まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第2回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第5番「大師寺」(参詣はしたものの・・・)

2022年06月30日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場の第6番・南淋寺を後にして、西鉄バスで甘木バスセンターに戻る。次は、前日(25日)に雨のため参詣を断念した第5番・大師寺に向かう。最寄りの田主丸にある板町バス停まで甘木観光バスで行くのだが、起点の甘木鉄道甘木駅まで歩いて行かずとも、西鉄の甘木バスセンターのすぐ近くに甘木中央バス停がある。次の田主丸行きは10時17分発で、20分ほどは休憩時間としてコンビニやバス停のベンチで過ごす。

やって来たバスにもう一人の客とともに乗り込む。その客は朝倉医師会病院で下車して、後は前日と同様、私一人のバス移動である。

バスは県道甘木田主丸線を走り、両筑橋で筑後川を渡り、朝倉市から久留米市に入る。「両筑」とは初めて目にする名前だが、筑前と筑後をまとめるということでこの辺りでは一般的な呼び方なのかな。筑前・築後はこの辺りでは筑後川の北と南で分かれていて、朝倉市が筑前、久留米市が筑後となる。その昔は田主丸と甘木、秋月を結ぶ「両筑軌道」という鉄道も走っていたそうだ。後に鉄道は廃止されてバス路線に転換され、会社じたいも西鉄に吸収されたが、時代を経てその西鉄から分離されたのがこの甘木観光バスである。

20分あまりで板町に到着。目指す大師寺はバス停南の交差点を渡ったところで、入口の案内板があり、少し路地を入ったところに位置する。石標の向こうに本堂が見える。

大師寺が開かれたのは大正時代、高野山開創1100年を記念してのことという。寺の山号が「新高野山」で寺が「大師寺」となると、完全に「弘法大師案件」である。本尊は不動明王だが、地元の人からは「お大師さん」「弘法さん」として親しまれているという。

その境内だが・・・何と全面工事中。本堂、その横の庫裏ともどもネットで覆われていて、日曜日だが庫裏のほうでは作業が行われている。あらあら・・・。周りにはかろうじて不動明王をはじめとした仏像が立っているが。

本堂前の燭台には「朱印は書き置きを用意しています」と印字された紙も挟まれていたが、どこに声をかけてよいものやらわからない。

特に、大師寺が工事中である旨の案内がどこかにあったわけではなかったが、それなりの年月をかけて大改修を施しているのだろう。これなら、前日に大雨の中無理して来なくてよかった。この日もどっと暑さがやって来たが、仕方がない。電話番号を調べて電話でもすればどうにかして納経帳に朱印を押すこともできるかもしれないが、そこまでしなくてもよいかなとも思う。

田主丸がある久大線沿線には、久留米近辺にいくつか札所があって九州八十八ヶ所の後半に来ることになるし、番号はそれより前だが大分内陸部の日田にも札所がある。今回、大師寺の朱印はお預けとして、それらと組み合わせて大改修後の本堂を訪ねればいいかなという気になった。ここは割り切ろう・・。

ここからまた筑後川を渡って朝倉市に戻る。当初は板町11時33分発の甘木行きのバスに乗るつもりだったが、大師寺の滞在はごくわずかな時間だったので、その1本前の10時57分発に十分間に合う。先ほど田主丸行きで乗った便の折り返しで、またしても乗客は私一人。

次に目指すのは、第90番の浄心院。交通案内では西鉄甘木から電車で2駅の上浦から徒歩10分とあるが、地図を見るとそこまでぐるり回らずとも、この甘木田主丸線のどこかから歩いてショートカットできそうだ。路線図と地図とを見比べて、小田というバス停で下車。運転手には変わった客に見えたかもしれない。

青空も見えるようになり、暑くなってきた。その中で平坦な道を20分あまり歩くと、浄心院の近くに出た。ここまで来れば、残り2ヶ所でのゴールが見えてきた・・・。

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第2回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第6番「南淋寺」(2017年九州北部豪雨をしのぶ)

2022年06月29日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

6月26日、外は雲が広がるものの雨は降っていない。福岡南部も真夏日の予報が出ているが、雨に遭わずに九州八十八ヶ所百八霊場めぐりができそうだ。

宿泊した甘木駅前の「ホテルグランスパアベニュー」で6時半からバイキング形式での朝食をとる。ちなみに朝風呂もこの時間からの営業だ。前日チェックイン後、本日の行程を組み直した当初は、朝も温泉に浸かり、朝食も取ってから8時半頃に出発するつもりで路線バスや鉄道の乗り継ぎを考えていた。ゆったりできるなと思っていたのだが、改めて地図を見て、第6番の南淋寺が最寄りのバス停から思ったより離れていることが判明した。そのためもう一度行程を組み直すことになり、出発も早めて最初に南淋寺に行くことにした。バス停から歩くなら早い時間のほうがまだ涼しいだろうし、交通面で一番難しいところを先に回っておけば、後はどうにか調整がつく。

ということで、甘木バスセンター7時31分発の杷木行きに乗ることにした。当初の予定より1時間前倒しのうえ、このバスセンターじだい甘木駅に隣接しているわけではなく、駅から徒歩7~8分のところにある。いったん甘木鉄道甘木駅のコインロッカーに荷物を預け、甘木バスセンターよりも若干近い朝倉総合支所のバス停に向かう。甘木の町の中心は駅前よりもこの一帯のようだ。かつて福岡藩と天領日田を結ぶ朝倉街道沿いである。

そのバスセンターだが、元々は鉄筋コンクリートの建物があり、各方面に向けて西鉄バスが運行されていた(もっと昔は軽便鉄道の駅だったという)。しかし、西鉄バスが甘木地区の運行を甘木観光バスに譲渡するなど路線も縮小され、プラットホームの乗り場に待合室がある造りである。これから乗るのはJR二日市、朝倉街道から杷木、原鶴温泉を結ぶ西鉄バスで、先客もそこそこいる。

朝倉街道を20分近く走り、九州八十八ヶ所の公式サイトで最寄りとあった比良松の一つ手前の比良松中学校で下車する。どちらから行っても同じくらいの距離だ。

少し行った比良松の交差点に「南淋密寺 3キロ」の看板がある。さすがに、3キロを徒歩15分で行くのは無理な話。ただ、そもそも徒歩で行こうという人はどのくらいいるのだろうか。私のスタンスとして、行けるところはできる限り公共交通機関で行こうというのがあり、今回は甘木近辺に札所が固まっていることもあってバスや鉄道の組み合わせにいろいろうなったのだが、南淋寺だけがポツンとあり、かつ他の札所にも限られた時間の中で行かなければ・・・となると、間違いなくレンタカーを選択したところ。

交差点を曲がって別の県道に出る。近くの橋の修復工事が進められている。ここ朝倉市は2017年の九州北部豪雨で大きな被害を受けたところで、河川の改修はまだまだ行われているのだろう。広島市郊外もこのところ豪雨災害に見舞われることが多く、似たような状況のところも結構見かける。

県道から分かれ、巨峰や桃の畑が目立つ中を歩く。幸い、寺に着くまでに急な上り坂はなさそうで、ゆったりした道が続く。それだけでも気分的にまだ楽だ。

バス停から30分あまりで南淋寺の石標に出る。集落の仲を進むが、寺はもう少し奥にあるようだ。途中に、八坂というコミュニティバスの停留所がある。ただし日曜・祝日は運転なし。

総門跡を示す石標のところに、法面工事中の看板がある。奥の斜面がコンクリートで覆われている。これも九州北部豪雨からの復旧作業のようだ。とにかく斜面を固めて、崩れることがないようと言わんばかりの意志を感じる。

