まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第9番「金剛寺」~西国四十九薬師めぐり・18(令和改元から1年)

2020年05月01日 | 四国八十八ヶ所

新元号「令和」になってからちょうど1年。今から1年前といえば明るい雰囲気の中での改元ムードで、「平成最後」「令和最初」というキーワードが至るところに出ていたなと思い出す(このブログでも多く使っていた)。

そして改元から1年経ったところで、こうした状況である。ひょっとしたら、元号が改まった後の数年というのは激震が走るのかもしれない。明治では明治維新、大正では大正政変、昭和では昭和恐慌、平成ではバブル崩壊だったかな・・と思うと、令和では新型コロナウイルスということになるのだろう。令和が歴史の教科書に載る頃、後の世の人から見てどのような記述がなされるのかなと想像するのも面白い。

さてそんな中で大型連休期間に入った。この連休中、当初は中国観音霊場の山口県シリーズの続きということで、周南市~山口市~宇部市を4日間で回る予定を立てていた(オプションで徳山から国東半島にも渡るのもありかと考えていたところ)。中でも山口に行くのならと、湯田温泉のホテルも前から押さえていた。しかしこの状況である。

いずれも札所の寺そのものは拝観停止にはなっていないようだが、この機会に訪ねようと思っていた博物館、資料館等のスポットはいずれも臨時休館となっているし、宿泊地の夜の飲食店も軒並み閉めているようだ。

前回の3月は半ば「強行」のような形で新幹線とレンタカーで山口県東部を日帰りで訪ねた。大型連休中、例えば1日だけ、徳山の1ヶ所だけでも行けないものかとも模索したが、結局はすべてを延期することにした。例え日帰りでもわざわざこのために新幹線で往復というのもいかがなものか。日を改めて同じ内容で行うか、あるいは山口県内をさらに細切れにして行き来するかはまた考えることにする。

それでも札所めぐりとして身近なところに目を向けると、西国四十九薬師霊場がある。先日、自宅から近場への散歩という意味で羽曳野の野中寺を訪ねたが、くじ引きとサイコロの順序で行けば次の番は奈良・五條市の金剛寺である。県をまたぐ移動には該当するが、失礼ながら大勢の人出があるというところでもないだろう。別に団体で行くわけでもなく、静かに行って静かに戻るぶんにはどうだろうか。日常の買い物のためにスーパーの密接した空間の中で長い列に並ぶ、あるいは賭博玉入れをやるよりも「3つの密」は低いと思うがどうだろうか?

さて、五條へはJR和歌山線か、奈良交通の路線バスのいずれかで行けるし、また鉄道の乗り換えポイントもいくつかあるが、今回は近鉄吉野線の吉野口でJR和歌山線に乗り換えることにした。吉野口から五条(駅名は「五条」)へは2駅である。

藤井寺から吉野口まで行くなら急行への乗り継ぎが標準だが、ここはあえていったん大阪阿部野橋まで出て、特急に乗ってみよう。3月に「ひのとり」デビューに絡めた近鉄特急の乗り比べを行ったが、その際南大阪線で利用したのは「青の交響曲」。ただ今回は、元祖の16000系を狙ってみる。むしろこうした昔ながらの車両に乗る機会を持っておいたほうがよい。

今回乗ったのは10時40分発の吉野行き。入線して、編成が16000系の4両であることを確認した後で特急券を買う。まあ、近鉄特急の場合ごく一部の列車を除けば満席になることもない。ちなみに、今回の緊急事態宣言を受けて、近鉄では5月23日以降発車以降当面の間、特急券の前売り発売を1ヶ月前から1週間前に変更することにしたが、多くの利用者にとっては特段大きな影響が出るものでもないだろう。

シートも昔ながらのいわゆる簡易リクライニング。そしてひじ掛けから出る小さなテーブル。昔ながらのスタイルを味わうのもこれからは貴重な出会いになるだろう。

大阪阿部野橋を発車した時、私の乗った車両には他に4人の客がいたが、橿原神宮前までで全て下車。吉野線からは1両貸切となった。50分ほどで吉野口に到着した時も下車したのは私だけだった。

次の和歌山線の和歌山行きまで少し時間があるのでいったん改札口の外に出る。静かな駅前である。

吉野口はJRと近鉄の共同管理で、同じ構内での乗り換えが可能となっている。島式の2番線(近鉄 橿原神宮前、大阪阿部野橋方面)と3番線(JR 五条、和歌山方面)は同じホームだが、JR仕様の駅名標が表と裏で色や次の駅名が異なっている。また、2018年から和歌山線でもICカードの利用が可能となり(当初は高田~五条間だったが、2020年3月から和歌山までの全駅で利用可能)、ホームには乗り換え時にタッチする読み取り機が置かれている。

近鉄、JRともここで列車行き違いが行われるので、タイミングが合うと4つの番線に双方の列車が合計4本並ぶことになる。11時48分発の和歌山行きに乗る時もそうだった。

2019年から和歌山線の車両となったのが227系。外から見た形は最近のJR西日本の近郊型車両と変わらない。ただ内装はロングシートが並ぶ。このタイプ、和歌山線、桜井線(万葉まほろば線)のほかに紀勢線でも運用されるようになっており、ドアの横には津波が来た際の対処方法や避難はしごが置かれている。この両線、ローカル区間ながらロングシートにこだわるのはどういうことだろうかと思う(紀勢線の新宮から先のJR東海の区間もロングシート車だし)。

2両で乗客は数えるほどしかおらず、こういう状況のため鉄道会社からの案内もあって、あちこち窓が開いている。この時季、ちょうど気温もよく窓から入る風も心地よい。

次の北宇智を過ぎて、五条に到着。数少ない乗客もほぼ全て下車した。列車は和歌山行きなので、この先淡々と、駅ごとに少しずつ客を乗せるのだろう。

金剛寺へは駅から徒歩25分とある。このまま歩いて行けばいいのだが、今回五條まで(町のことなので「五條」に戻す)来たということで、あるスポットは見ておきたい。ここは五條市の観光スポットの一つだが、「3つの密」になることはまずないだろう。

駅からてくてく歩き、現れたのは「柿の葉すし本舗たなか」の本店。柿の葉寿司は奈良県の名物で、老舗もたくさんある。その中で有名な店の一つが「たなか」で、CMで故・大滝秀治さんの「つまらん!!」・・もとい「柿の葉すしはやっぱり『たなか』だなぁ~」というセリフが印象的である。ここで自分土産用にサバとサケの詰め合わせを購入する。

「たなか」の店からほど近くに中途半端なコンクリート橋が現れる。これが幻の「五新線」の跡である。今や五條市の観光スポットの一つにもなっている・・・。

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四国八十八所めぐり~高野山奥の院御礼参り

2019年04月24日 | 四国八十八ヶ所

一の橋から奥の院への参道に入る。これでもかという数の墓石、供養塔が並ぶエリアである。奥の院の御廟まではおよそ2キロ、いったいどのくらいの数があるのだろうか。世の中には何でも凝った人というのがいるものだから、限りなく正確な数というのも数えられているかもしれない。

昔の大名家の供養塔は史跡という扱いで案内板も出ている。石にへばりついた苔の厚さが年月を物語る。

一方で、管理する人もいないのか倒壊したままの供養塔も目立つ。こういうのはいずれ撤去されることになるのだろうが、墓石にも栄枯盛衰があるようだ。

中にはこのようなものもある。「八代将軍吉宗公之墓」の木札があり、その隣には「どなたか埋葬希望の方はこちらへご連絡を」と、連絡先の電話番号が書かれた札がある。そして同じ敷地に「大川家」ともある。大川家と吉宗、何か関係があるのだろうか。それとも、織田信長や豊臣秀吉の墓もあるくらいだから、紀州生まれの名君の名前だけ勝手に拝借したものだろうか。

また、平成になって新たに建てられた墓石もある。奥の院に墓を建てるとすればどのくらいの値段がするのだろうか。宗教宗派は不問とのことだが、一般の墓地と比べると墓石代はともかく場所代は結構するのではないか。一般庶民がそうやすやすと入れるものではないかもしれない(このようなことを書くのは、それほど遠くない時期に、両親の「終活」についても考えることになることを想定してのこと)。

御廟が近づくにつれて参詣者の姿も多くなってきた。旗を手にしたガイドに引率される一団もいる。御廟橋のたもとで地蔵菩薩、不動明王、観音菩薩に水を掛けた後、いよいよ橋を渡る。喪服姿の人も見られる。21日というのは関係なく、○回忌の法要なのだろうか。

まずは灯籠堂で手を合わせて、その後ろにある御廟に回る。ここで改めてお勤めとする。奥さんだろうか、体が不自由な感じで手を合わせる女性を支えるようにして、一連のお経を朗々と唱える男性の姿もある。他にも喪服姿の人もいるし、四国の笈摺姿の人もいる。それぞれが思いを持って、人によってはようやく念願叶ってという表情で手を合わせている。私も今回四国八十八所を一通り回った御礼参りで奥の院に来たわけだが、世にはその四国めぐりに強い気持ち(それこそ大切な人の供養だったり、ある願いを込めて歩き通すという)を持つ方も多く、その人たちにとっては奥の院まで来た感慨もそれだけ大きいことだろう。

それに比べれば私のやっていることは単なる札所めぐりでしかないわけだが、こうして無事にめぐることができた、それだけでもありがたく、謙虚に受け止めることなのかもしれない。

