まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第22回四国八十八所めぐり~第83番「一宮寺」

2018年11月29日 | 四国八十八ヶ所
隣接する田村神社が讃岐の一宮で、思いのほか見所があったので一つの記事となり、ようやく一宮寺の山門に出た。しっかりした造りの楼門である。

先の記事にも書いたが、元々は奈良時代に田村神社の別当寺として設けられた寺院である。後に弘法大師が聖観音像を祀り、真言宗の寺院となった。江戸時代になってどういう経緯があったのか松平家から別当寺の役目を解かれたが、その後は一つの独立した寺院として今に至っている。昔とは形が変わったにせよ、八十八所には4つの国とも国分寺や一宮神社の別当寺が札所として残っている。

境内の真ん中に巨大な楠があり、その奥に本堂がある。江戸時代の建物だという。白衣、笈摺姿の人もちらほらと見える。まずはこちらでお勤めである。

本堂から少し奥まったところに大師堂がある。こちらは比較的新しい建物のようで、本堂よりも大きく見える。外陣ではお守りなど扱っていて、賽銭を賽銭箱に入れると寺の人が鐘を一つ鳴らしてくれる。予約が必要だがこちらでは写経体験ができるそうだ。

他には菩薩堂や水掛け不動もあり、コンパクトながらも楠を中心に一通り揃っている感じである。また宝塔があるが、田村神社の祭神を祀ったものだという。

その中で目を引くものがいくつかある。まずは薬師如来。「地獄の釜」と呼ばれる石造の祠に祀られている。これは弘法大師が造ったもので、祠に頭を入れると境地を開くことができるとの言い伝えがある。しかし、悪いことをする人が頭を入れると扉が閉まり、地獄の釜が煮えたぎる音がして頭が抜けなくなるとも言われている。

昔、この地で暮らしていたおたねという意地の悪い婆さんが、そんなことはないと頭を祠に入れた。すると扉が閉まり、地獄の釜の轟音がして頭が抜けなくなってしまった。それでこれまでの意地悪を謝り、心を入れ替えると言うと頭が抜け、それからは親切な婆さんになったという話がある。

また、般若心経が彫られた石板がある。奉納したのは岸信介とある。地元出身の福家俊一という衆議院議員が、今あるのは岸信介先生のおかげだとして一筆してもらい、一宮寺に奉納したとある。・・・という解説の碑は、「じじい放談」、もとい「時事放談」で知られた細川隆元によるもの。弘法大師からいきなり昭和の戦後史まで飛んできた。福家さんも地元の名士として何か残したかったのだろうが、岸信介を持ってくるとはどうなんだろうか。

納経所への通路を挟んだところには「りえとまことの夫婦槇」というレリーフがあり、まだ若い槇の木が2本植えられている。説明文では、結婚式を控えて二人とも夭逝したとある。そして、二人が生きた証として槇の木を植えたとある。平成20年没とあるからちょうど10年前、りえさんとまことさんに何があったのか。また、このレリーフを奉納したのは愛知県小牧市の方とあるが、なぜ一宮寺にあるのだろうか。何らかの経緯があったのだろうがこれだけでは分からない。まあ、そこはあまり掘り下げないほうがいい事情があるのだろう。

こうして見ると、一宮寺はさまざまなものを受け入れるベースがある寺院なのだろう。

納経所で朱印をいただき、一宮寺を後にする。駅に戻ると高松築港への折り返し列車が着いたところで、また慌ただしく運転手と車掌が入れ替わる。

時刻は14時半を回ったところだが、次の第84番の屋島寺に行くには時間が厳しい。かと言って帰りのバス、その前の食事にはまだ時間がある。ここは高松市街に戻ることにして、久しぶりに訪ねるあの有名庭園に行くことにしよう・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~讃岐一宮の田村神社

2018年11月28日 | 四国八十八ヶ所
ことでんの高松築港から第83番の一宮寺を目指す。最寄り駅は琴平線の一宮市で、乗った13時15分発の列車はちょうど一宮止まりの便だった。琴平線の日中のダイヤは毎時0分、30分発が琴平行き、15分、45分発が一宮行きとパターン化されている。

長尾線、志度線の分岐駅となる瓦町を過ぎる。次からはこの駅にも来ることになる。

20分ほどで一宮に到着した。行き止まり式の1番線に入ると、すぐに折り返すため運転手と車掌が慌ただしく入れ換わる。時刻表上では折り返し時間はわずか1分、まあ2両編成だからできるダイヤだろう。

小ぶりな駅舎を出る。一宮寺までは徒歩10分とあり、遍路道とは逆方向からのアクセスだが案内板もあり、道もわかりやすい。

近郊住宅地の中を歩き、一宮寺に続く小さな路地に標石があるのだが、先にその向こうに見える鳥居をくぐる。路地に並行して神社の参道が続く。

向かったのは田村神社。古くはいつの頃からか、定水井という井戸にいかだを浮かべて神を祀っていたそうで、奈良時代に行基の手により社殿が建てられたという。そして平安時代以降は讃岐国の一宮として広く信仰を集め、高松藩松平家からも保護を受けていた。

八十八所の一宮寺は義淵僧正(飛鳥の岡寺を創建した人物像)の手で開かれた寺だが、その名前からも察せられるように、行基が讃岐の一宮として田村神社の社殿を創建した時に別当寺とした。これまで八十八所を回る中で、阿波、土佐、伊予と同じように各国の一宮の別当寺としての歴史を持つ札所があり、明治の神仏分離、廃仏毀釈の目に遭ったことも共通しているのだが、一宮寺だけは江戸時代前期に松平家の手で田村神社の別当寺の役割を解かれ、分離されてしまった。そこに何があったのかはわからないが・・・。

ともかくここは田村神社に先に参拝する。この日も七五三参りの家族連れが見られ、拝殿の中では何組かが祈祷を受けているところだった。

また田村神社は讃岐の七福神の一つとして布袋尊も祀っている。あれ?讃岐で七福神と言えばこの夏に熱中症スレスレになりながら7つの札所を回ったのだが・・これは別の七福神ネットワークというところだろう。

田村神社はさまざまなものが詰まっていて、拝殿やお社が4つ続いたかと思えば七福神があるし、鳥居が連なるところもある。

満州開拓団の慰霊碑や、全国の一宮を書き連ねた石碑もある。全国の一宮か・・・世の札所めぐりの中にはこれに挑戦する方もいらっしゃるのだが、全てめぐるとなると完全に日本周遊である。昔の国ごとということで佐渡、隠岐、壱岐、対馬といった島も含まれる。

方角は瀬戸内の鬼ヶ島を指しているのか、腕を伸ばした桃太郎の像もあれば・・・、

これぞ見事に金色をあしらった布袋さんがどっかりと座っている。昔はともかく今はクルマで来る参拝者が多いのか、駐車場がある神社の北側にに大鳥居が建てられ、玄関口になっているようだ。そこで布袋さんのお出迎えである。

これで田村神社にお参りし、ようやく一宮寺である。独立した道路だが神社の一部という感じの細道を歩いて山門に・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~高松への船旅

2018年11月27日 | 四国八十八ヶ所
神戸港を出航したジャンボフェリーの「りつりん2号」。風は吹くが天候もよいのでしばらく最上階の展望デッキで過ごす。ベンチがあればよいなというところだが、床には人工芝のマットが敷かれている。夏の多客期など、暑くても潮風を楽しみにここに寝転がって過ごす客もいるのではないだろうか。

三菱重工や三菱電機の拠点がある和田岬から外海に出る。この日は天候がよく、東の大阪方面から紀伊水道方面までも望むことができる。梅田のビル群や南港の咲洲庁舎もうっすらと見える。日本時間でこの日の未明、2025年の万博が大阪・夢洲で開催されることが決定した。そのアクセスはこれから整備されることになるが、その一つに、神戸港またはポートアイランドからの船便というのも検討されているそうだ。