山門に着き、石段を上がって境内に出る。ここからも法面工事のコンクリートが目立つ。その前には大師堂、四国八十八ヶ所のお砂踏みの石像に屋根が掛けられているが、真新しく見える。

南淋寺は伝教大師最澄が開いたとされる。遣唐使船で唐に渡った時、風雨に遭って入唐が危ぶまれた。その時最澄は、「無事に唐に渡ることができれば、お礼に仏像を刻んで衆生を救う」と祈り、無事に入唐できた。最澄は帰国後、誓い通り7体の薬師如来を刻み、その一体を仏のお告げによりこの朝倉に祀った。当初は「南林寺」という名前だったが、たびたび河川の氾濫や兵火に遭い、現在の八坂の地に移された。その時、林の字の横にサンズイをつけて「南淋寺」となった。火事に遭わないよう、林に水を注げ・・というお告げがあったとか。これも文字遊びである。最澄が開いた寺だが、時代の移り変わりの中で真言宗に変わったという。

本堂、薬師堂、大師堂の扉がそれぞれ閉まっており、外からのお勤めとする。南淋寺は九州四十九薬師霊場の札所でもある。九州薬師・・・いやいや、中国四十九薬師もまだ道半ばなのに、とても手を出す段階ではありまへんで。

後でわかったことだが、2017年の九州北部豪雨では朝倉市でも多くの犠牲が出たが、寺の裏山で土砂崩れが発生し、境内にも土砂が流れ込んだという。この時に出た話として、南淋寺に残されている古文書が注目されたという。それは300年ほど前に起きた水害についての記録だが、そこに記された地名や被害状況が2017年の九州北部豪雨と酷似していたという。ただ、地元住民の中にはかつてこの地に大きな水害があったことを知らなかったという人も多かったという。そのため、こうした古文書や過去の資料を受け継いで、地域の人たちに災害リスクを意識させる、風化させない取り組みが必要ではないかという声も出るようになった。確かに、広島でも(ごく一部かもしれないが)同じような取り組みが行われている。

こういう災害に遭った寺だとは、私も現地に来て法面補修を見て初めて知ったことである。現在は映像などでも記録が残る時代であり、災害というのは風化させず、教訓を受け継いでいく必要があると感じた。

本堂が閉まっていたので納経所にて朱印をいただく。待っている間、玄関にエアコンの冷気が流れてきて、しばし涼む。

再び3キロの道を歩き、今度は比良松のバス停に戻る。ここからは甘木バスセンターに戻り、甘木観光バスに乗り継いで前日参詣を断念した第5番の大師寺を目指すことに・・・。

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第2回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~甘木にて前泊

2022年06月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

6月25日、激しい雨の中到着した甘木駅。甘木駅には西鉄、甘木鉄道それぞれあるが、今立っているのはかつての国鉄甘木線、現在の甘木鉄道のほうである。駅舎は国鉄時代のものをそのまま引き継いでいる。「甘木」と横にで書くとどうということはないが、内田百閒の「阿房列車」ほかの影響からか、この文字を見ると「某」と連想してしまう。縦書きにすると「甘」と「木」の字で「某」となり、「甘木さん」というのがよく登場する。他には「何樫さん」に「垂逸さん」・・。

この日宿泊するのは、西鉄、甘木鉄道それぞれの駅に近い「ホテルグランスパアベニュー」。今回の九州八十八ヶ所めぐりは甘木駅を拠点に動くのがよさそうで、甘木鉄道の駅にはコインロッカーもあったから、明日は荷物をそちらに預けてから動くことにしよう。

フロントにてチェックイン。ここはホテルとしてだけでなく日帰り入浴もやっていて、そちら目当ての客でも賑わうそうだ。

部屋は普通のシングルルームだが、窓からの眺めがよい。ちょうど甘木鉄道の甘木駅を見下ろすことができ、駅に気動車が入線する様子も見える。また少し角度を変えると西鉄甘木線の線路も見えて、こちらも2両編成の電車が行き来する。特に部屋をリクエストしたわけではないが、このホテルも「トレインビュー」があるホテルと言っていいだろう。

雨のため、田主丸の大師寺の参詣を明日に回したために予定より早くホテル入りしている。夕方の一献をどうしようかと思うが、ネットで調べたり、先ほどバスで町中を回ったところで店はいくつかあるようだが、特に予約もしておらず、飛び込みで雨の中行こうか・・とまでは思わない(ちなみに土曜日である。予約で満席ということも十分あり得る)。まあコンビニでもいいかというつもりで外に出る。

すると、ホテルの向かいがイオングループのスーパー「BIG」。ここで刺身や総菜でも買い求めて、部屋の中での一献とするか。

買ったものはいったん冷蔵庫にしまい、天然温泉に向かう。「幸楽の湯」という名前で、シンプルに大浴槽が並ぶのだが、PH値が10.0という高さ。浴槽に浸かると柔らかく、肌がつるつるする。九州の中でも評判の湯の一つとして温泉ガイドブックでも紹介されるそうだ。

まずは湯を楽しんでさっぱりしたところで、部屋での一献である。部屋のテレビがスマートテレビで、YouTubeで動画など楽しみつつ・・。

まずは国産地鶏(どこ産とは謳っておらず)のたたき。そして熊本名物として馬刺しの燻製もいただく(馬じたいはカナダ産とあった)。ビールによく合う。

魚の部は、福岡産のイサキ。ちょうど初夏からが旬だという。

スーパーの盛り合わせパックではあるが、久しぶりに握り寿司も。これだけ食べれば十分満足である。別にとんこつラーメンのカップも買っていたのだが、この日は出番がなくそのまま土産になりそうだ。

窓の外を見ると雨も落ち着いたようで、少しずつ雲も開けるように見える。明日(26日)は何とか天気が持ってくれるかな・・。

食後、頃合いを見計らって半露天風呂に向かう。こちらは男女入れ替え制で、早い時間は女性向けだったが、夜になって男性向けの時間となった。山の中の一軒宿でもなく、地方の小さな町ではあるがその一角の夜の風情も楽しむことができた。

後は部屋でくつろぐだけだが、26日をどのように回るかである。今回対象となる札所と、公式サイトによるアクセス情報は以下のとおり。

第5番・大師寺(田主丸駅徒歩15分。公式サイトには記載ないが、甘木観光バスの板町バス停からすぐ)

第6番・南淋寺(西鉄バス比良松バス停徒歩15分)

第7番・興徳院(甘木駅徒歩10分)

第90番・浄心院(西鉄甘木線上浦駅徒歩10分)

この中で、比良松に向かう西鉄バスは甘木駅前に乗り入れておらず、徒歩7~8分ほど離れた甘木バスセンターまで歩く必要があるが、西鉄バス、甘木観光バス、西鉄甘木線の組み合わせをいろいろ考えた末、翌日朝風呂にゆっくり浸かった後でも4ヶ所を回り、比較的早い時間に久留米に出ることができそうだ。大師寺を最後にして、田主丸に出て久大線に乗るのが効率的なのだろうが、甘木に来たのだからせめて片道だけでも甘木鉄道に乗ってみたい気持ちもある。

ただ、改めて地図を見ると、南淋寺が「比良松バス停下車徒歩15分」という割には結構遠いように見えた。西鉄バスのサイトでバス路線図を調べるが、どう考えても15分はしんどいのではないか。そこで距離を測ると、バス停からは3~4キロと出た。やはりね・・。そうなると行き帰りのバスの時間も余裕を見る必要があり、また組み直しとなる。

