まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大井川の近鉄特急

2016年08月30日 | 旅行記D・東海北陸
静岡県をめぐる夏旅の2日目となる19日朝、テレビをつけるとニュースはオリンピックのメダルラッシュに沸いていた。

その中でも特に歓喜に沸いていたのは、バドミントン女子ダブルスの高橋礼華・松友美佐紀選手の「タカマツペア」の金メダル。最終セットも相手に終盤までリードされてからの逆転勝ちである。

一方で「まさか」の逆転負けとなったのが、レスリングの吉田沙保里選手。銀メダルでもすごいのだが、インタビューで「ごめんなさい」と号泣していたのが印象的。金メダルは確実、ここまで相手にポイントを与えない圧勝で勝ち進んだのに、勝負には「絶対」というものはなく、負ける時はほんの一瞬の隙からでも負けるものだなという感じだった。

ただ、タカマツペアも吉田選手も、日々プレッシャーのかかる中での対戦を潜り抜けている。呑気な旅のビジネスホテルのベッドに寝転がって、翌朝に結果だけテレビで観ている私がどうのこうの言えたことではない。この後1階で朝食を取りながら、心の中で拍手する。

・・・話を私の旅程に移すと、19日は大井川鐵道をメインとする。始発の金谷は掛川から東に2つ目の駅で、前日に掛川に泊まったのは、金谷から早い時間の列車に乗るというのもある。今回の旅のプランニングは、大井川鐵道をどう乗るかというのも大きかった。時刻表をひっくり返していろんな旅程を考えた中で決めたのが昨日からの動きである。SL、トロッコ、アプト式、元私鉄特急・・・いろんな楽しみ方ができる。またSLも何種類かあるし、運転日の関係もある。その中で出したのが、朝の時間に金谷から千頭に移動し、トロッコ&アプト式列車で接岨峡温泉まで向かう(終点の井川でないのは後述)。折り返して、千頭からSLに乗るものである。これも、大井川鐵道で人気の「きかんしゃトーマス号」ではなく、昔ながらの蒸気機関車が牽引する列車である。千頭からのトロッコ&アプト式列車の始発がゆったりなので、ホテルで五輪のニュースを観ながら朝食を取るくらいの時間ができた(といっても、このステーションホテルの朝食が6時半からだったから。一般的な7時開始なら間に合わない)。

掛川7時14分発の熱海行きで出発。通勤の時間帯で、6両のロングシートがほどよく埋まる。金谷までは2駅だが15分かかる。小夜の中山の峠のある山がちなところである。茶畑も広がる。

この辺りの景色を見ると、その昔寝台列車で迎える朝を思い出す。15年以上前のことだが、当時広島勤務で、会社の組合の青年部の役をしていたのだが、年に何回か、組合の会議で東京に行くことがあった。組合からは規定の交通費が出て、どのような手段で行くかは本人任せ。いろんな行き方をしたのだが、広島から頻繁に乗っていたのが、当時走っていた寝台列車の「富士・はやぶさ(さくら・はやぶさ)」。列車で一晩過ごすと朝に静岡県を走る。当時はロビーカーもあったので、寝台を抜け出してくつろいだこともあった。その時に見た茶畑や行き違う貨物列車というのが、写真には残していないが記憶に残っている。今ではもう体験できないことである。

金谷に到着。通勤で下車する人もそれなりにいる。隣接する大井川鐵道の金谷駅に行き、キャリーバッグをコインロッカーに入れる。ここから接岨峡温泉まで往復だが、「すまた・せっそ周遊きっぷ」を購入する。2日間有効で3900円で、価格だけ見れば結構高いように思うが、単純に途中下車なしで往復するよりも安い。地方の私鉄は経営の厳しい路線が多く、どうしても運賃を割高に設定せざるを得ない。こうしたフリーきっぷは、観光などの利用客誘致のものである。

まず乗るのは7時48分発の千頭行き。そしてホームにいるこの車両は、私の地元・近鉄南大阪線&吉野線を走る16000系である。一部ワンマン仕様に改造されているが、ほぼ原型をとどめている。千頭までの車両がどれに当たるか楽しみだったのだが、これが来た。

観光客と地元客が半々くらいの感じで出発。新金谷で機関車や客車の姿を見て、大井川沿いに出る。昔は「越すに越されぬ大井川」と呼ばれ、水量も多かったそうだが、今は上流にダムができていることもあり、水が少ししか流れていない。その分砂利が目立つし、中には河原にクルマを乗り入れてキャンプをする人もいる。まあ、雨も降らないし大丈夫だとは思うが、大水で川の中洲に取り残されるという事故もあるので、ちょっと不安にも思う。夏は川の事故のニュースも結構聞く。

信楽焼のタヌキの置物が出迎える神尾、昔ながらの駅舎を構える家山など、面白い駅にも出会う。家山では列車行き違いとなり、千頭から来たのは元南海高野線のズームカー。近鉄と南海が大井川べりですれ違うのも面白い。近鉄、南海とも元はそれぞれ吉野山、高野山を目指す線を走っており、それが山合を目指す大井川鐵道においても違和感がないのがよい。最近のステンレス製の車両だとなかなかこうはいかないだろう。

大井川が進行右手から左手に移る。河川敷は相変わらず砂利のほうが目立つ。その中に塩郷の吊り橋が見える。長さ220メートル、高さ11メートルというもので、線路の上も通る。人が渡っている写真をネットで見たが、安全柵もなく、下は板が渡してあるだけ。生活には必要なのかもしれないが、高所がダメな私には渡るのはとても無理。愛称が「恋金橋」というそうだが、いくら恋愛や金運にご利益があるといっても勘弁してほしい。

金谷から一時間あまり、終点の千頭に到着。SLにはまだ早い時間だし、客の姿も少ない。

ここからホームが変わり、接岨峡温泉行きの列車に乗り換える。近鉄特急の次はトロッコ列車にて・・・・。
コメント

二宮金次郎と静岡の風味

2016年08月29日 | 旅行記D・東海北陸
掛川駅の北口に戻る。ロータリーに目をやると、薪をしょった後姿の銅像がある。写真は撮らなかったが、あの姿は二宮金次郎である。昔はあちこちの学校に、薪をしょって本を読んでいる二宮金次郎の銅像が建っていたが(私の通っていた学校にはなかった)、最近ではこの像も撤去されたり、あるいは「座らされたり」ということで、めったにお目にかからなくなっている。元々は「勤勉」の象徴として建てられたものだが、そうした精神が今時の教育方針に合わないという声があるようだ。まあ、勤勉というのが戦前の道徳観でいえば「国家や天皇に対する勤勉」という感じで語られている面があり、その反動もあるのかなと思う。ただ最近はそうではなく、「子どもに薪を背負わせて労働させるのは児童虐待である」とか、さらには「交通安全上よくない」というもの、挙句の果てには「ながらスマホを助長する」というほとんど言いがかりのような理由もあるのだとか。よくわからない。

・・・で、そうやって勤勉に励んだ二宮金次郎少年が大人になって何をしたか・・・・そこについてはほとんど触れられることはない。学校の歴史の時間でもほとんど触れなかったのではないかと思う。ものの本によれば思想家、農政家として農村の振興政策や藩財政の建て直しに尽力をしたが、日本の経済史に大きな業績を残した・・・とまでは言えないほどの活躍(別に、成人した二宮尊徳をディスっているわけではない)。その中で彼の思想として知られているのが「報徳思想」。ウィキペディアなどによれば、「経済と道徳の融和」とあり、私利私欲や自分の幸福だけを追求するのではなく、この世のすべてに感謝し、それに報いる行動をすることが、社会のためにも自分のためにもなる・・・というものである。

ではなぜ掛川の駅前に二宮金次郎の像があるのか。確か彼は小田原の出身ではなかったか。後でネットで調べたところでは、二宮金次郎の弟子に、掛川の庄屋であった岡田良一郎という人がいて、報徳思想を実践する「大日本報徳社」をこの地に設立した。そのことから、掛川に新幹線駅ができた昭和63年にこの像ができたという。ちなみに「報徳」と聞くと、高校野球や高校駅伝で有名な兵庫の報徳学園を連想するが、この学校も二宮金次郎の「報徳思想」の教育の場として設立されたものである。

・・・こんな長話をしても暑いだけで、夕方近くなって喉も潤したい。駅前は一般的なチェーン居酒屋のほかに、静岡の味を楽しませてくれそうな看板の店も並ぶ。掛川というところは観光というよりはビジネス・出張で訪れる人が多いようで、帰りの新幹線に乗る前に一杯・・・という感じである。その中で入ったのは「静岡居酒屋 光琳」というところ。県内で展開しているチェーン店のようで、さまざまな静岡グルメがいただけるというので入ってみる。

特に「掛川の郷土料理」で思いつくものはないので、ここは定番の静岡ものということで、カツオの刺身に静岡おでん、浜松餃子というところをいただく。

料理の味はまずまずというところで、それより印象に残ったのは飲み物。サッポロの静岡県限定販売の「静岡麦酒 ふじのくに限定」というもの。口当たりがなめらかで、すっきりとしている。辛口とはまた違った澄んだ飲み味である。一部の飲食店でいただける他、この先駅の売店やコンビニでも缶を見かけることになる。

そしてもう一つが焼酎の緑茶割り。通称「静岡割り(しぞーか割り)」である。お茶が名産の静岡らしい飲み物で、緑が鮮やかである。普通のペットボトルの緑茶ではここまでの色は出ず、それ用の粉末でも使っているのだろうか。こちらも名称こそ「お茶割り」だったが、駅の売店やコンビニで缶が普通に売られていた。

一通り楽しんで、宿泊先のステーションホテルに戻る。このホテルでは夕方の時間帯に「ウェルカムドリンク」として飲み物一杯のサービスがある。玄関を入ったところの小ぶりなロビーでいただくのだが、この生ビールサーバーが「静岡麦酒」だった。ワンドリンクはもちろんこちらを選択。その後は部屋でくつろぐ。まだ夕方のローカルニュースの時間帯であるが、午前中に行われていたオリンピックの男子卓球団体の決勝戦の話題一色。その理由は、決勝で敗れたものの男子卓球で初の団体銀、個人銅の水谷隼選手が静岡の磐田出身であること。おまけに、女子団体で出場の伊藤美誠選手も同じ磐田出身ということで、ニュースは卓球一色である。関西ではさほど感じられない「地元選手へのフィーバー」というのを少し感じたところである。

