まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第5番「観音堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(地御前の穏やかな海に癒されて)

2021年02月28日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所、今回は第5番の観音堂である。2月23日、訪ねるのは廿日市市の地御前である。高須から広電にのんびり揺られて、地御前の電停に到着する。

ちなみに電停から数百メートル先には第78番の三光院もある。エリアごとに巡拝するなら一緒に回るところだが、この広島新四国八十八ヶ所めぐりではあくまで「札所番号順」を採用している。札所も一応宮島から始まって宮島に終わる循環ルートになっていて、その時にまた地御前の電停に降りることになる。

この辺りも宮島街道で、旧道沿いに古くは明治時代から続く町家が残る。

その観音堂、こちらの立派な楼門がある寺と思いきや・・・こちらは浄土真宗の別の寺である。

その向かい側、ちょっとした空き地があり、その奥にこじんまりしたお堂が見える。ここが観音堂である。こうしたところも札所になるのが地方の八十八ヶ所霊場である。お堂の周りには隣の民家と接するように鐘楼や石灯籠、地蔵像などが並び、狭いスペースに無理やり押し込められたようにも見える。

広島新四国八十八ヶ所の札所案内によると、観音堂が開かれた時期は不明とのことだが、江戸時代の前期には田中屋が堂の世話をしていたとの記録があるそうだ。「対岸の宮島が古来の禁制で、神域外の当地付近に産屋が設置されていたのに関連して観音堂が建立されたのかもしれない」とあるが、どういうことだろうか。

宮島が古来の禁制というのは、今でこそ観光地として賑わっているが元々は島そのものが信仰の対象で、穢れ、不浄が許されなかった歴史のことである。島内に墓を作ることができないし、昔の考えでは出産も穢れとされていた(今はそんなことを言う人はいないだろうが)。そのため、別の場所に産屋が設けられ、そこで出産する習わしがあった。別にこれは宮島に限ったことではなく、各地に設けられていたものである。産屋があったから観音堂ができたのか、あるいは観音堂の周りなら安心して出産できそうだと産屋が建てられたのか。少なくとも、観音菩薩には穢れを忌むという考えはなく、むしろ産婦を救ってくれる安心感がありそうだ。

現在のお堂は明治時代に再建されたとのこと。まずはお堂の前でお勤めとする。

お堂の扉に「納経は中にあります」の貼り紙があり、横の扉から中に入る。畳2枚分くらいの外陣があり、奥に本尊の十一面観音が祀られている。これまでいただいてきた開基100周年記念の御影はなかったが、裏に般若心経が書かれていた十一面観音の写真があり、代わりにいただく。この観音堂には住職というのがおらず、ご近所で管理されているそうだ。そのためか、墨書の文字も大きなスタンプが使われているようで、ところどころかすれたものになっている。

旧道をもう少し進む。

JRの踏切を渡ってやってきたのは地御前神社。JRと広電の線路に挟まれた場所に鎮座しており、鳥居の前を広電の線路と宮島街道が横切っている。もっとも、昔は拝殿のすぐ横まで海が来ており、鳥居も海上にあったという。

宮島が古来島そのものが信仰の対象だったと書いたが、元々は人の立ち入りも禁じられていた。そのため対岸からの遥拝の場として設けられたのが由来とされている。後に、宮島に人が入るようになってから、島内の厳島神社とともに神社として広げられ、江戸時代までは伊勢神宮になぞらえて厳島神社を「内宮」、地御前神社を「外宮」と呼んだそうだ。鳥居にも「厳島外宮社」と記されている。

かつての厳島合戦の時には、毛利軍が風雨の中ここから宮島に出撃し、陶軍を破った歴史がある。

せっかくなので海辺に出る。牡蠣の養殖いかだがあちこちに見える。地御前の牡蠣も有名だ。しばらく海岸を見ながら歩き、宮島が見えるところまで出る。

次の電停である阿品東に向かい、また広電で帰宅する。この日は午前中のちょっとした散歩という形になった。

地御前に来たこともあり、夜は牡蠣料理にしようか。ただ、そこで業者から買えばよかったのだろうが、おひとり様なのでそれだけ大量に食えるものではない、近所のスーパーのパックで十分だ・・・。

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今季は、何試合観戦できるだろうか・・

2021年02月27日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

2021年のプロ野球開幕まで1ヶ月。現在の状況では、観客数を通常から減らす形、また「新しい観戦スタイル」を継続する形で何とか予定通り開幕を迎えられそうだ。昨年は中止となった交流戦も行われる。

そんな中、バファローズのファンクラブの継続入会記念品が到着。今季のゴールド会員記念品は、共通の「勝紺」のサードユニフォーム、そしてデサント製Tシャツを選択。

それはいいのだが、何試合観戦できるかな。その都度広島から遠征することになるが、札所めぐりと組み合わせて出かけることにするか。

ちなみに今季のバファローズ対カープの交流戦は大阪で週末に行われる。これはチェックかな。

また一方で、2軍戦の観戦でそれこそ久しぶりに由宇練習場に行くのもいいかもしれない・・。

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第21番「花山院」~西国四十九薬師めぐり・31(納経して住職の歓迎を受ける)

2021年02月26日 | 西国四十九薬師

花山院に到着。仁王門をくぐり、石段を20段ほど上がると境内に入る。

そこでまず目に入るのが、「先に本堂へお参りしてから納経所に来るように」との立て札である。後でも触れるが、この花山院は「納経」ということについてはこだわりというか、本来の意味を大切にする寺院である。この札があるのは、寺に来たらいきなり納経所を訪ねて朱印だけもらおうとする人への注意である。やはりまず手を合わせるのが先だと。

今回花山院に来るにあたり、寺院のホームページをチェックしていた。その中で、当寺の山本光洋住職が2020年に本を出版したとある。「巡礼の鑑」という一冊で、巡礼の真の目的や、納経の意味、般若心経の「真説」などについて触れられている。かねてから寺で出している法話集を元に書籍化したそうだ。せっかくなので事前にアマゾンで購入して読みかけていたが、まだ途中である。

さて、順序に従ってまずは花山法皇殿に向かう。十一面観音を真ん中に、こちらから見て左に弘法大師、そして右に花山法皇の像が並ぶ。お堂の扉が開いており、外陣の畳に座ってお勤めとする。

続いて、奥にある薬師堂に向かう。こちらが今回の目的である西国四十九薬師めぐりの本尊である。花山院は花山法皇が余生を送り、御廟もある寺だが、法皇が開いた寺ではない。先ほどの播州清水寺と同じく、6~7世紀にかけてインドからやって来たとされる法道仙人によって開かれたところ。このブログの札所めぐりシリーズで何度も登場する仙人で、摂津から播磨にかけての多くの寺の縁起に関わっている。その法道仙人がインドから来た時に乗っていたとされるのが牛頭天王で、その本地仏が薬師如来であることから、寺としては薬師如来が本尊という位置づけのようだ。こちらはお堂の外からお勤めとする。

奥には7体の地蔵像が並ぶ。それぞれの地蔵が左手に役割を象徴するものを持っており、右手を差し出している。右手で握手してご縁を結び、願い事を頼むとある。これまで多くの人が握手しており、銅像の右手もだいぶつるつるになっている。

そして花山法皇の御廟へ。若い頃は身の上にいろいろなことがあり、皇位を追われた藤原氏への怒り、恨みもあったことだろうが、西国三十三所の巡礼、修行を通し、またこの三田の地で過ごすうちに自分の中で相手を許す気持ちが出たという。後に都に戻ることになるが、この地で過ごした日々は忘れがたいものだったことだろう。

ここまで一回りして、納経所に向かう。

花山院の納経所については、「うるさい」「気難しい」「怒られる」という記述がネット上で見られる。かくいう私も初めて来た時にそのような情報に接していたのだが、実際に来てみて、またその時いただいた「巡礼者への法話」というパンフレット、さらに現在読んでいる「巡礼の鑑」に収められている住職の考え方に触れて、なるほどなと思わせるものである。要は「納経」「朱印」の本来の意味を知ってほしい、またそれを知らしめるのが寺の役割だということから来ている。

