まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地復興を見る~南三陸町

2019年08月31日 | 旅行記B・東北

国道398号線から国道45号線に出たところにあるのが気仙沼線の陸前戸倉駅。内陸にある前谷地を出た気仙沼線は、この辺りから海沿いを走ることになる。

とは言うものの、現在の気仙沼線は鉄道ではなくBRTでの運行である。前谷地~柳津間は列車の運転もあるが、気仙沼に直通するのはBRTである。バスは柳津~陸前戸倉までは国道45号線を走り、陸前戸倉からはかつての線路の路盤を改修した専用ルートを主に走行する。BRTは元々は自動車渋滞の緩和や環境対策として取り入れられた交通システムだが、この気仙沼線と、この先の大船渡線(気仙沼~盛)については、津波被害からの復旧が困難で、また採算も見込まれないことから実質鉄道廃線~バス転換により誕生したものである。もっともJRとしてはあくまで現役の路線の一つという位置づけである。

BRTはバス単体での運行ということで、必要があれば増発も容易だし、駅(停留所)の配置やルート設定も柔軟にできる。町が高台移転すればルートを変更して駅(停留所)が設けられたケースもある。現に鉄道時代よりも運行本数は増えているし、後に訪ねる陸前高田の「奇跡の一本松」も新たに設けられた駅(停留所)だし、支線ルートができたりもしている。

こう書くとBRTは良いことづくめのように思われるかもしれないが、やはり道路と同じスピード制限があるし、朝夕は交通渋滞に巻き込まれることもあり、鉄道より所要時間が延びたという話もある。何事も100%とはいかない。

こういう話になると、鉄道が失われたことで町の存在感が低下した・・と思ってしまうのは、鉄道ファンの勝手な気持ちだろうか。要は地元の人たちがどう感じているかだが。

繰り返しになるが、今回BRTでの移動を組まなかったのは残念である。あれこれ書くのなら、やはりまずは乗らないと・・。

時折BRTの専用線を見ながら国道45号線を走る。沿線は三陸自動車道も整備されているし、入江をオーバークロスする高架橋の建設も進められている。地域全体としては、いかにクルマでのルートを確保し、強化するかに重きが置かれているように見える。まあ、そうなんだろう。

そんな中、南三陸町の中心の志津川に差し掛かる。その中心スポットが「南三陸さんさん商店街」。前回訪ねた時はもう少し内陸のほうにあり、仮設店舗が何軒かあって頑張ってるなという印象だったが、今はかさ上げした土地に28の店舗が集まっている。駐車場に入るのも少し待たなければならないくらいの賑わいだ。

地元の人向けに日用品を扱う店もあれば、観光客向けに「南三陸キラキラ丼」というご当地の海鮮丼を出す店もある。興味を引かれたがまだ昼には時間があるし、食事はこの先の気仙沼かなと思っていたので、ここは見るだけにする(後でこの判断を悔やむことになるのだが・・)。

その一方で引かれたのが商店街の一角にある写真店。この「さりょうスタジオ」、店主の佐藤信一さんによる「南三陸の記憶」という展示館でもある。事前にこうしたスポットがあることを知らず、「南三陸の記憶」の案内パネルを目にしてもどこか別の場所でやっているのかなと追って行ったら実は目の前の写真店だった。

南三陸町での津波による死者・行方不明者は約900人。かつての津波の教訓から防災意識も高い町だそうだが、それでもこれだけの犠牲者が出た。また、南三陸町の防災対策庁舎のことも悲劇として伝えられている。最後まで防災無線で避難を呼び掛けた職員が津波に呑まれてしまったところである。これが大きく取り上げられて、防災対策庁舎は慰霊の場として多くの人が手を合わせることになった。

私が前回6年前に訪ねた時も、この防災対策庁舎については「ぜひとも行かなければ」という気持ちがあった。そして現地に着き、その生々しい様子や、まだ建物の残骸が残る周囲の様子に心を痛めつつも、「すごいもん見た」という興奮のようなものを感じたのを覚えている。地元の人たちから見れば実に無礼な思いなのだが。

その3月11日、津波が来るとなった時、佐藤さんはカメラを持って高台に避難した。そして町を襲う津波の様子を記録した。展示パネルには時刻が挿入されていて、その光景を分刻みで伝えている。徐々に水位が高まり、水面の下に沈む建物、少しでも高いところにしがみつく人たち、それらが切迫感とともに見るものに伝わってくる。佐藤さんの自宅兼写真店もこの時に流されてしまったそうだ。それでもこの時を残さなければならない・・写真家の性なのかもしれないが、当時の状況がどのようなものだったのか、その一瞬は?・・というものをこうして少しでも共有できるのは実に貴重だと思う。

佐藤さんはその後の避難生活、そして復興への道のりについて「写真の力を信じて」「伝えてゆく」ということをテーマとして写真を撮り続けてきた。時が経つにつれて地元の人たちの笑顔のカットも少しずつ増えたように見える。そして到達点の一つが、楽天イーグルスが2013年に優勝した時。さんさん商店街でもパブリックビューイングを実施したようで、皆が喜ぶ姿を写した1枚も印象的だった。

さて、防災対策庁舎は現在どうなっているか。このさんさん商店街から川の土手を挟んだ対岸に見ることができる。この土手もかさ上げされたもので、防災対策庁舎は周囲を土手に囲まれたようにして存在している。ちょうど、佐藤さんの「南三陸の記憶」の写真パネルがあり、被災当時の状況と見比べることができる。前回訪ねた時は周囲もまだ津波の爪痕が残り、気仙沼線の志津川駅も変わり果てた姿で、写真パネルに近い状況だったのだが、今は庁舎だけを残して周囲一帯が復興祈念公園の工事の最中である。関係車両以外は中に入れないようだ。

防災対策庁舎を残すかどうかはさまざまな議論となった。殉職した職員の行動は道徳の教科書に載ったこともあるし、「原爆ドーム」のように震災被害の象徴と位置付ける向きもある。一方で津波の惨劇を思い出したくないという人もおり、取り壊してほしいという意見もあった。結局は、国が震災遺構の保存に対する支援策を表明したこともあり、南三陸町ではなく宮城県が2031年まで保有するという形で保存が決まった。震災から20年というのをひとまず区切りにして、その間に「その後」どうするかを地元でよく考えるようにということである。阪神・淡路大震災もそうだが、20年も経てば街じたいは「復興」として新しい景色が見られる一方で、「風化」はかなり進むのではないかと思う。その時、震災を忘れない、震災を語り継ぐ術としてどのようなものがあるだろうか。

志津川を後にして、国道45号線に戻る。この先も入江が次々に現れ、その都度「津波の到達地点」の標識を目にする。南三陸町から気仙沼市に入る。

気仙沼線の小金沢駅に向かう。国道には「小金沢駅⇒」という標識はあるが、現在は「跡地」である。海が見える駅として知られていたが、ここも津波の被害に遭ったところである。海が見えるといっても目の前にあるわけではなく崖の上にあるのだが、それでも津波はやって来た。標高でいうと13メートルほどで、建物でいえば4階くらいか。いかに大きなものだったかが感じられる。

一方で次の大谷海岸駅は目の前が砂浜という駅だった。前回訪ねた時は献花台があったように思うが、併設の道の駅も少し移転したようだし、かつて駅があったところも工事をしているようだ。

当初はこのまままっすぐ気仙沼の中心部や、前回訪ねられなかったリアス・アーク美術館に向かおうかと思っていたのだが、前日エリア情報をネットで見る中で、震災に関するある施設が新たにできていることを知った。それは中心部の手前の階上地区にあり、いったん国道45号線を離れて海岸方面に向かう・・・。

コメント

被災地復興を見る~石巻・2

2019年08月30日 | 旅行記B・東北

8月14日、夏の旅の3日目である。この日は女川から海岸に沿ってレンタカーで走り、大船渡に向かう。道中は津波被害の特に大きかった地域で、6年前に訪ねた時のことを思い出しつつ、現在の様子を見ることにする。なお宿泊の大船渡は目的地として訪ねることじたい初めてである。

さまざまな被災地や慰霊碑があるのだがもちろん1日で全て訪ねるのは無理で、いくつかをピックアップして回ることになる。「ここは行くべき」というのを見逃したり素通りしたりするかもしれないが、その辺りはご理解いただければと思う。

まずは朝食。時間はチェックインの時に希望をとっており、早い組の6時半からである。トレーラーハウスを出て敷地の中央にある食堂の建物に向かう。外は雨模様。この日、台風10号が南の海上から北に向かっており、翌日15日は西日本に上陸との予報が出ていた。その影響で北日本含めて広い範囲に雨をもたらしているようだ。またニュースによれば、台風接近にともない、15日は山陽新幹線を全線終日計画運休させる可能性があるとも伝えられていた。

朝食はメインにメヌケという、メバルの一種の焼き魚で、ごはんと味噌汁がおかわり自由。数組の客とともにいただく。

その後雨の中、7時半すぎに出発する。国道398号線で女川の漁港の中を走る。女川は震災後、防潮堤を「建てない」という選択をした。地形として難しいということもあるが、町がほぼ全滅したことで、一から町を造り直すに当たって土地のかさ上げをいち早く決めたことがある。さらにどこかで聞いたことだが、やはり海とともに時を重ねてきた女川の人たちにとってみれば、防潮堤で海から切り離されてしまうことに抵抗感があったからとも言われている。

港を離れると上り坂となり、海岸からはいったん離れる。高台から海が望めるのだろうが、雨だし濃い霧も出ていて視界がよくない。

女川町から再び石巻市に入る。下り坂になって漁港の集落に出ると今度は高い防潮堤が目立つ。やはり自治体ごとの方針があるのだろうが、いち旅行者がその是非をジャッジすることはできない。

そんな中クルマは雄勝地区に入る。前回通った時は津波の爪痕がまだ残っていたが、今回来ると様子が一変していた。前日から走る中で目にしたのを遥かに超える巨大な防潮堤の建設工事が進められている。お盆で業者は休みなのか何かが動く様子はないが、確か家があったよな?というところも巨大なコンクリートで固められているし、重機の姿も見える。お好きな方にはたまらない光景だろう。

この雄勝地区、震災前は約4300人の人口だったのが、200人以上が津波の犠牲になり、現在は1300人にまで減っているという。石巻市の一部なので目立たないが大変な減少である。その中で被災した集落は高台に移転して、なおかつ巨大な防潮堤を築くというものである。後でネット記事を検索すると、さすがにこれはやり過ぎという論調のものがたくさん出てきた。

