まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

京都47番「毘沙門堂」~神仏霊場巡拝の道・104(八方睨みの龍、動く襖絵)

2024年06月25日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道、京セラドーム大阪での野球観戦との組み合わせで広島から日帰りでまず京都に向かう。当初、6月22日と23日のどちらに行くか迷ったが、22日の午前中だとまだ雨は降らない、しかし23日は西日本で広く雨の予報ということで、22日の朝から出かけることにした。

そして、バファローズとライオンズの両日の試合はどうだったか。選択した22日はバファローズ先発の齋藤を序盤に攻略したライオンズが4対2で勝利し、連敗を止めた。そして23日はバファローズ先発のカスティーヨが好投、私の勤務先企業出身の古田島がデビューから22試合連続無失点というNPB記録に並び、4対1でバファローズが勝利。23日の試合は広島の自宅にて外が大雨の中テレビ桟敷での観戦だったが、こういう巡り合わせなら23日、京都で雨に濡れての参拝の後、ドームで現地観戦したほうがよかったかな、私のツキもないな・・というのが感想である。

25日からはホークスとの3連戦、古田島の日本新記録達成なるか楽しみ・・・。

さて話はタイトルにもある京都・山科の毘沙門堂。前回、興福寺の後でのくじ引き・あみだくじで出た山科の札所である。神仏霊場巡拝の道、前回の奈良の前は京都の伏見地区を訪ねており、山科だけ残った形だが、まさかそこが出るとは。地図を見ると山科駅から北へ一本道の緩やかな上りのようだ。

今回は毘沙門堂だけ訪ねればよく、毘沙門堂には失礼だが、あみだくじで次はどこに展開するかのほうに興味がある。

22日、広島6時45分発の「のぞみ78号」で出発する。一気に京都まで行き、在来線で山科に到着。雨雲レーダーを見てもこの日の関西は何とか天気が持ちそうだ。

JRの山科を出て、京阪京津線の線路脇に出る。毘沙門堂のほか、山科聖天、山科両別院の看板、石柱。さらに「祝『令和』 天智天皇中臣の里・山科」の立て看板がある。令和が新元号になったことを受け、日本最初の元号とされる「大化」にちなんだ天智天皇、中臣(藤原)鎌足を崇敬しようということか。令和改元当時に建てられたのだろうが、こういう看板には気づかなかった。宗教法人・天智教、教祖・中臣不比等・・・。東京都知事選挙の候補者にいてそうな名前ですなあ。

それはさておき、JRの線路下をくぐって緩やかな上り坂を行く。琵琶湖疎水の一部である山科疎水も渡る。その橋に「国鉄」山科駅とあるのが時代を感じる。

毘沙門堂「門跡」に到着。毘沙門天王の幟が並ぶ石段を上がる。拝観料と、先に朱印帳を預ける。拝観ルートとして、まず正面の本堂、その奥の霊殿、そして宸殿と庭園・晩翠園を回るとある。

毘沙門堂が開かれたのは平城京よりも前、文武天皇の勅願によるという。当初は後の出雲路沿いに建てられたことから出雲寺と呼ばれていた。出雲寺は後に衰退と再興を繰り返し、現在の山科の地に復興したのは江戸時代になってからである。復興に関わったのは南光坊天海。あの明智光秀と同一人物という説もある僧侶である。

本堂に上がる。江戸時代の建築のためか、寺の本堂というより神社の拝殿を思わせる。こちらに安置されている本尊毘沙門天は伝教大師最澄の作と伝えられる。まずはこちらでお勤めとする。

毘沙門堂は後に後西天皇の皇子である公弁法親王が入ったことから門跡寺院となったが、父の後西天皇の死後、御所の一部を移築したのがこの先の勅使門、霊殿、宸殿である。その霊殿の天井から見下ろすのが「八方睨みの龍」。江戸時代の狩野派の作品で、堂内のどの場所から見ても龍と目が合い、睨まれているように見える造りである。これまでいくつかの寺院で龍が描かれた天井図を目にしたが、やはり龍はこのポジションなのだろう。

続く宸殿はいくつかの間に分かれており、それぞれ襖絵が広がる。こちらは「動く襖絵」との呼び名があるそうだ。かといって、襖そのものや、襖絵の人物じたいが勝手に動き出すホラーものではなく、一歩ずつ歩いて襖絵を観る角度によって人物の表情が変わったり、縦長の机が横長に見えたり、要は目の錯覚によるものである。現代なら何ということないトリックアートだろうが、それを今から300年以上前の襖絵で表現したのはさすが狩野派である。屋内は撮影禁止だし、こういうのは現物を目にしなければ実感がわかないので訪ねることをお勧めする。

奥は晩翠園の庭園。ここで折り返し。

勅使門や宸殿を改めて外から。

受付で預けていた朱印帳を受け取る。今回の神仏霊場めぐりは毘沙門堂のみで、近くに他の札所がないことから、ここであみだくじとして局面の展開を図ることにする。

予備のくじ引きで出たのは・・

・叡福寺(大阪16番)

・金剛輪寺(滋賀3番)

・大念仏寺(大阪5番)

・道成寺(和歌山6番)

・当麻寺(奈良19番)

・藤白神社(和歌山7番)

京都の選択肢がなく、滋賀、大阪(奈良)、和歌山と振られた形である。

そしてあみだくじ、運命のお時間の結果は・・・アプリで6枠に振られた金剛輪寺。冒頭に書いた「次の展開」は滋賀・湖東となった、当初は「金剛輪寺か」という反応だったが、よくよく見ると湖東地区の公共交通機関では難関のエリアである。金剛輪寺の南北にも神仏霊場の札所がいくつかあり、次回はリアルにクルマで回ることになるだろう。レンタカーを利用するのか、いつぞやのように広島から軽自動車で山陽道、名神高速を長躯して滋賀まで遠征するか・・・。

さてこの後、山科駅前に立て看板があった山科聖天に行くことにする。こちらは毘沙門堂の塔頭寺院で、歓喜天を本尊として、比叡山の無動堂から勧請されたという不動明王も祀られている。

山科といえばこれまで乗り換えで醍醐寺をはじめとした洛南地区の寺社めぐりで利用したが、駅の北側にある毘沙門堂や山科聖天というのは今回の札所めぐりで初めて知ったスポットである。決して観光地ではないが、こうした力強い面々が地元の人たちのよりどころというのは決して観光ガイドに載らない京都の奥深さで、恐れ入るばかりである。

山科駅に戻る。この後、京セラドーム大阪に向かうなら新快速・快速に乗るのがよいが、思ったより時間もできたので、変化球の意味で京阪京津線のホームに向かう。

山科から地下に潜り、三条で下車。大阪までそのまま京阪で向かうとして、ならば「プレミアムカー」一択。

この日は京橋で下車。ちょうど昼時・・・ということで京橋駅近くの立ち飲みスタンドで一献として、景気をつけて京セラドームに向かう。

そして、バファローズとライオンズの両日の試合はどうだったか。選択した22日はバファローズ先発の齋藤を序盤に攻略したライオンズが4対2で勝利し、連敗を止め・・・(以下、無限ループ)

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神仏霊場巡拝の道~近鉄奈良駅で一献

2024年05月17日 | 神仏霊場巡拝の道

長々と書いてきた5月4日の神仏霊場めぐり。この日は奈良のメインともいえるエリアを回り、朱印をいただけなかったり、あるいは朱印をいただくのに1時間以上並んだりといろいろあったが、近鉄奈良駅に戻って来た。

さて夕食は藤井寺の実家に戻っていただく予定にしているが、せっかく奈良に来たので軽く一献とするか。以前奈良に来た時に見つけていた「蔵元豊祝」。豊祝とは奈良の地酒で、ここは蔵元直営の呑み処の一つである(他に大和西大寺、大阪難波、天王寺にも店がある)。店内のカウンターは立ち飲みスタイル。

セットメニューをいただくが、やはり最初は生ビールである。料金は品物と引き換えのキャッシュ・オン・デリバリー方式。「角打ち」の雰囲気を近鉄奈良駅のコンコースに持ってきている。腰を据えて飲むというよりは、帰りの列車に乗る前にちょっと一杯ひっかけて・・という客のほうが多いだろう。この日の私もその部類だ。

生ビールで落ち着いた後、きき酒セットをいただく。「純米吟醸 無上盃」、「純米酒 豊祝」、「本醸造辛口 貴仙寿」という、蔵元・奈良豊澤酒造の代表的な銘柄。いずれもすっきりしており、広く受け入れられる味と思えた。

本来なら他にアテもいろいろ頼めばよいところだが、ここはサクッと引き上げることにする。神仏霊場めぐりではまた奈良に来る必要があることだし、その時に改めて楽しもう。

近鉄で奈良を後にするが、ちょうど到着の神戸三宮行きは国内外の観光客で満員。元々外国人観光客の多い奈良だが、コロナ禍以降、円安によるところも多い。

そろそろ日が傾くところを走る・・。

5月の連休は翌5日が父親の一周忌法要、そして6日の午前中に広島に向けて移動した。この大型連休期間中、東海道・山陽新幹線の「のぞみ」は全列車全座席指定だったが、それで乗る列車があらかじめ決められたためか、新幹線も思ったほどの混雑もなかった(広島止めということもあった)。この先当分5月の連休は法要もあることだから、関西で過ごすことになりそうだ・・・。

