まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

5月はいろいろあったけど・・・

2017年05月31日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
どんな形ではあれ、いろいろあった5月の最終盤を3連勝で飾れたのは大きい。

正直、月間の最多敗戦を記録するだろうと腹をくくっていたのだが、そこを何とか止めたのは、まだまだ選手たちに意地があるというところだ。

5月は結局6勝しかなかったが、金子2勝の他は、赤間、黒木、山岡、小林と「プロ初勝利」が4つあったのは今後に期待できる。ある意味では、淋しい結果の中で6月に期待できるかな・・・と、むちゃくちゃ甘いことを考えている・・・。

月が変わって6月、この勢いを持続してほしい。

まずはよかった・・・・。
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第3番「鶴満寺」~新西国三十三所めぐり・35(上方落語の舞台)

2017年05月29日 | 新西国三十三所
太融寺から続いて鶴満寺を目指す。交通機関なら地下鉄谷町線で東梅田~天神橋筋六丁目まで乗るコースだが、太融寺から東梅田へは結構逆に戻る形である。日射しはあるがひどく暑いというほどでもなく、歩数稼ぎで直接歩いて行くことにする。

しばらく東に向かうと扇町公園に出る。グラウンドでは子どもや学生たちが体を動かしている。その向こうには関西テレビの社屋も見える。

やがて天神橋筋の商店街に入る。最近はこの商店街でも以前と比べて中国語や東南アジアの言語が飛び交うようになったと感じる。この商店街が観光名所とは思わないが、黒門市場ともども地元のスポットとして口コミでも広まっているのだろうか。まあ、そういうところにも行きたいという旅行者心理はわからないでもない。

商店街の北の端の天神橋筋六丁目駅から進路を東に取り、数分でマンションに囲まれた寺の建物に出る。これが鶴満寺。うーん、新西国霊場というつながりがなければ一生訊ねることはない建物だと思う。町の中にたまたまある寺の一つという扱いでしかなかっただろう。

山門は西に向いているが、門扉は閉ざされている。入れないのかと一瞬焦ったが、北側が開放されている。鶴満寺は寺に隣接して保育園や特別老人ホームをやっているそうで、その入口とかねているようだ。「ポケモンGO禁止」と書かれた英語の看板もある。そういえばこのゲームの話題も聞かなくなったが、当時は外国人も多くこの辺りをスマホを手に現れたのだろうか。

その老人ホームやマンションを含めて周りをぐるりと高い建物で囲まれているのは太融寺と似ている。ただ、太融寺はいくつかのお堂や庭園、史跡もあったのに対して、鶴満寺は本堂と鐘楼、観音堂のみである。これまで訪ねた新西国の札所の中では最も狭いクラスの敷地ではと思う。本堂の本尊は阿弥陀如来、廊下でつながる観音堂には子安観音を祀るとともに、西国、坂東、秩父の百観音を祀るという。

鶴満寺は元々河内の国にあったものを江戸中期に大坂の豪商がこの地に移したものである。その際、忍鎧上人を中興の祖として、本尊の開眼を行った道元法親王を開創としている。その時に枝垂れ桜が植えられ、長くこの寺の見所として、また桜の名所として親しまれたそうだ。

上方落語に「鶴満寺」というのがあるそうだ。私もこれまで知らず、桂雀々師匠による音声を初めて聴いた。花見の時季、船場の旦那が芸者や幇間を連れて鶴満寺に遊びに来る。しかし、寺男の権助は住職から禁じられているからと断る。そこで権助に「袖の下」を渡して中に入り花見の宴会が始まるのだが・・・という噺。途中からキャラが変わる権助が主人公であるが、桜のきれいな寺であれば、噺の舞台は鶴満寺でなくてもいい。それがわざわざ「鶴満寺」という演目なのはどういうことだろうか。

史実の鶴満寺の枝垂れ桜だが、明治時代に大阪で起こった水害で浸水し、枯死してしまったそうだ。ならば、落語のネタは元々は枝垂れ桜へのレクイエムで作られたのかもしれない。

奥に納経所があり、朱印と子安観音の御影をいただく。当て紙には鶴満寺の由緒が書かれているが、寺の宗派としては「天台真盛宗」とある。天台真盛宗とは室町時代に天台宗から派生したもので、総本山は比叡山の麓の西教寺。仏教のオールラウンドを目指す天台宗にあって、念仏(阿弥陀如来信仰)と戒律を二本柱としたものである。鶴満寺の本尊が阿弥陀如来で、山門が西を向いているのもわかる。新西国の観音霊場に選ばれたのは、百観音と上方落語のためかなと思う。

さてこれで今回の札所めぐりも終わりで、次の行き先である。もっとも残りは少なく・・・

1、2・・比叡山(横川中堂)

3、4・・西神明石(太山寺)

5、6・・福崎(金剛城寺)

サイコロの出目は・・・「4」。明石か。うーん、先月訪ねた高槻の神峯山寺の副住職のいう通り、天台宗の総本山である比叡山が「締め」になるのだろうか・・・?

2ヶ所を回り、再び天神橋筋六丁目駅から天神橋筋商店街を歩く。昼食がてら、天満界隈には入りたい店がいくつかあるのだが、昼間から満席が続く。そんな中で運良く入れたのが環状線ガード下のこちら。この辺り、天満価格ということでビールの大びんが350~360円というのが相場である。

・・・だからと言って、あまり調子に乗りすぎると、先の落語の寺男と一緒である。そこはちゃんと自制しないとね・・・。
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第2番「太融寺」~新西国三十三所めくり・34(寺や神社の周りというのはそういうものなのかな)

2017年05月27日 | 新西国三十三所
新西国の観音霊場めぐりというのは33番まであり、そこに客番というのが5つあって合計38ヶ所あるのだが、その34番目にしてようやく2番、3番というところを訪れることになった。別に四国八十八所の逆打ちのような回り方をしているわけではなく、これらは全てくじ引きとサイコロによるものである。

これまでは、「その札所にどうやって行くか」ということも楽しみの一つであり、中にはそうした移動だけで一つの記事になったこともあるのだが、今回訪れる第2番の太融寺、そして第3番の鶴満寺は大阪市街のど真ん中にあるところである。駅から延々と歩くとか、山登りをするとかいうことはない。

さて、太融寺への最寄駅というのは、JR大阪駅、そして私鉄、地下鉄各線の梅田である。天王寺から四天王寺に行くのと変わらない感じである。久しぶりにこうした「都市の寺院」に行くことに。ただ、これから向かう太融寺、そして鶴満寺は初めて訪れるところである。まずは大阪駅に降り立ち、隣の阪急百貨店ビル、そして現在改修工事が進む阪神百貨店ビルを見る。ここが出発点というのも何だか複雑な気分である。太融寺町や、隣接する兎我野町というのは、その名を聞くとあるエリアとしてピンと来る方も結構いるのではないかと思う・・・。

阪急百貨店前から扇町通りを5分ほど東に歩くと、それまで飲食店などが建ち並ぶビルが続いていたのが急に寺の外塀となり、「太融寺」の石柱が現れる。その横には「一願不動明王」とあり、さらに、今回の目的である新西国霊場を初めとして、近畿三十六不動やおおさか十三仏霊場など、大阪にあって数々の札所めぐりの寺であることが示される。こう見ると、大阪にあっては結構メジャーな寺であることがうかがえる。

そして山門に出る。「源融公旧跡」の石碑もある。この太融寺は弘法大師が嵯峨天皇の勅願により開かれたとされているが、本尊に千手観音を迎え、本格的な伽藍にしたのは嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)である。寺の名前は源融から取られているそうだ。その後は大阪の地で広大な敷地を持ち、多くの参詣者で賑わったとある。江戸時代に大坂城落城の際に兵火で焼けたが復興。しかし太平洋戦争の大阪大空襲でまた焼け、現存する建物はいずれも戦後の再建のものである。

山門から入ると本堂の横に出て、改めて正面に向かう。本堂の中は自由に入れるようになっており、せっかくなので靴を脱いで上がり、畳の上に座ってお勤めとする。大阪の梅田にほど近いところで般若心経を唱えるというのも、何だか妙な感じである。ただそうする間にも本堂の外ではお賽銭をジャランと放り込む人の姿もあるし、ちょっとした都市部のオアシスなのかなとも思ったりする。

