まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

夕方の芸備線を走る

2021年05月29日 | 旅行記F・中国

5月22日、広島から呉線~山陽線~福塩線と乗り継ぎ、最後は三次からの芸備線である。次の広島行きは17時18分発。首都圏色のキハ47が西日に照らされてまぶしく見える。

もっとも、三次を発車した時の乗客は2両合わせて10人くらいだったか。キハ47の昔ながらのボックス席で、これはこれでゆったりして進む。芸備線の広島~三次間はそれなりの利用客もあるためか、この列車は車掌付きの運行である。またこの先広島までの区間で、福塩線のような「必殺徐行・時速25キロ運転」が行われることもなかった。中国山地のローカル線としてはまだまだ健闘している区間である。

三次の次の西三次で行き違い停車の後、近郊の田園地帯を走る。赤い石州瓦が西日を受けて鮮やかな色合いを出している。これも中国山地ならではの車窓である。

向原に到着。8分停車とのことでとりあえずホームに出てみる。

この先、志和口、狩留家でも数分停車。少しずつだが乗客もある。こうしたローカル線の駅だが、いずれも行政では広島市内(安佐北区)ということで、JRの「特定の都市区内ゾーン」の駅となっている。特定の都市区内ゾーンとは、そのゾーン内の中心駅(広島の都市区内でいえば、広島駅)から着駅までの営業キロが201キロ以上ある場合、乗車券は「広島市内発」として、広島発着の営業キロで計算するという規則である。ただし、広島の都市区内ゾーンでの途中下車は不可。

まあ、それだけ広島市の行政区域というのは広いし、さまざまな景色が広がるということだ。

深川地区の3駅(上深川、中深川、下深川)あたりで周囲も近郊区間となる。

広島の一つ手前の矢賀には新幹線の車庫が隣接している。ちょうど列車が停まった横の側線に、N700系の先頭車両が見えた。日常的な光景なのだろうが、私としては初めてである。

広島貨物ターミナル、そしてマツダスタジアムからは少し離れたところを走るが、最後のエンジン音を高らかに響かせて広島に到着。19時14分着。完全に日が暮れてしまう前に着くことができた。

さて、これで観光列車と超閑散ローカル線の福塩線を一度に乗ることができた。中国地方には個性豊かなさまざまな観光列車が走っているが、ちょっと福塩線には似合わないだろう。それだけの地味な線区と言えるが、逆にいえば日本の地方部の平穏な原風景を楽しめるのではないかと思う。そこは大切にしたいものだ・・・。

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福塩線を行く

2021年05月28日 | 中国観音霊場

JRで広島県内を一周するとなると、広島、三次、福山の3つの駅を経由することになる。広島~福山は山陽線経由でも呉線経由でもいいが、一番のネックといえるのが福山~塩町(~三次)を結ぶ福塩線である。このうち、電化区間である福山~府中はまだ本数があるものの、府中~塩町(~三次)となると1日6往復しかない。自ずと、この区間の列車に合わせて前後の行程を組むことになる。

その6往復といっても、早朝・朝に3往復、午後1往復、夕方・夜に2往復。地元の人ではなく一般的な乗り鉄、乗り継ぎで訪ねるなら、府中発なら15時05分の三次行き、三次発なら14時43分発の府中行きに乗ることになる。

今回は府中から乗ることにして、記事の始まりは福山から。福山といえば老舗食堂の「自由軒」がある。大衆食堂ながら実質は日中から営業の大衆酒場で、「吉田類の酒場放浪記」にも登場した店だが、この状況での営業はどうなっているのかな。

まあ、それはこの記事を書くにあたり思い出したこと。

訪ねた5月22日、福山駅の高架下のショッピングゾーンの「さんすて」は臨時休業とあった。コンコースの照明も心なしか暗く感じる。

南側に出る。福山はバラの町。そして時季は5月、バラが咲きほこるところ。例年行われる「福山ばら祭」のイベントはコロナ禍で中止となったが、駅前ではたくさんのバラが花を開かせている。コロナがどうのこうのとあっても、時季が来れば花は咲く。それを見てどう思うかは人それぞれ・・。

そんな福山の山陽線ホームで列車到着時に流れるのは、加藤登紀子さんの「百万本のバラ」。

福塩線のホームに上がる。ちょうど福山城の石垣と対面するところで、現在天守閣は改修工事のためフェンスで覆われている。駅のホームから城の石垣を間近に見ることができるところは、全国的に見てもありそうでなかなかない。これから乗るのは14時09分発の府中行き。「府中から三次連絡」という案内が加わる。

折り返しでやって来たのは105系の2両編成。国鉄時代から継続して使われている車両で、かつては黄色の車体に青色の線が入った福塩線カラーだったのが、現在は岡山管内の電車共通の黄色オンリーである。

14時09分発、2両のロングシートは発車間際には座席が埋まり、ドア横に立ち客もあるくらい。高校生や若者の乗車が目立つ。元々私鉄線だったこともあり、短い間隔で駅に着く。駅ごとに客が下車していく。この時は私も途中ちょっとウトウトしていた。

14時51分、府中着。駅舎側の行き止まりの番線に停車する。終点ではあるが一番前のドアだけが開き、運転手が改札を行う。次の三次行きは・・と見ると、駅舎の改札口の前に1両のキハ120が停まっていた。確かボックス席は4つだけあったよな、ちょっと急いでみる。

・・ただ、車内に入るとオールロングシートのタイプだった。これなら恨みっこなしでどこに座ってもいい。乗客は12~13人くらいか。

府中を出ると芦田川を渡る。先ほどまでは比較的町並みも広がっていたが、一気にローカル線の車窓となった。すると出てくるのが時速25キロ区間。その筋ではJR西日本の「必殺徐行」と呼ばれるもので、中国山地のローカル線のいたるところで見られる。地盤が弱かったり、かつて落石や雪崩などの災害があったところで設定されている。

駅ごとで下車する客もいて、いつしか乗客は私を含めて6人となった。この辺りが福塩線でもっとも閑散とした区間と言えるだろう。そのうち、カバンを二つ持った年輩の方は用務客のようだが、それ以外はその筋の人たちのようだ。ロングシートに横向きに座り、前方を眺めている。ちょうどシートが3~4人ずつで区切られていて、その端がちょっとした背もたれにもなる。

上下に到着。定刻なら2~3分で対向列車が来るのを待って発車するところ、運転手が対向列車の遅れを告げる。これで10分ほどの待ち時間ができたので、一度ホームに下りる。福塩線最高地点の駅、標高383.7メートルとある。この辺りが瀬戸内の芦田川水系と、日本海の江の川水系に分かれている峠ということから「上下」である。府中から三次への列車も時間的にここが中間点である。

相変わらずのんびりした車窓を進む。田植えの時季で、ちょうど水を張った田んぼに山の景色が映える。

府中市から三次市に入った吉舎から少しずつ乗客が増える。3~4人ずつに区切られたロングシートは、高校生のカップルにとってもちょうど居心地がいい席配置と見える。

塩町で芸備線と合流。今回使用している「ひろしま1デイきっぷ」は芸備線の東城までがフリー区間に入っており、備北方面を訪ねるにもちょうどいい。

上下での対向列車の遅れがあったため、16時52分から数分遅れて三次に到着。この日はこのまま広島に向けて戻る。日の長い季節、どこまで外の景色が見られるだろうか・・・。

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「エトセトラ」、呉線を行く

2021年05月27日 | 旅行記F・中国

5月22日、日帰りでの「JRで広島県一周」に出向く。まずは観光列車「etSETOra(エトセトラ)」に乗る。広島発の尾道行きは途中呉線を経由する。

さて、私が手にしていたのは山側の2人がけの席、2週間前に尾道から乗車したのと同じところだったのだが、ふと思い立って、発車直前に広島駅のみどりの券売機に指定席券を突っ込む。当日の変更が可能かと思ったのだ。すると、海側のボックス席がまるまる4人分空いていた。この時間から新たに「エトセトラ」に乗ろうという客もいないだろうし、また複数人利用でも2人席も空いているので大丈夫だろう。この席に変更する。

車内へ。もう一つの海側のボックス席も1人客が使う形。カウンター席は満席だったものの、要はこのくらいの乗車率である。まあ緊急事態宣言が出ていることもあるが、乗車率が少ないながらこうした列車が運転されているところを見ると、緊急事態の受け止め方はそれぞれだ。もっとも、上り下りとも車内でのアルコール販売は休止とのこと。9時32分、発車。

さて、4人ボックス席である。この席は窓の広さがポイントで、テーブルを挟んだ向かいの席、さらにはその奥に座っている乗客のところまで広がっている。外の景色を眺めるには最高である。まずは、カープ内でクラスターが発生したためこの日の試合が中止になったマツダスタジアム横を過ぎる。

海田市でしばらく停車して、呉線に入る。この先、列車の行き違いで頻繁に停車する。

その中で江田島を挟んだ景色が広がる。雲が広がっているのが残念だが、やはり窓が広いために眺望はすばらしい。

「ノンストップ」で呉に到着。ここで何人か乗車がある。向かい側のホームの外では、おそらく列車の出迎え、見送りに来たのだろう。「海軍」と書かれた横断幕を一人で掲げる男性がいる。おそらく「海軍さんの◯◯」という文字が書かれているのだろうが。

