まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

「やくも」国鉄色リバイバル車両で出雲へ

2022年05月31日 | 旅行記F・中国

話は再び「やくも」国鉄色リバイバル車両の旅へ。

5月21日、岡山11時05分発の「やくも9号」に乗車する。この列車は昔の国鉄色で、「やくも」運行開始50年を記念して1編成がリバイバルとなった。出雲市~岡山を1日2往復する。

今回は指定席を確保。6両編成のうち、先頭1号車はグリーン車、2・3・6号車が指定席、4・5号車が自由席だ。特に混雑する時期でないこともあり、指定席は確保したが席には十分な余裕がある。ちなみに自由席も並ばずともゆったり着席できるくらいだった。撮り鉄が大勢押しかけることもあり、乗るほうも満員御礼なのかなと思ったが意外だった。なお、塗装は国鉄色で、車内のところどころに国鉄の名残もあるのだが、車内設備はあくまでJRになって改良されたものである。

その中であえて取ったのがこの席。車両中央部に、通路側の一人ぼっち席というのがある。構造上、空調ダクトが壁に設けられていて、そのでっぱりの分だけ席を空ける必要があるため、このような造りとなった。

もっとも、座るのは一人ぼっち席ではない。その後ろの席である。一人ぼっち席はあくまで通路側だし、ダクトにさえぎられて窓の外もよく見えない。逆にその後ろの席なら、前の空間があるぶん、私の短い足もゆっくり伸ばすことができる。これこそ「ゆったりやくも」の穴場だろう。ただ、前席背後のテーブルがなく、自席のひじ掛けの小さいものしかないので、ちょっと隣の席を拝借して一人ぼっち席背後のテーブルを使う。

「鉄道唱歌」のオルゴールが流れ、案内放送が流れる。まずは高速で走り、倉敷に到着。ここから伯備線に入る。大きくカーブを描くと、窓から先頭部分がちらりと見える。ここからは高梁川沿いの景色を楽しむ。

381系の大きな特徴は「自然振り子式」。カーブを通過する時に発生する遠心力を利用して車体を傾けることで、速度を保ったまま走行できる。他に「しなの」の中央線、「くろしお」の紀勢線で活躍したが、いずれもカーブが続く難所の区間で、スピードアップに貢献した。

一方、独特の揺れに気分が悪くなる人も結構いるそうで、洗面所にはエチケット袋も用意されている。

その後、「振り子式」の技術の向上が図られ、JR四国の気動車特急にも導入されている。ちなみに、381系からの置き換えとなる新型車両については、「車上型制御付き振り子式」というのが導入されるとあり、高速運転と乗り心地の両方を提供するとある。いずれ、新型車両と国鉄色がすれ違う日が来ることだろう。

備中高梁で下車する人が多く、ここから単線となりカーブも多くなる区間をかきわけて走る。

115系の湘南色も側線に停まる新見に到着。このところのJR西日本岡山地区は、「国鉄岡山」と言わんばかりに国鉄カラーを一つの商売ネタにしている。この「やくも」もそうだが、津山線を中心にキハ47の「ノスタルジー号」というのもある。この夏、「岡山ディスティネーションキャンペーン」が開かれるが、その中心にあるのは岡山地区の懐かしい鉄道のようだ。そうした層に焦点を合わせているのかな。キャンペーン内では津山線・因美線で「ノスタルジー号」を運行するほか、かつての急行「砂丘」、「鷲羽」を団体列車としてリバイバル運転する企画もある。「砂丘」、「鷲羽」の詳細は後日発表とあるが、タイミングが合えば乗ってみたいなと思う。

新見から先の伯備線の北側の区間は、単線ということもあってのんびり走るように見える。秘境駅の布原も通過する。

鳥取県に入ったところで昼食。これまで足を伸ばして、缶ビールやチューハイを開けて「飲み鉄」を楽しんでいたが(傍から見れば見苦しいおっさんだろうが)、食事は岡山駅で購入したにぎり寿司。その具材はサワラ、ままかり、黄ニラと岡山ならではのもの。黄ニラはシャキッと、少し鼻にツンと来る。

列車は分水嶺を過ぎて日野川に沿うようになり、その後も沿線の小さな駅を運転停車も含めて通過する。座席に身をゆだねて、車両の揺れと振り子に身を任せて進んでいく。

景色が開けて、右手にはうっすらとだが大山の姿を見る。

伯耆大山から山陰線に入り、米子に到着。列車としてはここで一区切りである。

ここからは山陰線の電化区間を走る。単線と複線が入り混じるところで、カーブは少ないので振り子を実感することはほとんどないのだが、車両が古いのか線路が今一つなのか、上下には結構揺れる。

松江を過ぎると宍道湖の眺めである。この日は天候もよく、湖面も穏やかである。その西にある宍道を過ぎる。木次線の分岐駅で、ちょうど備後落合行きの列車が停まっている。ロングシート1両の車内には空席があるように見えた。

ここまで来ると出雲市が近い。斐伊川の橋梁を渡り、3時間かけての国鉄色の旅もそろそろ終わりとなる。

14時12分、出雲市に到着。時間帯のせいか、出雲市に降り立った客はそれほど多くない。ただ、ここまで乗って来た記念に国鉄色に向けて多くのスマホやカメラが向けられる。やはり見ていて落ち着いた雰囲気を出している。

正面の案内幕が「やくも」から「回送」に変わる。この後、出雲市15時30分発の「やくも24号」として岡山に向かう。さすがに出雲大社には行けないが、駅前の「らんぷの湯」に浸かり、高架下の売店で出雲土産を購入した後で乗るくらいの時間はある。今回は片道乗車で満足したが、いずれ引退までに、国鉄色「やくも」での弾丸往復というのをやってもいいかな。

さて出雲市からどうするか・・・。

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観戦記・バファローズ対ドラゴンズ@京セラドーム交流戦第2戦(またも打線が山本を援護できず・・)

2022年05月30日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

NPBプロ野球は5月24日から交流戦に入っている。昨年2021年はバファローズが交流戦にて優勝し、その勢いでパ・リーグ上位に入り、そのままリーグ優勝を成し遂げた。それだけに今季も浮上のきっかけにしたいところだが、最初のジャイアンツ戦は負け越し、そして2カード目のドラゴンズ戦も初戦を落とした。

28日の第2戦の観戦のために京セラドームにやって来た。今回の観戦は「神仏霊場巡拝の道」めぐりで奈良県南部を訪ねるのとセットにしてのお出かけである。神仏霊場めぐりについては後日別の記事でまとめる。

交流戦の生観戦も久しぶりのこと。2020年はコロナ禍にともなう緊急事態宣言の影響で交流戦そのものが見送りとなり、2021年は無観客での開催だった。今季はこのドラゴンズ第2戦のほかに、広島でのカープ第3戦の生観戦を予定している。

この3連戦は「オリ姫デー」。数年前までは選手も「オリ姫」をイメージした色・デザインのユニフォームを着用していたが、成績が芳しくなかったこともあり、このところはユニフォームつきチケットの購入客への引き換えとなっている。スクリーンでも選手たちのファッションが映し出されるが・・。

バファローズの先発はエースの山本。一方ドラゴンズの先発は5年目でプロ初先発の鈴木。

山本は普通に投げればある程度抑えられるとして、問題は打線である。交流戦に入っても、あと1本がでずに敗戦ということが続いている。

試合開始。初回、山本は3番・鵜飼に死球を与えるも続くビシエドを見逃し三振に打ち取り、まずまずの立ち上がり。

1回裏、バファローズは3番・中川の四球、4番・マッカーシーのヒットで二死一・三塁とするも、5番に上がった杉本が力のない内野フライで凡退。先制のチャンスを逃す。

先制はドラゴンズ。3回表、一死から9番・岡林が右中間を破る当たりを放つ。俊足を飛ばして一気に三塁へ。続く大島がライトへのヒットを放ち、1点が入る。レフトスタンドだけでなく三塁内野席からも大きな拍手が起こる。後続を退けて1失点で止めたが、早いうちに追いつかなければまたズルズル行って見殺しにしかねない。

その山本は4回から7回まで三者凡退を続け、打たれたヒットも3回の2本だけだった。

いっぽうのバファローズ打線は3回裏に宗が二塁打で出塁も、中川、マッカーシーが倒れて無得点。4回裏も杉本がヒットで出塁も、野口の併殺でチャンスをつぶす。さらに5回裏も死球とバントで一死二塁とするが、福田、宗が倒れて得点できず。ドラゴンズの鈴木は5回まで無失点、勝ち投手の権利を得て交代となる。

7回表、スタジアムには「燃えよドラゴンズ」が流れる。

7回裏、「SKY」が流れてからようやく試合が前に進む。ドラゴンズ3人目の祖父江から、先頭の野口が二塁打で出塁。続く伏見がバントで一死三塁とする。

ドラゴンズは4人目のロドリゲスに交代して、打席には宜保の代打・西野。その打球はセカンド阿部のところへ。

野口が本塁に突っ込み、阿部がホームに送球する。判定はセーフ。ここで立浪親方から物言い・・もとい立浪監督からリクエストがあったが、判定は変わらず1対1の同点(記録は阿部の野選)。

続く福田が四球で出塁して一気に逆転としたかったが、ロドリゲスの剛球がうなる。宗、中川が連続三振で倒れ、追加点が奪えない。ここがこの日の勝負の分かれ目だったと思う。

8回表も山本が続投したが、桂の当たりに途中出場の山足が追いつくが内野安打(代走・高松)。牽制球で警戒するも、打者の岡林に四球を与えて一死一・二塁。先制タイムリーの大島は凡退したが、次の2番・三ツ俣の当たりは三遊間を抜く。高松が生還して2対1、ドラゴンズが勝ち越しだ。これでスタンドの雰囲気が一気に重くなる。結局山本は8回まで投げて被安打4、奪三振3(意外と少なかった)、失点2という結果。

1点くらい何とかならんかと思う8回裏、先頭のマッカーシーがヒット(代走・小田)。ドラゴンズ5人目の山本の暴投で二塁に進み、続く杉本の外野フライの間に三塁に進む。一死三塁。

犠牲フライでも同点という場面で頓宮だったが、初球を簡単に打ち上げて浅い外野フライ。これでは小田も生還できない。そして野口は低めの球を見逃して三振。判定はどうかというところだったが・・。7回裏に続いて悔いの残る攻撃で、これも勝負の分かれ目だった。

9回表はビドルが登板。ジャイアンツ戦ではこの人が登板した8回にいずれも失点して敗戦につながっただけに大丈夫かと思ったが、案の定、阿部の二塁打をきっかけに二死一・二塁とされ、途中出場の木下が左中間への当たりを放つ。これで2点追加、4対1とリードを広げられる。この投手もこの先大丈夫だろうか・・?