その結果、翌朝はホテルで朝食は食べられるものの、朝風呂にゆっくり浸かって・・とはいかなくなった。どのように回ったかはこの後記すとして、真夏日の甘木を歩き回ることに・・・。

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第2回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第5番「大師寺」・・・の参詣は大雨で断念

2022年06月27日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

さて、第2回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりに出かけた6月25日。この日は朝はゆっくりとして、広島11時36分発の「こだま843号」で出発する。700系のこだま、日本旅行の「バリ得こだま・つばめ」プランで指定席を確保していたが、指定席より自由席のほうがガラガラである。席をそちらに移してゆったりと移動する。

25日~26日にかけての福岡の天気も気になる。数日前の予報では両日とも雨だったのだが、日が経つにつれて予報マークに曇りが目立つようになった。一応折りたたみ傘は持っているが、何とか天気が持ってくれればと思う。仕事の都合があってこの日に後ろ倒しにした経緯もあり、せっかくなら楽しみたい。

ただ、広島を出ると新岩国辺りからは雨模様。このまま駅ごとに停車していくが、雨が降り続くような、止むような何とも曖昧な空模様である。ここまで来れば、なるようにしかならないのだろうが・・・。

新関門トンネルを抜けて九州に上陸。13時23分、博多に到着。列車はこのまま博多南行きとして運転されるが、博多まで乗って来た以上の数の客が博多から乗り込む。

次に乗るのは13時50分発の「つばめ323号」で久留米に向かう。広島から久留米へは「さくら」に乗れば直通できるのだが、そうはいかないのが「バリ得」のプランである。こうして久留米まで来たが、途中スマホでの運行案内で、久大線の大分県内の区間で大雨のため列車が遅延しているとあり、一部ダイヤにも影響があると出ていた。

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりのコース。まずは久留米から久大線で田主丸に行き、甘木観光バスに乗って第5番・大師寺を訪ねる。そして後続のバスで甘木まで移動して宿泊。翌26日に甘木を中心にしてバスや西鉄電車を使って第6番・南淋寺、第7番・興徳院、第90番・浄心院を回り、甘木鉄道で基山に出て久留米から再び「バリ得」で広島に戻るというものだ。九州八十八ヶ所の公式サイトによれば、大師寺へは田主丸駅から徒歩15分とあるが、田主丸と甘木を結ぶ甘木観光バスの路線図を見ると、板町というバス停からすぐのところにあるようだ。宿泊用の荷物を持っているし、バスを活用して歩く負担を減らすつもりだ。

久留米の在来線ホームに移動する。次に乗るのは14時20分発の日田行き。折り返しとなる列車がやって来て着席して発車を待つが、時間になっても動かない。久大線の反対列車の遅れによるというが、待っている間に久留米駅周辺も一気に暗くなり、大粒の雨が落ちて来た。

その反対列車とは、久大線から鹿児島線に直通する特急「ゆふいんの森2号」。定刻からすると40分近く遅れているようだ。その影響で日田行きも10分ほどの遅れで発車した。

発車後、雨は強くなる一方だ。傘を持っていない客もいて、扉が開くと一斉に屋根のあるところまで走る姿も見られる。走っている最中、洗車機の中を通過しているようにも感じられた。

ちなみにスマホでこの先の雨雲レーダーを見ると、ちょうどこの一帯に猛烈な雨雲が差し掛かっている。福岡南部から熊本、大分にかけての一帯は線状降水帯が発生しやすいイメージがあり、ここ数年豪雨災害にも見舞われているエリアだが、この日もそうした事例の日なのかなと思う。

列車が進むうち、この日大師寺に行くのは見合わせようかという気になる。寺そのものはバス停からすぐのところだろうが、何だかこんな日に寺にいってもきちんとお参りできないだろうし、寺の人にも呆れられるのではないかと思う。翌26日は天気が持ち直す予報も出ており、この日は甘木への移動と割り切って、26日に4ヶ所回るよう、旅程を全面的に組みなおそうか・・。

田主丸着。ホームには屋根がないのでそのまま駅舎に駆け込む。こちらは委託の駅員もいるし、観光案内所や土産物店・カフェも併設されていて、人の気配があるのでほっとする。ちなみに駅舎はこの辺りの伝説にちなんだ河童をモチーフにしていることでも有名だ。2021年の大晦日、九州西国霊場めぐりの観音寺を訪ねるために来て以来である。

甘木行きのバスは15時11分発。その数分前に駅舎向かいの停留所に立つが、雨、そしてここに来て強まった風が我が身を覆う。折りたたみ傘もめくれそうだ。こりゃ、途中で寺に行こうなどという気にはならない。やって来たバスに乗り込み、私一人で最後尾の座席に腰掛けてホッとした。

筑後川を渡り、甘木がある朝倉市に入る。朝倉市といえば、2017年の九州北部豪雨で大きな被害を受けたところで、当時のニュースでも大きく取り上げられていた。しかしその復興の矢先、2020年にも豪雨のため被害を受けた。ここ数年、夏になるとどこかの自治体が豪雨被害に遭っているように思うが(2021年夏は広島市内もその一つ)、特に九州はその頻度が高いように感じる。果たして2022年夏、日本列島は無事に乗り切ることができるだろうか・・?

途中、朝倉医師会病院前を経由した後、田主丸から30分ほどで甘木鉄道の甘木駅前に到着。

この日は駅前にある「ホテルグランスパアベニュー」に宿泊。天然温泉もあるビジネスホテル、しかも甘木駅前という立地で、この次の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりにぴったりである。前週は広島から日帰りで4ヶ所回るプランとしていたが、今回延期になったことでかえって前泊プランを思いつき、かえってそれがよい結果になりそうだ・・・。

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第2回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~出張の多かった6月、最後は九州へ

2022年06月25日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

私の勤務形態は基本的に広島の支店事務所での内勤が多いのだが、この6月はいつになく出張が多かった。

まず1日~3日は倉敷水島。現場のトラブル対応で1日に急遽向かうことになり、同僚とともに会社のクルマを走らせた。

そして中旬は土日を挟み、三重県は四日市に向かった。これもトラブル対応で急に訪ねることになったもの。四日市に行ったのなら名物のとんてきでも食べたかったが、宿の関係でそうも行かず。また「工場夜景」は美しかったが、楽しむという気にはなれなかった。まあ、四日市に向かう前に身支度のためにいったん自宅に戻り、旅先用のモバイルパソコンを持ち出せたので、中国四十九薬師めぐりの記事をホテルの部屋で書くことができたのはせめてもの安心だった。また帰りには、四日市の宮﨑本店が製造元であるキンミヤ焼酎の瓶を自分土産に買いこんだ。近鉄四日市の改札内のファミリーマートの酒コーナーに普通に置いていた。これは家でちびちびやりましょう。

そして24日は前泊込みで横浜へ。これは前々から予定されていたもので、コロナ禍以降初めて関東に足を踏み入れるので楽しみにしていた。新幹線に乗ったが天気が思わしくなく、残念ながら富士山の姿は眺められなかったが・・。

前泊となった横浜関内(この日は横浜でのベイスターズの試合はなかったが)では、中華街には目もくれず、駅前の大衆酒場にて久しぶりの焼きとんと「業務用」ホッピー。このボトルは関東でしか楽しめないという。

24日、帰りの新幹線では崎陽軒のシウマイである。このところ、鳥栖の「焼麦」を味わうことが多かったが、やはり東の横綱である。崎陽軒のシウマイと、両国国技館の焼き鳥は新幹線で東京から西に戻る時の車内の楽しみなのだが、コロナ禍以降東京へ行くことがなかっただけに(従来は東京に会議や研修に出向いていたのがすべてWEB方式に替わって・・)、その片方を久しぶりに味わえてよかった。

