まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第36番「南院」~近畿三十六不動めぐり・36(不動めぐり、無事に満願)

2019年04月23日 | 近畿三十六不動

35番の明王院から36番の南院までは徒歩で10分とかからない。「波切不動尊別当 南院」の石柱が立つ山門に出る。

もっとも、本堂のある境内は直接道路に面していて、こちらにも石柱が立つ。開放的といえば開放的だ。高野山駅からの波切不動前のバス停が目の前にある。

南院の縁起として、東大寺の南院に住んでいた真興僧都が建立したとある。本尊は波切不動明王。弘法大師が唐から戻る際、強い風と波のために船が沈没の危機にさらされたが、弘法大師が祈念すると不動明王が現れ、風を鎮め波を切り開き、無事に九州にたどり着くことができた。このことから波切不動と呼ばれるようになった。波切不動を祀る寺院は全国各地にあるが、その大元と言ってもいいだろう。この本尊は平安時代中にあちこちを回り回った末に南院に落ち着いたものだそうで、御開帳は毎年6月28日のみとある。

本尊が拝観できなくとも、南院の見どころは外陣の天井にある。幅いっぱいに描かれた「鳴き龍」の絵。これを描いたのは堂本印象である。堂本印象、一度名を聞いたなと思うが、三十六不動めぐりで京都の智積院を訪ねた時、冬の特別公開で襖絵を見物したことがある。その襖絵とは対照的な豪快さだ。またこれは初めて知ったのだが、先ほど訪ねた壇上伽藍の根本大塔内部の柱に描かれた菩薩像や、四隅の真言八祖の画像も堂本印象によるものである。

鳴き龍の眼の下に立って柏手を打つ。天井と床で音がウワァァン・・と反響する。この音が龍の鳴き声のように聞こえることから「鳴き龍」の名がつけられた。「鳴き龍」は南院だけのものではなく、日光東照宮をはじめとしていくつかの例があるが、音が反響するのは「フラッターエコー現象」のためとか。その現象が発生する条件は・・・後で調べることとして。

柏手を打って龍の鳴き声を出した後でお勤めである。ともかくこれで近畿三十六不動、36の札所を回り終えた。

すぐ横に納経所がある。ちょうど係の人がバインダー用紙に一枚一枚手書きで筆を走らせているところで、ちょうど書きかけのものをそのまま最後まで書き、本日の日付までいれてくれた。

ちょうど満願の証明書の案内が貼り出されていた。もちろんどこの札所でも証明書は出してくれるのだろうが、やはり最後の36番ということで、ここ南院で満願となる人が多いのだろう。その旨を申し出ると、見本を示してサイズを訊かれた。大でA4サイズ、小でA5サイズとあり、大を選択する。申込書に住所氏名を書くが、「第○回」の欄がある。そういえば、「三十六不動めぐりは3回行う」ことを勧められたのを思い出す。第1回が過去、第2回が現在、第3回が未来だったか、また36ヶ所×3回=108=煩悩の数ということだったか。まあそれはまた考えるとして、まずは1回満願したことを喜ぶ。

係の人は申込書を受け取ると別にバインダーを改めることもなくいったん奥に下がり、しばらく待った後で封筒を手に戻ってきた。こうしていただいた満願の証明書。「ようお参りでした」と渡される。

近畿三十六不動めぐり、2017年9月に四天王寺から始めて1年8ヶ月ほどで満願となった。それぞれの寺のロケーションもさまざまで、街中の寺院あり、山深いところあり、訪ねるのに結構時間がかかったところもあり、個性と表情があったように思う。札所めぐりの中では、不動明王への護摩供に参列する機会もあり、中でも比叡山の千日回峰行を修めた阿闍梨のご加持をいただいたり、三田の鏑射寺では寺を再興して「今弘法」とも称される住職による星祭りの護摩供を見ることもできた。またそれぞれの札所への道中や、参詣後の一杯というのを楽しめたことは言うまでもない・・・。

さて、これで今回高野山に来た目的の前半が終了。これから金剛峯寺奥の院に向かう。途中で昼食をと思いながら歩くが、結構満席だったりする。途中の塔頭寺院での桜を楽しみながら歩き、そのまま道中を進み、結局一の橋の観光センターまでやって来た。

ここで、「熊野牛丼」というのをいただく。熊野牛というのを使っていて、テレビの旅番組でも紹介されたとある。吸い物とごま豆腐がついて1300円、価格は観光地価格かと思うが、ブランド牛ということで美味しくいただく(お参り後だったらビールの1本もつけたことだろう)。

腹ごしらえもできたところで奥の院の参道に入る。これから、四国八十八所めぐりの御礼参りである・・・。

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第35番「明王院」~近畿三十六不動めぐり・35(血染めの赤不動)

2019年04月22日 | 近畿三十六不動

高野山だから大阪より冷えるかと思い、一枚羽織るものも持っていたが、21日の高野山は穏やかな天候。バスを降りて大勢の人が行き交うのを見ても、そのまま歩けそうな感じである。

これから向かう明王院は壇上伽藍に隣接しているということで、千手院橋のバス停からまずは金剛峯寺を目指す。駐車場では21日の弘法大師縁日として露店も出ている。

4月21日は統一地方選挙の後半戦。ここ高野山町も投票日当日だった。金剛峯寺の周りにもこうした選挙ポスターがある。調べたところでは定数10名のところ、14名が立候補である。さて町の人はどう選ぶか、金剛峯寺や塔頭寺院の住職にも選挙権があるのかな、誰に投票するのかなというのも気になる。・・・いやその前に、私の住む市でも選挙でしょうに。帰りしなに投票するんですよ。

大阪ではすっかり散った桜が、ここではちょうど見頃である。吉野のように桜が名物とはなってないようだが、それだけに意外に感じた。ちょうど正門前の両脇に枝垂れ桜が咲いていて、記念撮影のスポットになっていた。

今回は本殿の中はいいかなと、建物の外から般若心経のお勤めとする。扉には新元号「令和」の墨書が掲げられている。5月3~5日には春の結縁灌頂が行われるのだが、今回は「令和最初」ということか。記念に参加する人も多いんだろうな。

この後は根本大塔、金堂に向かい、こちらではそれぞれ中に入ってお勤めとする。また六角経蔵もぐるりと一回し。

さて、明王院である。壇上伽藍から中門(表側)はくぐらず、根本大塔の後ろにもう一本ある道のほうに出る。こちらも道沿いに塔頭寺院が並ぶが、行き交う人やクルマはぐっと減る。その中に「赤不動」「明王院」の看板や標石がある。

少し坂を上ると山門がある。山門といっても仁王像が立つ仰々しいものではなく、屋敷の門である。両側には仁王でも狛犬でもなく、猫のような動物が彫られている。それでも口の形は「あ・うん」だ。

寺というより屋敷の庭に来たようで、本堂は建物沿いにずっと奥にある。コンクリート造りの建物だ。

明王院は金剛峯寺の塔頭寺院でも初期からあったそうで、弘法大師が五大明王像を祀ったのが始めという。ただ、その後は「赤不動」が本尊となった。この赤不動は、青蓮院門跡の青不動、三井寺の黄不動と並ぶ日本三不動の一つとされている。彫刻ではなく画幅だが、これを描いたのは弘法大師の甥で、後の天台座主の智証大師円珍とされる。円珍が修行中に感得した不動明王の姿を絵にしたものだが、あまりのありがたさに円珍は自分の頭を岩にぶつけ、流れ出た血を絵の具に混ぜて描いたのだという。激しい。

赤不動は一時後醍醐天皇が吉野に祀っていて、後に戦乱での焼失を恐れて高野山に戻したという歴史もあるそうだ。明王院の建物は焼失もあって再建されたり新築されたりしたものばかりだが、赤不動はずっと守られているとのことだ。ちなみに赤不動の御開帳は年に1回、4月28日のみとのこと。年に一度の御開帳は青不動、黄不動と比べれば断然高い頻度だが、それがちょうど1週間後だったとは。まあ、私の場合いろいろ札所めぐりをしていても、いわゆる「見仏」にはそれほどこだわりがないようだ。図録とか、ネット上の画像でも別に構わないかと。この赤不動も、本堂の外陣に模写(額に入れたものを販売する、もとい授与するためのサンプル)があり、こんなものかと拝んだつもりになっている。

現在、高野山の明王院は近畿三十六不動めぐりの札所めぐりの一つとしてだけではなく、宿坊として知られているようだ。ネット検索でも赤不動よりもむしろ宿坊の記事のほうが多く、口コミ評判もよさそうだ。お値段は多少張るように感じたるが、壇上伽藍にも近いし結構オススメかと思う(高野山の宿坊といえば・・私もかなり前に一度だけ泊まったことがあるのだが、それだどこだったかとんと思い出せない)。

バインダー式の朱印をいただく。これまでは、紙の保護のためもあってバインダーの外側だけ持参し、いただいた朱印の紙は自宅でクリアファイルに入れて保管していたが、今回満願を迎えるに当たり、これまでの全部を札所番号順に綴じて持ってきた。

いよいよ、この朱印も残り一つである・・・。

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第35番「明王院」~近畿三十六不動めぐり・35(観光列車「天空」とケーブルカー新型車両)

2019年04月21日 | 近畿三十六不動

平成も残すところ10日となった。新元号となる前に近畿三十六不動めぐりの満願ということにしよう。

そこで残っているのは高野山にある2ヶ所。そして、高野山に行くということで四国八十八所めぐりの御礼参りも合わせて行うことにする。平成の最後に、二つの札所めぐりを完結させよう。日程の都合上、4月21日に出かけることにした。21日といえば弘法大師の縁日である。行く日を決めた時には特段意識しなかったのだが、これも札所めぐりのご縁だろう。まずは不動めぐりの35番の明王院、36番の南院に参詣し、最後に奥の院への御礼参りとする。