9回裏はクローザーのマルティネスが登板。4対1の場面なら楽勝もので、三者凡退に抑えて試合終了。これでバファローズは交流戦2カード連続の負け越しとなった。またも山本の好投も打線のあと1本がなくて勝ち取れなかった試合である。

ヒーローインタビューは勝ち越し打の三ツ俣。元々はバファローズに入団した選手である。トレードでドラゴンズに移り、守備での出場が多い選手だが、このところのドラゴンズ内野手の離脱で出場が増えている。インタビューを聞いていると、後ろの席から「三ツ俣くん帰って来て~~!」という声が聞こえる。ドラゴンズに移ってからの期間のほうが長いのだが・・、

この日は悔しい敗戦となり、泊まったホテルで観戦記を書く気にもなれなかった。

さて翌29日の第3戦。バファローズ・宮城、ドラゴンズ・柳の両先発だったが、この試合から復帰したT-岡田のタイムリーと一発、杉本にも久しぶりの一発が出るなどして、これまでのうっぷんを晴らすかのように8対0で快勝。29日は神仏霊場めぐりでずっと外を回っていて結果を見ただけだったが、こういう攻撃を28日にも見たかった。観戦できなかったのは残念だが、とりあえずいい形で1つ勝てたのはプラスである。

交流戦は序盤を終えてバファローズは2勝4敗、11位と苦しい結果。ただ、その下の最下位にいるのはカープで、1勝5敗、それもホークス相手に7対0、11対1、8対0と目も当てられない結果である。広島の人たちはまた我慢の時季となったが、次の週末のカープ対バファローズはどのような戦いになるのだろうか・・・。

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「やくも」国鉄色リバイバル車両と「奥出雲おろち号」を目指す循環旅

2022年05月28日 | 旅行記F・中国

2022年は山陽新幹線の岡山開業から50年、また同時に、新幹線に接続して伯備線経由で山陽と山陰を結ぶ特急「やくも」の運転が開始されてから50年である。これを記念して、3月から「やくも」1編成の塗装をかつての国鉄色に変更し、新型車両が導入される予定の2024年春頃まで運転されている。

使用される国鉄型の381系は現在「やくも」でのみ運転されていて、その筋の人にとっては貴重な存在である。現在はJR以降のオリジナル色で走っているが、それが国鉄色にリバイバルするということで注目が集まっている。早速?沿線では撮影をめぐってのトラブル、迷惑行為が報じられているようだが・・。

私としては、列車というのは実際に乗ってなんぼである。車内で過ごす分には国鉄色かどうかはあまり影響しないのだが、そうした列車に乗り込む、そうした列車から降り立つことで昔の旅の風情を少しでも感じてみたいものである(実際、国鉄色の特急列車に乗った経験はほとんどないのだが・・)。

国鉄色は「やくも8・9・24・25号」として運転されていて、出雲市から朝の「やくも8号」として出発して、1日2往復して「やくも25号」で戻るパターン。山陽・岡山側から見れば、11時05分発の「やくも9号」に乗るか、18時39分着の「やくも24号」で戻るのがよいだろう。往復乗ってもいいし、行きまたは帰りに広島~出雲市間の高速バスを利用すれば、日帰りでも循環ルートで楽しむことができる・・・。

ここでもう一つ気になる列車。国鉄色とは少し違うが、ディーゼル機関車に牽引された客車列車がある。車両の老朽化により2023年度での廃止が決まっている「奥出雲おろち号」。もう少し猶予があるとはいえ、山陰に行くのならこちらにも乗っておきたい。

その「おろち号」には直近では2021年9月にも乗車したが、その時はクルマで前日に木次まで行って宿泊。当日は木次駅前にクルマを停めて、わざわざ延長運転の始発である出雲市まで木次線~山陰線で移動してから備後落合までの全区間を往復し、木次からクルマで広島に戻るルートだった。そうまでして乗りたいのかと言われそうだが・・。

「おろち号」は人気があり、2022年の運転が始まってからネット予約で空席をチェックするも連日満席である。「e5489」の場合、指定席券発売開始である乗車1ヶ月前にプラスしてさらに5日前から事前申込が可能なのだが、それでもダメ。もっとも、備後落合行きの場合は三井野原~備後落合間、また延長運転の出雲市~木次間なら空席があり、備後落合から木次行きの場合は全区間空席があることが多い。地元を盛り上げようと「おろち号」乗車がついたツアーがあ設定されていて、その多くは木次~三井野原間で「おろち号」に乗る。席の何割かは旅行会社が押さえていると言ってもいいだろう。

・・とは言え、ネットを頻繁にチェックしていると備後落合行きでもたまたま空席表示されることがあるもので、通路側ながら、5月22日の出雲市~備後落合間の指定席を確保することができた。

「おろち号」に乗ることができるのなら、これをベースにして先に書いた「国鉄色やくも」との組み合わせを考える。その結果、21日に岡山から「やくも9号」で出雲市まで行き、その日は出雲市泊。そして翌日は出雲市から「奥出雲おろち号」に乗車して備後落合へ。備後落合からの芸備線が2時間待ちとなるため、いったん「おろち号」の復路に乗って出雲坂根まで行き、行き違いとなる普通列車に飛び移って備後落合に戻ることにした。前に乗った時、「出雲坂根で反対列車に乗り換えの方は車掌までお知らせください」とあったので、そういう乗り方は可能だと判断。最後は備後落合から芸備線を乗り継げば、まだ日があるうちに広島に戻ることができる。これも循環ルートだ。

ということで、久しぶりに「札所めぐり」がまったく絡まない旅に出る。

5月21日朝、広島駅の新幹線ホームに向かう。手にあるのは「広島市内発広島市内着」の乗車券。経由に「広島・新幹線・伯備・山陰・木次・芸備」とある。木次線の分岐である宍道と出雲市との間は飛び出し乗車として別運賃が必要だが、途中駅で乗車券を区切るよりも安くなる。

そして乗車するのは広島8時55分発の「こだま840号」岡山行き。500系使用ということで、元グリーン車の6号車に乗る。500系じたいはJRになってからの車両だが、こちらも本数が少なくなっており、今回の旅のテーマにも合っている。

次の東広島では、反対側に博多行きの「こだま839号」が通過待ちの停車中。500系どうしが並ぶ光景も珍しい。

9時台ともなると列車の本数も増えており、この先の各駅で通過待ちの停車がある。

10時26分、岡山到着。「やくも9号」の発車は11時05分と少し時間があるが、今回は乗車券の特例を使っているので改札の外に出ることができない。次の「やくも」には3時間あまり乗るが、ちょうど昼時ということで「飲み鉄」としようかと、改札内にてあれこれ買い求める。

在来線ホームに降りるとすでにカメラを構えた人たちがホームのあちこちにいる。その向こうで国鉄色が出番を待っている。まずは長い4番線の端まで歩いて行き、その姿をチェックする。

そろそろ入線時刻となり、発車する2番線に向かう。6両編成でやって来た。これから、出雲に向けて出発である・・・。

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京都31番「真正極楽寺」~神仏霊場巡拝の道・10(東山にこういう大寺があるとは)

2022年05月26日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場めぐりの金閣~銀閣シリーズ。慈照寺銀閣を後にして、しばらく哲学の道を歩く。琵琶湖疎水に沿って続く散歩道で、沿道はさまざまな木々が植えられている。5月のこの時季は新緑を楽しむことができ、散策する人が行き来する中、ベンチや自前の折り畳み椅子に腰かけて周囲をデッサンする人もちらほら見える。自分の筆でこの景色を表現することそのものが楽しみなのだろう。

哲学の道の名付け親ともいえる哲学者・西田幾多郎の石碑がある。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」。自分が進むべき道をひたすらに進む確固たる信念を表現した歌とされる。

慈照寺から次の真正極楽寺まで距離はそれほど離れていないが、白川通に出るよりは山側に並走する哲学の道がいいだろうとたどってきたところ、そろそろ近くなってきたので別れる。白川通を横断して、少し上り坂を歩くと真正極楽寺の本堂前に出た。ただ、横から入って来た形なのでいったん石段を下りて山門まで戻り、改めての参詣とする。

緩やかな石段を上ったところで三重塔を見る。

真正極楽寺は真如堂の通称のほうが有名だという。いずれにしても初めての参詣なのだが、平安中期、比叡山延暦寺の僧・戒算が夢のお告げで延暦寺常行堂の阿弥陀如来を移したのが由来とされる。なお、この阿弥陀如来は慈覚大師円仁の作と伝えられる。その後、応仁の乱の時に本尊阿弥陀如来が近江に避難させられたのをはじめとして、寺そのものも移転と再興を繰り返し、現在地に落ち着いたのは江戸中期。現在の本堂もその時の再建とある。

靴を脱いで外陣に入る。この日(5月15日)の神仏霊場めぐりでは、この前まで神社3ヶ所、寺院2ヶ所を訪ねた。神社はともかくとして、2ヶ所の寺院とは鹿苑寺と慈照寺、金閣と銀閣である。一応お勤めはしたものの、これらはいずれも寺というよりはかつての足利将軍の庭園見学の要素が強かった。この日6ヶ所目にしてようやく、寺らしい寺を訪ねることができたと思う(この先、こうした場面は何度となくあるだろうが)。

外陣の広間の畳に座ってのお勤めとする。

また真正極楽寺では、500円で内陣および庭園の拝観ができるという。その受付もかねて、外陣にある納経所に朱印帳を差し出す。「無量寿と書かせていただきました」と返される。無量寿とは阿弥陀如来の別名で、そういえば浄土真宗で読まれる「正信偈」の最初に、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とあったのを覚えている(母方の実家が浄土真宗で、祖父・祖母の葬儀の時に読経されていたような)。後半の不可思議光というのも阿弥陀如来の別名だそうで、この一節はとにかく「阿弥陀様に願い敬う」という意味なのだという。・・・ちょうどこの札所めぐりの行き先をあみだくじに委ねているのだが。

