来るな・・というのが今の感想である。

15時02分、長門市着。15時16分発の山陰線小串行き、そして同時刻発の美祢線厚狭行きに接続する。小串行きで山陰線をずっとたどるのもいいが、今回は久しぶりの美祢線に乗る。

こちらはキハ120の単行。オールロングシートなので恨みっこなしだ。シートがほどよく埋まるくらいの乗車率である。ここで早めに山陽側に出ることで帰宅時間も少しは早くできる。

前々回の中国四十九薬師めぐりで、長門市、油谷半島を回った帰りに美祢線と並走する国道316号線を経由した。それほど時間が経過していないので車窓にも見覚えがある。安倍元首相とプーチン大統領が会談した湯本温泉を通過する。

ロングシートで時折首を後ろに曲げながら景色を見ていたが、そのうちウトウトするようになった。沿線の中心駅である美祢を通過したのは覚えていない。美祢線自体は元々石炭を輸送するために敷かれた路線で、沿線にもさまざまな見どころがあるのだが、列車に揺られる限りではそれほどの絶景に出会うわけでもない。日本海沿いを走った後だけに、余計地味に感じたのかもしれない。

長門市から1時間あまりの乗車で、16時26分、厚狭着。山陽線の次の列車は宇部から宇部線に入る宇部新川行きのため、その後の16時53分発の岩国行きまでしばらく待つ。いったん駅の外にも出てみる。三年寝太郎の像が出迎える。

ここまで来れば後は戻るだけだ。途中の新山口、徳山で各10分停車してちょっと外に出るが、徳山からはすっかり暗くなり、その中を列車のモーター音を響かせるだけだ。外から見たら海沿いを走る夜の列車というのも面白いかもしれないが・・・。

さて、今回の萩行きで中国四十九薬師めぐりの山口県全てが終了し、島根県も石見地方まで進んでいる。次の札所は第36番の神宮寺だが、出雲大社の先の日御碕にある。その名の通り、かつては日御碕神社と神仏習合の関係にあったところである。ただこれから季節は冬。どのタイミングで訪ねようか、その先の札所と合わせて思案するところである・・・。

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第22回中国四十九薬師めぐり~第33番「円政寺」(維新の志士も遊んだ神仏習合の寺院、そして後の総理大臣は・・・)

2022年12月28日 | 中国四十九薬師

12月28日、世間はこの日が「納め」で、2022年を振り返るニュース、映像がさまざま流れる。いろいろなことがあった1年。スポーツでも多くの話題があって賑わったのだが、その中にあってはプロ野球においてオリックス・バファローズの日本一が取り上げられることはなかった。

日本のプロ野球のニュースはスワローズ・村上の「村神様」、そしてマリーンズ・佐々木の完全試合だけ。いまだに、ジャイアンツ、タイガースが勝たなければ日本のプロ野球は盛り上がらないようである。バファローズは日本一になってが、所詮全国的に見ればマイナー、不人気チームであることには変わりない。ましてや関西においては毎日マスゴミがこぞってタイガース、六甲おろし、そらそうよ監督の話題で発狂しており、バファローズの日本一など他国の出来事のように報じられている。あの、朝から公共の電波で六甲おろしを叫ぬ山口県出身者の番組って今でもやっているの?

・・・話は本題へ。もう、2週間以上経過したことなので記事の新鮮味も何もあったものではないが、年内に何とかこのシリーズだけでも書き終えようと思う・・・。

東萩駅から松下村塾を経て萩の城下町まで歩く。ようやく着いたのが中国四十九薬師の第33番で、この旅のそもそもの目的地である円政寺である。江戸屋横丁という通りで、木戸孝允の旧居にも接している。

まず出迎えるのは石の鳥居である。横の立て看板には「高杉晋作 伊藤博文 両公幼年勉学之所」とあり、「金毘羅社 円政寺」とある。神社と寺が同居していることがここからわかる。

先に拝観料を払い、毛利氏の家紋の幕、提灯が掲げられる門をくぐる。かつては毛利氏の保護を受けていたのかな。

境内の突き当りが円政寺の本堂だが、その手前、右手にある建物にまず目が行く。こちらは金毘羅社である。

円政寺が開かれたのは鎌倉時代で、当初は大内氏の祈願寺として山口にあった寺である。大内氏が滅亡した後は毛利氏の祈願寺となり、毛利氏が萩に転封されたのにともない、萩に移った。さらに、明治の神仏分離令が出た際に、現在地にあった法光院と合併して現在にいたる。金毘羅社は法光院の時代からあったもので、神仏分離令の時も嘆願により、また皇室に縁があったためにいずれも存続することができた。神仏習合がこうした形ではっきり残っているところはなかなかないと思うが、神仏分離を推進した明治政府の中心であった長州出身者の本拠地にあるというのも妙なものだ。

まず金毘羅社にお参り。拝殿の入口には天狗の面が掲げられている。神社に天狗の面というのも神仏習合の現われだそうだが、高杉晋作は幼少の頃、家族に連れられてこの天狗の面を見せられ、物おじしないようにしつけられたという。

拝殿では、当時の天井絵、そして大鏡を見ることができる。この大鏡は1822年というからちょうど200年前に金毘羅社に奉納されたが、太平洋戦争中に軍に供出され、その後行方がわからなくなっていた。それが2006年にオークションに出されていたのが見つかり、無事に買い戻されたとある。

金毘羅社の横には木馬(神馬)の像が祀られている。高杉晋作や伊藤博文もこの馬で遊んだそうだ。

そして円政寺である。本堂の前に立派な石灯籠がある。江戸後期、萩の町の人たちの寄進によるもので、高さ5メートルほどは山口県下で最も大きいとされる。

本堂に上がる。寺としての本尊は地蔵菩薩だが、左手に祀られている薬師如来が中国四十九薬師めぐりの本尊である。

隣の納経所でバインダー式の朱印をいただく。その一角では、寺に残る大内氏の家紋、毛利氏の家紋が並んでいる。大内氏~毛利氏、中世以降の中国地方の盟主の流れがうかがえるところである。

萩の人たちのプライドなのか、境内の竹筒に「萩市出身の総理大臣」とある。伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一。伊藤博文の生まれは現在の光市で、あちらには記念館もあるのだが、8歳の時に萩に移ったから萩の出身としていいだろう。他の3人は萩の長州藩士の家に生まれた人たち。

山口県はこれまで全国最多の8人の総理大臣を輩出しているが、残り4人は寺内正毅、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三。山口出身、大正時代の首相の寺内正毅はさておき、その後の岸、佐藤、安倍は明治以降の新興勢力といえるのではと思う。伊藤博文や山県有朋から見れば、同じ山口県といっても「岸? 佐藤? 安倍? あんたらどこの馬の骨?」というくらいの格付けだろうが・・。

境内を後にする。まだ東萩からの次の列車には時間があるので、もう少し町歩きとする。青空が見えたかと思うとすぐに雲が広がったり、複雑な空模様である。その中で行くことにしたのは萩博物館である。萩の町並み全体を広大な博物館「萩まちじゅう博物館」に見立てる一方で、その中核施設として2004年に開館したところである。最初の広島勤務時にはなかった施設で、訪ねるのは初めてである。

訪ねた時は企画展「江戸時代の地図」が開かれていた。伊能忠敬が手掛けた日本地図の他に、萩の城下町、長州藩全体の地図、さらに江戸時代当時の世界地図などさまざまある。こういう展示には思わず見入ってしまう。

続いては、萩の自然史とでもいうべきか、さまざまな動物の標本が並ぶ。珍しいリュウグウノツカイの4メートル以上の標本というのもある。

このコーナーの標本の多くは、明治から昭和にかけて活躍し「萩の博物学の父」と称される田中市郎が収集したものという。萩の学校教諭を務めながら、収集した標本を一般に公開する博物館を開いた。これが現在の萩博物館のルーツだという。エリアにいたボランティアガイドとおぼしき人から、「これ、一人の先生の功績ですよ」と紹介される。

その後は萩の歴史にまつわる展示。やはり、関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長二国への転封以降が中心となる。その後250年以上の苦難を経て、黒船来航に始まる混迷の時代に入り、そこに吉田松陰が登場する。そして松陰の教えを受けた志士たちの手により明治維新・・・。

展示室の外の通路には「萩ゆかりの人びと」として、その人たちを紹介するパネルがずらりと並ぶ。中でも「政治・軍事」に分類される人たちが目立つ。首相在任日数が通算の最長記録であると紹介された桂太郎のところには、その後、安倍晋三が歴代1位になったことの紹介文が追加されている。通算在任日数で1位・安倍晋三、2位・桂太郎、3位・佐藤栄作、4位・伊藤博文と上位を山口県出身が占めていることを誇らしげに記載している。そして時代は経過するが、ここ山口県内においては国会議員の顔ぶれを見ても、まだ他県以上に旧態依然とした、藩閥政治の名残があるように思う。

