まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14番「三井寺」~西国三十三所めぐり2巡目・21(ここにも大津絵)

2018年02月28日 | 西国三十三所
近畿三十六不動めぐりの円満院を後にして、隣にある三井寺の仁王門の前に立つ。ここからは西国三十三所の札所めぐりに切り替わる。三井寺にはこれまで京阪三井寺駅から琵琶湖疎水沿いに歩いて長等神社から西国札所の観音堂に出たが、北側の仁王門から入るのは初めてである。こちらのほうが正門のように見える。

2巡目ということもあり、気楽な感じで境内を回ることにする。まずは仁王門すぐの釈迦堂に向かう。釈迦如来に手を合わせる。前は気づかなかったが、本尊の右手には歴代天皇の位牌が祀られている。その中に昭和天皇のものもあるのは意外だった。こういうことはもちろん今なら宮内庁の許可がなければできないことだろう。歴史ある三井寺だからできたことだろうか。

本堂に当たる金堂に着く。方丈の造りは堂々としたもので存在感がある。外陣を一回りする中で、正面におわす本尊の弥勒菩薩は秘仏で手を合わせるだけだが、不動明王や阿弥陀如来、毘沙門天など各時代の仏像が金堂の三辺を護るように飾られている。これらをガラス越しではなく間近に見られるとは、特に仏像好きの方には興味深いものだと思う。

続いて、近江八景にも歌われた三井の晩鐘や、阿迦井の井戸、さらには同じ鐘でも弁慶が引き摺ったとされる釣り鐘を見る。この辺りは三井寺の中の観光スポットと言ってもいいだろう。

何だか淡々と歩くような感じで昔ながらのたたずまいや(最近の時代物の映画のロケ地に三井寺のこの場所が選ばれたという看板も見るが、それだけのものが残っている証)、緩やかな坂道をたどる。

そして最後に観音堂に出る。西国三十三所1300年の幟があちこちではためく。仁王門から一通り歩いてようやく着いた感じはあるが、これが本来なのだろう。西国札所「だけ」を目指していれば、長等神社の石段を上り、観音堂にお参りして、朱印をいただいてそれで終わりである。まあ、そういうお参りをする人も結構いると思うが。

観音堂に入る。西国の白衣を着た人もいる。私もここで西国先達の輪袈裟を引っ張り出して首にかけ、お勤めの準備をする。ふと目をやると、そこには大津絵の鬼の念仏の額が掲げられていた。昨日今日掲げたものではなく、私がこれまで意識しなかっただけのことだが、寺のお堂にこの図柄を掲げるのはお参りする人たちへの問いかけなのかなと思われた。鬼が僧侶のふりをして回っているだけなのか、鬼だけど信仰によって喜びや幸せを得られるものか。

その答えがいずれともわからないまま、一通りのお勤めを行い、お堂の中の納経所に向かう。例のごとく巻物の先達納経帳を出して朱印をいただいていると、横の列に並んでいた人は「西国のご詠歌の紙と、びわ湖百八観音のバインダーのやつを・・・」と依頼している。びわ湖百八霊場。琵琶湖を囲むように百八の観音霊場があるそうで、エリアが滋賀県限定とはいえ全部回るのは大変そうだ。百八の中には住職や係の人が常駐していないところも多いため、朱印はあらかじめ書き置きを用意しておき、それをバインダーに綴じるのだそうだ。

観音堂の上の展望台に上がる。少し雲がかかっているが琵琶湖の眺めはよい。滋賀県にもこれからまたいろいろ訪ねることがあるだろう。

このまま石段を下り、長等神社からアーケードの商店街や旧東海道を歩く。大津の宿場町の風情も所々に残っている。

JRの大津駅に到着する。駅のすぐ横にあった平和堂は完全に取り壊されて、高層マンションが建つようだ。また駅も一昨年10月にビエラ大津という商業施設ができている。線路と同じ高さにある簡易宿泊施設や、飲食店も並ぶ。先ほど円満院の開運そばを食べたばかりということもあって食事はしなかったが、新たにできた観光案内所の売店で琵琶湖の幸を土産に買い求める。また時間を合わせて訪ねてみたいものだ。

さて、これから3月、札所めぐりもまたいろいろ動くことになるだろう・・・。
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第25番「円満院」~近畿三十六不動めぐり・12(大津絵と開運そば)

2018年02月27日 | 近畿三十六不動
円満院門跡に向かう。寺の門はよく見られるような仁王門ではなく屋敷の門である。ここは勅使門と呼ばれている。今は開けっぴろげだが、その昔は勅使が来た時しか開けなかったのだという。門跡寺院というのは僧侶がいて修行の場であるというよりは、皇族や摂関家の言わば口減らしというか、天下りのような形で皇子たちが住職を務めたところであるから、そういう造りになったのかなと思う。

ただ現在は駐車場の入口がメインになっているようで、勅使門をくぐった後に駐車場の敷地に出る。右手にコンクリート造りの建物があり、階段を上がるようになっている。この上が不動堂で、近畿三十六不動としてはここにお参りすることになる。階段下に洗心不動明王像があり、まず口と手を清めた後、不動明王にも水をかける。

階段を上がったところに賽銭箱や燭台など一通りのものがそろっている、その先に畳敷きの外陣があり、座布団がずらりと敷かれている。その先の内陣では係の人が掃除機をかけているところ。何だか行事が行われる前の掃除の時間に割り込んだような気がして、お参りするのに気が引ける感じだが、「騒がせてすんませんねえ。どうぞお参りください」と声をかけてくれる。賽銭箱の前に立ってお勤めとする。ここには箱の中に不動明王の勤行次第と般若心経を印刷した紙が置かれていて、手元に経本がなくてもそれを見て一通りできるようになっている。せっかくなので一枚いただく。

円満院は平安中期、村上天皇の皇子である悟円法親王により創建され、長く三井寺の塔頭寺院としての歴史を持つ。元々は平等院という名前だったが、藤原道長・頼通の時代、宇治に別荘が建てられた時にその名前を譲ったとある。その後、明尊大僧正によって円満院という名前がつけられた。現在は独立して単体の寺院として活動している。

朱印は総合受付でとある。それは奥のほうの建物で、そちらに向かう間に屋敷の正面玄関に出る。この建物は宸殿で、江戸時代に禁裏から移されてきたとされ、現在は国の重要文化財である。こちらは有料で見学ができる。

総合受付があるコンクリートの建物の前には「三井の名水」がある。三井寺の名前の由来ともなった湧水がこちらに流れているそうだ。三井寺では水を汲むことはできないが、円満院で無料でいただくことができる。ご自由にとのことで、ペットボトルの飲みかけの水を空けて、その後で名水をいただく。

施設の受付のようなところで納経帳のバインダーを呈示して朱印の旨を告げる。せっかくなので宸殿などの見学も申し出ると「無料です」と言われる。案内には500円とあったがと確認すると、「朱印の方は無料とさせていただいています」とのこと。実質300円で朱印をいただき見学もできるという意外な展開となった。普通なら、拝観料は拝観料、朱印は朱印とはっきり分かれるところだが。ここで番号札を渡され、朱印の紙は帰りにいただく仕組みである。

宸殿に入る。部屋の一つには赤い毛氈が敷かれ、投扇興ができるようになっている。これは扇子を的に投げて、扇子と的の落ち方によって点数を競うお座敷遊びである。これは参詣者が体験することができる。円満院では日本文化の体験プランとして、この投扇興の他に座禅、茶道といったところを予約制で受け付けている。重要文化財で日本文化に触れるというのは外国人にも好評とのことである。

その円満院は玉座があり、ふすまの障壁画も狩野派によるものを復元している。そして庭園はそれよりも古く、室町時代の相阿弥の作によるとされている。まだ冬のことで花が咲いているわけではないが、季節がよければこの庭園も京都の有名どころに負けず劣らずの景色になるのではないかと想像する。

宸殿と庭園の奥に本堂があり、こちらにも戒壇が設けられ、脇には三井寺を創建した智証大師円珍の像もあるが、ここは窓から覗き込むだけである。実質的な本堂は先ほどの不動堂(三心殿)ということなのだろうか。

順路に従って行くと宝物殿があり、その2階が大津絵美術館となっている。先ほど、大津市役所の前で歩道に設けられた大津絵のレリーフを見たが、ここでは作品がいろいろと並べられている。大津絵という言葉を知ったのもつい最近のことで、その歴史や絵に込められたメッセージについては『大津絵 民衆的諷刺の世界』(クリストフ・マルケ著 角川ソフィア文庫)という一冊を帰りに買い求めたのでこれから読むところ。最近改めて見直されている大津の民衆文化なのかなという程度の理解である。

そのさまざまな作品が展示されている。大津絵は描くテーマがある程度決まっているそうだが、その中で多く描かれているのが「鬼の念仏」である。僧衣を着た赤鬼が念仏を唱えながらお布施を乞うて歩く図柄。これは、「僧侶の姿をしていてもその内面は鬼である(要は偽善者)」という諷刺の意味と、「鬼と言えども念仏を唱えれば極楽往生ができる。だから心をこめて念仏を唱えることが大事である」という念仏のご利益の意味という二つがあるそうだ。外見よりも内面、というところか。

宝物殿の1階には円満院に伝わる絵画や彫刻が展示されている。その中で目を引くのは円山応挙の作品。当時の円満院の祐常門主(住職)が応挙を支援したそうで、写実の画風をこの地で確立したとある。応挙といえば幽霊の絵などで知られるが、そこに円満院が関係しているとは知らなかった。

ここまで一通り見た後で、受付に戻り朱印を受け取る。三井寺の陰に隠れた存在のように見えるが、中身はなかなか濃いものだった。

・・・と書く中で、円満院は順風満帆の歴史スポットである印象を受けていたのだが、実は裏の面もいろいろあるようだ。元が門跡寺院であまり財政のやり繰りを考えることがなかったのかもしれないが。別に円満院に悪意があるわけではないので、ネット記事を参考に、事実とされていることに一応触れておく。

戦後、円満院が所有していた文化財をいろいろ手放すことになった。重要文化財クラスのものもあったが、京都国立博物館などに引き取られた。戦後ともなると皇室との関係は完全に切り離され、寺の経営のためには身の周りの物を売らなければならなかったのだろう。その後、水子供養など経営の手を広げる中で多額の債務を抱え、僧侶への賃金未払いとか、元住職が出家詐欺に加担したとかの金銭トラブルも起こったという。あげくの果てには2009年には重要文化財の宸殿と庭が競売にかけられ、甲賀市の宗教法人が落札した。絵画や彫刻ならまだしも、動かせない重要文化財の建物まで手放したとは。ただ、今でもこうしてお参りができるし、不動明王の護摩供えや年中行事は滞りなく行われている。投扇興などの日本文化体験も、今の経営だからできるのかもしれない。先日、四国八十八所めぐりで札所間のトラブルについて触れたのだが、裏の話が表に出るのではなく、お参りする人がとりあえずその場は安心して手を合わせることができるようにしてくれればよいと思う。

・・・と言いつつも気になるのは、中国の記事で「60億円で日本の古刹が手に入るかも?」などということ。中国マネーが日本の土地をいろいろ買っているという話題は耳にしているが、寺に対してそれはあかんやろう。彼らは不動明王などはどうでもよくて、宸殿と庭園を手に入れればそれでいいのだろうが、ならばなおのことよろしくない。噂が本当ならそこは断固阻止しなければ。

さて、一通り回ったところで昼食とする。訪ねたのは「開運そば」。先ほどの勅使門の脇にあり、元々は門番の小屋だったそうだ。円満院といえば寺と言うより開運そばがあるところとして知られているともされているようで、私が行った時も待ち状態で、しばらく外の床几に腰かける。待つうちにも次々に客がやって来る。

