今熊野観音寺を後にして、山科の岩屋寺を目指す。府道の118号線(醍醐道)が通っている。峠越えなのだろうが、地図を見る限りでは3キロあまり。1時間ほどで行けるかな。
先ほど渡った青もみじと朱塗りの橋の下に道がある。京都一周トレイルの一部になっている。
一条天皇の后だった藤原定子の鳥戸野陵の横を通る。鳥戸野は当時の高貴な人たちの葬送の地であった。この辺りが都の最果ての地だったことがうかがえる。
細い道の両側に住宅が集まる中、山科方面に続く道に出る。由緒ありそうな鳥居が見えたので行ってみる。剣神社とある。創建ははっきりしていないが、平安京建設の時に、四方の守り神として剣を埋めて祠を建てたのが始まりとも言われている。絵馬にはなぜかトビウオがデザインされている。御祭神の好物だというが、日常の食卓にトビウオが出るとは滅多に聞かないなあ・・。鳥取や島根でアゴと呼ばれて、かまぼこの材料や出汁に使われているのは食べたことあるが。
ここからしばらく京都トレイルの一部である上り坂を歩く。途中からはクルマの入れない細道も歩く。これを直進すれば山科に抜けられるなというところで、「京都トレイルはそっちとちゃうよ」と声をかけられる。山科に行くと言うと「そうでっか」と送られたが、京都トレイルを歩いて回る人というのもそれなりにいるのだろう。
府道に出る。センターラインもない道だが、クルマもそれなりに通る。地元の人の抜け道のようなものだろうか。そんな中で、不法投棄の禁止を呼びかける看板が目立つ。ひどいのになるとその看板の下にブラウン管型のテレビが捨てられていたりする。また、閉鎖されたゴルフ場の前も通る。先ほどの鳥戸野ではないが、都の端というのは昔からそうしたものが集まるのかなと思ってしまう。
竹藪の中に「西野山古墓」というのを見て下り坂になる。この古墓、石碑が立っているだけで中には入れないようだが、副葬品には国宝に指定されたものがあり、一説では平安時代の武将・坂上田村麻呂の墓ではないかとも言われている。
再び住宅地が広がり、坂を下りきったところに阪神高速の山科ランプがある。この交差点が滑石・新大石道という名前である。先ほど歩いてきたのは滑石街道とも呼ばれている。
ここで大石道とあるのは、赤穂浪士、忠臣蔵の大石内蔵助のことである。主君の敵を打つ中で、一時山科に移り住み、都で遊興にうつつを抜かして「敵討ちの気持ちはない」と敵味方を欺いていたことは知られているが、その時住んでいたのがこの辺りである。忠臣蔵の映画やドラマでは、内蔵助が遊んだのは祇園や島原という設定が多いが、実際はこの道を通って伏見に出入りしていたのではないかとされている。なるほど伏見なら、淀川の三十石船も通う交通の要衝である。遊びながらも情報を得るには祇園よりも適していたと思われる。ちなみに滑石街道とは、カーブが多く冬は凍結することがあることから、「大石内蔵助も足を滑らせたことだろう」とつけられた名前だそうだ。
交差点の南にあるのが大石神社。大石内蔵助を祀るとなると赤穂城跡にある大石神社が有名だが、山科にもあるとは。創建は1935(昭和10)年である。赤穂浪士を崇拝していた浪曲師が、大石内蔵助ゆかりの地に神社を建てる運動を行ったところ、京都でもその機運が高まり、当時の府知事も発起人となって募金などで建てられたという。戦前の「忠臣蔵」の価値観がうかがえるような経緯である。
もっとも、今訪ねた限りでは穏やかな感じの境内である。その癒しの一つに、ミニホースの花子というのがいる。ちょうど訪れていた子どもたちも頭をなでるなど親しむ様子だった。
祭神が大石内蔵助ということからか、大願成就とか必勝祈願でのお参りが多いようだ。私も手を合わせながら、この後わかさスタジアム京都で観戦するオリックス・バファローズの勝利を願う。社殿に相対するように大石内蔵助の座像があり、台座に多くの札が貼られている。
宝物館がある。無料ということで入ると、まず目に入るのはかつての映画、ドラマで演じられた内蔵助たちの写真。古くは長谷川一夫もあり、その後は三船敏郎、松方弘樹、里見浩太朗、中村勘三郎、北大路欣也など、歴史的な役者が揃っている。やはり大石内蔵助を演じられるというのは役者世界の中ではステータスなのだと思う。宝物館には他にも錦絵や内蔵助の遺品とされるものも展示されていたが、今につながるスターの写真のほうが内蔵助への人々の思い、憧れが伝わってくるように感じられる。
山科といってもJR・京阪の今の山科駅前なら賑わっているが、こうした山の手なら隠居の地として似合っているような感じがする。