先日乗船した「シースピカ」は海上から呉の町並み、そして造船所のある港、さらには海上自衛隊の基地まで見物することができたが、呉線は呉を出るとすぐに休山のトンネルに入り、阿賀に向かう。まあ、鉄道だから。

かつて国鉄の連絡船が出ていた仁方を過ぎると、沖合いに下蒲刈島を望む。今は安芸灘大橋でつながり、とびしま海道の玄関口である。

安浦で列車行き違いのためしばらく停車。この先、安芸津まで牡蠣の養殖いかだが並ぶ。国道沿いには牡蠣の直売店もあり、さすがに今季は終了しているが、また冬が楽しみである。「エトセトラ」はしばし徐行運転。これは瀬戸内らしい眺めである。

竹原で2分停車ということで、ちょっとだけ外に出る。車内も一通り回ってみたが、2両合わせて乗客は15人くらい。カップルが1組と年輩の女性二人連れがいただけで、後はその筋の男性一人ばかり。車内も静かなものだ。

竹原火力発電所や、大久野島の玄関である忠海を過ぎる。

この忠海から安芸幸崎の間が車窓としてはもっとも見どころで、海がすぐ目の前にある。もちろん徐行運転だ。空も少しずつ明るくなっており、海面が透けて見える。この区間は「トワイライトエクスプレス瑞風」も立ち寄り、ビューポイントとして紹介されているところ。その「トワイライト~」はさすがに緊急事態宣言を受けて現在運休となっている。

安芸幸崎で今治造船の巨大クレーンを見て、再び海沿いの景色。瀬戸内らしさを眺めるという点では、時間がかかっても呉線経由のほうが楽しめる。

三原に到着。車内ではクルーズ船「シースピカ」の案内もあり、この時間なら三原港発の西向きコースにも間に合う。JRと瀬戸内海汽船がタッグを組んで、陸と海から瀬戸内の多島美を楽しませるということでお薦めである。

三原ではすぐの発車で、そのまま12時32分、尾道に到着。広島からちょうど3時間ということでなかなか乗りごたえがある列車だった。

尾道に来たのは、この日浄土寺で行われる予定の中国観音霊場開創40周年の記念法要に参列するためだったが、緊急事態宣言を受けて法要は中止。そのため広島県一周の乗り鉄に切り替えたのだが、次の福山方面の列車はおよそ30分後の13時05分発。

ならば昼食ということで、駅横にある「尾道ラーメンたに」に入る。鶏ガラ&魚介スープ、背脂入りのスタンダードな尾道ラーメンである。つるつるっといただく。

13時05分発の岡山行きで福山に向かう。尾道水道を抜ける。途中の備後赤坂で、折り返しを待つ「エトセトラ」が停車していた。ここまで退避していたのか。

福山に到着。次の福塩線の列車まで時間があるので、改札の外に出てみることに・・・。

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また「エトセトラ」に乗る。ただしその前に・・・

2021年05月26日 | 旅行記F・中国

コロナ関連ということで、広島県に5月16日~5月31日を対象として2回目の緊急事態宣言が発令され、現在継続中。政府も当初は広島県の要請に応える形でまん延防止措置の対象区域と考えていたが、いわゆる専門家の反発を食らって、北海道、岡山県とともに緊急事態宣言の対象となった。それが決まったのが5月14日のこと。何でこう、金曜日に発表するかね。

それはさておき、その直後の週末、一足先に緊急事態宣言が発令された大阪では、知事の強い要請とかで大阪でのバファローズ戦は無観客試合となった。その一方広島では、緊急事態宣言初日の16日も「チケット売ったもん勝ち」で16000名のファンを入れてカープの公式戦が開催された。テレビで(このご時世として)びっしり埋まるスタンドの光景を見て、この格差は何やねんと思ったものだ。

そしてその後でカープの選手が相次いでコロナ陽性反応。まあ、この日観客を入れて試合をしたこととは直接関係ないことだが、何をやっているのやらと思う。その結果、次の週末のタイガース戦の中止はともかく、25日から始まった交流戦でも、ライオンズの選手を広島まで移動させた挙句、1・2戦のみ中止だとか。何で25日当日まで判断を引き延ばしたの? 前日と当日で状況がどう変わったの? 27日は試合が行われることになったが、広島は朝から雨の予報。これで雨天中止ならライオンズは目も当てられないが、幸い夕方までには上がるそうで、試合はできそうかな。

・・・話を5月14日に戻す。

実は、5月22日~23日にかけて、九州西国霊場の第2回のお出かけを計画していた。3月に日田彦山線めぐりを兼ねて、英彦山にある第1番・霊泉寺を訪ねたが、その次として中津・宇佐シリーズ(計3ヶ所)を予定していた。しかし、ここで緊急事態宣言が出たということで、このお出かけは6月に延期とした。

その代わりとして思いついたのが、県外への不要不急の外出自粛なら、県内をぐるり回るということ。頭に浮かんだのは、先日初めて乗車した観光列車「etSETOra(エトセトラ)」。その時は復路の尾道発山陽線経由の便だったが、やはり往路の広島発呉線経由の便にも乗ってみたい。「e5489」で検索すると空席があったので押さえる。

尾道を目指す理由はもう一つある。現在残り2ヶ所となっている中国観音霊場めぐりのサイトを見ると、開創40周年の記念行事として、5月22日に尾道にある第9番の浄土寺で法要を行うとある。「エトセトラ」の尾道着は12時32分、法要は14時からとあるから十分間に合う時間だ。

しかしながら、その緊急事態宣言の再発令を受けて、浄土寺での記念法要は中止するということがサイトで発表された。まあ、仕方ない。

ならばどうするか。もう、出かけるのは出かければいいのではないかと思う。考えたのはそのまま「JRで広島県内を一周」すること。尾道はそのまま通り抜けるとして、福山から福塩線で三次、三次から芸備線で広島に行けば、呉線を含めて循環ルートが完成する。「エトセトラ」からでも、もっとも本数が少ない福塩線の府中~三次間の昼間の列車に乗り継ぐことができる。時刻表を追いかけると、完全に朝ゆっくり出発の乗り鉄プランとなるのだが・・・。

それをお手軽に実現できるのが、この春JRで発売の「ひろしま1デイきっぷ」である。昨年も福山~岩国間がフリー区間で発売されていた。それが今回はフリー区間を大幅に広げ、芸備線の広島~三次~備後落合~東城間や木次線の備後落合~油木、そして福塩線の全線など、広島県全域に及ぶ。しかも料金は据え置きの2000円。6月末までの土日祝日のみ有効、前日までの購入または予約が必要とはいえ、これはかなりのお買い得だ。先ほどの「エトセトラ」も指定席を別買いすれば乗ることができる。

5月22日、広島駅に現れる。ホームにはすでに「エトセトラ」が停車していた。2週間前と同じく1号車に乗り込むことに・・・。

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初めての「etSETOra(エトセトラ)」に乗る

2021年05月25日 | 旅行記F・中国

5月9日、瀬戸内の沿岸、島々をめぐるクルーズ船「シースピカ」で広島から三原までやって来た。その後、山陽線の列車で尾道に到着。

ホームには同じ観光列車の「ラ・マル・ド・ボァ」が停車している。日によって岡山から宇野、琴平、そして尾道へと往復する列車。これ、日を合わせれば広島から「etSETOra」で尾道まで来て、「ラ・マル~」に乗り継いで岡山まで行くができる(逆も可能)。また機会があればやってみようかな。

いよいよこれから観光列車「エトセトラ」に乗る(ローマ字表記が面倒なので、カタカナで)。三原から尾道まで移動したのは、単純に始発から乗りたかっただけのことである。

発車までそれほど時間はないが、せめて駅前に出て尾道水道の景色を眺める。どうせなら「シースピカ」も尾道まで運航してくれればよかったのにと思う。

福山方面から2両編成の気動車がやって来た。ホームでは2~3分ほどの停車ですぐに発車する。慌ただしく車両の写真を撮って車内へ。14時38分、発車。

この「エトセトラ」、前身は「瀬戸内マリンビュー」という列車で私も乗車したことがあるのだが、それをさらに改造して2020年10月に運行を開始した。「エトセトラ」とはラテン語で「その他、いろいろ」という意味だが、そこに「たくさん」という意味の広島弁「えっと」と「瀬戸内」を掛けたのが列車名である。瀬戸内のいろんな魅力をたくさん見て感じてほしい・・・という願いが込められている。

広島からの往路は呉線経由、そして復路は山陽線経由で宮島口まで行く。往復利用で、尾道でちょっと散策するぐらいの時間はあるようだ。

運行当初は指定席の入手が困難だったのだが、今回手に入れたのは山側の2人向い合せのシート。2両とも山側の2人席、海側の4人ボックス席、カウンター席という造り。

乗車記念として列車のロゴをあしらったコースターが配られる。まずは先ほど通った糸崎までの海沿いの区間を走る。海側の4人ボックス席の窓が大きく取られていて、この席からだと最高の車窓が楽しめそうだ。