順番になって中に入る。店内には全国各地の寺社の絵馬が飾られている。「開運」の名前によく合っている。

注文したのは店の名前である「開運そば」の定食。出汁は三井の名水を使っており、そばの上には湯葉、青唐、しいたけ、さつまいも、海苔が乗る。これにかやくごはんと、野菜の小鉢がついてくる。よく見れば肉や魚を使っていない(そばの出汁には鰹もあるそうだが)精進料理風である。この辺りのそばと言えば比叡山坂本駅近くの鶴喜そばが有名だが、こちらの開運そばもなかなかのものである。ここでも天台宗の山門派・寺門派のライバル関係がある・・・と言えば言い過ぎだが。

これで昼食としたところで、忘れては行けないのが次の札所へのくじ引きとサイコロ。出たのは・・

1.山科(岩屋寺)

2.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)

3.生駒(宝山寺)

4.醍醐(醍醐寺)

5.湖西(葛川明王院)

6.泉佐野(七宝瀧寺)

先ほど触れた門跡寺院もある中で、サイコロが出したのは「6」。これはまたハードなところ・・・「七宝瀧寺」と言われてピンと来ない方もいらっしゃるだろうが、一般的な呼び方で言えば大阪の方なら多くの方が「あそこか」と合点されるスポットである。

この後、隣の三井寺に向かう。こちらは西国1巡目でも来ているので、気楽な感じで回ることに・・・。
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第25番「円満院」~近畿三十六不動めぐり・12(門跡寺院、皇子山)

2018年02月26日 | 近畿三十六不動
先ほどまで書いた四国めぐりの記事の次は、近畿三十六不動めぐりである。こちらは今回12ヶ所目ということで、3分の1に差し掛かったことになる。

今回訪ねるのは円満院。大津の三井寺のすぐ横にある門跡寺院である。門跡寺院とは、一般の僧侶ではなく皇族や摂関家の出身者が住職を務める寺院を指す。本来は、宗派の開祖の正式な後継者「門葉門流」を意味するものだったが、いつしか寺の格を表す言葉となった。宇多天皇が仁和寺に入り御室門跡となったのが始まりで、当初は本当に仏門で修行をしていたそうだが、鎌倉時代になると武士が実権を握るようになり皇族や摂関家が経済的に苦しくなったために、跡取り以外の者を出家させ、寺の住職とさせるようになった。寺の荘園で何とか食べていけるというところだろう。以後、門跡寺院は門跡寺院の中で皇族、摂関家出身で継承されるようになる(今はそうした縛りはないようだが)。

現在は17の寺院が門跡寺院として現存しており、有名なところでは仁和寺、大覚寺、三千院、勧修寺、知恩院などで、京都近辺に固まっているのが特徴である。以前に行った延暦寺の麓、坂本にある滋賀院もその一つである。

・・・と、前置きを書いたのは、近畿三十六不動の中には門跡寺院が5つ含まれているのが特徴である。その初めとして円満院に行くことになった。隣接する三井寺にはこれまでも訪ねているが、円満院は初めてである。

円満院は三井寺に隣接することから最寄り駅は京阪石山坂本線の三井寺、もしくは別所(2018年3月からは大津市役所前に改称)であるが、今回はJR湖西線の大津京駅に降り立つ。大津京駅から歩いてもそれほど長いわけではなく、円満院と、そして西国2巡目としての三井寺に参詣して、JR大津駅をゴールとする。この日はゆっくり自宅を出たので、大津京駅に着いたのは11時前。

大津京駅も高層マンションが並び、最近開発が進んでいるエリアである。そこから歩くことにして、まず寄ったのは皇子山球場。滋賀県で最も立派な建物の球場だが、収容人数が15000人ということでNPBの公式戦は普段行われない。例外だったのが、東日本大震災にともなう計画停電のため、西武が所沢の代替としてここで試合を行ったこと。

一方で、滋賀には昨年、BCリーグの滋賀ユナイテッドBCが誕生。新球団の宿命か、前期は西地区4位、後期は西地区最下位に終わった。ユナイテッド球団ができた時、この皇子山球場がメインスタジアムとなるのかなと思ったが、昨年は湖東、甲賀、守山というところを中心に試合を行っていた。皇子山は施設が立派なだけ使用料が高いのがネックになったようで、開幕戦のみの開催となった。まあ、広く滋賀県全体で活動するのは良いと思うが、アクセスがあまり良くない(滋賀はクルマ社会だから別にそれは関係ない、と言われればそれまでだが)のは観客動員の面ではマイナスだと思う。

昨年10月のドラフトでは高卒1年目の山本捕手がDeNAにドラフト指名されたり、2018年シーズンは元巨人の松本匡史を新監督に迎え、前向きな話題もある。今季もまた観戦に行ければと思うので、目の前での勝ち試合を見せてほしい。

また3月4日は皇子山陸上競技場を舞台にびわ湖マラソンが行われる。東京五輪の代表選考に向けた大会の一つでもあり、滋賀に春を告げる大会でもある。ちょうどこの2月25日は東京マラソンが行われ、設楽選手が日本記録を更新する走りを見せ、代表選考に名乗りを挙げたところだ。びわ湖からもそうした選手が出るか期待したいと思う。

市役所前の歩道を歩く。そこには「大津絵」と呼ばれる絵画がプレートとなって紹介されている。大津絵は江戸時代、東海道を行き交う旅人たちの土産物や護符として売られた民俗絵画である。こういうものがあると私が知ったのは最近のことだが、これから向かう円満院には大津絵美術館というのも併設されているそうだ。

大津京駅から1キロあるかないかのところで円満院の看板が出てきた。例によって前置き記事が長くなったので、お参りについては次の記事にて・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~今治喜助の湯といしづちライナー乗車

2018年02月24日 | 四国八十八ヶ所
伊予小松の札所を2ヶ所回った。香園寺と宝寿寺、すぐ近くにありながら何とも対照的な寺院だったなと思い、列車に揺られて今治駅に戻る。

帰りのバスまでの出発時間に立ち寄ったのは、駅のすぐ西側にある「しまなみ温泉 喜助の湯」である。「喜助の湯」と聞いて何か思い出される方もいるのではないかと思う。JR松山駅前にある温泉施設で、愛媛県内を中心にパチンコやボウリング、カラオケなど、いわゆるアミューズメント産業を展開しているキスケが運営している。松山駅前の喜助の湯は、これまでの四国めぐりで松山に行った都度に入浴していたが、今回行くのはその今治駅前店である。

同じチェーンでもちょっとコンセプトが異なるようで、本州と四国を結ぶしまなみ海道が「サイクリングの聖地」ということに着目して、「国内外から集まるサイクリストのためのトランジットになりたい」という癒し処をテーマとしている。自転車で渡ってきた人に汗を流して、マッサージなどで身体を癒してほしいというところだ。私はサイクリストではないが、今回の四国めぐりの最後に入浴することにする。もっとも、他の利用者の多くは地元の人たちという感じである。

浴室は松山駅前店と比べると小ぢんまりした感じで、メインの浴槽は低温の炭酸泉。もちろん中の撮影はできないので画像はないが、壁には来島海峡大橋を描いた壁画があり、行き交う人がなぜか江戸時代のちょんまげや着物姿で、ただスポーツ自転車に乗ったりスマホをいじったりとう不思議な描かれ方をしている。現代のテクノロジーと江戸時代からの日本の伝統文化の風情を組み合わせたというところ。

入浴を終えて、ここで昼食とする。併設のレストランはステーキ料理がメインの店で、昼の定食の他にせんざんきを注文。湯上りには愛媛の柑橘類を使ったサワーがいい感じで、大人の苦味がする八朔のサワーなぞいただく。休憩スペースでゆったりするうちにバスの出発の時間が近づいてきた。

今治駅前のバス停。そういえば朝方は高速道路の通行止めの情報があったような。朝から天気が良かったのであれから意識することがなかったのだが、今治から出る分が特に運休するということはないようだ。スマホで調べてみると、今治小松道は依然として通行止め、松山道は徳島側ではなく伊予大洲あたりが通行止めになっているという。以前に伊予大洲の町を回った時に「大洲は京都に似た盆地の地形で、冬は雪が降ることもある」と案内されたのを思い出す。まあ、これから乗るバスは新居浜まで国道を走るし、徳島側の通行止めは解除されているようで、運行には支障がなさそうである。

13時発のせとうちバスの神戸・大阪行き「いしづちライナー」は2台運行である。予約していたのは1号車。大阪に着くのは19時ということで6時間の長丁場、座席は4列シート。乗るだけとはいえ結構ハードな移動となるだろう。直前の空席照会では満席という表示だったが、今治駅前から1号車に乗り込んだのは5~6人。この先伊予西条や新居浜、三島川之江インターなどに停車するので、そこからの乗車が多いそうだ。

せとうちバスはインターネット予約に対応していないために乗車券はコンビニで購入したのだが、4列シートということもあって座席の指定もできない。その中で先頭席が割り当てられたのはよかった。

まずは今治桟橋に向かい、産業道路から県道38号線に入る。朝方路線バスで走ったのと同じ道を走るとは、結構無駄なことをしているように思う。このバスにしても途中の壬生川なり伊予西条から乗ればよいものを、全区間乗り通しにこだわったようなところがある(四国めぐりの行き帰りにいろんな交通手段で行ってみよう、ということもある)。

午前中は青空が広がっていたが、県道から国道196号線に入ると雪が舞うようになった。少し時間がずれていたら午前中の札所めぐりは小雪の中だったかもしれない。壬生川駅に到着。ここから数人の乗車があり、私の隣にも男子学生らしいのが座る。列車よりも狭いバスの座席でこの先5時間以上身体が密着した状態というのも結構しんどいものがある。

このまま国道196号線~国道11号線を行くのかと思いきや、東予港に続く県道13号線の産業道路バイパスに入る。こちらのほうが車線も多く、広い。港に近い工場群も見えるし、ロードサイドの大型店も並ぶ。先ほどの今治もそうだったが、鉄道駅の近くよりは、少し離れた主要道路沿いのほうが地元の経済活動の中心になっているところがある。

バイパスから一旦離れて駅前本通りを走り、伊予西条駅に到着。次回の四国めぐりはここを拠点として、石鎚山に関連する札所を回ることになる。伊予西条からも乗車が多く、後ろの2号車も含めて座席の半分ほどが埋まる。この先、雪がちらついたり青空が出たり天候がころころ変わる。

再び産業道路バイパスに戻り、西条済生会病院にも停車して海沿いに新居浜を目指す。瀬戸内でもこの辺りは工場も多く、愛媛県の工業を支えている地域である。その中で住友系の看板が目立つようになると新居浜である。住友別子病院というバス停にも停まる。まさか大阪から高速バスで西条の済生会病院や新居浜の別子病院に通う人がいるわけではなく、ロードサイドということもあり、駅に出るよりここで乗り降りするほうが便利な地元客もいるということだろう。また大型病院というのは地域のバスも通ることも多く、連絡を持たせているのかもしれない。

今治から1時間半を過ぎ、新居浜駅に到着。四国めぐりの札所はないが、産業遺産として別子銅山がある。四国を回る一環としてこちらに立ち寄るかどうするか、現在考え中である。マイントピア別子までなら路線バスがあるが、その奥にある「東洋のマチュピチュ」とも称される東平地区まで足を延ばすならレンタカーが必要かな。