さて、今回目指す岩屋寺というのは大石神社にも隣接しているようだ。境内の脇道を少し歩くと寺の下に出る・・・。
先ほど渡った青もみじと朱塗りの橋の下に道がある。京都一周トレイルの一部になっている。
一条天皇の后だった藤原定子の鳥戸野陵の横を通る。鳥戸野は当時の高貴な人たちの葬送の地であった。この辺りが都の最果ての地だったことがうかがえる。
細い道の両側に住宅が集まる中、山科方面に続く道に出る。由緒ありそうな鳥居が見えたので行ってみる。剣神社とある。創建ははっきりしていないが、平安京建設の時に、四方の守り神として剣を埋めて祠を建てたのが始まりとも言われている。絵馬にはなぜかトビウオがデザインされている。御祭神の好物だというが、日常の食卓にトビウオが出るとは滅多に聞かないなあ・・。鳥取や島根でアゴと呼ばれて、かまぼこの材料や出汁に使われているのは食べたことあるが。
ここからしばらく京都トレイルの一部である上り坂を歩く。途中からはクルマの入れない細道も歩く。これを直進すれば山科に抜けられるなというところで、「京都トレイルはそっちとちゃうよ」と声をかけられる。山科に行くと言うと「そうでっか」と送られたが、京都トレイルを歩いて回る人というのもそれなりにいるのだろう。
府道に出る。センターラインもない道だが、クルマもそれなりに通る。地元の人の抜け道のようなものだろうか。そんな中で、不法投棄の禁止を呼びかける看板が目立つ。ひどいのになるとその看板の下にブラウン管型のテレビが捨てられていたりする。また、閉鎖されたゴルフ場の前も通る。先ほどの鳥戸野ではないが、都の端というのは昔からそうしたものが集まるのかなと思ってしまう。
竹藪の中に「西野山古墓」というのを見て下り坂になる。この古墓、石碑が立っているだけで中には入れないようだが、副葬品には国宝に指定されたものがあり、一説では平安時代の武将・坂上田村麻呂の墓ではないかとも言われている。
再び住宅地が広がり、坂を下りきったところに阪神高速の山科ランプがある。この交差点が滑石・新大石道という名前である。先ほど歩いてきたのは滑石街道とも呼ばれている。
ここで大石道とあるのは、赤穂浪士、忠臣蔵の大石内蔵助のことである。主君の敵を打つ中で、一時山科に移り住み、都で遊興にうつつを抜かして「敵討ちの気持ちはない」と敵味方を欺いていたことは知られているが、その時住んでいたのがこの辺りである。忠臣蔵の映画やドラマでは、内蔵助が遊んだのは祇園や島原という設定が多いが、実際はこの道を通って伏見に出入りしていたのではないかとされている。なるほど伏見なら、淀川の三十石船も通う交通の要衝である。遊びながらも情報を得るには祇園よりも適していたと思われる。ちなみに滑石街道とは、カーブが多く冬は凍結することがあることから、「大石内蔵助も足を滑らせたことだろう」とつけられた名前だそうだ。
交差点の南にあるのが大石神社。大石内蔵助を祀るとなると赤穂城跡にある大石神社が有名だが、山科にもあるとは。創建は1935(昭和10)年である。赤穂浪士を崇拝していた浪曲師が、大石内蔵助ゆかりの地に神社を建てる運動を行ったところ、京都でもその機運が高まり、当時の府知事も発起人となって募金などで建てられたという。戦前の「忠臣蔵」の価値観がうかがえるような経緯である。
もっとも、今訪ねた限りでは穏やかな感じの境内である。その癒しの一つに、ミニホースの花子というのがいる。ちょうど訪れていた子どもたちも頭をなでるなど親しむ様子だった。
祭神が大石内蔵助ということからか、大願成就とか必勝祈願でのお参りが多いようだ。私も手を合わせながら、この後わかさスタジアム京都で観戦するオリックス・バファローズの勝利を願う。社殿に相対するように大石内蔵助の座像があり、台座に多くの札が貼られている。
宝物館がある。無料ということで入ると、まず目に入るのはかつての映画、ドラマで演じられた内蔵助たちの写真。古くは長谷川一夫もあり、その後は三船敏郎、松方弘樹、里見浩太朗、中村勘三郎、北大路欣也など、歴史的な役者が揃っている。やはり大石内蔵助を演じられるというのは役者世界の中ではステータスなのだと思う。宝物館には他にも錦絵や内蔵助の遺品とされるものも展示されていたが、今につながるスターの写真のほうが内蔵助への人々の思い、憧れが伝わってくるように感じられる。
山科といってもJR・京阪の今の山科駅前なら賑わっているが、こうした山の手なら隠居の地として似合っているような感じがする。
さて、今回目指す岩屋寺というのは大石神社にも隣接しているようだ。境内の脇道を少し歩くと寺の下に出る・・・。