船上から須磨の海岸を見るのも新鮮な感じである。そんな中、飛行機も何機か飛んで来る。神戸空港を離着陸するスカイマークの便。

出航から1時間、明石海峡大橋に近づく。このタイミングで大勢の乗客が展望デッキに上がって来た。この時間の便の見どころで、橋が近づくに連れてカメラやスマホが向けられていく。ちょうど橋の下をくぐる時には歓声があがった。

この後は播磨灘に出るが、車窓の見どころがまず一区切りついたし、1時間風に吹かれるとさすがに寒くなってきたので船内に戻る。

船内には売店があり、小豆島や香川の土産物も買うことができる。今回上陸できないが、小豆島の醤油や森國酒造の地酒を購入する。さらにジャンボフェリーの「売り」の一つが立ち食いうどんコーナー。「うどん県」をPRする香川らしい(うどんそのものは冷凍品のようだったが)。注文したのは小豆島の醤油あげ煎餅を乗せた「しまうどん」という一品。フェリーのオリジナルメニューか、小豆島では一般的なトッピングなのかはわからないが、うどんの食感と出汁を浸して軟らかくなった煎餅の独特の食感を楽しむ。

この後はしばらくカーペット桟敷に横になる。普通の四国行きの旅行ならば、潮風に吹かれながらビール、あるいは小豆島の地酒(1合枡がついていた)を一杯やるところだろう。一瞬頭によぎったが、今回はこれから1ヶ所とはいえお参りがあるので我慢だ(帰りにフェリーに乗るのであれば間違いなく桟敷で酒盛りになるのだろうが)。少しウトウトしたり、スマホを触ったり、手持ちの文庫本を広げたりする。

出航から3時間、窓の外に大きな島影が見えたので展望デッキに上がる。小豆島である。東側から見ると険しい地形が見える。小豆島は海底火山が隆起して形成された島で、陸地のほとんどが山だという。フェリーはこれから島東部の坂手港に寄港する。

小豆島にはまだ上陸したことがない。紅葉の名所としても知られる寒霞渓、二十四の瞳、醤油、そうめんというキーワードが頭に浮かぶ(古いか)。一度は行ってみなければと思うのだが、最近、「小豆島に行くならただこれらの観光に行くだけでは済まなくなるのでは?」とも思うのである。

実は小豆島には「小豆島八十八ヶ所霊場」というのがあり、知多、篠栗と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされている。この小豆島八十八ヶ所は弘法大師が讃岐と都との行き来の合間に山岳修行をして開いたとされており、江戸時代には四国に習うように八十八霊場のコースが出来上がったという。土庄を起終点として島を時計回りに一周するのだが、島へのアクセスも限られる上、公共交通機関もほとんどなく、山道の上り下りが繰り返されるハードなコースだという。小豆島に行くのならいずれはこの札所めぐり(奥の院を含めて94ある)もやることになるのかな、素通りとはいかないのかなとぼんやりと考える。

島の南側に回ると前方に坂手の集落が見えてきた。風が穏やかになってきた。周囲を山や岬に囲まれている分、港に適した地形なのだろう。少しずつ接近して接岸。ここで4分の3ほどの客が下船する。高松より小豆島が目的地という客が多かったのは意外だったが、ジャンボフェリーの実態は関西~小豆島がメインなのかもしれない。特にこの日は翌日の25日に土庄で「瀬戸内海タートルマラソン」というイベントがあり、それにエントリーするため前日に小豆島に渡った人も多かったのではないか。

坂手港を出航して船内に戻ると、桟敷席も椅子席もガラガラになっていた。高松までは1時間あまり、左手に四国本土の姿が少しずつ大きくなってきた。合わせて小さな島々が現れて瀬戸内らしい多島海の景色が広がる。

左手に現れる五剣山や屋島にはそれぞれ85番の八栗寺、84番の屋島寺がある。これらは次回に訪ねることになる。

独特の形をした屋島をぐるりと回り込むように進み、高松東港に近づく。4時間あまりの船旅は列車やバスにはない開放感があり、また桟敷で横になることもでき、なかなか快適な時間だった。小豆島八十八所は置いとくとして、四国行きの公共交通機関の一つとしてまた機会があれば乗りたい。

高松東港から高松駅までは無料のシャトルバスが出ている。10人ほどが乗り込み、10分ほどで駅前のバス乗り場に到着した。時刻は13時前、今回は日帰りのため、この時間から訪ねるとしても1ヶ所が精一杯である。

その前に昼食ということで向かったのはJR高松駅構内の「連絡船うどん」。かつての宇野~高松ルートではないが、フェリーで来たということもあってかつての雰囲気をしのぶのもよいだろう。この店はホーム側、駅の外側両方から注文することができる。もっとも店内の外側のスペースは限られているので、駅の外側からの客は外のテーブルに丼を持ち出してすすることになる。

さて・・・相変わらず札所までのアクセス記事が長いのだが、午後になってようやく本題である。ようやくこれから83番の一宮寺に向けてことでんで出発する・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~日帰り瀬戸内クルーズ

2018年11月25日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所めぐりも第82番の根香寺まで終えて、残り6ヶ所となった。このうち5ヶ所はことでん沿いにあり、最後に奥まった大窪寺に行くということで、そろそろ終わりの形が見えてきた。

今回、このうちの第83番一宮寺を訪ねることにする。11月の連休だし、2泊3日あれば6ヶ所全て回ることができると思うが、ここは少しずつということで1ヶ所だけ日帰りで回ることにする。6つの寺を結ぶラインの中で、高松駅から唯一逆の方向にある一宮寺を押さえておけば日帰りでもちょうどいいかなと思う。

これまでもそうだったが、四国への行き帰りにさまざまなパターンを試してきた。その中でフェリーを使ったこともあったが(和歌山~徳島、柳井~三津浜、大阪南港~今治)、もう一つ、関西から四国へのメインルートの航路がある。それが神戸から小豆島を経由して高松に向かうジャンボフェリーである。これまで旅行で乗ったことはあるが、せっかくの八十八所めぐりのどこかで組み込んでみたいと思った。

ジャンボフェリーは夜行便もあるが、海の景色も楽しみたいので昼行便とする。行きと帰りのどちらに乗るかということだが、神戸からだと土曜休日ダイヤで8時、11時20分の出航、高松からだと6時、14時、16時30分となる。この中で、昼間の景色を見たいのと、四国滞在の時間が長くなるということで、神戸発8時の便に乗船して12時45分に高松東港に到着、帰りは夕方の高速バスで大阪に戻るというものである。

この帰りのバスだがフットバスを選択する。というのも、ジャンボフェリーとフットバスが同じ加藤汽船のグループ会社ということで、ジャンボフェリーとフットバスを片道ずつ利用できる「瀬戸内クルーズ&バスセット」というセット券があるため。これだと往復で4300円(フェリーの夜行便や土曜休日便を利用する場合は300円プラス)と、バスの片道運賃に数百円プラスしただけの価格で往復移動できる。これはフェリーの利用促進という意味合いがあるのかなと思う。

このセット券は窓口での購入となるが、バスの指定席はどうするのか。通常のネット予約ではなく、あらかじめ電話でセット券の利用であると告げて席だけ確保し、予約番号をもらうことになっている。

11月24日、3連休の真ん中、まずはフェリーターミナルに向かう。今回は阪神電車で神戸三宮に向かう。フェリーターミナルまでは有料の送迎バスも出ているが、特に大きな荷物を持っているわけでもなく、また時間にも余裕があるのでそのまま歩いて行く。東遊園地はバスツアーの集合場所になっているようで、ツアーの紙を持つ添乗員が何人も立っていて、中高年の方々が寒そうに立って集まっている。

神戸税関の横を通り、三宮から15分ほどでフェリーターミナルに到着。最近新しくなったそうだ。右手にはこれから乗船する「りつりん2号」が出航の準備中である。

乗船名簿に記入し、窓口で瀬戸内クルーズ利用であることを告げると紙の綴りが出て来て、フェリーの券片にスタンプが押される。バスの券片には電話予約したフットバスの予約番号、座席番号などを自分で記入し、帰りのバスの運転手に提示する。ちなみに、このセット券は別に日帰りで利用しなければならないわけではなく、有効期間は14日あるので使い方は結構自由である。