言われているのは、納経は字のごとく「写経を奉納すること」。私もお堂では読経にてお勤めとしているが、本来すべきなのは写経である。寺はその写経に記載された名前や願い事を読み上げてお祈りをする。そのお布施が納経料で、決して朱印や揮毫の代金ではないとしている。だから納経帳も本当の意味は納経の証の印をいただくもので、参拝記念とかコレクションのためという意味ではない・・ということ。また納経帳はどうしても揮毫に目が行きがちだが、朱印は単なるスタンプではなく本尊そのものであり、中に記された梵字の意味も理解してほしい(特に先達と呼ばれる方は・・)としている。

もっとも、写経を奉納しなければ納経帳に朱印、揮毫はしないぞということはなく、そこは「巡礼者への法話」を渡して、せっかく来ていただいた方にこの機会に納経の本来の意味を知ってもらおうという対応をしている。

だからというわけではないが、今回、花山院に来るにあたって般若心経の写経を1枚持参した。納経所に着くとまずそれを差し出す。寺の人は、「わざわざご丁寧に・・」と写経を押し頂いた後で、最後の名前の読みを確認する。住職が供養する時に読み違いがあってはいけないからだという。

そのうえで朱印をいただく。この先、私もコレクションをしているようでいやらしく見えるかもしれないが、西国四十九薬師めぐりのバインダー式の朱印をいただく。こちらは書き置きのものだが、朱印が写経を奉納したその証だと言われれば、必ずしも直筆ではなく書き置きでもその効力には変わりない・・・となるのか。

そして、これまでは番外ということで避けていたが、西国三十三所の先達用納経軸も書いてもらうことにする。文字は「花山法皇殿」である。こちらは先に写経を奉納したからではないだろうが、前回もそうだったが寺の方の応対も実に丁寧である。

寺の人は「昨年住職が本を出しましてねえ・・」と、先ほど触れた「巡礼の鑑」について触れる。なので「私も先日アマゾンで買いました。まだ読んでる途中なんですが・・」と、その一冊を見せる。すると「もしよかったら、ちょうど住職いますんで、サインさせてもらいましょうか?」と。「ちょっと待ってください、呼んできますんで」と、何だか恐縮である。

しばらくすると山本住職が隣の窓口に姿を見せる。もちろんお会いするのは初めてで、眼鏡をかけてキリッとした表情である。「わざわざありがとうございます」と、こちらこそ恐縮である。先ほどの写経の末尾に書いた私の名前を見ながら、筆を執っていただく。「あ、アマゾンで買わはったら、正誤表渡しときます」と小片をつけてくれる。確かに文中に読みにくいところがあったのだが、それは誤植だったのね。

「この本に私が籠めた思いは、『はじめに』にまとめられてます」という。

「戦争などがなくて本当に世の中が平和でありかつ天災などの被害がないこと、自らの身体も健康であり、経済的な余裕と時間的な余裕がなければ巡礼などできません」

「このような条件が整った人だけ巡礼をしたら神仏から救って頂けるとか、また何らかの御利益を受けることができるとするなら、あまりにも不公平ではないか」

「ある霊場などでは、この時期にお参りをすれば御利益が何倍もあるとしていますが、それが真の巡礼なのでしょうか」

これらの思いから、人間と神仏の関係とは何か、巡礼とは何かという思いで法話集をまとめた一冊という。まず、こうやって巡礼ができることへの感謝の気持ち、ただ、何回巡礼したから偉いとかそういうものではない・・・ということ。それこそ西国三十三所のように、何巡したかによって階級をつけるというのはもってのほかと言わんばかりだ(先日、さらに上の階級ができたばかりだが・・)。花山院はかつて西国三十三所の札所会を脱退した歴史があったそうだが、住職のこうした考え方によるところかなと改めて思う。

また住職お薦めのポイントとして、アメリカの脳神経外科医であるエベン・アレグサンダー氏の臨死体験を基にした「ブルーフ・オブ・ヘブン」、「マップ・オブ・ヘブン」との出会いを挙げた。脳神経外科医といえば、意識、心という作用は脳が作り出すもので、人が死んで脳が死ねば全てなくなり、あの世などないというのが基本的な考えである。しかし彼が臨死体験をする中で、あの世や天国は実在するものだと確信し、それを科学的に証明する・・として出したのがその著作である。山本住職はこの本に出会って、般若心経の色即是空の真理を理解することができたという。

「般若心経の解釈もいろいろ出てますが、どうしても文字から理解しようとするんです。そうやなくて、スピリットの面から般若心経を理解しようと。もっとも科学的な脳神経外科医が般若心経の真髄に通じていたというのが面白くて」と。

住職の思いをありがたくいただき、一冊をじっくり読むことにしよう。

納経所を後にして、有馬富士からその先の景色を見る。遠方には薄らとではあるが明石海峡あたりを望むことができる。

この景色を見ながら、次の行き先を決めるサイコロである。納経の意味、巡礼の意味に触れたばかりではあるが、これも回り方、ご縁である。

1.高野山(龍泉院、高室院プラス西国3番粉河寺)

2.湖東(西明寺、桑實寺、善水寺プラス西国31番長命寺、32番観音正寺)

3.阪神(久安寺、昆陽寺)

4.橿原・名張(久米寺、弥勒寺)

5.大阪(四天王寺プラス西国22番総持寺)

6.丹波(達身寺、長安寺、天寧寺)

・・・ここでのサイコロは、「6」。丹波である。このところなぜか兵庫県の西側が続く。長安寺と天寧寺は京都福知山だが、両府県にまたぐ丹波シリーズである。またどうやってアプローチするか、考える楽しみが出てくる。

花山院を後に、今度は急な下り坂となった参道を駆けるように下りる・・・。

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第21番「花山院」~西国四十九薬師めぐり・31(清水寺よりきつい勾配を歩く)

2021年02月25日 | 西国四十九薬師

三田にある花山院に向かう。今回、西国四十九薬師めぐりの札所として来たが、西国三十三所の番外札所ということで以前に一度訪ねたことがある。2015年1月のことだから、6年の月日が経っている。

花山院というのは平安時代の花山法皇のこと。西国三十三所の中興の祖とされる人で、現在の33の札所の形を定めたとして今でも尊敬されている。若い時に藤原氏の陰謀のために出家、退位させられ、怒りと失意のどん底にあったが、徳道上人の伝承をもとに西国三十三所の巡礼を行った。その途中で訪ねたのがこの地で、巡礼を終えた後は静かに余生を送ったという。花山法皇の御廟があることから花山院菩提寺という名になった。

花山院がある尼寺という集落にあるのが十二妃の墓。花山法皇が寵愛していた女御と、女御に仕えていた11人の女官の墓である。法皇を訪ねてこの地に来たが、寺が女人禁制ということでこ尼僧としてこの地に留まった。女官たちはせめて都を懐かしんでもらおうと琴を弾いた。法皇にもその思いは届いたことだろう。法皇亡き後も女官たちはここで生涯を送り、一緒に葬られた。

坂を上ると花山院の参道入口である。三田駅からのバス停もある。この先もクルマで上ればいいことだが、あえて麓の駐車場に停める。駐車料金は道の向かいの蕎麦屋に申し出て支払う。「クルマでも上がれますよ」と言われたが、あえて歩くと言って500円を払う。「後でそばを食べてくれたら返しますよ」と送られたが、どうするかな。

この参道である。寺までは1キロほどだが、傾斜何度あるのか?という急坂に挑む。私の軽自動車ならひっくり返ってしまうのではないか、ならば歩いたほうがまし・・という思いもあったが、それよりも花山院としては歩くことを推奨しているのではないか・・と考えるところが大きかった。

道端に丁石がある。それらで一息つき、4丁の地蔵を迎える。この辺りが中間点だが、勾配はよりきつくなったように思う。

それでも20分あまりで8丁の坂を上り、山門の前に着いた。いったんここで息を整えて、境内に向かう。

境内については記事を改めることに・・・。

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第25番「播州清水寺」~西国三十三所めぐり3巡目・24(徒歩登山道を歩く)

2021年02月24日 | 西国三十三所

西国四十九薬師めぐりの前に、今回セットで訪ねる西国三十三所の第25番・播州清水寺に向かう。前泊した赤穂で日の出を見てから出発して、山陽道~播但道~中国道と走り、滝野社インターで下車。その後は県道を走り、赤穂を出て1時間半ほどで清水寺に到着する。

清水寺に到着といっても、寺へ続く参道の入口である。寺の本堂はさらにこの奥にある。

清水寺を訪ねる人のほとんどはクルマである。そのために清水寺がクルマでの参道を整備した。その参道維持費として入山料500円(普通車)が必要で、駐車場の向こうに高速道路のインターにあるような料金ゲートがある。また、私がこれまで2巡の西国三十三所めぐりで訪ねた時は1日2往復の路線バスで来たが、バスの下車時にバス代とは別に500円を支払う仕組みだった。