そして本堂を出て南門の方向を望むと・・・・こういう景色が広がる。お二人様専用ホテル、つまりはラブホテル街である。先ほど「あるエリア」と書いたのは、つまりはこういうことである。これはいらん妄想だが、たまたま本堂の前で手を合わせているカップルを見ると、この二人はこの後で近くのホテルにて「休憩」するのかな・・・?と、そっちの方にイメージしてしまう。大阪は寺社とラブホテルが何か関係があるのか、こうした太融寺町もそうだし、南へ行けば上本町の生国魂神社、さらには四天王寺と、すぐ近くがラブホテル街である。ラブホテルに一緒に行く相手がいないのでその辺りの探索はできないが・・。

そうしたラブホテル街も元々は太融寺の境内だったところだが、現在の寺はそうしたものなどに囲まれて小ぶりである。ただその中にさまざまなものが収められており、枯山水風の庭園もある。そこには国会期成同盟会がこの寺で開催されたことから「近代日本政党政治発祥の地」ということでの石碑があったり、現役中に亡くなった横綱玉の海の慰霊碑などもある。玉の海が大阪出身というわけではないが、大阪で後援会を結成していた当時の衆議院議員の手によるもののようだ。

こちらの塔の建物には、大師堂、護摩堂の他に不動明王を祀る不動堂がある。一願不動尊ということで、近畿三十六不動霊場の札所にもなっているところである。後ろでは意図のような滝が水を落としている。こちらは「一願」とあるように、願い事を一つ叶えてくれるというご利益があるそうだ。そこで手を合わせてした一願とは・・・・「オリックス・バファローズの勝利」。その願いがどうなったかについては、スポーツニュースをチェックしていただくとして(・・・結果は、信心が足りなかったということで)。

これらを回り、納経帳に朱印をいただく。墨書、そして朱印押印のそれぞれのたびに軽くドライヤを当てる丁寧な対応である。

改めて境内を見渡す。弘法大師の開創ということで弘法大師像がある。四国でもよく目にした修行姿ではなく法衣をまとった姿だが、その向こうにラブホテルの看板が入ってくるのが何だか笑えてくる。

他には大坂夏の陣で自害した淀殿の墓というのもある。元々は別の寺にあったものが明治時代に太融寺に移されたものだという。こうして見ると、梅田の地にあってさまざまな歴史が受け継がれてきた寺院であるなと改めて感心する。

さて次に向かうのは第3番の鶴満寺だが、最寄りの駅は天神橋筋六丁目。ただ、気候もよいし、そのくらいの距離なら歩こうということで、歩みを進める・・・。
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ちょっと、その辺で暴れてきてもいいですか?

2017年05月26日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
別に、オリックス・バファローズがしょーもない敗け方をしたからではないですよ。

ただ、バファローズがどうのこうのと言うより、個人的な理由でシバキ回したい奴はいます。

・・・とは言え、8連敗したからといって、その辺のモノに八つ当たりするようではまだまだ修行が足りませんね。
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何か外国人野手を獲得するという話があるようですが・・・

2017年05月25日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
「オリックス、ほんま大丈夫なん?」
「まつなる、所詮は春の珍事やったな・・・」

・・・仕事のうえでのやり取りで、こういう枕詞が増えるようになってきた。やはりあれは「春の珍事」だったのだ。そこに来て、前の記事に書いた「免停期間中に人身事故」という行いについて、半ばヤケクソで職場の朝礼のネタにさせていただいた。

そんな中、前日の打てん中止・・・もとい雨天中止を経て神戸で行われた25日のイーグルス戦。

そこで何が起こったのか・・・は、イーグルスの則本が6試合連続2ケタ奪三振という、あの野茂英雄に並ぶ日本記録を打ち立てたことである。その瞬間の実況は、ホームよりが普通のCSにあって則本に入れ込んでいたものだった。まあ、素晴らしいプレーや素晴らしい記録には、ホーム、ビジターを問わずに絶賛するのが望ましい。どこぞの関西マスゴミ・・・、いや、やめておこう。現人神を讃える戦前のマスゴミか、北朝鮮の指導者をマンセーする放送局のように、鳥谷という選手を崇め奉る放送をしていることについて触れるのも鬱陶しい。

・・・こういうことも、バファローズの成績が良ければ言えることだが、そのバファローズが情けない。25日も則本の引き立て役となって見事な負けっぷり。そこに奥浪がかぶさってくる。

さて、そういう中で開幕からの4番のロメロは戻らないし、吉田正尚は結局はプロでは使い物にならない選手。そうした選手の1軍合流を期待しなければならないのが悲しい。

一方で、さすがに危機感を覚えたのかここに来て外国人野手の獲得を目指しているようだ。ただ、この時季から合流してどうなのかな。

そこで一つ。もう、どうせなら、あるいはヤケクソでもいいから、この選手を獲得すればどうですか・・・・?

高知の背番号99。

まだこうした選手のほうが期間限定でも活躍するかもしれませんぜ・・・。
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奥浪・・・

2017年05月24日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
もう既に広く報じられているのでご存知の方も多いと思うが、オリックス・バファローズの選手による不祥事である。まあ、チームが連敗するのは不祥事でも何でもないのだが、ただこれはいかん。

その主は奥浪ということで、今のバファローズにはなかなかいないスラッガータイプとして、将来を期待されていた選手である。昨年には一軍に昇格し、故郷の広島での交流戦ではスタメンにも名を連ねていた。広島の人たちも彼を見て「広島もん」と言っていた。

ただ今季はキャンプ直前の体調不良で福良監督の逆鱗に触れたこともあり、ここまで一軍はなし。でも、小粒な打者が多い中で、奥浪や園部のような選手も一軍に出せば?という声もあった。

・・・で、こういうこと。

人身事故はもちろん起こしてはいけないが、相手のあることだしリスクはどんな人にもついて回る。これだけなら、「起こったことは仕方がない」とかばうこともできるだろう。

ただ、これが「免停期間中の人身事故」となると違う。そんな期間に運転するか?と思う。寮が今年から移った舞洲で、そこなら陸の孤島のようなもので運転してもバレないと思ったのだろう。

その免停というのも30日で、スピード違反などのいろいろなものの積み重ねだという。別にかばうわけではないが、30日の免停なら、前歴なしなら半日の違反者講習を修了すれば実質次の日から免許が再開する。だから世の大人たちの多くは、時間を作ったり会社を休んだりして講習を受ける。警察もむしろそれを薦めているように思う。・・・そんな中で免停なのに、クルマに乗るかな・・・そして人身事故するかな・・・。

まあ、しかるべきペナルティは受けるとして、この先プロ野球選手として活躍できるのかが疑問である。不祥事はさておき、今のチーム状態の中で一軍の声もかからない。私が監督でもそうするだろう。頑張れ、次があるぞ、と応援するのはいいが、コンプライアンスに厳しい現実を見ると、もう、このままお引き取りいただくしかないのかな。一般企業ならもっと厳しいだろうし、他球団に行ったからといって再生や覚醒しそうにもないし・・・。

さて一軍の試合は、24日の神戸は雨天中止。これを切り替えとして、次からはとにかくがむしゃらに自分たちを追い込むくらいの気迫を望む・・・。
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第32番「斑鳩寺」~新西国三十三所めくり・33(城下町龍野)

2017年05月23日 | 新西国三十三所
斑鳩寺の参詣を終えて、10時17分発の龍野経由山崎行きのバスに乗る。いつしか揖保川を渡り、龍野の中心部に着く。なお、このバスで終点の山崎まで行き、そこから乗り継ぐと船越というバス停に出る。するとバス停から徒歩で、33番の瑠璃寺に行くことができる。32番と33番はそうすると1日で回れるわけだが、ここは当初の決め通りに、瑠璃寺は最後にする。またここにはどうやって行くかの計画を組むのが楽しみである。

さて龍野の町歩きである。バス停から町中に向けて歩くと風情ある建物が集まってくる。その中に一つだけ洋風に造られた建物が見える。ここがうすくち龍野醤油資料館である。

龍野は醤油の町でもある。中では醤油づくりの工程が映像で紹介され、蔵の部分では仕込み桶や圧搾機、さらには揖保川の水運に使われた舟なども展示されている。醤油の作り方についてはここでは書ききれないが、展示物を見るに連れて口の中に唾液が広がってくる。うすくち醤油も揖保川の水の賜物で、龍野の経済を支える役割を果たしている。現在はヒガシマル醤油を中心として、いくつかのメーカーが組合として昔からの醤油文化を受け継いでいる。

町を見下ろすように建つ龍野城跡に向かう。途中には武家屋敷や家老屋敷もあるが、現在は小学校や文学館として残されている。昔の町並みの案内看板もあり、今との比較もできる。