これにて1日目の行程は終了。外はまだまだ新幹線の通過音が響く・・・。
コメント

掛川城登城

2016年08月28日 | 旅行記D・東海北陸
豊橋からはロングシートの浜松行きに乗車する。この辺りは新快速も快速もなく、各駅停車のみが走るところである。乗ったのが前のほうだったので、前方の景色を見ながら走る。愛知県から静岡の遠江に入る。新居町~弁天島は左右に浜名湖を見るし、新幹線も真横を通過するので車窓としてはいいところである。

14時39分、浜松に到着。ホームの向かい側には14時43分発の掛川行きが停車している。案内放送で、掛川より先に向かう客は次の14時50分浜松始発の静岡行きに乗るよう流れている。私がこの先向かうのは掛川なので、43分発に乗る。短区間の運転のためか車内も空いている。

それにしても、静岡県第二の都市であり、遠江の中心である浜松だが、これまで新幹線や在来線で通過するばかりで、町を見たことがない。いやそればかりではなく、改札口を出たこともない。自分でも意外に思うが、あちこち回っている割にはそういうところが結構多い。今回の旅の目的地を静岡県にしたのも、この県がそうしたところが目についたこともある。プランニングの段階でどの街に泊まるか、時刻表をひっくり返していろいろ検討していたのだが、結局今回も浜松は「見送り」となった。浜松なら、大阪から青春18の日帰りでも来ることができるかな・・・(てなことを言っているから、いつまでも来ないのだろうが)。

その代わり、本日18日の宿泊先となったのは掛川である。山内一豊が築いた掛川城や、東海道の宿場町としての歴史があり、新幹線の駅も新たにできたが、浜松と比べれば小さな都市である。なかなか訪れることがないということと、翌日のコースを考えてここに泊まっておこうというところである。

掛川に停車。この日の宿泊は駅のすぐ南にあるステーションホテル。まだ15時すぎだが、先にチェックインとする。駅の南口は新幹線口とでも言おうか、駅舎も全面ガラス張りで、現代美術のオブジェも置かれている。西日がきつい。 コンコースには浜岡原発のPRパネルが置かれており、落語口調で安全性をPRする映像も流れている。天岡原発は隣の御前崎市にあるが、交通機関だと掛川駅が玄関口のようだ。現在浜岡原発は1、2号機が運転終了のうえ廃炉が決定、3~5号機は運転停止中、6号機の新設は事実上凍結状態という状況だが、近々高い確率で起こるとされている東海地震では最も事故起こる可能性が高いとあっては、安全性のPRといってもそう大きな声では言えないところだろう。運転を再開した→地震が発生した→やっぱり事故があった・・・では、福島よりしゃれにならない事態や危機管理ということになるわけで、そこは慎重にならざるを得ないのではないか。

さてホテルにチェックイン。小ぶりな建物で、部屋も狭い感じだが一泊には十分である。窓の正面が駅で、新幹線のホームも見える。新幹線も停車するのはこだまのみで、のぞみとひかりは通過する。さすがは本数の多い区間で、数分おきに新幹線の通過する音が聞こえてくる。音に気づいて窓の外を見るともう行ってしまっている。逆に、停車する時はかなり減速して入線するために音に気づかない。この日の夜は、新幹線の通過音が結構なBGMとなった。

時間もまだあるので、一度部屋を出て駅の反対側、北口に出る。こちらは元々の掛川の中心部への玄関で、駅舎も木造をベースに昔の街道らしい雰囲気の建物である。この日の目的地の一つである掛川城に向かう。歩いても10分ほどのところだ。入口の手前に土産物店と並んで武具や時代劇のグッズを売る店があり、時代劇の主題歌が次々と流れている。

掛川城は元々は今川家の城で、重臣の朝比奈氏が城代を務めていたが、その後徳川氏のものとなり、家康が関東に国替えとなった後は山内一豊が入った。現在の城郭の形は一豊が築いたもので、一豊の土佐への国替え後はいくつか藩主が入れ替わった後、江戸中期からは太田氏が幕末まで治めたという。しかし安政の東海地震で城が倒壊、天守閣も大きな損害を受け、その後再建されることもなく明治維新を迎えた。今の天守閣は1994年に再建されたものだが、昭和から平成にかけて初めての木造で復元された天守閣である。現存する天守閣の中には、当時の姿を残す国宝(姫路城にいたっては世界遺産)もあれば、一方でコンクリートで再建されたものも多い。その中で木造復元の天守閣とは、当時の図面や記録にもとづき、当時の材料、工法によって忠実に建築されたものだという。いろいろな歴史考証や研究が進んだ現代だからこそできたことだろう。

中に入る。再建されて20年以上経つが、それでも新しい感じがする。階段ももちろん当時の姿そのものなので急だ。4層を上ると最上階で、掛川の市街を見渡すことができる。こうして見ると、南北を山に挟まれ、東西に伸びている町であることがよくわかる。

天守閣を見た後は、二の丸にある掛川城御殿に向かう。ここは江戸時代の建物そのままで、藩主の公邸であり、政務を行っていた場所である。ここから天守閣を仰ぎ見るというのもなかなかよいものである。広間もあれば執務室もある。天守閣にはスペースがあまりないため、掛川城関連の展示はこの御殿でも行われていた。また、天守閣や御殿はさまざまな場面でも使われているようで、掛川城御殿で結婚式を挙げたり、映画や時代劇のロケでも使われるそうである。最近では9月公開の映画「真田十勇士」のロケもあったそうで、出演の中村勘九郎さん、松坂桃李さん、大島優子さんのサインも飾られていた。どんな感じで掛川城が出てくるか、ちょっと興味が出てきた。

西日がきつい中、駅に戻る。少し早いが初日はこれで終了として、夕食を求めに・・・。
コメント

伊勢湾~渥美半島を横断する

2016年08月27日 | 旅行記D・東海北陸
伊勢湾をフェリーで横断する。9時半に鳥羽を出航した時はどんよりした雲が広がっていたが、少しずつ日が差してきた。水面がギラギラと光るのが夏を感じさせる。暑いのは暑いが、潮風に吹かれるのは気持ちいい。大阪の都市部のベタッとした蒸し暑さとは違った心地よさがある。答志島や神島といった周囲の島の案内放送が流れると、カメラを手に甲板に出る人が目立つ。

客室内に「ヒッチハイク 浜松方面」と書かれた段ボールを見つける。金剛杖2本を持った男性客のものである。ヒッチハイクか・・・今もこういう旅をしている人がいるのだなと思う。思い出すのは、以前日曜朝の関西テレビの番組でJR西日本提供の「走れガリバーくん」というのがあり、ゲストの芸能人2人が列車の中でゲームをして、勝った方は豪華な旅、負けた方は所持金ゼロでヒッチハイクや民泊をしながら目的地を目指すというもの。もし私がクルマ利用なら、乗せる乗せないは別にして、何を思って旅をしているのか話しかけてもいいかなと思う。

10時半、伊良湖岬に到着。下船口で鉄の扉が開くのを待つのも日常ではなかなかないことである。三河に来たな・・・と実感するが、豊橋行きのバスは11時33分発ということで、1時間待ちとなる。次のフェリーで来てもこのバスには間に合わず、この辺りはもう少し何とかならないのかなと思う。まあ、それでも伊良湖岬に滞在する時間ができると思えば悪くない。

ならば灯台や恋路ヶ浜など散策すればいいのだろうが、陸地に降り立てば猛暑である。この中をキャリーバッグを引いて歩くのもできない。ここは昼食と休憩ということで、フェリーターミナルと同じ道の駅で過ごす。昼食として、あさり煮としらすが乗った丼ときしめんのセットをいただく。

食後は、階下にあるやしの実博物館に向かう。伊良湖岬自体にやしは自生しないが、島崎藤村の「やしの実」の詩があまりにも名高い。実際に沖縄からやしの実を流して、伊良湖岬に流れ着くかというイベントも行われている。この詩は島崎藤村のものとして、その「元ネタ」は柳田國男(やなぎだ、ではなく、やなぎた「ギータ」)である。柳田が民俗学的な面白さで語った「やしの実」のエピソードを、藤村が見事なまでに詩の世界に広げた。博物館の解説では、海のない信州で生まれ育った藤村の海への憧れがあったのではないかとしている。博物館は植物としての椰子の紹介のほか、渥美半島の歴史についても触れている。ただ設備が壊れていたり、説明文も古い感じで、メンテナンスがあまり行われていない印象だった。

名鉄の高速船も発着する。実はフェリーの中で、伊良湖岬に着いたら対岸の知多半島を経由してもいいかなと思っていた。伊良湖岬から篠島、日間賀島を経て河和に行く高速船があり、河和から名鉄を乗り継いで豊橋に行くのも一つかなと。まあ、これは今回のような静岡行きのついでではなく、日帰りでも知多半島メインで行けばいいかなと・・・。

バスの時間となる。フェリーで徒歩客はそれなりにいたが、バスに乗ったのは私を含めて3人だけ。他の客はどこに行ったのだろうか。近くのリゾートホテルの送迎車も発着していたからそれに乗ったのかもしれないし、あるいは上に書いた知多半島方面の高速船に乗り継いだか。ヒッチハイクの男性の姿も見なかったので、誰か善意の人のクルマに乗り込むことができたのだろう。

渥美半島は広くて平坦である。土の質の関係か、水田はほとんど見られないが砂地にビニルハウスが広がり、その中を一直線に道が伸びる。畑が終わると今度は三河湾が車窓に広がる。

