まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第1回四国八十八所めぐり~第6番「安楽寺」

2016年07月31日 | 四国八十八ヶ所
徳島バス鍛冶屋原線の東原バス停から10分ほど歩くと、龍宮城のような形の山門が現れる。第6番の安楽寺である。ここは温泉つきの宿坊があり、朝から第1番の霊山寺から歩きで来た人は、初日はここ、もしくは次の第7番十楽寺にある宿坊に泊まる人が多いそうである。せっかくの四国めぐり、宿坊の宿泊というのも面白そうだが、移動しながら途中で宿泊となると大がかりな荷物を担がなければならない。また私の場合、就寝時にある機械を使用しなければならず、これが大きなネックである。普通の旅行ならキャリーバッグを引きながら移動するのだが、八十八所めぐりでキャリーバッグもないだろう。この先どこかでそういう宿泊もあるだろうが、今のところ徳島県内では徳島駅前などをベースとして「通い」で行くことになりそうだ。

山門の前に「四国六番 安楽寺」の石柱があり、その横には「四国遍路五百度満願記念 先達 福田祐峯(正之祐)」とある。安楽寺のあるここ上板町の出身で、500回の満願を記念して建てられたものである。

それにしても四国遍路を500回満願って・・・平成11年から11年の年月をかけてとあるが、年平均40数回、月に3回以上は満願している計算になる。まあ、だとすると歩きではなくクルマということになるのだろうが、それでもほぼ休みなしで回っている計算である。弘法大師は今でも四国を回っていると言われているが、手段の違いはあるとしても、「現代版弘法大師」と言っていいだろう。さらに驚きなのはこの福田先達は今でもご健在で、今年で満願回数は640回を超えるとか。ネットを見ると、福田先達に会ったり宿が同じになったことが巡礼中のありがたい出来事として書かれているものもある。

境内には池があり、その向こうには弘法大師像と「さか松」がある。ある日、猟師が弘法大師を獲物と間違って矢を放った。すると1本の松が風もないのになびいてその矢を受け、大師の身代わりになった。猟師は病気の父親に猪の肝を飲ませようとして狩りをしていたのだが、弘法大師はそれを聞いて父親に加持を行ったところ、病が治った。身代わりになった松の枝を逆さに植え、「この松が芽を出し栄えることがあれば、この地を踏む者は災厄を逃れる」とした。何でまた逆さに植えたのだろうか。

本堂の前には温泉の成分が出ている手水もある。飲んではいけないが・・・。

本堂は近年再建されたものだそうで、扉を開けて入るようになっている。「冷房中のため扉をお閉めください」とある。中では何組かが手を合わせているが、外に比べれば幾分か涼しい。こちらの本尊は薬師如来。ということで、日光・月光菩薩、十二神将という「チーム薬師」が勢揃いである。この本尊薬師も昭和の作ということで、それにまつわるエピソードがあるのだが、書けば長くなるので詳細は安楽寺のホームページにて。

納経所は本堂の中にあるが、ここは作法通りに先に大師堂にお参りということで一度外に出る。大師堂も同じようにドアを開けて中に入るが、こちらは冷房がなく、閉めきった空間なのでムワッとする。また汗が出てきた。

朱印をいただいた納経帳をリュックにしまっていると、横では納経軸にドライヤーを当てている人がいた。さすがに八十八もあると納経軸も大きい。クルマやバスツアーならまだしも、歩きで回るなら結構な荷物になりそうだ。ただその分、得られるものは大きいだろう・・・。

駐車場の入口に「遍路道」と書かれた石碑があり、上に弘法大師像が乗り、横には「四国八十八ヶ所徒歩巡拝 全国友の会結願者氏名」がずらりと並ぶ。先の福田先達を顕彰する意味合いもあるのだろう。この石碑を背に、次の十楽寺に向かう。時刻はまだ10時半だが、結構しんどくなってきた・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~第5番「地蔵寺」

2016年07月30日 | 四国八十八ヶ所
強い雨が降り、そしてすぐに上がった大日寺を出て地蔵寺に向かう。余計に蒸し暑さが増したような気がする。緩やかな坂道を下る。先ほどお参りしていた人たちはクルマの人が多いようで、何台か追い越して行く。

徳島自動車道の高架をくぐると家の数が増えてきた。その中を抜け、大日寺から30分ほどで地蔵寺の奥の院にあたる五百羅漢に着く。こちらは地蔵寺のおススメスポットと言われている。四国八十八所の寺は入山料無料が基本だそうだが、こちらは拝観料200円かかる。建物はコの字の形をしており、左手の弥勒堂から入り、中央の釈迦堂を経て右手の大師堂に出る。その間の回廊に羅漢像がある。

五百羅漢の羅漢とは釈迦の弟子であり、仏教の中では、修行の成果、人間として最高の地位を得た者とされている。そのためか顔かたちに人間味があるのが特徴。五百羅漢を見ると必ず自分や知人に似た顔の像があると言われているのは、人間がベースだからだろう。石でできた五百羅漢はあちこちにあり、私が訪れた中では兵庫の加西・北条にある五百羅漢がインパクトあった。

こちらの五百羅漢は江戸時代にできたものだが、大正4年に火災に遭い、今あるのはその後で造られた像である。木造で彩色も施されており、リアリティがある。それがほんのり薄暗い中に並ぶので結構怖い。

中にはお腹に穴の開いた像がある。後で調べたところでは「ラゴラ」という人物をモチーフにしているそうだ。この像はやたらお賽銭が多い。ひょっとしたら「このお腹の中に賽銭を入れるとご利益がある」とでも言われているのだろうか。

釈迦像、弘法大師像にも手を合わせて五百羅漢を後にする。長い石段を下りると地蔵寺の本堂の裏手に出る。さて、これからが札所めぐりの本題である。境内に大きなイチョウの木があり、本堂と大師堂が向かい合っている。ここでも慣れた感じ、流暢に般若心経を唱える人の姿が多く、中には揃って白衣姿の親子もいる。

地蔵寺という名前のとおり、本尊は地蔵の中で勝軍地蔵と言われるもの。実際見ることはできないが、この勝軍地蔵は、甲冑を身に着け、錫杖と如意法輪を持ち、軍馬に跨るという勇ましい姿という。その辺の道端にある「お地蔵さん」とは離れたイメージだが、観音にもいろいろな姿があるように、地蔵にもいろいろな種類があり、それぞれ受け持ちがあるようだ。勝軍というのが武士にとっては縁起がよいということで、武家からの寄進も結構あり、全盛時には阿波、讃岐、伊予に寺領や多くの末寺を抱えていた。奥の院の五百羅漢を一体に含めると境内が広く、ゆったり感じられるのもその名残か。

納経所で朱印をいただき、順序が真逆になったが最後に山門に立つ。

さて次はこの日3所めの第6番・安楽寺である。山門のところで男性が近づいてきて、「次6番行くの?がんばりや~」と民宿のパンフレットを渡してくれたのだが、実はここで歩きを中断して、バスで移動することにする。ここで「公共交通機関モード」発動で、「全て歩く」という遍路の正統から早くも脱落である・・・。

地蔵寺からすぐ近くが県道で、その名も羅漢というバス停がある。1時間に1本ほどの便があり、次は9時50分。20分ほど時間がある。その時間を利用して交差点向かいのローソンに入ってしばらく休憩。さすがは札所近くのコンビニとあって、巡礼用品のコーナーがあるのに驚く。

やってきた鍛冶屋原車庫行きのバスには先客は誰もおらず、乗客は私一人だけ。これで数キロを稼ぐことにする。

この路線バスが走る県道だが、かつて国鉄の鍛冶屋原線というのが走っていた。今朝降り立った板野駅から出るいわゆる盲腸線で、ご他聞にもれず超赤字路線だった。その廃止後の路盤を転用したのがこの県道である。廃止線跡を取り上げたサイトなどによれば、羅漢のバス停の辺りにもかつて駅があったほか、鉄道が走っていた痕跡もいくつか残っているとのことである。

終点の鍛冶屋原車庫の一つ手前の東原で下車。安楽寺はここから歩いて10分かからない距離である・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~第4番「大日寺」