さて城跡に入る前に昼食とする。揖保川と言えばもう一つ有名なのがそうめん。「揖保乃糸」など、お中元としての需要もある。城の下にある「霞亭」に入る。小ぢんまりとご家族でやっている感じだが、ご主人がすごくソフトな感じの方。文学の町にあって、商売人というよりは童謡の歌詞を創っていそうな感じである。

メニュー選択に迷う。「霞亭」はにゅうめんがベースのようだ。ただ、この日は5月だが30度近い気温。当然、冷やしそうめんにも引かれる。ただ最後は、龍野のうすくち醤油をベースに、いりこなどで取った出汁が自慢ということで、さまざまな具材が乗った「霞亭にゅうめん」をいただく。さすがは「揖保乃糸」で麺は申し分ない。また出汁もあっさりしながら醤油のしっかりしたところが残っている感じがして、最後まで飲み干した。さすがに冷やしそうめんのつゆでは、こうはいかない。この醤油とそうめん・・・西播磨の平野で採れる米、小麦、大豆、そして揖保川の水に赤穂の塩。この風土の賜物であると改めて感じる。

お腹もできて龍野城跡に入る。龍野城は室町中期に赤松氏が気づいたが、その後は豊臣秀吉の支配下となった。その後、龍野藩の京極氏が治めたが、先の記事にも書いたように丸亀に国替えとなった。実はその時に一度取り壊したのだが、後に入った脇坂氏が再建した。ただし、時は江戸の徳川時代で、幕府に遠慮して立派な建物は造らず、平屋の本丸御殿とすることで幕府の許しを得たそうだ。赤松氏の頃は、さらに山の上に城郭を構えた山城だったとある。その本丸御殿は1979年に昔の図面をもとに再建されたが、今の建物はまた改修したのか、まだ新しい感じがする。ヒガシマルをはじめとした醤油の組合のご厚意で金を貼り巡らした部屋も再現されている。

同じ城内には歴史資料館もあり、企画展で、藩祖脇坂安治らに対して豊臣秀吉や徳川家康が送った朱印入りの書状などが公開されている。JRの「ちょこっと関西歴史たび」に引かれて来たとおぼしきグループも、あれやこれやと楽しんでいる様子だ。

町中を隅々まで回るならまだまだ見所はあるが、本日はともかくここまでかなと、町の中心に下りる。

中心部に来ると、先ほどのヒガシマルの資料館の近くにも煙突が1本見える。カネヰ醤油の工場である。

そして、その構内入口にこのようなものに出会った。見た目はレトロな感じにした自販機なのだが、缶コーヒーやお茶に交じって、醤油のボトル、瓶がある。それだけでなく醪もある。いずれもカネヰ醤油の商品だが、「醤油と醪の自販機」というのが面白い。観光パンフレットにも載っているから今さら珍百景でも何でもないが、記念にはなる。

醤油の小瓶を自販機で買ったが、普通に飲み物を買うようにキンキンに冷えていた。醤油をキンキンに冷やすのは、品質的にどうなのかな・・・?

これで龍野の町歩きは終了して、歩行者自転車用の橋で揖保川を渡り、ヒガシマル醤油の工場内の道を通りながら姫新線の本竜野駅に着く。ちなみに、山陽線には竜野駅があるが、市街地からはかなり離れたところにある。

本竜野駅に着いたタイミングが悪く、ちょうど姫路行きが出たところだった。次の列車まで30分をつぶすわけだが、駅構内の物販コーナーを見た後、歩いてすぐのイオン系のスーパーに向かう。地元の人で賑わっている。そこで自然に醤油のコーナーに行ったのだが、さすがは龍野でヒガシマルをはじめとした地場の醤油も並ぶ。ただそれ以上に、キッコーマンやヤマサといった、関東の野田や銚子のメーカーの醤油が、あたかも国内標準であるかのような並ぶ。また、イオンのプライベートブランドの醤油もあるが、これも関東の濃口醤油。うーん、流通のやり方もあるのだろうが、うすくち醤油の本場でも、スーパーのレベルになると国内標準の濃口醤油になるのかなと。で、売上は濃口醤油が上と・・・(見方によっては、「うすくち醤油の本場だから、地元産を少しくらいなら店頭に並べるのを許す』とでも言われたかのような品揃え)。いや、龍野の人たちも、今は醤油の味など別にどっち向いていてもいいて思っているのかな・・・?

そうするうちに姫新線の気動車がやって来て、姫路まで揺られる。まだ時間はあり、これから西国三十三所の書写山圓教寺にも行こうと思えば行けるが、また一方では姫路駅前での昼飲みの誘惑が強いのだが、それらはグッとこらえてとりあえず今回は終了として、山陽電車の姫路に乗り換える。また西播磨には近々来ることになるだろうし。

・・・で、大阪まで戻ったが、須磨の海を見て地下区間に入るとウトウトした。目が覚めると窓の外は地下で、三宮かと思ったが周りの様子がおかしい。誰もいなくなる。・・・そこは梅田だった。まあ、後は帰宅するだけだし、意識もはっきりして帰宅したが、須磨から梅田まで爆睡とは・・疲れているのか??

・・・気をつけなければ。
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第32番「斑鳩寺」~新西国三十三所めくり・33(播磨の聖徳太子)

2017年05月22日 | 新西国三十三所
鵤(いかるが)のバス停から少し歩いて斑鳩寺の山門に立つ。読みは「いかるがでら」なのだが、別称として「はんきゅうじ」というのもあるそうだ。ただ『はんきゅうじ」と聞くと「阪急寺」と頭の中で変換する人もいるだろうから?、「いかるがでら」とする。またこれは全く関係ないことだが、四国八十八所の札所寺院は、11番の藤井寺を除き、全て「○○じ」と読む。「○○」のところが訓読みであっても「きりはたじ(切幡寺)」、「たつえじ(立江寺)」などがそうだ。他の札所めぐりでは「○○じ」も「○○でら」も両方あるが、四国にだけ法則があるのだろうか。

境内はちょうど緑の濃い時季とあって青々としている。定期的なものか境内のあちこちに御座が広げられていて、骨董品などが売られていた。地元の人らしいのが談笑している。

この斑鳩寺、聖徳太子が推古天皇からこの辺りの土地を賜り、伽藍を建てたのが開創とされている。長く法隆寺の支院としての権威があったが、室町工期の赤松氏、山名氏の戦乱で焼失した。その後、赤松氏などの手で復興したが、三重塔はその頃から唯一現存する建物とされている。後はさらに再建されたものである。

本堂に当たる講堂に向かい、まずはお勤め。ちょうど講堂の横で広げていた出店のスピーカーから「皇紀二千六百年~」と軍歌が流れていて、何だか奇妙な感じがした。講堂には薬師如来、釈迦如来、如意輪観音が本尊として安置されている。新西国に選ばれたのはこの如意輪観音があるのと、聖徳太子ゆかりであるのとが理由だろう。もっともこれらは秘仏扱いで、太子忌の法要の時だけの開帳である。

続いて講堂の左、三重塔と向かい合う形で建つ聖徳殿に向かう。こちらは聖徳太子を祀る建物で、四国八十八所でいうところの大師堂に当たる。この建物、正面から見れば普通のお堂の形だが、奥に続いていてそこは八角形である。ちょうど法隆寺の夢殿を模した造りで、聖徳太子はこの八角形のところに祀られている。この八角形の部分は大正時代に増設されたとある。無理やりくっつけたように見えるのもそのせいだろうか。

この聖徳殿と、別にある聖宝殿は拝観料500円で拝観できるとある。せっかくの機会だからと、納経所で朱印をいただく時に尋ねると、拝観券を持って講堂の左横に行くよう言われる。そこは工事中のエリアで関係者以外立入禁止だが、中から別の係の人が出て来て通される。聖宝殿もいつでも公開というわけではなく、私のような希望者が出た時だけ開けるようだ。外扉、玄関扉と鍵を開けて通される。撮影禁止なので画像はないが、本尊の薬師如来、如意輪観音を模した木造や、これは重要文化財にも指定されている日光・月光菩薩に十二神将たちという「チーム薬師」の像が安置されている。他には、聖徳太子が蘇我馬子らに法華経の講義をしている場面の絵や、往年の斑鳩寺の境内を描いたものもある。