灯籠堂の地下に下りる。この奥では今でも弘法大師が修行を続けているとされている。奥にうっすらと肖像画が見えるが、そちらの方向から何かボソボソいう小さな声が聞こえてくる。一瞬ドキッとする。まさか弘法大師の修行に遭遇したとか。

ふと見ると祭壇の足元に雪駄が脱がれていて、奥では生身の僧侶が一人祈祷の言葉か何かをボソボソ唱えているのが見えた。何だかホッとした。

これで御廟を後にして、納経所に向かう。四国八十八所の納経帳を出し、最初にある奥の院のページを差し出す。係の人は「結願されたんですね」と喜ぶように反応し、気持ちよく筆を走らせる。こちらでは日付のゴム印を押してくれる。弘法大師の御影は有料(カラー300円、白黒200円)とのことだが、各札所でいただいたのと同じく白黒の御影をいただく。御影を額に入れるとなると結構な費用になるので、とりあえずは御影帳にて保管することにする。

最後は納経帳をおしいただいて返してくださる。これで四国八十八所めぐりも区切りである。もう一度回ってみたいかと尋ねられたとして、どうするか。今はそのつもりはない。ただ、また時間が経てば渡りたくなるかもしれない。そこは気の向くままにしたい。

中の橋まで、今度は企業関係の慰霊塔、阪神・淡路大震災や東日本大震災の犠牲者の慰霊塔が並ぶエリアを歩く。

中の橋のバス停に着く。ちょうどバスの本数も少ない時間帯で、長い列ができている。これで駅まで向かうが、途中からの乗車も多く、千手院橋では積み残しが出た。幸い、大門から駅に向かうバスが待っていて、運転手同士が無線で連絡し合ってそちらに乗るよう誘導した。

駅に到着。当然、ケーブルカーも満員である。

極楽橋からはまず各停の橋本行きに乗り継ぐ。同区間限定の転換クロスシート車両で、50パーミルの勾配を今度は下っていく。下りのほうが常にブレーキを利かさなければならず、レールの軋む音がより高く響く。

これは個人的な感想なのだが、行きに乗った「天空」と比べて、こちらのクロスシートのほうが景色をゆったり楽しめたように思う。自分の体と窓との距離感もあるのかな。「天空」のほうが中途半端な間隔のように感じられた。

途中、紀伊細川で行き違い停車があったり、上古沢駅の谷側ホームの線路が実は撤去中だったりと、各停ならではの発見もある中で、橋本まで戻った。同じホームの前側に停車中の急行に乗り換え、河内長野経由で帰宅。

さてこれで、平成の最後に2つの札所めぐりを終えることになった。で、次の令和である。これまでの西国三十三所めぐりは、3巡目に本格的に取り組むことにする。そして、これと並行して「新たな札所めぐり」というのも考えている。また新たな挑戦とでもいうか、訪ねたことがないところでの新たな発見の期待とでもいうか。これからである・・・。

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第1番「霊山寺」~四国八十八所「満願」

2019年03月18日 | 四国八十八ヶ所
高徳線の板東駅から霊山寺を目指す。駅からは道路に緑のラインが引かれている。霊山寺まで続いており、まず第1番を目指す人たちへの道案内である。これも広い意味での「お接待」と言ってもいいのかな。

午後の時間帯、今から歩き遍路をしようという人はいないだろう。どころか、地元の人を含めた歩行者の姿を見ない。

「四国第一番」の石柱に出る。この道を歩くと突き当りで霊山寺である。88の札所を回り、何だか懐かしい思いを持って正面に見える山門に向かう。境内は白衣、笈摺姿の人もあるが、「第1番」というのは普通に観光地的要素もあるようで普通に参詣する人も多い。

気持ちをリセットさせるつもりで手水を使い、右手の大師堂は後にして正面の本堂に向かう。本堂の外陣に吊るされた灯篭にも懐かしいものを感じる。改めてのお勤めである。これまで回ってきた数々の札所のことも思い出すところだ。

確か本堂の中に納経所があり、かつて巡拝した時は夏だったこともあり冷房に当たったのも覚えている。しかし現在は空きスペースになっており、納経所は外の駐車場にある遍路用品売り場と統合したとある。

不動堂、十三仏にも手を合わせた後、大師堂に向かう。お堂の前に池があり、橋を渡って着くのも演出的だ。

ちょうどこの記事を書いているところで、NHKの土曜夜の「ブラタモリ」で鳴門編というのをやっていた。鳴門が四国の玄関であること、中央構造線の断層によってできた吉野川流域の撫養街道を行くことで霊山寺が「第1番」になったこと、遍路へのお接待文化も玄関ならではのこと、そしてお接待文化がひいては第一次大戦でのドイツ兵の板東捕虜収容所での手厚い保護~第九の演奏につながったこと・・・と、タイムリーで楽しめた。

それはさておくとして、駐車場にある納経所に向かう。前回の朱印は本堂内の納経所で受けたし、その後は寺の西側にある「門前一番街」に行ったため、この建物に入るのは初めてである。ここで遍路用品一式が揃うということで「どれにしようかな」と選ぶ人の姿もある。身軽な出で立ちなのでクルマで回るのかな。

奥が朱印受付のコーナーとなっていて、「お礼参りで来ました」と納経帳を差し出す。係の人は納経帳をパラパラとめくり、他にいくつかいただいた朱印のページも見た後で、一番最後のページを開く。そしてサラサラと筆を走らせる。中央の宝号も通常の「釈尊」とは違い、また通常どこの札所でも入れない日付も入る。これで納経帳としては「満願」となった(高野山奥の院が残っているが)。そして、「これはお接待です」と、菩提樹の実で作ったという腕輪念珠もいただく。

88番の大窪寺では「結願証明書」をいただいたのだが、ここ霊山寺は「満願之証」を出している。納経所でサンプルも大々的に貼られているので寺としても書く気満々であろう。また、これから八十八所めぐりを始めようという人にも、「ここまで戻って来てな」というPRにもなるのかな。お礼参りをするに当たってこの証明の存在を知ったのだが、こちらもいただくことにする。

申し込み用紙を渡され、名前と満願の回数、そしてどのサイズにするかを記入する。「満願之証」はA4サイズで1000円。なお価格もいくつか設定されていて、A4サイズで連名なら1500円、A3サイズで1名なら2000円、A3サイズで連名なら2500円となっている。持ち運びのこともあるのでA4サイズを選択する。

そして「ご苦労様でした」と押し頂いて渡されたのがこちら。「第一回」とあるのは、この先第二回、第三回と続くことを期してのことだろうか。

私もこれで八十八所めぐりを一巡させたわけだが、改めて第2回を行うかどうか。今終わったばかりということもあるが、現在のところその予定はない。大窪寺を回った時も、それまでの道中で「ああすればよかった」「ここにも行ってみたい」という「煩悩」が出てきたのが皮肉だと感じたのだが、時間が経つとまた行ってみたい気になるのかもしれない。ひょっとしたらまたいつの日か、四国を歩くこともあるだろう。

駅に戻り、次の徳島行きに乗る。次は鳴門線との分岐がある池谷。最初に霊山寺を訪ねた時は板東ではなく池谷で下車し、ここから歩いて一番前談義所の十輪寺にお参りした。そういう意味では出発点と言っていいところだった。

徳島に到着。この駅に降り立つのも、阿波の札所を打ち終えて以来である。帰りのバスまで時間があるので、改めての「打ち上げ」としよう(お礼参りと言いつつもこれが目的だったというフシもあるが・・)。

ということで来たのは駅前の「安兵衛」。郷土料理を楽しむなら隣にある姉妹店の「味祭」だが、「創業昭和40年」の大衆酒場で地元の味を楽しむほうを選ぶ。こちらも吉田類さんの「酒場放浪記」で紹介された店である。夕方の時間帯、カウンターは地元のおじさま方で結構埋まっていて、テーブルもグループ客で賑わっている。さすがは人気店だ。

四国八十八所の満願を祝しての大ジョッキ。

焼き鳥も「かたい」と「やわらかい」の二種あり、それぞれ一皿ずつ注文。また短冊にほたるいかがあったので注文すると、スーパーで売られているパックのラップをはがしたままと思われるものがドンと出てきた。これも大衆酒場らしい。

また三芳菊の燗酒、おでんなどをいただき、これで「締め」と相成った。よい心持ち。

順番が逆かと思うが、ホテルサンルートの中にある「びざんの湯」につかる。ホテルの宿泊者だけでなく、外来でも有料で入浴ができる。窓の外に眉山を眺めながらの一浴というのも「締め」にふさわしい。

18時45分発のJRバスに乗車する。この日はガラガラの乗車率で、徳島市街を抜け、松茂、鳴門と順調に進む。さすがにこの後は眠っていたようだ。特に渋滞もなく定刻より10分ほど早く湊町バスターミナルに戻ってきた。

これで残すは高野山の奥の院へのお参りとなった・・・。
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引田の町歩き、阿讃越え

2019年03月17日 | 四国八十八ヶ所
高徳線にて四国満願の旅。三本松から2駅、この列車の終着である引田に到着した。12時27分着で次が14時19分発。ちょうど町歩きにいい間隔かと思う。

引田は先ほどと同じ東かがわ市だが、香川県の最東部に位置する。播磨灘に面した港町で(そういえば三本松の港もそうだが、「播磨灘」という言葉が出ると、四国から関西に戻りつつあるのを感じる)、醤油の醸造で栄えた歴史を持つ。古い町並みも残っているので散策しよう。

