まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

高津川ルートで津和野へ

2021年04月30日 | 旅行記F・中国

山口線でこの春から「DLやまぐち号」が運転されている。いつもなら「SLやまぐち号」てしてC57 1号機が牽引するのだが、2020年10月に故障して離脱。その後11月まではD51やディーゼル機関車(DL)のDD51が代役を務めていた。

そして2021年。SLの2車両は引き続き検査、修繕を行うこととなり、DD51が当初から使用され、列車名も「DLやまぐち号」として運転されている。期間限定ということもあるが、ディーゼル機関車牽引の客車列車というのは私自身の昔の旅を思い出させることもあり、一度乗ってみようと思っていた。

新山口から乗るか、津和野から乗るか。4月中旬に思い立って、祝日の4月29日の空席を検索する。いずれもグリーン車は満席だったが普通車は十分余裕があるようだ。レトロ風のボックス席で十分。そして、アクセスをどうしようか考える。そこでまず思いついたのが、同じ山口県内、新下関~東萩を走る「○○のはなし」。津和野~東萩はバスで結ぶが、時刻表を見ると新下関~東萩~津和野~新山口と回れば両方の列車に乗ることができる(逆だと、「◯◯のはなし」の東萩発に間に合わない)。

ただ、「◯◯のはなし」の指定席はネットで確保したもののあまり眺めがよくない席のようだ。キハ47の改造車両だが、窓側のカウンター席でも正面に窓枠が来る座席が結構ある。まあ昨年2回、それぞれ違う車両に乗ったことがあるし、今回はそれほどこの列車にこだわっているわけではない。何なら、別ルートで津和野に入ってもいいかなと思うようになった。

例えば、広島から高速バスで益田まで行って、山口線をずっと下るのはどうだろうか。広島と各地を結ぶバスもこの機にいろいろ乗っているところだ。

広島~益田のバスは2路線あり、一つは国道191号線、戸河内インターから美都温泉経由。もう一つは六日市インター経由。この中で、広島駅8時05分発の六日市インター経由便に乗れば、益田駅には11時16分着。時間はわずかしかないが、11時23分の普通山口行きにつながる。仮に遅れても13時06分発の特急に乗れば、津和野からの「DLやまぐち号」に間に合う。このルートはたどったことがないが面白そうで、「◯◯のはなし」の指定席券をネットにて別の列車に変更した。

六日市といえば、先日訪ねた岩日線改め錦川鉄道ともつながる。バスが益田までどこを通るのか、石見交通の時刻表と地図を見比べると、その岩日線の終点に設定されていた山口線の日原も経由するようだ。正確には日原駅ではなく、少し離れた道の駅に停まるとあり、道の駅からの山口線の最寄駅は一つ益田側の青原である。それなら、上に書いた山口行きの列車にも余裕で間に合う。先日の続きで「仮想・岩日線」がつながりそうだ。

・・・4月29日、前夜からの雨が続いている。午後からは回復の見込みとのこと。この日の計画では12時すぎに津和野に着き、15時45分の「DLやまぐち号」の発車まで津和野の町歩き。だからメインのところでは雨が止むものと期待したい。

広島駅新幹線口に向かう。まずは券売機で乗車券を購入。日原(道の駅)までである。この時間、県北、山陰方面へのバスが次々に出発するが、いずれも数人程度の乗車。

私が乗った石見交通の益田行きも5~6人というところ。席は自由席で、前から2列目を確保する。最前列はコロナ対策で使用不可だった。最前列の扱いについては、バス会社によってさまざまあるようだ。

広島バスセンターでも乗客は1人のみ。この路線は乗車専用、降車専用の停留所がなく、途中区間での乗り降りも可能だが、それほど多くの利用があるとは考えられない。

広島西風新都インターから広島道に乗る。広島北ジャンクションから中国道に入る。

県北の山深いところで、次に停まるのは加計。加計といえば、かつての可部線の可部~三段峡間の廃止区間の中心駅だったところ。可部線もかつて浜田まで結ばれる話もあったがこちらも実現しなかった。よくまあ、このような山深いところに線路が敷かれていたものだと思う。その加計駅跡には今も気動車が保存され、イベント時には公開されているという。

交通量もほとんどない区間で、広島県から一瞬山口県に入り、休憩場所でもある深谷パーキングに停車。中国道のローカル区間で見られる、トイレと自動販売機だけの実に簡素なところ(山陽道と比べて施設も古い)。10分休憩だが、雨も降っているし山の中は少々寒く、用を足すとあとはさっさとバスに戻るだけだ(男性客の一人は煙草を吸っていて、貴重な一服時間となったようだが)。

深谷パーキングを出ると島根県に入り、雨が降り続く中、六日市インターで下車。しばらく走り、吉賀町役場の手前にある六日市バス停に到着。岩日北線の駅予定地はどの辺りだったのかな。ここで初めての下車客がいた。

六日市から益田までは国道187号線を通る。広島~益田(終点・石見交通本社)間を3時間20分ほどで走るが、そのうち1時間20分は六日市から先の一般道区間である。停留所の数も増え、この区間の路線バスも兼ねているようだ(一部は、地元の生活バスも運転されている)。一般道に入り、途中のバス停から乗る人もポツポツ出てきた。

この区間、横を流れるのは高津川。この川も清流として知られており、過去に何度も水質ランキングで日本一となったことがある。このルートを走るのは初めてだが、中国各地にはまだまだこうした私が訪ねたことのない名所が多く存在する。この後も高津川はさまざまな表情を見せる。

また岩日線のことになるが、もし全線が開通したとなればこの高津川に沿って走っていたはずで、そうなると錦川、高津川という清流2本を眺める路線としてPRできたのではないかと思う。国鉄~JR~第三セクターとして存続したかどうかはともかく、南の「錦川清流線」に対して、北の「高津川清流線」と名乗っていたかもしれない。

そういえば、今乗っているバスには「清流ライン高津川号」という名称がある。この日は雨なので、清流もやや濁って見えるのが残念だ。

吉賀町から津和野町に入る。目指す日原はかつて日原町だったが、平成の大合併にて津和野町と合併した。広島からこうした形で津和野に入るというのも意外である。日原で国道9号線と合流し、国道187号線との重複区間に入る。

10時50分、日原(道の駅)バス停に到着。「道の駅 シルクウェイにちはら」の敷地内に入り、ここで下車する。清流高津川もすぐ横を流れており、夏には鮎釣りやカヌーも楽しめるという。

売店にも地元産の野菜その他が充実している。また日原は鮎、イノシシの他にワサビが名物とある。こういうところでイノシシ肉を買ってみたいのだが、冷凍が必要である。クルマならともかく鉄道の旅では冷凍ものを長時間持ち歩くのは難しい。その代わり、珍しいのでワサビのドレッシングの瓶と、鮎のうるか(酒によく合う)を購入する。これも今は「津和野みやげ」ということになる。津和野の観光案内版も出ている。

当初の予定では、道の駅で軽く食事でもして青原駅に移動し、11時46分発の山口線の列車に乗ることにしていた。ただ現地に来て、同じバス停にて津和野温泉行きの石見交通の時刻表を見つけた。益田~津和野を結ぶ路線で、11時17分発。道の駅での滞在時間は短くなるが、このバスに乗ると津和野駅だけでなく観光スポットの町並みも通る。列車で移動するよりも津和野での滞在時間を長く取れるし、同じ道の駅である津和野温泉で一風呂もいいなと思った。

津和野には過去何度か訪れているが、こういうルートで入るのは初めてで新鮮である。やって来たバスには他の乗客はおらず、貸切状態にて国道9号線を走る・・・。

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清流新岩国から新幹線で広島へ

2021年04月28日 | 旅行記F・中国

錦川鉄道、「とことこトレイン」、雙津峡温泉と楽しみ、12時31分発の岩国行きに乗る。岩国方面からやって来たのは往路と同じ水色の塗装の車両。

その到着~折り返し発車を待つ間、隣の線路をピンク色の塗装の車両が行ったり来たりするのを見る。来た時に、気動車の運転体験教室の受付をやっていたが、その人たちが実際に運転台に座って構内を行き来している。

私も長いこと鉄道好きで来ているが、自分で運転台に座って車両を動かすという経験はしたことがない。こうやって広島から比較的近いところで定期的なイベントとして行われているならば、一度参加してみようかな。カリキュラムを見ると、座学が75分、実技が90分とある。もっとも、当分先の回までは満員御礼のようだが。

気動車は数人の客を乗せて錦町を出発し、今度は川に沿っての下りである。川の蛇行箇所も、来る方向が変わればまた違った景色に見える。

この日のように天候が穏やかであれば錦川の清流を楽しむことができるのだが、ふと気になったのが、これまで豪雨の被害に遭うことはなかったのかなということ。これだけ川が近く、また山の斜面も迫っているところだと気になる。このところ台風や局地的な豪雨が増えており、風光明媚なローカル線が被害に遭い、長期間不通になるケースが相次いでいる。錦川鉄道はどうなのかなと見てみると、2018年の西日本豪雨にて川西~清流新岩国間で被害があり、川西~北河内間が1ヶ月あまり不通になったという。

なぜこのようなことに触れたかということだが、鉄道紀行作家・宮脇俊三の「時刻表2万キロ」で、当時の岩日線に乗った時の件で「岩日線など雨で流されてしまえ」という一節があったのを思い出したからだ。