続いて係の人に連れられて、先ほど手を合わせた聖徳殿に再び向かう。横の扉から内陣に入り、八角形の下にある厨子が開けられる。聖徳太子16歳とされる像が現れた。父の用明天皇の病気平癒を神仏習合の作法で祈る姿を像にしたものである。珍しいのは、わざわざ衣服を上から着せていること。この衣服はかねてから皇族から賜っているそうで、現在のものは1962年に当時の高松宮からのものだという。だとすると55年か・・・これが長いか短いかはわからないが、じゃあ次の衣服を今の皇族方から・・」というのは厳しいのではないかと思う。先日、眞子さまの婚約が決定というニュースがあって明るい話題なのだが、皮肉にも皇族数の減少や、女性宮家をどうするかという課題が注目されるようになった。この状況では、聖徳太子(それも播磨にいる)の衣服を新しいものに・・・とは、なかなかいかないだろう。いやそもそも、現在の皇族方や宮内庁は、聖徳太子をどのように位置づけているのかな。

これにて斑鳩寺を回り、次の行き先である。選択肢は再度行かなければならない福崎を含めて4つ。

1.西神明石(太山寺)

2.福崎(金剛城寺)

3.大阪市内(太融寺、鶴満寺)

4.比叡山(横川中堂)

5、6.振り直し

・・・そして出たのは「3」。ここでというか、やっと出たのが大阪市内。四天王寺に続く2、3番が来た。まあ、わざわざどこかに遠征ではないが、ようやく近くを楽しめるところ。ただ、いずれも訪れたことはないので、その意味では大阪市内も四国の端でも、行く楽しみは同じである。なお、「キタの太融寺」と聞いただけでいらんイメージを膨らませる方もいるだろうが、拙ブログにはそのような展開は起こらないのでお断りしておく。

さてこれから暑い日が増える中、新西国も最後に向けた熱を帯びてくる・・・・。
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第32番「斑鳩寺」~新西国三十三所めぐり・33(まずは網干から)

2017年05月21日 | 新西国三十三所
2016年の1月から始めた新西国三十三所めぐり。残りは比叡山横川中堂、大阪市内の太融寺と鶴満寺、西神の太山寺、前回納経帳に朱印をいただけなかった福崎の金剛城寺、兵庫・太子町の斑鳩寺、そして満願札所である佐用町の瑠璃寺というところである。まあ、今のペースで回っていれば今年の夏か秋には回りきるかなというところ。

今回はその中で兵庫・太子町の斑鳩寺に向かう。これまで、くじ引きとサイコロの選択肢では「龍野」と書いていた。寺があるのはその南の太子町であるが、昔からの城下町で知られる龍野とセットで訪ねるのがよいかなということで組んでいた。別に狙ったわけではないが、この4月~6月は、JR西日本の「ちょこっと関西歴史たび」のキャンペーンの舞台が龍野である。町のさまざまなイベントは日程が合わないので参加できないとしても、こういう時に訪ねるのもよいだろう。そういえば、新西国の札所めぐりでは、須磨寺に行った時にこのキャンペーンと時季が重なっていた。

で、その前に斑鳩寺である。こちらは兵庫の太子町にある。大阪から阪神高速を西に走ると、第二神明、加古川バイパス、姫路バイパスと来て、その次が太子竜野バイパスである。子どもの頃にこうした道を通って、「何で兵庫県に太子町があるの?」と思ったところである。太子町といえば大阪のそれというイメージが強かったし。

その兵庫の太子町だが、伝承によれば聖徳太子が推古天皇から播磨の揖保郡の土地を賜り、当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名し、伽藍を建立した歴史からつけられている。その伽藍が現在の斑鳩寺の始まりとされている。そのことは、聖徳太子の頃から播磨のこの辺りというのが褒美として賜るにふさわしい土地だったということを示しているのだろうか。その辺の空いている土地を・・・というわけにもいかなかっただろう。

・・・話がいつものように長くなっているが、その斑鳩寺にどうやって行くか。最寄りはその名も鵤(いかるが)のバス停で、そのバスは姫路、または網干から龍野、そして山崎を結ぶ系統である。ただ本数はそれほど多いわけではないので、前もって時刻表でチェックする必要がある。そこで見つけたのは、JR網干駅9時09分の龍野経由山崎行き。JRの網干も、新快速に乗る時に「新快速網干行き」という放送はこれまでにも何度となく聞いているし、駅も何度となく通過したが、これまで駅に降り立ったことがない。一度そうした駅前を見るのもいいかなと思う。

ただここで、同じ網干でも駅はもう一つあると主張してくるのがある。JRから少し南にある山陽電車の網干駅。こちらは姫路への本線に対して飾磨から西に向かう支線である。上記のバスも山陽電車の網干駅8時59分で通過する。そうなるとどうするか。なかなか乗る機会のない山陽電車の網干にまずは行ってみようと思う。大阪からJRより所要時間がかかるが、そこは少し早起きすればクリアできることである。

・・・ということで、朝の6時20分頃に阪神電車の梅田駅に現れる。乗るのは6時29分発の姫路行きの直通特急である。これに乗って飾磨で降りることにする。そして私が手にしているのは、阪神・山陽の「シーサイド1dayチケット」である。阪神、山陽の両電鉄全線が2000円で1日乗り放題。大阪から姫路・網干まで往復するだけでも500円以上安い。山陽電車の5000系特急車両でまずは西を目指す。途中、須磨の海、そして明石海峡大橋を間近に見るのも楽しみである。

飾磨に到着。構内の真ん中の行き止まり式のホームに網干行きが停車している。姫路への本線に対して、網干行きは単線の区間である。ただそこは途中駅での行き違いをうまくダイヤに生かしていて、日中はおよそ15分に1本の運転となっている。15分に1本なら鉄道の運転間隔としては決して悪くない。

行き止まり式の山陽網干に到着。乗る予定の8時59分発のバスまで40分ほどある。思ったよりも早くに到着した。ただその待ち時間を駅前でボーっとして過ごすのももったいないかと思う。そこで思いついたのが、網干には何か近場で見るものはないのかということである。ともかく、南の方向に歩き出す。

すると揖保川に出た。揖保川にかかる橋のたもとに、「網干陣屋跡」の案内標識があった。歩いてもそれほど時間がかからないというのでそちらに向かう。

すると町並みが昔ながらの風情となり、その向こうに陣屋跡として復元された門があった。

この網干というのは江戸初期は姫路藩に属していたが、その後龍野藩のものとなった。しかし、その後の龍野藩主である京極氏が讃岐の丸亀にお国替えとなり、その後に入ったのが脇坂氏である。その京極氏が讃岐に移るにあたり、この網干一帯を丸亀藩の飛び地として領有したいと申し出た。それが幕府から認められ、その後丸亀の京極氏は網干に代官や奉行を置いた。揖保川の水運と、さらにそれに続く瀬戸内の交易を手に入れたわけだ。こうして見ると、「網干」の昔を伝えるのは山陽網干のほうで、JRの網干は単なる通過駅、または車庫のある駅というくらいでしかないのかなと思う。

網干の中には当時の風情を今に伝える建物もあるが、近年建てられたと思われるのが金刀比羅宮である。京極氏丸亀藩だからこうしたものも建立されたのであろう。まあ、こうしたものを見ることができたのも、網干まで来た甲斐があったと思う。

さてそろそろバスの時間ということで、少し駆け足になって駅前に戻る。やって来たのは山崎行き。これは斑鳩寺の最寄である鵤バス停を通るが、見事にガラガラであった。これではこの先バスもどうなることやらと心配である。

バス停から歩いて5分あまり。斑鳩寺の仁王門が見えてきた。まずはここに入ってみようということで・・・。
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藤井寺バファローズ

2017年05月20日 | ブログ
帰宅時にちょっと立ち寄ろうかと、藤井寺の駅前から一本中に入る。焼鳥をメインとしたチェーン店があるので、久しぶりにそこに行こうかと行ってみると・・・。

「藤井寺バファローズ」

肉大衆酒場という名前の店に変わっていた。おお、これは何というネーミングだろう。ぜひとも入ってみなければ。

店内もすごいことになっている。カウンターに座ると横には野茂英雄のレプリカユニフォームが飾られている。これはと写真を撮るとカウンターの内側から、「よかったら、レプリカですけど他にもありますよ」と勧められる。

他にはラルフ・ブライアントとタフィ・ローズのレプリカユニフォームがある。野茂が投げ、ブライアントが打つ・・・私の高校、大学時代の藤井寺球場の景色を思い出す。ローズは藤井寺でプレーしたのは1年だけで(翌年から大阪ドームへ)、その意味では逆に希少価値のあるものだ。

で、肝心の料理だが、飲み物は280円均一。食べ物は一品ものの居酒屋メニューもあるが、「バファローズ」だけに牛肉料理がメイン。ステーキもあれば串焼きもある。「バファローズサラダ」というのもあり、野菜の上に肉しゃぶを乗せ、猛牛の角はプリッツで仕上げ。