新居浜駅から国道11号線に戻り、新居浜インターから松山自動車道に入る。ここまで来ると再び青空となり、高速道路から燧灘や工業地帯を見下ろす。伊予三島、川之江という現在の四国中央市は製紙業が盛んなところで、高速道路の上からも工場の壁面に書かれた商品名を見ることができる。高速道路を挟んで町とは反対側の山の中に、愛媛県最後の札所である三角寺がある。ここはここで改めて1回分来ることになるだろう。愛媛県の最初が愛南町の観自在寺だったことを思うと、愛媛県は広く、札所の数も多く回りがいがあるのを感じる。

最後の乗車停留所となる三島川之江インターに到着。こちらは大阪~松山のJRバスや高知、徳島行きのバスも停車する。さらに松山から各方面への夜行バスも停まるということで、バス停とのしての位置づけが大きい。ここでも結構な乗車があり、これで1号車、2号車とも満員御礼となった。ただ伊予三島、川之江の中心部から離れたところにあり、その間の移動はどうするのかが気になる。地元の人の利用がほとんどだからクルマでの送迎ということになるのだろうが。

川之江ジャンクション、川之江東ジャンクションを経て徳島道に入る。トンネルを抜けて徳島県に入ると、日陰の斜面にうっすらと雪が残っている。ただ道路は乾いており、気になっていた雪の影響はもうないようだ。ここまで大きな遅れもなく順調に走っているが、もし高速道路が通行止めとなった場合はどのルートを通るのかなと思う。地図上では伊予三島からは国道192号線が県境を越えて吉野川沿いに走るが・・。

吉野川サービスエリアに到着。ここで約15分、初めての休憩となり外に出る。トイレに立ち寄り、売店ものぞいてみる。

ここから先は大阪からの高速バスで何度か通っている区間ということもあり、少しウトウトしながら揺られる。徳島道をいったん藍住で降りて板野から高松道に乗るのもいつも通りで、大鳴門橋から四国を離れる。次の四国めぐりは少し間が空くので名残惜しい。

淡路島の室津パーキングエリアで2回目の休憩。雲が出ていてはっきりとは見えないが夕日が海に沈む頃である。2日間の中でいろいろなものを見たためか、長かったような気がするが、ようやく夜である。

阪神高速が渋滞とのことで、明石海峡大橋を渡った後は7号線~新神戸トンネルを経由して阪神の三宮(そごう前)に到着。ここで半分近くが下車した。定刻の18時15分から数分程度の遅れのようだが、5時間以上走って来たのだから十分である。三宮からはハーバーハイウェイ、湾岸線、淀川左岸線を経由して、大開で下車。終点のハーピス梅田のバスターミナルに着いたのは、定刻の19時ちょうどからおよそ10分遅れ。ともかくお疲れさんでした、という感じである。

さてこれで今治シリーズを終えて、札所も60番台に差し掛かった。八十八所めぐりも3分の2を終えたことになり、ほんの少し終わりが見えてきたようにも思う。次は途中少しハードな区間もあるが、楽しみである・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第62番「宝寿寺」

2018年02月23日 | 四国八十八ヶ所
先の記事でも同じようなタイトルをつけたが、霊場会の62番としての礼拝所の内容になった。個人的には、あの礼拝所は他の寺でも見かける「お砂踏み」の変形したものかなと理解する。また、現在宝寿寺がお参りそのものを拒んでいるとか、寺の工事中で境内に入れないとかの理由で、物理的にお参りが不可能の場合の対応措置ならば話はわかる。

ただ、すぐ近くにあるわけだし、物理的にお参りできないわけではないのだから、やはり62番としては宝寿寺に行くべきだと思う。個人の考えで行かないのはともかく、旅行会社が行かないというのはいかがなものだろうか。

国道11号線で1キロほど行けば宝寿寺だが、遍路道の案内は集落を一本入った道を行く。昔の街道のようだ。

国道を横断し、予讃線の線路際に小ぢんまりした寺がある。ここが宝寿寺である。石柱には「一国一宮別当」とある。当初は伊予の一ノ宮神社がこの地に建てられ、その別当寺ということが起こりである。弘法大師が光明皇后の姿を形にした十一面観音が本尊とされている。後に、大山祇神社の別当寺にもなったが、豊臣秀吉の四国攻めの兵火に遭ったり、明治の廃仏毀釈の煽りも受けた。

おまけに、大正時代には予讃線の開通で線路が境内を走るために本堂その他が西に100メートル移され、さらに国道11号線の開通で境内の一部が切り取られた。で、ここに来て霊場会の内輪もめ・・・。こうして見ると、結構受難続きの寺のように見える。境内も、ここまで回った四国八十八所の札所の中で1、2を争う狭さに思える。八十八所の札所でなければ素通りするか、あるいは存在そのものに気づかないかもしれない。そんな中で、正面奥に見える立派な建物は元々本堂だったが、老朽化のために使われていない。

現在はその前にプレハブ小屋を置いて納経所としており、本堂は正面右手にある元々大師堂の建物に移されている。そして、大師堂はその手前のお堂に移されている。先ほど、香園寺のコンクリートの本堂・大師堂、さらには62番礼拝所を見てきた目には、この先の宝寿寺の存在は大丈夫なのかと思わず心配してしまう。そのうち、隣のお金持ち(香園寺)が吸収合併の話を持ってきたりして。

ここは手順通りにお勤めをして、旧本堂前の納経所に向かう。確かに受付時間8時~17時、昼休憩の貼り紙がある。ただ、ここまで話が広がったのなら、お参りするほうもそのつもりで動くしかないだろう。少なくとも、四国八十八所めぐりをするなら、ましてやガチの歩き遍路なら、そのくらいは事前に情報収集するはずである。

また、これも初めてというのは、本尊の御影が200円と有料であること。霊場会の取り決めでは御影は1枚無料でいただける。これをどう受け止めるかはそれぞれあるだろうが、この時の私は余計なことは言わず、朱印と合わせて500円玉1枚、釣り銭なしで会計する。座っているのが住職のご夫妻かはわからないが、別に何もなく普通の対応だった。

これで62番まで終え、すぐのところにある伊予小松駅に到着する。今回はここをゴール地点として、10分ほど後で来る10時38分発の伊予市行きで今治に戻ることにする。次回は、今回飛ばした60番の横峰寺も含めた伊予西条シリーズで、また伊予小松駅に来ることになる。

駅は無人で、かつての駅務室らしいスペースを今は公文式の教室にしている。駅舎の大胆な活用法である。

列車に乗り、今朝がた通った道路を遠目に走る。この日は今治からバスと列車で循環する形となった。バスの半分の所要時間で、11時06分に今治に着いた。

さて、バスの発車まで2時間弱。昼食なら今治B級グルメの焼豚玉子飯とも思ったが、行こうとした店が休みだった。というわけで昼食は別の形として、今治駅近くに最近できたあるスポットに向かう・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第62番「宝寿寺」と「霊場会62番礼拝所」

2018年02月22日 | 四国八十八ヶ所
61番の香園寺にて朱印をいただいた時、納経所の人から「続けて62番に行かれるなら、駐車場にある礼拝所をおすすめします」と言われた。淡々とした事務口調である。1日に何回、いや何百回と口にしているのだろう。

納経所の中や外にいくつもの貼り紙や看板がある。そこにあるのは、「四国八十八所霊場会に入会していない(62番の)宝寿寺への対応処置として、霊場会62番礼拝所・納経所を香園寺の駐車場に設置した」という断り書きである。これだけ読むと、宝寿寺はもう62番礼所でも何でもない寺であるようにも読め、四国八十八所が四国「八十七所」になってしまったのかと思う人が出るのではないかと思う。何やら不穏なものを感じる。

62番問題、宝寿寺問題とも言われるこの事態、どういうことだろうか。それこそネットで検索すれば山のような量の記事が出てくる。要は10年以上にわたる四国八十八所内での内輪もめなのだが・・・。

四国八十八所の納経所の受付時間は7時~17時として、途中休みなく納経を受け付けている。これは霊場会が統一ルールとしていることなのだが、62番の宝寿寺だけは8時~17時の受付で、このうち12時~13時は昼休憩としている。霊場会としては、それでは巡拝する人たちが混同して不便だとして、霊場会ルールに従うよう求めたが応じない。運悪く朝や昼休憩の時間に訪れた人が納経所が閉まっていて朱印がいただけなかったとの苦情が霊場会に寄せられたとしている。

他にも、「宝寿寺の納経所で暴言を吐かれた」、「本尊の御影をいただけなかった」、「団体の納経を断られた」、挙げ句の果てには「苦情を言ったら胸ぐらをつかまれた」などの苦情が霊場会に寄せられたという。また霊場会自身も「霊場会に納める会費を反故にされた」とある。これらのことから、2015年、霊場会は宝寿寺を相手どり、霊場会規則の順守や会費納入を求める訴訟を起こした。

これに対して宝寿寺は、2008年には霊場会を脱退しているとして全面的に争い、2017年、霊場会の訴えを退ける判決が出た。判決理由としては、「霊場会はあくまで任意団体であり、八十八所の寺院だからといって強制されるものではない。そもそも、霊場会も戦後に何となくできた団体である」、「納経受付時間は霊場会ではなく札所自身が決めること」など。「寺といえども労働基準法順守・・・」は別の話として。

裁判では宝寿寺の反論が認められた形になったが、収まらないのは霊場会。判決後、巡拝者が「宝寿寺ルール」で困るだろうとして、対応措置として駐車場に礼拝所を建てた。その一方で、「62番札所としての宝寿寺は否定しない」としている。だから、先ほどの納経所でも「おすすめします」にとどまっている。むしろこの対応が問題をややこしくしていると思う。62番札所が2ヶ所あるような状況になってしまい、団体ツアーを主催する旅行社の多くは宝寿寺には行かずに礼拝所に行くとする一方、個人で回る人の中にはあくまで62番は宝寿寺であり礼拝所には行かないとする向きも多い。「どっちに行ったらええねん」と迷う人もいる。

過去には、廃仏毀釈や財政難のために、他の寺院が札所を名乗ることもあった。札所は絶対ではないのである。ただ、霊場会に入っていないからと言って、霊場会そのものが任意団体である以上、宝寿寺から62番を剥奪することはできない。

これまで書かれた記事を読むに連れ、宝寿寺も人を置くなど改善できないのかと思うが、全体としては霊場会のほうが大人げない対応なのかなと思う。歩いて巡拝する人がほとんどいない西国三十三所とは単純に比べられないが、西国の場合納経所の時間は寺ごとでばらばらである。8時~17時というのが多かったと思うが、中には青岸渡寺のように朝5時~16時30分というのもあれば、9時からというところもある。それで何か苦情が出たという話は伝わってこない。一方、新西国のある札所で、駅から1時間近く歩いてようやくたどり着いたのに、納経所が留守で後日また出直したということもあった。

宝寿寺が8時~17時で、昼休憩があるということが動かないのであれば、それを事前に広めておけば済むことではないか。また、前後の札所で「宝寿寺には昼休憩がある」と注意を促せば済む話だと思う。裁判をしたり礼拝所を置くというのはちょっと違う方向を向いているのではないかと思う。宝寿寺の納経所での暴言や暴行というのは本当であれば良くないが、こういうのはいくらでも脚色できるし、他の札所でもたまたまそういう扱いを受けたという話はいくらでもあるだろう。

・・・とまあ、長々と書いてきたが、礼拝所そのものはどのようなものか、これはこれで訪ねてみよう。大型バスが何台も余裕で停められる駐車場の一角にプレハブの建物がある。「当礼拝所は、霊場会62番として霊場会が設置した。宝寿寺とは一切関係ない」との看板が立てられている。外には簡易的な燭台などが設けられており、プレハブの中には宝寿寺の本尊である十一面観音と弘法大師像が並ぶ。どこかから持ってきたのか、新たに彫ったものだろうか。