今回はクルマで来ていて、このままゲートで500円を払えばすぐに寺の駐車場に着き、仁王門から入れば済む話だ。ただ、3巡目ということだし、また時間に融通がきくクルマで来ているということなので、ここは初めての方法で行くことにする。とは言え、クルマの参道は歩行者、自転車の通行は禁止されている。ということで上るのは昔ながらの参道である。

クルマの参道が整備されたのは1975年のことで、それまでは参道の入口にクルマを停めて歩いて上っていたわけだ。駐車スペースがある程度取られているのはその名残である。参道の距離は18丁(約2キロ)、所要時間40分とある。結構急な斜面でもあるのだろうか。とはいえ、2キロなら徒歩でもカバーできる範囲である。中には相野駅から12キロほどを歩くという剛の者もいるから、それに比べれば・・。

「推古・聖武両帝勅願所」の石碑や祠がある中、参道に入る。杖立てがあったので手ごろなのを1本借りて進む。猪避けの扉を開け、これから上りである。

初めは整備された道で、治水事業の堤もあるが、そのうち自然な道となる。結構石もデコボコしているし、木の根が地表に出ている箇所も多い。

九十九折の道が続くが、勾配は思ったほどきつくない。息が上がる場面もなく、沿道にある丁石に刻まれた数字も順調に減っていく。

清水寺にたどり着く登山ルートはいくつかあるようで、その分岐らしきところも見える。

残り3丁近くに稚児岩というのがある。時は南北朝の戦いの頃、南朝の武将・赤松氏範が山名・細川の大軍に攻められ、清水寺に立て籠もった。その際、観音様のお告げにより子の乙若丸を薩摩に落ち延びさせるべく、郎党二人をつけてここで決別したという。結局赤松氏範はここで自害するのだが、乙若丸はその後どうなったのだろうか。ただこの看板、読みようによっては氏範自身が薩摩に落ち延びるために乙若丸と別れた・・とも読めてしまう(稚児岩を紹介するブログ記事でもそう読んだ人も結構いるようだ)。日本語は難しい。

残り1丁を過ぎて、石段の下に出る。かつてはこちらが清水寺の玄関口で、立派な石垣も見える。

途中に礎石がある。かつての仁王門跡である。仁王門は1965年の台風で全壊したが、1980年に現在の場所に再建された。先にクルマでの参道が開通しており、今では完全にそちらが玄関口である。まあ、こうして徒歩で来たからこそ昔の姿を見ることができたわけだが。

境内に入ると郵便ポストがある。これを見るのも初めてだ。戦前に置かれたものだそうで、現在は使われていないが、SNSで静かな人気スポットだという。下の取り出し口には小銭が積まれている。これ、上の投函口から入れた小銭が下に出ているのだろう。昔はわざわざこの寺から手紙を出した人がいたのだろうが、郵便局員も大変である。それはそうと、清水寺への郵便配達もあれば宅配便の集配も来るだろうが、そういうクルマは関係者ということで参道維持費の通行料は無料なのかな。

・・ようやく大講堂着。やはり40分かかった。

まずはここでお勤めとする。風も穏やかで心地よい。

先達用納経軸に朱印をいただく。これで西国三十三所の3巡目は兵庫県が終了、札所は残り9つとなったが、和歌山、滋賀、岐阜という遠方がまだまだ残っている。もう少し長く楽しめそうだ。

境内を一回りする。大講堂横の石段を上り、根本中堂に向かう。播州清水寺は本堂が二つあるとしており、西国三十三所の札所である大講堂には千手観音、そして根本中堂には十一面観音が本尊として祀られている。清水寺のホームページによれば、大講堂は先祖供養の場、そして根本中堂は心願成就の祈願や僧侶たちの修行の場とある。まあ、そこは両方お参りすればよいことだが、大講堂までで帰ってしまう人が多いそうだ。

根元中堂の奥に「おかげの井戸」がある。その昔、法道仙人が水神に祈って水が湧いたことからこの寺が「清水寺」として開かれたスポットである。この井戸を覗きこんで自分の顔が映れば寿命が3年延びるという言い伝えがある。前もそうだったが覗きこんで無事に3年延びたようだ。もっとも、そもそも私の寿命とは何年なのかなと思うが。

大塔跡を見る。かつての多宝塔は平家の武運長久を願って建てられたが、明治時代に火災で焼失、大正時代に再建されたが、先の仁王門と同じ1965年の台風で被害を受け、取り壊しとなった。またいつの日か、この多宝塔が再建されることがあるだろうか。

今の仁王門に到着。もし1日2本のバスの時刻と合えば復路はバスに乗ってもいいかなと思ったが、時間はかなり先だ。帰りも歩いて下りることにするが、上りの感触だと下りもさほど苦にすることなく行けるだろう。

仁王門から再び境内に入り、最後に回ることになったのが大講堂横の薬師堂。奈良の「せんとくん」などのキャラクターデザインで知られる籔内佐斗司による十二神将像が本尊の薬師如来を囲む。壁の外から薬師堂の中に身を乗り出した姿だ。普通にクルマ、路線バスで来れば大講堂の前にお参りすることになり、ちょうどやってきた人たちが十二神将にカメラ、スマホを向けている。

帰りも徒歩ということで、最後に大講堂の前で一礼した後、石段を下りる。下り坂で自然石がむき出しのところが多いのでどこに次の一歩を下ろすか考えながら進むが、特に難所というほどでもなく、35分で麓の駐車場に戻った。

さてこれから西国四十九薬師めぐりの第21番であり、西国三十三所の番外札所である花山院に向かう。清水寺に路線バスで来た時に見覚えのある道を通り(路線バスは他のスポットも経由するのでさらに遠回りするが)、JRの相野駅前から新三田に向かう。有馬富士公園の横を通り、花山院までもうすぐだ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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西国四十九薬師めぐり~赤穂御崎の日の出

2021年02月23日 | 西国四十九薬師

2月21日、6時20分に赤穂ロイヤルホテルを出発する。今回は急に思い立って(割引プラン)の利用で、遅い時間のチェックイン、早朝のチェックアウトで申し訳なかったが、またゆっくり利用したいところである。

向かうのは赤穂御崎。ホテルからは3キロほどのところ。赤穂に泊まったからこそ朝に訪ねることができる。

着いたのは伊和都比売(いわつひめ)神社。海に向かって鳥居が建つ。遅くとも平安時代には記録があった由緒ある神社だが、長く海上の岩礁に祀られていたのを現在の地に移したのは赤穂浅野家の初代藩主・浅野長直とある。ちなみにその孫で三代藩主が、忠臣蔵の元となった松の廊下事件を起こした浅野内匠頭。

神社の横を抜けると海岸に出る。この時間を選んで赤穂御崎に来たのは、日の出を見るためである。赤穂御崎は日の出の観賞スポットとして知る人ぞ知るところで、私も初めてだがそれなら日の出を見ようと思う。現地泊ならではの楽しみである。

果たして何人かの人が日の出を待っている。三脚を立てている人もいる。今年はどうだったかはともかく、例年なら初日の出となると大変な人だかりなのかなと思う。周囲の岩礁、遠くの家島諸島の島影が景色にアクセントを与える。

大石内蔵助の名残の松というのがある。赤穂を開城し、仇討のために江戸に向かうためにここから舟に乗った際、名残を惜しんで眺めたとされる松である。そうか、内蔵助らはこの先赤穂に戻ることはなかったからな。もっとも当時の松は枯死して代替わりしているという。

こうしたソファーも置かれている。ゆったり座りながら日の出を見ようという展望席だ。

この時季の日の出は6時40分前後。もうすぐだ。

遠くの霞から少しずつ昇ってくる。

これだけはっきり、しっかりした日の出を見るのも久しぶりのことで、うなるばかりである。赤穂は忠臣蔵だけでも塩だけでもなく、また工業だけでもないこうした朝日のある町だと実感した。

朝7時、高速に乗る前にせっかくなので市街中心部にもむかう。やって来たのは赤穂城大手門跡。復元とはいえかつての姿をもっともよく伝えるスポットである。忠臣蔵の映画やドラマでも、城内や屋敷のシーンはスタジオや他の城の外観が使われるが、赤穂城の大手門については実際のこの景色でロケをするのだとか。