三原から乗車があり。その4人ボックス席も含めて車内はほぼ満席になる。先ほど「シースピカ」に乗船していた人もいる。

さて・・・この復路、山陽線経由のルートでのお楽しみは「広島の酒」である。まあ、呉線経由のように瀬戸内の景色を眺めることはほぼないが、酒どころの西条を通るということで、また時間も午後ということでちょっとたしなんでみて・・というところ。

5種類のうち3種類の飲み比べセットがある。銘柄だけ記すと、①「白鴻」(安浦)、②「於多福」(安芸津)、③「小笹屋竹鶴」(竹原)、④「酔心」(三原)、⑤「賀茂鶴」(西条)。このうち、①、③、⑤を選び、カウンターで注いでもらう。

先ほど尾道駅で買ったアテをつまみながら、山間の車窓を眺めつつの一献である。他にも瀬戸内の柑橘をベースにした酒類も置かれていて、中国地方の観光列車は飲み鉄とともにあるようだ。もっとも、この記事を掲載した日現在では、広島県の緊急事態宣言の影響で、車内でのアルコール販売は休止中という。

三原を出ると広島までの停車駅は西条のみで、また複線区間ということで列車行き違いの停車もなく、順調に走って行く。先ほど「シースピカ」の乗船が長かったぶん、「エトセトラ」がより速く感じられる。まあ、ローカル線をトコトコ走ることが多いキハ47(グリーン車に改造されたので正しくはキロ47だが)が、エンジン音高くぶっ飛ばすというのもなかなかいいものだ。

西条でもすぐの発車となり、「セノハチ」の区間を下って行く。この区間を上りにしなかったのは燃料の節約もあるのかなと勘ぐってしまう。

このまま順調に走り、最後は広島貨物ターミナル、マツダスタジアム横を通り抜けて、16時02分、広島に到着。鈍行で走るより若干早かったかなという時間である。

列車はこのまま宮島口まで向かうが、大半の客が広島で下車。私もこの日は早めの帰宅ということで広島で下車した。

さて、ようやく念願の「エトセトラ」にも乗ることができた。中国地方にもいくつかの観光列車があり、それぞれの楽しみ方がある。また折を見て、これらの列車を軸にこの地方のさまざまな魅力を発見したいものである・・・。

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「SEA SPICA(シースピカ)」でめぐる広島しまたびライン~大久野島から三原へ

2021年05月24日 | 旅行記F・中国

広島から三原に向かう「シースピカ」が、2度目の寄港地である大久野島に到着。大久野島へは忠海からフェリーで行くのが一般的だが、そことは異なる桟橋に着いた。30分の停泊である。

大久野島は「うさぎの島」として知られている。実は「シースピカ」が寄港するにあたり、船内でうさぎの餌を100円で売っていてガイドさんも薦めていたが、別にいいかなとそのまま下船した。

現在うさぎは500羽ほど生息しているそうで、桟橋の近くにもちょこちょこ見つかる。観光客が餌やりをする光景も見られる。ただ、3年前は1000羽近くいたのに比べると大幅に数が減っているそうだ。

コロナ禍で島を訪ねる観光客が減ったことで餌の量も減り、それで数が減ったということのようだが、一方では食べ物を求めて生息域を山の中に移し、人前に姿を見せなくなっただけという説もあるようだ。別に動物園ではないのだから個体を管理しているわけではなく、自然のままにということだろう。

大久野島には前回の広島勤務時、勤務先の組合の行事で国民休暇村に来て以来だから20年以上ぶりのことである。その時、平和学習として見学に訪れたのが毒ガス資料館である。今回の寄港にあたり、私としてはこちらの見学を優先したため、うさぎの餌を買わなかった。まあ、島の中でうさぎの餌を売っているところがあるだろうから、時間ができたらそこで買えばいいやという思いもあったのだが・・。

島には明治時代に灯台や砲台が建造されたが、昭和に入ると陸軍の手により毒ガスが秘密裏に製造された。「地図から消された島」ということでご存知の方も多いだろう。昭和恐慌の後ということもあり、高給を餌に多くの工員を雇い入れたが、当然ながら過酷な労働環境、また機密保持のため憲兵の厳しい監視下にあったという。一応、防毒用の衣服やマスク、手袋などは着用していたが、それでもその隙間から有毒成分が入り込み、皮膚、目、喉などがやられてしまう人が多かった。

当時の人の思いはどうだったのだろうか。お国のためということで誇りを持って従事した人もいるだろうし、カネのためと割り切っていた人もいるかもしれない。ただある意味、この人たちも戦争の犠牲者といえる。

敗戦の際に、毒ガスを製造していたことがバレたら国際問題になるといって、化学物質を海中や土中に廃棄し、当時の記録の多くも隠匿や焼却したという。ただ、製造された化学兵器は中国(地方ではなく大陸のほう)に数多く遺棄されたままで、長い年月をかけてその回収処理が行われたそうだ。その中で、発掘されたドラム缶から化学物質が流出し、作業にあたっていた中国人の死傷者も出て、日本政府が解決金を支払った事象もあったと紹介されいる。私も展示を見て初めて知ったが、こういうところにも戦後処理があったのかと思う。

資料館を出て、海沿いを少し歩く。正面の島は大三島で、ここが広島県と愛媛県の境界である。それにしても波が早く、複雑な動きをしている。

滞在時間はあっという間に過ぎ、出航する。「シースピカ」は遠くに県境の多々羅大橋を望み、生口島に向かう。斜面にレモン畑が目立つ。

前方に耕三寺の「未来心の丘」、そして中国観音霊場めぐりで訪ねた向上寺の国宝三重塔が見えて、瀬戸田港に到着。ここで半数の客が下船した。「シースピカ」では、東向きコース、西向きコースとも、瀬戸田~三原・尾道の定期船との乗り継ぎプランがあり、瀬戸田、生口島をゆっくり回ることができる。

瀬戸田~三原は定期船で通ったこともあるが、こうしたクルーズ船から眺めるのもまたいいものである。広島から三原まで船で行く・・・改めて広島県の広さ、風景の多様さを感じることができたし、半日の時間を贅沢に過ごすことができた。

クルーズ船と聞くと、豪華客船でコロナ患者が発生して騒ぎに・・ということもありいいイメージを持たない方もいるかもしれないが、瀬戸内を走るこうした船はデッキで過ごすのが快適である。開放感あるし、密も避けられるし。この航行中、ほとんどの時間をデッキで過ごしていた(客室は客室でシートもゆったりしているし、景色もよく見える。また空調も効いており、居心地はいい)。

・・・潮風に吹かれればということで、途中こんなこともしていた。事実、船内では広島の地酒も売られていた。ただし、この記事を掲載する5月下旬にあっては、緊急事態宣言のために船内ではアルコールの販売は取り止め中。船について「飲み鉄」に相当する言葉が思いつかないのだが、潮風に吹かれながら一献という方は、事前のご用意を。

三原港に到着。桟橋では折り返しの西向きコースを待つ人の姿も見える。その中、歩いて三原駅に向かう。これからようやく観光列車「etSETOra」に乗るのだが、その始発である尾道まで移動する・・・。

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カープ、クラスター発生。ざまあみさらせ。

2021年05月23日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

何か、カープの選手は何も悪くないという、戦前の大本営的に報じる広島のマスゴミが気色悪い。

こいつらも遠征先でヤルことヤッていたのではないのか?

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「SEA SPICA(シースピカ)」でめぐる広島しまたびライン~瀬戸内の島めぐり

2021年05月23日 | 旅行記F・中国

呉を出た「シースピカ」(いちいち、「SEA SPICA」と書くのも面倒なので)は安芸灘を走り、本土と島を結ぶ安芸灘大橋をくぐり、下蒲刈島に着く。島に上陸すること自体初めてだし、この「とびしま海道」もまだ通ったことがないので、その先も目指してみたいものである。

寄港したのは三之瀬の港。地元の人たちからの歓迎を受ける。この辺りは東、西、南から海流が流れ込み、潮の流れが複雑になっている。三つの瀬戸が合流することからこの名がついたそうだ。古くから潮待ち、風待ち港として栄え、江戸時代には広島藩の港として、参勤交代や朝鮮通信使の行き来にも使われたという。

ここでの滞在は1時間あまり。なお船内はこの時間を利用して消毒作業等を行うという。

島にはいくつかの美術館や歴史スポットがあり、その中でスタッフの一押しは松濤園とのことで、港からは徒歩15分ほどのところにある。ちょっと見学は駆け足になるかな。ともかく石畳の道を歩く。

まず目につくのは木造の洋館。タイル貼りの外壁に和瓦を葺いた独特の建物である。和洋折衷というよりは近代中国にありそうな建物だと見ていると、地元出身で、戦前に満州で実業家として成功した榊谷仙次郎という人の別荘だった建物という。

続いて、かつての船着き場である長雁木と本陣の跡である。当時のものが残されており、穏やかな港の風情が感じられる。そこから上がったところには、本陣の跡地に、その外観を復元した芸術文化館がある。広島県にこうした港の眺めがあるとは知らず、私にとって新たな発見である。