一応ここで般若心経を唱えて、プレハブの扉を開けて納経スペースに向かう。62番のページはあくまで宝寿寺のものだろうと、納経帳の後ろの白紙のページを差し出す。納経所の人は別に何か言うわけではなくさらさらと筆を走らせる。左下には「礼拝所」の文字が入る。まあ、これはこれで一つのお参りの記録である。

本当は次に訪ねた宝寿寺のことまで書こうと思っていたが、長くなったのでここでいったん区切りとする・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第61番「香園寺」

2018年02月21日 | 四国八十八ヶ所
明けて2月12日、テレビの朝のニュース、天気予報では日本列島への寒波の襲来を告げていた。眠たい目で画面の上に表示された字幕を見て「えっ?」と驚く。「徳島道、高知道、松山道、今治小松道 雪のため通行止め」。字幕は一瞬なので見間違いもあったかもしれないが、雪で四国の高速道路にも何らかの影響が出ていることは確かなようだ。川之江ジャンクションから阿波池田、大豊の辺りが雪なのだろう。

この日は、今治駅13時発の大阪梅田行き高速バスで戻る。これらは松山道、徳島道を経由するわけだが、高速道路が通行止めとなるとどういうルートを通るのか、あるいは最悪運休してしまうのか。まあ、昼には回復するだろうし、いざとなれば列車で瀬戸大橋を回れば大丈夫だろう・・(本当は、そうした楽観的すぎる観測はよくないのだが)。

朝食をいただき、身支度をしてもう一度桟橋からの海の景色を見た後で、今治駅に向かう。今治では青空が広がっており、四国でも雪の影響があるとは信じがたい。ただ道端を見ると、雪とも霜とも見える白いものが薄っすらと広がっているのがわかる。

さて、この日の午前中にどこに行くかをまだ決めていなかったが、今朝の天気予報など見るうちに、島へ渡るのは見送ることとして、陸路でつながっている「次の札所」を目指すことにした。八十八所めぐりの延長戦だが、次の伊予西条シリーズの始まりをにらんで、今回のゴール地点をもう少し東に進めておくことにする。大山祇神社は一昨年に広島側から訪ねたこともある。

さて行くとすれば61番の香園寺、62番の宝寿寺で、63番の吉祥寺は少ししんどいかな。ここでお気づきの方がいるかどうか、前日最後に訪ねた国分寺は59番で、札所順で行けば次は60番の横峰寺である。ただこの横峰寺は、伊予の国のラスボスとでもいうような札所で、伊予西条からの登山バス、または麓から2時間の山歩きで行くところ。ここは時間がかかるし、特に厳密に札所順で回っているわけでもないので、ここだけに対して次回の目玉ととして1日を取るつもりである。一方で61~64番は国道11号線沿いの比較的近いところに固まっていて、今回そのうちのいくつかを先に行こうというものである。

今治駅にはまた戻るので大きなバッグはコインロッカーに入れて、金剛杖とリュック、それに白衣を着込んで8時13分発の新居浜駅行きのせとうちバスに乗る。休日ということもあってか乗る人はまばらである。前日通った県道38号線を走る。町並みの向こうに、日本食研のKO宮殿工場の屋根も見える。ここから四国めぐりの東への道が延びることになる。

国道196号線に入ると今治小松自動車道の今治湯ノ浦入口だが、「通行止」の札が出てクローズされている。この辺りに積雪があるわけでなく走れそうなものだが、すぐ接続する松山道の影響を考慮してのものだろうか。

休暇村瀬戸内東予を過ぎると西条市に入る。河原津海岸の砂浜が広がる。

今治駅から40分あまり走り、予讃線の線路下をくぐって国道11号線に入る。すぐに西条市の小松総合支所が見えて、バスはその西側のファミリーマートに入る。ここが小松総合支所のバス停で、ここで下車する。今治駅からの運賃は870円。なお、1キロ弱東には予讃線の伊予小松駅があり、今治からの運賃は450円。バス、列車とも便数は同じようなものだが、運賃の安さと時間の速さではJRに軍配が上がる。乗り鉄の私がそれでもバスにしたのは、小松総合支所のほうが駅より西にあり、これから目指す香園寺に近いのと、次の62番宝寿寺が伊予小松の駅前にあるからである。行きにバスで行って香園寺、宝寿寺の順に東へ進み、伊予小松駅をゴール地点とすることができる。

このファミリーマートは国道沿いのコンビニとしてだけではなく、建物の一部がバスの待合室になっている。新居浜~今治、松山への路線バスの停留所だし、朝の大阪行き、夜の今治行きの高速バスの一部も停まる。香園寺からも近い。

国道11号線を西へ戻る形で数分歩くと、196号線の交差点の角に三嶋神社がある。石段を上がって立ち寄ってみる。ここだけ丘になっているが、昔は古墳だったそうである。神社は奈良時代の初めに、当時「井出郷」と呼ばれていた伊予小松の総鎮守として大山祇大神を勧請したもので、江戸時代には伊予小松藩の藩主だった一柳氏も篤く信仰していた。手水場も何代目かの藩主が奉納したとある。

神社、元古墳のある丘を下るともう香園寺に続く参道である。香園寺の石柱の後ろに何やら新しい看板が顔を覗かせているのはひとまず置いて、先に進む。ここも仁王像の山門がなく、そのまま境内に入る。

すると、目の前には何やら寺らしからぬ四角の建物がそびえる。これが香園寺の本堂である。四国めぐりの書物やネット記事でかねてから噂には聞いていたが、こんな建物だとは。何も知らなければ新興宗教の建物かなと思うところだ。

香園寺を開いたのは聖徳太子とされる。父である用命天皇の病気平癒を願ってのことだという。また弘法大師がこの寺を訪ねた時、門前で身重の女性が苦しんでいた。大師が栴檀の花で香を焚いて加持祈祷をすると女性は元気な男の子を産んだ。その後、栴檀の香を焚いて安産、子育ての祈祷を行うようになり、信仰を集めた。このため、本尊の大日如来と合わせて、子安大師の寺としての歴史を持つ。この本堂は1976年に建てられたコンクリート造りのものである。

こうした建物だからか、ろうそく、線香のお供えは必ず屋外で行うようにとの注意書きがある。また、本堂と大師堂は横手の階段を上がった2階にある。市民会館の入口のようなところで靴を脱いでスリッパに履き替えて中に入る。

そこに現れたのがこの光景。中央に大日如来、右手に弘法大師の像を祀る内陣があるのはわかる。特徴なのは座席で、畳敷きではなくそれこそ市民会館のホールのような座席がずらりと並ぶ。収容人数?は700人ほどである。四国八十八所めぐりのバスツアーの団体でも座りながらにお勤めができる。もっともこの時は、私の他に二人いるだけだった。そのうち一人は錫杖を持っていたから先達のようで、大日如来に近いところで、ホール座席には座らず床の上に正座してのお勤め。やはり椅子があることに違和感があるのかな。もう一人は年配の女性で、こちらはゆったり椅子に腰かけて長く経本を読んでいる。文句からどうやら理趣経のようだ。結構長い経本なので、お年寄りには椅子の席で読むのが楽なのだろう。香園寺の本堂をこのような造りにしようと考えた人は、そこのところを意識して設計したのかなと思う。

本堂の側壁には安産祈願のお礼だろうか、赤ちゃんの写真がずらりと並ぶ。それだけ広く親しまれているのだろう。また、本堂の手前には子安大師の像が立つ大師堂もある。

納経所の建物はプレハブ式で、工事現場の事務所のような造りである。ここで香園寺の朱印をいただいた時、普段なら本尊の御影がセットでついてくる(香園寺の場合は大日如来)のだが、こちらでは子安大師の御影も一緒についてきた。寺としても、本尊大日如来以上に?子安大師を前面に出すところがあるのだろう。

その大日如来と子安大師の御影とともに納経帳を返された時、「続けて62番に行かれるなら、駐車場内の礼拝所をオススメしてます」という一言を添えられる。これもネット記事などで噂には聞いていたことだが、ここでようやくその現場に来たのかと実感する。いや、それを少しでも早く感じたくて、大山祇神社をパスして伊予小松に来たのかもしれない。

特に四国めぐりにそこまで興味のない方にとってはどうでもいい話だが、次の62番の宝寿寺については、「62番問題」とでもいうようないざこざがある。落ち着いて考えれば、昨今のご朱印ブーム、巡拝ブームにも絡むことなのかなと思うのだが、次の記事で書くことにする・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~来島海峡の味覚

2018年02月20日 | 四国八十八ヶ所
今治での宿泊は「ホテル菊水今治」。駅から離れたところで事前に予約したのだが、別に駅前のホテルがどこも満室だったわけではない。また、以前に今治に泊まった時に、名物の焼き鳥を食べられなかったことはあったが、今回はまだ17時頃なら店もそこまで混まなかっただろう。もっとも、焼き鳥が出る大衆酒場として紹介されるところは日曜祝日が定休日だったりするのだが・・。

このホテルを選んだのは、夜の会席料理に引かれてのことである。その中で「来島サザエ懐石」というのが良さそうに見えて、それを事前に予約した。まあ、焼き鳥よりもサザエを選んだわけである。合わせて、客室は洋室とそれほど変わらない料金で8畳の和室を選択した。部屋に入るともう布団が一組敷かれていた。ホテル自体の建物は古いが、順次外壁、内装のリニューアル工事を進めている。フロントや、隣接するレストランもデザインルームのような感じで、洋室のあるフロアも新しいものに見える。その一方で和室の内装はこれからなのかなというところだが、たまにはこうした部屋でくつろぐのもいいだろう。

18時から夕食とする。事前に席が割り当てられている。この後でメイン料理が運ばれてくることになる。まずは小鉢の和え物やフグ皮などをやった後で、造りである。来島サザエと来島鯛の競演が始まる。鯛については瀬戸内の名物ということでわかるが、サザエが来島海峡の名産とは初めて知った。来島海峡の激流でもまれて育ったのが特徴で、身が大きいだけでなく、殻には通常見るサザエのようなゴツゴツ感がほとんどない。急流にもまれて角が取れた感じである。また、居酒屋のサザエの壺焼きなどは爪楊枝で中を突いて身をほじくり出して食べるが、来島サザエは2本に箸が穴の中に入る大きさだ。もちろん、身も締まっている。

またこのサザエがもう1個、壺焼きで出てきた。こちらも造り同様大ぶりに味わい、最後の出汁もいただく。

鯛のほうももう一品、かぶと煮が出てきた。鯛のあら煮、かぶと煮でよく見るのが醤油ベースで甘辛く炊いたものだが、こちらで出たのは鯛自身が前面に出る「うしお汁」である。漁師風の作り方ということで、さっぱりした中に鯛の味がよく効いている。

鶏の唐揚げも出る。唐揚げのことを今治では「せんざんき」と呼ぶそうで、何か味付けが特別なのかと食べてみるが、ベースは唐揚げである。店ごとの個性はあるのだろうが、今治では他の一般的な唐揚げと作り方が違うとか、何か特別な調味料を使う・・ということもなさそうだ。

なぜ「せんざんき」なのか。江戸時代に、今治の近見山でキジを捕まえて揚げ物にしたのが唐揚げの元祖だそうだが、その調理法は中国から伝わったものだと言われている。肉を細かく切るから「千斬切(ぜんざんきる)」という名前になったという説もあれば、中国語で骨付き鶏の唐揚げを意味する「軟炸鶏(エンザージー)」から来たという説もある。「餃子の王将」で鶏の唐揚げを注文すると店員さんが厨房に「エンザーキー」と通している、アレである。