7時半頃に徒歩客の乗船案内があり、船内に入る。出迎えるのは小豆島出身の関取・琴勇輝。「神戸から小豆島へ」と書かれたジャンボフェリーの懸賞幕も見られる。

座席は椅子席とカーペットの桟敷席とに分かれており、桟敷席のほうに向かう。この日は乗客数にも余裕があったようで、全員が横になることができる感じである。また座席の至るところにコンセントがあるのもうれしい。スマホやタブレットを持つ人が多く、船内でのひまつぶしの手助けにもなっているようだ(椅子席は座席1席ずつにコンセントがある)。

一つ上の階はスカイラウンジ座席という、板張りの床にカーペットを敷いた一角もある。小ぶりなスペースのため、グループ客が陣取るのにはちょうどいい感じである。また他にも空いたスペースにはゴザが敷かれている。本当に客が多い時はここも「座席」ということになるようで、この日はそうした客はほとんどいなかったが、他の方の乗船記など拝見すると、盆や正月の多客期はゴザに腰かけるのもやっとということもあるようだ。

桟敷席を確保した後、出航の様子を見ようと最上階のデッキに上がる。これまでジャンボフェリーに乗った時はいずれも高松からだったので、こういう形で神戸港を離れるのを見るのは初めてだ。雲もほとんどない晴天で、神戸の街並み、六甲の山々もくっきりと見える。

さてこれから小豆島を経由して高松までは4時間45分、半日をこのフェリーの中で過ごすことに・・・。
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第17番「六波羅蜜寺」~西国三十三所めぐり2巡目・31(鎌倉時代の写実彫刻)

2018年11月24日 | 西国三十三所
清水寺から西に向かい、東山通を渡る。先ほどまでの観光色から一転して民家や小さな商店が並ぶ一角となる。観光客の姿もほとんどなく、日常の生活の様子を見て何だかほっとする。

六波羅蜜寺は平安時代、空也上人が十一面観音を祀る道場を開いたのが由来とされており、当初は西光寺と称した。市聖と呼ばれた空也は、当時疫病が蔓延していた都で観音像を車に乗せて歩き、念仏を唱え、人々に施しを行ったという。六波羅といえば平清盛をはじめとした平家一門の屋敷が設けられ、鎌倉幕府も六波羅探題を置いて都の治政や朝廷の監視を行うなど、歴史の教科書にも出てくる地名だが、今は町の中に溶け込んだ感じである。

先ほど清水寺を訪ねたからそう思うのかもしれないが、六波羅蜜寺のほうが落ち着いていられるように思った。もっとも、江戸時代までは六波羅蜜寺も大きな伽藍があったそうで、現在の規模になったのは明治の廃仏毀釈のせいだというから、複雑な気もする。

靴を脱いで板の間の外陣に上がる。本尊十一面観音は秘仏で12年に一度の辰年のみ開帳される。まずはここでお勤めとする。清水寺のようなガヤガヤした感じがない。

寺の見どころである宝物殿に入る。六波羅蜜寺といえば・・・ということで見ておきたいのが二体の木像である。もちろん撮影はできないので、門のところにあったパネル写真を載せる。

一番は空也上人の立像である。僧侶の立像といえば四国八十八所の各札所にある弘法大師像で、札所ごとにさまざまなスタイルがあるのだが、諸国を修行して回っている姿をかたどったものが多い。ただそれらと比べても空也上人立像はリアリティがあり、人々に訴えかける表情というのはさまざまな角度から見ても迫真のものがある。

そしてもう一つは平清盛像。この経典を持つスタイルも、微妙な指の動きや、経典を見る目線の描写もリアリティを感じさせる。

いずれの像も鎌倉時代の作で、空也上人立像は運慶の四男である康勝の作品(平清盛像は不明)だが、いずれにしても当時よりはるか昔の人物を像にするのである。今のように本人の写真や映像もなく、当時でも肖像画すらなかったであろう人物がモデルの中、その表情や仕草というのは作者のイメージの中で造り上げるしかない。空也上人像も、実際の空也上人とは顔かたちは全く異なるのかもしれないが、実際もこんな顔かたちだったのだろうなと思わせる。平清盛像にしてもそうだ。

宝物殿には他にも髪の毛を手にした「鬢掛(かつらかけ)地蔵」立像や薬師如来像、四天王像、運慶、湛慶像などもあり、歴史密度の濃い空間である。たまたま訪ねた時は私一人だったため、静寂の中でそれらの像と対面することができた。たびたび清水寺を引き合いに出して申し訳ないのだが、あの喧騒も京都らしいし、こうした静かなスポットも京都らしい。西国三十三所もさまざまなタイプの寺院があるということだ。

六波羅蜜寺は他にも弁財天(都七福神の一つ)、水かけ不動もあり、こちらも手軽にお参りできる雰囲気である。

朱印をいただく。前に来た時には、右上の「西国十七番」と中央の梵字、左下の六波羅蜜寺の印が一体となったスタンプを納経帳にバンと押すものだったが、先達用納経帳は「西国十七番」を押すのに所定の位置があるため、普通に別々に押される。

さて時刻はまだ昼前、他にもまだまだ行けるところはあるが、この日はとりあえず西国めぐりを進めることができたということでこのまま大阪に戻ることにする。五条大橋まで出て、鴨川沿いを歩く。

朝来た祇園四条に戻り、帰りは京阪特急のプレミアムカーに乗車する。西国めぐりの2巡目はこれであと3つ。これは年内で終わることになるか、それとも・・・。
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第16番「清水寺」~西国三十三所めぐり2巡目・30(平成の大修理)

2018年11月23日 | 西国三十三所
清水寺の仁王門をくぐる。京都を代表する観光スポットの玄関口ということで大勢の人が記念撮影をしている。混雑防止と安全確保のため、昼間の時間帯は石段での撮影を禁止するという看板もある。

この仁王門や西門、三重塔など、朱塗りの建物が目立つ。平成の大修理ということで順次解体修理が施され、古い寺院だが新しさを保っている。

そうした鮮やかさの中でどっしりと構えるのが本堂である。現在、平成の大修理の総仕上げとして、本堂の檜皮屋根の葺き替え工事が行われている。足場が組まれて本堂がシートで覆われている。本堂の中も暗く感じる。

ただ拝観そのものは可能で、靴を脱いで外陣に上がる。厨子の前に立つ十一面千手観音をはじめとして、その脇に控える二十八部衆の像も薄明りの中で見ることができる。ここでお勤めとする。大勢の人が行き交うが、外陣にまで上がる人は少ない。まあ、工事中で通行できるエリアも限られているから通り抜ける形になってしまうのだろう。

工事中と言うことで舞台のエリアも狭められているように感じる。

本堂を抜けたところに納経所があり、こちらで西国の朱印をいただく。休日ならば行列ができるところだが待ち時間もなくスムーズに運ぶ。

こちらも昨年修理を終えた奥の院に出る。こちら側から本堂を見ると足場やシートで囲まれた様子がよくわかる。本堂の屋根の葺き替え工事は2021年までかかるそうで、その頃には平成から別の年号に変わっているわけだが、50年に一度のこと、また新しい姿を見ることができるというのはいいことだろう。

清水寺の奥の院は「今年の漢字」を清水寺の貫主が筆で書いて披露する場で、今年の漢字の投票用紙も置かれていた。投票はしないが、「今年の漢字」は何になるのだろうか。過去には「金」のように複数回選ばれた漢字もあるのだが、私がもし投じるならやはり「災」かな。大阪北部地震、西日本豪雨、台風21号、北海道胆振地震、近鉄南大阪線鉄橋崩落・・さまざまな災害が発生した。後はモラルを表す「倫」はどうだろうか。スポーツ界でのパワハラ、暴力問題、山口メンバーもあったし、元アイドルの飲酒運転、貴乃花問題など、さまざまにモラルを問われる出来事もあったように思う。まあ、いずれにしてもあまりイメージのよくない視点ではあるが、果たしてどうなるだろうか。