高杉晋作のコーナーがある。維新の原動力となったのは当時の藩側(俗論党)を打ち破った改革派(正義党)ではなかったか。ただ、最初は改革派といっても、いざ政権の側につくと果たしてどうだったか・・・。今でも、長州では「維新」というイメージだが、現在の政治の世界ではガチガチの保守で、それこそ「俗論党」のようになっているように見えるのだが・・・。

萩博物館でいろいろ見学するうちに結構時間が経った。そろそろ、東萩駅に戻ることにする。あいにく、途中から雨に遭った。実はこの時季にも関わらず、折り畳みを含めて傘を持って来るのを忘れていた。幸い、羽織っていた上着がフードつきだったので、それを頭にかぶる。頭を覆うだけでも雨の不快感は多少なりとも和らぐが、何だか萩に来て踏んだり蹴ったりのような気持ちも多少ある。

途中のコンビニで昼食を仕入れて東萩駅に到着。ちょうど、14時13分発の「〇〇のはなし」が出発するところだった。2両いずれもそこそこ乗客で埋まっている。目の前にこうした列車がいるなら乗ってみようという人がいてもおかしくないが、その出発地の東萩では指定席を購入することはできない。事前のネット予約でも東萩で発券することもできない。それって正直どないやねん・・・。

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第22回中国四十九薬師めぐり~松下村塾、松陰神社

2022年12月27日 | 中国四十九薬師

タイトルだけを見ればバリバリの萩の観光旅行なのだが・・。

益田からの列車で東萩に到着したのが10時43分。そして、東萩から乗る予定にしているのが14時24分の長門市行きである。長門市行きの少し前、14時13分に観光列車「〇〇のはなし」が発車する。全車指定だが当日でも空席はあるようだ。ただ、今回は長門市から美祢線に乗ることにしており、「〇〇のはなし」は東萩からいったん仙崎を経由するため長門市に着いても予定の列車に間に合わない。無理に短区間乗ることもなく、後発の鈍行まで3時間40分ほどの時間を萩で過ごすことにする。

これが何もないところでの3時間40分なら持て余すところだが、萩は世界遺産にも登録されているスポット、見どころには事欠かないだろう。まして、目指す中国四十九薬師の札所・円政寺は城下町の中にあるので、そこに向かうだけでも萩の観光を兼ねることができそうだ。

東萩駅。この夏、中国四十九薬師めぐりの第17回では、「〇〇のはなし」で下関から東萩にやって来たが、到着後はそのままレンタカーに乗り、萩往還を過ぎて第28番の常福寺に向かった。その時は参詣後、秋吉台を経て新山口に出た。今回で遅ればせながら萩市内観光である。

以前来た時、駅を出て左手に進んだトイレの手前にコインロッカーがあり、荷物を預けてレンタサイクルに乗った。今回もそうしようと向かったのだが・・・確か自動販売機の横にあったはずのコインロッカーがなくなっていた。観光地の玄関口であるはずの東萩駅だが、来るたびに何かがなくなっているように思う。みどりの窓口どころか駅員の姿もなくなり(時間帯によっては窓口を開けているようだが、指定席等の取り扱いはない)、そしてコインロッカーもなくなった。まあ、列車本数を見れば致し方ないのかな。観光客は新山口などからバスで来るだろうし・・。

ならばレンタサイクルを利用して、お願いすれば荷物も預かってくれるかもしれないが、外の天候も怪しく、途中で雨に遭わないとも限らない。結局、荷物を預けるのはあきらめて、そのままの形で町中を歩いて移動することにした。まあ、3時間半もあれば最低限のスポットは徒歩でも回れるだろう。

まず、駅の東にある松下村塾に向かう。やはりここは外せないだろう。

沿道に、「萩城下町マラソン」にともなう交通規制の立て看板が目立つ。当日(12月11日)開催で、ハーフマラソン、5キロの2つの種目で行われるとある。到着した時はスタート時刻からかなりの時間が経過していたこともあり、ランナーの姿を見ることはなかった。ただ、ネット記事を見ると、このレースにはゲストランナーとして、元公務員、現在はプロの川内優輝さんも走っていたそうだ。あらかじめ情報を入れて、もっと早い時間に萩に入っていれば(その場合、前泊は浜田ではなく少なくとも益田にする必要はあったが)、城下町の景色とプロランナーの競演が観られたことだろう。

松下村塾に到着。正しくは、松陰神社に着いたというべきかな。

その松下村塾の建物だが、この日、講義室には10名あまりの人が腰を下ろしており、何やら講義を受けていた。建物の外では制服姿の人がその様子を見守っており、その時は一瞬、自衛隊とか、ひょっとしたらライトスタンドの人たちの関係なのかなと思った。そっち系の人なら、松下村塾を訪ねるのもわかるな・・という印象。

神社に手を合わせる。

参詣を終えると、先ほど講義室にいた団体の姿は消えていた。

宝物殿至誠館に入る。吉田松陰の生涯を顕彰するとともに、松陰が他に宛てた手紙や書、その他遺品が展示されている。松陰は(と呼び捨てにすると、萩の人たちからシバかれるのだが)、享年29歳。そのわずかな生涯で後の日本に貢献する多くの人材を育てたとされる。その一言一句がありがたいもので、当然のことながら神として祀らねばならない。令和の現在にあっても、ここで松陰の(だから呼び捨てはやめなさい)悪口でも言おうものなら、その瞬間にしょっ引かれることだろう。そうした殺気を感じる。

宝物殿と反対側には歴史館がある。ここは松陰の(だから呼び捨ては・・・)生涯を蠟人形も豊富に使って紹介しているが、ここは私にとって悪い印象しかない。中国観音霊場めぐりで真夏の萩を訪ねた際、この建物に入ったのだが冷房が全く効いておらず、扇風機の風だけだった。そのため体力を大きく消耗し、その後市内の2ヶ所の札所をレンタサイクルで回ったのだが、東萩駅に戻って来た時は半ば熱中症だった。その後益田まで朦朧状態で列車に乗り、益田のホテルでようやく整った。この歴史館では、山口県出身の総理大臣を誇らしげに蠟人形で紹介していたが、8人目の、ほらあいつ・・・油谷の・・・はその後人形になったのかな?

松下村塾を後にして、そのまま城下町に向けて歩く。ちょうど駐車場から「WEST EXPRESS瑞風」のマークをかたどったマイクロバスが出発した。先ほど松下村塾の講義室に上がっていたのは、ひょっとしたらこの観光列車の利用客だったのかな・・?

そしてしばらく進むと山陰線の踏切が見える。少し離れたところだが遮断機が下りるのが見え、そこを長門市方面から通過したのがまさに「瑞風」の編成だった。ツアー専用なので列車、乗客の動きがわからないのだが、先ほどのマイクロバスの動きから見て、ツアーのオプションで松下村塾や萩の城下町を訪ねるプランがあったのかもしれない。まあ、生涯乗る機会がなさそうな列車なのでどうでもいいのだが・・・。

このまま、荷物を両肩に負った状態で萩の中心部に向かう。直線距離なら知れているのかもしれないが、まっすぐ進むというのもなかなか気分的にしんどいもので・・・(本来なら寺の参詣まで書かなければスケジュールが厳しいのだが、ここまで長くなったので続きは次回に)。

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第22回中国四十九薬師めぐり~山陰線海岸区間を行く

2022年12月26日 | 中国四十九薬師

12月11日、前泊した浜田から山陰線で東萩に移動する。時計回りに中国地方を一周する中国四十九薬師めぐりのコマは石見まで進んでいるので逆走する格好だが、鉄道でというのがポイントである。

ホテルでの朝食を済ませ、浜田駅から出発。

前日ここの券売機で購入した青春18きっぷにスタンプをもらう。ちょうど、8時10分発の益田行きが到着したところだ。この列車は出雲市を5時50分に出発しており、浜田で18分停車する。2両編成だが、ちょうど乗客が入れ替わる形となり、浜田からの乗客は旅行者らしい人を含め数人である。もちろん、海側のボックス席を確保する。

この日の島根県は曇り、一時雨の予報。山口県の日本海側も似たようなものでろう。周布を過ぎると海岸に出る。風、波もそれなりに強い。ここに来て雨も落ちてきたようだ。冬の日本海らしい景色である。

折居から三保三隅の区間は、先日も国道9号線を走り、道の駅から日本海をバックに走る列車を見たところ。その時は、やはり列車に乗ってその景色を楽しみたい・・と思い、今回期待してやって来たのだがあいにくの天気である。まあ、こうした変化があるから何度でも来たくなるのだが。

この後も三保三隅、鎌手、石見津田と眺めのよい区間を行く。

9時12分、益田に到着。次の9時31分発の東萩行きまで少し時間があるのでいったん改札を出る。低い雲が辺りを覆っている。

益田~東萩間は1日わずか7往復しかない。県境を越える区間ということもあるが、山陰線の中でもっとも列車本数が少ない区間である。今すぐに廃止が取り沙汰されているわけではないが、今後について何か明るい材料があるわけでもない。