本堂の縁側から渡り廊下を通る。

向かった先には広間を挟んで2つの庭園がある。まずは「涅槃の庭」。造園家・曽根三郎氏が1988年に手掛けた枯山水庭園である。テーマは釈迦入滅(涅槃)で、ガンジス川を白砂で表現し、横たわる釈迦とそれを取り囲む弟子や動物たちを石組みで描いている。あの石が釈迦の頭部なのかなとか想像してみる。

もう一方は「隨縁の庭」。作庭家・重森三玲の孫である重森千青氏が2010年に手掛けた庭である。幾何学的な文様があるなと見るに、三井家の家紋をイメージしたものとある。真正極楽寺が江戸時代の豪商である三井家の菩提寺ということからだそうだ。

この真正極楽寺・真如堂、これだけの規模の寺院ながら今回初めて知った。京都の中でも鹿苑寺や慈照寺のように観光客や修学旅行生が多数訪ねるスポットではないようだが、逆に、このくらいの寺ならごく普通にあるという京都の奥深さも感じる。

本堂に戻り、片隅に腰を下ろして神仏霊場めぐりの次の行き先決めである。阿弥陀如来の前でのあみだくじ、ええやないか・・・。

くじ引きによる出走表は以下のとおり。

・唐招提寺(奈良11番)

・談山神社(奈良24番)

・帯解寺(奈良5番)

・八坂神社(京都36番)

・岩船寺(京都49番)

・丹生川上神社上社(奈良27番)

・・・くじ引きアプリがどういう思考回路をしているのかはわからないが、奈良と京都に偏った。ただここで八坂神社が出たならば、この後引き続いて参詣しようと思う。京都の市街地をさらにぐるりと回ることになるが・・。

その中で、あみだくじの結果は2枠に割り当てられた丹生川上神社上社。奈良といっても吉野の向こうである。前のシリーズで壷阪寺と金峯山寺蔵王堂を訪ねたばかり。その時、吉野地区の他の神社はレンタカーで一気に回るか・・と想定していたが、まさか次の次でそうした展開になるとは。丹生川上神社はそれぞれ離れているが、下社・中社・上社の「三社」でつながっていて、次のシリーズはこの三社を回ることがメインになるだろう。

次の行き先が決まったことで、6ヶ所の寺社を回った今回の神仏霊場めぐりはおしまいとする。近くの錦林車庫前からバスに乗り、京阪の出町柳まで出る。

帰りの新幹線にはまだまだ時間があるので、大阪へは出町柳から京阪に乗ることにする。そうなるとお目当ては当然京阪特急のプレミアムカー。1人席にも空席があり、早速の乗車である。今回、新幹線プランを京都ではなく新大阪までとしたことで、大阪まで自由に移動することができる。この日それなりに歩いたことで、プレミアムカーの中での「飲み鉄」も楽しむことにする。

新大阪からは「のぞみ」を予約していたが、思ったよりも早く戻って来たこともあり、(本来ならよろしくないのだろうが)先発する「ひかり」岡山行きと、岡山から「こだま」のそれぞれ自由席を乗り継いで広島に戻る。

今回の神仏霊場めぐりは、あみだくじの結果もあって1日で京都2シリーズ連続となった。京都市街、近郊に札所が固まっているので、この先もこうした展開になるかもしれない。また、楽しむことにしよう・・・。

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京都29番「慈照寺」~神仏霊場巡拝の道・9(銀閣の銀は、いぶし銀の銀?)

2022年05月25日 | 神仏霊場巡拝の道

今回の神仏霊場めぐりは北野、紫野と回ってきたが、次の行き先を決めるあみだくじの結果、同じ京都の東山となった。まさか同じ日に金閣と銀閣を一緒に回ることになるとは思わなかった。あみだくじで出たのは京都31番の真正極楽寺だが、その前に道順として京都29番の慈照寺を訪ねることにする。

建勲神社前から市バスで銀閣寺道まで向かう。途中、地下鉄に接続する北大路バスターミナルでは地下に潜る。地下にバス車庫まである光景というのはなかなか見ることがないだろう。

市街地の北側をぐるりと回り、白川通に出て銀閣寺道に到着。時間的にちょうど昼ということで、お参りの前に昼食をと周りを見渡すと、ちょうど道路の向かいに「しらかわ」というラーメン店がある。京都のこの辺りもラーメン店が多いことで知られているが、私としては「あの店でなければならない」ということはないのでこちらに入る。ちょうど席も空いていた。

背脂、醤油ベースの一杯をいただき満足。しつこくなく食べやすい味で、これなら大盛でも行けそうだな。

参道の一部は哲学の道になっており、水路が設けられている。またここも観光客、修学旅行生の姿が目立つ。両側には土産物店、飲食店も並びそれらをのぞく客も目立つ。

こちらも一般には銀閣寺として広く知られているが、正式名称は慈照寺である。鹿苑寺と同じく、臨済宗大本山相国寺の塔頭寺院である。本尊は釈迦如来で、銀閣は観音殿の別名とある。足利8代将軍義政が子の義尚に将軍職を譲り、東山に別荘を建造した。当時は応仁の乱の後で幕府の財政も苦しい中、人々に増税や労役を課して建てられたという。後に義政が亡くなると、菩提を弔うために禅寺に改められ、義政の院号から慈照寺と名付けられた。

慈照寺の拝観料は500円。こちらも鹿苑寺と同じように半券がお札となっており、「銀閣観音殿」と記されている。なお朱印帳は先に納経所に預け、帰りに受け取る仕組みである。

先ほどの金閣には文字通り金箔が貼られていたが、ご承知のとおり銀閣には銀箔が貼られているわけではない。小学校だか中学校だかの遠足で銀閣にも来たのだが、その当時金箔がはがれていた金閣と合わせて、銀閣に対してはおんぼろのあばら家のようだという感想を持ったと思う。金閣はその美しさ?から炎上の憂き目に遭い、文学者の材料にもなったが、銀閣にはそうした事件は起こっていない。あばら家(失礼)に敵意など持ちようがないだろう。

銀閣の外壁には銀箔ではなく黒漆が施されているのだが、その理由としては、義満に対抗して銀箔を貼るだけの財政がなかったからとか、銀箔を貼る前に義政が亡くなったからとか、いろいろ言われている。一方肯定的には、漆に日光が反射する加減が銀色に見えるという説もあるようだ。

ただ、もっとシンプルに考えて、義政が元々派手なものを好まず、こうした落ち着いた色合いが好みだったからということはないだろうか。権力者とて人間、何でもかんでも金ぴかを好む人ばかりではなかったはず。銀は銀でも「いぶし銀」の人だったかもしれない。

慈照寺も順路に沿っての拝観だが、まず本堂にあたる方丈に出る。賽銭箱もあり、ここなら普通の寺と同様にお勤めができそうだ。ちょっと脇にずれて一連のお勤めとする。

本堂の奥には阿弥陀如来を祀る東求堂がある。

銀閣も2008年から2010年にかけて、屋根の葺き替えや傷んだ部材の交換、漆の塗り替えが行われ、決しておんぼろでもあばら家でもない、渋い雰囲気を出している。世の中には、金閣よりも銀閣を好むのが大人だとか「京都通」だとまことしやかに語る人もそれなりにいることだろう。「巨人・大鵬・卵焼き」に対抗する「大洋・柏戸・水割り」のような(例えが古いな・・)。

この後は庭園めぐり。現在の形に整備されたのは江戸時代のこと。東山の自然を活かしており、結構急な階段もある。

慈照寺全体を見下ろす展望スポットもある。遠足の時、果たしてここまで上がっただろうか。おそらく初めて見る景色である。

境内の中で青もみじや苔など、この時季ならではの緑の雰囲気を楽しむ。これで順路も一通り回り、銀閣を反対側からもう一度眺めて入口に戻る。

預けていた朱印帳を受け取る。中央には「観音殿」、左には「銀閣 慈照寺」との墨書がある。これで金閣、銀閣の両方が揃った。

慈照寺を後にして、あみだくじで出た真正極楽寺に向かう。白川通まで戻らずとも、哲学の道でショートカットできそうだ。ぶらぶらと向かうことに・・・。

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京都16番「今宮神社」~神仏霊場巡拝の道・8(御霊会の神社には江戸の名残も)

2022年05月24日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場めぐり・京都編の続き。

鹿苑寺を出て、次の目的地である京都16番の今宮神社に向かう。西大路通から北大路通に入り、今宮門前通を北に折れる。

道の両側には石灯籠が残され、その奥に鳥居の根元らしきものが残る。元々は昭和の初めの奉納された大鳥居があったのだが、2017年に突風のために傾き、その後安全のために解体されたという。現在再建に向けて奉賛金の受付が行われている。令和4年の再建を目指すとあったが、その今年も5月下旬。工事が行われる様子もないが、どうなのだろうか。

参道の右手には大徳寺の広大な敷地が広がる。大徳寺も歴史的に知られた臨済宗の寺院であるが、神仏霊場には含まれていない。大徳寺も多くの塔頭寺院を有しているが、拝観を受け付けているのはその一部だけで、大徳寺そのものは特別な場合を除いては拝観できないそうだ。神仏霊場となるとそれなりの参詣客も出るところで、そういう寺院とは一線を画しているのだろう。

今宮神社がある紫野には平安遷都以前から疫神を祀る社があったとされ、平安遷都後には疫病や災厄を鎮めるため、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社などとともに御霊会が行われた。当初はこの地の疫神を南の船岡山に安置していたが、平安中期に疫病が流行した時に船岡山から移し、新たに元の地に設けた神殿に祀り、今宮社と名付けた。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)である。

その後、朝廷や民衆から崇敬を受けていたが、応仁の乱により焼失、後に再興されている。

参道にレリーフがあり、「桂昌院」と記されている。江戸幕府3代将軍徳川家光の側室となり、5代将軍綱吉の母である。京都の八百屋に生まれた「お玉」が将軍の生母となったことで「玉の輿」という言葉が生まれたとされる。桂昌院は信仰が篤く、西国三十三所第20番の善峯寺などの再建、再興にも貢献したが、ここ今宮神社でも社殿の造営や寄進を行ったという。

