まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第24番「岩屋寺」~近畿三十六不動めぐり・16(山科の大石神社)

2018年05月30日 | 近畿三十六不動
今熊野観音寺を後にして、山科の岩屋寺を目指す。府道の118号線(醍醐道)が通っている。峠越えなのだろうが、地図を見る限りでは3キロあまり。1時間ほどで行けるかな。

先ほど渡った青もみじと朱塗りの橋の下に道がある。京都一周トレイルの一部になっている。

一条天皇の后だった藤原定子の鳥戸野陵の横を通る。鳥戸野は当時の高貴な人たちの葬送の地であった。この辺りが都の最果ての地だったことがうかがえる。

細い道の両側に住宅が集まる中、山科方面に続く道に出る。由緒ありそうな鳥居が見えたので行ってみる。剣神社とある。創建ははっきりしていないが、平安京建設の時に、四方の守り神として剣を埋めて祠を建てたのが始まりとも言われている。絵馬にはなぜかトビウオがデザインされている。御祭神の好物だというが、日常の食卓にトビウオが出るとは滅多に聞かないなあ・・。鳥取や島根でアゴと呼ばれて、かまぼこの材料や出汁に使われているのは食べたことあるが。

ここからしばらく京都トレイルの一部である上り坂を歩く。途中からはクルマの入れない細道も歩く。これを直進すれば山科に抜けられるなというところで、「京都トレイルはそっちとちゃうよ」と声をかけられる。山科に行くと言うと「そうでっか」と送られたが、京都トレイルを歩いて回る人というのもそれなりにいるのだろう。

府道に出る。センターラインもない道だが、クルマもそれなりに通る。地元の人の抜け道のようなものだろうか。そんな中で、不法投棄の禁止を呼びかける看板が目立つ。ひどいのになるとその看板の下にブラウン管型のテレビが捨てられていたりする。また、閉鎖されたゴルフ場の前も通る。先ほどの鳥戸野ではないが、都の端というのは昔からそうしたものが集まるのかなと思ってしまう。

竹藪の中に「西野山古墓」というのを見て下り坂になる。この古墓、石碑が立っているだけで中には入れないようだが、副葬品には国宝に指定されたものがあり、一説では平安時代の武将・坂上田村麻呂の墓ではないかとも言われている。

再び住宅地が広がり、坂を下りきったところに阪神高速の山科ランプがある。この交差点が滑石・新大石道という名前である。先ほど歩いてきたのは滑石街道とも呼ばれている。

ここで大石道とあるのは、赤穂浪士、忠臣蔵の大石内蔵助のことである。主君の敵を打つ中で、一時山科に移り住み、都で遊興にうつつを抜かして「敵討ちの気持ちはない」と敵味方を欺いていたことは知られているが、その時住んでいたのがこの辺りである。忠臣蔵の映画やドラマでは、内蔵助が遊んだのは祇園や島原という設定が多いが、実際はこの道を通って伏見に出入りしていたのではないかとされている。なるほど伏見なら、淀川の三十石船も通う交通の要衝である。遊びながらも情報を得るには祇園よりも適していたと思われる。ちなみに滑石街道とは、カーブが多く冬は凍結することがあることから、「大石内蔵助も足を滑らせたことだろう」とつけられた名前だそうだ。

交差点の南にあるのが大石神社。大石内蔵助を祀るとなると赤穂城跡にある大石神社が有名だが、山科にもあるとは。創建は1935(昭和10)年である。赤穂浪士を崇拝していた浪曲師が、大石内蔵助ゆかりの地に神社を建てる運動を行ったところ、京都でもその機運が高まり、当時の府知事も発起人となって募金などで建てられたという。戦前の「忠臣蔵」の価値観がうかがえるような経緯である。

もっとも、今訪ねた限りでは穏やかな感じの境内である。その癒しの一つに、ミニホースの花子というのがいる。ちょうど訪れていた子どもたちも頭をなでるなど親しむ様子だった。

祭神が大石内蔵助ということからか、大願成就とか必勝祈願でのお参りが多いようだ。私も手を合わせながら、この後わかさスタジアム京都で観戦するオリックス・バファローズの勝利を願う。社殿に相対するように大石内蔵助の座像があり、台座に多くの札が貼られている。

宝物館がある。無料ということで入ると、まず目に入るのはかつての映画、ドラマで演じられた内蔵助たちの写真。古くは長谷川一夫もあり、その後は三船敏郎、松方弘樹、里見浩太朗、中村勘三郎、北大路欣也など、歴史的な役者が揃っている。やはり大石内蔵助を演じられるというのは役者世界の中ではステータスなのだと思う。宝物館には他にも錦絵や内蔵助の遺品とされるものも展示されていたが、今につながるスターの写真のほうが内蔵助への人々の思い、憧れが伝わってくるように感じられる。

山科といってもJR・京阪の今の山科駅前なら賑わっているが、こうした山の手なら隠居の地として似合っているような感じがする。

さて、今回目指す岩屋寺というのは大石神社にも隣接しているようだ。境内の脇道を少し歩くと寺の下に出る・・・。
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第15番「今熊野観音寺」~西国三十三所めぐり2巡目・24(今熊野とは新熊野神社から)

2018年05月29日 | 西国三十三所
5月27日は札所めぐり+野球観戦という荒業の1日だった。野球については先の記事で阪急ブレーブスの復刻試合のことを書いたが、今回はその前段の札所めぐりである。

元々は山科の近畿三十六不動の札所である岩屋寺に行くところ、このところ西国の2巡目も止まっているので、近くにある今熊野観音寺に向かうことにした。前回は清水寺、六波羅蜜寺と回った後で今熊野観音寺を訪ねている。今回はここだけである。

淀屋橋から京阪特急に乗る。プレミアムカーの代わりに、先頭の運転室すぐ後ろの席に陣取る。これで丹波橋まで向かい、各駅停車に乗り換えて東福寺に到着。まだ朝の7時半ということもあり、観光客の姿はほとんど見えない。

今熊野観音寺へは駅から歩いて15分ほどかかる。途中で東大路通を横断するのだが、ここでいったん左に曲がって北上する。この辺りは今熊野商店街で、看板には熊のマスコットもあしらわれている。

その中で、「JR東大路駅の設置」を願うボードが掲げられている。東大路駅か。調べてみると、東海道線の京都と山科の間に駅を造ってほしいというものだ。古くは昭和30年代に請願がなされ、平成に入ってからも行政の側で設置の検討もされたそうである。ただ、地形的に駅前の整備が難しいなどの理由で話は進んでいない。一方では、山陰線の京都と西大路の間、ちょうど京都鉄道博物館の前には新たな駅ができる。新駅設置もなかなか難しいものである。

その商店街を抜けたところに石の鳥居がある。新熊野神社と書いて「いまくまのじんじゃ」と読む。私は一瞬「ニューくまのじんじゃ」と読んでしまったが。

「新」とつくのは、本家の熊野大社があってのことである。創建は平安時代末期、あの後白河法皇の手による。自身は生涯で34回熊野詣をしたそうだが、熊野行きも今と違って過酷なもので、そうそう行けるものではない。そのために、逆に熊野から神々を招請して神社を造ってしまった。それが「新熊野」「今熊野」として、法皇だけでなく多くの信仰を集めた。後に応仁の乱で社殿は焼失し、現在の拝殿は江戸時代の再建というが、ご神木とされる樟は樹齢900年、後白河法皇お手植えと伝えられている。この辺りの地名が「今熊野◯◯町」というのもその名残だし、西国の札所の観音寺に「今熊野」とつくのも、この神社から来ている。なるほど。

そうした由緒ある神社ということを初めて知ったところで手を合わせる。また本殿の両側には熊野本宮大社のように諸々の神が祀られており、裏には「京の熊野古道」なるものがある。こちらでは木彫りの作品がガラスケースに収められ、曼荼羅のように、熊野信仰や神仏習合について説かれている。なかなか神仏習合を前に出す神社というのがない中で、こうした紹介は学ぶところがある。

再び東大路通を歩き、今熊野観音寺を目指す。場所でいえば天皇家とのつながりが強く「御寺」とも呼ばれた泉涌寺の塔頭寺院の一つと言ってもいいところだ。

境内にいたる橋の欄干の朱色と、まだ見頃の青もみじの対照が鮮やかである。橋を渡り境内に入ると、子どもたちに慕われる様子の弘法大師像に出会う。寺の縁起によれば、弘法大師がこの地で熊野権現を感得し、その本地仏である十一面観音像を授かったとある。また、後白河法皇が頭痛に苦しんでいた時にこの十一面観音に祈祷したところ平癒したという。そのことから頭の病気にご利益がある寺としても信仰を集めている。人気の授与物に祈祷済みの枕カバーがあるのも、頭の病気に効くところからである。また「ほけ封じ観音」の札所でもある。

本堂は自由に上がれるようになっているので外陣に入り、ここで一連のお勤めをする。中央の十一面観音、左手の薬師如来、右手の恵比須神などにも手を合わせる。

境内には大師堂、弘法大師ゆかりの五智水もある。山の麓ということもあり、四国八十八所の札所にも似た雰囲気が感じられる。

境内の上には医聖堂と呼ばれる多宝塔がある。前回は上がらなかったので今回行ってみる。医学と宗教が手を携えて、人々が明るく健康に暮らせる社会になるようにという願いを込めて建てられたものである。途中には西国三十三所のお砂踏みということで、それぞれの本尊の石像が安置される祠が並ぶ。祠の間隔も短く、上に行くまでそれほど苦労するというものでもない。

その医聖堂の脇には石碑があり、日本の歴史の中で医学に貢献した人たちの名前が刻まれている。こういう形で名前が刻まれるところもそうあるものではないだろう。

さてこれで今熊野観音寺をお参りして、これから山科の岩屋寺を目指す。今回、その二つを歩いて結ぼうということで、5月ながら暑さを感じる中、境内を後に歩き始める・・・。
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観戦記・バファローズ対マリーンズ@わかさ京都~西京極球場に阪急ブレーブス復刻