その東萩までの区間はこの夏に乗った。新型コロナウイルスの対応で益田に出張、数日間滞在した時のことだが、対応に目途がつき宿泊最後となった夕方、ふと、この区間に乗ってみようと17時47分発の長門市行きに乗った。夏ということで日が長く、夕暮れの日本海の景色を眺めることができた。その時も、平日の夕方の時間にも関わらず県境の区間では乗客が2~3人ほどだった。

これから乗る9時31分発は2両編成だが乗客は数人。そのうち1両はロングシート主体だったので、ボックス席中心のほうの車両に乗り込む。今回の中国四十九薬師めぐりはこの東萩行きがカギとなったように思う。10時43分に東萩に到着し、2本後の14時24分発の長門市行きまでの時間が萩の滞在時間である。

高津川を渡り、再びどんよりとした日本海の車窓である。石州瓦の屋根が並ぶ集落と相まっての景色は島根らしい。

飯浦を過ぎると島根から山口に入る。次の江崎までの区間がもっともひっそりしていたように思う。

山口県の区間に入ると、駅ごとにわずかながら乗客の姿も見える。この東萩行きだが、終点の東萩で接続する列車はない(次の長門市行きは2時間あまり後)。ここからの乗客は純粋に萩を目指す人たちだろう。

途中通り過ぎのは阿武町である。コロナ対策の給付金4630万円が町から一人の男に誤って送金され、それを返還するしないでトラブルになったことで町の名前が全国に知られたところだ。この事件、今年のことやったんやね。当時は連日のようにワイドショーで取り上げられていたようだが、中身としては町役場のミスによる送金トラブルである。その後に起こったさまざまな出来事のほうが事件性が高かったり、私たちの生活に直結したりというのが多く、阿武町も今はまた静かになっているだろう。誤送金された男の裁判は続いているようだが。

東萩に到着。跨線橋を渡って改札口に向かうが、駅の人は誰もいない。世界遺産を擁する観光地の玄関口の駅のはずだが、鉄道でのアクセス、あるいは個人の観光客など眼中にないのか、現実はこんなものかと思う。

ここから中国四十九薬師めぐりの目的地である第33番・円政寺を目指すのだが、これもやっかいなことに・・・。

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第22回中国四十九薬師めぐり~萩を目指すためにまずは浜田で前泊。

2022年12月24日 | 中国四十九薬師

今年も残り1週間となったが、12月23日から24日にかけては広島市内も結構な積雪となった。朝起きるとクルマが駐車場ですっぽり雪に埋もれた状態。通勤にも一苦労、二苦労したところで、まさに「クリスマス寒波」となった。ちょうど東京から出張で来た人の対応を行っていたが、「広島は瀬戸内なので温暖なところと思っていたけど、結構『雪国』なんですね」と。昼食を市内のレストランでご一緒したのだが、外の木々に雪が積もり、さらに雪が降り重なる景色は、広島は広島でも芸北や備北にでもいるかのような感じがした。

・・・さて、ここからは年末に向けて中国四十九薬師めぐりの記事である。前回は現地での鉄道廃線・未成線関連のスポットめぐりのため、第34番・長徳寺、そして第35番・延命寺と先に島根県石見地方の札所を回った。その一方で、萩にある第33番・円政寺が残っている。

それほど遅くならないうちに、萩にも行っておこうと思う。ちょうど12月10日からは冬の青春18きっぷの有効期間となり、年末年始も何かしら使う予定があるため、ここで最初の1回分とする。

広島から萩に行くルートはいくつか考えられる。もっとも便利なのは、新山口からの路線バス「はぎ号」。バス料金は別途発生するが、前後を青春18きっぷで使っても日帰りできる範囲である。

また、下関から「○○のはなし」に乗るという手もある。これで東萩まで行き、帰りは路線バス「はぎ号」でもよい。

ただ、中国地方一周は石見まで進んだ形になっているが、浜田から益田にかけての区間の列車にも乗ってみたい。前回は国道9号線で、折居~三保三隅の撮影名所を道の駅から見ることもできたのだが・・。

いろいろ考えてみたが、逆に浜田まで行き、そこで前泊。そして山陰線で西に進み、東萩で下車して円政寺、さらに進んで長門市まで行き、久しぶりの美祢線乗車というのを考えた。山陰線の同区間、そして美祢線は今すぐ廃線という話は出ていないものの、輸送密度が2000人を下回り、大幅な赤字になっている路線、区間として公表されたところだ。青春18きっぷで乗車したところで収支にはカウントされないのだが、行くだけ行ってみよう。

山陰線の乗車は11日として、10日は午前中所用があるため午後からの出発とする。この日は、夕方に浜田に到着して夜の一献だけである。これ、その週末に行っておいてよかった。この日を外して次に行く機会は12月24日~25日の週末となったところだが、24日は雪のため広島~浜田の高速バス「いさりび号」は全便運休となった。

10日昼過ぎの広島駅新幹線口。13時50分発の浜田行きに乗る。車両は石見交通バス。全車自由席だが、コロナ対策として、依然として最前列4席の使用は禁止となっている。広島駅、そして広島バスセンターで合わせて半分以上の席が埋まるが、このバスは広島中心部と広島県北部とを結ぶ役割もあるので、途中で下車する客もいそうだ。

前回の中国四十九薬師めぐりでは、「幻の広浜鉄道」の未成線跡めぐりを行った。現在は当初とは異なるルートとなったが、中国道、浜田道を経由するのが最速ルートで、高速バスが2時間あまりで結んでいる。これが現時点での最適解というところだろう。

途中の千代田西、大朝インターで下車があり、県境に近い寒曳山パーキングエリアで10分間休憩。雨や雪は降っていないものの、さすがに山中は冷える。

ここに1991年の浜田道の開通記念碑があり、「当区間(注:千代田~旭)の開通により中国横断自動車道広島~浜田間が全線開通し山陰と山陽が高速道路で結ばれ中国地方の発展に大きく貢献することを願い・・」という解説文がある。「広浜鉄道」の構想が違った形ではあるが実現した証といえる。

島根県に入っても順調に進み、浜田道から浜田市街に出る。16時10分、浜田駅に到着。

いったん橋上の駅舎に行き、みどりの券売機で青春18きっぷを購入する。乗るのは翌日8時すぎの列車なので翌日購入でも間に合うのだが、まあ先に買っておこう。これなら、山陰線の駅での販売実績になるはずである。

宿泊は駅の斜め前にあるルートインホテル。以前の乗り鉄で一度泊まったことがある。大浴場もあるし、この日割り当てられた部屋からは駅の構内を見下ろすこともできる。大浴場にも入り、しばらく部屋でゆっくりする。

18時、駅前に出る。浜田に来たのだから山陰の魚を食べようということで入ったのは「炉端かば」。山陰を中心に広がるチェーン居酒屋だが、海の幸、山陰グルメは豊富である。以前浜田に泊まった時も、ルートインホテルと「炉端かば」の組み合わせだった。

カウンターに座り、おすすめメニューを見る。あれこれ迷うところだが、まずは大ジョッキ。デカッ。そして最初に出てきたのが赤天。いわゆる「江木さん」ものかな。

浜田港直送という「浜田盛り」を注文。通常の「桶盛り」とは違った顔ぶれである。

のどぐろの一夜干し。高級魚とされるが、島根県、特に浜田では地元を代表する魚として力を入れているためか、こちらに来れば手軽に味わうこともできる。のどぐろ入りの加工品、レトルト食品も手軽な土産物である。

ぶりかまと迷った末に、「どんちっち」の文言にひかれてアジの塩焼きもいただく。まるまる一匹を食べるのも久しぶりのことだ。

今思うと、もっと山陰の地酒を楽しみ、また他のメニューもいろいろつまむところだったのだが、この時は当初の想定よりもあっさりと店を後にしていた。部屋に戻り、結構早く就寝・・・。

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第14回九州西国霊場めぐり~大相撲九州場所千秋楽観戦記・3(そして優勝決定巴戦へ・・)

2022年12月23日 | 九州西国霊場

大相撲九州場所千秋楽は幕内の土俵入りである。この時間になるとさすがに館内も多くの客が訪れ、満員御礼となる。土俵入りはまずは東方から。2敗で単独トップの高安、そして3敗で追う大関貴景勝が最後に土俵に上がる。

続いては西方の土俵入り。先頭は平戸出身の若手・平戸海ということで館内から拍手が起こる。特に、私が座っていた席の右手には応援団らしき方々がいたのでより大きな拍手である。その次は期待の新入幕・熱海富士だがこちらは残念ながら大負けである。

そういえば、他の力士の写真はあるのに、優勝争いしている阿炎の土俵入りは撮っていなかったな・・。今思うと、高安が本割で勝ってすんなりと優勝を決めると踏んでいたのだろう。