境内を回り、音羽の滝で水をいただく。3本の滝が垂れていて大勢の人が並んでいる。順番に空いたところの滝に長柄杓を持って向かうわけだが、これは初めて知ったのだが、3本の滝にはそれぞれ違うご利益があるのだという。滝の外側から向かって左、本堂寄りの滝は学問上達、中央が恋愛成就、右が延命長寿だという。前に来た時も意識しなかったし、今回も意識せず、たまたま空いた一番奥(左)の水をいただいた。とすると、学問上達か。恋愛成就は縁遠い話、延命長寿も怪しいということで、学問上達は私としては現実的でぴったりだろう。そのうえで不動明王にも手を合わせる。

11月19日時点では清水寺の紅葉は見頃初めという感じで、やはり曇り空だったのは残念だったが、秋の風情に触れることができて来てよかった。

清水通を下る。先ほどよりも人の列が増えている。この後はこのまま西国第17番の六波羅蜜寺に向かう・・・。
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第16番「清水寺」~西国三十三所めぐり2巡目・30(ともかく京都に行こう)

2018年11月22日 | 西国三十三所
四国、西国、近畿不動と入り乱れているが、その中で西国三十三所の2巡目で言えば残りは5つである。

・第10番「三室戸寺」

・第11番「醍醐寺(上醍醐)」

・第16番「清水寺」

・第17番「六波羅蜜寺」

・第27番「圓教寺」

2巡目はサイコロによらず、その時行こうと思ったところや、他の札所めぐりとの組み合わせで訪ねる中で、上記の5つが残った。このうち醍醐寺は近畿三十六不動めぐりの札所なのでその時まで置くつもりで、比較的近い三室戸寺は醍醐寺とセットにしようと思う。また清水寺、六波羅蜜寺は、東山地区の近畿三十六不動の札所と組み合わせ、2巡目は最西端にある姫路の圓教寺で締めようという考えである。

で、近畿三十六不動めぐりだが、なかなか京都市内の札所が回ってこない。テレビのニュースや駅の花たよりでは連日京都の紅葉や秋の風情を目にするのだが。

そんな中、休日出勤の代休を平日月曜に取ることができた。この日だけはあいにくの空模様だがこれを利用して、不動と札所がかぶる醍醐寺は避けるとして、清水寺に行くことにした。清水寺は言わずと知れた京都を代表する観光名所、土日は大層混むだろう。そこを平日の午前中ならまだましかなと思う。

ということで、朝の通勤ラッシュの中を抜けて、月曜朝の8時半に京阪の祇園四条駅に降り立つ。清水寺へは清水五条が最寄りだが、特急が停まらないのと、せっかくなので観光名所の坂を歩きながらきを目指すことにする。早朝降っていた雨もちょうど止んだ頃である。さすがに観光客の姿も少ない。

四条通を東へ、まずは八坂神社を目指す。その途中に花見小路があるが、さすがにこの時間は店も開いておらず、そろそろ朝の掃除をしようかという時間。渋滞の抜け道のようにクルマも飛ばすし、ゴミ回収のクルマも稼働している。日常の景色なのだろう。

八坂神社にて手を合わせる。こちらも京都を代表するスポットの一つだと思うが、この時間は境内に人もそこまで多くない。西の楼門から入り南の楼門から出る。なお、駅から四条通を歩いて入る西の楼門が正門だと思っていたが、実はひっそりした感じの南の楼門が正門だそうだ。

南の楼門からまっすぐ南へ歩き、高台寺方面には向かわずそのまま行くと八坂の庚申堂に突き当たる。「くくり猿」という色とりどりの丸いお守りがお堂を覆うようにぶら下がっている。庚申信仰といえば赤い「さるぼぼ」のイメージがあるが、こちらは鮮やか。いかにもインスタ映えしそうなスポットで、門の前には「まず本堂にお参り、写真はその後で」という内容の立て札もある。

ここまで来ると八坂の塔で、これぞ京都というスポットである。さまざまにカメラを構える人が目立つ。

・・・と、ここまで歩いてきたが、仲間同士で話をしていたり、あるいは私とすれ違ったりした多くの人の会話は、ほぼ100%「日本語ではなかった」。外国人観光客が多いとして、歩いているのはほとんどアジア大陸からの方。日本人は何人いたかなあ。かくいう私も一時は某国の暗殺された要人そっくりと言われたこともあり、黙っていればそちら側に分類されているかもしれないが、それはどうでもいいとしても飛び交うのはアジア大陸の言語。これが現実とわかっていても、何だか複雑な気分である。

考えすぎなのだろうが、京都市街の札所が後回しになる傾向なのは、こういう気分が多少は影響しているのかなと思う。京都はもう日本人の行くところではなく、外国人、その中でアジア大陸の人が我が物顔に闊歩するところ。とは言うものの、来ている人たちが風情を楽しみ、笑顔で写真を撮っていることにケチをつけるのも失礼だ。ましてや月曜朝の9時、普通なら週の中で慌ただしい時間帯である。

最後に清水坂に出ると、先ほどまでの外国人に加えて、修学旅行生、さらには日本各地からの妙齢のご婦人方のご一行様たちがあふれる。これで却ってホッとした。そう、日本にはバイタリティ溢れるオバハン!・・・もとい、妙齢のご婦人方がいらっしゃるでごわす。

・・・こうしてようやく清水寺の山門に到着した。この後は西国の札所であり、さまざまなご利益が古代の説話で取り上げられたスポットということで・・・。
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第30番「明王寺」~近畿三十六不動めぐり・26(滝谷不動で護摩供と身代わりどじょう)

2018年11月21日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりの26番目は明王寺。ただこの名前だけではどこにあるかピンと来ないのだが、富田林市の滝谷不動明王寺、滝谷不動尊といえば、私の自宅からも近いところなのであそこかとなる。最寄り駅は近鉄長野線の滝谷不動駅。通勤の大阪阿部野橋駅にも看板が出ている。

17日、朝イチと夕方に用事があり、その合間の時間を利用する形で出かける。1日コースなら、浄土真宗の寺内町が残り、最近では警察署の留置場から容疑者が逃走する事件で全国に名前が広まった富田林のかいわいとの組み合わせとなるだろう。また、観戦したことはないが山奥には富田林バファローズスタジアム(年に一度、ウエスタンリーグの試合が行われる)もある。

藤井寺から長野線直通の列車で滝谷不動に到着。括弧書きで「大阪大谷大学前」の愛称がある。京都の大谷大学とは別法人だそうだが、同じ浄土真宗大谷派の系列である。男女共学だが元々女子大学のためか、列車からは女子学生の下車が多い。その中で、駅員に「大谷大学はどっちですか?」と尋ねる若いお兄さんの姿もある。どうやらこの日と翌日は学園祭が行われていて、それで学外から来る人も多いようだ。ならば不動めぐりの後で・・・と言って、OBでもないおっさんが乗り込んだら・・確実に怪しまれるな。

本題に戻って、滝谷不動へは大阪大谷大学とは反対方向の山側に向けて歩く。石川を渡って県道の上り坂を歩くが、河南町や千早赤阪村方面に通じる道のためか、クルマの交通が多い。いっぽうで道端の歩道はほとんどないために歩きにくい。

滝谷不動まで4丁を示す標石を見て、不動尊の手前には数軒の旅館、ホテルがある。お参りする人の利用もあるのだろうか。

駅から15分ほどで山門に到着した。滝谷不動は「日本三大不動の一つ」とされている。出た、「日本三大◯◯」。日本三大不動も諸説あり、不動ではなく動きまくっているようだが、全国的に有名なのは成田山新勝寺(成田不動尊)、滝泉寺(目黒不動尊)の2つに、後は各地で3つ目を名乗っているとか、「青不動」「赤不動」「黄不動」という括りで青蓮院や三井寺を挙げる向きもある。他にも日本三大不動に名乗りを挙げる寺院はたくさんあるようで、要は評価が定まっていないということである。