明治に社殿を焼失し、現在の建物は1902年の再建とある。こちらで手を合わせる。

その境内の一角に絵馬堂があるが、現在の拝殿、本殿よりも古い江戸後期の元号が書かれたものもそのままの形で残されていて、歴史の深さを感じさせる。年代的に、機織業で財を成した西陣の商人たちが奉納したもののようだ。

朱印をいただく。シンプルに、今宮神社との墨書である。

さて時刻はちょうど昼時。今回の神仏霊場めぐりは西大路通から紫野を押さえたということで一段落として、ここで次の行き先を決めることにする。近ければ午後から引き続きそちらに向かうし、遠ければ次回に回して京都か大阪で一献とする。まずは行き先候補を決めるくじ引きで出たのは・・・

・太融寺(大阪10番)

・慈照寺(京都29番)

・法隆寺(奈良13番)

・安倍文珠院(奈良21番)

・須磨寺(兵庫7番)

・真正極楽寺(京都31番)

大阪の太融寺といえば梅田近く、このまま移動して帰りの新幹線にも十分間に合う。また、慈照寺はすなわち銀閣寺である。もしここならこのまま続けて訪ねることになり、1日で金閣・銀閣の両方を拝観ということに。それも面白いだろう。奈良の2つはそこだけ訪ねるならこの後も可能だが、斑鳩地区、桜井地区には他の寺社もあり、ちょっともったいないかな・・。須磨ならこの後で行くのはいいが、帰りの新幹線は日本旅行プランのため新神戸や西明石から乗ることはできず、新大阪まで戻らなければならない。まあ、どこでも次が楽しみなのだが。

そしてあみだくじでは、4枠に振られた真正極楽寺。申し訳ないが初めて目にする名前。京都のどこかいなと地図を開くと・・慈照寺銀閣に近いところ。ならば、この2つを一緒に回ることにしよう。結果的に、1日で金閣と銀閣の両方を回ることになった。

ちょうどやって来たバスは慈照寺最寄りの銀閣寺口を経由する。ならば先に慈照寺に行き、真正極楽寺と回ろうか・・・。

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京都13番「鹿苑寺」~神仏霊場巡拝の道・7(久しぶりの金閣、お参りは・・)

2022年05月23日 | 神仏霊場巡拝の道

5月15日、北野天満宮から平野神社を経て、西大路通を北上して到着したのは神仏霊場京都13番の鹿苑寺。正式名称は鹿苑寺だが、つまりは金閣寺である。このブログではどちらの名前で呼ぶか。札所めぐりなのだから金閣寺より正式名称の鹿苑寺がふさわいいと思うが、ただ正式名称にこだわるなら、前回の壷阪寺の時点でアウトである。壷阪寺という名前も通称で、正式には南法華寺という。今後も含めて、寺社の呼び方は時と場合によることにする。

ここも修学旅行生であふれていた。制服姿からして中学生だと思うが、先ほど北野天満宮にいたグループかどうかはわからない。他にもガイドに引率された私服の学生グループもいる。

拝観受付の手前に「平和の鐘」というのがある。一突き200円というのはお志として、ここは世界平和を願って鐘を鳴らす。

拝観料は400円。京都を代表する寺院の一つにしては案外安いなと思った。入場券の半券がお札の形をしており、「金閣舎利殿御守護」と記されている。

金閣寺に来たのは小学校、中学校の遠足以来ではないかと思う。そうなると30年以上前のことだ。私はどこかへそ曲がりなところがあって、あまり有名すぎる観光スポットには行きたがらないところがある。京都市内の有名寺院もその中に含まれている。最近でこそ、札所めぐりで有名どころを訪ねる機会が増えたが、金閣、銀閣はこれまでの札所めぐりには含まれていないこともあり、すっかりご無沙汰だった。まあ、これら札所は真言宗、天台宗の寺院が多く、臨済宗というのはほとんどなかったためだが、このたび、神仏霊場巡拝の道にそれらも参加したことで、私も訪ねることになった。

早速、池の向こうに金閣が見える。この先含めて境内には「集合写真禁止」の立て札があちこちにあるが、池の周りにはスマホで記念撮影する人の姿がずらり。外国人の姿もちらほら見える(インバウンドの客ではなく、ビジネス等で滞在している人が休日の息抜きに訪ねた様子だが)。修学旅行生も数人ずつのグループで同行のカメラマンに撮影してもらっている。まあ、ここでいう集合写真とは、団体客が何列にも並んでカメラの人がシャッターを切る・・というスタイルを指すのだろう。

鹿苑寺は足利義満が北山に築いた別荘で、将軍職を子の義持に譲った後もここで政務を執っていたことから「北山殿」と呼ばれた。義満の死後、北山殿は臨済宗の大本山である相国寺の塔頭寺院となり、義満の法号から鹿苑寺という名前になった。

その金閣だが、1950年に放火により焼失した。若狭地方から鹿苑寺に学僧として入っていた男によるもので、この事件を扱った作品として三島由紀夫の「金閣寺」や水上勉の「金閣炎上」などがある。よく、両者の比較対照の材料にもされる作品である。美意識がどうだとか、金閣に対する複雑な思いとか、寺院の拝金主義がどうだとか・・。私はその両方を読んだことがあるが、ノンフィクションに近い形で書かれた水上作品のほうが興味深く読めた。水上自身も若狭の出身で、幼い頃に京都の寺に修行に出されていたから、この男を自分に近い存在としてこの事件をとらえることができたと評されている。

金閣放火事件を取り上げた両者を評した一冊に、酒井順子さんの「金閣寺の燃やし方」というのがあり、これも手にしたことがあるが、私が感想を持ったのは、三島由紀夫と水上勉の対比というのは、プロ野球でいうなれば長嶋茂雄と野村克也のようなものかと・・。

金閣はその後5年ほど経て創建当時に近い形で再建され、私が遠足で見に行ったのはその時の姿だが、金箔がはがれてボロボロだったのを覚えている。「昭和の大修復」が行われたのはその後で、金箔や漆の貼り替えが施され、現在その鮮やかな姿が保たれている。保全技術も進んだことだろう。

金閣はあくまで舎利殿ということで、本堂に当たるのは金閣の手前にある方丈。鹿苑寺としての本尊は方丈に祀られる聖観音像であるが、この方丈自体立ち入ることができないし、手を合わせて拝むという雰囲気ではない。さすがにここで経本を開いてお勤めというのははばかれる。金閣もその美しさに歓声があがるものの、そちらに手を合わせる人は誰もいなかった。鹿苑寺じたい、そういう寺ではないということかな。

多くの拝観客、修学旅行生とともに順路に従って歩く。寺といっても境内を自由に歩き回ることもなく、庭園を見て回る感じだ。足利義満がお茶の水や手洗いに使ったとされる泉や、夕佳亭という茶室などもある。その合間から金閣の遠景を望むこともできる。

そして最後に出たのは不動堂。ここに来て急に雰囲気が変わり、一般的な寺の感じがする。ローソク、線香も多くお供えされ、鰐口を鳴らして手を合わせる光景が広がる。不動堂は安土桃山時代に宇喜多秀家が再建したもので、鹿苑寺に現存する最古の建物だという。神仏霊場の本尊は聖観音だが、代役ではないが不動明王相手にお勤めとする。これで鹿苑寺が普通に手を合わせることができる寺であることを再認識?して、ほっとする。

不動堂の前に朱印所がある。金色を施した金閣オリジナルの御朱印帳もあるが、私が取り出すのは神仏霊場の分厚い一冊である。列を整理していた係の人から「ここに来るまで大変だったでしょう」と声をかけられる。確かに和歌山から札所順で回っていれば100番超で大変だっただろうが、こちらはあみだくじで行き先を決め、結構早い場面で平野神社とのセットでの参詣で・・。ちなみに、朱印帳の真ん中の印は「鹿苑禅寺」、墨書は「舎利殿」「金閣寺」とあった。

ここまで北野天満宮、平野神社、鹿苑寺と西大路通を北上し、昼頃まででもう1ヶ所行けそうだ。この近くなら、西に行けば京都12番の仁和寺、東に行けば京都16番の今宮神社がある。仁和寺なら他の花園、嵯峨方面とのセットとなるが、今宮神社が他の札所と少し離れているので、今回は今宮神社を押さえることにしよう。もうしばらく歩いて行く・・・。

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京都14番「平野神社」~神仏霊場巡拝の道・6(台風被害からの復興を願う)

2022年05月22日 | 神仏霊場巡拝の道

北野天満宮からすぐのところにある平野神社に向かう。ここは初めての参拝である。

平野神社の創建は平安京遷都までさかのぼると言われる。元々は桓武天皇のh外戚神として平城京に祀られていたのが遷都とともに移ったという。平安時代には皇太子守護の神として、皇太子による奉幣が行われ、また源氏や平氏といった臣籍降下した氏族からも氏神として崇められたとある。中世以降は衰えたが、江戸時代に再興が図られ、現在の社殿もその当時のものだという。

平野神社は京都の桜のスポットとして有名だそうだ。花山天皇が桜を植えて以来ということで、今は花の季節ではないが、境内には桜苑が広がっている。

2018年に京都市内のあちこちに被害をもたらした台風21号では、平野神社でも拝殿の倒壊、本殿の檜皮葺屋根の損壊、桜の倒木などの被害が出た。当時の記事を見ると痛々しく、特に、徳川秀忠の娘・東福門院が寄進した拝殿は4本の柱すべてが折れるほどだった。

その後、修復に向けての義援金が呼びかけられ、昨年ようやく拝殿の修復が完了した。ニュース記事を検索すると、修復に要した費用は1億3000万円で、このうち8000万円を義援金でまかなったという。また本殿の屋根の葺き替えは現在も続けられており、御神体は仮の本殿に移されている。拝殿の前に柵が並べられ、現在はその前からの参詣となる。

京都の1200年を超える長い歴史の中には、兵火もあればこうした天災も数多くあった。その中で失われたものも多いだろうが、こうして再建されるものもある。人々の思いというのかな、義援金が多く集まったのも、桜の名所として多くの人々を和ませてきた歴史があってのことだと思う。

授与所にて朱印をいただく。こちらは一般的な300円であった。

平野神社を後にして、次の目的地である鹿苑寺に向かう。平野神社の西が西大路通で、再びこの道を北に歩く。

途中、敷地神社の鳥居の前に出る。せっかくなので立ち寄ろう。敷地神社というよりは「わら天神」の名前で知られている。交差点の名前も「わら天神前」である。安産のご利益があり、祠には多くのよだれ掛けが奉納されている。

古くから、わらで編んだ籠にお供え物を入れて神様に奉納していたが、ある時から抜け落ちたわらを妊産婦が持ち帰るようになり、安産を願うようになったという。現在はお守りとして授与され、節があれば男の子、節がなければ女の子が産まれるという。つまり節ってのは、お〇〇〇〇ってこと?