まず立ち寄ったのが積善坊(しゃくぜんぼう)という寺。駅前に看板があったので訪ねたところ、目立つのは山門に立つ仁王像で、赤や青に彩られているのにうなる。これまで何体も仁王像に出会ったがここまでカラフルなのは初めてだ。

また「讃岐成田山」ということで、千葉の成田山不動尊の分身を祀っているとある。

境内にある由来によると、積善坊は奈良時代に行基がこの地を訪ねた折、漁師たちの営みを見て地蔵菩薩を祀ったのが始まりとある。その後、源義経が屋島に進軍した時に地蔵菩薩に勝利を祈願したともある。このことから地元では「つりあげ地蔵」として親しまれている。江戸時代には高松藩の保護を受け、先ほどの仁王像は文化・文政の頃のものだという。そして、昭和の初めに成田山不動尊の分身を勧請したとある。結構さまざまな歴史を持つ寺のようだ。

また、西行が讃岐で亡くなった崇徳上皇を偲んで訪ねた際に詠んだ歌の石碑もある。積善坊という寺があること自体、現地に来て初めて知ったのだが、こうした歴史に触れるのも面白いものである。

引田では毎年町家の雛祭りが行われるそうで、祭りの期間は終わったが、通りではあちこちで人形を公開している。こうした景色に本格的な春の訪れを感じる。昔ながらの商家や、かつての郵便局の建物を利用した喫茶店など、初めて歩く引田の町に感心する。

「讃州井筒屋敷」というのに出る。江戸時代に栄えた醤油醸造の井筒屋(佐野家)のかつての屋敷や蔵を修復したものである。母屋の公開や、かつての蔵を土産物店、食事処、体験工房などにリニューアルしたスポットだが、屋敷は・・別にいいかな。食事も昼時で、海鮮ものがある、生ビールもあるが、見送る。普段の鉄道旅行ならビールだが、この後で霊山寺にお礼参りなので飲むわけにもいかない(ここまでの心境は、高徳線の途中下車の旅がメインで、霊山寺へのお礼参りが付け足しかという感じだが)。まあ、土産物店でいくつか土産物を買い求めたことで良しとする。

ビールはさておき食事をどうするか。訪ねたのは讃州井筒屋敷から少し歩いた「かめびし屋」。ベンガラ色の壁がインパクト感じる建物だ。江戸時代から続く醤油醸造の老舗だが、新しい感覚のビジネスも取り入れていて、讃州井筒屋敷と並ぶ引田の代表的なスポットという。

ここでうどんが食べられるというので、昼食とする。醤油の老舗だから、うどんに生醤油を垂らす醤油うどんだ!・・というつもりだったが、イチオシは「もろみうどん」と勧められる。もろみ・・液体の醤油を搾り出す前段の固形物である。

うどんができるまで少し時間を要するとのことで、待ち時間は物販コーナーを見て回る。一口に醤油といってもさまざまで、醸造のやり方次第で濃口、薄口それぞれのモノができる。いろいろ試食できるようになっていて、小さなスプーンですくった一滴を手の甲に落としてなめる。中には他社の醤油の試食もある。「かめびし屋の醤油は他のとはちゃうぞ」というアピールなのかな。

さて「もろみうどん」。うどんの上の黒い物体がもろみで、丼の底にある出汁と絡めるように全体を混ぜる。できたのは味噌煮込みうどんのような色合いのもの。それでもしつこい感じがなく、ちょいと濃い目の醤油うどんというところ。

また付け合わせには醤油を塗った焼きおにぎり。醤油どころの引田らしさを味わうことができた。

まだ時間があるので、誉田八幡宮にお参り。

その麓にあるのが中世から風待ち港として栄えた引田の港である。往時は醤油の積出港だったそうだが、今は静かな漁港である。小型漁船が停泊し、防波堤では地元の人らしいのが釣糸を垂らす。のどかな雰囲気だ。

海の対岸は讃岐と阿波の境目の山地。大坂峠というのがある。先ほど訪ねた與田寺からさらに歩いて霊山寺に向かう場合はあの山を越すことになる。今の私はこの後で高徳線で山越えだ。

河口には結構大きな魚が群れをなして泳いでいる。何の種類だろうか。ちょっと不気味な見た目だし、あまり食用に適していないのかもしれない。

途中下車を楽しんで駅に戻り、14時19分発の徳島行きに乗る。次の讃岐相生が香川県最後の駅で、少しずつ上りに差し掛かる。木々の間から青い播磨灘も見る。長いトンネルの中で県境を越えた。

徳島県に入って最初の阿波大宮を過ぎると、次は板野である。私の四国八十八所めぐりにて、第1回の初日、第3番の金泉寺で打ち止めとしてこの駅から徳島に戻り、翌日はこの駅から第4番の大日寺に向けて歩いた。結局この第1回は、第7番の十楽寺まで行ったところで暑さのためにギブアップ、早々に路線バスで徳島に戻り、そのまま帰阪した。ちょっと苦い思い出でもあるが、その時と比べて少しでも気持ちの落ち着き、余裕というのは出てきたのかなと思う。それだけでも四国を回ってのプラスがあったのかな。

板野駅から大日寺へ歩いた時に渡った踏切を通過する。あの時、踏切の脇に建てられた何かの石碑と、その向こうの線路を見たなと、当時の映像が浮かぶ。

板野を過ぎ、阿波川端、板東と続く線路の左手には霊山寺から続く遍路道がある。ここは「逆打ち」の感覚だ。

板東に到着。ホームには菜の花、そして桜?が咲いている。すっかり春の景色で、お礼参りの歓迎かなと思う。

待合室で笈摺を取り出し、ブルゾンの上から羽織る。ようやく霊山寺へのお礼参りである・・・。
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「與田寺」~四国八十八所奥の院

2019年03月16日 | 四国八十八ヶ所
高徳線の三本松駅に降り立つ。「三本松」という地名は村に三本の老松があるからつけられたそうで、駅前にも松の木を植えたオブジェがある。

また駅前には「ひとの駅さんぼんまつ」という建物がある。昨年11月にできたばかりだそうで、東かがわ市役所の大内支所や市立図書館が入る。

3階が展望スペースということで上がってみる。家並みの向こうに青い海、さらには小豆島だろうか、島影を望むことができる。ここには江戸時代に高松藩が開いた三本松港がある。当時は讃岐東部随一の港として砂糖などの積み出しで賑わったそうだ。その後は紡績工場も建ち、大阪への汽船も出ていた。四国八十八所を巡拝した後に三本松まで出て、汽船で大阪に向かうというのも遍路ルートの一つだった。

その汽船に乗る前にお参りということで「四国八十八所奥の院」を名乗る寺が三本松にある。それが與田寺(よだじ)である。今回、大窪寺からではなく高徳線で三本松まで来たが、駅から徒歩20分あまりで行けるとあって、列車ダイヤを組んでみたのだ。

駅前から国道11号線を西に進み、与田川に架かる橋にある標識を目印に川沿いに進む。行き方としては分かりやすい。また、画像は載せないが前回のさぬき市シリーズに続いて国民民主党の玉木代表のポスターが至るところに貼られている。

集落の真ん中に由緒ありげな山門が見えてきた。與田寺は地元では厄除けの寺としても信仰を集めているそうだ。

與田寺は行基が開いたとされ、後に弘法大師も訪ねている。勅願寺としての歴史もあり、中興の祖とされる鎌倉時代の増吽(そううん)僧正の頃には讃岐で多くの支院を持つまでになった。四国八十八所の奥の院を名乗るようになったのは直接弘法大師に関係あるわけでもなく、三本松への道順でいつしかそうなったのだろうが、それなりの歴史と格式があるのは確かだ。

鐘楼門をくぐり、本堂に向かう。八十八所と同じ作法にてお勤めとする。別に気負うこともなく、八十八所の後のオプションのような気楽な感じである。

両脇に「厄除臼」というのがある。厄年の人は年の数だけお金を臼の中に入れ、年の数だけ薬師如来の真言を唱えて杵で軽くつくとたちまち厄が除かれるとある。この「年の数だけのお金」というのは「円」のことなのかな、それとも「枚」のことなのかな。そこは1円玉を用意すれば解決することで、臼には実際たくさんの1円玉が入っている。私は四十の本厄も過ぎたので無理にお参りしなくてもいいのだろうが、さすがに1円玉を40数枚持っているわけではない。そこは「1年=1円」と勝手に解釈して、10円や5円を混ぜてお供えする。

本堂の横に、四国八十八所、西国三十三所の写し霊場への案内板がある。時間もあるので回ってみよう。

まずは四国八十八所がお出迎え。急な坂を上らせるところもあり、なかなかのものである。

写し霊場の札所は本尊、弘法大師の二つの石仏がセットで並ぶ。一つ一つでお勤めというのは無理なので、手だけ合わせて先に進む。見ると、日露戦争の戦没者の供養という文字が目立つ。この写し霊場ができたのはその頃で、そうした目的があってのことかなと思う。

西国三十三所へは、四国の25番、26番の辺りに分岐の矢印が出ていた。これをたどると道路を跨ぐ橋を渡った先にあった。新たに設けたのだろう。両側に本尊像が並んでいて、行き止まりの道を折り返すことで一巡できる。