雄勝からまた上り下りがあり、北上川に出てきた。ここでは大川小学校跡を訪ねるつもりだが、交差点を右折(河口方面)するところを誤って左折してしまった。前回来ているのだが別方向からだったために場所もうろ覚えで、カーナビにも出ていなかったこともある。

北上川の土手に出て道を間違えたことに気づいたのだが、たまたまその時、土手の下に別の慰霊碑を見つけ、脇道を下る。ここは大川小学校の校区だった間垣地区で、小学校ともども津波で住民の半数が犠牲になったという。残った住民も離れた場所で住むことを余儀なくされたが、思い出と慰霊ということで、この場所に慰霊碑を建て、桜を植えた。道を間違えたから訪ねることになった場所だが、大川小学校が注目されることが多い中で地元の人たちの思いが伝わるように思えた。

そしてクルマの向きを変えて、大川小学校に到着した。やはりここを訪ねる人が多いようで、8時半すぎという早い時間だが他県ナンバーのクルマが結構停まっている。

大川小学校は児童74人、教師10人が津波の犠牲になった。地震発生から津波到達まで50分ほどあったが、その間、どこに避難するかをめぐってさまざまな混乱やパニックがあり、正しい判断を行うことが困難だったとされている。学校は北上川の河口から5キロ離れた場所にあり、ハザードマップからも外れていた。まさかという思いもあったのではないだろうか。

慰霊碑に手を合わせて、校舎を見て回る。校舎は震災遺構として残し、周りを公園として整備することが決まっている。そのためか、小学校が現役だった頃の様子を紹介したパネルが立てられ、現在の姿と対比させている。1985年に完成した校舎は、円形と扇形の建物を組み合わせた斬新なデザインだったが、今は痛々しい姿を残すばかりである。

前回訪ねた時は立ち入れなかったかと思うが、校舎の裏山に続く道があるので行ってみる。津波の到達点の標識が約10メートルの高さにある。裏山の道はやや急に感じるが、その高さまで上ってみる。津波警報が出た際、裏山に逃げようとした児童もいたが教師が学校に引き留めたとも言われている。3月の東北、雪が積もっていたのと、やはり学校のほうが安全(まさかここまで津波は来ないだろう)という判断があったか。結局は北上川を渡る橋のところに避難しようと向かったのだが、津波はその方向から流れ込んできた。助かった児童は列の後方にいて、いずれも裏山に逃げたのだという。

児童の遺族の一部は学校や自治体の責任を問うとして訴訟を起こし、一審、二審とも遺族側が勝訴している(現在上甲審中)。ただ、前回訪ねた際、校舎を前にして思うのも何だが、大川小学校に限らず、裁判で損害賠償を求めるというのに違和感を覚えたものだ。結局はみんなが被害を受けた未曾有の災害ではないか、裁判をやることでどうなるのか・・という思いがあった。それは、今回訪ねてもそう変わるものではなかった。前の記事ではちょっと感情的なことも書いている。

その北上川を渡る橋のたもとにある慰霊碑で手を合わせる。

大川小学校を後にして、その橋で北上川を渡る。前回はいったん上流に沿って走り、内陸のほうを回ったのだが、今回はここから海沿いに南三陸町を目指す。北上川を右に見て河口のほうに向かう。川幅がまた広くなる。やはり東北地方を代表する河川の一つである。

その河口に面したところは道路も付け替えられ、道沿いに慰霊碑が建つ。石巻市北上地区で、吉浜小学校や石巻市役所北上支所の跡地も近くにある。津波は12メートル、小学校の校舎の3階までの高さで、卒業式の準備で残っていた児童たちも犠牲になったという。

それにしても、先ほど大川小学校から結構走ってきたが、この河口から津波により川の流れが逆に押し戻され、大川小学校まで、いやさらに向こうの間垣地区も呑み込まれたのかと思うと、改めて津波の威力を感じてしまう。

このまま国道398号線を走り、キャンプ場のある神割崎を過ぎる。被災地めぐりは女川・石巻から南三陸町に入る・・・。

コメント

被災地復興を見る~女川

2019年08月29日 | 旅行記B・東北

石巻市街から石巻線に沿って女川に着く。町の手前から、カーナビにはない道路が伸びている。これも復興工事によるものか、そのまま町中に出る。

13日夜は女川に宿泊だが、その前に町を一回りする。宮城県の中でも特に被害が大きかった女川だが、特に被害が大きかったのが町の中心部である。町の人口の約1割に当たる1000人を超える死者・行方不明者が出た。津波の高さは14.8メートルだが、場所によっては20メートルの高さまで津波が押し寄せたという。七十七銀行の3階建ての屋上に避難したものの津波の犠牲になった行員について、銀行の安全管理責任を問う訴訟も起こされた(これは最高裁まで行って遺族側の敗訴となった)。

前回6年前に来た時は、中心部である港の一帯は町の原形を止めていないように見えた。工事車両だらけで一般のクルマが近寄るのもはばかられる感じだった。その中で津波の避難場所にもなった町立病院に行き、何もなくなった町並みを見下ろして辛い気持ちになった。

今は女川地域医療センターと名前を変えた建物の駐車場に立つ。まだまだ更地が目立つが、新たな女川の町づくりは少しずつ、それでも着実に進んでいるように見える。

医療センターの下には、七十七銀行やその他の企業で津波の犠牲になった人たちの慰霊碑がある。これは行政ではなく有志の人たちが建てたもののようだ。

その中で、津波で横倒しとなった旧女川交番を震災遺構として保存するための工事が行われている。交番の周りの土地をかさ上げして、メモリアルパークのような造りにするのだという。

そういえば町全体もかさ上げされたようで、地域医療センターからそのままの高さで女川駅に行くことができ、新たな家や公共施設も並んでいる。そしてその中心にあるのが新しい女川駅である。ウミネコがはばたく姿をイメージしたそうで、駅舎内には被災前と同じく温泉が併設されている。またも、列車で来ればよかったかなという思いがよぎる。

ロータリーにはこのような記念碑がある。今年建てられたそうで、「我等が郷土の再建の為、春夏秋冬昼夜分かたず現場で尽力された全ての人々に心から感謝を捧ぐ」と、復興事業に携わった多くの人への感謝の言葉が刻まれている。慰霊碑とはまた違ったものだ。女川は「復興のトップランナー」と称されることもあり、この記念碑も復興を成し遂げた達成感から来ているようにも見える。

ただ女川の現状もなかなか厳しいようだ。震災前には1万人超の人口だったのだが、震災で約1000人が死亡・行方不明となり、2015年の国勢調査の結果では6300人あまりと、震災前から約4割も減少したとある。原発事故の影響で町全体が他の土地に避難せざるを得なかった福島県の町よりも落ち込みは激しかった。元々人口が少ないうえに、町が壊滅するほどの津波があったとなると、復興に期待できず町を離れた人が出るのも致し方ないだろう。だから強力に町並みを整備して復興を進めたのだろうが・・。

この日の宿泊は女川駅のすぐそばにある「ホテルエルファロ」。ここは旅行会社のプランではなく自分で予約したところである。エルファロとはスペイン語で灯台を意味する言葉で、女川や被災地、そして日本を多くの人が照らしてくれたのに対して、これからは自分たちが照らしていこうとの願いが込められているそうだ。

このホテルだが、ビジネスホテルのようなビルではなく、コテージのようなものが並ぶ。さらに、建物ごとにトレーラーのタイヤがある。そう、ここはトレーラーハウスなのだ。

ここは、震災に遭った女川の旅館や民宿の経営者たちが共同で立ち上げた宿泊施設である。復興工事で女川に来る関係者たちの宿泊施設が不足したことからトレーラーを改造した簡易施設を提供したのが始めで、その後、女川の活性化につながればと高台に移転して今のホテル形式にしたという。当時は行政との衝突もいろいろあったそうだが、今では女川の名所の一つにもなっている。トレーラーハウスはツイン、またはロフトがあるトリプル仕様だが一人旅でもOKということで、ツインルームに一人泊まることになった。

指定の部屋に入る。1台のトレーラーハウスを2つに区切っている。ビジネスホテルとは違い、ドアを開けるといきなり客室だが、奥にベッドが2台あり、手前には簡易ながらもソファーとテーブル、さらにはデスク、小型冷蔵庫もある。ユニットバスもあり、全体では前夜の宇都宮のホテルよりも、いや私の自室よりも広く感じる。

部屋の周りもこんな感じで、どこかの避暑地のペンション村に見えなくもない・・かな。家族連れの利用も多いようで、中央でバーベキュー(別料金)を楽しむ光景も見られる。

さて、夕食をどうするか。エルファロでいただくこともできるようだが、事前予約のプランの中に、女川駅前の居酒屋の晩酌セットつきというのがあった。ならば晩酌セットだけでなく地元の魚を楽しめるのではと申し込んでいた。

チェックインの時に晩酌セットのクーポン券をいただいたが、まずは駅前をぶらつく。ここも震災からの復興事業で整備された商店街で、パッと見るとどこかのニュータウンの一角と勘違いする。その中には、女川の海産物を扱う店もあり、海鮮丼を売りにする店もあるものの、閉店は早い。昼間に来ればより賑わいを感じることができただろう。

こうした店を気まぐれにのぞく楽しみはあるが、私が入るのはホテルのプランにある居酒屋「ようこ」。ただ店先の印象は、あくまで私個人の主観なのだが、クーポンがなかったら入るのをためらったかもしれない店である。店頭にオススメや値段が書かれたメニューがあるわけでなく、グルメサイトに載ってもいないのでどのくらいの相場の店かわからない。ひょっとしたら女川には居酒屋、大衆酒場が見つからないかもしれず、食いっぱぐれは嫌なのでこのプランにしたのだが、果たしてどうだろうか。ままよとドアを開けて入る。

中は居酒屋の造り。ただ正面奥にはカラオケの画面があり、壁には演歌歌手の色紙が並んでいる。これは料理を楽しむというよりは、常連さんが大将や女将さん(この人が「ようこ」さんなのだろう)と話をしながら飲むのがメインなのだろう。私にとってはあまりないタイプの店である。壁には演歌歌手らしいサイン色紙もずらり並んでいるから、その筋では有名な店なのかもしれない。時には歌手たちもお忍びで来る、みたいな。

