まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

別に、西も金子もFAで出ていけばええやん。

2018年07月31日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
AMEMIYAが冷やし中華始めたか何か知りませんが、猛暑日続きの大阪で涼めるスポットが大正ドームということでいいのかな。

冷やし中華よりも連日寒い試合をありがとう。

このバファローズ対イーグルス戦、バファローズファンですがイーグルスの3タテを期待します。

そのくらいの危機感と、本当にそうなってしまった時の危機を感じてほしい。何なら、ZOZOに球団を売却して、新潟なり四国なりに本拠地を移してもいいと思いますよ。

そうなれば西やら金子やらも出ていくのでしょうが、別にええわ。そんなエラソーな口を叩けるほどの成績を残したのか。

自らの不甲斐なさを周りの環境だけのせいにするのは、一般サラリーマンが転職していく中でも最低の理由ですよ。

・・・ことのついででどうでもいいけど、平日の大正ドームの試合中継の時、三塁側の龍谷大学と奥村組の看板の間で赤いのやら黄色いのやら着て黄色のメガホン叩きながら「毎試合ビジターチームへの応援」している、プロレスの上田馬之助みたいな奴が目障りで・・・。

マジで、こいつ刺してもええか??
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第3番「粉河寺」~西国三十三所めぐり2巡目・27(粉河まつりと巡拝団体)

2018年07月29日 | 西国三十三所
13時半に粉河に到着。粉河寺へは駅から一本道の参道を歩いて10分ほどの距離だが、これまで訪ねた中で途中に食事のできる店はなかったように思う。寺とは反対側の国道沿いに行けば何かあるかと向かうと、国道を挟んで和歌山の二大スーパーであるオークワと松源が並ぶ中、まいどおおきに食堂を見つける。ここで昼食をいただいてエネルギー補給ができた。

さて再び駅に戻る。駅前にはだんじりが置かれている。粉河まつりのものだという。毎年7月の最終の土日に行われるとあり、もう1週間遅く訪ねていればちょうど祭りに出会えるところだった。今年は7月28日が宵宮、29日が本宮だから、ちょうどこの記事をブログに載せているタイミングである。これまでさまざまな札所めぐりをしているが、特に何かの行事に合わせてとか、特別な日と絡めてとかいうことは意識しない分(野球の独立リーグ観戦はおいとくとして)、現地に来て「1週間前に来ていればちょうどあの行事を見ることができた」「あと1ヶ月後だったら特別の御開帳が行われていた」ということもある。28日~29日は他地方に出かける予定にしており見物することはできないのだが、何だかこういうものを現地で目にするとちょっと惜しかったなと思う。

粉河まつりは、粉河寺の境内にある産土神社の祭りで、紀州の三大祭りの一つである。その起源をさかのぼれば粉河寺が開かれた奈良時代までさかのぼるが、現在のような形で行われるようになったのは室町時代とも、江戸時代とも、あるいは戦後とも言われている。まあ、さまざまに姿を変えてというところだろう。

駅前の道は片側1車線ずつの車道だが、その道端にシートでかぶせられたものがある。これは山車だろう。また少し進んで行くと、提灯をいくつも飾った山車に出会う。中には「ひげこ」と呼ばれる竹ひごで飾られたものもある。茶道の茶筅のようにも見える。この「ひげこ」は神の依代の役目をしており、神様がこれを目印に降りてくると言われている。

西国の札所めぐりに来て神社の祭りの山車を見るのも意外な展開だったが、季節や時間帯を変えて訪れるとそれまでには気づかなかった新たな出会いや発見があるから、繰り返し来てみる面白さはある。

大門をくぐる。「涼んで行きませんか~」と茶店から声がかかる。食事は先ほど済ませたばかりだし、甘いものは普段ほとんど食さないのでともかくお参りとする。

粉河寺の特徴というのは建物の大きさにある。大門とともに重要文化財の中門があるのも特徴で、その造りの精緻さも江戸時代ならではの技法を感じさせる。

ただ何と言っても豪快なのはこの庭園である。ちょうど寺の人が植栽に水を撒いているところだが、ホースも結構伸ばしてなかなか大変そうである。

暑い中、本堂に到着する。大屋根の下に入ると風が吹き抜ける感じがして意外と涼しい。先ほど水を撒いていた効果なのかな。この暑さの中にあって自然のご褒美かと思い、お勤めを行う。

朱印をいただいてしばらく本堂の縁側の長椅子に腰掛けていると、「クラブツーリズムです」と、団体ツアーの添乗員が入ってきた。バッグには納経帳やら軸が入っていて、納経所の窓口が新たに一つ開けられた。

しばらくすると僧侶姿の先達さんに連れられて30人くらいの団体がやってきた。添乗員と寺の人との会話から、名古屋方面から来た模様である。どのようにお勤めを行うのか外から様子を眺める。結構ゆったりしたペースでの般若心経である。名古屋から和歌山となると、青岸渡寺はそこだけで訪ねるとして、この日は紀三井寺、粉河寺、ひょっとしたら槇尾寺あたりも訪ねたのだろうか。夏場のツアーということで移動するだけでも暑くて大変だろう。

根来寺、粉河寺という紀ノ川沿いの名刹を訪ねて、駅に戻る。当初は、このまま和歌山線で終点の王寺まで行こうかとも思ったが、疲れてきたこともあり、早く帰宅することにした。結局、藤井寺まで最短ルートとなる橋本~南海高野線~河内長野~近鉄長野線のルートをたどった。

西国三十三所めぐりの2巡目もこれで残り7つとなった。その並びは三室戸寺、醍醐寺、清水寺、六波羅蜜寺、圓教寺、観音正寺、華厳寺である。京都に4つ、姫路、近江、美濃で一つとバラバラである。実は28日~29日にかけて、大垣場所とリンクさせる形で先に第三十三番の華厳寺に行く予定にしているのだが・・・。

(追記)ここまで事前に下書きをしていたのだが、東から西に進むという台風12号のために、大垣行きを中止したことは先の記事のとおりである。結果論として、移動日とした28日の日中はまだ鉄道も動いていたし(この日は夜以降に運転取りやめとなったが)、29日も夕方の帰りの時間には鉄道も運転再開見込みだから行けたと思うが、やむを得ない。また、台風のために粉河まつりも宵宮、本宮ともに中止となったそうだ。あの山車は結局練り歩くことなく片づけられるとは、地元の方も残念なことだろう・・・。
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第34番「根来寺」~近畿三十六不動めぐり・19(覚鑁上人が開いた新義真言宗ゆかりの地)

2018年07月28日 | 近畿三十六不動
連日の猛暑が続き、特に東海、近畿では38度や39度という、人間が発熱した時の体温をも上回る最高気温を記録する日が続いている。国内最高気温は埼玉の熊谷が41.1度と記録更新するなど、列島全体が大変なことになっている。

そんな中の7月22日、炎を背負った仏である不動めぐりということで、1ヶ月ぶりに近畿三十六不動めぐりに出向く。今回は34番の根来寺。高野山にある二つの塔頭を除くと和歌山県で唯一三十六不動めぐりに選定されている寺院である。鉄道の最寄駅は和歌山線の岩出駅だが、歩くと4キロ以上かかる。暑さの中でちょっとしんどいかなと思うが、根来寺のホームページによると岩出駅と阪和線の和泉砂川駅、南海の樽井駅を結ぶバスがあるという。

また、同じ和歌山線の沿線となれば、岩出から少し東に行った粉河には西国三十三所の粉河寺がある。2巡目としてはまだ訪れておらず、どうせならこの二つを合わせる形で訪ねたいところである。さらに、寺参りの後には和歌山の町に出て、ラーメンを食べたり久しぶりに行く居酒屋をのぞくということはできないものかと思ったりもする。

そんな思いで、まずは東の粉河寺に行き、それから岩出駅に移動してバスで根来寺、そして夕方に和歌山ということで和歌山線や和歌山バスの時刻表をいろいろ見てみるが、なかなか思うような組み合わせができない。根来寺で2時間以上過ごすプランになる。根来寺は大きな寺ではあるが、2時間というのはちょっと長すぎやしないかと思う。

結局、ポイントを絞ることにして、和歌山の町はパスすることにした。根来寺については岩出から和泉砂川、または和泉砂川から岩出へ抜けるコースを取ることにした。後はどちら回りかということだが、和泉砂川~根来寺~岩出~粉河と通り、最後は和歌山線を王寺まで乗り通すことで循環ルートができ上がる。ちょうど、根来寺の滞在時間が1時間半というバスダイヤの組み合わせを見つけることができた。そのため、自宅をゆっくりめに出発することになった。

阪和線の和泉砂川駅に到着。泉南市に属する駅だが、降り立つのは初めてである。市の中心部でないためか、駅前は住宅はあるものの思ったより閑散としている。ここから10時58分発の岩出行きの和歌山バスに乗る。駅前からは和歌山バスと、泉南市のコミュニティバスが出ている。キャラクターは泉南熊寺郎(せんなん・くまじろう)と呼ぶそうだ。梅林で知られる泉熊寺(せんゆうじ)から取った名前で、県道から少し入ったところにある。刀をかざして威勢がいいなと見ていると、この刀はアナゴをモデルにした「あなご刀」だという。

やって来た小型バスの乗客は私だけ。駅近くの町中を抜け、和歌山との県境に向けて走る。根来寺にはだいぶ昔にドライブで一度訪ねたことがあるが、道幅も狭く、結構ヒヤヒヤしながら走った記憶がある。それから道路が改良されたと見えて、片側2車線ずつの区間もあり、長いトンネルで県境をクリアしていく。

和泉砂川から15分ほどの乗車の間に乗り降りはなく、京奈和道の岩出インターを過ぎて、岩出図書館に着く。和泉砂川から岩出へのバスは2ルートあり、私が乗ってきた便は岩出図書館が根来寺への最寄りの停留所となり、図書館から根来寺は徒歩10分という案内だ。もう一つの便なら根来寺の門前を通る。

なかなか新しい造りの図書館の横を通る。

こちらからの便だと、根来寺の大門を目にすることができる。江戸時代後期に再建されたもので、仁王像もあり、堂々とした構えである。図書館経由の便だと寺まで遠いなと思ったが、こうした門が見られたのはよかった。当然昔はここが玄関だったわけで、かつての規模の大きさを物語っている。なにやらこの位置関係、スケールは小さくなるが高野山金剛峰寺の根本大塔と大門のそれに似ている。もっとも、根来寺の場合は寺の境内に町が広がるということはなく、昔からの塔頭のようなところとか、つぶれてしまった割烹料亭の建物など、寂れた風情を醸し出している。