2016年07月28日 | 四国八十八ヶ所
まだ2日目の歩き始めのところである(相変わらず長々と)。

気合い、決意の丸刈りを薦める看板の理髪店を過ぎて、板野の商店街を抜ける。高徳線の踏切がある。旧撫養街道はそのまま西に直進するが、線路は北に折れている。大坂峠というのを越えて讃岐に出る道と分かれており、その石碑も立っている。

朝7時という時間では、外にいる人はまばらで、たまに散歩の人と挨拶を交わす程度の静かな歩きである。他の季節なら同じ列車で歩き始める人も見かけるのだろうが、そんな人もいない。雲が出て蒸し暑く感じる中、杖を突きながら歩く。

岡上(おかのうえ)神社の横を過ぎる。神社は源義経も屋島の戦いの前に武運長久を祈願したと言われており、立派なクスノキが境内を覆っている。案内によると樹齢700年という。江戸時代に、船の材料にするからと供出を命じられたが、村の人たちが「御神木だ」として皆でこれを拒んだという歴史もあるそうで、それを記念した石碑もある。

しばらく進むと道沿いにお堂がある。宝国寺といい、ここも本尊弘法大師とあるので拝んでおく(お経やら作法は省略だが)。後で知ったところでは、前日お参りした第3番の金泉寺の奥の院だという。奥の院というと、本堂からさらに山の上へ登ったところにあるイメージだが、えらい平坦なところ、街道沿いにあるものである。

犬伏という集落を抜け、徳島自動車道の高架をくぐったところに、昔の遍路道の案内がある。草むした、土の道である。全部歩いて回るいわゆる原理主義の遍路(逆にいえば、全部歩きでなければ「遍路」を名乗る資格はなく、単なる札所めぐり、ひいては「エセ遍路」と蔑まされている)の場合でも、今では道の9割はアスファルト舗装と言われる中、貴重なものだと言われている。せめてこの区間は体験しようというのが、朝一に板野駅から大日寺まで歩くことにした理由である。

杖で草を払いながら進む。それこそ田んぼの畦道だったり、家の路地のようなところもある。ところどころに立札があるから遍路道とわかるようなもので、日常なら歩くことはまずないところだ。人の家の庭先を通るところもあり、ちょうど家の人が庭の手入れをしていたが、歩いて来る人など慣れたものか、不審がるどころか笑顔で挨拶をかけてくる。

山道だが、ちょうど三角形の一辺をたどるようで近道なのだろう。そんな中でまたお堂が出てきた。愛染院といい、ここも金泉寺の奥の院である。弘法大師が不動明王を彫って祀ったのが由来とされている。まず手前にあった大師堂で、ここではお勤めをする。

山門には大きなわらじが下がっている。本堂の他に、赤沢信濃守の廟というのがある。戦国時代、板西城を拠点にこの辺りを支配していたが、長宗我部元親に攻められて討ち死に。それも、履いていたわらじの紐が切れた時にやられたという。

愛染院では、腰から下の病には霊験があるとして、病が治るとわらじを奉納するという。この辺りの殿様がわらじが切れて討ち死にしたのと、腰から下の病に霊験というのが結びつかないのだが、殿様の無念が病の回復につながるということなのだろうか。

愛染院からもまだまだ山道、遍路道は続くが、西国三十三所めぐりの参道でもこうしたところはあった。それを思い浮かべながら歩く。途中でパラッと雨が落ちてきたが、まだ雨具を出すほどではない。

板野駅から1時間20分、8時すぎに大日寺に到着。寺には何人かの参詣者がいて、本堂や大師堂でお参りの最中である。皆クルマで来ているのかな。大日寺は何年かの計画であちこちの修復を行っているそうで、全体的に明るく新しい雰囲気がある。

さて本堂でお参り・・・と、このタイミングで雨足が強くなった。うーん、早くも雨モードか。この行程で雨はつらいなと思いながらお勤めを終え、本堂から大師堂へ渡り廊下のように並べられた西国三十三所の本尊たちと対面。ガラス越しではあるが、西国三十三所もリスペクトされているようでうれしい。その中でもやはり目が行くのは、地元藤井寺の葛井寺の十一面千手千眼観音。

大師堂でもう一度一連の作法をしたところで、先ほど結構降っていた雨がぴたりと止んだ。別に私は何もしていないが、この偶然にびっくり。こういうのも、弘法大師の霊験で・・・・。

・・・というのが大小さまざま長年にわたり積もり積もったのが、弘法大師信仰の一端なのかな。

そんな偶然をいきなり弘法大師につなげるのも乱暴だなと思いつつ、納経所に向かう。納経帳を出す私を見た係の人は、納経帳を受け取る前に「タオル持ってはります?」と訊ねる。まあ、タオルは大小リュックに仕込んでいるのでそう答えようとしたが、それより前に「ちょっと待って」と一度奥に引っ込む。そして、「さらと違うけど、洗濯してるんで良かったら」と、地場の業者の名前入りのタオルを差し出してくれる。

よほど汗かきで大変な状態に見えたのか。汗をぬぐいタオルを返そうとしたが、「ええからお持ちください」と。まあ、返されてもまた洗濯は面倒なだけなのだとしても、ここはお心遣いに素直に頭を下げる。

雨の止んだ外を見て「さっき大雨になったんで慌てて傘立て出しましたけど、もう大丈夫でしょう。梅雨も明けますね」言う係の人に送られて、大日寺を後にする。次の札所、5番地蔵寺までは2キロほどだが、下りの道なので歩きでもさほどしんどくなく・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~2日目の行程

2016年07月26日 | 四国八十八ヶ所
相模原の障がい者施設で、元職員の男が入所者を次々に刺し、19人が死亡、負傷者多数という大惨事である。複数犯ではなく単独犯というのに驚きだし、不覚にも「河内十人斬り」という昔の事件のことを連想した。それにしても、深夜で寝ているところ、ましてや身体の不自由な障がい者である。刺されるがままだったのだろう。何が背景かは知らないが、弱者を狙った卑劣な犯行であり許せない。政治家を暗殺したり、ヤクザの抗争で相手のタマを獲るのとは違うのだ。

・・・話はここで置くとして。

時間を戻して7月17日、四国八十八所めぐりの2日目である。今回はこの2日で終了だが、4番の大日寺から始めて、10番の切幡寺まで進み、夕方に徳島駅に戻る。大阪に帰るためのバスは19時45分発で、まる一日ある。

この日どうやって回るか、前の夜もいろいろ考えていた。どう回るも何も、札所の順番に行くわけだが、個人ルールとして全部歩きではなく、鉄道やバスといった公共交通機関も大いに利用する(全部歩きではないから私のは単なる札所めぐりで、「遍路」を名乗る資格はないそうだが)。前日が3番で終わったために、2日目がハードなものになりそうだ。

3番金泉寺と4番大日寺は5キロほど離れ、大日寺と5番地蔵寺は2キロほど。地蔵寺のすぐ近くに羅漢というバス停があり、ここからバスで東原に行くと、6番安楽寺は数百メートル。また、安楽寺から7番十楽寺までも1.5キロほど。4・5番と6・7番をそれぞれセットと見ればいいだろう。

問題はここから。十楽寺から8番熊谷寺まで5キロ、その後9番法輪寺、10番切幡寺はポツポツという感じで離れている。熊谷寺と法輪寺の間くらいに二条中というバス停があるが、先ほどの系統とは違うし、本数も一日6本。切幡寺はさらに奥で、公共交通機関でのアクセスはできない扱いとされている。まあ、切幡寺からの帰りは二条中のバスに間に合うよう歩いて引き返すか、寺から7キロ離れた阿波川島駅まで歩くか(このルートは歩きならお薦めとされているそうだが、後述)。そんな中、寺からさらに3キロほど西にある市場というところまで行けば、市場交通という別の路線バスがあり、学駅まで出ることができる。何だか、巡礼なのかローカル路線バスの旅なのかわからなくなってきたが、私としては四国のローカル交通にもいろいろ接してみたい気持ちもある。

結局は、まずは列車で昨日利用した板野駅に行き、大日寺~地蔵寺まで歩く。地蔵寺からはバス移動で安楽寺、十楽寺と回る。ここまでで午前かな。後の熊谷寺、法輪寺、切幡寺については、二条中のバスの時間とにらめっこして行けるところまで行く。切幡寺あたりが次回に繰り越しとなりそうだが、なったら次は時間をかけて回ることができるだろう。