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奈良3番「興福寺」~神仏霊場巡拝の道・103(五重塔は工事中、そして納経所は・・)

2024年05月15日 | 神仏霊場巡拝の道

5月4日の神仏霊場巡拝の道めぐりは、奈良国立博物館~東大寺~春日大社~元興寺を経て、この日最後、そしてあみだくじの目的地である興福寺に向かう。元興寺から北に進んだので、ちょうど猿沢池に出る。池の周囲も観光客であふれていて、また池の横にスターバックスがあるためコーヒーカップを手にする人も。コーヒーのアテに、「高速餅つき」で知られる中谷堂の餅を買う人もいたりして。

さて、五重塔方面に向かうが、先ほどから違和感あるなと思っていると、五重塔、東金堂の前のエリアにフェンスが並び、クレーンが置かれている。知らなかったのだが、五重塔は明治時代以来となる2022年から大規模な修理工事に入っているとある。2031年までの長期間の工事で、現在は工事を行うため五重塔全体を覆う全天候型足場(素屋根)の建設中のようだ。高さ51メートルの五重塔には約6万枚の瓦が使われているとされているが、文化財保護のため、できるだけ元の部材を再使用することが決められているという。現在の五重塔は室町時代の再建で、その当時の瓦も使われているようだ。

それにしても、平成から令和にかけて、あちらこちらの文化財の大規模な修復工事が行われている。ちょうど時代の移り変わりに差し掛かっているのかなと思う。文化財関連の工事には専門性の高い業者も多く携わることだろうが、この業界も「2024年問題」の影響が避けられないところ。人材確保も含めて、果たして予定通りの期間に修復を終えることができるのか気になる。

神仏霊場巡拝の道としては東金堂にお参りするところだが、工事のためこのエリアは立ち入ることができない。フェンスの外から手を合わせる。

さてその一方、興福寺は西国三十三所の札所でもある。西国三十三所の本尊は南円堂の不空羂索観音。神仏霊場めぐりと西国三十三所めぐりを兼ねることにして南円堂に向かうが、手前の納経所には長い列ができている。嫌な予感がする。

ともかく、南円堂にてお勤めとする。神仏霊場も含め、興福寺はこれでクリアしたことにしよう。

・・・で、納経所である。現在の時刻は15時前だが、今から並んだとしてどのくらいの時間がかかるか。それでもやはり、神仏霊場、西国三十三所それぞれの朱印をいただいて、次の札所を決めたい。

しかしその一方で、先ほど春日大社で「これを何と読む!」という事態(手書きの朱印、墨書をいただけない)のため、もう一度時期を見て訪ねることになっている。興福寺もいったん保留にして、その時に春日大社と一緒に回ればええやん・・という気にもなる。並ぶ時間がもったいない、それより奈良駅で一献やったほうが精神衛生上よろしい・・というささやき。

少し「うーん」となったが、やはり並ぶことにした。納経所にこれだげ行列ができるのはもちろん大型連休中で寺を訪ねる人が多いからだが、工事の影響で東金堂前の納経所が閉鎖されており、南円堂前の納経所に集中しているのが実情のようだ。さらに興福寺の朱印も結構な種類があり、複数の朱印をいただく人が多いため時間がかかっているようだ。

これなら興福寺を後日に回しても同じようなもので、ならば本日並んでクリアしておいたほうがよさそうだ。

私が並んだ前には家族連れがいて、退屈なので前にどのくらい並んでいるのか見に行ったりする。何人並んでいて、フォーク型の納経所の受付が何人いて、何やかんやで一人当たり何分かかる・・と計算して、1時間20分ほどかなと推理している。状況を数値化して予測を立てているが、果たしてどうだろうか。

・・その後は長い待ち時間。それでも少しずつ進み、五重塔~東金堂~中金堂の角度も少しずつ変わる。

15時前から並んだが、16時15分頃、ようやく私の番になった。前のお父さんの推理がほぼピタリ当たった形だ。最初、「結構勝手なこと言っているな」と思っていたが、こうした結果を数値で示されると「このお父さん、やるな」と感心した(別に会話したわけではないが)。

興福寺の朱印はいろいろあるが、西国三十三所の南円堂はの先達用納経帳は重ね印として、神仏霊場については係の人が「神仏霊場はアレやったな?」と隣に確認したうえで「令興福力」としたためた。

「令興福力」とはどういう意味か。「福力を興さしむ」~福を起こす力を持つ寺である・・ということ。ただ、こうして見ると、「福」というのは何もせずとも勝手に降ってくるものではなく、自ら呼び寄せるだけの力を持たなければならないのかな・・とも読める。

それはそうと、納経所の窓には「16時45分受付終了」とある。朱印をいただいた後も変わらず長蛇の列ができていて、この人たちは果たして朱印をいただけたのかなと気がかりだ。さすがに16時45分で窓口を閉めることはせず、その時間までに並んでいた人までは時間外でも対応する・・ということだと思うが、実際どうだったか。

さて、無事に納経も済ませたところで次の行き先である。そのラインアップは・・

・道明寺天満宮(大阪17番)

・毘沙門堂(京都47番)

・大念仏寺(大阪5番)

・日牟禮八幡宮(滋賀10番)

・阿倍野神社(大阪3番)

・百済寺(滋賀9番)

この中で道明寺天満宮といえば実家近くである。ただ道明寺天満宮・・記事にはしなかったが、近江八幡の日牟禮八幡宮、そして先ほどの春日大社同様、朱印については「これを何と読む!!」という神社らしい対応をいただいたところ。もしここが出れば、この後の帰省、法事ついでで訪ねるのだが。

そして結果は、毘沙門堂。前回、広島から山科までアクセスして醍醐寺他を訪ねたが、またも山科である。単独で行くか、何かと組み合わせるか・・・。

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奈良30番「元興寺」~神仏霊場巡拝の道・102(ならまち)

2024年05月14日 | 神仏霊場巡拝の道

春日大社を後にして、次に目指すのは奈良30番・元興寺。2018年、同じ奈良県の丹生川上神社下社とともに神仏霊場巡拝の道に加わった。神仏霊場については府県ごとに札所番号があるので、それぞれ奈良29番、奈良30番としての加入である。

春日野町から南に向かう道を歩くと、荒池という溜池に出る。そのそも奈良というところは大きな河川があるわけでもなく、水に乏しいところだが、明治時代に干ばつが起こった際、丈夫な溜池を造ってほしいとの声が高まり築かれたものである。後に護岸の補強や周辺の環境整備が行われ、公園にもなっている。その荒池の向こうに興福寺の五重塔が見える。池と五重塔といえば猿沢池だが、距離としてはむしろ荒池のほうが近いようで、より大きく見える。

この後、奈良ホテル、大乗院庭園の前を過ぎる。奈良ホテルなど、まあこの先も泊まる機会はないだろう。

そして、今は「ならまち」として奈良の人気スポットとなっている地域の一角にある元興寺に到着。元々、蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(飛鳥寺)が、平城遷都にともない移転した寺である。元興という名前は、日本で最初に仏法が興隆したという意味だとか。

奈良時代には猿沢池の南、現在の「ならまち」一帯が元興寺の寺域で、東大寺や興福寺にも匹敵する大伽藍を有していたが、平安時代以降は衰退した。その後、阿弥陀浄土を描いた智光曼荼羅を祀ったお堂が「極楽坊」として、現在につながる元興寺の本尊、本堂となった。その後も落雷や一揆の焼き討ちなどで寺は縮小したが、一方で智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子といった民間信仰の寺として栄え、いつしか庶民的な雰囲気の佇まいとなった。

本堂に上がる。さすがに東大寺や春日大社と比べて多くの人でごった返すわけでもなく、椅子に腰かけてのお勤めである。

この本堂と隣接する禅堂の一部には奈良時代当時の瓦がそのまま使われていることでも知られている。さまざまな苦難の歴史、もしこれらの瓦が言葉を話すことができれば、どのような物語りをすることだろうか。

収蔵庫の法輪館に向かう。元興寺には西国四十九薬師めぐりでも訪ねたことがあり、その本尊である薬師如来もこちらに祀られている。一方、弘法大師像の収蔵ケースには写真パネルが置かれていた。先ほど奈良国立博物館の「空海」展に出ていた。

受付で預けていた朱印帳には「智光曼荼羅」の文字。そして「佛法元興 浄土発祥」のスタンプも見える。

せっかくなので「ならまち」一帯を歩くのがよさそうだが、以前にも何度か訪ねているし、この後、今回の神仏霊場めぐりの目的地である興福寺が控えている。そのまま北に向かい、猿沢池に出る・・・。

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奈良2番「春日大社」~神仏霊場巡拝の道(境内特別参拝するも・・)