根来寺と書かれた石柱があり、そこの小屋で拝観料を支払う。対応した係の方が境内の道順の案内をした後に、「ちょっと待ってな」と、奥の冷蔵庫から何か取り出してくる。きゅうりの漬物だ。「塩分補給、塩分補給」と言いながら、あらかじめ入れていた切り目のところで5cmくらいに切って渡してくれる。「ホンマに暑いし、また上に行ったらお茶も出してるんでどうぞ気を付けて」と送り出される。まずはそれをかじりながら参道を歩く。

坂道と石段を上がって着いたのは光明殿。根来寺を開いた興教大師覚鑁の像が祀られている。外陣に上がることができるということで、一旦脇の本坊に行った後、中に入る。光明殿に接して行者堂や聖天堂があり、庭園を楽しむこともできる。

覚鑁は平安後期の人物で、「真言宗中興の祖」とも呼ばれ、「新義真言宗」を興したことで知られている。元々は高野山にいて、大伝法院や密厳院を建立し、真言宗の立て直しを図ったが、山内の権力争いに敗れて高野山を追われ、やって来たのがこの根来の地である。後に根来寺が羽柴秀吉の侵攻で壊滅的なダメージを受けてしまうのだが、生き残った僧たちが大和や京に逃れ、その教えを長谷寺や智積院に根付かせ、後の真言宗豊山派、智山派として受け継がれる。また根来寺も江戸時代には紀伊徳川家の保護を受けて、新義真言宗も復興し、現在に至っている。

根来寺は室町時代末期に最盛期を迎え、塔頭寺院や坊舎は450、寺の領地は72万石、根来衆と呼ばれる僧兵を1万人以上抱えていた。寺全体の広さも350万平方メートルとあり、甲子園球場が20個以上入るという。根来衆は鉄砲も自前で生産する集団でもあり、戦国大名のいなかった紀伊において雑賀(さいか)衆とともに勢力を張っていた。それが秀吉の雑賀攻めの時に根来寺も攻撃される。境内がことごとく焼ける中で、残ったのは大塔、弘法大師堂、大伝法堂だけだった。それらが一角に並ぶ。この構図も高野山金剛峰寺に似ているように見える。

高さ40メートルと木造では日本最大の大塔は履物を脱いで中に上がり、四方から内陣に向けて手を合わせることができる。ここが大日如来のおわすところということで、根来寺のお勤めはここで行う。暑い中だが少し風が中に入ってくるような心持ちがする。

次いで隣にある大伝法堂に向かう。こちらは吹き抜け空間で、天井絵も描かれている。中央に大日如来、左には尊勝仏頂、右には金剛薩・という三尊像が並ぶ。この並びというのは覚鑁、新義真言宗の解釈による組み合わせという。大仏までの大きさではないが、昔からの姿というのがひしひしと感じられる。なお、大伝法堂は秀吉の兵火を免れたというものの、秀吉の命により京に新たに造る寺の本堂にしようと解体されてしまう。しかし寺が建立されることはなく、大坂まで運んだのはいいが今の淀川べりで放置されてしまう。この大伝法堂の部材があったのが、現在の此花区、私の通勤ルートの途中にある伝法である。何か仏教にゆかりがありそうな地名だとは思っていたが、根来寺の大伝法堂から来ていたとはね。

高野山と同じく根来寺にも奥の院がある。大塔のあるエリアから奥のほうに道が続いており、道の両側には墓地が広がる。これも高野山奥の院に続く道と同じようなものだ。ただ、高野山のように昔の武将や大名の墓があるわけではなく、現在の檀信徒たちの墓地ということで、水道があって桶が置かれていたり、枯れた花を回収する場所があったりと、現在も使われているところだ。その奥にひっそりと覚鑁の廟がある。高野山の弘法大師廟は訪れる人も絶えないが、根来寺の興教大師廟は実にひっそりとしたものだった。根来寺は高野山金剛峰寺のコンパクト版というふうに感じなくもなかったが、「真言宗中興の祖」という意味では似あっているのではないかと思う。

・・・と、ここまで来て、「今回は近畿三十六不動めぐりではなかったのか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれない。私も、ここまで大日如来や覚鑁に触れる中で、「不動明王は?」というところはあった。

ようやくそれに出会ったのは、根来寺の主要な伽藍(有料エリア)を抜けた外、現在の境内の東の端である。最近建てられた感じのこちらの不動堂には身代わり不動が祀られているそうだ。

その身代わり不動、外陣には「錐鑚(きりもみ)不動明王」という額が出ている。この不動明王は覚鑁の身代わりになったという伝説があるそうだ。高野山の権力争いの最中だった覚鑁は、相手方の僧から命も狙われるようになる。ある時、高野山の密厳院の不動堂にいた覚鑁を狙って僧が乱入してきた。すると堂の中には不動明王が二体並んでいた。僧は、不動明王は一体で、もう一体は覚鑁が姿を変えたのだろうということで、二体の不動明王を同時に錐で刺した。すると両方から血が出てきた。これは不動明王が覚鑁を守っているのだと思い、乱入した僧は恐れて退散した。これが「三国一の錐鑚不動」と呼ばれることになり、覚鑁が高野山を去るに当たってはこの不動明王も持ち出して根来の地に安置したという。

ここでようやく三十六不動のお勤めを行う。新義真言宗の興教大師ゆかりの不動明王なら選定されるのも納得である。

ここで、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロ。くじで出た候補地は、

1.神戸北(無動寺)

2.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)

3.湖西(葛川明王院)

4.生駒(宝山寺)

5.大原(三千院)

6.河内長野(明王寺)

そして出たのは「5」。三千院である。三千院といえば「は~ら~、たいらに3000点」・・・ではなく「きょ~と~、おおはら三千院」で始まる「女ひとり」でも有名なところ(はらたいら~は、嘉門達夫さんによる替え歌だが、その面白さがわかるのはおっさんの証拠だろう)。三千院が不動明王というのはこれまで知らなかった。

さて、次の粉河寺に向かうために岩出駅までバスに乗るわけだが、今度は根来寺のバス停を12時49分に出る便がある。バス停は不動堂から出てしばらくの所にある。こちらは先ほど乗ったのとは途中で分かれる別系統で、近畿大学の和歌山キャンパスを経由する。バスの待ち時間は20分で、昼食には短いが外のバス停で待つには長い。ちょうどバス停の横に岩出市の民俗資料館があったので、涼みがてら見学する。昼食は町中に戻ってからにしよう。

資料館では、古代から紀ノ川の流れで発展した地域の歴史や、根来寺の歴史について紹介されている。

また根来塗の展示もあった。根来寺で使うために制作された漆器が由来だが、表面に塗った朱漆が摩耗して、下地の黒漆が表に出てくるのが新たな模様を生み出すようで、工芸品としても知られている。中には、黒漆の模様を計算して朱漆を塗るものもあるそうだ。工房も併設されており、日によっては漆塗りの体験もできるようだ。

ちょうどバスの時間となり乗り込む。今度は数人の乗車がある。近畿大学のキャンパスにも停車するが日曜日のことで人の姿は見えない。この先は岩出の市街地に入り、駅に到着する。

時刻表では13時17分着となっており、和歌山線の次の粉河行きは13時44分である。駅前に食事できるところがあればと思ったがどうもなさそうだ。駅の日陰で涼もうかと思っていると、間もなく粉河から橋本方面の列車が入ってくるとの案内があった。それは13時14分発の列車。特段列車に遅れがあったわけでもなく、どうやらバスが早く着いたようだ。途中の停留所の所定の発車時間が何分か知らないが、まさかどうせ客が乗らないからと前倒しで発車したということはないだろうな。

おかげで30分早く粉河に向けて移動することになった。車両は国鉄型車両の105系。今時扇風機が回る車両である。確か来年くらいに新車が入るとかいう情報を見た様な気がする。車内には「ワカカツ」のポスターが目立ち、和歌山線沿線の活性化のPRがされているが、何か目玉みたいなものがほしいところだろう。

それはよいとして、食事はどうするか。札所めぐりでたまにやってしまう昼食抜きということになるのかな・・・?
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台風12号、影響あり

2018年07月27日 | 西国三十三所
7月も最後の週末になったが、台風12号が接近、本州に上陸する見込みである。

台風上陸じたいは日本の夏から秋にかけて珍しいことでもなんでもないが、この12号は何とも変わった動きをするようだ。

南太平洋で発生し、27日には小笠原諸島に接近。まあこれは普通の動きだ。普通ならそのまま太平洋を北上して、関東から東北、北海道にかけて多少強い雨が降るとか風が吹くくらいで通り過ぎる。

ところが、この12号は小笠原諸島を通過後、左フックのように進路を北西に変え、28日~29日にかけて関東から東海に上陸し、西日本を横断する予報が出ている。台風が東から西へ動くとは極めて異例だ。西から上ったお日様が東へ沈む・・・とまでは言わないが、このところの異常気象の現れの一つかと懸念する。また、その進路には西日本豪雨の被災地も含まれており、この上にさらなる被害とならないか気がかりである。

以下は私事の話だが、28日~29日は、岐阜の大垣に行く予定にしていた。目的は大相撲の夏巡業。5月に、プレイガイドのサイトを見ていると、大相撲の夏巡業のチケット案内が出ていた。名古屋場所のチケットは取れないにしても巡業はまだ空席があり、これまで巡業を観に行ったことがないのでどんなものか予定を検索していくと、夏巡業初日の29日の大垣場所のチケットを取ることができた。1階の桟敷席は完売で2階の椅子席の隅の方だったが、十分である。

大垣に行くならどうするか。巡業は朝8時開始なので、大阪からなら前泊が必要だ。28日を大垣への移動日にしてホテルは大垣駅前で押さえて、青春18きっぷも購入した。また、遠いところで近くまで行くのだからと、順番を飛ばす形になるが西国三十三所めぐりの2巡目として、第33番の谷汲山華厳寺にも行くことにする。1泊2日の旅としてもなかなか良い感じである。

・・・ただ、ここに来ての台風である。予報では28日の夕方から夜にかけて東海から関西を横断し、29日には中国から九州に抜けるという。ならば、28日は大雨の中の移動になるかもしれないし、場合によっては谷汲山に行くのは見合わせになるかもしれないが、29日の巡業そのものは問題なく行われるだろう。

無理をすれば行って帰ってくることもできるのだろうが、相手はめったにない動きをする台風である。行ったのはいいが帰りに東海道線などが運休してしまったら大変なことになるし、西日本豪雨も起こったばかりで思わぬ被害が出ないとも限らない。それらを考えると、ここは大垣行きそのものを中止しなければなという気持ちになった。大垣のホテルはキャンセル料なしで、また移動は青春18きっぷだったのでこれはまた夏の間に元を取ることは十分可能。肝心の巡業の座席とチケット代をフイにしてしまうことになるが、大事を取ることにした。

