今回の神仏霊場巡拝の道めぐりは、JR西日本の「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」の終盤で丹後地方が目的地なのだが、あえて広島から軽自動車で向かうにあたり、途中の山陽姫路東で下車して、こちらも西国三十三所の札所の一つである兵庫12番・一乗寺に向かう。ちなみに、一乗寺のデジタルスタンプは先に獲得済みである。
自宅を出てちょうど4時間、道端に山門の跡が見えるので停車する。西の総門は加古川市と加西市の境界に位置しているという。この先本堂までは数百メートルあり、さらに東に向かうと東の総門跡がある。往年の規模がうかがえる。
そのまま進み、正面の入口前を過ぎて駐車場に向かう。今回はクルマで来たが、公共交通機関だと姫路からバス、あるいは北条鉄道の法華口からバスまたは徒歩でアクセスが可能である。
入口で入山料を納め、正面に伸びる石段を上がる。一乗寺が開かれたのは大和時代、法道仙人の手によるとされる。天竺から紫の雲に乗ってやって来たとされ、この辺りの山々に霊山を見出し、法華山と名付けた。天竺から紫の雲に乗って来たのは伝説だとしても、播磨一帯の古刹の開創に関わった有力な人物がいたことは確かなようだ。
石段も一気に上るのではなく、最初の踊り場には聖武天皇の勅願とされる常行堂が建つ。二度の焼失を経て明治の初めに再建された建物である。
続いて、三重塔。平安時代末期の建物で、国宝である。ある意味、本堂よりも一乗寺を代表する建物といえる。
そして本堂の下に着き、本堂をぐるりと回り込んで入口に着く。西国三十三所でも播磨地区のお堂の中は似たような造りに見える。畳の上に座ってのお勤めとする。本堂の外陣の天井には無数の札が打ち付けられており、これも一種の「法華」に見える。それはそうと、天井にどうやって札を打ち付けたのやら。梯子をかけて天井に打ち付けるのも至難の業に思う。
一乗寺のシンボルと言える三重塔を本堂の縁台から眺めるのもよい。
こちらで神仏霊場と西国三十三所の朱印をいただく。同じ寺でも筆跡が結構違うものだ。
本堂の裏には護法堂、妙見堂、弁天堂が並ぶ。いずれも鎌倉~室町時代の建物で、寺の歴史を物語る。
奥の院にあたる開山堂に向かう。長らく、大雨による土砂崩れのため開山堂への道は通行止めになっていたが、開山堂までは普通に歩くことができる。ただ、周りの斜面には土砂崩れや倒木の跡が残っており、これが以前のものなのか最近のものなのかよくわからない。
開山堂の奥に柵があり、その向こうに賽の河原へと続く石段があるのだが、途中で倒木に行く手を阻まれているように見える。無理して進むこともないだろう。
そのためか、柵の上、あるいは開山堂の縁側に石が積まれた賽の河原の景色が広がる。積み上げた石が風雨のためにひっくり返ったか、縁側が石だらけになっていて荒れた光景に見える。
帰りは石段ではなく坂道を下り、放生池の周りの日本百観音の祠を回る。その石造りの屋根の上にも賽の河原を思わせるように石が積まれているが、それも乱雑に見える。積んだ石の重みに祠が耐えられないようにも見える。
これで境内を後にしようと入口まで戻ると、石畳の上に一匹の猫がいた。近づいても特に逃げるわけでもなし、のんびりしたものだとこの時はそのまま出口に向かったが、後で知るところによると、現在の一乗寺はちょっとした猫スポットなのだという。西国三十三所で一つ前の播州清水寺がドッグランのコースもある犬スポットなのに対抗したわけではないだろうが。
今回一乗寺に立ち寄ったことで神仏霊場、西国三十三所の播磨地区の地図を埋めることになり、本題の丹後に向かうわけだが、せっかくなので近くのスポットに立ち寄ることにしよう。そういうことなら、クルマではなく北条鉄道にて一乗寺に来るのであったと、旅の後に思うことであった・・・。