もちろん入るのは初めてで、常連さんらしい先客もいる中で女将さんから「久しぶり?」と声をかけられる。すぐに勘違いに気づいたようだが、誰か似た人がいるのだろう。

ホテルのクーポンは晩酌セットで、ドリンク1杯と小皿がついてくる。皿に乗って出てきたのはカツオの造りとさんまの煮付け。いずれも女川の代表的な魚である。セット相当のものを現金で頼むと1000円くらいするかな。

セットの他にもちろん別払いで追加は可能だ。他の魚でおすすめを訊くとメヒカリの塩焼きを薦められる。小魚ではあるが、出てきたものは思っていたより大ぶりのものだった。店の人と常連さんの話を聞くともなくいただく。食べごたえがあった。

結局軽く飲んだ感じだが、女川でも一杯やれて満足として店を出る。もう一度商店街をぶらついてから向かったのは駅併設の温泉「ゆぽっぽ」。震災前廃車となった気動車を休憩スペースに開放していたのを覚えているが、全てが津波の被害に遭った。それが年月を経て、駅の再開とともに町の人たちの憩いの場として復活した。入浴料は500円だが、ホテルに割引券があったので400円。

浴室に行く途中に震災関係のギャラリーがある。関連の書籍販売や復興にいたる写真展示もあるが、目を引くのは石巻日日(ひび)新聞。震災直後に手書きの「壁新聞」として避難所に貼り出す形で発行された現物を額に入れて展示している。震災3日後の3月14日付で、「全国から物質供給」「余震に注意」「15日は冷え込みが予想される」という記事である。何の気なしに見れば集会所のお知らせの張り紙としか見えないが、当時の状況、物資もそうだが情報も何もない中で、必死の思いで出された壁新聞として見ると、その時の現場の切迫した様子や、また新聞が一筋の光にも見えたであろうことがうかがえる。当時、新聞社は津波の浸水はそれほどでもなかったが、電気系統がやられて通常の新聞発行はできなかった。それでも新聞発行を絶やしてはいけないと、新聞用のロール紙を取り出し、油性マジックで記事を手書きして、避難所やコンビニに貼り出す形で発行を続けた。これが3月12日~17日の6日間行われ、世界のジャーナリストからも大きく称賛された。

入浴。温泉と白湯の2種類の浴槽があるだけのシンプルなものだが、半日レンタカーを動かす中でも結構疲れたのでリフレッシュできる。地元の人たちの寄り場にもなっているようだ。

そのまま部屋に戻り、ソファーに腰掛けて1人二次会とする。先ほど「ゆぽっぽ」の売店で買い求めた石巻で加工されたクジラの大和煮や、ホヤの燻製がいける。東北に来たならホヤは食べてみたい食材で、東北新幹線のお供には「ほや酔明」が欠かせない。店によれば刺身もあるはずで、この日は出会えなかったが翌日から泊まる大船渡では何とかいただきたい。

宿泊といえば、これから3日後の16日は三陸海岸の普代村にある国民宿舎を予約していたのだが、この夜、キャンセルをした。旅程切り上げではなく、別のところに宿泊変更である。岩手県内には変わりないが、ここに来て被災地めぐりからの趣向変えである。どこに泊まるかはまた改めて書くことにする。

そろそろいい時間となり、寝ることにする。トレーラーハウスというのも初めてのことだが、周りが静かということもり、ぐっすりと眠ることができた・・・。

コメント

被災地復興を見る~石巻

2019年08月27日 | 旅行記B・東北

国道45号線で石巻市に入る。両側には郊外型の大型店舗が並ぶ。

石巻で立ち寄るのは日和山公園。市街地を見下ろす高台で、クルマは急な坂をギアを下げて上る。

日和山に建つのは鹿島御児神社。鹿島神宮や香取神宮と同じ系列ということだが、そこの祭神が東夷征伐、辺土開拓のために船で奥州にやってきた。その際、この沖合いに停泊して錨を操作したら、錨が石を巻き上げたという。それが石巻の名前の由来になったとされている。まあ、神様が来たかどうかはさておき、大和の朝廷の勢力が拡大し、この地方を開拓したことを讃える歴史的な場所ということが言える。

石の大鳥居が海に向いて立っている。その先にあるのは、ここも津波で大きな被害を受けた一帯である。ただここも、前回6年前に来た時と比べるとさまざまな施設の建設が進んでいるのがわかる。慰霊碑というわけではないが、鳥居から海の方を向くと自然と頭を下げる。

神社に続く石段は津波の避難でも使われて多くの命が救われたが、それでも、地域としては子どもたちを含めて多くの命が失われた。また地震で神社の本殿、社務所も損壊したが、多くの支援により建て替え工事が行われた。

その支援の一つの案内板が石段にある。「志穂美悦子 ひまわりプロジェクト2017」というものだ。志穂美悦子さんといえば千葉真一さんのところでアクション女優として活躍していたが(真田広之さんとも出演していたな)、長渕剛さんとの結婚、出産を機に女優業は休止。現在はフラワーアクティビストという肩書きで、フラワーアートを手掛けている。その活動の中で、この数年、被災地にひまわりを植えるプロジェクトを東北や豪雨災害のあった九州で展開している。石巻では2017年に鹿島御児神社の石段脇にひまわりを植え、多くの参加があったそうである。なお、志穂美さんのホームページによると、今年2019年は大牟田市と七ヶ浜町で行われ、8月半ばに満開を迎えたそうである。

また日和山からは北上川沿いのエリアも見ることができる。こちらもまだまだ工事が進められている段階である。

園内には航路を開拓した河村瑞賢や、『奥の細道』で訪れた松尾芭蕉・曽良の像がある。またその中に、震災の慰霊碑も新たに設けられている。もっとも慰霊碑については、麓にある日和幼稚園の園児たちのものが今年建立されたという。今回訪ねた時はそのことを知らず、記事を書く中で初めて接したことである。日和幼稚園は、津波警報が出る中で、園児たちを送迎バスに乗せて海のほうに向かったこともありバスが津波に巻き込まれ、園児たちが犠牲になったということがあった。で、保護者から石巻市、宮城県に対する訴訟である。

これはかねがね思っていることなのだが、あの大震災、津波への対応について「損害賠償を求める訴訟」という形で白黒つけようというのはいかがなものか。石巻市にはこの次の日に訪ねる予定の大川小学校跡があるが、いずれも遺族が行政を訴えて勝利し、巨額の損害賠償(税金)をせしめている。遺族の気持ちはわかるが(所詮部外者なので何を言っても他人事なのだが)、それを訴訟で、損害賠償で片付けるかね? 行政にも落ち度はたくさんあるかもしれないが、震災で命を落とした人の中には過去の教訓を活かさず、自分勝手な行動を取った人もそれなりにいるのでは? 石巻で訴訟に勝った親御さんは、それなら当時完璧な行動を取ったのか? 石巻って、そんな完璧な輩ばっかり集まってる町のか? そりゃあ、錨で石を巻き上げるくらいですからねえ、行政からカネを巻き上げるくらい簡単なことでしょう。

私がどうかしているのだが、日和山公園はこのくらいにして、女川に向かう。仙石浦に沿うところで、穏やかな内海の景色が広がる。

浦宿駅前で一時停車する。前回6年前に来た時はここが石巻からの終着駅だった。ホーム1本だけの駅はそのままだが、目の前では海を跨ぐ橋梁の工事が進んでいる。仙石浦沿いにクネクネ走るより、規格の高い道路を一気に通して、女川に至るのだろう。また数年もすればこの辺りの景色も様変わりするだろう。

そろそろ女川に入る。ここも町の姿がすっかり変わったようだが、この日13日はそのまま宿泊である・・・。

コメント

被災地復興を見る~東松島・野蒜

2019年08月26日 | 旅行記B・東北

日本三景の松島の町を通過し(まあ、先ほど七ヶ浜側から見たからよしとして)、いったん国道45号線から外れて県道を走る。この後も仙石線に沿って走る。仙石線は津波の影響をモロに受けた路線で、6年前に訪ねた時は特に被害の大きかった高城町~陸前小野間が不通で、松島海岸~矢本間は代行バスが走っていた。大型バスと何台かすれ違ったものである。

2015年に不通区間の線路のかさ上げや、陸前大塚~陸前小野間の線路を内陸側に移すことで仙石線は全線復旧した。また、近くを走る仙石線(松島海岸~高城町間)と東北線(塩釜~松島間)を結ぶ連絡線が新たに敷かれた、「仙石東北ライン」という名前で乗り入れ運転が開始された。「JR乗りつぶし」としては、この連絡線は対象になるのかどうか。「JTB時刻表」やJR東日本の路線図を見ると強調されて書かれているが、検索すると実際の路線距離は0.3キロ。やはり「未乗」の扱いになるだろう。この機会に乗ってもよかったが、やはり乗るなら他の路線やBRT区間と合わせてだろう。

仙石線の新しくなった高架橋が高台に伸びる。私もそれについて行くように県道からいったん外れる。向かった先は「野蒜ヶ丘」である。両側には新たに建てられた家が建ち並び、それこそどこかのニュータウンに来たかのようである。少し走ると東名(とうな)駅に出るが、駅前には「野蒜ヶ丘MAP」という案内板もある。

もうお気づきかと思うが、この野蒜ヶ丘は津波の被害を受けた野蒜地区の主要機能をまるごと移転するために、山林を切り開いて新たに造成し、2016年に完成したところである。東松島市がUR都市機構と合同で進めた「防災集団移転促進事業」によるもので、95.1ヘクタールの広さを持ち、一般住宅や災害公営住宅のほかに小学校や消防署、郵便局、病院、地域の交流センターなども新たにできている。

同じ野蒜ヶ丘の中に、こちらも移転した野蒜駅がある。前回来た時、被災した駅舎やホームを見て被害の大きさを感じたところだが、今はこうしたニュータウンの駅となっている。

駅の横に「東松島市東日本大震災復興祈念公園」の案内板がある。移転前、被災した野蒜駅を復興祈念公園としているとある。ここから0.7キロということで歩くことにする。地下通路を行く形だが、この通路は野蒜ヶ丘を整備する際に出た土砂を東名運河の南側に搬出するベルトコンベアの設置跡だという。