2018年05月27日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
勝率5割を目前にしながらなかなかなその壁を破れないバファローズ。交流戦前最後の試合となるマリーンズ3連戦は、神戸での2戦に続いて27日はわかさスタジアム京都での開催。大阪、神戸以外での主催試合がなかなかないバファローズとあって、この日の試合は公式ホームページから早々に前売り券を購入していた。

試合開始が14時からということでちょっとゆっくりである。普通に自宅から西京極に向かうのも芸がない。それならば、札所めぐりを組み合わせてみよう。ちょうど、近畿三十六不動で次に訪ねるのは山科の岩屋寺である。山科に行ってから移動するのも面白いだろう。合わせて、西国三十三所めぐり2巡目でまだ訪ねていないところが京都近辺に固まっており、その中から東福寺下車の今熊野観音寺に行こうか。地図を見ると、今熊野観音寺から岩屋寺までは峠越えで3キロくらいの距離だろうか。この2ヶ所を歩いて結ぶというのもなかなかないルートである。今回は観音菩薩と不動明王にバファローズの勝利を祈願してから球場に向かうという、何とも荒っぽいコースになった。リュックの中に納経帳や数珠、経本、それにファンクラブ用ユニフォームが同居する。

札所めぐりについては後の記事でまとめるとして、今回は観戦記ということで、阪急の西京極駅に着いたところから始める。時刻は12時前、駅からはバファローズ、マリーンズ双方のファンがぞろぞろと歩いて行く。

球場前には女子プロ野球・京都フローラのPRやグッズ販売のコーナーがあったり、トヨタの販売店の主催でバファローブルとの記念撮影と選手グッズの当たる抽選会が行われていた。せっかくなのでバファローブルと一緒にスマホのカメラに収まる。抽選会のほうは残念ながら参加賞だったが・・。

一塁側の入場口から入る。一塁側スタンド上方の指定席である。長椅子にラベルで席番が割り当てられている。スコアボードこそ新しいが、スタンドの造りも古典的なものである。それが懐かしく、かつ逆に新鮮にも感じる。

バファローズファンの中でも、かつての阪急ブレーブスのレプリカユニフォームやTシャツ姿の人が目立つ。今年のKANSAI CLASSICでも阪急ブレーブスのビジターユニフォームが復刻されていたが。中にはこの試合を主催する京都テレビのインタビューを受けていた人もいる。

というのも、この試合はバファローズの選手も阪急ブレーブスのユニフォーム着用の復刻試合として行われるからである。当初から決まっていたのか、あるいはKANSAI CLASSICを受けて急遽決まったのか。そういえば阪急はかつて西京極を準本拠地にしていた時期があったし、1967年にリーグ初優勝を決めたのも西京極だった。そんな歴史も振り返るのも面白いものである。

そういう試合のため、阪急のマスコット、ブレービーも復活である。登場すると「島野!」との声援も飛ぶ。かつてブレービーの中に入っていたのが、阪急の選手だった島野修さんだからということか。もっとも、この日中に入っているのはバファローブルと同じ方と推察されるが(先ほど記念撮影していたのにね)。

試合前のメモリアルピッチにはこの方が登場。阪急の背番号17、山田久志さんである。さすがにサブマリン投法は無理だったが、サイドスローからの見事な投球を見せる。

また、試合前の始球式には京都・宇治出身の女優、タレントの中村静香さんが務める。投げる前にはアドリブでサインに首を振る仕草を見せた後、こちらも見事なノーバウンド投球。

さて試合開始前となると次々に観客も入って来て、外野席はライト、レフトとも、そして一塁側の内野席もほぼ満席となった。久しぶりにロッテファンの声援を見るが、あの熱の入りようはいつ見ても楽しい。

阪急の先発は田嶋。(四国めぐりの連載の途中だったので記事にはしなかったが)1週間前に神戸で行われたライオンズ戦で6回無失点の好投を見せたのを観戦している。その時はストレートも150キロを超えたし、ライオンズ打線を寄せ付けなかったのだが、今回はスピードも今一つで、2番の藤岡に死球、3番の中村に四球と制球も定まらない。それでも後続を抑えて何とか無失点でスタートする。

マリーンズの先発は2年目の左腕・土肥。阪急は初回に2番・山足が四球で出塁。そして3番・吉田正が高めのボール球だったが振り抜いて、ライトスタンドにライナーで飛び込む2ランを放つ。まずは阪急が幸先よく先制する。

2回の田嶋は先頭のドミンゲスに四球を出したが、後続の清田、井上を連続三振に打ち取るなど、スピードは今一つだが少しずつ調子を上げる感じ。一方の土肥もヒットを許さない投球で、貧打戦なのか投手戦なのかという様子になってきた。

4回表、マリーンズは先頭の角中がこの日チーム初安打となるレフト前ヒットで出塁。そして続くドミンゲスがこちらはレフトスタンドにライナーで飛び込む2ランを放つ。これで2対2となる。さらに5回表には二死から藤岡、中村の連打で一・三塁と勝ち越しのチャンスと作る。田嶋にとってはピンチだが、続く角中が打ち損じた形で内野フライ。我慢の投球が続く。一方の土肥も、5回まで許したヒットは吉田の本塁打だけという好投である。

5回裏には入場者へのプレゼント抽選会。座席番号によって選手のサインボールが当たるというもの。金子や西、吉田といったところの当選座席番号が発表されたが、最後にサプライズで、マリナーズのイチローのサインボールが当たるというのがあった。実はその当選者がちょうど私が座っていた近くの人。周りから大きな祝福の拍手が送られた。

また、こんな光景も見られた。元阪急ブレーブスの私設応援団の団長を務めていた今坂さん。昔のプロ野球ニュースの動画などで、西宮や大阪球場で味のある野次を飛ばしていたことでも知られる(試合中に「おーい門田ぁー、豚まん食うかぁー?」など)。当時の阪急ファンらしい人たちから次々と記念撮影を受けていた。

6回表、田嶋はこの回も四球2つで二死一・二塁のピンチを迎える。そして田村の当たりは左中間へ。ここでこの日レフトのT-岡田が懸命に走って、最後は転倒しながらも何とか捕球した。これには一塁側、ライトスタンドから大きな拍手が起こる。「岡田も今度から守備固めやな・・」と、近くから皮肉のこもった喜びの声も聞こえる。田嶋はこの回で交代となったが、結果としては6回をドミンゲスの2ランによる失点のみで抑えた形となった。

6回裏は、先頭の若月がピッチャー返しの当たり。これを土肥がはじく間にヘッドスライディングで一塁セーフ、この日チーム2本目の安打となる。この後、土肥がワイルドピッチを2回やらかしてしまい、勝ち越しのランナーとして三塁まで進む。ピンチの後でのチャンスということで迎えるのは吉田。ここでボールカウントを悪くしたところでマリーンズは申告敬遠を選択。同時に土肥も降板となり、2人目は田中。絶好の勝ち越しのチャンスで4番・ロメロだったが内野ゴロに打ち取られる。

マリーンズは7回表、阪急2人目の黒木から荻野、藤岡の連打で無死一・二塁とするが、中村が併殺で倒れるなど得点に結びつかない。試合としてはマリーンズが押している印象なのだが、阪急投手陣、守備陣が何とか守っている形である。

8回裏、マリーンズは4人目でシェッパーズが登板。簡単に二死となるが、途中出場の後藤、そして2番の山足が粘って連続四球。ここで回るのは吉田。今度は敬遠とはならず勝負の場面で、低めの球を打って二塁の横を破る。執念といってもいい当たりで、3対2と阪急が勝ち越しに成功した。

そうなると9回表のマウンドには、現在の背番号17、増井が登場する。しかし先頭の田村に四球、荻野がきっちり送って一死二塁と同点のピンチ。レフトスタンドの応援の熱もこの日最高になる。

ここでこの日2安打の藤岡の当たりはライトへ。やや前進守備だったが、これを吉田の代走でライトに入っていた小田が懸命に背走して最後に捕球。これは吉田がライトにそのまま入っていたらおそらく頭上を越されていただろう。二塁ランナーはベースに戻るのが遅れたためにタッチアップでの進塁ができなかった。

これで気持ちでも優位になった増井が、最後は中村を三振に打ち取って試合終了。西京極での阪急復刻試合は3対2という僅差だったが、何とか阪急が勝利した。

インタビューはこの日3打点、またチーム3安打のうちの2本を放った吉田と、8回を無失点で切り抜けてその裏の勝ち越しを呼び込み、勝ち投手となった山本が登場。今のチームを支える若い顔が揃った形。吉田からは「交流戦優勝を目指す」という景気のいい言葉も出た。

私も、この日の勝利を運んでくれた?観音菩薩、不動明王、そしてもう一人、ある「神様」に感謝である(別にそれは私が個人的にそう思っているだけのことだが)。

まだチーム順位は4位のオリックス・バファローズだが、実は5月だけでいうと勝ち越しが決まったそうである。パ・リーグの順位争いも、ライオンズが失速してきたこともあり混沌としてきた。これから交流戦、例年ならパ・リーグがどこもセ・リーグを圧倒しているため、パ・リーグの順位がそれほど縮まらない展開なのだが、今年はどうなるだろうか・・・。
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第3番「法楽寺」~近畿三十六不動めぐり・15(田辺の不動さんはなかなか由緒ある)

2018年05月25日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動の第3番の法楽寺は、「田辺の不動さん」としてこちらも地元の人たちには知られている。歩いてきた方向からだと境内の通用口のようなところから入ってしまったので、一度境内を過ぎ、改めて山門の前に立つ。

