まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第79番「浄土王院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(再びの極楽寺山)

2024年04月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

ようやく残り10ヶ所となった広島新四国八十八ヶ所めぐり。終盤は廿日市、そして宮島に固まるのだが、次の第79番・浄土王院は一転して廿日市の極楽寺山の頂上にある。

その山の名の元である極楽寺だが、実は広島新四国の第7番札所で、この札所めぐりの初期に訪ねている。ちょうど3年前、2021年4月のことである。その時に極楽寺本堂の斜め前にある浄土王院も訪ねており、朱印も一緒にいただいている。当時の記事を見返すと、広島新四国については確かに札所番号順で回るとしても、さすがに同じ境内にあるのなら、本堂と浄土王院の両方に手を合わせて朱印も2枚いただいたことで第79番は先行してクリアしたことでよいのでは・・という内容のことを書いていた。

ただどうだろう、広島新四国はさまざまな経緯があり、四国八十八ヶ所のように札所番号が道順通りに並んでいないのである。原爆で焼失したとか、あるいは市街地の再開発により郊外に移転した札所もあれば、寺の経営難などで廃寺、札所返上といったところもある。そうして広島近郊を行ったり来たりしてきただけに、先に参詣済でもここは改めて第79番を目指すことにする。4月20日、所用があるのに合わせて昼前に出発する。

極楽寺山へは公共交通機関の便がなく、むしろ登山の名所として知られるが、さすがに山登りもないだろうとクルマで行くことにする。西広島バイパスを走り、速谷神社の脇を通って国道433号線を上る。しばらくは新たに開かれた区間だが、本格的な上りになるとまずループ橋にさしかかる。

そして道幅が狭くなり、何度もS字カーブを抜ける。3年前に来た時には「遠い将来には改良されるのだろうが」と楽観的なことを書いているが、3年程度ではまだ「遠い将来」ではないようだ。「国道」ながら相変わらずの「酷道」。

極楽寺山の案内が見え、「さくらの里」にさしかかる。この辺りも含めて、廿日市はさくらの町をアピールしている。今回は山桜がいくつかまだ残っていた。

そのまま車道を進み、奥の駐車場に到着。寺の正面は登山道に向いているため裏から入る形である。

そのため、まず見えるのは奥の院にあたる一願堂である。この寺の先代の住職だった一願和尚が眠っているところで、「一人一願を頼めば必ず成就する」との言葉を遺したという。「一願」といえば簡単なようだが、その「一つ」を何にするかは結構難しい。また「必ず成就する」といっても「何事も自分の思うとおりになる」とか「いつまでも何事も自分の自由にできる」という願いは、世に混乱を招くだけだろう。そこは謙虚になり、そして自分の身の丈にあった願いでなければ叶わないだろうし、願いを叶えるには自分もいろいろ努力しなければならない・・。

この後は西国三十三観音、十三仏の石像が並ぶ中を過ぎ、本堂の裏に着く。本来の参詣順路とは異なるが(やはり極楽寺山の登山も含めての参詣である)、ともかく到着。

極楽寺の歴史は古く、奈良時代に行基により開かれ、平安時代には弘法大師空海も修行で訪れている(対岸の宮島とセットで弘法大師にはゆかりがある)。そして現在の本堂は戦国時代、毛利元就が再建、寄進したものである。広島で現存する貴重な建物である。まずは本堂にてお勤めとする。

そして、斜め前の浄土王院に向かう。先ほど触れた先代の一願和尚の誓願により、京仏師である松本明慶師作の阿弥陀如来を勧請し、祀った建物である。「大仏殿」の文字もある。極楽寺としては、本堂の千手観音、浄土王院の阿弥陀如来の両方が本尊の扱いとなっている。扉を開けると、薄暗い向こうにほのかに大仏の姿が現れる。その大仏の後方には三千体の阿弥陀像が奉納されている。改めて手を合わせる。

境内には登山姿の人が何人かいる。境内の展望台からは、宮島の全体は見えないが入り江を挟んだ景色を望むことができる。

3年前に極楽寺本堂とともに浄土王院の朱印もいただいているので、この日は省略。前回とちょうど同じ時季となったが、改めて訪ねてよかったと思う。

この後は広島市内で所用があり、そのままクルマで向かう。先ほども苦労した九十九折の上り坂、実は下りのほうがコントロールやブレーキ操作に気をつかうのでヒヤヒヤする。幸い後続のクルマが追いつくこともなく、道幅が広くなってほっとする・・。

さて、次からいよいよ最終盤の80番台である・・・。

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第78番「三光院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(廿日市の桜を愛でながら)

2024年04月13日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり。やれ西国三十三所だ、神仏霊場めぐりだ、九州八十八ヶ所百八霊場だと言っている中で、地元で超スローペースとなっている札所めぐりである。それでも第77番まで来ているのだが、前回訪ねたのは今年の1月。江波にある2ヶ所を訪ねた後、当日行われた都道府県対抗男子駅伝(ひろしま駅伝)を自宅近くの沿道で応援した。それ以来だから3ヶ月ぶりとなる。

今回訪ねるのは廿日市市。地御前にある第78番・三光院である。地図で見ると国道2号線・西広島バイパス沿いにある。一方で、広電宮島線の地御前電停からもそれほど離れていないようだ。クルマでサッと行ってもいいが、ここは広電で出かけることにする。

4月13日、広電宮島線で地御前の手前の広電廿日市で下車する。4月も半ばとなり、桜も散り始める時季であるが、廿日市に行くならせっかくなので廿日市市の木である桜を見物しようかと思う。桜尾城もあるし、文化ホールはさくらピア、コミュニティバスの愛称もさくらバスである。

訪ねたのは住吉堤防敷。前回の広島勤務を含めて初めて訪ねるスポットである。前週4月第1日曜日は桜まつりも行われたそうで、600メートルほどの遊歩道に約240本のソメイヨシノが並ぶ。訪ねた時は満開を過ぎて散りはじめ、葉桜も見えたが、何とか今季最後の見頃に出会えた。

この先、三光院まではそれなりに距離があるが、天気も穏やかだし、散歩も兼ねてこのまま宮島街道に出て地御前まで歩くことにする。ゆめタウンやウッドワンの横を過ぎる。

途中、JA広島総合病院の前を通り、病院の横にある産直ふれあい市場「よりん菜」というのを見つける。廿日市市の農家が栽培した野菜や、手作りの弁当、惣菜などが売られており、せっかくなので昼食も含めて野菜も何品か買う。まさか野菜を背負っての札所めぐりになるとは思わなかった。

地御前の電停に到着。JR、広電の共同踏切を渡り、住宅地の中に古い町並みや寺社が残る一角を過ぎる。

そして地図を見ながら進み、西広島バイパス沿いに出る。寺の幟が出ているが、そこから入るのかな。完全に民家のようだが・・。

庭先を抜けると住宅と棟続きのお堂があり、合っていた。扉を開けて自由に参詣する方式である。住宅のほうからはテレビの音声が聞こえてくる。

三光院が開かれたのは戦後、1953年のこと。お堂の中に京都・仁和寺のパンフレットがあり、真言宗の御室派の末寺であることがわかる。

このような張り紙がある。「我に聞く、人に聞く、一生、一死する覚悟、生きる覚悟 病みや苦しみに耐える覚悟。心に持ち続ける事出来るか それが一番大切な宝物」とある。覚悟か・・・覚悟せんといけんのか・・・。

箱に収められた朱印をいただき、三光院を後にする。当初は、西広島バイパスの反対側に並ぶラーメン店で昼食とするかとも思っていたが、先ほどJAの産直市場で野菜やら惣菜やらを買ったので、そのまま地御前の電停に戻り、帰宅して昼食とする・・・。

食後、テレビ桟敷にて京セラドーム大阪のバファローズ対ファイターズの2回戦を観戦。前日に続いての投手戦となったが、ここまで不振に苦しんでいた頓宮が先制のタイムリー、そして追加点となる2ラン本塁打で3打点、また先発・宮城が8回を無失点として5対1でバファローズが快勝した。広島新四国のご利益とは言わないが、寺社参りの後で勝ち試合を観るとやはりご利益かなと気持ちのよいものである。これでまた良い方向に向かえばということで・・・。