駅から少し下ったところで広場に出る。今の野蒜駅の南口と言ってもいいだろう。家が点在する中、その向こうに見覚えのある駅舎とホームが見える。てっきり解体されてしまったものと思っていたが、残されていたのか。

こちらが元々住宅が建ち並んでいたところで、さまざま工事も続けられている。現在家が建っているところは一部損壊で済んだのか、あるいは自力再建の家だと見えるが、やはりところどころに更地ができている。自力再建の家も、町並みの高台移転や内地移転が進められた一方で、何らかの事情で取り残されたように見えないこともない。

野蒜も高さ4メートルほどの津波被害に遭い、東松島市全体で1000人を超える犠牲者を出した。駅舎の裏手に設けられた復興祈念公園にその慰霊碑が建てられている。「鎮魂・復興・感謝 東松島一心」と刻まれた石碑の両側には、犠牲になった人たちの一人一人の名前が書かれている。

また、皇后さま(現上皇后さま)の御歌として「野蒜とふ 愛しき地名あるを知る 被災地なるを深く覚えむ」と刻まれた歌碑もある。今年2019年の3月10日に建てられたばかりだという。皇居の庭で摘んでいた野草のノビルから、被災地の野蒜に思いを致したという一首だそうだ。

そして、野蒜駅跡である。フェンスで囲われていて中には入れないが、津波に遭ったホーム、屋根、傾いた柱、駅名標、線路などがそのままの形で残されている。6年前はそれこそ津波に遭ったそのままの形で、駅舎は板を打ち付けて中に入れなかったが、ホームには上がることができた。線路も内陸や高台に移設するし、この駅もいずれ解体されるのだろうなと思ったのだが、こうした「震災遺構」として残す方法を取った。

6年前の時は、まだがれきも片付いておらず、津波に遭った建物もまだ放置されていたり、祈りの場所となったりしたところも多かった。しかし震災から年月が経ち、新たな町づくりが各地で進められる中で、こうした建物をどうするかの議論が起こった。解体すべきか残すべきか。その答えはさまざまな形で、地元の人たちや行政がそうした答えを出したわけだが、これからそうしたものをいろいろ見て回るとしても、どちらかが正しいというものでもないだろう。

ただ、私が鉄道好きだからなのかもしれないが、「駅」が「震災遺構」として残されていることについては、「そこに行ってみよう」「津波があったことを振り返ろう」という一つの動機にはなった。野蒜駅というと、この駅で行き違いをして発車した上り・下りの列車が地震発生でそれぞれ緊急停止したが、それぞれの場所によって津波の明暗が分かれた・・ということも思い出す。

旧駅舎は「東松島市震災復興伝承館」として改装・保存されている。展示館が2階にあり、階段を上がると野蒜駅にあった自動券売機、行き先案内板が展示されている。また、野蒜小学校にあった、地震直後の時刻を示す時計もある。

他は写真パネルも並ぶ。震災発生前、津波直後、そこからの復興と定点で撮影されたものもあり、また正面のスクリーンでは震災について取り上げたテレビ番組だろうか、当時の様子が流れている。インタビューに答えていた男性は奥さんを津波で亡くしたのだが、それが実に悔やまれるという。津波の警報が出てペットの犬を連れて避難所まで二人で逃げたのだが、「避難所ではペットは受け入れられない」とかで、奥さんは犬を自宅に置いて来ようと自宅に向けて戻ってしまった。それがあだとなって津波の犠牲になったという。

津波被災の爪痕、またそこからの新たな町づくり。旧駅舎の2階から、被災したホーム、祈念公園の向こうにある新駅舎を見る。複雑なものが入り混じる。この先、この一帯がどのように歩んでいくのかもまた気に留めておきたいことである。

再び歩いて新駅舎に戻り、またクルマに乗り込んで内陸側に向かう。再び国道45号線に合流して、夕方近くなって石巻市に入る・・・。

コメント

被災地復興を見る~七ヶ浜、塩釜

2019年08月25日 | 旅行記B・東北

仙台駅でレンタカーを借りて、これから三陸沿岸を目指す。駅から少し走ると国道45号線に出る。太平洋側を経由して青森まで向かう主要国道で、今回はこれを伝って岩手県の北部まで行くことになる。途中、「復興道路」として整備されている三陸自動車道というのがあり、開通期間も伸びている。この先もカーナビはそちらへそちらへと誘導しようとするのだが、まず往路はできる限り地道を走って行くことにする。

地下区間から地上に上がった仙石線の線路や駅も見える。今回も鉄道旅行で仙石線~石巻線~気仙沼線~大船渡線と乗ったうえで三陸鉄道に乗ればベストだったのだろうが、被災地のその後の様子をいろいろ見たいのと、時間的な理由でレンタカーにした。ただそれを言い出すと時間がいくらあっても足りないから、また次の機会を楽しみにする。

多賀城市に入り、まず向かうスポットとしたのは七ヶ浜町である。仙台市、多賀城市、塩釜市に隣接する半島状に突き出た地形で、海沿いに7つの浜があったことからついた名前である。6年前の東北行きでは塩釜に連泊したのだが、その時にも訪ねた場所である。まずは高台の住宅地に上がる。仙台のベッドタウンとしての町の姿が見える。

向かったのは半島の先にある多聞山。公園になっているところだ。周囲は開けていて風も通る。まだあじさいが見られる園内を抜けると、深山権現(被葉衣観音)を祀るお堂があり、先端に毘沙門堂がある。多聞山とは毘沙門堂からつけられた名前である。

この多聞山から見えるのが、日本三景の一つ、松島である。松島を南から見る形で、遊覧船が遠くを行くのも見える。「松島四大観」の一つの「偉観」という景色。若干曇っているので遥か遠くまで見通すとまでは行かなかったが、目の前の島の景色はよいものである。

多聞山を後にして、半島を時計回りに走る。ここから高度が下がり、前方に仙台火力発電所の正門が見えてくる。と、その前にかかる標識が「ここから過去の津波浸水区域」である。これからの道中で何度となく目にすることになる標識である。

前回来た時、七ヶ浜町も津波の大きな被害に遭ったということを目にした。震災から2年半近く経った後のことで、がれきの大部分は撤去された後だったと思うが、建物が流された家屋に門柱や基礎だけが残っていたり、そろそろ雑草に覆われようかという光景に心を痛めた。七ヶ浜町の津波は最高で12メートル、町の面積の3分の1が浸水したという。死者・行方不明者も100名ほど出た。

しばらく走らせると、更地も多い中で新たに家を再建したところも目につく。漁港に面したところでは新たに防潮堤も建設されていた。花渕浜地区の復興・整備のイメージを描いた看板も掲げられている。七ヶ浜は仙台からも気軽に行ける水産物や海水浴を楽しめるスポットでもあり、やはりそれらの活性化だろう。

道の駅ならぬ「うみの駅」というのがあり、賑わっている店もある。せっかくなので何か水産物でものとのぞいている。食堂やバーベキューコーナーも併設されていて、ここで買ったものを早速焼いていただくこともできる。家族連れで賑わっている。

また、防潮堤の向こうに津波避難用の櫓かなと見えたのは新たにできたリゾートホテルである。防潮堤の外側で大丈夫かと思うが、そのために屋上を非難場所にしているのかと思う。松島の展望やマリンリゾートが楽しめるそうで、こちらも夏休みの家族連れやカップルで賑わっている。こうした新しいスポットで地域の活性化につなげようというところだ。

さらに走らせると小豆浜、そして菖蒲田浜という、海水浴やサーフィンで人気のスポットもある。これらの海岸も津波で多くの漂着物が打ち上げられたが、住民やボランティア、そしてサーファーたちも撤去・清掃作業に当たり元の美しさを取り戻しているスポットである。夏本番、菖蒲田浜への駐車場もほぼ満杯の状態である。

やはり前に来た時とは町の姿も新しく変わりつつあるということをまず感じて、そのまま塩釜に抜ける。前回は東塩釜駅前のホテルに連泊して各地を回ったのだが、駅にほど近い千賀の浦緑地にある慰霊碑・モニュメントを訪ねている。

近くのドラッグストアにクルマを停めさせてもらい、そちらに向かう。今はテラスのある公園として整備されており、震災の津波を乗り越えた巡視艇「おしか」のいかりも記念に展示されている。また慰霊碑の周りには石が刻まれているが、そこには塩釜の復興支援に協力した全国の自治体の名前が刻まれ、「絆」という京都市の門川市長の揮毫と、「感謝」という塩釜市の佐藤市長の揮毫が合わせて刻まれている。また、この復興支援には岡山の倉敷市からも長期にわたり職員が派遣されてきたが、昨年2018年の西日本豪雨の際には、逆に塩釜市から倉敷市に職員を派遣するということもあったそうだ。これも「絆」である。

さらに先に進む。宿泊が女川ということで、近いようでまだまだ結構距離がある。松島海岸駅あたりは観光客のクルマで少し渋滞しているが、今回はのんびり遊覧船での島めぐりは見送りである。何だか時間があるようで慌ただしくもある今回の被災地めぐり・・・。

コメント

仙台から出発

2019年08月24日 | 旅行記B・東北

8月13日の朝はゆっくりのスタートである。前夜は宇都宮に宿泊し、いろいろな餃子も味わった。

実は「宇都宮餃子館」の宇都宮駅西口店では、朝の6時30分から開店していて、餃子の朝定食をいただくことができる。これにしてもいいかなと思ったが、ホテルに通常のバイキング朝食があるのでこちらで済ませる。

乗るのは、宇都宮9時05分発の「やまびこ127号」仙台行き。山形行きの「つばさ127号」を前に連結している。まずはこれで那須野を抜け、福島県に入る。今回は新幹線で素通りだがこれでようやく東北に入った。

その後宮城県に入り、宇都宮から1時間ほどで仙台に到着した。前回6年前に被災地めぐりをした時は往復とも仙台空港経由で、空港からレンタカーに乗ったから、仙台駅に降り立つのはさらにさかのぼって久しぶりである。

駅に着いたのが10時過ぎで、駅近くのレンタカーの予約は11時30分である。この時間を利用して早めの昼食とする。となると、牛タンだ。この日宇都宮の出発を9時とゆっくりさせたのも、こうして牛タンをいただこうという思惑があった。

新幹線乗り場のコンコースには牛タン、寿司の店が軒を連ねる一角がある。広島駅ビルにお好み焼店がずらり並ぶのと同じようなものだ。牛タンの店は大阪にも支店を出しているところもあるが、やはり本場でいただくと雰囲気も合わせて味わえそうだ。