誤解のないように言っておくと、別に宮脇俊三がそう思ったわけではない。この一節だけ切り取るからややこしいのだが、その背景に触れるために、帰りは岩国まで行かず、清流新岩国で下車する。以下、同書からの引用を交える。

こちらの清流新岩国、往路の記事でも触れたが、現在は新幹線の新岩国との乗換駅として錦川鉄道、JR西日本とも案内している。しかし、1975年に山陽新幹線の新岩国が開業した際、すぐ横に岩日線の御庄駅があったにもかかわらず、同一の駅、あるいは乗換駅として設定されなかった。

新幹線のルートを選定するにあたり、岩国近辺に駅を設けるとして、この辺りの最短ルートを通る、あるいは用地取得が容易であるなどの理由で在来線の岩国と離れた現在の新岩国を選定したとあるが、先にあった岩日線の御庄に隣接させれば山陽線との連絡も取れるという考えも当然あったはずだ。

それでも正式な乗換駅としなかったことについて、「時刻表2万キロ」の中で「新幹線と正式に結びつけてしまったら岩日線を廃線しにくくなるからではないか。岩日線など雨で流されてしまえ、と思っているかもしれない」と綴っている。

宮脇はこの時広島、山口両県のローカル線の乗りつぶしの旅で、最後に訪ねたのが岩日線だった。スケジュールを終えてその日のうちに東京に戻らなければならないが、錦町から岩国に出てしまうと、タクシーで新岩国に行っても山陽線で広島まで行っても東京行きの最終の新幹線に間に合わない状況。そこで「唯一の方法」として見つけたのが、御庄で下車して新岩国に「たどりつく」こと。

新岩国駅に電話すればすぐわかることと知りながら「遊びごとでひとにものを訊ねるのは気が重い」として、結局は「田圃の畦道でもたどればなんとかなるだろう」と、御庄にやって来た。ホームから地上に下りる階段があり、親切な駅員が手書きしたらしい案内板をたよりに高架橋沿いに進み、無事に新岩国にたどり着いた。

「時刻表2万キロ」のなかでも、ローカル線と新幹線の対比、また裏技のような乗り継ぎというところがあって、印象に残る場面の一つである。その前、岩日線で錦町に着いた後に「(雨が降って)こんな盲腸線の終点に閉じこめられてはたまらない。私は一刻も早く帰りたくなった」という記述があり、これと合わせると、盲腸線から脱出して、御庄から新岩国への抜け道を見つけてその日のうちに東京に帰還した・・・というストーリー仕立てにもなっている。。

今回錦川鉄道に来たが、単に岩国~山陽線と往復するのもあれなので、この機会に私もこの乗り換えで広島に戻ることにする。

駅名は清流新岩国だが、ホーム上には「御庄駅」の額がかかった貨車利用の待合室がある。そして、おそらく当時と同じように地上へ下りる階段があり、当時よりはちゃんとした案内板で新岩国駅の方向が示されている。

高架橋の下をそのまま進み、途中で列車の通過音も聞きながら5分ほどで新岩国に到着。周囲には人が集まるスポットはないものの住宅が広がっていて、少なくとも「田圃の畦道」ではない。他の駅と比べれば距離は長いが、このくらいなら十分乗換駅といっていい。

構内に入るとまず目に入ったのは、宇野千代の出身地のアピール(もっとも、今の人たちに宇野千代がどれほどのアピールになるのやら)。他の案内板を見ると、ちょっと昔の書体に見える。もっとも私は新岩国で乗り降りするのが初めてで、こういう駅だったのかなと新鮮な気持ちだ。セブンイレブン兼土産物店で、山口の酒などを土産に買い求める。

ここから広島まで1駅乗るのだが、これに適した?きっぷがある。山陽新幹線の「新幹線近トク1・2・3」というもので、新幹線の1~3駅先までの区間の「こだま」「ひかり」の自由席を格安で利用できる(前日までの購入がルール)。その中で新岩国~広島間にいたっては、特急料金込みで1000円。普通運賃に特急料金をワンコイン分追加した値段よりも安い。

乗るのは13時39分発の「こだま852号」。500系車両だ。広島寄りの自由席に向かうが、7号車が半分くらい埋まっていたのに対して、8号車は1人しか乗っていない。もちろん8号車に乗るが、この差は何なのだろう。

発車後すぐに錦川を渡り、その後広島まではほとんどの区間がトンネルである。その合間に宮島の弥山の頂上が見えるとか、郊外の住宅地を走るなと思ううちに、早くも広島到着のアナウンス。新岩国~広島はわずか15分である。帰りはあっという間だった。

・・さて、これから大型連休に入る。世間では緊急事態宣言を受けて、発令地域から出ること、入ることの自粛が呼びかけられている。大阪府もその対象に入っているが、実は当初から連休時期での帰省は予定していなかった。実家に顔を出すだけなら普通の週末でも十分で、そこに野球観戦を絡めれば・・くらいに考えていた。ただその時期がずれるだけである。

そういうこともあり、このたびの連休では広島から中国地方を楽しむことにする。であれば、このブログの傾向からしてアレの続きになるのだが、無事催行できますように・・・。

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幻の岩日北線「とことこトレイン」で雙津峡温泉を楽しむ

2021年04月27日 | 旅行記F・中国

4月25日の選挙投票後に日帰り乗り鉄で出かけた錦川鉄道。その終点にして同社の拠点がある錦町駅からさらに先に向かう。ここから乗るのは「とことこトレイン」。ちょうど線路の車止めの先に乗り場があり、電気自動車が2両のトロッコ車両を牽引して発車を待っている。乗り場のすぐ先にはトンネルが待っている。

錦川鉄道の前身である旧国鉄岩日線は、岩国から六日市を経て山口県の日原まで(プラス、山口線に乗り入れたその先の益田まで)を結ぶ計画で建設され、とりあえず途中の錦町まで開業した。その先は「岩日北線」として建設が予定され、島根県に入った六日市までは路盤の整備がなされたものの、結局工事は中止となった。さらには元々の錦町までの区間も廃止対象となったが、何とか第3セクター線で存続している。

建設中止となった区間のうち、錦町から6キロほどの雙津峡(そうづきょう)温泉までの路盤を当時の錦町(現在は合併されて岩国市)が譲り受け、「岩日北線記念公園」として整備し、2002年から「とことこトレイン」を運行している。3月~11月の土日祝日を中心に1日3往復、歩行者は敷地に入ることはできないが、トロッコ列車に似せた車両で未成線を行くことができる。これも一種の乗りつぶしになるだろうか。

片道、往復どちらでも選択できるが、往路のみ乗ってみることにした。雙津峡温泉で1時間あまり時間があり、日帰り入浴もできるので一風呂浴びて、帰りは岩国市の生活バスに乗って錦町に戻ることにする。

座席は1列に4人が並んで座るトロッコスタイル。家族連れ、カップルなど10数人が乗車。中には、母親と子どもがトレインに乗り込み、父親がクルマで先回りするらしい家族連れもいる。これから所要時間40分、平均時速10キロで走っていく。

発車するとすぐにトンネルに入る。広瀬トンネルだが、トレインでは「きらら夢トンネル」と呼んでいる。全長1796メートルと長い。トレインに乗ると結構大きく見えるが、鉄道では単線である。鉄道車両というのはそれだけ大きく、単線区間でもトンネルは結構大きく掘る必要があると実感する。

最初は照明をつけて走行したが、そのうち消える。代わりに、外にはいくつもの壁画が過ぎていく。写真がなかなか上手く撮れないのだが、何やら昔の人が洞窟に描いたような作風に見える。これらは、特殊な光を当てると光る6色の石を使った作品で、地元の子どもたちによるものである。

やがて、壁画が天井まで広がる区間に出る。こちらは山口県内の大学生たちの作品とのこと。ここでしばらく停車、ぜひトロッコを下りて鑑賞してくださいとのこと。壁画の作風と相まって、異次元の世界に来たかと想像するのも面白い。未成線、廃線のトンネル跡をこのように活用するのも珍しいことだろう。

まあ、これがトレインの目玉として活用できたからといって、そもそも建設じたいが未成線として無駄になった歴史は事実である。別にこの日の選挙を意識して絡めることでもないが、昭和の政治の負の遺産であることは動かしようがない。列車が走った後で赤字なので廃線がいいのか、そもそも列車が走る前に赤字が見込まれるとして建設を中止したのがよかったのか、一概には言えないが・・。

トンネルを抜けると宇佐川を渡る。その高架上に路盤がある。岩日北線の計画当時、ここに出市(いずし)という駅が設けられる予定だったところ。確かに周囲には集落が広がっていて、駅があっても不思議ではないところだ。ちなみに、駅は駅でも「道の駅」がすぐ近くに広がっている。形は違うとはいえ、この地に何か人が集まるスポットを作ろうという見立ては当たっていたようだ。

この先、路盤の上を走る。岩日北線は鉄建公団が手掛けた区間で、基本的には踏切を設けず、山を崩したり高架橋で路盤を造っていく。しばらく、宇佐川を左下に見て走る。ちょうど新緑の時季、緑が鮮やかだ。地面からの衝撃は結構伝わってくるが、風を受けて走るというのもよい。