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第77番「龍光院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(被爆地の江波山へ)

2024年01月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりの江波編。まずは本川沿い、かき打ち通りにある不動院を訪ねる。そして、牡蠣の水産業者が並ぶ中、次の龍光院を目指す。

地図を見ると遠回りするのかなと思いつつ、龍光院の東にある衣羽神社に着く。さてこの「衣羽」だが、何と読むのだろうと迷った。きぬはね?きぬは?かと思ったが、「えば」と読むそうだ。ああそうか、「江波」だから。振り仮名がないのは、それは自明のことだからだろうか。なお、江波の地名の由来は、漁業の餌が豊富で魚が多く獲れたことから、「餌場」ということで「えば」となったという。後は、どのように漢字を当てたかの違いのようだ。

衣羽神社の創建は明らかではないが、古くとも平安時代末期には記録に出ている。平清盛が厳島神社に般若心経を奉納した時にはすでにあったのかな。石段を上がり、社殿にて手を合わせる。こちらの社殿も被爆建物とある。

境内からはちょうど周囲を見渡すことができる。衣羽神社を含む現在の江波山は、元々広島湾に浮かぶ島だったという。江戸時代の干拓に始まり、明治時代には舟入と陸続きになり、戦後の埋め立てで現在の地形になった。

その衣羽神社の社殿の奥につながる道がある。衣羽神社の駐車場があり、その中を抜けると寺の本堂らしき建物に続く。ここが目指す龍光院である。鉄筋コンクリートの新しい建物だ。

龍光院が開かれたのは大正時代。元々は江波の弘法大師信者の発願で高野山奥の院に供養塔として観音像を祀ったのを、昭和3年の辰年に江波山にお堂を建てて龍光院とした。別に衣羽神社と龍光院が神仏習合でつながっていたわけではないようだ。

本堂前にて朱印の引き出しを見つける。

龍光院の境内と言っていいのかどうか、隣接して江波山気象館がある。駐車場も寺のものか気象館用なのか、いや江波山全体が一つの公園なので広く開放されているのか。寺の参詣というより江波山の散歩として訪ねる人もちらほら見える。今回は時間の都合で入らなかったが、江波山気象館も被爆建物である。まあ、一口に「被爆建物」といっても、程度はさまざまだが・・。

江波山の車道を下り、江波の電停に戻る。今から帰宅すれば、この日(1月21日)広島で行われた全国男子駅伝の自宅近所観戦に間に合いそうだ。

この龍光院で77番目。八十八ヶ所もようやく終盤に来た。この先、己斐に1ヶ所残っているが、広島市中心部をコンプリートして、佐伯区、廿日市、そして宮島と、結願である弥山本堂に向けて西に舞台を移す。また少しずつの巡拝となるが・・・。

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第76番「不動院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(江波の港、かき打ち通りへ)

2024年01月23日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、伴中央にある第75番・薬師院の次は江波にある第76番・不動院、第77番・龍光院である。広島新四国もこの2ヶ所で市内中心部は終了し、以後は市の西側をめぐり、結願の宮島に続く。

薬師院に参詣後はアストラムラインで本通に戻り、その後はあの辺で過ごした。不動院、龍光院はまとめて訪ねるとして、日を改めて1月21日に出かける。

この日の午後から広島で第29回全国男子駅伝が行われるので、それまでに参詣を済ませ、自宅に戻って沿道から応援する予定である。江波まで行くならそのまま平和記念公園に向かってスタート、またはゴールの瞬間を見るほうがイベントを楽しむ感じがより一層強まるのだろうが、「全国の選手が自宅の近所を走る」というのを楽しもうと思った。

その「自宅の近所」は往路1区と復路7区のコースにあり、将来が楽しみな高校生区間の1区(ここを駆け抜けた有力選手は箱根駅伝にも出場する強豪校への進学が決まっている)、そしてその成長後の大学・社会人選手が走るアンカー7区、それぞれの思いを胸に駆け抜けていった。

さて、その前段である。自宅から江波まではクルマなら直線距離で近いのだが、ここは広電で向かう。土橋で江波行きに乗り換える。

終点の江波に到着。線路はその奥の車庫まで続く。同じ広島市内とはいえ、江波を目的地として訪ねる機会はそうあるものではない。

まずは第76番・不動院を目指す。そのまま住宅地を抜け、本川に出る。川沿いの道は「かき打ち通り」という名がある。江波港周辺に牡蠣の加工場が並ぶことからつけられたそうだ。ちょうど今は牡蠣の旬。

その通りに面した高台に不動院がある。この狭い石段の上にあるようだ。山というか丘というか、見張り台のようにも見える。元々は一つの島だったのかな。

不動院は当初、丸子社という祠だったのだが、江戸時代、江波の住人である仲屋幸助という船乗りがいて、筑紫に航海した時、豊後の海中で漁師の網にかかった不動明王をもらい受けた。これを祀ったのが始まりとされる。

小ぢんまりしたお堂が建つ。扉は開いておらず、そのまま外でお勤めとする。境内の外側には四国八十八ヶ所が囲んでいるが、限られたスペースの中である。

玄関横のポストに入っていた朱印をいただく。

この後、広島高速3号線の高架橋をくぐり、漁港に着く。かき打ち通りの名前にも現れる水産業者の店舗が並ぶ。牡蠣の業者もたくさんあり、それぞれ流通ルートがある。私が普段利用する近所のスーパーだと西の大野浦あたりの水産業者のものを見かけるが。

その一角に神社がある。海神宮とあり、江戸時代に江波港が開かれた当時からの建物で、8月6日の原爆にも耐えた被爆建物として紹介されている。先般、市街地から離れた草津の寺の本堂ですら被爆建物との紹介があったのを見て、それより近い江波でよく耐えたものだと思う。単純に爆心地からの距離だけではなく、さまざまな要因が重なって残ったのだろうが・・。

ところで、牡蠣で思い出した。先日のニュースにて、2月に開催予定だった「宮島かき祭り」が開催中止となったと報じられていた。画像は2020年2月の「宮島かき祭り」。新型コロナについてはちょうど感染者が増え始めたかなというところで、当時大阪から中国観音霊場めぐりと一献をかねて宮島に来た時のものである。この時点では、新型コロナがあれだけの騒ぎになること、そして私が広島に異動することになるとは思っていなかった。

2021年以降はコロナ禍の影響で中止されており、2024年は4年ぶりの開催が期待されていたが、夏の猛暑などの影響による牡蠣の生育不良が理由だという。

今季、かき祭りについては開催するところ、あるいは江田島のように中止するところとそれぞれ判断が分かれているそうだ。まあ、別に混雑する会場でなくとも、地元スーパーなどで別に品薄になっているわけではなく、普通に買って自宅でいただくだけだ。

この先、次の第77番・龍光院は近い・・・。

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第75番「薬師院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(市内から伴までぐるりと回る)

2024年01月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりを発願したのが2021年の元日。それから3年が経過し、2024年に入った。他にも札所めぐりを進めている中、もっともペースがゆっくりなのがこの広島新四国である。広島市内を中心としたエリアで、基本日帰りで回れるところばかりである(1回、気分転換を兼ねて泊まりで出かけたこともあったが・・)。他の札所めぐりなら旅の計画としてスケジュールを組むのだが、近くでいつでも行けるところだとつい後回し、先延ばしにするということはよくある話である。

その広島新四国、次は第75番・薬師院である。70番台となってから、市内中心部~宮島~市内中心部~草津ときて、今度は沼田、伴である。これまでもそうだったが、広島新四国は札所の移転、廃止・入替などの歴史があり、必ずしも札所順番とエリア順が一致しておらず、こうして飛び飛びになっている。まあ、その変化を楽しむためにあえて札所順で訪ねている。

これから訪ねる薬師院。記録によると、福島正則が広島を治めていた当時、堀川町の浄土宗の寺院を明長という修験者に賜るとある。明長の弟子の策雄の時に真言宗に改め、薬師如来を本尊として、師の名から明長寺と称した。その後、白島に移り浅野家の保護を受け、昭和の初めには南観音町に移った。そこで被爆。その後復興したが、平成になった1998年に現在地に移った。市内中心部の開発にともない、郊外に移転した札所もいくちかある。