田原市街に入ると、「サーフィン競技会場を田原市へ!」という看板を見る。次の東京五輪の追加種目の一つにサーフィンが加わることになったが、その開催地として名乗りを挙げているそうである。ただ、なぜ田原市なのだろうか。田原市のホームページを見ても、ここを競技会場とするだけの強い根拠がわからない。そもそも「東京」じゃないし。東京五輪を招致した際のアピールの一つが、コンパクト五輪というものではなかったかと思う。東京ではないにしても、これが湘南や房総なら、まだ「広い意味での東京圏」ということでわからないでもない。それがなぜまた愛知県になるのか。どこかだんだんユルくなっているように思う。リオでのメダル、メダルの騒ぎで忘れられているが、東京五輪は競技場問題、エンブレム問題などさまざまな問題をはらんでいて、一時は「開催地を返上せよ」という声もあったことである。日本全体で開催するということもわからないでもないのだが、あくまで「東京」五輪であることは一貫してほしいものである。

その田原市にある豊橋鉄道の三河田原駅がリニューアルされていて、ここから電車に乗り継ぐこともできるのだが、今回はそのままバスに乗る。ただこれが甘かった。今日は平日、道は普通に渋滞している。田原市から豊橋市に向かう道路はトロトロと走る感じで、結局定時から20分の遅れということになった。

ここからこの旅初めてのJR利用で東に向かう。青春18きっぷは封印して、窓口で購入したのは「豊橋~静岡」の普通乗車券。この区間だけでも途中下車できるし、2日間有効である。この「2日間有効」というのが、この旅で結構効果的である。

14時05分発の浜松行きに乗る。この先、JR東海の在来線はロングシートが続くことに・・・・。
コメント

鳥羽港へ

2016年08月26日 | 旅行記D・東海北陸
今年の夏休みの旅。初日である17日は、これまで長々と書いてきた第2回の四国八十八所めぐりで、3つの札所を回った。そして夕方のバスで大阪に戻り、翌18日はまた朝から旅立つという慌ただしいものであった。前日、徳島からの帰りの高速バスを1時間半早い便に直前で変更したのだが、それも少しでも睡眠時間を取ろうというもの。

夏の旅の行き先は、最初は北海道新幹線だの東北震災復興だの、関東へのバファローズ遠征観戦など出ていたのだが、結局決めたのは「静岡県」である。新幹線などで通ることはよくあっても、なかなか「この県をメインに」というのはなかった。そう決めてプランニングして宿泊地もいろいろな候補が出てきたが、そこに四国八十八所めぐりも入って来たので、結果2泊3日でのお出かけとなった。それでも出かけられること自体うれしいことである。静岡といえば西から遠江、駿河、伊豆と3つの国に分かれるよな・・・というのが今回のキーワードということで。

初日となる18日、JRではなく近鉄で出発する。それも向かうのは鳥羽である。鳥羽から伊良湖岬への伊勢湾フェリーに乗り、渥美半島を豊橋まで進み、そこで東海道線に乗るというルートである。青春18きっぷを持っているのだが、初日は封印する。この伊勢湾ルートというのも何回か通っているが、時間はかかるが変化に富んでいて「旅に出ている」という感じがするところである。

元々は近鉄の難波まで一度出て、6時05分発の特急に乗るつもりで特急券を買っていたのだが、前日が四国八十八所の日帰り巡礼である。少しでも余裕を持ちたいなと、特急には難波からではなく大和八木から乗ることにする。自宅のある藤井寺からだと、橿原神宮前回りでも30分遅く出発しても間に合う。いずれにしても結果は同じなのだし、自分一人のことなのでどちらから乗ろうが構わないことなのだが、朝の30分を気にするというのは弱気なのかなと思う。

藤井寺~古市~橿原神宮前と乗り継ぎ、大和八木から賢島行きの特急に乗り込む。目指すのはビスタカーの2階席である。近鉄特急といえばさまざまな種類の車両があり、観光面では賢島行きの「しまかぜ」があり、この9月には南大阪・吉野線に「青の交響曲」もデビューする。後日の話だが試乗会のニュースをテレビで見たが、同線らしからぬ落ち着いた雰囲気で、これは人気を集めるのではないかと思う。近鉄特急が独自路線で個性派車両を出しているが、そのいずれもローカル線の安っぽい観光車両の代名詞とも言える、いわゆる「水○岡デザイン」を採用していないのが好感度が高い。ここは日本一の民鉄のプライドなのかと思う。

・・・ビスタカーも、当時としては画期的な2階建て車両で、それが今でも活躍しているのが根強さを感じる。朝の大和~伊賀と山々を抜け、伊勢路に入る。伊勢市、宇治山田で伊勢参拝の客を降ろし、8時すぎに鳥羽に到着。お盆の時季なら多客期ダイヤでフェリーも増便されているが、18日は通常ダイヤである。次の出航は9時30分。早く着きすぎたのは承知で、それまでフェリー乗り場でゆっくりすればいいかなというくらいの気持ちだった。

フェリー乗り場までは1キロほどあるので、キャリーバッグを引きながらだが海沿いに歩くことにする。海沿いではあるが空気がムワッとしており、朝から蒸し暑い。まず鳥羽駅前から海べりに出る。

すると、沖合に大型客船が停泊しているのが見える。鳥羽にいつもいる感じではない。他の観光客もカメラを向けたり、あるいは大型客船をバックに写真を撮っている。飛鳥とかの大型クルーズ船なのだろうか。

鳥羽港に到着。クルマ、徒歩客を含めてそれほど多くの客がいるわけでなく、余裕で乗船できる。鳥羽から伊良湖岬までの徒歩客の運賃は1500円だが、これに豊橋駅までの路線バス運賃とがセットになって2080円というセット券がある。通しで800円ほど割安というもの。

出航まで時間があるので待合室で待機。ちょうどリオ五輪中で、待合室のテレビでは卓球の男子団体の決勝戦、日本対中国戦が流れていた。日本はエース水谷選手が登場し、これまで国際試合で勝ったことがなかった中国の選手に逆転勝ちで1ゲームを取った。この記事を書いている26日はもう五輪も終わった後だが、旅に出ていた時、あるいはその前後というのは日本国中が五輪、五輪、メダルで沸いていたのを思い出す。

時間となり乗船。1時間ほどの乗船なら甲板で過ごすところだが、暑さもあり冷房の効いた屋内に行くことも考えて、荷物は客室内の座席に置く。別に荷物で席を取っていても苦情が来ないくらいの乗船率である。

出航すると、進行左手に先ほどの大型客船の姿が大きく見える。日本を代表するクルーズ船の「飛鳥Ⅱ」である。フェリーに向かって手を振るクルーズ船の客も小さいながら見ることができる。後で調べたところでは、ちょうどこの時横浜からのクルーズの最中で、8月15日に横浜を出航、16日は大阪に行き、17日は再び紀伊半島を一周して熊野灘の大花火大会を船から見物。そして今日18日は鳥羽港に来て夜まで停泊し、19日に横浜に戻るというプランである。最も安い船室でも23万円ほどするそうだから、豪華客船の旅というのは何かと次元が違う。鳥羽沖に停泊し、市内へははしけで向かうという。

雲が出ていたり、晴れ間ものぞいたりと不安定な天気であるが、これから伊勢湾を横断して伊良湖岬に向かう・・・。
コメント

第2回四国八十八所めぐり~阿波川島駅へ

2016年08月25日 | 四国八十八ヶ所
第10番の切幡寺を終えて、この第2回の四国八十八所めぐりは終了である。ここから帰途に着くわけだが、行きのように近くに高速バスの停留所があるわけではなく、今度は長い歩きとなる。徳島バスの二条中や、市場交通の市場の停留所がそれぞれどのようなものか気になるが、今回はあえて7キロ離れた徳島線の阿波川島駅まで歩くことにする。その理由は「吉野川にかかる橋を自分の足で渡ってみる」ためで、切幡寺からの歩きで見られる「潜水橋」というのがある。四国八十八所めぐりらしい風景としてよく紹介されている。今日はまだ体が持ちそうなので目指してみる。

今度は下り坂で門前町を歩き、吉野川を目指す。途中の邸宅の前には巡礼姿のマネキンとベンチがあり、休憩もできる。ここで西洋風のマネキンというのがシュールだ。

さて、この日の朝から何度となく目にして、この辺りの遍路のスポンサーかと言いたくなるくらい看板が出ている「八幡」はもうすぐ。14時を回り、昼食としては遅くなるがうどんをいただこうか。ここは旅館も経営しているが、その横には新たにビジネスホテルが建設中である。

ただ、広い駐車場にはクルマの姿がほとんどない。平日ということもあるのかなと入口まで行くと・・・何と「本日終了」の文字。え!?

「本日終了」はどう理解すればいいのか。ランチタイムが限られていて、もう終わったのか。定休日なら本日定休だろうが、全部この看板で統一しているのか。ものの本やネットでは特に昼間閉めるとはなく、定休日もない。ひょっとしたら、盆の時期の振替休みとか。よくわからない。

はっきりしているのは、この時点で昼食抜きが確定したこと。非常用のゼリーと自販機の麦茶で補給するが、阿波川島駅まではもう1時間かかる。近くに食事ができる店はない。これなら、先ほど入りにくい雰囲気だった法輪寺の門前の茶店に無理にでも入っておけばよかった。

他に、駐車場の片隅に腰を下ろしている人、そして少し歩くと、法輪寺でも見かけた外国人の歩きの夫婦連れが道端に腰かけているに出会う。ひょっとしたら同じように「八幡」で空振りしたクチかな。あれだけあちこちにデカデカと看板を出していてこのザマかとぼやくが、仕方ない。巡礼では腹を立ててはいけない。

気を取り直して歩く。ここから八幡の集落で、小さな食料品店もあるが、もういいかと何も買わずにそのまま歩を進める。自転車に乗った子どもが私の姿を見て「こんにちは!」と声をかける。私も負けずに「こんにちは!」と返す。2~3人いた。笈摺は脱いでいるが、金剛杖を持っているので巡礼と認識したか。