2つ目の長いトンネル、第1山根トンネルは全長1158メートル。こちらは先ほどのような仕掛けはないが、コウモリが生息しているという。夜行性の生き物の寝床としては最適なのだろう。トンネルの中に黒い塊が見えるとそれがコウモリだという案内があったが、そういえば1~2ヶ所、そうしたところがあったかな。あまりよくわからなかった。もっとも、あまりお目にかかりたくない生き物ではあるが。

トンネルを抜けると両側に桜の木が茂る。もう1ヶ月ほど前に来れば満開の桜の下を走る名所に出会えたことだろう。こちらは「とことこトレイン」のために整備された桜並木だという。その途中、立派な鯉のぼりを掲げた家もある。季節は着実に次に進んでいる。

最後に国道を跨ぎ、終点の雙津峡温泉に到着する。連結車両が折り返せるようロータリー状になっている。この近くに周防深川という駅も設けられる予定だった。

この先にトンネルがあるが、完全に封鎖されていた。あくまで温泉があるからここまで利用しようとなったことだろう。ちなみに、島根県側の六日市でも未成線の一部区間を遊歩道として整備しているそうだ。

さて、復路はバスに乗るとして、それまで雙津峡温泉で過ごすことにする。吊り橋で対岸に渡り、少し坂を上ると「憩の家」に着く。日帰り温泉、食事が楽しめる店だ。源泉かけ流しラジウム温泉とある。

浴槽は内湯の大浴槽のみとシンプル。一方で洗い場のシャワー、カランの湯も源泉が使われているとか。飲用泉もある。訪ねた時はちょうどお年寄りが多く、それぞれが静かに入っていた。実際にはクルマで来る客が大半だろうが、列車でも「とことこトレイン」と合わせて訪ねることができる温泉といっていいだろう。

もう少し時間があるので、昼食としよう。定食がメインだが、その中に猪料理がある。ぼたん鍋、鉄板焼き、酒蒸しとある。酒蒸しというのは初めてでどんなものか興味がわいたので、そちらを注文。

他には山菜の付け合わせ、ご飯、味噌汁、果物がついてくる。その酒蒸しは浅い土鍋に入っている。蒸気が出てきたら食べ頃というが、結構じっくり待つ。途中で店の人が来て土鍋の蓋を開け、「一度肉をひっくり返してください」という。鉄板焼きのほうが早く食べられたかなと思うが、まあいい。

ほどよく煮立ったのがこちら。薬味としてネギ、ニラが乗っている。酒蒸しにすることで猪の臭みを消すとともに、肉に柔らかさを与えるという。確かに臭みが消え、ニラやネギによって香りも引き立っているし、肉も無理のない歯ごたえ、そして旨味も出ている。ジビエ料理にビール煮、ワイン煮が多いのは同じ理由なのだろう。それが酒蒸しということで和風の味にもなった。

うーん、缶ビールでも注文すればよかった。メニューにはなかったが、出る時に入口のケースにあったのに気づいて残念。

温泉、食事も楽しめたし、まだ昼前だが帰途に就くことにする。この日は1日中遅くまで出歩くつもりはなく、早い時間に帰宅してゆっくりするつもりだった。「とことこトレイン」は13時25分発までないので、11時52分発の岩国市の生活バスに乗る。

バスは先客もおらず、宇佐川、そして先ほど通った未成線跡を見ながらひた走る。気になるのは、途中いくつかのバス停があるのだが、案内もなく通過していくこと。バスの乗客は他にいないし、それらのバス停から乗る人もいないのだが、だからといって「次は○○です」の案内もないのはいかがなものか。もし私が途中のどこかで降りるなら、下手するとタイミングを逃してしまいそうだ。

そして、いろいろな看板も出てきて錦町駅到着。ここは降りる意思表示がいるかなと、駅前に入ったところで席を立つ。「ここでいいんですか」という確認の言葉はあり、無事に降りることはできたが、下手すればそのまま乗り過ごしかねなかった。案内放送を流すのが面倒なら、乗った時に「どちらまで?」と訊いてくれてもよかった。

時間があるので駅近くの河原で少し憩った後、12時31分発の岩国行きに乗る。往路と比べて乗客は数えるほどで、今度は川の見える転換クロスシートを確保。錦川に沿って下る・・・。

 

 

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泥臭い選挙の後、錦川清流線に乗る

2021年04月26日 | 旅行記F・中国

4月25日は参議院広島選挙区の再選挙。以前の記事でも触れたが、広島に移って初めての選挙がこれということで、何だかなという思いを持ちつつも投票してきた。当日は投票所に6時55分に到着して、無事1番乗りを達成。

同日に行われた他の2つ、北海道と長野の補欠選挙では20時の投票締め切りとともに野党系候補の当選確実が出たが、広島選挙区については与野党の2候補が接戦となり、ある程度開票が進んで結果が出た。結果は野党系候補が当選ということで、何やかんやで与党系候補が勝つと予想していた私も意外に思った。さすがに今回再選挙となった事情が事情だけに、自民党もいつものような選挙活動ができなかったのかな。あ、いつものように資金ばらまくとは言ってませんよ。

結果はともかくとして、憂慮されるのは投票率の低さ。合計で33%ほどしかなく、前回の参議院選挙からも大きくポイントを下げた。選挙とカネの問題、コロナ対策といったところが焦点ではあったが、この投票率の低さというのに、県民の本当の答えというのが出ているように思う。今回はたまたま野党系候補が勝ったが、別に積極的に支持されてのものではないだろう。政治家全体の問題として、信頼回復に向けて真剣に取り組んでもらいたいものである。

・・さて投票を終えたその足で広電の電停に向かい、新井口乗り継ぎで山陽線の岩国行きに乗る。今回は札所めぐりの絡まない乗り鉄で、目指すのは錦川清流線。ドロドロとした政治、選挙から抜け出して、せめて清流でも眺めようか。

中国観音霊場めぐりや、広島に移ってからのお出かけで中国地方のローカル線もいろいろ回っているが、この錦川鉄道だけはなかなか乗る機会がなかった。以前の広島在住時も一度乗っただけだったと思う。やはり行き止まりの路線ということで、そこへ行く目的がなければなかなか訪れる機会がない。前日に思い立って出かけることにした。

岩国に到着。ICカードでいったん改札を出て、券売機で錦川鉄道の終点錦町までの切符を買う。列車は岩国発だが、2つ先の川西までは岩徳線の線路を走るので、岩徳線~錦川鉄道の連絡きっぷである。切符の表示も、川西までのJR運賃190円にプラスして「川西⇒980円」と表示されている。

8時28分発の錦町行きは1両編成。車内は中央部に転換クロスシートが備えられ、横からテーブルを起こすことができる。乗った時点ではクロスシートはほぼ埋まっていた。結構利用客がいる線なのかな。

座席の頭部カバーには、路線図や錦町から先のとことこトレインの案内図が描かれている。また、天井上には車窓の見どころがイラストで描かれている。この線は錦川に沿って走るのだが、これによると、川が見えるのはほとんど進行方向の右側。今座ったのが左側だったので、空いていたロングシートに移る。1時間あまりの乗車なのでそれほど苦にならないだろうし、窓も大きいので車窓を見るにも適している。

先日のドライブの際に立ち寄った西岩国を過ぎ、次の川西の前で錦川を渡る。遠くには岩国城の復元天守も見える。いい天気だ。

川西には起点を示す0キロポストがあり、これから錦川鉄道に入る。この先トンネルを抜け、岩徳線から分岐する。

現在は第3セクターの別会社線だが、錦川鉄道はかつての国鉄岩日線。岩国から島根県の六日市を経由して山口線の日原までを結ぶ路線として建設されたが、錦町まで開業したところで工事はストップ、そのまま廃止対象となるも、何とか第3セクターで存続できた路線である。

川西の次が清流新岩国。すぐ上を新幹線の高架が走り、少し歩いたところに新岩国駅がある。清流新岩国はかつて御庄という駅で、岩日線当時は近くに新岩国駅があるにもかかわらず正式な乗換駅として案内されていなかったが(これについては後ほど触れる)、今は新幹線乗換駅としてアピールしており、車内にも岩国方面からの連絡ダイヤが掲載されている。大きなスーツケースを持った客が下車していった。タイミングが合えば、岩国から山陽線で広島まで行くよりも早いようで、錦川鉄道にとっては大事な客層である。

次の守内かさ神は錦川鉄道となってからできた駅。地名の守内と、近くにある瘡神神社からつけられた名前だ。各駅にこうした達筆の木製駅名標が掲げられている。

線内で唯一の交換設備がある北河内で列車行き違い。

この辺りから錦川が寄り添う。錦川清流線とはよく言ったもので、水も透き通っている。対岸の景色も水面に映る。川底の石が見えるところもある。さすがに泳ぐ魚まではわからないが・・。

列車が徐行する。山側に滝が流れている。五段になって流れる「清流の滝」という。沿線周辺の雑木を伐採したところ見つかった滝で、全国から名前を募集したそうだ。他にもこうした滝が2ヶ所あり、その見物も含めて徐行運転する。

ローカル線での徐行運転といえば、JR西日本が中国山地のローカル線で「時速25キロ」が連想されるが、錦川鉄道でも「時速30キロ」区間がしばしば見られる。確かに線路への負荷を軽減する目的もあるだろうが、こちらの場合は「観光徐行」とPRしている。錦川の流れをゆっくり見られるのもこの鉄道ならではの売りである。