さて薬師院へのアクセスだが、公共交通機関の最寄りは広電バスの「鳴る谷」である。路線図を調べると、広島バスセンターからくすの木台行きというのがある。日中は1時間に1本。1月14日、薬師院を目指して出発。

城南通りを行く。右手には新たに完成した「エディオンピースウイング広島」が姿を見せる。もう、ネット地図にもその名前が表示されている。サンフレッチェ広島の新たなメインスタジアムということで、いよいよ2月にはオープニングセレモニー、そしてプレシーズンマッチが行われる。普段、サッカー観戦はしないのだが、広島に新しいスポットができるとなれば、一度は訪ねてみたいものである(そう言いつつも、2回目の広島勤務にして訪ねたことがないスポットのほうが圧倒的に多いのだが・・)。

バスは高速4号線で西風新都方面に抜ける。広島市北西部へのアクセスもそうだが、高速バスも、中国道を利用する各方面への路線が高速4号線~広島西風新都インターを経由するため、重要な路線である。

トンネルを抜けたところで右折し、広島市立大学に到着。乗客も若い人が多かったが、ここでほとんど下車した。

この後、広島ジャンクションの下をくぐり、鳴る谷に到着。当初、薬師院へのアクセスを検索するにあたり、このバス停がなかなか見つからなかった。というのも、広島新四国のサイトに従って「鳴谷」で検索していたからである。てっきり、バス路線が廃止になったのかとも思った。「る」の送り仮名が入ると刃珍しいのではないだろうか。

バス停からすぐのところに薬師院の案内看板がある。合わせて、その先の権現峠(ごんげんたお)~火山(ひやま)への登山ルートへの入口でもある。

山陽道をまたぐ。すぐ先に広島ジャンクションとの分岐が見える。

少し坂を上り、薬師院沼田墓苑に到着。

立派な石垣も構えた堂々とした造りである。周囲の山々を見渡すこともできる。薬師院としてというよりは、沼田墓苑として一般向けのホームページが開設されており、気軽に墓の相談に応じるとある。墓か・・昨年、私の父が亡くなったのだが、まだ墓をどうするか決めていない。いや、墓地は本家筋のある某所にあるのだが、その本家筋じたいが先祖代々の墓じまいを検討しているとのことで、そこに入るのは現実的ではない。葬儀その他でお世話になった寺か、あるいはどこかの共同的なところで永代供養をお願いするか・・そろそろ、決めなければならないだろうな。

境内には大日如来を祀る一角があるが、石鉢の水にはさすがに氷が張っていた。

そして本堂だが・・・プレハブ造りの建物。平成になってからこの地に移ったとはいえ、それでも20年以上は経過しているはずだ。あくまで「仮」の本堂ということか。まあ、お堂の中には本尊薬師如来を中心に不動明王、弘法大師、観音像などが祀られ、法要も数多く行われて使い込んだ様子なので、本堂の役割は果たしている。ご自由にお入りくださいというのもいい。

なまじ建物ばかり新しく豪華なものになり、その代わり普段は扉に鍵をかけて閉めている・・という寺も多いが、そこはそれぞれの考え方や訪ねる人たちによるだろう。こちらは規模の大きな墓苑(土地はまだまだあるのでこれからも拡張できそうだ)があるので、お墓参りのついでに気軽に入ってもらおうと、ひょっとしたらあえてこの造りを続けているのかな。

薬師院の参詣を終え、先ほど下車した鳴る谷バス停に戻り、バスセンター行きの時刻を確認する。しかし、次のバスまでは40分以上待つ必要がある。周りには時間をつぶせるようなスポットもなく、それならば、地図を見てアストラムライン最寄りの伴中央駅まで歩くことにする。

畑の中に住宅地も広がる中、15分ほどで伴中央駅に到着。駅としては伴中央が最寄りといえるが、薬師院に関していえば、あらかじめ時間を合わてバスセンターから高速4号線経由の広電バスに乗って鳴る谷に向かうほうが便利である。

アストラムラインに乗り、ぐぐりと回り込むようにして本通りに向かう。行きは広電バス、帰りはアストラムラインという循環ルートで市内中心部に戻って来た。この後は、せっかく市街に来たということで昼の一時を楽しむ・・。

そして広島新四国だが、次の第76番、第77番で江波を訪ねた後は、いよいよ宮島に向けて西側のエリアとなる。何やかんやで、こちらも結願に向けて動き出すことにしよう・・・。

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第74番「海蔵寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(草津の町並みと八幡宮)

2023年11月27日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは第74番。次は私が住んでいるのと同じ広島市西区である。広島新四国めぐりも徐々に西に進んでおり、2023年内での結願はさすがに無理にしても視野に入ってきた。

前回の11月19日に続いて、23日に訪ねる。途中立ち寄るところもあり、どうせならと自宅から歩いて向かう。到着したのは広電宮島線の草津電停。江戸時代頃まではこの南の宮島街道辺りに海岸線があったそうで、ちょうど山と海とが近づくところである。

線路の向こうにはかつての西国街道があり、山陽線の線路を跨ぐ形で第74番・海蔵寺の参道の石段が続く。ここだけ見れば、尾道辺りにありそうな風景に見えなくもない。

そのまま石段を上がると海蔵寺の山門に出る。振り返ると草津の町並みが広がる。草津は神武天皇の頃から水運や水軍の拠点となったところで、特に戦国時代には武田氏、大内氏、陶氏などにより争われた港だが、後に毛利氏が支配下に収め、水軍の重要拠点として児玉氏を城主とした。

ここ海蔵寺は室町時代前期に中国の僧により禅宗寺院としれ開かれ、後に曹洞宗となった。毛利氏が草津を治めた時には児玉氏の菩提寺となり、厳島合戦の時には毛利の陣も置かれた。関ヶ原の戦いの後、福島正則の時に草津城は取り壊しとなったが、その後浅野氏の代になると、浅野氏の家老で備後の東城を治めていた堀田氏の菩提寺となった。この堀田氏の始祖である堀田高勝は元々明智光秀に仕えていたが、本能寺の変の後に浅野長政に取り立てられ、後に浅野の姓をもらって東城に入ったという。

山門をくぐると本堂が出迎える。こちらは江戸後期の天保年間に再建されたものだが、原爆の時には爆風の影響で本堂が傾いたという。海を隔てているとはいえ、爆心地からは直線距離で5キロほどのところ。その時に多くの避難者を受け入れたこともあり、後に広島市被爆建物等保存・継承事業の助成により保存工事も行われた。

朱印の箱は本堂の前にあったが、扉が開いており中に入ってお勤めとする。本尊は十一面観音。創建が室町時代の禅宗寺院ということで八十八ヶ所の弘法大師とはご縁があるようには見受けられないが、本堂が爆風の影響を受けたこともあり、広島新四国のもう一つの大きな役割である平和を祈念するということで札所に加わったのかもしれない。

本堂の裏手には江戸元禄年間に築かれた石庭がある。

境内の横には東城浅野氏の墓石が並ぶが、浅野氏の墓所のため立ち入らないようとの札もある。この奥には小田原北条氏の最後の当主であった北条氏直や、山中鹿之介の娘などの墓所もあるそうだ。これらもまたどういうご縁でここに墓所があったのかな。

さて草津といえば、草津八幡宮である。神武天皇の東征の時、後の神功皇后の三韓征伐の時にも登場しており、宇佐八幡宮からの分祀により現在につながる八幡宮となった。私もこちらには2021年の初詣の一環として、近所の庚午神社、そして宮島の厳島神社とともに参拝したことがある。当時はコロナ禍の影響で都道府県を跨ぐ移動がはばかられた頃で、2回目の広島勤務となった直後、初めて広島での年末年始だった。