2024年05月13日 | 神仏霊場巡拝の道

5月4日の神仏霊場巡拝の道めぐり。奈良国立博物館から東大寺大仏殿に向かい、そのまま二月堂方面に来た。先ほど、東大寺ミュージアムとのセット券を購入したのだが、大仏殿からそのまま二月堂に向かったので結局フイにする結果に。

そのまま、手向山八幡宮を過ぎる。東大寺に大仏を建立するにあたり、鎮守神として宇佐八幡を勧請したのが始まりである。後に、菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山」と詠んだのはこちらのこと。

そのまま出たのは若草山。こちらに来るのも久しぶり。ちょうどその名のとおり若草の緑が青空に映えている。こちらの周りも鹿であふれている。

 

そのまま、次に参拝する春日大社の境内に入る。方角でいえば水谷神社の方向から入る形だ。

そして一言主神社。「一つだけ願いを叶えてくれる」というご利益で知られる。「古事記」に出てくる一言主を祀る神社は全国にあるが、「言行一致」をいう言葉も出てくる。やはり願いを叶えてくれるには、言行一致、言葉と行動がともなう誠実さが必要ということのようだ。

そして春日大社の本殿のエリアに到着。やはり多くの参拝者でごった返している。慶賀門から入ったところに「砂ずりの藤」という藤棚があるが、早くも見頃は過ぎたようである。

春日大社は奈良時代の創建、中臣氏・藤原氏の氏神である武甕槌命、経津主命などの春日神を主祭神としている。

藤棚を抜けて参拝の窓口となる幣殿に向かうと、ショックな看板に出会う。昔の「アメリカ横断ウルトラクイズ」で視界の福留功男さんが「これを何と読む!」と解答者に叫ぶシーンを思い出した。

「本日は混雑が予想されますので 『紙の御朱印』の授与となります 御朱印帳への書入れは行っておりません」

・・参拝の証ということであれば書き置きの御朱印でもご利益には変わりない。また、これまで回った札所めぐりでも最初から専用の書き置きをバインダーに綴じるところもあり、それはそれですっきりしている。しかし、神仏霊場については専用の分厚い朱印帳(納経帳)を持ち歩いている。やはり書入れでなければすっきりしない。以前、中国観音霊場めぐりの時、コロナ禍の最中だったり冬季で納経所じだいが閉まっていた事情で書き置きを朱印帳に貼りつけたことがあったが、満願後に改めて帳面を見て惜しい気になった。

・・・ということで、本来なら102ヶ所目となるはずの春日大社だったが、本日はカウントせず後日出直しとした。まあ、関西にある札所だから簡単に「またの機会」としてしまうのだが・・。

ただ、このまま引き返すのも惜しい。ふと見ると、回廊内の特別参拝に次々と内外の参拝者が入っていく。500円ということで、けっかくなので入ることにする。中門・御廊を間近で見ることができるだけも価値がある。

順路に沿って歩くが、まずは東回廊から外に出て、御蓋山(三笠山・みかさやま)の遥拝所に向かう。春日大社の湯祭神である武甕槌命が白鹿の背に乗って舞い降りたのが御蓋山の頂上である浮雲峰とされる。まあ、そこは藤原氏の祖・中臣氏が常陸の鹿島をルーツにしていたとの説と結びついているのだろう。

再び回廊に戻り、ようやく中門の前にて手を合わせる。回廊には多くの灯籠が奉納されており、中には戦国武将・大名によるものもある。春日大社にはこうした釣り灯籠の他、外にある石灯籠も含めて古くから数多くの灯籠が奉納されている。また、春日大社の使いとされる鹿も奈良公園を中心に多数見かける。落語の「鹿政談」のマクラだったか、春日大社の灯籠と鹿の数を数えた者は長者になるといわれていたそうだが、いまだにそれで長者になったという話は聞かない。「灯籠の数はとうろう(とうとう)わからん、鹿の数は確か(しか)とわからん・・」。

すべての灯籠に灯りをともす「万灯籠」を再現した「藤浪之屋」も入る。

回廊に戻り、南門から外に出る。このまま西方向に参道をぶらぶら歩く。

この後残るのは奈良30番・元興寺と奈良3番・興福寺。道順なら元興寺から行くことになるかな。せっかくなら元興寺の周囲に広がる「ならまち」を訪ねるのがよいが、そろそろ時間も気になってきたところで・・・。

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奈良1番「東大寺」~神仏霊場巡拝の道・101(奈良はやはり大仏さん)

2024年05月10日 | 神仏霊場巡拝の道

5月4日の神仏霊場巡拝の道めぐりは奈良の王道シリーズ。先に奈良国立博物館で開催中の「空海」展を鑑賞した後、ほど近い東大寺の南大門に向かう。参道の両側には土産物店や食べ物の屋台が並び、洋の東西の人たちが行き交う。かつて平城京から派遣された遣唐使が向かった長安は当代一の国際都市で、様々な人種の人たちが行き交っていたという。こうした歴史の光景を想像してみる。

南大門では金剛力士像がお出迎え。先ほど、奈良国立博物館に出張中の吉野・金峯山寺の金剛力士像を間近で観たのだが、囲いに覆われているとはいえ、やはり東大寺の金剛力士像のほうがあらゆる「力」を感じる。

東大寺に来るのも久しぶり。これまでは大仏が中心の「観光地」として訪ねた感があったが、「札所」として訪ねるのは初めてである。

「東大寺ミュージアム」というのがある。東大寺の宝物を総合展示する施設であり、「東大寺は大仏だけではない」といったところだろう。建物の前には大仏の実物大の両手の複製が置かれていて、撮影スポットにもなっている。大仏殿とのセット券が1200円(大仏殿、東大寺ミュージアムそれぞれ単独だと各800円)というので購入する。今思えば、先にミュージアムを見学してから大仏殿に向かえばよかったのだが、この時はまず寺の本尊が先というので、行列の末にセット券を購入してそのまま大仏殿に向かった。

そして大仏殿に向かう。何やかんやいっても、やはり奈良のシンボルといえば東大寺の大仏ということになる。

大仏殿の内外は洋の東西からの多くの参詣者でごった返す。とても大仏殿の中でお勤めをする雰囲気ではない。

その中、大仏殿の中を一周。四天王が護り、歴代の大仏殿の模型もある。

また大仏殿といえば「柱の穴くぐり」でも有名である。ちょうど大仏の鼻の穴と同じサイズだが、これをくぐろうという長い行列ができていた。ちょうど小柄な男性が挑戦しかけたが、それでも断念した。昔の日本人ならともかく、現代では子どもでなければくぐるのは難しいだろう。

その「柱の穴くぐり」の先に納経所がある。窓口は6つあるがそれぞれ長い列である。東大寺の朱印というのを初めていただいたが、大仏殿としては「華厳」の一種のみ。東大寺は日本における華厳宗の総元締め・大本山であり、気軽に「奈良の大仏さん」と呼んでいるのは華厳宗の本尊である廬舎那仏である。・・・まあ、そうした宗派がどうのこうのと意識して大仏さんに手を合わせる人はほとんどいないだろうが。

大仏殿を回った後、先ほど通過した東大寺ミュージアムに行くべきところだが、道順としてそのまま春日大社に向かうことにした。神仏霊場巡拝の道めぐりとして、奈良1番・東大寺から奈良2番・春日大社に向かうことにした。その途中に東大寺に二月堂もあれば、手向山八幡宮もある。「手向山神社」に向かう石柱、鳥居が建ち、こちらにも多くの外国人と鹿がたむろしている。

そして二月堂に着く。春の「お水取り」で知られるところ。さすがに大仏殿ほどの混雑はなく、学問としての華厳宗の本山というよりは、庶民による観音信仰の寺という、東大寺の違った一面が感じられるところである。お勤めをするならこちらのほうが落ち着いているし、似合っているように思う。

二月堂からの眺めもよい。

さらに進み、手向山八幡宮にも参拝。東大寺、大仏の建立にあたり、宇佐八幡を勧請したのが始まりとされる。かつては東大寺と一体とされたが、明治の神仏分離で別にされた。明治政府の連中もさすがに東大寺の大仏を廃仏毀釈することはできなかったようだ・・・。

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神仏霊場巡拝の道~奈良国立博物館で「空海」展を鑑賞

2024年05月09日 | 神仏霊場巡拝の道

今回の連休は法事が目的で大阪に帰省したのだが、それに合わせて5月3日は野球観戦、そして4日は神仏霊場巡拝の道めぐりとした。前回のあみだくじで出たのが奈良3番・興福寺。周囲には奈良1番・東大寺、奈良2番・春日大社、そして奈良30番・元興福寺があり、これらを回るというのは奈良観光の王道である。それも、5月の連休の真っただ中に行こうというのだから混雑覚悟、気持ちはお上りさんである。