この後、これもかつての屋敷風の蘭島閣美術館を過ぎる。

そして到着した松濤園。各地から移築したものも含めて4つの資料館、建物から成り立っており、全体として三之瀬の流れを借景とした庭園となっている。係の人が「クルーズで来られた方ですね」と声をかけ、団体割引料金での見学となる。

中の展示物が撮影禁止のため画像はほとんどないのだが、まず順路で入るのが陶磁器館。江戸時代の宮島の門前町にあった町屋を移築したもので、部屋からは三之瀬、対岸の上蒲刈島を望むことができる。ちょうど心地よい風も吹きこむ。こちらでは古伊万里、柿右衛門といった数々の作品が展示されており、一通りざっと眺める。

次が、松濤園のメインの建物といっていい朝鮮通信使資料館。建物は富山の商家を移築したものだ。朝鮮通信使の等身大人形や行列の模型が飾られるとともに、行列や寄港地の様子を描いた絵巻もある。こうした史料はユネスコの「世界記憶遺産」の一部として登録されている。

広島藩では朝鮮通信使を手厚くもてなしたようで、通信使も数々の港でのごちそうの様子を尋ねられた際、「安芸蒲刈御馳走一番」と答えたという。当時の最高のおもてなしとされる「三汁十五菜」の再現模型もある。当然、当時と現代ではごちそうの感覚は異なるだろうが、それでも温泉旅館などで土地のこうした膳が出てきたら、いただくほうはうれしい限りである。景色のほうは「日東第一形勝」と称された福山鞆の浦の対潮楼に譲る形?になったが、いずれにせよ瀬戸内のしまなみ、しまたびというのが彼の国の人たちを大いに満足させたと言っていいだろう。

この後は照明器具を集めた「あかりの館」や、海上警固の御番所跡を見たが、持ち時間があっという間に過ぎ、寄港地に急ぐ。島には他にも見どころありそうだし、素朴な港の佇まいもゆっくりしたいところだが、今回はあくまでクルーズでの立ち寄り、まあ顔見世といったところだろう。この次はそれぞれで時間を取ってゆっくり来てくださいね、ととらえる。

他の乗船客も無事に戻り、島の人たちの見送りを受けて出航する。この先右手には上蒲刈島~豊島~大崎下島が続く。この便とは逆の西向きコースでは、このうち大崎下島の御手洗に寄港する。御手洗は朝鮮通信使こそ来なかったが、北前船の寄港地でもあり、今もかつての商家の建物が残されている。こちらはこちらでまた訪ねたいものだ。

また本土側は安浦の海岸を見る。海側から本土を眺めるのもかえって新鮮な感じがする。自然の海岸、岩場がそのまま保たれているのもいい眺めである。その奥に「グリーンピアせとうち」が見える。その前身は「グリーンピア安浦」という施設で、私が就職で広島に配属された際、組合の新入社員歓迎イベントで日帰りのBBQ、温泉を楽しんだことがある。今から25年前、1996年5月のことだが覚えている。

ちょうど温泉に入った後、NHKでやっていたのが藤井寺球場での近鉄対西武戦。当時、広島でパ・リーグの試合を観ようと思えばNHKの全国中継しかなかった。9回裏、5対5で同点、満塁の場面で打席にはタフィ・ローズ。追い込まれてからあの独特のフォームで放った打球はライトスタンドへ、サヨナラ満塁本塁打となった。この後のインタビューで「ヨッシャー」と(この当時は控えめに)言ったのも印象的。ブライアントの後釜で来た1年目の選手だが、この後であれだけの活躍を見せる打者になるとまでは思わなかった。

とまあ、そういう思い出もある施設だが、そのグリーンピアは運営がいろいろあって経営破綻し、閉園となった。現在は経営者も変わって新しい形で営業している。

話が横にそれた。

発電設備もある大崎上島の沖合に、契島という小島がある。この島も東向きコースの見どころとして紹介されているが、これも初めて聞く島である。

契島は「瀬戸内の軍艦島」と呼ばれているそうだ。軍艦島といえば長崎の沖合の端島だが、それが瀬戸内にもあるとは。島全体が東邦亜鉛の精錬所となっており、長崎の軍艦島とは違って現在も稼働しているところ。契島へは竹原、大崎上島からフェリーが出ているが、あくまで精錬所の関係者の足である。一般人は上陸することができない。

沖合をゆっくりと航行する。確かにこうして眺めると「軍艦」である。先ほど、海上自衛隊の護衛艦や巡視艇などを間近で見たが、迫力?が違う。

中には「瀬戸内のモンサンミッシェル」と呼ぶ人もいるようで。瀬戸内には他にも一島まるまるこうした工場施設という島がいくつかあり、その筋の人たちには人気なのだとか。

「シースピカ」はクルーズ船ということでそのまま進み、次の寄港地である大久野島に入る・・・。

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「SEA SPICA(シースピカ)」でめぐる瀬戸内しまたびライン~広島から呉へ

2021年05月21日 | 旅行記F・中国

いろいろな列車に乗ってみようと、JR西日本の「e5489」のページをのぞくことがある。

その中で目についたのが、呉線・山陽線を行く観光列車「etSETOra(エトセトラ)」。2020年10月にデビューした列車だが、なかなか座席が取れない。乗車1ヶ月前にみどりの窓口に行ったのに売り切れ・・ということが続いていた。旅行会社が団体枠で押さえているのかな・・?と思ったこともある。事実、「etSETOra」の乗車と三原・尾道での豪華昼食を組み合わせたツアーもあった。これに参加しようかと思ったこともあったが、日帰りにしては値段が高くそこまですることもないかな・・と思って見合わせたり。

なかなか乗る機会がないなと思ううち年が明け、4月になって「e5489」の中で検索した。すると運転日のほとんどで空席が出るようになった。デビュー当時のブームも収まったのかな。その中で、大型連休明け、5月9日の尾道~広島間の指定席を押さえる。

JR西日本のサイトでふと見つけたのが、「瀬戸内しまたびライン」。JR西日本と瀬戸内海汽船が共同で開発した観光型高速クルーザー「SEA SPICA」がPRされている。広島~呉~三原間で、瀬戸内の多島美を楽しみ、また途中の島にも寄港するコースが東向き、西向きそれぞれ設定されている。いずれも空席は十分にあるようで、観光列車に合わせる形で、広島~三原の東コースを予約する。つまり、往路は「瀬戸内しまたびライン」で海を行き、復路は尾道から広島まで山間を走る観光列車に乗る・・・県内の魅力たっぷりだ。

さて5月9日、この日も快晴である。まずは広電で宇品港に到着。かつての京都市電と、カープのロゴをあしらったトラム型車両が一緒に並ぶ景色も広島らしい。

これから乗る東向きコースは8時30分に宇品港を出航し、13時15分に三原に到着する。まずは運航する瀬戸内海汽船の窓口に向かう。事前予約で支払いも済んでおり、名前を言うと名簿で確認のうえ、チケットを渡される。この日は途中からも含めて数組、10数名の乗船があるようだが、宇品から乗船したのは私の他にご夫婦2組だけ。乗船案内があり、係の誘導で桟橋に向かう。

船内を見て回る。ソファ型の席が並び、窓側の席の背もたれを低くして外の景色を見やすくしている。コース参加者は一応座席指定となっている。

2階のデッキはフリースペース。瀬戸内の島々をイメージしたソファーがあり、側面、後方には一人掛けの椅子が並ぶ。天気がいいので、座席よりもこのデッキで過ごすのが気持ちよさそうだ。

見送りを受けて出航。ガイドが乗り込んでおり、この先周りの景色やスポットの案内をしてくれる。

最初の寄港地であるプリンスホテルに到着。キャリーバッグを手にしたカップルや家族連れが乗船する。広島市内にあって瀬戸内のリゾートを満喫できるホテルで(私は泊まったことないですが)、広島旅行の帰りに三原までクルーズ船に乗るというのもなかなか面白い行程だと思う。

ここからは本土と江田島の間を走る。さまざまな船とも行き違い、その奥には海上自衛隊の船舶も停まっている。ガイドからは江田島の海軍兵学校の歴史の解説もある。その中で、海軍兵学校に入るのが超難関だったことの例え話として、「今、合格するのが難しいのは、東は東京大学、西は・・宝塚音楽学校ですかね」とあり、思わず笑ってしまう。ただ宝塚、ある意味東大よりも江田島よりも難関かもしれないな・・。

巡視船などが近くに停泊する中を抜け、呉港に到着。ここでも何人かの乗船があり、三原に向けて出航する。

かつての軍港、現在も海上自衛隊の基地があり、造船も行われている呉港。戦艦大和が建造されたドックも現役で活躍している。

このクルーズの売りとして、海上自衛隊の呉基地を海上から見るというのがある。これまで陸地から遠くに護衛艦や巡視艇などを目にすることはあったが、海からというのはなかなかない。乗船客もお目当てが来たとばかりに一斉にデッキに上がり、その姿をカメラ、スマホに収める。身を乗り出さんばかりの人もいる。