こちらは近畿三十六不動の他に、「おおさか十三佛札所」「神佛霊場」の一つになっている。他にも、「役行者霊蹟札所」の一つともされている。これまで知らなかった寺だが、大阪市の南部にあってはかなり由緒のある寺のようである。伝承によれば源平の戦いで亡くなった霊を弔うために、平清盛の長男、重盛が開いたとある。一般には平重盛は温厚な人物で、仏への帰依が篤く、戦のない平和な世を願い、父清盛の暴走を諌めた人物として取り上げられることが多い。元々はライバルだった源義朝の念持仏だった如意輪観音を安置していたが、いつの頃からか不動明王が本尊として祀られるようになった。その後、織田信長の兵火で焼失したが、江戸時代に復興したという。

山門から入るとまず目に付くのは樹齢800年という大きな楠、そして、1996年に再建された三重塔がそびえる。この二つの組み合わせというのは見ものである。東住吉にこのような立派な寺院があるとは知らなかった。こちらも京善寺と同様観光寺院ではないということもある。札所めぐりというのは、これまで知らなかった寺を訪れるきっかけになるものだと改めて感じる。

また、楠の木のたもとには不動明王像がある。こちらに手を合わせる。

三重塔の回廊には木彫りの鶏が安置されている。これを見て中国の『荘子』にある木鶏の話を思い浮かべる(戦前の名横綱・双葉山にも木鶏の話がある)のだが、何か関係があり、メッセージ性があるのだろうか。いや、ただ何となくアートで鶏を彫ってみました・・・というだけかもしれないが。境内の他の場所にもアート作品が並んでいることもある。

そして本堂へ。外陣まで靴を脱いで上がる。横幅の広い本堂に、不動明王を中心にいくつもの仏が並ぶ。本堂の奥行も結構ありそうだ。外陣の廊下に正座して一つ一つに対して拝む人もいる。こちら法楽寺はいつも誰か手を合わせている感じで、私が訪ねた時も境内から人が絶えることはなかった。

法楽寺のホームページを見ると、江戸時代の慈雲尊者という人物を取り上げている。法楽寺の中興の祖と言ってもいい人物だが、釈迦の教えを純粋に実践し、本来の寺や僧侶のあり方を取り戻そうと、戒律の復興、実践に力を尽くしたとある。その著に『十善法語』というのがある。その中で「十善戒」の内容や功徳について説いている。現在、四国八十八所めぐり、あるいは真言宗のお勤めの中で「十善戒」を唱えるが、そのベースが慈雲尊者にあったとは初めて知った。戒律の中でもベースになるところで、一般の庶民でも実践できるとあるのだが、いざ日頃の自分を振り返るとなかなか・・・。

他には新しく建てられた大師堂があり、横には四国八十八所の本尊を1枚のプレートに彫った石塔もある。

境内を一通り回って納経所に向かう。横に、たなべ不動尊で祈祷済というオリジナルのラベルが貼られたミネラルウォーターが並んでおり、1本購入する。元は高知・室戸の海洋深層水である。ここでも四国を感じさせる。ここ法楽寺も「摂津国八十八所」の札所の一つである。

さてこれで東住吉の2つの近畿三十六不動めぐりを終えて、次の行先のくじ引きとサイコロである。境内で出した候補は・・

1.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

2.山科(岩屋寺)

3.豊中宝塚(不動寺、中山寺)

4.醍醐(醍醐寺)

5.和歌山(根来寺)

6.湖西(葛川明王院)

そして出たのは「2」。京都は京都でも山科である。どこまでも、京都の市街地には足を踏み入れさせまいとしているように感じる。最後にドドドッとまとめて参詣することになるのかな。

法楽寺を後にして、最寄りの阪和線南田辺に向かう。実はこの駅前にその筋では有名な大衆酒場があるのを酒場めぐりの本で見たことがあるのだが、さすがに平日昼の12時では営業していない。ちょっと惜しいなと思いつつ、また時間帯を変えて来てみるのも面白そうだなかと思った。

近畿三十六不動のほうも少しずつ参詣を続けていくところである・・・。
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第4番「京善寺」~近畿三十六不動めぐり・14(桑津の不動さん)

2018年05月24日 | 近畿三十六不動
先日まで四国八十八所めぐりの伊予西条、川之江、石鎚山シリーズについて長々と書いてきたが、今度は久しぶりの近畿三十六不動めぐりである。訪れたのは大型連休の真ん中、5月1日である。ちょうど、川之江で四国アイランドリーグを観戦した次の日である。この日は平日だが「メーデー」ということで会社としての特別休日に当たる。5月1日のメーデーに従業員が大手を振って参加できるよう、この日を会社として休日にした・・という経緯がある。もっとも、(私を含めてだが)メーデーというのにどのくらいの人が参加しているのだろうか。組合からの動員で行く方が多いのではないかと思う。また一方では、月末月初の事務処理のために普通に出社する人もいる。

もっとも、今や時代のほうが変わって、メーデーそのものが4月29日の昭和の日や、今年の場合は4月28日の日曜日に行われるところが多くなった。日曜・祝日に行わなければなかなか人が集まらないという背景がある。連合が中央で主催するメーデーすらそうである。ただその中で大阪は今でも「5月1日」というのを守っている。大阪城公園で行われた連合大阪の集会には主催者発表で3万2000人が集まったという。

・・・そのメーデーの集会が行われている時間帯、私はといえば近鉄南大阪線の河堀口(こぼれぐち)駅にいた。あくまで、公休日としての動きである。南大阪線は私の住む藤井寺も通る線で、河堀口は大阪阿部野橋から一つ目の駅。各駅停車しか停まらないので、毎日通過はしているがこれまでほとんど降りたことがなかった。今回は大阪の東住吉区という限られたエリアで、第3番の法楽寺、第4番の京善寺という二つを回るが、自宅から近い順として、河堀口の京善寺から先に行くことにした。

河堀口は高架駅で、すぐ近くでJR阪和線をオーバークロスする。私が幼かった頃は地平を走り阪和線の下をくぐっていたのが、大阪阿部野橋駅のリニューアルと、針中野までの高架工事により上下が逆転することになった。今から30年くらい前になるのではないか。

しばらく高架に沿って歩き、少し暑いくらいの中、下町の住宅地を10分ほど歩くと、木々に覆われた一角に出る。これが京善寺かと思うとそうではなく、桑津天神社という。記紀などの言い伝えによると、仁徳天皇が日向の国から妃として迎えた髪長媛をこの桑津の地に住まわせていた。媛が病気になった時、その平癒祈願のために医薬の神である少彦名命が祀られた。それがこの神社の由来とされている。

その境内の一角には「大阪陣戦歿将士慰霊塔」という石碑がある。石碑があるだけで説明文などはないのだが、大坂夏の陣で最大の戦いとなった天王寺口の戦いの場所にも近いことから、ここ桑津でも両軍の激戦が繰り広げられたのだろう。

桑津天神社から道を挟んですぐのところにあるのが京善寺である。昭和、平成に本堂や山門が建て直されたそうで、小ぢんまりしたがまだ新しい感じがする。京善寺というより、地元では「桑津の不動さん」という呼び名で親しまれているそうだ。境内も町中に溶け込んだ感じであるが、昔は桑津天神社と同じ境内、つまりは神仏習合で一体となっていたのではないかと思う。

古くは「金剛院」と呼ばれて厄除祈願も行われていたそうだが、1615年の大坂夏の陣の兵火で焼失した時に記録もなくなったのか、いつ頃からここにあったのかは不明だという。1652年、桑津村の篤信家の夢に不動明王が現われたことから、村の有志が紀州から阿闍梨と、根来寺と同じ造りの不動明王像を迎えて再興したのが現在の京善寺である。となると、神仏習合説は違うのかな。

世間は平日だし、観光寺院というわけでもないためか、お参りするのは私一人。正面の本堂で般若心経や聖不動経などのお勤めである。

本堂と続く建物に納経所があり、インターフォンを鳴らして寺の人を呼ぶ。近畿三十六不動のバインダー式の朱印をいただく。こちらは摂津国八十八所霊場の一つにもなっている。摂津の八十八か・・。四国を一回りしたら、こうした「ミニチュア版」の八十八所めぐりというのも面白そうだ。摂津であれば宿泊の必要もないし。

さて次は、札所番号はさかのぼるが第3番の法楽寺に向かう。鉄道の駅なら阪和線の南田辺か、地下鉄谷町線の田辺が最寄りである。乗換案内なら河堀口から大阪阿部野橋に出て、天王寺から阪和線または谷町線に乗り換えるよう出てくるが、地図で見れば1.5キロほどの距離でしかない。それならせっかくなので歩いて向かうことにする。

この辺りは大阪府道26号(大阪狭山線)が走る。大阪の生野区と大阪狭山市を結ぶ道路で、拡張もされているのだが、東住吉区の区間が未開通である。用地買収と建築物の取り壊しが中途半端なようで、道の真ん中をフェンスやガードレールで仕切っているが、長い間この状態である。よほど何か障壁となるような事情でもあるのだろうか。

その沿線の途中の米屋さんにこのポスター。訪ねた5月1日は、TOKIOの山口「メンバー」という呼び方がテレビでずっと流れていた時期である。このポスターには山口さんが映っていなかったのは意図的なのか元々そういうカットなのかは置いておくとして、TOKIOとしては福島の復興支援は続けるとのことである。4人の他のメンバーの思いも複雑だとは思うが、がんばってほしいものである。

この後はあべのハルカスを遠くに見ながら、桃ヶ池公園と阪和線の高架の間を歩き、路地に入る。先ほどと同じく住宅地の中にたたずむのが法楽寺である・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~大型連休最終日は・・

2018年05月22日 | 四国八十八ヶ所
5月6日、4日間にわたる今回の八十八所めぐりも最終日である。もっとも、新たな札所は横峰寺だけだが。

この日どう過ごすか、いくつか考えた。例えば・・

・四国八十八所めぐりの先の札所へ(ただし、札所番号順で続きの66番・雲辺寺へのアクセスは厳しいので、観音寺駅から近い68番の神恵院、69番の観音寺を先にお参りするか)

・新居浜のマイントピア別子(過去に奥の東平地区も含めて訪ねたことがあるが、今回、新居浜をバスや列車で通過だけでなく、足跡を残してもよいのでは)