高野山には南海電車で行くわけだが、ここは観光列車「天空」に乗ることにしよう。2009年から運行されている「天空」だが、実はこれまで乗ったことがなかった。高野山に行く時は特急「こうや」や各停に乗っていたからだろう。「天空」は途中の橋本が始発である。

橋本10時40分発の「天空1号」に乗ることにした。観光車両は全席指定で事前予約制である。ただし、南海電車のホームページや駅の窓口では予約を受け付けておらず、専用のフリーダイヤルに電話する方式。数日前に電話したところ空席ありとのことで、係員から予約番号をもらう。購入は橋本駅のホームの専用窓口で、発車40分前から10分前の時間帯で予約番号を告げることとの指示がある。結構アナログなやり方だ。

寺参りにしてはゆっくりと自宅を出て、藤井寺から河内長野経由で橋本に到着する。河内長野から乗ったのは極楽橋行きで、高野山に行くならそのまま乗ればよいのだがわざわざ下車する。「天空」、結構敷居が高いな。

ホームには極楽橋行きを見送り、「天空」を待つ人があふれている。高野山に向かうツアー客もいるようだ。ホームの窓口で予約番号を告げて、指定券を受け取る。

側線にいた車両がいったん極楽橋方面に向かい、入線してきた。まずは着席前に編成を見渡す。

中央部の座席は進行方向右側を向いて設けられている。前列と後列があり、後列のほうは少し高い位置にある。こちら側が極楽橋まで眺望が利くためにこのような造りになっている。また車両の端にはボックス席もあるし、2両目には窓をくり抜いた展望デッキもある。風を感じることができるところで、この先極楽橋までずっとここで過ごす様子の人もいる。

私が割り当てられたのは中央部の前列シート(水色)。2両の指定席はいずれも前列が埋まり、後列に若干の空席がある程度で出発する。ちなみに、当日でも空席があれば橋本駅ホームの窓口で指定券を売るそうである。なお、観光車両の後ろに一般車両が2両あり、こちらは自由席扱い、乗車券のみで乗れる。

まずは紀ノ川を渡り、車窓が左から右に流れていく。標高92メートルの橋本から、学文路ではいったん79メートルまで下がるが、目指すのは535メートルの極楽橋である。学文路、九度山に停車して、いよいよ「登山鉄道」の様相を帯びてくる。

丹生川の竜王渓を眼下に見て、丹生川橋梁を渡る。ここから極楽橋まで23のトンネルをくぐるという案内がある。

高野下を通過するとオーム型のカーブを回り、最大で50パーミルの勾配に挑む。1000メートル進んで50メートル上がるというもので、線路と車輪がこすれるギシギシ言う音が響く。

下古沢、上古沢と通過する。ここまで来ると集落もかなり下のほうにある。駅に来るだけでも大変である。

上古沢からは細かなカーブや短いトンネルが連続する。この辺りから車窓は山ばかりとなり、人家もほとんど見えなくなった。50パーミルの勾配も続いており、窓側のテーブルに載せたペットボトルが転倒する。

秘境駅といってもいい紀伊細川、紀伊神谷を過ぎる。

橋本を出て36分、終点の極楽橋に到着した。何だかあっけないようにも感じた。

ここからはケーブルカーに乗り継ぎである。このケーブルカー、今年3月に55年ぶりに新型車両が導入されたばかりである。これが4代目の車両で、車体の赤は金剛峯寺壇上伽藍の根本大塔をイメージしており、車内も木目調の装飾が施されている。先ほど「天空」から乗り継いだ客などで満員で、着席はあきらめて先頭部に立つ。前面展望を見ようというわけだ。

ケーブルカー乗り場は標高539メートル、そして0.8キロ進む中で867メートルの高野山駅まで上る。とするとパーミルは・・・ちょっと置いておくとして、ともかく急ということだ。

前回、新西国三十三所の札所めぐりで高野山の宝亀院を訪ねた時、極楽橋駅から不動坂を1時間近くかけて歩いた。その時は女人堂に出たのだが、ひたすら上り坂が続いて結構厳しかったのを思い出す。やはりケーブルカーのあるところは素直に乗った方がよい。

およそ5分で高野山に到着。ここからバスに乗る。バスルートでは先に36番の南院(波切不動)の前を通るのだが、やはりそこは最後にしようと、まずは千手院橋まで乗る。これから訪ねる35番の明王院は壇上伽藍のすぐ近くにあるようだ・・・。

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第27番「葛川明王院」~近畿三十六不動めぐり・34(琵琶湖大回り乗車)

2019年04月15日 | 近畿三十六不動

堅田から大津京への運賃は240円。普通列車でも12~13分で着く距離である。そこをあえて逆方向に乗り、琵琶湖を一周する形で向かうというのである。

大阪近郊区間内のみを利用する場合は、実際の乗車経路に関わらず、最も安くなる経路で計算できるという特例がある。ただし条件として、経路が途中で重複しないこと(一周回って元の駅に着くのもダメ)、途中下車できないこと、当日のみ有効というのがある。これを逆手に取ったのが「大回り乗車」である。今回
で言えば近江塩津が北限で、そのまま北陸線で米原、JR琵琶湖線で山科まで出て、もう一度湖西線で大津京まで利用しても同じ値段だ。

ついでに記事も「大回り」で書くと、この3月に開業したおおさか東線ができたことで、大阪近郊区間の大回り乗車の最長経路がどうなったかについても触れてみる。発着駅はJR宝塚線塚口~東西線加島間で、塚口発で経路を書き出すと・・・、

塚口~(宝塚線・福知山線)~谷川~(加古川線)~加古川~(神戸線)~大阪~(大阪環状線)~天王寺~(阪和線)~和歌山~(和歌山線)~高田~(万葉まほろば線)~奈良~(大和路線)~久宝寺~(おおさか東線)~放出~(学研都市線)~木津~(大和路線・関西線)~柘植~(草津線)~草津~(琵琶湖線・北陸線)~近江塩津~(湖西線・京都線)~新大阪~(おおさか東線)~鴫野~(学研都市線・東西線)~加島

このルートを時刻表をたどってシミュレーションしてみた。しかし、塚口を始発で出ても近江塩津まで行ったところで湖西線に乗り換え出来ずにゲームオーバー。一方加島から回ると加古川線内でゲームオーバーになった。つまり、最長ルートはたどれないのである。

ならば、理論上の最長ルートより短くなったとして、実際に乗れる最長ルートはどれになるか。路線の配置上、尼崎がカギになるのは間違いないので、各線の隣の駅(塚口、立花、塚本、加島)をどう組み合わせるかだろう。組み合わせによってはルート自体も変わるだろうが。

で、某月某日にまつなるがその最長ルートを忠実にたどる企画を行って雑文に4回くらいの記事を書く・・・のはこらえてつかぁさい。

まあ、このような大回りは現実的ではないので、部分部分で大回りをすればよいと思う。で、今回は堅田から大津京だ。

堅田の駅前で昼食を済ませて、11時35分発の近江今津行きに乗る。その後は30分後の新快速敦賀行きに乗ることになるが、まずは乗客の少ない鈍行で先行。

この時間帯に湖西線に乗るのはこれまでにあったかな。たいていは早朝に敦賀方面へ、日が暮れてから山科・京都・大阪方面へというものだ。対岸の景色もはっきり見えるのだなと感心する。湖岸にも桜が咲いているのもいいアクセントだ。一方で湖西道路の工事も進められているようで、新たに湖西線の線路と琵琶湖畔の間に土台や橋脚が見られる。開通すれば地元の利便性につながるのだろうが、湖西線の琵琶湖の景色が変わることにもなるのかなと思う。

近江今津に到着。改札の外には出られないので、ホーム上の待合室で待機する。次の新快速敦賀行きの乗車口が1~4なのは、12両の列車を4両と8両に切り離し、前の4両だけが敦賀に向かうというもの。その4両にはそれを知った客たちで結構賑わっている。

2駅目のマキノでの下車が多い。おそらく桜目当てだろう。琵琶湖の北端に当たる海津大崎は桜の名所で知られていて、大阪からも多数のバスツアーやウォーキングツアーが出ている。駅から歩く人もいるだろうし、桜の時季にはマキノ駅から臨時のバスも出るそうだ。

海津大崎には行けなくとも、マキノから次の永原にかけて桜を見ることはできる。

近江塩津に到着。ホームの向かい側に停車中の新快速米原経由の姫路行きに乗り換える。同じ動きの客もちらほらいる、大回り?