話は変わるが、北海道で唐揚げのことを「ザンギ」と呼ぶのをご存知の方も多いと思う。これも同じようなルーツなのだろう。北海道には中国からの引揚者が多いからこの呼び方になったという説があるが、他には「北前船と同じく、今治の『せんざんき』が海路を伝って北海道に広まったのではないか」という説もある。ザンギ発祥は北海道でも釧路のほうらしいので「北前船」説は弱いように思うが、私としては、文化の広がり方という点では後者の説のほうが面白いと思う。

サザエ、鯛、せんざんきと来て、最後は鯛めしである。席で固形燃料でしばらく温めていたのが食べごろとなった。ホテルのパンフレットによれば、サザエつきのコースは2日前までに予約し、3500円とある。今回は2食つきの和室で9000円ちょっと(飲み物は別)だったから、結構お値打ちなプランだと思う。

来る前は、もしホテルの料理で満足できなかったら焼き鳥を求めて外に出ようかとも思っていたが、これらの料理で追加のビールを飲むと十分満足した。朝から歩いたし、もう後は部屋でのんびりすることにする。テレビはBSがなく地上波しか映らないが、チャンネルをいじる中で、岡山と香川のテレビ局であるテレビせとうち(テレビ東京系列)が受信できたのは意外だった。今治って、愛媛県でもやや真ん中よりだが、ここまでカバーしているのか。

和室の布団に寝転がりながら、翌12日のコースをどう取るか考える。大阪への帰路は13時に今治駅を出発する高速バスのチケットを持っている。それまでの時間だが、先ほど桟橋から見たしまなみ海道にも引かれる。もっとも、福山まで行ってしまったのではバスのチケットが無駄になるので、大山祇神社あたりはどうかと考える。55番の南光坊は、大三島まで行くのが遠いから別当寺としてお参りしたという由緒があり、その本家本元に行くのも悪くない。大山祇神社まではバスで1時間、行ってお参りして戻るくらいの時間は取れる。今治シリーズの後で、愛媛県のこうした土地にも足を伸ばすのもいいだろう。

また一方では、四国めぐりで今治の次となる「伊予西条シリーズ」の一部を前倒しで行おうという考えもある。予讃線の駅、バス停から近いところに並ぶ札所がある。いずれもこの次の四国行きで巡る予定にしているのだが、ネックとなるのが「札所間のつなぎ」である。次の札所めぐりのベースは伊予西条に連泊する予定なのだが、次回、大阪から伊予西条へ入った時に、今治から伊予西条の間が一本で「つながらなく」なってしまう。これまで予讃線で伊予西条と今治の間は特急で走っているし、12日に今治から乗るバスも伊予西条駅を経由するので、行き帰りの道中では同区間をカバーしているが、いずれもそこで下車していない。私が考えるのは「今回はここでゴール、次回はまたここから再開」というもので(徳島あたりは果たしてそこまで厳密にやっていたかは別として)、このままだと次回はもう一度今治まで来て、そこから東への道を行くことになる。それはちょっとどうかなと思う。

いずれもプランとしてはありかなということで、翌朝もう少し時間があるので今夜のところは保留とする・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~今治の「色」

2018年02月19日 | 四国八十八ヶ所
今治駅に戻ったのが15時前、少し早いがホテルにチェックインすることにする。私の普通のパターンであれば駅前のビジネスホテルに泊まるところである。翌日は今治駅から午後に大阪に向けて移動するということもある。ただこの日は、駅から20分ほど歩いた今治桟橋の近くにある「ホテル菊水今治」に泊まる。桟橋へは路線バスに乗れば5分で着くところだが、せっかくなので歩いていく。

今治には以前に四国アイランドリーグ観戦の後で宿泊したことがある。ただ、当時のブログの記事を見ると、野球観戦の記事は細かく書いているし、前後の移動についても綴っているのだが、なぜか今治での夜の記事がない。かすかに覚えているのは、名物の焼き鳥を食べに行こうとある店に行ったが、店の前が行列しているのを見てあっさりと退散し、ホテルでコンビニ食か何かだったのではないかということだ。そして、その時はクルマで来ていたこともあり、桟橋に近いところに泊まったのではないかと思う。その時もホテル菊水だったかもしれない。

駅からまっすぐ歩くと国道に面して今治市公会堂がある。グレーがかった、無機質というか機能的な外観。今治出身の有名な建築家であった丹下健三の設計だという。なお今治には「丹下作品」とでもいうべき建造物が点在しており、それらを回るのも今治観光のコースの一つになっているという。また公会堂の前には巨大な船のプロペラが設置されている。2013年に今治造船が寄贈したもので、造船の町としてのシンボルとも言える。

今治銀座というアーケード街に入る。日曜日だからかシャッターを下ろす店も目立つ、地方駅前の商店街という感じである。やはり、地元や近郊の人は先ほど見たような郊外のロードサイドの大型店に行ってしまうのだろうか。その商店街も飲食店よりは衣類の店が多いように見える。タオルを中心とした繊維産業がさかんな町ということもあるのだろう。

アーケード内には「今治名物えびすぎれ」という幟が目立つ。えびすと聞いて連想するのは大阪の今宮戎神社のえべっさんであるが、明治の初めにこの十日えびすにあやかって呉服の端切れを安く売ったのが「えびすぎれ」の起こりだという。毎年、2月のこの時期に「えびす市」というイベントが行われているとあり、この日も一角では路上ライブやら衣類、日用品の安売りなどが行われていた。

商店街を抜けたところがホテル菊水。先にチェックインを済ませて荷物を置き、まだ外は明るいのでもう少し回ることにする。

ホテルのすぐ近くにあるのが、今治市みなと交流センターの「はーばりー」。かつての桟橋のビルを船の形に昨年新たに建て替えたもので、中にはフェリーのきっぷ売り場やカフェ、展示ルーム、展望フロアがある。まずは桟橋まで行き、次に展望フロアに上がる。午前中に作礼山から今治の市街、そして来島海峡大橋を見たが、もちろん海の景色はこちらから間近に見られる。島の姿も思ったより大きく、離島という感じがしない。なかなかのものである。島へのフェリーやバスの時刻表を見ると、ふと翌日は島へ渡ってみようかなとも考える。翌日の午前中をどう過ごすかはまだ決めていない。

展示ルームに向かうと何やら展示会をやっているようだ。入場無料で、係の人が「よろしければ」とパンフレットを渡してくれたので入ってみる。結構多くの人がカメラやスマホを手にしている。

フロア一面には数字やらアルファベットの形に切り取られた紙がカーテン状にぶら下がっている。よく見ると1枚1枚が少しずつ色合いが異なっている。ある方向では青がベース、またある方向では赤や緑がベースになるが、よく見るとだんだんと色合いが濃くなったり薄くなったりする。パソコンのWordやExcelなどで、文字や塗りつぶしの色を設定する時に表示されるサンプルを見ているようだ。また、中央部の床にはクッションがあり、寝転がってそれらのカラーを見上げることもできる。

これは、「IMABARI Color Show」というアート展示で、「1000色(染色)が織りなす技術を体感」とある。先ほど紙に見えたのは帆布で、今治の染色工業組合の職人たちが帆布の生地に1000の色を染め、それをアルファベットや数字、記号に切り取ったものだ。作品を手掛けたのは、「色切/shikiri」というコンセプトで、色と空間を組み合わせた建築やデザインアートをプロデュースしているフランス人のエマニュエル・ムホー氏である。この作品は、昨年12月に東京・青山で展示を行った後、2月2日~12日までの期間での今治展となった。ちょうど訪ねたのがその期間中ということで、運よく作品を見ることができたわけだ。

ムホー氏はこれまで「100 colors 」というシリーズで、100の色を散りばめた作品をいくつも手掛けているが、「1000色」というのは初めてだそうである。この微妙な色使いを1000通り表現できたのは、今治の染色職人たちの技術である。「染色は生き物」という言葉があるそうで、同じ水や材料を使い、同じ手順で染めたとしても、全く同じ色になるとは限らないそうだ。気温や天候によって微妙な調整が必要で、それができるのは長年受け継がれてきた職人の技なのだという。今治のタオルが支持されるのは、もちろん糸の質や織物の技術によるところも大きいのだが、微妙な色の使い分けによるところも結構大きい。

また、展示ルームには「今治の色」として、今治の風景やイメージを色で表現してみたら・・・というパネルもある。「青い急流」(しまなみ海道)、「海からの贈り物」(桜鯛)、「菊間グレー」(菊間瓦)、「丹下グレーと劇場レッド」(今治市公会堂の外と中)、「夜のお話」(瀬戸内に夕日が沈む瞬間)、「はれの門出」(新造船の進水式)の6つ。これはなかなか面白いし、わかりやすい切り口だと思う。

今治の新しい魅力発信の一端を見ることができた気持ちで、続いては歴史をさかのぼって今治城に向かう。1604年、藤堂高虎の設計によって完成した城で、堀に海水を引き入れる特殊な造りである。少し前だったか、堀にエイが現れたというのをニュースでやっていたっけ。

天守閣の前にも藤堂高虎が馬に乗って城造りの陣頭指揮をしている像が見られる。

先ほどアート展示を見たために開門時間が残り少しだったため、大急ぎで天守閣の中を見る。そして最上階へ。こちらからも今治の市街を見渡すことができる。この日八十八所めぐりで歩いたコースもだいたいあの辺りかなと視線でたどってみる。

なお、今の天守閣が模擬天守として建造されたのが1980年である。まあ、天守閣が昭和や平成に再建されることは別に珍しくないことだが、そもそも今治城に天守閣があったのか?ということが取り上げられている。藤堂高虎が今治城を建ててわずか数年で伊勢の津に国替えとなり、天守閣は丹波の亀山に移築されたという説が有力視されているが、そもそも天守閣自体が建てられたのか?とする説もあるという。なお、丹波の亀山城は明治に取り壊される前の写真が残っており(この亀山城といえば、現在大本教の道場の一つになっている)、今治城の模擬天守を建造するに当たっては亀山城の外観を参考にしたという。

藤堂家の後は徳川家の親戚である久松松平家が入り、泰平の世になったことから天守閣は造らず、そのまま今治藩を治めた。明治以後は廃城となり、公園として開放される一方で、本丸跡には神明宮、八幡宮、厳島神社、戎神社を合わせた吹揚神社が設けられ、そこに藤堂高虎と久松のお殿様も合わせて祀ることになった。今治城内、今治の中心部の神社ということで、訪れた2月11日は午前中に建国記念の祭礼が行われたそうである。

そろそろ日が傾いてきたところで市内散歩を終え、ホテルに戻ることにする。まあ、今治桟橋や今治城を見物するには、駅よりも近くてよかったわけで・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~日本食研KO宮殿工場

2018年02月18日 | 四国八十八ヶ所
11日、泰山寺~国分寺を回ったところで当初訪ねる予定にしていた札所は終了。ただ時刻は12時半を回ったところで、午後をどう過ごすかというところである。鉄道なら最寄駅は先ほど近くを通った伊予富田か、この先もう2キロほど進んだ伊予桜井。

一方、国分寺は寺のすぐ近くにバス停がある。せとうちバスの路線で、今治駅との桜井団地循環線である。1日6往復しかないのだが、この後12時45分発の便がある。あらかじめこの便を当てにしていたわけではなかったのだが、いいタイミングである。この便は今治駅方面に向かうのでそのまま乗ることにする。先ほど一瞬、次のシリーズでと考えていたさらに東の伊予西条の手前を目指そうとも考えていたのだが、今日のところはいいかなと思う。

バスは国分寺の北の高台にある唐子台の住宅団地を回り、県道38号線に出る。朝方、東予港から今治駅へのフェリー連絡バスで通った道である。先ほどは夜明け前で周りの様子はよくわからなかったが、昼間ともなるとロードサイドの大型店もいろいろ並び、クルマの交通量も多いところである。