・アサヒビール四国工場見学(当日も見学枠は若干あるようだし、ビールの試飲ができる。何なら、ビール工場併設のレストランでジンギスカンを味わいながらというのも、締めとして豪快)

このうち、後の二つは観光の要素もあり、ネタとして面白いかなとも思う。

そして迎えた朝、朝食を済ませてチェックアウトして駅に向かう。ここで取った行動は、特急の指定席の変更。16時台の特急を8時台に繰り上げた。それも、新幹線ごと。つまり、先に書いた選択肢を全てパスして、朝から大阪に向けて戻ることを選んだのだ。

この記事を後日に書いている時には、マイントピア別子かアサヒビールの工場のどちらかに行ってもよかったのでは?という思いもある。特にマイントピア別子は産業遺産を見ることの他に、日帰り温泉も楽しめる。「東洋のマチュピチュ」とも称される東平地区も、ガイドつきのバスが出ている。

ただその時は、大阪に戻ることを選んだ。翌日からは通常の出勤だし、あまり遅くならないほうがいいかなとの判断があった。また、横峰寺、石鎚山と、難所やら登山やらを2日続けたことで、疲れというよりも「お腹いっぱい」という気持ちもあった。川之江の三角寺が残っていれば6日は全力で三角寺を目指したところだが、これも前倒しで終わっている。別にどこか痛いわけではなかったが、その時はもう満足した気持ちで早くに帰ることにした。

後から、「もっと他のところに行っておけばよかった」というのは、欲望というか煩悩というか。それはまた別の機会に取っておくことにする。

乗るのは8時18分発のしおかぜ8号岡山行き。「千の風になって」のメロディーとともに風のように入線してきた。最後に遠くの石鎚山をちらりと見て、列車の中の人になる。

普段は宇多津で高松行きのいしづち8号と分割されるが、大型連休中は全車両が岡山に行く。高松へは宇多津から別にいしづち8号が仕立てられる。高松へ行くほうがいったん乗り換えとなるのは、利用客の流れを現していると言える。朝の列車ということで指定席も余裕があり、窓側の席を当てられた。後は座席でくつろいで車窓を見る中、これまでの八十八所めぐり、そして残りの札所めぐりに向けて思いを馳せる。現時点では夏までの巡拝スケジュールを考え中である。

愛媛から香川に入り、海沿いを走る。次からはこの車窓の周りが目的地になる。香川に入るとまた札所めぐりの雰囲気も変わるだろう。

停車駅ごとに乗客も増える中、宇多津から瀬戸大橋を渡る。

9時59分、岡山に到着。乗り継ぎ列車として指定されたのは、10時23分発のひかり466号。ひかりといっても京都までは各駅に停まるもので、新大阪なら後発の10時35分発のさくら542号のほうが早く着く。そんなダイヤの中で伊予西条の駅員がひかりを出したのは、さくらが満席だったからかもしれない。まあ、別に急ぐわけではない。この時間なら鈍行と新快速で大阪に戻ってもいいくらいだが、大荷物なので素直にひかりに乗る。

結果はひかりで良かった。岡山始発ということで席は結構余裕があり、結局新大阪までは隣が空席だった。また、相生、西明石にも停車して通過待ちするのも風情があった。相生では18分という、昨今の在来線鈍行でもなかなか見られない長時間停車もあった。それでも新幹線だから鈍行よりは速く、正午前には新大阪に着いた。おかげで、早く帰宅したぶんゆっくりすることができた。

さて残るのは讃岐の霊場とされる23所。そろそろ最後が見えてくるところだが、これまでと同じく焦らず、さまざまな要素を入れながら楽しんでいきたいと思う・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~石鎚山下山

2018年05月21日 | 四国八十八ヶ所
石鎚山の登山を終え、昼食もすませて12時を回ったところで下山開始とする。空も晴れていて、周りの景色を見ることができたし、頂上社でお勤めもできた。風が強かったのでそう長い時間滞在しなかったが、ともかく無事に上ることができたことに感謝である。今からなら15時17分発の帰りのバスに乗ることができるだろう。

で、ここから下山だが、上りの時よりもスリルというのを感じる。先ほど、崖に架けられた片側しか手すりのない階段を通ってきたが、下りは手すりのない方を歩かなければならない。上りの時は上を見ればよかったのだが、今度はいやでも下が崖の下が見えてしまう。もし落ちたら・・などと余計なことを考えてしまう。

また、下りは膝に痛みが走ってもいけないので、先に金剛杖を突いて着地点を確保しながら下りる。最近は杖の扱いにも慣れたのか足が慣れたのかはわからないが、膝の後ろが痛くなることもなくなった(徳島の20番鶴林寺~21番太龍寺を歩いた時には、最後には膝の後ろに電気が走る症状が出て、もしそれ以上長距離を歩けと言われたら無理だったかな・・ということもあった)。ただその分慎重になるせいか、ペースは思ったほど上がらない。そのうちに後から下りて来る人がピタリとついてくるので、少し広いところでは休憩を兼ねて道を譲ったりもする。

鎖場まで下りてきた。空いているのでちょっと足をかけてみようかとも思ったが、やはりいいかなとそのまま進む。鎖といっても登山靴がすっぽり入るくらいの大きさの輪がある。

この後は階段を踏み外さないよう、黙々と下山して行く形になる。景色も巻き戻しとなるため周りの写真もあまり撮っていない。これが縦走という形で他に抜けるのならまだ変化もあったと思う。石鎚山の場合なら、面河石小屋の方向に抜け、便が合えばバスで久万高原に出ることができる。途中には45番の岩屋寺があるあのエリアだ。修験者や弘法大師などは山岳修行でそうしたルートも抜けていったとされている。

午後からもそれなりの数の「お上りさん」とすれ違ううちに、八丁坂の鞍部に着く。ということは、ここから最後、成就社までの約1キロの上りである。山頂から2キロ以上急勾配を階段や自然の道で下って来た後だけに、このダラダラした上りがやけにしんどく感じる。そこを何とか耐えて、初めにくぐった神門に到着する。ここまで2時間かかった。

神門で振り返って山の方向に一礼し、改めて成就社の拝殿、そして見返り遥拝殿で手を合わせる。この「成就社」、元々は冬に石鎚山が雪に埋もれる時季も坊さんが留守を預かって祈祷を行ったりしていたことから「常住」と呼ばれていたが、明治の神仏分離の影響で奥前神寺と成就社に分離した・・というのは前の記事にも書いた。ここで「成就」という名前がついたのは、修験道の開祖の役行者にまつわる伝説がある。

役行者その昔石鎚山頂を目指した時、崖に阻まれてどうしても到達できなかった(今のように鎖場や階段があるわけではない)。力尽きて下山しようとこの地に着いた時、一心に斧を研いでいる白髪の老人に出会った。なぜ斧を研いでいるのか尋ねると、「この斧を研いで針にする」という言葉が返ってきた。役行者はこの言葉に感銘し、再び修行を続け、ついに石鎚山頂を開いたという。この白髪の老人が実は石鎚大神で、役行者がこの地で「私の願いが成就した」として祠を建て、開くことができた石鎚山のほうを見返って拝んだという。「成就」にはそういう意味合いがあり、下山してから改めて拝むのもいわれがあるとしている。

しばらく土産物店の前で休憩し、ロープウェイの山上成就駅まで戻る。ちょうど下りの便を待つ人で行列ができている。運行間隔を縮めての運行であるが、下りも満員である。バスの時間まで30分あまりあるが、このタイミングで下りてきてよかったと思う。バス停に向かうと順番が前のほうで、帰りは座って移動できそうだ。

バス停のところの土産物店の主人らしいのが並んでいる下山者に「バスの券持ってますか?」と尋ねて回る。伊予西条駅まではちょうど1000円なのだが、この店で乗車券を販売している。「先に買ってたら降りる時楽ですよ。最近、外国の方も増えていて、出口で混むことが多い」とのことなので1枚購入する。また、「2時間前のバスに乗り遅れて店で2時間過ごした客が3人いるので、先に乗せてほしい」とのお願いもある。

バスを待つ間に、麓の駐車場に停めていたクルマが次々に出て行く。バスももう少し本数があればと思う。

少し先の西ノ川で折り返したバスがやって来た。無事に着席し、加茂川の流れや黒瀬湖に沿って下りの道を走る。途中の横峰登山口からは、横峰寺参りを終えたらしい客も何人か乗ってきた。

16時すぎに伊予西条駅に到着。前日、横峰寺から香園寺まで回って戻ったのと同じような時間である。ともかくは3泊目となるエクストールインホテルに戻り、うちぬき水を使った浴場に入る。

さて、この旅最後、また愛媛県の札所めぐりの最後の夜だが、夜の八十八所はどうするか。前の2晩はいずれも焼鳥だったので、魚料理も入れたくなった。そこで入ったのは・・駅前の魚民。はい、全国チェーンの。駅近くに焼鳥以外でぜひとも入りたいという店が見つからず、安定の店ということで。全席個室というのも落ち着く。

静岡名物のイベントメニューがあり、高知ではなく焼津のカツオのたたきや、静岡の黒はんぺんを焼いたのにしらすを乗せた一品などいただく。鯛の造りは、瀬戸内産ということにしておこう。その中でカツオのたたきはたれ、塩の両方が楽しめたし、他のメニューもまずまず良かった。

日程は翌日6日もある。伊予西条16時台発の特急~新幹線乗り継ぎの指定席を持っており、日中はほぼまるまる動ける。一方で、八十八所は川之江の三角寺までお参りしており、次は香川の観音寺シリーズである。他にも近隣でどこかに行こうと思えば行けるのだが、さてどうしようか・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~石鎚山頂へハードな上り、鎖場は・・・

2018年05月20日 | 四国八十八ヶ所
八丁坂を下り、石鎚山の三十六王子の石の祠を見る。山頂まで残り2.5キロというところで、ここから本格的な上りになる。自然の山道のところもあるが、木で造られた階段も多い。階段を上がって高さを稼ぐことができるが、その分負担も大きい。また金剛杖を突くのだが、木の階段もところどころ板が割れており、杖を下ろす場所に迷うこともある。