6時前にホテルを出る。この時間の出発だと無料朝食の特典を手放すが仕方がない。コンビニで買い求め、徳島6時11分発の鈍行の中で食事だ。朝から雲がかかっていて、ところにより雨の予報。雨具は持参しているができれば使いたくない。前日が列車と歩きで見た景色をもう一度見て、板野に到着。清掃中の駅員の挨拶に迎えられ、昔ながらのベンチが並ぶ待合室で白衣を来て巡礼姿になる。白衣の下は長袖シャツ1枚。前日、腕の汗で白衣がベトベトになったので、速乾性の長袖で緩和できるか。

板野駅前の商店街から大日寺を目指す。前日、金泉寺の名所の井戸を見逃しており、それに寄ってもいいかなと思ったが行かなかった。今回は、同じ札所への行き直しはしないと決めている。見逃しがあったとしても、それはそこまでのご縁しかなかったのだとする(仮に、納経所に行けなかったという事態が起こったならば、さすがに行き直すと思うが)。

板野の街道沿いの理髪店にこのようなポスターがある。これからの遍路で気合いの丸刈りか。3番を過ぎると、これまでの歓迎ムード、お試しモードは終わり、ここからは気合いを入れろと言われた気分である。

大日寺へは(地蔵寺とまとめて)路線バスで羅漢まで行こうかと迷った中で、板野駅からの歩きにしたが、これはなかなかのものだった。寺の様子と合わせて、後の記事にて・・・。
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改めて横綱昇進の条件とは・・・

2016年07月25日 | ブログ
このところ四国八十八所めぐり(それも初日)の記事が続いたので、ここで一息。

大相撲の名古屋場所は日馬富士の優勝で幕を閉じた。場所前は稀勢の里の綱取りがなるか、白鵬の1000勝なるかというのが焦点だったが、そのいずれもが今場所では実現せず、序盤で脱落したかと思われた日馬富士がその後ぶれずに勝ち進んだ。

で、そんな中での稀勢の里だが、秋場所に綱取りの可能性がつながったようである。秋場所こそ、優勝すれば横綱昇進ということになるそうで・・・。トータルで見た安定性というのを評価してのことだろうが、少し前の横綱昇進の時と比べると甘くなっているのは確かである。

個人的には、稀勢の里とバファローズのT-岡田というのは、どこかしら似たようなところがあると思う。

それはさておき、段々とハードルが低くなる綱取りについて、3年前の名古屋場所を前に(正しくは、夏場所を終えた後だが)、このような記事を書いていた。この時、2013年の名古屋場所での綱取りの可能性について書いたのだが、改めて考えると少なくとも3年以上、稀勢の里は綱取りの可能性がついたり消えたりとさまよい、それにもかかわらず1回の優勝もできていない。相撲が変わった、良くなった、厳しくなったということもなく、見方によっては何ら成長していない力士だと思う。

その時に「横綱昇進の条件」として私が勝手に書いたのが、

①3場所の勝ち星は40以上

②優勝は連続でなくてもよいが、3場所で2回以上。または、優勝1回プラス優勝決定戦1回以上。

3場所平均で13勝以上が求められ、その間常に優勝争いに絡み、実際に優勝すること。大関昇進に適用する勝ち星の条件と、綱取りに必要な優勝条件をミックスさせたものである。どうせ綱取りなら、このくらいはクリアしてもらわなければ・・・。

この条件で行くと、稀勢の里は秋場所で全勝優勝しても、①はクリアしても②で引っかかる。だから横綱にはなれない。でもこれでいいのだと思う。もとよりそういう運命の力士なのだから・・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~初日は徳島で憩う

2016年07月25日 | 四国八十八ヶ所
外は暑いのだが昼間に比べれば少しはましになってきたか、夕食に駅前に出る。

徳島の駅前に「安兵衛」という大衆酒場があり、地元の人で賑わう名店なのだが、行ってみると満席。連休中ということもあるし、この日まで徳島では消化器内科の全国学会があったようで、その関係もあるのかな。

それならばと、隣の「味祭」に入る。こちらは「安兵衛」の姉妹店。ただ、徳島の郷土料理メニューは「味祭」のほうが揃っており、観光客も気軽に入れる雰囲気がある。個人的にはこちらがお気に入り、おすすめではある。

歩いた後のビールと、徳島オリジナルのすだち酎などいただく。魚はお任せとして、阿波尾鶏、阿波彩鶏の焼鳥に、鳴門金時の天ぷら、小松島の竹ちくわ、そしてフィッシュカツなど。そうするうちに、私が入った時は先客一組しかいなかった店内も、予約客も含めて一杯になってきた。そろそろ出る。

19時前でまだ明るい。駅前から眉山の方向に腹ごなしを兼ねてぶらつく。昼間は暑い中歩いて消耗した感じだったが、シャワーと食事でリフレッシュできたことで落ち着いている。明日は長丁場になりそうだが。

藍場川にさしかかる。ここで川縁を歩くと、ひょうたん島クルーズの案内がある。前に徳島に来た時に乗ったことがあり、徳島は川が多く、水の街であると感じた乗り物だった。その川に囲まれた市の中心部の中州の形がひょうたんに似ていることから、ひょうたん島としてPRしている。

そのひょうたん島クルーズに、夏の間は時間延長で夜の便があるそうだ。料金は昼と同じ200円。観光業者ではなく、市の後押しもあるNPOのようなところが運営しているから低価格である。

両国橋のたもとから乗り込む。ひょうたんを型どった小型船には私を含めて6人が乗る。操縦士一人の気軽なもので、観光案内があるわけでもなく淡々と進むが、それでいい。

コースでは何本もの橋をくぐる。欄干がライトアップされていたり、橋を渡る人と手を振り合ったり。少しずつ暮れ行く夕日と、満月に近い月の明かりとともに走る。川面を渡る風が心地よい。

途中には身をかがめなければならない橋もあったり・・・。

河口に近く、ヨットをもやっている岸もある。また正面に姿を現した眉山の稜線も良い。後で知ったところでは、眉山のロープウェイは夜も動いているそうだ。またの機会に、眉山に上がって徳島の夜景を観るのもいいかな。日本三大夜景に劣らない景色が観られるかも。

20分ほどのクルーズを楽しんで両国橋に到着。舟を下りると祭り囃子が聞こえてくる。両国橋には阿波おどりの像もあるから、ある時間になったらお囃子が鳴る仕掛けでもあるのかな。

・・・ところがそうではなく、これは言わばライブ音源。舟乗り場に接して広場があり、どこかの「連」だろうか、本番と同じように鳴り物も入れて稽古の最中である。こうした場所での稽古も日時の割り当てがあるのかな。また、両国橋と藍場川を挟んだ対角線上の道路では、この鳴り物を利用する形で踊るグループがいた。

テレビの旅番組なら、「せっかくなので、私も飛び入りで躍りを体験させてもらいました~」という演出が入るのかもしれないが、ここは稽古中ということで、他に来ていた観光客らしい人たちと邪魔にならないように見させてもらう。本番の阿波おどりの時季は多数の見物客で賑わい、徳島に宿泊することもできないが、こうした「素」の姿で踊っているのを見ることができたのは、思いがけず面白かった。これは四国八十八所めぐりのおかげだろう・・・(もっとも、眉山のロープウェイ乗り場にある阿波おどり会館では、年間通して阿波おどりの上演があるし、見学客も踊ることができる。以前に訪れた時、踊り手の人に引っ張られて踊ったことがあった。手足がぎこちないのに、汗だくだったからか、敢闘賞をいただいた)。

徳島郷土料理にクルーズ、阿波おどりと、短時間のコンパクトながらいろいろ味わった。両国橋から東横インは同じ通りで、そのまま戻る。この夜はNPBのオールスター第2戦。TBSか(昔なら)フジテレビ系列の中継のイメージがある横浜スタジアムの試合をテレビ朝日が中継するのも珍しいなと思いつつ、今やオールスター戦はテレビ朝日しか中継しないコンテンツになったのかと感じる。