・・・で、何の話だったか。そうそう、九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。

現在九州で2つの札所めぐりを行っている。一つは観音霊場である九州西国霊場。北部九州を回るもので、次回は長崎を訪ねる予定である。

そしてもう一つが、この5月に急遽思い立って始めた弘法大師霊場の九州八十八ヶ所百八霊場。初回となった前回は博多の東長寺から初めて、西鉄、JRで南下して鳥栖の不動院まで回った。こちらは宮崎、鹿児島両県を含めた108の札所を訪ねるもので、この先相当時間がかかりそうだ。

その第2回を行おうと思う。本来は6月19日に久留米、朝倉地区の4ヶ所を日帰りで訪ねるつもりだったが、急遽四日市への出張が入ったために中止した(日本旅行の「バリ得こだま・つばめ」での往復を予約していたが、変更不可のためにキャンセル料を払わざるを得なかったが・・)。そのやり直しで、横浜から戻った翌日の25日から出発する。今度は、急遽出張ということはないだろうな・・。

当初は早朝からの出発を予定していたが、行程を見直し、25日の昼前に出発。その日は久留米から久大線で田主丸に出て、第5番の大師寺を訪ねる。そしてバスで甘木に移動して宿泊。翌26日に甘木を拠点にして3ヶ所を訪ね、夕方早めに博多から新幹線に乗るつもりだ。今度も往復「バリ得こだま・つばめ」プランを利用する。

あとは雨、そして高温が心配だが・・・。

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第12回中国四十九薬師めぐり~第20番「浄福寺」(呉線沿いの海岸美を楽しむ)

2022年06月22日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは三原から呉線沿い、国道185号線を走る。広島市内に帰宅する途中に、安芸津にある第20番・浄福寺に参詣することにする。広島新四国八十八ヶ所の竹林寺は、他の東広島の札所と合わせて別の機会に回ることにする。

この区間は呉線と並走するところ。前回の中国四十九薬師めぐりでは、尾道からの戻りに「etSETOra」に乗って車窓からの瀬戸内の眺めを楽しんだ。

起伏が大きく、大型トラックも頻繁に行き交う国道2号線に比べて、広島へはやや遠回りとなるが交通量も少なく、道も平坦なところが多いので走りやすい。時折クルマを停めて、海の風に当たる。今治造船の巨大なドックも眺めることができる。

忠海に、「エデンの海」という展望台がある。1946年に発表された小説のタイトルで、瀬戸内海の小さな高校に東京から赴任してきた新任の教師と自由奔放な女子生徒たちとの交流を描いた作品だという。映画やドラマにもなり、忠海もロケ地の一つになった。

「うさぎ島」で知られる大久野島もここから眺めることができる。その向こうは愛媛の大島だ。ちなみに「エデン」とは、旧約聖書でいうところの、神がアダムとイブのために設けた楽園のことだという。

そのまま竹原市街を過ぎ、安芸津に入る。かつては豊田郡に属する町で、プロゴルファーの岡本綾子や大相撲の安芸乃島(現・高田川親方)らを輩出したことでも知られる。また、カキの養殖も盛んなところ。養殖に使うホタテ貝がいたるところに積み上げられている。

その安芸津も、平成の大合併で東広島市に編入された。東広島市は西条を中心として内陸のイメージが強いだけに意外である。もっとも、衆議院総選挙の小選挙区の区割りでは、東広島市はほとんどが広島4区のところ、海沿いの安芸津は呉、竹原とともに広島5区となっている。次の総選挙に向けて各地で衆議院の定数、選挙区の見直しが行われ、広島県も7区→6区に再編されるが、安芸津はやはりこれまで通り呉、竹原などと同じ区割りになるのかな。

国道から外れ、また緩やかな坂を上る。上り切ったところに石垣が見え、立派な構えの浄福寺に着く。鐘楼もある山門の中では、「いつでもどこでもお薬手帳」の貼り紙とともに、浄福寺の本尊薬師如来の写真パネルが掲示されている。

浄福寺は平安時代に開かれたがその後無住となり、関ヶ原の戦い後に福島正則が安芸に国替えとなった時に再興された。その後再び無住となるが、虚櫺和尚の手により現在地にて再建された。ちょうど安芸津の海を眺めるところであり、石垣は古いもので桃山時代に特徴的な造りで、その後江戸時代、明治時代の構造も見られ、安芸津の石垣の変遷を見ることができる。

中庭は掃き清められており、ずかずかと歩くのはちょっとためらわれる。

本堂に向かう。こちらも中でのお勤めかなと思い扉に手をかけるが、鍵がかかっている。どうやら留守のようで、横の納経所の入口にもその旨掲示がある。外でのお勤めとして、ケースに入っていた書置きの朱印をいただく。

他にもさまざまな仏や、海の安全を祈念した石碑が建つ祠もある。そうした信仰も集めていたように思う。

これで浄福寺を後にして、いったん呉線の風早駅に向かう。浄福寺に公共交通機関で訪ねる時の最寄り駅で、駅から歩いて15~20分といったところか。「風早」とは海風に縁のありそうな名前である。

駅前に小さな慰霊碑がある。1953年、風早駅の下りホームから上りホームの通路を客が渡っていた時、列車が接近した。駅長が救出に向かったが間に合わず、駅長と客の2人が亡くなる事故となった。その殉職に対する慰霊のためというが、それにしてはまだ新しいように見える。

ここから広島へは、西条まで北上して山陽道に乗るのが最速のようだが、今回は宿泊の代わりに高速道路は使わないことにしており、下道で戻ることにする。といっても呉を経由したのでは遠回りで、東広島の黒瀬や熊野町を経由するルート。この道を走るのは初めてだった。夕方に広島に戻る。

さてこれで中国四十九薬師めぐりも久しぶりに動き、次は広島市内の第21番・不動院、宮島の第22番・大願寺と回って広島県は終了となる。いずれも広島新四国の札所も兼ねていて、そのシリーズで訪ねたから「またいつでも行けるわ」と間隔が空くのかもしれないが・・・。

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第12回中国四十九薬師めぐり~第19番「薬師寺」(しまなみの穏やかな寺へ)

2022年06月21日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは因島から生口島に入る。これから目指す第19番の薬師寺は島の南部にある。生口島北インターから時計回りに走る。

しまなみ海道のルートでもある生口島はサイクリストにも人気で、時折そうした人ともすれ違う。かと思えば、ママチャリの荷台に段ボールをくくりつけて走るのもたまに見かける。そうした人たちの顔を見るとやはり東南アジア系で、こういうところにも(いや、こういう島だからこそ)技能実習生が進出しているのかなと思う。段ボールには買い出しの何かが入っているのかな。

左手に岩城島を見るうち、薬師寺の案内板が出る。それに従って進み、少し上ったところに薬師寺の山門がある。ちょうど岩城島を向かいに望むことができる。

「中国四十九薬師発祥の地」と薬壺の形をした石碑がある。発足したのは1997年のことだが、ここが発祥の地というのは、ここ薬師寺と、先ほど訪ねた光明寺、見性寺の3つの寺が中心となって創設したことによるとある。