ここまで来れば鹿苑寺は近い。ここも修学旅行生の多いところで、その中に交じっての拝観である・・・。

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京都15番「北野天満宮」~神仏霊場巡拝の道・5(京都に修学旅行が戻って来た)

2022年05月21日 | 神仏霊場巡拝の道

大型連休の前半に始めた「神仏霊場巡拝の道」。その時は伊勢神宮と、あみだくじの結果で金峯山寺、壷阪寺と回り、次の行き先は京都となった。京都市内には数多くの対象となる寺社が存在するため、この先何度も訪ねることになるだろう。

前回のあみだくじで行き先となったのは京都14番の平野神社。京都の北野に位置するが、周辺には同じ神仏霊場に含まれる北野天満宮や鹿苑寺(金閣寺)があるので、一緒に訪ねることにする。もう1ヶ所くらい追加してもいいかな。

5月15日、今回は日帰りでの京都行きである。日本旅行のWEBプランで、広島~新大阪往復で限定「のぞみ」利用で15200円。もう少し調べれば京都往復のプランもあったのだが気づかず、これまでの慣習で新大阪行きを購入していた。

現地滞在を長くしようと、6時26分広島始発の「のぞみ90号」で出発。外は薄曇りといったところだが雨の心配はなさそうだ。山陽新幹線区間はがらがらで走り、新大阪で乗客が一気に増えるパターン。

新大阪からは新快速で京都に行き、嵯峨野線に乗り継いで8時50分、円町着。この日は円町からスタートとする。

円町は二条~花園間が複線化された2000年の開業と比較的新しい。ちょうど西大路通に接しており、今回のエリアもこの道沿いにあるので都合よい。ということで、南から順番に北野天満宮、平野神社、鹿苑寺の順番に訪ねることにする。バスに乗ってもいいが、この距離なら歩くことにしよう。

嵐電の北野白梅町の電停の交差点で今出川通に折れて、北野天満宮の鳥居に出る。この鳥居をくぐるのは初めてではないかと思う。両側に灯籠が並び、その向こうの駐車場には多くの観光バスも停まっている。

楼門には参拝客の姿も見えるが、それ以上に境内は制服姿の修学旅行生であふれていた。年恰好から見れば中学生かな。10人ほどのグループごとに記念撮影したり、ガイドからの案内を聞いたりしている。緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が出ていない中、修学旅行生で賑わう京都というのも久しぶりである。1学年、2学年上はコロナの影響で修学旅行が取り止めになった学校も多かったが、これもめぐり合わせだろう。この後、順次拝殿に上がっていたから合格祈願もセットのようだ。

北野天満宮の祭神は菅原道真。左大臣藤原時平の讒言で大宰府に左遷され亡くなった後、都では落雷などの災害が相次ぎ、その中で時平も亡くなった。これらは道真の祟りだと恐れられた。

本殿の後方、北側に祠があり、「文子(あやこ)天満宮」の額が掛けられている。道真の乳母だった多治比文子を祀っている。道真の没後、文子のもとに「右近の馬場に社殿を建てて祀れ」という道真からの託宣があった。しかし文子には財力がなかったので、自宅がある七条に祠を建てた。これが北野天満宮の前身とされ、後に右近の馬場があった現在の場所に移された。天満宮は当初は怨霊を鎮めるための神社だったのが、後には学問の神様とされ、この日も修学旅行生の合格祈願を受け入れている。

朱印をいただく。神仏霊場の分厚い朱印帳を取り出し、300円をトレイに出して書いていただくのを待つ。そして朱印帳を戻された際、申し訳なさそうに「あの・・500円なんですが」と言われる。確かに案内板を見ると、一般的なものでも「初穂料500円」と書かれている。これまでの経験では、特別なものでなければ「朱印=300円」だったが、500円と提示しているのならそれに従うしかない。ひょっとして京都価格なのかなと思ったが、別に文句を言うことでもなく、改めて納めさせていただく。今後もこうした寺社に出会うかもしれない。

さてちょうどこの時季、御土居の青もみじが見ごろとある。数年前、大報恩寺(新西国三十三所の一つ)の後に北野天満宮に参拝した時も青もみじを見物したから、また同じ季節に来た形である。このタイミングなのも、あみだくじのご縁である。この青もみじを見るのも今回の楽しみにしていた。

御土居は豊臣秀吉によって築かれた土塁で、北野天満宮の境内にある一角は史跡として残され、道真の和歌にちなんでもみじ苑として整備されている。秋の紅葉とはまた違った新緑の鮮やかさを楽しむことができる。境内を賑わせていた修学旅行生もさすがにこちらまでは入って来ることはなく、静かな雰囲気を味わう。

今回宝物殿はパスして、北側の出口から北野天満宮を後にする。続く平野神社はこの道を200メートルほど西に進んだ突き当りで、ちょうど赤い鳥居がこちらを向いて建っている・・・。

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第1回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第4番「不動院」(サロンパスと長崎街道)

2022年05月19日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりで今回最後に訪ねたのは第4番の不動院。西鉄の筑紫からバスを使ってJRの原田まで出て、田代で下車。旅客駅としては対面式ホームがあるだけ、駅員もいないが、すぐ横に鳥栖貨物ターミナルが隣接して、機関車やコンテナが見える。

鳥栖貨物駅か・・20数年前、私は最初の広島勤務で鉄道コンテナ関連に従事していたのだが、この鳥栖が着駅となる大口の発送客があり(現在は別の会社に譲渡されたが)、福岡中継鳥栖行きというのを手配していたのを覚えている。今思えば、広島から鳥栖ならトラックを走らせたほうが効率的だと思うが、鉄道コンテナの特徴として数日間貨物駅での留置が認められていて、要はその顧客はコンテナを仮倉庫として利用して需給調整を行っていたことがうかがえる。その鳥栖貨物駅、九州新幹線の建設にともない、隣の久留米と統合する形で改良され、現在の鳥栖貨物ターミナルとなっている。

跨線橋からは鳥栖駅前スタジアムもかすかに見ることができる。

不動院に向けて歩く。途中の道路の電柱には「サロンパス」の広告が目立つ。地図を見ると、不動院に向かう途中に久光製薬の九州本社・工場がある。

祠のお地蔵さんとともに「長崎街道追分石」というのに出会う。ちょうど私が歩いてきたのが久留米方面からの道で、追分石を挟んで長崎街道に合流する。この辺りは長崎街道の田代宿があったところだという。

そのまま進むうちに久光製薬、サロンパスの看板が見える。工場の斜め向かいに田代宿の本陣跡があり、工場と研修施設の敷地に挟まれたところに鳥居がある。外町天満宮というところで、さすがに工場や施設が建ち並んでも、天満宮を立ち退かせるとまではいかなかったようだ。またこの先には高札場や問屋場の跡を示す標識が立つ。長崎街道の田代宿の中心だったところが現在の久光製薬の工場と言っていいだろう。

久光製薬の創業は江戸時代だが、当時田代は薬売りが盛んだったという。知らなかったのだが、田代は江戸時代には対馬藩の飛び地だったそうだ。なぜ対馬の飛び地なのかなと思うが、石高をベースにしていた江戸幕府にあって、米がほとんど取れない対馬単独では何かと厳しいということで、直轄地をちょっと分け与えたことによるそうだ。対馬藩では財政の手助けとして、つながりのあった朝鮮から製薬、そして富山から売薬のノウハウを得て「田代売薬」というブランドを確立した。久光製薬はその田代売薬の業者「小松屋」として創業したもので、その後変遷を経て現在にいたる。

もうしばらく進んで不動院に到着する。普通の住宅と寺の本堂がくっついた形である。階段を上がって本堂の扉を開ける。九州八十八ヶ所百八霊場の札所は基本的に時間内は本堂は開放、自由にお参りできるとしている。

不動院が開かれたのは戦後のことで、不動明王、弘法大師を信仰していた瑞光尼という人が、1950年、夜明けの空に紫雲がたなびくのを見てこの地にお堂を開いたのが始まりという。

中でお勤めとしていると、外に人影が見えて、扉が開いた。どうやら寺の方らしい。一瞬、勝手に上がり込んで申し訳ないなという気になる。ただ別に何か言われるわけでもなく、中に入ると隅のほうに座り、私が読経を終えるのを待っている様子だ。本堂の中にカメラがあって、私が入ったのを見届けてやって来たとか?