まあ、私もオールスター戦には興味がないので、別にどちらでも。それよりも、徳島は民放が四国放送1局しかなく、本来なら地デジ化の時にチャンネル難民で溢れ変えるはずだったのに、それを(ケーブルテレビ普及などで)乗り越えて、関西の主要4局プラス和歌山テレビが普通に映っているのに感心していた・・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~第3番「金泉寺」

2016年07月24日 | 四国八十八ヶ所
遍路道を歩き、最後は草むした昔ながらの道を歩いて金泉寺(こんせんじ)の境内に入る。ただ脇から入る形になったので、改めて山門まで行く。さすがに暑いのでベンチで少し休んでから参詣である。

もうお参りを済ませたのだろうか、バスツアーの人たちの姿は見なかったが、何組かの個人での巡礼姿を見かける。それぞれ思い思いに手を合わせている。この日初めて四国めぐりを行って、これで3所目(前札所の十輪寺は除く)だが、白衣に輪袈裟というスタイルの人が圧倒的に多い。西国の場合はいわゆる観光寺院も多く、巡礼というより観光で回る人が多い。西国では巡礼姿は浮いた感じがするのだが、四国の場合はそれで回らないと・・・という雰囲気がある。

本堂でお勤めを行い、その後で大師堂に向かう。3所目となると経本を読むのも落ち着くようになり、そろそろルーティンが出来てくるのかなと思う。

金泉寺は聖武天皇の祈願で行基が開創したとされている。その後、弘法大師が訪れた時に、水不足解消のため井戸を掘った。その井戸から金色の霊水が出たことから、寺の名前も金泉寺になったと言われている。

来る前は、「その井戸が境内にあり、覗き込んで自分の顔が見えれば寿命が3年延びる」ということをネットで見ていたのだが、実際に来てみてそういうことが頭から抜けていた。後で調べたところでは観音堂の奥にあったようだが、境内に詳しい案内図があったわけでもなく、その時には全然気づかなかった。また、金泉寺は源義経が屋島攻めの時に一時休憩したとされており、弁慶が力試しに持ち上げたという力石も境内にあるのだが、これも同じく気づかなかった。

境内のどこにあるか見つけられないのであれば納経所の人にでも訊けば済むことなのだが、頭から抜けていたのでは話にならない。今思えば、暑さと疲れということもあったにせよ、四国に来るについて「いかにして回るか」「どうやって寺にアクセスするか」「お勤めをどのようにこなすか」ということのように意識が行っていたように感じる。これから先はまだまだ長いが、もっと札所そのものについての予習や、境内についてもっと触れることを心掛けなければと思う。

さてこの時はそういう状態で本堂と大師堂を回った後で納経所に向かう。自動ドアのついた新しい感じの納経所で冷房も効いている。女性2人での対応だ。

朱印をいただき、納経帳をリュックにしまっていると、そのうち片方の女性から「あの~歩きの方、帽子はお持ちですか?」と訊かれる。帽子はかぶっていたが、境内ということで脱いでリュックに入れていた。そう答えると「別にそんなん気にされなくても・・・暑い中大丈夫ですか」と言われる。人から見たら疲れた感じに見えるのかな。

時刻は15時を回ったところ。次の第4番・大日寺は5キロあまりということで1時間あまりかかる。また、大日寺から第5番・地蔵寺は2キロ。お勤めの時間も考慮すると、地蔵寺は納経所が閉まる17時ぎりぎりかな。大日寺と地蔵寺はセットで考えていたので行くならまとめてだが、時間が微妙なところである。翌日に10番まで行くことを考えれば初日に先に進めておきたいところだが・・・。

ちょっと迷ったが、初日は3番でおしまいということにした。15時過ぎというのは早い感じもするが仕方がない。徳島に着いたのが10時前、さらにそこから板東までの移動もあったが、人によっては「十輪寺はともかく、ドイツ館に寄り道しているようでは札所めぐりは進まない」と思われるだろう。ものの本や個人のブログなどを見ると、初日は歩きの人でも最低5番の地蔵寺までは行くようで、3番でおしまいというのは短い。

金泉寺で打ち止めとしたのは、高徳線の板野駅に近いということもある。板野の町並みを10分ほど歩くと駅に到着。徳島から板野までの区間運転の列車も多く、ちょうど15時24分発の板野始発の列車が出るところだった。車内に入り、汗だくになった白衣を脱ぐ。ついでに車内のトイレでシャツも取り替える。やはり列車は快適だ。この日歩いた区間は線路から近いとあって、その様子も見ることができる。降り立った池谷までは3駅だ。

徳島に到着。この日は駅近くの東横インにチェックイン。クルマ、歩きともに巡礼の利用もあるようで、ロビーには寄せ書きのノートも置かれていた。阿波の札所を公共共通機関で回る場合は、列車やバスの系統が徳島駅に集中していることから、徳島駅を拠点にするのが便利なようだ。

汗だくなのでシャワーを浴び、白衣も明日に備えてバスルームで選択する。速乾性の素材が使われているということで、朝までには部屋干しでも乾くだろう。

まずは初日を終えたということで、夜の町に繰り出すことに・・・(本当はこちらのほうが印象的だったりして)。
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第1回四国八十八所めぐり~第2番「極楽寺」

2016年07月23日 | 四国八十八ヶ所
ドイツ館に寄り道した後で到着したのは第2番の極楽寺。県道に面していることもあってか、開放的な雰囲気である。朱塗りの山門が出迎えてくれる。山門横の駐車場には観光バスが2台横付けされており、参詣を終えた人たちがぞろぞろと出てくる。先ほど霊山寺にいた人たちだろうか。バスツアーとなると結構なペースで札所を回るから慌ただしい。

まずは庭園が広がり、周囲には阿弥陀如来や釈迦如来などの石像がある。その中に子どもを抱いた弘法大師の像がある。流産ばかりしている女性に弘法大師が加持祈祷したところ、たちまち元気な子どもが産まれたという伝説があり、「安産大師」と言われている。弘法大師はさまざまな伝説や由緒があり、これから訪れる札所でもさまざまな「○○大師」を見ることになるだろう。

境内を進むと巨大な杉がある。弘法大師のお手植え、樹齢1200年という。長命杉というもので、長寿や病気平癒の霊験があるとされている。紅白の紐があり、これを手にすることで杉の霊気というのか、ご利益につながる。

ここから44段の石段があり、上ったところに本堂がある。金剛杖を立てかけ、お勤めである。先に般若心経を唱えている人が数人いるが、いずれも手慣れた感じで、お経を読む節回しも堂に入ったものだ。ふと見ると杖立てにあるのは金剛杖ではなく錫杖である。杖の先にいくつかの環がつけられており、杖を突くとシャリンと鳴るもので、四国八十八所めぐりでは公認先達のみが使用を許されるものである。

全ての札所を一度回り、札所寺院で申込書に確認印をいただいて申し込めば先達になれる西国三十三所とは違い、さすがは巡礼のメジャーである四国八十八所では、先達への道もハードである。要件がいくつかあって、①「四国八十八所の全ての札所を4回以上回ること」、②「四国八十八所の札所寺院からの推薦を受けること」、③「霊場会主催の研修を受けること」というのがある。その後、巡拝回数や期間によって上位の先達に昇進する仕組みがあるが、その前に先達になるのがハードである。

このうち、①と③はどうにかなるだろう。問題は②で、札所寺院からの推薦を受けるのは難しいそうだ。四国に住んでいて、その寺の檀家にでもなっていればまだ容易なのだろうが、四国以外の人となるとどうだろうか。近くに真言宗の寺院があり、そこが四国の札所寺院とつながりがあるならまだ口を利いてもらえる可能性もあるのかな。バスツアーでずっと回る人なら旅行会社が紹介するとか。まあ、四国の1巡がいつ完了するかもわからないのに、先達のことまで考えられない。その前に、先達資格をいただいている西国三十三所めぐりも続けなければ・・・。

本堂でのお勤めを終えると、次はその奥にある大師堂でのお勤めである。安産祈願の絵馬がずらりとかけられている。

入れ替わり立ち替わり巡礼姿の人がやってくる。多くはバスツアーやクルマなのだろう、身軽な出で立ちである。装備に気を遣わずに済む分、また体力が維持されている分、お参りもしっかりできるのでは・・・と考えてしまう。