その中でも行こうというのは4月13日~6月9日の間に奈良国立博物館で開催されている「空海」展。弘法大師空海の生誕1250年記念の特別展で、密教のルーツとマンダラ世界というのがテーマである。神仏霊場めぐり、そして法事は高野山真言宗の寺で営むということで、空海の世界に触れるのもいいだろう。父が存命であれば絶対に見物に行っていたはずだ。今回、まずは奈良国立博物館を訪ねよう。

藤井寺の実家から大阪阿部野橋~鶴橋経由で近鉄に乗り、近鉄奈良に到着。やはり国内外の観光客でごった返している。

地上に出て奈良公園方面に向かう。天気も良く暑いくらいだ。ここまで大勢の人が集まる奈良というのも久しぶりで、奈良公園の鹿も鹿せんべいや観光客の食べ物目当てにそこかしこあふれている。もっとも最近、鹿を見ると「ジビエ」という単語が頭に浮かぶ。いや別に、奈良公園の鹿を焼肉にしていただこうなどというおは恐れ多くて思わないのだが・・。

そして奈良国立博物館に到着。入口の外には当日券(2000円)を求める列ができている。私も、博物館に来ると決めていたのだから事前にプレイガイドで予約し、コンビニで発券すればよかったのだが、結局そのまま来てしまった。

20分ほど並び、いよいよ入館である。

数多くの展示があるが、これらはもちろん撮影禁止のため文章のみでの紹介。また、各展示室もごった返していてじっくり鑑賞するのは無理。ただ腰を据えるなら丸一日楽しめる特別展であった。

この展示でテーマとされているのが曼荼羅。金剛界・胎蔵界という密教の二つの思想、これを文章で表すのが難しいため、絵画や仏像として配置して視覚的にわかりやすくしたものだが、その説明書きを目にしても私のようなものにはわかったようなわからないような世界である。

第1室の真ん中には京都・安祥寺の五智如来像が配置されているが、この展示室も大日如来を中心とした曼荼羅を意識した並びだとある。

密教はインドからシルクロードを経て中国に伝わり、そして空海により日本にもたらされたのだが、ここにもう一つ、海のシルクロードを経由して中国に入った流れがあるという。それが唐の恵果により融合され、それが空海に受け継がれた。今回の特別展で目を引いたのが、インドネシアのジャワ島東部のガンジュク地区から出土した数十体の青銅製の小型の仏像群。19世紀頃の作とされ、小型ながら精巧に造られており、ミニチュアとして一体部屋に置いてみたいという気にもなった。

その後は空海の入唐~帰国、そして神護寺(高雄山寺)、東寺、高野山金剛峯寺などに伝わる数々の文化財が並ぶ。この日のためにオールスターが集まったようなものである。

展示室の一角では、NHKの8K画像のPRコーナーもある。この特別展はNHKも主催者に名を連ねており、モニターでは神護寺の両界曼荼羅や東寺の仏像群などの細部まで鮮やかに映し出す「BS8K」のPRが行われていた。博物館に展示された実物よりもはっきりきれいに見えるというアピール・・。

人が多くて近くでじっくり鑑賞できないのは仕方なく、空海と密教の雰囲気を楽しめただけでもよしとする。展示品の詳細はNHKBS8K・・ではなく、図録(3000円)を購入してじっくり見ることにする。

さて、奈良国立博物館には「なら仏像館」もある。こちらは明治時代、奈良で最初の本格的西洋建築だる。かつてはこちらが奈良国立博物館の本館だった。

こちらでは奈良時代~鎌倉時代を中心とした数々の仏像が常時展示されている。何十体に一体、紹介文で「OK」印のある仏像は撮影可とあるが、撮影可と撮影不可の線引きはどこにあるのかなと思う。

特別公開として、ホール部分に建つのは吉野・金峯山寺の金剛力士像。現在修復中の仁王門から搬出され、現在は奈良に長期滞在中といったところ。その間を利用して金剛力士像そのものも修復が施され、写真撮影もOKとして来館者のカメラ、スマホに収まっている。彼らにすれば、仁王門の狭いスペースから解放され、あの巨大な蔵王権現がにらみを利かす吉野の山奥から奈良の街中に出て、しばしの憩い、鬼の居ぬ間に洗濯・・?

結局奈良国立博物館だけで午前中は終了。札所めぐりはこれからである。ここまで来れば東大寺のほうが近く、東大寺~春日大社~元興寺を経て、目的地の興福寺は最後になる。例によって昼食抜きで回ることになりそうだ・・・。

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神仏霊場巡拝の道~京都からは次につながる「あをによし」

2024年04月23日 | 神仏霊場巡拝の道

話は、4月中旬の神仏霊場巡拝の道に戻る。といっても、その時まわった京都・伏見エリアの札所めぐりはすでに終え、続いて伏見桃山での一献。後は広島に戻るだけである。

桃山御陵前から近鉄で京都に到着。そのまま新幹線に乗り継げば早いが、今回は広島~新大阪の日帰りプラン利用である。それでも新快速なり、わざわざ特急料金を払って「はるか」や「サンダーバード」で新大阪に出れば済む話。そこをあえて、もう一度改札を通って近鉄ホームに戻る。

せっかくなので、近鉄の観光特急「あをによし」大阪難波行きに乗ることにした。京都16時40分発。「あをによし」は先ほどの桃山御陵前の次の駅である丹波橋に停車するのでそこから乗ればよいのだが、「伏見酒蔵小路」で十分満足した後で、京都まで出る時間があったので、せっかくなら始発から乗ることにする。まあ、元々京都発で購入していたし・・。

やはり途中駅から乗るより、折り返しの時間がある始発駅から乗るのがよい。大きなスーツケースを転がすインバウンド客にも人気である。

車内はグループ専用のサロンシート、そしてテーブルを挟んだ1対1のツインシートの2種類。この列車に「おひとりさま」で乗る場合は、ツインシートに限り、自分の乗車券・特急券・特別車両券のほか、こども料金の特急券・特別車両券(おとなの半額)を加算することで利用できる。あくまでツインシート2席単位での販売で、見知らぬおっさん・・というか鉄ヲタ同士が鉢合わせたり、若い女性のところに私のような気色悪いおっさんが相席にならないよう、それぞれに配慮した仕組みである。近鉄としては気色悪いおっさんがツインシートを占領することじたい面白くないだろうが・・。

16時40分、京都を出発。新幹線の高架下をくぐり、右手には東寺の五重塔も見える。なお、神仏霊場巡拝の道めぐりの次の行き先は奈良。あみだくじで出たのは興福寺で、そこに行くなら東大寺、春日大社、そして新たに加入した元興寺といった世界遺産がずらり並ぶ。ちょうど前日の4月13日から6月9日まで奈良国立博物館で空海展が行われており、できればそれとも絡めたいところだ。

先ほど通った丹波橋に停車した後、まずは奈良に向けて快走する。17時を回っても外はまだ明るく、ほっとする。

大和西大寺を過ぎ、平城京跡を見やって地下に入り、奈良に到着。

ここで下車する・・・。実は、京都まで来たのだから「あをによし」に乗りたいとして、京都発大阪難波行きの第8便を確保しようとしたのだが、京都~難波の通し区間は満席。京都~奈良に空席があったので確保した。以前乗った時のように、奈良~大阪が空かないかなとチェックしていたが、残念ながら空きは出なかった。

結局、後続の奈良発神戸三宮行きの快速急行に乗る。阪神の「灘は日本一の酒どころ」のラッピング車両。わあ、先ほど伏見に行ったばかりやで・・。

近鉄奈良線で生駒トンネルを抜け、大阪平野を望む区間の夕陽に出会う。先ほどの「あをによし」ならシートに居ながらにして楽しめた車窓だが、快速急行のドア横に立ってごく自然に見るのもよいものだ。

大阪難波に着き、御堂筋線で新大阪に着く。予定していた18時50分発「のぞみ179号」に乗る。そもそも臨時の広島行きということでこの列車を選んだのだが、4月14日に限っては博多まで運転するという。広島までは新神戸・岡山のみ停車の最速ダイヤだが、寝過ごさないように・・。

「あをによし」では時間が短いのでそのまま持っていたが、「のぞみ」の中で京都で購入した穂久彩の「太秦のり弁」をいただく。穂久彩はそもそも仕出し弁当やロケ弁当がメインの店で、駅弁は余技に含まれるのかもしれないが、ごはん、海苔の上に、紅鮭の切り身、白身フライ、ちくわ天ぷら、れんこん、出し巻き玉子、生麩の田楽といったところが並ぶ。「のり弁」の中にあってグレードも高いし、新幹線車内でのビールのアテにもなる。

車内はあっという間にすぎ、寝過ごさずに無事に広島で下車。

神仏霊場巡拝の道も今回の城南宮でいよいよ100ヶ所目となった。あみだくじの行き先に従って、また1回ごとに周辺の札所をちょくちょく回る、また野球観戦や実家帰省などと絡める中で、進んでいないような進んでいるような気持ちである。これまで広島から2往復していたのが、1往復プラス宿泊のほうが安くつくこともあったはずだ(そこは、なかなか土日2日間をいつでもフルタイムで空けられない事情もあり、逸失しているかな・・)。