線路は錦川の西岸に沿って敷かれ、不思議なことにこちら側には人家がほぼない。集落は対岸にあり、そちらとの連絡は吊り橋だったり沈下橋だったりする。

徐行の中で、ある駅を通過する。清流みはらし駅。2019年3月に開業した駅だが、子の駅に降りることも、またここから乗ることもできない不思議な駅である。この清流みはらし駅、錦川の清流を眺めることができる展望区画を設けた駅だが、普段の列車はすべて通過する。また周囲には公道がなく、クルマや徒歩で訪ねることもできない(錦川を泳いで渡って、ここまで這い上がれば別だが)。ある意味究極の「秘境駅」ともいえる。

そこは錦川鉄道も商売で、この駅に降り立つにはイベント列車に乗るしかない。その目玉として、譲り受けたキハ40をイベント用に仕立て、昼食付きでこの駅を訪ねる半日ツアーがある。オンシーズン、月1回のペースで運転されているようで、いずれ申し込みたいものである。

この先、渓谷の風情も出てくる。河山に到着。1960年に岩日線が開業した当時の終着駅で、かつては鉱石を輸送するための貨物ヤードもあった。今は本線を除いて線路も撤去されたが、広い空き地が残る。ちょうど、地元の方たちが周辺の草刈りを行っていた。列車が来ると作業の手を停めて列車に手を振るお年寄りもいる。

最後に列車がスピードを緩め、錦川を渡った先で終点の錦町に到着。錦川鉄道の本社はこちらにあり、車庫も備え付けられている。こうした山間にあって、小さいながらも確かな拠り所を持っている。

ホームの先にはキハ40が停車している。栃木県の烏山線を走っていた車両で、当時の塗装そのままで移ってきた。先に触れた清流みはらし駅を訪ねるプランの他、イベント、貸切用として登場する。さらに、運転体験の「上級編」としても登場する。

ホームから階段を下りると、駅前では何やらお出迎えの呼びかけがなされている。様子を見ると、この日は列車の運転体験教室が行われたとのことで、この列車の乗客が多かったのもこの教室に参加する人が乗っていたためのようだ。1~2ヶ月に一度開かれるが、予約はすぐに埋まるそうだ。2021年度も受付期間中の8月分までは満員御礼とのこと。

これもまたいずれの楽しみとして、この日はかつての岩日線の未成区間の跡地を活用したとことこトレインに乗ることにする。駅に隣接した観光案内所でチケットを買い求め、乗り場に向かう・・・。

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「緊急」の大安売り

2021年04月24日 | ブログ

まあ、いろんな意見もあることだろう。

それにしても、緊急事態宣言のハードルも随分低くなったものですな。

で、補償はどうするの?

そこまでして五輪やりたいの?

結局、東京や大阪の連中の民度が低いだけでしょう。

あと、吉村。同じ高校の出身だから応援していたが、今回の対応、そして私権への介入に言及した時点で減滅。自らの無能を認めて、一線を退いてはいかがですか。

まあ、私は自身の感染対策は行うとして、やりたいことはやらせていただきます。

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参議院広島選挙区再選挙・・・これこそ「不要不急の外出」ではないか?

2021年04月24日 | ブログ

4月25日は参議院議員広島選挙区の再選挙の投票日。

まあ、投票はしますよ。国民の権利(半ば義務)であるし。何なら、昨年広島に移ってから初めての選挙ということで、この地での「投票所一番乗り」を狙ってもいい。

・・・ただ、広島に移って最初の選挙が、法の規定とはいえこの時期に参議院選挙の「再選挙」とはね。

ご存知の方も多いと思うが、この選挙は一昨年の参議院選挙で当選した河井案里氏が、夫の克行氏ともども広島県議会・広島市議会議員に対して現金をばらまいて買収した容疑で起訴、有罪判決を受け当選無効(本人はその前に辞職)したのを受けてである。だから補欠選挙ではなく、再選挙だという。

河井夫妻の不正に対しては国会でもさまざまに追及されたが、何だかウヤムヤのうちに終わった。確かに追及すべき事件ではあるが、コロナ対策はそっちのけで、野党もいい追及ネタができたといわんばかりにはしゃいでいた。正直、政治家って何やねん。

結局は夫妻とも議員辞職ということになり、今回の再選挙である(克行氏の場合は法の規定で補欠選挙、再選挙はなく、欠員のまま次回の総選挙となる)。正直、一昨年にああした買収がなければやらなくていい選挙であり、カネのムダ、時間のムダ。ある意味、これこそ不要不急の外出ではないだろうか。(繰り返すが、選挙は必要なことを承知で言う)

河井夫妻逮捕後、自民党県議が「けしからん」てなことを言っているが、何を今さらである。私の住んでいる地区にも金をもらった側の議員がいるが、ニュースで彼らの「言い訳」を聞いていると実に不快である。広島って、そういう議員ばかりなのか。

それはそうと、岸田! 次の首相をうかがうとか言っときながら、そもそもあんたが安倍や菅からナメられたからこういう事態になったんでしょうが。

まあ、自民・公明の候補が組織票で勝つでしょう。それで広島県は丸く収まったという出来レースである。自民党の県議・市議は河井を告発したからと無罪のような顔をしているし(買収されたほうは罪に問われないのか?)、野党の候補も野党幹部が応援演説でヒステリックに叫んでいるのを見てゲンナリだし、NHKをぶっ壊すといっている人の政見放送は聞くに堪えなかったし、その他の候補を見てもこんな人たちを国政に出すべきではないと思う。

他にやることあるでしょう・・・。

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第7番「極楽寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(第79番「浄土王院」も一緒に)

2021年04月23日 | 広島新四国八十八ヶ所

第6番の大心寺を後にして、次の札所である極楽寺に向かう。道順でいえば国道433号線をそのまま走るのが近い。今回、交通の難所といえる2つの寺院はクルマで結ぶことになった。それを理由づけるためにドライブをくっつけたとも言える。

もし、今回のコースを徒歩、公共交通機関だけで行くならば、大心寺はコミュニティバスがあるのでまだよいが、極楽寺となると厳しい。完全に標高693メートルの極楽寺山の登山となる。極楽寺山はハイキングコースとなっていて、広電の廿日市市役所前からだと2時間あまりのコースである。広島近郊の山歩きでこのコースを歩いた記事はいろいろあり、ことらの人にとってはそちらで知られているようだ。私もそうすることになるのかなと思っていたが、上記の理由づけで楽させてもらう。

その国道433号線は大竹市と三次市を結ぶ道路で、途中安芸太田町、北広島市などを経由する。先ほど大心寺に来るまでに通ったポイントに戻り、さらに上る。勾配が急になり、高度を稼ぐループ橋も通る。そしてヘアピンカーブが連続する九十九折の上りとなる。国道より「酷道」の要素が強い区間だ(遠い将来には改良されるのだろうが)。クルマで訪ねると言っても結構難所である。

国道433号線から県道に分かれ、極楽寺山キャンプ場への案内板に従ってさらに進む。遠くには廿日市市街、そして宮島の姿を望む。

そして着いたのが「さくらの里」。桜は廿日市市の花で、園内にはさまざまな品種の桜が植えられているそうだ。標高があるとはいえ、今年は桜の開花が早かった分、園内の桜もさすがに散ったことだろうと思いつつ、とりあえず寺を目指す。隣接してキャンプ場もあり、山全体が自然と接する憩いの場として親しまれている。

さらに進み、一番奥にあるのが極楽寺の駐車場。「別格本山」の文字が見える。寺そのものは参道をさらに歩くが、車両の乗り入れは禁止されている。参道の周囲にはモミの木の原生林が残されている。

300メートルほど進むと西国三十三所のお砂踏みや、十三仏の像などの像が賑やかに並ぶ。その奥に本堂がある。駐車場からだと寺の裏から入る形になる。

正面に回って本堂に手を合わせる。先ほどの大心寺とはまったく対照的で、改めて寺らしい寺に来たなと感じさせる。

極楽寺は聖武天皇の勅願で行基が十一面千手観音を祀ったのが開創とされる。後に弘法大師空海が十一面千手観音を開眼し再興したという。空海は対岸の宮島でも修行したとされるから、その途中に極楽寺を訪ねても不思議ではない。以後は朝廷の保護もあったが、中でも毛利元就の信仰が篤く、現在の本堂は元就が再建したものとされる。今から450年以上前のことである。

本堂の先が展望広場となっている。草木が遮っているところもあるが、廿日市市街、瀬戸内の景色を楽しむことができる。昔からの登山ルートでくればこちらが寺の表玄関で、本堂は海のほうを向いて建てられていることがわかる。ひょっとしたら宮島の弥山と一対になっているのかもしれない。やはり、歩いて来たほうが余計にありがたみを感じたかな。

さて、本堂に向かって右手に阿弥陀如来を祀る浄土王院がある。実はこの浄土王院、広島新四国の第7番の極楽寺の境内にあって、第79番の札所でもある。こちらは1980年に建てられたお堂で、一願和尚の誓願で、京都の松本明慶仏師の作である阿弥陀如来大仏が本尊だ。極楽寺といえばこの阿弥陀如来を連想する方もいることだろう。台座を含めて高さ8メートル、膝幅5.5メートルというのは、日本で2番目に大きな木造の仏像とされている。

