まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

津山に行こうと思って・・・

2018年08月31日 | 旅行記F・中国
夏の青春18きっぷがまだ残っている。そのうち1回分を消化しようと出かけることにする。

当初は、8月24日が割当休日ということで、平日休みを利用する形で出かけようと思っていた。ただそこへ台風20号である。前日は会社も早めの退社となり、ネットの一部では「地上最強路線」とも称される近鉄南大阪線も22時にて全て運休となった。そのくらいすごい台風だったということだが動きが速く、24日の朝には日本海から北陸、東北方面に抜けていた。幸い大きな被害はなかったが、同日朝からJRを中心に運休が続出した。中国道、山陽道も神戸近郊で通行止めとなり、午前中は高速バスにも運休が相次いだ。そんな状況なので遠出もなくのんびり過ごした。

台風も過ぎた26日に出かけることにした。目指すのは西、岡山県である。国鉄型の気動車に乗りたいなと思い、津山線を字句に考える。津山には扇形の蒸気機関車庫があり、以前は限定日に事前予約のうえ見学だったのが、最近は「津山まなびの鉄道館」として、普通の資料館、博物館のように通年見学できるようになっている。そうなってからは訪ねてないのでこれは行ってみよう。

また、今年2018年は津山線が開業して120周年だという。それを記念する岡山~津山間の臨時列車がキハ47の「ノスタルジー」車両で26日に運転されるそうだ。これは乗ってみようと思うが全席指定。24日にダメ元でみどりの窓口に指定席の有無を照会してみた。すると係員が後ろに引っ込む。しばらくして戻った係員から、その臨時列車は運休と知らされた。西日本豪雨で津山線も運休となり、先日全線再開したばかりである。運休の間に臨時列車の話もなくなったそうだ。

その一方で、当初この日に合わせて津山まなびの鉄道館で企画されていた「津山線マルシェ」は予定通り開催という。ここは「ノスタルジー車両」にこだわらず、まずは津山を目指す乗り鉄の旅でよしとする。

一方、関西から津山に行くなら姫新線のルートもある。ただ姫路からの直通列車はなく、播磨新宮や佐用での乗り継ぎを要する。大阪を早朝に出ても佐用で1時間半ほど待ち時間ができる。その分大阪の出発を遅らすと乗り換えが慌ただしくなる。さらに、その佐用は山陽線の上郡から伸びる第3セクターの智頭急行との接続駅である。

そこで、行きは姫新線に乗ることにした。ただし乗るのは佐用から津山までで、佐用までは智頭急行に乗る。そうすると智頭急行のどこかの駅に立ち寄った上で、津山行きの列車にも間に合う。そして津山まで行き、帰りは津山線で国鉄型気動車に揺られる。岡山に夕方に着くとなると・・・である。

ということで、大阪6時25分発の快速姫路行きに乗る。台風が過ぎてもなかなか涼しくならない中、外の太陽と青空がまぶしい。須磨の海岸には釣り人の姿は見られるが、海水浴場には泳ぐ人がいない。朝早いからオープンしていないのかと思ったが、後で知ったところでは台風20号の影響で海の家や警察の詰所に被害が出て、その復旧にも時間がかかることから8月いっぱい遊泳禁止、そのまま今年の夏は閉鎖となったそうだ。

7時56分、姫路に到着。隣のホームに停車中の8時01分発の岡山行きに乗り継ぐ。この列車は4両編成で、到着した快速が12両だから、青春18の時期は激しい席の争奪戦となるだけでなく、通勤ラッシュのように混雑する。今回は途中の上郡までだから立つのもまだましかなと思っていたが、意外にも通路側ながら座ることができた。立っている人もドア横に一人ずつくらいのものだった。8月もお盆を過ぎたからか、あるいは西日本豪雨で山陽線、呉線などが不通のために西への乗り継ぎ旅を控えた人がいるからか。

播磨西部の山がちな区間を走り、上郡着。ホーム前方の智頭急行乗り場に行く。乗るのは8時50分発の鳥取行き。鳥取までは2時間の道のりで、ふと「このまま1日きっぷを買って鳥取まで行ってもいいかな」と考える。若桜鉄道に乗る、日本海を見る、山陰線にも国鉄型気動車はいるぞ、石破茂もいるかもしれない・・とも思ったが、今回は予定通り津山を目指す。

千種川に沿って高架を走り、佐用に到着。特急の追い越しのためしばらく停車する。今ここで下車しても津山行きは1時間半以上待ちになる。それを避けるため、いったん佐用の先の駅まで行って、そこで時間を過ごした後に智頭方面からの列車で佐用に戻ることにした。

その駅とは、佐用の次の平福。時刻表上ではもう少し先まで行けるが、平福は降りたことがないのでこの機会に訪ねてみる。9時22分に着いて、10時42分発の列車で戻る。途中下車、町歩きにはちょうどいい時間割りだ・・・。
コメント

第16番「三千院」~近畿三十六不動めぐり・20(札所めぐりのおっさんが一人)

2018年08月30日 | 近畿三十六不動
今年の夏はまだまだ長そうだ。猛暑のお盆が過ぎていったん朝夕を中心に涼しい日もあったが、また猛暑がぶり返したり、そこへ台風20号が関西を通過して行ったり、厳しい天候が続く。予報では9月に入ってもまだ高温が続くと言われているが、果たしてどうなるだろうか。

そんな中、話は8月19日まで戻る。先般の四国八十八所めぐりに続いて、今度は近畿三十六不動めぐりのほうも進めておく。こちらは36ヶ所中19ヶ所を終えたところで、ぼちぼちと楽しんでいるところである。

今回訪ねるのは三千院。デューク・エイセスの「京都~大原~三千院~」の唄にも出るスポットである。唄の中では恋に疲れた女性が一人で訪ねるところとして歌われていて、この唄が三千院を有名にしたのかもしれないが、札所めぐりのおっさんが一人で訪ねても一向に構わないはずである。とは言うものの、三千院は子どもの頃に家族で来たかもしれないが覚えておらず、実質初めて訪ねるところと言ってもいいだろう。

大原へのアクセスはいくつか方法があるが、今回は京阪電車で向かう。淀屋橋から特急に乗車し(発車間際だったのでプレミアムカーではなく一般車両だったが)、 終点の出町柳まで乗る。駅前から京都バスに乗り、高野川を遡る形で洛外の大原を目指す。緑が濃くなってくるのがわかる。

大原はかつて貴人や修行者の隠棲の地だったが、この寺が三千院という呼び名になったのは意外なことに明治以降のことだという。元々は、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷の梨の木の傍らにお堂を構えて「円融房」としたのが始まりとされている。その後平安後期から歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入る天台宗の門跡寺院となり、場所も比叡山の中から坂本や洛中を転々とした後に洛西の船岡山の麓に落ち着いたのだが、応仁の乱で寺が焼かれたこともあり、政所は大原に移った。その後、江戸時代に再び御所周辺に敷地を与えられたが、明治維新にともない、門跡だった法親王が還俗して梨本宮家を起こした。その際に寺院内の仏像や仏具が大原に送られた。

一方、大原には平安末期から極楽院という阿弥陀堂があった。明治になって門跡寺院が大原に移った際に取り込まれる形になり、合わせて「三千院」ということになった。「三千院」という名前は、天台宗の「一念三千」の教えから取ったとされている。この時に極楽院は往生極楽院と改められた。

出町柳から30分ほどで大原のバスターミナルに到着。構内に入ると一度後退して駐車レーンに入れてから降車となる。ここ大原は京都郊外でも有名な観光スポットであり、インバウンドの観光客も多く訪れている。この先、三千院まで呂川に沿って歩くが、すれ違う人たちの言葉を聞いていると大陸の言葉ばかりが飛び交っている感じで、海外の観光地にでも来たのかと一瞬錯覚してしまいそうだ。

この日はたまたま涼しい日で、大原あたりだと30度を下回る気温だった。呂川の緑と小路沿いの店の風情(なぜかしば漬が多い)を楽しみながら、バスターミナルから10分ほどで三千院に着く。まず出迎えるのは御殿門で、穴太積の石垣を両側に備えた、城門を思わせる構えである。

御殿門をくぐると左手に拝観受付があり、700円を支払う。三千院のスマホアプリの案内があり、境内の案内が見られる他に、境内の7ヶ所に置かれたチェックポイントでスマホをかざすとスタンプがつくという。これを7つ集めて受付に出すと一品進呈されるというのでダウンロードしてみる。チェックポイントも宝探しではなく、素直に境内を回れば自然に集められるもののようだ。

まずは中書院から客殿に向かう。室内は撮影禁止だが、聚碧園という池泉鑑賞の庭園を見ることができる。江戸時代に修築されたとあるから、本坊がここに置かれていた当時からのものだろう。縁側に赤い毛氈が敷かれており、そこで抹茶を一服というのがよく似合う。

そして宸殿。「三千院」の扁額が掛けられており、ここが三千院の本堂と言ってもいいのだろう。最澄の作と伝わる秘仏の薬師如来が祀られている。毎年5月30日、御懺法講(せんぼうこう)という歴代天皇の回向としての法要が行われるそうで、ここでスマホをチェックポイントにかざすとその様子の動画を見ることができる。雅楽と声明が合わさった様子は天台宗ならではのもので、一般の葬儀で耳にする読経とは違った厳かさを感じる。

宸殿から再び外に出る。今度は杉木立と苔に囲まれた有清園という庭園に出る。先ほどの華やかさとは異なり、いわゆる「侘び」の雰囲気を感じる。拝観客もこちらのほうに大原らしさ、ひいては京都らしさを感じている様子だ。

その中にひっそりと建つのが往生極楽院である。扉が開け放たれており、中には国宝の阿弥陀三尊像が祀られている。この阿弥陀堂を中心とした一角が極楽浄土を表現しているかのようである。

その苔に溶け込むようにしてあるのがわらべ地蔵。三千院の中でも最も人気があるスポットと言ってもいいだろう。拝観客の多くがカメラを向けていたのがこのわらべ地蔵である。苔の中にちょこんとある感じである。意外なことに平成になってから彫刻家の杉村孝さんの作品として置かれたものだというが、そう言われればにこやかな表情が「現代風」に見える。