一連のお勤めを終えて数珠をしまうと、「よくお参りでした」と声を掛けられる。朱印は本堂の隅に置かれているセルフ方式だったが、「納経帳をお持ちでしたら」ということで押していただく。

「遠方からご苦労様です。九州全土ですからこれから大変でしょう。ずっと歩いて?」・・・いやいや、さすがにそれだけの力はありません。せいぜい、田代駅から歩くのが精いっぱいで・・。

「コロナでお茶など出せないのですが、せめてこれだけでもお接待で」として手ぬぐいをいただき、不動院を後にする。急に思い立った九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、まだ4ヶ所だがそれぞれ見どころあり、道中の発見もあった。

田代駅まで戻り、いったんこの先の鳥栖まで出る。この時間まで昼食がまだだったのだが、ようやく、というかここで満を持して?登場したのが駅ホームのかしわうどん。乗換駅の歴史がある鳥栖の名物といっていいだろう。また合わせて、いただくのは新幹線の中か帰宅してからかはわからないが、「焼麦(しゃおまい)」も土産に購入する。

鳥栖で折り返しとして、まずは普通列車で北上。ロングシートの車内でのんびりした後、二日市で後続の快速に乗り換える。博多には15時46分に戻って来た。

さて、元々5月5日はタマスタ筑後でウエスタンリーグの試合を観る予定で(確か3月も同じようなことを言っていなかったか)、帰りの列車は筑後船小屋から博多乗り継ぎで広島までの新幹線をネット予約していた。ただ目的地ががらりと変わったことで、博多からの「こだま」に変更していた。発券前ならスマホで何回でも変更できるので、何時の「こだま」にしようかと思っていたが、不動院を訪ねた後に博多16時34分発の「こだま860号」にした。広島には18時25分に着く。

ただ、博多に来て新幹線コンコースに乗り換えると、「のぞみ」に乗ればいいのではないかという気になった。大型連休で混雑するといっても、「のぞみ」は博多始発である。自由席が満席だとしても、1本遅らせれば十分座れるだろう。そこでホームに向かうと、臨時の16時26分発「のぞみ174号」が停まっていた。自由席の1~3号車まで歩くが空席は十分にある。このまま乗り込んだ。博多でガラガラで、次の小倉でもそこまで乗客は増えず、結局広島まで隣は空席のまま移動できた。

さすが「のぞみ」で、広島には17時28分に到着。入れ替わりに大勢乗って来たのが赤い人たち。カープのユニフォーム姿で、自由席はあっという間に埋まったようだ。相席を嫌ってデッキに立つ人もいる。ちょうどこの日はマツダスタジアムでカープ対ジャイアンツ戦が行われていて、カープが勝利した。終了から移動してのタイミングだが、次の福山までという客が多いのだろうが、ひょっとしたら岡山、新大阪、果ては数人くらいは東京まで乗り通すのかな・・・。

さて、こうして新たな札所めぐりに加わった九州八十八ヶ所百八霊場。長くかかるだろうが、また違った面からの九州の魅力へのアプローチになればと思う。この次は久留米、朝倉シリーズとなる・・・。

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第1回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第3番「如意輪寺」(小郡の「かえる寺」)

2022年05月18日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

西鉄電車に乗って、小郡市の三沢(みつさわ)に到着する。次に目指すのは九州八十八ヶ所百八霊場第3番の如意輪寺で、地図で見ればちょうど1駅前の三国が丘との中間にあるのだが、サイトでは三沢が最寄り駅と掲載されていた。

10分あまり歩くと県道に出て穏やかな上り坂となり、その途中に異国情緒あふれる建物群が見える。のぞいてみるとイギリスの国旗が掲げられ、何軒かのカフェや雑貨店などが並ぶ。「アーリントンアンティークビレッジ」という最近できたスポットで、イギリスのコッツウォルズにある村をイメージしたそうだ。瓦や石畳などはイギリスから運んできたという本格志向である。それにしても、小郡でイギリスに出会うとは。こういうところのカフェにでも入ればブログ記事の幅も広がるのだろうが、ええおっさんが一人で訪ねてもねえ・・・。

その先に如意輪寺があるが、目に入るのは「かえる寺」の文字。境内にはさまざまなお堂が並ぶが、それより目立つのはいたるところ、ここかしこにいるカエルの像である。地元では「かえる寺」として有名だという。

さまざまな表情をしたカエル。七福神の前にもカエル。

本堂の前にはカエルのオブジェがあり、ボタンを押すと口からシャボン玉が出る仕掛け。こんな空間の寺に出会うのは初めてである。

如意輪寺は「かえる寺」として、またSNS映えするスポットとして、地元の人たちのみならず、コロナ前はインバウンドの人たちにも知られたスポットだという。訪ねた時はさすがに外国人の姿はほとんどなかったが、家族連れ、特に子どもの姿が目立っていた。恥ずかしながら、訪ねてみてそういう有名な寺だと初めて知った。境内には3000点とも5000点とも8000点ともいわれるカエルの石像や置物があるという。資料により数がばらばらなのは、年々増えているということだろう。

その如意輪寺の歴史は古く、行基により開かれたとされる。その後は衰えたが、江戸時代に久留米藩の有馬氏により再興された。本尊の如意輪観音は平安時代の作とされ、座っていることの多い如意輪観音像には珍しく立った姿だという。

本堂の中に入ってお勤め。内陣もきらびやかである。

本堂の奥も回れるそうなので進むと、「カエルの間」というのに出た。カエルと仏像のコラボレーション。これ、擬人化されたカエルの像だから見ていて面白いが、もしここが、これだけの数の「本物の」カエルに囲まれた空間だとしたら・・・想像するのもおぞましい。

外には、「空飛ぶカエル」なんてのもある。キャラクターだからいいが、「本物の」カエルがもし空を飛んでいたら・・・(以下略)。

如意輪寺が「かえる寺」となった由来は、平成の初め頃、当時の住職が中国を訪ねた時、ヒスイでできたカエルを持ち帰ったのがきっかけで、その後カエルをたくさん置き始めたという。境内のカエルには「無事かえる」、「初心にかえる」、「社会を明るくかえる」、「さかえる」など、洒落の効いた中で前向きな言葉が添えられる。また、何かと物騒な世の中で、若い人も心を落ち着かせる場を提供したいとの思いもあったそうだ。

お守り等の授与所があり、ここも多くのかえるグッズで賑わっている。その中で九州八十八ヶ所百八霊場の納経帳に朱印を押していただく。別途「かえる寺」と墨書した朱印があり、そちらを所望する参詣者が多いが、九州八十八ヶ所百八霊場としてはあくまで如意輪寺の如意輪観音。ここはきちんと一線を引いているようだ。

先ほど県道から入ったのは境内の裏手に当たるようで、山門は石段を下りたところにあるというので改めて行ってみる。当然、この周囲もカエルの石像がこれでもかと出迎えてくれる。山門の仁王像もカエルである。こちらから入ればインパクトがより強かったことだろう。

飯塚に「かえる寺」グループといえる「こがえる寺」があるので訪ねてほしいと案内があった。調べてみると、「こがえる寺」とは正法寺の愛称で、九州八十八ヶ所百八霊場の第93番札所でもある。これはまた訪ねることになるな・・。

思わぬ形でのご縁となった「かえる寺」こと如意輪寺に満足して、次に移動する。今からなら次の第4番不動院に行く時間は十分ありそうだ。

帰りは三沢とは反対側の三国が丘まで歩くことにする。三国が丘、大阪にも同じ地名がある。大阪の場合は摂津、河内、和泉の3つの国が接する場所にある丘であるが、こちらの三国が丘は筑前、筑後、肥前の3つの国だという。

この一帯は昭和から平成にかけて、西鉄と東急がニュータウンとして開発を行った。駅前にその記念碑があり、開発前と開発後の地形が刻まれている。一角に池と森が残っているが、さすがにかつての歴史を伝える緑地として残したものだろう。見ようによっては、大阪の三国ヶ丘近くに古墳があるのと似た景色に見えなくもないが・・。

さてここまで西鉄で移動してきたが、次の不動院はJR鹿児島線の田代が最寄り駅であるため、鹿児島線側に移る必要がある。三国が丘から西鉄で朝倉街道まで出て、徒歩数分でJRの天拝山に行くか。あるいは反対に南の西鉄小郡まで行って、甘木鉄道を挟んでJRの基山まで行くか。

ただ、三国が丘から直線距離で近いJRの駅は原田である。ただ歩いて行くには遠すぎる。原田駅に行ける路線バスがないかと検索すると、三国が丘から2駅福岡寄りの筑紫から出ているのを見つける。日中は1時間に1本で、今からのタイミングだと筑紫でしばらく待つものの、これで原田まで行くのも変化球のようで面白そうだ・・(時間検索すると、天拝山からでも原田からでも乗る列車は同じだったが)。

やって来た急行の次の停車駅は筑紫。車両基地があるため、筑紫が始発・終点となる列車も設定されている。バス乗り場は西口にあり、筑紫野市のコミュニティバスと西鉄バスが乗り入れる。原田駅まで乗るのは西鉄バスだ。

13時08分発の便に乗り、住宅地の中を抜け、10分あまりで原田駅に到着。鹿児島線と筑豊線(原田線)が合流する駅にこのような形で着くとは思わなかった。

原田駅といえば善隣教の広告だが、もちろん九州八十八ヶ所百八霊場とは関係ない。この後は13時23分発の羽犬塚行きで田代に向かう・・・。

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第1回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第2番「般若院」(住宅地の高台に建つ寺院でさっそくセルフ押印)

2022年05月17日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

思い立って始めた九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。5月5日、まずは福岡大仏がある第1番の東長寺に参詣し、地下鉄と西鉄を乗り継いで福岡市南区にある高宮に着く。高架の駅舎で、周りには住宅地が広がる近郊駅だ。駅から続く上り坂を歩くと、ゆったりとした住宅が並ぶ一角に入る。福岡の地価の相場は知らないのだが、結構人気があるエリアではなかろうか。

進むうち、高宮八幡宮に出る。この一角の氏神であり、先ほど下車した高宮駅の名前にもなっている。三韓征伐で知られる神功皇后がこの地に立ち寄ったとして、天智天皇の時に神を祀ったのが由来とされる。周囲の見晴らしのよいところで、後から建てられた高級住宅地にあっても周りに溶け込んでいるようだ。

境内に「巡り大黒 迎え恵比須」というのがある。巡り大黒とは、毎晩信心のある家を訪れて福をもたらすとあり、迎え恵比須とは、お迎えしておもてなしをすると福を授けるとある。二つの像は回転式の台座に安置されていて、お参りの作法として、自宅のある方向に大黒と恵比須が乗る台座を向け、来てくれるようにお願いするとある。この高宮八幡宮から自宅の方向はどっちやったかいな・・・と、おそらくこの辺りという位置に回して手を合わせる。台座を回転させるといってもぐるぐる回せばいいというわけではなく、最小限にせよとの注意書きがあったが、その結果やいかに・・・。

