まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

広島・菊地原が引退

2013年09月29日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

今季の広島東洋カープは16年ぶりのAクラス、初のクライマックスシリーズ進出(中には、勝率5割に満たないのにCSに出るのは認めないという向きもあるだろうが)、久しぶりの10勝カルテット誕生(前田健太、バリントン、野村、大竹)と明るい話題が多い。

その一方で、カープ一筋の天才打者・前田智徳の引退が発表された。カープとしても時代の転換点になりそうな年である。

その前田引退が大きく報じられる裏で、もう一人、カープで今季限りの引退を発表した投手がいる。菊地原毅である。

1993年に入団、しばらくはほとんど一軍登板の機会がなかったが2001年に当時のシーズンタイ記録の78試合に登板。その時は「先発や抑えでフル回転した稲尾和久の記録を、ワンポイントの2流投手に破らせるのか」ということが言われたようだ。もっとも、その頃から「セットアッパー」の考え方が日本球界にも広がってきており、シーズン登板記録は阪神・久保田の90試合まで伸びたのだが・・・。

その菊地原が、球団合併初年度の2005年、山崎とのトレードでオリックス・バファローズにやってきた。これがピタリとはまり、この年は左のセットアッパーとして71試合に登板、33ホールドを挙げて最優秀中継ぎ投手になった。私も「広島から来た左の中継ぎ」ということで、その前に近鉄に来た清川栄治にだぶらせるとともに、「困った時、一家に一台じゃなかった、チームに一人はこういう投手がいるといいな」と思い、菊地原でピンチをしのいだ時は喜んだものである。

『Sweetest Day of May』の軽快な出囃子で登場し、左サイド気味から躍動するようなフォームで鋭いボールを投げ込み、相手打者を抑える小気味の良さ、そしてタフネスさが印象に残っている。当時、バファローズの何人かの選手がTシャツや帽子など、アパレルものをプロデュースしていたのだが、その一つに菊地原プロデュースの「Toughness」と描かれたエンジ色のTシャツがあった。当時はさりげなく着ていたものだが、その後傷んだし、引越での衣類整理もあったので処分してしまった。今思えばせめて画像ででも残しておけばよかったかなとも思う。

古巣・広島に戻ってからは故障もあって一度は育成契約となり、その後再びカムバックしたが、残念ながらオリックス時代の投球は戻らなかったようだ。

今後はカープに残ってコーチかスタッフになるという話があるそうだが、10勝カルテットに続く若手や中継ぎがもっと頑張らなければならないカープにあって、ぜひその肉体的、精神的なタフネスさを教えてほしいものである。

ともかくも、お疲れ様でした・・・。

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千葉から新小岩へ

2013年09月27日 | 旅行記C・関東甲信越

2013年9月26日、東北楽天ゴールデンイーグルスが球団創設9年目での初優勝。東北の被災地の皆さんを勇気づける出来事だし、「野球の力」を見せてくれたようなシーズンだったと思う。オリックス・バファローズファンとしては複雑な思いもあるのだが、まずはおめでとうである。

特に旧近鉄ファンから楽天ファンになった方には感慨深いのではないだろうか。奇しくも、2001年に北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で近鉄が最後の優勝をしたのも同じ9月26日・・・・。

日本シリーズはどうなるか。ここはぜひ、「広島対仙台」という、何かと対比されがちな「地方都市の雄」を争うシリーズというのを見てみたいものだ。

・・・さて、話は9月上旬の房総半島に戻る。

小湊鉄道&いすみ鉄道を気動車で暴走し、外房の和田浦でクジラ料理をいただいた後、205系のセミクロス改造車のボックス席に陣取る。2時間半という時間を外房線~内房線の鈍行で過ごす。昼間の疲れもあってウトウトする。途中の浜金谷からは東京湾フェリーが出ている。今思えば、もう日は暮れかかっているものの、さらに旅のバラエティを広げるならばフェリーで三浦半島に渡るというのも面白かったかもしれない。

千葉に到着。せっかく房総に来たのだからここで下車して、房総の魚を味わえる店に行こう。ここで考えるのは、5年前に当時の旅サークルで房総半島を回った時に(拙ブログにも登場する鈍な支障さんもその時一緒だった)、千葉の夜ということで郷土料理が味わえる店に入った。アジのなめろうやさんが焼き、千葉名物の落花生などを楽しんだのだが、事前に下見までして訪れたその店の名前が出てこない。そのオフ会をブログに載せておらず、また写真データも手元にない。千葉駅を出て「確かこの辺だったかな」とぐるぐる回っても「これ」という店に出会わない。ひょっとして閉店してしまったのかなとも思う。

あれこれ回るうちに、ポツポツと雨の音がする。そして短時間に豪雨となる。ゲリラ豪雨だ。とはいってもこの日は朝から雨の予報にも関わらず一滴も降っておらず、まあこの時間で予報通りになったということか。

この雨のため、結局千葉での店探しはあきらめ(店自体はいろいろあるのだが、「千葉らしさ」を感じさせるピンとくる店に出会わなかったため)、宿泊地に近づくべく総武線に乗り込む。

一気に山手線沿いに行ってもよかったのだが、下町風情をということで手前の新小岩で下車する。雨足は少し弱まったが、「もつ焼き」というのをキーワードに店探しである。アーケード街を歩いて少し足を停めると、「お兄さん、40分1万円、本番」とかいう客引きが寄ってくる。その辺の相場とコスパはどうなんだろう。

Dscn2824それを振り払ってやってきたのが「味の大衆酒蔵 はむら」というところ。いかにも下町にありそうな店構えであるが、味は間違いなさそうである。

小ぢんまりとはしているがカウンターとテーブル席があり、小奇麗に整えられている。ここではサワーと(ホッピーがなかったのが残念)に煮込み、もつ焼きなどをいただく。

Dscn2820結構いいのが「もつ刺盛り合わせ」。新鮮だからこそ出せるのだろうが、気になるのはその中に「牛レバ」という文字があったこと。え?生の牛レバって食べてはいけないのではなかったっけ・・・?ひょっとして鶏か豚のレバを牛と言って出しているのかな。小皿に盛りつけられたもつの刺身の上には刻んだ白ネギがたくさんある。

Dscn2822雨の日曜日だから客もポツポツというところだが、これが平日なら仕事帰りの客ですぐに一杯になるのだろう。ともあれ、東京の郷土料理といってもいいもつ焼きを食べられたことでよしとする。翌日からの研修にもいいエネルギーになりそうだ・・・・。

(追記)本文に出てきた、探し当てられなかった千葉の店だが、当時の旅行サークルの会誌向けに書いた紀行文の原稿がパソコンの外付けディスクの中で見つかった。それは「磯料理 升や」というところ。千葉駅から少し離れており、京成なら千葉中央駅、モノレールなら葭川公園のほうが近いという位置で、現在もちゃんと営業している。次に千葉に行く機会があればちゃんと利用したい。