それについてだが、巡業は秋場所後にも行われる。ちょうどあるところで開催する巡業のチケットを取ることができた。これは西日本豪雨からの復興支援という意味でも(巡業じたいは豪雨に関係なくもっと前から予定されていたのだが)地元の人たちを喜ばせる興行になりそうだ。秋場所後ということで、ひょっとしたら今の3横綱のうちの一人は土俵を去った後かもしれないし、新大関が誕生した直後かもしれない。そうした楽しみもあるかもしれない。

・・・話は戻って、週末は台風で関西の交通も混乱するだろうし、それより気がかりなのは豪雨の被災地。これ以上の被害にならないことを祈るばかりである・・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~日の残るうちに帰還

2018年07月26日 | 四国八十八ヶ所
今回の四国めぐりは観音寺市と三豊市を舞台にちょうど24時間滞在したようなものである。

うどんの昼食も終えて、観音寺市の昔ながらの町並みを歩く。すると通りのあちこちに屋台が出ていたり、顔にペイントを施して揃いの袴姿の集団を見るようになる。

駅近くの市民会館やその駐車場にも屋台村ができており、さまざまな衣装の集団を見る。よさこいソーラン踊りの「連」である。この14日と15日、観音寺市中心部では「第53回かんおんじ銭形まつり」が開かれているのだ。前日は前夜祭として市民会館や屋台村も賑わっていたそうだ。15日がメインということで、よさこいソーラン踊りは市内のいくつかのゾーンを舞台に、98連、約3800人が演舞を披露するという。

市民会館の外では開会式が行われていて、連の代表者たちがプラカードを持って集まっていた。岡山など香川以外からも参加している模様だが、メンバーの中にはこのたびの西日本豪雨で被災された方もいるようで、その方の分も合わせて一生懸命踊るというコメントも聞かれた。

バスの発車まで時間があるのだが、この暑さでもあるし、そもそもよさこいソーラン踊りというのに興味がないこともあり、見物はせずにそのまま駅に向かう。土産物を買ったり、駅前の書店で涼んだりして時間を過ごす。この日も観音寺駅は列車と代行バスの乗り換え地点で、それぞれに向かう時間を問い合わせる客の対応に追われている。

そんな中で、改札口の上にある電光掲示板には、なぜか岡山・高松方面の特急の発車時刻が表示されている。駅員のうっかりだと思うが、指摘するのも悪いような気がする。

さて帰りの観音寺エクスプレス号の時間となり、駅横のバス乗り場に移動する。観音寺駅から乗ったのは私ともう二人だけ。帰りも先ほど変更したばかりなのに最前部の席が確保できた。おそらく隣に座る人もいないだろう。

前日の往路と同じルートなので車窓についてはいちいち触れないが、今回、善通寺エリアにつながる弥谷寺を訪ねなかったことで、観音寺エリアとの線をどうつなごうか思案する。次は8月の盆の夏休み時期に行う予定だが、これまでのパターンなら、いったん本山駅まで来ることになる。まあ、本山駅まで来たら、もし鉄橋が復旧していればそれを渡って観音寺駅まで行くだろう。一方で、行き帰りに観音寺エクスプレス号に乗り、鳥坂峠を越えたり善通寺の参道や五重塔の遠景もバスの車窓で見ている。

つながっていると見なして、本山駅まで行かずに弥谷寺への駅である詫間駅か、みの駅から始めるか。また時刻表とJR四国の運行状況を見比べながらになる。

坂出インターのバスターミナルまでの停留所で乗車はあったが、それでも半分ほどの乗車率である。あとは2席を使う形でゆったりと過ごす。3列シートで隣を気にしないのもいいが、4列シートで隣がいないというのはゆったり感が増してよろしい。

さぬきうどんの土産物がずらりと並ぶ津田サービスエリアで1回目の休憩となり、高松道、大鳴門橋、淡路島と順調に走る。

しかし、その先で時間がかかる。阪神高速神戸線渋滞の案内を見て、バスは迷いなく布施畑から新神戸トンネルのルートを取る。ただ、この時の神戸線の渋滞もそこまでではなかったと思う。普通に第二神明から神戸線でもさほど変わりなかったのではないだろうか。

遅れが出て三ノ宮駅バスターミナルに到着。次は、大阪駅バスターミナルに先に停車してから湊町バスターミナルに向かうルート。国道2号線から、生田川で神戸線に乗るのかと思うと素通りする。この先渋滞の国道43号線を進む。

東明で右折して湾岸線に入ろうとするが、この辺りが大渋滞。また、合流地点では高速バスなのにお人好しみたいに一般車にどんどん先を譲るから、なかなか進まない。こんなことするくらいなら、淡路島から第二神明と神戸線を走ったほうが先に着いたのではなかったか?高速バスは何がなんでも湾岸線に乗らなければならないのか?

結局、最後は湾岸線~淀川左岸線を走り、大阪駅バスターミナルに到着。結果は40分遅れ。この後湊町バスターミナルにもそのままの遅れで到着した。まだかろうじて日が残っていたのにホッとする。

さて次は弘法大師ゆかりの善通寺を含むエリアである。予報では8月上旬までは酷暑が続くという。その中でそれなりの距離を歩くことになるが、この時季としての楽しみもある。八十八所めぐりの中で終盤の盛り上がりの一つと思うので、熱中症には気をつけて楽しみたいところだ・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~銭型砂絵と大平正芳

2018年07月25日 | 四国八十八ヶ所
観音寺市の観光スポットといえば、先ほど回った神恵院や観音寺といった四国札所もあるが、それ以上に知られているのは「銭型砂絵」である。これは江戸時代の通貨である寛永通宝を模して造られたものである。

こういうのは最近のアート作品なのかなと思っていたが、江戸時代に造られたものが今も毎年春と秋に修復をしながら残っているというから驚く。ともかくそちらに向かうことにする。神恵院、観音寺の境内の裏手から上がる道があったようだが、来た時はそれに気づかず一度財田川まで戻り、琴弾八幡宮に上る鳥居の前を過ぎて、クルマも上がる坂道を上る。それだけでまた汗がどっと出る。

展望台に出る。写真はうまく撮れていないが、確かに海べりに寛永通宝の砂文字が浮かび上がっている。不思議な感じがする。

この銭型砂絵ができたのは1633年(寛永10年)で、領内を巡視する藩主の生駒高敏を歓迎するために地元の領民たちが一夜で築き上げたと言われている。観光案内ではそのように説明されているが、ウィキペディアの記述では、四国新聞の連載記事の一文として、寛永通宝が鋳造されたのは1636年(寛永13年)だし、生駒高俊が領内を巡視した記録もないことから「伝承には矛盾がある」としている。四国新聞の記事では、銭型砂絵が造営されたのは幕末の頃で、幕府から沿岸警備のための砲台建造を命じられた際に丸亀藩主の一興に供するために造営されたのではないかとしている。他には、元々は豊臣秀吉の千成瓢箪をデザインして造営したものを、幕府の巡検使が来るというので慌てて造り直したという説もある。

この砂絵だがまん丸の形ではなく、東西(縦)が122メートル、南北(横)が90メートルと縦長に造られている。これは視覚効果で、展望台から見下ろすとまん丸に見えるようにとの設計である。そういうことを江戸時代の初めにきちんと計算できたというのも驚きである。

展望台を下りて、麓にある道の駅に出る。ようやく冷房の効いた室内に入ることができてほっとする。しばらく休憩だ。地元の土産物や農産物の販売コーナーに加えて二つの記念館が併設されている。まずその一つである世界のコイン館に入る。銭型砂絵にちなんだスポットである。

中は撮影禁止だったので画像は紹介できないが、まずは貨幣の歴史から紹介される。そして日本の昔からのコイン、紙幣各種が紹介される。もちろん寛永通宝もずらりと並ぶ。

他にも世界各国から蒐集された紙幣、コインの数々もある。主要国だけではなくオセアニアやアフリカ諸国など、普段お目にかかることのないものも数多く並ぶ。その数はおよそ2000点と言われている。今この展示室の中にあるコインや紙幣を今の日本円に置き換えたらいったいどのくらいの金額になるだろうか。

続いて、同じ建物の2階にあるのが大平正芳記念館である。大平正芳は香川県出身で唯一の総理大臣で、その生い立ちから官僚時代、そして国会議員として、最後は首相として活躍した有様をさまざまな史料やパネルで紹介している。

大平正芳は自民党の保守本流である宏池会(現在の岸田派)の会長であるとともに、外務大臣としては日韓外交、日中国交回復の実現に力を注ぎ、その後大蔵大臣、自民党幹事長を経て1978年に首相に就任した。「ア~ウ~」という独特の節回しの人というイメージがあるが、内閣としては「田園都市構想」を打ち出したり、東京で初めてのサミットを開催したり、現在の消費税につながる税制構想もあった。ただこの消費税が内閣や党内の混乱を招き、1980年には内閣不信任案が可決して解散総選挙(初めての衆参同日選挙)となる。しかし、その選挙戦の最中に急死してしまう。それが「弔い選挙」、「大平への同情票」のようなことになり自民党が圧勝した。

記念館は地元だから当然大平正芳の功績や人柄をプラスに顕彰するものだが、朴訥で謙虚な人柄、知性があり、政治思想や財政に対する考え方には先見の明があったというものが多い。ただ、人柄がいいというのが、いろんなものが入り乱れる政界では果たしてどうだっただろうか。もし選挙期間中に急死しなかったら、仮に自民党が勝利したとしてその後どういう政権運営を行っていただろうか。数は少ないが大平正芳に関する文献も出ているようなので、そうしたところで検証されていることだろう。

入口のところに来館者が署名する帳面がある。ふとその最初のページをめくると、「石破茂」と堂々と書かれたものがあったのに驚く。2018年7月13日とあるから、私が訪ねた前々日のことである。ネット記事を検索すると、今は党内でフリーの立場の石破氏だが、この秋に行われる自民党の総裁選を見据えてか、党の地方支部の会合をいろいろ回っているそうだ。その中で香川県に訪れることがあり、合間を見て大平正芳の墓参りやこの記念館の訪問を行ったそうだ。報道の中には、大平がかつての宏池会の会長だったことを踏まえて、総裁選に向けて現在の宏池会会長である岸田氏への「秋波」と揶揄するものもあった。

自民党総裁選は実質次の総理大臣を決める選挙と言えるが、現時点では安倍首相の3選は堅いとされる中で、石破氏や岸田氏の動きも注目されている。政治というのも何が起こるかわからないこともあるので、この行方は私たちもしっかりと見なければならないなと改めて思うところである。(記事の下書きをしていた後で、岸田氏は今回の出馬見送りを表明した。これで安倍首相の3選は動かなくなったのでは)