本来ならここで横綱土俵入りのはずだが、照ノ富士は休場。この先、照ノ富士の土俵入りをナマで観る機会は訪れるだろうか・・。

場内は中入。正面の実況席には北の富士さん、向正面には舞の海さんの姿が見える。テレビ観戦だと中入の時間は結構あるように感じるのだが、現地だとその時間も館内のざわめきの中であっという間に過ぎるように思う。もう?というタイミングで中入後の取組の拍子木の音が響く。碧山と隠岐の海の一番から始まる。

遠藤の一番には今も永谷園の懸賞がかかる。永谷園は変わらず応援しているということだろうが、このところ、遠藤が大相撲の話題にのぼることもめっきり減ったように思う。

一山本と熊本出身・佐田の海の一番は7勝7敗同士。このところ、千秋楽の取組は14日目の打ち出し後に編成するので、7勝7敗同士の取組も結構多い。それだけガチンコ勝負をお楽しみに・・ということだが、この一番も激しい相撲で、佐田の海の押しに一山本が土俵下まで吹っ飛んだ。物言いがついたが、結果は佐田の海の勝ち。敗れた一山本は頭を打ったようで、最後は車椅子で花道を下がった。大事にならなければいいが・・。

照強と逸ノ城。名古屋場所で優勝した逸ノ城だが、場所中に、部屋のおかみさんに暴力をふるった疑いが報じられている。合わせて親方とも口をきかない、弁護士を通してしか話さない・・というトラブルが報じられていて、そのこともあってか今場所は成績が振るわない。その逸ノ城の対戦相手が、ここまで14戦全敗の照強。時間前の塩撒きは客席を喜ばせたが、相撲は一方的に敗れた。これで15戦全敗。千秋楽まで土俵に上がったのは本人のプライドだろう。その後、照強に関してもいろいろ報道が出ているようだが・・。

幕内前半の取組が終わり、小休止の後に登場したのが平戸海。ここまで10勝していることもあり、千秋楽の対戦は奄美出身の明生。九州勢同士の一番に、私の横の平戸海応援団も盛り上がる。熱戦となったが、最後は実力者の明生が突き出して勝利。それでも健闘に大きな拍手があった。

そして高安が登場。対戦相手は阿炎。高安が勝てばその時点で初優勝が決定する。これまで何度も優勝争いに顔を出しながら、そしてもうすぐ優勝というところで敗れてしまう・・・。兄弟子だった稀勢の里と同様、そのもどかしさも人気の一因である。さすがに今場所はスムーズに優勝を決めるだろうという雰囲気だった。懸賞の垂れ幕が何度も土俵上を回る。

しかしながら、阿炎が思い切りよく出て、そして高安はまたも硬くなって、阿炎がそのまま突き倒す。場内は歓声よりもため息のほうが多かったように思う。敗因はその後いろんな親方が解説していたが、ともかくこれで両力士が3敗で並び、結びの一番で貴景勝が勝てば優勝決定戦は3人の巴戦にもつれることとなった。最後の最後で、全く分からなくなった。

これより三役。東方からは霧馬山、北勝富士、そして貴景勝が土俵に上がる。

そして西方からは豊昇龍、正代、若隆景が登場。横綱不在の中、本来なら貴景勝と正代という大関同士の千秋楽結びの一番となるところ、ご承知のような成績なので・・。初場所は1横綱1大関となることが確定だが、照ノ富士は初場所も休場が濃厚で、千秋楽結びの一番でその横綱大関戦も組めないという事態である。

これより三役、まずは前半優勝争いをリードしていた豊昇龍が霧馬山を破る。終盤崩れたが関脇で11勝ということで、まずは大関昇進に向けての第一歩となった。

続いては正代と北勝富士という負け越し同士の対戦。北勝富士が押し出して正代は6勝9敗。大関陥落に花を添える一番となった(言葉の使い方としては誤っているが、皮肉を込めて)。これで来場所、御嶽海もできなかった関脇での10勝で復帰するとは思えない。

そして結びの一番は貴景勝と若隆景。若貴対決、上杉景勝と小早川隆景の一戦は懸賞の垂れ幕が何度も回る。スポンサーを読み上げるだけでほぼ時間いっぱいである。

勝負は意外にもあっさりと貴景勝がはたき込みで勝ち、これで高安、阿炎とともに3人による優勝決定巴戦となった。こうなると、番付順で貴景勝が優勝という予想も多くなるだろう。で、もし優勝したら来場所は綱取りか・・。

優勝決定戦を前に、まずは聡ノ富士による弓取式。確か今日、11時頃に相撲を取っていたよな。それから6時間以上間が空いて再び土俵に上がっている。職業=弓取式といってもいいくらいのキャリアを持つ。

しばらくの休憩があり、東方から3人の力士が登場。抽選により、まずは高安と阿炎という本割と同じ対戦となった。本割では阿炎が長いリーチを活かした突っ張りで高安を圧倒したが・・。

立ち合い、阿炎が左に動く。変化について行けず高安はバッタリ。そして高安はその場にうずくまったまま動けない。

阿炎も心配そうに見つめる中、呼出に肩をかつがれてようやく起き上がり、土俵下に下りたが心ここにあらずという表情である。立ち合いの当たりどころが悪くて脳震盪を起こしたのではとされている。

続いて、貴景勝が土俵に上がる。阿炎が勝てば優勝、貴景勝が勝てば高安との取組だが、先ほどの状態で高安が土俵に上がれるのか。ここは貴景勝が阿炎に勝ち、そのまま半自動的に優勝となるのだろう。

・・・と思ったが、今度は阿炎が猛烈な突っ張り。そしてそのまま突き出した。先ほどの変化を見た貴景勝が思い切り出られなかったという分析のようだが、いずれも阿炎の作戦勝ち。九州場所は何とも意外な形で、本人も思わなかったであろう形での優勝が決まった。・・・のはいいとして、阿炎の優勝が決まるとともに席を立つ人が結構多かったのが印象的だった。私の席の近くでも、高安の優勝を期待していたのか「つまらん」と半ば腹を立てた様子で席を後にした人もいた。

表彰式、神送りの儀式まで見ようと来たのだから、そのまま席にとどまる。土俵に天皇賜杯、優勝旗が運び込まれ、阿炎が若者頭の花ノ国(藤井寺市出身)とともに入場する。

国家演奏の後、八角理事長から天皇賜杯の授与。伊勢ヶ濱審判部長から優勝旗の授与。そして内閣総理大臣杯(代読は誰だったか)の授与である。

この後はインタビュー。阿炎といえば新型コロナウイルス感染拡大の中、ガイドラインに違反して接待をともなう飲食店に出かけていたとして出場停止の処分を受けていた。一時は引退届を出したものの預かりの扱いとなる中、幕下からここまで戻り、そして初優勝となった。出場停止の時はボロカスに言っていた人たちも、こうなれば手のひら返しである。入院中の錣山親方からのメールによる励ましも美談となる。まあ、これはこれでよかったのでは。

この後もさまざまな表彰が続く。テレビ中継だと北の富士さん、舞の海さんによる今場所の総括で、これまでの取組の映像が流れ、表彰式はその合間に映るくらいだが、土俵上では入れ替わり立ち替わりさまざまな人が上がる。せっかくなので列挙してみると・・・

モンゴル国総理大臣賞、アラブ首長国連邦友好杯、メキシコ合衆国友好盾、日仏友好杯、タイ日友好杯、ハンガリー国友好杯、チェコ国友好杯。NHK金杯、毎日新聞社優勝額、福岡市長賞、福岡県知事賞、大分県椎茸農協賞、宮崎県知事賞、(清酒)大関賞、八女茶振興会賞

友好国の相手の顔ぶれも昔からなのだろうが、ハンガリーやチェコといった、日本にそこまでなじみがあるわけでもない国からの友好杯が毎場所提供されるのはどういう経緯があったのかなと思う。それにしても、副賞の「〇〇1年分」というのは、耳にしても豪快で景気のいい話である。私も何かいいもので「〇〇1年分」というのをもらってみたい。

優勝力士表彰の次は2022年の最多勝力士表彰。今年は若隆景が57勝で受賞。春場所に初優勝したのも大きかったが、今年の6場所すべてで勝ち越した唯一の力士という安定感も見られた。ただ、大関挑戦となるとどうかな・・。

その後は三賞の表彰式。殊勲賞・高安、敢闘賞・阿炎、技能賞・豊昇龍ということで、今場所を沸かせた力士として順当な選出である。それにしても、同点で優勝決定戦に進んだはいいものの、そこで敗れたために何ももらえないというのも気の毒だと思う。さすがに、上に並べた各賞の一つを同点力士に回すわけにもいかず、三賞の一つで我慢するしかないのかな。そうなると、三賞の対象にならない大関が一番割が合わないかな・・。

表彰式が進むにつれて客席がまばらになる中、最後は、出世力士の手打式、神送りの儀式である。出世力士とは、今場所で前相撲に合格し、来場所で初めて番付に名前が載る力士のことである。今場所は8人の出世力士が土俵に上がり、三本締めの手打ちを行う。そして最後は行司を胴上げ。土俵祭でお迎えした神様を送り返すものだ。これをもって、神事の要素もある大相撲のすべての興行が千秋万歳となる。これは本場所に足を運ばなければ観られない行事である。