(追記2)・・・この次は、いつぞや中途半端に終わった状態の「あの鉄道企画もの」の続編でも書いてみようかな・・・。

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和田浦・鯨料理

2013年09月25日 | 旅行記C・関東甲信越

小湊鉄道といすみ鉄道を乗り通して、外房に位置する大原に来た。とりあえず「サイコロの旅」の目的地の条件は果たしたのでここからはフリーである。ただ、昼食がまだでこれをどうしようかと思う。

13時16分発の安房鴨川行きに乗車する。東京近郊の車両とはいいながら、房総に来てからは一部車両がセミクロスシートに改造されており、ボックス席に座ることができる。遅い昼食をどうするか、魚市場でも有名な勝浦に行くか、あるいは「月の砂漠」で有名な御宿ではこの日「伊勢えび祭り」というのが行われているようで、そちらに行くか。でも待てよ、外房といえば行っておきたいところがあったのを思い出す。

Dscn2797それはこの列車で終点の安房鴨川まで行き、そこからさらに乗り継いでやってきた和田浦にある。すでに14時半を回っているがここで昼食とする。駅には一度降りたことがあり、その時もある店に入ったのだが今度は駅に近い別の店に行くことにする。

Dscn2802和田浦というのは房総での捕鯨の基地である。といっても南氷洋に大がかりな調査捕鯨団を出すというものではなく、地元の小規模な沿岸捕鯨ということで、毎年夏の時期にツチクジラ20頭あまりの割合での捕鯨を実施している。クジラが捕れれば地元の港で解体を行う。

以前東京にいた時に、何とかその解体風景を見学したいと思ったことがある。別に見学には特別な申し込みが必要なわけでなく、作業のじゃまにならないようにすればいいだけなのだが、如何せんクジラは毎日捕るものでもなく、解体の時間もその時によってまちまち(早朝のこともあれば昼からのこともある)で、こちらの関係者のブログで告知される情報が頼り。ただその時はクルマを持っておらず、解体があるならレンタカーで持って深夜に走らなければな・・・などと考えている間に捕鯨枠がいっぱいになって漁が終了したということもあった。

また、拙ブログの過去の記事を見ていくと、地元主催の「くじら学」ということで、クジラの解体を見学したり、クジラ料理をいただいたり学術的に学んだりというイベントに申し込んだこともある。ただこの時も台風が接近して行くのを断念した。

Dscn2809今回、サイコロの旅のさらなるオプションで行くわけだし、クジラの解体などは見られないというのはわかっているが、せめて本場でさまざまな料理を食べることができればと思う。ということで足を運んだのが、和田浦の駅から歩いて5分ほどの「ぴーまん」という店。名前は野菜だがクジラ料理の専門店ということで有名である。以前に和田浦に来た時には海岸べりを20分以上歩いて別の店に入ったのだが、今度は最初から「ぴーまん」に入る。昼の部が15時ラストオーダーということでギリギリで入ることができた。客は私一人。

Dscn2807「くじら御膳 花嫁街道」というのを注文する。赤身と皮の刺身、カツ、竜田揚げ、ステーキ、そぼろの佃煮、関西でいう「おばけ」のサラダなど。一つ一つが丁寧に調理されているし、それぞれに味わい深い。

Dscn2808いただいていると店主が顔をのぞかせる。「竜田揚げとステーキを少しサービスしておきました」という。おそらく昼の部の最後の客ということでおまけしてくれたのだろう。それをきっかけに店主とクジラ料理や捕鯨についてしばし談義。

関西から来たというと、「あちらのクジラ料理はすごいですね」という。捕鯨の町で専門店を開いているということで、関西や下関、高知など、クジラ料理のある町で開かれる研究会や料理人の集まりに結構行くそうである。はりはり鍋やおでんのコロというのも関西ならではだし、大衆酒場でも平気で赤身や尾の身の刺身が安価で出てくる。「関東の人はあんまり食べないですねえ」と。「この辺のツチクジラもだいたい10メートルで10トンはあるんですが、皮とか脂肪の割合が大きくて、赤身はあまり取れないんですよ」

Dscn2805「よく捕鯨の問題とか、シーシェパードとかいいますけど、この辺りの捕鯨は近場の、昔から細々とやっているもので、国際的にも認められてます。太地は大変らしいじゃないですか(イルカ捕りを撮影した映画が物議を醸すくらいだから)。だけどこの辺はシーシェバードなんて来やしません。解体?近所の小学校からも見学に来ますよ。クジラを解体した後で肉を食べてもらうけど(解体したばかりのものではなく、予め別に調理しておいたもの)、平気で食べてますよ。動物というよりは大きな魚という感じで、可哀そうというのはあまりないんじゃないですかね」

「もっと気軽にクジラを食べてほしいですね」という店主の言葉に送り出されて店を出る。

Dscn2813この後、和田浦の海岸に出る。雨の予報もここまでは一滴も降っていないが、海岸には湿った風が吹く。波乗りの姿も見える。そろそろ終わりゆく夏を楽しんでいるようである。和田浦を舞台にした映画『ハート・オブ・ザ・シー』というのがあるが、これもボディボードがストーリーのカギになっている。

Dscn2814国道沿いに道の駅ができている。日本では太地、下関、そして和田浦にしかないシロナガスクジラの骨格標本模型が飾られ、土産物コーナーではクジラ料理がさまざまに売られている。ここで地酒とクジラのたれ、缶詰を買い求める。

クジラと少しでも触れることになった途中下車の一時を楽しみ、これから外房線から内房線に直通する千葉行きの各駅停車に乗車・・・・。

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「国鉄急行」で行くいすみ鉄道

2013年09月25日 | 旅行記C・関東甲信越

小湊鉄道といすみ鉄道の接続駅である上総中野。12時11分に小湊鉄道の気動車が着くと、わずか2分で反対ホームの列車に乗り込む。まあ、1~2時間に一本という接続だし、特にいすみ鉄道は「この日のお目当て」というか「サイコロの旅の選択肢」というべき車両とあっては外すわけにはいかない。

それが国鉄型車両。キハ28とキハ52という、かつてあちこちのローカル線で見ることのできた車種である。ただ現在はJRの現役を退いており、見るなら博物館展示でも見るしかないといったところである。それをいすみ鉄道が引き取って、外部からの客の呼び込みに一役買っている(というか、関連グッズまで含めるとかなりの効果である)。

Dscn2763上総中野から大多喜までは普通列車扱いで、大多喜から大原は急行料金300円がかかる(通過駅もある)。また一部座席は指定席扱いで600円かかる。それでも懐かしい車両に乗れるのは喜ばしいことで、早くも「サイコロでこの目が出てよかった」という気になる。後は、28と52、どちらに乗るか、どちらなら座れるかというところで、できれば28がいいかなと。おそらく28のほうが指定席車ということになるのだろうが・・・(普通の人なら別にどっちでもいい話だが。写真は大多喜駅で)。