概ね10時開店のようだが早くも行列ができている。その中でたまたま列が切れたところの「喜助」に入る。「喜助」も大阪に支店がある。列が切れたのは偶然で、別にここが不人気というわけではない。牛タンを仙台名物に育て上げ、全国に知られるようになるまで広げた・・というのが店のプライドだという。

注文したのは2つの味付けが選べるミックスの定食。シンプルな塩味と、仙台味噌と白味噌をブレンドした味噌味を選択する。いずれもビールを注文したくなる味付けだ。もちろんこの後ハンドルを握るのでビールはなし。麦酒の代わりというわけではないが麦飯で昼食である。旅のどこかでつまもうと、つまみ用の牛タンもついでに買い求める。

駅前に出る。こちらでは高校野球の宮城県代表・仙台育英を応援する看板が出ている。

そして仙台といえば楽天イーグルスだ。通りの街灯にはイーグルスの選手たちのイラストが並ぶ。そういえば新幹線を降りた時、折り返し列車の清掃を担当する係の人のユニフォームもイーグルスのロゴがあしらわれていた。JR東日本じたいがイーグルスをサポートしていることもあるだろう。この地に球団ができて15年、すっかり根付いた印象だ。その一方で球団合併したオリックス・バファローズと来たら・・・、いや、これ以上書くと旅行記から離れて愚痴になるので止めておく。数年後には「四国(新潟)ミクシィ・バファローズ」になるとかならないとか・・・(だから止めなさいってば)。

駅から少し離れたところにレンタカー店がある。イーグルスの後に登場するのは「オリックス」レンタカー。これは私が店を指定したわけではなく、旅行会社にレンタカー手配を依頼した結果であるが、面白い。オリックス・バファローズファンからすれば長崎の出島のようなスポットか。パンフレットのラックにバファローズのイヤーブックが店内用で置かれている。もっとも、バファローズのファンクラブに入っているからといってレンタカーが割引になるわけでもなく、オリックスレンタカーのユーザーだからといって大正ドームのチケットが安くなるわけでもない。それはそれ、これはこれ。

これから17日の16時まで旅のパートナーになるのはトヨタのヴィッツ。レンタカー1人利用にはちょうど良いサイズで、燃費の良さもポイントである。

これからレンタカーで回るわけだが、改めてコースについて書いておく。

13日・・実質半日で仙台~石巻~女川を走行、女川泊。

14日・・女川から三陸沿岸沿い、主に国道45線を走り、大船渡泊。

15日・・大船渡のホテルの駐車場にクルマを停めたまま、盛から三陸鉄道で久慈まで往復。

16日・・大船渡から国道45号線その他を走り、普代村の黒崎泊。

17日・・黒崎から、寄り道できる範囲で寄り道しつつ、16時までに仙台駅前に到着。その後帰阪。

このようなプランだが果たして順調に行くか。まずは安全運転にて仙台市街から多賀城方面に向かう・・・。

コメント

やはり宇都宮では餃子を食す

2019年08月23日 | 旅行記C・関東甲信越

BCリーグの観戦を終えて、東武宇都宮線と路線バスでJRの宇都宮駅に戻る。12日の宿はコンコースを渡った東口側にあるホテルサンシャイン宇都宮。旅行会社にJR宇都宮駅近辺でリクエストしたら手配してくれたところだ。建物は立派できれいだが、値段も結構する。普段の個人手配の旅なら宿泊の選択肢としたかどうかだが、まあ、これも褒賞のおかげである。充てられた客室は角部屋のようなところでちょっといびつな形になっている。普通の部屋よりは狭いのだろう。

さて夕食。このホテルには24時間営業のイギリス風パブが設けられていて、それはそれで好評のようなのだが、ベタな旅行で来たなれば夕食はやはり餃子だろう。それも繁華街まで出ずとも東口前で済んでしまうところがすごい。

東口前には「宇都宮餃子館」や「みんみん」の店舗が並ぶが、まず向かったのは「オリオン餃子」。このブランドの店に入るのは初めてだ。県内では宇都宮に2軒、小山に1軒の他、高崎、福島、富山にも支店があるそうだ。宇都宮餃子のブランドとしてどのくらい人気なのか、別に予備知識があったわけではなく、店頭に「餃子酒場」という文字が目に入ったのでドアを開けた。

メインは餃子とラーメンの二本立てだが、酒のアテの一品もいろいろある。その中で選んだのがもつ煮込み、そしてホッピーである。店員が「白?黒?」と訊くので「白」をお願いしたつもりだったが、来たのは「黒」。まあ、宇都宮でホッピー、それも黒。ええんとちゃいますか。当然、ナカのお代わりも。

肝心の餃子はといえば、スタンダードの「オリオン餃子」がベースで、つけるタレに違いを出しているのが特徴のようだ。宇都宮の味噌だれや、豚骨ラーメンのスープに餃子を入れていたりする。餃子とホッピー(それも黒)というのは、宇都宮ならではの組み合わせということで旅の味として楽しむ。

その中で一緒に注文したのが、パクチー餃子。餃子の上にパクチーを乗せ、さらにパクチーソースをかけた一品。定番料理がいきなりエスニックになった。パクチーは豚肉やニンニクとの相性が良い食材だそうで、口の中にもそれらがミックスされた香りが広がる。

これで1軒目として、続いては東口にある「宇都宮餃子館」に向かう。いくつか建物があるが、一番広いフロアの店に入る。ここも熱気がある。

こちらでは、スタンダードの「健太餃子」の他に「12種食べ比べ」を選択する。こちらは中の餡がそれぞれ異なっていて、健太、舞ちゃん、ニラ、ニンニク、激辛、どんこ椎茸、舞茸、チーズ、シソ、スタミナ健太、肉、エビの12種類。見た目ではどれがどれか区別がつかず、また並びも必ずしも上記の順番でもなさそうだ。口にして初めて味がわかるというのもゲーム性があって面白い。食べ比べの間にスタンダードの健太餃子を挟むと違いがよくわかる。

何やかんやで餃子店を2軒回ったところでおしまいとする。それでも餃子は30個食べたことになる。いいのかな・・・。

この日は東北を前にして宇都宮に宿泊。北関東も旅をした形となり、いよいよ13日、宮城県に入ることに・・・。

コメント

BCリーグ観戦記・栃木対群馬@栃木県営~首位攻防にふさわしい熱戦

2019年08月22日 | プロ野球(独立リーグほか)

8月12日、猛暑の中でのBCリーグの観戦はいよいよ試合開始である。栃木は西岡が3番、飯原が5番に座る。一方の群馬は井野口が3番、ジョニーが6番に入る。群馬の強力打線が威力を発揮するのか、栃木の地元パワーがそれを上回るのかが楽しみである。

栃木先発は、元ソフトバンクの育成選手で今季から加入の齋藤。左腕からスリークォーター気味に投げる。まずは群馬先頭でNPBへの期待もある青木を打ち取るが、続く大堀、井野口に連打を許す。

一死1・3塁となって群馬4番の速水がライトに犠牲フライを放つ。これで群馬が1点先制する。

一方の群馬先発は同じ左腕の南。小柄ながら小気味のいい投球を見せる。栃木は2番の青木が内野安打で出塁し、早速西岡に打順が回る。スイッチヒッターなので右打席だ。しかし惜しくも三塁ゴロ。後続も倒れて無得点である。

栃木は2回も2四球とバントで二死2・3塁とチャンスを作るも得点に至らない。

続く3回裏、一死から青木が二塁打で出塁。そして西岡に回るが空振り三振に倒れる。ただここで4番のルーカスがセンター前に弾き返し、1対1の同点となる。ルーカスは送球の間に2塁を狙うがタッチアウト。それでも同点となり試合も盛り上がる。

3回裏を終わった時点で約10分の給水タイムが入る。選手の熱中症予防のための取り組みで、観客に向けても水分補給を呼びかけるアナウンスが流れる。この日の宇都宮は猛暑日になったようで、スタンドにいるとたまに涼しい風も吹き抜けるが暑いのは暑い。私もいったん球場の外に出て、普段買うことのないかき氷を注文する。かき氷には体温を下げる効果があり、熱中症の防止にもなるそうで、たまにはこうした食べ物も食わず嫌いすることなくいただかなければなと思う(ビールでは体温は下がりません)。

4回表、群馬はジョニーにレフトへの大きな当たりの二塁打が出る。その後、李のヒットで二死1・3塁と勝ち越しのチャンスだが齋藤がしのぐ。

5回表、群馬先頭の青木が内野安打で出塁し、続く大堀のバントは齋藤が二塁へ送球するも間に合わず野選となる。井野口は空振り三振だが、次の速水にレフト前のヒットが出る。これで2対1と群馬が勝ち越し、さらに返球が悪送球となる間にもう1点が入る。3対1とここで群馬がリードする。

次の富田のところで齋藤は降板し、右腕の前田につなぐ。一死1・3塁のところで打席にはジョニー。ここで栃木ファンのオッサンから「4・6・3!!」という声援が飛ぶ。これは4-6-3のゲッツーでチェンジという願いなのだが、そのジョニー、注文通りに4-6-3のゲッツーに倒れる。これには三塁側スタンドからオッサンに「予言通りや」との大きな拍手が起こる。

試合中盤の休憩直後の6回表、群馬は一死2塁から笠井がバントを決める。これを前田が一塁に悪送球して、ランナーが生還する。4対1、栃木の守備の乱れに乗じたものだが群馬がリードして終盤に向かう。

7回表には群馬が井野口のヒットをきっかけに、富田のタイムリーで5対1と点差を広げる。このまま群馬が楽勝なのかなと思わせる。

7回裏、栃木のラッキー7には黄色のジェット風船が飛ぶ。この風船もスポンサーからの提供によるもので、GOLD LUSHの面々が7回表の前からスタンドに出向いて観客一人一人に無料で配って回っていた。普段ジェット風船は飛ばさないが、独立リーグなら話は別だ。球団歌『金色の勇者』が流れるのに続いて風船が宇都宮の青空に舞う。

7回は文字通りラッキー7だったようで、栃木は連打で二死1・3塁のチャンスを作り、1番内山のヒットで5対2と追い上げる。続く途中出場の松井にもヒットが出て二死満塁。ここで西岡を迎える。ホームランバッターではないが、ここで本塁打なら6対5と一気に試合がひっくり返るチャンスである。コールも「ホームラン、ホームラン、西岡!」と送られる。