海蔵寺と同じくらいの標高にあるが、八幡宮に通じる道がわからなかったので、いったん石段を下りて山陽線の踏切を渡り、改めて正面から石段を上がる。境内三の鳥居まで189段続くが、「ひやく」と読ませ、「飛躍」、「避厄」に通じるとされる。こういう石段なら一段飛ばしなどはしないほうがよさそうだ。

石段を上っている最中、沿道に並ぶ奉納者の名前の中に「広島東洋カープ 佐々岡真司」というのが目に入った。カープの名投手にして後のコーチ、監督である。情報によると佐々岡氏は毎年参拝しているそうで、こちらはコーチ時代に奉納したもののようだ。お住まいもこの近くなのかな。

石段を上りきり、拝殿の前に出る。ちょうど七五三のお参りの家族連れの姿も見える。八幡宮からのほうが草津界隈の景色もよりはっきり見える。かつての水運、水軍の拠点もすっかり埋め立てられたが、草津港、商工センター一帯は広島における流通、物流の一大拠点であるし、冬となると牡蠣も多く水揚げされる。これからの牡蠣シーズンが楽しみだ。

佐々岡氏のご縁なのか、あるいはその前からそうだったのか、境内にはカープ必勝祈願の絵馬のコーナーがある。絵馬にデザインされているのは、バットを笏に持ち替えたカープ坊や・・(顔は自由に描くことができる)。現在奉納されているのは2023年の必勝祈願で、新井監督への期待も込められたものも多かった。残念ながら優勝は逃し、タイガースとのクライマックスシリーズにも敗れて、私の祈願であるバファローズ対カープの日本シリーズまであと一歩残念だったのだが、久しぶりに広島の街は明るい雰囲気だったように思う。いや、こうなると「前監督」は複雑な気持ちになるのかもしれないが・・。

草津の電停に戻る途中の西国街道のたもとに、「置鳳輦止處」という石碑に出る。「鳳輦を置きしところ」と読み、この前にある造り酒屋の小泉本店は厳島神社や草津八幡宮の御神酒を奉納している。明治天皇の山陽行幸の時にここで休息したこと、また日清戦争時に広島の大本営に滞在していた明治天皇の陣中見舞いに訪ねた昭憲皇太后も宮島参拝の時に休息したことを記念して建立したという。

この後は広電に乗って自宅とは反対の宮島口方面に向かう。下車したのは佐伯区に入った楽々園。電停からも近い「塩屋天然温泉ほの湯楽々園」に入る。広島市内でも数少ない天然温泉で、加温のみの源泉かけ流しの湯や、各種の浴槽が楽しめるのでちょくちょく訪ねている。昼間の一時を楽しむ。

そして広電で帰宅したのだが、車内では「本日広島市内でイベントが開催されていますので、お帰りの際はあらかじめICカードへのチャージをお願いします」という呼びかけがあった。市内でイベント・・?ということでスマホで検索すると、この日(11月23日)はマツダスタジアムでカープファン感謝デー、そして広電の千田町車庫では創業記念日イベント「ひろでんの日」が行われるとあった。そりゃ、帰りはそれなりに混雑しそうだな・・。

カープのファン感謝デーについては、この日夕方の広島各局のローカルニュースでもトップの扱いだった(そこが広島らしいのだが)。中でも大きく取り上げられていたのが、カープからFAでバファローズへの移籍が発表された西川。カープファンへの最後の挨拶ということで登場し、ファンの方からも温かい声援が送られたという。

カープといえばこれまで多くの選手がFAで他球団に移籍し、その行き先がジャイアンツやタイガースだとブーイングも激しかったというが、西川本人も「セ・リーグなら意味がない、パ・リーグでどれだけできるかやってみたい」といっていたし、故郷の大阪の球団を選ぶのなら・・ということのようだ。バファローズといえば以前は「お断りックス」とすら言われていたところ、前季の森といい、(大阪出身の選手が続いたとはいえ)FAで選んでもらえる球団になるとは時代を感じる。

これは後の話だが、金銭面の条件はもっとも低かったものの、自身も子どもの頃ファンの球団で、さまざまな縁もあって大方の予想を覆してファイターズへのFA移籍を決めた山﨑福のような投手もいる。一般の企業でもそうだが、就職・転職において何を重要視するか・・というのがより多様化していることも反映しているように思う。給与を上げることは大切なことだが、単にそれだけではないということで・・・。

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第73番「高信寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(平和への祈りとえびす講)

2023年11月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、次は第73番・高信寺である。

高信寺、「こうしんじ」という読みなのだが、寺の名前に触れた時、私の頭の中では「高信二」と変換されていた。カープの元選手で、引退後はカープのコーチを務め、一軍ヘッドコーチ時代にはカープのリーグ3連覇にも貢献した。その後は2軍監督となり、2024年も継続が決まっている。どのタイミングだったか、一軍監督に推す声もあったと思う。

高信寺があるのは平和大通り、本川にかかる西平和大橋のたもと。河原町バス停を降りるとある石碑に出会う。これも原爆で犠牲になった人たちの慰霊碑なのかなと見ると、「広島県送出 元満州開拓青年義勇隊の物故者をまつる」とある。戦前、新天地を求めて各地から満州に渡った人たち。中国やソ連との戦いで戦死した人、あるいはソ連に抑留された人、命からがら帰国できた人とさまざまいる。また中国といえば、中国残留日本人孤児の問題もある。この石碑は生還者や有志の手により建てられたものだが、原爆とはまた違った意味で平和の尊さ、民族融和というのを祈念している。

さて、通りを渡った4階建てのビルが高信寺である。入口には「祈りの殿堂・高信寺」とあり、一瞬、このまま入っていい者かどうか迷う。寺のように山門があって、境内に本堂があれば、仮に本堂の扉が閉まっていて外からのお勤めであっても一応形にはなる。ただ、ビルの前で手を合わせてお勤めというのは妙なものだ。

そこで扉を開けるとスリッパに履き替えるよう貼り紙があり、エレベーターまたは階段で上がるようになっている。2階が本堂、4階が八角堂で、六観音を祀っているとある。このまま自由に入ってよさそうなので、まずは2階に上がる。

本格的な祭壇があり、ここで法要もできそうだ。

高信寺を建立したのは高さんという信心深い一人のご婦人という。原爆の熱風に耐えかね、川に飛び込んでそのまま命を落とした大勢の人たちを弔うため、私財を投げ打って寺院と観音像を建てたのが初めてだという。後に、世界平和と人類和楽を祈るスポットとして、現在地に新たに建てられた。本尊の十一面観音は「平和観音」とされている。

朱印は祭壇の脇に書置きがあったのをいただく。また4階に上がると小ぶりな六観音が揃う。外に出ることもでき、平和大通り、本川の景色も望める。

参詣を終え、そのまま本川に沿って歩き、平和公園に入る。欧米人の観光客姿も目立つ。コロナ禍明けでインバウンドの客が回復基調にある中、先日訪ねた宮島といい、広島を訪ねる外国人には欧米人が多い印象がある。爆買いを目的としたアジア人にとっては魅力がそれほど感じられないのだろうが・・。

この日は11月19日。そのまま本通りのアーケードを抜けると、「胡子大祭」として歩道には多くの出店が並ぶ。「えびす講」だ。広島の胡子神社が開かれたのは江戸時代の初めで、以後、毎年の大祭は400年以上欠かさず執り行われている。原爆の被害に遭った1945年でも、11月にはバラックの仮社殿を建てて奉納したという。またコロナ禍の時は規模を縮小しながらも大祭は行われたそうだ。

熊手が縁起物で、それは通りの屋台で買うことができるが、「ごまざらえ」という祈禱をしてもらって初めてご利益があるとされている。そのため、「ごまざらえ」を待つ長い列ができている。私はそこまでの信仰もないし、今の仕事でいえば商売繁盛というよりは交通安全、無病息災を祈願するのが近いかなということで、普通の参拝とする。