ここで改めて気づいたのが、朝に土成のバス停を降りてからここまで「地元の歩行者」を見ていない。田園風景は広がるが家屋もそれなりにあり、そこまで過疎というわけではない。また切幡寺からこちらは昔ながらの町の景色である。それでも歩行者がいない。昼間暑いから外に出ない、年寄りだから外に出ない、外に出るなら全てクルマ・・・。まあ、時間帯にもよるのだろうが、クルマはいくらでも行き交うが、家の庭先で家事や作業をしているのを除けば、人が行き交うというのがない。歩いてみて初めて感じたことである。他の歩き巡礼・遍路の皆さんはどう感じておられるだろうか。

吉野川の土手が見えてきた。いよいよこれを渡る。前方に伸びているのは潜水橋。よく「沈下橋」と呼ばれるそうだが、沈下橋は四万十川のもので、吉野川は潜水橋である。水量が増えた時にゴミをせき止める役目もあるが、そのまま水をかぶって流されても、修復や再建が容易という利点がある。それが吉野川にかかっているが、幅は3メートルほどのもの。クルマの離合はできず(所々に待避スペースはある)、歩行者も縁まで寄ってやり過ごさねばならない。そんなところだがクルマはバンバンやってくる。中でも軽トラが多い。

そのわけは、潜水橋を渡った先の中洲。善入寺島という。広さは日本一で、東西6キロ、南北1.2キロ、甲子園球場121個分の面積を持つ。「島」の字が当てられるのもうなずける。最大で3000人ほどがこの「島」に住んでいたという。ただ、吉野川の増水のために冠水することも多く、安全のために住民たちを立ち退かせることにした。それでも生活保障のために耕作地としての使用は認めた。

川の中洲で農業なんて・・・と思うが、広大な農地が広がり、さまざまな作物がある。畑だけでなく水田もある。行き交う軽トラは、ここで作業する人たちのものだった。なかなか面白い景色であるが、これが都市だと例えば大阪の中之島などが該当するのかなと。

この区間は長く感じた。一面田畑ということで日差しを避けるところもない。何とか、中洲の南側の潜水橋にたどり着く。こちらのほうが長く、川面にも近い。そこを渡りきり、土手の階段を上がってドカッと腰を下ろす。「八幡」から初めての休憩である。ここから、潜水橋を渡るクルマの動きがよく見える。橋の幅が狭い中、それぞれたもとで譲り合っているのが慣れた感じに見える。

ここまで来ると駅は近い。途中、川島城の天守閣を横に見て、駅前通りに入る。ようやくゴールが近い。その駅前通りで、ようやく初めての「歩行者」に遭遇する。

この阿波川島の駅前の民家に、「住民には布教からの自由 平穏な生活を営む権利がある」などと書かれた看板が目につく。一瞬、「遍路お断り」の町なのかと思って身構える。

この「布教」として住民を悩ませているとされているのは、あの「幸福の科学」。駅前に教会があるが、帰宅して調べたところでは、ここ阿波川島は大川隆法氏の出身地であり、その意味では教団にとっては聖地のような扱いなのだとか。私が来た時は幸福の科学の関係者らしい姿もなかったが、それなりに地元とのトラブルもあるのだろうか。弘法大師VS大川隆法というのも何だか見てみたいような。

列車は15時41分発の徳島行きである。待つほどもなくやって来た一両の列車に乗ると、外は急に雲が広がり、雨が降ってきた。もう少し遅ければ雨に遭っていたかもしれず、やれやれだ。次からは、徳島線沿線の札所を回ることになる。四国八十八所も、10ヶ所を終えて次のステージに向かう心持ちである。

徳島に到着。本日の行程も終わり、後はJRバスで難波に戻る。本来なら打ち上げの一杯・・・というところだが、あまりにも空腹。また、汗でベタついた体が、今度は列車のエアコンで余計に冷える感じである。下手すると風邪を引いてしまう。食事もそうだが風呂にも入りたい。

徳島駅前のホテルサンルートには「びざんの湯」という大浴場がある。四国巡礼のブログ記事で、ここが日帰り入浴(720円)をやっていて、このブログの方も高速バスに乗る前に一浴するのだとか。フロントで訊ねると直接11階に行くように案内される。入浴券の券売機がある。まだ16時半すぎということで他の宿泊客の姿もなく、浴槽を独り占めだ。フェンス越しに徳島の町並みや眉山の頂上を見る。身体も温まり、実にさっぱりした。これからもここは使いたい。

で、食事だがもうガッツリした居酒屋料理は入らない。ならばシンプルにと、王将にて餃子。ようやく落ち着いた。

結局帰りは最終バスを繰り上げて18時15分発に乗る。ちょうど帰宅時間帯と重なり、徳島市街が結構混んでいた。でもシートに座っていれば大阪に戻れる。

次は第11番を目指すのだが、その名も「藤井寺」。大阪の藤井寺市民としては、「徳島に藤井寺」というのがすごく気になる存在である。さらにその次は「遍路ころがし」と呼ばれる難所として知られる第12番の焼山寺。ここからが本格的なルートとなるが、さてどのように行くか・・・・。
コメント

第2回四国八十八所めぐり~第10番「切幡寺」

2016年08月23日 | 四国八十八ヶ所
第9番の法輪寺から3.8キロで切幡寺(きりはたじ)に向かう。先ほどまでと比べて歩く距離も長くなる。第1番の霊山寺から吉野川の北側をほぼ西にルートを取ってきたが、10番で折り返し、今度は吉野川の南になる。また、切幡寺から北に山越えすると香川県になるが、88番の大窪寺で結願した後、このルートで切幡寺に戻り、後は巻き戻しのように第1番に戻って「四国一周」とする考え方もある。

法輪寺からは田園と住宅の入り交じる景色で、比較的新しい家も並ぶ。曲がるところも多く、都度標識を確認する。スマホのアプリ「お遍路ーる」にはグーグルマップがついていて、歩く際には時折確認している。

切幡寺までの途中の目印に、小豆洗大師というのがある(芋洗坂係長ではない)。弘法大師が法輪寺を建立した後で切幡寺に向かう途中、この地で一夜を明かすことになった。寒いので小豆の粥を作ろうとしたが水がない。そこで楠の木の下を杖で突いたところ清水が涌き出たという伝説がある。

この小豆洗大師だが、危うく見過ごすところだった。道を挟んだ向かいに新しい感じの寺があり、駐車場に大きな座像があった。阿弥陀如来かな・・?と見るうちに、ふと反対を見ると小豆洗大師のお堂があったわけだ。この辺りは八十八所以外の寺院や、道端の祠もいろいろある。

またしてもうどんの「八幡」の看板を見たところで、休憩所の貼り紙を見る。いろんな方の巡礼記でも出てくるところだ。私も最初から当てにしていたわけでもないが、実際に目の前にすると「ありがたいな」と思う。家の方は奥にでもいるのだろうが、自ら姿を見せずとも心配りを道端に並べておくのが、粋だと思う。魔法瓶の麦茶をいただき、手を合わせて先に進む。

秋月城跡というのに出る。元々は室町幕府の管領を務めた細川氏の拠点だったが、やがて秋月氏の支配となり、最後は長宗我部元親との戦いで焼かれた。

ここから切幡寺まではもう少し。途中、マムシ注意の看板がある旧道を通り、切幡寺の門前町に着く。切幡寺の石柱もあり、ここから見れば寺はすぐそこかと思う。

・・・ただ、ここからが長い。急な細い坂道の両側に旅館や仏具店が並ぶ。それを抜けるとペンキ塗りで「ここから15分」とある。あらあら。それで上るとようやく山門に出る。ここまで普通の道だったのが、手のひらを返すようなお出迎えである。

そして、切幡寺名物の333段の石段。横にはクルマも通れる坂道もあるが、ここは石段を選択する。坂道や階段・・・これまで西国三十三所や新西国でどれだけ悩まされたか。確かに西国や新西国には、いわゆる「遍路ころがし」の長い登山道はない。ただ、札所個々で石段や坂道の厳しさはある。切幡寺の石段に苦しめられたという記事を見るが、和泉の施福寺や近江八幡の長命寺、安土の観音正寺の長い石段に比べれば・・・それでもしんどいのはしんどい。

そしてやって来た本堂。クルマならこのすぐ下まで来ることができるようだが、それでも急勾配。いずれにしても大変である。

ここでお勤め。8番、9番でも見かけた歩きの人もやってくる。この人は歩きでも札所ごとにお勤めはしないようで、手だけ合わせて次に向かうようだ。ここでも、後から来て先に寺を後にしていた。

大師堂の奥に、切幡寺の由来ともなった「はたきり観音」がある。右手にハサミ、左手に布を持っている。弘法大師が修行中にほころびた僧衣を繕おうと、機織りの娘に布を所望したところ、娘は機織り中の布を惜しげもなく差し出した。これに感激した弘法大師が娘に「何か望みはないか」と訊ねると、「亡くなった父母への祈りのための観音像が刻んでほしい」という。すると大師は娘じたいを即身成仏させ、観音にした。これが切幡寺、はたきり観音の縁起とか。うーん、「観音像を刻んでほしい」というのと、「観音になる」とは、ありがたいようなありがた迷惑のような。現代の感覚なら「私・・・別にホンマに観音にしてくれって言うとらんがな」と、観音像がぼやいているかもしれない。ただ、弘法大師がいた当時は戦乱や疫病、貧困などの悲惨さは、今では
想像もつかないものだっただろう。それこそ、こんな地獄のような世に生きるくらいなら、成仏したほうがよいという思いを多くの人が持っていた時代といえる。機織りの娘が観音になるのも最上級のありがたい出来事だったとすれば、切幡寺にとってはこの上ないことである。

本堂左の階段を上がると大塔がある。徳川家康の勧めであちこちの寺社の修復や新造を行った豊臣秀頼が建てたうちの一つで、元々は大阪の住吉大社にあったのを明治時代に移築した。ちょうど高台になっていて、前面の吉野川流域の平野部と、その向こうの山々を見ることができる。「遍路ころがし」として知られる12番の焼山寺は、あの山の中である。全て歩いて・・・となると相当な労力なのだなと嫌でも感じられる。