その奥の弁財天像を見た後で、金色不動堂に着く。前置きが長くなったが、今回三千院を訪ねたのは近畿三十六不動ということで、この建物が目的地である。智証大師円珍の作とされる金色不動明王が祀られていて、毎年4月~5月の不動祭りの時だけ公開される。その頃といえば大型連休、新緑の時季とも重なり三千院も混雑することだろう。外陣に腰掛けがあり、そこで経本を広げてお勤めとする。そうする間に次々と拝観客が入ってくる。

不動堂の中に納経所があり、ここでバインダー式の朱印をいただく。ちなみに近畿三十六不動の16番だが、1979年にこの不動霊場が発足した当初は、岩倉の実相院が16番を名乗っていたそうである。どういう経緯があったかはわからないが、2009年4月に札所が変更になったとある。なおこの時、21番が当初は東福寺の同聚院だったのが宝塚の中山寺に変更されている。札所の順番を見て、京都近辺に番号が並んでいたのがいきなり宝塚に飛んでまた京都に戻ったのが不自然に思っていたのだが(20番が東山の智積院で、22番が鳥羽・竹田の北向不動院)、そうした「札所変更」というのがあったとある。それならば実相院と同聚院にも行くべきかどうか。

境内の最も奥に位置するのが観音堂。ここには聖観音像が祀られている。また観音堂の横にはこちらで回向した、ご縁のある人たちが奉納した小さな観音像がずらりと並ぶ。

ここで折り返しとなり、最後に訪ねたのは円融蔵。重要文化財の宝物殿で、宸殿に祀られていた仏像や客殿の襖絵が展示されているほか、さらには往生極楽院の「舟底天井」の天井画を原寸大に復元したスペースもある。今は木造の歴史の古さを感じさせる阿弥陀堂だが、当時は極楽浄土の世界観を彩色豊かに前面に出していたことがうかがえる。

これで境内を一周した形で受付に戻る。スマホのスタンプラリーでいただいたのはわらべ地蔵の写真があしらわれたミニクリアファイル。

さて、三千院という有名な観光スポットと言える寺院を訪ねたわけだが、信仰としては薬師如来あり、阿弥陀三尊あり、地蔵(わらべ地蔵)あり、金色不動明王あり、聖観音ありと、メジャーどころの仏様は揃っている感じである。一方で、門跡寺院というのはそういうものなのか、庭園は立派だったが、本堂でご本尊を拝んだ・・という実感があまりなかったようにも思う。参詣の順路が決められていてそれを回るうちに入口に戻ったという感じで、先日回った四国八十八所の札所のような庶民信仰の対象とはまた違った寺の姿である。

さて、次に訪ねるところを決めなければならない。例によってくじ引きでまず出した候補は・・

1.神戸北(無動寺)

2.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)

3.河内長野(明王寺)

4.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

5.吉野(如意輪寺)

6.湖西(葛川明王院)

その中でサイコロが出したのは「5」。京都から一転、吉野である。この不動めぐり、なかなか京都市街には入らせてもらえない。いよいよ、終盤になったところで立て続けに訪ねることになりそうだ。それはそうと、吉野に行くならやはり「アレ」に乗って行きたい。早速帰りがけに予約することにしようか。

この日は三千院を後にして、門前の土産物店でゆばそばの昼食としば漬けの買い物。購入した老舗「土井志ば漬本舗」のホームページによれば、このしば漬けというのは、今から800年以上前の大原が発祥なのだという。高倉天皇の皇后で安徳天皇の母だった建礼門院は壇ノ浦で海に身を投げたが源氏方に助けられて都に送られ、剃髪して大原の寂光院で余生を過ごした。大原の人たちは、少しでも都の日々を思い出してもらおうと、保存食として紫蘇の葉で漬け込んだ野菜の漬物を献上した。紫は最も高貴な色とされており、建礼門院もこれを喜び、「紫葉(むらさきは)漬」と名付けた。それが紫葉(しば)漬のルーツだという(諸説あるようだが)。

再び大原からバスに乗り込み、出町柳に戻る。帰りはきっちりと京阪特急のプレミアムカーに乗車。車窓のお供はプレミアムモルツ・・・ではなくスーパードライだったが・・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~さぬきエクスプレスで帰阪

2018年08月28日 | 四国八十八ヶ所
8月14日、この日は朝から大阪に向けて戻る。3泊目にしてようやくホテルのレストランにてバイキング形式の朝食をいただく。お椀にうどんがあり、つゆをかけていただくのも香川ならではの一品である。

帰りに乗るのは丸亀駅8時17分発の大阪行きの高速バス。それより前の6時47分発は5時47分発というのもあったのだが、さすがに早すぎる。最終日くらい朝はゆっくりしようと思ってこの便にした。四国高速バスが運行する路線で、これもまた四国への行き来のバリエーションの一つに加わることになった。3列シートというのもよい。前日に予定変更するのに空席があるかと思ったが、この便はまだ若干の余裕があり、窓側の席を確保することができた。それでも、それ以降の便はほぼ満席である。定刻なら11時50分に難波の湊町バスターミナルに着くが、Uターンラッシュも予想され、果たしてどうだろうか。

丸亀駅から乗り込んだのは数人で発車。駅前通りからアパホテルの横を通り、丸亀城の石垣ともお別れである。次に停車したのは丸亀競技場東ということで、レクザムボールパーク丸亀にもほど近いところである。野球観戦だけを考えるなら、バスでこの停留所まで来て、近くのルートインホテルに泊まるのも一つの手だったかなと思う。近くにはロードサイドタイプの飲食店やスーパーも並んでいるし。また、ボールパークは丸亀駅よりもむしろ金蔵寺駅のほうが近いのではないかとも思う。

その金蔵寺の近くにある善通寺インター手前のバスターミナルで多くの乗車があり、8割以上の席が埋まった。前回観音寺エクスプレス号に乗った時は善通寺駅と寺の間にある本郷通りというバス停だったが、駅から少し離れているインター手前のバス停は四国高速バスの各方面への乗り場となっている。ここから高松道に乗り、高速丸亀で2人ほど乗った後は一路大阪を目指す。この日も天候がよく、進行右側の窓はほぼすべてカーテンが閉められた。見える景色は制限されるが仕方がない。坂出ジャンクションもそのまま通過し、高松に行くまでの山間の区間を走る。

高松市街の南側を通過し、香川東部を走る。ことでんや高徳線の線路もちらりと見える。今回は津田の松原サービスエリアで休憩することなくそのまま走る。高速バスの休憩の目安が2時間に1回ということで、大阪までは所定で行けば4時間弱のため休憩は淡路島の室津パーキングエリアでという案内がある。それにしてもこのバス、結構攻める。走行車線を大人しく走るというよりは、追い越せるところは結構追越車線を使う。乗車は先ほど高速丸亀で終えたので、どうせこの先渋滞も見込まれるから少しでも速く行こうということか。

これまでの四国行きで結構長距離のバスにも乗ったためか、香川はやはり近く感じる。トンネルを過ぎて徳島県に入ったかと思うと、もう「板野」の文字が見える。第1番~第3番の最寄りのエリアである。まず四国島内は、1車線区間で多少速度が落ちたものの目立った混雑もなく過ぎていく。こま切れ19回目の四国ともお別れである。

淡路島に入っても順調に走行して、丸亀を出ておよそ2時間、10時20分に室津パーキングエリアに到着する。この時間帯では明石海峡大橋にも渋滞情報は出ておらず、いい感じで帰れそうだ。

明石海峡大橋を通過。この先垂水ジャンクションから神戸線方面に入らないのはいつものことで、布施畑から新神戸トンネルを経て三宮に向かう。この迂回での遅れも10分程度で三宮に到着。Uターンラッシュの渋滞が予想された中での10分遅れというのはほぼ定時着と言ってもいいだろう。ここまで戻ってくれば後はそう極端な渋滞箇所もないはずだ。

果たしてこの後は湾岸線を順調に快走し、熱戦が続く甲子園球場も車窓の遥かに見た後、11時55分頃に湊町バスターミナルに到着。3時間半のバス旅は結構あっさりと到着した印象である。

さて残り11ヶ所となった四国めぐり、札所をどのような配分で回ろうかと考える。自分としては、3日や4日を連続して四国に充てるというのは今回が最後で、後は少しずつ季節を変えながら、こま切れ遍路とするつもりだ。鉄道で比較的容易にアクセスできるところもある一方で、また山登りをしなければならないルートもあるようだ。ここからどうなることやら・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~ことでんに乗車、丸亀城

2018年08月27日 | 四国八十八ヶ所
多度津11時59分発の高松行きに乗る。伊予西条始発というためか結構な乗車で、何とか空席を見つけて座る。七ヶ所まいりを終えてその後でどこかに行こうと思っていたのだが、結局は暑さと疲れのために「ただ電車に乗る」ということを選択した。そのまま丸亀を通過し、結局終点の高松まで乗った。八十八所めぐりの順番でいえば次は宇多津の78番の郷照寺である。その後、予讃線沿いに進んで行くが札所めぐりはまたの機会だ。さすがに猛暑、酷暑は収まっていることだろう。

高松に到着。この駅に降り立つのも久しぶりである。

食欲がそうあるわけではないのだが昼食とする。ホームの端には「連絡船うどん」がある。その筋の方に言わせればさぬきうどんの名店ではないのかもしれないが、そこは駅のホームというシチュエーションでいただくようなものである。瀬戸大橋が開業して30年、それはイコール宇高連絡船がなくなって30年でもある。かつての連絡船の写真パネルのある店の前に設けられたテーブルで、すだちの効いたおろしうどんをいただく。

毎年8月12日~14日は「さぬき高松まつり」というのが行われている。訪ねた13日の夜には高松港で花火大会も行われるそうで、駅前も大勢の人で賑わっている。

その中で向かったのがことでんの高松築港駅。高松に来たからといってどこか見物するわけでもなく、そのまま電車に乗って琴平に向かうことにする。

来たのは何と赤い電車。ことでんの車両というのが元々京浜急行で活躍していた車両であり、また羽田空港から都心、横浜方面へのアクセスのアピールということでリバイバル塗装が実現したという。さらに車体には京急のイメージキャラクターを務めるくりぃむしちゅーのお二人も描かれている。