石造の仁王が並ぶ山門をくぐる。薬師寺の開創は江戸時代前期とされているが、境内には鎌倉時代のものとされる七重石塔婆もある。

まずは正面の本堂へ。こちらも扉が開き、中でのお勤めとなる。襖の向こうからは寺の人らしい話し声が聞こえてくる中で、何だかおじゃましているような感じだが・・。

そして本堂の外の納経所へ。こちらは、窓を開けてセルフで綴じ込み式の朱印を受け取る方式だ。

本堂の横には大師堂がある。前には「人生は巡礼」と書かれた頭陀袋をぶら下げた弘法大師像が建つ。ここに、「一日四国霊場第一番 薬師寺」の立て札がある。先ほどの因島八十八ヶ所とはまた違った札所があるようだ。

案内板によると、大正時代、当時の薬師寺の住職が信徒数名とともに四国八十八ヶ所めぐりをした際に、何とかして容易に巡拝できる霊場を創設したいと思い、各札所の承諾を得て砂石をいただき、昭和天皇の即位大典の記念としてこの地に八十八ヶ所の札所を設けたという。ゆっくり歩いても3時間ほどで回れるということで、「一日四国」と命名したという。

改めて、瀬戸内の島の人たちの「本四国」への思いの歴史を感じる。私もいずれどこかの島をめぐってみようかな。

さてこれで当初の目的の因島、生口島の札所を回ったが、この先どうするか。生口島には他にも観光スポットがあるし、いっそのこと多々羅大橋から愛媛県の大島に渡るのもよい。ただ、この日は夕方に広島市内に戻っておく必要があるため、それらのスポットはまたの機会に取っておくことにして、本州に戻ることにする。

時計回りに進み、時折景色のよいところでクルマを停めつつ、多々羅大橋に近づく。

多々羅大橋は私も以前瀬戸田からレンタサイクルで渡ったことがあるが、こうして下から見上げる分にはいいが、橋の上に立つと(頑丈な橋であるとわかっていても)結構ビビったのを覚えている。

島の北部に回り、瀬戸田の町並みを過ぎて生口島北インターに着く。生口島は島を一周したということで足跡にして、そのまま因島方向に戻る。

帰りはいったん向島で下車し、向島の町中を過ぎて尾道大橋経由で本土に戻る。

昼食を取るためにそのまま2号線で三原市街に入り、定食屋の「やよい軒」で食事とする。これから広島市内に戻るにあたり、前日の広島新四国八十八ヶ所の続きとして第40番・竹林寺に向かうか(この日は天気は申し分なし)、あるいは中国四十九薬師を進めるとして安芸津の第20番・浄福寺に向かうか。鉄道なら、三原から山陽線に乗るか、呉線に乗るかの違いである。

・・・その中で選んだのは・・・呉線。

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第12回中国四十九薬師めぐり~第18番「光明寺」(験乗宗と因島村上水軍)

2022年06月20日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐり、因島2つ目は第18番の光明寺である。その手前にはかつての村上水軍に関する史料が展示される因島水軍城があるので、先にそちらに向かう。しかし、坂道を上って駐車場に着いたものの、まだ開館時間前だった。それならと先に光明寺に向かう。

こちらも住宅地の中にある寺で、お堂横の駐車場にクルマを入れるとまず目に入るのが不動明王、役行者の像、そして荼枳尼天を祀る稲荷社である。この駐車場では不動明王の護摩供も行われるのではないかと思う。

改めて山門から入る。表札には「験乗宗根本道場 大乗山光明寺」とある。験乗宗とは初めて触れる名前だが、修験道の「験」の字があることから見てもそちら系の宗派と思われる。もっとも、「総本山」「根本道場」と仰々しい肩書だが、大きな本堂があるわけでもなく、周りにもある古い民家とさほど変わるものではない。

光明寺のホームページを見ると、松浦観舜大阿闍梨が、昭和初期に伊予の石鎚山で修験道の法脈を継承し、宗教結社を組織したのが始まりとある。後に天台宗の系統として因島石土教会を開き、1947年に根本道場として光明寺を設立したとある。

こちらも扉が開くようなので中に入る。本尊はといえば石土蔵王大権現で、脇侍が不動明王と役行者、その他諸々の神仏が祀られるというが、薬師如来は・・?

中でお勤めとして、納経所が別棟にあるのでそちらでベルを鳴らす。中国四十九薬師の朱印を求めると、「ようお参りでした」と、先ほどの本堂と納経所の間の扉が開けられた。「お薬師さんはこちらです」と言われる。第255世天台座主から念持仏を賜ったもので、「山の薬師」という。

光明寺を後にして、因島水軍城に向かう。○に上の字をあしらった因島村上氏の家紋や、「日本遺産 村上海賊」の幟が目立つ。もっとも、建物自体は昭和のもので、資料館として建てられたものである。

城への坂道を上ろうとすると、「こちら無料で開いているので見ていってください」と声をかけられる。因島史料館で、「海の歴史民俗資料館」とある。

こちらは村上水軍というよりは、因島の歴史、海運や造船に関する展示が中心である。特に、海に対する信仰、船に供える御守などが充実している。小ぢんまりしていて建物の年季も経っているが、見るものはそれなりにあった。

そして、水軍城である。因島村上氏の菩提寺である金蓮寺の境内にあたり、金蓮寺の住職が因島の観光地を作ろうということでできたのがこの施設で、1983年に完成した。ちょうど因島大橋の開通と同じ時期である。

本丸は水軍資料館として、因島村上氏の資料が展示されている。村上水軍といっても因島村上、能島村上、来島村上の3つの家に分かれている。同じ村上でも家紋が少しずつ異なる。

また、「海賊」と表現されることも多いが、理不尽に船を襲って金品を略奪する「パイレーツ」とは異なり、村上海賊は海の掟として通行料を徴収する代わりに、航海の安全を保障し、海流の複雑な瀬戸内海の秩序を支えた「KAIZOKU」であるというのが、因島水軍城のスタンスである(四国アイランドリーグの愛媛球団はマンダリン「パイレーツ」だが)。

櫓に上がると周囲の山々を見渡せる。海を見下ろせる場所、あるいは岬の先端にも城や砦を構えていたという。

水軍城から金蓮寺に回り込む。そこに建つのは因島村上氏の墓地で、宝篋印塔が並ぶ。この寺の境内には因島八十八ヶ所の第11番・藤井寺の祠もある。

これで因島の2ヶ所を終えて、次に向かうのは生口島である。因島南インターまでクルマを走らせ、生口島橋を渡る・・・。

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第12回中国四十九薬師めぐり~第17番「見性寺」(因島とクボタ)

2022年06月19日 | 中国四十九薬師

6月12日、糸崎で朝を迎える。泊まったのは糸崎駅に面した「ホテルAZ広島三原」で、そういえば昨夜は貨物列車の音で目が覚めたこともあった。また、始発列車は朝5時すぎということで、早い時間に引き込み線からホームに列車を入れるための移動もある。私は鉄道好きなのでこうした光景を面白がって見ているが、音に敏感な方には線路側の部屋はあまり居心地がよくないかもしれない。

バイキング形式の朝食をいただく。またも、部活動の団体や技能実習生たちに交じってである。コロナも落ち着いてこうした合宿や遠征が復活するようになってホテルもちょっと安心といったところだろう。

ホテルを出発。まずは山陽線沿いに走り、ナビの案内でバイパスからしまなみ海道に向かう。今回の中国四十九薬師めぐりでまず目指すのは因島。第17番・見性寺、第18番・光明寺と回り、さらに生口島に渡って第19番・薬師寺に向かう。橋の料金がかかるところだが、そこは軽自動車なのでまだ安くつく。