二度のお勤めを終えて石段を下りると、次のバスツアーの人たちがやってきた。初回のツアーは「おためし」の意味もあって安く設定されているせいか、利用している人も多いように思う。極楽寺も団体が多いのだろう、納経所も団体用と個人用が別になっている。

個人用の納経所は山門横。ここもさまざまな巡拝用品が売られている。さらさらっと納経帳に筆を入れていただき、一つおしいただいて返してくれる。

ここから第3番の金泉寺を目指すが、これから歩きである。ただこの時季、また14時過ぎというもっとも暑い時間帯。歩く人の姿などほとんど見えない。頭にタオルを巻き、Tシャツ1枚でリュックを背負った男性が一人歩き出したが、そのくらいである。その後を行くように出発する。「へんろ道」を示す看板があり、それに従って進む。この2日間の行程では要所要所でこうした看板やシール、中には簡単な矢印の案内を見かけ、道に迷うということはなかった。

墓地を抜け、林の中をくぐって道路に出る。県道から1本入った道で、県道が整備される前の街道だろうか。極楽寺から金泉寺までは2.6キロ。暑い中をテクテクとやる。途中で板野町の標識を見る。板東、板野・・・「板」が続く。翌日には上板町というところにも行ったが、この辺り一帯が元々「板」という名前だったのだろうか。

30分あまり歩き、金泉寺まであと少しというところでこうした道に出た。昔の遍路道である。四国の歩きといってもほとんどは舗装された道だが、中にはこうした昔ながらの道も残っている。金泉寺には横から入る形になるが、ショートカットできるし、昔の道を行くというのでこちらを通る。夏草が生い茂っているので杖で足元を払う。そして到着した金泉寺・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~巡礼姿でドイツに触れる

2016年07月21日 | 四国八十八ヶ所
第1番の霊山寺から第2番の極楽寺に向かう。二つの札所の距離は1.4キロほどで、こちらも足慣らしの距離かなと思う。本尊は霊山寺が釈迦如来で、極楽寺は阿弥陀如来である。西国三十三所がそれぞれ各種の観音を本尊としているのに対して、四国八十八所は弘法大師つながりはあるが、寺の本尊はいろいろである。

極楽寺は県道12号線をそのまま歩けば道沿いにあるようだ。セルフうどんの店もある。先ほど門前の土産物店で鳴門のうどんを食べたが、こちらのセルフ方式の店のほうが賑わっているようだ。これからこうしたところでの食事というのもいろいろ楽しめるだろう。

板東谷川にかかる橋を渡る。進行右手には大麻山が見える。その麓には大麻比古神社がある。阿波国の一の宮とされており、その昔、神仏習合の考え方が一般的だった頃は、霊山寺に巡拝する前後で、この神社にも合わせてお参りしていたという。先ほどの板東駅のホームにも大麻比古神社のミニ鳥居があった。そちらに寄り道してもいいかなと思ったが、先ほど第一番前札所にも訪れたことだし、そこまではいいかなと思う。さすがにあれもこれもとなると、どこまでも歩き続けなければならない。

・・・という矢先に、橋を渡ったところの交差点で「道の駅 第九の里」「鳴門市ドイツ館」の看板を見る。

日本で最初にベートーベンの「第九」が演奏されたのがこの鳴門とされている。第一次世界大戦で日本は中国の青島などでドイツと戦い、その時の捕虜が板東の収容所に送られた。日本には捕虜という考えが希薄だった中、当時の板東収容所の所長だった松江豊寿は武士道の心でドイツ兵捕虜を人道的に扱い、地元の人たちとも交流させた。それに感謝した捕虜たちが楽団を組んで演奏したのが「第九」である。松平健さんが松江豊寿を演じた映画『バルトの楽園』があり、私もDVDで観たのだが、前にクルマで鳴門に来た時に近くに保存されているロケセットを見学した。ドイツ館にも行っている。

八十八所めぐりをしていると、やはり次の札所に足が向かう。ましてや、歩きとなると時間と体力の関係で寄り道というのはほとんど考えられないことのようだ。ただこの時の私は、ひたすら次の札所を目指すよりは、自分の興味があるところであれば寄ってみようという考えがあった。ということで、大麻比古神社までは行かないが、県道から数百メートル入ったドイツ館に向かうことにした。

その手前には、ドイツ村公園として収容所の跡地がある。建物は残っていないが、一部は土台があるところも。さらに上ると慰霊碑もある。こんなところを杖ついて白衣姿で上がるのも、外から見ればシュールな光景かもしれない。が、ドイツ兵の慰霊碑の前に来ると、「こうした人たちへの祈りも兼ねて来たのだ」と思うから、呑気なものである。

慰霊碑の先にも道があるが、これは高松自動車道を跨ぐ橋だった。この先に行くと高速バスの停留所もある。霊山寺に向かう方法として、徳島行ではなく高松行に乗って、この鳴門西の停留所に出たほうが早く着くそうである。

やって来た道の駅とドイツ館。ベートーベンの銅像も出迎えてくれる。弘法大師とベートーベンの組み合わせというのもすごい。

金剛杖は傘立てに置いて入館する。受付の人は巡礼姿にも顔色変えるわけでなく、ここ単独か、あるいは賀川豊彦記念館や渦の道との共通の入館券かを尋ねてくる。2階の展示室に上がり、冷房で涼むのを兼ねて資料を見学する。途中、人形による「第九」の演奏もある。

映画もそうだったし、ここに展示されている写真や資料にもあるが、お互いに戸惑いながらも田舎の町でのささやかな文化交流というのに微笑ましいものを感じる。先ほど訪ねた霊山寺も、音楽の授業が行われるなど交流の舞台になったそうだ。

これが第一次大戦の時だったからまだ良かったのかもしれない。ただ、捕虜としての期間を終え、ドイツ兵は祖国に戻ったが、待ち受けていたのは敗戦でボロボロになった国と、ナチスの台頭であった。その後ドイツがどのような道をたどったのかは歴史の通りで・・・。

こうした歴史を踏まえて、鳴門市はドイツ北部のリューネブルグという市と友好都市である。1階ではリューネブルグ市の紹介や、ドイツ関連商品の販売がある。ドイツといえばビールにウインナーで、実際ドイツビールも売られているが、さすがに歩きの途中で飲むわけにもいかない。土産でかつぐのも重いので、ここでは見るだけ・・・。

何だか巡礼なのか観光なのかごっちゃになっているが、ドイツ館を後にして県道に戻り、改めて第2番の極楽寺を目指す・・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~第1番「霊山寺」

2016年07月20日 | 四国八十八ヶ所
改めて、高徳線の板東駅から1番札所を目指す。駅から霊山寺までは1キロ足らずということで、歩き遍路、公共交通機関巡礼ともども、まずは足慣らしといったところである。

町角にも第1番にようこそという感じの雰囲気がある。中には、店のシャッターに四国八十八所の世界遺産への登録を願うメッセージが書かれていたりする。先日、上野の国立西洋美術館が世界遺産に登録され、日本国内の登録は20件目となったが、四国にはいまだ世界遺産に該当するものはない。富士山の信仰が世界遺産になったのだからと、四国八十八所の遍路文化もそれに値する・・・とアピールしているそうだが、実際の道のりは遠く、現実的でないと思う。日本遺産にはきちんと認定されているのだから、そこをベースとして広めれば十分だと思うのだが・・・。

駅から霊山寺までは道路脇に緑の線が引かれていて、迷うことはない。ただ巡礼で行き交うということはなく、すれ違ったのはいかにも歩きのプロという風情の男性二人だけ。昼前の時間に板東駅に戻るとは、逆打ち結願でもしたのだろうか。

県道に出る信号があり、その向こうに霊山寺の山門が見える。ここに来ると巡礼姿の人や、巡礼ではないが「四国第1番」というので寄ってみたという感じの人もいる。やはり「1番」というのはいろんな人の注目を集めるものだ。

その山門前に立つ一人の女性・・・ではなくマネキン人形。遍路、巡礼に出るならこういうスタイルで・・・と誘惑しているかのようだ。でも果たして、このマネキンを見て「そうだ、巡礼に出よう!」と発心する人はどのくらいいるのだろうか。