そして大石神社へ。朝早くに参拝するのは初めてである。まずは門前に並ぶ四十七士の像のお出迎え。

神門は神戸の湊川神社から移されたもの。楠木正成と四十七士の「忠臣」つながりである。個人的にはそうした思想、戦前の教育、価値観はちょっと受け入れがたいところがあるのだが。仕える人のために懸命に働くのはよしとしても、それを国家の全体主義の象徴のように言われるのがどうかと思う。

まだ神社の人が境内を掃き清め、地元の人が毎朝の習慣のようにお参りするくらい。上に書いた難しいことを意識するほうが考えすぎなのだろう。ともかく、手を合わせる。

早朝なので史料館や宝物館は開館前だが、今回城跡から神社に回ることができてよしとする。西国四十九薬師めぐりに忠臣蔵が出るとは思わなかった。

赤穂前泊に結構なプラスを得て、これから目的の札所めぐりである。山陽道の赤穂インターから乗り、姫路から播但道、福崎から中国道と乗り継ぎ、滝野社で下車。これまでとは逆方向からのアクセスで、まずは西国三十三所の播州清水寺に向かう・・・。

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西国四十九薬師めぐり~夜の赤穂に討ち入り

2021年02月21日 | 西国四十九薬師

今回の西国四十九薬師めぐりは第21番の花山院で、これにプラスして3巡目の西国三十三所の第25番である播州清水寺を組み合わせる。花山院は三田市、播州清水寺は加東市にあるが、広島からクルマで向かうにあたり、途中で前泊の形を取ることにした。

2月20日、この日は職場での所用と重なり、これが終わってそのまま兵庫に向かうことにしていた。現在はクルマ通勤だし、後部座席に荷物一式、巡拝用品一式を入れている。何やかんやで出発したのが19時すぎのこと。

広島市街の南側から東側をぐるりと回る広島高速3号線~2号線~1号線と走る。私が以前に広島にいた時には山陽自動車道の広島東インターに接続する1号線だけがあって、その時は広島高速というよりは温品(ぬくしな)バイパスと呼んでいた。それが後に路線が広がり、将来的には広島都市圏の「環状線」を形成する計画である。

広島東インターから山陽道に入り、小谷サービスエリアで夕食を兼ねた休憩とする。時刻は20時を回ったところだがフードコーナーも開いていて、広島ラーメン定食というのをいただく。広島県でラーメンといえば尾道ラーメンが有名だが、ここでいう広島ラーメンというのはあくまで広島市とその周辺のもので、醤油とんこつがベースになっている(また広島市には同種のメニューとしてつけ麺や汁なし担々麺も一つの勢力がある)。ただ同じ広島県でも備後の国は醤油ベース(背脂つき)が主流と、文化の違いがある。それはお好み焼にも表れているようで・・と話すとキリがないが。

この後は三原近辺の長い登坂車線に軽自動車が力を振り絞ることもあったが、順調に走る。それにしても、2月20日、21日はよい天候に恵まれた。数日前の寒波の時には広島市内でも薄らながら雪が積もったほどで、山陽自動車道・中国自動車道も通行止め、あるいはタイヤチェーン規制があった。私のクルマはノーマルタイヤしかないので、行く当日に寒波でも来ていたら延期するところだった。ここは感謝しなければ。

出発して3時間半ほど、時刻は22時半。山陽道の赤穂インターで下車する。20日の宿泊は播州赤穂とした。目指す加東市、三田市の近くに泊まることも考えたが、広島の出発時刻が状況次第ということで、下手するとチェックイン可能な時間に間に合わない恐れがあった。また、夜の高速道路を長距離走ることがほとんどないため、あまり無理もしたくない。広島県、岡山県と抜けて兵庫県に少し入ったところということで、赤穂、相生あたりがいいかなと絞り、結果赤穂となった。

赤穂といえば忠臣蔵、塩、牡蠣といったところが連想されるが、実は沿岸部には工場群が並び、工業都市の側面を持つ。何も忠臣蔵だけで飯を食っているのではない。

赤穂インターからまっすぐ伸びる道は工場群に続いていて、ちょっとした工場夜景を見ることもできる。

この夜に宿泊したのは赤穂ロイヤルホテル。政府登録国際観光ホテルにも指定されている老舗で、赤穂城跡の東側に位置する。ホテル前の道路を挟んだ向かいには石垣もある。ただし、駅からはかなり離れているので、鉄道での旅行だと選択肢には入りにくい(もし鉄道旅行ならば、駅前に東横インがある)。今回ここを選んだのは、赤穂市が2月末までを対象に「Welcome to AKOキャンペーン」というのをやっていて、宿泊料金の助成が行われているとあった。予約サイトにて、このキャンペーンを適用した素泊まりの洋室が2450円(税込)とあったのでチェックして、事前決済専用だったので前日に支払い処理まで終えた。チェックインが24時まで可能だったのも大きい。

玄関に牡蠣料理の幟が立つ。こちらのホテルでは夕食にさまざまな牡蠣料理のコースが楽しめるそうだ。

予約入力時には24時としていたが、23時よりも前にチェックインできてフロントの人ともどもホッとした。

部屋はこちら。老舗の観光ホテルということで設備が最新でないのは致し方ないとして、シングルとしては結構広い。何なら、リビングスペースだけ見れば今の私の自宅部屋のそれよりも広い。

部屋のユニットバスだけでなく、館内にも大浴場がある。温泉ではなく沸かし湯と断りがあったが、他の客もおらずゆったり浸かることができた。日中は体も動かしていたのでよいリフレッシュになった。

寝る前に軽く一献として(なぜ2月の時季に「うちわ」があるのかお気づきの方もいるかな・・)、翌日21日の動きを改めて整理する。朝の早い時間に札所に向かうよう動きたいので、7時開始のホテルの朝食は注文せず、チェックイン前にコンビニで仕入れたもので取ることにしているが、せっかく赤穂に泊まっているのだから、朝の少しの時間だけでも赤穂の何かを見て、一つの記事にしよう。

そういえば、赤穂御崎が近くなかったっけ・・・?

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西国四十九薬師めぐり~今回は播磨から北摂へ

2021年02月20日 | 西国四十九薬師

広島新四国八十八ヶ所めぐりが加わって、より一層さまざまな札所が交じることになったこのブログ。その中で今回は西国四十九薬師めぐりである。前回は城崎の温泉寺、香住の大乗寺(応挙寺)というところを回り、冬の但馬、日本海の幸、温泉を楽しむことができた。

そこで次にめぐるエリア、サイコロで出たのは北摂三田の花山院である。こうした西国四十九薬師めぐりでは札所の一つであるが、西国三十三所の番外寺院の一つとなる。西国三十三所の先達として回るようになってからというものの、先達用の巻物納経軸の押印欄に番外札所は入っていないこともあって訪ねていないのだが、このたびこうして訪ねる縁を得たことになる。

花山院に行くとなると、そこに播磨の加東市に位置するが、西国三十三所の第25番である播州清水寺を加えることにする。

・・このように、サイコロの出目によって行くことにするとか、ことのついでに播州清水寺も「乗りつぶし」のように合わせて行こうかという発想だが・・・ただ今回は行き先が花山院ということでちょっと緊張する。その理由は別途。

前回(大阪在住時)、西国三十三所の番外札所として花山院を訪ねた時も、播州清水寺とセットにした。もっとも、播州清水寺の最寄り駅であるJR福知山線・相野駅からのバスが1日2往復しかない。その時は、2便目のバスの時間に合わせるために朝の早い時間に三田から花山院を訪ね、さらに近くの日帰り温泉に浸かった後に向かったものである。

今回(広島在住)、この2つの寺院をどのように訪ねるか。新幹線と在来線の乗り継ぎ、さらには広島から大阪まで夜行バスで出て、大阪から早い時間で前回同様の動きで回ることもできる。ただ今回はあえて広島からクルマで向かおうかなと思う。三田駅から花山院の参詣口までのバスは1時間に1本、そして相野駅から播州清水寺までのバスは1日に2本。これらを組み合わせるのもよいが、今回はあえて時間に柔軟性を持たせるためにそのような方法で行ってみようと思う。