二つの記念館見学で涼むこともできたし、伊吹島のいりこも土産で購入できた。11時を回り、早めの昼食とする。道の駅に隣接してうどん店がある。「きたのうどん」というところで、讃岐に来たのだからうどんの一杯もいただこうと中に入る。今はやりのセルフ式ではなく、昔の食堂の雰囲気で店員が運んでくれるタイプである。

小エビの入ったかけうどん(大)をいただく。麺はさすがに讃岐だなということで歯ごたえもそれなりにあったが、私が感心したのは出汁。いりこの香りがふんだんに鼻から入ってくるのと、いい感じの塩加減になっている。カツオと昆布を合わせるのが主流の関西のうどんの出汁とは違った味わいで、朝から大汗をかきながら歩いた身には潮の香りがいい「塩分補給」である。いい回復になった。

これで今回の四国めぐりのメニューは終わりとなった。後は駅まで戻り、往路と同じく観音寺エクスプレス号に乗って大阪に戻るわけだが・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~第68番「神恵院」、第69番「観音寺」

2018年07月24日 | 四国八十八ヶ所
今回の四国めぐりの記事の中で、「第68番の神恵院(じんねいん)と第69番の観音寺(かんおんじ)」とセットで書いているのにお気づきだろうか。これから訪ねるこの二つの札所は一ヶ所にまとまっており、一粒で二度おいしいではないが番号を一つ稼ぐことができる。

この二つの札所の由来は、琴弾山(七宝山)の山頂にある琴弾八幡宮にある。寺伝によると、703年に法相宗の日證上人がこの山で修行していた時に、宇佐八幡から八幡大菩薩が降臨し、海から神船が琴の音とともに現れた。それを引き上げて山上に八幡宮を祀り、神宮寺を建立した。その後、807年に弘法大師が琴弾山に来た時に八幡大菩薩のご託宣を受けて、薬師如来や聖観音菩薩などを彫って伽藍を建立し、観音寺とした。また琴弾八幡宮の別当寺として神恵院を当てた。

その後、四国八十八所が形成されるにあたり、琴弾八幡宮が68番、観音寺が69番となった。当時は神仏習合の思想が当たり前だったために、こうした並びとなった。しかし明治の神仏分離、廃仏毀釈により、琴弾八幡宮が切り離されることになった。そこで、八幡大菩薩の本地仏である阿弥陀如来を観音寺の西金堂に移し、別当寺の神恵院を68番に当てた。これが、一つの境内に二つの札所が並び立つことになった経緯である。

・・・と、それはよいとして9時前だがただただ暑い。仁王門をくぐり、石段を上がったところの日陰にどっかりと腰を下ろす。境内の中央にあるのは観音寺の大師堂で、無理にエリア分けするとすれば、右手が観音寺エリア、左手が神恵院エリアという感じ。本坊は新たに建て替えるとかで更地になっており、納経所は仮の建物にある。

ちょうどやって来た笈摺姿の女性二人が「えらい汗ですねえ」と声をかけてくる。本山寺から歩いて来たというとびっくりしていた。「クルマで回っていても暑いのにねえ・・」と。休んでいる間に先にお参りしていただく。

少し落ち着いたのでまずは神恵院の本堂に向かう。そこには寺とは思えないコンクリートの建物。市民会館を思わせる伊予小松の第61番の香園寺本堂の建物を思い出す。

ただ階段を上がると格子扉の建物が現れる。何とも不思議な空間だ。こちらは八幡大菩薩の本地仏として阿弥陀如来を本尊としており、コンクリートの外壁のところがちょうど日陰になっているのでそこでお勤めとする。2002年にできたこの本堂、もともとは観音寺エリアにある薬師堂が神恵院の本堂だったという。

本堂の隣が大師堂となっており、こちらでもお勤め。この大師堂は元々は単独であったものが台風で失われたため、閻魔大王を祀る十王堂の右半分を間借りした造りである。どうも神恵院エリアは移り変わりが激しいようだ。

通常ならば本堂と大師堂を回ると納経所で朱印をいただくのだが、こちらは二つの札所がセットになっている。ということは、観音寺エリアでも同じことをもう一度やらなければ納経所にたどり着くことができない。観音寺というだけあって本尊は聖観音菩薩。建物は16世紀中ごろのものだという。さすがにこちらは長宗我部元親の兵火で焼かれた・・・という歴史はないようだ。

そして正面の観音寺の大師堂にお参り。観音寺エリアは昔からの建物が並んで落ち着いた感じである。さすがに4回も続けて般若心経やらご真言を唱えると喉もカラカラになる。

ここでようやく納経所に向かう。何も言わなくても朱印は2ヶ所分いただける。ただし料金は300円×2ヶ所で600円となる。中には「片方だけでええから300円にしてえな」という人もいるのかな。

さてお参りをして10時前。これで今回の四国めぐりで訪ねるとした5ヶ所は終了。八十八所めぐりも70番まで終えて、第71番の弥谷寺からは次の善通寺シリーズで訪ねることになる。そして、帰りのバスは15時10分発だが、この後見物するところがあるといっても時間があり余りそうだ。それならばと、スマホを操作して帰りのバスをもう1本早い13時10分発に変更する。

今思えば、それだけの時間があったのなら、代行バスとなった区間も含めて帰りは鉄道を利用してもよかったと思うのだが、その時は乗り換えなし、バッグも担がなくて済むということでバス一択だった。

これで残り3時間ということになったが、後は駅に戻るまでの道のりなので十分だろう。ということで、観音寺のスポットとして有名なものを見に行くことに・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~予讃線鉄橋損壊を見る

2018年07月23日 | 四国八十八ヶ所
本山寺の参詣を終えて、ここから「逆打ち」の形で神恵院と観音寺を目指して歩く。

本山寺のすぐ横を財田川が流れている。この川沿いにずっと歩いた河口近くが札所である。さすがにこの先山道を歩かされることはないだろう。河川敷には財田川リバーサイドパークというのが広がる。地元の人たちが芝生の上で楽しんでいるのはグランドゴルフのようだ。熱中症にはくれぐれもご用心を。

少しずつ鉄橋の姿が大きくなってきた。また対岸も土手が一部壊れていて、これから復旧作業が始まるらしく、作業員や車両が集まっている。こちらも熱中症にはくれぐれもご用心を。一日の作業もご安全に。

そして鉄橋に差し掛かる。道は鉄橋の下をくぐる。これまで写真で見たように、6本の橋脚のうち1本が根元から傾いており、線路にもゆがみが出ている。また架線柱も傾いている。

鉄橋被害といえば、この4月に大雨のために橋脚が傾いた近鉄南大阪線の大和川橋梁を思い出す。あれと比べると予讃線のほうが重症のように見える。近鉄は当初復旧にかなりの日数がかかると言われていて、私も通勤をどうしようか不安に感じたのだが、わずか1日半で復旧したのはさすが「最強路線」だった。ただその近鉄と同じように・・とはいかないだろう。その後、この区間の運転再開はは8月10日目処と発表されている。お盆の混雑のピークには間に合わせるつもりのようだ。また、あまり触れられていないが、予讃線不通の影響で、伊予三島、新居浜、松山の貨物列車も停まっていて、現在は代行ではなく高松を取り扱い駅としてコンテナの持ち込み、持ち出しを行っているそうだ。専用列車を仕立てるほどの輸送量がある伊予三島の紙関係などは特に大変だと思う。

今回の西日本豪雨は広島、岡山、愛媛で特に大きな被害が出たわけだが、香川については目立った被害はこの鉄橋くらいのもので、死者、行方不明者がいなかったのは幸いである。だが、広い範囲で被害が出たのは事実。改めて被災した地域へのお見舞いの手を合わせる。

この後は日差しを受けながら、左手に財田川、右手に田畑や民家という中を逆打ちで歩く。こちらが逆打ちということは、順打ちで歩く人もいるわけで、向こうから菅笠に白装束の人が近づいてくる。前日、雲辺寺で見かけた修行の方だ。おはようございますと挨拶を交わしてすれ違ったが、その人は雲辺寺の後で大興寺に向かっているはずだ。何とか観音寺市内まで歩いてきて宿泊し、朝一番で神恵院と観音寺を回って本山寺に向かっているところか。本山寺から次の弥谷寺へは12キロほどあるが、あの調子だと今日中に善通寺までくらいには行きそうだ。

神恵院、観音寺への標識も出て、汗だくながら先が見えてきた感じである。今度は白衣は着ずにウォーキングスタイルにサングラスというマッチョな方とすれ違う。すれ違いざまに無言ながら右手だけで合掌のポーズを取るのが何だか粋に感じた。この人も善通寺まで歩くのかな。先の修行の方ともども、くれぐれもご安全に・・・。

ただ、今回の四国めぐりの中でこうして歩きで回っているのを見かけたのはこの二人だけだった。そりゃ、この暑さではね。

さて、そのお二方に比べれば私など汗だくのブヨブヨである。汗がシャツだけでは吸いきれずズボンを伝って足のほうから落ちるのを感じる。そんな中、観音寺の町並みを見ながら歩き、本山寺から1時間で神恵院、観音寺の境内に差し掛かった・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~第70番「本山寺」

2018年07月22日 | 四国八十八ヶ所
7月15日。朝5時に起床する。外はすっかり明るくなっていて、またこの日も暑くなりそうな気配である。

前日夜になってこの日の回り方を決めたのだが、6時42分発の代行バスで本山に移動して、先に第70番の本山寺に参詣。その後歩いて予讃線の鉄橋の損壊現場を見に行くことにする。そこから本山駅までは1キロ弱の距離で、そのまま戻って観音寺駅への代行バスに乗ってもいいが、その先の第68番神恵院、第69番観音寺へは駅からまた歩きである。それならば、予讃線の鉄橋から直接歩いて神恵院と観音寺を目指すことにしようか・・。地図で見ると4キロほどというところか。帰りのバスは15時10分発なので時間には余裕がある。

部屋で朝食を済ませ、ホテル代と前夜のビアガーデン代をまとめ払いしてチェックアウトする。駅のコインロッカーに大きなバッグを入れて、バス乗り場に停まっている観光バスに乗り込む。こういう場合、きっぷの扱いはどうなるのだろうか。バスの前にいた係員に聞くと「乗車券は普通に窓口で買っていただいて・・」とのこと。とりあえずもう一度駅舎に戻り、券売機で本山まで210円のきっぷを買って乗車する。バスに乗る分には改札はなかった。

観光バスには学生など10人程度が乗車して出発。日曜日の朝ということでこの程度の乗車なのだろうが、平日の通勤通学となると1台でさばけるのかどうかが気になる。まあ、後続にもバスが停まっていたから状況に応じて増車するのだろう。