納経所では年輩の女性が、次々に訪れる巡礼者たちの納経帳に対して黙々と筆を進める。

ここまで来て、この第2回の八十八所めぐりで回ることにしていた3つの札所は完了。前回も2日目でここまで来ることを目標としていたがリタイアしていた。ただその時に体調が万全だったとしても、果たして切幡寺まで歩いていただろうか。それこそ、「徳島バスの二条中バス停とは、どのようなところか」と途中からそちらに向かっていたかもしれない。通算3日がかりとなったが、ちょうどいい形でここまで来ることができたと思う。

さて問題はここから。当初は市場交通の市場~JR学駅までのローカルバスに乗ろうかとも思っていたが、せっかくここまで、この先のうどん屋「八幡」での昼食を楽しみに空腹を抱えながらやって来たのだからと、そのままJR徳島線の阿波川島駅に向けて歩き出す。地図によれば、「八幡」はちょうどその途中にあるようだ。その前に、ここまで羽織っていた笈摺を脱ぐ。本日の札所めぐりはこれにて終了、後は駅まで歩くだけだから、別に巡礼の格好をしなくてもというところである。今朝方下車した土成のバス停からここまで3時間半の道のりだったが、さすがに汗びっしょりである。ビニル袋に入れ、リュックの中に入れてとりあえず対処する・・・。
コメント

第2回四国八十八所めぐり~第9番「法輪寺」

2016年08月22日 | 四国八十八ヶ所
第8番の熊谷寺のお参りを終えて、山門を再びくぐって遍路道を歩く。次の法輪寺までは約2.4キロ。

ここまでは旧街道や集落に沿ったところが多く、一部大日寺に向かう途中で山道もあったが、法輪寺までは田園風景が広がる。盆を過ぎたばかりだが、稲刈りの作業に出会う。もうそんな季節かな。大阪近辺ではまだ稲穂が実る景色を見なかったから、この辺りは気候的に早いのか、あるいは早稲の品種なのか。相変わらず暑い日が続くが、長い目で見れば季節は少しずつ進んでいることである。半年後には、毎日クソ寒いなどとぼやいているはずだ。

同じような田園風景が続くが、遍路道の案内ステッカーや標識のおかげで迷うことはない。

広い道に出て、歩道が切れているので反対に渡ろうとする。前からクルマが走ってきて、私の少し前で停まる。ただ、私を先に渡らせる感じではなく、すぐにまた発車した。運転手がスマホを手にしていたから、あれは私の姿を撮っていたのかもしれない。「お遍路さん」として。

確かに笈摺を羽織り、金剛杖はついている。ただ、前にも書いたが、私のやっていることは、その筋に言わせれば単なる観光の札所めぐりでしかなく、決して「遍路」ではない。通しか区切りかは問わないにしても、遍路とは全て歩き通した人だけが名乗ることができる称号・特権であり、公共交通機関を積極的に使おうと言ったり、実際に第1回の時に札所間の移動でバスに乗ったりいう時点で、遍路を名乗る資格はないただのブタ眼鏡である。ガチの遍路や先達たちから指導教育の名目で金剛杖や錫杖でシバかれた上に、簀巻きにされて吉野川に浮かべられても文句は言えないくらいのカスでしかない。

・・・そんな感情を堪えつつ歩くと、黄金色の田園の向こうに塀に囲まれた建物が見える。あれが法輪寺である。地元では「田中の法輪さん」と親しまれているそうだ。

東に向いて建つ山門をくぐる。正面に本堂、その向かって右隣に大師堂が東向きに並ぶ。本堂と大師堂が揃って同じ方角を向いているのに出会うのは初めてである。

まずは本堂に向かう。こちらの本尊は、四国八十八所唯一の涅槃釈迦如来。釈迦入滅(亡くなる)時の姿を「涅槃に入る」というが、その時の様子を像にしたのが涅槃釈迦如来。法輪寺は元々ここから4キロ北の位置にあったが、戦国時代に長宗我部元親の手で焼き払われ、今の地に移ったのは江戸初期。その後火災もあり、現在の建物は明治時代の再建という。

本尊は5年に一度の開帳とかで、今はお供えものに松葉杖があるのが見えるくらい。他に草鞋も奉納されていたから、足のほうのご利益があるのだろう。その涅槃像、四国八十八所の霊場会や、他のサイトなどによると「頭を北にして、顔は西を向き、右肩を下にして横たわる」姿だという。これが最も安らかな体勢だとか。

うーん、以上の内容からすると、涅槃釈迦如来は参詣者に背中と尻を向けているのかなと思う。まさか本尊は参詣者に尻を向けないだろう・・・というのなら、誰がが間違っていることになる。あるいは、焼き払われた元の寺院と今の寺院では本堂の向きが違うから問題ないとか。いや待て、涅槃釈迦如来だって、どこかのタイミングで寝返り打って逆の体勢になったのかもしれない。

・・・とまあ、それはいつか正解に当たるということで、この後で隣の大師堂でもお勤めをする。そして納経所へ。最近新たに建てたのか、新しい感じだし、きれいなトイレも併設されている。「急に雨が降るかもしれないのでお気をつけて」という言葉に送られる。

時刻は12時を回ったところ。次の切幡寺までは徒歩で1時間。普通に腹は減っている。普通の感覚なら、ここで昼食である。法輪寺の門前にはうどんや饅頭を売る2軒の店がある。以前の記事で、切幡寺の後のうどん屋の看板のことを書いた。法輪寺の周囲にもこの「八幡」の看板があり、空腹だが昼食はそこまで我慢することにする。四国めぐりの記事でも多く取り上げられている店であることもそうだが、法輪寺の前の2軒が私には入る気がしなかったこともある。1軒では店のオバちゃんが常連客らしいのとおしゃべりに夢中だし(そもそも、相手の男は常連「客」なのか?)、もう1軒では店主らしい夫婦が揃って店の長椅子に横たわってお昼寝の模様。

こんな状態のところに無理に入ることもないだろう。ということで、ペットボトルのお茶だけ飲んで、昼食までの歩きとしてまずは切幡寺に向かう・・・。
コメント

西国三十三所草創1300年 月参り巡礼~第5番葛井寺

2016年08月21日 | 西国三十三所
西国、新西国、四国八十八と、いろいろな札所めぐりの記事が入り乱れていて恐縮ですが・・・。

私が札所めぐりをするようになったきっかけはJR西日本がキャンペーンを展開している西国三十三所であるが、2018年に草創1300年を迎える。これは四国八十八所よりも古い伝統のもので、四国とはまた違った歴史、発展をしてきたものである。

この1300年を記念して、2018年を中心とした前後の2年間、合計5年間をかけてさまざまな催しが行われる。詳細は札所会のこちらのサイトにあり、それぞれの札所にて期間を決めて特別拝観が行われていたり(私も第4番の施福寺を訪ねた時に特別拝観に出会った)、昔ながらの徒歩で「法灯」をリレーする企画などが行われている。

その一つに「月参り巡礼」がある。東日本大震災をはじめとした自然災害からの復興や、世の安寧を願うために各札所持ち回りで法要が実施される。そして、この月参り巡礼の開催と合わせて、その日限定の特別な朱印を押すということも行われる。この4月に第1番の青岸渡寺から始まり、以下、月1回のペースで持ち回りで行われる。

現在、2016年度分として第12番の岩間寺までの日程が発表されているが、その日程全てに出かけることはできないし、2巡目はそれこそ時季や順番にこだわらず回ろうと思っているのでそれほど「行かなくちゃ」という想いはなかった。

ただ、藤井寺に住む者としては、やはり地元の第5番・葛井寺くらいはせっかくなのでどんなものか見てみたい。それがちょうど8月21日に行われるというので、これはぜひとも行ってみる。なお朱印は「この日限定」と言われているものの、朱印そのもののデザインはサイトでも紹介されている共通のもので、寺ごとにデザインが変わるわけではない。まあ、納経帳のその寺のスペースに特別な朱印が入ること自体に意味があるわけだが、これについては一つ押してもらっておけば十分かなと思う。

21日の9時半すぎに境内に向かう。10時からの法要がどのように行われるのかわからないが、リュックには西国先達の輪袈裟と数珠、経本を入れる。納経帳は西国先達の巻物ではなく、1巡目で使った大判のものを持参する。巻物には押せるスペースがなさそうだし、大判のものに重ね印を押してもらえばいいか。

初詣や藤まつり、千日まいりの時以外はさほど混雑することのない葛井寺だが、9時半をすぎると納経所のある本堂内外陣は行列ができていた。やはり知っている人は知っているものである。おそらく第1番の青岸渡寺から続けて回っている方も多いことだろう。

その中で「法要の方は中へどうぞ」と招かれる。特別に拝観料を取ることもなく、逆にお接待ということで授与品をいただく。また経本のない人には観音経と般若心経のコピーが渡される。本尊の前を通り奥へ詰めるよう案内される。正面からは外れるがこちらのほうがエアコンもかかっているし、パイプ椅子に座れるので楽だった。中に入るくらいだから「お参り度合」としては熱心そうな方が多く、先達の輪袈裟をしている人や、中には笈摺着用の人もいる。

時間となり法要。まずは僧侶たちの声明に始まり、続いて読経である。私も周りの人と一緒に唱和する。普段の札所めぐりの時と比べると読み方はゆっくりで、本来はこのくらいがいいのかな。

一通り終わったところで、住職からの法話である。旬の話題ということでリオ五輪の話題、高齢化社会のことについて。「皆さんはどの競技が印象に残っていますか」と振った後で、住職はバドミントンの「タカマツペア」や重量挙げの三宅選手などの名前を出したが、もっとも驚いたのは新体操だったとか(「あんなんようやるわ」というのがその理由)。また高齢化社会では姥捨伝説の故事を引き合いに出し、「今の方は『年寄り』『老人』と言われると嫌な顔をするが、元々は人生の先輩に対する尊称なんです。それよりも『後期高齢者』のほうが機械的な呼び方で敬意が感じられません」として、「皆さんも周りから尊敬される『年寄り』になりましょう」と。

法要と法話が終わり外陣に出ると、先ほどより列が長くなっている。4人フル体制で対応しているが行列がなかなか前に進まない。一人で何冊も納経帳を抱えている人が多かったり、漢字とご詠歌の両方を求める人がいたり。うーん、法要に出た人は別口でやってくれればいいのになと思うが、仕方ない。

行列で並び合った人同士の会話も聞こえてくる。どのくらい回っているとか、四国にも何回行ったとか、バスツアーがどうとかいうやり取り。それはいいとして、「先達の巻もんの朱印帳あるやろ、あれいちいちクルクル巻くの面倒臭いから、私いつも折り畳んで持ってんねん」とか、「遠いところは1泊2日で行くんやけど、初日に1回押してもろて、そして次の日も行ったらこれで2回分行ったことになんねん」などと「ウラ技」らしきものを披露していたのに「えっ?」と思う。

人のことをとやかく言うべきではないし、また言うだけのキャリアがあるわけでもないのだが、こういうやり取りを見聞きする中で、「本来の主旨をわかっているのかな」と疑問符をつけたくなるところもある。ただ、こういう方に限ってこうした企画もあっさり33ヶ所コンプリートしてしまうのだから、これはこれで大したもの・・・・?