福岡国際センターを後にする。外はすっかり暗くなっていた。神送りの儀式を見るのは計算していたが、優勝が巴戦になるとは予想外で、思ったより遅く出た形である。新幹線のチケットは・・・まあいいや、後続の自由席に乗れば済むこと。国際センターの前からは博多駅行き、天神駅行きの西鉄バス臨時便乗り場が設けられる。ペイペイドーム福岡での試合後と同じような光景だ。ここまで残っていた人はさすがにそこまで多くなく、次に出る便でそれぞれ捌けそうな人数のようだ。そのまま大博通りを直進し、博多駅に到着・・。

さて今回初めて九州場所に出向いたが、来年の今頃も広島に住んでいるかどうかはさておき、アクセスもいいし、イス席でも結構土俵が近くに感じて、しかも他の場所に比べて割安感があるので、また来てもいいかなと思った。仮に2023年の九州場所を観戦したとして、その時の番付の顔ぶれはガラリと変わっているだろう。せめて、もう1人くらいは新しい大関が誕生しているといいのだが・・・。

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第14回九州西国霊場めぐり~大相撲九州場所千秋楽観戦・2(協会ご挨拶はじめ、千秋楽の光景を・・)

2022年12月22日 | 九州西国霊場

大相撲九州場所千秋楽の観戦記の続き。

十両の土俵入りが終わり、幕下上位5番の取組。こちらも熱の入った取組が続く。

十両の取組。最初に登場するのは新十両の對馬洋である。負け越しが決まっており、幕下への陥落も危ぶまれていたが、この日は幕下の藤青雲との取組。藤青雲は3勝3敗で、勝てば勝ち越し、ひょっとしたら幕下~十両の入れ替え戦になるかと思われたが、ここは對馬洋の勝ち。7勝8敗なら何とか踏みとどまれるかという成績である。

2番後には、3敗で十両優勝争いのトップの欧勝馬と、4敗の大奄美が対戦。ここは大奄美が押し出しで勝ち、4敗で並び優勝決定戦となることが決まった。

さらにこの後に登場する4敗の北青鵬、剣翔、そして天空海も勝てば優勝決定戦に進出である。しかし、この3人が相次いで敗れ、決定戦は欧勝馬と大奄美の2人が本割に続いての取組となった。

その間には、豊山と若手の栃武蔵の一番もあった。寄り切りで栃武蔵が勝ったのだが、驚いたことに場所後、豊山が引退を表明した。怪我の影響で理想とする相撲が取れなくなったためで、九州場所の負け越しが決まった時点で引退を決めていたそうである。時津風部屋の名大関の四股名を受け継ぎ、出世を期待されたが意外にも三役には上がれなかった。年寄株の空き状況のためかはわからないが、協会には残らずトレーナーの道を歩むという。お疲れさまでした。

十両の取組の途中で、初日と千秋楽に行われる協会ご挨拶がある。横綱照ノ富士休場のため、2大関、3関脇、4小結が土俵に上がる。八角理事長の挨拶に特別な文言はなく、淡々としたものだった。まあ、横綱以外の目立った休場はなく、無事に千秋楽を迎えられたことをよしとする。

炎鵬の取組。そしてこれを裁くのは鉄道ファン行司の木村銀治郎。声出し応援可能なら行事に一声かけるところである。取組は、炎鵬が巨漢の千代丸相手に上手く回り込んで送り出し。このところ十両に定着してしまった感はあるが、来場所は十両上位につけて、再入幕への挑戦となる。

十両の取組終了後、各段の優勝決定戦と表彰式が行われる。今場所は三段目と十両が優勝決定戦となった。まずは三段目、東方・日翔志(ひとし)、西方・一翔(かずと)の全勝同士の取組。何だかキラキラネーム同士の一番と思うが、日翔志の四股名は本名の下の名前である「日登志」に、所属する追手風部屋の力士に多い「翔」の文字をあてたもの。大学~実業団から入門した力士である。一方の一翔は本名の下の名前もそのままで、入門3場所目で順調に三段目まで上がった18歳の力士。まだ髷が結えない。この一番は先輩の貫禄か、日翔志の勝ちで三段目優勝。

続いて十両の優勝決定戦。先ほどの本割と同じく、大奄美と欧勝馬の対戦となった。また熱戦となったが、欧勝馬が押し出して十両優勝。元大関・琴欧州の鳴戸部屋から初の関取で、来場所は新入幕をうかがうことができそうだ。

そして各段の表彰式。十両・欧勝馬、幕下・玉正鳳、三段目・日翔志、序二段・朝志雄、序ノ口・尊富士の各力士が賞状と溜会からの表彰を受け取った。

続いて幕内土俵入り。ここまで、千秋楽ならではの行事も見たこともあり、もう一度「中入り」とする・・・。

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第14回九州西国霊場めぐり~大相撲九州場所千秋楽観戦・1(序ノ口から十両土俵入りまで・・)

2022年12月21日 | 九州西国霊場

九州八十八ヶ所百八霊場、九州西国霊場めぐりと組み合わせる形で訪ねた大相撲九州場所観戦。11月27日は千秋楽。福岡での観戦は初めてである。また千秋楽にしたのは、優勝争いがどのような形になろうとも、久しぶりに表彰式、そして最後の「神送りの儀式」まで見てみようと思ったからである。

九州場所が終わって半月以上経過し、冬巡業も終わった後での観戦記は情報としての新鮮味はないが、そこは何かの記録になればと思う。

大相撲本場所の朝は早く、朝8時に開場、8時半頃には序ノ口の取組が始まるのだが、千秋楽となれば幕下以下では7番勝負を取り終えた力士も多く、その分取組も少ない。そのため10時開場、10時25分取組開始である。この朝の2時間の差があったからこそ、小倉をゆっくり出発できたし、博多にて寺参りをすることもできた。

まずはロビーにて番付、そして天皇賜杯、優勝旗など各賞の展示を見る。なお、14日目を終えた時点で幕内の優勝争いは高安が2敗で単独トップ。これを貴景勝と阿炎が3敗で追う展開。そして高安の対戦相手はやはり阿炎となり、高安が勝てはその時点で優勝決定、敗れれば優勝決定戦、さらに貴景勝が勝てば巴戦となる。

さらに、記念撮影用として横綱、大関のパネルが出迎えるが・・・照ノ富士は休場、そして正代は2場所連続負け越しで大関陥落が決まり、そして陥落直後の御嶽海も1場所での復帰はならず・・・でさびしい顔ぶれである。

今回座るのは西のイス席。西からだと、東方から土俵にあがる力士を正面に見ることができる。また福岡国際センターは小ぶりな建物のため、東西のイス席は4列だけである。その4列目に座ったのだが、肉眼だと土俵が遠すぎて見えにくいということはない。イスB席3000円は、大相撲の観戦料金としては見合った価格だと思う。

もっとも、大相撲の東西と、方位としての東西は必ずしも合わないようである。西方の席ということで、福岡国際センターの正面(南向き)から入って左手、西の方角に進むと、そこは東方だった。西方は逆で、東の方角である。席のシートには「西」のシールが貼られていたが、座席につけられたプレートは「東」である。ややこしい。

さて、拍子木が鳴らされ、勝負審判が入場し、序ノ口の取組開始である。東からはまだ髪を伸ばしているところで髷が結えない曽我という力士が登場。今年入門したばかりの16歳とあり、序ノ口でもなかなか勝てないようだ。この日も敗れて1勝6敗である(なお、別に私がこの力士のひいきでも何でもなく、この日最初の取組に出て来たのでプロフィールを見た次第である。頑張れ)。

そうかと思えば、序ノ口にしてはえらい老けた力士も登場する。森麗(もりうらら)。こちらは35歳とある。確か、序ノ口からずっと負け越した記録を持っていて、レビュー以来連敗続きで有名、人気になった競走馬「ハルウララ」にあやかって四股名をつけたのではなかったかな。

序二段の取組となり、結びの一番後の弓取式に登場する聡ノ富士が土俵に上がる。何と、森麗を大きく上回る45歳。しかも番付最高位は幕下の下位とあるが、弓取式の一芸をもって長く相撲界に貢献している力士である。相手をはたき込んで勝利し、夕方の弓取式に備える。

11時を回ると館内の売店、グッズコーナーも開店する。そして福岡国際センターの外にはキッチンカーが並び、ちょっとしたフードコートになっている。フードコートはチケットがない人でも自由に訪れることができ、逆に入場済の人は再入場受付でチケットを提示し、リストバンドをもらう。

ここで早めの昼食として、大相撲名古屋場所公認とあるちゃんこ鍋、そして中津のから揚げ、やはりということで生ビールをつける。天気もいい中、こうした昼食になるとは思わなかった。これはエディオンアリーナ(大阪府立体育会館)の敷地では無理やろうな・・。