もう少し坂道を上り、途中から下りに入ったところで寺の本堂らしき瓦屋根が見える。ここが般若院である。ちょうど境内の裏手から入った形になる。

今から300年あまり前、福岡黒田藩の重臣だった立花実山が主君の死後に出家し、現在の博多駅近くの住吉に松月庵を開いたのが由緒とされる。その場所は住吉神社の近くとされるが、1964年に現在地に移転した。戦前から構想があった博多駅の移転拡張、さらには山陽新幹線の博多延伸が決まったことによるものだ。九州八十八ヶ所百八霊場の紹介ページでは、当時「ただの草丘」だったのが、時代とともに宅地開発され、かえってその中に埋もれるようになったのだとか。

境内の一角に、色落ちているが「九州八十八ヶ所霊場案内」と書かれた看板がある。般若院が第2番であることは変わらないが、看板は第88番の鎮国寺で結ばれている。看板がいつ頃からあるのかわからないが、これで「百八霊場」が後に20の寺院が追加されて発足した、その年が1984年であることがはっきりした。

本堂の扉が開いているので中に入る。こちらも最近建てられたようだ。中でのお勤めとする。本尊は十一面観音で、脇には弘法大師が祀られている。

断り書きがあり、住職は法事のために外出中とある。そのため、朱印については自身で押してくださいとのこと。さっそく、ローカル札所の対応である。第2番にしてセルフでの押印。かえって緊張するのだが、まあまあちゃんと陰影が映ったのではないかと思う。納経料は賽銭箱に納める。これからこの先、こうした札所が何度となく出てくるのだろう。

般若院を後にしてそのまま住宅地の中を下り、大池通りに出る。この南にある福岡市最大の治水池・野間大池にちなんでいる。

高宮駅に戻り、この次は第3番の如意輪寺に向かう。筑紫野の南、小郡市にある三沢(みつさわ)が最寄りということでそのまま西鉄で南下する。高宮から普通の大善寺行きに乗るが、高宮、三沢いずれも普通しか停まらず、途中駅で急行や特急が先発する。ただスマホでの時刻検索によると、三沢で下車するのなら同じ大善寺行きにそのまま乗るのが最速と出た。歩き回ってちょっと暑さすら感じていたので、コロナ対策の換気で開け放たれた窓から入る風が心地よい。

のんびり進み、こちらも私にとって初めての下車となる三沢に到着する・・・。

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第1回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第1番「東長寺」(まずは博多から弘法大師と福岡大仏で始める)

2022年05月16日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州西国霊場めぐりが続く中、福岡に泊まった時にふと始めることになった九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。キャッチコピーには「弘法大師ゆかりの地を巡る全国最大規模の霊場会」とある。1984年、弘法大師入定1150年の記念として、真言宗各派の寺院が集まって開創したという。

博多にある東長寺が第1番で、以後福岡近郊から時計回りに進む。九州全域が対象ということで、九州西国霊場にはなかった熊本県の八代・球磨地方や宮崎・鹿児島両県も含まれ、南は指宿や枕崎まで至る。なかなか壮大なものだが、88番で終わりかと思いきや、ところどころに89番以降、108番までの寺が点在する。これはもともと88ヶ所だったのが、四国の別格二十霊場に合わせてもう20ヶ所追加して、合わせて百八霊場としたものと思われる。

なお、四国八十八ヶ所の場合、一定数の「歩き遍路」というのが存在しており、区切り打ちにせよ歩いてめぐることを勧める向きもあるが、九州については最初からクルマ等で回ることを前提としている。公式サイト内にも「巡拝モデルコース」が掲載されているが、九州の観光地をめぐりながら楽しむ巡拝の旅として、道中の温泉、自然、名所旧跡も楽しんで・・ということも推奨している。考え方もいろいろあるものだが、世の中は広いので九州八十八ヶ所百八霊場を全て歩きで巡拝したという方もいらっしゃることだろう。

いずれにしても数年がかり、どのくらいの期間がかかるかはわからないが、これもご縁だとして始めることにしよう(かつて、中国観音霊場めぐりをやっている最中に私自身が広島に異動となったのだが、まさか九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの途中で九州に異動することはなかろう)。

今回は初日ということもあり、第1番の東長寺を訪ねた後、西鉄、JRを使って筑紫野から鳥栖にかけて点在する第4番の不動院まで行くことにする。なお、原則札所番号順に訪ねるが、そのシリーズ内で順番を入れ替えることは可として、89番以降の札所が近くにあるケースではその時に一緒に訪ねることにする。手段はもちろん歩きにはこだわらず、例のごとく公共交通機関、レンタカーをいろいろ使うことにする。

5月5日、天神の平和台ホテルをチェックアウトする。この日も快晴で、日中は夏日の予報も出ている。朝8時頃だが、天神駅に向かう親不孝通りは前夜に騒いでそのまま朝を迎えたらしい若者のグループがあちこちにいる。前夜からのテンションそのままで朝を迎えて奇声をあげるのもある意味すごい。日曜朝の繁華街でよく見られる光景だ。こういうのを見ると「またコロナが広まって・・・」と嫌悪する向きもあるだろうが。

かく言うおっさんも、いろいろ奇声を発したくなる場面はありますが・・・。

地下鉄で博多まで出て、荷物をコインロッカーに預ける。九州八十八ヶ所百八霊場のスタートが、九州の玄関口である博多駅からというのもよい。第1番の東長寺は地下鉄で次の祗園駅にあるが、両駅はそれほど離れていないのでそのまま歩いていく。

祗園近辺は博多の寺社町エリアとしての歴史がある。そのウエルカムゲートとして建つのが「博多千年門」。地元住民、企業、行政が一体となり、2014年に完成したとある。かつて博多から大宰府を結ぶ官道にあった辻堂口門をイメージしたもので、門扉の木材は太宰府天満宮から寄贈された「千年樟」が使われ、扁額の「博多千年」の揮毫は太宰府天満宮の宮司による。その大宰府近くには九州西国霊場めぐりの第33番である観世音寺(および、元号「令和」ゆかりの坂本八幡宮)があり、いずれ訪ねることになる。

博多千年門をくぐって右手にあるのが承天寺。鎌倉時代、聖一国師弁円が日宋貿易で栄えた博多に宋の商人の援助を受けて開いた寺である。

本堂は檀信徒のみしか入れないようだが、手前の庭には「饂飩蕎麦発祥之地」、「御饅頭所」などの石碑が建つ。日本におけるうどん、そば、饅頭といった粉食文化発祥の地としている。あれ、うどんを中国から持ち帰ったのは弘法大師と言われてなかったかな・・。案内によると弁円は水車による製粉技術を宋から持ち帰ってうどん、そばの作り方を広めたという。別に讃岐うどんと九州うどんの違いではなく、弁円のうどんのほうが現在の一般的なうどんの形に近いということなのかな。承天寺には他にも、博多山笠発祥の地とか、日本近代演劇発祥の地(川上音二郎の墓があるそうだ)とか、いろいろな発祥の地とされている。

承天寺からほど近く、大博通りに面して立派な門構えに出会う。ここが東長寺である。

山門の脇に「弘法大師開基 密教東漸日本最初霊場」の石碑が建つ。揮毫したのは西安・青龍寺の住持とある。青龍寺とは、弘法大師が唐で密教を学んだ寺院で、本家お墨付きの密教寺院であることがうかがえる。

唐から帰国した弘法大師は都に戻る前にしばらく博多に滞在したとされ、密教が東に長く伝わるようにと祈願して寺を建立した。弘法大師が開いた日本最古の密教道場寺院ということで、歴史的には高野山や東寺よりも前になる。大陸からの文化がまず九州北部にもたらされることの現われである。

後に兵火に遭って荒廃するが、江戸時代に福岡黒田藩の菩提所として再興され、現在にいたる。寺で現存するもっとも古い建物は六角堂で、江戸末期のものだという。

本堂はコンクリート造りで、横幅も広く一度に大勢の人が参拝できる。広間の奥には本尊千手観音、不動明王、弘法大師が祀られている。まずはここで九州八十八ヶ所百八霊場最初のお勤めとする。近所の人か、散歩がてらにちょこんとお参りする姿も見かける。

本堂の横には2011年完成の五重塔が建つ。総檜造りで、周囲のビル群との対比が面白い。

東長寺のシンボルとしてもう一つ、「福岡大仏」というのがある。制作に4年あまりの年月をかけて1992年に完成した釈迦如来像で、本堂に隣接する大仏殿に祀られている。この大仏を目当てに参詣する人の姿もちらほら見える。博多にこうしたスポットがあるとは初めて知った。

大仏の高さは10.8メートル、光背と合わせると高さ16.1メートルとある。光背やその後ろの壁には5000体以上もの小仏が祀られている。木像の大仏(坐像)としては日本最大級という。一応拝観料50円とあったが、ろうそく、線香を受け取るよう案内があり、実質はそれらの代金である。火をつけてお供えしてから中に入る。

この大仏では「地獄極楽めぐり」が体験できる。大仏の下をくぐるものだ。まずは地獄絵図の紹介があり、その先に真っ暗な戒壇めぐりがある。左手で手すりを持ち、右手で腰のあたりの高さの壁を探りながら歩くと輪のようなものに触れる。これで極楽往生間違いなしということで・・。

一通り回ったところで納経所に向かい、これから九州八十八ヶ所百八霊場をめぐるための納経帳を所望する。バインダー式ではなく帳面方式とのことで、何せ108ヶ所もあるから納経帳もそれなりの厚さかなと思いきや、案外それほどでもない。

それよりも驚いたのが、あらかじめ各札所の本尊の墨書が「印刷」されているのである。この上から札所番号、ご宝印、寺の印を押していくという、私にとって初めてのパターン。東長寺では寺の方に押していただいたが、やはりローカル線ならぬ「ローカル札所」で、この先住職がお留守という寺にもちょくちょく出会うのだろうと思われる。その場合、書き置きをいただくのではなく自分でこの帳面に印を押すことになるわけだ(そうなると余計にスタンプラリー感が出るわけだが、仕方ない)。

これで東長寺を終えて、祗園からふたたび地下鉄で天神に出る。

天神から西鉄電車で南下する。ホームには西鉄のグルメ列車「レールキッチンチクゴ」が停車中で、ちょうど太宰府行きの朝の便の予約客の乗車案内が行われていた。土日中心に朝、昼、夕方とそれぞれの場面にあった料理が供されるそうで、またこうした列車にも乗ってみたいものだ。