新尾道大橋を渡って向島に上陸。申し訳ないが向島はそのまま通過となる。

因島大橋を渡る。本州四国連絡橋の最初の吊り橋として完成した橋で、この橋の完成がその後の本四連絡橋の開通につながったと言われている。

生口島北インターで下車する。まず向かう見性寺は島の北部にある。因島大橋の近くに戻る方向に走り、海に面した大浜地区に差し掛かる。カーナビには見性寺も出ているのだが、海沿いの県道で近くに来たところで案内が終了する。細い路地がいくつもあり、どこから左折して入るか迷う。ここかと思って入ったら違っていて、向きを変えていったん県道で先まで戻ることも。そして逆に右折して入ろうとすると看板と灯籠が見えた。ただその先も軽自動車が入るのがやっとである。

幸い、寺の前の空き地が駐車場となっていて無事に停めることができた。

見性寺は室町時代、大岳文禎大和尚により開かれたとされる曹洞宗の寺院である。本堂正面の扉が開き、中に賽銭箱その他があるので、これは自由に拝観をということだろう。「見性禅寺」の額もある。

中でお勤めとして、綴じ込み式の朱印は書き置きでセルフ式。お接待として、寺の名前が入ったボールペンがあり、せっかくなのでいただく。

境内の脇に、「開創五百年日事業記念 株式会社クボタ」と彫られたまだ新しい石碑がある(建立は平成27年=2015年)。クボタって、あの機械メーカーのクボタだと思うが、なぜこうした石碑があるのだろうか。

調べてみると、クボタの創業者である久保田権四郎(旧姓・大出)が因島の大浜の出身だという。15歳の時に大阪の鋳物屋に丁稚奉公に出て、後に鋳鉄管の製造で成功し、久保田家の養子として「久保田鉄工所」を開いた。クボタの前身である。この時は気づかなかったが、見性寺の現在の門は久保田権四郎の寄付によるもので、また境内には墓もあるそうだ。代は替わっているが、見性寺は現在もクボタの会社として大切なスポット、地域貢献の一環なのだろう。

さらに奥にお堂があり、「第六番 安楽寺」という立て札がある。明治の終わりに島の人たちの奉仕により発足した写し霊場である。四国に近いこともあってか、四国の島々にはこうした写し霊場が結構ある。気候の良い時季には歩き遍路をする人も結構いるそうだ。因島八十八ヶ所、徒歩なら約84キロあるという。

因島大橋の近くまで来たので、橋のたもとまで行ってみる。潮の流れも速そうなところだが、岸壁から釣り糸を垂らす人、あるいは舟で漁をする人もちらほらと見る。橋の向こうの向島だけではなく、本州本土の山々も見渡すことができる。

次に訪ねるのは島の真ん中、因島水軍城の近くにある光明寺。しばらく海の景色を楽しんだ後、クルマを走らせることに・・・。

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山本由伸、ノーヒットノーラン達成おめでとう!

2022年06月18日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
ついに、バファローズのエースが偉業を成し遂げた。

2022年はマリーンズ佐々木朗希の完全試合に始まり、ホークス東浜、ベイスターズ今永とノーヒットノーランが相次いだが、そこに山本も名を連ねた。実に投手優位のシーズンである。

チームは交流戦終盤に失速、前週末はタイガースに3タテを喰らい目も当てられない成績だったが、打線の援護が薄いことの多い山本が自らの手で嫌なムードを断ち切った。チームもこれを機に巻き返してほしい。6月なのでまだチャンスはあるだろう。

あ、でもどうせ関西のマスゴミでは山本が一面に来ないんですよね。虎に頭がイカれた連中やから・・(だから、関西ダービーといいながらそのイカれた連中の引き立て役でしかなかったバファローズには腹立たしいのだ。勝てよ!!)。

私は週の後半からトラブル対応のため急な出張生活に入り、土日も仕事。その中でノーヒットノーランは記事で知ったのだが、うれしい出来事として元気をもらった。また、モチベーション上げて、彼の投球をナマで観てみたいなあ・・・。
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第12回中国四十九薬師めぐり~糸崎駅前にて前泊

2022年06月17日 | 中国四十九薬師

6月11日、広島新四国八十八ヶ所めぐりの光政寺を訪ねた後、国道2号線まで出る。三原バイパスを通り、道の駅「みはら神明の里」に立ち寄る。三原の市街地や筆影山、しまなみ海道を眺めるが、この日曇っているのは残念である。翌日の快晴に期待したい。

この日の宿泊は、道の駅から見下ろしたところにある糸崎駅前の「ホテルAZ広島三原」。尾道、三原の中間であるし、駐車場の心配もいらない。ただそれよりも泊まろうと思ったのは、JR西日本の岡山、広島両支社の境界にある糸崎駅の構内に隣接していること。山陽線でここを通過する時、駅近くのロケーションというのが気になっていた。

ネット予約時に「線路側」と指定していたためか、糸崎駅構内を部屋から見渡せる。また、糸崎倉庫などの向こうには瀬戸内の眺めだ。糸崎は運転区間の境界ということもあり、岡山側の黄色一色の国鉄型車両と広島側のステンレスに赤帯の車両が同居する。そこに貨物列車も通過する。正に「トレインビュー」が楽しめるところ。

ただし、糸崎駅周辺にはこれという飲み屋はないようで・・。それも踏まえて、1階レストランでの2食つきプランにした。別途990円で90分アルコール飲料飲み放題をつけることができる。

チェックイン時、この日は団体の宿泊があるため、夕食・朝食の時間をずらすよう案内もあったが、レストランのオープンに合わせて入る。食事はバイキング形式で、飲み放題プランの客にはジョッキが渡され、サーバーからセルフで注ぐ。

はたして開店直後から、部活動での利用らしい高校生たちが次々にやって来る。料理が濃くボリュームある品々なのも、こうした層をターゲットにしているようだ。ホテルAZはかつて松山で利用したことがあるが、その時も部活動の団体利用があった。ホテルの営業方針なのだろう。またしばらくすると、東南アジアからの技能実習生らしいのが大勢入り、店内も賑やかになる。そんな中、サーバーからの生ビールに始まり、リキュールやウイスキーをサーバーの炭酸水で割ってみたり、セルフなのをいいことに意地悪くちびちびやる。

それで部屋に戻ったが、目の前に列車が行き交っているのを見ると、やはり乗ってみようという気になった。糸崎から1駅、尾道まで往復しよう。

乗るのはこれも国鉄型の213系。さすがに日が沈んだ後で外の景色は見えない。

尾道着。駅からすぐの尾道水道まで行く。この時間はまだ向島との渡船も動いている。しばらく夜の景色を楽しみ、糸崎に戻る。

あとは部屋でくつろぎ、ベッドで横になったが、時折目が覚めることになった。そのきっかけはやはり貨物列車。そりゃ、糸崎駅構内間近なら列車音は当然である。そのたびに窓辺に向かって外を眺める。ええ年して何をやっているのやら・・・。

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第39番「光政寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(白市の町並み)

2022年06月16日 | 広島新四国八十八ヶ所

このところ5月に行った京都、奈良の札所めぐりの話が続いたが、久しぶりに広島の札所についても進めることにする。

中国四十九薬師めぐりを初めてちょうど1年が経つところだが、現在は尾道の第16番・西國寺まで進んでいて、続きは因島にある第17番・見性寺からである。また一方、広島新四国八十八ヶ所めぐりは西条にある第38番・国分寺まで来ていて、次は白市にある第39番・光政寺(こうしょうじ)である。ちょうど中国四十九薬師めぐりが広島の東から西に進み、広島新四国が西から東に進んでいるところで、それぞれがちょうど重なりそうな時である。