館内に戻る。ちょうど月桂冠の300ミリリットル瓶が売店で売られていて、座席にていただく。後、今思い出したのだがそういえば「焼き鳥」はなかったかな・・。国技館名物の焼き鳥、コロナ禍以降東京へ出張する機会もなくなり、帰りの新幹線でつまむ楽しみがなくなったな・・と思い出す。

土俵は序二段から三段目にかけての取組が進む。少しずつ、土俵上の取組の力強さ、激しさも増してくる。

その一方で、競った一番が続き、物言いがついて土俵上での協議も相次ぐ。

さらに熱戦は続く。あくまで個人的な印象なのだが、幕下以下の取組のほうが立ち合いの変化や、安易な引き技、はたき込みなどが少なく、真っ向勝負が多いように思う。これから上位を目指す力士なら、安易に勝ちを拾いに行くのではなく、ともかく正攻法を身につけてほしいというところもあるのだろう。

再びトイレと買い物で席を外す。行列ができているので何かと見ると、「2023年ポスターカレンダー」の無料配布の整理券を配っていた。そのまま進むと売店担当の親方が次々に配っていたところ。ちょうど部屋のカレンダーの入り替えの時季で、こうした大相撲を添えるのも面白いだろう。

ポスターを受け取った後、後方からジャンパーを羽織った髷姿の元力士がやって来るのに気づく。周りに人だかりができているのを見ると、元白鵬の宮城野親方である。コロナ対策もあって「握手はダメ」と小声で言いながら、それでも何となくファンの人たちと触れ合いながら、持ち場である控室に向かう。1人限定で写真撮影にも応じる中、私もちょっと身体を触ったぞ(・・と書くと痴漢みたいだが)。引退してすでに1年以上経つが、やはり人気は健在だ。

取組が進み、十両の土俵入りである。東方の最初は長崎出身の對馬洋で、拍手が起こる。そういえばここまでの幕下以下の取組でも、力士の出身地紹介で九州の県名が読み上げられるとその都度拍手が起こる。福岡でも熊本でも、長崎でも宮崎でも変わらない。ご自身は九州のどこかの県の出身なのだろうが、それ以外の県でもしっかり拍手を送る人も結構多い。この辺りは九州ならではなのかな。

人気の炎鵬や、同じ宮城野部屋で将来が期待される北青鵬に続くのは天空海。前回の九州西国霊場めぐりで宗像の鎮国寺を訪ねた際、「天空海闢(てんくうかいびゃく)」の朱印の文字を「天空海関(あくあぜき)」と見間違えたことがある。千秋楽に勝てば十両優勝の可能性も残していた。

続いて西方の土俵入り。こちらは、元豪栄道の武隈親方と同じ寝屋川出身の豪ノ山が先頭。千代の国、豊山といった幕内経験豊富な力士も登場する。

・・・ここまで書いたところですでにかなり長い記事になった。いったん「中入」とすることに・・・。

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第14回九州西国霊場めぐり~第32番「龍宮寺」(さて、大相撲九州場所千秋楽へ)

2022年12月20日 | 九州西国霊場

11月26日、27日と九州の札所めぐりである。初日の26日は九州八十八ヶ所百八霊場めぐりとして北九州市内の4ヶ所を回り、小倉に宿泊。そして2日目は九州西国霊場めぐりに切り替える。九州西国霊場も残り2ヶ所で、今回はそのうち1ヶ所、第32番の龍宮寺を目指す。1日あれば太宰府まで行き、第33番・観世音寺にお参りして満願とすることもできるのだが、今回は大相撲九州場所の観戦との組み合わせである。最後1ヶ所だけ、楽しみに取っておくことに・・。

小倉駅前の東横インで簡易朝食をとった後、小倉から博多に向かう。新幹線ならあっという間だが、せっかく九州に来たのなら鹿児島線に乗ろう。「九州ネットきっぷ」なら事前予約で特急料金込みで1470円。在来線の通常運賃が1310円だから、160円追加で特急の指定席が利用できる計算だ。

乗車するのは、小倉7時41分発の「きらめき3号」。門司港~博多間の運転で、通勤利用を見込んで設定された列車である。車両は783系の「ハイパーサルーン」車両で、日中は佐世保・ハウステンボス行きの「みどり・ハウステンボス」に使われている。この形式に乗るのもずいぶん久しぶりである。

小倉~博多間は大分からの特急「ソニック」などが走るが、最速だと途中の停車駅が黒崎、折尾のみというのがある。ただ、「きらめき」は途中の通勤客も乗せるため、戸畑、八幡、赤間、東郷、福間にも停車する。日曜日なので通勤客はそれほど多くないが、途中の駅からも結構乗って来た。1両だけ設定の指定席も半分ほどの乗車率で、出張に出るのか、大きなキャリーバッグを手にしたスーツ姿のグループも見られた。

8時46分、博多に到着。まずはコインロッカーに荷物を預ける。

11月末、秋晴れの天候である。まず目指すのは龍宮寺だが、博多駅にほど近いところにある。最寄り駅なら地下鉄で1つ先の祇園だが、そこまでなら歩いても知れている。

そして龍宮寺に向かうべく大博通りを歩くが、地図を見ると龍宮寺の向かいには東長寺がある。九州八十八ヶ所百八霊場の第1番札所として、今年の5月に発心してお参りしたところである。前日、九州八十八ヶ所百八霊場も一区切りしたこともあり、挨拶を兼ねてお参りしよう。

弘法大師が唐から帰国し、最初に開いた密教寺院である。真言密教が東に長く伝わるようにという意味の東長寺、朝から地元の人たち、そして何かのツアーだろうか、本堂と五重塔をバックに記念撮影する団体もいる。まずは本堂にてお勤めとして、その後で福岡大仏も参詣する。1992年に完成した、日本最大の木造坐像の釈迦如来である。先ほどの団体も福岡大仏にお参りに来ており、その大きさに歓声をあげていた。

さて、龍宮寺である。大博通りを挟んで東長寺の真向かいにあるが、規模としては小ぶりである。別に寺の良さは境内の大きさで決まるものではないが、見ようによれば東長寺が流行っている一方、龍宮寺が貧乏な寺・・と思うかもしれない。

「三寶大荒神」の碑がある山門をくぐる。まず目にするのは三宝大荒神堂である。

龍宮寺が開かれた時期は定かではないが、龍宮寺という名前は鎌倉時代につけられたという。博多湾で人魚が捕らえられ、これは国家長久のよい知らせだとして勅使の冷泉中納言が訪れ、寺で人魚を供養した。そのことから寺の名前が「冷泉院龍宮寺」に改められたという。後に、豊臣秀吉が博多の町割りをした頃から「博多七観音」の一つとして信仰を集めたそうだ。

しかし江戸中期の火災で全焼。現在の建物は1984年に再建復興されたものだという。そうした歴史を見ると、別に龍宮寺は貧乏な寺でも何でもなく、博多の歴史を今に受け継ぐスポットであることがわかる。

・・・とはいうものの、境内に入ると墓地の面積が広く、奥に「聖観世音」と額のあるお堂があるとはいえ小ぶりなものである。

実質的な本堂はこちらの建物だろう。朱印はこちらでと案内も出ていたのでインターフォンを鳴らす。

玄関にて朱印を待っていたが、この龍宮寺は浄土宗とある。2024年は法然が浄土宗を開いて850年ということで、これはこれでさまざまな行事があるのだろう。

これで九州西国霊場は残り1ヶ所、王手、リーチがかかったが、満願となるのはもう少し後のことになる(さっさと、札所めぐりの多重債務を少しでも解消すればいいのにと思われるかもしれないが・・)。

大博通りを進む。大相撲九州場所の会場はこの先にある福岡国際センター。大相撲観戦は序ノ口最初の一番からと思っていたが、通常なら8時30分頃開始のところ、千秋楽は10時25分開始とある。朝の開始がゆっくりということで、小倉も比較的ゆっくり出発できたし、先ほど東長寺、龍宮寺にも参詣できた。

歩くうち、前方から寄せ太鼓の音が少しずつ大きく聞こえてきた。そして福岡国際センターに到着。力士、部屋あての幟も並ぶ。大相撲観戦じたいが2021年名古屋場所以来で、九州場所は初めてである。まずは館内に入ろう・・・。

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第5回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~小倉にて1泊

2022年12月19日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは北九州シリーズということで、戸畑で終了。若戸渡船にて戸畑から若松に渡り、かつての石炭積み出し港の賑わいの跡地を見た後で、15時57分発の直方行き「DENCHA」に乗り込む。今は筑豊線の中で「若松線」と呼ばれる区間だが、石炭輸送のために昔から複線化されている。

折尾に到着。ここで鹿児島線に乗り換える。「DENCHA」もパンタグラフを出して、直方までは電化区間の運転となる。

折尾駅はおよそ10年の歳月をかけて行われた駅の高架化が今年完成し、鹿児島線、若松線、福北ゆたか線のホームが改めて一体化して、広大なコンコースで結ばれた。駅舎はかつての面影を残しているようだ。また、駅弁「かしわめし」を販売する東筑軒もコンコースに立ち食いうどんとともに店を構えているが、駅ホームでの立ち売りというのは今でもやっているのだろうか。