賽銭箱代わりに通りの真ん中に樽が置かれるのも広島らしい光景である。

さて「えびす講」といえば、1999年には暴走族が中央通りを占拠して、警察の機動隊と衝突、少年ら45人が逮捕されるという事件があった。当時私は1回目の広島勤務当時で、そもそも人混みがあまり好きでもなかったのでその場にはいなかったのだが、連日ニュースになっていたのは今でも微かに憶えている。暴走族といっても、単にバイクやクルマで暴走するだけではなく、暴力団が背後にいた点も問題になった。この1件で「広島は怖いところ」という悪評がより広まったように思う(ただでさえ、「仁義なき戦い」の影響で広島は・・・というのがあったのだが)。

ただ、その後は警察の取り締まり強化や、暴走族根絶に向けた条例の効果によりそうした暴動はなくなり、現在はあくまで平和に祭りを楽しむことはできる。ただ、今はネット社会の広まりにより、ある種の暴走行為や犯罪については形を変えて、しかもより陰湿に行われているようにも思う。

まあ、とにもかくにも「平和」を願うばかりである・・・。

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第72番「存光寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(大鳥居改修後初の宮島へ)

2023年11月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、次は第72番・存光寺だが、前回までの広島市中心部から一気に宮島に飛ぶ。宮島には広島新四国の第1番・大願寺があり、安芸の国をいろいろ回った後、最後に宮島に戻り、弥山の山頂で満願を迎えるのだが、その後半に1ヶ所だけ、存光寺がある。

広島新四国については札所順で訪ねることとしており、今回、この存光寺に行くために宮島に渡ることにする。宮島といえば、厳島神社の大鳥居の改修工事が2022年11月に完了し、鮮やかな色合いで多くの観光客、そして今年はG7サミットで各国首脳も招くことができた。かくいう私、前回宮島に渡った時はまだ工事中だったので、この機に大鳥居を見に行くのもいいだろう。

前回の広島新四国めぐりからすぐの11月5日。・・・いつまでも引きずるようで恐縮なのだが、この日の夜は決戦・日本シリーズ第7戦である。大一番を前に気持ちを落ち着かせようと、なぜか宮島に渡ることにする。こう書くと大仰なのだが、主な目的としては、ポツンと離れた第72番を抑えておき、再び広島市内を回るためである。

最寄りの高須電停から広電でトコトコと移動する。広電でアクセスする札所も点在しており、序盤、そしてこの後の終盤に登場することになる。

広電宮島口に到着。宮島への連絡船乗り場はすぐ目の前。多くの観光客で賑わっており、JR、松大汽船が交互に出航する乗り場にはいずれも乗船を待つ列ができている。ただ、宮島口から宮島に渡るなら、JR連絡船がお勧め。厳島神社の大鳥居に近いルートを行く。

宮島といえば、10月から「宮島訪問税」が徴収されている。ICカードだと、乗船時に改札機にタッチすると100円が上乗せして引き落とされる。

出航時には上階の展望デッキを含めて満員となる。やはり外国人(特に西洋系の)観光客も多い。コロナ禍も明け、このところの円安も重なっていると思う。私の周りにも西洋系の観光客がぐるりと集まり、ガイドらしき方がおそらく英語で案内している。どうやら牡蠣の養殖いかだについて解説しているようで、一斉にスマホやカメラを向けている。

もっとも、単語として聴きとれたのは「タイラノキヨモリ」くらいかな。厳島神社に信仰を寄せ、現在につながる社殿を整備した人物として紹介していたようだが、西洋流の「キヨモリ・タイラ」ではなく「タイラノキヨモリ」と言っていたのは、日本の歴史にもかなり詳しそうなガイドと見た。

ただ、それを耳にした私はといえば、平清盛、ターイラノキヨモリ、タイヤードキヨモリ、tiredキヨモリ、疲れた清盛、ベストガイ観て疲れた清盛・・・・昔あったラーメンズの「日本語学校」ネタを連想してしまう。田中角栄!

大改修を終えた大鳥居を初めて見る。

宮島桟橋に到着。

宮島に来ればまずは海岸沿い、または参道の商店街を通って厳島神社に参詣するところが、今回の目的地である存光寺はその手前である。メインの参道からいったん左手にそれ、人通りもそこまで多くない道を歩く。いったんトンネルを抜ける。

そして存光寺に到着。そして山門はと見ると、改修のためか、土台がむき出しになっており、工事中のフェンスが立てられている。これは境内に入れないのかと躊躇したが、フェンスの一部が扉になっており、そこから中に入ることができた。たぶん、大丈夫だろう。

存光寺が開かれたのは戦国時代、和泉の国から存光坊寂如阿闍梨が来て阿弥陀三尊を祀ったのが始まりという。工事中で落ち着かない感じだが、まずは本堂の前でお勤めとする。なぜ、あえて番号が飛ぶ第72番となったのかはわからないが、札所の並び順やこれまでの事例から推察するに、元々広島市街にあった寺が何らかの事情で札所を返上したか、あるいは廃寺になったのを受けて、宮島で歴史あるこの寺が名乗りを挙げたというところだろう。広島新四国の巡拝については、札所順にとらわれず、エリアごとに回ることを推奨していることもある。

さて、この存光寺のすぐ横に石段が伸びている。ちょっと急なのだが上ってみる。

するとそこには今伊勢神社が鎮座している。今でこそ厳島神社の末社の扱いのようだが、名前からして伊勢神宮を勧請して、存光寺ともども神仏習合で信仰を集めていたと思われる。そしてこの一帯は、かつて毛利元就と陶晴賢の厳島の戦いの舞台となった宮尾城があったところである。宮尾城は、陶の大軍をおびき寄せるため元就が築いた「おとりの城」と言われているが、対岸と合わせてもこの場所なら砦を築いても何の不思議もないところである。

厳島神社に行こう。存光寺の前は「町家通り」が伸びている。宮島には何度も訪ねているが、この通りを歩くのは初めてである。表参道商店街とは違い、宮島の人たちの生活道路となっている。その中に昔造りの町家と、それをリノベーションしたおしゃれな店も並ぶ。宮島の穴場スポットといえるかな。

そして、この角度での五重塔。一瞬、京都にでも来たかのように感じられる。

ここで表参道に合流する。こちらは一転して人混みの中である。なぜか中世貴族の衣装を身にまとった人がいる。神社関係者でもなさそうだし、そういうコスプレなのかな。

そして大鳥居へ。厳島神社を訪ねる時は特に満潮、干潮の時刻は意識せず、着いてからのお楽しみとしているが、今回訪ねた時はまだ潮が満ちていて、ちょうど小舟が大鳥居の下をくぐっていたところ。

厳島神社に参拝。社殿のあたりは潮が引いており、鏡の池も姿を現している。

これだけ賑わう厳島神社も久しぶりに見た。舞台の先では記念撮影する人の行列ができている。

潮が引いている海岸に下りてみる。天候に恵まれたよかった。

広島新四国の第1番・大願寺にも参詣する。ここで広島新四国八十八ヶ所めぐりを発願したのは2021年の元日。それからもうすぐ3年となるが、八十八ヶ所めぐりはまだ72番。結構時間を要しているが、次に宮島に来る時は最後の大聖院、そして弥山本堂にて結願としたいところだ。

帰りは表参道商店街を歩く。とにかく人混みが激しいし、昼食どきということでどの店も満席の様子だ。まあ、無理に入らなくてもいいか・・。

ただ何も食べずに宮島を後にするのももったいなく、桟橋前の店で一夜干しカキ串、そして夏生牡蠣をいただく。そろそろ牡蠣のシーズンで、行きつけのスーパーでも牡蠣が並ぶようになった。これからが楽しみである・・・。

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第71番「善応寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(ここ、お稲荷さんでしょ)

2023年11月15日 | 広島新四国八十八ヶ所

10月30日、仕事は代休として平日の昼に広島新四国八十八ヶ所に出かける。30日は月曜日ということで日本シリーズは「移動日」。もっとも、「なんば線シリーズ」と呼ばれたバファローズ対タイガースの日本シリーズ、それぞれの本拠地の近さも話題になっており、阪神のドーム前~甲子園間は営業キロで13.4キロ。直通列車に乗れば15分ほどで着く。ひょっとしたら、自分のホームグラウンドより相手グラウンドのほうが自宅に近いという選手もいるのではと思う。「移動日」というよりは「休養日」のようなもの。