もっとも内装は普通で、昼下がりのローカル私鉄の風情である。のんびりと車窓を楽しむ。途中の一宮は83番の一宮寺の最寄駅で、ここを訪ねる時はまたことでんに乗ることになると思う。前々日に丸亀で観戦した四国アイランドリーグの試合の冠スポンサーだった綾川町も通る。

およそ1時間の乗車で琴平に到着。ここまで来たのだから金毘羅まいり・・・はしない。35度超の猛暑の中で785段の石段上りは無茶だろう。金刀比羅宮を無視するのは気が引けるが、そこは一宮寺に行くのにことでんに乗るのであればその時に合わせてお参りするとか、何らかの別の形で訪ねようと思う。

琴平始発の列車に乗り、善通寺に到着。七ヶ所まいりの台紙を求めてもう一度善通寺に行くこともなく、そのまま乗る。結局この日は朝丸亀から善通寺に移動して、鉄道を乗り継いでぐるりと一回りする形で丸亀に戻ることになった。時刻は14時38分。

この後は夜も含めてどうするか。13日夜は丸亀にて香川オリーブガイナーズ対徳島インディゴソックス戦がある。ただ、11日のような送迎バスは出ない。行きはコミュニティバスで行ったとして、帰りは歩いて帰って来なければならない。そこも含めてどうするか。また、丸亀のシンボルである丸亀城にもまだ行けていない。実は夏の間は開城時間も19時まで延長されている。

ともかくいったんホテルに戻り、前日と同じように夕方まで昼寝をすることにする。アパホテルに3泊して、そのうち2泊で昼寝をするとは。和室がそれだけ気に入ったということもあるし、まあ、旅に出て朝から晩まで歩き回ることなく、ホテルで昼寝をするというのもある種贅沢なことだと思うが・・。

夕方となる。ナイターを見に行くなら丸亀駅を17時08分発に出るコミュニティバスに乗らなければならないが、もうあきらめた。その代わり、丸亀城まで上がり、その後で市内のどこか居酒屋に行こうと思う。日は傾いたがまだ蒸し暑さの残る外に出る。

ホテルから丸亀城までは市の中心部の官公庁街を通る。17時を過ぎて退庁する人の姿も見られる。8月13日は月曜日、そうだった、役所は「盆休み」なく通常に開いているのだった。そんな中で立派な石垣が出て、丸亀城の天守閣が姿を現した。

丸亀城は「日本一高い石垣の城」ということで知られている。築かれたのは慶長年間、生駒親正、一正親子の代で、亀山という小山の地形を利用した平山城である。当時の最高技術で積まれた石垣である。山麓から山頂まで4重、合わせて60メートルというのが「合計で」日本一高いと称されるところだ。生駒氏の後は山崎氏、そして京極氏と続き、明治時代に至る。その後は公園としても開放されている。

大手二の門から入る。するとそこに伸びるのは急な上り坂。舗装されているのでもちろん後からそのように造ったのだろうが、普通の城なら石段で上るところ珍しい。見学する人も上り坂に唖然としているようだが、一方ではトレーニングに最適とばかりスポーツウェア姿の人が走って上って行く。

三の丸、そして二の丸と上がって行く。城の南側のエリアは立ち入りができなくなっている。7月の西日本豪雨の影響で石垣の一部が崩れているからという。香川県では数少ない被害箇所ということだ。

本丸に着く。山を利用した城ということで、周囲の景色がよく見える。丸亀の市街地から港、そして遠くの瀬戸大橋のあたりはもちろんだが、七ヶ所まいりで歩いた我拝師山のあたりからこちらの山側の景色もばっちり。しばらく風に吹かれて景色を眺める。

これで丸亀城も訪ねることもでき、夕食を求めて町中を歩く。全国チェーンの居酒屋もあれば、骨付鳥の幟の見える地元居酒屋もある。普通ならばこうしたところに迷いなく入るところだが、店の前に立ち、しかも空席があるように見えるのに、なぜかドアに手が伸びない。何だか身体が反応しない。こうしたことは珍しく、いくら昼寝したからといってもこれが今の身体からのサインなのだろう。骨付鳥は前日いただいたし、まあ仕方ないなということで、ただ何も食べないのも良くないのでコンビニで何がしか仕入れてホテルに戻る。

大浴場に入り。和室の部屋でくつろぐ。テレビのニュースでは、この日の夜徳島で行われるはずだった阿波おどりの「総踊り」をめぐるいざこざで、有名連で作る振興協会が商店街で「総踊り」を強行するとして行方が注目されている。結局は周りの見物客の後押しもあり22時すぎに強行されたのだが、何だかお互いに大人げない対応だなと思うところだった。なお、四国アイランドリーグの試合は香川が徳島に0対3と敗戦。この丸亀4連戦は、私が観戦した11日は香川が高知に勝利したが、翌12日の高知戦、そして13日、14日の徳島戦と3連敗。後期は徳島が快調に飛ばしており、この記事を書いている時点で早くも後期優勝のマジックが点灯している。

さてそれはさておき、翌日14日はどうするか。予約しているバスは15時すぎで日中の多くの時間があるが、七ヶ所まいりは終えたし、丸亀の城にも行った。バスの時間まで他のところに出かけようかとも思ったが、14日も相変わらずの猛暑日になるという。連日の疲れもある。それを考えて、もう朝から自宅に向けて戻ることにする。幸い8時すぎの丸亀から大阪の高速バスの便に空きがあり、変更する。Uターンラッシュで高速道路も渋滞するだろうが、帰るだけなら何とかなるだろう。

今回は「讃岐七ヶ所まいり」「四国アイランドリーグ観戦」「骨付鳥」などを楽しみとして、早くから貴重な夏休みをここに集中させることにしていろいろな計画を持って乗り込んだ。しかし実際は猛暑、疲労もあり、気づかないうちに体調も良くなかったのだろう。プランを中止したり短縮したりで消化不良のところもあったが、これもまた夏の思い出である・・・。
コメント (2)

第19回四国八十八所めぐり~少林寺拳法の総本山から

2018年08月25日 | 四国八十八ヶ所
多度津の町を歩く。これから目指すのは少林寺拳法の総本山の建物がある桃陵公園である。多度津の町を囲んで先ほど訪ねた道隆寺、これから目指す桃陵公園、そして多度津駅が三角形のようにある。その三角形のように歩くわけだが、最も長い辺が道隆寺~桃陵公園ということで、暑さがじわじわとダメージを奪っていくように感じる。

多度津は瀬戸内の港町だが、江戸時代は丸亀藩の支藩の多度津藩というのがあったそうだ。その中心だった陣屋がある。今は多度津町の資料館だが、残念ながら訪ねた13日は月曜日ということで休館だった。また近くにはJR四国の多度津工場もあるし、昔の洋館を残した建物もある。

歩くうちに、桃陵公園の上り口に出る。中世には讃岐西部を治めていた香川氏の居城があったところで、現在は町並みの展望台として、また公園として地元の人たちに親しまれているところである。

坂道を上ると、展望スポットに出た。多度津の町並み、そして町に面する港がよく見える。瀬戸大橋まで眺めることができる。

その展望スポットに銅像がある。偉人というわけではなく、「一太郎やあい」という老婆の像である。日露戦争の時、多度津から出征する息子を見送りに来て、海に向かって「うちのことは心配するな、天子様によく御奉公するんだよ」と叫ぶ様子を像にしたものである。かつては兵士の出征の美談として教科書にも取り上げられていたそうだ。そうして見送られた「一太郎」はパソコンのソフトとしてお国のために役立った・・・というのは冗談として、多度津というところが香川にてさまざまな役割を持つ港だったということは歴史の一コマであることは確かだ。

桃陵公園から下ったところで、少林寺拳法の総本山の建物に出た。お盆ということか門も閉まっており、本部の建物は遠くに望む形での訪問となった。

少林寺拳法は宗道臣が1947年に多度津で創始されたものである。宗道臣は戦前は満州に渡っていたが、戦後に帰国し、戦後の混乱の中で自分のことしか考える余裕のない日本人の姿に心を痛め、若者たちに他人を思いやる心を持ってもらおうと少林寺拳法を始めた。私も小学生~中学生で習っていたが、試合をして相手に勝つことを目的とするのではなく、心を鍛えるものだということを教えられた。その点では空手と違うのだと。

突き、蹴り、技の練習もあるが、その中に「鎮魂行」というのがあった。いくつかの文章を覚えて、昇級(私は黒帯まで行かなかったので昇「級」でしかなかったが)のテストでも書かされたものだが、その最初に「聖句」というのがあった。それを引用すると・・

 己れこそ己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、
 良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり

 自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、
 浄きも浄からざるも自らのことなり、他者(たのもの)に依りて浄むることを得ず

小学生の時はよく意味もわからず「暗記」のような感じで教えられたかもしれない。ただ、何事も最後は自分次第だということは何となく理解していたようにも思う。

四国の八十八所めぐりをするようになり、その中で57番の栄福寺を訪ねた。この寺は『ボクは坊さん。』などの著作で知られる白川密成師が住職を務めているのだが、その『ボクは坊さん。』を読む中で、上記の「聖句」の文言が出て来たのに驚いた。法句経(ダンマパダ)の一節にあり、「聖句」のほうが法句経から引用して少林寺拳法の教えに組み込んだわけだが、白川師はその中で、

 「自分」という個人は、ある意味で自己をコントロールするための、唯一のドライバーのような存在だから(中略)
 そして、他への過度な期待をたしなめ、自分というものの大きさを繰り返し語り かける。

としている。また、

 「神様、仏さま、どうか、なにとぞ、お願いします!」というような超越者やヒーローに期待する 構造は皆無だ。
 やるのは、ひとり、ひとりの「自分」なのだ。仏は自己に喚起をうながし、甘えを 拒絶する。

少林寺拳法の総本山である多度津で、子どもの頃に習った拳法の「自己確立」の精神と八十八所めぐりが巡り合った感じである。まあ、少林寺拳法も釈尊(釈迦)の教えというのをベースにしていたのだが。今からもう一度拳法を習おうとは思わないにしても、そうした精神世界というのを思い出し、自分の気の持ち方には活かしていきたいものである。