ただ、それについて迷う必要はなかった。この日のこの大原行きの「急行2号」は、キハ28の方が「レストラン列車」とかいう貸し切り扱いになっていたのだ。イタリア料理のコースを乗車時間一杯で楽しむもので、事前予約制である。まあ、「この線に乗る」というのを予め下調べしていたら、料理を申し込むということもできただろうし、あるいは逆コースをたどってもいいかなとも思った。そこは出たとこ勝負のサイコロの旅だから仕方ない。

Dscn2747ならば、と一瞬でキハ52のほうに乗り込む。10人あまりの乗り継ぎ客がいたが、ボックス席に陣取ることができた。

Dscn2752この車両、引退前は新潟の大糸線を走っていたもので、ワンマン対応の整理券発行機や料金表は大糸線のものがそのまま残されていた。また扇風機にはJR西日本のマークがあしらわれている。走っていた雰囲気を残そうという感じである。

Dscn2750さらに、中吊りポスターはかつての国鉄の列車やダイヤ改正のPRである。こういうのを持っている人、集めている人というのはいるものだ。そういえば途中の大多喜駅の近くに鉄道資料館があった。以前、所属していた旅行サークルの集会をこの房総で主催した時に訪ねたことがあるが、イベント列車の運行にはその辺の有志の協力も大きいのだろう。

Dscn2754Dscn2759それらを思えば、キハ28に乗れなかったのは残念だが生身を見ることができたし、52に乗れたことで大満足である。外は次々にのどかな車窓が展開するが、その風情を味わえるだけで十分である。

Dscn2772何だか夢中になる中で大多喜に到着。ここで列車行き違いも兼ねて8分間の停車。先ほど上総中野ではほとんど時間がなかったが、これだけあれば写真撮影もゆっくりとできるし、トイレに行くこともできる。大多喜から先が急行料金がかかる区間ということで、ここで下車する人もいる。大多喜城や城下町見学に出かけるのだろう。

Dscn2767ここ大多喜は徳川四天王の一人、本多忠勝が城を構えたところである。今の地理感覚なら、「江戸(東京)から離れた房総半島の田舎に城を構えるなんて、田舎じゃない」というところだが、当時の大量輸送、遠方輸送となるとメジャーなのは海運。例えば関西、東海地方から海流に乗って江戸に来るとなれば、出会うのは三浦半島に房総半島である。そのうちの一つである房総半島に有力大名を置くことで、それらににらみを利かせる、あるいは海路から江戸を攻める勢力があるとしたらまずそれを本多家が引き受ける・・・という思惑があってのことだろう。まあもっとも、房総といえば『南総里見八犬伝』にも表れるように、里見家というのが有名なのだが。

Dscn2768そんな中、本多忠勝を大河ドラマの主人公にしようという観光PRも行われているようだ。来年の大河ドラマは黒田官兵衛。果たしてその中でも本多忠勝が登場することはあるだろうか。

Dscn2770さて、小休止の後、「急行外房」として大原に向けて出発。がぜん、汽車旅ムードが広がってきた。

Dscn2775国吉駅の手前で車内放送がかかり、「第2五之町踏切」を通過するという。ここは警報装置も遮断機もなく、クルマも通れない歩道と黄色と黒の踏切の表示があるだけのところ。私も列車の最後尾に行くが、通過した瞬間は気づかず、後方に見えるわずかな踏切板を見て初めてわかったくらいである(写真手前の踏切)。

ここをあえて放送したのは、その形もそうだが、「ゆる鉄」で知られる鉄道写真家・中井精也氏のお気に入りの撮影スポットというからである。この「何もない踏切」というのが旅心、テツ心をくすぐられるようで、踏切だけの写真、あるいはこうした国鉄型気動車と組み合わせての写真も数多く発表されている。

さらに、今年のオリックス・バファローズのスタメン発表曲であるDAISHI DANCEの『A.T.W! feat. GILLE×SHINJI TAKEDA』が収録されているアルバム『WONDER Tourism』のジャケット写真の舞台もこの踏切で、中井精也氏の撮影である。以前にアルバムを通して聴いたのだが、独特のテンポとムードとテクノの心地よさがある音楽で、いすみ鉄道の詩的な風景(を撮る写真)とマッチしているようにも思う。

Dscn2786その踏切の最寄駅が国吉駅。こちらでも8分ほど停車。ここでは今は稼動していない腕木式信号機や、廃車となったキハ30などもある。

Dscn2778Dscn2777またここはムーミンのキャラクターが駅のあちこちにいることでも知られている。私はムーミンの世界はほとんど知らないのだが、その世界に通じるものを、このいすみ鉄道のまったりとした車窓や雰囲気の中に見るのだろう。

Dscn27921時間ほどの気動車の旅を楽しみ、終点の大原に到着。再び急行列車で折り返すというのもいいだろうが、どうせなら今度は外房線に乗り、時計回りか反時計回りかは別にして久しぶりに房総半島を一周して「大暴走」というのにしたほうがよさそうだ。13時を回り、昼食の心配もしなければならないところだが、結局は大原からは時計回り、安房鴨川行きに乗車することに・・・・。

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小湊鉄道に乗車

2013年09月23日 | 旅行記C・関東甲信越

関東のサイコロ1日旅で出かけることになった小湊鉄道&いすみ鉄道。まずは小湊鉄道に乗るべく、内房線の五井駅で乗り換える。ここでまずは房総横断乗車券を購入する。小湊鉄道といすみ鉄道を通して前進する限りは途中下車自由というもので、これで房総半島を暴走・・・もとい横断することになる。

Dscn2707Dscn27081両で上総中野行きとなるキハ213は昭和52年の製造。ただしこれでも小湊鉄道の中では最も新しい車両である。座席の上部には冷房も設置されているが、この日は風もほとんど出ていない。天候はまだ持っているが車内はムシムシした感じである。車両の最後部の座席に陣取り、少しだけ窓を開ける。

Dscn2713私が来た時はまだ座席もほとんど埋まっていなかったが、出発時刻になるとほぼ満席となる。また女性の車掌も乗り込んできて乗客の相手をするが、私のところでは「冷房を入れますので窓を閉めてください」と言われ、冷房に扇風機が回る。これもレトロな感じがする。

Dscn2715内房線の線路と分かれ、近郊区間を走る。早くも田園風景である。「都心から最も近い里山へ!」ということで、東京から快速で60分、千葉からだと普通でも20分、その他、羽田約50分、横浜約67分、新宿約80分というのが五井までのアクセスである。そのこともあってか、その筋の人たちだけでなく、気軽に遊びに行こうかという女性や中高年のグループも目立つ。