かつて、もっとも移動距離が短かった日本シリーズもありましたな。1981年のファイターズ対ジャイアンツ。いずれも当時の後楽園球場で、1塁側と3塁側を入れ替えての試合。それでも規定により「移動日」があった。

その一方、「移動日」の原則を崩して行われたのが2000年のホークス対ジャイアンツ。あの「ON」監督対決として話題になったシリーズだが、ホークスの不手際により福岡ドームの日程を確保することができず、変則的な移動となった。その変則日程が勝負のアヤになったかどうかは何ともいえないが・・。

・・・さて、この記事は日本シリーズではなく、広島新四国である。

第70番・金龍禅寺を訪ね、次は第71番・善応寺である。善応寺があるのは本川町ということで、歩いて向かう。途中、平和記念公園を通る。修学旅行だろうか、制服姿の団体を見かける。平和記念公園を訪ねるのは原爆の日・8月6日の前日である8月5日の夕方以来である。

2023年は広島でG7サミットが行われ、各国首脳が平和記念公園、原爆資料館を訪ね、核兵器廃絶に向けた機運も高まったかに思えたが、ロシアとウクライナの戦闘は止むことなく(一時いわれていた、ロシアの核兵器使用はトーンダウンしたのかもしれないが)、ここに来てまた中東での戦闘である。ロシアとウクライナはともかく、パレスチナにせよ、イスラエルにせよ、クロマグロが泳ぎを止めると死んでしまうのと同じように、「戦争をしなければ死んでしまう」という方々が多いのだと勝手に想像する。

原爆慰霊碑の前には西洋人観光客が列をなしている。こういうところに来るくらいだから、戦争や平和に関しての意識が高いと思われる。日本を訪れる外国人観光客はアジア各国の割合が高いのだが、こと広島においては欧米からの観光客の割合が高いという統計もある。まあ、広島には「爆買い」できるほどのスポットがないということもあるのだろうが・・。

平和記念公園から原爆ドームまで抜ける。園内にある原爆供養塔は広島新四国八十八ヶ所の番外霊場で、現在の八十八ヶ所が平和への思いを込めて再興された経緯があるだけに、特別なところである。私も満願となった後には改めて訪ねる予定である。

相生橋を渡り、本川町に入る。スマホ地図を見ながら善応寺を目指すが、たどり着いたのは朱色の鳥居が数基並ぶ神社。間違いかと思ったが、鳥居の奥に「広島新四国八十八ヶ所」の札が見える。

善応寺はもともと豊田郡にあったが、関ヶ原の戦いの後に広島に入った福島正則の信仰により移ったという。江戸時代後期になり、境内に伏見稲荷大社の分霊を勧請し、広島における鍛冶稲荷の祭神としたという。

明治の廃仏毀釈のために廃寺寸前となったが復興し、おそらく原爆で壊滅しただろうが、現在は善応寺、鍛冶稲荷神社として神仏習合の名残を伝えるスポットのようだ。なお、寺としての本尊は十一面観音。神仏習合、本地垂迹の考えでは、稲荷神と十一面観音は同一とされている。

書き置き朱印の箱を見つけ、無事に朱印をいただく。

この後は土橋電停まで歩き、広電で帰宅する。次の第72番は・・・というところだが、何と宮島に渡る必要がある。札所番号順に回るにあたり、第72番だけ宮島に飛び出ている理由はわからないが、宮島に行くなら日を改めて、厳島神社と合わせて訪ねるところだろう。この日はそのまま帰宅し、日本シリーズの試合もないので(翌日から月末月初で忙しくなるし)、自宅でのんびりすることに・・・。

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第70番「金龍禅寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(代休での参詣)

2023年11月14日 | 広島新四国八十八ヶ所

話は10月30日、平日である。この日は代休となった。10月は何だかんだで仕事が忙しく、気がつけば総労働時間が、健康障害を考慮すべき時間数に達してしまい、それを少し緩和するために平日の休みとした。前々日の28日は大阪での日本シリーズ観戦、前日の29日は梅田で西国三十三所の先達研修会と大阪に滞在しており、30日に代休とするならそのままゆっくりするなり、実家に顔を出すこともできたのだが、29日の昼過ぎに先達研修会が終わるとそのまま広島に戻った(日本シリーズ第2戦のチケットが手元にあれば話は別だったのだろうが)。

それはともかく、平日の朝ゆっくり朝寝するのも滅多にないことである。

さて、この日は晴天でまだまだ気温も上がる時季ということもあり、昼前から少し出かけることにする。そこで広島新四国八十八ヶ所めぐりを進めることにする。目指すのは、前回訪ねたものの法事で立て込んでいる様子だったので参詣を見送った第70番・金龍禅寺である。

前回と同じくバスでNHK広島局がある放送会館前まで来て、平和大通りを少し歩く。両側の緑地帯エリアにはさまざまなオブジェが据え付けられており、作業中の一コマも見かける。どうやら「ひろしまドリミネーション2023」の準備中のようだ。11月17日から来年の1月3日までのイベントだが、そういえばちゃんと見たことがないなと思う。たまたまクルマで平和大通りを通った時にちらっと目にした程度。

金龍禅寺に着く。平日ということもあってか、新しい建物の寺はひっそりとしている。中の様子はわからない。これなら、前回来た時に門をくぐって法事の人たちの後ろからお参りすればよかったかなとも思う。

金龍禅寺がこの地で開かれたのは江戸時代前期。元々は今中将監が紀州で開基した寺だったが、紀州の浅野長晟が移封したのに伴って広島に移って来た。広島の昔からの寺院だが、毛利輝元の広島築城にともなって移ったところ、福島正則が保護したところ、そして浅野長晟の広島移封にくっついて来たところ、おおまかにはこれらに分類されるかな。ただ、1945年8月6日の原爆で被害に遭ったことは共通していて・・・。

金龍禅寺は爆心地から940メートルのところということで壊滅的な被害となったが、クロガネモチの木だけは奇跡的に残った。そのため、戦後は幸運の木、はては「クロガネモチ」という名前から金運を授かる木として多くの信仰を集めているという。

本堂の外からお勤めとして、朱印の箱はなかったのでインターフォンを鳴らす。出られたのは住職とおぼしき方で、書いてきましょうということで、日付の入った朱印をいただく。

次は第71番・善応寺だが、ほど近いので歩いて向かうとしよう。

平和大通りに向かう途中、お好み焼の「みっちゃん」に出会う。「みっちゃん」といえば広島のお好み焼でも有名店で、観光客も多く訪ねるところ。そのためか、地元民の中には敬遠する向きもあるが、現在の広島お好み焼の形を作った「井畝(いせ)満夫の店」を名乗る老舗であることは確かである。

広島お好み焼、一口に「肉玉そば」が基本形といっても、そばや具材の扱い方、焼き具合は店によりバラバラ。広島の人それぞれにそれこそ「お好み」があると思う。

善応寺があるのは本川町。ここは平和公園を通ることにしよう・・・。

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第69番「普門寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(マツダスタジアムでのクライマックスシリーズを前に・・)

2023年11月08日 | 広島新四国八十八ヶ所

全部で154の札所がある神仏霊場巡拝の道めぐりのうち、およそ半分に近い72ヶ所まで回ることができたが、一方で札所数を追い越された形になったのが広島新四国八十八ヶ所。

地元だからいつでも行けるということもあるのだが、前回広島新四国めぐりを行ったのは、広島原爆の日である8月6日よりも前の7月30日とある。そのまま、夏が過ぎてしまった。

次に目指すには第69番の普門寺。場所は元安川、平和大橋の近くである。

出かけたのは10月15日・・・前回から2ヶ月半開いた。さらに、記事にするのはそれよりさらに半月以上後となった。

10月15日は、ちょうどクライマックスシリーズ・ファーストステージ第2戦の当日である。この数日前、気まぐれでチケット取引サイトをのぞいてみると、内野席に手頃なチケットが出ていたので購入した次第である。マツダスタジアムに行くにあたり、市内中心部に札所が残っているので行っておくことにしよう。カープの必勝も祈願しようか。