そんなことを思いつつ桃陵公園から多度津駅に戻ってきたが、とにかく暑い。冷房で休憩しようと思えば駅前のコンビニになるが、イートスペースは陣取られている。ふと、「いっそのこと列車に乗ってしまえばいいのでは」という気になった。ちょうど高松行きが来るのでそれに乗ることにする。ただ丸亀に戻るには早い。ならば、いっそのこと掟破りだが高松まで行ってしまおうか。多度津から東の予讃線ではICカードが使えるので、ともかく改札口でピッとやって乗り込む。己れこそ己れの寄るべはどこかに吹っ飛んだ。前日の熱中症か体調不良の二の舞だけは避けようというところである・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第77番「道隆寺」

2018年08月24日 | 四国八十八ヶ所
多度津駅に到着。これから向かうのは讃岐七ヶ所まいりの最後である77番の道隆寺。こちらも多度津駅から1キロほどということで徒歩圏内である。先ほど金倉寺にいた大陸の四人組と何となく一緒に歩く形になる。かと言って彼ら同士でもおしゃべりするわけではなく、黙々と歩く感じだ。短い金剛杖を両手に一本ずつ持つ人もいれば、トレッキング用のポールを手にした人もいる。

多度津の駅前には二つのモニュメントがある。その一つ、駅側を向いているのが「少林寺拳法発祥のまち」である。少林寺拳法は私も小学校、中学校で近所の道院で習っていて、その総本山が多度津にあるということもその時に教えてもらった。習っている時には来ることはなかったが、その後鉄道の旅でここを通るたびに、車窓に見える総本山の建物は目にしてきた。今回、八十八所めぐりで多度津に来たことでもあり、道隆寺にお参りした後で建物まで行ってみることにする。

もう一つが「四国鉄道発祥の地」で、蒸気機関車の動輪が飾られている。1889年に讃岐鉄道が丸亀~多度津~琴平間で開業したことを記念したものである。四国の鉄道そのものはその前年に伊予鉄道の松山市~三津まで開業したのが最初だが、讃岐鉄道が後の国鉄~JR四国の源流として四国全体の鉄道網の発達のベースになったことから、「発祥の地」と称しているそうだ。駅から線路に沿って歩くとかつての蒸気機関車8620型が展示されている。1970年頃まで走っていたそうで、さすがにこれを現役復帰させるのは無理だが、予讃線と土讃線の分岐で、鉄道の要といえる多度津の歴史を伝えるモニュメントとして大切にしてほしいものである。

駅前の道路を進み、予讃線の線路を跨線橋で渡って下りたところに道隆寺の門がある。門の向こうに建物があるがこれは何だろうと回り込むと、それが本堂だった。山門はその向こうにあり、要は裏側から境内に入った形である。一度山門の外に出てから改めて入りなおす。参道の両側には観音像がずらりと並んで迎えてくれる。

道隆寺を開いたのはその名も和気道隆という人物。当時のこの辺りの領主だった道隆が、桑畑で桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を放つと、矢が乳母に当たって死んでしまった。道隆はそれを悲しみ、桑の大木から薬師如来像を刻んで堂に安置したのが始まりだという。その後、道隆の子である朝祐が弘法大師に依頼して薬師如来を安置し、自らも伽藍を建立して父の名を取って「道隆寺」とした。また本尊薬師如来は眼病にまつわる伝説もあるそうで、「目なおし薬師」として信仰を集めている。またこちらの弘法大師像は、衛門三郎が膝まづいて弘法大師を仰ぐという姿だ。道隆寺でそうした姿というのは何か意味があるのだろうか。

本堂の前の囲いの中に寿老人の像がある。これで七福神が揃う。一つ一つ見ると、この札所にこの七福神というのがピタリと当てはまったのは甲山寺の毘沙門天くらいで、後は何となく当てはめたような気がしないでもないが、ともかく勢揃いするとめでたいものである。

大師堂にも参拝する。今度は弘法大師のお堂である。

納経所に向かう。通常の朱印と本尊薬師如来の御影をいただき、寿老人の御影もいただく。七ヶ所まいりも最後ということで、「七ヶ所まいりの御影の台紙をください」とお願いする。

すると意外な答えが返ってきた。「台紙は善通寺さんにしか置いてませんよ」・・・ウソでしょ。「善通寺さんとか、最初(の弥谷寺)とかに言われませんでした?」と訊かれるが、そんなのはどこでも聞いていない。「また善通寺さんに行かれます?」・・・いや、ご縁がなかったと思ってあきらめますと答えて、すごすごと納経所を後にした。暑さが余計にぶり返してきて、疲れもどっと出てきた。

寺からの帰り、改めて七ヶ所まいりのホームページを見てみると、台紙はいずれの札所でもいただけるとある。ましてや最後の番号なのだから同じように求める人もいるはずだ。それなのに善通寺にしかないとは・・・と考えるに、ふと道隆寺の人は「だいし」を「台紙」ではなく「大師」と間違えたのではないかと思った。確かに弘法大師の御影は善通寺にしかない(だからこの日の朝に出直した)。まあ、その時に台紙も一緒に買い求めればよかったし、そもそも最初の弥谷寺で訊いておけばよかったのだ。弥谷寺にあればそこで手に入ったし、善通寺にしかないのならそう教えてくれただろう。もっと言えば、道隆寺でも詳しく訊けばよかったわけだが、そこまで気が回らなかった。弘法大師が私に対して「まだまだ」と言っているのかもしれない。

手水場にウォーターサーバーがあったので水をいただき、また先ほどの大陸の人たちと前後して道隆寺を後にする。予讃線の跨線橋を渡り、左折すると駅に戻る。大陸の人たちは駅のほうに曲がったが、私はいったん直進する。ここまで来たので、少林寺の建物を見に行こう・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第76番「金倉寺」

2018年08月23日 | 四国八十八ヶ所
善通寺の次に訪ねる第76番の金倉寺は善通寺市の金蔵寺町にあり、最寄駅は金蔵寺である。「倉」と「蔵」の文字が寺と地名で異なるのは何かいわれがあるのだろうか。ちなみに読みはいずれも「こんぞうじ」である。

同じ列車から笈摺姿の男性1人、女性3人のグループが降りた。先ほど善通寺駅の待合室にもいて、彼らが話す言葉は大陸の言葉である。この時季に交通機関を使いながらも歩いて回るとは、暑さもかなり堪えていることだろう。私と前後するように歩く。

金倉寺へは駅から5分ほど歩いて到着した。寺で葬儀か法要でもやるのか門前には喪服を着た人がいて記帳台が出ている。また山門には「円珍・乃木まつり」の幟が出ている。円珍に乃木とは何やら妙な人物同士の組み合わせである。

四国八十八所は真言宗、弘法大師の足跡をめぐる巡拝であるが、その中にあって金倉寺は天台寺門宗(園城寺=三井寺を総本山とする天台宗寺門派)の寺院である。平安時代にこの宗派を開いたのが智証大師円珍で、寺そのものは円珍の祖父である和気道善が開いたとされ、当初はその名前から道善寺と呼ばれていた。円珍が唐から帰国した後、道善寺の敷地を賜り、金倉寺を開いた。ちなみに円珍は円仁とともに最澄が開いた天台宗の基礎を固めた人物であるのと、弘法大師の姪の子ということで親類にあたる人物として知られている。

一方、乃木というのは明治の軍人・乃木希典である。日露戦争前の一時期に新たに設けられた善通寺の師団長を務めたことがあり、その時の官舎が金倉寺の客殿だったという。「乃木将軍妻返し」と名がついた松の木もある。何かの事情で善通寺の乃木を訪ねてきた妻が官舎に入ることを許されず、松の木の下で思案したという。この乃木将軍は人によって評価が真っ二つに分かれる人物なのでどこまでが本当かわかりにくいし、この妻も現在の価値観では評価しづらい方である。それはともかく、「円珍・乃木まつり」とは、乃木希典の命日(明治天皇に殉じて夫婦で自刃)である9月13日に慰霊祭を行っていたのが、円珍の千百年忌を機に円珍も入れて、9月の第1土・日曜日に行われる祭りとなった。

そうした寺院だからか、境内のあちこちに「智証大師」の文字が見られる。四国八十八所にはこれまで訪ねたほぼ全てに弘法大師の修行像があったが、こちらには智証大師円珍の像が建てられている。

本堂に向かう。比較的新しい時期に再建された感じの建物である。本尊は薬師如来で、本堂の正面には大きな数珠玉があり、これをカチカチ言わせながら一巡させる。訪れていた大陸のグループも同じように回していた。彼らのすごいのは、それぞれが般若心経の写経を手にしており、本堂の前で読むわけではないが写経を胸の前に出して、黙読するようにしばらく立った後に箱に収めていた。本来の「納経」に近い。般若心経の文字列が語るところの世界もスッと入ってきていることだろう。

本堂の下には金の大黒天の像があり、金箔を貼るとご利益があるのだという。これって、「金倉」「金蔵」という寺や地名から来た洒落が入っているのだろうか。確かに縁起が良さそうな名前である。とすれば、七ヶ所まいりの七福神は大黒天になるのではないかと思うが、大黒天は71番の弥谷寺で最初に登場したぞ。

本堂から少し離れて大師堂があるが、こちらは天台寺門宗だからか、「お大師様」といえば智証大師円珍である。額の中央にも「智証大師」と書かれており、なぜかその脇に弘法大師がいるという並びである。大師堂の中にはさらに役行者、天台大師智顗、伝教大師最澄の像も祀られているそうで、やはり異色だ。前回訪ねた67番の大興寺は、真言宗と天台宗の両宗派の寺ということで、本堂を挟んで弘法大師の大師堂と、天台大師の大師堂が並んでいたが、大師堂のセンターに智証大師が来るのはここだけだそうだ。そもそも、金倉寺が四国八十八所の一つになっているのはなぜだろうか。弘法大師が智証大師の血筋だからから、天台宗の中に無理やり入れさせてもらった感じである。 こういうところで「南無大師遍照金剛」と唱えるのはちょっと気が引けるようで、正しいかどうかはわからないが「南無智証大師」と唱えてみる。