上り、下りともそれぞれ行き交う人が多くなる。若者、子どもも含めた家族連れ、中高年のグループ、山ガール、外国人など多様である。石鎚山の場合は上る人を「お上りさん」、下る人を「お下りさん」と呼ぶそうで、下る人は上る人に「お上りさん」と声をかける習慣があるそうだ(「お上りさん」と聞くと、地方から都会に来た人を見下すような言い方に聞こえるのだが)。もっとも、それは石鎚信仰の中だけのようで、私を含めて、行き交う人はお互いに「こんにちは」である。また、階段が続くとしんどいので時には道を譲ることもある。その時も「お先にどうぞ」である。

ただ、行き交う人、上る人を見ても、ほとんどの人が両手がフリーである。たまに登山用・トレッキング用のポールを手にしている人はいるが、金剛杖という人はいない。さすがに遍路といえども、石鎚山にまでやって来る人は少ないのだろうか。逆に私はしんどいが「プチ修行」で上っているという感覚である。

渋滞ができている。どうやら石鎚山名物?の鎖場である。

石鎚山には4本の鎖場がある。最初が試しの鎖(74m)、続いて一の鎖(33m)、二の鎖(65m)、そして最後に三の鎖(67m)とある。石鎚山が修行の場であることの名残で、18世紀には「鎖が切れたので架け替えた」という記録があるので少なくともその時代には存在していたが、最初にいつ架けられたのかはわからないそうだ。かつて使われていた鎖の一部は、麓の石鎚神社の石段の手すりとしても使われている。

石鎚登山のブログなど見ると、一連の鎖場にチャレンジしたという記事が結構載っている。鎖場を上らなければ修行したことにならないというものまである。私も、せっかくの機会なので全部とは言わないまでも1本くらいは上ってもいいのかな、いや、上らなければならないのかな・・と考えていた。ただこういう「高所」はどちらかと言えば苦手だし、また手には金剛杖がある。先達さんや連れがいるわけでもないので、この杖を持ってもらうわけにもいかない。

一方で、「迂回路があるので、初心者や自信のない方は無理をせず迂回路を通るように」との案内がある。結局私は迂回路を選んだ。実際見ていても、鎖場に挑む人もいるが、多くの登山者は迂回路を選んでいた。「ようあんなところ上るわ」というのが鎖場を前にした「普通」の反応のようだった。実際、鎖場に挑戦して途中で足を踏み外し、転落する事故も毎年数件発生しているそうだ。改めてネットで見ると、1年半前には鎖場から転落した男性が死亡する事故もあったようだ。

試しの鎖場を迂回するように急な階段をぐるりと回る。この試しの鎖場、実は上るだけでなく、反対側に下りることになっている。上り下りセットとは、お試しにしてはハードだ。鎖場を下りたところが前者ヶ森の休憩所で、売店小屋もある。ここで鎖場を下りてくる様子を見るが、下るのも結構勇気がいるように見えた。

再び上りが続いたところで、道が平らになり、周囲が開けるポイントに来た。夜明かし峠という。今は山頂に宿泊ができる山小屋があるが、その昔、山頂でご来光を拝むにはここで夜を明かして、夜明け前に山頂にたどり着いたという。ここから山頂を見上げる。ずいぶん近くまで来たと思うが、正面にそそり立つ壁のようにも見える。距離にすれば残り1キロあまりだが、ここからがいよいよ本格的になってくるなと感じる。

鎖場は全てパスして迂回路を行くが、この迂回路も結構急な階段が続く。木の階段に加えて鉄製の階段もある。この階段のおかげで鎖場を通らずとも山頂に行くことができるとは言え、崖下のほうには手すりもなく、結構スリルがある。

二の鎖の下には最近建て替えられたというトイレ、休憩所がある。ここで一息ついた後、いよいよラストスパートである。まだ残雪も見らられる中、階段を伝って少しずつ上って行く。

ようやく、山頂小屋の建物が見えてきた。時刻は11時40分を回ったところ。山頂成就駅から3時間を切る形で、ようやくたどり着いた。そこには、何時から上がって来たのか、山頂のスペースをぐるりと囲む形で大勢の登山者が昼食やおしゃべりの最中だった。それはともかく、八十八所最大の寄り道の上りをまず終えたことにホッとした。

山頂は風が強く、ここで初めて防寒用の上着をリュックから取り出して着込む。ただ、その風のおかげか、ガスも何もかかっておらず、周囲の景色をはっきりと見ることができた。石鎚山の権現様もこの日は機嫌がよかったのだろう。

こちらには石鎚神社の頂上社がある。まずは上って来ることができたお礼ということで、手を合わせてここでも般若心経を唱える。横には小屋があり、ここで頂上社の御守を授かる。頂上社の朱印もいただけるようで、納経帳を持って来ればよかったなと、これだけは残念だった。

ご存知の方も多いと思うが、石鎚山の頂上は、頂上社のある弥山ではなく、500mほど先にある天狗岳である。頂上社は標高1974mで、先ほどから1982mと書いて来たのは、天狗岳の高さである。その天狗岳へは普通の登山道ではなく、これも岩にへばりつくようにして行くところである。鎖場と同様、修行ということになる。ただこの時間、天狗岳へ行こうとする人も並んでいる状況だ。私は、石鎚山の観光パンフレットで紹介される天狗岳のナマの姿を見られたことでよしとして、ここから手を合わせるに止める。

せっかくなので昼食にしようと、適当な岩場にスペースを確保してから山頂小屋に向かう。小屋は食堂になっており、カレーライスやおでんなどのメニューもある。私は昼食を持って来ていたのでこれをいただくとして、買ったのは缶ビール。缶ビールが売られているとは意外だった。350mlが1本580円。まあ、それくらいするだろう。「缶は必ず下まで持って帰ってね」と言われる。標高2000m近くでビールとは酔いそうだが、一段落した後の一杯である。

強い風に吹かれての一杯だったが、これが実に美味く感じられた・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~奥前神寺、成就社

2018年05月19日 | 四国八十八ヶ所
石鎚山ロープウェイの山上成就駅から歩き始める。まずは緩やかな上りを数分歩くと、正面に赤い屋根の建物が見える。奥前神寺という。64番の前神寺の奥の院の扱いとされているところ。この「奥」前神寺に対して、64番のほうを「里」前神寺と呼ぶこともある。

また歴史がややこしいところなのだが、そもそもは信仰の対象、あるいは修行の地として石鎚山があることから始まっている。ただ、標高1982mの石鎚山は冬は雪に閉ざされる。その間も、1450m地点のところのお堂で坊さんが留守を預かり、祈祷やお経をあげていた。冬でも常に住んでいるということで「常住」(現在は成就)と呼ばれ、これが元々の前神寺だった。

やがて江戸時代となり、四国遍路も盛んに行われるようになったが、札所とされていた前神寺まで行くのはしんどい。石鎚山を拝むならということで、横峰寺の側にできたのが星ヶ森である。一方、前神寺も出張所ということで山の麓に里前神寺を造り、ここで納経を受け付けることにした。そのため奥前神寺、里前神寺となった。石鎚山の別当寺をめぐって、横峰寺と前神寺との間のライバル争いがあったようである。

明治時代には例の神仏分離が行われる。里前神寺から石鉄(金へんに夫)権現が抜かれる形で少し上に石鎚神社ができ、一方の奥前神寺は成就社という神社になり、その下に今のお堂が建てられた。その後は里前神寺の復興もあり、今は前神寺といえば里前神寺を指し、奥前神寺は奥の院の扱いとなった。奥前神寺には、7月の石鎚山の山開きの時期だけ前神寺から石鉄権現が上り、御開帳となる。普段はお堂の扉も閉められている。

そのためか、一般の登山の人たちも前を素通りする。ただ、八十八所めぐりの延長戦で石鎚山に登る者としては素通りはしたくないなと思う。般若心経だけあげておこうか。この日は笈摺、納経帳、ろうそく、線香はホテルに置いて来たが、金剛杖、経本、納札、数珠を持っている。これからの登山の無事を願う。

奥前神寺から15分ほど上る。民宿兼土産物店が3軒ほど出て、その向こうに鳥居がある。ここが成就社である。石鎚神社の中宮社という位置づけである。結構新しい感じの社殿である。ここでも改めて登山の無事を祈る。登山者たちもこちらではしっかりと手を合わせていく。

隣に見返遥拝殿というのがある。正面には金の幣があり、その向こうには石鎚山の頂上、天狗岳が拝殿の窓枠に納まって見える。正に石鎚山そのものをご神体として拝む場所である。天気もよく、山頂の岩肌もくっきりと見ることができる。山の天気は変わりやすいというが、何とかこの先も持ってほしいところだ。ここでも般若心経のお勤め。拝殿の片隅に、四国八十八所や近畿三十六不動の巡拝を続けている作家の家田荘子さんが酒樽を奉納しているのを見つける。何だかわかるような気がする。

同じルートを往復するだけの道だが、一応、土産物店の店頭に用意されていた登山届を書き、ポストに入れる。この後の話になるが、5月6日、7日に、新潟県のそれほど高くない山に登った親子連れが行方不明になる事故も起きている。私も、普段登山をするわけでもなく、ましてや一人で登るということもあり、大事を取って届を書いた。

神門をくぐる。ここから山頂までは3.6キロの距離である。距離だけ見ればそれほどにも思わないが、500m以上の標高差を上る。ましてや途中には有名な鎖場もあるということで厳しいものになるだろう。

・・・と思うと、まず見えるのはいきなりの下り坂。八丁坂と呼び、その1キロ弱の区間はまず下り、鞍部に至る。ここで下りということは、残りの距離でより大きくなった標高差をクリアすることになる。そして帰りに下って来て、最後にこの距離を上ることになる。さすがは石鎚山、こういう仕掛けとは楽には登らせてくれないなあ。