次に回ってきた奈良時代からの伝統ある寺社は、しっかりじっくり参詣・参拝しよう・・・。

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神仏霊場巡拝の道~伏見の18酒蔵を呑み干す

2024年04月20日 | 神仏霊場巡拝の道

近畿2府4県プラス三重県に広がる神仏霊場巡拝の道。2022年の大型連休の時に伊勢神宮の外宮・内宮から初めて、さまざまな交通手段やイベントを絡めながら154ヶ所のうち100ヶ所に到達した。当初から行き先にくじ引き、あみだくじという不確定要素を交えながらの札所めぐりで、100ヶ所目となったのは京都でも鳥羽伏見の城南宮だった。伊勢神宮から札所順でめぐると87番に相当する。

竹田駅から近鉄で桃山御陵前に移動し、隣接する京阪の伏見桃山駅の踏切を渡り、伏見大手筋のアーケードに入る。「日本酒のまち伏見」の幕が掲げられる。さまざまな店舗があり、地元の人、観光客も含めて賑わっている。

こちらの商店街といえば・・大阪勤務当時、私の職場では年始、そして半期のはじめ(4月・10月)の恒例行事として、土曜日の早朝から午前中にかけて、寝屋川の成田山大阪別院での安全祈願、そして伏見稲荷大社での商売繁盛祈願がセットで行われ、伏見稲荷大社では奥の院の一ノ峰まで往復するというのがあった。スーツ姿で一ノ峰まで歩いて往復というのも結構ハードなものだ。

午前中いっぱいかけて上記のプログラムをこなし、「直会」と称してやってきたのが伏見桃山。まあつまり、早朝から祈願やら山登りまでしたのだから、伏見の酒で一献やろうというものである。総勢20人ほどの御一行なので、当然ながら店は事前予約である。さすがは伏見で、大手の酒造会社の直営レストランがあり、私は幹事として店の予約やコースの選定、会計処理など行っていた。

まあ、酒どころで昼から飲むのはよいこと。その場で盛り上がるのはよいこと。・・ただ、その後はおっさん連中もグダグラになって、公式には14時までにはお開き、現地解散となったのだが、だいたいは京阪で大阪に戻った後に二次会と称してさらに飲んでいた。人によっては三次会、四次会となり終電で自宅に帰ることができなかったとか、気づいたら駅のホームで寝ていてカバンがなくなっていたとか、数々の武勇伝もあった。

それも伏見の魔力、お稲荷さんの使いの狐か、白河上皇・鳥羽上皇によるものか・・。今となっては懐かしい想い出の一つである。

そういうことも懐かしみつつ、商店街にある「理容プラージュ」で散髪。私の出身地・藤井寺市に本社を持つ数少ない全国展開企業「阪南理美容」。実はこの後で一献の店を予約していたのだが、予定よりも早く伏見に着いたので時間を繰り上げられないかスマホを操ったが変更不可だった。そろそろ散髪のタイミングだったし、さすが「理美容業界年商日本一」だけあってほどよく混んでいたことで待ち時間を過ごすことができた。

オプションでシャンプーもしてもらいさっぱりしたところで向かったのが、商店街の路地にある「伏見酒蔵小路」。伏見の酒、そして京の美味いものを味わってもらおうというところ。町屋風の入口である。

一つの建屋にさまざまなジャンルの店が並ぶ。その中でメインとなるのが酒蔵カウンター。予約していた店というのはこちらである。壁には伏見の酒蔵の看板が並ぶ。

まずは京都の「乾杯条例」にもとづいて、お通し代わりの1杯が出てくる。「乾杯条例」とは、京都の伝統産業である清酒の普及の促進のためのもの。

「伏見酒蔵小路」のメインは、伏見の18の酒蔵のきき酒セット。こちらが6×3の升で出てくる。グラス1杯が20mlで、18杯だとちょうど2合だが、杯がこれだけ並ぶと圧巻である。

店の人の説明だと、この18杯も勝手に並べているのではなく、奥の列から、そして左から右の順に味わってほしいという。奥の列の6杯は冷たい状態で飲むのが美味く、手前に来るに連れて、ぬるくなっても美味く楽しめる銘柄という。酒蔵に優劣をつけるわけではなく、後は飲む側の好き好きだ。

アテには京の漬物3種と枝豆の酒粕味噌和えのセット。そして単品で寄せ豆腐を注文。いずれも清酒に合うところだ。「伏見酒蔵小路」では、席にいながら他の店のメニューを「出前」で注文することができる。割烹や鉄板焼き、ラーメンなどなど。まあでも、ここでじっくりやるのがいいかな。

同じ2合でも、居酒屋で2合徳利や冷酒の300ml瓶だったらあっという間になくなるが、きき酒セットだと様々な味が楽しめ、おのずとじっくり味わうことになる。私は18種類の味を舌で区別するだけの力量はないが、飲み比べで気に入ったものがあれば追加単品で飲むのもよし、また別のセットもあるが、さすがは伏見、値段はそれなりにかかる。

魚ということで、鮎の一夜干し。10cmほどの小鮎が3尾、七輪であぶっていただく。18種類のきき酒も、後に来るほどしっかりした味わいの一杯が続くように感じられ、こうした魚にも合うかなと。

ほどよい時間になったので店に戻り、桃山御陵前に戻る。大手筋商店街近辺には他にも酒場があるようで、日曜の昼下がりの一献というのもよいものだ。そして近鉄で京都に向かうことに・・・。

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京都3番「城南宮」~神仏霊場巡拝の道・100(とうとう100ヶ所目!)

2024年04月18日 | 神仏霊場巡拝の道

4月14日、近鉄の桃山御陵前から竹田に移動する。この日3ヶ所目で、今回の目的地である京都3番・城南宮の最寄り駅である。ここ竹田は近鉄京都線と地下鉄烏丸線が合流する駅で、双方乗り入れている。桃山御陵前から乗ったのも地下鉄の車両だ。

駅名標を見ると、表と裏で地下鉄、近鉄それぞれのデザインである。

それにしても今回は京都市南部のジャンクションを渡っている。六児童、桃山、そして竹田。

城南宮へは駅から徒歩15分ほどとある。バス乗り場もあるが、城南宮方面に行く便はなかなかなさそうだ。そのまま歩くことにしよう。その一方、「伊藤忠グループ社員ご家族ご招待会 会場行き 無料送迎バスのりば」の看板が立ち、その先にバスが停まっている。どこで何が行われるのだろうか。

竹田駅の上を名神高速が横切っており、その高架沿いに歩くと名神高速を跨ぐ道路との交差点に出る。第二京阪道路である。名神高速の京都南インターも近くにあり、鉄道だけでなくクルマの要衝でもある。

第二京阪に沿って歩くと出るのが白河天皇陵。白河天皇は退位後も上皇の立場で政治を行い、院政の始まりとされる人物である。

歩くと暑さすら感じられる中、城南宮はその先にある。平安遷都に際して、都の守護と国の安泰を願って建てられ、院政を敷いた白河上皇や鳥羽上皇の時には離宮として拡張されたところ。また時代が下ると戊辰戦争の始まりである鳥羽・伏見の戦いの舞台ともなったところで、政治体制が変わる節目の地とも言えるだろう。

また、白河上皇や鳥羽上皇は熊野御幸を何度も行っている。城南宮はその出立の地となったところで、そういえば前回神仏霊場めぐりで訪ねたのが熊野三山。そこでのあみだくじの結果、次の目的地が熊野御幸の出立の地だったとは面白い。

その城南宮で有名なのは、方除の祈願。日々の暮らしの中で、悪い方位に行ったり、家の間取りがよくないことがあるが、それによる厄災を避けるために行われるのが方除。方角がどうのというのを名神、もとい迷信と片付けるのは簡単だが、人間も自然の一部で、地球の磁場の流れや風・水の動きから何らかの作用を受けるならば、理屈では言い表せない良い・悪いが生じるのだろう。

拝殿・本殿は昭和の再建だが、平安時代後期、まさに院政時代の建築様式である。本殿の奥にもさまざまな祠があり、ぐるり一周する。

神楽殿に向かって座席が設けられ、落語家の札もあがっている。この日(4月14日)は方除大祭の当日で、午前・午後の2回に落語の奉納が行われるとある。私が訪ねたのはちょうどその合間のことで・・。

朱印をいただく。こちらにも「方除の大社」の文字がある。そして、ここ城南宮まで来て、神仏霊場巡拝の道も特別霊場の伊勢神宮を含めて100ヶ所目となった。これで全体の3分の2を回ったことで、大掛かりなこの札所めぐりもいよいよ終盤に入る。

城南宮には境内を囲む神苑と呼ばれる庭園があり、平安時代の風情をイメージした造りだという。当時の貴族の遊びだった曲水の宴が行われることでも知られる。今はつつじが見頃との案内もあるが、庭園はまあいいか・・。

その代わり、次の行き先を決めるあみだくじである。まず予備のくじ引きで出たのは・・

・松尾大社(京都7番)

・根来字(和歌山9番)

・東大寺(奈良1番)