阿弥陀如来の後方の壁には、九品仏をはじめ3000体の仏像が奉納されていてなかなか圧巻である。撮影禁止のためしっかり目に焼き付けつつ、ここでもお勤めとする。

この広島新四国八十八ヶ所は宮島を出発して安芸の国をぐるりと回り、また宮島に戻る巡礼ルートとなっていて、あくまで札所番号順に回ることにして、仮に近くに先の番号の札所があったとしてもスルーする・・としていた。今回訪ねるに当たり、巡拝マップを見ても、第7番の極楽寺と第79番の浄土王院は離れて書かれているが、詳しい地図を見ると同じ極楽寺山にあるように見える。この場合どうしようかと考えながら極楽寺に来たわけだが、いざ来てみると、同じ寺の境内で斜め向かいに建っていた。これはいくら何でも第7番だけ回って、浄土王院ば別の札所だとするのは不自然だろう。

久しぶりに「有人」の納経所と出会う。第7番と第79番の両方の書置きの見本があり、寺の方も「両方ですね」と言われる。今回ばかりは「一粒で二度おいしい」ケースということにしよう。四国の観音寺もそうだ。それよりも、浄土王院が第7番・極楽寺本堂の次の第8番に来るならわかるが、なぜ第79番として割り込んできたかである。広島新四国では札所の入れ換えが結構行われているそうだが、新たに阿弥陀如来像が造られたこともあってそうしたことがあったのだろう。

納経所に人がいたのだから、そういうことを訊けばよかったと思う。

これでドライブも兼ねた広島新四国めぐりはおしまい。再び国道433号線のヘアピンカーブを下り、国道2号線バイパスまで戻る。この次はいよいよ広島市に入る。過去に8年住んでいたとはいえ、結局知らないスポットが多かった広島市を、寺めぐりというのをキーにしていろいろ回ることに・・・。

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第6番「大心寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(それでも寺は寺)

2021年04月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

山陽小野田市まで行き、中国道~山陽道を取って返す。午後になってようやく目的地である広島新四国八十八ヶ所めぐりとなるが、今回の目的地は廿日市市の山側。

山陽道の廿日市インターを出て、まず向かうのは速谷神社。広島では交通安全の守護神として知られている神社だが、こちらも久しぶりの参詣となる。今回の札所めぐりの道の途中にあり、せっかくなので立ち寄ってみる。

速谷神社の祭神は飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)で、安芸国造の称号を賜り、安芸の国の国土を開拓し、交通の便を開いたとされる。1800年の歴史を持つといい、古くから朝廷の保護を受け、武士の時代になっても大内氏、毛利氏、そして江戸時代の浅野氏からも信仰を集めた。

現在は交通安全の守護神として参詣する人が多いが、古来山陽道は畿内と九州(その先の大陸も含めて)を結ぶ大動脈であり、旅人が長い旅の安全を祈願した歴史があり、現在に至っている。

拝殿の前には車のお祓い所があり、何台かの車が前向きに停められている。ちょうど拝殿にて運転者の祈祷の祝詞が奏上されているところで、この後、車のお祓いをするようだ。かくいう私のクルマ、広島に来てから買ったものだが、安全祈祷をしていない。まあそこは、さまざまな札所を回っていることでよしとしよう。今のところは事故、トラブルなく来ている。ただ、もともと「通勤のため」と割り切って買ったのだが、最近はいろいろと遠出をしているところ。あまり無理はしない方がいいのだろうが・・。

さて、これから向かうのは広島新四国の第6番・大心寺である。速谷神社まで走った国道433号線をそのまま進む。新たに改良整備された区間のようで、カーナビには出て来ないところを走る。

やがて道幅の狭い脇道に出て、最後は可愛川沿いの細い道を走る。ちなみに大心寺へは、広電の廿日市市役所前からJR廿日市経由のコミュニティバス(1~2時間に1本)でも行くことはできる。バス停からは少し山道を歩くようだが。

そして大心寺に到着。寺といっても山門があるわけでもなく、大心寺と刻まれた石碑が表札代わりだ。他にクルマが通る様子もなさそうだし、駐禁の表示も見当たらないので、塀の横にちょっと停めさせてもらう。

石段を上ると境内というより庭園といった感じの敷地に入る。平和観音像、修行大師像が出迎える。もっとも、草木は生い茂っているが整備されているとはいいがたく、夏場だと大量の蚊が出やせんかと思う。

奥にあるのは本堂・・というよりどう見ても普通の屋敷である。実際はここは庫裡で、本堂は奥にでもあるのだろうが、自由に入っていける感じではない(その前に、草木が生い茂っていて進めない)。

玄関扉の前に机が置かれ、引き出しの中に書き置きの朱印がしまわれている。これまで広島新四国では「セルフ式の朱印」が続いていたので、納経所がなくても別に驚くことはないのだが、たいていはお堂、最低でも仏壇の前でお勤めをすることはできた。ただここはそのようなものもなく、ベルを鳴らして寺の人に中に入れてもらうのか。よくわからないままに玄関の前でブツブツとやったが、それなら手前の修行大師像の前で拝んだほうがましだったかな。

広島新四国のサイトでの寺院紹介によれば、大心寺が建てられたのは昭和の話である。関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の一族の中に呉に落ち延びた人がいて、三成の守護神だった摩利支天を護り続けていた。時代が下り、明治の初めに石田家にいた内山鉄平という人がいた。この鉄平は、浅野家から迎えた妻が出産の際に亡くなったのをきっかけに出家を決意し、四国などを修行して生涯を閉じた。生前、鉄平は寺院建立を悲願としていたが、さらに時代が下り1973年になって、孫にあたる内山妙恵が広島市に高野山真言宗大師教会を起こし、龍妙恵院という寺を開いた。その後、1983年に廿日市に移転、1986年に大心寺として認可され現在に至るとある。

この書き方だと、ここには石田三成の摩利支天が今も祀られているのかと思わせるが、別にそうした様子もなさそうだ。

そもそも、こうした形態で、寺と言えるのだろうかとも思う。広島新四国の札所を名乗っているから来たわけだが・・。

寺というより人の家の玄関先でごそごそやって怪しまれるのもアレなので、お勤めを終えるとそそくさと境内を後にする。ここで折り返し、次の札所である極楽寺に向かう・・・。

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山陽小野田市 貝汁のみちしお

2021年04月21日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新西国八十八ヶ所めぐり・・・の前にいったん下道をドライブして、やって来たのは山陽小野田市。国道190号線沿いにある「ドライブインみちしお」である。もっとも、この道も元々は国道2号線の一部だったが、厚狭・埴生バイパスの開通で国道190号線の一部に組み込まれた。

こちらは「貝汁のみちしお」として知られていて、休憩スポットとしてだけでなく、貝汁目当てにやって来る客も多いところである。時刻は11時前、大型トラックが何十台も停められる広い駐車場だが、結構埋まっている。

店内に入る。テーブル席もほぼ満席状態だ。奥の方に進んでようやく空席を確保したが、その後、ブラインドを開けて営業スペースを広げていた。24時間営業の店なので、時間帯、あるいは客の出足によって臨機応変に対応しているのだろう。

メニューは定食のほかに、陳列ケースからセルフで選ぶメニューも豊富にある。揚げ物、刺身、小鉢その他。

席にはタッチパネルがあり、ご飯や貝汁、その他メニューはこちらで注文する。貝汁のサイズをどうしようか迷ったが、「並」で。

そしてできたのがこちらのメニュー。ご飯、貝汁の他に、陳列ケースから取った刺身の4点盛り、アンコウの唐揚げ。もっとも、刺身やおかずは一般的な定食屋のレートと比べると高いかなという印象である。

で、貝汁である。並盛でもこれでもかというくらいのアサリが入る。味噌汁ではなく出汁が主体の貝汁としていただくのだが、味が濃いのでこれだけで十分ご飯の相手を務めることができる。

「みちしお」のある山陽小野田市の埴生海岸一帯は県内有数のアサリの産地だという。もっとも近年ではヒトデやエイが繁殖してアサリを食べてしまうので、資源保護も課題になっているそうだ。そんなことを思いつつ、ひたすらアサリをほじくりだしていただく。これなら特盛でも十分いけそうだったかな。

食事をすませて会計に出ると、順番待ちができていた。その中で土産用として貝汁の冷凍パック(2食入り)を買い求める。これをいっぺんにいただくと特盛の気分になるのかな・・。今後、開封するタイミングをうかがうことにする。

食後、同じ敷地にある日帰り温泉に向かう。こちらの「天然温泉みちしお」は、王喜温泉と糸根温泉の2つの源泉を持ち、浴槽にもそれぞれの表示がなされている。いずれもラドンを多く含んでおり、新陳代謝を促進して自然治癒力や免疫力を高めるという。露天風呂、ジェットバスなどいろいろ楽しむ。

順序からすればドライブの後に温泉に入り、そして貝汁・・・というのが理想だと思うが、今回の場合、先に温泉に入るとちょうどドライブインの順番待ちになっていただろう。それはともかく、この「みちしお」の敷地にはドライブイン、温泉以外にも地元の野菜や土産物コーナー、コインランドリーもある。ドライブインのメニューも豊富なので、その気になればここで3食いただいて、温泉にも浸かりながら(再入浴もできるようだ)1日過ごすことも可能ではないかと思う。

ちなみに・・この「みちしお」は国道190号線沿いのドライブインだが、公共交通機関でのアクセスも可能。JRなら山陽線の埴生から徒歩20分くらいかな。

この埴生駅に隣接するのは山陽オート。連絡通路も設けられている。競輪のことは全然知らないのだが、山陽オートは全国的に見てメインのレース場だという。この日(4月18日)もGIレースが開催されていたようで、駅周辺の空き地も駐車場として多くのクルマが停まっていたし、ちょうど到着した列車からも、山陽オートに向かうらしい客が降りてきた。もっとも、競輪の後に貝汁・・・はちょっと遠いか。

埴生駅よりも近いのが、サンデン交通バスの下関~宇部線の西糸根バス停。これだと山陽線の小野田からバス乗り継ぎができる。バスの時刻表を調べて「みちしお」エリアを楽しむのもよさそうだ。青春18の日帰り旅で訪ねてみるかな・・?