ともかくしばらくはブナなどの原生林を見ながら、金剛杖を突いて下って行く。

下りきったところに鳥居がある。遥拝の鳥居といい、この先山頂まで行けない人はここで遥拝をするという。散策するならここまで、ここからは登山という境目にも見える。もちろん、鳥居では一礼するのみで、この先を進む。木々の間に山頂付近の姿を見ることができる。ここからが本格的な山道となり、厳しい道が続く・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~石鎚山ロープウェイ

2018年05月18日 | 四国八十八ヶ所
5月5日、この日は石鎚山に登る。四国八十八所の札所めぐりからは外れるが、古くからの信仰の山だし、弘法大師も修行したところだという。

八十八所めぐりを始めた時は、遍路ころがしで知られる12番の焼山寺に歩いて上ることを何とか避けられないのかを考えていた。その時は麓の藤井寺から5時間15分でたどり着いたが、四国めぐりで徳島や高知、また松山を回った時には、石鎚山に行こうとは全く意識にもなかった。それが四国、いや西日本で最も高いこの山に登ろういうのだから、変われば変わるものである。意識し始めたのは、今治シリーズを終えて次は伊予西条だ・・・とプランを考えたあたりからである。

歩くとはいうものの伊予西条から歩くわけではなく、路線バスでロープウェイの乗り場まで行き、ロープウェイに乗って1300mまで上がる。そこから1982mの頂上だから、実質歩くのは700mの高さの差である。前日、横峰寺まで歩いて上って下りたが、その差がしんどいながらも歩けたのなら、石鎚山も何とかなるのでは・・という思いがある。もちろん、登山を甘く見てはいけない。石鎚山だって滑落や遭難の事故も起きているし・・。

石鎚山のロープウェイ乗り場には、伊予西条からバスが出ている。とは言っても1日4往復、7時47分発が始発である。帰りは15時台、最終が17時台となる。15時台に間に合えばよし、最悪で17時台というつもりで行くことにする。

連泊となるエクストールインホテルを出て伊予西条駅に向かう。大型連休中とあって、このホテルも石鎚山や八十八所めぐりの客で賑わっている。前日同様早い時間の朝食を取る。7時すぎに駅に着いたが、さすがにこの時間ではバスを待つ客はほとんどいない。

少し時間があるとして、荷物を背負ったまま歩く。西条は水の町、駅の西にある市民会館の周りには水のスポットもある。誰でも汲めるのだが、水が湧くのは8時からだとある。それではバスに間に合わない。まあ、まずは澄んだ水を見ることができてよしとする。

コンビニで昼食を仕入れて駅前に戻ると、先ほどからバスを待つ客が増えていた。前日同様30人はいる。バスの乗車順は明確ではないが、どうやらベンチに座っていた人から乗るようだ。それだと私はかなり後ろの順番になる。

バスが来た。伊予西条駅始発ではなく、駅から離れた営業所からの便である。先ほどうちぬきの水を見た近くのバス停も経由していて、そうとわかっていればそこから乗っただろう。結局、私が乗った時はすでに満席。まずは立った状態で石鎚山を目指す。まあ、初めに駅前に来た時そのままベンチに座っていればバスにも座れたのだろうが、仕方がない。他にも10人ほどが立つ。

西条の駅前を抜け、加茂川に出る。これまでは橋を渡るだけだったが、今度は川沿いに走る。河川敷も広く、キャンプのクルマが結構停まっている。時刻は8時、ちょうど朝食の頃である。

バスは坂道をどんどん上り、加茂川の上流にある黒瀬湖の横を走る。複雑な形をしており、紅葉の時季などはより美しい景色を見せることだろう。

横峰登山口で数人が下車する。前日訪ねた横峰寺への登山バスが出るところである。当初はこのルートで横峰寺に行こうと考えていたが、登山バスの折り返し運転、そしてこの路線バスとの接続が気になって選択肢から外したことがある。

黒瀬湖の上流のダムを過ぎると渓谷ムードとなる。一方で道幅も狭くなり、どこまで入って行くのかと思う。

伊予西条駅から50分ほどでロープウェイ下のバス停に到着。土産物店、旅館が何軒か並ぶ中、少し坂道を上がる。途中には石鎚大権現、役行者、弘法大師などの像も祀られている。

そしてロープウェイ。通常は毎時0分、20分、40分発のところ、大型連休の多客期ということで運行間隔を狭めているようだ。果たしてロープウェイは満員となったが、バスでは見なかった人もいる。ロープウェイ下までクルマで来て、駐車場を利用する人たちである。やはりクルマ社会と思うが、路線バスの本数が少ないのも現実。行き帰りの時刻を気にしなくてよいのは大きい。

石鎚山ロープウェイは1966年に開業した路線。山麓下谷から山頂成就まで全長1914m、勾配が最大36度という区間を7分半で結ぶ。山麓から乗った時は周りは山の中だったが、高度が上がると西条の町並みや、遠くに燧灘が広がって見える。

7分半のパノラマを楽しみ、ゆっくりと山頂成就に到着。標高1300mとある。半袖では寒い、中に長袖シャツを着てちょうどよい体感温度である。ただ頂上はさらに700m高いところ、一応羽織るものはリュックに入れているが・・。

時刻は9時。ロープウェイから山頂までは3時間の道のりである。ロープウェイを降りた数十人の人たちとまずはぞろぞろと歩く・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~第61番「香園寺」から西条に戻る

2018年05月17日 | 四国八十八ヶ所
60番の横峰寺から61番の香園寺を目指して遍路道を下り、2時間半近くかかって香園寺の奥の院に着いた。後は香園寺まで2キロほど歩くところ。

松山自動車道の高架橋の下に池が広がる。大谷池という。大正時代に開かれた溜め池である。単に「大谷池」で検索すると、愛媛の心霊スポットの一つとある。そんなところなのか?と改めて読むと、それは同じ「大谷池」でも伊予市にある池のことだとか。こちら西条の大谷池は、地元の人の憩いの場として整備されている。野宿型のガチの歩き遍路の中には、横峰寺へのベースキャンプとしてこの池の公園にテントを張る人もいるそうだ。

遍路道の標識に従って歩くと、池から下った後に一度上り、墓地の間から自然の道に入る。墓参りの人から「ご苦労さま」と声がかかる。

この道を越えると神社の境内に出た。高鴨神社という。言い伝えによると、今から1500年前、大和の葛城にいた鴨一族の守護神(全国の鴨、加茂、賀茂がつく神社の総元締めを称する)から分祠したのが初めとされている。61番の香園寺を別当寺としていた時期もあったそうだ。

そのためか、高鴨神社の石段を下ると、香園寺の大きなコンクリート造りの本堂の裏手に出た。ただここからは入れないので、境内の外側をぐるりと回る。横峰寺から合わせて3時間を少し回って到着した。こちらは平地の札所、またクルマ利用が多いためか、皆身軽な出で立ちである。まあいい。

コンクリート造りの本堂の2階に上がる。前に訪ねた時も触れたが、市民会館を思わせる跳ね上げ式の椅子が並ぶのである。まずはここまで歩いた疲れもあり、どっかりとシートに腰かける。そしてその状態で般若心経のお勤めである。まあ、これで60番と61番がつながったことにホッとする。

境内でスマホを出して時刻表を見る。JRの伊予小松から伊予西条への列車は待ち時間が長いが、手前の小松総合支所前バス停からならその前の15時58分に特急バスが出る。こちらに乗ろう。

香園寺から、駐車場にある62番礼拝所をちらりと見て、15分ほどで総合支所前に着く。このバス停はコンビニの敷地内にあり、バスはコンビニの建物をぐるりと回って到着する。

そろそろ日が西に傾こうとする中、国道11号線から西条の町に入る。何とか難所をクリアして戻ることができた。連泊となるエクストールインに入り、うちぬき水の浴場で疲れを癒す。こうした風呂はありがたかった。

さて時刻は17時を回り、夜の八十八所である。前夜は鶏料理の店に行ったが今夜はどうするか。ホテルが出しているイラストマップを手に駅前を一通り回ったが、なかなか迷う。

その中で入ったのが「はるき」。またも焼鳥の店だ。カウンターの中は女性3人がいたが、いずれも顔つきが似ている。姉妹、あるいは母娘で切り盛りしているのかと思う。ただ店構えは昔から営業している感じで、市内の四国工場直送のアサヒビールというのもいい感じだ(前夜の「五味鳥」はサッポロビールだった)。

こちらでも今治風の焼鳥を皮焼きからいただく。最初はカウンターの真ん中に座っていたが、後から多人数の客が来たこともあり、端に席を移る。ただこの席に来たことで、母親か長姉さんかに見えるベテランの鉄板捌きを間近に見ることができる。串に刺した鶏肉を鉄板で器用に焼き、仕上げにタレが入った壺をくぐらせて完成。店としてなかなかよかったところである。

さて翌日5月5日は、いよいよ石鎚山に上る。天気予報では頂上付近は風が強いものの、雨は降らないとある。これはさまざまなものの差配だと思う。4日夜は早めに眠るとして、翌日を迎えることに・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~横峰寺から香園寺奥の院へ

2018年05月16日 | 四国八十八ヶ所
横峰寺に参拝後、いったん奥の院の星ヶ森まで行き、そこで昼食とした後で横峰寺の境内に戻る。境内を横切る形で駐車場側の出口に向かう。これから、61番の香園寺の奥の院を経由して香園寺までの下りである。

稲荷大明神の赤い鳥居を見て、駐車場へ続く道の分岐から坂道を下る。まずは道路標識が頼りとなる。少し前には、笈摺を羽織り、金剛杖とビニールの傘を持つ男性が歩いている。この人も香園寺まで下って行くのだろう。ペースが速いのかしばらくして姿が見えなくなる。香園寺まで10キロ、その手前の奥の院まで6.8キロという長い道のりである。