まずは本堂に向かう。こちらでは1日5回、本堂の中での護摩供を行っていて、祈祷を申し込んでいなくても外陣で手を合わせることができるという。次の護摩供は11時半で、30分あまり時間があるのでその間に境内を回ることにする。まず私個人で本堂の外でお勤めを行い、バインダー式の朱印をいただく。

本堂の隣の法楽殿ではクルマの安全祈祷が行われていて、般若心経ほかを唱えながらの太鼓の音色が滝谷不動の山中に響く。この力強い太鼓は真言宗ならではである。

観音堂から多宝塔に続く参道がある。木々も少しずつ色づいている。途中の祠にも手を合わせて、本堂の背後にある多宝塔に出る。

滝谷不動は821年、弘法大師がこの地を訪ねた時に世の安泰を願って不動明王の像を彫って祀ったのが由来とされている。当初は少し東にある嶽山の中腹に建てられ、この一帯を本拠地とする楠木正成も砦を築いて不動明王を守護神としたこともあったが、その後の南北朝の争いの中で焼失した。この時本尊の不動明王は滝の下に移されていて難を逃れ、後に盲目の法師が不動明王の霊験を説いてお堂を建てて祈ったところ、眼が見えるようになったという。このことから眼病治癒のご利益もあるとされている。現在の形になったのは江戸時代からだという。ただ、境内の建物は近年再建、あるいは新たに設けられたものも多い。

県道を挟んだエリアに向かう。木陰に覆われたところで、まずは一願不動に出会う。これはあちらこちらにある水掛け不動である。

塀の奥にもう一つ不動明王が祀られている。この奥、扉と壁で仕切られている向こうで滝の音がする。この滝が滝谷不動の代名詞なのだろうが、やろうと思えば滝行もできるようだ。訪ねた時、たまたま塀の向こうではブラシで石をこする音もしていた。行場の清掃作業だろう。

またこちらには放生会として「身代わりどじょう」というのがある。どじょうを川に放流してやると眼病が良くなるとの言い伝えで、白く塗られた空き缶の中にどじょうが大人しく寝そべっている。100円納めて川縁の樋から落とすと川底に落ちるのが見える。昔からの信仰なのだろうが、どじょうというのはなぜだろう。この辺りでよく捕れていたのかな。

再び山門に戻るとちょうど護摩供の時間である(本堂内は撮影禁止のために画像なし)。本堂の外陣に上がると、祈祷を申し込んでいた10人あまりの人たちが内陣の横に座っている。晴れ着姿の子どもがいるのは七五三のお参りである。一方、祈祷を申し込まないいわば「フリの客」は仕切りの外の外陣に座る。僧侶が二人来て、一人は祈願文の読み上げや読経担当、そして格上と見える僧侶は護摩を焚く。最初に不動明王の真言を祈願の人たちと唱え、九条錫杖、さらには太鼓を叩きながらの般若心経、各種真言と続く。職場の安全祈願で寝屋川の成田山大阪別院明王院(近畿三十六不動の一つでもある)にて護摩供を行うので一応作法にもなじみがあるのだが、いつ見ても法要が終わるタイミングで炎がきれいに消えるのが不思議に感じられる。先ほどお勤めしたばかりだが、改めて本尊不動明王に手を合わせる。

この後は再び県道を挟んだエリアに向かい、最近設けられた西国三十三所のお砂踏み道場や、その上にある三宝荒神堂を回る。滝谷不動も時代ごとに拡張を続けており、新たな建物も目立つ。さらに現在は平成33年の開創1200年記念事業として、客殿、寺務棟の新築工事が行われていている。日本三大不動の呼び声に応えるかのようである。

これで一通り回った形になり、次の行き先を決めるサイコロだ。

1.左京(曼殊院)

2.生駒(宝山寺)

3.湖西(葛川明王院)

4.醍醐(醍醐寺)

5.神戸北(無動寺)

6.東山(青蓮院、聖護院、智積院)

この中で出たのは「5」、神戸である。以前に同じ神戸市内の大龍寺とセットにしていたが途中で分離したところだ。神戸電鉄の箕谷駅からバスで行くようで、終わったら新開地か三宮で一献かな。

同じ道を滝谷不動駅まで戻り、かつてのラビットカー塗装の車両に乗る。ちょうど昼時で、大阪大谷大学に向かう人の数も一層増えているようだった・・・。
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第21番「中山寺」~近畿三十六不動めぐり・25(清荒神清澄寺)

2018年11月18日 | 近畿三十六不動
中山寺の奥の院を訪ねた後は、清荒神に下りることにする。阪急沿線のハイキングコースにもなっているところだ。しばらくは幅の広い砂利道を歩く。奥の院の本堂は最近建て替えられたが、その時の工事用の道路なのだろう。

ハイキングコースとは言っても別にマップを持っているわけでもなく、コースとしては途中で「やすらぎ広場」というのを通るそうだが、途中で清荒神への矢印があったのでそちらの山道に向かう。単純に比べられないが、車道と遍路道があれば遍路道を選ぶという条件反射のようなものだ。

この道を歩く人がどのくらいあるかわからないが、細いながらも道は維持されている。下りということで慎重に歩く。

途中、住宅地のすぐ上を通ったり、切り開く形で歩道を整備したところもある。木々の間から大阪平野の方向をチラリと見ることもできる。

奥の院から40分ほど歩いて下りてきたのは清荒神の駐車場。ここから出店が並ぶ参道を歩いて到着する。ここには以前に阪急宝塚沿線の七福神めぐりで一度来たことがある。その受け持ちは中山寺が寿老人で、清荒神は布袋さんである。

改めて清荒神に触れると、平安前期に宇多天皇の勅願により静観僧正により開かれた寺院である。現在は真言三宝宗の大本山として、神仏習合を守っている。本尊は三宝荒神に大日如来ということだが、それが同一視されているということである。現在の荒神信仰は火と竈の神ということで、台所にお札を祀ることが行われる。

参詣も順路が決まっており、山門をくぐり、参道を左に曲がってまずは三宝荒神が祀られる天堂(拝殿)にお参りする。ここは神社方式で柏手を打って手を合わせる。その後は神社エリアの諸堂をめぐる。役行者を祀る岩屋もある。

そして奥にある寺院エリア。こちらの本堂には大日如来を中心に、弘法大師、不動明王が祀られている。せっかくなのでこちらでも般若心経のお勤めをモゴモゴとやる。

境内の奥には鉄斎美術館があが、ここはいいかなと素通りして、その奥にある龍王滝に出る。その手前の岩には小さいながらも不動明王の石像がある。ここで滝行をすることもあったのだろうか。こうして見ると、先ほど訪ねた中山寺よりも清荒神のほうが近畿三十六不動の札所らしい雰囲気があるのではないかと感じる。

こちらでは朱印はいただかず(札所めぐり、あるいはそれに準ずるところでなければ朱印はいただかないようにしている)、そろそろ帰ることにする。駅までは1キロほどで、道沿いには土産物店や飲食店も並ぶ。商店街にある店の数は200軒ほど。昼の時間もとっくに過ぎているが食事はまだなので、この中のどこかに入ればよいのだが、今一つ食指を動かすようなところが見つからなかった。

結局は駅まで戻り、そのまま宝塚線に乗って梅田まで出る。やはり札所めぐりの後の一杯ができるのは都心ならではである。行楽に適した11月、またあちこち訪ねてみたいものである・・・。
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第21番「中山寺」~近畿三十六不動めぐり・25(中山寺奥の院)

2018年11月17日 | 近畿三十六不動
中山寺の奥の院に向かう。境内から18丁、およそ2キロの上りで、道も山道である。そのため、ちょっとしたハイキングにもなる。前の記事で、中山寺が特に七五三の時季ということもあってフォーマルな姿の親子連れがほとんどの中でハイキング姿の人が交じっていると書いたが、これは奥の院を目指す人たちなのだろう。