12時を回り、ここから本題ということで広島新四国八十八ヶ所めぐりの廿日市シリーズに取り掛かる。山陽道(宇部下関線)の埴生インターから乗り、下関ジャンクションで中国道に入る。この後山口ジャンクションから山陽道(吹田山口線)に入り、広島へ・・・。

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国道2号線を伝って・・

2021年04月20日 | 広島新四国八十八ヶ所

思い立ってのドライブだが、帰りに広島新四国八十八ヶ所の札所にも行くので、そちらのカテゴリでの記事とする。

往路の目的地は、山陽小野田市にあるドライブインの「みちしお」。貝汁で有名で、旅行ガイドやテレビでもしばしば取り上げられる。

店は24時間営業だが、帰りの札所めぐりを考えると早めの昼食を目指すのがいいだろう。自宅を6時半に出発。国道2号線の西広島バイパスを走る。廿日市市に入ると、速谷神社への案内標識が見える。帰途の札所めぐりにあたっては、この神社にもお参りする予定である。

バイパスの終点からは国道2号線の下道。宮島口を過ぎ、大野浦から玖波にかけての海岸線を走る。並走する山陽線よりも海側を走るので、障害物が少ない。

岩国を過ぎる。このまま国道2号線を走ると、これも山口県で有名なドライブインの「いろり山賊」を通るが、この時間ではまだ開店していない。その2号線をショートカットするのが県道15号線、通称「欽明路道路」。JRの岩徳線にも近いルートである。

2号線との分岐を過ぎてすぐのところにあるのが西岩国駅。山陽線の短絡線である岩徳線が開業した時、一時岩国駅を名乗っていたことがある(この時、山陽線の岩国駅は一時麻里布駅という名前になった)。現在は無人駅だが駅舎がそのまま残されていて、歴史を感じさせる。

結構このルートを選ぶクルマも多い。長い欽明路トンネルはあるものの、それほどきつさを感じない。玖珂で国道2号線と合流し、その後も岩徳線の線路を時折見ながら走る。残念ながら走る列車とは会わなかったが。

周南市に入り、徳山の市街地を通る。遠くに徳山のコンビナート群を見る。昔、夜にこの区間を走った時に遠くにちょっとした夜景が広がっていたのを覚えている。

山陽線の戸田駅の向こう、山陽道の徳山西インターのすぐ先に「道の駅 ソレーネ周南」の看板が見える。初めて見る施設だが、自宅を出て2時間あまり経ったところで、少し休憩とする。すぐ前を走っていたクルマが何台も連続してここに入っていたのに少し驚く。朝の時間帯だが、駐車場もほぼ満杯である。

「ソレーネ周南」は2014年のオープン。道理で初めて目にするスポットである。その中で、この記事を書くにあたり改めてどんなスポットかと調べたところ、「そういえば」という記述に出会う。

2018年、大阪・富田林の警察に拘留されていた男が隙を見て脱走するという事件があった。男はその後、遍路や自転車で日本一周中の旅行者に成りすまして四国や広島方面を50日ほど逃走していたが、身柄確保されたのがこの「ソレーネ周南」であった。食料品を万引きしたのがきっかけだったが、あの時は大阪の各地での目撃情報があり警備体制も敷かれた中、山口県まで逃げたのは警察としては完全に裏をかかれた形だった。

その少し前には、今治の刑務所の受刑者が作業場から脱走し、尾道水道を泳いで渡り、広島のマツダスタジアムの近くで身柄確保された男もいた。相次ぐ脱走劇に対して警察を批判する声も多い中、面白がって脱走犯を応援する向きもあった。自転車に水泳って、トライアスロンみたいやなという声もあった。今頃、2人は大人しく服役中というところか。

それはさておき、店内は地元の特産品ということで野菜、魚、肉、弁当に惣菜、酒類と豊富に並ぶ。ドライバーだけでなく、地元の人たちも気軽に野菜など買いに来るスポットのようだ。クルマで来ていることもあり、私も地元産の米や味噌、醤油などを買い求める。

防府、新山口に差しかかるとバイパス区間が多い。そういえば今回のように国道2号線で山口県内を走るのも20年ぶりに近い。こんな感じだったのかなと思い出しながらである。市街地を遠くに見るので、山陽線とはまた違った車窓だ。

厚狭からは2号線の厚狭・埴生バイパスを通る。確か以前は厚狭駅前を通っていたと思うが、2008年に全通した道路だという。かつての国道2号線は県道225号線に移管されている。これで埴生までショートカットする形になり、最後は国道190号線に出る。

そして到着したのがこちらのお店。自宅から休憩込みで4時間ほどで到着。まだ11時前だが、少し早い昼食とする・・・。

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広島新西国八十八ヶ所めぐりの前に・・・国道2号線を西へ向かう~ただその前に

2021年04月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

大阪府での新型コロナ感染確認者の増加に歯止めがかからない。3月下旬から4月にかけて急激に増えており、この数日は連日1000人超え、全国でも1日あたりの人数が東京を抜いて最多となることが続いている。ここに来て、3度目の緊急事態宣言の発令を要請する方向だという。個人的に、吉村知事は同じ高校の出身ということもあり、昨年からさまざま尽力していることについては応援しているが、このところは打つ手なしの様相である。世間の批判の声も高まっている。

さて、先の週末(4月17日~18日)は、大阪で久しぶりとなるバファローズ戦の観戦も兼ねて帰省しようと予定していた。18日のバファローズ対マリーンズの内野指定席も早くから確保していた。しかしながら、この数日の大阪の状況を見て、実家は「まん延防止」の対象地区ではないとはいえ、結果「帰って来るな」ということになった。まあ、実家に戻らず日帰りで野球だけ観に行くこともできたが、さすがの私もそこまで気が進まなかった。前週、クルマで兵庫県に行ったやないかという声もあるが、丹波と大阪の中心部では状況が違う。

結局、大阪行きは断念した。気にしすぎなのかもしれないが、気分が乗らない中で行っても楽しくない。野球のチケットは無駄になったが、往復の移動は山陽新幹線のこだま限定の直前割を利用するために購入しておらず、払い戻しなどの手間がなかったのは救いだ。

言い訳(自分への言い聞かせ)が長くなるが・・。

このブログで野球の話題がめっきり少なくなったが、広島でもケーブルテレビに加入してCSが見られるので、バファローズ戦もそれなりにチェックしている。平日も帰宅して、試合の中盤から後半を見ながら料理して一杯やる・・のが楽しみの一つ。

そんな中、開幕戦で「祝!開幕戦10連敗!!」と揶揄され、開幕シリーズも負け越した。その後は持ち直したが貯金をつくるチャンスはことごとく落とし、気が付けばカードでの勝ち越しはなし。

4月16日~18日のマリーンズ3連戦も、初戦は3対0から安田の3ランで同点となり、勝ちを逃す(テレビ桟敷でぐったりした)。第2戦は杉本の特大本塁打以外は打線に見せ場なし。そして第3戦は9回表に逆転を許しての敗戦。チケットを持っていた18日の試合にいたっては、9回表までリードしたのが抑え起用のヒギンスが四球連発で逆転負け。もし大阪で現地観戦していたら余計にぐったりしたことだろう。

・・・で、何の話だったか。

大阪行きを取り止め、日中雨が降っていた17日は自宅にこもっていたが、18日は出かけることにした。お目当ては、久しぶりとなる広島新四国八十八ヶ所めぐり。前回2月23日の地御前の第5番・観音堂以来で、同じ廿日市市の第6番・大心寺、第7番・極楽寺を回ろうか。こちらも間隔が空いていて、地元をいろいろ回ること、札所めぐりが多重債務のようになっているので少しでも進めることに考慮した。2つの寺院はいずれも廿日市の山のほうにあり、極楽寺は極楽寺山という地元のハイキングコースにもなっている山の頂上にある。

廿日市に行くだけならゆっくりしてから出ればいいが、合わせて、高速道路を使わずに国道2号線を西に向かうことにする。国道2号線をひた走り、そこから分かれてどこかに出かけるというのはかつての広島在住時にはちょくちょくやっていたが(以前は大分、佐賀くらいまで足を延ばしたこともあった)、久しぶりに走ってみるか。その帰りに広島新四国八十八ヶ所の札所に立ち寄るということで。