30分以上待って順番となる。私は重ね印のため墨書はなく、本尊ご宝印を重ねてもらった後で、ページの余白部分に特別の印をいただく。つまりはこういうこと。

外に出ると行列はさらに伸びており、参道の灯籠まで続いていた。「今から並んだら2時間くらいかかるそうや」という声も聞こえてくる。葛井寺ですら(失礼)こうなのだから、この先、興福寺や京都の清水寺などの有名札所となるとどうなるのか。特に清水寺は、あの規模の割には納経所は小さかったように思う。また、葛井寺なら藤井寺駅近くで鉄道での移動もどうとでもなるが、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺はどうなるか。あそこは船の便が限られているし、最終便に乗れないという恐れもある。まあ、最終便の時間を遅らせるわけにもいかないから、その前に問答無用で打ち切られるのだろうが。

遍路、札所めぐりとしては四国八十八所がメジャーと言われているが、やはり伝統と札所個々の歴史の重さとなると、西国三十三所のものだと思う。この先数年は1300年記念の催しが続くことになるが、こちらもまた機会があれば訪れてみたいものである・・・。
コメント

第2回四国八十八所めぐり~第8番「熊谷寺」

2016年08月21日 | 四国八十八ヶ所
18日~20日まで、旅に出ていたためブログ記事の書き込みはお休み。以前は小型のノートパソコンを持参して、ホテルの一室で続きの記事を書いたこともあったし、ホテルのレンタルパソコンを利用したこともある。今はパソコンに代わってスマホやタブレットもあるのだが、今回は部屋でのんびりということにしたのでお休み。

さて17日の四国八十八所めぐりは、第8番の熊谷寺(くまだにじ)を目指すために徳島自動車道の土成(どなり)インターのバス停に来た。ここで巡礼姿になって歩き始める。今日も暑くなりそうだが、それよりも心配なのは雨。高速で鳴門に入った時に雨粒がバスの窓を叩くのに遭い、その後も降ったり止んだりだった。下車した時は雨は止んでいたがこの先どうなるか。前回は白衣と、その下には汗を吸わせたいと長袖のシャツを着ていたのだが、これが逆に熱と汗を溜め込んでしんどくなったのかなと思い、今回は袖なしの笈摺を新たに購入している。歩き始めた感じではやはり風通しがよい。これからは両方を使い分けることにする。

土成バス停から200mほど南に行くと遍路道に出る。ステッカーの案内に従って歩き始める。この辺りは御所という集落で、鎌倉時代の承久の乱で土佐に流された土御門上皇が後に阿波のこの地に移され、最後はこの地で亡くなったという。途中に御所神社とあるのは、土御門上皇を祀っているとされている。

道沿いに古くからの家が並ぶ中、静かに歩くうちに15分ほどで色あせた看板がある。熊谷寺へはここで右折して細い道を行く。看板の上にステッカーが貼られているので気がついたところだ。徳島道の高架橋をくぐった向こうに立派な仁王門が見える。17世紀の建立で、八十八所の中でも最大級のものだという。ただ実際に来てみると「これで最大級?」と思う。西国や新西国だと、後に再建されたものも多いとはいえ、より大きな山門・仁王門はいくらもあったというのが頭にあった。

仁王門をくぐって少し歩くと道路が走っており、その向こうが境内である。こちらには石造の立派な柱が立っている。クルマで来る場合は仁王門を見ずにここから入ることになる。山を背にしてゆったりした感じがある。盆明けの平日だが巡礼姿でお参りに来ている人の姿もちらほらと見える。駐車場には演歌のような、男性の歌声がスピーカーから流れてくる。これは「熊谷寺慕情」というご当地ソング・・・というのは嘘で、熊谷寺のご詠歌である。どこの札所にもご詠歌があり、和歌の文字として目にすることはあっても、こうして節がついた音として聴くのは初めてである。そのご詠歌に送られて、多宝塔から参道を歩く。

弘法大師がこの地で修行していた時、この地に現れた熊野権現から1寸8分の観音像を授けられた。そこでここにお堂を建て、自ら彫った千手観音像の胎内にこの像を納めて本尊にしたのが熊谷寺の縁起という。熊野権現から熊谷寺と名がついたのかなと思うが、ものの本によれば、元々は熊野信仰のベースである海洋信仰があったのと、山岳修行で山々を回っていた山伏たちが修行の場として開いたのではとされている。

中門をくぐって本堂に出る。年季が入った感じだが、意外にも1971年という最近建立のものである。昭和の初めに本堂は火災で焼失し、本尊も失われたため再建された。まずはここでお勤めをした後、左手の石段を上がって大師堂に行く。

前回は「少しでも早くお勤めしなきゃ」という思いがあったのか、ウエストポーチに数珠やらローソク・線香、経本なども押し込んでいたのだが、今回それはやめて、普通にリュックの中に入れていた。ネットで見た遍路指南の中に、「リュックを一々下ろすのは面倒だし、時間短縮のためにお勤めに必要なものは全て山谷袋やウエストポーチに入れて、すぐに取り出せるように」というのがあり、前回はそれに捕われていたように思う。ただそれでもバタバタ感があった。前の時には書かなかったが、実はそのバタバタの中、お勤めの時に首から掛ける輪袈裟をどこかで無くすということもあった。今回、笈摺を購入する時に一緒に買い直した。

考えてみれば、全てを歩き通し、少しでも早く次の札所に向けて距離を稼がなければというガチの「遍路」ならこのほうが合理的なのだろう。ただ、途中路線バスを使ったり、今日みたいに途中の区間をすっ飛ばしたことで早々と「遍路」を名乗る資格を失った私は、誰かせかす人がいるわけでもなく、そこまで慌てる必要はない。リュックも下ろして、その中から一つずつ出せばよいことだし、そのくらいの時間的・精神的な余裕がないといけないなと思った。

あ、ガチの「遍路」から見れば、「公共交通機関を大いに使おう」「途中で四国アイランドリーグの観戦を必ず組み込もう」などと言っている時点で、私には最初から「遍路」の資格などないのである。私のやっているのは、どうせただの「札所めぐり」でしかない。

納経所は駐車場まで戻る形になり、ここで朱印をいただく。

この時点で11時半で、昼をどうするかである。ここまで来る道、そして納経所前のベンチにも「八幡」という看板が見える。うどんの店で、八十八所めぐりの記事の中にもよく登場する。この辺りに食事のできる店がほとんどないということもあるのかもしれないが、この日、この先で「八幡」の看板をいたるところで目にすることになる。道順で行けば第10番の切幡寺を回った後で、市場交通のバスに乗らずに阿波川島駅方面に歩いた場合にこの店に出るので、14時は回りそうだ。それまで我慢、逆に楽しみということにして、続く第9番の法輪寺に向けて歩き出す・・・。
コメント

第2回四国八十八所めぐり~第8番へのアクセスは裏をかいて・・・

2016年08月17日 | 四国八十八ヶ所
今年の夏の遠征はどこにしようかといろいろ考えていた。北海道新幹線が出来たこともあるし、久しぶりに札幌まで野球のバファローズの遠征試合を観に行くか(往復新幹線も芸がないので、帰りは日本海側をずっと回ろうかとも)、東北の震災復興の様子(以前に津波の爪痕を見た宮城北部を中心に)を伺いに行くか。果ては最近関東にも足を踏み入れていないので、こちらは所沢でのバファローズの遠征試合観戦を軸に、鎌倉、三浦半島なんてのもいいかなと・・・。

いろいろ考えたがどれも日数と費用が高くつくということもあり、結果はもう少し手前ということで落ち着いた。これはまだ旅立っていないので書きようがないので、ぼちぼち書くとして・・・。

そんな中で、タイトルにあるように第2回の四国八十八所めぐりを日帰りで決行する。この第2回というのは「2巡目」という意味ではなく、巡礼で四国に渡るのが2回目ということである。今のペースだと、全てを回るのに数十回という形になりそうだ。

前回の第1回は、1泊2日で初日の午後と2日目の午前をかけて第1番の霊山寺から第7番の十楽寺で終了。この時は打ち止めというより暑さと疲労にやられた「リタイア」という感じだった。今回は続きの第8番の熊谷寺(くまだにじ)から第9番の法輪寺、第10番の切幡寺という、阿波市にある3つが目的地である。今後の展開を見た中で、また暑い時期だが休みの1日を使って回ることにする(今後の展開とはどのようなものかは、追々書いていくこととして)。

熊谷寺への公共交通機関でのアクセスは2通りある。いずれも歩く距離は長いのだが、ローカルバスで行くとすれば、まず朝の高速バスで徳島駅に着いた後で、

①JR徳島線で鴨島駅に移動。11時46分発の徳島駅行バスで8分の二条中下車。ここから歩いて30分ほど。徳島駅行バスに乗るのなら逆の場合はどうかだが、徳島駅11時55分発まで便がなく、これに乗っても二条中12時59分着。いずれにしても、最初の札所に着くのが午後を回るということになる。何せ1日5本しかないのである。

②徳島駅10時10分発の鍛冶屋原行バスに乗る。第1回の時に下車した東原には11時15分頃に到着。前回歩いた十楽寺まで行き、熊谷寺まではここから4キロあまり。合計6キロの歩きなので、熊谷寺に着くのは12時半頃になりそうだ。