Rscn2729木造駅舎も数多く残っており、また手書き風の駅名標も面白い。なかなか全てを新しくしようというだけの余裕がないのかもしれないが、今ではそれが土日などは遠くから客を呼ぶのだからわからないものである。

Dscn2739途中の里見で列車行き違いのため4分停車する。今でもタブレットを使用した閉塞区間であり、それを手にホームを行き来する駅員の姿も見られる。

Dscn2738ただ一方では、駅の待合室や駅前では日曜の朝市が開かれており、そちらに目が行く人もいる。顔なじみの乗客だろうか、何か買い求めて「これどうぞ」と車掌に渡す人も。「昨日は全然お客さんいなかったんだけどねえ」などとしばらくの会話が始まる。

Dscn2734五井駅でもらった時刻表によると、今乗っている列車は五井を10時59分に出発して、終点の上総中野には12時11分に到着。まあ、この前に上総中野まで行くのが五井9時10分発で、結果を見れば大阪から新幹線などを利用して五井から上総中野まで行くなら今乗っている列車でいいということになる。時刻表が手元にない中で時刻を探ったのだが、ここまでは当たり。

Dscn2724ただ気になるのが、終点の上総中野では次のいすみ鉄道大原行きまで2分しかないこと。まあ、小湊鉄道が遅れたら待つくらいのことはするだろうが、2分というのは慌ただしい。ましたや、この12時13分発の大原行きというのがまた特別で・・・・。

ともかく「まずは乗って座席を確保する」と心配で意気込んでいたのだが、実際にホームに来るとやれやれというか、ちょっとガッカリな展開だったのだが・・・・。

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サイコロで選ぶ関東一日旅

2013年09月22日 | 旅行記C・関東甲信越

9月初め、東京本社にて研修を受ける機会があり、前日が移動日ということで1日空くことになった。せっかくなので大阪を早くに出発し、1日を東京近郊で過ごすことにしよう。

ちょうどこの日は2020年のオリンピックの東京開催が決定した日。テレビ中継でその瞬間を見届けた後に出発する。さぞかし東京は盛り上がっていることだろう。時間が時間だけに朝のスポーツ紙にはその記事は載っておらず、新大阪の売店で売られていた一面は「桧山引退」・・・。

新大阪からのぞみに乗車。日曜の朝ではあるが結構な乗車率である。

さて、「1日を東京近郊で過ごす」と書いたものの、例によって行き先がいろいろとあってどれにしようかと悩む。自宅を出る時は雨が降っていたし、関東も雨の予報が出ている。行動範囲も狭まるかなと思い、鉄道乗車がメインかなとも思う。

そこで、例によってサイコロアプリの登場である。自分で行き先も決められないのかと思われるかもしれないが、まずは運任せにしてその後の流れは自分で組み立てることにする。

選択肢として挙げたのは・・・・

1.京浜急行で行く横須賀、浦賀、三崎港。まぐろを食べるか、横須賀の居酒屋に行くか。

2.熱いぜ横浜。港町めぐりでもし夜の天候が持てば、横浜スタジアムでのベイスターズ対カープ戦を観戦。

3.五輪決定直後の東京。上野鈴本か浅草で落語三昧の「お・も・て・な・し」。

4.小湊鉄道&いすみ鉄道。昔ながらの気動車に乗り、房総半島を大暴走。

5.果てしない水平線を見たい、銚子電鉄で犬吠埼。

6.被災地めぐりの続き、ひたちなか海浜鉄道で「がんばろう茨城」。

ということで、サイコロはのぞみが小田原を通過し、「あと10分ほどで新横浜に到着します」の車掌アナウンスが流れた後とする。1か2が出れば新横浜で下車、それ以外なら東京までそのまま乗車となる。

そして出た目は・・・・「4」。小湊鉄道&いすみ鉄道。旧国鉄の気動車を「急行」として走らせているいすみ鉄道となる。ただそれはいいが、「急行」の時間は何時だろうか。時刻表を持っていないので、慌てて携帯電話で時間とアクセスを確認する。ふと、小湊鉄道の起点である五井には、横浜からアクアライン経由のバスでも行けるんだったなということを思い出したが、もう遅い。

Dscn2702東京到着。リニューアルされた駅舎を眺める余裕もなく、急いで地下の総武線乗り場に向かう。乗るのは9時40分発の銚子行特急「しおさい3号」。これで千葉まで行く。その次の快速でも間に合うようだが五井では小湊鉄道にすぐの接続である。どうせなら気動車もゆっくり見たいし、快速のグリーン車に乗ることを思えば自由席特急料金は500円で足りる。

大幅な改装工事が行われている千葉からは内房線に乗り換え。前に内房線に乗ったのはもう5年以上前で、その時は当たり前に走っていた113系は全て209系などのロングシート中心の車両に置き換えられている。

雨の予報が出ているが、まだ天気が持ったまま房総半島に入り、10時33分、五井に到着。ここから気動車での房総半島大暴走となる・・・・。

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被災地を見る~気仙沼市街(最終)

2013年09月21日 | 旅行記B・東北

Dscn2399気仙沼の魚市場やリアスシャークミュージアムから南の市街地に出る。前回訪れた時の記事はこちらだが、その時は建物の敷地と道路の区別もほとんどわからず、焦げたような臭いやヘドロの臭いが立ち込めていたり、水が引いていなかったり生々しさを感じた。街の中は被災の状況をこの目で見ようという人たちが歩く姿が見られたが、クルマはほとんど通っていなかったように思う。

Dscn2402それが現在ではある程度道路も整備され、魚市場も再開されていることから工事関係に混じって漁業関係のクルマもしきりに行き交っている。津波で残った建物を利用したコンビニもできていたり、営業を再開しているホテルもある。おそらく工事関係者が長期で宿泊するためのものだろう。

Dscn2408Dscn2413前回は水浸し、泥だらけで近寄れなかった南気仙沼駅跡に行ってみる。ホームはかろうじて残っていたが線路は取り除かれており、完全に廃墟と化している。周辺もほとんどの建物が撤去されていた。

Dscn2423少し西に行くと線路が残っていたので上ってみる。以前、線路の上に自動車と漁船が打ち上げられているのを見たところである。ここも、自動車と漁船は取り除かれていたが後は自然に荒れるに任せている。

Dscn2427ここでクルマの向きを変えて、気仙沼駅に行く。高台にあるこの駅の周辺は何事もなく機能している。ただ、ここにやってくる気動車は一ノ関からの大船渡線だけで、大船渡、盛方面や気仙沼線はBRTによる運行である。時刻表もそのように置き換えられているが、盛方面は1時間に1本、柳津方面は途中の本吉までだと30分に1本、柳津までは1時間に1本と、なかなかの頻度ではある。

Dscn2432この先、気仙沼線や大船渡線が完全に復旧する日は果たしてくるのだろうか。BRTも鉄道に準じた扱いではあるが、やはり外とのつながりの印象が鉄強いのは鉄道であると思う。