もう一つポイントだったのが、焼酎があのホッピーに最も合うとされている四日市の「キンミヤ焼酎」。これをプレーンでいただく。ステーキとも合う感じだ。

そのものズバリの店名の理由が店内に貼られていて、

「僕が藤井寺に来たのは二十三年前 東寺は球場も有りバファローズの試合のある日は、藤井寺中人だらけ 夜中まで一杯でした。もう一度あんな街に・・・というそんな思いで『藤井寺バファローズ』と名付けました」とある。

確かに、藤井寺の駅前というのも、今はもう一つ活気がないように思う。近鉄バファローズも、藤井寺球場も、もう昔の話になりつつある。そんなところにこうした店が出来たというのもうれしい話である。ここはまた行ってみたいし、藤井寺にお越しの折には、ぜひ・・・。
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気付けば借金生活

2017年05月19日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
やはり放置しておくと良くないのかな・・・。

先月末、関西クラシックということで近鉄対南海復刻試合をナマ観戦したが、オリックス・バファローズはあのカードに始まり6カード連続での負け越し。6連敗もあった。5月初めの仙台でのイーグルス戦は首位攻防戦だったのが、気付けば借金生活の4位。

その間、ナマで観戦しようと思えばできた試合もある中で行っていない者がとやかく言うことではないが、やはり肝心なところで打てないこと、そして選手層(特に野手陣)の薄さを感じる。代打にしても、「こいつやったらひょっとしたら一発期待できるのでは?」という切り札的のがなかなかいない。

まあ、まだ100試合移乗あるし、昨年とは違ってまだ挽回のチャンスはあると思う。そのためには、私もできる限り球場に足を運ぶ機会を作らなくては。平日に試合開始前から観られるチャンスもあるといいのだが・・・。
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第30番「宝厳寺」~西国三十三所めぐり2巡目・15(今日は今津か長浜か)

2017年05月18日 | 西国三十三所
彦根から新快速で長浜に向かう。この時点では雨も上がっていた。予報ではこの後降ることはないようで、それなら野球もできたのではないかと苦笑する。まあ、グラウンドに水溜まりがあるくらいなら仕方ないのだが残念だ。ここで気持ちを切り替えて宝厳寺に向かうことにする。

米原から北陸線に入ると、沿道でウォーキングをしている人の姿が目立つ。「びわ湖長浜ツーデーマーチ」というイベントである。こういうのを見ると四国の歩き遍路を連想してしまう。

長浜に到着して、旧長浜駅舎の横を通って琵琶湖汽船の乗り場に向かう。先ほどのウォーキングの人たちともすれ違う。長浜城がある豊公園がゴール地点のようだ。

竹生島に渡るのには彦根からでも行けるのだがわざわざ長浜まで移動したのは、琵琶湖汽船のルートである。1巡目でも使ったが、長浜ルートと今津ルートがあり、それぞれ往復だけでなく、乗り継ぎで琵琶湖を横断することができる。長浜12時45分出航の便で竹生島に時分着。ダイヤはすぐに乗り継ぎとなるが、1本ずらして宝厳寺、竹生島神社を参詣して、時分出航の便で今津に渡ることにする。それで窓口で「今津行き」と言うと、「え?今津ですか・・・少しお待ちください」と意外な答えが帰ってくる。

聞けば、長浜ルートは平常通り運航しているが、琵琶湖西岸の今津ルートは、波が高いため運航をどうするか様子見しているとのことだ。そのため改めて状況を聞くので待ってほしいと言われる。そんなことがあるのか。確かに、雨は上がったとは言え大気は不安定な状況である。比良山のほうでは現場でしかわからないことがあるのだろう。昔から、比叡山や比良山から吹き下ろす風で船が転覆する事故は結構ある。

そうするうちにこちらの出航時間が近づいたが、窓口の方が確認した結果、今から竹生島に着いた乗り継ぎ便は何とか運航するが、その後の便については中止の可能性大とのことである。仮に今津までの乗船券を買っていても長浜に戻ることはできないとも言われる。結局、今津行きはあきらめて長浜往復とする。これも琵琶湖の姿の一つである。

船には西国三十三所めぐりの特任先達に連れられた一行も乗り込む。雨も上がったので2階の甲板に上がり、琵琶湖の風に当たることにする。

まず目にするのは学習船「うみのこ」。滋賀県内の小学5年生は乗船体験学習としてこの船に乗るそうである。ふるさとの琵琶湖の自然や文化についても学ぶところだろう。またこの船も新造に向けた動きがあるそうだ。

「うみのこ」に見送られる形で少しずつ長浜港が遠くなる。確かに西のほうを見るとどんよりした雲が居座っているようにも見える。淡路島がすっぽり収まる広さの湖である。対岸で天気が変わることもあるだろう。

そんな対岸も少しずつ大きくなり、竹生島の姿も少しずつ捉えられるようになってきた。

そして竹生島に着岸。この竹生島は竹生島神社と宝厳寺のためだけにあると言っていい。基本人は住んでおらず、寺の人たちも船での通いである。どこかのページで「人は住んでいないが神が棲む島」とあったが、上手いこというものである。

宝厳寺と竹生島神社は別のものに思われるが、元々は神仏が同座するところである。聖武天皇の夢枕に天照大神が立ち、「琵琶湖の湖上に島があり、その島は弁才天の聖地であるから寺を建てよ」とのお告げがあった。そこで行基に命じて建立したのが宝厳寺の開創とされている。その後千手観音も祀られ、豊臣秀吉が唐門を寄贈するなど、弁才天を中心に多くの信仰を集めた。明治になり、例の神仏分離令で宝厳寺と竹生島神社が分かれ、宝厳寺も廃寺の危機に遭ったが、多くの人からの支援で廃寺は免かれ、元々宝厳寺の本堂だった建物を神社の本殿とすることで決着し、弁才天は現在の本堂に移された。それがこの小さな島のわずかなスペースの中で行われたため、境内で神仏がごっちゃになっている感覚が余計に強い。

私はまず階段を上がりきった本堂に向かう。一方で、特任先達に連れられたバスツアーの一行は、途中で石段の横から伸びる観音堂に向かう。まあ、西国三十三所に定められているのはそちらの千手観音であり、そこにお参りするのも無理はないか。私は今回、本堂に祀られているのが弁才天と分かった上で、やはりまずは本堂に行かなければと、いろいろ回って身についた感覚で向かう。ただ、初めての時はそれを知らず、本堂に観音がいると思ってお勤めをして、下の観音堂に下りてはじめて「こっちやったか」と知ったことがある。

本堂でのお勤めと、ミニだるまの奉納を行い、これは順番が逆だが先に納経帳に朱印をいただく。帰りの長浜行きの時間もあるから先にいただこうというものである。

来年頃まで改修工事中の唐門を抜け、観音堂に向かう。ここで改めて西国のお勤めとする。

そして竹生島神社に出る。湖畔に立つ鳥居の間を抜けると願いが叶うとされるかわらけ投げにも挑戦するが、あえなく失敗。確か前回は1枚通っているが、今回それを意識して雑念が入ったということで・・・(単に肩が衰えているだけ?)。

今回は神社の境内の奥にも行ってみる。途中に弘法大師の修業の跡地を通り、階段を下りると鳥居があってすぐ湖面である。神社の裏参道、通用口とでもいうところかな。

島の中でも立ち入ることができるエリアはわずかなもので、お参りした後は船の時間を待つばかりである。それでも、湖の上にいながらちょっとした離島気分が味わえる竹生島、訪れる価値は大きいと思う。

やって来た長浜行きに乗り込み、竹生島を後にする。やはりこの帰りの船からのほうが、竹生島の全容をはっきり見ることができる。次はいつこの景色を見ることができるかわからないが、ぜひ一度、雪景色というのを見てみたい。もっとも、積もるくらいの雪なら船が動くかどうかで、島に渡るまでが大変だろうが・・・。

長浜駅に戻る。ここまで来たのであれば黒壁スクエアなどの町並みを歩いてもいいが、それはまたのお楽しみとしてそのまま新快速に乗る。ちょうど、びわ湖長浜ツーデーマーチの初日を終えた人たちが多数乗車口に列を作っていて、車内は満席となった。米原で増結した車両に移った人も多いが、京阪神から新快速でわざわざ長浜まで歩きに来るとは、タフな方が多いなと思った。私も肩が衰えてなどと言わずに、もっとアクティブに行かなければ・・・、
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BCリーグ観戦記・滋賀対群馬@彦根・・・?