再び四国の写し霊場に戻り、小屋に出る。ここは奥の院の大師堂ということで、お勤めをする。

この後は写し霊場の石仏の間隔が狭くなり、流れ作業のように進む。そして再び本堂の前に来たところで87番長尾寺、88番大窪寺となり、写し霊場の結願となった。四国と西国の写し霊場を同時に回るというのもなかなかないのでは。大窪寺を回った後で初めて知った寺だが、奥の院を名乗るだけのことはあるなとうなるばかりである。

・・にもかかわらず、與田寺では朱印はいただかなかった。納経帳は持ってきていたが、ページが残っていなかったためだ。今回の四国行きの第一の目的は1番霊山寺へのお礼参りで、満願だと別の朱印・墨書となるが、ここまで番外でいただいたところがいくつかあり、その結果ページがなくなったのだ。まあ、與田寺をお参りしたことには間違いなく、中身も充実したとプラスに考えて、駅に戻ることにする。

次に乗るのは12時19分発、2駅先の引田止まりの列車だ。霊山寺、さらには徳島市街にはなかなかたどり着けないが、これも計算のうちである・・・。
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満願、四国循環の道へ

2019年03月12日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所めぐりは先月2月の大窪寺への参拝にて結願となり、後は高野山奥の院への「お礼参り」を残すことになった。

ただ、その時の記事でも触れたが、88番の大窪寺の後は1番の霊山寺に戻って「お礼参り」をするのも習わしとされている。再び1番にお参りするのは、1番から時計回りの円運動の形て四国を回り、その輪をつなげるという意味もある。また遍路というものに終わりがないことも示唆するのだとか。まさに「遍路は続くよどこまでも」の世界だ。

また、明治から大正にかけての大先達である中務(中司)茂兵衛の案内では、大窪寺から三本松に抜けて汽船で大阪に出るコースが紹介されている(道の駅ながおにある「おへんろ交流サロン」展示の史料による)。霊山寺に行くもよし、そのまま高野山に向かうもよしというところだろう。

私はといえば、公共交通機関を活用した四国めぐりで、JR四国の路線も予土線を除いてほぼ全て乗っている(窪川~宇和島は土佐くろしお鉄道と路線バスでカバー)。ただその中で、高松と徳島を結ぶ高徳線に乗っていない。高松道の高速バスには何度も乗っているが、単に高速道路を通過しただけである。ということで、霊山寺に行くだけなら鳴門から行けばすぐだが、鉄道、路線バスでの四国一周を完結させるために、あえて岡山から瀬戸大橋を渡って高松に向かい、高徳線に乗って最寄りの板東駅を目指すことにする。まあ、アホらしいと思う方もいらっしゃるだろうが・・。

訪ねたのは3月9日。青春18きっぷの有効期間に入っているが、この春はそこまで消化する予定がないのと、早い時間に高松に入ろうということで岡山まで新幹線に乗る。乗車券は大阪市内から徳島行き、そこに新幹線特急券とマリンライナーの指定席券が加わる。八十八所めぐりのアフターにしては豪勢だ。なお帰りは徳島駅から高速バスに乗り、これも循環ルートとする。

新大阪から乗るのは6時50分発の「さくら543号」。このさくら号も四国めぐりのアクセスで重宝した。ただ乗るのは岡山までで、この列車が結ぶ九州には久しく足を踏み入れていない。いずれ行ってみたいものだ。

岡山で下車して、7時55分発の「マリンライナー9号」に乗り継ぐ。マリンライナーも四国八十八所めぐりでは何度も乗っていて、先頭のパノラマ席もあれば後部の普通車両にも乗った。

今回は2階建ての先頭車両の下段の普通指定席に乗る。座るだけなら普通車両でも十分だが、あえて普段見られない景色を見ることにする(変な意味ではなく・・)。

その景色とはこういうもの。もっとも瀬戸大橋線は高架区間もあり、そうしたところでは目の前に広がるのはコンクリートの壁ばかり。

児島を過ぎて瀬戸大橋を渡る。海の上ではパノラマ席と同様の景色を楽しめるが、島の上、また四国に上陸してしばらくの間、コンビナートが広がる一帯はコンクリート壁の景色になる。窓の外を意識するからそう見えるのかな。都市部の鉄道のように、指定席が「通勤時の着席料」の位置付けで地元の人たちにも浸透しているなら車窓は二の次だろうが。

坂出から予讃線を快走する。この辺りのシリーズで回った景色を思い出すうちに、8時50分、高松に到着した。次に乗るのは高徳線9時16分発の三本松行き。三本松とは中途半端なところと思いきや、今回の日帰りお礼参りだとベストの行き先である。わざわざ新幹線に乗ったのもこれを考えてのことである。

それまで少し時間があるので、構内の「連絡船うどん」で一杯いただく。やはり香川に来たということで。

高徳線のホームに行くと、国鉄型のキハ47、キハ40の列車が到着したところ。これに乗って高徳線を旅すればベストだが、どうやら朝夕の通勤時間帯対応の運用のようだ。全国的にも姿を消しつつある型式で、今やたまたま見かけただけでも撮影対象になるくらいだが、1日でも長く活躍してほしいと思う。

普通の乗車券なので特急料金を追加しても知れてるのだが、せっかくなので鈍行で行こうと9時16分発のワンマン列車に乗る。ボックス席とロングシートが互い違いに並ぶ四国独特の型式である。乗り込んだ時には全てのボックス席に先客がいたので対面のロングシートに座る。

ポツポツの乗車率で出発。高松市街地をぐるりと回り込んだ栗林でボックス席も空く。この後、屋島や志度まではことでんと並走するところで、四国めぐりではことでんに乗ったところをJRで見直すのも面白い。志度を過ぎると右手に遍路道も見えて、オレンジタウンも過ぎる。

オレンジタウンの先のすぐのところは遍路道も近いところで見覚えあるが、その先は純粋な鉄道ルート。車窓や駅名標を見ながら進む。志度を過ぎると乗客もほとんどいなくなった。

津田の松原がある讃岐津田では特急「うずしお」の新型車両と行き違う。

10時19分、終点の三本松に到着。中途半端なところで降ろされたように見えるが、実はここがこの日最初の目的地である。向かうのは「四国八十八所の奥の院」と呼ばれる寺である・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~遍路は続くよどこまでも

2019年02月24日 | 四国八十八ヶ所
2月10日、大窪寺のお参りを終えて長尾からことでんに乗って高松築港に戻る。時刻は17時を回ったところで、大阪には19時発の高速バスで戻る。この間の時間を利用して、結願後の一杯ということにする。

前日ライオン通りで入った「ふるさと」のような店が本来ならいいのだろうが、帰りの時間があるので前回も入った高松駅横の「庄や」に入る。歩いた後、また88番まで訪ねることができたことでジョッキのビールがより美味く感じられる。ちなみにこの大ジョッキが1杯「880円」(税抜)なのも、偶然とはいえ八十八所めぐりの後にふさわしいかと。

連休の中日のためか、19時発の高速バス(阪急バス)は空席が目立つ。隣の席も空いたままで発車する。道路も特に渋滞なく、このまま大阪に順調に着きそうだ。

道中、過去の四国めぐりのことを振り返る。回ごとに訪れた札所や、往復の交通手段について書き出してみる。改めて、結構区切ったものだと自分でも思うところだ。

【京都三弘法まいり】2016年7月 東寺、神光院、仁和寺

【第1回】2016年7月 往路:難波からJRバスで徳島 (1)霊山寺、(2)極楽寺、(3)金泉寺、(4)大日寺、(5)地蔵寺、(6)安楽寺、(7)十楽寺 復路:徳島からJRバス 宿泊:徳島 その他:一番前札所・十輪寺談義所

【第2回】2016年8月 往路:梅田から阪急バスで土成 (8)熊谷寺、(9)法輪寺、(10)切幡寺 復路:徳島からJRバス 宿泊:なし

【第3回】2016年9月 往路:土讃線阿波池田から徳島線鴨島 (11)藤井寺 復路:鳴門からJRバス 宿泊:鴨島 その他:徳島インディゴソックス戦観戦(鳴門)

【第4回】2016年10月 往路:和歌山から南海フェリーで徳島 (16)観音寺、(17)井戸寺、(12)焼山寺、(18)恩山寺、(19)立江寺 復路:徳島から南海フェリー 宿泊:徳島(2泊)

【第5回】2016年11月 往路:高速舞子から神姫バスで徳島 (20)鶴林寺、(21)太龍寺 復路:徳島から阪急バス 宿泊:なし

【第6回】2016年12月~2017年1月 往路:難波から徳島バスで宍喰 (22)平等寺、(24)最御崎寺、(25)津照寺、(26)金剛頂寺、(23)薬王寺、(13)大日寺、(14)常楽寺、(15)国分寺 復路:徳島からJRバス 宿泊:日和佐(2泊) その他:鯖大師、日和佐で年越し

【第7回】2017年1月 往路:難波から徳島バスで室戸 (27)神峯寺、(28)大日寺 復路:高知からJRバス 宿泊:奈半利

【第8回】2017年3月 往路:坂出から土讃線特急で後免 (29)国分寺、(30)善楽寺 復路:高知からJRバス(夜行) 宿泊:なし

【第9回】2017年5月 往路:坂出から土讃線特急で高知 (31)竹林寺、(32)禅師峰寺、(33)雪蹊寺、(34)種間寺、(35)清瀧寺、(36)青龍寺 復路:高知から土讃線特急 宿泊:高知(2泊) その他:安楽寺、高知ファイティングドッグス戦観戦(高知)