このままバスに乗れば今治駅に戻れるのだが、途中の喜田村というバス停で下車。県道沿いの今治ワールドプラザの横の道を数分歩く。なおこの喜田村は、県道38号線と、今治桟橋方面に向かう産業道路が合流するところで、ここからだとバスの本数も少し増える。

突き当りには瀬戸内なのに椰子の木が植えられ、それを抜けると海岸に出る。燧灘に面した東村海岸公園である。四国めぐりも燧灘までやって来たかという実感がする。これは自然の砂浜なのか、東の方向に長い海岸線が伸びる。はるか向こうに煙突やドックが見えるのは東予港、伊予西条の辺りだろうか。こういう海岸が整備されているとは知らなかったが、夏場などは地元の人たちが海水浴でも楽しむのだろう。

前にも黒潮に面した土佐入野でもやったが、砂浜に金剛杖を立ててみる。瀬戸内海に来たのだなと改めて実感する。

さて、公園の西側に松林があり、その向こうに緑色の屋根を構える一風変わった建物がある。砂浜を伝ってそちらの方に向かう。この建物が、今回の札所めぐりの中で時間があれば行ってみることを勧められた建物である。当初は時間も読めなかったのと、アクセスが悪そうなのでどうかなと思ったのだが、時間もできたし、喜田村のバス停から少し歩けば着く距離だったので来てみることにした。

それは日本食研の本社である。「焼肉焼いても家焼くな~」のCMで知られる焼肉のたれをはじめとした調味料のあのメーカーである。今治が本社ということだが、その工場がヨーロッパの宮殿を模した外観というのが、これも珍スポットとして知られている。工場には世界食文化博物館というのも併設しており、工場と合わせて個人、団体での見学を受け付けている。

ただ、こうした施設というのは工場が稼働している平日のみ公開というところが多い。日本食研のホームページによれば、やはり土日祝日は工場見学は休みとある。それでは行っても仕方ないかなと思っていたが、ネットで検索すると、ある人の旅行記で土日祝日でも「KO宮殿工場」の外観は見ることができるとある。工場の中は仕方ないとして、もし見られるものなら見ようということで、金剛杖を突いてやって来た。

正門の守衛所で訊ねると、もちろん宮殿工場は休みなので中は見られないが、中庭だけなら15分限定で無料で入ることができるという。ただし安全管理のためということで免許証などの身分証明書の提示を求められ、申込書に住所氏名電話番号と、今治に来た目的を記載する。白衣に金剛杖とは、見る人が見れば四国巡拝の者とわかるだろうが、企業の敷地に入るとはかえって怪しいかなと思いつつ記載する。別に金剛杖を取り上げられることもなく、庭園見学のストラップを渡されて「どうぞ」となる。この時の見学者は私だけだった。

そして現れたのがこの建物。話には聞いていたが「ここまでやるか」という造りである。モデルとなったのはウィーンのベルヴェデーレ宮殿(現在はオーストリア絵画館となっている)。日本食研の主力の焼肉のタレが「晩餐館」というブランドで、そうなるとヨーロッパ宮殿の晩餐会のイメージということだ。それならまだしも、工場を宮殿風に造ってしまうところが、シャレが効きすぎている。

建物の近くまで行って改めて見ると、壁にもさまざまな彫刻が施されている。単に外観をそれっぽく造るのではなく、細部までのこだわりというのを感じる。中庭全体を撮ると日本食研のキャラクター「バンコちゃん」も写真に収まるが、建物の一部だけを切り取って撮ると、本当にウィーンに行ったかのような気持ちになる(これまでウィーンどころか、ヨーロッパにすら行ったことがないので余計に)。つい先ほどまで、昔ながらの四国札所でローソクや線香をあげて般若心経を唱えていたのが、気が付けばウィーンにいるとは妙なものだ。

内装にもさまざまなこだわりがあるそうである。また、世界食文化博物館という名のとおり世界各国の調理道具や食器なども多数展示されているとのこと。今回は残念ながらそれらを見ることはできなかったが、ともかく珍しいものを見せていただいた。

本社ビルの前には、日本食研の創業者で現会長の大沢一彦氏とバンコちゃんの像が立つ。一代で会社をここまでにするには相当なご苦労やいろんなことがあったかとは思うが、像の横に書かれた略歴を見ると、なぜかゴルフのハンデがシングルになったことなども触れられている。やっぱり、シャレの強い方なのかと勝手に想像する。

そろそろ15分の時間となり、守衛所に戻る。「記念にどうぞ」と差し出されたのが焼肉のたれ「宮殿」の試供品。思わぬ土産も手に入って工場を後にする。海岸公園にてようやく白衣を脱ぐ。この宮殿工場はいわゆる遍路道からは外れており、クルマならともかく歩きや公共交通機関ならなかなか訪ねることもないと思うが、これも今治の町の顔の一つということで寄り道するのも面白いと思った。今治に行くのなら・・と宮殿工場を勧めていただいた方に感謝する。

再び喜田村に戻り、今治駅方面へのバスまで時間があるので讃岐うどんで遅めの昼食とする。その後は隣接する明屋(はるや)書店をのぞく。愛媛を中心に店舗を展開するこの大型書店は、57番栄福寺の白川密成師も僧侶になる前に店員として勤めていた。中は四国らしく遍路本のコーナーもあり、遍路ガイドや写経用紙に混じって、『ボクは坊さん。』の単行本も「今治にある第57番栄福寺の住職さんの本です」のキャッチコピーとともに置かれている。

バスの時間となり、今治駅まで移動する。時刻は15時近くで、これで朝から一巡と言うことになった。コインロッカーに預けていたバッグを取り出し、市の中心部に向けて歩き出す・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第59番「国分寺」

2018年02月17日 | 四国八十八ヶ所
11時、仙遊寺を後にして国分寺に向かう。再び石段を下り、山門を出て山下りの遍路道に入る。国分寺までは6.6キロの道のりである。この作礼山はトレッキングコースにもなっている。

「五郎兵衛坂」という下り坂に差し掛かる。ここにも昔話があるようだ。その昔、仙遊寺には伊予守から奉納された太鼓があったが、この太鼓は海岸にまで聞こえるほど音が大きかった。太鼓の大きな音で魚が逃げて漁ができないと怒った五郎兵衛という漁師が、仙遊寺に上って太鼓を破り、仏に悪口造音を与えた。しかしその帰り道にこの坂で転び、その時の怪我が元で亡くなった。それ以来この坂を「五郎兵衛坂」と呼ぶようになり、歩く時にはゆっくりと下るようになった・・・というもの。

要は罰当たりなことをしてはいけないということか。それはともかくとして、下り坂の場合膝に来ることがあるので、杖を使いながら慎重に下りて行く。

坂を下りる途中、木の枝を払って展望が利くところに出る。ここでも来島海峡大橋から今治市街、そして東の方向も見ることができる。心が和む。

分岐点に出る。遍路道は左を指す。一方で右には「日本三霊場 智慧文殊道」という道標がある。右に行くとその名も竹林寺という寺を通るそうで、国分寺へはこちらからでも行けるようだが、案内板には「竹林寺への遍路道は廃止されています」とある。見た感じ荒れているようにも見えるし、ここは素直に遍路道の道標に従って左手を取る。

しばらく下ると人家が現れ、道も舗装になった。山を下りきったようで、後は国分寺に向けて歩くばかりである。吉祥寺という寺の横を過ぎ、途中で道路の建設現場も抜ける。朝からちょこちょこ目にする昔ながらの道標がこの辺りにも残されている。

昔ながらの屋敷も残る。こういう家の瓦はやはり地元の菊間瓦が用いられているのだろう。「三」と書かれた紋は大山祇神社のものか。

途中で後ろを振り返る。写真ではわかりにくいが、山の中腹に白く見える建物が仙遊寺の宿坊である。寺の途中から町並みへの眺めが良かったが、麓からでもよく見える位置にあることがわかる。先に「仙遊寺の太鼓の音が海岸にまで聞こえた」と書いたが、作礼山とその麓が開けた地形なので、それもあり得たことかなと思う。

国道196号線のバイパスを横断し、突き当たりには線路が見える。予讃線の伊予富田駅近くで、ここを右折して県道を線路沿いを歩く。踏切を渡るが、線路を跨ぐ高架橋の建設や道路の拡張工事が行われている。

12時を過ぎたところで国分寺の表示が出て、無事に到着。「聖武天皇勅願 准別格本山」の石柱があり、石灯籠が出迎える。

石段を上がったところに掲示版があり、間もなく公開の映画『空海 KU-KAI』のポスターがある。四国八十八所めぐりといえば空海だが、その昔、北大路欣也さんが演じた映画作品は空海の伝記を「史実」に基づいてたどったのに対して、このたび公開の『空海』は唐の国を舞台にしたファンタジー小説というか、エンターテイメント作品だという。ネットで予告編の動画を見たのだが、「お大師さん」ではなく全く別の人物、キャラクターとして見るくらいなのかなと思う。・・・まあ、たぶん見ないと思うが。

さて、国分寺である。奈良時代に聖武天皇の勅願で各国に国分寺・国分尼寺が建てられたが、四国については各国の国分寺が八十八所の札所になっている。これまで阿波、土佐と来て伊予は3つ目である。讃岐についてはまだまだ先のことになりそうだが、多くの国で国分寺が跡形もなくなっているのに対して、四国では塔頭寺院が曲がりなりにも国分寺の名前を受け継いで現在に至っている。現在の愛媛県の県庁は松山で、これは中世の河野氏からの流れであるが、古代ではこちらが国府だったそうだ。現在国分寺が建つ地はかつての国府の跡だったという。

国分寺の本尊は薬師如来で、境内には「薬師のつぼ」が置かれている。手水場も「薬師のつぼ」である。

さらに、「握手修行大師」が参詣者を出迎える。各札所の境内には弘法大師像が立っていて、多くは大師自身が傘をかぶって錫杖を手に修行している像なのだが、ここではにこやかな表情の大師が左手に薬壷を持ち、右手を差し出している。こういう姿に出会うのは初めてだ。握手すると願いが叶うということで、私も早速右手を差し出す。ただし「願い事は一つにしてください。あれもこれもはいけません。お大師様も忙しいですから」という但し書きがある。確かに、次から次へと握手を求められてお願いごとをされたら「はいはい、わかりました。次どうぞ」と右から左に流さなければならないこともあるだろう。・・ただ、そんなうがった見方をしてしまうと、この大師像もどこぞの政治家が選挙の時に有権者に握手を求める姿に見えてしまう。そんなことを言ったらシバかれるだろうが・・・。

足りない分は本堂でということにして、この日4度目の本堂~大師堂のお勤めとする。これでこの日目標とした4ヶ所を歩き通したことになる。やれやれ。朱印をいただいたのが12時半。今治駅を出てちょうど5時間というコースである。

前回訪ねた2ヶ所と合わせて、今治市内には6つの札所があるが、

54番延命寺・・不動明王

55番南光坊・・大通智勝如来(大山祇大明神)

56番泰山寺・・延命地蔵菩薩

57番栄福寺・・阿弥陀如来

58番仙遊寺・・千手観音菩薩

59番国分寺・・薬師如来

という形で、本尊がそれぞれ違う。町中の寺あり、山の上の寺あり、神仏習合あり、国分寺ありと、八十八所の面白さがギュッと圧縮されたコースのようにも見える。今治というとしまなみ海道や、タオル、造船などのものづくりなどがイメージされるが、八十八所についても見どころがあるエリアだと改めて感じた。