この時は海上自衛隊最大の護衛艦「かが」も停泊していた。海外での様々な訓練にも参加しており、お好きな方にはたまらない光景だろう。

潜水艦も停まっていて、隊員たちが業務なのか訓練なのか多数周囲にいる。「余裕があれば手を振ってくれるんですが・・」という案内があるが、この時はそこまでの余裕はなかったようで、しばらくその様子を見た後、港を離れる。それにしても、海上自衛隊の船舶を海上から間近に見ることができる機会、なかなかないものである。

呉港を離れ、日本製鉄(旧・日新製鋼)の製鉄所を通る。この製鉄所も呉の看板企業の一つだったが、2023年9月に閉鎖される。地元の雇用への影響が大きいとしてニュースでも取り上げられているところだ。

音戸の瀬戸を通る。ここからは本格的に「しまたびライン」らしく島々を巡る。まずは停泊地である下蒲刈島を目指す・・・。

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第8番「圓明寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(いにしえの山陽道)

2021年05月20日 | 広島新四国八十八ヶ所

5月の大型連休明け、実質月初めの通勤となった6日、7日を終えて次の週末。広島新四国八十八ヶ所めぐりも進めておこう。前回までの廿日市市シリーズの往路を終えて、広島市に入る。最も西にある佐伯区からで、目指すのは第8番の圓明寺(えんみょうじ)。

5月8日、朝ゆっくり出発する。広電で向かったのは楽々園。佐伯区は前の広島勤務時代、つまり初めての社会人生活の時に過ごしたところ。当時住んでいた建物(会社寮)はずいぶん前に取り壊され、跡地にマンションが建っているのも見たことがある。楽々園方面もたまに来ていて、宮島街道沿いのごちゃごちゃした感じも懐かしいところである。

圓明寺へは楽々園からバスで近くまで行けそうだが、本数も1時間に1本とかだし、まあせっかくなのでそのまま歩いて行く。広島工業大学のキャンパスを横に見ながら進む。学生向けなのか、住宅地の中にワンルームマンションも結構目立つ。

そろそろ上り坂が強くなるが、その中を結構クルマが行き交う。この先に住宅団地が広がっており、歩いている道はちょうど海側に出る抜け道の一つになっている。

20分あまりかけて、国道2号線バイパス(西広島バイパス)まで出る。クルマで走ると(当たり前だが)そのまま通り抜ける道路なので、立ち止まって景色を見るのは初めて。正面にそびえるのは鈴が峰。ゴルフコースもある。

この辺りは古代の山陽道「影面(かげとも)の道」が通っていたとされる。今は平野から高台にかけて住宅地が広がり、そこを西広島バイパスが突き抜けるイメージだが、「影面の道」の平安時代の9世紀頃までは、広電やJRが走る平野部のほとんどは海で、さらに昔は、現在の観音、八幡、石内という山麓地区まで湾が入り組んでいた。その辺りには海沿いに住んでいた人々の遺跡が残っている。

この「影面の道」、都と大宰府を最短で結ぶルートで造られたのだが、後に瀬戸内の海上ルートが整備されると移動の主力はそちらに移り、律令制の終わりとともに官道としての役割も終えた。ただ、20世紀になり、現在の山陽自動車道が建設されるにあたり取ったルートは、くしくもこの「影面の道」に沿うものだった。

平安時代後期になって、現在眺めている辺りまでが海岸線となり、江戸時代に広電、JRの線路辺りに来た。現在の国道2号線(宮島街道)はちょうど海べりを通る形で整備されたことになる。そして現在は埋め立てが進み、海岸線がさらに沖にまで後退している。こうした長い歴史があるとは初めて知った。

バイパスの側道に沿って進むと圓明寺に到着。すぐ手前に墓地がある立派な寺があるが、こちらは「延命寺」。読みも似ていてまぎらわしい。目指す圓明寺はその隣、小さな公園はあるものの山門もなく、お堂が一つ建つだけである。

寺があるのは佐伯区の三宅というところで、境内にはその地名の由来を記した石板がある。三宅という地名はあちこちにあるが、古代朝廷の領地だった屯倉から来ている。それだけ古くから開かれていた土地で、「影面の道」も通って文化も開けていたところとされている。この圓明寺も平安時代初期に弘法大師により開かれたとある。当時の海岸線がこの辺りまで来ていたとすれば、宮島とは目と鼻の先である。この地に弘法大師が訪ねていたとしても不思議ではないだろう。

本尊は弘法大師作と伝わる如意輪観音。こちらも秘仏のようで、本堂の外からムニャムニャとお勤めである。

本堂の横には、任助法親王の宝篋印塔が安置されている。任助法親王は室町~戦国時代の人で、京都の仁和寺の門主も務めた。「西の御室(仁和寺)」とも称される宮島の大聖院に滞在していた時に亡くなり、その供養として建てられたのがこの宝篋印塔である。ちょうど宮島と対峙する場所が選ばれたということかな。

江戸時代までは伽藍を持ち、支院もあったようだが、明治の廃仏毀釈でほとんど廃寺状態となった。その後再興され、現在に至っている。本堂の裏に小さな墓地があり、歴代住職の名前が刻まれているが、再興してからのものだろう。

さて朱印だが、一応隣の家屋が本坊で納経所として対応する造りにもなっているが、広島新西国の常として、箱に収められた書き置きをいただく。ともかくこれで8ヶ所まで来て、広島新四国の10分の1を終えた。ここからは広島市内のあちこちを回ることになる。

帰りも下りということでそのまま歩いて戻る。この辺りはかつて観音村と呼ばれ、今は新たに山側に観音台という住宅地もある。どこかに観音を祀る寺でもあるのかなと思って調べてみたが、その観音とはここから西にある極楽寺山、この広島新四国でも訪ねた極楽寺の本尊十一面観音のことだという。その麓を観音下と呼んだこともあり、明治時代に6つの村が合併して観音村となった(その後五日市町~広島市佐伯区となる)。

その中に観音神社というのがある。観音さんと神社なんて神仏習合かいなと思うが、もともと各集落ごとにあった氏神が合祀され、戦後になってこの名前がつけられたところ。元となる神社が鎮座してからは1100年を超えるという。

境内は公民館、保育園と一体化しており、その中にまだ新しい拝殿がある。開運厄除、子育て安産の神様として地元の信仰を集め、これからも受け継がれていくところである。

この神社の狛犬が珍スポットだという。よく見ると頭に皿状の凹みができている。昔、人々が狛犬の頭に米などの穀物を置いて指先でさすり、幸せを祈願したという。それが重なって徐々にすり減ったのが今の形だとか。中にはこの凹みに小銭をお供えする人もいるという。信仰の形もいろいろあるものだ。

今回は楽々園駅からの散歩のような形となり、電停に戻る。帰宅前にいったん線路の南側に出る。

向かったのは「塩屋天然温泉 ほの湯」。昨年広島に移ってから何回か訪ねているところで、地下1100メートルの花崗岩層から汲み上げた天然の塩化温泉である。今回散歩の後ということで汗を落とす。

これからの市内編では、できるだけ鉄道、バスを使って回りたいところ・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~鳥取から広島に戻る、次は・・?

2021年05月18日 | 中国観音霊場

5月4日、鳥取駅前のバスセンターにて16時発の広島行きの便を待つ。今年の1月、広島から西国四十九薬師めぐりで城崎、香住と回って鳥取から戻るという循環ルートでも乗った路線。今回も往路は高速バス+鉄道、復路がこのバスということで、極力経路がかぶらない循環型に近い行程となったが、鳥取での一献は時間的にお預けだ。

前回来た時もコロナ禍の影響で鳥取発着の高速バスの運休、減便が行われていたが、この3月には日本交通等が運行していた倉吉・鳥取~東京便、米子~東京便が廃止となった(格安系の高速バスは残っているようだが)。首都圏の感染が収まらないことや、バスは換気が行われているとはいえ、やはり長時間同じ車両内で他の客と過ごすことを嫌ってか、東京都の行き来そのものが減っているのだろう。

待合室のベンチに座っていると、警察官がやって来てカウンターの係員が何やら話をしている。そういえば、先ほど外の乗り場にあるコインロッカーに荷物を取り出しに行ったところ、バス乗り場のベンチで5~6人ほどが大きな声でしゃべっていた。手には缶ビールなどもあったと思う。まあ、この程度の酔っ払い?はどこにでもいると思うが、最近話題になっている「路上飲酒」?ということで乗客かバスセンターの係員が警察を呼んだのかな。鳥取あたりだと特に敏感なのかもしれない。まあ、今のところ他の客に迷惑をかける様子はないということで、ひとまず様子見ということになったようだ。

広島行きの時間となり乗り込む。前回1月に乗った時は途中の倉吉からの客も含めて4人だけだったが、今回は連休中ということもあり定員の3分の2ほど、20人近くの乗客がある。電話予約で1人席を希望したところ後方の席しか空いてなかったことで、私のバス旅には珍しく後部座席での利用である。