この先、余呉湖畔にぐるりと桜を見たり、伊吹山のくっきりした姿を車窓でとらえた。しかしその後は、起きていたような寝ていたような。米原からはまた8両つないで12両になったようだが、ホームに出て写真を撮るほどでもないかなと。

14時38分に山科に着き、14時47分発の近江舞子行きに乗り継ぐ。やって来た8両編成の前4両は、甲賀の「忍トレイン」車両。基本は草津線の運用だろうが、普段から時間によっては湖西線にも来るのかな。まあ、この後観戦する滋賀ユナイテッドBCのチームカラーは甲賀忍者をイメージした「黒」で、ユニフォームにも忍者が描かれてるし、ファンクラブの名称も「BLACKS」。まあ、ええやないですか。

・・・ということで、これも札所めぐりと野球観戦の組み合わせと、大津京駅から皇子山球場に向かうのであった・・・。

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第27番「葛川明王院」~近畿三十六不動めぐり・34(比良の山奥へ)

2019年04月14日 | 近畿三十六不動

先の記事で、4月12日にBCリーグの滋賀対巨人3軍交流戦の観戦の様子を書いた。この中で、当日あるお出かけと組み合わせて・・・と触れたのだが、そのお出かけとは近畿三十六不動めぐりである。

近畿三十六不動めぐりの満願まで残り3ヶ所。このうち高野山にある35番の明王院と36番の南院は最後に回ることにしていて、その前に残るのは27番の葛川明王院である。こちらは天台宗の修験道の道場でもあり、三十六不動めぐりで最も北にある。アクセスとしてはJR湖西線の堅田駅からバスが出ている。

で、大津まで野球観戦に向かうなら、そのついでで葛川明王院にも行くことにした。札所めぐりと野球観戦のコラボ、ええやないですか。

ただ難点が一つ。堅田駅からバスが出ていると書いたが、その本数が極端に少ないのである。江若バスの堅田葛川線という路線なのだが、明王院の最寄である坊村まで行くのが、平日ダイヤだと堅田駅発が8時50分、17時45分のわずか2本だけである。寺の拝観時間を考えると8時50分しか選択肢はない。坊村に着くのが9時36分で、折り返しとなると10時20分発が最終である(土日祝日ダイヤだと堅田駅発は8時50分、13時56分発で、折り返しは10時19分、15時46分発。また3月~11月は京阪の出町柳から京都バスの路線も運行されるが、それでも1日1往復のみ)。バスが少ないなら堅田駅から歩こうか・・・と気軽にも言えないくらいの距離がある。土日に来れば13時56分のバスに乗るのが手頃だが、今回は平日のため8時50分に乗るしかない。アクセスの難しさで言えば三十六不動では1番だろう。

・・・ということで、振替休日ではあるが普段出社するのと変わらない時間に自宅を出て、満員の新快速に揺られて堅田に着く。空は青く、駅横に植えられている桜も満開である。

唯一の便と言ってもいい8時50分発の細川行きに乗る。車内はハイキング客と、リュックサック姿の子どもたちで席がほぼ埋まる。子どもたちは南庄道というバス停で一斉に下車した。地図を見ると近くに支援学校があり、そこに通うのだろう。帰りはどうするのかなと思うが、この辺りまでの区間運転の便は他にも何本か出ている。

向かうのは比良山に続く道である。道沿いには桜並木もあり、ちょうど見頃の桜をバスの窓越しに愛でる。

花折峠に差し掛かる。比叡山系と比良山系の分水嶺であり、この先をずっと進むと朽木を経て若狭に向かう。若狭から京への「鯖街道」でもある。現在は長いトンネルをくぐって抜ける。その先の停留所でハイキング客が下車する。比良山の登山ルートの一つがこちらにあるようだ。

その後、坂下という集落を抜け、坊村に到着する。安曇川に沿って集落が細長く続く一帯である。バス停前のプレハブの建物にはなぜか漫画やアニメのキャラクターが描かれている。

明王院はバス停から近い。「山の辺料理」と看板が出る比良山荘という建物がある。街の喧騒を離れて静かな一時を過ごすにはよさそうなところだ。

この奥に明王院の境内がある。このところ回っていた門跡寺院とは異なり、山の中のお堂の雰囲気がよく漂う。

明王院は平安初期、相応和尚が修行の道場として開いたのが由来である。相応和尚といえば比叡山の無動寺にも登場したが、現在の比叡山の千日回峰行の元を作った人。相応和尚はこの奥にある比良山中の三の滝で7日間飲食を断つ厳しい修行を行い、満願の日に不動明王を感得した。相応はその時に滝壷に飛び込み、滝の霊木から千手観音像を刻んで安置したのが明王院の始まりとされている。比叡山の奥の院という位置づけでもある。

現在では7月16日~20日の5日間に夏安居(げあんご)という行事が行われ、回峰行の行者も参加する。当然ながら比叡山からここまで徒歩で来るそうな。18日には「太鼓回し」という行事があり、相応が滝壺に飛び込んだことに因んで、行者たちが大太鼓に飛び乗ったり飛び降りたりすることが行われる。

本堂に上がる。1715年の建立とあり、外陣に上がることができる。卒塔婆形の札が壁に掲げられている。これは参籠札と呼ばれ、先の夏安居の参籠を行った者が奉納するものである。

また、毎月18日には無動寺の光永圓道阿闍梨による護摩供が行われるとある。

他に誰もいない中、正面に座ってのお勤めとする。本尊は不動明王、千手観音、毘沙門天の三尊で、それぞれのご真言も唱える。

納経所に向かう。大阪から来たと言うと、「今日は西宮から来たという方がいましたなあ」と言われる。おそらくクルマで来られたのだろう。

明王院の手前にある地主神社に立ち寄る。葛川地区の総鎮守であり、社殿は室町時代のものだという。

この奥には比良山への登山道が続く。登山届を出すよう促す看板が立てられている。昨年も山の事故があり、死者も出ているようだ。

そろそろバスの時間が近づく。坊村にはわずか40分あまりの滞在だったが、白洲正子が「かくれ里」の一つとして紹介したように、ゆっくりとした時間を過ごすにはよいところに思えた。今はちょうど桜が咲いていたが、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪と四季の景色が楽しめるのでは。土日祝日ダイヤで、朝のバスでやってきて夕方のバスで帰る・・・というのがぜいたくな時間の過ごし方のように思う。

平日は「最終便」となる10時20分発のバスに乗る。乗った時は私一人だったが、途中の集落の停留所からお婆さんが一人ずつ、合計3人乗ってきた。それぞれ顔見知りのようで病院に行くようだが、帰りの堅田からのバスは17時45分発、いくら病院といっても時間が長すぎやしないか。タクシーか何かを使うのだろうが、都度結構な出費となりそうだ。

花折峠を過ぎて周りが開けてくるとバスの乗客も増えて、11時過ぎに堅田駅に到着。

さて、これでも夕方の野球観戦までは時間がある。堅田から大津京へは湖西線で4駅、ここでふと逆転の発想で、湖西線を北上して近江塩津からぐるりと回り込む、つまり「大回り乗車」はどうかと思う。途中下車はできないが、ダイヤを検索すると15時頃に大津京駅に着くことができる。午後の時間を列車の中で過ごすのもよいかなと思う・・・。

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第19番「青蓮院」~近畿三十六不動めぐり・33(将軍塚青龍殿)

2019年04月06日 | 近畿三十六不動

青蓮院の本堂にお参りしたが、肝心の青不動はこちらには祀られておらず、将軍塚青龍殿に行くよう案内される。将軍塚は青蓮院の飛び地として東山の山頂にあるが、2014年に青龍殿という大護摩堂が建てられ、合わせて大舞台が建造された。青不動はここで厳重に保管されているが、その模写像を拝むことができる。

青龍殿のある東山山頂にはクルマの他、路線バスも出ている。また、東山トレイルのコースにもなっていて、青蓮院からだと徒歩30分とある。時刻は昼を回っていて食事もまだだが、これは歩いて上がったほうがありがたみが増すのではないかということでそのまま向かうことにする。歩くとは四国めぐりの影響かな。

青蓮院に接する粟田口から歩く。途中「元三大師」の石標があり、東山トレイルの矢印も出ている。ちょうど前方からトレッキング姿の人が次々に坂道を降りてくる。首からナンバープレートを下げる人が多いのは、何かイベントでもやっているのだろうか。

尊勝院というお堂に出る。青蓮院の支院で、元三大師良源を本尊とする。境内も小ぶりでこの時は特段気に止めなかったが、実はお堂は豊臣秀吉が再建し、大正時代にこの地に移されたものだという。こうした歴史ある寺がひっそりあるのも京都の奥深さだと思う。

この先は本格的な山道になる。近年整備されたものだと思うが、つづら折れの上り坂が続く。そんな中を次々にトレッキングの人たちとすれ違う。私だけが逆打ちをやっているかのようである。

東山トレイルの標識もある。

山道を上ること20分あまりで、将軍塚青龍殿に広がる大舞台の下に出る。敷地の外を回るように歩き、車道に出る。クルマや路線バスで来ればここに着くところで、青蓮院の奥殿としての門をくぐる。

青蓮院とは別に将軍塚青龍殿でも拝観料が発生する。その先、青龍殿に向かう。これが建てられたのが5年前のことである。

大護摩堂として建てられたため、中は広々とした空間である。板の間があり、四辺には段差があって上段が畳敷きである。護摩供の時はこれらがびっしり埋まるのだろう。

その奥に青不動の模写像が祀られている。ともかくここでお勤めとする。青といっても暗い色で、「青黒」という呼び方をするが、この色には調伏の意味がある。お勤めで唱える聖不動経にも「大悲の徳の故に青黒の形を現じ」とある。

この後、青龍殿の背後に広がる大舞台に出る。訪ねた3月31日は寒の戻りで冷えた日である。山歩きの最中はともかく、山頂での吹きさらしは結構堪えた。なお、この大舞台だが、広さは清水寺の大舞台の約4.6倍を有するという。

東山山頂は以前から夜景を楽しむスポットとしてデートコースにもなっていた。そこに新たに大舞台を建て、周りの木々も整理した。その結果がこの景色である。

先ほど参拝した平安神宮の朱色の鳥居も目立つが、三方を山に囲まれた中で成長した京都の街並み全体にうなるばかりだ。こうした角度から京都の街並みを見るのが初めてのことで、気分は石川五右衛門。