このところの私の予定表を見る中で、2月20日の(日中は予定があるので)夕方に出発して、途中で1泊。翌21日に播磨、北摂に向かうことにする。21日の未明に出ても同じくらいの時間に着くと思うが、弾丸ドライブではなく、20日に前泊の形である程度移動しておくと、そこでゆっくりすることができる。宿泊地の白地図にもう一つ色を塗ることもできる。

・・・という形で20日の夕方遅くに広島を出発。さて、この夜の宿泊はどこになるか・・・。

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第4番「薬師寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(広島県の西の端から山口県へ)

2021年02月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

第3番の光妙院の参詣後、第4番の薬師寺に向かう。途中の道筋のところどころに昔ながらの家屋も残っていて、落ち着いた感じである。

小瀬川の近くに小ぢんまりとしたお堂があり、ここが薬師寺である。薬師寺ときけば、このたび110年ぶりに東塔の解体修理が完了した奈良の薬師寺を連想するが、その名前の寺は大小関わらず全国各地に存在する。

ちょうど寺の入り口が小さな公園になっていて、薬師寺の案内板も出ている。この寺がいつ開かれたかは定かではないが、南北朝時代にはこの裏の経塚山に「西福寺」という寺があったそうである。江戸時代になり経塚山から現在の麓に移り、薬師寺の名になったという。

本尊の薬師如来は行基の作と伝えられ、一つの木から三体の薬師如来が刻まれ、一つは出雲の一畑薬師、一つは信州の寺、そしてもう一つがこの西福寺に祀られたと伝えられている。「乳薬師」ということで、古くから乳の出ない母親が近隣、遠くは関西からもお参りする人が多かったという。ただ、仏像そのものは秘仏で、60年ごとに開帳されるとある。最近の開帳が1982年のことで、次は2042年とある。

こちらの寺は「無人寺」である。本坊があるのでベルを鳴らせば人が出てくるのだろうが、書き置き式の朱印は箱に入れて本堂の賽銭箱の上に置かれている。まあ、これも気楽でよい。それを確認したうえでお参りである。

本堂の斜め前には弘法大師堂がある。本堂と大師堂の組み合わせは四国八十八所の造りで、こちらでもお勤めとする。

寺の境内、周りには祠が目立つ。古いものは江戸時代に建てられた地蔵像で、その横の小さな祠は、経塚山にある四国八十八所の写し霊場のもの。最初からその気であればミニ登山というのもありだろうが、そこまではいいかと下から見上げるだけにする。

ともかくこれで大竹シリーズは回り終えたことになる。次の第5番からは廿日市市の本土側を行くことになる。

帰りだが、大竹駅に戻ってもよいのだが、地図を見ると小瀬川を渡って山口県に入り、しばらく歩くと和木駅に出ることができる。距離を見てもむしろ和木駅のほうが近いのではないかと思う。

川沿いに入り、歩行者、軽車両用の橋を渡る。地元の人たちの散歩コースになっているが、これで広島県から山口県に入る。時期が時期なら「県をまたいだ不要不急の外出は自粛してください」と警察が飛んでくる事態だ。ただ大竹市、和木町、岩国市の一帯は県をまたいでも生活、産業での結びつきが強いところ。そこは現実的に考えないと。

ただ、どこかで県境は仕切られるもので、和木町に入ったとたん、道端にはこの方のポスター、看板が目につくようになる。昨年までなら兄弟揃っての写真も結構あったはずだ。

駅近くの公園に「四境之役砲台跡」とある。「四境之役」とは江戸幕府の第二次長州征伐のことで、長州側の立場から見た時に使われる言葉である。芸州口、(周防)大島口、石州口、小倉口の4つで、芸州口では小瀬川を挟んでの攻防だった。幕府側は大竹に歩兵、そして海上にも軍艦を置いて攻撃する作戦だったが、長州側の洋式を取り入れた軍隊はこれを破り、逆に芸州側に攻め入った。前に第2番の法泉寺を訪ねた時にも触れたが、西国街道の宿場町だった玖波の町が焼かれたのはこの時である。

和木駅に到着。大竹と岩国の間に2008年に新設された駅である。和木町は重化学工業が町の主要産業として栄えていて、小さいながらも岩国市と合併することもなく独立して存在する。そして新たに駅もできたわけだ。

和木から列車に乗り、小瀬川を渡って広島県に戻る。山口県については、また機会を見つけて遊びに行こう・・・。

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第3番「光妙院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(大竹の波切不動明王)

2021年02月17日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、山陽線で移動して、広島県の西の端にある大竹で下車する。

大竹は工業の町としての顔があって、ダイセル、三井化学、日本製紙といった工場群が並んでいる。JR貨物の駅も併設されていて、以前に広島で貨物の仕事をしていた時には、大竹、岩国から各地に化学用品や紙が大量に発送されていて、大竹、岩国発で関東方面を結ぶ列車も出ていたから余計にそう感じる。

ただ、プライベートでの目的地となると初めてである。今回は第3番の光妙院、第4番の薬師寺が目的地である。いずれもコミュニティバスの便でつながりそうだが、天候も穏やかだし、時間もあるので歩いていくことにする。

現在の駅舎はかつての国鉄型の建物だが、駅前の再開発として橋上駅舎、東西自由通路の建設が進められている。2023年度末までの完成を目指すという。

大竹駅前の商店街を通る。「スペイン通り」という名前がついているが、どういう由来があるのだろうか。駅前もそれほど賑わっている感じはなく、やはり店舗は国道沿いに集まっているようだ。

大竹中学校の前に、奉納の石柱で囲まれた石碑が建っている。何か由緒ある人なのかなと見てみると「朝池槌五郎」という名前がある。明治時代に大竹にいた棒術の達人だという。棒術は日本古来の武道の一つである。大竹では有名な偉人なのかな。

駅から歩いて30分ほどで、道から一本入ったところにある光妙院に到着。駅周辺の住所は新町、そしてこの辺りは元町とあるが、元々の大竹の中心はこの辺りだったのかなと思われる。

少し石段を上がる形で境内に入る。山門はなく、本堂の前には不動明王、役行者、理源大師聖宝の石像が建つ。像の前には護摩供のお焚き上げの場がある。実際にここで法要や祈祷も行われるようだ。光妙院は、真言宗の中でも修験道に近い醍醐派に属している。

境内の一角には、修験僧の姿をした石像が立つ。「開基 妙総大和尚」と書かれている。歴史上の人物なのかなと検索するが、該当する人は出てこない。そのはずで、光寺院の縁起は昭和の戦後のことである。

広島新四国、および光妙院のホームページによると、妙総和尚(この時は一般人)が重い病にかかり、1958年から7年もの間生死をさまようことがあったが、夢枕に波切不動明王が立ち、「今日より衆生済度のために導く」とのお告げがあった。7日の間夢枕の教えに帰依したところ、病気も全快した。この恩に報いるために1966年に醍醐寺で得度を受け、波切不動明王を本尊とした光妙院を開いたとある。

これまで札所といえば古い歴史を持つ寺が多く、真偽のほどはさておき、弘法大師が開いたとか、さかのぼって奈良時代の行基が開いたとか、いやいやもっと昔に聖徳太子が開いたとか・・そうした縁起に触れることが多い。その中にあって広島新四国には、はっきりと戦後の開創とわかるところも札所に入っているところもあるようだ。

まだ新しい本堂の外でお勤め。中にも入れるようで、実際に履物も何足か置かれているが、中からは談笑の声が聞こえてくる。法話か茶話会か、見知った人同士の集まりのように思える。そうした場にわざわざ入ることもないかなと思う。

本堂の手前に納経所がある。広島新四国の朱印を求めると、窓の外に箱が置かれていて、そこからセルフで取る仕組みである。これからは、書き置きの朱印がどこに置かれているのかを探すのも楽しみになるのか。

他にも十一面観音石像や弁財天堂があり、水行場、十三仏像プラス孔雀明王ならびに弘法大師像も並ぶ。小ぢんまりした境内ながらさまざまな仏が揃っている。

境内の入口側には護摩堂、そして四国八十八所のお砂踏みがある。

光妙院を開いた妙総大和尚が四国から土砂を持ち帰り、2002年に醍醐寺の僧たちと「三祖の灯」を掲げ、各札所の本尊の修法を施したものという。それぞれの札所の本堂の写真パネルが掲げられていて、私自身がかつて回った時のことを思い出しながら一回りする。

こういう寺もあるもので、来た甲斐があったなと思う。ここまで来れば次の第4番薬師寺も十分徒歩圏内で、もう少し先に進むことにする・・・。

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寄り道「広島平和記念資料館」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(長岡省吾の事蹟)