しかし期待の西岡は1塁ゴロに倒れ、結局無得点。これで勝負は決まったかと思えた。7回裏を終えたところでまたも給水タイムとなる。

5対2で群馬が3点リードのまま9回裏を迎え、マウンドには群馬3人目の田代が上がる。先頭の途中出場の山﨑がレフトへの二塁打を放つ。一死後、内山の四球で1・2塁として、打席には代打の申。ここで申がレフト越えの二塁打を放ち、5対4と追い上げる。さらに申が生還すれば同点となる場面で、三塁側スタンドも大いに盛り上がる。

そして迎えるは、というか、こういうところで打順が回ってくるのが西岡。2塁走者が還れば同点というチャンスだったが、力のないレフトフライに倒れる。結局この日の西岡は無安打に終わったのが残念である。

さらに同点のチャンスはタイムリーも放っているルーカスに託されたが、センターフライに倒れて試合終了。5対4、群馬が辛うじて逃げ切った形である。それでもこの首位攻防戦の結果、群馬が栃木を上回ってBCリーグ後期東地区の首位に立った。終わってみれば群馬12安打、栃木10安打という乱打戦であった。

試合終了後、栃木が敗戦だったにも関わらずグラウンドにはお立ち台のボードが運ばれてきた。この試合のMVPのスポンサー表彰ということで、まあ、敗戦だったから敢闘賞といっていいだろう。9回に代打で2点二塁打を放った申と、先発で5回途中降板の齋藤の二人が受賞した。

試合終了後はBCリーグ恒例のお見送り。ただここが他と違っていたのは、単に「応援ありがとうございました」とお辞儀をするのではなく、参加者全員とハイタッチをするもの。混乱を避けるためか西岡や寺内監督の姿はなかったが、他の選手やさらにはGOLD LUSHの面々が一列に並ぶ。そしてこれも恒例なのか、ハイタッチと同時に花の種の袋を配るサービス。ただハイタッチが終わると選手たちも急いで球場に引き上げてしまい、サインを・・というわけにはいかなかったのが残念である。岡田コーチのごとくは両手を前に出してきっぱりと拒否していた。

この試合唯一いただいたのが先発の齋藤のもの。将来NPBへの復帰はあるのだろうか。

そろそろ宇都宮市街に戻ろうと思う。やはり栃木もクルマ社会なのか、西川田の駅に向かって歩く人の姿はまばらだ。

サインの件はおいておくとして、この日観戦した印象として、球団もファンも盛り上がろうとあれこれ行われているのが見てとれて、地域にもすっかり根付いているように思えた。この日の観客数は1800人を超えていて、BCリーグの試合としても結構多かった。

また機会があれば他の関東北信越のチームの主催試合も観たいものである・・・。

コメント

BCリーグ観戦記・栃木対群馬@栃木県営~魅力ある顔ぶれ

2019年08月21日 | プロ野球(独立リーグほか)

夏の旅は初めての栃木での野球観戦も実現した。栃木ゴールデンブレーブス対群馬ダイヤモンドペガサスという「北関東対決」。

前日の8月11日の試合を終えた時点で、BCリーグ東地区後期の順位は、栃木が14勝6敗4分で首位、そしてゲーム差なしの2位で群馬が15勝7敗2分と続く。さらに3位の新潟アルビレックスも1.5ゲーム差で追いかけている。残りが12~13試合だからまだわからない。

さて、栃木県営球場最寄りの東武宇都宮線西川田駅から歩く。周りは住宅街で、その中の国体通りを歩く。1980年に栃木県で国体が開かれるのに合わせて整備された総合運動公園の一角に球場がある。

駅から15分ほどで到着。入場口に行列ができていて、11時15分からファンクラブ会員の先行入場がはじまった。

一般客は11時30分入場で、それまでにグッズ販売のワゴンや飲食の屋台など見る。宇都宮駅前ですでに仕入れてはいたが、屋台でオススメだというチャーハンと唐揚げを購入。宇都宮だから何でも餃子・・というわけではなく、当然他の旨いものはあるのだが、このチャーハンはなかなかいけた。

入場口ではチアガールの皆さんのお出迎えもあり、ホームである三塁側に陣取る。この球場は屋根つきの2階席もあるが、グラウンドに近くフェンスも気にならない目線の高さなので、暑い中そのまま1階席に座る。先に入場した人たちは2階席下の日陰の席に固まっている。応援団の数も多く気合が入っている。グラウンドでは試合前の練習をしているがスタンドではトランペットの練習が広げられる。聞くともなく聞いていると、滋賀ユナイテッドの選手応援歌も流している。この試合の前週に栃木は滋賀まで遠征しており、その時にネタを仕入れたのかな。

グラウンドでは群馬の打撃練習中。チームを率いるのは平野謙監督。2016年の就任から3年、6期連続の地区優勝、2回の独立リーグ日本一と立派な成績を残している。今季も前期を制覇している。

そしてグラウンドには昨年滋賀でプレーしていたジョニー・セリスの姿も見える。富山、福井、滋賀、そして群馬と長年BCリーグでプレーしており、日本語もペラペラ。そういえば昨年まではカラバイヨ(バファローズにもいた)がプレーしていたが、その後継とも言える。また、2007年のBCリーグ発足以来、富山~群馬で10年以上プレーを続ける井野口祐介もコーチ兼任で健在。

一方の栃木。監督は昨年まで巨人にいた寺内崇幸監督で、コーチにはこれも昨年までロッテの岡田幸文、そして選手兼任で元ヤクルトの飯原誉士がいる。3人とも栃木県出身というのも地域密着にプラスだろう。

その一方でNPBのスター選手を招聘するのも栃木は積極的で、昨年は村田修一も在籍して球団の人気向上につなげた。

そして今季、そのポジションにいるのがあの西岡剛である。昨年でタイガースを自由契約になり、NPB復帰を模索して今季は栃木でプレー。残念ながら7月末の移籍期限までに声はかからなかったが、どこかのインタビュー記事によれば野球そのものをまだまだ辞めるつもりはないそうで、この日も若い選手に交じって熱心に体を動かしたり、群馬の高橋雅裕コーチと談笑したり、明るくグラウンドに立っている。ネットの書き込みでは、「西岡がNPBに復帰できないのは本人の素行のせいだ」というものがあるが、昨年の村田修一にも同じようなものがあったと思う。ただ、少なくとも球場で姿を見せる限り、いち野球ファンとしてフェンス越しにその姿を見る限りでは、「そんなに素行が悪いの?」と疑問視する。若手の選手に交じって、声もかけながらアップをしている姿はごくごく自然だと見受けるが。

試合前のイベントも華やかだ。まずは栃木の球団歌『金色(こんじき)の勇者』を唄う、Lovin&S(ラヴィンズ)が登場。栃木県出身・在住の姉妹のユニットだそうだ。栃木のユニットといえばU字工事を連想してしまうのだが、こうしたご当地アイドルもちゃんといる。

そして登場するのは、栃木のチアパフォーマンスチーム、GOLD LUSH。野球に限らず、地域のスポーツやイベントにも数多く出演するほか、ダンススクールも手がけるとか。BsGirlsの栃木版といえば失礼だろうが、この日球場に来ていた男性客の中には「推し」の子目当てもいるように見えた。なおGOLD LUSHの面々は試合中もパフォーマンスを見せたりスタンドにも顔を出したり、試合を盛り上げてくれた。なおこの日はイベントで、メンバーが「チームblack」と「チームwhite」に分かれて、どちらのチームのパフォーマンスが優れているかファン投票で選ぶというのが行われていた。私としては優劣はつけられず、どちらもgood!!

さらに、日本で唯一のプロのアイスホッケーチームの栃木日光アイスバックスの選手もPRで登場し、始球式も行った。栃木は地味にバスケットボールやアイスホッケーのチームが存在感を出していて、ある種独特のスポーツ文化を形成しているように思う。

まだ試合前だが、夏休み期間中ということもあるがグラウンドにいろんな顔ぶれが出るだけで栃木満喫気分である。BCリーグの地域貢献、地域の盛り上げというポリシーの一端を感じることができる。試合開始前に三塁側スタンドに多くの人が集まってきたのは、選手が守備位置に着く際にTシャツが入ったケースを投げ入れるのだという。GOLD LUSHの面々も投げ入れをしたが、残念ながら私が陣取っていたところまでは届かず・・・。

例によって記事が長くなったので、そうそうたる面々が揃った肝心の試合の様子は次の記事にする。その試合も、首位攻防戦らしく熱かった・・・。

コメント

まず目指すは宇都宮

2019年08月20日 | 旅行記C・関東甲信越

夏の旅、まず東北の前に訪ねるのは宇都宮である。8月12日、天気は晴れ時々曇りの予報で、雨の心配はなさそうだ。野球の雨天中止ではなく観戦中の熱中症を心配する必要がある。

この日は栃木県営球場で13時開始のBCリーグ・栃木ゴールデンブレーブス対群馬ダイヤモンドペガサス戦を観戦する。

群馬は昨年も独立リーグ日本一、今年も前期東地区を制した強豪チーム。一方栃木は滋賀と同じくリーグ参入3年目だが、今季は健闘しているし、観客動員もリーグの中では多い。関西住みでは観られないそうした両チームの対戦をこの旅に組み込んだ。栃木県営球場は東武宇都宮線の西川田という駅が最寄りで、大阪からでも新幹線乗り継ぎで11時すぎには着くことができる。

予約していたのは新大阪6時33分発ののぞみ102号。これで東京まで出て、13分後の9時16分発・なすの255号に乗り継ぐ。東京での乗り継ぎが慌ただしいのが気になるところだ。

その中で新大阪に着くと、新大阪始発の6時16分発・のぞみ204号に間に合うタイミングだった。自由席の窓側にも空席があったのでこれに乗ってしまう。これで東京での乗り継ぎ時間が約30分に広がる。東海道新幹線では車内改札があるが、その際に座席指定を放棄する処理をしてもらうことができる。