大舞台とは別に西展望台がある。こちらからは西から南にかけての眺望が楽しめる。

将軍塚。ここは平安遷都の時からの歴史を持つという。桓武天皇がこの場所から盆地を見下ろして、ここが新たな都にふさわしいとして平安遷都が決まったとされている。その都の鎮護のために将軍の像を造り、武具で固めたうえで塚に埋めた。それが将軍塚の由来だという。その後、国家の大事が動く危機があると塚が鳴動するという伝説(デマ?)もあったそうだが、今は静かなものである。

バスの時間が中途半端だったので、帰りも歩くことにする。再び山道を下り、元の粟田口まで戻った。

そのまま三条駅まで歩き、京阪特急のプレミアムカーに乗る。山を上り下りした慰労?ということで「飲み鉄」・・。

近畿三十六不動めぐりも残すのは葛川明王院と、高野山の明王院、そして南院の3ヶ所となった。最後に北の端と南の端が残ったわけだが、これから暖かくなるしちょうどよいかなと・・・。

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第19番「青蓮院」~近畿三十六不動めぐり・33(青不動はいずこに・・)

2019年04月02日 | 近畿三十六不動
平安神宮に参詣する。応天門をくぐり広大な境内に出る。
 
「平安」の名から昔からの神社と思うところだが、平安神宮が建てられたのは1895年のこと。平安遷都1100年の記念事業として京都で開かれた内国勧業博覧会の目玉として、かつての大内裏を復元したものである。祭神は平安京を開いた桓武天皇で、後には京都最後の天皇だった孝明天皇も加えられた。
 
大極殿を復元したとされる外拝殿の前には、右近の橘、左近の桜が植えられている。左近の桜は見頃にはまだ早そうだ。
 
平安神宮は神社ではあるがかつての平安の栄華を疑似体験できるスポットと言える。もっとも、平安京が華やかだった時期というのはわずかなもので、歴史を振り返ると戦乱に巻き込まれていたり、権力闘争の舞台だったりと、ドロドロしたものを感じる。それでも京都は1200年以上の歴史を持つ街として、国内外から多くの観光客を引き付け、神社仏閣にも大勢の人が参詣する。何とも不思議な、底の深い街である。
 
さて、この日のメインはあくまで近畿三十六不動めぐりということで、平安神宮の大鳥居をくぐって南下する。リニューアル工事中の京都市美術館の前を過ぎる。平成31年度(令和元年度?)中のリニューアルオープンに向けての大がかりなもので、外のフェンスには美術館のあゆみが紹介されていた。実は一度も訪ねたことがなく、リニューアルオープンしたら一度は行ってみようかと思う。
 
そのまま直進して三条通を渡り、知恩院の手前が青蓮院である。こちらもいわゆる門跡寺院である。
 
青蓮院は元々比叡山の小さな房が発祥で、平安後期に藤原氏の出である行玄僧正の時に門跡寺院として都に下りてきた。現在の地に移ったのは鎌倉時代で、歴代の門主には「愚管抄」を著した慈円や、室町6代将軍・足利義教の名前も並ぶ。義円という名前で天台座主も務めたこともあるが、次の将軍を決めるくじ引きで当たったことで還俗して将軍になったという人である。くじ引きで将軍というと安っぽく聞こえるが、くじ引きとはそもそも宴会の幹事を決めたり、札所めぐりで次に行く寺を決めたりという安直なものではなく、それこそ神意を問う儀式だったとされる。明治だったかな、元号をくじ引きで決めた例もある。
 
さて拝観ということで入る。門跡寺院の常として、寺にお参りというよりは屋敷に上がる、上げさせていただく感覚である。
 
寺の中で最も大きいのが宸殿。御簾で囲まれ、玉座も再現されている。
 
庭園も残されている。なお、青蓮院には「粟田御所」の呼び名もある。江戸中期に都で大火があり、御所も炎上した。当時の後桜町上皇が避難して仮の御所としたのが青蓮院だったそうだ。
 
宸殿や小御所の奥に本殿がある。不動明王像が祀られているが・・これは近畿三十六不動めぐりの対象ではないという。
 
青蓮院の不動明王とは、「青不動」を指す。青、赤、黄、白、黒の五色の不動明王があり、青不動(青蓮院)、赤不動(高野山明王院)、黄(三井寺)、白(目白不動)、黒(目黒不動)と分かれる。特に青、赤、黄は「三不動」として高いステータスを持つ。
 
で、三不動の一つの青不動だが、ここにはいない。・・正しくは、この境内には祀られていない。それは張り紙もあるし、玄関受付の人も注意していた。
 
青不動、実は青蓮院の飛び地にある「将軍塚青龍殿」に安置されていて、その青龍殿では複製画が御前立ちとして祀られている。青龍殿へは三条駅からの循環バスに乗るか、京都トレイルを歩いて上るかで行くことになる。
 
一応青蓮院の近畿三十六不動めぐりの朱印は受付でいただいたが、対象の不動明王が山の上におわすのなら行かなければならないだろう。
 
ちなみに青蓮院の本尊は不動明王ではなく、「熾盛光(しじょうこう)如来曼荼羅」という。初めて触れる名前だが、御前立ちとして、新潟糸魚川産とされる翡翠の原石を宝珠として祀っているとある。
 
何だか複雑な歴史があるようだが、ともかくそうした旅もしてみたいものである・・・。
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第18番「聖護院」~近畿三十六不動めぐり・32(聖護院◯◯とかありますな)

2019年03月31日 | 近畿三十六不動
平成30年3月31日、年度でいえば最終日。翌日の4月1日には新たな元号が発表される。時代の移り変わりをひしひしと感じる時である。
 
この数年、関西を中心として札所めぐりであちこち出歩いているが、「平成」の終わりまでで一つの区切りをつけようと思う。西国三十三所めぐりは2巡目を終えたところで充電期間だし、残るのは近畿三十六不動めぐりと、四国八十八所めぐり。不動めぐりの結願と、四国めぐりのお礼参りを兼ねて4月中に高野山には行く予定である。
 
不動めぐりでその前に残る札所は3ヶ所。31日に、くじ引きとサイコロで決めた順番に従い、京都市街にある18番の聖護院と、19番の青蓮院を回ることにする。
 
先に聖護院を訪ねようと、京阪電車の快速特急「洛楽」と準急を乗り継いで、神宮丸太町で下車する。丸太町通を東にてくてくと歩く。少し北には京都大学がある一帯で、通り沿いには熊野寮というのもある。京大の寮って立ち退きだ何だとか言われてなかったかなと思うが、4月の新入学を控えて侵入の寮生募集の看板も出ている。中の運営がどうなのかは知らないが。
 
熊野神社の前を通る。通りにも桜の枝が伸びてきているが、結構咲いている。4月を前にして春の景色である。
 
これから目指す聖護院だが、京都の銘菓「八ッ橋」の老舗である聖護院八ッ橋の建物がある。またそれと張り合うように西尾八ッ橋という店もある。まあ、地元の銘菓とされるものには複数の老舗が並ぶものだが、八ッ橋、聖護院というと、確か訴訟が起こされていなかったか。要は、「誰が、いつ、八ッ橋を初めに売り出したか」という争いである。井筒八ッ橋が聖護院八ッ橋を訴えている(逆だったかな?)そうだが、八ッ橋に限らず甘い菓子を避ける私にとっては別にどっちがどうでもいいことである。京都の人もヒマどすなあ・・・てなもんである。
 
さて聖護院に到着。八ッ橋は別に聖護院が作っているわけではなく、聖護院を中心とした一帯の地名から取られた名前である。門をくぐったところの枝垂れ桜が開花しており、訪ねる人たちが次々に撮影していた。
 
正面に参拝入口があり、靴を脱いで上がる。一般の参拝順路ということだがそのまま奥に通り、階段で2階に上がるように案内板が出ている。え、2階? しかも近代的な建物で、普通に階段を上がる。
 
現れたのは仏間ということだが、畳何畳敷きの広間の奥に仏像が祀られている。近畿三十六不動の札所で不動明王像もあるし、役行者像、阿弥陀如来像も祀られている。あら、これで近畿三十六不動の札所でございと言うつもりかな。こういうのって、歴史あるお堂にあるものではないのかな。
 
改めて聖護院の歴史について触れてみる。聖護院を開いたのは平安中期の増誉という僧とされている。智証大師円珍の弟子で、大峯山にて修行したことがあるが、白河上皇の熊野詣の先達を務めた功績により寺を開くことを許されたという。聖護院は後に修験僧を集めるようになり、現在では本山修験宗という天台宗系の総本山でもある。
 
先ほど参詣した本坊とは別に境内への入口がある。修復されて間もない宸殿と不動堂が並ぶ。ロープで仕切られていて入れるのはごくわずかな範囲だけで、遠くから見るだけである。公開されるのは春と秋の限られた時季だが、2月3日には節分行事もあり、前日から見物することができる。2月3日か・・・今年は西国三十三所2巡目の最後として姫路の圓教寺に参詣していた。当日節分の豆まきが行われるからというのもあったが、実は聖護院でも同じような行事があったという。うーん、先に聖護院に来てもよかったかもしれない。
 
外から見ればこういう建物だったのだなと納得して聖護院を後にするが、これは他の門跡寺院と同じく、寺に参詣したという実感がわきにくい。まあ、聖護院の場合はここにお参りするというよりは、ここを起点として各地の修行に旅立つためのスポットと言えるのかもしれないが。
 