・・・と、いずれも路線バスの便がよろしくない。帰りは徳島駅19時45分発の高速バスに間に合えばいいので、納経所の閉まる17時までに3つを回れば、後はどうにかなりそうなのだが、どうも大変な一日になりそうだ。ちなみに切幡寺からは1時間ほどで二条中に出るとあるが、少し方向が西になるが30分あまり歩くと市場という集落があり、市場交通という路線バス(コミュニティ路線なのかな?)が徳島線の学駅との間にバスが出ている。タイミングが合えばこれも使えそうだ。

なるべく「歩き」のルートをつながるとか、前回のリベンジということなら②のルートを取るべきなのだろうが、こうなるくらいなら、前回多少無理してでも1つ2つ回っておいたほうがよかったかな。いずれにしてもハードな1日になりそうだ。

そんな中、何となく高速バスの検索をしていると、梅田から阿波池田に向かう阪急高速バスのところで、途中に「土成(どなり)」というバス停がある。これは徳島自動車道の土成インターチェンジなのだが、地図を見ると何と熊谷寺とは1.5キロほどの距離である。阿波池田行の始発は梅田7時40分であるが、土成には10時26分に到着する。熊谷寺には11時前に着く見込み。先ほどの徳島駅からの路線バス便と比べて大幅な早着だ。これには思わずパソコンの前でうなってしまい、そのまま高速バスのチケットを手配した。土成のバス停は十楽寺と熊谷寺の遍路道の途中に近く、前回の完全なリベンジはできないが、遍路道にすぐに合流できる。

何だか公共交通機関、現地のローカル列車・ローカルバスにも乗ろうという、巡礼に当たっての私なりの趣旨に反しているようだが、東原や二条中といったところの裏をかくようなものである。まあ、区切りの遍路・巡礼でも第8番から再開しようという人はほとんどいないだろうし、これも日帰りで荷物が少ないからできることである。泊まりがけだと、大きな荷物も一緒に移動することになり余計にしんどいことになる。

・・・いつもながら前置きが長くなったが、17日の朝7時半に阪急梅田の高速バスターミナルに着く。各方面へのバスが出ているが、お盆の帰省・行楽シーズン後ということで、思ったよりも空いた感じである。阿波池田行の案内もあったが、乗り込んだのは10人ほど。大阪や神戸の他の停留所からの乗車扱いはなく、次の停車は鳴門西である。この鳴門西は、第1番の霊山寺から1キロほどのところで、第1番への早いアクセスにも使えそうだ。

朝のことで阪神高速も多少渋滞していたが、湾岸線から京橋乗り継ぎ、明石海峡大橋を渡り淡路島に入ると順調な走りである。室津のパーキングで10分休憩が入る。同じように長距離の高速バスや、団体の乗った観光バスも申し合わせたように停車する。ふと、観光バスから降りてきた人の背中に「南無大師遍照金剛」と書かれた笈摺を見る。後でバスの窓に表示されたツアー名を見ると、閏年の逆打ちで40番~37番とある。足摺岬も含めた高知県の南西部、大阪からもっとも遠いエリアと言えるだろう。うーん、まだ徳島県も終わっていないので高知県をどう回るか全然考えていないのだが、公共交通では相当苦労しそうだから、こうしたツアーの利用というのも選択肢に入れざるを得ないのかなとも思う。

鳴門海峡を渡り四国上陸。そのまま高松自動車道に入り、鳴門西は下車客がいないため通過。板野インターで高松道から出て、しばらく一般道を走り藍住から徳島道に乗る。

土成のバス停はインターを出たところにあり、下車客がある時のみ一旦出るようだ。ここで下車したのは私と、地元の人とおぼしき一人だけ。その人もバス停まで迎えのクルマが来ており、すぐに立ち去る。バス停も時刻表と屋根つきベンチがあるだけで、周りは人家はあるが商店らしきものは何もない。コンビニはおろか、トイレができるようなところはない。

第2回はこうしたバス停から始めることになった。早速巡礼の身支度をして出発・・・・。
コメント

第24番「中山寺」~西国三十三ヶ所2巡目・6(五重塔再建中)

2016年08月15日 | 西国三十三所
雲雀丘花屋敷駅から宝塚行きに乗る。やって来た列車にはマルーン一色の阪急電車には珍しいラッピングが施されている。手塚治虫のキャラクターが並ぶ。「宝夢 YUME」というもので、豊中出身の手塚治虫にちなんだものである。ラッピング車両といえば、神戸線にはわたせせいぞう氏のポップなイラストが入った「爽風 KAZE」がある。

中山観音に到着。ここから門前の土産物店や飲食店街をはさんで仁王門までは100mない。飲食店ではアイスクリームやかき氷を求める人が多い。

仁王門をくぐり、七福神やさまざまな仏のおわす塔頭寺院を参道の両側に見る。中山寺も阪急の西国七福神のうち寿老人を祀るということで、先にも書いた大和人さんとの七福神めぐりで訪れている。その次が昨年の西国めぐり、そして今回が西国2巡目である。

寿老人もそうだが、中山寺といえばやはり安産祈願である。この日も暑い中であるが妊娠中の方、そしてお礼参りの赤ちゃんを連れた家族連れが目立つ。別に独身のおっさんが来てはいけないということではないのだが、やはりちょっと気が引ける思いがする。ともかく、今度は西国の勤行次第に従ってのお勤めである。

中山寺のシンボルといえば多宝塔にあたる大願塔であるが、今回訪ねてみると参道を入った時から「おや?」という感じがあった。本堂の後ろに、何やら巨大な骨組みがあり、高くそびえている。本堂の後ろにある大師堂に上がってみた表示は、「五重塔再建中」というもの。昔の境内絵図にも五重塔が描かれているのだが、400年あまり前に焼失したという。これの再建工事が進んでおり、今年の末には完成予定だそうだ。来年の初詣は、新たな五重塔を仰ぐ形になるのかな。

当初は、中山観音駅から送迎もある宝乃湯にでも行こうかと思ったが、思ったよりも早く予定が進む中、昼食もまだである。結局は再び電車で梅田に戻った。

西国については2巡目ということもあるし、特に順番や時期を決めることはせずに回っている。その中で今年の春からは「西国開創1300年」の記念行事が行われている。月ごとの特別朱印や、昔ながらの徒歩巡礼による法灯リレーなどもある。そういうのも少しは覗いてみようかなとも思う・・・・。
コメント

第13番「満願寺」~新西国三十三所めぐり・17(高級住宅地と川西市の飛び地)

2016年08月14日 | 新西国三十三所
阪急宝塚線で曽根から雲雀丘花屋敷に移動する。駅の南に車庫があることもあり、宝塚線の各駅停車はこの駅で折り返し、その先へは急行で・・・という運行形態である。これから目指す満願寺は川西市だが、駅があるのは宝塚市である。

この駅で下車するのは初めて。そりゃそうだろう。駅の北側には関西でも有数の高級住宅地が広がり、とても私とはご縁のない世界で・・・。

満願寺へは駅の東口からバスに乗るのが普通の行き方だが、ここはあえて歩いてみることにする。距離にすれば2キロほどあるだろうか。先ほどの萩の寺、そしてこの後で行く中山寺はいずれも「駅近物件」ということもあり、少しは歩きの要素も入れていいかなと。また、せっかくなので高級住宅地も見てみようと。

駅前は狭い道であるが、軒下にタクシー乗り場が確保されている。その前にエリアの案内図があり、ところどころに歴史的建造物のマークがある。これを目印として回ってみよう。

歩いて2分のところにあるのが旧安田邸。大正10年の建造で、丸紅のニューヨーク支店長だった安田辰治郎という人が、駐在中に興味を持った北米の住宅をモデルとして建てたものという。木々に覆われていて建物の一部しか見えないが、いかにも洋館のお屋敷である。現在は宝塚市に寄贈されて、講座やイベントなど不定期に公開されているそうだ。

続いては高碕記念館。こちらは大正12年にヴォーリズの設計で建てられたものである。ヴォーリズ建築は滋賀県に多いイメージだが、東洋食品研究所を設立した高碕達之助の邸宅である。旧安田邸と合わせて、この一帯が大正時代に開発されたことがうかがえる。

歴史的建造物以外にも、さまざまな邸宅が並ぶ。それにしても急な坂だが、角を曲がりながら、少しでも勾配を緩和させる感じで上る。振り返ると市街地、大阪方面の景色が広がり、良い眺めである。ただこういうところなので自転車で行き交う人の姿は見えず、かと言って歩行者も見ない。行き交うのはクルマばかり。高級住宅地らしい高級車がある一方で、なぜか軽自動車も停まっている。軽自動車はさしずめ「ちょっと買い物に行く」程度のセカンドカーなのかな。また、お年寄りなどクルマの運転が難しい人は、タクシーを利用するのだろう。

坂道を上りきるとバス道路に出る。宝塚大学の前を通ると「川西市」の表示が出る。この辺りはごく普通の住宅地の景色である。満願寺の看板が見えて到着。仁王門は一般的なあの形ではなく、ちょっと中国風が入っている印象である。

緑が茂る参道を進み、突き当りが本堂に当たる金堂である。ここでお勤めである。

満願寺という名前の寺はあちこちにあるそうである。奈良時代、聖武天皇の命で勝道上人という人が諸国に満願寺を建立し、摂津の国ではこの地に千手観音を祀って開創したという。聖武天皇の命として国分寺が諸国に建立されたというのは歴史の時間でも習うことだが、満願寺というのがあったのは初めて知った。

金堂向かいの納経所に向かう。丁寧に筆を入れていただき、「これは千手大悲閣と書かせてもろてます」と「解読」していただく。この千手観音だが、先ほど手を合わせた金堂ではなく、一段下がった観音堂におわすとのこと。先ほど金堂でお勤めした後、扉の隙間から中を覗いていたのを見ていたのかな。もっとも、千手観音は春の彼岸の1週間のみの開帳ということで、写真パネルを出して「こんな感じですんで、また春の時にお参りください」と言われる。