納経所に向かう。「暑いですねえ」と言われ「朝からリュックを背負った方が何人も来られて、今日は団体さんが入っていたっけと思いましたわ」と、朱印をいただく。七福神は弁財天。本堂から山門に戻ったところに池があり、確かに弁天堂があった。ここはまあ、七福神と七ヶ所がリンクしていると言っていいだろうか。

駅に戻る。次の道隆寺で七ヶ所まいりは終わりとなる。最寄りの多度津まで1駅4分、土讃線の列車に乗車する。大陸からのグループも列車に間に合って乗り込んだ・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第75番「善通寺」再参拝

2018年08月22日 | 四国八十八ヶ所
13日、この日は朝から「富田林警察署から樋田容疑者逃走」、「周防大島で2歳の男の子が行方不明(後に無事発見)」、「徳島の阿波おどりの「総踊り」をめぐる徳島市と振興協会のいざこざ」の話題がテレビを賑わせていた。それらを見つつ6時半にホテルを出発する。

この日は讃岐七ヶ所まいりの残り2つ、第76番の金倉寺、第77番の道隆寺を回り、残った時間で別格霊場で善通寺の奥の院でもある海岸寺へ行くなり、金刀比羅宮など近くのスポットに行こうかと思っていた。そして夜にはレクザムボールパーク丸亀での四国アイランドリーグ・香川対徳島戦の観戦も考えていた。それを全てこなすと最終日の14日は夕方まで何をしようかということになるが。

6時51分発の琴平行きに乗る。金倉寺へは多度津から土讃線を入った金蔵寺が最寄駅だが、いったんそのまま素通りして隣の善通寺まで乗る。前日善通寺駅に暑さと疲れでヘトヘトでたどり着いたところに列車が来たのでそのまま乗っており、駅の様子も見ていない。また、弘法大師の御影をいただき損ねているので、そのやり直しということでもう一度訪ねることにしたのだ。朝の7時すぎということで前日昼間に訪ねた時よりも多少は涼しい。

7時05分、善通寺に到着。看板には「弘法大師空海ご生誕の地」とあり、ホームには善通寺の法主の手による言葉が書かれている。「笑顔に反抗するものなし すみませんにはおわびと感謝が含まれている」「今日亦無事」というものだ。

駅から歩く途中で、前日に食欲がなくて入ることのなかったセルフのうどん店に入る。「こがね製麺所」というところで、県内に10店舗以上のチェーンを持つ店である。本当のさぬきうどん愛好者はこうしたチェーンの店には入らないのだろうが、私はそこまでのこだわりがないので十分である。「丸亀」の名前がつくが丸亀にはないうどんチェーン店と比べれば地元に根付いているということだろう。朝7時からやっているということで他にも近所の人らしいのが訪ねており、ここで朝食とする。「中」で2玉は結構ボリュームがあるが、美味しくいただく。

商店街の庇で日差しをよけながら歩く。「善通寺さん行くんやったらあっちの筋のほうが正門やで」と、自転車に乗った人に声をかけられる。私が歩いていた道を直進すると着くのは赤門ということで、前日はその赤門から駅に向けて出てきたのだが、東院の山門はまた別にある。

教えられたほうの筋を歩くと果たして昔の趣を残す山門が出てきた。こちらからだと五重塔と本堂も合わせて目にすることができ、改めて堂々とした寺院だと思う。

せっかくなので前日に続いて本堂にお参りする。ちょうど朝の掃除の最中のようで、係の人たちが次々に挨拶をしていただく。やはり寺は朝が似合う。本尊の薬師如来と布団の中の弘法大師像とも2度目の対面である。

東院から西院に移る。こちらの御影堂(大師堂)でももう一度手を合わせる。こちらの西院にも五百羅漢像があり、東院のそれよりも昔に造られたもののようだ。表情の豊かさとなると新しくできたもののほうがリアルで見ていて面白く感じる。

さて、こちらの御影堂でも弘法大師の御影がいただけるとのことで窓口に申し出る。「ご朱印のあるのとないのと、どちらにしますか?」と尋ねらる。1枚の半紙の両側に「南無大師」「遍照金剛」と墨書されていて真ん中に弘法大師の御影を置くのだが、墨書のところに朱印を押すかどうか選択できる(朱印なしで300円、ありだと600円)。八十八所すべての御影とともに額に入れる場合に朱印ありを頼む人がいるそうだが、私の場合は讃岐七ヶ所の七福神だけでいいので朱印なしをお願いする。どう見ても前日渡された本尊薬師如来の御影とは別物で、なぜ行き違いになったのかよくわからない。納経所に苦情をいうほどのことでもないのでこれで収める。リュックにはそのままだと入らないので、やむを得ず半紙を半分に折る。

実は七福神めぐりについてはここでもう一押ししなければならなかったことがあり、それに気づかず最後の道隆寺でガックリ来ることがあった。それは後に触れることにして、この時はそのまま駅に戻る。

次の金倉寺、そして道隆寺はいずれも駅から普通に徒歩圏内で、無理することもないだろう。次に乗るのは善通寺8時56分の多度津行きで、列車行き違い待ちのために早くから停まっていた。涼しい車内でしばらく待つ。もっとも発車すれば乗っているのはわずか3分で、隣の金蔵寺に到着・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~骨付鳥「一鶴」本店

2018年08月21日 | 四国八十八ヶ所
8月12日、71番の弥谷寺から始めた四国八十八所めぐりの讃岐七ヶ所まいり。この日は宿泊地の丸亀から早朝に移動したものの、10キロあまり歩いた後の75番の善通寺でノックアウト状態となり、熱中症の一つではないかという形で何とか丸亀のアパホテルまで戻り休養ということになった。

2時間ほど眠って夕方となり、少しは元気が出てきたようだ。空腹も感じる。札所めぐりとしては残念なところもあったが、ホテルの客室で昼寝なんて「夏休み」らしくてよかったやないかと自分に言い聞かせる。ならば、丸亀に来たらこの味というのをいただきに行くことにしよう。

丸亀の、というより香川の代表的な味として最近広まっているのが骨付鳥。これまでに口にしたこともあるし、前日の夕食には骨付鳥を使った駅弁を味わったこともある。この一品の発祥とされるのが丸亀の「一鶴」という店である。実は大阪にも支店はあるのだが、本店が丸亀駅のすぐ近くにあり、予讃線で岡山・高松方面から来れば丸亀駅に着く直前に看板も見える。昼間にノックアウトされたばかりなのに大丈夫かというのはあるが・・・。

ホテルを出て駅前に向かう。ちょっと寄り道して商店街のほうを歩くと、シャッターに丸亀の名所をさまざまに描いた作品に出会う。これは商店街の活性化の取り組みの一つで、市、商工会議所、デザインの専門学校が連携して、空き店舗のシャッターを彩ったものである。丸亀のゆるキャラ「とり奉行骨付きじゅうじゅう」も描きこまれている。

予讃線の高架をくぐって「一鶴」に着いた。土日祝日は11時から通しで営業している。着いた時は15人ほどの待ちだった。ただここで引き返すこともなく、待つことにする。店は1階がカウンター、テーブル席、2階が座敷となっているが、比較的短い間隔で出てくる客も多い。これが居酒屋の飲みメインの店なら客の回転は極端に悪くなるが、一鶴の場合はあくまで骨付鳥をメインにした食事の店で、アルコールも出しますよというスタンスの店のようだ。また訪れるのも家族連れが多かったこともあり、20分ほどの待ちで2階の座敷に通された。もっともこれは旅先でこの店だから20分待ったわけで、普段の大阪の町で20分待ちだったら並ばずに別の店に行くだろう。

骨付鳥は親鳥とひな鳥があるが、この時は迷わず両方を注文する。本当に数時間前にノックアウトされた奴かと思う。

そしてやってきた2品。アルミの皿にそれぞれ盛られているが、スパイスが食欲をそそる。昼にさぬきうどんを食べようともしなかったのが嘘のように、それぞれの肉にかぶりつく。親鳥の硬さの中に感じさせる歯ごたえと味わいの深さと、ひな鳥の食べやすさのそれぞれを楽しめる。かかっている鶏油にはセットのキャベツ、さらには別注文のおむすびをつけて食べるのがいける。申し訳ないが前日の駅弁の比ではない。

骨付鳥は、いつから丸亀から食べられていたかというのははっきりしているそうで、1953年に一鶴の創業者がメニューで出したのが初めてである。映画館で上映されていた海外映画で女優が骨のついたもも肉にかじりつくシーンを見て思いついたものだという。

骨付鳥といって思い出すのは、お隣愛媛の川之江で訪ねた揚げ足鳥。焼くのと揚げるのとでは違うにしても、鶏のもも肉を食べることには共通点がある。

これで当日の元気を回復して、翌日はきちんと続きを回れるかどうか。丸亀に来てともかくこれはという味をいただけてよかった。店を出ると、先ほど以上の行列が店の外の道路まで伸びていた。そこまでの人気なのかと改めて感心する。

ホテルに戻る。前夜に引き続き、ソフトボールの世界選手権の試合をテレビ観戦する。前夜の準決勝でアメリカに敗れた日本だが、この日の昼に行われた準決勝Ⅱでカナダに勝利し、夜の決勝戦に進出した。マウンドには昼のカナダ戦で完投して「中3時間半」でアメリカ戦に登板となったエースの上野投手。この日も延長にもつれ込む熱戦となったが、継投策に出るアメリカに対して日本は上野が投げ続ける。最後は延長でアメリカがサヨナラ勝ち、日本は上野の熱投には大きな拍手だが、改めて次の世代へのバトンタッチの不十分さが浮き彫りになった試合だった。

さて翌13日は、12日に回りきれなかった讃岐七ヶ所めぐりの残り2ヶ所、金倉寺と道隆寺を回る。残った時間で別格霊場の海岸寺に行くとか、はたまた金毘羅まいりをするか、そして夜の四国アイランドリーグの観戦にも行くか。いろいろと考えるところである・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第75番「善通寺」

2018年08月20日 | 四国八十八ヶ所
善通寺は広い。45000平方メートルに及ぶ面積で、弘法大師の誕生院である西院と、元々の善通寺の伽藍がある東院に分かれている。甲山寺から来ると西院と東院の真ん中に着き、仁王門があるのでそちらが正面かと思い入ろうとするが、これは西院の玄関口である。やはり順番で言えば本堂のある東院に行き、その後で大師堂(善通寺では「御影堂」と呼ぶ)と納経所のある西院に行くところだろう。