朝の空気の中、関ヶ原を過ぎ、名古屋では多くの乗車があって自由席がほぼ埋まった。ただデッキに立つ客はいないようだ。これで後は東京に向かうだけだ。

いつも気になる富士山の眺め。この日は頂上あたりに雲がかかっていた。

品川を過ぎると東京での列車入れ換えの信号待ちとなる。結局3分ほどの遅れで東京に到着したが、もし元の列車に乗っていたらハラハラしたかもしれない。

東海道新幹線の改札からいったん在来線のコンコースに出る。駅弁のコーナーは大勢の人でごった返す。東日本を中心に各地の駅弁が並んでおり、見ていて楽しいのだが、実はここで駅弁より目当てにしていたのは、両国国技館の地下で作られている焼き鳥。しかし売り場にその姿が見えない。聞くところでは現在工場の都合で、東京駅での販売がないとのこと、あら残念。

その代わりではないが、レジ横には函館線森駅のいかめしが置かれているではないか。いかめしは駅弁だが、焼き鳥同様夜のつまみにも分類できる。思わぬ形で人気駅弁を手にすることができた(画像は、その夜に開封したところ。その後、いかめしをつまみに一献できた)。

東北新幹線のホームに上がる。列車を待つ客であふれる中、こちらのホームからの行き先もたくさんあり、東北、山形、秋田、北海道、上越、北陸、長野とバラエティに富んでいる。その中、東北・北海道と山形・秋田は連結されているので、東京駅ではお互いがつながり、2列車合わせて17両(10両+7両)という東海道新幹線より長い編成を見ることもできる。中央なら先頭部が連結された光景が目の前にある。東海道新幹線のN700系ばかりの光景とは対照的だ。

これから乗る、なすの255号郡山行きは各駅停車だが、はやぶさ+こまちの17両編成。それでも乗客は多く、指定席もほぼ満席である。東北新幹線に乗るのも久しぶりで、はやぶさタイプの車両に乗るのは初めてである。

改めて車窓を見る。東京の特に東北部は平野が広がる一帯で、「車窓の向こうに山が見えない」という久しぶりの景色を見る。関西だとこうは行かない。

それでも埼玉県から栃木県に入ると前方には山も見えてくる。10時09分、宇都宮に到着。日光への玄関駅でもあるためか、外国人の下車も目立つ。

JRの宇都宮から東武宇都宮までは距離がある。歩くなら適度な運動だが、ここは早く乗り継ごうとバスに乗る。東武宇都宮のほうが繁華街、中心街に近いのでアクセスは便利である。

宇都宮といえば、LRTの建設が進められている。コンパクトシティを目指すとして、富山などで導入されているLRTを取り入れて、2022年度に宇都宮駅東口から、東部の芳賀、高根沢地区を結ぶ路線を開通させるという。さらに将来的には、宇都宮駅を貫通して西側の中心部にも走らせる構想があるようだ。ただ一方で、LRTに対して宇都宮市は気合が入っているが、市民の反応は今一つというニュースも旅の前に触れている。富山を成功事例としつつも、宇都宮で同じように定着するのか懐疑的な向きも多いのだろう。まあ、LRTが開通する2022年度以降に宇都宮を訪ねるのも楽しみだ。どのくらい、街の個性が変わることやら。

・・さて東武宇都宮駅前。駅には夏の甲子園に出場している作新学院への応援のボードが貼られている。独立リーグの球場での食事情はわからないし、最寄りの西川田駅近辺にコンビニやスーパーもなさそうなので、近くのコンビニで昼の飲食物を仕入れる。この時間帯の東武宇都宮線は30分おきで、次に乗るのは10時52分発の栃木行き。4両編成のワンマン運転である。

列車で3駅、8分で西川田に到着。改札前には「カクテルの街 宇都宮」ということで、東武宇都宮線各駅を盛り込んだカクテルを表したパネルが並ぶ。カクテルよりも大ジョッキ、割り物ならホッピー&キンミヤ・・とは正反対の表現。そもそも、宇都宮がカクテルの街と呼ばれるようになったのはなぜ?

西川田駅から歩く。この先には栃木県営の運動公園があり、国体の会場になったのを機に整備されたそうだ。

その中で、栃木ゴールデンブレーブスを応援するポスターや幟を見る。この後の観戦もこんな感じなのかなと楽しみである・・・。

コメント (2)

夏の休暇の旅先は・・・(後)

2019年08月18日 | 旅行記B・東北

夏の休暇の旅先を東北に決めた。その中でも東日本大震災の被災地ということで、宮城県北部から岩手県にかけて回ってみようと思った。そこには三陸鉄道も絡む。

先の記事で、勤務先企業の勤続の節目の褒賞によるもので、副賞として旅行券がついていることについて触れた。これも使用期間の制限があり、使うなら実質この夏までである。勤務先企業のグループに旅行会社があり、そこを窓口として旅行会社のパックツアーを申し込んだり、ホテルやJR、航空券の手配をすることができる。もっとも、ホテルについては旅行会社と協定しているところに限られるようで、普段ネットでいろいろ見つけて自分で申し込むスタイルなのでどんなところが出てくるか。

さてプランニングだが、目的地を東北にした一方で、当初考えていた関東北信越でのBCリーグ観戦も捨てがたい。改めて日程表を見ると、11日に栃木県営球場で行われる栃木対福島戦に続き、12日も同じ栃木県営球場で栃木対群馬戦が行われるとある。仙台まで新幹線で行こうと思っていたところ、これなら途中下車の形で1試合観戦、そのまま宇都宮に宿泊はどうかと考えた。

また一方、現地では効率よく回ることもあってレンタカー利用をベースにしているが、一方で三陸鉄道の全線にも乗ってみたい。そうすると、往復で1日を要することになり、どこかで連泊することを考える。南の起点である盛(大船渡)、中央の釜石、宮古、北の起点である久慈のいずれかが考えられるが、その中で大船渡はどうだろうか。

そしてまず自分で立てた行程が以下のとおり。

8月12日:新大阪から新幹線乗り継ぎで宇都宮へ移動。栃木県営球場でのBCリーグ観戦後、宇都宮宿泊。

8月13日:宇都宮から新幹線で仙台へ移動。レンタカーを借りる。県内の移動距離・時間を考えて、石巻または女川宿泊。

8月14日:宿泊地からレンタカー移動で大船渡宿泊。

8月15日:盛(大船渡)から三陸鉄道で久慈まで往復。大船渡宿泊。

8月16日:大船渡からレンタカーで三陸沿岸を北上。久慈宿泊。

8月17日:久慈からレンタカーで仙台まで南下。レンタカー返却後、新幹線乗り継ぎで大阪に戻る。

結局いろいろ欲張りすぎて、5泊6日という私の旅でも近年ない「長期日程」となったが、旅行券の額面だけで移動と宿泊の全てを賄うのは当然無理。残りは自分の持ち出しとなるがそれは承知のうえだ。この中で旅行券で賄ったのが、往復の新幹線、レンタカー(13~17日)、大船渡での2泊分、そして宇都宮の1泊分である。残りはネットにて、13日は女川のホテル、そして16日は久慈ではなく手前の普代村にある国民宿舎を予約した。

旅の前には台風が来る予報もあり、数日前の時点ではその中の台風10号の進路がまだはっきりせず気をもんだこともある。特に12日のBCリーグ観戦は、雨が降れば当然中止である。まあその時は、前回宇都宮を訪ねた時に、年末年始休業で行けなかった大谷石の資料館にでも行こうか。

そして出発日。天気予報では晴れだが、台風10号が西日本に向けて接近しており、14日~15日頃に関西~九州の広いエリアに上陸の可能性があるということだった。そちらも気がかりだが、ともかく東に向けて出発する・・・。

コメント

夏の休暇の旅先は・・・(前)

2019年08月17日 | 旅行記B・東北

先の中国観音霊場めぐりの誕生寺編は8月9日に行ったが、これは「この日から早めの休暇で」訪ねたようなことを書いた。世間では夏季休暇の時季である。

こういうことを書いていいのかどうかわからないが、私の勤務先企業では業種柄「全社一斉の夏季休業」というのがなく、自分たちの仕事の具合を見て休暇を取るようにしている。もっとも今年から法制化された「年次有給休暇の取得義務化」に合わせて、勤務先企業の就業規則ではいわゆる夏季の特別休暇というのは廃止となり、休暇は年次有給休暇で消化するように変更となったのだが(こう書くと、「それは典型的な『不利益変更』ではないか」というツッコミが入りそうだが、労使がそれで合意して労基署にそれを届け出て受理されているのだから、まあ、合法なのだろう)。

ということで、カレンダーを見て13日の週で13~16日を休暇とすることで、前後の週末と合わせて10~18日までの「9連休」が可能となる。そこに私は9日をひっつけて「10連休」とした。これにはある思惑がある。

勤務先企業では勤続の節目に合わせて表彰があり、褒賞として旅行券と「暦日10日間の連続休暇」が付与される。今年は私もその権利を持ったわけだが、表彰されたものの素直には喜んでいなかった。この表彰、勤続年数でいえば本来なら前々年に受けられるものだったが、とある事情(まあ、これは自業自得なのだが)により表彰が見送りとなっており、それが今年復活して付与されるものだったということがある。また、それ以前の節目の時は東京勤務の時だったのだが、当時の上司、職場からのパワハラで休暇はつぶされた。そういうこともあり、こういう表彰を受けてもどうせ流れるだけ、また、元々表彰されるつもりもなかった分、自分でなかったものとして流してもいいとすら思っていた。ひねくれている、やさぐれているといえばそれまでだが。

ただ、時代は流れているというのか、幸いにも「こうして得た権利は必ず使うこと」というのが勤務先企業の中でも強くなってきた。現在の上司もそれは推進しなければという考えで(普通に考えれば当たり前のことなのだが)、気を使わないように行っていただけたのは幸いである。ただ、自分の業務の都合により、暦日10日間の連続休暇を普段の時季で消化するのは難しく、結局世間の盆休みを少し拡大する形を取らせていただくことにした。これで業務への影響は最小限で済むし、夏季休暇に充てる分の年次有給休暇は別の時季に少しずつ消化すればよさそうだ。

とすると、後は行き先と、旅行券をどのように消化するかである。

行き先については実は日程、ルートも早くから決めていた。もっとも、当初は褒賞は使わないつもりでいたから、いわゆる夏季休暇の時季で、青春18きっぷを活用して出かけることを前提にしていた。そこで考えていたのが、野球独立リーグ・BCリーグの観戦旅行である。ターゲットは、関東北信越方面。普段なかなか観られない東地区の試合ということで、時刻表をめくって立てたプランは、