【第10回】2017年7月 往路:難波からJRバス~土讃線鈍行で窪川 (37)岩本寺、(38)金剛福寺 復路:中村から近鉄バス(夜行) 宿泊:中村

【第11回】2017年8月 往路:難波からJRバス(夜行)~土讃線鈍行で中村 (39)延光寺、(40)観自在寺、(42)仏木寺、(41)龍光寺、(43)明石寺 復路:松山からJRバス 宿泊:愛南町、宇和島(2泊) その他:十夜ヶ橋、愛媛マンダリンパイレーツ戦観戦(宇和島)

【第12回】2017年10月(※9月は台風接近で延期) 往路:岡山から予讃線特急で松山 (44)大寶寺、(45)岩屋寺、(46)浄瑠璃寺、(47)八坂寺、(48)西林寺 復路:松山からJRバス 宿泊:松山

【第13回】2017年11月 往路:難波からJRバスで松山 (52)太山寺、(53)円明寺、(49)浄土寺、(50)繁多寺、(51)石手寺 復路:松山から中国バスで福山 宿泊:松山

【第14回】2017年12月 往路:柳井から防予フェリーで三津浜 (54)延命寺、(55)南光坊 復路:今治から予讃線特急 宿泊:三津浜

【第15回】2018年2月 往路:大阪南港からオレンジフェリーで東予 (56)泰山寺、(57)栄福寺、(58)仙遊寺、(59)国分寺、(61)香園寺、(62)宝寿寺 復路:今治からせとうちバス 宿泊:今治 その他:62番礼拝所

【第16回】2018年4月 往路:岡山から予讃線特急で伊予西条 (63)吉祥寺、(64)前神寺、(65)三角寺 復路:川之江から予讃線特急~快速 宿泊:川之江 その他:愛媛マンダリンパイレーツ戦観戦(川之江)

【第17回】2018年5月 往路:梅田からせとうちバスで伊予西条 (60)横峰寺 復路:伊予西条から予讃線特急 宿泊:伊予西条(3泊) その他:石鎚山登山

【第18回】2018年7月 往路:梅田からJRバスで観音寺 (66)雲辺寺、(67)大興寺、(70)本山寺、(68)神恵院、(69)観音寺 復路:観音寺からJRバス 宿泊:観音寺

【第19回】2018年8月 往路:岡山から瀬戸大橋線~予讃線で丸亀 (71)弥谷寺、(72)曼荼羅寺、(73)出釈迦寺、(74)甲山寺、(75)善通寺、(76)金倉寺、(77)道隆寺 復路:丸亀から四国高速バス 宿泊:丸亀(3泊) その他:香川オリーブガイナーズ戦観戦(丸亀)、少林寺

【第20回】2018年9月 往路:岡山から瀬戸大橋線~予讃線で海岸寺 (78)郷照寺 復路:宇多津から瀬戸大橋線 宿泊:なし その他:海岸寺

【第21回】2018年10月 往路:岡山から瀬戸大橋線~予讃線で八十場 (79)天皇寺、(80)国分寺、(81)白峰寺、(82)根香寺 復路:高松からたかなんフットバス 宿泊:高松 その他:独立リーググランドチャンピオンシップ香川対群馬(高松)

【第22回】2018年11月 往路:三宮からジャンボフェリーで高松 (83)一宮寺 復路:高松からたかなんフットバス 宿泊:なし

【第23回】2018年12月 往路:三宮からJRバスで高松 (84)屋島寺、(85)八栗寺 復路:高松から阪急バス 宿泊:なし

【第24回】2019年2月 往路:難波からJRバスで高松 (86)志度寺、(87)長尾寺、(88)大窪寺 復路:高松から阪急バス 宿泊:高松

高速バスがもっとも多く各県との行き帰りに利用したが、他にも鉄道の特急あり鈍行あり、フェリーもある。四国との行き来にわざわざ広島や山口を経由した回もあった。多種多様な乗り物に乗れたのは思い出に残る。

また、八十八所めぐりの中で私が勝手に「ミッション」と定めた「各県でのアイランドリーグ観戦」も、3シーズンかけて合計6試合となった。張泰山やマニー・ラミレスといった異国のスターが日本のNPBを目指す若い選手たちとプレーする様子も観られたし、最後に独立リーグチャンピオンシップも観戦できたのは札所めぐりに色を添えてくれた。個人的には、アイランドリーグと八十八所が何かでコラボレーションできないものかと思うのだが・・。

さて、八十八の札所を回った後は高野山の奥の院に向かうのが通例とされている。納経帳、納経軸にも高野山の欄があるものが多い。弘法大師にゆかりがあるとされる霊場を回ったのだからということのようだ。このため、四国は24回に分けて回ったが、その続編があるということである。現在進行中の近畿三十六不動めぐりも最後に訪ねる35番、36番が高野山にあることから、これとまとめて高野山に上がり、最後に奥の院に向かうことにしよう。「平成」の終わりまでには行っておきたいと思う。

ただその前に、「四国を回るのは大窪寺で終わりにする」のと、「第1番の霊山寺まで行って『一周』しないと『満願』にならない」という考え方がある。昔は大窪寺からそのまま海の方向に抜けて、香川東部の三本松から出ていた航路で大阪に向かい、そのまま高野山に向かうという行き方もあったようだが、現在はいくつかのルートで阿讃の山を越えて霊山寺まで行くのがメインとなっているようだ。そうすることで四国を一巡したことになり、二巡目につながるというものである。大窪寺まではあくまで八十八所の最後の札所、結びという意味での「結願」であり、「満願」というのは霊山寺まで行って初めてそう言えるとのことだ(これは1番から始めて88番で終わった場合で、途中の札所から始めた場合はその札所まで戻ってきて「満願」となる)。

とすれば、私も高野山に行く前に、その間を埋めて霊山寺に戻るためにもう一度四国に渡ることにしようと思う。この区間を走る高松道は高速バスで何度か行き来しているし、霊山寺のすぐ横も通っているのだが、やはり降りてたどってみたい。

ちなみに、歩き遍路全長1200キロのうち、私が実際に歩きで回ったのがどのくらいなのか、帰宅後に試算してみた。私の場合公共交通機関をベースにしているので、途中の駅やバス停からの徒歩移動などを含むのだが、およそ300キロという数字が出た。まあ、「歩き遍路」を名乗るには到底少ない数字ではあるが、それでもそのくらいあったのかと思う。ただ、途中の立ち寄りのおすすめスポットの見落とし、見過ごし、割愛もあるし、歩きならではで見つかるものもあるだろう。その点での物足りなさがないわけでもない。また逆に、クルマで回ったらまた違う景色が見えるのかもしれない。

こう書くと、1巡したら何か迷いが消えるとかいうきれいごとではなく、1巡したためにかえって「ああしたい」とか「こうすればよかった」と煩悩の塊が大きくなった部分があるのではないかとも感じる。何とも皮肉なものだ。四国を何度も巡るというのは、案外そういうところから来ているのかもしれない。私が実際にもう1巡するかどうかは別としても。

まさに、「遍路は続くよどこまでも」・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~第88番「大窪寺」

2019年02月22日 | 四国八十八ヶ所
大窪寺の山門の前に立つ。鉄筋コンクリート造りで、両側に立つ仁王像も色がはっきりついていて力強い。

八十八所の最後の札所だからきちんとお参りしなければなと、山門をくぐったところの手水を使い、石段を上がる。するとそこに出たのは大掛かりな造りの大師堂である。いやまずは本堂に行かなければと、いったん素通りする。

そして本堂のある境内に着いたのだが、こちらから来ると右手から石段が続くのが見える。うーん、本来の大窪寺への参道はこの石段からだろう。先ほどくぐった鉄筋コンクリート造りの山門は車遍路の入口のようだ。まあそれでも立派な門だから、こちらを大窪寺の正式な山門にしても別に問題はないと思う。

とはいうもののここは改めて昔からの山門をくぐる。石段の向こうには本堂が見えてくる。

大窪寺は奈良時代に行基が草庵を建てて修行したのが始まりだという。その後、弘法大師が谷間の窪地にお堂を建てて薬師如来像を安置し、唐から持ち帰った錫丈を納めた。その場所が窪地にあったことから「大窪寺」という名前になったそうだ。

境内を囲むように寄進者の石柱が並ぶ。多くの寺院はこの手の石柱には「金何百萬園」、そしてそれに続く寄進者の名前が彫られたものがずっと四方を囲むのだが、大窪寺の場合は寄進の金額のところに「結願御礼」という言葉が並ぶ。各地の人たちからの寄進が並ぶのだが、その中に私の地元藤井寺からの寄進の石柱を見つける。この方は今もご存命なのかな?