善通寺の西院と東院は元々は別々の寺だった。東院は、唐から帰国した弘法大師が唐の青龍寺を模して建立した寺で、父の諱「善通(よしみち)」を取って善通寺と名付けられた。一方の西院は鎌倉時代に生家の佐伯氏の邸宅跡に誕生院という別の寺が建立されたもので、明治時代になって一つの寺となったという。高野山、東寺と並ぶ弘法大師の三大霊場とあり、四国八十八所の総元締めと言えるところである。四国八十八所めぐりを行うと決めた時、親から「四国の一番は善通寺から始まるのか?」と訊かれたことがある。瀬戸内側の出身なのでそういう認識だったようだが、現在は鳴門の霊山寺が1番だが、これは江戸、上方方面から淡路島を経由して四国に入るようになったことからついた順番で、やはり元々は善通寺、誕生院から回る、あるいは善通寺を目指すというルートだったとも考えられている。最盛時には多くの塔頭寺院も有していたが、明治以後の廃仏毀釈などもあり、敷地の一部も軍の施設に転用(現在は公共機関や民間の建物となる)されたところもある。

東院の本堂(金堂)に着く。江戸中期の建物で、中に入ることができる。天井も広く、中央には3メートルの高さの薬師如来像が出迎えてくれる。また脇には伊予大洲の十夜ヶ橋の言い伝えを表すかのように、布団を掛けられた弘法大師の寝像も祀られている。布団がかかった像といえば、西国三十三所の穴太寺の寝釈迦像を思い出す。穴太寺では布団をめくって自分の治してほしい部分をなでてお祈りすることができるが、さすがにこちらの弘法大師像は触れることはできない。それにつながる独鈷に触れてお祈りする。

本堂に対面する五重塔は、江戸末期から明治にかけて再建されたものである。45メートルという高さは東寺や興福寺よりは低いが、それでも木造としては日本屈指の高さで、明治以降の五重塔として初めて国の重要文化財に指定された建物である。四国八十八所の中ではもっとも高い建造物ではないだろうか。

東院の境内を囲むように五百羅漢の像が並ぶ。それと合わせて西国、坂東、秩父の日本百観音の本尊も並ぶ。今回は門の周辺のものを見ただけだが、これら全部を回ると結構なボリュームになりそうだ。

東院から西院に移動する。その間には観智院、華蔵院という塔頭寺院がある。

改めて仁王門から西院に入る。御影堂まで回廊が続いており、弘法大師の生涯を絵にしたパネルが掲げられている。そして御影堂へ。ここまで来て、ようやく一区切りついた心持である。この御影堂は弘法大師が誕生したその地に建てられたという。

御影堂の向かいには御影の池があり、弘法大師、そして両親の像が祀られている。その手前には七福神の布袋像がある。七ヶ所まいりそれぞれ七福神が当てられているが、善通寺で布袋という結びつきはわからない。代わりに目立つのは「善通寺」を「善く通る寺」として、合格祈願や必勝祈願につなげているところ。

納経所に向かう。朱印と通常の本尊御影をいただくのと合わせて、七福神の布袋の御影、そして「弘法大師様の御影を」とお願いする。この時は朝からの暑さで限界に来ていたし、ともかく善通寺まで来たことで安堵したこともあってよく確認しなかったのだが、この日の夜に荷物を整理したところ、この時弘法大師の御影と言ったはずのものが、手元にあったのは本尊薬師如来のカラーの御影だった。本尊と大師を寺の人が聞き違えたか、あるいは私がはっきり言わなかった、その場で確認しなかったか。七ヶ所まいりは七福神の御影と、中央に弘法大師の御影を専用の台紙に貼りつけてコンプリートしようと思っていたが、これでは大師が抜けてしまう。また翌日にもう一度出直してくるか。

他にもいくつかのお堂もあるが、これだけの広さの割には日差しをよけるところが少なく、ベンチが少しあるだけで休憩所もない。暑さと疲れのためにもう切り上げようと、再び東院を通り抜けて駅の方向に向かう。商店街を抜けながら1キロあまりの距離である。

時刻は13時を回り、本来なら昼食の時間。駅までの通りにはセルフのうどん店もあり、せっかく来たのだからうどんを・・・と思ったが、食欲が起こらない。体調が普通なら迷いなく入るのだが、そのまま通り過ぎる。どう見ても異常だ。

駅に到着する。ちょうど13時18分の高松行きが着くタイミングで、これに乗り込んで丸亀に戻ることにする。ようやく、冷房の効く空間にたどり着けた感じでシートにどっかりと腰を下ろす。扇子で仰ぐと眠気と生あくびが出てくる。意識はしっかりしているが、これは熱中症の症状の一つなのかなとぼんやり考える。

丸亀に到着。時刻は14時前で、さすがにまだホテルの部屋には入れないだろう。駅コンコースのベンチに腰かけて時間を過ごす。すると急に咳とともに吐き気を催した。トイレに駆け込もうとするが間に合わず、汚い話だが駅を出たところの道端で戻してしまった。ほとんどが水分(胃液?)で、水の摂りすぎ(食事は朝の列車の中での軽食のみ)によるものかなと思う。

コンビニで捕食用のゼリーなどだけ購入して、ともかくホテルに向かう。時刻は14時半で、チェックインは15時からというが大丈夫だろうか。ホテルに着くとクルマを駐車場に入れようとしていたり、チェックインをしている客の姿もあったので安心した。一部の部屋はまだメイキング中だったが私の部屋は入ることができ、和室にたどり着く。シャワーを浴び、ともかく休むことにする。アラームを2時間後にセットして昼寝。ちょっと悔しい気持ちもしながら眠るのであった・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第74番「甲山寺」

2018年08月19日 | 四国八十八ヶ所
猛暑の中の八十八所めぐり、曼荼羅寺、出釈迦寺からは平坦な道を歩く。周りには水田が広がる。風がないわけでもないのだが、日差しを遮るものがないので照り返しもきつい。八十八所めぐりの時には菅笠ではなく登山用の帽子をかぶっているのだが、もう汗でグシャグシャになっている。

この辺りは歩き遍路の標識が見られない代わりに「四国のみち」の道標が目立つ。「四国のみち」は歴史・文化指向の国道交通省ルート(約1300キロ)と自然指向の環境省ルート(約1600キロ)があり、四国八十八所めぐりの遍路道と重なるところもある。いや、遍路道の保存の一環ということで定められたものもある。

ちょうど工場の裏手が陰になっており、用水路の仕切りがちょうど腰かけるのによさそうな高さだったので少し座って休憩する。この日は休憩の頻度が増えている。札所ごとにペットボトルの水や麦茶を購入し、リュックの中も予備を絶やさないようにしているのだが、朝から何本飲んだかなというところである。

それでも気を取り直して、甲山寺に到着。歩きで来たら勝手口のようなところから敷地に入る印象だ。中門もポツンと建っている。代わりに新しい手水場や鐘楼、水の流れるミニ庭園もある。本堂や大師堂は昔からの建物のようだが、手前のところは最近整備された感じである。

先ほど出釈迦寺でお勤めをしていた団体だろう。訪ねた時にはちょうど読経の最中だった。先ほどと同じようにこの人たちのお勤めが終わるまで一休みとして、その後でお勤めをすることにする。今度は本堂と大師堂でまとめて一度で済ますことなく、それぞれでルーティンをこなす。

善通寺に近いこの場所は弘法大師が幼少期によく遊んだ地で、壮年になって寺を建立しようとこの辺りを探索すると、老翁が現れて「この地に寺を建てるべし」とお告げをした。弘法大師はこの老翁を毘沙門天の化身と悟り、この地の岩窟に毘沙門天を祀った。その後、弘法大師は満濃池の修築を成功し、その功績で与えられた銭の一部によって薬師如来を祀るお堂を建てた。それが甲山寺の始まりとされている。

大師堂の横にはその岩窟がある。奥行は12メートルといい、鉄の扉で仕切られた奥に毘沙門天が祀られている。五来重の『四国遍路の寺』では、善通寺の北方守護として毘沙門天を置いたのではとしている。七ヶ所まいりの七福神はもちろん毘沙門天で、これは寺の由緒から見ても当然だろう。

お参り後、ここでも境内のベンチでしばし休憩する。時刻は11時半、次の善通寺までは1.5キロで、そこを終えればもうこの日は打ち止めとする。実質午前中だけの行程となるが致し方ない。

善通寺方面に山門がある。これも2008年に再建されたもので駐車場もこちらにある。その前は砕石工場で、遍路道は甲山寺の前の小川を渡るよう道標が出ている。砕石工場の対岸はテーブルマーク(旧・加ト吉)の善通寺工場がある。その工場の横を抜けていく。

養護学校や四国こどもとおとなの医療センターの横を通り、細い道に入る。善通寺の門前の風情となり、やがて仁王門に出た。これから、八十八所めぐりの総本山といえる善通寺である・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第73番「出釈迦寺」

2018年08月18日 | 四国八十八ヶ所
曼陀羅寺の参詣を終えて、盲腸線のローカル線のように出釈迦寺に向かう。道路標識では800メートルとあったが、上り坂が続くもののそこまで長くないのかなと感じる。墓地が広がり、お盆の墓参りの姿も見かける。

出釈迦寺の石碑があり、弘法大師像が麓を見下ろすように立っている。最近整備された感じである。石の机や椅子が備え付けられた展望休憩スペースもある。

山門をくぐる。この門は仁王像を置かず小ぶりなもので、境内もコンパクトにまとまった感じだ。まず手前に見かけるのは七福神の恵比須天である。こちらは弘法大師や本尊釈迦如来とのつながりはわからない。その横にあるのが求聞持の修行を行う弘法大師像である。虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えることですばらしい記憶力が授かるというものである。