そこで、一度に両方の札所めぐりを進めることを考える。広島からクルマで東に進み、まずは広島新四国の光政寺、そして河内にある第40番・竹林寺を経由して尾道に向かう。そして中国四十九薬師の見性寺から同じ因島にある第18番・光明寺、生口島にある第19番・薬師寺と回って広島に戻るというものだ。

朝早く出発すれば1日で回れないこともないかと思うが、ちょっとしんどいかな。ということで、県内ながら1泊ということにした。スケジュールとして6月11日~12日を充て、11日の午前中は所用があるため昼から出発。光政寺、竹林寺と訪ねた後、三原と尾道の間の糸崎で宿泊とする(なぜ糸崎?というのはまた後で書くことに)。そして12日は因島、生口島とたどることにする。ただし、しまなみ海道の橋の部分は仕方ないとして、わざわざ1泊することから、高速道路は使わずに一般道を走ることに・・。

ということで11日、雨模様の空の下を出発する。昼間の国道2号線の交通量は多く、広島市内を抜けるだけでも結構時間がかかる。目指す光政寺は山陽線の白市から徒歩30分ほどのところにあり、ここだけならJRで行ってもいいかなと思うが、その次の竹林寺も公共交通機関では難所だという。

国道2号線から西条バイパスに入り、道照交差点から西条の市街地に入る。西条インターを過ぎたところから再び山陽線と並走する。

光政寺に行く前に、白市駅に立ち寄る。白市といえば山陽線で広島から東に向かう列車の半数が「白市行き」だし、広島空港に近いということで路線バスも出ている。ただ、駅周辺はスーパー、コンビニ、小さな商店があるくらいで、「空港への玄関駅」として栄えているという印象はない(まあ、広島駅、バスセンターから連絡バスで向かうのが一般的なので)。

ナビに従って走ると、少し丘を上がったところには新興住宅地が広がり、工業団地への案内板も出ている。そんな中、細い道を抜けると石州瓦の建物が並ぶ昔ながらの町並みが現れた。この町並みこそ白市地区で、駅の名前はここから取られたそうである。光政寺へのナビの案内はここで終了となるが、結局寺にはたどり着けず、まちなみ駐車場にクルマを停めて歩くことにする。

町並みの案内板に光政寺の名前がある。それに沿って進むと、石段を上がってまず入るのは浄土宗の西福寺。まずはこの境内を抜け、その先の細い道に出る。なるほど、この道にクルマは入ることができず、カーナビの案内が手前で止まったのも納得する。

石段を上がると光政寺である。しかし境内には人の気配がない。正面にお堂があり、脇には石塔や宝篋印塔が建つが、奥の本坊らしき建物も荒れ果てていて、無人駅ならぬ無人寺のようだ。

お勤めをしようと本堂に向かうが、広島新四国の書置きの朱印すらない。クリアケースが置かれていてその中に紙があるのかなと開けてみるが、中身は白市の町歩きパンフレットだった。扉には「納経は竹林寺で」という貼り紙があった。

この白市は、室町時代に白山城の主だった国人の平賀氏により開かれた城下町で、光政寺は平賀氏の菩提寺として建立された。しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が防長二国に移されたことで、毛利の家臣としてこの地を治めていた平賀氏も長州に移ることになり、光政寺も廃寺扱いとなった。

江戸時代になり、平賀氏につながる木原家の手により再興された。境内の宝篋印塔は木原家の奉納によるものというが、その後の経緯はよくわからないが、現在は再び廃寺のような感じである。ともかくお勤めだけして、朱印の紙は竹林寺でいただくことにする。

坂道を少し上ると、重要文化財の木原家住宅に出る。ここに来るまでに、木原家住宅への案内標識もいくつかあった。白市の中心的な建物とされている。

玄関から土間に入ると、係の人が案内してくれる。木原家住宅が建てられたのは江戸時代前期の寛文5年(1665年)という。その年が彫られた鬼瓦が見つかり、年代を特定でき、現存する商家の中でも最も古い年代に属することが重要文化財に指定された所以だという。

白市はかつて牛馬市で賑わったといい、伯耆大山、備後久井とともに三大市と呼ばれたという。その中で木原家は製塩、酒造、両替商として栄えた。先程訪ねた光政寺の再興をはじめ、さまざまな社会的事業にも寄与したという。かつてはもっと広い敷地を有しており、手前にあった歯科医院の敷地もかつては木原家のものだったそうだ。

母屋は主家や客の格ごとに設けられた部屋や、「建てた当時は物騒だったので・・」ということで防犯を意識した仕掛けだったことをいろいろ説明していただく。

木原家を後にして、係の人のお勧めということで、白市に古くからある養国寺にも向かう。ここが広島新四国の札所の一つだったとしても不自然ではないような造りである。

他には伊原惣十郎家(厳島神社の舞台の灯籠含め、鋳物で財を成した)、伊原八郎家(金融)を見る。石州瓦やその装飾がすばらしい。

稲荷神社に着く。玉垣には「木下曲馬団」、「矢野曲馬団」という文字もある。それぞれ後の木下サーカス、矢野サーカスであり、さまざまな興業でも賑わったという。

光政寺というよりは白市の町の記事になったようだが、白市がこういう地だったと初めて知ることができてよかった。次に山陽線の白市行きに乗る時は、「あの商家の町並みやね」と連想することだろう。

時間的に次の竹林寺に行けないこともないが、白市で思った以上に時間を取ったし、天気も今一つなのでこの日は近くを通過するが見送りとする。翌日の中国四十九薬師めぐりの帰途に寄るのもよし、東広島にはこの次も来るのでその時でもよし。この日は宿泊地の糸崎を目指す・・・。

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正直、ほっといてくれ

2022年06月15日 | ブログ

どうせ、恋愛や結婚する資格のないおっさんや。

どうでもええやろ。

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奈良20番「橿原神宮」~神仏霊場巡拝の道・15(帰り道なんで立ち寄ります)

2022年06月14日 | 神仏霊場巡拝の道

5月28日~29日、京セラドーム大阪での交流戦観戦と絡めた神仏霊場巡拝の道めぐりも終わりである。今回は丹生川上神社の中社・上社・下社の三社めぐりがメインで、その前段で西国三十三所の岡寺、そして神仏霊場の談山神社を回り、結構「件数」は稼ぐことができた(稼ぐという言い方が適切なのかどうかはさておき・・)。

最後に訪ねた丹生川上神社下社でのあみだくじで、次は近隣の大神神社に決まった。近くにも札所が散らばっていて、次回に向けてどのように組み合わせて回るかを考えることになる。次に行くとすれば早くて7月かな。

近鉄の下市口駅前まで戻り、国道169号線で橿原方面を目指す。近鉄吉野線はぐるり西側に回るが、国道は吉野路をそのまま南北に走る。進むうち、壷阪寺への案内板が現れる。先日、壺阪山駅からバスで通った道だ。関西一円に札所が広がる中、それほど間隔を空けずに同じようなところを回っているのも妙なものだ。そして次回もまた、それほど離れていない桜井エリアを訪ねることになる。

そのまま北上して、近鉄の橿原神宮前駅の東口に到着。ロータリーに一時駐車して駅に向かう。ここに、JRの西国三十三所キャンペーンの岡寺のデジタルスタンプラリーのQRコードがある。スマホで読み込んでそのままレンタカーに戻る。神仏霊場めぐりとともに西国三十三所の4巡目を一緒にやろうというのだから、何と強欲な、煩悩の塊のような動きである。