2017年05月17日 | プロ野球(独立リーグほか)
四国八十八所めぐりの話が例によって長くなったので、ようやく5月の13日まで時間を進めることができた。

この日の朝、滋賀は彦根に現れる。4月に観戦したBCリーグの滋賀ユナイテッドの試合観戦である。前回甲賀市での試合観戦の後、日程表をチェックする中で、この日の彦根での群馬ダイヤモンドペガサス戦を見つける。東西2地区制のため、東の群馬との対戦は限られている。また、群馬にはオリックス・バファローズにも二度在籍したカラバイヨがコーチ兼任選手でいるし(現在のバファローズの状態を考えると、もう一度大正ドームの打席に立たせてやりたい)、リーグ発足から長くプレーする井野口という強打者もいる。彼らのプレーも観たいということでこの日を選んだ。

・・・ただ、その前後は関西は好天、夏日になる日もあるくらいなのに、13日だけが傘マークが出ている。ただ、午後からは雨が上がる予報だし、とりあえず現地には行くことにして大阪を出発する。新快速に乗っていてもはっきりわかるくらいの雨粒が続いているが・・・。

滋賀ユナイテッドのホームページやFacebookのページには、当日は雨天が予想されるために「8時30分、10時00分の2段階で、試合を中止するか試合開始を遅らせるかの判断を行い、12時の時点で、予定通り13時開始とするか試合開始を遅らせるかの判断行う」旨が記載されていた。彦根駅に着いたのが8時40分頃で、この時点でチェックすると「協議中」であった。

さて、試合が行われるのは13時、開門は11時30分、別に早くから並ぶ必要もないのになぜそんな時間に彦根駅にいるのか?と思われる方もいるだろうが、理由は簡単である。せっかく彦根に来たのだから、国宝彦根城を見物するためである。そうした見物や町歩きを楽しみ、合わせて観戦もするというのが、私なりの独立リーグ観戦の楽しみ方の一つである。先日の高知もそう。

「彦根城を世界遺産に」というのは結構長くPRされているが、今年は福岡の沖ノ島が登録勧告されており、私の地元を含む百舌鳥・古市古墳群ともども見送りである。城としての彦根城は立派だとは思うが、世界遺産と言われるとちょっと・・・というところだろう(現在の日本の世界遺産の中にもいくつかそのようなものがあるが)。誤解しないでほしいのは、彦根城そのものに価値がないと言っているのではないこと。

今年は彦根城築城の410年祭とある。「400年」ではなく「410年」という10年区切りがよい。さまざまな特別展も行われている。今年の大河ドラマが井伊直虎というのも、このイベントに合わせてのことか。

まずは本丸に上がるとして城内を進む。途中の天秤櫓では井伊の赤備えの甲冑の復元や、彦根屏風や江戸時代の地球儀をディスプレイ上でルーペで拡大して見ようという特別展が行われていた。

そして本丸。姫路城のような巨大なものに比べると小ぶりに見えるが、スタイルとしてはいいのかなと思う。ここは中に入り、当時の姿を留めた天守閣の中を歩き、急な階段も上る。

そして最上階からの眺め。雨のため眺望は効かないが、彦根城のすぐ横にあるのが、この日の元々の目的地である彦根球場である。見るとグラウンドにシートがかけられているわけでもなく、水溜まりもできている。ああ、これでは中止かなと思う。NPBの本拠地球場なら、昼から雨が上がると予想されればシートもかけるだろうが、そこは県営球場の独立リーグである。この後スマホをチェックしたら、案の定中止のお知らせがあった。まあ、仕方がない。また代替試合もやるだろうから(別の球場だろうが)、日程が合えばまた来よう。

ここは彦根城を一回りして、城下の彦根城博物館に入る。ここは城に関する歴史博物館というよりは、井伊家所有のさまざまな文物を展示するところ。こちらには、赤備えの甲冑の実物もあるし、彦根屏風も特別公開されていた。

そして、彦根といえば、ゆるキャラの元祖といえるひこにゃん。ちょうど、博物館の縁側に登場していた。訪れた観光客も歓声をあげていた。今も根強い人気があるのをうかがえた。

この後は庭園の玄宮園も訪ねたが、11時近い時間となると雨足も弱くなり、傘なしでも歩けるくらいになった。天気予報の通りに来ている。でも
、一度中止を発表したからには試合は行われない。ここは単に「雨天中止」ではなく、「グラウンド状態不良のため中止」と、自分を納得させる。そして、中止になったらなったで別の目標に切り替えようと、リュックの中身を整理する。

その後は駅前に戻り、近江ちゃんぽんで昼食とする。近江ちゃんぽんそのものは「ちゃんぽん亭総本家」というチェーン店としてあちこちにあるが、元祖は麺類「をかべ」という店だそうだ。彦根駅前のちゃんぽん亭総本家には、そののれんを受け継ぎ「近江ちゃんぽん発祥の店」とある。しっかりした味で、途中で酢をかけるとなお味が引き立つ感じがする。

さて時刻はまだ午前中。野球は中止だしこれからどうするか。

そこでヌハハハ・・・と取り出したのは、西国三十三所の巻物型の先達納経帳と輪袈裟である。そして目指すのは、ある意味でアクセスの難所と言える、琵琶湖に浮かぶ竹生島。BCリーグが中止なら、せっかく琵琶湖まで来たのだからこの機会に2巡目をやってしまおう。

竹生島には彦根からオーミマリンの船で渡ることができるが、私は長浜まで移動することを選んだ。その理由は次の記事にするとして、ともかく北陸線直通の新快速で移動する・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~第36番「青龍寺」

2017年05月16日 | 四国八十八ヶ所
青龍寺の山門に立つ。ここから伸びる石段は170段ある。これを金剛杖を突きながら上って行く。ちなみにこの階段、モンゴルから明徳義塾に相撲留学に来たある少年がトレーニングに使っていたとして知られている。その名はドルゴルスレン・ダグワドルジ。第68代横綱・朝青龍明徳である。しこ名の朝は師匠高砂親方の現役時代のしこ名の朝潮から、そしてこの青龍寺、明徳義塾高校からその名がついた。それにしても、寺の石段でトレーニングというと何だか時代がかった話だが、そうした時代がかったものが強さの秘訣の一つだったのかもしれない。その意味では、青龍寺も一時最強を誇った横綱ゆかりの地としてアピールしてもよさそうなものだが、モンゴル出身であること、さらには横綱としてああいう辞め方をしたことというのであまり表に出したくないのかもしれない。ちなみに同じ高砂部屋で先日現役引退した朝赤龍という力士がいるが、別に赤龍寺という寺があるわけではなく、「青」と「赤」のコンビのような理由でつけられたしこ名であった。こちらは日本国籍も取得したし、いずれは高砂部屋を継ぐのだろうか。

さて石段を上りきった正面に本堂があり、左手に大師堂がある。ここまでたどり着いて、ようやく本日のゴールに来たなという感じである。お勤めの前にしばらく休んで息を整える。どこか腰かけるベンチでもあればと思うが、そういうものはない。本堂の前には、青龍寺の本尊である波切不動を模したとされる石像が立つ。

この青龍寺の開創は、弘法大師が唐に渡り、恵果上人から真言密教の奥義を伝授されて日本に戻る際に、ご縁のあるところに至るようにと祈願して独鈷杵を東の方向に投げ、それが着地したのがこの横浪半島とされている。それは一種の伝説ではあるが、独鈷杵が着地したところに札所を設けるとは、ダーツの旅じゃあるまいし。どうせなら少し北にずれて宇佐の市街地にでも落ちてくれれば、その後の遍路がわざわざ渡し船に乗るとか、先ほど私がビビりながら宇佐大橋を渡らなくてもよかったのに・・・ということを言ってはいけない。やはり密教の修行を行うにふさわしい場所として建てられたわけだ。寺の名前は唐で恵果上人がおわした青龍寺からいただいたものである。本尊が波切不動明王なのは、弘法大師が唐に渡る中で暴風雨に遭った時、不動明王が現れて波を切ったからとされている。そして、その不動明王が36番の札所の本尊というのも、偶然なのか意図があってのことか気になる。36で不動明王といえば、近畿をはじめとした各地方の三十六不動尊めぐりを連想する。近畿の最後36番の高野山の南院も波切不動明王を本尊としている。不動明王と36というのは、不動明王の眷属である三十六の童子から来ている。だから青龍寺が36番というのは、決して偶然ではないと思うのだがどうなのだろうか。