午前中の上りでは空も青く穏やかな天気の中で歩いたが、ここに来て急に風が出てきた。標高のあるところだし、斜面の向きによって風を受けることがあるのだろうが、背の高い木の上の枝がざわざわするのがわかる。急な天候の変化が起きないよう祈るばかりだ。

しばらくはクルマも通れる幅の未舗装の緩やかな下り坂で、1キロで車道に出た。クルマや登山バスは分岐点から1.5キロ上り、駐車場から500mの歩き、徒歩なら今通った道が近道となる。ここからは車道を歩く。急なヘアピンカーブが続くところで、クルマでも結構キツそうである。

数百m車道を下ると、遍路道に下りるポイントに出る。後はここを下ればいいのだな。下りのほうが膝に来るし、足元への注意が必要なのだが、まずは普通の下り坂。ところどころに丁石があり、杖を突きながら淡々と下って行く。

眺望が開けるところがある。伊予小松から松山へ抜ける方向だろうか。

25分ほどで、横峰寺から1.7キロ、香園寺奥の院まで5.2キロの標札に出る。まずここまではいいペースで来たと思う。ただここからが大変だった。道幅も狭くなり、かつての大雨や台風で折れたと思われる倒木が目立つ。中には道の両側を渡しているものもあり、その下をかがみながら行く場面もある。行きの湯浪ルートもそうだが、こちら奥の院ルートもしばしば不通になることがあるのだとか。それぞれのルートを歩く人が年にどのくらいいるのか知らないが、地元の方、あるいはボランティアの方による道の維持や復旧への尽力のおかげを感じる。

荒れた道があるかと思えば穏やかな道もある。途中では鉄塔の横も通るし、山つつじが咲いているのも見る。この辺りは他の鉄塔に通じるとおぼしき道もあるが、遍路道の札などもあるので迷うことはないと思う。ウグイスの鳴き声もする。ウグイスが鳴くのは春先ではないかと思うが、山の中だとまだ違うのだろうか。

ただ、湯浪ルートとは違い階段が整備されているところは少なく、自然の石がゴツゴツしたところもあるので、どこに足を踏み出せばよいか慎重になる。この辺りから歩くペースも遅くなったように感じる。丁石はあったりなかったりだし、奥の院への標札の数字もなかなか減らない。

その奥の院まで4キロを切ったところで、なぜか上りにさしかかる。これは思ってもみなかった。一瞬、帰りも湯浪から大頭に戻ったほうがよかったかなという思いが頭によぎる。ただここまで来れば引き返すわけにもいかず、奥の院まで一歩ずつ歩くしかない。幸い、数分で坂を上りきることができた。

寺から1時間を過ぎたところで分岐点に出る。香園寺まで奥の院を経由するか、伊予小松のハイウェイオアシスを経由するかの分かれ道である。遍路道としてはどちらもありで、奥の院経由だと香園寺まで一里十六丁(約5.5キロ)とある。ハイウェイオアシス経由でも距離は似たようなもので、それなら当初の計画通り、奥の院を目指すことにする。

展望が開ける。ススキの穂が斜面に植わっている。この辺りになると周りは山また山で、自分がどこにいるのかがわからなくなる。

1時間半で「下城」「上城」「展望所」と標札のある四つ辻に出る。東屋と簡易トイレがあるところ。少しずつ奥の院が近づいてきたなと思うところだが、ここからがまた急な下りとなる。幸い膝などへのダメージはないようだが、引き続き慎重に下る。

前方に平野、そして遠くには燧灘が見えてきた。ようやく先が見えてきたようだが、ここからがまだ長く感じる。

横峰寺を出て2時間、遍路道の山道がようやく終了して再び車道に出た。この道も湯浪と同じく行き止まりのようで、ちょっとした駐車スペースと、善意の杖置き場がある。横峰寺へはここにクルマを停めて往復することもあるようだ。まあ、林道に駐車場ができたのも1984年のことだという。それまでは湯浪かこちらにクルマを停めて歩かなければならなかったのだから、よほどの難所だったと思う。

横峰寺からの下りの遍路道では人の姿をほとんど見なかった。先に歩いていた笈摺とビニール傘の男性、途中の上り坂で追い越した女性二人連れ。すれ違ったのも女性一人とカップル一組だけ。やはりこのルートを行く人は少ないのかな。確かに、上りと下りを比較すると、今回の奥の院への下り道のほうが大変だったように思った。

ここからは新緑の中、車道の下り坂を歩く。15分ほどで奥の院らしき建物が見える。ちょうど、横峰寺から下りる時に前方を歩いていた笈摺とビニール傘の男性にここで追いついた。私よりも年輩の方で、「この下に何かお堂があるようですよ。私はもうええんで先に(香園寺に)行きますが」と、そのまま行ってしまう。

こちらが香園寺奥の院だが、まず滝と像のようなものが見えたのでそちらに向かう。白瀧という小さな滝がある。目の前には不動明王と脇侍の二王子の像がある。更衣室もあるのでここで滝行もできるのだろう。

この奥の院は1933年に香園寺の当時の住職が開いたという。五来重の『四国遍路の寺』によれば、香園寺の成り立ちとは元々この白瀧で修行した人の納経所であったとしている。それが昭和の初めに新たに奥の院としてお堂を建てたものだという。同書では「奥の院に行かなければ札所の成立や歴史はわからない」というスタンスがしばしば出ているのだが、ここ香園寺と奥の院の関係もその典型としている。

ここでお勤め、しばしの休憩として、香園寺までは残り2キロあまり。続きは次の記事にて・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~第60番「横峰寺」

2018年05月15日 | 四国八十八ヶ所
朝から10キロ近く歩いてようやく到着した横峰寺。山門をくぐり、手水場の水で一息ついてから参拝である。

手水場から20段ほどの石段を上がったところが本堂だが、その前に一面のシャクナゲの花が広がる。ちょうどこの時季が見ごろの花である。何だかこの景色を見ただけで、これまで長く歩いて来た疲れが癒されるようだ。境内は山道を歩いて来た人以上に、駐車場側から来た人で賑わっている。本堂の前でもお勤めする白衣、笈摺姿の人が目立つ。

横峰寺は役行者が石鎚山で修行していたところ、蔵王権現が現れたのでその姿をシャクナゲの木に刻んで安置したのが初めとされている。その後、弘法大師が入山した時に大日如来を刻み、本尊にしたという。長く石鉄権現の別当寺だったが、明治の廃仏稀釈の影響でいったん廃寺、その後復興した歴史がある。

右手にシャクナゲの花を見ながら大師堂に向かう。ちょうど本堂と対面する形で建っている。駐車場から来ると大師堂が手前になるが、笈摺姿でこちらで手を合わせた後で、「何やこれ大師堂やんか!本堂向こうやがな!」とブツブツ言いながら本堂の方に向かう人がいる。そんなに怒らなくても。ちなみに、駐車場から来て「正式な」手順を踏むのであれば、一旦大師堂と本堂の前を通過し、石段を下りてから手水場に行き、また石段を上って本堂、大師堂と回り、再び石段を下りて納経所に向かうことになる。

今はシャクナゲが満開で華やかな風情だが、冬は雪で覆われるという。有料の車道も通行止めになるそうで、「水曜どうでしょう」の四国八十八所巡拝の企画でも、ロケが冬場だったこともあり3回のうち1回(第2回)でしか訪ねていない。それだけ難所といえる。

納経所に向かう。若い僧侶が筆を走らせながら「歩いてきはったん?」と尋ねる。そうだと答えると「どこから上りました?」と。大頭から湯浪からと答えると「じゃこの後は61の方へ?お疲れ様です」と納経帳を返してくれる。また、「よかったら手水場で水を汲んでもらったら」と。ここの水は飲めるのかなと、ちょうど空になっていたペットボトルに水を汲む。

61番の香園寺への道は駐車場側から行くのだが、その前に行くところがある。一度山門を出て、上ってきた階段ではなく再び道を上る。こちらはクルマも通れる幅、緩やかな勾配である。

10分ほど上って着いたのは奥の院の星ヶ森。ここは石鎚山の遥拝所である。昔は役行者が蔵王権現を感得し、弘法大師が星供養の修行を行ったところ。鉄の鳥居の向こうに石鎚の山々がそびえるのを写真で見た時、これは立ち寄りたいと思っていた。

その鉄の鳥居、高いものかとイメージしていたが、私の背よりも低いものだった。ただ、正座して遥拝するならこの高さかなと思う。この日は天候もよく、石鎚山の頂上のはっきり見ることができた。いい時に来たと思う。翌5日はあの高さに挑むのだなと気持ちを新たにする。

ちょうど昼時ということで、せっかくなので星ヶ森から石鎚山を眺めながらおにぎりと手水場で汲んだ水での昼食とする。これで、65番の三角寺までがつながり、八十八所めぐりも愛媛県が終了。残りは香川県めぐりとなる。

さて下り。先ほど納経所でも話が出たように、香園寺に向けて下ることにする。こちらも9キロ以上の道のりとある・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~横峰寺への道

2018年05月14日 | 四国八十八ヶ所
5月4日、朝から青空が広がる中、伊予西条駅前に出る。石鎚山方面に向かうバスは30人ほどの人がバスを待っている。その前に60番の横峰寺に向かう。標高745m、石鎚の山々を望む高さで、四国八十八所の中では2番目の高さを持つ。

横峰寺には公共交通機関でアクセスする方法がある。石鎚山に向かう路線バスに乗り、横峰登山口バス停で下車する。ここから少し歩いた上の原で横峰寺への登山バスに乗り換える。バスで約30分揺られて寺の駐車場に着き、徒歩15分で寺に行くことができる。普通ならこれで行くのが妥当だろう。