これから広島まで5時間半の長時間乗車。最初の停留所である湖山(湖陵高校前)でも乗車があり、まずは国道9号線を走る。

白兎海岸の砂浜が現れた。今回、この景色を近くで見ようと、進行方向右手である1人席をリクエストした。先ほど鳥取砂丘では晴天だったが、駅に戻った辺りから少しずつ雲が出てきていた。ちょうど4日から5日にかけて天気の下り坂だった。そのため白兎海岸も曇りの景色でちょっと残念。画像では見えにくいが、この辺りは鳥取県内有数のサーフポイントということで、海面には黒いウェットスーツ姿のサーファーが何人も浮かんでいる。

その様子を見て、ふと「因幡の白兎」の話を思い出す。ちょうど白兎海岸だ。白兎がワニたちをだまして並ばせて海を渡り、後にワニたちから仕返しを受けて毛をむしり取られる。その後で大国主命に助けられるのだが、この「ワニ」について、現在では山陰でいうところの「鮫」という解釈が主だが、一方でクロコダイル、アリゲーターのほうの「鰐」も実際に日本海にいたという説もある。

鮫でも鰐でもどちらでもいいが、ちょうど海に浮かんでいる黒いスーツのサーファーの姿が「ワニ」を連想させ、ちょっとこいつらおちょくったろうか・・と他の地方から来た「白兎」がどこかにいやしないかと見渡してみる。「古事記」の記述について、白兎を渡来系の氏族、ワニを山陰の土着の氏族として、その間に抗争があった・・という解釈もあるようだ。

今回は海岸の景色を楽しむこともでき、青谷から山陰道に入る。因幡から再び伯耆の国に戻り、はわいで下車。

倉吉駅に到着。ここからも2~3人乗車した。前日に通った倉吉の市街地を走り、横綱琴櫻の像や、長谷寺開山1300年の幟も見る。

この先国道313号線を走る。1月の時より日が長いので、外の景色もまだまだ見える。遠くには大山の姿も認めることができる。この先の関金温泉の近くに旧国鉄倉吉線の線路跡が残る。この跡地、トレッキングツアーの時だけ入れるのかと思っていたが、ツアーの時に普段閉鎖している山守トンネルなどを開放するという意味で、ガイドなしでよければ屋外の線路跡は自由に入れるそうである。ならば前日時間を作って遠征してもよかったかな。いずれにせよ、今後につながる情報だ。

少しずつ高度を上げ、まだ十分外が見えるうちに岡山県に入る。美作三湯の一つである湯原温泉も経由するのがこの路線の意外なところ。

湯原から米子道に入り、上野パーキングエリアで最初の休憩。トイレ、自販機のみの簡素なパーキングエリアだが、トイレの建て替え工事も無事に終了した模様である。

落合ジャンクションから中国道に入るとさすがに外も見えなくなり、ここからが長く感じられる。

そんな中、七塚原サービスエリアで2回目の休憩。時間的にここが夕食タイムだが、15分休憩では店内での食事は難しく、売店で何か買うことができればというところ。まあ、もし適当なものがなくても鳥取駅で食事は仕入れているから問題ないのだが。

確かレストランがあったはずだが、目に入って来たのは牛丼チェーンの松屋。つい先日、4月26日にオープンしたばかりで、広島県の備北エリアでは初出店という。ただいくら牛丼チェーンといえども15分休憩では厳しく、周りを考えるとバスの中に持ち込むというわけにもいかない。まあこれは個人ドライブ向けの情報ということで(牛丼チェーンでも、松屋はあまり利用することがないのだが)。

長いドライブだったが特に渋滞等もなく、21時35分の定刻より少し早く、広島バスセンターに到着。この連休は山陰を楽しむということで満足いくものとなった・・。

さて、この記事を掲載した5月18日時点の話。3日間の行程を半月かけて長々と書いているうちに、世の中の動きが変わっている。ここからグチです。

今回の札所めぐりの5月2日~4日の当時、緊急事態宣言は東京、大阪、兵庫、京都の4都府県が対象で、期間は5月11日までだった。それが5月7日の決定で、4都府県は5月31日まで延長となった。さらに5月12日から愛知、福岡両県が追加されることになった。まあ、5月11日での解除は難しいのではという声も挙がっていたが、新たに対象区域が増えるというのはいかがなものかと。企業なら、見通しの甘さを追及されることだろう。

ここまではまだよいとして、5月14日になって北海道、岡山、そして広島の3道県が新たに追加され、5月16日からの適用となった。政府は当初はまん延防止措置を適用する方針だったのが、分科会であっさりと方針転換。本音としては広島追加かいな・・・。とりあえずは5月31日までの期間とあるが、前にも書いたが緊急事態宣言の安売りが本格的になってきた。そのうえ、他にも緊急事態宣言を出してもらおうと手を挙げようかという県がちらほらあるようだ。

広島県の緊急事態宣言を受けてか、今回乗車した鳥取・倉吉~広島の高速バスも5月22日から当面の間、運休するという。あらあら・・・。

それはともかく、次回がいよいよ中国観音霊場めぐりの最終回、結願となるところ。どういうルート、手段で行くことになるか、緊急事態宣言の動きも見つつ、今から検討である・・・(他の札所めぐりもいろいろあるが)。

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第19回中国観音霊場めぐり~渡辺美術館と鳥取砂丘

2021年05月17日 | 中国観音霊場

5月4日、今回の中国観音霊場の札所めぐりは終わり、後は16時発の広島行きのバスまでの時間を鳥取で過ごす。時刻は12時を回ったところ。

覚寺口からバスで鳥取砂丘に向かおうと思うが、30分以上待ち時間がある。この先「鳥取砂丘 2キロ」の標識もあるが、確かこの先砂丘までは上り道、途中にトンネルもあったように思う。ちょっとハードかなと思いバスを待つことにする。

国道9号線バイパスを挟んだ反対側に、先ほどバスで通過した渡辺美術館というのがある。これまで訪ねたことがなく、どういうところか検索すると、刀剣や甲冑などの展示があるとのこと。覚寺口の一つ手前が渡辺美術館前のバス停なので、バスの待ち時間にちょっとのぞいてみることにする。

渡辺美術館は、鳥取の医師である渡辺元が開いた。昭和初期に台湾に赴任していた際、台湾の仏像の美しさに感銘して収集を始め、以来60余年にわたりさまざまな地域、時代、分野の美術品、民芸品を収集した。来て初めて知ったのだが、その数約3万点に及ぶとある。これを収集するだけでなく、地域社会の教育・文化の振興や、埋もれた地域文化の顕彰のために美術館が設立された。

館内の展示物の写真撮影は自由という。さすがにこれらが国宝や国重要文化財ならば規制がかかるのかもしれないが、「歴史や文化に直接触れてほしい」というのが美術館のスタンスだという。

この時の企画展が「わが館のお宝展」というもので、史料保存の観点から長期間展示できない作品を期間限定で展示している。今回は合戦ものだという。

まず大々的に飾られているのが関ヶ原合戦図。江戸時代のもので、関ヶ原を描いた屏風は歴史の教科書などでも目にするところだが、この構図が珍しいのは、合戦の最終局面で島津義弘が東軍の正面を強行突破した「島津の退き口」を描いているところである。

他には、平家物語から宇治川先陣、義経の弓流れ、那須与一の扇の的といった場面を描いた作品も並ぶ。これらも江戸時代のものだが、物語の世界をどのように絵に表現するか、描き手の想像力、センスが映し出されるところである。

ここからは通常展。まずは因幡・伯耆を治めた鳥取藩池田氏の宝物が並ぶ。池田氏の祖は織田信長の乳母の子である池田恒興で、信長とも仲が良かった。その縁からか、家紋には信長と同じ揚羽蝶をあしらったものを使っていた。池田氏は後に分かれて鳥取藩のほかに岡山藩も治めていたが、家ごとに模様が異なるがベースは揚羽蝶だった。

そして美術館のコレクション・・・だが、そのスペースの広さに圧倒される。それでも展示されているのは3万点のごく一部で、定期的に入れ替えをしているという。

その中で代表的なのが甲冑類で、古くは鎌倉時代の作もある。

兜もさまざまな装飾が施されており、文字が書かれたもの、動物などをあしらったものなどさまざまだ。中には、武田信玄がかぶっていたとされる白い毛の「諏訪法性兜」などもある。かつての復元天守や歴史博物館に行くと当時の甲冑や刀剣が展示されることが多いが、ここまで多くの数が一同に会するというのもなかなかあるものではない。

甲冑の次は刀剣、槍、弓矢などの武具も並ぶ。

美術品のコレクションも多彩で、特に仏教美術に関するものに惹かれる。千手観音や阿弥陀如来があるかと思えば、日本のみならず中国、朝鮮半島、チベット、東南アジア、インド・・各地の大小の仏像もある。

その他、工芸品、彫刻、絵画、陶磁器、民芸品・・など枚挙に暇がない。最初はバスの待ち時間を利用してちょっとのぞいてみようか・・というくらいの気持ちだったが、ここまで来ると砂丘行きのバスを1本遅らせる。写真はこれでもかというくらい撮り、この記事に掲載しているのもその一部だが、ザっと館内を流してもさばききれないくらいの展示。展示品を一つ一つじっくり鑑賞するなら1日で終わるかどうか。