この後、大師堂でもお勤めをして青龍寺は終わりとする。本来であれば、独鈷杵が着地したそのピンポイントとされる奥の院にも行ったほうがよいのだが、さらに1キロほど山を上る必要がある。さすがにこれ以上歩くのはしんどいのと、そろそろ帰りのバスの時間も気になるのでここで石段を下りる。

納経所で朱印をいただき、ふと裏手を見ると、小さなお堂がある。恵果堂ということで、恵果上人を祀っている。そうしたことからも、弘法大師の入唐、真言密教の伝来に当たり深い縁のある寺ということになる。朝青龍が当時そうした寺の由緒を耳にしたかどうかはわからないが・・・。

竜のバス停に戻る。時刻は16時すぎで、高岡の町に戻る「ドラゴンバス」の最終便は16時32分とある。バス停横のレストラン、遍路用品店の前には休憩できるベンチとお茶の接待があり、どっかりと腰を下ろして休憩する。ようやくこれで1日が終わり、あとは夜の高速バスで戻るだけである。このバスに乗ってから先の時刻表は調べていないが、それほど遅くない時間で高知駅に戻ることになるだろう。

これで次は県西部の窪川にある岩本寺から始めることができ、そうすると足摺岬との組み合わせが可能となる。四国めぐりもだんだんと西の端にまでたどり着こうとしている。

やってきたドラゴンバスは土佐市内のコミュニティ路線をとさでん交通バスが運行しているもので、竜バス停に来るのは1日4本だけである。その最終便に乗り込み、歩いてきた道を引き返す。途中、歩きの白衣姿とすれ違うが、このタイミングだと17時までという寺の納経所に間に合うのだろうか。あるいはバス停のところのホテルか、山の上の国民宿舎に泊まって翌朝1番でお参りするか。

バスは宇佐大橋もあっさりと渡り、宇佐の町中を走る。そして先ほど歩いて越した塚地峠のトンネルをくぐる。バスに乗ればトンネルはわずか2分であっさりと通過する。トンネルの中に何か特徴的な景色があるわけではなく、ごく普通のトンネルである。今となれば、しんどかったがこういう時でなければ生涯訪ねることはなかったであろう峠を歩いて越した選択は、良い経験になったと思う。

バスはそのまま県道を走り、「東芝」のバス停も経由して高岡の中心部に戻ってきた。来た時に見た景色にまた出会い、とは言うもののこの先どうやって高知駅まで戻るかということで、反射的に土佐市役所前のバス停で下車する。その後で時刻表を見ると、20分ほどの待ちでJR伊野駅に向かう便が来るとある。伊野駅までの時間はわからないが、そう無茶苦茶な時間にはならないだろう。鉄道の駅まで行けば、後は何とでもなる。ちょうどバス停の前にベンチがあったので腰かけ、ここで金剛杖と笈摺をしまう。

バスは17時19分にやってきて、伊野駅に向けて走る。途中で仁淀川を渡り、結構奥のように入ったなと感じたところで再び町並みが出てきて、15分ほどで伊野駅に到着する。ここからは土電の初めて乗る区間をガタゴト行くこともできるし、JRに乗ることもできる。17時51分発の高知行きがあり、今回はJRで高知駅に戻る。これでこの日も一筆書きに近い行程ということになった。

高知駅に戻ったのは18時すぎ。予約している夜行バスは22時半発車ということで、4時間以上の時間がある。その間をどう過ごすかの選択肢はいくつかある。西国や新西国の札所めぐりでやっている「行き先くじ引きとサイコロ」方式で挙げると・・・

1.試合はすでに始まっているが、高知球場で四国アイランドリーグの観戦を行う。・・・当初はその予定だったはずだが、青龍寺行きを決めた時点でもういいかなとも思っていた。ただ、野球観戦は楽しい。

2.バスの時間までどっぷりと高知市街で飲む。・・・何せ、これで私の四国八十八所めぐりの高知市内編が終わりということで。

3.前回も行った薊野駅近くのスーパー銭湯に行く。・・・暑くて汗もかいたし、これが一番快適ではないだろうか。館内で食事もできる。

4.高知の名所である桂浜に行く。・・・野郎一人で夜の海岸というのもオツなものだろう。

5.「土佐横浜みなと未来祭り」に行く。・・・これは前日入った「元祖赤のれん」の店主に教えてもらったもので、5月5日に子どもの成長を願うということで一昨年から始まった祭りという。(「元祖赤のれん」も協賛企業に名を連ねているとか)浦戸湾に花火が上がるのが見どころだという。

これら一つに絞ってもいいし、複数組み合わせてもよい。子どもの日の花火というのも、地元ならではのイベントとしてどんなものか見物するのもいいだろう。何ならサイコロで・・・という手もあるが、ここでサイコロを振らずに私が下した判断は、

6.その日のうちに大阪に帰る。

というものだった。さすがに疲れたというのが正直なところである。これが、今晩も高知市内に泊まるということであればどこにでも気楽に行けただろうし、今日が昨日のような動きであればよかったかもしれない。ただこれは結果論である。先ほど列車を降りる際に、岡山行きの特急が停まっているのを見たからかもしれない。

もちろんこの時間からだと特急と新幹線の乗り継ぎで夜行バスより高くなるが、同じ眠るなら夜行バスよりも自宅のほうがよい。今からなら18時37分の「南風26号」にも乗れるが、さすがにそれは慌ただしいということで、1本後の19時34分発「南風28号+しまんと8号」に乗ることにする。これが岡山に21時57分に到着して、次の新幹線は22時18分発の「こだま762号」である。これだと新大阪から自宅に戻るのは終電になり、日付はまたぐが一応5日中に帰宅することになる。夜行バスのほうは、予約サイトを通してキャンセルということにした。せっかくキープしておいた席を手放すのはもったいないし、またこれまでバスを予約しようとして取れなかった方には申し訳ないと思う。勝手なものだが、せめて直前で、ダメ元で乗りたいという方が取ってくれればと願う。

その1時間で食事・・・というか軽く飲むということで、前々回に入った高知駅高架下の「庄や」に入る(高知駅の構内や隣接した建物には案外食事のできる店がないこともある)。こちらは「よろこんで!」のチェーン店で、これで高知の夜3日間で、それぞれ異なる雰囲気の店に入ることになった。チェーン店とは言っても結構高知、四国産の食材メニューはあり、悪くない。そんなこんなで、今回は夜のほうの八十八所も盛りだくさんであった。

時間がそれほどないので一通り飲食して外に出て、ホームに上がる。これから乗るのは、岡山行きの「南風」と高松行きの「しまんと」の併結運転で、宇多津で切り離しを行う。私が乗るのは「南風」の車両。連休の夜だが、どちらの編成も乗客はそれほどいない。

すっかり暗くなって発車。行きと同じように、2000系気動車特急の「攻め」の走りを楽しむが、景色が真っ暗ではどうしようもない。これから山の中に入っていくので、なおのこと周りの景色は見えない。振り子の揺れに身を任せてしばしウトウトする。気づけば宇多津まで来ており、ここで連結を切り離す。先に高松行きの「しまんと」が発車して、その後で「南風」が出ていく。夜の瀬戸大橋を渡り、四国ともお別れである。

さてこの列車は21時57分に岡山着で、新幹線は22時18分発が乗り継ぎ列車として案内されているが、改めてスマホで新幹線の時刻表を見ると、岡山を22時ちょうどに出る「さくら572号」というのがある。岡山駅の構造を思い起こして、3分なら何とか乗り継げるのではないかと思う。

あまり駆け込み乗車というのは良くないのだが、カートを転がしても行けると判断。列車が岡山駅に差し掛かると早々にドアまで行き、ちょうど新幹線乗り換え口への上り階段が近かったのでそのまま急ぐ。新幹線改札を通りさらに上がると「さくら」はすでに入線していた。幸い、乗降客が多く乗り込みに時間がかかっており、近くのドアから乗ることができた。乗ったのは指定席の車両だったため自由席方向に移動すると、この時間帯でもデッキまで立ち客がいる混雑ぶりである。まあ、新大阪まで50分のことだし、これで自宅にはかろうじて日付が変わる前に戻ることができるので、効果は大きかった。

・・・・最後は慌ただしい感じで、もう少し高知を楽しめばよかったかなと思う。また今回は「四国アイランドリーグと八十八所めぐり」というのが目的だったこともあり、高知で多くの人が訪れるスポットに行くことはなかった。人によっては「高知=坂本竜馬」くらいのイメージを持っているくらいのところだが、龍馬が一切出てこなかったというのも、それはそれで面白いかなと思う。