さて、この後は第19番の青蓮院を目指して歩く。その前に立ち寄りスポットしては平安神宮がある。神宮に続く疎水沿いの桜も少しずつ開花する中を歩く。
 
神宮の手前には2017年にオープンした土産物店、レストランが集まる「京都・時代祭館 十二十二(トニトニ)」がある。いわゆるインバウンド客向けの建物だが、日本人も普通に入ることができる(こういう書き方、ひねくれてないかな?)。何か土産ということだが、聖護院といえば・・・ということで、ラベルに「聖護院かぶらを使用」と書かれていた老舗・大安の千枚漬を購入する。聖護院かぶらとは、聖護院の周りで栽培されていたかぶらで、千枚漬を仕込む風景は京の冬の風物詩としても有名である。
 
しかしながら、聖護院の周りは京都の市街地である。現在はそのブランドは残しつつも、かぶらそのものは亀岡などの丹波地区で栽培されているのだとか。近年では京野菜のブランド化も進められていると聞くが、実態としては「京都」の範囲を拡大しなければならないのかなと、大人の事情を探ってしまう。まあ、丹波でもオリジナル、あるいはそれ以上の質のかぶらが育ち、都に供給されているのであれば悪いことではないが。
 
せっかく来たので平安神宮にも手を合わせることにする・・・。
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第20番「智積院」~近畿三十六不動めぐり・31(京の冬の旅特別公開)

2019年03月03日 | 近畿三十六不動
三十三間堂を後にして、七条通の突き当りに出る。ここが智積院の総門で、前には「総本山智積院」の石柱が立つ。智積院は真言宗の智山派の総本山である。

智積院の歴史は京都の寺院としては比較的新しい。新義真言宗を起こした興教大師覚鑁の系統で、根来寺の塔頭寺院だった。根来寺は豊臣秀吉の根来攻めで全滅の被害を受けたが、智積院の住職だった玄宥は高野山に逃れ、後に徳川家康によって豊国神社の近くに土地を与えられ、智積院を復興させた。さらに豊臣家が滅亡すると、秀吉が建てた祥雲寺の土地を与えられ、それが現在の智積院につながっている。

境内だけなら拝観無料である。そろそろ梅の花も見ごろを迎えるようで境内のあちこちに咲いている。それをカメラに収める姿も見られる。

本堂である金堂に上がる。弘法大師の生誕1200年を記念して1975年に建立されたものだ。総本山とあって外陣、内陣も広く取られている。正面には本尊大日如来が祀られ、脇には弘法大師、さらには新義真言宗ということで興教大師の像も祀られている。この智山派は智積院が総本山だが、その系統には全国的に有名な寺院もあり、成田山新勝寺(ということは寝屋川を含め各地にある成田山の分院も)、川崎大師、高尾山薬王院、大須観音、六波羅蜜寺などがある。

金堂の横に明王殿がある。元は京都の大雲院という寺の本堂だった建物である。ここが近畿三十六不動の札所で、本尊は興教大師の作とされる「麦つき不動」である。根来寺の周辺の忙しい農民に代わって収獲後の麦をついたという伝説があるそうだ。外陣の畳に座って不動経のお勤めを行う。

金堂の裏手にも梅が咲いている。その奥に墓地があるが智積院の檀家のものではなく、「学侶墓地」とある。案内文によると智積院は「一般の参詣のお寺とは性格を異にした、学問を尊重するお寺で」とあり、プロの僧侶になるための修行をする寺であった。ただその途中で亡くなった者もいたようで、ここに葬られてたのだとか。それにしても数百柱の墓石があるが、これだけ亡くなったとは修行が厳しかったのか、何か黒歴史のようなものがあったとか・・?

さて、智積院を訪ねたのは2月24日。なぜこの日にここだけでも参詣したのかということだが、毎年開催されている「京の冬の旅」の期間中に文化財の特別公開が行われているからである。キャンペーン自体は3月18日まで行われているが、智積院については2月28日までと限定されているため、2月中に行こうということになった。

受付で拝観料を払うと、まず収蔵庫に案内される。智積院の宝物である長谷川等伯、久蔵親子の手による障壁画(国宝)が保存されている。「楓図」、「桜図」、「松に黄蜀葵図」などの作品だが、これらは秀吉が祥雲寺を建てた時に書かせたものだが、後に火災に遭った際に何とか運び出して現在に残っているものである。

続いて講堂に向かう。興教大師の遠忌850年の記念事業として1995年に再建されたもの。こちらに先ほどの障壁画の模写が飾られ、目の前の日本庭園に映えている。

この奥に宸殿という建物がある。今回の「京の冬の旅」では宸殿を特別公開するとある。智積院における客殿である。長谷川等伯の最晩年の作という「十六羅漢図屏風」があり、奥の三山の間には堂本印象という絵師による襖絵がある。初めて聞く名前で、最初は「堂本印象画」という絵のジャンルがあるのかなと思ったのだが、大正から昭和にかけて活躍した日本画家の名前である。「京の冬の旅」のポスターにも採用されているのが「婦女喫茶」という1958年の作品で、今回の特別公開の目玉である。モダンながらどこかほのかな感じの絵だが、それが寺の襖絵になっているというのが意外だ。

最後に大師堂に向かう。火災により再建された建物が多い智積院の中で数少ない江戸時代の建物である。

外にある総受付で朱印をいただく。

さて近畿三十六不動めぐりの順番としてはこの後青蓮院、聖護院と続くが、それはまた次の機会にしよう。この日はそのまま七条駅に向けて戻る。途中にファミリーマートが数十メートルの間に2軒あるのだが、そのうちの1軒が酒屋の経営ということで、伏見の酒でも置いているのかなと入る。果たしてあったので、300mlを2本購入。とりあえずこれで一献ということで・・・。
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第20番「智積院」~近畿三十六不動めぐり・31(三十三間堂へ立ち寄り)

2019年03月02日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりも残り6ヶ所となり、平成のうちに最後の番号である高野山に向かうつもりである。何回か触れているが、四国八十八所のお礼参りで奥の院に向かうのと合わせてである。

今回のエリアは鴨川の東に並ぶ聖護院、青蓮院、智積院である。当初は1日で一気に回ろうかと思っていたが、同じ東エリアでも結構南北に離れている。まあ、都度来ればいいかと3つを回ることは見送り、札所番号は最も後になる第20番の智積院に向かう。訪ねたのは2月24日、なぜ智積院から回ることにしたかについては後ほど触れようと思う。

札所めぐりで京都に向かう定番になっている京阪特急に乗り込む。今回はプレミアムカーは利用せず、ダブルデッカー車の下段席に座る。目線がちょうどホームの足元に来るのだが、下手にカメラを構えていると何だか疑わしい行為に見えないかと思う。

線路に近いぶんスピードをより感じるし、車輪の振動も心なし静かに感じる。天井が低いのは仕方ないとして結構落ち着いて過ごせる空間である。

七条で下車する。目指す智積院は七条通をまっすぐ東に進み、東山通と交差する突き当たりにある。歩いて10分という距離。

智積院を前にして、その七条通の両側には2つの有名スポットが並ぶ。左手(北)には京都国立博物館、右手(南)には国宝三十三間堂である。京都の場合、有名なスポットや寺社がそこかしこに存在していて、全てを回るとなるとどれだけ時間がかかるやらというところである。まあ、どちらか片方に入ろうとまず博物館の特別展の案内板を見たが、私としてそこまで気を引くものではなかった(その後4月から開催される一遍上人絵伝のほうが面白そうだ)。

ということで、三十三間堂に向かう。ここもいつ以来かというところで、少なくとも拙ブログに登場するのは初めてである。

三十三間堂は正式には蓮華王院といい、その本堂を三十三間堂と呼んでいる。なお「三十三間」とは距離ではなく、お堂の中の柱間が33あるという造りから来ている。さらに、観音菩薩が33の変化身を持つという教えにもつながっている。中に千体の観音菩薩像が並ぶ様子は実際に見たことがなくてもテレビや歴史の教科書でご存知の方も多いだろう。

拝観料を払って境内に入る。まずは遊歩道に従ってお堂を外から眺める。元々は後白河法皇の御所として建てられたが、火災により焼失、その後鎌倉時代に復元されたものがベースである。豊臣秀吉も境内を整備したそうだ。その時の門や土塀が残されている。

今は柱も重厚な感じの色合いだが、当初は朱塗りの柱で内装も極彩色だったという。

外側を一周して中に入る。この先は撮影禁止のため、その様子はネットの中の画像をご覧いただくとして、千体の観音像がステージの上で規律正しく並んで手を合わせている姿は、正にここでしか見ることはできない。

観音像は全部で1001体。本尊の千手観音を中心として両側には500体ずつ並ぶ。またその前段には二十八部衆、風神雷神像も立ち、勢揃いで拝観者をお出迎えしているように見える。拝観者それぞれに感心しながらお堂の通路を歩く。千体といってもそれぞれ少しずつ表情や手にしたものの形が異なっているが、五百羅漢ほどの表情の差は見られない。また、通路近くに立つ観音像はじっくり見ることができるとして、奥の上段に立つ観音像などはいつまでも「その他大勢」の扱いなのかな。どうせ拝観者にはわからないのだら時々立ち位置を入れ換えてやってもいいのではとも思う・・。

ただその中でも湛慶作のものなどトップクラスの観音像があるそうで、以前は東京や京都の国立博物館に寄贈されていたが、千体の観音像が国宝に指定されたのを機に昨年「里帰り」した。