本堂と大師堂は隣接しており、その両方に広がるようにして団体さんがお勤めの最中である。先ほど弥谷寺で送迎バスに乗っていた人たちだろう。読経が終わるまでしばらく休憩する。それが終わって団体が離れたのを見て、本堂と大師堂の両方を見る位置にあるベンチに腰かけてお勤めとする。しかも、一度で両方お参りしたことにする。手抜きをしたわけではないが、こうした行動に出るとはやはりおかしい。10時半を回って気温が何度まで上がっているかわからないが、この時点で、この日1日で七ヶ所まいりをコンプリートするのは難しいと判断した。ただ出釈迦寺で中止しても中途半端なので、この後の74番甲山寺、そして75番善通寺まで歩き、善通寺駅から列車で丸亀駅に直行することにする。暑さは覚悟していたが仕方がない。

本堂横に石段があり、捨身ヶ嶽の遥拝所がある。現在は出釈迦寺の奥の院である捨身ヶ嶽だが、弘法大師の少年期の伝説のスポットである。

7歳の時にこの山に上り、「仏門に入って多くの人を救いたい。もし願いが叶うならお釈迦様、姿を現してください。もし願いが叶わないなら自分の身を仏に捧げる」と言って崖の上から飛び降りた。すると釈迦如来と天女が現れて大師の身を抱きかかえた。このことから山の名を我拝師山と呼び、釈迦如来が出てきたからその像を安置して出釈迦寺を開いた。

遥拝所から見やるとお堂の屋根のようなものが見え、あそこが奥の院だろう。現在も歩いて上がることができ、もしコンディションがよければ片道40~50分ほどで行けるそうだ。ただ現時点でこの体たらく、あそこまで上る気にはなれない。遥拝所で手だけ合わせて引き返す。

納経所で朱印をいただく。納経所には有名人の写真やサイン色紙が並べられている(撮影禁止の貼り札があったので画像なし)。捨身ヶ嶽があるから旅番組のロケか何かで来るのだろうか。

先ほど上ってきた道を下って曼陀羅寺まで戻る。次の甲山寺までは2キロあまりの距離がある・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第72番「曼陀羅寺」

2018年08月17日 | 四国八十八ヶ所
弥谷寺の参詣を終えて、次に向かうのは72番の曼荼羅寺。クルマであれば国道11号線に出て、まんじゅう屋がある鳥坂(とっさか)峠を越えるルートを行くが、ここは昔からの遍路道を歩いて行く。曼荼羅寺までは3.8キロという案内があり、歩き遍路の案内板に従って行くと山の中の道を歩くことになる。少し歩き始めると後ろから歩き遍路の男性が来たので、いったん道端に避けて先に行ってもらう。この日、いわゆるガチの歩き遍路を見かけたのはこの時だけだった。

これで急な上りが続くようだと嫌だなと思ったが、弥谷寺から下りた道の駅もそれなりの高さがあるためか、未舗装の山道もほとんど上ることはない。途中で道標や丁石を見るうちに、下りの区間が出てきた。杖を頼りに下りる間、周りの木々や竹藪がある程度直射日光を防いでくれるし、ここで少し元気を回復したような感じだ。

そんな道が1キロほど続いた後で三豊市から善通寺市に入り、細い車道に出た。先ほど通った道は讃岐遍路道の曼荼羅寺道として史跡にも指定されているという案内板がある。史跡に指定されている遍路道はいくつかあり、私自身もこれまでに歩いた区間もあるが、讃岐ではこの曼荼羅寺道と、高松市内に入った根香寺道が該当する。高松市内に入るのはまだ先のことだが、その根香寺道もおそらく歩くことになるだろう。

曼荼羅寺道を終えると高松自動車道の下をくぐり、前方にため池と、独特の形をした五岳山を見ることができる。遠くには平野部を望むことができ、善通寺や多度津の道隆寺まであと少しのようでまだまだ遠いような距離を感じる。

やがて国道11号線に入る。前回、高速バスの観音寺エクスプレスで通った区間で、ロードサイドでトラック運転手相手のような飲食店があるかと思えば、左手にはため池を利用したゴルフの打ちっぱなしがある。私はこうした池利用の打ちっぱなしで練習したことはないが、池に慣れるというのもいいかもしれない。コースに出て、前方に池やクリークがあるとなると、変に意識して不思議とそこにポチャッとやってしまうことが多いもので・・(単に下手なだけなのだが)。

国道11号線と県道48号線との分岐点がある。曼陀羅寺へは県道に入って行くのだが、その信号の横がちょっとした広場になっていて、「お遍路さん休憩所」の看板が出ている。外のベンチだけかと思うとスーパーハウスがあり、鍵が開いているので入ってみる。近くの建設会社のご厚意で設けられたとあり、そこにはテーブルと、奥には3畳ほどのスペースがある。何と言ってもエアコンがついているのがありがたく、電源を入れて身体に風を当てる。弥谷寺から急なアップダウンがあるわけではなかったが、暑さや疲れが重たく感じていたので、ありがたく使わせていただいた。脇には男女別の簡易トイレもあり、この時季でも泊まろうと思えば一夜を過ごすこともできそうだ。

ここまで来れば曼荼羅寺まで1キロほどとなる。集落を少し歩き、出釈迦寺との分岐に出る。札所の順番で行けば曼荼羅寺が72番、その南にある出釈迦寺が73番となるが出釈迦寺は行き止まりでまた元の道に戻ることになる。弥谷寺から善通寺方面の歩きルートを鉄道の本線に見立てると、出釈迦寺は曼陀羅寺から分岐するローカル盲腸線の終着駅のようなものだ。しかし実際は曲がり角が手前にあるからという理由で、先に終着駅の出釈迦寺に行ってから、目の前の分岐駅である曼荼羅寺に戻る人も多いそうだ。そのほうが合理的なのだが、この時の私は「出釈迦寺 800m」という道路標識(実際にはそこまでの距離はなかったのだが)を見たところで、先の鉄道の終着駅だ何だというのは関係なく、すぐそこの曼荼羅寺に先に行くことにした。ともかく先に休みたかったからだが、まあ、札所順だし、本線から盲腸線に乗り換えると思えば順当なルートだろう。

道沿いから境内へ入れる入口もあったが、もう少し先から回り込んで山門に着く。9時40分頃で、弥谷寺から50分ほどで着いた形になる。境内に入ると、お勤めの前に休憩所のベンチにどっかりと腰を下ろす。昨年はそうでもなかったが、一昨年の夏、四国めぐりを始めた第1回の時のことを思い出す。あの時も途中の札所でぐったりとしてそれ以上先に進むことができず、元来た道を引き返してしまった。ただともかくお勤めをということで、今度は本堂、大師堂の前にそれぞれ立ってお勤めをする。しんどいのだが、たかが7キロ歩いたくらいで何をしんどがっているのかと自分に腹を立てる。

曼荼羅寺は弘法大師の先祖である佐伯氏の氏寺として創建され、弘法大師が唐から帰国した後にこの地を訪ね、母の菩提を弔うべく大日如来を本尊として祀り、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置したことから曼荼羅寺の名前がついた。本堂の前には、「誓於捨身嶽 果願青龍門」と彫られた石柱がある。創建の年代からすれば四国でも最古に属する寺院と言え、唐の青龍寺をモデルにして造った伽藍は、昔は善通寺にも劣らない規模を誇ったと言われている。しかし長い歴史の中で兵火に遭ったとあるので、また例の土佐の戦国大名の手によるものかと思ったが、それよりも前の年代のことで該当はしないそうだ。それでも勢いは衰え、現在では五岳山の麓にあって善通寺市ののどかな景色に溶け込んだ風情の寺である。

山門をくぐった正面に本堂があり、その右隣には観音堂、左手には大師堂や護摩堂、奥には八幡宮の祠もある。

本堂右手の納経所の裏に、弘法大師お手植えとされる不老松がある。しかし害虫が原因で2002年に伐採されてしまった。それを惜しんで、不老松の幹を使って弘法大師像を彫った。その名も「笠松大師」。弘法大師は今でもそこに息づいているという思いが込められているようだ。曼荼羅寺の七ヶ所まいりの七福神は福禄寿が当てられているが、ここは不老松から福禄寿が連想されたのかもしれない。

納経帳に朱印をいただく。次は800メートル先の出釈迦寺だが、広く取られた休憩スペースに扇風機があったので身体を冷やす。吸汗冷感のはずのインナーなのに、インナーの中に熱がこもっているように感じる。今思えば替えのシャツもリュックに入れていたのでいっそのこと着替えればよかったのだが、その時は「まだ2ヶ所目だ」ということでまだまだ我慢しようという思いだった。そこで長めの休憩となったが、本線からローカル盲腸線にも乗り換え時間というのがある。ともかく行かなければ終わることはできない。ようやく体を起こして出釈迦寺に向けて歩き始める・・・。
コメント

第19回四国八十八所めぐり~第71番「弥谷寺」

2018年08月16日 | 四国八十八ヶ所
予讃線のみの駅から第71番の弥谷寺に向かう歩き。本堂まで残り八丁となる大師堂を過ぎ、徒歩用(クルマも通ろうと思えば通れる)の参道を歩く。両側には四国のお砂踏みということでいくつもの本尊の石像が並んでいる。

坂を上りきると道の駅「ふれあいパークみの」に着く。時刻は7時40分、駅から50分ほど歩いただけだが大汗をかいて暑く感じる。弥谷寺へは540段の階段を上る必要があり、その前に一休みとする。この先大丈夫だろうか。

道の駅から少し上がったところに寺への上り口がある。改めて気合いを入れて階段に挑む。

まず現れたのは工事用のフェンスでふさがれた木造の建物。かつて「俳句茶屋」で親しまれた建物である。弥谷寺を参拝した人たちが休憩するところで、休憩した人たちが俳句を詠むことで知られていた。有名人や外国人も俳句を詠み、その短冊が店先に飾られている画像を見て、俳句を詠む自信はないがどんなものか見てみたいと思っていた。しかし、このフェンスである。調べてみると今年になって閉店したそうで、店主が亡くなったこと、そして建物の老朽化によるものだとある。閉店は仕方ないとしても、たくさんあった俳句の短冊はどこに行ったのだろうか。こういう店なので、誰かが代替わりで営業再開するとか、そういう話はあるのかな。