本堂に向かう。薬師如来が祀られていることを示す「瑠璃光殿」の額が掲げられている本堂前には線香の煙がもうもうと上がっている。結願の寺ということで、歩きとかクルマとかは関係なく訪ねる人が絶えないのだろう。

外陣でお勤めとする。「霊場結願所」という額が掲げられている。

先ほど通りすぎた大師堂に向かう。何やら石像が集まっている。よく見ると四国八十八所の札所番号が振られていて、それが順番に並んでいるようだ。姿形がバラバラなのは、各地の「お砂踏み霊場」から集めたものだろうか。結願の寺にて、改めて各札所の本尊が「ようお参りでした」と出迎えているかのようである。

こちらも最近の建物だろうか、改めて大師堂でもお勤めとする。最後に回向文を読み終えて手を合わせた時、「これで一段落、ともかくも回ることができました」というようなことを小声でつぶやいた(ように思う)。

大師堂の横には「寶杖堂(ほうじょうどう)」というのがある。四方をガラス張りにした建物で、中には何百本あるだろうか、金剛杖、さらには先達のみ持つことを許される錫杖が収められている。四国八十八所を回り終えた後、その証として金剛杖を大窪寺に奉納する人が多いのだという。その杖をこの寶杖堂にて保管し、毎年春分の日と8月20日にお焚き上げの法要を行うとある。西国三十三所の「満願」の札所である谷汲山華厳寺にも、本堂の後ろに杖や笈摺を奉納するためのお堂があったが、回り終えたことを記念して置いてくるというのは一般的なことなのだろうか。

ただ私としては、これまで短い距離だったかもしれないが一緒に歩き、アイランドリーグ観戦の時には球場にも持ち込んだ金剛杖をここで手放すのはもったいないなと思った。金剛杖が「弘法大師の化身」だからというわけではなく、シンプルに札所めぐりのパートナーだったとも言える。

杖には他の人のものと間違えないように、また四国を回ることを意識して、四国アイランドリーグの各球団のロゴとマスコットをあしらったミニステッカーを貼っていた。それも大窪寺まで来るとすっかり剥げて姿が分からなくなった。これも私なりの積み重ねと言ってもいいだろう。やはりこの杖は大阪まで持ち戻ることにする。

本堂エリアに戻り、納経所に入る。これで納経帳の八十八の欄も埋まった。合わせて「平成31年」の結願記念のスタンプも押される。

大窪寺では「結願証」を出してくれる。これは歩きやクルマ関係なく結願した人は誰でもいただけるので、堂々と?いただくことにする。見本も掛けられていて2000円とある。A3用紙サイズだが賞状入れの筒も付くので持ち運びにも問題ない。これを求めると、紙切れに名前を書くよう言われる。墨を擦り直し、きれいな楷書で名前を一字一字書いてくれる。これもよい記念だ。結願した方の記事では納経帳の全ページを確認されたというのもあるが、この時はそのようなこともなかった。

写真ではむき出しのままだが、この後でガクブチを購入して部屋に飾っている。

帰りのバスまで時間はたっぷりある。これなら朝の出発をもう少し遅らせてもよかったが、この山の中に来ることも今後しばらくはないことで、ゆっくりする。門前には道を挟んで2軒の食堂兼土産物店がある。そのうちの「八十場庵」に入る。ここの「打ち込みうどん」が大窪寺の名物とされている。

注文したのは猪肉入りの一品。白味噌仕立ての出汁に里芋、大根、にんじん、ごぼう、豆腐、油揚げが入る。体にもよさそうで美味しくいただく。先ほど結願したことで祝杯をあげてもいいところだが、それは夕方に取っておくことにする。

15時51分のコミュニティバスまでそれでも時間はあるのでその辺りをぶらつく。旧遍路道の丁石をたどってきていつしか行方不明になったのだが、一丁石というのが門前に置かれている。きちんと祠に納められている。

納経軸や御影の表装を手掛ける店もある。やはり八十八もの欄があるだけに表装したらものすごい長さになりそうだ。西国三十三所の納経軸が実家に置かれているのだが、あれでも広げたら床に着くくらいの長さで、飾るということもなく閉まったままだ。

志度行きのバスがやって来た。「上がり三ヶ寺まいり」のラッピング車両だ。白衣に菅笠のガチの歩き遍路らしい男性2名と、遍路というよりは普通に大窪寺にお参りに来たらしいご婦人3人組が乗る。土日祝日は1乗車500円一律で、発車前に運転手がそれぞれ行き先を訊いて回る。途中長尾で降りるのは私だけで、他の人は志度まで行く。

やはりバスは速い。国道377号線を下り、二十丁石の旧遍路道との分岐点を数分で過ぎる。一応途中の停留所にも停まるダイヤなのだが、途中の乗降もなく一気に過ぎる。六十五丁石からは先ほど歩いた旧遍路道ではなくそのまま県道3号線を走るが、結構カーブが多い。ご婦人の手からこぼれた土産物の袋がバスの右から左へと滑っていく。

山道を下って長尾の町中に入る。そのまま直進ではなく介護センターや亀鶴公園などのスポットにも立ち寄る。それでも、4時間かけて歩いた道を30分で戻ってきた。コミュニティバスを運行しているのは大川バスで、長尾の停留所は本社営業所にある。長尾駅からすぐのところだが、ちょうど高松築港行きが発車するところで、急いで乗り込む。

帰りはバタバタしたが、ことでんの電車に揺られながら、ともかく巡拝が終わったのだなと少しずつ実感が湧いてくるのを感じる。別に何か悟りを得られたとか、これで人生が変わったとかいうのではないけれど・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~結願の寺に到着

2019年02月21日 | 四国八十八ヶ所
大窪寺に向けて県道3号線から国道377号線に差し掛かる。そこで12時のチャイムが鳴ったのは学校のチャイムのようだ・・・と思ううちに出てきたのは学校らしい建物。手前には休憩用のベンチもあるが、校舎には「天体望遠鏡博物館」の看板が見える。

この建物はかつて「多和小学校」だったところだ。2012年に122年の歴史を閉じた小学校(さかのぼれば明治時代、日清戦争よりも前に開かれた小学校ということになるのだが)の廃校舎を利用して、2016年にできた施設である。こうしたところに天体望遠鏡の博物館があるというのは夜の星空を楽しむことができる環境ということだろう。実際、観測のイベントも行われることがあるそうだ。

また校内には「結願の郷」という建物で土地の農作物や手作りの産品などが売られていて、休憩もできる。ちょうど12時すぎだが食事は大窪寺のお参りが終わってからにしようということで、ここはいったん休憩とする。お茶と小袋の節分豆のお接待を受ける。トイレも最新の設備を揃えていて、大窪寺に向けての最後の休憩スポットとしては快適なところだ。

係の人から「今から大窪寺ですか?」と訊かれる。「ずっと歩いて?」となるが、そこは正直に鉄道やバス利用中心だったが、最後は歩いてたどり着くつもりと答える。まあ、ローカル列車、ローカルバスなどの乗り物のダイヤをどう組み合わせるかというのも遍路旅(遍路を旅と言ってはいけないのかもしれないが)の楽しみである。別に誰かをだますつもりでもないのだが、たまたま最後の区間を歩いているだけでも「遍路道を全て歩いて来た」と見られるものなのかなと思う。

店内には「結願御礼」というどぶろくの四合瓶が置かれている。結願の記念に買ってもいいかなと思ったが、これからまだ5キロ以上あるし、瓶を担いでいくのもちょっと・・・という感じで見送る。持ち運びが容易な300ミリリットルやワンカップなら何本か購入するところだったが・・(何本も買うたら余計重たなるやろが)。

しばらく休憩した後、国道を歩く。まただらだらとした上り坂となる。それを上りきったところで三十四丁石の案内板がある。カウントダウンが七十丁から始まったから半分を過ぎたところである。丁石は国道の拡張工事にともない崖の上に移したとあるが、それらしき姿は見えない。

ここから下りに転じて、左手に休憩所のベンチがあって三十丁。いよいよ大詰めかなと思う。ここからは道路拡張工事の対面通行区間を過ぎて山村風景の集落を過ぎる。ここまで来ると時間を気にせず淡々と歩くばかりである。

二十丁のところで旧遍路道は国道と分かれて左手に伸びる。後はこの道なりに行けば大窪寺に至る。前日はにわか雨が降ることもあったが、この日は冬の穏やかな日差しが差し込む。少なくとも雨に打たれながらとか、夏の猛暑で汗だく・熱中症になりかけながら大窪寺にトボトボとたどり着くということもなく、この時季を選んだのは悪くないなと思う。

道端に十六丁石を示す矢印がある。わざわざ脇道を指していて、民家の庭先のようなところも通る。川沿いの細い道に建てられた名残だという。どう見ても民家の軒先で、こういうところを通って大丈夫かと思うが、遍路道を示す矢印のステッカーも貼られているのでそのまま進む。次の十五丁石は地元の家らしい墓石とともに覆いにかぶさって安置されていた。

さらに十四丁、十三丁となると完全に畑の中を歩くし、さらにその先の藪の中にある。夏場だったら草むして歩くどころではないのではないか。また途中に門扉を開けるところもあり、大丈夫か、不法侵入になっていないかヒヤヒヤする。最後に昔の姿を残す遍路道らしいところを歩いたといえば聞こえはいいが、果たしてどうだろうか。丁石にそこまでこだわらず普通に車道を歩けば十分だと思う。

そのまま進むとようやく車道に戻り、「大窪寺 0.7k」と手書きの遍路道の標識が出てきた。これには私ですらうなったので、ここまで1200キロをずっと「ガチの歩き遍路」で来た人ならよりグッと来るものがあるのではないかと思う。スポーツの実況なら、「さあ、いよいよ残り1キロを切って来た!! ビクトリーロード! 栄光のゴール、結願までは残りわずかです!!」とでも言うか。ただ、周りには他に歩く人はおろか、家はあるが住む人の気配がほとんど感じられない静かな集落である。淡々と歩くが、最後はまた上り。わずか数百メートルと思うが結構ダラダラ続くように感じられる。

それでも遠くに山門の屋根がチラリと見えた。ああ、着いたんやなとスピードを上げて、大窪寺の立派な山門の前に出た。別に誰かがゴールテープを持っているわけでもなく、拍手が起こるわけでもない。単に「着いたな」というくらいのものである。