帰りの飛行機の時間と空港までの100キロ以上の移動を考えると、気仙沼をそろそろ出る時間である。結局、開館日に合わせる形で来る予定にしたリアスアーク美術館は、行くことができなくなった。まあ、これも気ままな旅ならではのことで、またいつの日か気仙沼を訪れるきっかけになることだろう。

Dscn2436国道45号線を南下する。もう一度、被災した海岸沿いの景色をハンドルを握りながら進む。夏の日差しが眩しいが、海は穏やかでのんびりと泳ぐのにもってこいである。しかし、あの震災では海は自然の牙をむいて沿岸の町並みを飲み込んだ。改めてそのことに思いを致す。

改めて勉強になったこと、考えさせられたこと、わずかだか現地の人と話せたこと、美味かったこと・・・いろいろなことが思い出される。移動が長く疲れたが、強く印象に残る旅だったと思う。

皆が心から復興を実感できる日はいつ来るだろうか。改めてその日が来ることを祈りつつ、最近は注目度が低くなった被災地関連のニュースもチェックしたいものである。

また、行ってみたいなあ・・・。

・・・さて、1ヶ月近くに亘って拙ブログにアップしてきた「被災地を見る」関連、ご覧いただきありがとうございます。拙い雑文ですが、少しでも被災地の今の姿の理解につながればと思います。

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被災地を見る~気仙沼港を見る

2013年09月19日 | 旅行記B・東北

Dscn2365気仙沼の港を歩く。「グラウンドゼロ」からもほど近い一角に「復興屋台村 気仙沼横丁」というのを見る。プレハブの建物が並ぶが、気仙沼の魚介類やふかひれなどを扱う店が多い。2年前に訪れた時にはここもまだ倒壊した建物の整理が終わっておらず、家の裏庭に津波で流されてきた乗用車がひっくり返っていて、このまま撤去・解体してよいか持ち主に尋ねる貼り紙があったりしたのを憶えている。そこに屋台村である。

Dscn2363うーん、これが夜だったり、あるいはこの旅がクルマでなければその一軒に入って生ビールでも煽りたいところである。ただそれができないので、せめて昼食をということであれこれ回る中、雰囲気がよさそうな「大漁丸」というのに入る。

ドアを開けると、テーブルに腰かけていたおっさんが「おっ、オレとよく似たのが入って来たなあ」と声をかけてくる。昼間にこういう位置で腰かけているのは何かいなと思うが、その後の話振りからするとオーナーであろう。

Dscn2364気仙沼の名産ということで(さすがに秋刀魚はもう少し後だったが)マグロとカツオを合わせた丼を注文する。ここに限らずあちらこちらの店で海鮮丼を出して観光客の呼び込みを図っているが、素材はいいのだろうが海鮮丼というのはそもそも値段の張る一品である。個人的にはご飯はご飯、刺身は刺身でおかずとして、あるいは酒のあてとして楽しみたいのだが。まあ、被災地での仮オープンの店ということで、出来るものが限定されるのは致し方ないところである。

一品を待つ間、「どちらから?」と声をかけられる。大阪からだというと「結構遠いところからご苦労さまでした」と返される。なかなか東北と関西というのは離れているものだ。「オレ大阪って行ったことねえから、いっぺん行って本当に美味いたこ焼きを食べてえのよ。この辺のたこ焼きって不味いのばっかで・・・。」

復興の実感について訊いてみると「いやいや、全然よ」という答え。「国とか役所の規制がうるさいから、いつまで経っても進まない。これが民間ならもっと速く何かできているよ」とのことである。「気仙沼も高い防波堤を造ろうと言ってるけど、そんなの意味ないよ。ここ(気仙沼)はすぐ裏が高台なんだから、住むのは皆そこに住まわせて、ここは船だけ置いてりゃいいんだよ」と。確かに河北新報の一面にそのような話題が載っていたのを思い出す。その中に「もっと他の復興費用に使うべきだ」という住民の声も高いというコメントもあった。

Dscn2389「今度の震災だって結局は『天災』だから、それでおカネをもらおうなんてダメ。むなしいよ、そんなの」と。まあ多分に「人災」の面はあるから100%「天災」とは言えないと思うが、そこに裁判で損害賠償を求めるというのに違和感を覚えるのは確かである。この記事を書く前に、石巻での幼稚園児の送迎バスが津波で流されて園児が亡くなったことへの損害賠償を認める判決というのが出ていたが、遺族のやるせない思いとは別に、それをカネに換算しようという動きはいかがなものかと思う。

最後に「気仙沼の魚、大阪に持ってったら売れるかねえ?」と訊かれる。私は黒門市場の関係者ではないから何とも言えないが、新鮮さを保っての輸送ということをクリアすれば、関西の人にも「被災地」というのを少しでも身近に感じられる機会ではないかと思う。もっとも、関西には紀伊半島、熊野灘という大漁場を控えており、それに勝たなければならないが、それでも関西にもっと東北とのつながりを持ってもらいたいところである。

Dscn2394港を歩く。漁船が係留されている防波堤は地盤沈下もあり容易には入れないが、それでも道を隔てた魚市場は見事に改装されて多くの客で賑わっている。

Dscn2398また、その横にあるガソリンスタンドでは、震災が起きた14時46分を指したまま停まっていた時計があるのだが、前回は壁に掲げられたままだったのが、今はケースに入れられている。

このまま歩けば南気仙沼駅を中心とした市街地である。一度クルマを取りに返り、改めてこの被災エリアを回ってみようと思う・・・。

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被災地を見る~気仙沼・グラウンドゼロ

2013年09月16日 | 旅行記B・東北

鹿折唐桑から1キロほど走って気仙沼の港に差し掛かる。2011年の6月に訪れて以来のことである。その時はまだ震災から100日というタイミングで、港のあたりも倒壊した建物がまだまだ残り、辺りは何だか焦げたような臭いもしていた。その時の訪問記事はこちら

Dscn2367今訪れてみて、かつてフェリー乗り場の立体駐車場だったところもきれいに整地され、外部からの訪問客用の無料駐車場になっていた。ここをベースに少し歩くことにする。あの歩いた時の記憶がよみがえってくる。

Dscn2371前回の時に「これだけは頑丈に残っていたなあ」という感想を持った「港町ブルース」の碑は、相変わらずそこで観光客を出迎えていた。

Dscn2372地元の酒である「男山」や「両国」の建物も倒壊していたのだが、現在は外部をフェンスとシートで覆われ「この建物は登録有形文化財です。国内外の募金により修理されています」とあった。ナショナルトラスト運動というやつかねえ。なるほど、津波で流されてきて鎮座しているだけの大型漁船よりは、伝統的建物で地元にも経済効果をもたらす酒造会社の復興のほうが地元のプラスになるだろうし、こういう形での文化財保護というのは理解の得られることだろう。