さて、宿泊は今治市街だが、それまで半日が空くことになった。思ったよりも早く終わったためにこれからどうするか。ふと、今治から次の札所、伊予西条に向かおうかとも思う。札所順で次の横峰寺は山の上なので今から行くのは厳しいが、その次の香園寺、宝寿寺はどうか。国分寺から2キロほど歩くと伊予桜井駅があり、そこから予讃線の列車で移動することもできる。思わぬ「おかわり」ということになるがどうするか。ただ一方で今治市街に戻り、あるスポットも見てみたいと思う。帰りは翌12日の13時に今治駅出発なのであと24時間、どのような形で時間を使うか・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第58番「仙遊寺」

2018年02月16日 | 四国八十八ヶ所
57番の栄福寺から58番の仙遊寺までは距離にして3キロほど。栄福寺を出た時点でまだ10時前で、思ったよりもいいペースで来ている。ゴールの国分寺までもそこまで遅い時間にはならないだろう。少し先に一人歩き遍路の姿を見る。

右手に養鶏場の玉川ファームを見る。ここから作礼山(されいざん)に向けて未舗装の道に入って行く。仙遊寺までは歩きで50分との手作りの札も出る。

「犬塚」という小さな石碑と石仏があり、坂道を上がると池のほとりに出る。ここは犬塚池という。その昔、栄福寺と仙遊寺は一人の住職が兼務していて、愛犬に二つの寺の使いをさせていた。この犬は利口で、山の麓の栄福寺で鐘が鳴れば山を駆け下り、山の上の仙遊寺で鐘が鳴れば山を駆け上り、用事を伝えに行った。ある日、偶然かどうか、山の麓と山の上で同時に鐘が鳴った。犬はどちらに行けば迷い、右往左往した。その中で途中の池で溺れ死んでしまった。そこで村人たちが池のほとりに塚を建てて供養したことから「犬塚」と呼ぶようになったという。

こういう時って、犬でなく人だったら、あるいは私だったらどうするかな。いろいろ背景を設定する必要はあると思うが、麓なり上なり、とりあえずどちらか近い方に行くのかな。あるいは、普段お世話になっている、可愛がってくれる方に先に行くとか。ただ、世の中には本当に真面目で義理堅く、どちらとも決めてしまうことができず(もう一方に義理が立たない)、それがために自爆して池に飛び込んでしまう人もいるかもしれない。どれが「正解」ということで括れるものではないだろう。

しばらくは犬塚池の周り、そして自然の山道を歩く。ここに昔からの遍路道があるとは思わなかったが、昔の人の気分に近づくことができる。一度車道を渡り、再び山道を歩く。結構坂道も急になってきた。

再び車道に出る。斜面を利用したみかん畑が広がる中、坂の途中で後ろを振り返る。ちょうど雲も晴れてきた。

遠方に広がる景色に思わずうなる。今治の町が広がり、さらに向こうには来島海峡大橋、さらに大島などのしまなみ海道が広がる。この位置からしまなみ海道を見るのはもちろん初めてで、四国の名所、一つの区切りに来たことを改めて感じる。

ここからは車道の坂道を上る。先ほど栄福寺で見かけたクルマが上から下りてくる。札所間での移動の速さ、機動力という点ではやはりクルマに分がある。ただ、全部ではなく一部だけでも、公共交通機関の力を借りながらも歩くことについても、その面白さや、歩く中で見えるもの、感じられるものというのが、ここまで来ると少しずつわかるような気がしている。

不動明王のいる休憩所があり、その少し上に新たに再建されたらしい山門がある。ようやく仙遊寺に到着した・・・というところで、本堂はさらにこの上にあることに気づく。駐車場もこの上で、クルマで来た場合は山門の前を素通りすることになる。この先は石段が続くので、再び気合いを入れて上る。まあ、これまでの西国三十三所や新西国でも似たような場面はあった。

仙遊寺の本尊は千手観音である。そのためか、先ほどの休憩所のあたりから、この石段も含めて道端に西国三十三所の観音の石像を見る。こういうのは札所順に並ぶのだと思うが、順番がばらばらで、抜けているものもある。道を補修、整備する時にとりあえずあてがった感じがする。また、こういうのを見るとどうしても私のご近所の5番・葛井寺を探すのだが、この石段や寺の境内を見渡しても見つけることができなかった。一方では新しく造られたオリジナル?の観音像が立っていたりする。

ともかく最後の石段を上る。途中には弘法大師の御加持水というのがある。金属の蓋を取ってみるとちょっと淀んだ感じの水面が出てきた。夏場なら一汲みしてもよいかなと思ったが、今この場でいただこうという気にはならなかった。まあ、こうしたスポットもあるということで先に進む。

最後の石段を上がると、弘法大師像の背中が見えた。八十八所のお砂踏みがある。標高300メートルの高台にあり、今治でこの高さまで上ってくることになるとは思わなかった。境内の片隅に雪の塊が残っている。少し息が上がったので整えてからのお勤めとする。

仙遊寺の創建は今回訪ねた泰山寺、栄福寺よりも古く、天智天皇の勅願で、伊予国主の越智守興が堂宇を建てたとされる。本尊の千手観音は海から上がった竜女が彫ったとされている。また、阿坊仙人という僧が40年にわたってこの寺で仙人のような生活をしながら伽藍を整えたが、ある日、雲のように姿を消したという伝説がある。「仙遊」という言葉にはそのイメージが含まれているそうだ。確かにこれだけ景色が良く、しまなみ海道も望めるところであれば、どこか遠くに行きたくなるという気持ちにもなるのかなと思う。後に弘法大師が再興、江戸時代には荒廃したそうだが、明治の初めに宥連上人の手で再興された。

内陣には本尊の千手観音像が祀られている。おそらく後世に彫られたものだと思われる。本堂の中に入ってお勤めもできるのだが、この時間ともなるとクルマでやって来る他の参詣者もいることだし、改めて本堂の外でのお勤めとする。本堂も風情ある造りだが、火災のため戦後に再建されたものだという。

仙遊寺には温泉つきの宿坊が設けられている。山の上の立派な建物で、団体の受入も可能だという。周りには何もないが、今治市街、しまなみ海道の眺望はよさそうだ。

さて時刻は11時を回ったところ。この先の国分寺まで6.6キロという表示が出ている。今度は下り坂と平坦な道なので、12時半頃には着くことができるだろう。当初は、今治市街で夕方近くまでかかるかなと思っていたが、結構早い時間で目的の4ヶ所を回ることができそうだ。まあ、早ければいいというものではないが、その後の時間をどうするかも含めてこの先進むことにする・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第57番「栄福寺」

2018年02月15日 | 四国八十八ヶ所
泰山寺から栄福寺に向かう途中、遍路の無縁墓地に隣接して設けられた遍路小屋で少し休憩し、蒼社川の土手に出る。先の記事でも触れたが、かつては氾濫を起こして人々を悩ませていたところ、弘法大師が村人を集めて堤防を築かせ、加持祈祷を行うと延命地蔵菩薩が現れた・・という泰山寺の由来に関係する川である。今見る限りでは冬場だからか水の流れも穏やかである。

先ほどから道沿いにかつての遍路道の道標を見るが、土手のガードレールの内側にも立っている。ただそこに描かれた手は川の方向を指している。これを見た時は、300~400メートルほど上流に立派な橋があるし、まさか川の中を行けと言うことではなく、保存するに当たりたまたまこの向きに置いたのかと思った。ただ、後で知ったところでは、その昔はこの橋はなく、人々は本当に川を歩いて渡ったそうである。川の水が少ない時は中洲づたいに板を渡して橋の代わりにしたが、雨が降って大水になると板が流されたり、時には川に溺れてしまった者もいたという。とすると、先ほど手を合わせた無縁墓地に葬られているのは、ここで川に溺れて命を落としてしまった人たちなのだろうかと思う。少々流れが速くてもこのくらいなら渡れるだろうと強引に行ってしまったのだろうか、交通手段や道路が発達していない昔、八十八所めぐりは過酷なものだったのだろうなと改めて想像する。

今は普通に歩道つきのコンクリート橋を渡る。土手からの坂を下りきると栄福寺への案内板が出る。山手のほうに向けて歩くが、ここで冷たい風が吹いてくる。ネックウォーマーを取り出して首筋を保護する。

鳥居が現れる。建てられたのは寛政年間とある。先ほどの天保、そして寛政と、歴史の時間で習う幕府の三大改革のようだが、この一帯はこうした古い鳥居や道標を大切に守る考えが広がっているのだろうか。ただこの鳥居の近くに神社は見えず、どこの参拝口なのかというのが気になる。

再び道標が現れ、合わせて現代の遍路道の標識が小川に沿った畦道を指してているが、改修工事中で進むことができない。もうしばらく車道を歩き、バス用の駐車場が現れて栄福寺の参道に入る。57番栄福寺、そして八幡宮の二つの名前が書かれた石柱が出て、最後は少し坂道を上る。途中休憩もあったが、泰山寺から50分ほどで到着した。

栄福寺の創建は弘法大師とされている。弘法大師がここ府頭山で海難事故の平易を祈る護摩供を行ったところ、満願の日に海上の波風が収まり、阿弥陀如来が現れた。その像を府頭山の頂上に祀ったのが始まりだという。また、同じ9世紀の中ごろ、大和の大安寺の行教上人が宇佐八幡の分社を京都の男山(石清水八幡宮)に創建するために宇佐から瀬戸内を航行している時、暴風雨に遭い今治に漂着した。上人は、府頭山が男山に似ていることや、祀られている阿弥陀如来が八幡菩薩の本地仏であることから、この地にも宇佐八幡の分社を設けようと八幡宮を建てた。そのことで、この八幡宮も「石清水八幡宮」である。神仏習合ということで、長い間石清水八幡宮と栄福寺は同居しており、江戸時代の遍路は石清水八幡宮で八幡菩薩と阿弥陀如来に手を合わせて、別当寺である栄福寺で朱印をいただいたという。それが明治の神仏分離で栄福寺と阿弥陀如来が山の中腹に移され、現在に至っている。石柱に二つの寺社の名前が書かれていたのは、そうした歴史の名残ということである。

・・・という由緒ある札所だが、最近では2015年に公開された映画『ボクは坊さん。』の舞台として知られている。私も映画館では見なかったが、タイトルに引かれてDVDで見た。当時は西国三十三所の1巡目を行っていたところで、四国めぐりをまだ考えていたわけではなかったが、本物の札所を舞台とした作品だったのと、モデルが架空の人物ではなく栄福寺の本物の住職の白川密成(しらかわ・みっせい)師というのが面白そうだったので見てみた。映画そのものはこれから若い僧侶として育っていくヒューマンドラマというものだが、今思えば、「西国の後はいずれ四国に」という気持ちは、ひょっとしたらこの映画もきっかけの一つだったのではないかと思う。最初の四国上陸から1年半、ようやくここまでたどり着いた。

映画を見た後で同名の原作も読んだ。白川師が坊さんになったきっかけも触れられているが、今の時代に合った「坊さんワールド」を模索しつつ、「仏教をやってみる」様子がうかがえる。また、随所に弘法大師の言葉、さらには法句経の一句を引用し、その言わんとするところも紹介されているが、1回読んだだけではその全てを理解するのは難しいので、折に触れ、かいつまんで読み返すことにしている。

実は今回、納経帳とともにこの原作単行本もリュックに入れており、もし住職自らが納経所にいるようならサインをお願いしようか・・という厚かましいことも考えていた。

・・とはいうもののまずはお勤め。寒い日であるがさすが連休中で、9時半頃となると巡拝者の姿も目立つ。中には歩きの人もいるがほとんどはクルマで、駐車場には県外ナンバーの車両が並ぶ。それぞれのペースでお勤めをする。奥の本堂、手前の大師堂と回り、新しい感じの納経所に向かう。窓口にいるのは白川師ではなく女性(奥様?お母様?)だったが、一人一人に愛想よく対応していた。