七五三の祈祷の受付のために長蛇の列ができている信徒会館の横に奥の院の上り口がある。墓地を抜けて、まずは1丁の標石と地蔵が並ぶ。急に渓谷のムードになった。

2丁からは階段が続く。住宅地の裏を抜ける形になる。その中で家の跡に遭遇する。門と石垣だけが残っているが、その奥には木も生えている。長い間放置されている様子だ。

気軽なハイキングコースということか、年配の人や子ども連れも結構いる。上から下りてくる人とすれ違ったり、上りの人を追い越しながら進む。そのたびに「こんにちは」の挨拶が出るから、奥の院は山登りに相当する形だ。途中には木々の間を抜けたり、自然の石がハードに積まれたところもある。杖がいるほどでもないが、どこに足を置こうか一瞬迷うこともある。

半分の9丁を過ぎると脇道に展望所があるようだがそのまま進む。そこに現れたのは夫婦岩。大小二つの岩が並んでいるが、その周りには小石が積まれている。聞くところでは、元々こういう姿だったのではなく、今から8年ほど前、夫婦岩が倒壊する恐れがあるため、登山者が麓から小石を持ってきて夫婦岩の根元に積み上げる運動が行われたという。その後木枠も設けられ、独特の形になったそうだ。

山頂に分かれるポイントがある。登山者なら山頂に向かうのだろうが、私の目的地はあくまで奥の院ということでそちらに向かう。最後に少し急な上りとなり、小さな滝がある。

下の境内から40分ほどで奥の院に到着した。境内のベンチではハイキング姿の人たちが弁当を広げている。奥の院の本堂は最近建て替えられたそうで明るい朱色だ。ここには本尊として厄神明王が祀られている。中山寺は聖徳太子が開創したとされるが、その時は現在の奥の院の場所に開かれたそうだ。

奥の院にはお願い石というのがある。本堂の脇に小石が入った器が置かれており、その中の一つを手にする。これを横の大悲水で清めた後、納経所に持ち込む。石に梵字を書いてもらい、お守りとして袋に入れる。そして改めて本堂にお参りして願いを込める。願いが叶ったらもう一度奥の院に来てお願い石を納めるのだという。

さて、ここで次の行き先を決めるくじ引きとサイコロにする。

1.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

2.醍醐(醍醐寺)

3.湖西(葛川明王院)

4.富田林(明王寺)

5.生駒(宝山寺)

6.左京(曼殊院)

ここで出たのは「4」。明王寺と書くとなじみがないが、つまりは瀧谷不動である。

気軽なハイキングコースだからか、奥の院にはリピーターが多いそうである。寺のほうもスタンプ帳のようなものを作り、回数に応じて表彰し、境内の名簿に名前が掲載される。中には3000回超えという方も多数いる。毎日欠かさず上ったとして9年かかる計算で大変なことで、私には見当がつかない。

さて下りだが、来た道を折り返して中山寺に戻ってもよいのだが、違うところに抜けるのもよさそうだ。ハイキングとしては清荒神に出るルートがある。阪急宝塚線沿線のもう一つの有名寺院に行くのも面白いだろう・・・。
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第21番「中山寺」~近畿三十六不動めぐり・25(西国三十三所めぐり3巡目・1も兼ねて?)

2018年11月14日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動で次に訪ねるのは中山寺である。中山寺といえば西国三十三所めぐりの第24番札所としてこれまで2巡目も参詣している。西国三十三所と近畿三十六不動を兼ねているのは他に醍醐寺があるが、こちらはまだ西国2巡目にも訪ねていない。

今回中山寺を訪ねるに当たって、西国の「3巡目」もフライングして済ませるかどうしようか迷ったが、今回一緒に訪問してしまうことにする。こうしたことはこれからも出てくるかもしれない。

11月4日、穏やかな気候の中、阪急宝塚線の中山観音駅で下車する。電車からはきれいに着飾った子ども、そしてその手を引くスーツや着物姿の親も結構下車する。11月の寺社をいえば七五三のお参りである。その中でも中山寺は安産、子授けの御利益があるとして関西の中でも有名なところである。

駅からすぐの山門に着くと、山門で記念撮影をしようという家族連れであふれている。これまで中山寺を訪ねた中ではもっとも多い印象である。その合間にちらほらと札所めぐりの人やハイキング姿の人が交じる程度だ。ハイキングの人というのが今回のポイントで、今回私が中山寺にプラスアルファするところである。

境内の参道を行く。七五三詣での横断幕も出ている。今回近畿三十六不動めぐりとして来ているが、やはり十一面観音を本尊とする本堂もきちんとお参りする。西国先達の輪袈裟を取り出してのお勤めだ。そうする間にも子ども連れに囲まれる感じである。

本堂の横に護摩堂があり、不動明王をはじめとする五大明王像が祀られている。近畿三十六不動のお参りのポイントはこちらで、本堂左手の多宝塔と同様に、七五三詣での記念撮影用の日付プレートが出ている。もっともこちらの場合は、護摩堂だけでなく後方に立つ最近再建された五重塔をバックにした絵柄になりそうだ。その前の祈祷殿にも家族連れであふれている。中山寺に参るといつも感じるアウェイ感である。そんな中で、護摩堂の斜め前に立って(記念撮影のじゃまにならないように)不動尊めぐりのお勤めを行う。

近畿三十六不動の第21番札所であるが、前の20番は東山の智積院、次の22番は竹田の不動院といずれも京都の寺院である。私はくじ引きとサイコロで出た目に従って回るのでそれほど意識しないのだが、京都から兵庫に飛んでまた京都に戻るのも、札所番号順に巡る人にとっては不自然だろう。これは大原の三千院の時にも触れたが、1979年に選定、結成された近畿三十六不動めぐりも、2009年に二つの札所寺院が変更された。その一つが岩倉の実相院から大原の三千院、そしてもう一つが東福寺の塔頭寺院である同聚院から中山寺である。どういう経緯で中山寺になったのかはわからないが、過去に近畿三十六不動めぐりをした人のブログなどを見るとあまり好意的に受け取っていない向きもあるようだ(もっともこの方は護摩堂ではなく、山門横の塔頭寺院で不動明王を祀る総持院を訪ねたようだが)。

納経所に向かう。こちらで近畿三十六不動と西国三十三所の両方の朱印をいただく。まず西国先達の巻物型の納経帳を出す。フライングでの「3巡目」ということで、納経帳には重ね印が入る。そして2巡目の時にはまだ期間前だった西国開創1300年の記念印も今回押してもらう。合わせて、「3巡目」で集めようと思っていた「西国観音曼荼羅」の八角形の朱印用紙を差し出すと、それと引き換えに「こちらなら乾いていますので」と書き置きのものが出てきた。それについては是非があるかもしれないが、別にいいかとそのまま受け取る。おそらくこれを求める参詣者が増えているので、時間短縮もあるのだろう。この「西国観音曼荼羅」、用紙と貼付台紙を受け取った総持寺のものと合わせてこれで2枚目。西国の2巡目はまだ5ヶ所残っており、こちらもお参りして早く「3巡目」に入りたいものである。

そして近畿三十六不動のバインダー式の朱印を求めると、専用の台紙にこちらはその場で筆を執って墨書してくれる。近畿三十六不動の朱印はこれまで書き置きのものが多かっただけに意外だった。あまりメジャーでないからかもしれない。

この後は閻魔堂や五百羅漢堂、さらに本堂の上にある大師堂、五重塔に向かう。大師堂には西国三十三所のお砂踏みがあり、各札所の本尊やご利益を描いた掛軸がかかる。

さてこれで中山寺を終えて、普通なら近畿三十六不動の次の札所を決めるくじ引きとサイコロなのだが、実はこの日はここで忘れてしまった・・・いや、後回しにした。これから、今まで訪ねたことがなかった奥の院に向かう。そこまでを1セットとする。