バスにて放送会館(NHK)まで出る。

マンションや病院が並ぶ中、コンクリート造りの建物に出る。正面の門は閉まっているが、横の駐車場から入ることができる。本堂、座禅堂とも階段を上がったところに扉があるが、いずれも閉まっている。ということで階段の下でのお勤めとする。なお境内には枝垂桜が植えられており、桜の時季には見物に来る人も多いそうだ。

普門寺は毛利元就ゆかりの寺として紹介されている。奈良時代、行基が安芸吉田に滞在していた時、村人から時折川底から一筋の光が発し、山頂の樹上にかかるとい話を聞き、吉田山の山頂で座禅を組んだ。すると老人が現れ、光を発していたところを指したので、川底に網を下ろすと観音像が引き上げられた。この観音像を山上に祀ったのが寺の起こりとされる。

後に、毛利元就が観音堂で夜通し願掛けことがあった再、夢に大士の妙相が現れ、軍配団扇を授けられたという。また孫の輝元は、なかなか子どもに恵まれなかったが、観音堂に籠ってお参りしたところ、長男の秀就に恵まれたという。

毛利時代に吉田から広島近隣を転々とした後、関ヶ原の福島正則の時に現在地に移ったという。

またこの時は閉まっていたが、普門寺じたいは定期的に座禅会や「広島精進料理塾」などが開かれているという。当寺の吉村昇洋住職は精進料理についての著作も出しており、メディアにもしばしば出演しているそうだ。

庫裏のインターフォンで声をかけ、朱印をいただく。

この後、広電の線路をまたぐ。その交差点で、名古屋手羽先の「世界の山ちゃん」を見つける。広島にも店舗があったとは!・・・と驚いたのはウソで、店があることは以前から見かけて知っていた。八丁堀や本通りから少し離れた市役所近くにある店だが、この辺りもホテルが多いので夜の需要があるのだろう。これは一度は行ってみようか。

向かったのは、第66番・禅林寺。前回訪ねた時、ちょうど法事の前で取り込んでいる様子だったので朱印をいただくのを見合わせた寺だが、次の第70番・金龍禅寺のすぐ裏にあるのでこの機会に朱印をいただくことにする。本堂の前でお勤めとした後、無事に朱印をいただく。

そして金龍禅寺に向かったのだが・・・ちょうどクルマが境内の駐車場に続いて入り、本堂や庫裏の前では喪服姿の人たちが何人かいて、挨拶などしているところ。どうやらこの後から法事でも行われるようだ。前回の禅林寺と同じような形になったが、広島新四国なら次に出直しでいいだろう・・。

この後、広電には乗らずにそのまま歩いてマツダスタジアムに到着。カープ対ベイスターズのクライマックスシリーズ・ファーストステージ第2戦を観戦。カープが終盤に勝ち越し、タイガースとのファイナルステージに進んだ。結果はタイガースのストレート勝ちでバファローズとの日本シリーズとなり、連日の熱戦の末日本一となった。

個人的には現在の地元、第2の故郷である広島のカープが下克上して、バファローズとの日本シリーズを実現してほしかった。ただ、2位のカープが出場したとして、はたしてあのような連日の死闘の日本シリーズになったかどうかは、また別の話である・・・。

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第68番「正覚院別院薬師堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(松本明慶作の薬師如来)

2023年09月03日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは広島市中区をいったん離れ、廿日市に向かう。第68番は正覚院別院薬師堂である。第66番、第67番と回った後で、八丁堀から広電宮島線にてそのまま廿日市まで乗車する。

廿日市市は宮島も含めた周辺の自治体との合併で広い面積を有するが、廿日市駅・電停がある桜尾地区は宮島の対岸で、かつては三方を海に囲まれた桜尾城があった。毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時には毛利方の後方支援の拠点ともなったところである。福島正則の時に城は廃城となったが、廿日市は西国街道の宿場町として、また北前船の寄港地として賑わいを見せるようになった。

これから目指す薬師堂は電停からもほど近いのだが、その途中に廿日市天満宮というのがあるので行ってみる。電車を降りた時、小高い丘の上に社殿があるのが気になっていた。石段を上がっていく。

廿日市天満宮は鎌倉前期、藤原親実が厳島神社の神主に任命され(合わせて桜尾城主ともなった)、鎌倉の荏柄天神を勧請して社殿を造ったのが由来とされる。境内に入るとちょうど宮島の姿が見える。手前には埋め立て地が広がってマンションや倉庫、商業施設などが並ぶが、そうしたものがなかった昔は宮島もよりはっきり見え、天満宮が遥拝所の役目も持っていたのかなと想像する。

この境内に隣接して正覚院がある。石段を上ると左が天満宮、右が正覚院である。元々は天満宮の別当寺で、明治の神仏分離にて天満宮と正覚院に分かれたという。ただ見た感じ、同じ境内という以上に、建物も棟続きになっているように思われる。

ここ正覚院は広島新四国の第83番であり、札所順だともう一度来ることになる。現在は不動明王が本尊だが、元々は薬師如来を本尊としていたそうだ。その歴史を思い、当時の住職が1984年に発願し、1995年に檀信徒会館を兼ねた薬師堂が完成した。石段を下りて100メートルくらいのところに到着する。

その薬師堂、建物は鉄筋コンクリートの3階建てである。2階に広島新四国の札が出ているが、シャッターが下りていて中に入ることはできない。これ、ビルの外でお勤めということになるのかなと思いつつ、せめて朱印をいただこうと1階のインターフォンを鳴らす。「八十八ヶ所のお参りで・・」というとしばらく間があって寺の方が出て来られ、どうぞ拝んでいってくださいと家庭用エレベーターで3階まで案内していただく。

改めて3階の上り口から中に入る。法要などで薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、弘法大師などが祀られている。3階は法要などの仏事で使用し、2階は広間になっているとのこと。たまたまこの時は法要などがなかったので中に上げていただいた形だ。

こちらの薬師如来は平成の名仏師として知られる松本明慶氏の制作。そう言われればこれまでいくつか目にしたことのある作風だなと思い出す。京都を拠点にされているが、広島新四国の札所でも大願寺の不動明王、極楽寺の阿弥陀如来、福王寺の不動明王といったところが松本氏の作で、結構あるものだ。このたびは薬師如来を前にしてのお勤めである。

お勤めを終えてエレベーターで1階に下りると寺の方が待っていて、お接待としてお茶のペットボトルをいただく。そして、ここはお参りだけで納経は正覚院の本堂での対応になるので、電話で連絡しておくと言われた。

・・ということで、もう一度天満宮への石段を上り、正覚院に向かう。天満宮の建物とは棟続きに見えるが、さすがに玄関は別である。こちらでインターフォンを鳴らすと寺の方が薬師堂と正覚院の両方の朱印の紙を手に出て来られた。うーん、札所順に回る中、これで第83番は参詣済・・・とはしない。先ほどこちら本堂ではお勤めをしていないので、朱印だけ入手済として、ここはここで改めて来ることにしよう。

再び宮島線で自宅最寄りの高須まで戻る。廿日市近辺にも一献の場所があるので、また来た時にはそうしたところも訪ねてみようか・・・。

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第67番「延命院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(原爆の業火)

2023年09月02日 | 広島新四国八十八ヶ所

第66番・禅林寺を参詣後、同じ小町のすぐ近くにある第67番・延命院に向かう。寺の名前としては象王山普賢寺延命院と呼ぶそうだ。

通信制の並木学院に隣接して一応山門がある。町の中の寺院ということで境内もコンパクトである。本堂もコンクリート造りで最近改装したように見受けられるが、表の扉じたい閉まっている。

境内の一角に祠があり、ここに広島新四国の札がかかっているから、札所めぐりの人はこちらでお参りすれば十分というところか。

延命院は江戸時代、空賢上人が紀州から来て開いたとされる。やはり、浅野氏が紀州から広島に転封されたのに合わせてのことで、周囲の寺院と同じように新たに干拓した地に形成された寺町の一つであろう。

城下町の一角を寺院で固めるのは城郭の防御の目的もあったという。広島の場合、広島城を中心に見ると西に今も地名で残る寺町、東の丑寅の方角には二葉の里地区の東照宮をはじめとした寺社、そして南のこの一角という位置づけのようだ。北は、不動院が該当するかな。