ただ、案内を見る中でこの登山バスも厄介に見える。往復1750円というのは致し方ないとして、ダイヤが「不定期」なのである。路線バスは時刻表通りに運転するが、登山バスは乗客の集合状況によって運転するという。まあ、普通に考えれば行きの路線バスには連絡すると思うが、帰りが路線バスの時刻に合わせて運転されるのか、寺では時間を取ることができるのかわからないところがある。寺で時間を過ごすならまだしも、登山口のバス停で路線バスを長時間待つというのも面倒だ。だからあまりバス乗車には乗り気ではない(なお、冬季は登山バスそのものが運休となる)。

その一方で、石鎚山に登ろうというので、その前哨戦として横峰寺に歩いて上るのはどうかという気持ちが強かった。横峰寺への歩きルートは4つある。まずは、59番、今治の国分寺から続く遍路道。これは伊予小松の西側の大頭(おおと)から湯浪まで農道を歩き、その後山道を上るもの。2つ目は、61番の香園寺から奥の院を経由する登山道。3つ目は、香園寺から奥の院は経由せず、少し東側の登山道を行くもの。4つ目は、登山バスが通る車道を歩くもの。いずれも麓からは9キロほどの道のりである(もう一つ、歩き遍路の方のブログなどによると、伊予小松のビジネス旅館のお勧めルートとして「砕石場ルート」なるものがあるようだ)。

別に歩きにこだわるわけではないが、この中でルートを選ぶなら、遍路道を大頭から歩き、横峰寺に参詣後、奥の院を経て香園寺に行くのが妥当だと思う。香園寺は前々回で参詣済みだが、札所順番をつなぐ意味でもそうなるかな。もしアクシデントがあるようなら、帰りは時間を見て登山バスの利用もあり、ということにする。

その大頭へはうまい具合に新居浜~伊予西条~松山への特急路線バスがある。7時47分の石鎚山行きのバスを見送り、7時58分発の特急バスに乗る。観光バス型の車両で、西条の町中を抜け、国道11号線を走る。途中、左手に石鎚神社を見たり、右手に阪神タイガース仕様のパン屋さんを見たりと、5日前に歩いたルートを巻き戻すように進む。香園寺近くの小松総合支所のバス停で、今治方面と松山方面の路線が分岐する。特急バスは国道11号線を松山方面に直進し、次の停留所が大頭である。伊予西条からは20分ほどで着いた。

バス停の少し先にコンビニがあるので、ここでトイレや食料を調達する。歩きの人向けに手荷物の預かりサービス(500円)も行うとある。横峰寺へのベースキャンプ的な位置づけなのであろう。笈摺を羽織り、金剛杖をケースから取り出して出発。時刻は8時30分を回ったところである。横峰寺へは9.5キロの長丁場だ。

まずは麓の集落を歩く。しばらく行くと妙雲寺に着く。四国曼荼羅34番とある。道に面した境内の本堂に風格を感じる。別名を蔵王宮と呼ぶそうで、元々は石鎚蔵王大権現を祀っていたそうだ。扁額は書家の名手でもある小松藩主・一柳直卿の手によるものとある。横峰寺の前札所という位置づけで、古くは石鎚信仰にもつながっていたそうだから、ここでまずはこれからの歩きの無事を願ってお勤めをする。

なお、この蔵王宮の建物は、以前は61番香園寺の本堂だったそうだ。香園寺の本堂といえば、巨大なコンクリート造りの市民会館のような建物である。その新たな本堂を建てるにあたり、元の本堂を解体してこの妙雲寺に移築したのだという。

妙雲寺に隣接して石土神社がある。この辺りにも石鎚信仰の歴史、神仏習合の歴史というのを感じることができる。

松山自動車道の下をくぐり、ひたすら県道を歩く。道は緩やかな上りで、のどかな風景が続く。両側に目立つのは柿の木。

少しずつ勾配が急になる。その分、横を流れる中山川も渓谷ムードになる。ちょうど新緑の時季で、青空に緑がよく映えている。途中の東屋や、道端の弘法大師像も見る。

しばらくは渓谷沿いを歩くような感じである。季節が変わればまた違った表情を見せるのだろう。

大頭から7キロほど、途中お参りもしたので1時間半ほどで湯浪に着く。ここまで歩いたきた県道は行き止まりとなる。東屋とトイレがあり、駐車スペースもあるのだが、クルマが駐車スペースに収まらず手前の路肩にも停まっている。歩く途中で何台かのクルマが追い越して行ったが、そのクルマが皆ここに停まっている。ここから横峰寺へは昔ながらの遍路道、山道を行くことになる。寺近くの駐車場に行く道(登山バスも通る道)は通行料が2000円近くかかるという。それを嫌って、ここにクルマを停めて歩いて寺を往復するわけだ。

その道のりは2.2キロ。クルマから下りて「え?2.2キロもあるの?」と驚く白衣姿の方もいる。私も、9.5キロのうちの2.2キロとは言いながらも、ここまでの比較的緩やかな車道に比べて、この距離で標高差500m以上をクリアする必要がある。伊予の遍路ころがしと言われるところである。改めて気を引き締めて上ることにする。

従来の「四国のみち」の標識に加えて、最近建てたらしい案内板も目立つ。また、昔ながらの風情を残すとして、この道そのものが史跡にも指定されている。歩くのにふさわしい区間ということか。

自然の滝、渓谷もあり、丸太や鉄橋で渡すところもある。自然を楽しむことができるのはいいが、これまでも大雨や台風で水があふれて道が不通になることもしばしばあったそうだ。なかなかワイルドだ。そんな中、そこそこの数の人が山道を下ってくる。笈摺を羽織る人もいれば、トレッキングの人もいる。中には手ぶらという人も。クルマでやって来て、そのまま散歩感覚で横峰寺に行った帰りだろう。

2.2キロの坂道も前半はまだ勾配もそれほどではなかったが、残り1.5キロからぐっときつくなった。金剛杖を突きながらだが、それでもしばし休んで息を整える。後ろから元気に上がってくる若い男性グループにも道を譲る。荷物はなく、片手に納経帳一冊だけ。何ともワイルドやなあ。

しんどいながらも黙々と歩くうち、少しずつ寺が近づいて来た。最後は長い階段が続き、その先にようやく山門が見えた。湯浪の駐車場からちょうど1時間、大頭からは2時間半かかっての到着である・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~伊予西条で景気づけ

2018年05月13日 | 四国八十八ヶ所
5月3日から伊予西条のエクストールインホテルで3泊する。一つの町に3連泊というのは、八十八所めぐりに限らず私の旅ではめったにないことである。乗り鉄の旅だと次々移動するので泊まるところも都度異なる。四国めぐりでもこれまで2泊3日が最長だった。それだけに、滞在型というのがかえって新鮮に感じられる。

さて夕食、「夜の八十八所」をどうするか。ホテルには手書きの飲食店マップがあり、別紙ではご丁寧に紹介店ごとの大型連休中の営業カレンダーがあった。事前に電話で訊いたのだろうが、この気配りはうれしい。

そのマップと実際の店構えを見ながら駅前を歩き、入ったのは「五味鳥」。ご夫婦が切り盛りする焼鳥店だ。結構年季が入った店に見えるが、西条まつりの神輿のポスターや、有名人のサインもさりげなくかけられている。ホテルのマップ持参で一部の店ではサービスがあり、ここ五味鳥ではつき出しが無料だった。

前回の川之江では「揚げ足鶏」をいただいたが、こちらでは「今治焼鳥」を味わう。焼鳥を炭火の七輪や網ではなく、鉄板でこしらえるものだ。その今治では鯛や来島サザエをメインに味わい、焼鳥は食べなかったのだが、伊予西条で出会うとは。

代表的なのが皮焼き。鉄板でギュッと圧し焼きにしたのを、アルミの給食皿に盛る。皮と言いつつ身もついていて食べ応えがある。

今治で焼鳥が串でも鉄板焼きなのは、漁師町ということでサッと焼けて手早く食べられるのがウケたことに始まるそうだ。この調理は今治だけでなく周辺でも行われているのだろう。カウンターで、地元のおっちゃんたちの会話を聞きながら、テレビでは地元局のニュースを見ながらビールをやるのは心地よい。翌日から横峰寺、石鎚山と連日山登りだが、まずは気持ちを高める。

他には、これは四国中央から香川にかけての鶏となるだろうが、骨付きの親鶏をいただく。親鶏は挟みで切る必要があるほど硬いのだが、その分歯ごたえ、旨味が濃い。

本日の一品料理、おすすめということで他にはホゴ(カサゴ)の煮付けなど味わい、満足して店を出る。

駅まで歩く中で、このような看板を見つける。そういうことだったのか・・・と、突然納得する。いや、突然何に納得したんや?・・というところだが。

伊予西条駅で列車の接近を知らせるメロディーが、「千の風になって」なのである。また、先に訪ねた四国鉄道文化館の向かいにある物産館にも、「千の風になって」をテーマとした詩集が置かれていた。なぜなのかと思っていた。

作詞作曲はここでは置くとして、歌として世間に広まったのは、テノール歌手の秋川雅史さんによるところが大きい。秋川さんが西条の出身ということで駅のメロディーになったのだろう。それも含めると、駅の南にそびえる石鎚の山々とよく合う一曲だなと思う。

ホテルに戻り、1階の大浴場に向かう。浴槽は4~5人が脚を伸ばせるくらいのものだが、湯は西条のうちぬき水を使っている。温泉ではないにしても、そうした水を大風呂に使うとは豊かさを感じる。この浴場の効果もあり、この後ぐっすり眠ることができた。

・・・さて5月4日、愛媛の天気は1日良い予報である。この日は横峰寺に行き、愛媛の札所が完結する予定である。

通常は6時45分からの朝食だが、大型連休中は宿泊者が多いので6時15分には開けると言われていた。その時間にロビー兼朝食会場に下りると、すでに何組か食事の最中だった。中には遍路の白衣姿の人もいて、リュックや杖もあるから食事が済んだらすぐに出るのだろう。向かうのはどの札所だろうか。あるいは、川之江の三角寺を目指すとか。

朝食が早かったので早く出ることもできたが、バスの時間が決まっているので部屋でゆっくりする。結局出たのは7時半を回ってから・・・。
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