まずは千体観音を見たが、その後ろとなると「通し矢」の舞台である。成人の日にちなんで新成人が矢を射る行事だが、これが行われるようになった江戸時代には、全長121メートルの軒下を通す武芸の競技だった。何本矢を通したというのを記念して額を奉納したとあり、今も残されている。ちなみに弓道は的までの距離は28メートル、長いので60メートルだという(現在の新成人の「通し矢」は60メートル)。いずれも戦場での実戦から算出された距離だそうで、121メートル通すというのは一つの独立した種目だと言っていいだろう。ゴルフのドラコンとか、野球の遠投みたいなものかな。

お堂の外、そして中をそれぞれ一巡する形で三十三間堂の拝観は終わり。これから智積院に向かう・・・。
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第17番「曼殊院」~近畿三十六不動めぐり・30(雪の庭園と一乗寺下り松)

2019年02月02日 | 近畿三十六不動
曼殊院の勅使門から左手にぐるりと回り、北通用門から境内に入る。通用門の受付にて拝観料を支払う際に一緒に納経帳を預ける。番号札をもらって帰りに引き取る方式である。

門跡寺院は一般の寺の本堂に入るというよりは、屋敷にお邪魔するような感覚である。この先建物の中は撮影禁止とある。まずは庫裏から大玄関に向かう。天皇・皇后両陛下のお成りの時の写真パネルがあちらこちらに飾られている。

曼殊院は、伝教大師最澄が比叡山上に開いた小さな坊が由来とされていて、12世紀に現在の北山に本拠地を構え、その後いったん洛中に移った後、17世紀半ばに今の地に建てられた。北山にあった時は北野天満宮の別当寺でもあった。後に皇族が住職を務めるようになり、現在の地に寺を移したのは良尚法親王である。天台座主として仏教への深い帰依があったのはもちろんだが、和歌や書道、華道など風流の道にも造形が深い人物だったそうだ。そのため、庭園や茶室にも意匠を凝らしている。

元々は宸殿を本堂として本尊阿弥陀如来を祀っていたが、明治になって京都に病院を建てるに当たって寄付された。現在は大書院が本堂とされているが、宸殿を再建しようという動きがあり、寄付の呼びかけがあちこちにある。その予定地を廊下から見ることができる。

そして大書院から小書院への回廊を通るところで庭園を見る。桂離宮をはじめ数々の庭園の設計に携わった小堀遠州の作と言われている。

来る前の期待どおり、庭園は雪に覆われていた。これにはうなる。「京の冬の旅よの~」と勝手に感心する。雪が降り続いていたら少し厄介なのだろうが、夜から朝にかけて降り、それが止んだ後の昼間という絶妙の時間帯のことである。

で、近畿三十六不動ということだが、先ほど大玄関の一室に木像の不動明王像が祀られていた。期間限定の公開ということでそれはそれでありがたいものだが、近畿三十六不動としての本尊はこれではない。「黄不動」というものだ。

「黄不動」は、滋賀の三井寺の秘仏とされる不動明王の画像である。赤不動、青不動とともに三不動の一つとされていて、曼殊院には三井寺の黄不動の模写が伝えられている。ただこの模写も歴史的・文化的な価値があるということで現在は国立京都博物館で保存されている。曼殊院の大書院の一室に掛けられた黄不動の画像は、模写の模写の複製というくらいのものだが、黄不動の力強さがよく現れている。ここで聖不動経を含めたお勤めである。

他には藤原行成の筆による古今和歌集や、織田信長、武田信玄らの書状など、さまざまなものがガラスケースに収められている。

拝観は順路に沿って建物を回る形で、上の台所というのも通る。ここでは高貴な来客のための調理を受け持ったそうで、かつてのメニューを記した紙の写しがいろいろ貼られている。上客へのもてなしのために膳の数は多いが、やはり門跡寺院、肉や魚の一品はない。豆腐やひりょうず(がんもどき)がメインの一品どある。

谷崎潤一郎が寄贈した鐘というのがある。鐘といっても鐘堂にあるような大きなものではなく、法要の準備や開始の合図をするためのものである。谷崎の作品に『少将滋幹の母』というのがある。私もここを訪ねた後に電子書籍で読んだのだが、その中に、登場人物の一人が女性の死体を見る「不浄観」を行じる場面がある。死体が腐敗し、白骨化し、土にかえるまでの姿を心中に感じることで、煩悩や欲望を取り除く修法なのだという。谷崎は作品を書くにあたり曼殊院の門主から天台宗の教学を学び、そのお礼として鐘を寄贈したそうだ。

最後に着くのが孔雀の間。ここには本尊の阿弥陀如来が厨子に安置されて祀られている。長野の善光寺の出先という。

これで曼殊院のお参りはおしまい。最後は庫裏に戻って「屋敷」を出る。納経帳を受け取って境内を後にする。

さて次の札所だが、高野山との間では次の二択である。

1、2、3.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

4、5、6.湖西(葛川明王院)

ここで出たのは「1」。鴨川の東に並ぶ門跡寺院を回ることになる。これで、私なりの近畿三十六不動めぐりの満願までのルートが固まることになった。

曼殊院から一乗寺駅まで続く道は曼殊院道と呼ばれる。一乗寺と言えば今ならラーメン激戦区だろうが、歴史的には剣豪の伝説の地とされている。宮本武蔵と吉岡一門による「一乗寺の決闘」である。

一乗寺はかつて近江から京に通じる要衝にあった寺院で、街道には旅人の目印として松の木が植えられている。ちょうど角には松の木があり、「宮本 吉岡 決闘之地」という石碑がある。なぜか同じ場所には「大楠公戦陣蹟」というのもある。

その下り松にて、「宮本武蔵 悟りの地 八大神社」の案内板を見る。宮本武蔵は吉岡一門との決闘の前にこの神社に立ち寄って、ある「悟り」を得たと伝えられている。少し坂を上がり、庭園である詩仙堂に隣接して神社の鳥居がある。

一乗寺の決闘は宮本武蔵の決闘の中でも有名で、宮本武蔵を主人公にした映画やドラマでも名場面として描かれている。その中で中村錦之助(後の萬屋錦之介)版の映画ポスターやシーンの切り抜きが飾られている。

境内には宮本武蔵の像、そして決闘当時の下り松の古木がガラスケースに入れられて保存されている。こちらが八大神社のご神木であるかのようだ。

像の横には『宮本武蔵』を著した吉川英治の随筆の一節が刻まれた石碑がある。それによれば、宮本武蔵は吉岡一門の決闘の前に八大神社に立ち寄り、勝利を祈願しようとした。しかしその時に何かを悟り、そのまま鈴を鳴らすこともなく、祈ることもなく決闘の場所に駆けていったという。

武蔵は後に『五輪書』に「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」と記しているが、それが彼が得た悟りの内容である。神仏は敬うとしてもすがるものではない。やはり最後に頼るべきものは自分の力、意志の強さだ・・・というところか。

さまざまな札所を回っている中でこうした文句に出会い、自分も「恃む」ところがなかったかと気づかされるのも皮肉なものである。

そういえばある人から「神社はお願いごとをする場所ではない。目標を誓う場所である」と聞かされたことがある。「神様に何とかしてもらおう」ということではなく、「自分が頑張るから見守っていてください」と誓う場所だという。仏にしても同じようなものだろう。

これからの札所めぐりでも、そうしたことを心の中に持って手を合わせようと思ったのであった・・・。
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第17番「曼殊院」~近畿三十六不動めぐり・30(叡山電車「ひえい号」と京都ラーメン)

2019年01月31日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりは残すところ7ヶ所の寺院。このうち最後に訪ねる予定の高野山の2ヶ所、そして比叡山の奥の院とでもいう位置にある葛川明王院を除くと、残りは京都市内にある門跡寺院となる。門跡寺院とは一般の僧侶とは異なり、代々皇族や貴族が住職を務める寺院をいう。前回訪ねた醍醐寺の三宝院も門跡寺院だし、近畿三十六不動でいえば嵯峨の大覚寺や仁和寺、大原の三千院、滋賀の圓満院なども該当する。三十六不動めぐりに門跡寺院が多いのは何か理由があるのだろうか。

今回は左京区編ということで曼殊院に向かう。同じ左京区なら聖護院も該当するが、京阪電車からさらに叡山電車に乗り継ぐか否かでエリア分けした。曼殊院の最寄駅は叡山電車の一乗寺、もしくは修学院となる。

1月27日に出かける。この週末は寒気が日本列島を覆い、北日本から日本海側にかけて大雪となった。関西でも滋賀や京都、兵庫の北部で結構な雪になった模様である。この分だと京都市内も雪があるかなと期待しながら家を出る。

まずは京阪特急に乗る。せっかくなのでプレミアムシートを利用する。運賃の倍の500円のプレミアム料金がかかるとわかっていても、ゆったりと過ごす価値はある。現に他の普通車両を見るとやはり混雑しているようだ。京都府に入ると日陰に少し雪が積もるのが見え、遠くの山の木々も白くなっている。

出町柳に到着。叡山電車のホームに行くと、鞍馬行きは観光車両の「きらら号」が発車を待っていた。一方、八瀬比叡山口行きには、昨年デビューした「ひえい号」の緑の車体が停まっていた。正面には楕円形のリングが大胆にあしらわれている。最初にテレビで見た時に「ひえ~」と思ったが、現物をナマで初めて見て改めて大胆な印象を持った。

車内は一人ずつのバケットシートで、内装も落ち着いた印象である。観光車両とはいうが「きらら号」同様特別料金もなく、あくまで定期列車の中の1両である。

さて曼殊院に向かうが、「ひえい号」に当たったことだし、修学院まで乗る。地図を見る限りでは一乗寺からでも修学院からでも同じような距離だ。

白川通、一乗寺といえば京都のラーメン激戦区で、店には詳しくないのだが、曼殊院参詣の後はどこかの店に行こうかと思う。そんな中で、「魁力屋」の本店が現れる。別の店で何度かいただいたことがあるのだが本店に当たるとは。時刻は11時を回ったところで、このまま曼殊院にお参りして戻って来るとちょうど昼すぎでどの店も行列だろう。それならば先にここで食べておけば・・という気になった。今ならカウンターも十分余裕がある。

