8月31日~9月1日、当初は四国・徳島に行く予定だったのが、台風の接近・通過の状況を見て急遽逆方向の山口県に向かうことにした青春18きっぷの旅。端数をネットオークションで買い求めたのだが、もう元が取れるかどうかは度外視して、ともかく出かけようというところである。
山陽線を乗り継いでやって来たのは防府。時刻は14時半頃で、この後は駅周辺をぶらついた後、そのまま宿泊することに。山口県の主な市の一つだが、まだ泊まったことがないという理由での防府宿泊。チェックイン受付時間前だが、予約したホテルルートイン防府駅前に立ち寄り、荷物だけ預ける。ありがたくも部屋まで運んでくれるという。
防府には中国四十九薬師めぐり等で訪ねている。その時は防府天満宮に向かい、レンタサイクルにて周防国分寺や毛利氏庭園、毛利博物館を回った。今回そこまではいいかなと思い、とりあえず天満宮まで歩くことにする。
天満宮に続く天神商店街に入る。かつての萩往還の一部である。土曜日の日中だが、シャッターを開けている店、閉まっている店が半々である。台風対策というよりは元々閉まっているように思う。アーケードのトタンにも破れが目立つ。「幸せます」の言葉もちょっと元気がないようだ。
「幸せます」とは山口の言葉で「幸いです」「うれしく思います」「助かります」「ありがたいです」「便利です」・・という意味だが、近年、「幸せが増す」という意味も付け加えて防府のブランドとしてPRしているのだが、個人的にちょっと引っかかる言い回しだ。「幸せであります!」と無理やり言わされているようなあの感じ・・。
天満宮の参道に入る。その途中で「防府霊場第七十番」という祠に出会う。防府八十八ヶ所霊場というのがあるそうで、明治時代に、防府天満宮やかつての三田尻港を含めた一帯に開かれたという。
そのまま正面の鳥居に出る。まずは灯籠が並ぶ参道を歩き、石段を上がる。
楼門から拝殿に到着。防府天満宮が創建されたのは主祭神である菅原道真が九州で亡くなった翌年とされ、「日本で最初に創建された天神様」を名乗っている。道真が大宰府に流される道筋での宿泊地の一つであった(当時の三田尻は主要な港町であった)ことから、現在では北野天満宮、太宰府天満宮と並ぶ日本三大天神」の一つとされている。
いやいや、大宰府に流される道筋で立ち寄ったから日本三大天神というのなら、菅原氏の出自である土師の里にある道明寺天満宮も十分にその資格はあるでしょう・・・と、道明寺天満宮のある藤井寺市出身の私なぞは思うのだが(小学校の校歌にも、「菅原公を慕いに慕い」とある)、本州と九州を結ぶ交通の要衝にある天満宮として古くから多くの人が参詣したということで、防府に軍配をあげざるを得ない。
訪ねた時は、書道の神としても崇敬されている菅原道真にちなんだ書道展として、優秀作品がずらり並んでいた。山口県知事賞、防府市長賞などの表彰作もある。最近書道といえば個性重視のスポーツ、アートの趣が強い印象だが、昔ながらの楷書が並ぶのを見るとどこかホッとする。誰もが見てきれいと思う文字が書ける人、すばらしいと思う。
本殿の西にある春風楼に上がる。江戸時代後期、当時の毛利藩主により五重塔の建造に着手されたものの、諸事情により工事が中断、そのまま明治維新を迎えた。結局五重塔の建造は断念したが、その部材を利用する形で楼閣が建てられた。ちょうど防府市街を見渡すことができる。その昔、現在のような埋め立てや高層建築物がない時は三田尻の港も見通せたようである。
これで参詣を終え、まちの駅「うめてらす」でしばし休憩。地酒等のお土産も買い求める。
この後、天満宮の門前にある「山頭火ふるさと館」に向かう。「自由律俳句」の代表的な俳人である種田山頭火は防府の出身である。「自由律俳句」というのは五・七・五にこだわらなず、また季語を必須としない自由なリズムの俳句のことで、「分け入っても分け入っても青い山」の句は代表作の一つとされる。
山頭火といえば先の句のほか、旅と酒のイメージである。そう、この雲水姿。私が以前に巡拝した九州西国霊場も、山頭火が巡礼して「風の中声はりあげて南無観世音」の句を詠んだことを札所めぐりのPR材料としていた。旅と酒の中で暮らす・・・たまに日常を離れて過ごすならいいが、それが生活そのものになってしまうと、果たしてどうだろうか。
展示室への通路には、防府ゆかりの文芸家のパネルが並ぶ。まずは直木賞・伊集院静、そして芥川賞・高樹のぶ子の両氏。また、広島は己斐出身で晩年は防府で暮らしていた那須正幹も紹介されている。こうした文芸も防府としてPRするところである。
そして展示室へ。細長いスペースの壁面を利用して山頭火の生涯、そして作品や日記などを紹介する。ここで初めて山頭火の生涯というのに触れたのだが、生まれは防府天満宮の門前町の地主の長男。しかし10歳の時、母親が井戸に投身自殺した。この出来事が自分の放浪者としての性格を決定づけたという。後に父親が酒造場を開いたが間もなく倒産、山頭火も妻子を連れて友人を頼って熊本に移ったが生活は苦しく、また弟の自殺もあって酒に溺れるようになり、妻子とも離縁。
その後、トラブルを起こしたところを助けられて寺に預けられ、寺男の後に得度して僧侶となったが、句作を行いながら各地を放浪して回る生活に入る。九州には何度も訪れ、他にも東日本、さらには芭蕉の足跡をたどるとして東北にも行っている。その中で庵を結んでいたのが小郡の其中庵(ごちゅうあん)というところで、そういえば現在の新山口駅の新幹線口に山頭火の像があるが、その其中庵によるものである。
山頭火が亡くなったのは最後に移住した松山の一草庵。松山といえば正岡子規や高浜虚子らが思い浮かぶ。タイプこそ違えど、俳句が結んだ縁のようなものを感じさせる。
・・・こうした俳人の評価というのもなかなか難しいだろうし、その生き様には賛否あるだろうが、現在「種田山頭火賞」というのがあるそうだ。山頭火の句集や関連書籍を発行している出版社によるもので、「信念を貫いた生き方で多くの人びとに感動を与えた文化人・表現者を顕彰する」とある。第1回の麿赤兒さん(俳優)に始まり、近いところでは夏井いつきさん(あの俳人ですね)、ロバート・キャンベルさん(日本文学研究者)、そして桃井かおりさん(女優)という人たちが並ぶ。わかる人にはわかるということで・・。
山頭火ふるさと館の脇には「山頭火の小径」というのがある。生家から小学校まで通った道が今も残っており、ところどころに草鞋の足跡で目印が設けられている。
そして生家跡に到着。「うまれた家はあとかたもないほうたる」の句碑がある。「ほうたる」とは蛍のことで、跡形もなく、誰も来なくなった生家に蛍が来た・・という意味の句だが、蛍が来たことでほっとするような、かえって寂寞感が高まるような、ただその寂しさも味わっているかのような響きが感じられるとして評価されている。
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