Dscn2355Dscn2358さて、私が前回の気仙沼方面で印象に残ったのが「グラウンドゼロ」というところ。2001年のアメリカ同時多発テロになぞらえての名前で、震災発生の14時46分を指し示す時計、漁で使うビン玉や大漁旗がなびくところである。その時は周囲を被災した建物に囲まれていたこともあって、よりそのメッセージ性が強調され、インパクトがあったものだ。

Dscn2357今回訪れてみると、周囲の建物は完全に解体され、このモニュメントというかオブジェの一角には草が茂っていた。自然に荒れるままというよりは、それもモニュメントの一つということであえて植えた様子のものもある。大漁旗こそなくなっていたが、広くなった(ように見えた)エリアではオブジェの数が増えているようにも思えた。

前回の記事で、この「グラウンドゼロ」を造った伊藤さんという方からありがたくコメントもいただいたのだが、伊藤さんは今でも町の復興のために尽力されているようである。ブログ「街角ブロガー~冒険と科学の日々」でその様子がうかがえる。震災直後はまず被災者への鎮魂、追悼ということだったのが、少しずつ時間が経つに連れて、こうしたアートを通しての活動に広がっているようだ。こういう姿を見るのは、何だかうれしい。

Dscn2384もう少し港町を歩く。かつては昔ながらの商店街があった一角ではプレハブながら福興商店街が並んでおり、食事だけではなくさまざまな店が置かれている。

Dscn2385そんな中で、建物の外でこういう形で「写真」が描かれている光景を見る。ここに写っているのは現在生きている人か、あるいは故人か。もし津波の犠牲者の写真だったら見ていてやるせない気分だし、生きている人ならばどういう意味があって写真を出しているのか。この後回ったところでもこういう光景を見た。それがフランス人の写真家で「ストリート・アーティスト」の肩書を持つJR(鉄道やないで)という人のパブリック・アートの作品というのを知ったのは、この記事を書くにあたって改めて気仙沼関連のブログや記事をネットで検索したことからである。

これは私の勝手な印象であるが、気仙沼というのは何かそういう創作意欲というのをかられる雰囲気があるのだろうか。塩釜、東松島、石巻、女川、七ヶ浜、南三陸、陸前高田と今回の旅で回る中で、震災から2年半経過してもまだ「食うや食わずや」といったところもあれば、ごく普通の生活も取戻しつつあるところもあり、さまざまな顔を見せてくれたが、こうした「アート」という面での復興に向けた取り組みは初めて見た。何か、アーティストの琴線に触れるものがあるのかもしれない。

・・・今回行ってみようと思ったリアスアーク美術館というのもそういうキーワードで結びつくのかもしれないな。

さて港町を少し歩いたところで時刻は昼近い。気仙沼にも少しずつ漁業が戻ってきており、何か魚を食べることができればな・・・・。

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バレンティン、ついに本塁打日本記録更新

2013年09月15日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

・・・55号タイの時にも拙ブログで記事にしたから、そら日本記録更新の時にも書かないわけにはいかないだろう。またしても東日本大震災被災地めぐりの記録は中断して。

神宮での対阪神戦、これをわざわざサンテレビが自社制作で中継するというのもこの局らしいが(ただ、実況などは他の関西マスゴミの偏向実況より冷静で、落ち着いて聴けるのだが)、そのおかげで第一打席、第二打席と56、57号を見ることができたのはよかった。

球場全体の盛り上がりがよかった。また、2本打たれた榎田もしばらくは「日本記録を打たれた投手」という言われ方はされるだろうが、これをバネに、来年はバレンティンを抑えるぞという気持ちでがんばってほしいところである。

その前に、明日の関西マスゴミ各紙の一面は「榎田」やろうね・・・・。

まあ、来年にもなれば「バレンティンの日本記録」は残るが、それを打った投手は誰かというところまでは世間の人はそう憶えているものではないが・・・。王貞治の場合は当時の日本新記録53号を打ったのはどの投手からか取り上げられないし、ローズの場合は55号が松坂だったのは私も観戦したことで憶えているものの、カブレラの55号も誰からだったか・・・そんなものである。

さてこうなると、バレンティンの今年の記録がどこまで伸びるかということになるが、これを更新してやろうという日本人打者は出てくるのだろうか。それにもっとも近いのは西武・中村、日本ハム・中田ということになるかな。さらに素質ではソフトバンク・柳田という声も最近では高い。・・・・T-岡田?もう知らんわ・・・・。

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被災地を見る~鹿折唐桑・第18共徳丸

2013年09月14日 | 旅行記B・東北

Dscn2334東日本大震災の被災地めぐりも最終日。今回の最後の目的地であり、以前に一度訪れて「その後どうなっているかを見てみたい」と思った気仙沼にさしかかる。陸前高田から国道45号線を南下し、途中では穏やかなリアスの海を眺める。

被災後の気仙沼は一度だけ訪れたが、その時は港から南気仙沼駅あたりまでを歩いた。ただこれから向かう鹿折唐桑は訪れておらず、これから見る光景は初めてである。

海からは少し奥まったところであるが、津波で流された宅地の跡地にさしかかる。復興商店街のプレハブの建物があったり、またしても被災地に出店したコンビニにも出会う。

Dscn2340そしてこのコンビニの前が・・・津波でここまで流されてきた漁船・第18共徳丸が保存・・・というのか安置というのか、鎮座している。全長60メートル、重量が330トンというが、あまりの巨大さにあんぐりとしてしまう。ちょうどこの辺りは津波の後の火災でも大きな被害のあったところである。

Dscn2344ちょうどこの時間、見物する人の姿もポツポツ見られたが、そこに観光バスが1台やってきて20人ほどの団体がわらわらと降りてきて一斉に第18共徳丸のほうにカメラやスマホを向ける。こちらも奇跡の一本松に負けず劣らずの震災スポットである。ちょっとコンビニの駐車場にクルマを停めさせてもらったのだが、このコンビニも漁船の見物客を当て込んでこの場所に建てられたのだろう。

Dscn2339ただこの第18共徳丸は、震災から2年半が経過するこの時期、市民アンケートで「保存の必要なし」との声が多かったとして、震災遺構としての保存は断念したという。まあ、船主も取り壊しを希望していたことだし、地元の人たちの声として解体ということなれば致し方ないだろう。この記事を書いている時にはすでに解体工事にも着手されており、10月にはその姿も見られなくなるという。

先ほどの団体客に混じって私もカメラを構えているが、ふと考えてみると、こうして立っているのは「人の家があったところ」である。人の家のリビングか和室か、それがあったところに土足で踏み入れているわけで、まあこのような状況だから誰も何も言わないにせよ、自分でもちょっと気持ちが浮かれているのかなと思う。