回り方は人それぞれ、私もここまで結構変わったやり方で来たが、ともかく八十八所目の札所に着いた。長尾寺を出たのが朝の9時で、大窪寺に着いたのは13時半。やれやれと、最後の札所にて手を合わせることに・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~結願への旧遍路道カウントダウン

2019年02月20日 | 四国八十八ヶ所
前山の「おへんろ交流サロン」を後にして、大窪寺までは「旧遍路道ルート」を行くことにする。やはり初めてということもあるので古くからの道をたどろうというものだが、歩き遍路の方のブログなど見ると女体山越えの記事のほうが目立つ。

県道を数10メートル長尾よりに戻ったところに入口がある。ここを行くわけだがすぐに急な上り勾配になる。最高地点のところで先ほどのサロンとは約250メートルの高低差があるそうだ。また道端に待機場所として番号が振られた標識を見る。実はこの先に残土処理場があり、この道をダンプカーが行き来するという。そのダンプカーのすれ違いポイントだ。先ほどのサロンの方は「日曜日なんでおそらくダンプカーは来ないと思うけど・・・」とのことで、果たして行き交うダンプカーはおろかクルマも見かけなかった。クルマなら県道を行けばいいことだし、人家も全く見かけない。

今回はこのまま車道を歩いたのだが、実はこの旧遍路道には別に「迂回路」がある。車道はダンプカーが行き交うので危ないとして、近年地元の人たちが中心となって尾根道を新たに開いたものだ。上り坂の途中に入口があったはずだが、おそらくわたしが見落としたのだろう。車道をずっと歩くことになったが、皮肉なもので残土処理場の入口あたりが平野部を遠くに眺望できるスポットだったりする。

ダンプカーが入るのもそこまでのようで、この先は細い車道が続く。なぜか自転車が道端の林の中に投棄されていたりする。

サロンから35分ほどで休憩スペースに出る。この辺りが最高地点だろう。案内板には源義経が屋島に向かった道とある。ようやく下り道に転じる。

少し歩くと大窪寺まで七十丁の道標に出る。ここから丁石が道端に残される区間ということで、残り7.6キロ、いよいよ結願に向けてのカウントダウンがここから始まると言ってもいいだろう。再び人家も出て来て、六十六丁の石を過ぎると県道3号線に合流する。ここには六十五丁の石がある。

この後はクルマの多い県道と、極端な細道の旧遍路道を出入りする。その途中、県道から脇に入って、このルートならではの立ち寄りスポットとされる細川家住宅に向かう。看板に従って行くと民家の裏手、ちょっと坂を上がったところにある。

細川家住宅は18世紀初めの建物とされていて、国の重要文化財である(遍路とは直接関係ないので寄る寄らないは個人の判断だとか)。母屋と納屋の2棟が残されていて、いずれも茅葺き屋根、土の壁である。阿讃地方の特色をよく残しているのが文化財としての評価だが、似たような造りの建物、前回屋島で立ち寄った四国村にもなかったっけ?

母屋の中は居間と囲炉裏の間、台所という質素なもの。この時季だから思うのだろうが、外は土壁といっても冬はかなり寒そうである。讃岐平野の真ん中ならいざ知らず、阿波に近い山の中では生活には厳しい環境だったのではと推察する。

セメント一塊を「豆腐」と表現しているセメント工場の横を過ぎ、また県道3号線に入る。この辺りは多和地区という。多和駐在所前で西から来た国道377号線と合流する。ちょうどこの手前で、12時を告げるチャイムが鳴ったが、その響きは学校で流れるチャイムと同じものだった・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~おへんろ交流サロン

2019年02月19日 | 四国八十八ヶ所
大窪寺に向かう前山ダム湖のほとりにあるのが「道の駅ながお」、その一角に「おへんろ交流サロン」というのがある。前山地区活性化センターの建物を利用しており、休憩も兼ねて入ってみる。

入ると女性の係員が出迎えてくれ、お茶のお接待をしていただく。また「おひとつどうぞ」ということで、缶に入った笑い文字がかかれた飴やティッシュケースもいただく。

「今から大窪寺ですか」ということで、「歩き遍路大使の任命というのをやってますんで、どうぞこちらにご記入を」と用紙を渡される。

これまでの記事でもずっと書いてきたことだが、全行程1200キロに及ぶ四国八十八所めぐりの道すべてを歩きで踏破したわけではない。もちろん区切りでの四国行きだし、鉄道や路線バス(中にはレンタカーも含む)をベースにしており、実際に歩いたのはそのうちどのくらいになるかはいずれ計算しなければならないのだが、いずれにしてもこのブログで何度か表現している「ガチの歩き遍路」ではない。

ならば事情を話して辞退すればよいことなのだが、せっかく勧めていただいているのだし、これもお接待の一つかなと解釈してそのまま「任命」を受けることにした。用紙に記載した住所を見た係の人は「藤井寺って、西国さんの札所(葛井寺)ですね。西国は回りはったん? 私も葛井寺に行ったことがあって、あそこは平地だから楽やったけど、その前の槇尾山(施福寺)はしんどかったわ・・。あんな山道やと思わんで、上にいったら自動販売機も何もなくて・・」と話す。確かに、四国の寺は「遍路ころがし」の先にある焼山寺や鶴林寺などにしてもクルマで上がれるし、寺の境内にも何がしかの設備はあった。そう言われれば施福寺は山道を歩かなければたどり着けないし、山の上には(昔は売店があったそうだが)お堂以外何もない。

しばらくして「任命書」をいただく。任命番号(毎年7月1日~翌年6月30日までの通し人数)と氏名が書かれている。いただいたのは1000番台。2004年から始めたこの「任命書」、例年2500~3000名が授与されているようで、年間の歩き遍路の数も概ねそのくらいと言ってもいいだろう(ちなみにこの2月10日は、私の前に3名ほど「任命」の手続きが行われたとのこと)。メッセージには「貴方は四国八十八ヶ所歩き遍路約1200kmを完歩され、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、これを証すると共に、四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使に任命致します」とある。何だか複雑な気持ちだが、「1200km完歩」のところはさておき、四国のさまざまなものに触れることができたのは確かである。また、どのくらいの方が目にしているのかはわからないが、その経験をこうした雑文に書いて発信することで、ほんの少しでも四国遍路文化に興味を持つ方が出れば幸いだと思う。

また記念品として、歩き遍路のバッジとDVDをいただく。DVDは四国遍路のスライドショーだということで、この文を書いている時点ではまだ見ていないのだが、どのようなものか楽しみである。

サロンの中は四国遍路に関するさまざまなものが展示されている。中央には四国全土の立体模型があり、各札所の場所がランプで表示できる。これまで平面地図でルートを見ていたが、こうして立体にしてみると決して平坦な道のりではないことがわかる。

かつて在任中の合間に歩き遍路を結願した菅直人元首相の色紙もある。

また資料室には四国遍路に関するさまざまな歴史史料が残されている。やはり現在の遍路の形の原型ができたのは江戸時代の中期以降で、納札や納経帳も残されている。

驚くのはこの真っ赤な納経帳。回数を重ねると朱印も「重ね印」になるのだが、生涯に八十八所を308回巡った方のものである。308回・・・生活のほとんどが札所めぐりではないかと思う。いや待てよ、上には上がいるもので、確か第6番の安楽寺だったか、その門前に500回の結願を記念して石柱を立てたというのがあり、そしてさらに回数を640回超に伸ばしていた(2016年7月時点)。改めてこの遍路文化の奥の深さを感じる。

また明治から大正にかけての大先達で、道標の設立にも尽力した中務(中司)茂兵衛に関する史料もある。もちろんこの方の納経帳も真っ赤。

奥には日本の各都道府県ごとの里程図が展示されていて、それぞれに納札を入れるケースがある。ここを訪ねた記念に納めるのだろう、私も大阪府のケースに1枚入れておく。

この展示コーナーは勉強になるが、これが88番を前にした場所にあるというのはどういう理由だろうか。例えばこれから遍路を始める1番の霊山寺の近くにあってもおかしくない、というより、いろいろ知ってもらおうと思えばそちらにあるのが自然ではないかなとも思う。それが結願の前にあるというのは、これまでの振り返りということもあったり、あるいは一通り回った後なら史料の理解も深めやすいということがあるのだろうか。

これからどのルートをたどるのか係の人に尋ねられる。旧遍路道ルートをたどる旨を告げると、ルートの紙をいただく。基本的には普通の道路ということで、最初に上り坂が続くものの標識もあるし難所らしいところはないとのこと。ポイントの写真も見せていただく。

さてここから大窪寺まで11キロ。最後に「歩き」での到達を目指して出発する・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~大窪寺への遍路道

2019年02月18日 | 四国八十八ヶ所
2月10日、いよいよ88番の大窪寺を目指す。行きは長尾寺から大窪寺まで歩き、帰りはさぬき市のコミュニティバスに乗る予定である。時刻表を調べたところでは、帰りの大窪寺発は13時30分、15時51分発とある。高松を早朝に出れば13時30分発に乗れるだろうが、そこは急がず15時51分発に乗ることを目指す。

急がずということなら宿泊のホテル川六でしっかり準備しようと、朝風呂にも入り、バイキング形式の朝食もしっかりいただく。セルフ式のミニさぬきうどん(冷凍もの)があるのも香川らしいし、瀬戸内おでんなるものもある。