これで今回予定していたメニューは終了し、そのまま大和八木まで行ってレンタカーを返すだけなのだが、まだ少し時間はある。・・ならば、橿原神宮前駅にいるのだから、神仏霊場の札所でもある橿原神宮に参詣しようか。これも「件数を稼ぐ」ことになるのだろうが、次の桜井近辺もさまざまな寺社があるエリアなので、そちらに展開しやすくするためにもここで押さえておこう。

橿原神宮そのものはこれまで何度も参詣しているが、神仏霊場めぐりとなるとまた新鮮に感じる。駅近辺をぐるりと回り込み、駐車場に向かう。神宮にクルマを乗りつけるのは初めてだ。

今回さまざまな神社を訪ねたが、橿原神宮についてはそれらとは一線を画している。昔から信仰を集めていた神社ではなく、明治時代になって神武天皇を祭神として祀ろうという明確な意図があって創建されたところである。その後も、「皇紀二千六百年」を祝う中心となり、紀元祭(建国記念の日)や神武天皇祭を盛大に執り行う神社として多くの参拝者が訪れる。

ちなみに2022年は「紀元二千六百八十二年」だそうだ。ああそうですか。

日本はある意味「神の国」とも言えるので、各地に大小さまざまな神社や祠があるのは当然だし、地元の氏神様に手を合わせるのも自然なことである。天満宮のように菅原道真を祭神として祀るのも、当時の御霊信仰とも相まってのことだと受け入れられる。ただ、明治の神仏分離、廃仏毀釈、天皇万歳、楠木正成は忠臣で足利尊氏は逆賊・・・ということに対して、個人的には相容れないものを感じる。

まあ、来たついでなので橿原神宮には手を合わせておこう。

拝殿に「形代」というのがある。人の形をあしらった形代に氏名・年齢を書き、その形代で自分が気になるところをなでて、一切の罪汚れをこの形代に移すよう祈念して息を3回吹きかける。そして所定の箱に納める。毎年夏と歳末の大祓の行事でお祓いを受けるそうだ。

朱印をいただくが、こちらでは当たり前のように「500円です」。さすが、気位の高い神社である。はいはい。

さすがに橿原神宮に立ち寄るとレンタカーの残り時間もわずか。給油のためにいったん大和八木を素通りして戻り、返却ぎりぎりでの到着となった。

大和八木からは17時05分発の特急に乗車。ビスタカーの2階席である。そのまま大阪難波に到着し、新大阪に出て夕方の新幹線で帰途についた・・・。

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奈良29番「丹生川上神社下社」~神仏霊場巡拝の道・14(白と黒の神馬)

2022年06月13日 | 神仏霊場巡拝の道

丹生川上神社の三社めぐりも兼ねている今回の神仏霊場めぐり。5月29日、大和八木から(西国三十三所の)岡寺~談山神社を回った後、丹生川上神社の中社~上社と来て、これから下社に向かう。吉野郡を時計回りでたどるとこういう形になった。

国道169号線で吉野川に沿って下る。相変わらずカーブが続く中、川の周囲も少しずつ開けてきた。その中で前方に見えてきたのは鉄道の橋梁である。近鉄吉野線で、大和上市~吉野神宮にかかる鉄橋だ。前々回の神仏霊場めぐりではこの鉄橋を渡って吉野に着いたこともあり、何かここでつながったようにも感じられた。

そのまま近鉄と並走しながら国道を進み、下市口駅近くで国道309号線に入り、近鉄とはいったんお別れ。

この道は以前にバスで通ったところ。近畿三十六不動の札所である龍泉寺への参詣が目的だったが、龍泉寺があるのが天川村。大峯山に入る修験者たちのベースキャンプといえるところだ。今回はレンタカーで、下市の町並みを過ぎて、途中に急カーブの上りが続く区間を経て、国道からの分岐道を行く。

天川村の手前で国道から離れ、しばらく走ったところで丹生川上神社下社に着く。前を流れるのは丹生川で、そのまま賀名生を経て五條で吉野川に合流する。

神社の由緒は不明だが、例によって「丹生川上神社はどこにあるか」の考証が進む中で、かつて丹生大明神と称していたこの神社も有力視され、江戸時代後半にはここが丹生川上神社であるとして、孝明天皇も国家安泰、攘夷を祈願したという。しかし明治時代になって、現在の上社が丹生川上神社であると比定され、下市町の神社は下社となった。その後、「中社」を含めて丹生川上神社となり、戦後に上社、中社、下社がそれぞれ独立した。今は特にどこが本家でどこが分家で・・と分け隔てなく、三社めぐりを楽しんでほしいとのことだ。

なかなか経緯をうまく説明できないので、それぞれの関係についてはネット他をご覧いただくとして・・。

境内の一角に馬場があり、白馬がいる。近づくと白馬も物おじせずにこちらにやって来るので思わず後ずさりする。そこへ係の人がもう1頭、黒馬を連れてきて柵の中に入れる。

朝廷ではかつて、水の神に祈願をする時に馬を献上していた。雨を祈る時は黒馬を、長雨が止むのを祈る時は白馬を献上していたとある。後に、生きた馬の代わりに板に馬の絵を描いて奉納するようになったのが絵馬の発祥で、丹生川上神社がその発祥の地とされる。

その丹生川上神社下社に、2012年におよそ600年ぶりに献上されたのがこの馬だという。前年に起きた東日本大震災、紀伊半島大水害(いずれも、水の災害だ)からの復興祈願のためとのこと。ただ、水害といえばこのところ毎年どこかの地域で被害が出ている。この記事を書いている6月ともなれば、そろそろゲリラ豪雨のニュースも入って来る頃である。

拝殿に向かう。その奥には階段が伸びていて、本殿はその上にある。下社は江戸時代末期、天誅組を討伐する幕府方の兵火より焼失したが、明治時代に再建する時に階段(きざはし)を設けたという。その老朽化にともない、2019年におよそ150年ぶりに建て替えられたそうだ。

こちらでもご神水を汲むことができる。上社には水汲み場はなかったが、道の駅で川上村のペットボトルの水を買っていたので、これで水のほうも三社めぐりとなった。ちびりちびり飲むことにしよう。

朱印をいただく。丹生川上神社下社は2019年に元興寺とともに神仏霊場に加盟したところ。やはり「三社めぐり」を揃えようという働きかけがあったのだろうか。確かに、神仏霊場の札所が中社と上社だけだったら、私なんかはそういうものかと思ってこの二社だけを回っていたことだろう。

ここで、次の行き先を決めるくじである。おみくじではなくスマホアプリのあみだくじだが・・。

まず出走表は、

・大神神社(奈良8番)

・鞍馬寺(京都23番)

・大和神社(奈良7番)

・御上神社(滋賀12番)

・大原野神社(京都6番)

・観音寺(京都42番)

・・・またも奈良、京都に固まったように思う。くじ引きアプリもお手軽なものだが、出目も固まる傾向があるのかな。

そして、あみだくじの結果は・・5枠に入った大神神社。またも奈良、しかも今回めぐっているエリアにも近い。神仏霊場めぐり、図らずも奈良の中でも飛鳥、吉野エリアと来て次は桜井方面。次はさしずめ、山の辺の道、万葉まほろば線シリーズとして周辺の寺社をめぐることになりそうだ。

これで丹生川上神社の三社めぐりを終えて、レンタカーの出発点である大和八木に戻ることにする。下市口駅近くの昔からの町並みも通り過ぎる。その道すがら、今朝方立ち寄った岡寺のJR西日本・西国三十三所デジタルスタンプラリーのQRコードがある近鉄橿原神宮前駅を経由する。ならば・・・?

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