「京都元祖北白川背脂醤油ラーメン」と呼ばれる醤油ベースのラーメン。九条ねぎは別に出てきて自由に追加できる。あまりしつこい味でないのがよい。まずはしっかり腹ごしらえして曼殊院に向かう。

緩やかな坂道を上る。少しずつ雪の量も増えてきた。このぶんだと曼殊院で雪景色が見られるかなと期待する。

魁力屋に立ち寄った時間を差し引くと修学院駅から15分ほど歩いて、境内が近づいてきた。「曼殊院門跡」の石碑がひっそりと立ち、正面奥には山門も見える。参道の最後は右手に武田薬品の薬用植物園を見て、上からは雪が解けて水滴が落ちるのを避けながら歩く。

曼殊院は紅葉、そして新緑の青もみじの名所として知られるが、この時季はご覧の通りである。なお山門と書いたが、正面のこの門は正しくは勅使門という。特別な方だけここから出入りできるというが、その「特別な方、特別な時」というのは、門跡寺院だけあって皇族が来る時である。勅使門の石段の下には(平成の)天皇皇后両陛下の行啓を記念した石碑もある。

また門の手前では、参道を挟んで「浩宮殿下(現・皇太子)お成り記念樹」、「礼宮殿下(現・秋篠宮)お成り記念樹」が植えられている。植えられたのが昭和の時なので以前の宮さまの名前なのだが、今から3ヶ月ほど後には平成から次の時代になり、宮さま方の立場も変わる。門跡寺院は今では他の寺院と同じように僧侶が住職を務めるとは言え、一つの時代の移り変わりに思うところは多々あるだろう。

これから参詣で、一般庶民向けの「北通用門」から境内に入る・・・。
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第23番「醍醐寺」~近畿三十六不動めぐり・29(台風21号からの復興を願う)

2019年01月29日 | 近畿三十六不動
醍醐寺の門をくぐる。オフシーズンということで混雑はさほどでもないが、それでも西国三十三所の先達用輪袈裟を首にかける人もいるし、冬晴れの境内をカメラに収める人もちらほら見られる。

まずは三宝院にて、下醍醐と霊宝館の共通拝観券を購入する。オフシーズンということで800円。共通拝観券と書いたが、実際はどれか一つだけ、あるいは二つだけという選択肢はない。

三宝院は2018年9月の台風21号で倒木や屋根瓦の破損があり、国宝の唐門の白壁も一部剥がれる被害があったが、台風が通過した9月4日から3日後の9月7日に拝観を再開した。下醍醐の拝観再開までは全ての納経、朱印を三宝院で対応したそうだ。建物手前にある樹齢160年の枝垂れ桜も枝が折れてしまったという。

庭園を見る。見た目には普段と変わらないように見えるが、瓦や回廊の床板がはがれたり、折れた木も伐採したという。

続いて霊宝館に向かう。前の記事にも書いたが、仏像館は冬の休館期間中で(まあ、春と秋に特別に開く)、平成館のみの見学である。平成館と言えば聞こえはいいが、プロ野球でいうなら若手の2軍という感じなのかな?

その2軍、もとい平成館だが、展示されているものそれぞれは立派なもので、一般の寺院ならこのうち一品を持っているだけでも寺宝として語ることができると言ってもいい。このあたりはさすが醍醐寺と言ってもいいだろう。どこの球団になぞらえるかは、この記事をご覧の皆様にお任せするとして・・・。

平成館にも五大明王は安置されている。このうち大威徳明王が平安時代のもので、残りは江戸時代の制作で豊臣秀頼の発願とある。今回の近畿三十六不動めぐりの直接の本尊ではないにしても立派な造りなので、手を合わせる。また奥の仕切られたスペースには千手観音像が安置されている。上醍醐が開かれた10世紀の作とされていて、これも西国三十三所の本尊である准胝観音とは異なるが、これも豊かな表情の仏様で、西国めぐりのつもりで手を合わせる。

他にも両界曼陀羅や三宝院の障壁画などを見る。これだけでも十分なラインナップだったが、また特別開館の時に仏像館を見てみたいものである。

そして仁王門をくぐり、下醍醐の境内に入る。

そこには驚きの光景が広がっていた。

確かこの辺りは木が生い茂り、青々としていたはずである。それが更地のようになり、工事中のフェンスやロープで仕切られている。台風21号では、醍醐寺全体で約2千本の樹木が折れたそうだ。折れた樹木を伐採したらこのような光景になったということだ。見ても痛々しい。これからどう復興させていくのだろうか。

建物は幸い大きな被害はなかった模様で、五重塔も変わりなく立っている。さすが、一千年以上の歴史を持つ建物だ。

本堂にあたる金堂で、安置されているのは薬師如来だが般若心経のお勤めとする。ともかく台風21号からの一日も早い完全復興をお祈りする。

隣の不動堂に参る。近畿三十六不動めぐりとしての本尊が霊宝館に移されている旨の札があり、内陣には小ぶりな不動明王像が安置されている。ここでもお勤めとする。

そのまま境内を進み、役行者の像や、祖師堂(弘法大師と理源大師を祀る)にも手を合わせる。広いしキャストが揃っているため、なかなか忙しい。

最後に観音堂に着く。現在は准胝観音の写し仏が西国三十三所の本尊で、周りにも幟が並んでいるが、中央奥にデンと座っているのは阿弥陀如来である。准胝観音はその手前の厨子に安置されているが、あくまでも間借りの立場である。ここでまたまたお勤め。西国めぐりで観音像に手を合わせているつもりが、実は奥の阿弥陀如来像を観音像と勘違いして・・・という人もいるかもしれない。

観音堂の中に納経所があり、ここは行列ができている。少し並んで、近畿三十六不動、西国三十三所の両方の朱印をいただく。バインダー式の近畿三十六不動の朱印は書き置きで対応する札所がほとんどの中、その場で一から墨書きしていただいたのにありがたく感じた。

これで西国三十三所めぐりの2巡目は姫路の圓教寺を残すだけとなったが、近畿三十六不動めぐりはまだくじ引きとサイコロがある。もっとも、選択肢は残り3つとなり、サイコロの出目も2つずつ割り当てる。

1、2.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

3、4.湖西(葛川明王院)

5、6.左京(曼殊院)

この中で出たのは「5」。また近々訪ねることにしよう。

そのまま下醍醐の境内を抜ける形で、回転式のゲートの外に出る。本来ならそのまま上醍醐を目指すところだが、ここまで触れているように入山はできない。その手前まで行ってみる。

そこには女人堂がある。長い歴史の中、上醍醐は女人禁制だったため、女性は山上の神仏に対してここから拝んでいたという。女人堂の本尊も准胝観音の分身という。

上醍醐への道は仕切られていて上ることはできない。今の立場は、その昔入山を禁じられていた女性たちと同じである。上醍醐に行ける日は結構先になるのかな。

女人堂の前に五体の仏像がならんでいる。左から不動明王、理源大師、大日如来、役行者、地蔵菩薩。これらも醍醐寺のオールスターキャストと言える。その前に水が流れていて、一つ一つに水をかけながら手を合わせることができる。私が訪ねた時も地元のお年寄りらしい人が代わる代わるやって来て、それぞれの像に水をかけて手を合わせている。有料拝観エリアの下醍醐、そして今は入れないが入れたとしても入山料がいる上醍醐の境目にあって、女人堂とその前の水かけ仏像だけは「無料」エリアである。地元の人の中には毎日でも醍醐寺に手を合わせたい人も多いだろう。ただ、醍醐寺は庶民信仰の歴史があるわけでもなく、境内も有料となれば毎日入るには無理がある。

そうしたさまざまなものの緩衝地帯が、この女人堂と五体の仏像だと言える。

そのまま下醍醐の外側を歩き、元の門に戻る。門前がバス通りということもあり、そのままバスに乗る。乗ったのは山科駅行きだが、タイミングが合えばJR京都駅行きの便もある。

そのまま山科駅前に到着した。前に来た時は昼飲みもできる店に入ったが、今回は大人しく駅前の餃子の王将でシンプルな昼食とする。

今のタイミングならそのまま次の札所の曼殊院まで行くこともできる。また曼殊院に行かなくても、ちょうどこの日京都で行われていた全国女子駅伝のコースのどこかに立つこともできる。ただそのいずれもせずにそのまま大阪に帰ることにする。

今回醍醐寺を訪ねたが、この寺にはこれからも来る機会があると思う。その時には上醍醐も含めて、かつての姿をまた目にしたいと思う。醍醐寺に対して頑張ろうというのはおこがましいのだが、ともかくここは「頑張ろう」ということで・・・。
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第23番「醍醐寺」~近畿三十六不動めぐり・29(第11番「醍醐寺」~西国三十三所めぐり2巡目・33)

2019年01月27日 | 近畿三十六不動
昨年からの年越し紀行、正月明けの鉄道旅行の記事が続いていたが、札所めぐりについてもそろそろ終盤に差し掛かってきた。近畿三十六不動めぐりの29ヶ所目の札所として今回訪ねるのは世界遺産の醍醐寺である。