バスはいったん線路から離れ、途中から財田川沿いに走る。見た感じは穏やかな流れで、あの豪雨で鉄橋が傾く損害が起きたとは信じがたいところがある。

10分ほど走るとバスがぎりぎり入れる細道を通り、本山駅に到着した。幸い駅はバスの駐車や方向転換ができる程度のスペースがあり、他にも2台が待機している。時間帯によってはこの待機車両も運転するのだろう。またホームには高松行きの快速「サンポート」が停車している。通常なら伊予西条5時39分発の列車で、観音寺は6時58分発。そして本山が7時02分発なので、ここから先の区間は通常運転に近いダイヤでの運行である。バスに乗ってきた他の客は皆そのままホームに向かい、列車に乗り込む。また、クルマで送られてきた人もいる。

駅のベンチで笈摺を羽織り、お参りの準備をする。係員はいたがバスに乗ってきた客の改札をする様子もなく、手元には210円のきっぷだけが残った。ズルを考えるなら、観音寺~本山は(多度津行きの代行バスなら観音寺~多度津は)タダで移動できるということになるのかな。こういう状況なのでJRの対応も緩くなって・・・いやいや、そういうことを考えてはいけないな。

ともかく本山寺まで向かう。駅からは1キロあまりという位置で、駅正面の道をまっすぐ行く。この辺りは三豊市の豊中町というところ。豊中というと大阪の市の名前を連想するが、香川の豊中も三豊平野の真ん中ということでその名前がついている。集落を行くと寺の横の塀に出た。立派な門があるのでここが山門かと思ってくぐると、境内の参道の途中に出た。この門は大門というそうで、元々は別の寺の山門だったのを移築したものだという。

境内を横切って改めて山門(仁王門)の前に立つ。先ほどの大門と比べると小ぶりに見えるが、鎌倉時代後期に建てられた国の重要文化財にも指定されている建物である。両側に塀があるわけでもなく、仁王門だけがポツンと建っている。改めてここで一礼して境内に入る。

開放的な感じの境内で、正面に本堂がある。鎌倉時代後期の建立で、こちらは国宝に指定されている。国宝といっても自然にそこに建っている形で、仰々しさは感じない。駅から少し歩いただけですでに大汗だが、一息つけて改めてお勤めをする。西日本豪雨の義援金の箱もあったので、何がしかの募金協力をしておく。

807年というから平安の初期、本山寺は平城天皇の勅願で、弘法大師の手で開かれた。本尊は八十八所で唯一の馬頭観音で、脇には薬師如来と阿弥陀如来を祀っている。この阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれているそうだ。本山寺が長宗我部元親の兵に攻められた時(やはりこの人物が出てきたか)、本尊を守ろうとした住職が兵士に切りつけられた。そして兵士が本堂に入って厨子を開けたところ、肩から胸にかけて血を流している阿弥陀如来像が現れた。阿弥陀如来が住職の身代わりになったのだ。その姿を見た兵士たちは恐れをなして退散し、本堂と仁王門は消失を免れたという。

本堂の横にシートで覆われているのは五重塔。明治時代に再建されたものだが、それから100年を過ぎて老朽化が激しくなったために、一度すべてを解体して「平成の大修復」が行われている。あちらこちらに修復のための寄進がよびかけられている。それが完成するのが今年平成30年というから、何とか平成に間に合う形である。もう少し後に訪ねていたなら完成した五重塔を見ることができたのに・・というところである。ネットで過去の写真など見ると、本堂と五重塔の組み合わせというのが結構立派に写っている。またこういう景色を実際に見ることがあるだろうか。

本堂の手前にある大師堂に向かう。朝の時間ということで境内は人もまばらで、地元の人が散歩がてらに手を合わせたり、笈摺姿の人もクルマでの巡拝のようだ。

他にも閻魔大王などを祀る十王堂や、「拓魂堂」というのがある。戦前、三豊の地から1000名以上の開拓団が満州に渡ったが、ソ連軍の侵攻やその後の流浪の中で多くの命が失われた悲しい歴史がある。戦後になって阿弥陀堂にて慰霊することになり、「拓魂堂」の名がつけられた。よく神社や寺院に「忠魂碑」が立てられているが、「忠」というのが昔の「天皇陛下万歳」を連想させてあまり好きではない。しかし、「拓魂」という言葉には何か引かれるものを感じる。そういうことはあったと歴史の時間で少し習ったとしても、実態はどうだったのか、そもそもなぜ満州に渡ったのかについては私も知らないことが多い。また勉強しなければと思う。

開放的な境内にさまざまな歴史を感じた後で、本堂の裏にある本坊の納経所へ。地元の小学校からのお接待ですという貼り紙があり、塩飴と子どもたち手作りのしおりが籠に置かれている。せっかくのご厚意なのだからと一つずついただく。

これから第68番の神恵院、第69番の観音寺に歩いて向かう。地図を見ると、このまま財田川沿いに沿って歩けばよいとある。ここだけ変則的な「逆打ち」コースとなるが、ともかく歩こう。時刻は8時前だが気温はもう30度を超えているのではないだろうか。前日レンタカーを使ったこともあり、せめて4キロくらいは歩いてみようと杖を手に進む・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~観音寺でビアガーデン

2018年07月21日 | 四国八十八ヶ所
14日の夜は観音寺駅の南側にある観音寺グランドホテルに宿泊する。実際現地に来てみると駅の北側にもビジネスホテルがあるし、他にビジネス旅館もあるようだが、普段利用の予約サイトに載っていたのがグランドホテルだけだったのと、ビジネスホテルとしてそこまで高くないので予約していた。観音寺ではもっとも大きく、かつ古くからのホテルのようである。レンタカーを返却する前にいったん駐車して、先にチェックインして荷物を下ろす。

画像を見ると高層の建物に見えるが、客室部分は左側の4階建ての建物のみで、右側の高い建物は宴会場やホールなど用である。この日もいくつかの団体がホールを使うようだ。外からの宿泊客というよりは、こうした集まりの場としての役割が大きいのだろうか。

満タン給油(といってもこの日は30キロあまりしか走行しておらず、給油も3リットルほどだった)の後で駅にレンタカーを返却する。駅の外で代行バスの案内をしている係員に、翌朝の本山までの代行バスの時間を確認する。始発は6時10分、その次が6時42分。以後、現在臨時ダイヤで運転されている列車の本山発車の30分くらい前を目安に出ているようだ。なお、本山から観音寺へは列車の到着に合わせて運転とのこと。ちなみに観音寺から多度津への直通便は、乗車と待ち合わせを合わせて所要1時間で連絡するとある。通常ダイヤで1時間後に走る次の特急に乗ったのと同じ時間にその先の目的地に着くように運転するそうだ。

駅の跨線橋を渡ると右手にマックスバリュやドラッグストアなどのショッピングセンターがある。ホテルの近くにはコンビニがないので、明日の朝食などをここで購入しておく。

さて夕方、「夜の八十八所」をどうするかだが、事前の調べでは、周囲には郷土料理を楽しむ居酒屋というのがなかなかない。グルメサイトにはいくつかの店は載っているが、駅から徒歩30分とか、タクシー利用とか書かれているのがほとんど。ホテルの1階に和食レストランがあるのでここにするか、あるいはショッピングセンターで買い込んで部屋飲みするかと思っていた。

そんな中で目に留まったのがこちら。ホテルの屋上ビアガーデン。シーズンの週末、ホテルの9階屋上をビアガーデンにしているそうだ。フロントで訊ねると当日でも空きがあり、料金は翌朝のチェックアウト時に宿泊費とまとめ払いというので申し込む。通常3900円のところ、宿泊者は3700円で利用できる。ビアガーデンの料金としては標準的だ。

18時からオープンというので屋上に上がる。札所めぐりの後の一人ビアガーデンというのもワイルドだろう。丸テーブルに陣取り、まずはジョッキを傾ける。この日はバスが遅れたり、レンタカーのハンドルを握ったり、ロープウェイに揺られたりといろいろあったが、これで人心地着いた気分である。料理についてはビアガーデンにつきものの一般的な揚げ物や焼き物、枝豆やサラダなどだが、鉄板で焼きたてのサイコロステーキもあったし、締めのコーナーにはぶっかけうどんの小鉢もあった。

日が少しずつ傾く。周りに高い建物もなく、遠くの海岸線も見渡すことができる。向こうに浮かぶのは、うどんの出汁に欠かせないいりこの産地である伊吹島。少しずつ沈む太陽に島のシルエットが浮かび上がる。その光景にスマホを向ける人も多い。日が沈むのをじっくり見ながらのビールというのも贅沢で、西日本豪雨の被災者のことを考えると申し訳ない気もするが、夕日に向かって手を合わせる。

時間が経つに連れてビアガーデンの客も多くなってきた。スポーツの大会か合宿で来たような子ども連れの団体もいる。もちろんビールを飲むのは引率の大人だけだが、子どもたちも料理を取ったり、ジュースやアイスクリームのサーバーに並んであれこれ取っている。他には、宿泊でないような利用者もいる。周囲になかなか店がないためにホテルのビアガーデンを利用しているのだろう。ジョッキの中にコカコーラの紙コップが並ぶのは、その人がハンドルキーパーなのかな。

さすがに日が沈むと日中ほどの暑さは和らぎ、風も感じられる。ふと見ると、大型のスクリーンにはプロ野球のオールスター戦の中継が流れている。この日は地震からの復興祈念の意味を込めて熊本での開催である。このところ相次ぐ大規模な自然災害。何年かすれば西日本豪雨からの復興祈念として開催するのかな。その時は広島か、あるいは倉敷マスカットスタジアムか。

ドーンという音もする。フェンス越しに、西のほうに小さいながらも花火が上がるのが見える。県境を越えた川之江での花火大会である。主催者発表では3000発、2万人の見物客とのことだ。

20時50分のラストオーダーの少し前に席を立ち、部屋に戻る。翌日15日をどうするか改めて検討する。当初のプランでは観音寺駅から歩いて第68番の神恵院と第69番の観音寺を回り、昼前の列車で本山に移動して第70番の本山寺に行くことにしていた。午後からは次の善通寺エリアへのつなぎとして、予讃線でみのまで移動して第71番の弥谷寺を訪ねる。その後観音寺まで戻り、18時すぎの観音寺エクスプレス号で大阪に戻ることにしていた。ただ、西日本豪雨で観音寺~本山が不通になった。そうすると午後に弥谷寺まで行って戻るのは時間的にしんどいかなと、弥谷寺は次回に回すことにした。このため、前日の出発前に帰りの観音寺エクスプレス号を1便早い15時10分発に変更していた。

で、実際に現地に来てみて、本山寺だけ行くのなら、札所順とは逆になるが、先に代行バスに乗って本山に行こうという気になった。そして、損壊した財田川の鉄橋も見ておこうと思った。午前中、まだ猛暑にならないうちに本山をクリアしておけば、残った時間を観音寺地区に充てて、15時まで何とかなるだろう。