納経帳に朱印をいただいた後で、改めて著作が積まれているのを見る。

その中で文庫サイズの『空海さんに聞いてみよう。 心がうれしくなる88のことばとアイデア』を見つけたので1冊買い求める。税込842円に対して1000円札を出すのは釣り銭が煩わしくないかなと思ったが、「最初から分けてるんですよ」と笑いながら袋詰めされた158円が返ってきた。なお、見開きには「白川密成」と墨書されており、思わぬ形で「サイン本」をいただくことになった(笑)。これから読む1冊となるが、ありがたい気持ちで接することにする。

さて、次は58番の仙遊寺。こちらは作礼山(されいざん)という山の上にあり、今治の海近くから歩いてきたルートもこれからピークを迎える。改めて金剛杖を手に向かうことに・・。

(追記)
この記事を書く中で、ふと。

真言宗、先月には「今空海」とも称される、御年91歳の神戸の鏑射寺の中村公隆師の護摩供に参列した一方で、今治には私より年下で新たな仏教の魅力を発信する白川密成師がいる。ふと、この二人が対談したら面白いだろうな・・と、余計なことを考えてしまった・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~第56番「泰山寺」

2018年02月14日 | 四国八十八ヶ所
泰山寺に到着。これまで歩いて来た道から細い路地に入るとまだ新しい感じの石垣があり、石段を上がったところに泰山寺と書かれた石柱がある。山門や仁王像があるわけではなく、そのまま境内に入る形になる。

正面に見える立派な建物は本坊、納経所で、本堂は左の奥にある。歩いている間は体が温まるが、立ち止まると寒さを感じる。吐く息が白い。その中でまずお勤めである。本尊は延命地蔵菩薩である。

伝承によれば、弘法大師がこの地を訪ねた時、この辺りは川の洪水に悩まされていた。村人たちはそれは悪霊のたたりだと言うので、弘法大師は村人に命じて堤防を築かせ、加持祈祷を行った。すると満願の日に延命地蔵菩薩が現れ、その後洪水に悩まされることもなくなった。このことから地蔵菩薩の像を置いて本尊としたのが始まりだという。「泰山」という名前は、延命地蔵のお経の中の「女人泰産」という言葉から取ったとも、道教で死霊が集まるとされる「泰山」から取ったとも言われている。安産と亡者の安息を祈る場所ということだろう。

そう言われれば、寺の駐車場にもお地蔵さんが並んでいたし、境内にも何体ものお地蔵さん、さらには地蔵車もある。水子地蔵もずらりと並ぶ。ともかく「お地蔵さん推し」の感じが強い。

本堂と本坊との渡り廊下に仁王像が立つのをガラス戸越しに見た後で、本堂と相対する形で建つ大師堂に向かう。こちらでは弘法大師像のほかに、弘法大師が植えたとされる「不忘の松」というのもある。もっとも今植えられているのは、枯れてしまった元々の松の子株から育ったものだという。さらに不動明王や理源大師聖宝の像も並ぶ。

境内全体がどこか新しい感じがするのは、現在の形になったのが最近になってからだそうだ。泰山寺は一時は朝廷の保護もありいくつもの坊を抱えて巨大な勢力となったが、その後兵火で焼かれたり、明治の廃仏毀釈もあって寺も荒れたものになったという。その後、地元の人たちの支援も得て少しずつ寺を復興させ、鐘楼や大師堂も再建された。現住職になってからは寺の敷地も拡げ、外の石垣も新たにしたという。境内の一角に平成15年に建てられた石碑があり、その辺りの経緯が記されていた。四国八十八所の一つとして参詣者や遍路が多く訪ねるからというのもあるのだろうが、寺で新たに何かを建てようとすると地元の人たちの支援は欠かせないものだろう。

納経所で朱印をいただき、次の57番の栄福寺に向けて歩くことにするが、その前に一ヶ所立ち寄ることにする。今治駅から泰山寺に来る途中に「泰山寺奥の院 龍泉寺」という手書きの看板があった。新聞、テレビで紹介された珍しいものがあると書かれていたのだが、どんなものか気になる。泰山寺から歩いて数分のところにあるというので少し寄り道する。

少し坂を上がったところ、個人の庭先のようなところにお堂がある。ここが龍泉寺で、何が珍しいものかというと「鏝絵(こてえ)」の十一面観音だという。鏝絵とは、左官職人が鏝で漆喰を浮き彫り状に塗ったもので、いわばレリーフのようなものだ。これが正面の額として掲げられている。本尊の像は中にあるのだろうが、こんな姿なんだろうな。鏝絵とは江戸時代末期から明治時代にかけて盛んに造られたそうだが、題材は七福神などの縁起物や花鳥風月が多く、仏像というのはなかなかないそうである。現在の本堂が大正初期に建てられたから、その時に合わせて奉納されたものだろう。新聞、テレビで取り上げられたのはかなり昔のことで、今となってはそれほどインパクトがあるわけではないだろうが、泰山寺まで来れば少しの時間を割いて訪ねるのも悪くないと思う(バスツアーの団体遍路の人たちがここまで来るのかはわからないが)。

龍泉寺は特に朱印をいただくこともなく、そのまま栄福寺に向けて歩く。こちらも3キロあまりの距離である。龍泉寺から先ほど通った駅から続く道の四つ角に出ると、道標が立つのが見える。「遍ろ道」と書かれ、手の指が栄福寺の方向を指しているが、側面を見ると天保年間に建てられたとある。この道じたいもその頃から続いているのだろう。ここからは田畑と住宅が混在する景色となる。

そのまま直進すると、建物の角を切り取る形で祠が作られており、その中に道標がある。道標を保護しているかのようだ。栄福寺へはそのまま進めばよいのだが、右には和霊大明神、奈良原本社へ行くとある。和霊神社(大明神)とは宇和島にある神社で、藩政に力を尽くした宇和島藩家老の山家清兵衛という人物を祀る。奈良原神社(本社)とはかつて修験道の霊山としてあった神社で、今は大山祇神社の中に移されているという。いずれも由緒がありそうで、昔の遍路の中にはそちらにも立ち寄って手を合わせた人も多かったのかもしれない。

「名古屋発祥 海海ラーメン FC今治店」という看板のラーメン店がある国道317号線を渡り、さらに少し歩くと「四国遍路無縁墓地」の立札が見える。立札を囲むように10基ほどの墓石が並ぶ。中には紀州のほうから来た遍路の名前がはっきり書かれたものもあるが、「無縁」というだけに法名だけ書かれたもの、あるいは字もほとんどわからないものもある。昔は遍路の途中で命を落とすものも多くあったと聞くが、こうして墓地の形で一つに固められるという景色は見たことがなかった(本当は他にもあるが、途中を公共交通機関で移動しているから私が気づいていないだけなのかもしれないが)。これも地元の人たちによるものだろうか。この敷地には現在老人ホームがあるが、それも何か関係しているのかな。

ちょうどここに「遍路小屋」という新しい休憩所がある。泰山寺から1キロほど来たばかりだが、ここでいったん休憩として、昔の名もなき遍路たちに手を合わせる・・・・。
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第15回四国八十八所めぐり~今治の個性と教育を歩く

2018年02月13日 | 四国八十八ヶ所
11日の朝、今治駅前に降り立つ。着替えその他を入れたバッグをコインロッカーに入れて、金剛杖をケースから取り出し、白衣を身に着ける。雨はもう上がったが、どんよりした雲が広がり、冷んやりした感じがする。今回は白衣を着た上から防寒着を羽織ったのだが、こういう時はどちらが上に来るべきなのかなと思う。誰が見てもすぐわかるように防寒着の上から白衣を着けたほうがよいのかな(前回はそのようにした)。駅の海側に前回巡拝した55番の南光坊があるが、今回は今治駅から山側にある56番の泰山寺を目指す。今回は59番の国分寺までバスを効果的に使える区間がないので、歩き通すことになる。

駅の待ち合いスペースでは、白衣に金剛杖姿の年配のご夫婦がベンチで朝食の最中である。ふとその上を見上げると、岡山理科大学の今治キャンパス、獣医学部の広告が出ている。世間には昨年「加計学園疑惑」として連日騒がれていたあのキャンパスである。前回、54番の延命寺から55番の南光坊へ歩いた時に、わざと遍路道から外れて工事中のキャンパスの前を通った。この4月には開校するわけだし、地元の人たちの思いはいろいろあるだろうが、今治の地図に新たに載る場所である。これはこれで受け入れることだと思う。後は、実際に充実した教育が行われて、獣医学の発展に寄与するのかという面を検証すればよいと思う。少なくとも、獣医学会から献金を得ている四国出身のナントカ党の代表が何か言うことではないし、大学のほうも、どこぞの幼稚園のような「安倍首相ガンバレ!日本ガンバレ!エイエイオー!!」などというアホな教育はしないだろう。

・・・広告一つに話がそれて、さすがに早よ行けやと7時半に駅を出発。泰山寺までは3キロほどというところで、地図で見れば駅前の道をずっとまっすぐ行ったところにある。ただ早速、今治明徳高校の角を右折して、今治北高校の前に出る。

高校に隣接するようにして建つのは今治城・・・ではなく、高井城というマンションである。城山ハイツという名前で、実際に人が住む現役の建物である。ネットでは珍スポットとしてもさまざまな記事が出ている。城好きのオーナーが自分の夢?として、最上階に天守閣を模した建物をこしらえたものだ。1970年代の建造だからマンションとしては古い物件なのだろうが、本物の城は手入れが良ければ400年現役の建物があるぐらいだから、築40~50年で驚いてはいけないのかもしれない。それどころか、この後に本物の今治城に行って驚いたのが、現存する模擬天守ができたのが1980年だったこと。つまり、城山ハイツのほうが古いわけで、いくばくかの期間は、今治城の天守閣といえば城山ハイツだった・・となるのか。

まあ、現役のマンションなので勝手に中に入るわけにはいかないのだが、入居者の部屋は別に武家屋敷風に造られているわけではなく、普通のマンションの間取りだという。まあ、駅からも近いし、いわゆる遍路道からも少し寄り道するだけなので、一度外観を見るのも今治見物の一つと言えるだろう。

改めて泰山寺への道を歩く。この辺りはかつての城下町のエリアから外れているだろうが、狭い道の中に民家が密集している。そんな中に建つのは今治西高校。今治市内、いや愛媛県の中でも有数の進学校である。今治の高校には東西南北の全てがあり、あまり偏差値で語るのはよくないのだが順番でいうと「西北南東」となるそうだ。ただ県外から見れば、今治西高校は甲子園にも何度も出場している学校として知られる。現役では西武の熊代がいるが、少し前なら元ヤクルトの藤井秀悟、さらに昔なら代打本塁打の記録を持つ高井保弘がOBだという。校舎の壁には、残念ながら高校野球の幕はなかったが、いろんな部活動の全国大会出場を祝う横断幕が掲げられている。文武両道を重んじる伝統ある学校とうかがえる。先に触れた岡山理科大学獣医学部に進む生徒もいるのだろうか。

・・・ここまで、泰山寺の記事といいながら城山ハイツと今治西高校のことが中心である。沿道のみどころといえばみどころだと思うが、地形にアップダウンや変化があるわけでもなく、淡々と進む感じである。まずは助走というところかな。

8時すぎに目的地の泰山寺に着く。境内を囲む石垣が結構新しい感じに見える・・・。
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