・興福寺(奈良3番)

・今宮戎神社(大阪4番)

・大覚寺(京都9番)

結構有名なところが並ぶ。中でも東大寺、興福寺という奈良を代表する寺院が2つ入っており、これらの引きが結構強そうだ。

そしてあみだくじの結果は・・・興福寺。これには驚く。まあ、4巡目も残り少なくなった西国三十三所の札所でもあるし、興福寺に行くのなら周辺の他の札所も一緒に行くことになるだろうし、6月9日までは奈良国立博物館で弘法大師空海に関する特別展も行われているので、チェックしたい。

竹田駅に戻ることにする。来た時とは別の道を通ると、北向山不動院に着く。かつて、近畿三十六不動めぐりの札所として訪ねたことがあり、城南宮はその後に訪ねている。鳥羽上皇の勅願で開かれた寺で、本尊不動明王が北にある平安京の方角を向いて護っていることからその名がつけられている。

最後は隣接する鳥羽上皇陵を過ぎる。白河上皇もそうだが、この地に陵墓があるということはよほど洛南の地を気に入っていたのかなと思う。かつての洛中は摂関政治のせいで腐れきっている、そのしがらみを断ち切った地でオレたちの楽園を造るのだ、そして熊野にもじゃんじゃん行くのだ・・・。

竹田駅に着き、再び京都地下鉄の車両で桃山御陵前に移動する。せっかく伏見に来たのだから伏見の酒で一献・・ということだが、それが神仏霊場巡拝の道・100ヶ所目到達の祝杯になるとは・・・。

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京都2番「御香宮神社」~神仏霊場巡拝の道・99(伏見の安産祈願と御香水)

2024年04月17日 | 神仏霊場巡拝の道

春の京都・伏見の神仏霊場めぐりである。まずは京都46番・醍醐寺に向かい、地下鉄で六地蔵までやって来た。

ここ六地蔵は地下鉄、京阪、そしてJRと3路線が接続している。元々は京阪の駅だけだったのが、平成になってJR奈良線の駅ができ、そこに地下鉄が延伸してきた。それぞれに使い勝手があることから周辺にはマンションも建ち並ぶようになった。

さて、次に向かうのは京都2番・御香宮神社。読みは「ごこうのみやじんじゃ」である。六地蔵からどう行くかだが、JRで1駅、次の桃山で下車するのが最短のようだ。221系使用の普通で移動する。途中右手に高台があるが、その奥に広がるのが明治天皇陵(伏見桃山陵)である。明治維新に際して都が京都から東京に遷ったわけだが、陵墓が京都に造営されたのは明治天皇の「生まれ故郷である京の地で眠りたい」という生前からの意向で、その用地もあらかじめ確保されていたそうだ。豊臣秀吉が建てた伏見桃山城の跡地でもある。

桃山で下車。明治天皇陵がここに造営されたことで拡張され、戦前は御陵に参拝する人で賑わったという。今は地元の人が気軽に利用する駅だが・・。

駅からすぐのところに、伏見桃山城への大手筋通が走る。その通り沿いに御香宮神社の境内が広がる。

ここは初めて訪ねる。明治天皇陵の近くということで、「御」の文字を見ると明治天皇に関係する神社かなと思ったが、表門はかつての伏見城の大手門を移築したものである。いやそもそも、御香宮神社じたいの歴史はもっと古く、遅くとも平安時代初期には社殿が造営されたとの記録があるそうだ。「香」の文字は、境内から香りのよい水が湧き出ていて、その水を飲むと病が治ったことから、時の天皇から「御香宮」の名前を賜ったという。また、神功皇后を祀る香椎宮を勧請したことで「香」の文字がついたとも言われている。

境内、そして拝殿には宮参りの赤ちゃん連れの姿を見かける。記念撮影のための照明スタンドが立ち、スタッフらしき姿の人も見える。主祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、菟道稚郎子命、仁徳天皇・・といった、あの辺りの神々(あの辺りといったら失礼か)。安産・子育て祈願の神社として知られているようで、次々に神官による祝詞奏上が行われていた。

本殿の脇に「御香水」がある。秀吉の後に伏見城に入ったのは徳川家康だが、その時に産まれ、後に徳川御三家の祖となる徳川義直(尾張)、徳川頼宣(紀伊)、徳川頼房(水戸)はこの御香水を産湯として使ったという。その横には水汲み場があり、授与所で購入したペットボトルに汲む。いや、別に私は安産・子育て祈願には関係しないが、この辺りは酒造りが盛んなところ。一つの水脈ではないかと思う。そうすると、「御香水」は伏見の酒の源といっていいかもしれない・・。

境内には酒樽の奉納も目立つ。つまりそういうことだろう。

御香宮神社を後にする。通りには朱色の大鳥居もかかる。その一方、御香宮神社に隣接して桃山基督教会というのがある。城下町であり、さらに神社の隣に教会というのを意識してか、和風建築である。

その脇に「黒田節」の案内板があって思わず足を止める。黒田家の家臣・母里太兵衛が福島正則の屋敷に招かれた際、大杯の酒を飲み干した褒美に「日本号」と称された槍を所望して見事持ち帰ったのだが、その逸話の舞台は伏見だったという。「酒は飲め飲め飲むならば~」の酒とは、伏見の酒だったということか。母里太兵衛が見事飲み干したのも、それだけ伏見の酒が美味かったから・・というさりげないPRかな。

近鉄の桃山御陵前、京阪の伏見桃山の両駅に着く。このまま伏見の酒で一献!・・といけばいいのだが、今回の目的地である京都3番・城南宮を訪ねてからである。伏見桃山一帯も、京阪、近鉄、少し離れてJRと、鉄道の要衝で賑わっているなあ。

次の城南宮の最寄り駅は近鉄の竹田。ということで、桃山御陵前から近鉄京手線で移動・・・。

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京都46番「醍醐寺」~神仏霊場巡拝の道・98(醍醐の桜は葉桜で)

2024年04月16日 | 神仏霊場巡拝の道

4月14日の神仏霊場めぐり。新大阪から特急「ひだ25号」に乗車し、京都で下車するという荒技を使い、山科に到着。まずは、京都46番・醍醐寺を目指す。

山科から醍醐寺へは、地下鉄で醍醐駅まで行って歩くか、バスで醍醐寺前に行くかである。どちらでも所要時間にはさほど差はないようだが、たまたま京阪六地蔵行きバスの時間が近いようなのでそちらで行くことにする。醍醐寺といえば桜の名所、さぞかし参詣者、花見客で混雑すると思いきや、朝9時前という時間帯のためか空席もあるくらいで出発。途中、特に渋滞することもなく順調に醍醐寺に到着。

最寄りである醍醐寺前のバス停は寺の門前の決して広くない通り沿いにあるのだが、桜の時季の混雑対策ということで、駐車場内に各方面への醍醐寺バス停が設けられている。

改めて門前に出る。枝垂桜があるのだが、さすがに満開を過ぎて葉桜となっている。

拝観料は、三宝院、霊宝館、そして伽藍がセットで1500円。どれか単品で・・とはいかない。あくまでこれらが合わさっての醍醐寺(下醍醐)だということだ。

窓口の係の人は、まず三宝院から拝観するよう案内する。三宝院は醍醐寺の本坊の役割を果たしていたところで、庭園は豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して整備したものである。

「五大力さん」で持ち上げられる紅白の鏡餅もある。もっとも本物の餅は縁起物として切り分けられるそうだから、これはレプリカかな。

庭園を一通り眺める。

霊宝館は最後に回るとして、先に伽藍に入る。その参道の両側にチェーンが張られていて、警備員が立っている。この日は午後から「豊太閤花見行列」が行われる予定で、ここはそのコースになっている。まだ3時間以上前だが早くも場所取りをしている人もいるため、警備員も配置しているのだろう。逆に私は、この祭りがあるのを知って、混雑を避けるために先に参詣した次第である。

山門をくぐった先には「醍醐 桜まつり」のぼんぼりが立ち、豊臣家の桐の紋をあしらった幕が張られているが、その上に広がるのは桜というよりは新緑である。

醍醐寺として、神仏霊場としての本尊である薬師如来を祀る金堂に着く。「豊太閤花見行列」の後、特設舞台で舞楽の奉納が行われるそうで、有料の観覧席の設営が行われているところだ。情報によると有料の観覧席の値段は3000円。伽藍の拝観料1500円とはまったく別払いだから、観覧席で舞楽を鑑賞するならひとり4500円かかることにある。まあ、それだけの価値のあるものだろうし、インバウンドの人たちにとってははした銭だろう。

五重塔。もう1週間早ければ境内全体の桜も満開で見頃だっただろう。

納経所は奥の観音堂にある。醍醐寺の西国三十三所の本尊である准胝観音もこちらに祀られている。元々は上醍醐の准胝堂に祀られていたが、落雷による火災でお堂が焼失したため、現在はこちらに安置されている。他にも上醍醐には諸仏が祀られていたが、なかなか管理保全が行き届かず、こうした焼失のリスクも考慮され、現在は下醍醐や霊宝館などで大切に守られている。