Dscn2342「当市においては、東日本大震災において甚大なる被害が発生しました。ここはその中心となる場所の一つです。写真撮影等にあたっては犠牲者や被災者へのご配慮をお願いいたします。 気仙沼市」

こういう看板が第18共徳丸の前に掲げられている。被災スポットをいろいろと見て回るのも、被災地の現状や復興に向けた動きを知る一助にはなると思うのだが、やはりそこには「配慮」というものを忘れてはならない。鎮魂と追悼・・・・。

Dscn2351これは石巻の大川小学校を訪れた時にも感じたのだが、思いは被爆地・広島の原爆ドームに及ぶ。何かああいう形での鎮魂、追悼、そして(原爆と津波という違いはあるが)その恐怖を後世に伝えるモニュメントとして残すという選択肢もあったはずだ。ただその一方で、ここで暮らしていた人たちの生活を取り戻すということも考えなければならない。最も良くないのはそういう論議がいつまでも平行線で先に進まないことで、今回は「漁船は解体、少しでも地元の経済復興を」という結論を出したわけだから、これからは本当の復興に向けた動きを応援したいものである。

Dscn2346Dscn2348その上は鹿折唐桑駅。こちらも駅舎が倒壊し、線路は折れ曲がったところ。皮肉なもので、この駅からちょうど正面のところに第18共徳丸があり、ちょうど見やすい角度というのが・・・。

Dscn2347再びこの線路を列車が走ることがあるのだろうか。そちらも気にかかるところではある。ただ今は列車がやってこない駅でも、こうしてひまわり等の花がきれいに咲いており、手入れが行き届いている。地元の人たちの思いはこういうところに現れていると思う。

また、花を咲かせますように・・・・。

いよいよ気仙沼の市街地に入る。震災から100日の2011年6月に訪れて以来、あれから町はどうなったかを見ることになる・・・・。

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被災地を見る~陸前高田

2013年09月14日 | 旅行記B・東北

「奇跡の一本松」がすっかり有名な「観光地」となった陸前高田。ともあれ、現在の様子をということでカーナビを頼りに陸前高田の駅を目指す。目印となる建物や信号は全くない。

Dscn2314これが駅前の様子。小さなロータリーがあって、そこには駅があり、駅前には小さいながらも地元の人たちに親しまれた商店街が広がっていた・・・と思う。

Dscn2318それが歩道と車道の区別は残っているものの、今ではガレキもすっかり取り除かれて本当に何もない。笑ってはいけないところだが、広々としてしまった一角で一人ポツンと立っていると、何かラインをまたいで別の境地に行ってしまうかのように思う。

Dscn2319これが雨でも降っていれば気持ちも沈むところだが、カラッとした青空が広がっているからだろうか、それとも、3日間レンタカーを乗り回し、これでもかこれでもかと被災地の(上辺だけでも)見てきたことで、どこか感覚がおかしくなってきたのかもしれない。

Dscn2311奇跡の一本松の駐車場にも案内があった物産センターに行ってみる。簡易なつくりでの営業であるが三陸の土産物が売られている。やはり奇跡の一本松がらみの商品が多い。地酒のラベルにもなっていたり。

Dscn2323再び海岸方面に向かう。やってきたのは髙田松原に隣接した道の駅。ここには慰霊台が設けられ、先ほど見てきた陸前高田駅前の在りし日の写真も飾られていた。死者、行方不明者を合わせると1700人を超え、人口の7%が失われた陸前高田。こちらの戸羽市長は奥様も津波で亡くした中、復興が進まない被災地の現状を常に外部に発信し、著書を出したりメディアのインタビューにも積極的に顔を出している。

Dscn2326でもまあ、奇跡の一本松を巨額の費用をかけてああいう形でいち早く公園として整備したのは、よそ者から見て「いきなりそれをやって大丈夫なのかな」というふうにも思う。あまりに、周りの何もなさとの対照が目立つように感じたので。

旅から戻ってから見た新聞によれば、「被災地で一からまちをつくる」ということの「実験」として、津波で壊滅した市街地から1キロほど内陸に入った一角にイオンが新たに出店するという。これまでは出張販売という形で営業所を出していたが、これから復興関連需要が見込まれることもあり、新たな街づくりの商業の中心となるために本格的に新たなショッピングセンターを建設しようというものだ。

Dscn2331ただ、それはそう簡単に行くだろうか。沿岸部の復興が進まない要因の一つに、土地の所有権というものがある。自治体が「こういう街づくりをしよう」と計画しても、地権者が亡くなったり行方不明だったりで話ができないとか、話をしてもやはり土地を手放さないという声があったり、特に漁業となると海辺に家がないと意味がないとか・・・難しいものである。津波の不安もある。津波に関しては、高台に街を移転させようという考えもあれば、防波堤をより高く強固なものにして従来のところで街を復興させようという考えもある。どちらも一理あるし、どちらも問題がある。何とも難しいものだ。いずれにしても、その土地に住む人たちが自分たちのこととして真剣に議論すべきことで、私のようなものがどうこうできるものではないが。

陸前高田は本当に足を伸ばしただけだが、いろいろな心の動きがあった。突き抜けたかと思えばまた考え込んだり、さまざまな思いを胸に、この旅の最後の目的地である気仙沼に向けてクルマの向きを返す・・・・。

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被災地を見る~奇跡の一本松

2013年09月13日 | 旅行記B・東北

国道45号線を北上して気仙沼にさしかかる。途中、被災した駅に立ち寄るなどして結構時間が過ぎているが、一度気仙沼は通過してさらにその先、陸前高田を目指す。数百キロ離れた関西から来たのだ、もう20キロあまり足を伸ばそう。

陸前高田はJR大船渡線の乗りつぶしで通過しただけで、高田松原は訪れたことがない。だから「奇跡の一本松」と言われても「ああそうか」というものだが、町の本格的な復興の前にいち早く震災モニュメントとして復元されているとあって、どんなものか見ておこうと思う。

Dscn2289リアス式海岸の風光明媚な区間もあり、ドライブとしては快適に陸前高田に入る。こちらも工事の真っ盛りでダンプが数多く行き交う。市街地の手前には津波に遭った気仙中学校の校舎がある。「愛宕の山の裾近く 鳴瀬の流太平洋 浦松原を庭として 建ちたる気仙中学校」というのが校歌である。その歌詞のとおり太平洋、そして高田松原を目の前にした風光明媚なところにある中学校といえるが、やはり津波が・・・。校舎の4階まで津波が到達したという。

Dscn2290奇跡の一本松のモニュメントは高田松原跡の最も端にある。国道沿いに「一本松駐車場」という看板がある。周辺は倒壊した高田浄化センターの復旧工事が行われており、一本松に行くには駐車場にクルマを停めて、少し先の交差点で国道を渡り、工事現場の中を抜けて歩くことになる。およそ10分の距離。それでも多くの人が夏の日差しの中、一本松に向けて行き交う。