九州八十八ヶ所百八霊場(この名前も長いので何か省略できればと思うが・・)で次に向かうのは、第2番般若院。最寄り駅である高宮は普通のみ停車ということで、のんびり行こう・・・。

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第10回九州西国霊場めぐり~博多から新たな札所めぐりへ

2022年05月15日 | 九州西国霊場

5月4日、ペイペイドームでのホークス対バファローズ戦を観戦したが、ホークス先発東浜の好投、柳田の2打点の前にバファローズは貧打で敗れ去った。

ちなみに東浜はその次に登板した11日のライオンズ戦で史上84人目のノーヒットノーランを達成した。途中からBS中継で見ていたが驚いた。途中、四球で走者2人を出したのだがいずれもその後併殺打で切り抜けており、終わってみれば打者27人でのノーヒットノーラン。正に「準」完全試合だった。マリーンズ佐々木朗希の完全試合に始まり、ドラゴンズ大野雄大が9回をパーフェクト(延長10回で被安打)、そして東浜のノーヒットノーランと、今季は投手のそうした記録が相次いでいる。まだ5月半ばだが、この手の試合はまだまだ起こりそうだ。

その試合後、ドームからの臨時直通バスで天神に戻る。この日の宿泊はこれを見越して天神近くに取っていた。

親不孝通りから長浜公園と歩く。若者が集まるエリアで、長浜公園にやけに人が集まっているなと思ったら横にライブハウスがあった。

マンションに挟まれるように建つ「平和台ホテル天神」にチェックイン。昔の平和台球場を連想させる名前にひかれて予約したようなものである。

さて夕方の一献をどうするか。前夜の諫早は店じたいがそれほど多くないところだったので長崎・熊本郷土料理の店をピンポイントで見つけることができたが、逆に福岡・天神となると都会すぎてどの店がいいのやら迷ってしまう。頭に浮かんだのはもつ鍋の老舗「楽天地」だが、天神エリアの再開発のためにこの3月に閉店したという。別のところで営業再開したそうだし、また福岡市内に何店舗もあるが、今からわざわざ行くのもどうかと思う。

その代わりといっては何だが、ホテルの近くに大衆酒場的な雰囲気の店を見つけたので中に入る。「長浜屋台 やまちゃん」。福岡の夜と言えば屋台なのだろうが、近年は衛生面のこともあって屋台の数そのものも減っているという。私も屋台よりは建物の居酒屋のほうがいいので、ここに入ることにする。店内も結構賑わっている。

焼鳥やホルモン炒め、さらに「やまちゃんスペシャル」というのをいただく。鯨の刺身をレバ刺し風にごま油でいただくもの。

ここで締めにラーメンを食べれば長浜屋台の雰囲気を十分楽しむことになったのだろうが、ラーメンは別腹ということで、別の有名店に向かった。ただこれが失敗だった。店員の対応に気に入らないところがあり、さすがの私もカチンと来てラーメンを食べることなく店を出て行った。かと言ってもう一度「やまちゃん」に向かうわけにもいかず、ラーメンはいいかなとなった。ラーメンは翌日、自分土産で買って帰ろう・・。

気を取り直して、ホテル近くにある天然温泉の「天神ゆの華」に向かう。内風呂、露天風呂も数々あり、気持ちよく浴槽に浸かる。端午の節句ということで菖蒲湯のサービスもある。露天風呂の一角に畳マットがあり、横になれる。思わず、そのまま寝入ってしまいそうになった。

ホテルに戻り、翌5日の行程について考える。当初の予定では、5日はタマスタ筑後に行ってホークス対ドラゴンズのウエスタンリーグの試合観戦ということでチケットも買っていた。ファームと言えども立派な球場ということで一度見てみようと思っていた。

ただ、長崎、福岡とたどって私の気持ちにも揺れが出ていた。九州西国霊場ということで回っているが、これまでの札所めぐりの中で、九州には「九州八十八ヶ所百八霊場」なるものがあることは気になっていた。九州にも弘法大師ゆかりの地が数多くあることから、1984年に弘法大師入定1150年を記念して発足した霊場である。その範囲は宮崎・鹿児島両県を含む九州7県にわたり、本家四国よりも広範囲である。

現在、九州西国霊場のほかには中国四十九薬師、広島新四国八十八ヶ所を回っており、そして数日前に関西の神仏霊場巡拝の道を始めたばかりだが、そこに九州八十八ヶ所百八霊場を追加しようというのである。これもある種の「お四国病」、札所めぐりの多重債務者と言えるかな・・・。

九州八十八ヶ所百八霊場第1番の東長寺は博多駅近く、祇園駅の目の前にある。正に、このタイミングで始めろと囁かれているようだ。まずは福岡近辺に札所が集まっているとのことで、翌5日の夕方の新幹線までの時間を利用して、福岡近辺をちょっと回ってみようか・・・。

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第10回九州西国霊場めぐり~島原湾・有明海を横断

2022年05月14日 | 九州西国霊場

5月4日、朝6時前の本諫早駅に現れる。この季節、この時間帯でもすっかり明るくなっている。

この時間に駅に出向いたのは島原鉄道の始発に乗るためである。6時00分発の島原港行きは本諫早が始発である。JRと接続する諫早発でないのは、本諫早が島原鉄道の諫早側の拠点であり、この時間、JRとの接続もないためだろう。

この列車に乗るのは、終点の島原港から大牟田行きの高速艇に乗るためである。福岡に行くにあたり、同じ長崎線で往復するよりは、せっかく来たので変化をつけ、循環ルートとするために島原湾から有明海を渡ることにしたのだ。その第1便に間に合うには、この本諫早6時00分発の列車に乗る必要があった。

発車時刻となり、改札口の扉が開いてホームに入る。車両には「日本の1号機関車が走った島原鉄道」というラッピングが施されている。1872年、新橋~横浜を走った日本最初の1号機関車は、後に島原鉄道に払い下げられ、1911年に開業した島原鉄道の1号機関車としても活躍した。

後に保存のため鉄道省に返還、重要文化財にも指定され、現在は大宮の鉄道博物館に展示されている(実際の車両の画像は、2007年の鉄道博物館開業日に訪ねた時のもの)。

乗客は私を含めて3人。残りの2人も2~3駅で下車して、しばらく車内は私と運転士の2人だけとなる。

車窓は干拓地で、麦畑が広がる。この辺りでは米の裏作として大麦・小麦を栽培しており、ちょうど今からが収穫時期という。

そして遠浅の有明海に出る。遠くに見えるのは多良岳。穏やかな景色である。

多比良に到着。ここが国見高校の最寄り駅で、ホームにはサッカーボールをあしらったモニュメントが建てられている。この辺りから、島原に向かう客が少しずつ乗って来る。

有明海が目の前の大三東(おおみさき)に着く。ホームには黄色いハンカチが並び、朝日に映えている。「幸せの黄色いハンカチ」で、島原鉄道の車体の黄色にちなんだ町おこしだという。列車がすぐに発車するのが惜しい。実は、大三東がこういうスポットだと知ったのはこの日の朝、本諫早でのことである。島原鉄道に乗ることは事前に決めていたから、もし前日までに分かっていたらレンタカーで島原城に行く途中に立ち寄ってホームにたたずむこともできただろうに・・。

雲仙にも近づき、島原に到着。ここで多くの客が下車した。どうやら港まで行って高速艇に乗るのは私だけのようだ。

車両基地がある島原船津を過ぎ、7時13分、終点の島原港着。ホーム1本だけの中途半端な感じに見えるが、線路はこの先にも続き、少し離れたところで草生している。かつてはこの先、加津佐まで線路が続いていたが2008年に廃止されている。途中には雲仙普賢岳の火砕流で寸断され、後に復興を遂げた区間もあったのだが経営難により部分廃止となった。

駅の裏手に三角屋根の建物が見える。「JYH」の文字があるその建物は島原ユースホステル。20年以上前に島原を訪ねた時に宿泊したことがある(私も、10代~20代前半まではユースホステルにも結構泊まったものだ)。玄関には「ゲストハウス島原」とあり、ユースホステル協会ではなくなったがまだ現役のようである。

フェリーターミナルに向かう。熊本行きと並んで大牟田行きがある。窓口に向かうと「予約の方ですか?」と尋ねられる。事前に三池島原ラインのサイトを見たところ、大型連休中は利用客が多いためにネット予約を勧める記載があったので予約していた。ただ、周りを見ると乗船客がそれほどいるようには見えない。

乗船券は券売機で買うが、「どちらまで?」と尋ねられる。そりゃ三池港だろうと不思議がると、乗船券の他に、大牟田までのバス、さらに西鉄電車とのセット券が選べるという。この先天神まで向かうので合わせて3580円。割引はないが、1枚のきっぷで直通できるのが面白い。大牟田から特急に乗れば島原港から天神まで約2時間。案外早く着くものである。また、今回は利用することがなかったが、この高速船を利用することで島原、大牟田両市の観光スポットの割引が受けられるという。島原半島はキリシタン関連、そして大牟田は明治産業遺産関連、ともに世界遺産認定のスポットを有する。

乗船案内がある。乗り込んだのは私を含めて4人。さすがに朝7時40分島原発だと乗れる条件は限られるようで、この便については事前予約までは不要のようだった。

出航してスピードが上がる。少しずつ島原の町並み、さらには雲仙の姿が大きくなる。今回の九州西国霊場めぐりは諫早シリーズだったが、前日からここまでの景色を振り返ると、さしずめ雲仙シリーズとでもいうところかな。

穏やかな海の上をスムーズに走り、島原から約50分で大牟田・三池港に到着する。乗り場を抜けるとバスが待っていて、すぐさま大牟田駅に向けて走る。

大牟田には第6回の九州西国霊場めぐりで訪ねている。その時はレンタカーで第15番普光寺から、みやま市の第16番清水寺、第17番永興寺と回り、三池炭鉱関連のスポットも訪ねた。今回は素通りとなるが、そのまま西鉄の8時53分発の特急に乗る。第6回の時はJR利用だったので、今回西鉄に乗り通すことができてよかった。

駅ごとに乗客が増え、9時55分、西鉄福岡(天神)に到着。このまま地下鉄で唐人町に移動して、ペイペイドームでのホークス対バファローズの観戦に向かうのであった・・・。

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