さすがに次のバスに乗らないと砂丘からの折り返しが厳しくなるので、途中で切り上げる形で美術館を後にすることに。そこで出迎えたのは数十体の甲冑たち。最後に甲冑と記念撮影ができるコーナーである。ここまでのサービス?の美術館、博物館など他にないだろう。それにしても、こうして昼間、照明の下で見る分にはいいのだが、夜、暗い中で見ると結構怖い光景ではなかろうか。戦で亡くなった武士・兵士たちの怨念がこもっていて、夜中になるとガチャガチャ動き出したりして・・・。まあ、展示されている甲冑の多くは平和な江戸時代に、美術品・工芸品の意味合いでつくられたものだとはいうが。

鳥取砂丘行きのバスに乗る。時間からして砂の美術館までは無理で、シンプルに砂丘を見るだけかなというところ。終点の砂丘会館では、駐車場に入るクルマが列をなしていた。5月4日、大型連休後半である。天候もいいし、中国地方のみならず関西方面のクルマも多い。ちょうどこの日は、東京、大阪、兵庫、京都の4都府県を対象として、5月11日までの期間で緊急事態宣言が出ていた。ただまあ、過去2回の発令時と比べれば制限も緩いし、世の中の自粛ムードも薄くなっているのは確か。砂丘でも関西弁が多く飛び交っていた。

帰宅後、翌5日のニュースで、「連休中は多くの観光客で賑わっていました」として鳥取砂丘の景色が流れていた。連休中に砂丘を訪ねた観光客もコロナ前の4割程度だったそうだが、それでも昨年に比べれば大幅に増加。しかし地元の土産物店の話として、売り上げが全然回復していないという。いつもなら「旅行に行った」として職場やご近所向けに土産物を買うところだが、やはりこのご時勢、行ったことを公言するのがはばかれるところがある。それもわかるなあ。

多少暑いが、せっかくなので馬の背を目指す。急な勾配、深い砂に苦戦しながら頂上にたどり着く。

多少人混みが密にはなっているが、ここからの日本海の眺めは絶景である。さらに急な勾配を下って海べりまで行く人も多い。私も昔、馬の背から海まで行ったことがあったが、今はそこまでの力はない。

今の楽しみは、この景色を見ながら鳥取の二十世紀なしを味わう・・。

しばらく佇み、砂丘会館まで戻る。鳥取一の名所に来たことでこの旅も締まったと思う。バスのほうもそこそこの乗客があり、そのまま鳥取駅まで戻る。これから広島に戻るのだが、それも長い道中ということで・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~特別霊場「摩尼寺」

2021年05月16日 | 中国観音霊場

今回、鳥取シリーズの前倒しとして特別霊場の摩尼寺に向かう。覚寺口の集落の先にある。まずは県道をてくてくと歩く。

ちょうど鯉のぼりもあがっている。そうするうちに寺まで2キロの案内板が建つ。

昔からの参道なのか、沿道には多くの石仏、石碑が並ぶ。あるところでは江戸時代から昭和までさまざまな年代の石碑が並んでいるが、ここに集めたのかな。それだけ昔からこの寺を目指す人が多かったのだろうか。

小川を挟んだ対岸にも石仏が並ぶ。これもかなり年数が経過しているようだ。

また小さいながらも丁石が並ぶ。「文化○○年」という文字も見え、歴史がうかがえる。こうしたものを見ながら歩くと四国の遍路道を思い出す。この先も緩やかな上りが続く。

いい天気で少し暑いとすら感じる中、バス停から35分ほどで門前に到着した。門脇茶屋、源平茶屋という2軒の茶屋があり、精進料理や山菜料理が名物という。先ほど歩いている時に何台かのクルマが追い越して行ったが、中にはここが目当てという客もいるようだ。

茶屋の先に石段がある。そういえば前日に訪ねた三佛寺の人が「この後の長谷寺も石段、摩尼寺も石段」と言っていた。この先300段の石段が続き、参詣用の杖も置かれている。

石段の横には摩尼山の案内がある。私がこれから目指す摩尼寺だが、元々は山全体が信仰の対象で、山頂にある立岩は帝釈天降臨の霊地とされている。これを回るハイキングコースがあり、ハイカーらしき人の姿も見える。本来なら山頂まで行ってこそ摩尼寺に参詣したことになるのだろうが、そこまでの準備がないので寺の本堂まで行って中国観音霊場めぐりとする。

石段を上るが、灯籠が倒れていたり上部が失われているのが目につく。1943年に鳥取で発生した大地震で倒壊したというが、それから80年近く経過しても倒れたのがそのままというのはいかがなものかと思う。

石段の途中で山門に着く。「中国観音特別霊場」のほかに「帝釈天出現霊場」と書かれている。その昔、この辺りの長者の娘が帝釈天に化身して「この峰に鎮座して永く仏法を守り、衆生を救済しよう」と告げた。その帝釈天が出現したとされるのが摩尼山の頂上にある立岩で、後に慈覚大師円仁が寺を開いたのが摩尼寺の始まりである。しかし豊臣秀吉の鳥取攻めの際、摩尼寺も破壊されてしまう。

江戸時代、池田氏が鳥取藩を治めるようになって、鳥取城の鬼門を護るということで現在の場所に寺が再建された。

この上も石段が続くが、横の石碑も倒れている。これも1943年の地震?・・ではないだろう。

石垣がそびえ、城のような構えの門から境内に入る。赤い石州瓦が日に照らされて輝いている。

本堂に向かう。扉が開いていて、中に入ってのお勤めである。本尊は帝釈天と千手観音。その両脇に四天王が祀られている。その他の諸仏もあり、歴史と格式を感じさせる。

他にもお堂がある。閻魔大王を祀る閻魔堂や、伝教大師、弘法大師、慈覚大師を祀る三師堂がある。先ほど訪ねた長谷寺と同じく、こちら摩尼寺も天台宗の寺院なのだが、真言宗の弘法大師像も一緒にいるというのは何かわけがあるのだろうか。同じ平安仏教つながりで、教義も融合されているものがあるかもしれない。

奥には如来堂ということで、長野の善光寺の分身と虚空蔵菩薩が祀られている。さまざまな信仰の対象のようだ。この如来堂の正面から、境内を経て奥のほうに日本海をちらりと見える。その手前に砂地が広がるが、ひょっとして鳥取砂丘だろうか。

如来堂の裏が、さまざまな地蔵が並ぶ法界場である。ここから奥の院に当たる立岩への登山口となるが、そこまではいいかなと思う。その前に、熊に注意との立札があるのも気になる。

ここで折り返しとして朱印をいただく。文字は「千徳殿」とある。

帰りは下りということで足取りも軽く進む。さてこの後だが、摩尼寺口のバス停は本数が限られているので、もう少し進んだ覚寺口のバス停まで行くことにする。このまま鳥取駅に戻れば、帰りの広島行きのバスの時間までに残り2ヶ所を回り、この大型連休で一気に結願とすることができる。ただそこは最後、鳥取での祝杯も含めて取っておくことにしている。

ならば、ということでせっかく来たので鳥取砂丘に向かうことにする・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~倉吉で1泊、次は鳥取の札所へ

2021年05月15日 | 中国観音霊場

5月3日、2つの札所めぐりを終えて早い時間にホテルにチェックインする。

この日宿泊したのは駅から徒歩3分の「ホテルアーク21」。最上階に大浴場(温泉ではないが)があるのがポイントとなった。もっとも男女入れ替え制で、男性が入れるのは夕方~夜だけだが。

フロントには「大相撲 横綱大関来館!!」と掲げられている。平成27年(2015年)の秋巡業が倉吉で行われた際、このホテルの大浴場を利用したそうだ。やって来たのは横綱白鵬、鶴竜、そして当時大関だった稀勢の里。夕方に大浴場を利用した際、こちらには「横綱大関浴場」の貼り紙が記念に飾られていた。やはり番付最上級の力士ということで特別に用意したのかな。

部屋に入り、この日はネット環境も整っていたのでNHKでプロ野球のデーゲーム(ドラゴンズ対ベイスターズ)を流しながら、パソコンでブログ原稿書きである。まだ、4月末の津和野行きのところでなかなか追いつかない。

そうするうちに時刻は17時。今回は倉吉で一献ということで外に出る。向かったのは山陰といえばということで「炉端かば」。米子、浜田に続いて3店目の利用である。

入店時に検温、アルコール消毒、まあこれは今時当たり前として、席に着くと一人ずつ氏名と連絡先を記入するよう求められる。ただ世の中にはこういうのを嫌がる人が一定数いるのだろうな。

今回もカウンターを予約。地酒の飲み比べと赤天のセットがサービスでついてくるプランがあり、予約が必要だがお一人様でも利用できる。突出しは別に出てきて料金が発生するが、地酒2杯と赤天がサービスということで、これはおすすめである。

「なかなか飲めないものを選びましょう」と店の方が持って来た2種類は「日置桜 青水緑山 特別純米」、もう一つが「いなば鶴 五割搗き 強力」。いずれも飲みやすいところである。