そうと決まれば翌朝はまた早起き。熱中症予防には睡眠もしっかり取らなければ・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~第67番「大興寺」

2018年07月20日 | 四国八十八ヶ所
第66番の雲辺寺からクルマで20分ほどで第67番の大興寺に到着する。田んぼの中の小川を隔てたところに駐車場があり、その横に山門がある。境内全体が木々で覆われていて、その全体は見ることができない。

この山門は鎌倉時代のものと言われ、中に入っている仁王像は運慶の作と伝えられている。しっかりとこうした地方での仕事も請け負っているのだなと勝手に想像する。なお、大興寺については「小松尾寺」という呼び方もある。四国八十八所のお砂踏みでも、ここを「大興寺」としているものもあれば、「小松尾寺」としているものもある。

山門をくぐると、弘法大師が植えたとされる樹齢1200年のカヤやクスの木が生える。これらの巨木を初めとして木々に覆われているので日陰なら若干涼しくは感じる。その中、本堂に続く石段を上る。「南無大師遍照金剛」と独特の書体で書かれた幟が立つ。

途中に石塔があり、さらに少し石段を上がると境内に出る。正面に本堂がデンと構えている。ここに来るとまた日差しがきつくなり、何をするにもまずは汗をぬぐってからとなる。そんな中でのお勤めである。

大興寺は元々東大寺の末寺として建立され、その後伝教大師最澄の影響で天台宗の寺となった。しかし火災で焼失し、嵯峨天皇の勅願で現在地から1キロほど離れたところに弘法大師によって再建された。その後は真言宗と天台宗の僧坊がともに連なるようになり、空海と最澄のそれぞれの修行の地となった。一つの寺に複数の宗派が同居するケースは全くないわけではないようだが、真言宗と天台宗というのは極めて異例ではないだろうか。開祖同士が対立していたイメージもあるし。確かに天台宗にも密教の要素があるから相通じるところがあるのかもしれない。現在の場所に移ったの明治の頃で、今は一応は真言宗の寺院ということで落ち着いている。

この寺も戦国時代には長宗我部元親の兵火で本堂を残して焼失した歴史があるという。また出たか長宗我部元親・・・。先ほど訪ねた雲辺寺のエピソードとつなげると、結局あれから讃岐に攻め込んで、また寺を焼いてしまったということになる。

大興寺の納経所は本堂の中にあり、正面の賽銭箱のすぐ左手に僧侶が座って参詣者を見下ろす位置にある。納経所がこういう位置だと、お経も唱えずにご朱印だけ先にいただこうとすると僧侶に叱られそうだ。

というわけで、いったん本堂を離れて「手順とおり」左手にある大師堂に向かい、こちらでも同様に手を合わせる。

通常ならここでお勤めを終えて本堂の納経所に向かうのだが、境内に入った時に気になった建物があるので、いったん本堂の前を横切って、右手にあるお堂に行く。こちらも「大師堂」である。

先ほど、大興寺では真言宗と天台宗が同居していた歴史があると書いたが、右手の大師堂では、大師は大師でも中国の高僧で天台宗の開祖とされる天台大師智顗を祀っている。そこを最澄にしなかったのはなぜだろうか。最澄という人があまり祀られるのを好まなかったというのをどこかで読んだような気がする。一応こちらにも四国の納札箱もあるし、何だか無視するのも悪いなと思ったので、もう一度お勤めとする。

本堂、弘法大師堂、天台大師堂と3つのお勤めをして汗だくの状態で本堂に戻って納経帳を出す。「本当に暑いですなあ」と言いながら筆を走らせてくれる。本堂の中はエアコンなどなく扇風機でしのいでいる様子。こんな中でも巡拝者を拒まず待つのも大変だと思う。

時刻は16時を回っており、次の札所は翌日訪ねることにしてここで笈摺を取る。レンタカーの返却は18時までなので時間は少しある。ふと、海を見に行こうという気になる。半日で札所2つを回り、プラスアルファでどこか見ることができれば、レンタカーを使った効果はあるというものだ。

県道を西に走り、観音寺から一つ松山寄りの豊浜駅に着く。春に伊予西条まで特急に乗った時にこの駅を通過したが、線路横に満開のつつじが咲いていたのが印象的だった。

向かったのは駅からもほど近い一の宮海岸。芝生にヤシの木が出迎えてくれる。また、元々遠浅の海岸のところ、潮が引いている時間帯だったか、海岸線が遠くに見える。そこまでぶらぶらと歩く。砂で遊んだり、水遊びをするのは家族連れが多く、子どもたちの歓声が響く。波もほとんどなく、このくらいなら小さい子どもたちも安全に海を楽しめそうだ。

海岸線から振り返ると先ほどロープウェイで上がった雲辺寺山も見えるし、周りの景色もぐるりと囲むようだ。

しばらく海辺に佇むが、潮風というのはほとんど感じられなかった。やはり暑くなってきてクルマに戻る。もう、この日の見物は十分だろう。

14日の夜は観音寺駅近くのホテルに泊まるが、レンタカーを駅に返却してまた荷物を担いでホテルにチェックインするよりも、先にホテルに行って荷物を下ろしてから駅に戻ったほうがよさそうだ。まずは何やかんやで前半戦が終わったということで・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~第66番「雲辺寺」

2018年07月18日 | 四国八十八ヶ所
雲辺寺のロープウェイを降りて、香川県から徳島県の県境線を渡る。雲辺寺の寺の所在地は徳島県の三好市に含まれるが、札所としては讃岐に属する。雲辺寺山が県境であるし、昔のように歩いて順番を回る中では、これから4ヶ国目の讃岐に入るという意味合いが強いことがあるのだろう。確かに、伊予からいったん阿波に入ってまた讃岐に行く・・・という表記はまどろっこしく、この山を越えたら讃岐が始まる!としたほうが気持ちも新たになることだろう。

雲辺寺は弘法大師が16歳の時に自ら創建したとされている。善通寺の建材を求めてこの山に入った時、山の深遠な霊山ぶりに心を打たれて堂宇を建立したのが最初とされている。その後、34歳の時に唐から帰国してここで修行したとか、45歳の時に嵯峨天皇の勅願で本尊である千手観音を彫って供養を行い、霊場と定めたと言われている。年齢時期には伝説の部分があるのかもしれないが、この地で修行を行ったことじたいは間違いないそうだ。

こういう山奥にあることから、「四国高野」とも称されてその後は僧侶たちの修行の場として栄えた。立地が阿波、伊予、讃岐のちょうど境目ということで各地への関所の役割もあったようである。また戦国時代には四国制覇を狙う土佐の長宗我部元親が訪れ、住職に四国統一の野望を語ったことがあった。その時住職から「あなたは所詮は土佐の国主の器にすぎず、四国全土を支配する器ではない」と忠告されるが、元親はそれを聞かず讃岐や伊予にも戦乱を広げた。そのおかげで四国統一は果たしたのだが、それもわずかの期間で羽柴秀吉に攻め込まれ、結局は土佐一国に逆戻りとなった。秀吉が強すぎたのだが、四国全土を守りきることができなかったのは結果だけ見ればその器ではなかったとも言える。その後、子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍方についたことで土佐も取り上げられ、浪人となって大坂の陣に参戦して敗死し、家の嫡流が途絶えてしまった(長宗我部家そのものは傍系が残り、現在は第17代当主の方がご健在である)。

これまで阿波の札所で「長宗我部元親の兵火により寺が焼失し・・」という歴史について何回か触れたように思うが、阿波平定の仕上げがこの雲辺寺だったわけだ。この山から讃岐や伊予の平野を見下ろしたことが、それ以上の野望を芽生えさせ、やがて家が滅んでいくきっかけになったとは、四国の歴史の一場面だったのかと想像する。

その雲辺寺だが、ロープウェイ駅から本堂にいたる道の途中には五百羅漢像が出迎えてくれる。羅漢とは釈迦の弟子として悟りを開いた聖者で、「人間」として庶民から尊敬を集める存在である。1998年から檀家や遍路の人たちからの寄付を受ける形で順次造られるようになり、7年越しで500体が揃ったという。

五百羅漢というと、その中には自分、もしくは自分の親類や知人と似た顔の像が必ずいると言われている。特にここの羅漢像はリアルに彫られていて表情も豊かだ。驚いたことに、足元には番号が振ってあって、「○○尊者像」と名前が書かれている。ちゃんと500通りの尊者が充てられているのに奥の深さを感じさせる。ざらっと見た中で私や知人に似た像がいたかどうかはさておき、豊かな表情を見るのは面白い。

「ひょっこりはん」のポーズを見せるヤツもいたり。

現実に自分の隣でこんなポーズを取っていたら引くやろうなというヤツもいたり。

7月の半ばだがあちらこちらにアジサイも咲いている。やはり平野部と比べて気温が9度も低いとなると、季節も少しさかのぼる感じである。

さてお参りもしなければ。五百羅漢から少し下ると山門に出る。10年ほど前に再建されたばかりとのことで新しい感じがする。その横に手水鉢があるが、鉢の中にアジサイの花が活けられていて涼しげに見える。

山門をくぐってそのまま石段を上がると大師堂に先に行ってしまうので、いったん左手に出て本堂に向かう。こちらの本堂も最近建てたらしく新しい感じがする。ちょうど、頭を丸めた上下白衣姿の男性が読経している。遍路というより、本職のお坊さんが修行で回っているように見受けられる。その方のお勤めが終わるのと入れ替えに本堂に入る。正面には石造りの千手観音像があり、手前には黒不動の像がある。

本堂の前には真ん中に穴が開いた茄子の形をした石があり、穴の回りには無数の願い札が貼られている。この穴をくぐるとご利益があるというので、巨体を何とかねじ込んで向こう側に出る。その向こうに「おたのみなす」という、茄子の実を型どった石があり、これに腰掛ける。なぜ茄子の実なのかということだが、説明板によると「親の意見と茄子の花は 万に一つのあだもない」という言葉があるそうで、茄子の花はすべて「実になる」縁起物なのだという。これを見ると、今が旬の泉州の水茄子で一杯やりたくなるが・・。また「おたのみなす」とは、「願い事が『成す』」というのに掛けたとある。先ほどの五百羅漢といい、この「おたのみなす」といい、雲辺寺というところは結構しゃれが効いている。

また水堂というのもある。弘法大師が掘り当てたとされる水だそうで、改めてこの人の水にまつわる伝説の多さを感じる。ここは口を清めるというより「南無大師遍照金剛と唱えながら飲んでください」とある。ただ文字通りにそうしようと思うと「ハグバイヒベンボウゴンゴウ・・・ゴボゴボ」と、水を口に入れた状態ではとても唱えられたものではない。そこは心に念じながら飲むとか、南無大師遍照金剛と唱えてからいただくとか・・・そういう意味ということでいいのかな。