境内から奥の院までは18丁、2キロほどの道のりである。七五三詣でとはまた違った様子の中山寺を見ることになるかな・・・。
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東京にて1泊

2018年11月13日 | 旅行記C・関東甲信越
偕楽園を散策した後、少し歩いたところにある茨城県立歴史館に向かう。以前に一度訪ねたことがあり、茨城の歴史文化についてさまざまに紹介していた印象がある。しかし残念ながら、空調設備工事のために11月末まで常設展示室がお休みとあった。それは仕方ない。

代わりに、同じ敷地にある旧水海道小学校本館に向かう。現在は合併して常総市だが、かつての水海道市にあった小学校の校舎を移設したものである。1881年に、水海道の豪商たちの寄付で建てられ、近隣の村からも子どもを親類に預けてまで通わせたという。

1階が展示室になっていて、茨城県出身で学術文化に貢献した人たちの紹介や、教室を再現して昔の教科書や給食の変遷を展示している。今は「食育」というのが重視されているのか、メインもご飯になっているし、郷土の食材を使ったメニューも増えているとある。牛乳パックに地元サッカーチームの水戸ホーリーホックのロゴがデザインされているのもその一つかな。

敷地のイチョウ並木も見て、バスで水戸駅に戻る。

これから東京に戻るが、駅コンコースは水戸黄門漫遊マラソンを終えた人たちでごった返している。午前に水戸に着いた時、帰りの時間がはっきりしていなかったし、そもそも特急に乗るかも決めていなかったので(各駅停車~快速も考えていた)、特急の「座席未指定券」も買っていなかった。ただ、夕方近くなったので特急に乗ろうというものである。駅の窓口に長蛇の列ができている中で、特急券の自動券売機の列は空いていたのでそちらに並び、直近の特急は全座席が指定済みだったのでその次の列車の座席を指定して購入する。

列車までの間にコンコースを回ると、水戸納豆の土産のワゴンがあったので購入する。納豆だけでさまざまな種類があるし、包装も工夫されている。値段は普段のスーパーやコンビニで買う3パックいくらというより張るが、そこは名物ということで、大阪に戻ってから美味しくいただいた。また書店には発酵や醸造の学者で文筆家の小泉武夫さんの『納豆の快楽』(文庫版)が平積みされていて、こちらも購入する。

水戸15時53分発、品川行きの特急「ときわ80号」に乗る。座席は通路側を確保できたが、水戸発車時にはデッキに立つ客も多かった。車内はマラソン帰りが多く、逆にいえば東京から(あるいは、それより遠くから)わざわざ水戸まで走りに行ったということである。現在各地のマラソンのエントリーも抽選で、出場機会を求めて遠方のマラソンにエントリーする人も多いそうだ。行くだけで体力を消耗するのではないかとも思うが、好きなことのためには長い移動も厭わないのが立派だと思うし、わかるところもある。近くの席では、たまたま並んで座った人同士がそうしたマラソン談義で盛り上がっていた。

「ときわ」は水戸から上野までの途中駅にも停まり、柏である程度の下車があった。座席上のランプが緑から赤に変わり、それを見て座りに来る客も多い。

上野に到着。この日の宿は御徒町駅近くに取っているので下車する。

ホテルのチェックインを済ませてやって来たのは「加賀屋」。お目当てはホッピー(キンミヤ割り)とやきとんだ。

こういうのは凝りだしたらどんどん深みにはまって出てこれないのだろうが、東京勤務先時から加賀屋グループなら気軽に入れて明朗会計だし、出てくるものも安心だという感じで、今でも東京に来るとどこかの店に入ることが多い。

定番のやきとんの他にうなったのが、この日のおすすめにあったホヤの刺身。私は初体験だが、西日本ではまず食べられない食材で、その味も好みが両極端に分かれるのだが、これは行っとかないと。ホヤを一切れ口にした後に水(ホッピーでもいいが)を飲むと口の中には独特の甘味が広がる。ホヤに含まれているある成分の化学反応だというが、これがよい。

あれこれ楽しんでホテルに戻る。この日は日本シリーズの第2戦の中継があった。第1戦の延長引き分けを受けたが第2戦はカープがホークスに圧勝。さすがにこのままカープが勝ってしまうのかなと、パ・リーグファンとしては残念に思いながらベッドに潜り込んだ。ただその後ホークスは見事4連勝、またもパ・リーグのチームの日本シリーズ制覇となって・・・。
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偕楽園と水戸黄門漫遊マラソン

2018年11月12日 | 旅行記C・関東甲信越
水戸でアンコウと納豆を味わった後、腹ごなしも兼ねて偕楽園に向かうことにする。駅前のバス案内所で「水戸漫遊1日フリーきっぷ」を購入する。茨城交通、関東鉄道バスの市内中心部エリアが1日乗り放題で400円なのだが、水戸駅から偕楽園まで240円なので往復だけでも元が取れるし、観光施設の割引も受けられる。観光客にはありがたいが、地元の人たちに向けたバスの利用促進というところもあるのだろう。

やって来た関東鉄道バスに乗り、市街地を15分ほど揺られて偕楽園に到着。着いたのは偕楽園の東口側で、ちょうど常磐線の偕楽園駅があるところだ。ここは春の梅の時季のみ、しかも水戸方面の列車だけが停車する臨時駅だ。

まず、石段を上ったところにある常盤神社に向かう。こちらは徳川光圀、徳川斉昭を祀る神社である。水戸藩の中でも名君とされており、光圀には義公、斉昭には烈公という謚名がある。

2人を顕彰する義烈館という資料館があるので行ってみる。フリーきっぷの特典で50円引きとなる。玄関では光圀の木像が出迎える。どうしても水戸黄門のイメージが先行して、「義公」という呼び名には神格化されたものを感じる。

光圀の功績で大きいのは「大日本史」の編纂である。実際に完成したのは250年後、明治になった後のことであるが、「水戸学」として尊王論を掲げ、後の斉昭、そして幕末の思想にも大きな影響を与えた。さらには天皇陛下万歳・・・にもつながったという評価もある。

また時代劇の水戸黄門は諸国を漫遊して印籠を見せては世の悪を懲らしめているが、実際の光圀は遠出といっても江戸と水戸を往復するくらいのもので、後は領内を巡検した程度だという。そのこと自体は広く知られているのだが、ではなぜ水戸黄門が今に続くような時代劇となり、この日のマラソン大会の冠にもなっているのだろうか。さすがにそうした疑問に答える展示はないのだが、上に書いた水戸学、水戸史観の影響というのは何がしかあるのかもしれない。となると、最近水戸黄門の時代劇がテレビで流れなくなったのは、世の中がそうした歴史観を受け入れなくなったとも言えるのではないかな(今の役者の質とか、もっと単純な理由だと思うが、それは別のこととして)。

常盤神社から偕楽園に入る前に、千秋湖に向かう。先ほどバスで着いた時に湖畔を走るランナーたちの姿が見えたので、マラソンの様子を見に行くことにする。湖は白鳥や鴨も集まる穏やかなスポットだが、この日はマラソンランナーたちを励ますスポットになっていた。フルマラソンのコースとしては35キロほどのところで、ゴールに向けてしんどい距離である。9時スタートから4時間が過ぎるところで選手たちも疲れているだろうが、私には絶対できないことで、ここまで走って来るということ自体リスペクトである。「がんばれー」「あともう少しですよー」という声援が飛ぶ。湖畔に立つ光圀像、そして少し奥まったところの斉昭・慶喜像も選手たちを励ましているようである。その一方で、絶対おるやろうなという水戸黄門のあの衣装のコスプレで走っている人もいるのだが。

改めて偕楽園に入る。梅の名所として知られるが訪ねたのは10月末で、紅葉も何もない時季である。梅林のイメージは案内のパネル写真に止める。と言いながらも梅の花が一輪、二輪と咲いている木もある。