「4月15日 日本巡礼文化の日」とある。見慣れない幟だが、西国三十三所札所会が「巡礼で良いご縁(4・1・5)を結ぶ日」ということで、4月15日はサラダ記念日・・もとい「日本巡礼文化の日」に認定されているという。4月15日を中心に西国三十三所の各札所では記念法要を行うとあり、今季は能登半島地震で亡くなった方の追悼や被災地の復興を祈念するという。

観音堂にて改めてお勤めとした後、納経所の列に並ぶ。醍醐寺の納経所の仕組みは独特で、まず希望の朱印について申込用紙の該当欄に冊数を記載する。醍醐寺はさまざまな札所めぐりの寺院になっており、また本尊の数も多いのでリストはかなりのもの。そして、先に御守り等の授与所で会計を済ませ、領収済みのスタンプが押された申込用紙を手にして列に並ぶ。行列になるのは納経所の係の人の怠慢ではなく、一度に複数の納経帳が提示されること、それに対して一筆一筆丁寧に書くことにより、どうしても時間がかかるため。

かくいう私も、西国三十三所の先達用納経帳の重ね印、そして神仏霊場の納経帳を差し出しているから人のことは言えない。醍醐寺での納経所での待ち時間もこの日の行程には勘案しているので、そう焦ることもない。札所によって本尊も変わるので、書くほうはどれがどの本尊の墨書かの確認も必要だ。「神仏霊場はお薬師さんやな・・」とつぶやいた後、筆を走らせてくれた。

境内は一方通行の措置が取られていて、五重塔の手前から伽藍の外に出る。こちらではトレッキング姿の人が目立つ。下醍醐の伽藍を経由せず、直接上醍醐に向かうようだ。上醍醐は上醍醐で別途拝観料というのか入山料が必要なのだが、「醍醐の花見」の跡地や、植えられた桜は上醍醐に固まっている。確か上醍醐の伽藍までは1時間くらいかかるはずだが、トレッキングとしてはちょうどよい距離・時間、何ならその先、笠取峠を越えて岩間寺まで行こうか・・・というくらいだ。

霊宝館にも枝垂桜があるが、一部を除きこちらも葉桜。なかなか、花の見頃と旅程がばっちり合うというのも難しいものだ。

館内では企画展「公家ゆかりの寺宝」としてさまざまな史料が並び、平成館の広大なスペースでは五大力像や薬師三尊像が出迎える。

この企画展でPRされていたのが、今年(2024年)は醍醐寺開創1150年ということ。また、6月~8月に、開創1150年の記念行事の一つとして、厳選した国宝や重要文化財を集めた展覧会が大阪中之島美術館で開かれるという。中之島、機会が合えば訪ねるとしようか。

結局、醍醐寺だからといって特に混雑したところもなかったが(納経所も思ったより早く済んだ)、次に向かう。次は京都2番・御香宮神社で、醍醐寺からだとバスまたは地下鉄で六地蔵まで行き、JR奈良線で1駅京都寄りの桃山で下車するのがよさそうだ。臨時バス停がある駐車場に行くと、ちょうど六地蔵行きのバスが発車したばかりで、次の便は20分待ちである。

ここで待つくらいなら少しでも移動しようということで、地下鉄の醍醐駅まで歩く。開発された住宅団地の中にも桜があり、これもある意味「醍醐の花見」かな。

醍醐から地下鉄で六地蔵に移動する。この先は御香宮神社、城南宮と、洛南の札所をめぐる。その後は打ち上げ、一献ということでふたたび伏見を目指す・・・。

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神仏霊場巡拝の道~特急「ひだ」で春の京都へ

2024年04月15日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐり、しばらくはJR西日本の西国三十三所めぐりキャンペーンのデジタルスタンプラリーをコンプリートさせるべく、札所めぐりは該当の寺院(というより駅)を訪ねることを優先した。そのおかげで3月に無事「満願」となり、記念品として三十三所があしらわれたオリジナル手ぬぐいをいただいた。さらに、満願の記念プレゼントにも応募したが、さすがにこちらは倍率も高いようで、当選の通知はない。

さて、前回の札所めぐりのゴールとなった青岸渡寺からの帰途で行ったあみだくじの結果、次の目的地は京都3番・城南宮となった。京都にもまだまだ札所が残っているが、今回は洛南地区。京都3番・城南宮の他、桃山御陵前にある京都2番・御香宮神社、そして京都46番にして西国11番である醍醐寺が東西に並ぶ。醍醐寺については、札所より先にデジタルスタンプラリーをJR六地蔵駅にて獲得している。

出かけるのは4月14日の日帰り。当初、この日は京セラドーム大阪で行われるバファローズ対ファイターズを観戦するとして、指定席を確保していた。ただ、札所めぐりも進めたいし、散りつつあるとはいえこの春桜を見る最後のチャンスではないかと思う。結局チケットは公式リセールにて販売し(買い手の方、ありがとうございました)、代わりに日本旅行の広島~新大阪の日帰りプランを予約した。京都に行くのに新大阪往復というのも妙な話だが、京都往復で購入すると割引のメリットが薄れてしまう。JR東海が絡むからか・・?

この3ヶ所をどのような順番で回るか。ちょうど14日は醍醐寺で「豊太閤花見行列」というのが行われるとある。ああそうか、秀吉が晩年に「醍醐の花見」を行ったところである。毎年第2日曜日、桜が開く境内を秀吉や北政所、淀殿らに扮した人たちが行列し、本堂にあたる金堂前では舞楽の奉納が行われるという。有料の観客席券も発売されている。

ということで、朝の新幹線で出発し、まず醍醐寺に向かうことにする。これは花見行列を観たいためでなく、逆に避けたいがためである。桜のこの時季、醍醐寺には多くの参詣者や花見客でただでさえ混雑していることだろう。それが花見行列や、金堂前での舞楽奉納の時間と重なったら大変だ。そのため、行事の前に醍醐寺を回っておき、その後で御香宮神社、城南宮と移動するのがよさそうだ。

さて、ここまで前置きしたうえで、14日は6時26分発の「のぞみ76号」で出発。順調に走り、7時55分に新大阪到着。このまま京都まで乗れば早く着くが、きっぷの都合上ここで新幹線から在来線ホームに向かう。

その京都への移動。通常なら新快速、あるいは快速に乗る区間だが、このところあえて別途料金を支払っても特急に乗ることがある。遠方から来ていることもあるし、「乗り鉄」要素を盛り込もうというのがある。「サンダーバード」、「はるか」、「スーパーはくと」といったところに乗っている。

今回目に留まったのが、高山行きの「ひだ25号」。土日祝日ダイヤだと大阪8時02分、新大阪8時07分に発車する。非電化区間の高山線に乗り入れるということで、2023年からはハイブリッド方式のHC85系が使われている。この形式、紀勢線の「南紀」で短区間乗車したことがあるが、今回は「ひだ」として乗ってみよう。

わざわざ指定席を予約していた。新大阪発車時点では空席もそれなりにあったが、やはり外国人観光客が多い。大阪・京都から高山まで乗り換えなしで行くことができるのはやはり大きなポイントなのだろう。外国の方というのは列車の中でも平気で大声でおしゃべりするのが当たり前なので今さらそれに目くじらを立てるつもりはないが、あきらかに英語ではない言語、たぶんフランス語かイタリア語かではないかと思うが、多様な言語が飛び交う。ただ、その中にあって負けないのが大阪弁・・・。

気動車なのでエンジン音は聞こえるものの、いかにも頑張っているんやで!という感じで馬力の音を出すわけでもなく、エネルギーを上手く使ってまっせ!というのが車端の電光掲示板で表示される。あっという間に高槻から京都への境目を走り抜き、京都駅が近くなる。

8時32分、京都着。下車したのは私のほかに数人いたかどうかというところだが、外国人観光客を含めて新大阪発車時以上の乗客が乗り込む。おそらく京都から先は満席に近い状況のようだ。「ひだ25号はこの先、草津、米原、大垣ととおり、岐阜から高山線に入る。

ふと時刻表を見ると、大垣まで乗り換えなしで行けるのか、大垣には9時46分に着くのかと感心する。それなら、西国三十三所の第33番・華厳寺に向かうのに、大垣まで「ひだ25号」でアプローチするのも面白そうだな・・と思いつく。大垣からは養老鉄道、垂水鉄道、そしてコミュニティバスの本数が限られるのでメリットがあるかどうかだが・・・。

まずは醍醐寺を目指すべく、京都からは長浜行きの快速(普通)に乗り換え、山科で下車する・・・。

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神仏霊場巡拝の道~最後は「くろしお」でロングラン

2024年03月25日 | 神仏霊場巡拝の道

3月10日、熊野三山詣でからの帰りは紀伊勝浦15時21分発「くろしお30号」である。終点新大阪着は19時21分ということで、ちょうど4時間の乗車となる。4時間の乗車といえば、ちょうど東京から広島までの「のぞみ」の所要時間と同じくらい。新幹線と在来線特急で単純比較はできないが、紀伊半島をぐるりと回って大阪に至る道のりはやはり遠いということだ。