この後で大師堂にもお参りして、また本堂のほうに戻る形で納経所に向かう。クルマで上って来た場合は道路維持費として500円が徴収されるが「ロープウェイで来られましたね」と不要だった。ロープウェイ乗り場までクルマで来た場合はどうなるのかなと思ったが、往復料金2060円の中にそうしたものも含んでいるのだろうと勝手に解釈しておく。

この時間なら15時発のロープウェイに間に合いそうで、再び五百羅漢の間を抜けて戻ることにする。そこへ、先ほど本堂でお勤めしていた上下白衣姿の男性が、菅笠に金剛杖という出で立ちで坂道を下り始めたので会釈してすれ違う。坂道を下ると大興寺まで9キロあまりと出ていて、この時間から歩いて大興寺まで下るとすると、何とか納経所が閉まる時間に間に合うかどうかではないだろうか。さらに泊まりとなると観音寺駅近くまで歩くのだろうか。

さて私はもう一度ロープウェイに乗り込む。下りの便も私の他に3名だけ。なお、雲辺寺のロープウェイを運行する四国ケーブルは、以前に乗った第21番の太龍寺のロープウェイ、またこの先訪ねることになる第85番の八栗寺のケーブルカーを運行しており、八十八所めぐりの利便性の向上に大きな役割を果たしている。また別格霊場の箸蔵寺へのロープウェイも子会社が運行している。

再び7分の空中散歩で山麓駅まで戻り、レンタカーに乗り込む。一気に暑さが戻ってきて、クルマのエアコンの冷気が気持ちよい。カーナビを次の大興寺にセットするとこれも所要時間20分ほどと表示されるのでぼちぼち走る。萩原寺まで一方通行の坂道を下りながら「日中この暑さの中でこの坂道を上ると間違いなくダウンするな」と一人つぶやく。平野部に戻る。県道をしばらく走り、田んぼのあぜ道の間を抜けると、その田んぼの向こうにいかにも里山の寺だなという山門が見えてきた。こちらが大興寺である・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~雲辺寺ロープウェイへは緊急措置で

2018年07月17日 | 四国八十八ヶ所
14日の13時、観音寺の駅と駅前はごった返す雰囲気だった。

西日本の豪雨の時に、予讃線の本山~観音寺間の財田川にかかる鉄橋が損壊した。復旧には最低1ヶ月かかる見込みで、同区間は運休、代行バスが運行されている。駅前に何台も観光バスが停まっているのはその代行バスである。隣の本山駅を結ぶ便と、多度津まで直行する便の二つがあり、前者は本山で普通列車に接続、後者は特急の代替という位置づけだ。

また、駅窓口や外では、この先どのように移動すればよいのか案内を求める客が列をなしている。今治、松山方面からの特急は本数を減らして運転して観音寺止まりだが、観音寺で降ろされてこの先どのバスに乗ればよいのか、その先にはどのくらいの時間で行けるのかを尋ねる客が多い。一方、高松、多度津方面からバスに乗ってきた客は次は何時の列車に乗れるのかを尋ねている。駅員だけでなくJR四国の腕章をつけた係員が大勢で対応に当たっている。

前の記事で「大阪からの高速バスが遅れそうなので電話連絡をしたがつながらなかった」ことを書いたが、その連絡先というのは観音寺駅だった。なるほどこの様子を見ると、電話にもなかなか出られないだろうなと思った。

ではなぜ観音寺駅に電話したのかということだが、この先の札所めぐりにある。以前の記事で長々と書いた通り、これから向かう第66番の雲辺寺へのアクセスについて、コミュニティバス+徒歩1時間+ロープウェイというのが厳しくなった。そのため急遽、レンタカーを予約した。12時30分からコンパクトカーの6時間コースで4860円。これに念のため免責補償1080円、NOC(ノンオペレーションチャージ)540円をつけて6480円。半日の利用料としては高く感じるが、この時間から、観音寺駅から8キロ離れた雲辺寺ロープウェイ乗り場、さらに10キロ移動して第67番の大興寺、そして大興寺から観音寺駅までの10キロ・・・公共交通機関の便も悪い中、徒歩で移動するのは無理である。仮にタクシーで回ったとしても同じくらい、いやそれ以上かかるかもしれない。それなら、まだ自力で移動するレンタカーのほうがベターと判断した。八十八所めぐりでレンタカーを使うのは足摺岬にある第38番の金剛福寺に続いて2回目だが、その時は金剛福寺以外に竜串や四万十川を回りたいということがあった。今回は緊急措置である。

駅レンタカーの営業所もところによってさまざまで、駅から離れた別の建物だったり、ニッポンレンタカーなどのレンタカー業者が駅レンタカーの取り扱いもしていることがある。ただ観音寺は駅の窓口がレンタカーの営業窓口も兼ねているため、連絡先も駅の電話番号になっていたということがある。

レンタカーは窓口隣の旅行センター(といっても中は続いていて同じく駅員が担当するのだが)でということで向かうが、前の客が神戸への新幹線割引きっぷの列車変更の相談をしているところ。通常なら特急しおかぜとこだまの指定席を乗り継いで行ける割引きっぷで、この客もあらかじめ購入していたがこういう事態になったのでどうすればよいか相談している様子だ。代行バスで多度津まで行き、普通列車で坂出に行って快速マリンライナー(自由席)で行くように案内されていたりする。客も神戸への到着時間、また帰りの時間がずれるので結構お悩みのようだが、女性の係員も辛抱強く対応している様子だ。待つ間に私の後ろにも行列ができる。

その客の対応が終わり、私の番になった。12時30分からの利用開始予定が13時を大きく回る遅れだが特にお咎めもなく、一連の手続きが済む。案内されたのは駅の外の駐車場で、今回乗るのはスズキのスイフト。出発は13時30分。まあ、この日予定していた2ヶ所を回るだけなら十分だろう。こういう時にクルマの機動力を感じる。

カーナビに「雲辺寺ロープウェイ」と入れて出発する。一方で「雲辺寺」とだけ入れることもできる。その場合は寺の下の駐車場まで案内されるが、標高911メートルの山道を徳島県側から延々と上ることになる。まあ、ガチのクルマ遍路ならそこは徹底して山道を上っていただきたいところで、私も一瞬だけそれを考えたが、ロープウェイには乗りたいし、山道を往復すれば大興寺が間に合わない恐れもあるのでそのままロープウェイ乗り場を目指す。一方で道路標識の「雲辺寺」は、ロープウェイ乗り場を指しているようだ。

正面に雲辺寺山が見える。途中、萩の寺として知られる四国別格二十所の一つ、萩原寺を過ぎる。ここから上り坂になる。ロープウェイ乗り場の近くまでは道が二つあり、一方通行の道路標識は出ていないが、道幅が狭いためそれぞれの道を上り、下りそれぞれ一方通行で走るよう案内がある。案内板に従って走れば問題ないところだが、カーナビ頼りだと「逆走」するクルマがいないとも限らない。

観音寺駅から20分ほどでロープウェイの山麓駅前の広い駐車場に着く。3連休の初日だがクルマの姿はほとんど見えない。ロープウェイは毎時0分、20分、40分に発車しており、次は14時ちょうど発の便である。

それにしても、いろんな要素があったとは言え、この日はレンタカーでよかったのかもしれない。当初の予定どおりだとコミュニティバスを途中で降りて、そこから1時間歩いてロープウェイ乗り場に着く道のりだったが、この日の35度という猛暑、そしてクルマでもギアを一段下げた上り坂ということを考えると、雲辺寺だけで音を上げてしまったかもしれない。

ロープウェイに乗ったのは私の他に4人。大きなゴンドラを持て余すようだがガイドも乗り込んで出発する。このロープウェイは全長約2600m、高低差約660mのところを7分で結ぶ。結構スピードも速く感じられる。発車すると眼下の景色がみるみる小さくなり、観音寺や三豊の平野部、さらに霞んでよく見えないが瀬戸内海も観ることができる。空気が澄んでいれば石鎚山系や瀬戸大橋も眺めることができるそうだ。

また反対に目をやれば緑が濃いところ。道路は徳島県側にしかないため、香川県側のこちらは木々が一面に広がるばかりだ。

山頂駅に到着。駅の温度計は何と26度! 山麓駅とはだいたい7度くらいの気温差があるとのこと。山麓駅が標高約260mのところだから、平野部と山頂を比べると9度くらいは違うことになる。日差しがあるので暑いのは暑いが、さすがに爽やかな風を感じることはできる。

戻りのロープウェイは15時ちょうどの便かなと思いつつ、寺に向けて歩き始める。ちょうど山頂駅前に香川県と徳島県の県境線があり、駅は香川県側だが寺は徳島県側である。線をまたいで久しぶりの徳島県へ・・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~観音寺エクスプレス号

2018年07月16日 | 四国八十八ヶ所
7月14日の朝、JR大阪駅に現れる。今回の四国へのアプローチは、前の記事にあるように当初は鉄道で観音寺駅に向かう予定にしていたが、高速バスの観音寺エクスプレス号に乗ることにした。大阪・神戸と香川西部を結ぶ路線だが、こういう時でないとなかなか乗る機会がない路線とも言えるだろう。JR大阪駅が起点で、この後に普段高速バスで利用する湊町バスターミナルを経由するのだが、あえて始発から乗ることにした。

大阪駅の北口のコンコースには、朝早くから大勢のツアー客が出発を待っている。行き先は立山黒部とか、尾瀬とか、涼しいイメージのところが並ぶ。連休をそうしたところで楽しむのだろう。こちらはこれから35度の猛暑の地に行くわけだが・・・。

7時15分、大阪駅からは数人が乗る程度で発車。まずは湊町バスターミナルに向かうために梅田から阪神高速に乗る。神戸方面には渋滞の情報も出ている。湊町でそこそこの乗車があり、3~4割ほどの乗車率となった。

次に停車する三宮に向かうには阪神高速の神戸線が正規ルートだが、朝の時間ならたいてい10キロ程度は混雑することが多いので迂回のために湾岸線を行くことがほとんどである。ただこの日は、湾岸線の中島から大阪港線の朝潮橋にかけて事故渋滞と出ている。運転手も「どないしようかな」という感じでブツブツ言ってともかく湊町の入口から環状線に入る。ともかく西船場のジャンクションを左に曲がり、何やかんやで湾岸線ルートを通るのだろうなと思って見ていると、ジャンクションをそのまま直進した。ならば梅田で下りて淀川左岸線の大開に行くのかなと思うが、ここも通過。そのまま淀川も渡っていく。

結局、豊中から名神高速に乗るという、私としては高速バスで初めて通るルートを選択。これで西宮まで行くわけだが、大阪市内から素直に神戸線に乗るのとそれほど迂回効果はないようにも思う。神戸線が渋滞するのはむしろここから先だし、混雑するといってもトロトロとは進んでいるので・・・。