山門をくぐるとまず池が出迎えてくれる。手水を使った後、まず向かうは正面奥の本堂。四国の巡拝ルールは、まず本堂でお勤め、その後に大師堂でもう一度お勤め、その後で納経帳に朱印をいただくというもの。霊山寺は本堂の中に納経所があるが、ルールでは一旦大師堂に行ってから納経所で朱印を受けなければならないので、本堂には2回足を踏み入れることになる。

本堂に入る。天井から下がる灯籠が風情を出している。蝋燭に線香、納札に賽銭・・・拝む前の所作がいろいろある。西国三十三所よりも、そこはきちんとしているし、周りの人たちもこれが当然とばかりにこなしている。西国三十三所でやっていたようにはいかないなと、これから「ルーティン」をいかにテキパキこなすかが課題だなと感じる。また読経にしても、西国三十三所では読んでいる人が珍しいのに対して、読み方や節回しはいろいろあるにしても、勤行次第を一通り、当たり前のようにこなしている。うーん、さすが四国。

本堂を出て次は大師堂。ここでも同じ所作である、私の地元藤井寺の葛井寺も真言宗で、伽藍の配置も霊山寺(とこの後訪ねた札所)と似たようなものだが、これまでは本尊(観音)のおわす本堂でのお勤めが主で、それ以外の大師堂などは手を合わせるくらいだった。ただ四国では大師堂は本堂と対等、いやそれ以上の扱いである。そんなところで、線香になかなか火がつかないとか、納札がなかなか出ないと焦っている私・・・。

西国三十三所については確かに一度全部回ったことで先達にも補任されたとはいえ、これでは四国ではド素人の行いである。改めて、レベルの高いステージに来たのかとうなるばかりである。

・・・ともあれそんな中でお勤め2回を終え、再び本堂に上がる。納経所は靴を脱いで上がる。巡拝用品がいろいろ並んだ奥で朱印を扱っており、まずは第1番の朱印をいただく。四国の場合は本尊の御影がもれなくついてくる。また、閏年である今年限定の散華もいただく。これらは専用の御影帳で保存する。先ほどの十輪寺もそうだったが、四国の札所では、納経帳には日付を書かないようだ。これは、四国の場合何回も回る人が多く、重ね印のたびにいちいち日付を書いていたのではスペースが足りないということがあるのだろう。だから「この寺にはいつお参りしたか」は、自分で何らかの方法で管理する必要がある。

納経を終えて本堂外陣に出ると、ちょうど来ていた団体さんが内陣に入り、僧侶の法話を受けていた。団体さんとはいうが、先達のリードでお勤めもこなすし、こうした法話を受ける機会もある。慌ただしい行程を組むことが多いが、純粋なお参りだけなら充実した手段と言える。

・・・何だか、1番にお参りできた嬉しさよりも、いろんな人を見る中で、四国のレベルの高さにめった打ちされた感じが強かった。まだ、「寺参り自体が四国が初めて」という人のほうが、抵抗なくすんなり順応できると思う。西国三十三所、新西国三十三所が何ら悪いわけではないが、メジャーの洗礼を浴びてしまっただけに、自分の根底が崩れ、気持ちもぐらつくものになってしまった。

そんな中で第1番を終えて次の第2番・極楽寺を目指す。その前に腹ごしらえで、門前にある巡拝用品と土産物と食堂を備えた店でうどんの昼食。讃岐うどんとは対照的な柔らかさを売りにした鳴門の「なるちゅるうどん」に鳴門わかめをトッピング。これで午後は頑張ろうと、極楽寺目指して県道を歩き始めたのだが・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~第1番前札所「十輪寺」

2016年07月19日 | 四国八十八ヶ所
四国第1番の霊山寺の最寄である板東駅で下車せず、一つ手前の池谷駅で下車し、ここで四国巡礼の白衣を着る。金剛杖を左手に持ち、鈴をシャリンと言わせながら歩き出す。ただ早速に汗が噴き出てくる。長袖の白衣ではなく、袖なしの笈摺にすればよかったかなと思う。

なぜ池谷から歩き出したのかということだが、旧撫養街道を通る昔の巡礼道だからということもある。その昔、今のように鉄道も高速道路もなかった頃は、上方方面から四国に来るのには鳴門の撫養に上陸し、そこから霊山寺を目指した。今四国八十八所の第1番に霊山寺が定められているのは、上方方面から多くの巡礼者が訪れるようになった江戸時代の頃とされていて、背景にはこうした地理的な要素が強かったと言われている。これは西国三十三所もそうで、第1番が那智の青岸渡寺なのも、江戸から伊勢参りに来た人がその後で熊野三山などを回ることが多く、その道順ということで定まったとされている。弘法大師の跡をたどるのであれば出身地の善通寺あたりから始めるのが筋が通っているように思うが、案外そういうものではないようだ。その点で行くと、昭和の初めに発足した新西国三十三所が「聖徳太子の和の道」をベースにしていることから「日本仏教最初」の四天王寺を1番としていたり、平成になってできた西国四十九薬師も、そのものズバリ薬師寺を1番としているなど、近年定められた札所のほうが歴史的に重要なところをトップに持ってきている。まあ、交通機関が発達したからできたことなのだろうが。

その旧撫養街道、そして高徳線の線路に沿って歩くこと20分で、十輪寺というところに出る。創建は飛鳥時代と言われているが、現在の境内は今から30年前に整備され、本堂や地蔵堂も改築されたものである。この十輪寺は「談義所」とも呼ばれている。800年代の初め、弘法大師が人々の救済のために四国に八十八所の霊場を設置することを思い立ち、この寺に長く滞在して人々に仏法を説き、僧たちともさまざまに談義したという。そこから「談義所」と呼ばれ、撫養街道を歩いて来た巡礼者たちも多く立ち寄るようになった。そこで「第1番前札所」と呼ばれるようになった。

私がこの「第1番前札所」というのを知ったのは、「八十八所に行く前に京都の三弘法まいり(東寺、神光院、仁和寺)をするのがならわし」というのを見たのと同じくらいである。本来なら十輪寺よりも鳴門よりにあり、「種蒔大師」の名で知られる東林院にも行くところ(鳴門線の阿波大谷駅近く)なのだが、あれこれ手を広げすぎるのもきりがないと思い、十輪寺だけ先に行くことにした。多くの人が1番から始める中、「第1番前」にも行くというのが、ちょっとした「知る人ぞ知る」気分を味わえるかなという下衆な気持ちもあるのだが・・・。

近年整備されたからだろうか、山門があるわけでもなく、土塀があるわけでもなく、簡単な石門があるだけ。その脇に「四国霊場開創弘法大師旧跡」と書かれた石碑と、十輪寺の由緒が漢文で書かれた石碑がある。

本堂にお参り。他に巡拝の人の姿もなく、一人でのお勤めである。納経は本堂につながった本坊で行うとあり、玄関のインターフォンを押すよう書かれている。ただし不在にしていることもあるようで、その時は本堂前に書置きしている朱印の紙をいただく(お金は賽銭箱へ)ことになる。どうかなと思いとりあえずインターフォンを鳴らすと、女性の声で応答があった。納経をと言うと玄関を開けて丁寧に招じてくれる。「本堂(の扉を)開けましょうか?」と言われたが、先にお勤めをしたし、わざわざお手間を取らせるのも恐縮なので辞退する。「書いてきますのでごゆっくりしてください」と、玄関先に座布団を薦められる。玄関の扉を網戸にしてくれると涼しい風が入ってくる。

しばらく待つうち、納経帳ではなく先にお茶とお菓子が出てきた。「これから回られるんですか?今日も暑くなりそうですよ」と話しかけられる。このところ天気が変わりやすいので急な雨には気を付けるよう言われる。