今は国道バイパスができたり、和歌山3区のあの方のご威光で高速道路も少しずつ延伸してはいるが、遠いのは遠い。

列車の発車前に、駅近くのコンビニまで行って車内での飲食物を購入する。その一方で、駅前の土産物店でマグロやクジラの加工品を購入する。クジラといえば大和煮の缶詰が有名だが、この辺りならではの一品が「鯨ハム」。鯨ベーコンとは違うし、一般的な豚肉のハムとも異なる。鯨肉の切り落としを熟成させたもの。車内でのおつまみにと思ったが結局そのまま自宅まで持ち帰り、まだお楽しみに取っている。

ホームにはそこそこの乗客がいたが、車内に入ると半分も埋まらない状況。春休みの少し前の時季ということもあるだろう。車両の一番後ろの席を確保し、シートの背も高いので、自分だけの空間で落ち着ける。後ろの壁にあるコンセントに接続してスマホの充電も可能だ。

まずは紀の松島から太地にかけての海岸。かつて補陀落渡海として舟を漕ぎ出した地である。源平の戦いに敗れた平維盛が入水したところでもある。

捕鯨の町、太地に到着。今回は鯨やイルカの刺身はいただけなかったな・・。あと、勝浦でマグロの刺身も・・。

続いては、太地から古座にかけての玉ノ浦。深い入江になっており、養殖いかだが浮かぶ天然の港であるとともに夏には海水浴場としても賑わう。

その一方で外海の景色も広がる。くろしお、熊野灘。旅の最後の車窓を十分に楽しませてくれる。

串本の手前では建物越しではあるが、橋杭岩の一部も目にすることができた。

本州最南端の駅・串本に到着。橋杭岩や潮岬に行くことはなくそのまま乗り通すのが残念。ただ、ここでふと思い出したのが、「神仏霊場巡拝の道、次の行き先を決めていなかった」ということ。このところ、JR西日本の「駅からはじまる西国三十三所デジタルスタンプラリー」の期間内での「満願」を優先して、くじ引き&あみだくじではなく、神仏霊場巡拝の道もそれに近いところを決めていた。ただ、それが終わった以上、次はどこに行くかを決めなければ。

急遽、停車中に慌ててくじ引きで候補を選定する。

・城南宮(京都3番)

・毘沙門堂(京都47番)

・阿倍野神社(大阪3番)

・醍醐寺(京都46番)

・松尾大社(京都7番)

・青蓮院(京都35番)

・・・今度は揺り戻しのように京都の各寺社が並んだ。その中であみだくじで出たのは、城南宮。京都市南部の札所である。ここなら、候補にも出ていた醍醐寺もセットで訪ねることになりそうだ。次にいつ行くかは未定だが・・。

ここで線路の向きが変わることで、海側がまぶしく感じるようになる。周参見にかけtの枯木灘沿岸である。

16時50分、白浜に到着。ここで6分停車。さすがに白浜からは温泉、レジャー帰りの人たちがそれなりに乗り込んでくる。

紀伊田辺に到着。前日はここから熊野古道の中辺路ルートをたどったが、海沿いの大辺路ルートで合流点に戻って来た。今回の旅、ある意味ここまでが「往路」で、紀伊田辺から「復路」とも言える。ちょうどこの辺りが乗車区間の半分くらいである。

南部から印南にかけての区間で、そろそろ日が西に沈む・・・。

和歌山に到着。紀ノ川を渡ったところまでは覚えているが、その後は天王寺着までウトウトと・・。

19時21分、終点新大阪に到着。4時間、お疲れさまでした。

混雑する新幹線コンコースに出る。日曜日の夕方ということで多くの客でごった返していたが、有人改札にも多くの列ができていて、ちょっと様子がおかしい。この後は新大阪19時50分発の「のぞみ187号」の指定席を予約していたのだが、東海道・山陽新幹線はダイヤが乱れているようだ。急遽車両の点検を行ったとか、架線に飛来物が付着したとか、複数の要因が重なったようだ。

東京からの「のぞみ187号」も遅れているようで、急遽、19時54分発「みずほ615号」の自由席に乗る。翌日からまた仕事なので少しでも早く帰宅するためにはやむを得ない。

さて、今回の熊野三山詣でで和歌山県の南半分をクリアすることができ、また札所も100ヶ所に近づいた。全体の3分の2近くを回ったことになるが、まだまだ交通の難所もあるし、もうしばらくは楽しむことになりそうだ・・・。

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和歌山2番「青岸渡寺」~神仏霊場巡拝の道・97(那智の滝を拝む)

2024年03月23日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場めぐりの熊野三山詣では熊野那智大社の参詣を終え、隣接する青岸渡寺に入る。隣接といっても、元々は那智の滝を中心とした自然信仰の場として開かれ、神仏習合の考えが広まった平安時代からは那智大社と一体化していたところである。青岸渡寺にも山門があり正しくはそちらから参詣するところだが、毎度こうして那智大社の通用門のようなところから境内に入る。まあ、元々一体化しているのならこうした通用門もなかったはずだが・・。

青岸渡寺の本堂は元々熊野権現における如意輪堂として、安土桃山時代、豊臣秀吉の手により再建されたものである。

明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の際、熊野本宮大社、熊野速玉大社にある仏堂はすべて取り壊されたが、熊野那智大社の如意輪堂は、西国三十三所の1番札所であったこともあり、仏像は他に移されたものの、建物だけは残されたという。神仏分離が明けた後、青岸渡寺として復興した。如意輪堂は青岸渡寺の本堂となった。

本堂に上がり、お勤めとする。熊野三山の名所の一つということもあり、この寺はいつも参詣者で賑わっている。

青岸渡寺で思い出すのは、やはり西国三十三所を回り始めた当初の日帰りバスツアー。某旅行会社の企画だが、シリーズの初回ということでツアー料金は安く設定されているが、大阪から延々とバスに揺られ、昼食は車内での弁当、一応、那智の滝には立ち寄ったが那智大社・青岸渡寺の滞在時間もわずかでまたバスに揺られ・・・。

本堂の外陣でお勤めとして、朱印をいただく。西国三十三所の先達用納経軸の青岸渡寺の欄は、西国観音曼荼羅で八角形の札がすべて揃った特典の1巡分も含めてすべて埋まった。私の実家地元にある第5番・葛井寺に次ぐもので、ここまで来ると、この先達用納経軸もコンプリートしたいものだと改めて思う。

本堂の横には三重塔と那智の滝を望むスポットがある。このまま那智の滝まで歩き、滝前のバス停から紀伊勝浦駅に戻ることにする。

さて、帰宅してから記事を書くにあたり青岸渡寺に関する記事をネットで見ていると、神仏分離の際に取り壊された行者堂が、およそ150年ぶりとなる2023年10月に再建、落慶法要が行われたとある。行者堂? それがあるとはまったく気づかなかった。かつては現在の那智大社の境内にあったのが、青岸渡寺の境内に移す形で再建されたという。改めて調べると、本堂から三重塔方面への道の途中の左手にあるようだ。本堂から三重塔へは滝を気にしながら、また途中トイレに立ち寄るなどしており、案内板もあったのかもしれないが、何の気なしに通り過ぎたようだ。

三重塔方面に向かっているとウィーキングツアーらしき人たちとすれ違う。ガイドとともに、普段は立入禁止となっている那智原始林と、その中にある那智の滝の二ノ滝、三ノ滝をめぐるコースだという。

古道の石段を下りて那智の滝、那智大社の別宮にあたる飛瀧神社に向かう。熊野というか、南紀を代表するスポットといえる。滝壺までの落差133メートル、その流れの様は何度見ても新鮮である。熊野三山、熊野古道には昔の信仰文化が現在にも残されるとして世界遺産に認定されているが、那智の滝は、熊野古道の佇まいがどうとか、神社の建物がどうとかいうのを超えて、訪れる人たちを魅了する存在といえる。

それにしても、滝を見ると「この滝を斬れ!」というフレーズが頭によぎってしまう。

参入料を納め、滝を近くに見る舞台に向かう。途中、滝壺の水が流れる龍の口から湧き出る水をいただくことができる。盃とともに、ちょうど空いたペットボトルにも汲んでこの先の道中でありがたくいたたく。

少し近いところで滝を拝む。こうして眺めることができるのは那智の一ノ滝で、この奥に普段立入禁止の二ノ滝、三ノ滝をはじめとした「那智四十八滝」が広がる。四十八というのは必ずしも滝が48本あるということではなく「たくさんある」というくらいの意味だが、この奥には、かつての修験者たちの修行の場であり、花山法皇もここで修行して西国三十三所の再興につなげた歴史がある。

バス停に戻る。ちょうどバスを待つ国内外の旅行者が長い列をなし、やって来たバスは満員となった。

これで今回の目的地であった熊野三山めぐりは終了。この後は長躯、「くろしお」から「のぞみ」を乗り継いで広島までひた走ることに・・・。

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