2021年02月15日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島近郊に広がる広島新四国八十八ヶ所霊場。2021年から広島の町歩きを兼ねて始めている。

前回、第2番である大竹市玖波にある法泉寺を訪ねた。その時、玖波駅で降りるのが初めてということで駅周辺をぶらつき、穏やかな港やかつての西国街道の景色を見たのだが、その時旧街道沿いの一角に「長岡省吾顕彰碑」というのを見つけた。広島平和記念資料館の初代館長で、被爆直後の広島に入り、被爆した建物の瓦礫や石などの収集を行った人物である。その思いが、爆心地の特定であったり、現在の平和記念資料館の礎になったということを初めて知った。

ちょうど、被爆75年の企画展として、平和記念資料館にて2月23日まで長岡省吾の足跡を紹介しているという。せっかくの機会なので行ってみようと思い、コロナ対策での休館明けの2月11日に訪ねてみた。

平和記念公園。まずは原爆慰霊碑に向かう。昨年広島に来てから訪ねるのは初めてである。

そして資料館へ。現在は開館が再開されているがコロナ対策として入館制限を行っていて、時間帯ごとの事前予約が必要とある。もっとも、事前予約がなくても入館者数が定数に達するまでは整理券を配布する形で入場は受け付けており、個人で訪ねる分には当日行っても問題なさそうだ。

平和記念資料館を訪ねるのも何年かぶりだが、2019年に展示内容が全面的に更新されてからは初めてである。

その本館は、「被爆の実相」として、「人への被害」を中心とした展示に変わっている。被爆者の視点で8月6日を描くとして、写真、遺品、絵の展示を中心としている。照明も落とし、見学者が静かに遺品と対面することで、声なき声を感じ取り、当事者意識を持ってもらおうという狙いがあるという。

遺品そのものはもちろん以前からも展示されていたが、その説明を補うためにさまざまな造作物やパネルが設けられていて、結果として雑然とした印象を与えているのではという声があったそうだ。そのため、リニューアルに当たっては説明は最小限として、遺品、遺族の声そのものに焦点があたるようにしたという。

本館から東館への渡り通路。

続く東館は原爆に関する情報を中心として紹介している。どういう経緯で広島に原爆が投下されたのか、またその威力がどのようなものだったとか学術的なことはこちらで知ることになる。本館と東館でテーマを明確に分けているとのこと。

そして、今回の企画展である。「礎を築く-初代館長 長岡省吾の足跡」。

長岡省吾は地質学者、広島文理科大学(現在の広島大学)の教授で、8月6日は山口県で調査を行っていたが、被爆の翌日に広島に入り、変わり果てた街の様子を見てその実態を明らかにすることを決意した。当初は一人で瓦礫や瓦を集めていたが、その信念に少しずつ協力する人も現れた。

その収集資料をもとに、1949年に「原爆参考資料陳列室」、そして1950年に「原爆記念館」が開館された。ただ当初は運営資金も乏しく、長岡自らが資料の調査から展示物の制作、来館者の対応にあたっていた。一方で、被爆した人々が身に着けていた衣類や、生活用品なども提供されるようになった。

そうして長岡が奮闘していた頃、平和記念公園の整備も進められ、1955年に丹下健三デザインの平和記念資料館が完成した。長岡は初代館長に迎えられた。1961年に退職したが、その後も長岡の信念、思いは資料館に託され、現在にも受け継がれている。現在では2万点を超える遺品が保存されており、展示スペースで展示されているのはそのごくごくわずかである。

こうした事業が一人の人物の熱意から始まったと初めて知った。

なお、長岡省吾の事蹟、そして平和記念資料館が現在の展示方法に至った経緯について、ミュージアムショップで『広島平和記念資料館は問いかける』(岩波新書)という一冊を購入した。著者の志賀賢治氏は資料館の前の館長で、現在の展示方法を導入した方である。被爆の記録、記憶をどのように伝えることにしたのか語られており、現在読み込んでいる途中である。

さて、この日は広島新四国八十八ヶ所めぐりの続きのため、大竹に向かうことにしていた。その前段で、いったん平和公園まで出たわけである。バスで西広島駅に移動して、山陽線に乗る。その記事は次にて・・・。

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観戦記・「広島対新潟」 Bリーグ朱色対決

2021年02月14日 | ブログ

前週の7日に初めてプロバスケットボール・Bリーグの試合を生観戦したが、スピード、臨場感、なかなかのものだった。改めて、これからのスポーツ観戦のジャンルの一つに加えてみるところである。

さて、それから1週間後の14日、再び広島ドラゴンフライズの試合を観戦することにする。対戦相手は新潟アルビレックスBB。順位は東地区の10チーム中9位と苦戦している。アルビレックスといえば同じ新潟のJリーグ、BCリーグ等のチームにもその名がついている。もっとも、これらのチームはそれぞれ別会社が運営しているが、新潟の一つのブランド名と言えるだろう。

色の濃さは若干違うものの、広島、新潟それぞれ朱色(オレンジ)と青をチームカラーとしている。13日からの2連戦がBリーグでの初顔合わせだが、13日の第1戦は83対74で新潟が勝利。

会場は広島サンプラザホール。前週の試合が福山で、やはりメインとなるアリーナでも一度観戦しようということで、13日に思い立ってチケットを確保。広島サンプラザホールはJR新井口駅、広電商工センター電停から徒歩10分。

陣取ったのはメインスタンドの2階。中央寄りということでコート全体が見渡しやすいところだ。

この日はお好み焼ソースで有名なオタフクソースの冠スポンサーデー、また2月14日ということでバレンタインデー関連の商品も出ていた。チョコレートと選手のサイン色紙のセットというのもあるが、こういうのは女性から男性へのプレゼントになるのかな。

試合前のセレモニー、「おりづる交換」を終えてそろそろ試合開始。

広島のスターターはケネディ、朝山、岡本、エチェニケ、田中。一方の新潟はダーラム、五十嵐、佐藤、林、ウォッシュバーン。なお新潟はここにもう一人の外国人で今季の得点王も争っているアレンが加わる。

第1クォーターは新潟が林の3ポイントで先制。対して広島はケネディの3ポイントで追いつく。しかしその後は新潟の長身外国人トリオが入れ替わり立ち替わりでゴールを襲う。ウォッシュバーンがいとも簡単にゴールを入れれば、ダーラムもファウルで得たフリースローを決めて得点を積み重ねる。またそうかと思えば、いいところに五十嵐や林が構えているところにボールが渡り、狙いすませた3ポイントが入ったり、途中から出場のアレンも確実に点を決める・・。

第1クォーターを終えて28対14のダブルスコアで新潟が大きくリードする。

このままでは第2クォーターでどこまで点差をつけられるのかと思っていた。案の定、新潟のウォッシュバーンらの早い攻めで次々に得点が入り、5分を経過して45対22まで広がる。一方の広島はフリースロー2本をエチェリケが2本とも外すなど、どうもチグハグだ。

その中で朝山のシュートが決まりだすなど少しずつ追い上げ、前半終了時点で53対36と点差はそれほど広がらなかった。まだ後半に期待が持てそうだった。

第3クォーターも開始直後から新潟が連続して得点を挙げ、主導権をそのまま握る。それでも広島はケネディ、エチェジケ、マーフィーといったところが何とか奮闘し、74対56とする。ただ試合は終始新潟ペースで進んでいたし、一方の広島もゴール下までは来るがネットに嫌われ、すぐにボールを奪われる。この辺りに来るとヤジとまではいかないがスタンドからもグチのようなものが聞こえてくる。

第4クォーターも序盤から新潟が林、ダーラムらが着実に得点を挙げ、この辺りで広島も戦意喪失した感があった。

そして残り1分、大矢のフリースローで新潟はとうとう100点目を挙げた。バスケの1試合あたりの得点の相場というのがどれくらいかというのもあるが、100点が入るとなると野球の感覚では2ケタ得点の試合になるのかな。続く納見のフリースロー2本で102点まで伸ばし、終わってみれば102対76。最後は新潟の攻撃中、その場でドリブルをしている最中に時間切れとなった。

試合終了後のフェアプレー「おりづる賞」は広島・朝山、新潟・五十嵐にそれぞれ贈られた。その朝山は試合後のコメントとして「(点差が広がって)どうしても個でのプレーに走ってしまい、みんなが好き勝手にいろんなことを始めてしまった」と挙げていた。