そしていただいた納経帳。第1番の右が1ページ空いており、そこに本尊の「子安大師」、「弘法大師談義所」の文字が入る。右上には「四国第一番前札所」の印も押されている。なかなかここを訪れる人がいないためか、歴史マニアとでも見られたか、「ここの由緒が書かれた資料なんですが、よかったらお持ちください」と小冊子を渡される。書道文化が専門という四国大学の太田剛教授が、門前にあった漢文の石碑について解説したものである。石碑の解読くらい・・・と思うが、大正時代に彫られたとされるこの石碑、長年放置されていたためか苔が生えたり傷んだりしており、文字を解読し、拓本を取るのも結構手間だったそうだ。

これらをいわゆる四国八十八所の「お接待」と言うのかわからないが、最初に訪れた札所(前札所)でいろいろと気を遣っていただいたのはありがたかった。これからの巡礼が良いものになるのかなという期待を持ち、十輪寺を後にする。

県道の12号線に出る。このまま直進すれば霊山寺に出るが、せっかくなので当初降りる予定だった板東駅に向かう。公共交通機関巡礼にとっては「玄関駅」となるところだ。以前高徳線に乗った時、この駅で下車して霊山寺に向かう人を見たことがあるが、今度は自分がその立場になることを改めて感じてみたい。駅前の昔ながらの町並みの中に駅はあった。無人駅だが、駅舎内にはこれから八十八所めぐりを行う人たちへのアドバイスや心構えを説いた案内文が貼られている。

出発するまで(いつもながら)長々とした文になったが、ようやく文字通りの「第1番」に向けて歩き始める・・・。
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第1回四国八十八所めぐり~四国上陸

2016年07月18日 | 四国八十八ヶ所
7月16日~17日ということで、四国八十八所めぐりの第1回(88全て回るのに、回をいくつ重ねることになるだろうか)を行った。

まずは鳴門市にある第1番・霊山寺を目指すわけだが、宿泊を徳島にしたこともあり、大きな荷物を一旦駅のロッカーに入れるために、徳島駅行きのJR高速バスに乗る。大阪から徳島にはJRと徳島バスがそれぞれ便を走らせているが(それぞれ共同運行の会社あり)、JR系統が梅田発なんば経由ということで、JR難波駅のほうに後に来るので、その分自宅をゆっくり出ることができる。徳島へは和歌山から南海フェリーもあり、旅情という点ではそちらのほうが面白そうだが、ダイヤの関係で徳島駅に着くのが11時すぎ。バスだと9時半前には着くので、今回は「早く着く」ことを選んだ。まあ、これから徳島には何回も訪れることになるが、その中のどこかでフェリーを使うことはあるだろう。

この2日間では、1番の霊山寺から始めて、2日目の夕方までに10番の切幡寺まで行くのを目標とする。いわゆる「歩き遍路」の人たちのブログなどを見ると、陸上や登山でもやっているような健脚の人なら1日で10番までクリアする人もいるようだ。まあこれは極端としても、普通の人なら初日で7番の十楽寺、ゆっくりめでも5番の地蔵寺までは行く人が多いようだ。そこに列車・バスを絡ませる「公共交通機関巡礼」なら、途中の歩きを一部置き換えることでなおのことクリアできる区間だそうである。バスツアーでも6番の安楽寺か7番の十楽寺までを1日の行程としているのが多いようだ(宿泊型なら、6番7番それぞれに団体受け入れが可能な宿坊があるし、日帰りでもここからなら十分引き返せる)。ただ今回の私のように大阪を朝出発すると、高速バスと列車の乗り継ぎで1番の霊山寺に着くのが11時くらいとなるので、7番の十楽寺まで行くのはちょっとしんどい。まあ、5番の地蔵寺まで歩いて、近くのバス停から徳島駅まで路線バスで戻れればベストで、翌日にバスで6番の安楽寺に向かい、夕方までに10番まで行くかなというところだ。あまり無理をしても仕方ない。

JR難波駅地上の湊町バスターミナルに現れる。朝6時半を回ったところだが、連休の初めということで多くの乗客がいる。行き先によっては2台に増発している。四国行きとなると他に遍路・巡礼の人はいないかと見渡すが、そういう人は見当たらない。私も金剛杖を杖袋に入れているのだが、さほど人の目は気にならない。見ようによっては剣道とか武術の道具を持っているように見えるかもしれない。

大阪駅からの乗客を乗せたバスが入ってきた。バッグと金剛杖をトランクに入れるが、そのトランクの中に、裸の金剛杖と菅笠があった。どの乗客のものかはわからないが、結構年季が入っていそうだ。

湊町から早速阪神高速に乗る。ところが朝の時間帯のところ、事故もあったということで環状線は渋滞。他にも神戸線も渋滞との情報があるが、バスはこちらが正規ルートと思われる湾岸線に抜ける。座席が高いので遠くまで見通すことができる。

しかしその湾岸線も住吉浜で渋滞。その列も結構続いている。この時点で徳島への到着が遅れるのは確定。まあ、徳島駅から乗る予定の高徳線の列車には1時間近く時間があり、さすがにそれには間に合うだろう。

高速舞子に到着。ここでも乗客があるがこの時点で20分遅れ。まあ、この先はそれほど渋滞するところもないだろうから、このくらいの遅れで走ることになるだろう。明石海峡大橋を渡り、淡路島を経て鳴門に上陸。鳴門名物の渦潮も、小さいのがあちこちでぐるぐる回っている。

結局20分ほどの遅れで徳島駅に到着。10時前だが気温は30度を超えているだろうか。来る前の週間予報では雨とあったが、ここに来て降水確率もぐんと下がり、青空も出ている。後は急なにわか雨ということのないことを祈るばかり。一応雨具は持参しているが・・・。

予定では10時19分発の高徳線の高松行の列車で霊山寺最寄りの板東駅に向かうことにしていたのだが、駅で時刻表を見て、1本早い10時02分発の列車に乗ることにした。ただしこれは鳴門線の鳴門行。板東駅には行かないのだが、思うところがあって、高徳線と鳴門線が分岐する池谷までこれで行く。1両編成だが転換クロスシートのある快適な車両である。

吉野川の鉄橋を渡ると、周囲にはハスの葉が広がる。花を咲かせているものもあり、これから札所めぐりをするのによく似合った景色だなと思うが、実は徳島、鳴門というのは茨城県に次ぐレンコンの特産地なのだという。ということで、広がっているのはレンコン畑。うーん、これを見て極楽浄土をイメージするか、食べるほうのレンコンをイメージするか・・・。

池谷に到着。駅の手前で線路が分かれ、鳴門線と高徳線それぞれのホームが左右に広がる。その真ん中に駅舎がある。ここで下車する。

駅前で白衣を取り出して着用。金剛杖も袋から出してこれで装備を整える。私の四国八十八所めぐりは、板東駅からではなく池谷駅から始まった。なぜそうしたかについては、次の記事にて・・・・。
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はじめての四国八十八所めぐりへ

2016年07月15日 | 四国八十八ヶ所
先日の記事から、四国八十八所めぐりについて書いているのだが、いよいよ最初の区切り遍路・・・という以上にぶつ切り遍路に出発する。

・・・もっとも「遍路」という言葉は、いわゆる「全て歩き」という人しか使うべきではないそうだ。車、ましてやバスツアーなどもってのほかで、私のように公共交通機関をあれこれ使って・・・というのもエセ遍路に属するらしい。弘法大師の足跡を自らの足だけで運ぶことが「遍路」に値するもので、それ以外は「遍路」にあらず、単なる「札所めぐり」だという。ならば、私の四国八十八所めぐりにおいて、または拙ブログにおいて、今後この「遍路」という言葉は一切使用しないことにする。単なる札所めぐり? 喧嘩上等やないか。

まずは第1番の霊山寺に向かうとして、その前に一旦徳島駅に向かう予定である。

八十八所めぐりにあたって、西国や新西国では使っていない装備もあれこれ揃えることになった。

まずは金剛杖。普通は130cmの長さだというが、長身の人はもう少し長いのがよいとのことで、146cmの長尺ものを事前に購入。これにストラップ用のヒモのついたカバーを追加した。

さらに、金剛杖の取り違えがないように、目印代わりにこんなステッカーを貼ってみた(そもそも、金剛杖にステッカーを貼ることじたいどうなのかと思うが・・・この時点でおちょくってるな)。