そして偕楽園のシンボルとも言える好文亭を見学する。烈公徳川斉昭が設計した建物で、各部屋の襖絵にも意匠をこらしている。梅を愛でるために造ったとされ、「好文亭」という名前も晋の武帝の「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」という故事によるものだという。そういえば、私の大学時代の中国文学のテキストに「好文出版」というところが出しているものがあったが、その名もここから来ているのだろう。

好文亭の後は表門に向けて歩く。途中で竹や杉の林の景色を抜けて、黒門とも呼ばれる表門に出る。今回、東門から表門に抜けたのだが、偕楽園としてはこの表門から入場してほしいとのことだった。それは偕楽園を設計した徳川斉昭の考えで、「陰から陽へ」の世界観を味わうというものである。確かに最初に表門から竹林を抜けたとすれば、そのまま好文亭に入って、眼下に広がる梅林や千秋湖を見たほうが感動も深まるというものだろう。

偕楽園にも以前来たことがあるが、改めてその背景を知るというのも面白い。水戸随一の観光スポットも押さえたということで、そろそろ駅に戻ることにする・・・。
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水戸の二大名物・アンコウ鍋と納豆

2018年11月10日 | 旅行記C・関東甲信越
水戸駅に到着。コンコースには大勢の人たちが行き交っていて、結構活気があるなと思う。

この日(10月28日)はさまざまなイベントが行われており、南口ではハロウィンパーティー。といっても「変態仮装行列」というよりはステージでのライブやトークショーがメインのようだ。そして北口でも地酒まつりのようなものが開かれていた。

水戸といえばこの方々。最近テレビに登場することはほとんどなくなったが、誰もが知っている

そしてこの日は、その水戸黄門が冠となる「水戸黄門漫遊マラソン」が行われているという。朝9時に水戸駅前をスタートして、偕楽園や千波湖、その他市内を「漫遊」して、茨城県三の丸庁舎でゴールするというものだ。今が11時すぎだからトップのランナーはそろそろゴールが見えてくる頃だろう。

さて、水戸まで来て早速食事である。水戸で昼飲み・・・ということでやって来たのは「てんまさ」という店。実は東京勤務時代に何回か来たことがある郷土料理店だ。もう10年以上ぶりになる。

この店は茨城名物の二枚看板である納豆とアンコウ料理がメインで、他の魚介類も充実している。それぞれのセットメニューもあり、来るたびにどちらにしようか迷っていたのを思い出す。今回は旬には早いがアンコウのコースをいただくことにする。

まずはアンコウのサラダとアン肝。

そしてアンキモ豆腐、唐揚げ、供酢。ここまで、セットメニューということで出てくるのも速い。アン肝や唐揚げは居酒屋メニューとして大阪でもいただくことはあるが、湯引きした身や皮の煮凝りを酢味噌でいただく供酢は、地元ならではの珍味だろう。

そしてメインのアンコウ鍋。店の人が鍋をセットして、様子を見てくれる。

その間に他のメニューも。納豆料理もいろいろあるが、その中で選んだのはしその葉と合わせた天ぷら。そしてカツオの刺身。いずれも美味かった。

鍋もそろそろ煮立ってきたところでいただく。どぶ汁に少しバターを効かせているそうで出汁はやや甘いめ。アンコウの身の部分がもう少しあればと思うが、しっかりといただく。

最後は雑炊で締める。久しぶりに値の張る昼食となったがここまで来てよかったと思う。

さてこの後、じゃあと言って東京に戻るのももったいない。せっかくなので日本三名園の一つである偕楽園に向かうことにする・・・。
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特急「ひたち」・・・座席未指定券とは

2018年11月08日 | 旅行記C・関東甲信越
10月下旬に東京に行く用事ができた。月曜日の朝から予定ということで、前日のうちに東京入りすることにしたが、前日は日曜日である。これはいい機会かなと思い、日曜日朝の新幹線で向かうことにした。

実質午前の9時半頃に東京入りすることにしたが、時間をどのように費やすか。東京都内にいるものいいが、何だかもう少し足を延ばしてみたいと思う。例えば、大阪からだとなかなか行くことのない北関東などいいかなと思う。頭にイメージするのは群馬の高崎、栃木の宇都宮、そして茨城の水戸という各県の代表的な街である。乗り鉄の要素は少し薄いように思うが。

その中で、別にサイコロで決めたわけではないが水戸を訪ねることにした。理由は・・・その北関東3県の中でももっとも訪ねる機会が少ないだろういうことと、アンコウと納豆をいただこうというものである。東京勤務時代に住んでいた常磐線の向こうということもある。

10月28日、新大阪を出発。日曜朝ののぞみ号だが指定席はほぼ満席である。晴天の中を走り、米原の向こうの伊吹山、また頂上に雪をかぶった富士山もきれいに見える。そんな景色を見ながら気持ちは年末旅はどこに行こうかと考えもする。やはり志向としては日本海、北陸方面にあるのだが、信州や東海といったところも捨てがたい。

品川で下車する。ここで品川9時45分発の特急「ひたち7号」いわき行きに乗り継ぐ。水戸は遠いといっても特急なら11時すぎには着く。E657系という車両で、目にするのは初めてだ。のぞみよりもゆったりしたシートで、通路側の席にもコンセントがついている。品川から水戸、いわきに向かう特急が出るのも、常磐線から東海道線に直通する「上野東京ライン」ならではであり、東海道新幹線との直接の乗り換えができるのは大阪からも近くなったような感じである。

今回、事前に指定の特急券を購入していたのだが、こちらに来て初めて知ったのだが、指定席の新しい仕組みが取り入れられていた。2018年3月のダイヤ改正からのもので、常磐線の「ひたち」「ときわ」 の他に、成田エクスプレスで導入されているという(2019年春からは中央線の「あずさ」にも導入だとか)。それは「自由席を廃止して、『座席未指定券』を導入する」というものだ。

「座席未指定券」とは中途半端に聞こえるが、日付と区間のみあらかじめ指定しておくもので、列車はどれに乗ってもよい。座席は乗る列車が決まった時点で指定を受けてもよいし、指定を受けずに乗り込んでも空いている席ならどこに座ってもよい(ただ満員なら空きが出るまで立ったままである)。もちろん従来通りの指定席券を事前に購入すれば座れるのは確実だが、自由席と違って「座席未指定券」は指定席券との間の料金差はない。もっとも、何も持たずに特急に乗った場合は、割増料金を取るという。

こう書いていてわかったようなわからないような、便利なのか不便なのかよくわからない制度だが、「座席未指定券」の客が乗って来てどの席が空いているのかはどう判断するのか。座席の上にランプがあり、緑ならすでに座席指定済み、黄色ならこの先の駅で座席指定済みの客が乗って来る、赤が空席である。私が品川で乗った時、私の座席は緑のランプがついていたが、赤のランプがほとんどである。「座席未指定券」の客は赤のランプを見て座る仕組みだ。

品川を出発すると左手には工事中の品川新駅が見える。品川の車両基地を縮小して、その跡地に駅を建設、山手線と京浜東北線の線路を移設するものだ。現在の線路が通る場所は新駅の駅前開発に充てるという。また品川はリニア中央新幹線の始発駅にも予定されており、この近辺も大きく様相が変わりそうだ。

東京に停車して、ここからは上野東京ラインの高架を走り、上野に到着する。常磐線の始発駅はやはり上野という意識が強いのか、ここからの乗客が結構多い。私の周りの赤ランプの席も半分以上埋まる。次は水戸までノンストップである。

東京勤務時代は常磐線沿線だったので見覚えのある景色が流れていく。荒川から江戸川、そして利根川と長い河川を渡って行くのも久しぶりである。ただ、当時利用していたのは各駅停車で、水戸方面に遠出する時も快速(途中から各駅に停車)に乗ることがほとんどだったから、特急だと車窓が速く通り過ぎていくように感じる。

筑波の平野部も抜け、偕楽園の横を過ぎる。11時03分、水戸に到着。久しぶりの茨城県上陸だが、ここから先に行くとキリがなくなるので水戸で折り返しとして、夕方まで過ごすことにする・・・。
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