8月10日:大阪から東海道線で移動。神奈川県のどこか(宿泊が横浜より安めの藤沢や平塚あたり)で宿泊。

8月11日:神奈川県から湘南新宿ライン経由で宇都宮に移動。栃木対福島(@栃木県営 デーゲーム)観戦後、宇都宮宿泊。

8月12日:宇都宮から東北線で郡山に出て、磐越西線で新潟に移動。新潟対武蔵(@新潟エコスタ ナイター)観戦後、新潟宿泊。

8月13日:新潟から信越線~上越線~高崎線で南下して、上尾に移動。武蔵対群馬(@上尾 ナイター)観戦後、上尾宿泊。

8月14日:上尾から湘南新宿ライン~東海道線で大阪に戻る。

鈍行乗り継ぎと独立リーグ観戦3連戦である。またB案として、12日は宇都宮から小山、両毛線、信越線、JRバス、しなの鉄道で篠ノ井に移動して、信濃対滋賀(@オリスタ 遅めのデーゲーム)を観戦して長野宿泊、そして翌13日に折り返して上尾に出るというプランもあった。宿泊もいわゆる観光地ではない町が多いためか、また予約時期も早かったためか、駅近くのビジネスホテルを安く予約することができていた。いずれにしても猛暑の中のハードプランとなるが。

・・・ただ、上に書いたように「褒賞を使うべし」となると話は変わってくる。青春18きっぷでの独立リーグ観戦については、時刻表上では安く実行可能ということはわかったので、これは来シーズン以降に回してもいい。ただ褒賞はこの夏が最初で最後の機会である。関東北信越よりも普段なかなか行くことができないエリアに行くことを考えたい。旅行券を最大限有効に使うことを考えたい。

そこで頭に浮かんだのが、東北、それも東日本大震災の被災地である。2011年の震災発生以降、その夏に一度気仙沼にピンポイントで行き、2013年の夏にレンタカーを使って塩釜に連泊して宮城県北部の沿岸、そして陸前高田の「奇跡の一本松」まで訪ねた。震災発生から8年、そして私が訪ねてから6年の時間が流れているが、前回訪ねたところがどのようになっているか、合わせて、訪ねていない地域というのはどのような様子なのかを見たいと思った。ちょうど今年2019年の3月にJR山田線の釜石~宮古が三陸鉄道に移管する形で復旧し、盛~久慈の全線が「三陸鉄道リアス線」として生まれ変わったこともあり、乗ってみたいとも思う。これにプラスして他の要素も入れられればと考えた結果、12日出発、17日帰阪というルートになった。そして9日は日帰りの美作、10日、11日と、休暇最終日の18日をオフということにした。

・・・今回の旅はこうした前置きがあったので一つの記事として書いてみた。次の記事にて、東北行きのプランニングと手配関係について書くことに・・・。

コメント

第4回中国観音霊場めぐり~姫新線にて

2019年08月16日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりで誕生寺を訪ねた後、津山まで北上し、その後は西に中国勝山に向かう。

14時42分発の中国勝山行きはキハ40の単行。中央のボックス席には1つあたり1~2人、ロングシートも半分くらいが埋まる乗車率である。

並走するのは中国自動車道。大阪と美作を結ぶルートとしてはこちらが主流で、クルマがなくても津山への中国ハイウェイバスや、前回利用した大阪~新見・三次の高速バスに乗ることができる。姫新線の津山の次は院庄だが、インターチェンジのほうが有名である。

木造駅舎が残る美作千代を過ぎる。

中国自動車道と時折交差するうちに着いたのは美作落合。前回の木山寺を訪ねるにあたってアクセスできないか検討したところである。その時は津山線で着く時刻が遅くなるために落合インター下車で落合サンプラザに停車する高速バスを使い、帰りは美作落合まで歩く予定をしたが、現地で大回りの歩きとなり時間が間に合わないと判断して断念した。

ただその美作落合から落合サンプラザまで、列車は途中の旭川沿いまで走って離れていくが、歩けば結構距離があったのではないかと思う。見たところ30分はかかったかもしれない。思い出すのは当日の猛暑。無理して駅まで急いで歩いていたらダウンしていたかもしれない。また落合サンプラザは冷房もよく効いたショッピングセンターだったが、美作落合の駅の周りにはこの日見る限りこれといった涼む場所がなさそうだった。あの時はあれでよかったのだと思う。そして、美作落合まで列車に乗り、中国自動車道の下をくぐったことで、厳密には違うがこれで前回のルートと「地続き」になったと見なしていいだろう。

この後は旭川に沿いながら走り、15時32分、中国勝山に到着。このまま折り返しとなる列車に乗るのだが、時間は30分あまりあるし、一度階段を上がって駅舎の外に出る。

中国勝山は出雲街道の宿場町として、また岡山城下に続く旭川の水運で栄えた町である。また鉄道の駅としては大正時代に建設された作備線(現在の姫新線の津山~新見)の当初の終着駅であり、かつては中国勝山から蒜山高原を経て山守(かつての倉吉線の終着駅)までを結ぶ路線の構想もあった。そうした交通の要衝としての歴史を持つ町でもある。町並み保存地区では軒先に暖簾を垂らしていて、勝山の町の名物となっている。また、谷崎潤一郎も太平洋戦争中に疎開した町でもある。もう少し時間があればそうした町並みを歩くのもよかったのだが、駅前の商店街を抜けたところで引き返す。

暑いし、折り返し列車ということで早めに車内に入ることができたのでボックス席で涼む。発車時刻が近づくと地元の高校生が少しずつ乗り込んでくる。発車は16時08分、この日は夏休み期間中だからそれほどでもないにしても、普段なら下校時間である。そうすると、この時間の列車にキハ40が使われているのは、下校する生徒たちを十分に受け入れるための大型車両という役割があるのだろう。

高校生がほとんどの中、途中駅で少しずつ下車していく。代わりに一般の利用客が乗ってきて、16時58分に津山に到着。ここからは当初コース決めの通りに姫新線をそのまま東に向けて進む。17時25分発の佐用行きはキハ120の単行。乗客数はそれほどでもないが、これから青春18きっぷで列車を乗り継ぐであろう客の姿も見える。

ここから佐用までも中国自動車道との並走である。こちらの気動車はクルマと競走する感じもなくマイペースで進んでいく。岡山から兵庫への県境へ差し掛かる時には極端にスピードが落ちる。JR西日本のローカル線でたまにある時速25キロや30キロの徐行運転区間だろうか。

18時31分に佐用到着。次は18時49分発の姫路行きである。いったん駅舎の外に出た後で、姫新線のこの区間用のキハ122に乗り継ぐ。1-2列のシート配置で、始発からなので座っていける。外はもう暗くなり景色を見ることはできないが、ともかく姫新線のある程度長い区間を乗りとおすことができたのはよかった。

この列車は単行のためか、播磨新宮、本竜野で部活動帰りの高校生が大勢乗ってくると立ち客も多く出た。そのままで姫路に到着。あとは「えきそば」でもいただいた後で、適当な時間の新快速に乗ればよい。

これで中国観音霊場の美作シリーズ(いつの間にかシリーズが変わったが)も終わり、岡山県は法界院、蓮台寺、円通寺と残り3ヶ所となった。この先秋口で回る予定である・・・。

コメント

第4回中国観音霊場めぐり~津山まなびの鉄道館と、中国ローカル線の一大拠点

2019年08月15日 | 中国観音霊場

今回の目的地である誕生寺を後にして、津山に北上した。この後は14時30分発の姫新線佐用行きに乗る予定である。今回は早めに切り上げることにしようかと。まずはSL車両と箕作阮甫とB’zの出迎えを受ける。

それまで1時間少しある。その時間を利用して、隣接する津山まなびの鉄道館に向かう。扇形機関庫は駅のホームからも見えているのだが、線路横の細道を通り、ぐるりと回り込むルートで到着する。夏休みの子ども連れの客が目立つが、平日なので見学客も少ない。

何度か来ているので展示車両にいちいち驚くこともないが、来るたびにいろいろ展示が工夫されているのがよい。この日、機関庫の前のターンテーブルに乗っていたのはDD13。貨物ヤードでの入換作業で活躍した形式で、津山に来る前は大阪のかつての交通科学博物館で展示されていた車両である。

また、キハ58が機関庫の定位置から少し前に出されている。乗降扉が開いていて、中に入ることができるようだ。これも夏休みのイベントの一つなのかな。客室の端の座席に入ることができてボックス席にも座れる。もっとも、冷房が効いているわけでなく1分と座ってられないが。

他の車両たちもゆったりとここで過ごしているようだが、休日や夏休みは交代で少し顔を出したり、ターンテーブルに乗ったりするのだろう。

フェンス超しに気動車の車庫も見ることができる。キハ120の姿も見えるが、ここでは旧国鉄型のキハ40、キハ47がまだまだ主力である。その中にノスタルジー車両の姿もある。一般列車としての運行もあるが、まだこの車両に乗ったことがない。どこかでチャンスがあればと思う。

かつての鉄道関連設備の展示も見た後で、駅に戻る。

さて、これから14時30分発の姫新線佐用行きに乗るつもりだが、この時間は津山が各方向へのジャンクションであることがうかがえる。14時30分発の姫新線佐用行きのほかに、14時35分発の津山線岡山行き、14時38分発の因美線智頭行き、そして14時42分発の姫新線中国勝山行きと相次いで発車する。それぞれ本数が少ない中でこの時間に一同に会するというのは何か背景があるのだろう。

そんな中、ふと気が変わって中国勝山行きに乗ることにする。姫新線はキハ120だろうというイメージがあったが、やって来たのがキハ40ということもある。中国勝山・新見までの区間では時間によってキハ40が充てられるのだという。通学への対応なのかな。わざわざホームを変えて、そちらの車両に乗り込む。

乗ってみて、ふとこれは前回の「続き」になるのではないかと思った。前回の中国観音霊場めぐりでは美作落合にある木山寺を訪ねたわけだが、その時帰りに出ようとしていたのだが美作落合駅である。その時は時間が間に合わず落合サンプラザ前で高速バスに乗ることになったのだが、鉄道でそこまで行くことで観音霊場めぐりのルートが「つながる」ことになるかと考えた。今回は美作落合までにとどまらず終点の中国勝山まで行って折り返しとしよう・・・。

コメント