生田川で神戸線を下りて、JR三ノ宮駅のバスターミナルに到着。ここまでで30分ほどの遅れである。これで6割ほどの乗車率となった。運転手がこの先も遅れを持って走ることから「到着地でお迎えの方がいらっしゃいましたら、あらかじめ連絡しておいてください」との案内が入る。なるほど、この先私もお迎えではないが連絡をしなければならないところがある。ただ、この後の休憩時などに電話してみるが相手は出ない。

京橋から再び神戸線に入り、そのまま名谷から高速舞子にも停車して明石海峡大橋に向かう。ここまで来れば、後は香川まで順調に走ることだろう。

そのままの遅れで淡路島の室津パーキングエリアに到着。高速バスの休憩地の定番で、同じタイミングで5台のバスが並ぶ。観音寺行き(JR四国バス)、今治行き(阪神バス)、松山市行き(伊予鉄バス)、高松行き(西日本JRバス)、阿波池田行き(阪急バス)である。高松行きはまだ乗っていないが、いずれも四国めぐりではお世話になった路線である。その中で阿波池田行きは、第8番の熊谷寺に行くのに土成バス停から徒歩でアクセスできた穴場路線だった。

渦潮が見られる大鳴門橋を渡り、四国に入る。このまま高松道を進む。上下1車線ずつの道だが、この先も拡張の工事が少しずつ進んでいる。関西と高松を結ぶルートは瀬戸大橋よりも明石海峡~淡路島経由のほうが主要となってきたことがあるのだろう。

室津から1時間あまりが過ぎたところだが、津田サービスエリアで2度目の休憩となる。走行距離、時間の関係で2回取ることが必要なのだろう。このサービスエリアに降り立つのは初めてである。正式には津田の松原サービスエリアといい、訪ねたことはないが近くには白砂青松の津田の松原という名所があるそうだ。

売店に入ると、「うどん県」のある意味玄関口だからか、うどん押しである。売店にはさぬきうどんがずらりと並んでいるし、食事のコーナーも一般メニューが食券制なのに対して、うどんだけはセルフ式の直接支払である。今回はバスのトイレ休憩のため食べる時間はないが、普通にドライブで来ていたら間違いなくここで1食いただいただろう。四国めぐりも「うどん県」に入っていくが、巡拝の途中で本場のさぬきうどんをいただく機会はあるのだろうか。

高松の市街地を遠くに見て、坂出に向かう。土饅頭のようにもっこりとした山が目立つのもこの辺りの特徴で、大昔の火山活動の名残だと言われている。その中でも目を引くのは讃岐富士と呼ばれる飯野山。

一旦瀬戸中央道に入り、坂出インターを下りてバスターミナルに到着する。40分ほどの遅れ。ここで半数が下車した。坂出の駅や市街地からは離れているが、ここからは迎えのクルマなどに乗るのだろう。遅れの連絡はできたのかな。

再び高松道に乗り、善通寺で下車する。歓迎の看板には、善通寺市内の5つの札所の名前が並ぶ。この辺りは、次回の四国めぐりで回る予定にしているところ。善通寺の市街地にある本郷通りに停車。この先に四国八十八所の総元締めとも言える善通寺がある。参道や五重塔もちらりと見える。

この後は国道11号線を行く。善通寺市と三豊市の境目にあるのが鳥坂(とっさか)峠で、交差点には「鳥坂まんじゅう」という店がある。江戸時代の峠の茶屋がルーツだそうで、その筋には人気の一品だという。次回はこの辺りにも来るわけだが、普段甘いものを食べない私もどんなものか少し興味あるところだ。

予讃線の高瀬駅にも近い三豊市役所でも下車があり、その後はゆめタウン三豊にも停車する。三豊市は2006年に平成の大合併で7つの町村が合わさってできた市で、香川西部では大きな面積を持つ。元は三豊郡で、「豊」という町名が3つあるのかと思いきや、その前は三野郡と豊田郡とに分かれていたそうである。

国道沿い、あるいは国道から分かれて観音寺駅に続く道にはセルフ式のうどん店が結構並んでいる。さすが「うどん県」だなと思うが、難点なのはクルマでなければアクセスできなさそうなところばかりである。香川には「うどん巡礼八十八ヶ所」なるものがあり、その中には以前に地元在住の会社の先輩にクルマで連れて行ってもらった店もあるのだが、「駅から徒歩○分」というのはほとんどなかったように思う。

定刻なら12時08分到着のところ、12時55分頃に観音寺駅に到着した。雲もほとんどなく、強い日差しが照りつける。さてここから今回の札所めぐりということにするのだが・・・・。
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第18回四国八十八所めぐり~西日本豪雨被害のためアクセス変更

2018年07月13日 | 四国八十八ヶ所
5月の連休から2ヶ月空いての四国八十八所めぐり。第1番の霊山寺をお参りしたのが2年前の海の日の休みのことで、第18回にして新たに讃岐編の始まりである。八十八所めぐりも残り23ヶ所、そろそろ終盤に差し掛かった。この海の日の休みを活かして出かけるべく早くから計画を立てていた。

今回は第16回で川之江からの帰りに途中下車した観音寺駅をスタートとして、観音寺近辺を回ることにする。1泊2日で第66番の雲辺寺から大興寺、神恵院、観音寺、本山寺と回り、次のエリアへのつなぎとして第71番の弥谷寺まで押さえようと思う。

このうち、同じ敷地に二つの札所がある神恵院と観音寺は観音寺駅から十分徒歩圏内で、本山寺は隣の本山駅から徒歩で行ける。ちなみに観音寺駅と本山駅の間は5キロほど・・・歩けんこともないか。弥谷寺は多度津方向に向かってみの駅、あるいは詫間駅から歩いても1時間以内で行けそうだ。

問題ははじめの雲辺寺と大興寺。雲辺寺は標高911メートルの雲辺寺山にあり、八十八所の中では最も標高が高いところに位置する。昔の遍路道をたどるなら、愛媛の四国中央市の三角寺から県境を越えて、いったん徳島に入る。南側から山上りをするようだ。ただ、観音寺側の麓からロープウェイが出ているので、あえて登山をすることもないかなと思う。

ただ問題はロープウェイに乗るまで。麓のロープウェイ乗り場は、観音寺駅から8キロほどのところにある。歩くと2時間コースだ。路線バスの便があってもよさそうなものだと調べると、観音寺市のホームページでコミュニティバスを見つける。ただし、コミュニティバスの多くがそうであるように、日曜祝日は運休である。だから週末で乗るなら土曜日しかないし、本数も1日数本というレベル。さらに、バスはロープウェイ乗り場を経由するわけではなく、ネット記事によると、乗車時に「雲辺寺に行きたい」と申し出て、乗り場に近いところで下ろしてもらい、そこから3キロあまり歩くと乗り場にたどり着くというものである。讃岐の最初の札所にしていきなり難関である。真夏の時季だが、3キロならまだ我慢できるか。仕方ない。

雲辺寺から次の大興寺へ行くのも大変で、ロープウェイで戻ってきてもそこからコミュニティバスがあるわけでもなく、10キロの歩きだという。一方、ロープウェイに乗らずに雲辺寺山を徒歩で下山して直接大興寺まで行っても似たような距離である。それならば、まだ山道を歩いたほうが涼しいだろう。なお、大興寺から1キロほどのところに、琴平駅と三豊駅を結ぶコミュニティバスの停留所があり、午後の便もある。これで三豊駅に出て、観音寺駅に戻ればちょうど夕方だ。ただ、このコースで回るなら、観音寺駅を9時台に出るコミュニティバスに乗る必要がある。この便を逃すと昼までなく、その後の時間で二つの札所を回るのは時間的に厳しそうだ。なお、私の四国めぐりではタクシーは使わないことにしている。

ということで、14日の土曜日に新大阪6時25分発の新幹線で岡山に行き、7時22分発の特急「しおかぜ1号」に乗り継ぐことにする。観音寺には8時26分着で、コミュニティバスは8時52分発。40分ほどで、ロープウェイ乗り場まで3キロのところで下ろしてもらう。何やかんやで雲辺寺に着くのが11時頃ということか。その後は上記の行程をこなして観音寺駅前のホテルに泊まる。翌15日は朝から神恵院・観音寺、本山寺を回り、みのまたは詫間に予讃線で移動して弥谷寺を歩きで往復する。こちらも弥谷寺の下にある道の駅までコミュニティバスがあるが、土日祝日は運休のため使えない。再び予讃線で観音寺に戻り、18時20分発の高速バス「観音寺エクスプレス号」で大阪に戻ることにする。大阪に戻るのは23時を回るが、翌16日はオフとする予定。行きの特急券、帰りの高速バスの予約も早々と済んだ。

・・・と、6月までにここまで決めて、後は出発を待つばかりのところだった。

しかしそこへ、7月6日~7日にかけて西日本豪雨が発生した。広島、岡山、愛媛を中心に大きな被害となり、死者、行方不明者も多い状況である。発生直後は、交通もズタズタになる中で四国に向かうのはどうかなとも思い延期も考えた。ただ状況が変わる中で、四国への瀬戸大橋ルート、淡路島から大鳴門橋ルートは通常に動いている。また、香川県は他の県に比べる限りは大きな被害は受けていないとのこと。私が家に引きこもったところで何かが良くなるわけでもないことから、ここは予定通り行くことにした。

ただ問題が一つ。予讃線の本山~観音寺間の財田川の鉄橋が豪雨で損壊したとある。ネットで画像を見たがかなりのもので、4月に近鉄南大阪線の大和川の鉄橋が1日半で復旧したのとは比べられない(この場合は、1日半で復旧した近鉄が最強すぎだったのだが)。復旧には最低1ヶ月はかかるそうで、本山~観音寺間が運休となっている。9日以降、多度津~本山は鈍行のみ臨時ダイヤで運転しており、本山~観音寺は代行バスで結ぶ措置を取っている。また、11日からは特急の一部を多度津、観音寺それぞれで折り返し運転とする措置を取り、多度津~観音寺の代行バスも出るようになった。

このダイヤだと、上記の「しおかぜ1号」は運休のままで、代行バスを利用して観音寺に着いても、目論んでいた雲辺寺への朝のコミュニティバスには間に合わない。また、15日にも本山寺や弥谷寺に行くのに不通区間を代行バスで行ったり来たりすることになる。

そこで、14日の往路は鉄道をあきらめて、復路と同じ高速バス「観音寺エクスプレス号」に乗ることにした。空席はあったので問題なかった。ただ、大阪からの1便でも観音寺着は12時を回る。コミュニティバスがない時間帯、とても夕方の時間までに徒歩で雲辺寺と大興寺を回るのは不可能だ。

これを受けて結局どう動くことにしたのか。それは次以降の記事にて・・・。
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