「かば」の名物は2人前から受付の「桶盛り」だが、1人前もできる。シンプルに4種盛り。

代わりといっては何だが、隠岐の島産の岩ガキも注文。むしろこちらのほうに山陰らしさを感じる。冬の瀬戸内の真ガキ、夏の山陰の岩ガキ、中国地方には季節ごとの楽しみがある。

野菜部門では奥出雲のシイタケ焼き。歯ごたえあり、しっかりした味だ。

この後は、大山の地酒「八郷」を使ったアサリの酒蒸しや、締めには海苔もちなどいただく。時間が経つにつれて店内には次々と来客があり、賑やかになる。

しかるべく飲み食いしてホテルに戻り、最上階の大浴場へ。巡業では横綱大関も浸かった浴槽に入り、窓の外に広がる倉吉の夜景を眺める。この後はホテルでのんびりと・・。

・・さて、翌日5月4日。この日は今回の最終日である。連休はもう1日残っているが、それは完全オフ、休養に充てることにしている。

この日は鳥取まで出て、16時発の広島行きの高速バスで戻ることにしている。中国観音霊場めぐりとしては、それだけ時間があれば鳥取市内の残り3ヶ所を回って結願とするのはわけないが、あえて、特別霊場の摩尼寺だけ訪ね、あとの2ヶ所は最後に取っておくことにする。中国観音霊場めぐりでは各県のいろんな景色を見ようということもあり、夏にさしかかった時季に行く予定にしている。

ホテル併設の居酒屋にてシンプルな和定食の朝食。

部屋でゆっくり支度した後、8時33分発の鳥取行きに乗る。列車は8時08分に到着してほとんどの客が降りた後に乗り込む。発車までしばしのんびりする。

ガラガラにて発車。日本海もちらりと眺め、北前船の寄港地だった青谷を境に、伯耆の国から因幡の国に入る。

宝木で列車の行き違い停車。そこにやって来たのが、鳥取から出雲市に向かう「あめつち」。列車からはこの日も「SUN-IN」の景色を楽しめることだろう。

ガラガラだった列車も、因幡の国に入ると駅ごとに乗客が増え、出入口付近に立ち客が出るほどになって9時43分、鳥取着。

中国観音霊場めぐりのゴール地である鳥取。結願の乾杯は次の機会に取っておくとして、今回は一つだけ離れたところにある摩尼寺を回ることにする。

交通機関を調べたところ、駅前のバスターミナルから日本交通の北園線というのに乗り、摩尼寺口バス停で下車、そこから徒歩40分・・・とある。1~2時間に1本、土日祝日は一部減便というダイヤのところ、バスターミナル10時ちょうど発というのがあった。

路線バスは、途中の覚寺口までは鳥取砂丘に向かう系統と同じ道を走る。この後の行程にもプラスになりそうだ。ここで脇道に入り、数百メートル走って摩尼寺口に到着。後は、ここから寺に向けて歩くことに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~第30番「長谷寺」

2021年05月14日 | 中国観音霊場

打吹地区の町並みをぶらついた後、打吹山の西側に回り込み、この日2ヶ所目の札所である長谷寺に向かう。「開山1300年」の幟が見えたところが長谷寺への上り口である。ちなみに手前には円形劇場くらよしフィギュアミュージアムがあり、これを目印にするのもいいかな。

今から1300年前というと、721年、奈良時代の前期である。元明天皇の勅命で、法道上人が開いたとされる(法道はここにも顔を出すのか)。近くには伯耆の国府、国分寺の跡があり、この辺り、国の中心である。もっとも当初は別の地に開かれたそうだ。古くには七堂伽藍を有していたようだが、はっきりしたことはわからないようだ。現在の寺は鎌倉時代に再興されたという。

長谷寺は打吹山の中腹にあるということで、まずは石段を上る。一部はコンクリートの階段となっており、後はちょっとした上り坂である。道端には地蔵像や丁石が残されている。

途中には不動堂がある。その奥にはちょっとした広場があり東屋もあるが、草生していてちょっと立ち入るのはためらわれるかな。

10分ほど歩き、まず本坊に着く。ただ先にお参りということでそのまま石段を上る。前方に、舞台造りの建物が見えてきた。先ほど「開山1300年」の幟とともにあしらわれていたのがこの本堂の舞台である。

いったん本堂を下から見上げた後、山門に向かう。改めて境内に入ると、年月を経た狛犬や石仏に交じって、真新しい狛犬が建つ。銘を見ると令和3年とあり、開山1300年ということで新たに奉納されたようだ。後でわかったが、先日の4月18日に記念法要が執り行われ、、本尊十一面観音の御開帳や絵馬堂の公開があったばかりとのこと。

こちらの本堂は室町時代に建てられ、戦国時代の兵乱で周りの建物が焼失したもののここだけが唯一残ったという。それが観音様のご利益ということでより多くの信仰を集めたそうだ。その後何度かの改築を経て現在にいたる。昔は多くの絵馬が奉納されており、絵馬の寺とも言われていた。この絵馬は本堂の奥で保存されており、見学は要予約(ただし当日でも住職の都合が合えばOK)とある。まあ・・・そこまではいいかな。

ちょうど舞台の外から吹き込む風が心地よく、椅子に腰かけてのお勤めとする。絵馬もそうだが、柱にもさまざまな札が打ち付けられている。

ここは天台宗の寺院であるが、なぜか本堂の中に弘法大師が祀られている。歴史的に何かがあったのだろうか。

納経帳ということで一度石段を下りて本坊に向かう。これで倉吉シリーズを終え、中国観音霊場めぐりも、鳥取市内の残り3ヶ所だけとなった。倉吉といえば打吹山の麓の町並みのイメージが強かったが、中腹にこうした古刹があるとは今回初めて知った。大和の長谷寺にも少し通じるところがあったようにも思う。

ここから市街地に戻るが、打吹公園の中を通って行くことにする。長谷寺の続きということで西国三十三所や四国八十八ヶ所の石仏、大山の下山大明神の祠が並ぶ。

途中に景色が開けたポイントがあり、西の方向に高い山々がそびえる。その真ん中で雪をかぶっているのは大山だろうか。

打吹公園はかつての打吹城という山城の跡地である。南北朝時代~室町時代に山名氏の守護所となったところ。後に毛利氏、南条氏が治めたが大坂の陣の後の一国一城令で取り壊しとなった。倉吉は江戸時代、鳥取池田藩の家老だった荒尾氏が町中に陣屋を置いて統治することになった。先ほど長谷寺に向かう途中にあった広い空き地は、当時の打吹城の出丸の一つだったそうだ。

公園ということもあって歩道も整備されていて、ゆるやかな下りが続き、新緑の中を歩いていく。やがて市役所や倉吉博物館などが建つ一角に出る。博物館に入ってみようかとも思ったが、実態は博物館というよりは美術館の色合いが強いうだ。この時の企画展は「片岡鶴太郎展」。タレント、芸術家として活躍されている方だが、今ここで作品を鑑賞しよう・・・とまでは思わない。

これで琴櫻の銅像まで戻ってきた。時刻はまだ13時半近いところで、当初の予定として倉吉で1日・・といった割には半日少しで札所も回り終え、実質終了である。一応、三朝温泉や倉吉の町並みも見たし、ホテルへのチェックインにはまだ早い。かといって、山陰線に乗ってどこかに出かけるには中途半端な時間だ。もう一度三佛寺投入堂にチャレンジ?・・・ないない。

ともあれ、バスで駅に戻ることにする。そもそも、昼食がまだである。私の旅では昼食を食いっぱぐれることがしばしばあるのだが、白壁の町並み地区には失礼ながら入ろうと思わせる食事処がなく、駅近辺のほうがまだ何かしらあったかなと思う。そんな中、駅前に戻るバスの中から「牛骨ラーメン」の看板が見えたので行ってみる。牛骨ラーメン、どこにもありそうだが実態は鳥取県の中でも西部、つまり伯耆の国で食べられる一品だという。

訪ねたのは「ラーメン幸雅」。「なつ旨ラーメン」の文字が書かれている。昼食のピーク時はとっくに過ぎているが客足が絶えることない。この「なつ旨」とは「なつかしくて旨い」の意味だそうだ。ラーメンにしては結構待った後に出てきたのは牛骨から取った出汁をベースにした塩ラーメン。懐かしいかどうかはともかく、あっさりした中でしっかり味が出ていた。

この一帯で牛骨ラーメンが流行したのは諸説あるそうだが、かつて大山の麓で「牛馬市」というのがあったことにも現れるように牛の流通が多く、そのため鶏ガラより牛の骨のほうが容易に手に入ったからというのが有力だそうだ。他にも、牛骨のほうが長時間煮込んでも出汁がよく取れて経済的だというのもあったとか。それなら他の牛の産地でも同様に広まってもよさそうなものだが、今のところご当地メニューとしてPRしているのは鳥取独特のようだ。

食事をするうちにそろそろホテルのチェックイン可能の時間、15時である。この日は早々とチェックインして、しばらく部屋でゆっくりすることに・・・。

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