醍醐寺といえば、西国三十三所の札所でもある。西国めぐりの2巡目もここ醍醐寺と姫路の圓教寺の2ヶ所だけとなったが、醍醐寺が終盤まで残ったのは、近畿三十六不動めぐりを兼ねて訪ねようと思っていたからである。不動めぐりのほうのくじ引きがなかなか出なかったのでこちらも終盤になったというところである。醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山としての歴史もあるし、上醍醐・下醍醐・三宝院らで構成する大伽藍を持つだけのこともあって、さまざまな札所に名を連ねている。

西国めぐりの本尊である准胝観音は上醍醐の准胝堂に祀られていたが、2008年に落雷による火災が発生して焼失してしまった。現在、その時たまたま海外の展覧会に出展していた分身像を本尊として下醍醐の観音堂にて祀っている。納経も観音堂で行っているため、上醍醐に行かなくても札所を打ったという扱いであるが、1巡目に訪ねた時は、やはり上に行ってみようということで片道1時間かけての山上りを行った。

一方、不動めぐりの本尊である不動明王をはじめとした五大明王も元々は上醍醐の五大堂に祀られていたが、准胝堂の火災のように本尊が焼失するのを恐れ、またリスク管理という面から下醍醐に下ろして、不動堂で祀ることになった。現在は霊宝館にて安置されている。仏像を本来のお堂に祀るか、博物館に収めて安置するか、賛否の分かれるところだろうがやむを得ないことだろう。まあ、今回も上醍醐まで上がって、昔からの信仰の歴史をたどってみるのもよいだろう。

スケジュールの都合で1月13日に訪れることにした。それにあたって醍醐寺のホームページをチェックしたのだが、ちょっと何だかなあという感じだった。

まず上醍醐。昨年9月の台風21号の影響で参道にも被害があったようで、安全確保のために入山が禁止されている。1時間の山上りがなくなってほっとするような、残念なような気持ちである。2008年の火災の後も半年ほど閉鎖されている。

また、霊宝館だが1月4日から2月末までは仏像館が閉館となっている。五大明王像は仏像館に安置されているので、これは残念だ。1月3日は大阪にいたので、もしその日に醍醐寺を訪ねていれば拝観できたのだが・・。なお、1月29日~3月24日の期間、大宰府の九州国立博物館で醍醐寺展が行われるとあり、五大明王や国宝の薬師如来像などが出展されるそうだ。

まあ、日付を選んでいたらいつまでも回ることはできないし、ともかく行くことにしよう。

13日、京阪宇治線の六地蔵駅に現れる。醍醐寺にどのように行こうかということだが、今回は南から行くことにした。京阪六地蔵から3分ほど歩くと地下鉄東西線の六地蔵駅に出る。ここから2駅、4分で醍醐に着く。

地下鉄の駅の上はアルプラザなどが入る複合施設となっており、東に向けて住宅街が広がる。

ここを10分ほど歩いて醍醐寺の入口に着く。これから拝観ということで・・・。
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第29番「宝山寺」~近畿三十六不動めぐり・28(熱心にお参りする人の多い現世利益の寺)

2018年12月20日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりの中での宝山寺の参詣である。山門(ここでは惣門と呼ぶ)をくぐると、左手には地蔵堂、右手には七福神が祀られている。こちらで熱心に手を合わせる人の姿も見られる。

石段を上り、中門をくぐると本堂のあるエリア。10年以上前の元日に訪ねた時に比べれば少ないとは言え、それでも大勢の人が手を合わせている。雰囲気としては、京都の観光寺院のように仏像やお堂を見物するというよりは、まずはきちんと拝むことに重きを置いている人が多いように思われる。

まずは本堂に向かう。ろうそくと線香を求めるが、中でも線香は1本、もしくは10本いくらという売り方である。こうしたお堂でお供えする線香の本数は宗派によって違いはあるが、多くは1本または3本とされている。その中で10本とは。この線香の種火もろうそくではなく、もぐさの下に炭が置かれているようで、その鉢に線香の先を押し当てて火をつける仕組みになっている。これだと一度に多くの人が多くの線香に火をつけることができる。

宝山寺の歴史に触れると、大昔から生駒山そのものが神が宿る山として信仰されており、巨大な岩窟もあって役行者や弘法大師も修行したと言われている。江戸時代、湛海という僧侶が歓喜天の修法に優れてさまざまな祈祷を行っていたが、後に改めて真の仏法を求めるべく修行を行い、生駒山に伽藍を建てた。結果、湛海は優れた修験者として徳川将軍家や大坂の豪商たち、さらには庶民からも信仰を集め、その伽藍は湛海の号の名前から宝山寺と呼ばれるようになったという。

不動明王が祀られる本堂と、その背景にある岩窟。いかにも不動明王の霊場に似合う感じがする。どうしても山岳信仰や修験道と結びつけてイメージするからだろうか。まずはこの本堂の前でモゴモゴとお勤めをする。

本堂の手前には天神様の小さな祠がある。その周りには何体もの牛の像が置かれていて、両側の角に5円玉の穴が刺されている。「良いご縁(5円)」ということなのだろうが、牛の角に刺すというのは何かいわれがあるのだろうか。

その隣には水掛不動が祀られている。水を掛けてお祈りした後で写真を撮ったのだが、帰宅後にデータを整理したところ、この場面だけデジカメのカードに保存されていなかった。屋外の水掛不動像については撮影禁止とも何もなかったはずだが、ひょっとしたら・・・?

本堂と同じように堂々として並ぶのが歓喜天を祀る聖天堂。檜皮葺の建物である。手前には大根や打出の小槌をあしらった木製や銅製の巾着が置かれている。これも歓喜天信仰の象徴の一つだそうで、賽銭箱の役割を果たしている。巾着だから金運アップかな。

外陣では祈祷を受け付けていて、ちょうど僧侶たちの読経の声が響く。歓喜天の修法の経典もあり、宝号「南無帰命頂禮大聖歓喜雙身天王」と唱えるところから始まる。

また訪ねた16日は歓喜天の縁日で、聖天堂の内陣も開放しているとある。縁側を奥に進むと奥の建物に続く。外陣と内陣というよりは、神社の拝殿から本殿に進む感じだ。そこには神社のように鏡が置かれている。歓喜天は絶対秘仏でこの奥におわすとのこと。こちらでは正座して静かに手を合わせる人、黙想する人が何人もいる。真摯な祈りの場である。

2つのメインのお堂にお参りして祈祷受付の窓口で朱印をいただく。お守りやお札の授与所もあるが、珍しいのは「1円玉200枚」、「5円玉20枚」の袋。さらには100円玉や10円玉への両替機もある。今回利用することはなかったが、わざわざ小銭の両替袋があるのはなぜか。

答えはこの先の境内にある。以前に来た時は本堂と聖天堂に手を合わせてそのまま引き返したと思うが、ここから奥の院までの中にさまざまなお堂がある。そうした一つ一つにお参りする人に向けたものなのかな。この先は初めて入るがともかく上がってみる。

まず出たのは文殊堂。宝山寺では学問向上はこちらの文殊菩薩が担当するとある。

続いては常楽殿。ここは如意輪観音と毘沙門天、吉祥天がお出迎え。

その奥には天保年間建立の観音堂がある。十一面観音が祀られている。観音堂の奥が般若窟の遥拝所である。般若窟に入ることはできないが、役行者がこの崖で修行したとされている。

ここから奥に参道が延びるのだが、ここで小銭両替の意味がわかった。これまでの多くのお堂の他に、参道の両側には奉納された地蔵や観音像がずらりと並んでいて、それぞれに1円玉を入れてお参りする人がいる。ろうそくが10本でも売られているのもそれぞれのお堂て供えることができるからだ。

参道の途中に弘法大師堂があり、お堂の中の木像だけでなく外に石造の大師像や稚児大師像もある。それぞれにお賽銭を入れるとなると、それは結構な数の小銭がいるだろう。

奥の院に到着した。こちらは不動明王が祀られていて、改めて真言を唱える。合わせて開山堂がある。宝山寺の中興開山である湛海の像が祀られている。

その奥には大黒堂があり、大黒天を祀る。奥の院といっても開けた感じの一帯だが、山岳修行の地としての歴史は今も息づいているようだ。ここで引き返す。

再び地蔵や観音像が並ぶ石段を下り、愛染明王が祀られる多宝塔にも手を合わせて、本堂、聖天堂の前まで戻ってきた。

1時間あまりで境内を回って奥の院にも往復したが、丁寧に、熱心にお参りする人が多かったのが印象的だった。ちょうど16日の歓喜天の縁日だったこともあるのだろうが、江戸時代から庶民の現世利益を多く叶え、それがまた深い信仰を集めるのかなと感じられた。こういう寺だったんだなと改めて学ぶことができた一時である。

ここで次へのサイコロである。

1.東山(智積院、青蓮院、聖護院)

2.左京(曼殊院)

3.醍醐(醍醐寺)

4.湖西(葛川明王院)

5.振り直し

6.振り直し

出たのは「3」、醍醐寺である。ここで西国三十三所の2巡目との2枚抜きとなる。本音を言えば前回(第10番の神戸の無動寺)のサイコロの時に醍醐寺が出てほしかったのだが仕方がない。その理由はまた醍醐寺に行った時にでも。

宝山寺を後にしてケーブルカーの宝山寺駅に戻る。この後だが昼食は後回しにして、帰りは変化をつけて生駒から近鉄生駒線で王寺に出る。生駒山から信貴山を右手に見るルートである。これまでの寺社めぐりで信貴山を訪ねたことはないが、いずれはこの辺りにもサイコロの出目で来ることもあるだろう。

王寺に到着。ホームにあるJRへの乗り換え案内板の表示は、あくまで「関西線」だった・・・。
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