西に向かうといっても山口県までである。とりあえず目的地としたのは、ドライバー中心に全国的に知られたあの「貝汁」の店・・・。

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西国四十九薬師めぐり~黒田官兵衛ゆかりの地

2021年04月18日 | 西国四十九薬師

今回の西国四十九薬師めぐりは3ヶ所を回り、広島に向けての帰途。氷上町から国道175号線を走る。「水分れ街道」の名前がつく。この辺りに南は加古川、北は由良川に続く分水界があるが、標高95メートルと本州で一番低い分水界だという。

このまま西脇を経て中国道の滝野社インターを目指すのだが、その途中に「黒田官兵衛ゆかりの地」の看板を見る。そういえばJR加古川線に黒田庄、本黒田という駅名もあったな。この辺りを回る機会もそうないことだし、ちょっと立ち寄ってみよう。

加古川を渡り、簡易な造りの本黒田駅に立ち寄る。

駅から東に向かうと、「黒田官兵衛生誕地」の石碑がある。この奥には山城の黒田城跡がある。

黒田官兵衛という人物も明智光秀と同様に前半生が謎のところが多い。黒田氏は近江の出自で、後に備前に移り、そして播磨の小寺氏に仕えるようになったという。官兵衛は姫路で生まれたとされている。ただ一方で、こちら西脇の黒田庄が黒田氏の出自という説も古くからある。

沿道には「荘厳寺(しょうごんじ)」の幟がやたら目立つ。官兵衛ゆかりの寺ということでPRしているようだ。大河ドラマの影響もあるのかな。その幟をたどると、山奥の行き止まりに寺の駐車場が出てきた。

この寺には黒田氏の略系図が保存されていて、持仏堂で複製が公開されている。それによると、黒田氏は播磨の守護・赤松氏を祖として、この地にあった黒田城を拠点として黒田氏を名乗ったという。8代重隆の子としてここで生まれた孝隆(のちの官兵衛)が、小寺職隆の養子となって姫路城を守ったとも記されている。後に黒田氏が治めた福岡藩が播磨の調査をする中で明らかになったという。

まあ、生誕地、出身地というのは現代の世の中でもいろいろな捉え方ができると思う。西脇で産まれて、武士としては姫路で育ったということならばどちらもゆかりの地である。

寺のお勤めはこの持仏堂で行っているようだが、本堂はさらに奥にあるという。せっかくなので訪ねてみる。

石段を上がること5分ほど、こちらが本堂である。寺そのものは飛鳥時代に法道仙人(播磨一帯に多くの開創伝説を持つ、あのお方だ)が開いたとされる。

その脇には鎌倉時代の建造とされる多宝塔もある。本堂と合わせて奥の院の風情がある。

寄り道はこのくらいにして、そろそろ広島に戻ろう。滝野社から中国道に乗り、加西サービスエリアで休憩。こちらの石像は近くの羅漢寺の五百羅漢をモデルにしている。

福崎から播但道を経由して山陽道に入るのが最短ルートのようだが、行き帰りで少し変化をつけるために、そのまま中国道を走る。到着予想時刻が30分繰り下がる。

そのまま岡山県に入り、真庭市まで進んだ北房ジャンクションから岡山道に入る。カーナビの到着予想時刻がさらに20分ほど繰り下がるが、岡山道を走ったことがなかったので、多少遠回りでもたどってみることにする。別に高速道路の乗りつぶしを志しているわけではないが・・。

岡山道もしばらくは対面通行区間。その途中、高梁サービスエリアにて休憩。

1997年の岡山道の開通により、日本海と太平洋の間、約300キロが高速道路で結ばれた。サービスエリアの一角には香川県の観光PRのオブジェもある。

こういうのを見ると、中国地方、いや四国も含んだ中四国地区の中心というのは岡山なのだなという思いを新たにする。中国地方の中心は広島というのが一般的な認識だと思うが、こと交通という面で見れば岡山が結節点である。岡山からだと中四国各県のどの県庁所在地にも乗り換えなしで行くことができるが(山口については新山口だが)、それに比べると広島は閉ざされているなと(一応、高速バス便は出ているが)。

高梁を出るとしばらくして4車線区間となり、順調に走る。結局自宅に着いたのは、当初のカーナビ設定から3時間ほど後の20時前。

さてこれからの西国四十九薬師めぐりは遠方のエリアが残ることになった。移動、宿泊もどのようにこなしていくか、またいろいろ考えるところである・・・。

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第25番「達身寺」~西国四十九薬師めぐり・34(素朴な仏像の宝庫と卵かけごはん)

2021年04月17日 | 西国四十九薬師

この日(4月11日)の3ヶ所目となる達身寺に到着。「丹波の正倉院」という別名があるそうだが、見たところ、茅葺き屋根がかかる素朴な建物である。この日ここまで見てきた禅宗様式のお堂や大方丈とは異なる。

拝観受付は本堂のベルを鳴らして中に上がって・・とあるので、中に入る。しばらくして住職らしき方が出てきて、拝観料とバインダー式の朱印の受付をしてもらう。コロナ対策として名前、電話番号、住所(府県単位)の記入を求められる。「この辺りも多いんで」とのお言葉だが、確かに兵庫県全体でみれば大阪とともに増加傾向にあるものの、神戸、阪神間の各市と比べれば丹波市・丹波篠山市で1日1~2人という推移である。ただ、地元の方にとっては「多い」という感覚なのだろう。名簿には「兵庫県」「大阪府」が多いが、住職からすれば「大阪からのこのこきやがって」と思っているかもしれない。

こちらでは収蔵庫が2つあり、順路に従って拝観する。まずは本堂の奥に建て増しされたらしい収蔵庫に向かう。

達身寺は行基が開いたとされ、平安時代には天台宗か真言宗かいずれかの寺だったとされるが、よくわかっていない。後に山岳仏教の道場として栄え、戦国時代には僧兵も抱えていたが、明智光秀の丹波攻めの時に焼かれたという(天寧寺と異なり、こちらは攻められたほうなのね)。その時に僧たちが仏像群を近くの山に避難させたが、長くそのままにされた。

江戸時代になり、この辺りに疫病がはやり、多くの人が亡くなった。これは仏像を粗末にした罰だということで、人々は山に登って仏像を集め、近くの達身堂というお堂をこの地に移して祀った。これが現在の達身寺につながる歴史だという。

収蔵庫には数十体の木像が雛壇に並ぶ。ただそのほとんどが体の一部が欠けていたり、破損の跡、あるいは造りかけの箇所が目立つ。十一面観音もあれば、兜跋毘沙門天が何体も存在する。寄木造りのパーツだけが残っているものもある。見ていて痛々しいが、逆によく今まで残っていたものだなと思う。

いったん本堂からスリッパを履いて外に出て、隣接する収蔵庫に向かう。こちらは昭和に新たに建てられたもので、本格的な収蔵庫だ。

やはり収められている仏像も「上物」が並ぶ。寺の本尊である阿弥陀如来が中央に安置され、向かって左には十一面観音、そして右には西国四十九薬師の本尊である薬師如来が安置される。こちらは金箔、漆が施されていて、こうした山間にあって立派なものである。鎌倉時代の作とされ、元国宝、現在は重要文化財に指定されている。こちらの薬師如来の前には奉納された写経や納札が積み重ねられていて、この前でお勤めとする。

こちらの収蔵庫には十一面観音、兜跋毘沙門天の中でも状態のよいものが並ぶ。もっとも、こうした仏像は寺に一体あれば十分である。中でも兜跋毘沙門天は16体も残されているようで、これも極めて異例のことという。このことから、達身寺は大寺院というよりは仏像の工房ではなかったという説もある。達身寺に古文書が残っていないので何ともいえないが、丹波仏師という言葉もあり、あの快慶もそのように名乗ったという東大寺の記録があるそうだ。少なくともそうした人たちの集まりがあったことは確かで、工房にせよ大寺院にせよ、中世からの歴史が伝わる寺である。

山の中の深い歴史にさまざまにうなるところがあり、茅葺き屋根の本堂に戻る。ここで書いていただいた朱印を受け取る。

そして、次の札所を決めるサイコロである。くじ引きの出目は、

1.大阪(四天王寺プラス西国23番総持寺)

2.阪神(久安寺、昆陽寺)

3.南紀(神宮寺プラス西国1番青岸渡寺)

4.橿原・名張(久米寺、弥勒寺)

5.湖東(西明寺、桑實寺、善水寺プラス西国31番長命寺、32番観音正寺)

6.高野山(龍泉院、高室院プラス西国3番粉河寺)

その中で出たのは・・・「5」、滋賀県である。さすがに軽自動車で広島から滋賀まで走るのはきつそうで、鉄道で行くことになりそう。ただ、湖東地区を広域にめぐる中で、公共交通機関だけでは限界がありそう。レンタカーを使うことになるかな・・。

寺を後にする。せっかくなのでこの辺りをもう少し楽しもうと立ち寄ったのが、寺から数分戻ったところにあるかたくりの群生地。かたくりと聞けばあの片栗粉を連想する。片栗粉は根っこのところから採ったでんぷんだが、量そのものは少ないので、市販のものにはジャガイモやサツマイモのでんぷん粉が多く使われているとか。

春の訪れを告げる花だそうで、3月下旬から4月上旬が見ごろとのこと。斜面にひっそりと紫の花をつける。訪ねた時はピークを過ぎていたようで、花も枯れ始めていたところ。それでも全体に淡い紫の色合いが漂っている。