チームもこれで6連敗、通算でも5勝33敗と泥沼・・というか、B1の壁に阻まれている。何か良いきっかけがあればというところだが、どうだろうか・・・。

 

 

 

 

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福山城と自動車時計博物館

2021年02月13日 | 旅行記F・中国

まだ福山の記事が続くが、時間を2月7日の朝に戻す。

朝の在来線列車で福山に到着。昼前までどう過ごすかだが、まずは駅のすぐ北にある福山城に向かう。福山駅は3層構造になっていて、3階の新幹線ホームからはほぼ同じ目の高さに福山城の櫓、その向こうの復元天守閣が見えることでも知られる。元々城の敷地だったところに駅が造られたという歴史がある。

その福山城、見えるはずの天守閣、そして一部の櫓が囲いで覆われている。現在、2022年の福山城築城400年の記念事業として、2年がかりで耐震工事が行われているところだ。

天守閣の下までは行けるのでとりあえず入ってみる。

福山城を築いたのは徳川譜代の水野勝成。工事のフェンスには、ゲーム「信長の野望」に登場するキャラクターのイラストが描かれている。その前は大和の郡山藩主だったが、安芸・備後を治めていた福島正則の改易にともない、備後南部を与えられた。そこで福山に新たな城を築き、現在の福山の町の基礎をつくった。

水野氏の福山藩は後に跡継ぎがいなくなったために幕府から領地を召し上げられた。後に阿部氏が福山に入り、その中で幕末期の藩主だった阿部正弘は老中首座として日米和親条約の締結に携わった。福山藩としての期間は阿部氏のほうが長かったが、地元としては水野氏のほうに親しみを感じているようである。戦国時代が絡んでいることもあるだろうが、福山の町の生みの親としての位置づけなのかな。

場内の一角には水野勝成の像もあり、「信長の野望」のイラストとはだいぶ感じが違うが、温和な表情で町を見守っている。

福山城が地元の人たちの散歩コースになっているのを見たうえで、少し北にあるスポットに行くことにする。

こちらの福山時計自動車博物館。入るのは初めてである。

受付から入ると、いわゆるクラシックカー、そして壁時計がこれでもかと並ぶ。現在はコロナ対策ということで中止されているが、通常であればこれらのクルマの一部には実際に乗ることもできるという。

またクルマだけでなく、蝋人形もある。日米和親条約を結んだ阿部正弘がいるのは、福山らしさのアピールか。他の人選がやや古いように見えるが、展示されているクルマの年代としてはこのほうが合っているように思う。

この博物館は、地元の実業家で自動車愛好家でもある能宗孝氏らが収集したコレクションを展示するとして1989年に開館し、「能宗文化財団」により運営されている。

クルマが好きな方にとっては希少価値あるもの、また懐かしいもの、さまざまな車種が展示されている。博物館といえば高級車が展示されているのかなと思っていたが、むしろ大衆車な商用車のほうが多いようだ。またこの博物館ではクルマの再生技術も持っており、展示車の多くは自走が可能だという。各種イベントや映画のロケにクルマが使われ、実際に走ることも。見る方としてはうなるばかりである。

こちらのコロナマークⅡには、「探偵!ナイトスクープ」の紹介板がある。

放送は1994年12月とある。このクルマの持ち主は神戸市長田区在住で、26年間このクルマに乗っていたが、排ガス規制の関係で次の車検切れをもって廃車することになった。ただ、いろいろな思い出が残るクルマがスクラップされるのが忍び難く、自動車メーカーあてに保存してもらえないか打診したが、断られた。そこで、「何とかスクラップから救われる方法はないか」と、番組に投稿した。そして番組で探偵があれこれ探し回った末、たどり着いたのがこの福山時計自動車博物館だった。館長は持ち主の思いに応える形で、翌年の車検切れを待ってこちらで保存することになった。

番組はこれで「めでたしめでたし」となったようだが、後日談がある。放送後、1995年1月17日の神戸・・・あの大震災が起こった。幸い、持ち主家族は無事で、クルマも少しの傷で済んだ。そして無事にその年の10月に博物館に「納車」された。

こうしたクルマの数々を集めるには、財団が保存したい、あるいは財団に保存してほしい・・いろいろな過程はあるだろうが、使ってきた、乗ってきた人の思いが詰まっていることだろう。

博物館の名前は自動車、時計となっているが、その後ろにはさまざまな生活用品も並べられている。これらの展示も室内の空気をレトロなものにしている。

その中で驚いたのが、仏像。不動明王、観音、金剛力士などが安置されている。こういうものも収集の対象になるのか。ご丁寧に、仏間の前で仏を拝むおばあちゃんの蝋人形まで。

一通り回り、いろいろ楽しんだところで博物館を後にしようとすると、「屋外にも展示がありますので」と、道路の反対側を示される。

こちらにはまず昔の消防車が並ぶスペースがある。ただ、屋根はあるといえ風雨にさらされるのか、屋内ほど保存状態はよくないように見える。福山市の町の名前や、日本鋼管の文字も見える。

そして、ボンネットバスが並ぶ一角へ。たまに、観光地でボンネットバスが走っているところがあるが、それらの多くはこの博物館関係者の手で塗装、整備されたものだという。私も以前、福山駅と鞆の浦を結ぶ観光バスとして「現役最古のボンネットバス」に乗ったことがあったが、それも博物館のものである。フロントガラスをよく見ると、現在効力のある車検ステッカーが貼られているのもわかる。

好きな人なら1日いても飽きないと思わせる博物館。各地にはこうした面白博物館というのもあるはずで、また少しずつ見つけていきたいものである・・・。

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福山でのBリーグ観戦の後は・・・

2021年02月10日 | 旅行記F・中国

前の記事で、Bリーグ初観戦のことを書いた。エフピコアリーナふくやまで行われた広島ドラゴンフライズ対島根スサノオマジックの第2戦は広島の逆転敗けだったが、バスケ観戦も面白いものだなと思わせた。

試合が終わり、アリーナを後にしたのは15時半頃。福山駅までの2.5キロほどの道を歩いて戻る。バス路線もあるのだが時間が合わないようだし、帰りまで時間がある。他にも同じように駅まで歩く人の姿もちらほら見かける。往路と比べて、まっすぐ走る道の突き当りが福山駅ということもあり、周囲の建物群が前方に見える。目標がわかりやすいぶん歩きやすい。

さて、16時頃に駅に戻ったのはいいが、これからどうするか。

何を言っているのかと思う方もいるだろう。普通ならばそのまま新幹線でも在来線でも乗ってしまえば、夕暮れには広島に戻れる。ただこの日は、自分である制約をかけてしまったために、広島に戻っているであろう時間まで福山に残る必要がある。

山陽新幹線に「直前割50」というきっぷがある。山陽新幹線の「こだま」と一部の「ひかり」について、2021年1月15日~3月28日までの土日祝日に半額で利用できるものである。きっぷは前日までにネット予約する必要があるが、例えば福山~広島「市内」までだと2520円で行くことができる。乗車券プラス500円あまりで行ける計算だ。

ただ、こうしたきっぷは制約がともなうもので、前日までのネット予約はともかくとして、乗ることができるのは予約時に指定した列車のその席に限られる。乗車列車・区間の変更はもちろん、同じ列車での座席変更や自由席に乗ることもルール上できない。まあ、実際は改札は自動だし、こういうご時勢なので新幹線車内での改札が行われることはほぼない。実際は早い便の自由席に乗ってもそのまま行けそうだが、まあルールはルールだ。

これを利用するとして、前日に予約したのが福山18時39分発の「こだま863号」。朝、福山に着いた時にみどりの券売機で発券した。Bリーグ観戦は初めてだったし、アリーナとの移動も含めて余裕を見越してこの時間にしたのだが、さすがに2時間半も空くとは思わなかった。さてどうするか。

・・ただ、あまり深く考えなかった。時間が早いということもあり、福山で一人打ち上げとするか。

そうなると、この店に行くことにする。天満屋福山店の横にある「自由軒」。一応洋食屋を名乗ってはいるが、福山では有名な昼からやっている大衆酒場である。私も、中国観音霊場めぐりで福山を訪ねた帰りに入り昼酒を楽しんだが、あれから1年あまり経って、広島県民として訪ねることにしよう。16時過ぎなのに画像が夜の灯りになっている理由は、お察しください。