山門をくぐって石段に挑む。540段とはいうが一気に上るわけでもなく、また途中には菩薩像と手水場があるちょっとしたスペースもある。ただここで休憩し、自動販売機があったので水を買って飲み干す。暑いのは暑いのだが、自分でも給水、休憩のペースが早いように思う。この日着ていたのは吸汗、速乾、冷感というキャッチコピーがついたインナーシャツなのだが、普段以上の大汗になっている気がする。

ここから赤い欄干の108段の階段となる。これまでが古くからの石段という感じだったが、コンクリート造りのしっかりした階段である。108という数字の解説があり、もちろん煩悩の数ということもあるが、「十二ヶ月+二十四節気+七十二候」の合計で1年を表すとか、四苦八苦(四×九+八×九)を落とすという意味もある。四苦八苦はこじつけだと思うが、108というのはさまざまなものの様子、要素を表す数字といっていいだろう。

これを上ったところにあるのが大師堂だが、本堂はさらに境内を抜けて合計160段ほど上る必要がある。

まずは本堂を目指すことになるので大師堂の前は素通りして、多宝塔や観音堂、十王堂、護摩堂などを過ぎる。前方には岩が迫っており、ところどころには穴が開けられていて仏らしい石像が見える。その中で大きなのが阿弥陀三尊磨崖仏。かつて弘法大師だけではなく、さまざまな修験者の修行の場だったのだろうか。

弥谷寺の開創は奈良時代、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立したことによるという。ただそれ以前からも霊山として信仰を集めていたとされている。

そしてようやくたどり着いた本堂。本堂の前からは三豊平野が見える。ガスがかかっているが、結構な高さを上って来たのがわかる。暑い中それだけ上ったのは上ったにしても、途中で何回か休憩するなどいつもとは違う感じがする。ちょうど本堂を向くようにベンチが置かれていて、そこにどっかりと腰を下ろす。普段なら本堂の正面から少し横にずれたところに立ってお勤めするのだが、この時はそのベンチに座ったまま経本を読む。それぐらいしても怒られることはないだろう。

再び石段を下り、大師堂に向かう。その前に最近建てられた感じの大黒天がある。この七ヶ所まいりは札所それぞれに七福神が割り当てられている。別に弘法大師と七福神が関係するわけでもないようで、要は七福神まいりもできますよということで七ヶ所まいりがPRされたのではないかと思う。弥谷寺になぜ大黒天かというのもあまり深い意味はないだろう。

この大師堂は珍しく靴を脱いで上がる。正面に祭壇があり、ここで二度目のお勤めである。さらに建物の奥に進むと、奥の院「獅子之岩屋」がある。

この岩屋こそ、弘法大師が少年時代に学問を励んだところとされている。寺ができた時から岩屋の奥に経蔵があり、弘法大師は岩屋の窓から差し込む明かりで経典を勉強したという。洞窟と祭壇が一体化しており、岩屋に続くようにして大師堂の建物がある感じである。祭壇の前の畳に座ると一瞬ひんやりした空気が流れてくる。何やら不思議な感覚がする。

納経所は大師堂の中にある。ここで通常の朱印をいただき、合わせて七福神の大黒天のカラー御影を求める。今回は七ヶ所まいり、七福神の御影を揃えることにする。七ヶ所まいりの専用台紙というのがあり、七福神(各札所の本尊でもよい)と中央に弘法大師の御影を揃えて飾ることができる。今回訪ね終えたところでこれらが揃う形になる。弘法大師の御影は善通寺でしかいただけないが、専用台紙はいずれでも求めることができるそうで、道隆寺に行ったら台紙を求めるとしよう。

石段を下りて寺の入口に戻る。ちょうど前方から白衣や笈摺姿の30人ほどの団体がやって来た。バスでの遍路ツアーの皆さんだろう。バスは道の駅に停めてここまで上がって来た感じで、今度は小型のバスに乗り継いで行った。この送迎バスに乗れば大師堂のところまで一気に行けるそうだ。

境内で休んだこともあり、1ヶ所を終えたばかりなのに時刻はすでに9時前。次の72番曼荼羅寺へは4キロほどだが、この間に公共交通機関の便はなく、歩くしかない。汗ですでにタオルもぐしゃぐしゃになっていて早くも次のものを出すが、この先大丈夫だろうか。いささか不安に感じながらも歩きのルートを進むことに・・・。
コメント (2)

第19回四国八十八所めぐり~予讃線復旧区間から弥谷寺参道へ

2018年08月15日 | 四国八十八ヶ所
8月12日、今回の八十八所めぐりの目的地である「讃岐七ヶ所まいり」に出る。第71番の弥谷寺(いやだにじ)から第77番の道隆寺までを回る参拝である。ルートで言えば三豊市から善通寺市を経て多度津町に至る。江戸時代に書かれた『四国八十八番寺社名勝』に「足よはき人は 此印七り七ヶ所めぐれば 四国巡拝にじゅんず」とあり、四国八十八所全てを回るのが難しい「足よはき人」も、この七ヶ所を回れば四国巡拝に準ずるとされている。

写し霊場やらお砂踏みやら、四国八十八所めぐりのコンパクト版は全国各地にいろいろあるが、この71~77番が讃岐七ヶ所として広まったのは、弘法大師にゆかりの深いところを回るからだという。75番の善通寺は弘法大師誕生の地、71番の弥谷寺は弘法大師が少年期に学問、修行を行った地である。また別格霊場の海岸寺は弘法大師産湯の地であるし、73番の出釈迦寺の奥には弘法大師が身を投げた捨身ヶ嶽もある。多度津がスタート・ゴールとなっているのは、多度津港が金刀比羅宮への海の玄関口だったこともある。金刀比羅宮に参拝し、その周辺にある弘法大師ゆかりの地を1日で回って四国八十八所を巡拝した(ことにする)大衆旅行のコースだったのだろう。現在も1日観光コースとして地元もPRしている。

ということでまずは第71番の弥谷寺に向かう。前回の観音寺シリーズで、当初時間に余裕があれば次へのつなぎとしてここだけは行っておく計画を持っていた。しかし、7月の西日本豪雨にともない本山~観音寺間の財田川橋梁の損壊により同区間が運休になったこと、また暑さのために予定を切り上げたことで、今回に回った。まあ、改めて七ヶ所を回るということではこれでよかったのかもしれない。

連日の猛暑ということもある。もう朝早い時間から始めるのがいいだろう。弥谷寺へのアクセスは、予讃線のみの駅から歩いて3キロあまり。納経所が7時から開くことを考えると、丸亀の始発列車である5時27分発の松山行きに乗れば、みの6時11分着。そこから歩くと7時すぎには寺に着くことができる。

ただ一方で、9日に運転を再開した本山~観音寺の様子も見てみたい。上記の列車にそのまま乗ると観音寺には6時21分に着き、6時26分発で折り返せばみのには6時41分に着く。上記より30分後になるが、このくらいなら大丈夫だ。また、観音寺に向かうのなら丸亀5時36分発の特急「いしづち101号」に乗れば、特急料金は別にかかるが観音寺には6時着で、駅での滞在時間ができる。そのほうがすっきりする。

ということで、日の出の時刻を少し過ぎた5時36分発の特急に乗る。車両はアンパンマン列車。この時間なので自由席もガラガラで、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチで車内での朝食とする。海岸寺から詫間にかけて海岸ギリギリに走る区間も四国めぐりの中で何回か通っているが、好きな車窓の一つである。

本山を通過すると列車は減速する。そろそろ橋梁が近い。運転再開したばかりということもあり、徐行運転するようだ。そして財田川を渡る。橋脚は補強工事が施されており、傾いていた架線柱も仮のものに替えられていた。橋梁を渡る時間はものの10秒ほどだったが、この10秒が戻ったことで岡山・高松と松山の間が復旧したことになった。JR四国はまだまだ予讃線や予土線で運休が続いており、特に卯之町から宇和島の間が相当時間がかかりそうだが、予讃線の主力の区間が復旧したのは明るいニュースである。

観音寺に到着。いったん改札口を出て、改めて駅舎を見る。1ヶ月前に来た時には駅前に何台も停まっていた代行バスの姿はもうない。ここで観音寺市発の6時26分発の高松行きに乗り込む。

今度は先ほどと反対側の席に座って財田川の流れを見る。本格的な補強工事はまだまだ続くのだろうが、ともかく夏の帰省、行楽時期に間に合ってよかったところである。

みのに到着。みの、みのと書くとあの某大物司会者を連想するが、地名の漢字は「三野」である。現在の三豊市が三野郡と豊田郡の頭文字から取ったというのは前回の記事で書いたところだが、ひらがな表記というのはなぜだろう。

古びた駅舎の前には「旧高瀬大坊駅」と書かれた木のプレートがある。近くに日蓮宗の本門寺という寺院があり、「高瀬の大坊さん」と呼ばれていたことに由来する駅名だったが、この辺りが合併で三野町となったのを機に、1994年に現在の駅名となったそうだ。ひらがな表記になったのは、当時徳島県にも三野町というのがあり混同を避けたためという。

時刻は6時45分、地図を見ると、みの駅から弥谷寺まではほぼ一本道のようだ。金剛杖を取り出し、帽子をかぶって歩き出す。青空が広がる中に雲も広がっており、ほんの小粒だが雨がぱらついている。持っていないが傘を差すほどのものではなく、まあ大丈夫だろう。まずは平坦な道を歩く。周りには地元の人を含めて他に歩いている人の姿は見かけない。

本山寺からの遍路道と合流する。昔ながらの石の道標も残っている。道沿いにはいくつかの小さなお堂もあり、弥谷寺と何か関係があるのだろうか。少しずつ上り坂となり、前方に山が立ちはだかるようになる。その中腹に建物があるが、あれが目印となる道の駅だろう。この道の駅には温泉もある宿泊施設があり、公共交通機関であるコミュニティバスの便もある。ただしバスは日曜祝日運休で使えず、そのためにみの駅から歩くということになった。まだ朝の7時半だが出る汗が多い。

道の駅の手前で急な上り坂になる。「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたベストを着こんだ自転車の人が必死にペダルを漕いで追い越して行く。上り坂の途中で「八丁目大師堂」というのに出会う。弥谷寺の本堂まで約1キロ、八丁の距離である。七ヶ所めぐりの最初にして最大の難関とされる弥谷寺、ここからが本番である・・・。
コメント