さてこれから広島まで300キロあまりを走るが、その前に昼食とする。途中、沿道にあった交流施設「かどのの郷」に立ち寄る。ここの名物が卵かけごはん。地元産のこしひかり、地養卵を使ったもの。

席に着くと「卵かけごはんでよかったですね?」と聞かれる。もちろんそうだが、一応メニューには単品のごはんセットやカレーライスもあるので確認である。卵かけごはんセットが380円。ごはんのおかわりが1回(2回目からは120円)、そして卵は食べ放題でこの値段。おかずがさびしい場合は他のお惣菜をケースから取って追加する。

こちらがその一杯。卵の黄身もなかなかコクがある。こちらに、かつお・昆布・椎茸エキスで作られた出汁醤油をかけていただく。シンプルな味わいである。

せっかくなので卵を買って帰ろうかと思ったが、そういえば前日にスーパーで卵のパックを買ったばかりだった。代わりに出汁醤油を購入。

カーナビでは国道175号線に沿って西脇を通り、滝野社インターから中国道に乗るとある・・・。

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西国四十九薬師めぐり~明智光秀ゆかりの福知山城

2021年04月16日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐり、福知山の2ヶ所を回り終えて丹波市に向かうのだが、その前にせっかく福知山に来たのだからと、福知山城に向かう。

福知山城は由良川と土師川が合流する付近に築かれ、中世は丹波の国人だった塩見氏の居城であった。織田信長の命を受けた明智光秀による丹波攻略では、丹波の波多野氏、赤井氏らについて防戦したが敗れた。丹波を平定した光秀はこの城を福知山城と改名し、近世の城郭に改築し、明智秀満を城代とした。

光秀といえば2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公ということで、福知山も大いにPRしていたところである。本来ならば福知山に多くの人に足を運んでもらいたいところだっただろうが、ちょうどコロナ禍での緊急事態宣言、またドラマそのものもロケの一時中断などもあった。

その中で福知山市は自宅でも楽しめるイベントとして、本能寺の変の原因とされる50の説を出して、どれが「推し」かの総選挙を行った。さらに、投票した人の中から抽選で、本能寺の変の「お知らせハガキ」が市から届くということも。私もこの総選挙に投票した。残念ながらハガキは来ず、投票した「推し」の説も下位だったのだが、投票時に書いたコメントが結果発表で紹介されていた。

天守閣の建物は昭和に復元されたものだが、天守台の石垣は当時のものが残されている。未加工の自然石が積み上げられる中、五輪塔、宝篋印塔、石仏などが交じっている。石垣に使う大量の石材が近くになかったことや、短時間で築城するためにこうしたものが使われたという。旧来の、光秀に従わない寺社勢力を屈服させるためとも言われている。

天守閣の受付にはこのような貼り紙がある。「麒麟がくる」の番外編制作を希望するというもの。かねてから「光秀生存説」というのもあったし、さまざまに想像を膨らませることができる人物なのだろう。

天守閣内部は資料館になっており、当然光秀について多く触れられている。肖像画や古文書などは撮影禁止。

光秀・秀満の福知山での治世はわずか3年しかなかったので、福知山の町づくりという点で見れば、それほどのことはできなかったのではないかと思う。

ただその中で「天寧寺文書」というのがある。先ほど訪ねた天寧寺のことである。寺に伝わる明智光秀の「判物」という文書が展示されている。天寧寺の勢力を安堵し、明智の軍勢に対して、天寧寺の勢力下での陣取りや竹林の伐採を禁じる内容である。天寧寺がかつて足利将軍の保護を受けていたことについては、天寧寺の参詣の記事でも触れたのだが、光秀としては将軍家に仕えていた縁もあり、このような命令を出したのだろう。

福知山城は、明智氏以後、杉原氏、有馬氏、稲葉氏、松平氏といったところを経て、朽木氏が藩主として長く治めていた。それでも地元は福知山=明智光秀としてPRしている。それだけ歴史の中でインパクトを与えた人物といえる。

最上階から福知山の町並み、周囲の山々を見渡す。

さて、ここから第25番の達身寺を目指す。カーナビは福知山から舞鶴若狭道経由のルートを示すが、福知山線の線路とも並走する国道176号線経由でもそれほど時間は変わらないので、下道を走る。ちょっとした峠越えで兵庫県に入るが、旧国名では同じ丹波とあってそれほど越境を感じない。

春日から北近畿豊岡道に入る。地方の国道の整備を名目にした無料の高速道路である。そのまま下道を走ればいいのに、こういうところだけ乗ってみる。1区間で、丹波市の中心である氷上で下車。この後は氷上の町中を抜ける。町中や周りの景色ものどかで、時間があれば当初大阪時代の想定とおり、路線バスでやって来てそこから時間をかけて歩くのもいいかなと思う。特にこの日は穏やかな青空が広がっていて・・。

その集落の奥まったところに茅葺屋根の屋敷が見える。こちらが達身寺・・。

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第26番「長安寺」~西国四十九薬師めぐり・33(青もみじと枯山水の寺)

2021年04月15日 | 西国四十九薬師

天寧寺のお参りを終えて、次は長安寺に向かう。いったん国道9号線に戻った後、上り坂を進む。ちょうど市街地の西側に位置し、地図で見たところ、鉄道なら京都丹後鉄道の荒河かしの木台から徒歩1時間といったところのようだ。上り坂が続くので徒歩ならちょっとしんどいかな。今回は天寧寺からクルマで20分ほどで到着。これが京都丹後鉄道と徒歩での移動なら2時間近くかかるところで、クルマならではのメリットを最大限活用している。

長安寺公園というのがあり、キャンプ場として使われている。その奥、行き止まりに長安寺がある。こちらも初めて訪れるスポットである。境内は駐車場からもう一段上がったところにある。

入口の前に弔魂碑が建つ。「国鉄福知山機関区機関士 足立久作氏」とある。昭和16年、機関士として山陰線の八鹿~江原間を運転中、子どものいたずらによる置石に乗り上げた。列車は脱線転覆、多くの死傷者が出る中、蒸気による火傷を負いながら汽笛を鳴らし続けて周囲に急を告げ、壮烈な殉職をとげたとある。足立氏の菩提寺が長安寺ということで、事故を繰り返させぬ願いを込めて建てられたのがこちら。

それだけの大きな事故なら鉄道事故・事件史として紹介されていてもいいものだが、この記事を書くにあたり詳細を調べようとネットで検索してもなぜか出てこない。子どものやったこととはいえ、置石は鉄道テロと同じだと思う。何だろう、歴史から消されてしまったのか。

それはさておき、まず出迎えるのは西国三十三観音巡り。寺の境内の一角、あるいは奥の院への道などにそれぞれの本尊の石像が順番に並ぶのが一般的だが、ここでは何体かの石像がひとかたまりに外向きの円座になっていて、順番にその島をたどっていくスタイルである。こういうスタイルも珍しい。

長安寺は「丹波のもみじ寺」として地元では親しまれているという。この時季なので紅葉はないが、青もみじもところどころよく映えている。寺の縁起によると、聖徳太子の異母弟である麻呂子親王が、勅命により丹後の大江山に住む鬼の征伐に向かうにあたり、勝利を祈願して薬師如来を祀ったのが始まりとある。

大江山の鬼というのは後の酒吞童子も含めて歴史の中でたびたび登場するが、鬼の正体とは諸説ある中で朝廷に刃向かう地方の豪族たちとの見方もある。丹後あたりは海を通して、沿岸のみならず大陸との交易ネットワークで栄えていたという。

寺は平安時代には栄えたものの火災や戦乱などで焼失と再建を繰り返し、現在の元となったのは戦国時代、杉原家次の手による。山崎の戦いの後、明智光秀の後を受けて福知山城主となった人物で、眼光恵透禅師を迎えて再興した。境内の最も奥にある開山堂には禅師が祀られている。現在の境内の建物は江戸中期に再建されたものが並ぶ。

薬師堂に向かう。ちょうど境内の清掃を終えたらしい係の人から、「どうぞ中に上がってください」と声をかけられる。長安寺は臨済宗の南禅寺派ということで、禅宗様式の建物である。本尊は秘仏とのことで、お前立ちの薬師如来像、日光・月光菩薩、十二神将のチーム薬師が揃う。お堂の中の長椅子に腰掛けてのお勤めとする。天井には龍の絵が掛けられている。

本堂にあたる大方丈に向かう。建物の前には枯山水の庭園があり、やはりここは禅の心が表現されているのかなと感心する。こちらも江戸中期の再建とのことで、釈迦如来が祀られている。ここも外陣に上がることができ、他に誰もいない静かな中、畳敷きの間で心を落ち着かせる。

周りを山に囲まれ、落ち着いた空間である。紅葉の時季は人で賑わうのだろうが・・。福知山の市街もかすかに眺めることができる。

納経所にてバインダー式の朱印をいただき、入山料もここで納める。寺の方から、方丈の前の枯山水の庭園は「薬師三尊四十九燈の庭」だと案内される。

西国四十九薬師めぐりというように、薬師如来と「49」という数字は縁があるのだが、石を49基用いて造られた庭だという。この庭を手掛けたのは重森完途という昭和の造園家である。先ほど禅の心と書いたが、薬師の心?が表されているのだろうか。

これで福知山の2ヶ所を終え、達身寺に向かう。ただ、ここまで順調で時間にも余裕があるので、あるスポットに立ち寄ることにする・・・。

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