そろそろ夕方、小倉に遊びに行こうという客で鹿児島線の列車もそこそこ混雑していた。16時55分、小倉に到着。

この日(11月26日)の宿泊は小倉駅南口近くの東横イン。九州八十八ヶ所百八霊場だけが目的であれば、この時間なら小倉駅前で一献やっても広島に戻るところだが、翌日が大相撲九州場所の観戦ということでの宿泊である。数日前、たまたま空きがあったのを見つけて予約した。東横インはどこまで行っても東横インなので、宿泊として特筆するところはない。

部屋でしばらくゆったりする。テレビではその大相撲中継で、取組の結果、この日勝った高安が2敗の単独トップで、3敗で貴景勝、阿炎という展開となった。このところ、千秋楽の取組は14日目の打ち出し後に決めることもあり、千秋楽の取組はあくまでNHKの「予想」として、高安の対戦相手は琴ノ若、阿炎のいずれかと出たが、優勝争いに絡むのであればおそらく阿炎戦となるだろう。これまで何度も優勝争いに顔を出しながら、ここ一番でことごとく敗れた高安だが、さすがに今回は本割で勝てば優勝だから有利だろう・・・(結果はご承知のとおりだが、この時点では断然高安が有利だった)。

相撲の結果を見届けた後で、駅前に出る。すっかり暗くなって、イルミネーションも映えている。

小倉駅近辺には多くの飲食店があり、大勢の人が行き交っている。

その中で予約していたのが、「笑馬(しょうま)」。名物として「もつ鍋、餃子、馬刺」とある。店の名前だけ見れば、おっさんがカウンターに陣取る大衆酒場なのかなとイメージしていたのだが、訪ねてみるとビルの地下にあり、小ぎれいな店である。先客、後客とも私よりずいぶん年齢層が若い。予約していたのでそのまま入ったのだが、店内では私のほうが浮いていたようである。

カウンター席とともに予約していたのが、店の三大名物であるもつ鍋、餃子、馬刺と前菜がセットになったコース料理。

そこに追加料理として、あん肝、そして鯖のぬか炊きを注文する。ぬか炊きは小倉の郷土料理である。

1人分のセットということで、馬刺、そして餃子はハーフサイズのようだ。ただ、もつ鍋は1人前にしてはボリュームもあった。その頃には店内も満員御礼となった。もつ鍋にはシメの雑炊またはちゃんぽんがついていたが、注文するような雰囲気ではなく、パスして早々に店を後にした。

料理はそれなりに美味かったが、店選びとしては十分満足したかと言われるとどうだったか・・と思いつつしばらく通りにたたずむ。そこで目についたのが「ももたろう」という店。1階が立ち飲み、2階がテーブルという造りで、駅から来た時は満員だったようだがこの時はカウンターにも空きがあった。ちょっと飲むつもりで入ってみる。

そんなに多く飲み食いしたわけではないが、店の雰囲気としてはこちらのほうが私には合っていたように思う。プレーンサワーを中心にいただき、気分もよくなったことである。このところ、安全策をとってか(店を訪ねて「満席です」と全言われる=全人格を否定されるのが嫌なので)夜の店は予約することが多いのだが、予約したから万全というものでもなく、たまたま空いていた店がよかったということもあり、難しいものだ。

東横インに戻り、この後は部屋でゆっくりする。翌27日は小倉から在来線で博多に向かい、大相撲の行われる福岡国際センターに向かう。カテゴリーは九州西国霊場に変更・・・。

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第5回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第18番「徳泉寺」(戸畑から渡船で若松へ)

2022年12月18日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

第17番の阿弥陀院から第18番の徳泉寺に向かうため、戸畑区役所でバスを降りる。道路の向かいに昔ながらの建物がある。戸畑図書館だ。元は戸畑市庁舎として建てられたが、保存を願う地元の人たちの思いから図書館として活用されることになり、内部もリニューアルされたという。

ここから通りを行く。偶然だろうが寺、PL教団、キリスト教の教会が並ぶ。

先ほどから1つ隔てた通りに出る。周りにビルが立ち並ぶ通り沿いに山門がある。乗っている時は気づかなかったが、バスで通った道である。戸畑区役所よりも天神一丁目、天神二丁目バス停のほうが近かった。

徳泉寺が開かれたのは大正時代。佐伯心海が北九州に延命地蔵を本尊とした大光坊を開き、昭和戦前に現在地に移って徳泉寺となった。戸畑のお地蔵さんとして地元の人に親しまれている。九州八十八ヶ所百八霊場であるとともに、九州二十四地蔵尊霊場の札所でもある。

コンパクトな境内には弘法大師像、地蔵菩薩像などさまざま建っている。元からこの広さだったのか、あるいは当初はもう少し広かったが街の開発とともに縮小したか。

こちらの建物は地蔵堂で、九州二十四地蔵尊霊場の本尊はこちらの延命地蔵のようだ。

本堂の扉が開いており、中に入ってのお勤めである。

テーブルに朱印が置かれ、セルフで納経帳に押印する。またお供えのお下がりが置かれていて、ご自由にとある。せっかくなので缶ビールとワンカップを頂戴する。

これで今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの4ヶ所が終了した。思ったよりも順調に来ることができたと思う。なお、次のシリーズは大分県に入り、中津、宇佐地区となる。今のところ、年明けの巡拝を予定している。

このまま宿泊地の小倉に戻るのは早いかなということで、久しぶりに若戸渡船に乗ってみよう。そのまま戸畑駅方面に歩き、線路下をくぐって駅の北側に出る。若戸大橋の姿も少しずつ大きくなる。

若戸大橋は1962年に開通し、当時は「東洋一の吊橋」と呼ばれ。重厚長大産業で発展した北九州の象徴ともいえた。そして今年、国の重要文化財に指定された。重要文化財というと昔の建造物をイメージするが、戦後に建造されたものも指定されるのだなと感心する。

大橋のたもとに渡船乗り場がある。クルマなら橋を渡ればすぐだが、歩行者、自転車は橋を渡ることができない(以前は歩道もあったそうだが)。この渡船は明治時代から運航されており、現在も運賃100円、自転車はプラス50円で利用できる。

若戸渡船、そしてこの先の若松の町並みといえば、今から20年くらい前か、大分麦焼酎「二階堂」のCMロケ地になったのが印象的である。「二階堂」のCMは九州の懐かしい景色が舞台になることが多く(その中で、山口県の本山支線を走っていた旧型国電のバージョンも印象的だった)、旅情をかきたてる。

地元客、観光客数名、そして自転車も2台乗って来て出航。対岸まではわずか3分だが、鉄道やバスとはまた違った非日常感を楽しむ。

若松に到着。こちらに来たら若松駅まで行こう。若松は明治から大正にかけて石炭の積み出しで栄えた港である。その時に築かれた護岸などが土木遺産に認定されている。また、海運会社の建物も残る。

石炭を船に積み込む労働者を「ごんぞう」と呼んでいたが、「ごんぞう」の小屋を復元した建物があり、資料が展示されている。門司港レトロとは一味違うが、往年の佇まいを残す一角である。

筑豊から鉄道で運ばれた石炭の終着駅である若松駅に着く。広い石炭ヤードも現在は住宅地等に開発されているが、広場の一角に蒸気機関車が残されている。もっとも、長年外に置かれているせいか傷みが激しいが・・。

若松~折尾間は非電化の「若松線」だが、最近は「DENCHA」の登場で様相も大きく変わった。これで折尾まで移動することに・・・。

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第5回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第17番「阿弥陀院」(皿倉山、帆柱山を望む)

2022年12月17日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは午後からの後半戦である。小倉から鹿児島線で3駅、戸畑で下車する。戸畑からは第17番・阿弥陀院、第18番・徳泉寺の2ヶ所を回るが、まずは路線バスで南側にある阿弥陀院に行くことにする。

駅のホームから赤い若戸大橋を望むことができる。戸畑駅には以前にも下車したことがあるが、その時は橋の下を通る若戸渡船に乗るのが目的で、駅の南口に出るのは初めてである。ロータリーにはバスが頻繁に出入りする。その中でやたら「製鉄飛幡門」という行き先表示が見えるが、日本製鉄(戸畑地区)へのアクセスとなる系統のようで、通勤需要もありそうだ。

八幡駅行きのバスに乗る。八幡駅行きといっても経由地によっていくつか系統があり、戸畑区役所などがある中心部から天願寺通りを行く。これから阿弥陀院に行くが、交通に関しての案内がない中で地図と西鉄バスの路線図をにらめっこして、美術館口が最寄りのバス停であることがわかった。そして今の時間と合わせて、八幡駅行きに乗った次第である。