境内の奥は自然保護林になっており、その入り口が四国八十八所のお砂踏みの入り口ともなっている。また、坂田金時の墓というのがある。あの金太郎さんである。源頼光の家来として「頼光四天王」の一人として、大江山の酒呑童子の退治などの活躍で知られている。何でまたこんなところに墓があるのだろうか。

この一帯は、源満仲を中心とする多田源氏の根拠地。この向こうに川西市の多田というところがあり、多田神社はよく知られているところだ。そしてこの満願寺も多田源氏の深い帰依を受けて・・・という以上に、元々は多田神社と満願寺というのは神仏習合で一体の関係であった。先ほど仁王門に安置されていた仁王像も、元々は多田神社の山門にあったものだという。それが明治の神仏分離によってこちらに移されたものだとか。

これは後で知ったことだが、満願寺の一帯というのは川西市の飛び地で、周りは全て宝塚市である。近代の行政区画割の時、満願寺は多田神社との関係もあって川西市に編入されたのだが、周囲の山々は今のような住宅地や学校もなく、山の持ち主が入り組んでいて一山いくらの地域だった。その元締めの地主の土地が宝塚市の所属になったことから、満願寺以外の山々が宝塚市に組み入れられた。そして、ここだけが飛び地になったという。飛び地というと不便な、隔離されたイメージがあるのだが、見方を変えれば満願寺の歴史の深さというものの現れだし、広域的には川西市と宝塚市で連携しているところもあるのだろうから、住む分にはさほど影響がないのかもしれない(これは個人的なイメージだが、「兵庫のどこに住んでるの?」と訊かれて、「宝塚」と答えるのと「川西」と答えるのでは・・・と思う方もいるのでは)。

ここまで書くと、満願寺からハイキングコースを伝って多田神社に下りるのが筋、一つのテーマという気がするのだが、今回はこのまま引き返すとする。多田神社については、能勢電鉄の乗り鉄も兼ねてまたの機会に訪れることにする。

ちょうどバスの時間が近いということで、門前のバス停に向かう。ここで、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロをしていなかったのに気づくが、まあいいか、駅に戻ってからとしてそのまま乗車する。バス通りは住宅地の外側を走るが、勾配が急である。それこそ45度あるかもしれない。

駅に戻り、次の列車を待つ間に次回の行き先決定である。

1.高槻(神峯山寺、安岡寺)

2.高野山(宝亀院)

3.大津(立木山寺)

4.滝野(光明寺)

5.貝塚(水間寺)

6.赤穂(花岳寺)

大津、滝野、赤穂はくじ引きでよく出てくるイメージである。スマホのアプリでランダムのはずだが、ある程度パターンというのがあるのだろうか。

そして出たのが・・・・「2」。高野山である。あらら。四国八十八所では高野山といえば奥の院へのお礼参りで訪れるところだが、新西国ではその支院の一つが札所。ただ、高野山に行って宝亀院だけけ参詣して次のサイコロ・・・とは行かないだろう。やはり金剛峯寺、そして奥の院にも行かなければと思う。まあ、「最近四国も始めましたんで、まあ今後もよろしゅう頼んますわ」という挨拶に行く感じだろうか・・・。
コメント

第12番「萩の寺」~新西国三十三所めぐり・16(西国七福神めぐりを懐かしむ)

2016年08月12日 | 新西国三十三所
新西国三十三所めぐりの今回は、豊中にある東光院萩の寺、そして川西の満願寺の2ヶ所を回る。それぞれ、曽根と雲雀丘花屋敷が最寄り駅ということで、言うなれば阪急宝塚線シリーズである。いずれも駅からのアクセスも近い。となれば、雲雀丘花屋敷からもう少し足を延ばして、こちらは西国2巡目として中山観音駅前の中山寺にも訪れることにする。

まずは阪急梅田から、宝塚線の雲雀丘花屋敷行きに乗る。行き先表示の「雲」と「花」の文字が大きいのが特徴である(余談だが、今回カメラをいわゆるコンデジの、それも小型のものに替えている。ブログでの写り具合はどうだろうか)。

高架駅の曽根に到着。目指す萩の寺は歩いて5分くらいのところで、最寄り駅の距離でいえば新西国の中で断然近いところにある。前回の福崎の金剛城寺が駅から4キロの歩きで、しかも寺の人が不在で朱印をいただけなかったことを思うと、今回は楽勝に感じる。たまにはこういう回があってもよい。

萩の寺を訪れるのは初めてではなく、2回目。1回目は2009年の正月である。この時のことをブログの記事で書いているのだが、今は亡き大和人さんとの「西国七福神めぐり」である。この西国七福神は、阪急宝塚線の開通にともない、沿線への参詣者、観光客誘致のために結成されたもので、元々中津にあった萩の寺も招聘の形で移転した。ちょうど毘沙門天も祀っていたということもあるのだろう。梅田から乗ると最初に曽根に来るため、七福神めぐりの第1番札所のような役割もある。

大和人さんと回った時は、私は本当にスタンプラリー感覚で七福神の「大福帳」にスタンプを押してもらって喜んでいたのだが、彼はきちんと朱印帳を持参して大事そうにいただいていたのを覚えている。あれから何年も経っているし、大和人さんが急逝したのも4年前の夏のことだが、今度は私が西国先達、それに新西国めぐり(おまけに四国めぐり)で訪ねることになるとは。この後訪ねる中山寺も西国七福神の一つで、今日は7つ全ては回らないとしても、彼の追悼も兼ねることにする。

萩の寺の門をくぐる。拝観料は入口の筒に入れる方式。新西国三十三所めぐりの作法を書いたしおりがあるのでいただく。般若心経の全文も入っている。

萩をはじめとした緑に囲まれた参道を歩く。門を入った時から癒し系の音楽が流れていて、西国七福神の唄だという。楽譜がお堂の壁に貼られている。宝塚歌劇と同じく、西国七福神発足の時に作られたのかな。歌詞も七番まである。

奥の本堂に行く。西国七福神の毘沙門天がメジャーだが、新西国の観音霊場としては、「こより十一面観音」が本尊である。こよりとは、あの紙のこより。南北朝時代、後醍醐天皇が亡くなった時に南朝の女官たちが天皇の菩提を弔うために法華経を書いた紙をこよりにして衣を作り、観音像に着せたとされている。その後、その観音像の行方もわからなかったそうだが、1984年に萩の寺で眠っていた観音像を修復に出したところ、こよりが出てきた。調べてみるとその時の像がこれだということで、新たにこよりの衣を作ってお祀りしたという。まあ、新西国は昭和のはじめに発足したが、その時はただの観音さんで、「こより」がついたのは30年ほど前のこと。

さて納経所はどこだったかと戻ると、本堂の途中から奥に分かれたところにあった。不動明王らしき石像があるが、これは不動明王ではなく、道了大権現という。室町時代の妙覚という禅僧が小田原の大雄山で修行して、天狗に化身したのだとか。豊臣秀吉の小田原攻めで吉祥を得たことから大坂に勧請され、道了信仰というのがあったそうだ。これも、萩の寺の豊中移転にともない一緒に来た。

・・・それにしても、中津から豊中に移転て・・・前に来た時は全然知らなかったが、沿線開発、沿線振興のためとして、まるまる移転してしまう寺というのもなかなかないだろう。その上で、境内に墓地を確保して、ちょうどお盆の墓参りや供養に来た人たちの対応もしている。

で、ここでは朱印も無事いただいたが、書かれている文字は「薬師如来」。あれ、「チーム薬師」はここにいたのか?

・・・これがどうもいたようだ。

西国七福神の毘沙門天、新西国のこより十一面観音、秀吉からの道了大権現と来て、最後は薬師如来で落とす・・・。大阪らしいというか、まあいろんな仏が集まったスポットで、今では駅の近所、周りの住宅地にも溶け込んだ風情でいいのかなと思う。上に挙げた以外にも、あごなし地蔵やスリランカから来た釈迦像、北大路魯山人の観音像もあり、さまざまな句碑と合わせて小さな境内にギュッと詰め込まれているので、面白いところではある。

次は雲雀丘花屋敷に向けて、再び各駅停車にて・・・・。
コメント

12球団で真っ先に休養になったのは谷繁監督だった

2016年08月09日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
8月に入りペナントレースも100試合を越える頃。ここから盆の時季がひとつの山場である。

そんな中で、ドラゴンズの谷繁監督が休養となった。ここまでセ・リーグ最下位ということだが、このタイミングというのには何か意図があるのだろうか。

監督休養という事態は誰のせいか。監督の采配が悪いのか、そもそも能力がないのか。はたまた選手が悪いのか、フロントが悪いのか。ネットではいろんな声があるが、このチームの場合は、「落合GMの責任は?」というのが多いようだ。

責任の所在がどこかというのは一概には言えないとしても、谷繁監督については少し気の毒かなと思う。ベイスターズから移籍して、正捕手としてドラゴンズの優勝、日本一に貢献したところまでは良かったが、落合監督の退任後は選手兼任監督、そして昨年で現役引退でそのまま監督。選手としては2000本安打、歴代最多出場を果たすなど、経歴は素晴らしいものである。ただ、監督になるまで外から野球を観る機会もなく、やはり経験不足だったのかなと。現役引退も含めて、何だかドラゴンズ球団のご都合人事に振り回された形に見える。スワローズの古田元兼任監督もそうだが、いきなり監督になった(させられた)ことの失敗が尾を引いて、その後監督はおろかコーチの声もかからなくなるのはどうかと思う。もったいない。

・・・とまあ、こんなことを書いているが、今季最初に休養になる可能性が最も高かったのは、バファローズの福良監督のはずである。それが何とかどうにかこうにかなって、谷繁監督休養のニュースが出た時点では、矛先はライオンズの田辺監督のほうに向いている(ような気がする)。

福良監督については、今季は自身も活躍した「オリックス・ブレーブス」の初めての復刻試合も決まった。もうここまで来れば今季は存分にやってほしい。ともかく上位いじめ、そして田辺監督との対戦には勝ち、何なら休養に追い込むぐらいのことを・・・。
コメント (2)