そして、京都三弘法めぐりで先に使用した輪袈裟と、四国用の納札。それに納経帳。

白衣はどうしようかと思ったが、四国では身に着ける人のほうが多いということで用意する。写真では畳んだ状態だが、袖つきのもの。これを移動中もずっと着るか、お参りの時だけ着るか。まあこれは状況次第ということで。

最終の88番まで回り、そして再び1番、そして高野山奥の院に向かうまで何年かかるかわからないが、新しい柱の一つとして。

巡礼記については帰ってからまたぼちぼちと・・・・。
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京都三弘法まいり・3~仁和寺(これで満願)

2016年07月13日 | 四国八十八ヶ所
神光院に参詣後に乗り込んだバスは北大路バスターミナル行き。うーん、途中の北大路堀河まではこれで行くとして、その後の乗り継ぎを考えると失敗だったかなと。

北大路堀河で乗り換える系統は、金閣寺に立命館大学と、仁和寺の方向には行くが、仁和寺までは行かない。結局、立命館大学で下車して次のバスを待つか、残りを歩くかである。一日乗車券を買っていなかったので、乗るたびにバス代が発生するのも惜しい。

立命館大学から仁和寺までは歩くことにして、バスに乗り込む。びっしり満員で、乗客の多くは西洋人、韓国人である。一瞬、どこの国に紛れ込んだかと思う。これらの乗客は全員金閣寺で下車した。金閣寺か・・・ここもずっと行ってないなあ。西国、新西国と回り、これから四国に挑戦するということで寺ばっかり回っている感じだが、歴史的なものからその多くは真言宗、天台宗であり、鎌倉仏教系統というのは皆無と言っていい(あ、今年の初詣は永平寺だった)。特に浄土真宗や日蓮宗などは、巡礼で唱える般若心経はお嫌いなようで・・・。

だからというわけではないが、臨済宗の金閣寺(鹿苑寺)もなかなか対象に入ってこない。まあ、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『金閣炎上』、そして酒井順子の『金閣寺の燃やし方』を読んだこともあり、またそうした舞台を感じてみたい。

立命館大学に到着。地図で見た感じでは、仁和寺までは20分もあれば着く感じである。蒸し暑さの中だが、金閣寺から龍安寺を経て仁和寺に至る道は「きぬかけの路」という名がついている。途中には緑のエリアもあり、枯山水で有名な龍安寺の庭の外周も見ることができる。これはこれで、バスに乗れなくて歩きでよかったと思う。四国に行けば嫌でも歩かなければならないのだから、前向きに考えないと。

遠くに仁和寺の大きな仁王門が見えてくると目的地は近い。堂々とした造りの仁王門に出る。仁和寺は真言宗御室派の総本山。私の地元藤井寺にある西国5番の葛井寺も御室派の寺で、桜の時季には仁和寺のポスターも貼られてたりする。

仁王門をくぐると、寺というよりは御所を思わせる幅の広い参道が続く。入ったすぐ左が御殿だが、有料エリアということもあり、入らずそのまま本堂を目指す。もう一つ中門を過ぎると寺らしい境内となる。東寺とは一味違う感じの五重塔があり、正面には国宝の金堂が建つ。

仁和寺は真言宗であるが、本尊は阿弥陀如来である。御室というのは宇多天皇がここで出家して法皇になったことからだが、本尊を阿弥陀如来にしたのは当時世に広まりだした浄土信仰、阿弥陀信仰の影響があったからとも言われている。ただその阿弥陀三尊は金堂には安置されておらず、霊宝館に収められていて、季節限定での公開である。そのためか、金堂の建物は立派だが、ここで手を合わせようという人が少ないように見える(これはあくまで私がこの日訪れた感想であって、実際には御室派の総本山なのだし、写経や法話の催し、年中行事も盛んに行われている)。

三弘法まいりとしては大師堂を目指す。金堂の前を左に曲がり、境内の北西の角にある。この日3回目となるお勤め。赤の輪袈裟も少しはなじんだかな。

ちなみに、境内の裏には御室八十八所というのがある。全長3キロで、手を合わせながらで所要2時間とある。時間があれば四国の手始めにこちらからとも思ったが、結局パス。ポスターによれば、春と秋には八十八所をそれこそ朱印ならぬスタンプラリーで回るウォーキングイベントが行われる。

金堂の前にある納経所に向かう。四国の納経帳を出すと「弘法大師さんでよろしいな」と確認した後で筆を走らせる。「御室弘法大師」とある。

そして、三弘法の最後、金剛杖が描かれた木札をいただく。これで3つ揃ったので、木札を入れるケースと満願証も合わせて購入する。これで、旅の安全の御守りとなる。実際の八十八所めぐりでは、金剛杖こそ購入したが、菅笠は荷物になりそうなので普通の帽子、納札入れも、納札そのものが昔のような木の札ではなく紙だし、西国の時にも使っていたビニールケースであるが。ともかく、これでまずは一番札所を目指すことに・・・・。

帰りは嵐電の御室から乗車。帷子ノ辻で四条大宮行きに乗り換える。次の太秦広隆寺は、東映太秦映画村の最寄駅で、前に乗った時は車内放送で「暴れん坊将軍」のテーマ曲が高らかに流れていたのが印象的だった。実は嵐電に乗ったのも一つは車内に流れる「暴れん坊将軍」を楽しみにしていたのだが、残念ながら全く別の何のインパクトもないものになっていた。あらあら・・・。
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京都三弘法まいり・2~神光院

2016年07月11日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所めぐりに先立って行う京都三弘法まいり。東寺に続いては神光院である。場所は堀河通をずっと北上し、上賀茂神社の近くを過ぎてもう少し走ったところにある。京都駅からは9系統の西賀茂車庫前行きというのがあり、神光院前バス停下車という。10分置きに出ている。

経路上には西本願寺や二条城もあるが、乗客の多くは観光客というより地元の人たち。停留所は100~200メートルごとにあるが、こまめな乗り降りがある。京都市街を南北に走る鉄道は地下鉄とJRだけで、バスがその間を補う形だが、先ほど路線図を見るに系統の複雑さに驚く。今後、京都の大小の寺社を拝観、参拝するならバスの使いこなしがカギである。

京都駅から40分あまりで神光院前に到着する。バス停横の土塀に沿うと山門に出る。先ほどの東寺とはうって代わり静かな雰囲気。他にお参りする人はいない。

ただ地元の人たちには西賀茂の弘法さん、厄除け大師として親しまれているそうで、毎年7月には「きうり加持」というのが行われる。弘法大師空海がキュウリに疫病を封じ込めて祈願したのが由来とされている。また、空海がこの地で眼病治癒の祈願もしたことから、そちらのご利益もあるそうだ。今の形の寺になったのは鎌倉時代初めの頃だが、それまでも小さな寺としてこの地にあったそうで、空海が修行、祈願をしたことから、弘法大師その人が本尊とされている。

・・・という歴史はあるが、普段は訪れる人が少ないのか。手水場の水は蛇口をひねるものだし、本堂の扉も閉ざされている。まあそんなものかと、誰もいない境内で輪袈裟を首から掛けて、お勤め。

お勤めはいいが朱印と三弘法の木札はどうするか。本堂から渡り廊下があり、その先に建物がある。本坊だろうとそちらに向かうとインターフォンがあった。これを押すと返事があり、若いお坊さんが縁側の障子を開ける。そこにはいわゆる一つの納経所の店構え?ができている。

三弘法2つ目の朱印を東寺の隣にいただき、納札入れの木札を手に入れる。アイテムが揃うというのか。またふと思ったのが、大相撲の千秋楽これより三役で、矢、弦、弓を授かるのと似たものかなと。

となると、残るは仁和寺の金剛杖。時間は十分にあり慌てることはないのだが、神光院前のバス停で、仁和寺に行くにはどれがもっともスムーズかよく確かめずに、やって来たバスに乗り込んだ。

・・・ただ、これが遠回りになってしまったかな・・・。慌ててはいけない。「来たバスに乗る」ではなく、「乗るべきバスの系統、行き先をきちんと確認して乗る」。その前に、ルート全体の確認。

こんなことでは、時刻表片手に四国のローカル列車、ローカルバスを駆使し、ある意味歩き遍路より厳しい?「公共交通機関遍路」では命取りになるだろう。気をつけなければ・・・・。
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