Dscn2297一方で、大船渡線のBRTは臨時に「奇跡の一本松」駅を設けており、公共交通を利用して訪れるならこちらで下車することになる。

Dscn2300Dscn2303そしてその現場。これは浄化センターの復旧工事の余勢をかって小さな公園にしたかのようである。7万本の松があったという高田松原、海岸のほうを見ると正に何もなく、改めて「奇跡」という言葉が浮かぶ。

今さらもう高田松原を復原することはできないため、震災の歴史はこの一本松が受け継いでいくことになる。

私としては「ふ~ん」という思いしかなかったのだが・・・・。

Dscn2306これまで被災地をいろいろ見てきた中で、震災の歴史を後世にどう伝えるか、被災建物を残すなど被災地をモニュメント化することについても賛否両論がいろいろあった。完全に撤去してしまうところもあれば、「これはこのまま残すしかないのではないか」と思うものもあった。それぞれの自治体のスタンスにもよるだろうし、費用のこともあるが、ここに来て「新たな観光スポット」としての位置づけをはっきりとさせたスポットに初めて会うことになった。陸前高田市としてのメッセージがこれで伝わる。

Dscn2310一本松から見える高台が切り開かれる工事の様子を見る。あちらにも新たな町並みを造ろうというようだ。こちらも含めて、それほど時間は取れないが少し陸前高田の町をクルマで回ることにする・・・・。

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バレンティン、55号放つ

2013年09月11日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

夏休みでの被災地巡りの紀行文はお休みして・・・やはりこの話題でしょう。GO!!バレンティン!

ヤクルト・バレンティンが11日の試合で広島の大竹からライトへの本塁打。これでシーズン55号となり、9月のこの時期での日本タイ記録ということで、この先の新記録、そしてそこからどこまで伸ばすかが注目されるところとなった。実にすばらしいことだし、ここまで来れば誰も到達できなかったところまで行ってほしいものである。

かく言う私だが、やはり55号となれば2001年の近鉄・ローズのそれに尽きる。あの場面、西武・松坂からの一発をライトスタンドでナマで見て鳥肌が立つものだった。

ただ本当のことを言えば、あの試合をいつまでも覚えているのは55号だけではなく、9回の北川の代打本塁打、そして一発でサヨナラの場面でローズを迎えた松坂が鬼の形相で真っ向勝負を挑んでローズを三振に打ち取ったこと、ただしその後の中村ノリに逆転サヨナラ本塁打が出て、松坂がマウンドでうなだれたこと(あの回、西武はわざわざ指名打者を解除して松坂を打順に入れた。それだけ背水の陣を敷いていたこと)、そして私がライトスタンドで興奮のあまりへたり込んでしまったこと・・・。

あの試合は近鉄が優勝に向けて大きく前進するか、あるいは西武が勝って優勝に一縷の望みをつなぐか・・・というものだった。一つ一つが優勝の行方を占うものであったと言っても過言ではないだろう。他の人の記録をどうこういうのではないが、それだけローズの55本は優勝への一打ということで印象に残るし、一方でバレンティンの55本は、個人技としてはすばらしいがそれがもっとヤクルトの勝利につながってほしいなと思った。クライマックスシリーズで巨人を一振りで粉砕するというのも、プロ野球の面白さの一つだと思うが・・・。

ここまで来ればあとはどこまで本数を伸ばすか。今後破られることのない記録となるか、ヤクルトファンでなくとも楽しみなところである・・・・。

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被災地を見る~気仙沼線・2

2013年09月10日 | 旅行記B・東北

国道45号線を気仙沼に向けて北上する。志津川を過ぎてからは右手に海、左手には気仙沼線の路盤、正面には「ここから(あるいは、ここまで)過去の津波浸水区間」の標識、そして降り立てば津波で流された集落・・・が繰り返される。BRTの専用道の工事が行われる光景も見られる。やはりそうなると気仙沼線の「鉄道としての復旧」は事実上放棄したのかな、と思わせる。

Dscn2258津波で流された清水浜(しずはま)駅。この区間は高架橋で結ばれているところで、清水浜駅も土手の上にある。少し離れた国道沿いにBRT停留所があり、そこで仮設建物でオープンしているコンビニに休憩がてらクルマを停めて様子を見るが、ホームなどに被害がある様子がわかる。

Dscn2260あれだけの高さを津波が襲い、右手に目を転じると田畑や家屋が流されて荒地となっている様子が伺える。駅の辺りも工事車両が入っており近づくことはできない。

Dscn2264歌津駅。ここは駅の下にBRTの待合室つきの停留所が設けられている。一旦ここにクルマを停めて坂道を上がる。

Dscn2273道路は鉄道の基盤のあったところにつながっており、その先は専用道用に舗装されてトンネルへと続いている。トンネルの手前には信号が新たに設けられているが、これは仮にバスが両方向からやってきた場合の交通整理用である。専用道路の幅は鉄道の単線分しかなく、バスでもどこかで離合をしなければならない。

Dscn2272一方で駅のほうに目を転じると、少し高い位置にあるため津波での壊滅は免れたがホームのひび割れもひどい状況である。こちらはやむを得ず放置しているということか。

Dscn2446なおこれは気仙沼からの帰りに寄ったところだが、この記事では気仙沼線のことを書いているので先に触れておくと、国道から少し入ったところにある小金沢という駅。ここは松林を通して海岸がすぐ下に見え、また駅のホームにひっつくような格好で一軒宿があり、「ホームの向こうに旅館があるという点で、日本一の駅」(松尾定行『ローカル線各駅下車の旅』)とされているところ。

Dscn2447ただここも線路の路盤がえぐられている。宿のほうは今は営業しているようだが、駅舎はなくなっている。ここは高いところなので津波というよりは地震の揺れで倒壊したのだろう。これまでどうしても「津波」に目が行きがちだったが、まずは地震の揺れがあったという根本のところを思い起こす必要があった。

Dscn2275Dscn2277_2大谷海岸駅。駅のすぐそばに砂浜が見え、オープンな感じの駅・・・のように見えるが、元々は駅と砂浜の間には松林があった。それも流されて後は土嚢が積まれている。ホーム脇には献花台も設けられている。ここはまだ道の駅が仮設建物で開かれており、自転車の旅行者も休憩していた。

Dscn2280ロープで仕切られておりホームには入れないが、ここも風光明媚な海岸で、この日のように穏やかな海が広がる景色は心癒されるものである。改めて「あの津波がなければ・・・」と思いを致すところ。

そろそろ気仙沼の市街に入る。最初は気仙沼の市街地を見ようかと思ったが、国道45号線は市街地を迂回する形でさらに北上している。ならば、先に陸前高田まで行き、その後で折り返しで気仙沼に戻ろうか。リアスアーク美術館には時間があれば立ち寄るということで・・・・。

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