吉田類さんの「酒場放浪記」にも登場する店。

ただ、この店は常に混んでいる。私が入った時、かろうじて1席、両側の方に詰めてもらって空くかどうかというところ、これを潮に「会計して!」という客がいたので少し広めに座ることができた。この後も客の出入りが激しい。長居する人、さっさと帰る人さまざまだが、今のご時勢でいえば「密」になっていると指摘されても仕方ない状況とは思う。だからほとんどの客はそのところを意識しているように思う。

バスケの帰りに大衆酒場というのもジャンルが違うようだが、瓶ビールをいただく。今思えば、バスケというスポーツは、仮にアリーナでの試合観戦中の飲食が可能だったとしても、野球や相撲のようにビール飲みながら弁当を食べて・・という観戦スタイルは向いていないように思う。

まずはアテとして冷奴とめざし、そして福山が名産地の一つであるクワイの空揚げもいただく。このホクホクした感じ、自宅ではクワイ料理はしないが、こうしたところで食べるとよろしい。

前回いただかなかったレバテキ。これもこの店の名物とのことで、ポークチャップのような一品で、洋食屋らしい。自宅でも作れるかな。

「Aセット」という注文が聞こえる。

どんなものか見てみると、氷の入ったグラス、ちろりに入った甲類焼酎、そして今時珍しい缶入りのウーロン茶が出る。要はウーロン割りを「中」と「外」で楽しむ一品のようだ。昔の「割りもの」はこうしたスタイルだったのだろうな。1回のセットで「中」「外」いずれのお代わりもせずにグラスで2杯と少し楽しむことができる。飲む方としても安上がりの一品として注文する人が多いのだろう。

Aセットとともに、これも名物の自由軒カツ(エビとイカのフライ)、土手味噌のかかったおでんなども楽しむ。

途中、店内で客のちょっとしたいざこざがあったものの、気がつけば18時も回り、いい時間になった。入る時に店の外構えの写真を撮らなかったので改めてカメラを向けると、ちょうど日が暮れたところ。今後福山で夕方になる時には新たな「関所」になるのかな・・。

駅に戻り、こだま号を待つ。後は寝過ごさないように広島に戻るだけだ・・・。

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観戦記・広島対島根「中国山地ダービー」@福山(一進一退の攻防、見ごたえあり)

2021年02月09日 | 旅行記F・中国

2月7日に福山で行われたバスケットボールBリーグの広島ドラゴンフライズ対島根スサノオマジックの「中国山地ダービー」。

まずは広島がボールをキープして攻める。開始30秒足らずで、ケネディが先制のシュート。すぐさま攻守交代となるが、再び広島が攻めてマーフィーのシュートが決まり4対0となる・

・・・という感じで書いていったらどこまでも続く。これが野球だったら、何回の表に誰それ選手がタイムリーを放ったとか、何回の裏に誰それのホームランが出た・・・となる。またサッカーだと1点が実に貴重で、その1点で試合が決まることもある。ラグビー、アメフトにしても、誰がトライを決めたとか、タッチダウンが決まったとか、その場面はハイライトで注目される。

ただ、バスケというのはともすれば数秒おきに得点が入るのである。もちろん、誰がシュートを決めた、それは2ポイント、あるいは3ポイントいうのはちゃんと記録になるし、他にもさまざまな指標が選手の評価対象になる。それでも次々に得点が入るので、これまでの観戦記とは勝手が違う。選手の動きも速いので、初めてだとカメラが着いていけない。

1クォーター10分だが、現地にいると時間が経つのが早く感じられる。広島が攻める場面、そして逆に島根が押し返して広島が守る場面それぞれでBGMが変わり、それが試合という一つの舞台の場面転換の効果を出している。攻める時は「Let’s Go HIROSHIMA!!」、守る時は「Defence!!」のコールとともにスティックやメガホンが打ち鳴らされる。

ファンの声援に押されてか、第1クォーターは広島が最大で19対8と大きくリードする。しかし島根も中国地方で最初にBリーグ入りを果たしたチームで、得点力の高い外国人ビュフォード、ブルックス、ウィリアムスという3人を擁する。後半は島根が追い上げを見せる。

タイムアウトを取ると、短い時間でもチアチームのフライガールズがコートに出て声援を送る。これも試合を盛り上げる大きなパワーだ。

24対19で第1クォーターは広島が何とかリードを保って終了。まずは幸先がいい。

第2クォーターも一進一退の攻防である。両チームとも外国人選手が攻撃の要だが、そこにつなげるまでの広島・岡本、島根・北川といった小柄な選手の動きも目立つ。

時には自らゴール下まで持って行ってシュートを放つし、思い切って3ポイントシュートを狙いにも行く。こうした駆け引きも面白そうだ。

広島が何とか引き離そうとするが、島根も追いすがってくる。40対37と少し点差が縮まり、ハーフタイムとなった。

ハーフタイムではフライガールズのダンスの他に、この試合の冠スポンサーである明治安田生命福山支社の人たちがフリースローにチャレンジ。惜しい当たりもあったが残念ながら入らず。

そして、ゲストのサンフレッチェ広島の森﨑浩司アンバサダーもフリースローにチャレンジ。最初はボールを蹴ろうとしてスタンドの笑いを誘った後でシュートするが、これも入らず。なかなか難しいものである。

エンドが入れ替わった後半。今度は私が座っている側に広島が攻めてくる。目の前でのゴールを期待するところだ。点差をつけたいところだが攻守の入れ替わりが激しい。その中で、ケネディ、エチェニケという広島の外国人2名の得点で8点差をつけ、その後は一進一退で両チームとも点が入らない攻防が続く。

微妙なプレーもあり、こうした場面では審判の判断でビデオ判定を行うことがある。

その中で島根の外国人3人の強力なシュートが決まりだし、残り3分となってとうとう53対53の同点となった。

そして第3クォーター残り1分、島根が57対56とこの試合初めてのリードを奪う。追い上げる展開となった広島だが、せっかくのチャンスに北川のターンオーバーを許すなど、少しずつ劣勢になる。61対58、島根リードで第3クォーター終了。

最終の第4クォーターに入ると、試合は島根ペース。じわじわと点差を広げ、逆に広島もゴールまで攻め入るが、せっかくのチャンスもボールがネットに嫌われるかのようにことごとく弾かれる。

そしてリバウンドを制した島根がいとも簡単にコートの反対側までボールを運び、楽々とシュートを決める場面も目立つ。この辺り、地力の差が出たかな。

スタジアムDJも最後は必死に声援を呼びかけるが、残り時間からして非常に厳しい場面である。

その中でも徐々に点差が広がり、残り1分を切ったところで島根は外国人3人を一度にベンチに退ける余裕の采配。

最後は86対71で島根の勝利。「中国山地ダービー」は前日に続いて島根の連勝という結果に終わった。それでも、最後まで熱戦を繰り広げた両チームの選手は健闘をたたえ合い、スタンドからも大きな拍手が送られた。

試合後には「おりづる賞」の贈呈があった。どうしてもファウル等反則が出てしまうバスケだが、その中にあってフェアプレーに優れた選手を表彰するもの。広島・岡本、島根・北川の両選手が受賞した。

そして島根の選手たちが先に退場する。その時、コロナ禍の中で日々奮闘する医療従事者への感謝と励ましのメッセージが書かれた横断幕を場内に披露する。そしてぐるり回ってコートを後にするのだが、その様子、ヤマタノオロチが山に帰って行くような、そんな想像をしてしまった。

最後には広島の選手たちがコートを一周してファンに挨拶する。通常なら選手たちのお見送りということでハイタッチなども行うそうだが、こういう状況なのでというアナウンスもあった。

さて、私も初めてのバスケの生観戦、結果はともかくとしていい雰囲気の中で楽しませてもらった。実質の試合時間は2時間ほどで、長すぎず短すぎずというところ。チーム自体はこれから発展途上というところで、Bリーグ西地区で最下位、勝率1割台で上位の壁に阻まれているが、これから頑張ってほしいものだ。私もまた日程が合えばアリーナに足を運んでみたいものである。

時刻は15時半。今から福山駅に戻れば結構早く帰宅できるのだが、実は時間の読みで大事を取りすぎたか、18時半まで福山に残っておく必要がある。観戦記の後だが、その辺りの事情と、「それやったらそれなりに時間のつぶし方はあるわ」ということで、まだ記事が続くことに・・・。

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