途中、鉄道の線路の下をくぐる。こんなところに鉄道があったかなと思って地図を見ると、日本製鉄(戸畑地区)から伸びているようだ。通称「くろがね線」というそうで、日本製鉄の戸畑と八幡の両地区を結ぶ専用線である。開業したのは昭和の初めで、当初は戸畑から八幡に銑鉄を輸送し、八幡から戸畑には鉄の精錬で発生する鉱滓を輸送したという(鉱滓は戸畑にて埋め立ての材料に使われた)。現在は半製品の輸送等に使われているそうだ。

美術館口に到着。ちょうど戸畑区と八幡東区の境目である。美術館とは北九州市立美術館のことである。美術館とは反対方向の坂道を上がり、住宅の間を抜ける。ちょうど高台で、南の方向には山を切り開いた住宅街が続く。その向こうにひと際高く見える山は皿倉山のようだ。北九州市街の夜景スポットということで、今回の北九州シリーズにあたっては八幡、黒崎あたりに泊まってケーブルカーで夜景を見に行こうかとも考えたこともあったが・・。

「別格本山」の文字が見える。九州八十八ヶ所百八霊場の第17番であるとともに、九州三十三観音霊場の第3番とある。この九州三十三観音霊場は、現在私が回っている九州西国霊場とは別のもので、関西にもある「ぼけ封じ観音霊場」の九州版である。

参道で石仏の出迎えを受け、本堂に向かう。こちらには「帆柱新四国霊場」の文字もある。明治時代、帆柱山、皿倉山の麓に広がる現在の八幡東区、八幡西区、戸畑区一帯に設けられた霊場めぐりである。四国八十八ヶ所を巡拝した人たちが、なかなか四国まで行くことができない人のために発起して開いたことだろう。

本堂の扉が開いていたので中に入り、お勤めとする。阿弥陀院は元々京都の醍醐寺の塔頭寺院の一つだったそうで、開かれたのは鎌倉時代とされる。明治の半ばに京都から北九州に移って来た。明治の神仏分離、廃仏毀釈の影響で荒廃していたのを、北九州の篤信家が招聘したとのことである。寺の名前は阿弥陀院だが、本尊は不動明王であるのはこれいかに。そして元々醍醐寺の塔頭ということで「五大力」の文字も見える。

本堂の他には多宝塔、祖師堂がある。さらに進むと「虚子像」がある。歌人の高浜虚子のようだが、過去にこの寺を訪ねたことがあったのかな。一番奥には歓喜天を祀っているらしいお堂もあったが、扉が閉まっていて中の様子はわからなかった。

一通り回り、本堂の中には朱印の印鑑が見当たらなかったので、入口の寺務所かなと思うと、寺の方が玄関の扉を開けて待っていた。先ほど本堂に入ったのがセンサーか防犯カメラかで伝わったのかな。納経帳を預かるといったん奥に入り、「お接待」としてペットボトルのお茶とお菓子を持ってきてくれた。かえって恐縮である。

美術館口のバス停に戻る。北九州市立美術館の展示会の案内もあるが、さほど私の興味を引くものではなかったこともあり、そのまま戸畑駅方面に戻る。

次に向かう第18番・徳泉寺だが、先ほどバスで通った戸畑区役所にほど近いところにある。戸畑駅まで戻らず区役所前のバス停で下車して、この日最後の札所に向かう・・・。

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第5回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第92番「不動院」(門司の名門ゴルフ場と北九州のBRT)

2022年12月16日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、貫山真光寺から第92番・不動院へと移動する。不動院は西鉄バスの門司ゴルフ場前が最寄りで、下曽根駅を挟んで南北に位置しているが、西鉄バスのサイトで検索すると、乗り継ぎは下曽根駅ではなくそこから少し進んだ寺迫口で、かつ40分ほどの待ち時間とある。

寺迫口とはどういうところか、しかもバス待ちの40分は長いなと思っていたが、実際にバスで着いてみると、門司方面への道路と、小倉、苅田港方面の道路が交わる交通量の多いところだった。近くにはコンビニもあれば商業施設の中にGEOがあり、40分くらいの待ち時間なら全く退屈することがなかった。GEOの書籍コーナーで文庫本1冊購入、そして商業施設前のバス停は1つ進んだ寺迫口北。

次に乗るのは恒見営業所行きである。恒見営業所からは門司方面、小倉方面のバスが出ており、そこまで行けば後のコース、時間も見えてくる。真光寺~不動院の順にしたのは恒見営業所の存在もあった。バスは途中の住宅団地を経由しながら進む。

不動院もよりの門司ゴルフ場前に到着。バス停の名前にもあるように、この先にゴルフ場がある。バス停前には不動院の看板もあり、徒歩数分で行けそうだ。このゴルフ場だが、正しくは「門司ゴルフ倶楽部」で、昭和の初期、国際港であった門司港にゴルフ場をということで建設された伝統と格式ある倶楽部だという。そのためか、プレーできるのはメンバーとその紹介者のみとか、ドレスコードに厳しいとか、そちらの部類のゴルフ場である。そうしたゴルフ倶楽部となると、西鉄バスでこの停留所に降り立ち、ゴルフバッグを担いで行こう・・という客はお断りだろう。

ちょうどゴルフ場の敷地が近づいたところで道が分かれ、ちょうど田園風景が広がるところに新しい感じ立派なお堂が見えてきた。

不動院は九州八十八ヶ所百八霊場の第92番であるとともに、九州三十六不動霊場の第33番でもある。かつては国東半島にあった寺で、大正時代に心玉阿闍梨が人々に救いの手をさしのべるためにこの地に移転、再興したという。本堂の前には地蔵菩薩や不動明王などさまざまな像が建つ。

本堂の入口横には「開山大師」として石像が置かれている。心玉阿闍梨その人だろう。刀を手にしているのは、まさか自らを不動明王になぞらえたとか・・?

本堂の扉を開けて中に入る。お堂の中で自由に参拝できるスタイルである。他に人影がないなと見ると、本尊の不動明王像の後ろから寺の方が出てきた。ちょうど本堂の掃除をしているところのようだった。まずはここ本堂でお勤めである。

隣接する阿弥陀堂に続く廊下がある。そちらも自由に参拝ということで行ってみると、こちらの阿弥陀如来像の前の広間には四国八十八ヶ所の本尊の御影絵がずらりと並んでいる。お砂踏みの砂袋があちこち散らばっているのは気になるが、四国八十八ヶ所絡みの法要でも行われていたのかな。それにしても、この空間にいるだけで本四国の御利益もいただけそうに思えた。不動院の熱心さの一端をうかがえたようだ。

さて朱印をということで本堂の中を見渡すが、印鑑が置かれた台や箱が見当たらない。そこで掃除中の寺の方に声をかけると、本堂向かいの寺務所で対応するので一緒に行くとのこと。納経帳に押印していただき、お茶のパックのお接待をいただく。

さてここからどうするか。先ほどの門司ゴルフ場前バス停に戻ってもいいが、そこからどこかに行くにしても、寺迫口に戻るよりは、少し先の恒見営業所を経由したほうが選択肢が増える。その営業所だが、不動院から歩いても15分~20分くらいで着きそうで、このタイミングならバスを待つのと同じ時間で行くことができそうだ。

のんびりした景色の中を早歩きして、恒見営業所に到着。はたして門司行き、小倉行きの便が発着する拠点で、この辺りの交通の要衝のようだ。バスを待つ人の姿もそこそこいる。

さてどの便に乗ろうかと営業所に貼り出されている時刻表を見ると、「BRT」という文字が見える。BRTとは「バス・ラピッド・トランジット」の頭文字から取った言葉で、日本語では「バス高速輸送システム」と訳されている。私がこの言葉を聞いて連想するのが、東日本大震災で大きな被害を受けたJR東日本の気仙沼線、大船渡線で、鉄道での復旧を断念し、路盤跡をバス専用道として整備したものである。現在工事中の日田彦山線の添田~夜明もそうかな。もっとも、BRTの形式はバス専用道に限らず、連接バスや公共車両優先システムなどにより、速達性・定時性の確保や輸送能力の増大が可能となる機能を備えたもの、とされている。

そして今やって来たのは小倉駅方面行きの連接バスである。北九州市内では、小倉~黒崎、小倉~戸畑に続いて小倉~恒見が3路線目で、2021年夏から運行しているという。

11時44分発の小倉駅経由砂津行き。こういう構造の車両なので途中の停留所は限られ、先ほどの門司ゴルブ場前は通過する。郊外から北九州中心部へと車窓が移り変わり、小倉駅まで1時間弱で結ばれる。その時間も、車内でちょっと考えごとをしていたこともあり、あっという間に感じられた。

午前中いっぱいで東側の2ヶ所を回り終え、午後からの先行きも見えてきた。昼食ということで小倉駅ホームのかしわうどんとして(もう少し手の込んだものを食べればいいももだが・・旅をすると昼食が欠食になるパターンが多いので、駅ホームのかしわうどんは貴重な存在)、鹿児島線の列車で移動する。

この先の2ヶ所へは戸畑駅が起点となる・・・。

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