まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第2番「霊山寺」~西国四十九薬師めぐり・11(1300年の歴史のありがたい話)

2019年12月16日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐりの11番目は第2番の霊山寺(りょうせんじ)。番号順で行けば薬師寺の次に訪ねるべきところであるが、そこはサイコロの出目ということで、12月8日に出かけた。

最寄り駅は近鉄奈良線の富雄。霊山寺はこれまでくじ引きの表記では「生駒」としていたが、富雄駅も霊山寺も奈良市に属していることがわかった。過去の記事を取り消すほどのことではないので記事はそのままにするが、ここで訂正しておく。

藤井寺から富雄に行くならルートは3種ある。鶴橋から生駒山に向かうか、橿原線~大和西大寺と回るか、果ては王寺から生駒線で北上するか(森ノ宮から中央線~けいはんな線で生駒というのは除く)。後で思えば、薬師寺がある西ノ京から大和西大寺回りが薬師めぐりの順番としてよかったかなとも思うが、結局は最速の鶴橋経由となった。もとより、サイコロ振っている時点で札所順など関係ない。

生駒山に向かうにつれて大阪平野を一望できる車窓は見ものである。それにしても、奈良に向かうためか車内には外国人の姿が目立つ。私のいた車両も、見渡せば半分以上が外国人客のようだった。

生駒で後続の各駅停車に乗り換え、富雄に到着。島式ホームの高架駅だが、下車するのは初めてである。霊山寺へは若草台行きのバスに乗るのだが、これが1時間に1本の運転である。次の発車は10時45分発、ルート決めは便数の少ないバスの時刻に合わせたこともある。

バスを待つ間に、このような看板を見つける。野球酒場、「B-CRAZY」という店。店内は野球グッズ、それもパ・リーグの、しかも藤井寺近鉄バファローズの・・がずらり並ぶそうだ。昼間なので開いてないようだが、夜の部ありなら一度入ってみたいものである。まあ、こうした店には私など足元にも、果ては猛牛の一毛にも及ばぬディープな愛の方々が常連で居座っていて、私ごときは新参者として受け付けず排除されること間違いない。まあ、せいぜい内輪で至福の時を楽しんでくださいな、常連ども・・。

バスで約10分、郊外の風景になったところで霊山寺に着く。大きな灯籠がお出迎えである。まずは外にある鐘楼で鐘を一撞きして、境内に入る。出迎えるのは仁王像の山門ではなく、大弁財天の額がかかった大鳥居。これは神仏習合の色合いが濃い寺なのかな。

観音菩薩や文殊菩薩などの八仏像が並ぶ。また行基の像も立つ。ちなみに近鉄奈良駅の地上に出たところに立つ像と同じものだという。

道順に従って進むと弁財天堂に出る。中には弁財天の本地仏である聖観音像が祀られているという。今は法要中のようで扉の向こうから読経の声がする。

お堂の脇に弁財天以外の残りの六福神の像が並ぶ。さらにその右には女性の像。「教祖像」とある。この時は詳しく説明書きを読まなかったのだが、東山円照尼の像だという。一瞬、新興宗教の何かかと思った。

続いて本堂のある一角に出る。お堂の中から団体さんの般若心経の声がする。先ほど受付で15人ほどの団体さんに遭遇したのたが、巡拝ツアーなのかな。西国薬師かあるいは他の札所めぐりか。団体が我が物顔に本堂を占拠しているとはいえ、その中に割り込むことはマナー違反で仏罰なので、終わるまで外で待つことにする。なぜもう少し早く来なかったのか、だからお前はアカン奴なんや、いつまでも出世できない発達障害者なんやと自分自身を責める。事実だから仕方がない。

待つ間、本堂の後ろに僧侶の像が見えたので行ってみる。「大僧正円教像」とある。昔の僧侶なのかなと見ると、これも説明には明治や昭和という言葉が見える。先ほどの教祖様と何か関係あるのかということだが、これは後で触れることにする。

さて本堂に入る。係の人から、「今から住職の法話があるので一緒に聴きませんか?」と声をかけられる。先ほどの団体さんがお勤めの後に内陣の仏像を見て、ちょうど法話のタイミングだそうだ。私のお勤めは後回しにして、外陣の隅に座る。

団体さんはわざわざどこぞの田舎から大和十三仏めぐりに来た講とのことで、法話もあらかじめ予約していたようだ。その割には早く着いたから法話の時間も早くしろとか、受付でも横柄な態度を取っていたし、私が境内の写真を撮っていた時には舌打ちをしていた。どこの地方?・・・かと思って見ていると、最近赤ヘル人気とかで各地の球場で傍若無人な振る舞いをする地方の連中だった。まあ、それなら仕方ないな、見るからに頭の不自由な可哀そうな方々の集まりだから。

法話の前半は霊山寺の歴史の紹介である。飛鳥時代、小野富人(小野妹子の子とされる)というが官を追われこの登美山に隠棲した。後に薬師如来を感得し、薬草の湯殿を建て、薬師如来の塼仏を祀って人々の病を治したという。奈良時代、孝謙皇女が心の病にかかった時、登美山の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、行基が代参したところ、皇女の病が治った。そこで聖武天皇は行基に命じてお堂を建てることにした。

鑑真よりも先に当時の日本の仏教に戒律を教えるためにインドから渡ってきた菩提僊那という僧が、この登美山を訪ねた。当時は寺の名前はなかったが、この山の形が彼の故郷にある霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから、この寺に霊鷲山という名を授けた。しかし日本には鷲がいないからということでその字を省いて「霊山寺」という名になった。後に菩提僊那は東大寺の大仏の開眼法要を務め、聖武天皇、行基、良弁と並ぶ東大寺の「四聖」の一人とされるのだが、住職が「もっと知られてもいい存在だと思うんですが」というように、私は初めて触れた名前だった。

本堂は国宝に指定されていて、鎌倉後期の建物である。

後半は法話ということで、レジュメには「どちらでもいい」というタイトルがある。例えば「年収は高くても低くてもいい 幸せに過ごせるなら」、「モノは増やしても減らしてもいい 大切なモノがわかっているなら」という一対の文言が10並ぶ。「吾唯知足(吾ただ足るを知る)」という禅の教えの一つを現在の身近なことに落とし込んだものである。

法話は30分ほどあり、団体さんが昼食のために本堂を出た後で、改めてお勤めとする。その後で、薬師如来塼仏の複製や、近年に文献その他からのイメージで制作した菩提僊那の像などを見る。顔の彫りが深く、耳にはピアスもしている。「顔つきのイメージは同じインドのガンジーですかね」ということのようだ。

さてまだ境内の中にいるが、記事が長くなったので続きは改めて・・・。

コメント