一つ、今になって惜しかったなと思うのは、司馬遼太郎の特別展示に行かなかったことである。司馬遼太郎自身の展示は東大阪の記念館に行けばいいわけだが、土佐にゆかりのある人物をテーマとして書いた作品、あるいは『街道をゆく』にも土佐は登場するが、その舞台となった土地の人たち相手にどのような構成で展示するものか見るのも面白かったかなと思う。まあそれは、またどこかでということにして今回のシリーズについては、ここまでで・・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~青龍寺まで山あり海あり

2017年05月15日 | 四国八十八ヶ所
清滝寺の坂道を下り、青龍寺までの13キロの歩きを選択した私。普段の生活ではまずこうした行動は取らないのだが、この時はやはり気分的にハイになっていたこともあったのだと思う。それにしても、「清滝」からさんずいを取ると「青龍」になるとは、何だか妙なものである。

坂を下りきり、畦道をとおって国道56号線のバイパスに着く。この辺り、歩き遍路道のシールは見当たらないのだが、「四国のみち」の道標がある。これに従って行くことにして土佐市高岡の中心部を歩くが、路地が入り組んでいるし、いつしか道標も見失ってしまう。時々スマホの地図機能など見ながら歩くと、市役所やビジネスホテルのある通りに出た。ここでちょうど12時となり、近くのコンビニで休憩とする。この辺りは高岡の昔からの町のようで、細い道ではあるがいかようにも通れそうである。だから「これ」と決まった遍路道がないのかもしれない。

再びそんな町中を通り抜けると川の土手に出る。波介川という。歩いていた時は「なみすけ川」と呼んでいたのだが、改めてこの記事を書くにあたって地図などを見ると「はげ川」と呼ぶのが正しいそうである。これをどうやって「はげ」と呼ぶのか。「はかい」が「はけえ」となって、「はげ」となったのか。まあ、同じ四国には予土線に「半家」と書いて「はげ」と読ませる駅名もあるが。波介川はこの先で仁淀川と合流して土佐湾に注ぎ込む川なのだが、過去には何度も氾濫を起こし、地元に大きな被害を及ぼしたこともあるそうだ。土手沿いにも、私の歩いている胸の高さくらいのところに「昭和50年台風5号の到達水位」の標識があった。土佐市のホームページの資料によると、この時の浸水面積が1590ヘクタール、浸水家屋は3000戸以上だったそうだ。その後は治水事業が進み、同様の大雨でも被害は大幅に軽減されているそうだ。

川沿いに歩いて県道39号線との交差点を右折して、県道沿いに歩く。あとはこの道なりに海岸沿いの宇佐に出て、横浪半島を目指す。県道脇の看板に「宇佐ショッピングセンター 次の信号を右折してすぐ」とあるが、その信号というのが何キロ先にあるのか。清滝寺から結構歩いたように思うが、青龍寺はまだまだ先である。そのうちに少しずつ上り勾配となっていく。

宇佐まで2キロの標識が出た県道沿いに塚地休憩所(遍路道入口)というのがある。トイレ、自動販売機、東屋、湧水(飲用不可)がある。ここまでは県道を歩くのが正しいが、遍路道はこの先塚地峠というのを越えるとある。県道はこの先トンネルがあり、歩行者も通ることができるが、ここは山を越せということらしい。一人の白衣姿の人が上って行くのが見えた。ならば私もそちらに行くかと、しばし休んだのちに坂に挑む。階段もついていて一応は整備されている。

この峠道は往年の生活道路、商業のための道でり、昔は宇佐で獲れた魚や塩を内陸の高岡まで運び、穀物と交換をしていたとか、高岡の人たちが青龍寺で行われる不動祭に行ったとかの歴史がある。もちろん昔の遍路もこの峠を通っている。今はトンネルができたが、塚地峠はハイキングコースとして整備されている。峠まで800m、高低差140mの上りに挑む。阿波の遍路ころがしに比べれば断然短いと言い聞かせるが、ここに来てやはり暑さを感じる。この日の高知は最高気温も25度近くになったとのことで、この時季にしては暑い日であったのは確かだが、リュックにいれている水やお茶が早いペースでなくなっていく。そして峠の頂上に着く。ハイキングコースはこの先尾根沿いに続いているが、私はすぐに下る遍路道を選ぶ。こちらは下りるまで1200mと長くなっている。

下りに向けて歩き出したところに展望スペースが作られていた。ちょうど宇佐の町を見下ろす位置にある。目指す青龍寺は、前方の入江の向こう側のこんもりした半島の中である。まだ4キロかかるところだ。それでも目的地が視界に入ってきたところで、気持ちは少し楽になる。ここで先ほどとは別の歩きの人が私を追い越していく。自分の視界にないだけで、清滝寺から青龍寺まで歩こうかという人もそれなりにいるものだ。その下りだが、先の上りと比べて道が自然のままの所も多く、石もゴツゴツしている。ここは金剛杖を使って慎重に歩を進める。地元の人らしいのが手ぶらでひょいひょいと上がってくる。ちょっとした散歩道、運動の道なのだろう。

塚地峠を越えて坂を下りきったところで14時を回っており、宇佐の町中に差し掛かる。道端に「安政地震津波の碑」がある。江戸末期の安政元年に発生した地震による津波の犠牲者の追悼と今後の教訓として安政5年に建てられたもので、その後の南海地震ではその時の教訓が活かされた形で死者わずか1名で済んだという。先ほど、台風による河川の氾濫被害のことに触れたが、高知といえば地震による津波の危険性とは隣り合わせである。そのあたりの対策もいろいろと取られているが、やはり大切なのは人々の意識なのかなと思う。これまで津波に遭った歴史を持つ三陸の海岸でも、6年前の東日本大震災の時には、津波の規模が違うとはいえ、逃げ遅れや誤った行動で多くの人が命を失ったわけであるし・・・。

県道23号線に突き当たるとそこは宇佐湾に沿った道である。後方に漁港が見え、近くにはヨットハーバーやマリンスポーツの店がある。先ほどまで通った山とは対照的な海の風景である。ここまでの道のり、長くはあるが田園風景、川、山、そして海と変化に富んでいる。そして前方にかかるのが横浪半島との間を結ぶ宇佐大橋である。昭和48年というから、ちょうど私が生まれた年に架けられた橋で、それまでは、前日渡った種崎~長浜の渡し船と同じく、「竜の渡し」という渡し船で渡っていた。また当初は宇佐大橋も有料だったそうだが、今は無料として横浪半島へのメインルートとして気軽に使われている。

橋のたもとには明徳義塾の看板が見える。先ほど清滝寺で、選抜高校野球初出場初優勝の伊野商業の記念碑を見たが、現在の高知の高校野球といえば明徳義塾である。本部は同じ横浪半島の中央部にある堂ノ浦キャンパスだが、こちらにも竜キャンパスというのがある。そしてこれから訪ねる青龍寺も、明徳義塾出身のとある人物とも関係あるそうだが・・・(寺の名前を見れば、大体の方はお分かりではないかと思う)。

ただその前に宇佐大橋である。橋一つで対岸まで行けるのはありがたいにしても、距離は長いし、また橋の欄干も私の腰より少し低く見えるくらいのところで、下を覗き込むと結構高さを感じる。こうした高いところがあまり好きではない私にとっては結構ヒヤヒヤものである。両側に海を見渡せていい景色のはずだが、ここは早く通り過ぎたいと願う。やはりこの橋はクルマを通すのが主な目的の橋なのかなと思いつつ、気づけば口に「南無大師遍照金剛」と唱えながら歩いていた。

少し冷や汗をかきながら橋を渡り終えると、昔の遍路道が山の方向に案内されている。ただ私はそのまま道路を海沿いに進んだ。この道じたいが最近できたものであることはわかっているが、もう一度山越えをしようとまでは思わなかった。それよりも、潮風を受けながら歩く数少ない機会ということでそのまま歩く。いつしか椰子の木のある砂浜に出る。休憩スペースになっているが、大勢のグループが宴会をやっていて賑やかである。ここから下って「黄金大師」の大きな看板がある竜温泉・三陽荘の駐車場の一角に、帰りに乗る竜のバス停がある。

青龍寺にはここからもう一歩きで着く。こちらも参道に四国八十八所の各本尊像が並ぶ。それを途中まで数えるところで、山門に到着した。途中休んだりしながらだったが、結局は清滝寺から4時間かけてようやくたどり着いた。どこか傷めたわけではないが、そろそろ歩くのに燃料が切れてきたところでの終点である・・・と思ったのだが・・・・。
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