さて祠には「あごなし地蔵」をはじめとした地蔵像ほかが何体も並ぶ。広島新四国のサイトでの紹介ページでは「原爆の業火を一身に受けられた延命唯一のみ仏」と記されている。ともかくこちらでお勤めとする。

祠の中には朱印の紙が置かれた例の黒い箱はなく、本堂の扉は閉まっている。つながっているのが庫裏のようなので階段を上がって玄関に向かうと、先に扉が開いて住職らしき方が出迎える。カメラでもあって、境内をうろうろしていたのが目に入ったかな。こちらで紙を受け取る。

外の通りはさまざまな飲食店も並ぶ「じぞう通り」である。由来はここ延命院の地蔵ではないそうだが・・。

さてしばらく中区一帯の札所が続くが、さて第68番は・・というとこの周りにはない。検索すると、第68番は廿日市市にある正覚院別院薬師堂。そして第69番はまた中区に戻って普門寺、第70番が禅林寺、延命院のすぐ近くの金龍禅寺である。この並びからすると、第68番は元々この近くのどこかの寺院だったのが、何らかの事情で札所を返上し、それを廿日市にある第83番の正覚院が引き取り、別院の薬師堂に第68番をつけたと思われる。

この後、じぞう通りから並木通りに入り、そのまま八丁堀近辺に出たので中心部の賑わいを楽しみ、昼食とする。その時に考えたのだが、次の第68番だけ廿日市で離れているが、またそのためだけに出かけるのももったいないので、今回そのまま向かうことにした。広電の廿日市からも近いので、八丁堀からそのまま宮島線に揺られる。暑い中を歩いたので、涼みがてらの移動である・・・。

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第66番「禅林寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(広島の茶人)

2023年09月01日 | 広島新四国八十八ヶ所

8月6日の広島原爆の日を前に、広島新四国八十八ヶ所めぐりの続きで出かけることにする。7月30日のこと。

今回は広島市の中心部に近い小町に向かう。まず訪ねるのは第66番・禅林寺。名前からして禅宗系の寺と推察され、八十八ヶ所のサイトを見るとはたして臨済宗妙心寺派とある。

自宅最寄りの停留所からバスに乗り、平和大通りに面した放送会館前で下車する。白神社から改めて平和大通りを歩いてみると、街路樹の間に被爆者の慰霊碑が点在するのに出会う。この一帯は原爆の被害が大きかったところである。先般広島のテレビ番組で、戦時下の広島にあって、空襲による延焼を防ぐための「建物疎開」のために動員されていた女学校の生徒たちが被爆した悲しい歴史を取り上げていたのを見たばかりである。

平和大通りの南に出る。店舗やマンションが建ち並ぶ中、所々にコンクリート造りの寺が目につき、一角には比較的新しいとおぼしき観音像もある。広島市役所や国泰寺高校に近いこの辺りは元々海だったが、江戸時代の広島藩による干拓で陸地となり、寺町が形成された歴史がある。これから訪ねる禅林寺も、元々は福島正則の時に尾張から高厳和尚を迎えて開かれた寺だが、当初は現在の旧日本銀行広島支店、頼山陽旧居跡あたりにあったのを、浅野氏の代になってからこの地に移されたという。

地図だと禅林寺に来たようだが。寺が見当たらない。そんな中で表札、案内板を見つけた。山門もなく、奥に本堂らしき建物が見える。隣接するマンションと同じ敷地にあるかのようである。

本堂の扉が閉まっているので外で勤めとする。縁側には、原爆慰霊か、お盆供養に使うのか卒塔婆が並べられ、参詣者がセルフで祈願の文字を入れるようになっている。また、本堂の前には「茶筅塚」があったり、鹿威しもある。隣接する建物も茶道教室でもやってそうな雰囲気だ。

読経していると、礼服姿の人たちが何人かやって来た。どうやら今から法事でもあるようで、住職や寺の方が出迎える。ちょっと込み入りそうだなと思い、今回ここで朱印をいただくのは見合わせることにした。というのも、禅林寺のすぐ裏手に第70番・金龍禅寺があるのだが、広島新四国は札所順で回ることにしているので、訪れるのはこの先第67番~第69番の後である。日を改めてその時に来ればよいと思った。

案内板によると、本堂裏の墓地に「上田宗箇遺髪塚」というのがある。上田宗箇とは初めて目にする名前だが、武将にして茶人、そして現在に続く上田宗箇流を開いた人物とある。元々は丹羽長秀に仕えていた武将で、長秀の死後は豊臣秀吉に取り立てられ、一万石の大名までなった。その後関ヶ原の戦いで西軍についたことで領地を没収されたが、当時紀州藩を治めていた浅野家に取り立てられ、浅野家の広島転封後は国家老として、また茶人として過ごしたという。

体のほうの墓は別にあるそうだが、禅林寺は上田家の菩提寺だったそうで、宗箇以降何代かの墓も残されている。

なるほど、広島ゆかりの茶人ということでの「茶筅塚」だったか。

寺は原爆で焼失してしまったが、爆風や火災に耐えた墓石が今もここに残されているという。

次はすぐのところにある第67番・延命院に向かう・・・。

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第65番「洞門寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(65番を受け継ぐ寺院)

2023年07月20日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、第63番・光明院、第64番・宝勝院と来て、私のスマホに入れている全国各地の札所めぐりの地図が掲載されているアプリ「かむ朱印」では、第65番として三輪不動院が示されている。広電の銀山町電停の近くにある。また白島まで戻り、白島線で八丁堀まで戻ってぶらぶら行く感じかな。

しかし、寺の情報を見ようと三輪不動院を検索すると、どうも様子がおかしい。そして、広島新四国の公式サイトを見ると、第65番は新白島の祇園新道沿いにある洞門寺と示されている。

その三輪不動院だが、いつしか廃寺になったそうで、2019年度に他の2ヶ所とともに札所寺院が入れ替わったとある。他の2ヶ所とは、第11番・養徳院(現在は安楽寺)、そして第85番・徳寿寺(現在は安養院)である。安楽寺は東区馬木にあってすでに参詣済だが、安養院は広島駅に近い東区曙にあるが、参詣はまだ先である。もっとも、80番台後半となると宮島島内の札所が続き、一応札所順で回る中、宮島に行ったかと思えばもう一度広島駅まで行かなければならない・・という事態となる。まあ、それはその時に考えるとしよう。

それに比べれば、新たな第65番・洞門寺が新白島にあるのはこれまでの道順からして何ら不自然ではない。宝勝院を出て、高級住宅も並ぶ中を歩き、新しい建物の寺に到着する。山門もなく、道路に面していきなり本堂、そしてその西側、祇園新道側に墓地が広がる。

この洞門寺の歴史だが、江戸初期に浅野家が紀州から広島に転封された時に始まる。藩主の浅野長晟の家臣に小野覚雲という人がいたが、長晟の広島入りを前にその準備を命じられ、見事にその役目を果たしたとして広島城の北にあった茶屋を含む一帯を与えられた。覚雲はここに屋敷を構え、自らを開基として屋敷の一角に小野家の菩提寺を建立した。これが洞門寺の始まりという。

しかし覚雲が亡くなったことで小野家が廃絶となり、後に同じ家臣の西尾家が継ぐ形で菩提寺となった。明治の廃藩置県で一般の禅宗寺院として開放された。

そして、こちらも広島原爆により諸堂が倒壊、焼失した。戦後、バラック造りから再建が始まり、現在の建物は2007年に再建されたものだという。

残念ながらこちらは本堂の扉が閉まっており、外から本尊阿弥陀如来に向かってのお勤めとする。上り口の横に朱印箱が置かれ、書き置きの朱印をいただく。

時間はまだ昼になったばかり。次の札所はそれこそ市街中心部にあるが、それは次に回すとして、交差点を挟んで南側にあるアストラムラインの城北駅に向かい、本通に出る。せっかくなので、どこかで昼飲みでもして札所めぐりを締めくくるとするか・・・。

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