ホテルをチェックアウトして、瓦町ではなく高松駅まで歩く。大阪への帰りは高松駅から高速バスに乗る予定ということで、いったん高松駅のコインロッカーにバッグを預ける。この日の香川県の降水確率は0%~10%、空も明るい。

高松築港から長尾線の電車に乗る。40分ほど揺られて長尾に到着。これから大窪寺に向かうが、その前にせっかくなので前日お参りした長尾寺に向かう。

朝8時半の長尾寺は境内の掃除や、地元のお年寄りが挨拶代わりに手を合わせるなど朝の風情である。もう一度本堂、大師堂にてお勤めとして、これからの道のりの無事を誓う。

長尾寺から大窪寺まで16.5キロという表示がある。また境内には案内板があり、大窪寺まではいくつかのルートがあると示している。途中の前山ダムまでは同じだがそこから分岐するということで、大きく二つの系統がある。一つは県道3号線や旧遍路道を通るルート。もう一つは女体山を越えるルート。歩いて大窪寺に向かった人のブログなどいろいろ見る限りでは女体山越えルートを取った人のほうが多いようだが、私は旧遍路道ルートを取ってみようかと思う。歴史的に見てかつての遍路が通った道で、女体山越えは比較的最近に開かれたルートだというのと、本音のところでは岩場もある山を無理に越えなくても・・・というのがある。いやいや難所を越えてこそ感動が大きいのだという声が大きいのはわかるが。

時刻はちょうど9時、笈摺を羽織って金剛杖を手に出発する。門前にかつての銀行らしい建物があり「結願亭」とある。かつての百十四銀行の建物を活かしてうどんや木製品など販売しているようだ。

他に歩き遍路らしい人の姿は見えない。早くに出立する人は門前の旅館に泊まるだろうし、「上がり3ヶ寺」の志度寺を朝イチで訪ねたならばちょうど長尾寺に着く頃かと思うがそれらしい人も見えない。まあ、2月の一番寒い時季だからな・・・と歩き始める。

門前の集落を抜けて県道3号線に向かう。交差点にあるのは「秋田清水九兵衛地蔵坐像」。明和9年(1772)年の建立とある。さぬき市に入るとこうした由緒あるものの解説板が目立つ。

県道を南下すると、入谷製麺の前を通る。さぬきうどんの名店めぐりの記事で目にしたことのある名前だが、ここだったのか。ただ結構前に休業しているそうで「食堂は閉店しています」との貼り紙がある(麺じたいは作っているのかな?)。

「弁慶の馬の墓」というのがある。源義経率いる軍勢が屋島攻めの際にこの辺りを通ったのだろう。わざわざ馬のために墓を建てるとは愛馬として親しんでいたのだろうか。なおこの奥には宗林寺という寺があり、「俳諧の寺」との石碑もある。俳諧にはそれほど興味がないので立ち寄らなかったが、境内には種田山頭火のものを中心に30基以上の句碑があるそうだ。

鴨部川のたもとに「弘法大師御休息所」の札がかかった庵がある。「川原の庵」というそうで、石の弘法大師坐像や阿弥陀三尊を祀っているとある。また、元々は別の場所にあったのが大正元年に洪水に遭って現在地に移転したとある。さらに昭和49年になって付近の道路工事をするにあたり、洪水で行方不明になっていた手水鉢が出てきたともある。

鴨部川を渡ると、県道とは別に旧遍路道が続いていてこちらを歩く。

昔ながらの静かな集落が続く。その中に釈迦堂や光明真言二百万遍の記念碑がある。案内板では「ここを通過するお遍路さんは、それぞれに懇ろに合掌して通るのである」というので、私も合掌して過ぎる。

一心庵というのがある。1764年、印誉意心法師の草創とある。江戸時代に一般民衆の遍路が盛んになった頃からの歴史が今でも残されていることがわかる。

地蔵菩薩や不動明王、弘法大師などの石像が集まる一角に出る。台座の上にある地蔵菩薩が「高地蔵」という。毎年3月に法要が行われるようで、案内板によれば「近在のいやしの空間」とある。

この先にも道祖神やら祠、江戸時代の道標が点在し、歩く中でも退屈することがない。

また、こうした石像の合間にもこの方のポスターが現れる。本当、お地蔵さんとどちらが多いことやら。

再び県道に合流し、上り坂となる。向かうのは前山ダム。前方から来るクルマがスピードを緩め、運転席の窓が開いて「がんばってください!」と声がかかる。こういう形で声をかけていただくというのもこれまでめったになかったことで、手を挙げて答える。

前山ダムは先ほど触れた鴨部川の治水と、当時の長尾町、志度町の水道用水確保のために1975年に完成した。現在はダム湖の周りにキャンプ場や道の駅もある。

そのダムの入口に遍路道の看板が出る。大窪寺まで車道直進なら10.6キロ、左折してダムを渡ると女体山越えのコースで7.8キロとある。距離だけなら女体山越えのほうが短いが、車道直進なら所要約2時間50分とあるところ、1時間余分にかかるという。「登坂峻険約500m 絶景感動のコース也」と付け加えられている。ちなみに遍路道のいたるところに目印で貼られている矢印のシールは「左」を指している。いわゆるガチの歩き遍路の正統ルートは女体山越えなのかなと思う。この「登坂峻険」とか「感動絶景」という言葉に魅かれるのかな。

ダム湖を左手に見て歩く。この先、道の駅に並んであるのが「遍路交流サロン」。どのコースをたどるにしても、歩いて大窪寺を目指すならぜひとも立ち寄るべきスポットだという。長尾寺から1時間20分、まずはこの交流サロンに休憩を兼ねて立ち寄ることにする・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~酒場詩人も訪れた「ふるさと」居酒屋

2019年02月17日 | 四国八十八ヶ所
87番の長尾寺を訪ねた後、駅すぐのことでん長尾駅から電車に揺られて瓦町に戻る。長尾寺の周りには歩き遍路向けの旅館もあり評判もよいそうなのだが、私のスタイルとしてはどうしても街中のホテルになってしまう。また翌日は結願ということで前祝もしたいし・・・と理屈をつけてみる。

瓦町駅でコインロッカーからバッグを取り出して歩く。高松市の繁華街に当たるがまだ15時を回ったところでそれほど人出もない。そんな中で入ったのはライオン通り。なぜライオンなのだろう。通りの北の突き当りに百貨店の三越があるからなのかと思っていたが、かつてこの通りに「ライオンカン」という映画館があったことからだそうだ。

この日宿泊するのはライオン通り商店街から少し入ったホテル川六エルステージ。かなり前に一度宿泊したことがあるが、今回は高松の繁華街に近いところで泊まってみようと予約していた。建物は本館、エルステージ館、禁煙館と3つに分かれていて、今回泊まるのは禁煙館である。部屋は小ぶりだがシングルルームとしては十分だ。

時間はまだ早いが、ライオン通りにはさまざまな飲食店が集まっていて店選びには不自由しない。何か郷土料理の店があればと歩く中で、瓦町寄りに「ふるさと」という店を見つける。店の前で「今からでも入れますよ」と女将さんに声をかけられたのでその日の口開け客として入り、カウンターに通される。

「今日はホテルの割引券をお持ちか、ご紹介か何かですか?」と尋ねらる。割引券は持っていないが川六に泊まっている旨を告げると、現金扱いで10%オフにするとのこと。その後でメニューの中から本日のおすすめをあれこれ案内してくれる。そうするうちに次々と客が入ってきて、カウンター、上がりも結構賑わってきた。この後は満員御礼となった。先の問いかけにはホテル泊と答えた人もいれば、地元という答えもある。県内外で知られた店というのかな。

まずは魚をということで、造りの盛り合わせをいただく。この日はオリーブハマチ、かつお、サザエの三種。オリーブハマチは香川県の木であるオリーブの葉を餌にまぜて育てた養殖のハマチで、オリーブに含まれるポリフェノールの効果で肉の酸化や変色を抑えることができ、さっぱりした味わいが得られるという。変な脂臭さがないのもよい。それにしても四国は柑橘系の果実を利用して養殖したブリやハマチ、タイが目立つ。各県ごとにすだち、ゆず、みかん、そしてオリーブと、それぞれ木が違うのも特徴である。

店の看板メニューは讃岐コーチンを使った骨付鳥という。最近では高松市内でも扱う店が増え、先ほど乗った長尾線の駅近くや、このライオン通りにも店を見かける。その中で讃岐コーチンとはブランド鶏のようだが、ちょっと値段が張るので迷うところだ。

その代わりというわけではないが、この日は「裏メニュー」で讃岐コーチンの朝取れ生レバーがあるとのことで、そちらを注文する。今は牛の生レバーの提供が禁止されていて、生レバーなら鶏肉となるのだがどこの居酒屋にでもあるものではない。「新鮮ですがなるべく早く召し上がって」と勧められる。結構濃厚な味だ。

また焼き魚もお勧めとのことで、いくつかある中から「びんぐし」という初めて接する名前の魚を選ぶ。ご主人が「こういうやつです」と見せてくれたびんぐしは、セトダイという名前のある瀬戸内の魚で、イサキ科に属する。びんぐしという名前は、背びれが女性の日本髪に差す櫛の形に似ているからだとか。やって来た一品は身が締まっていて、塩味もほどよく効いていた。しっかり身をほぐしていただく。

これらに相対するのは観音寺の「川鶴」。枡でいただく。

続いては綾川の「綾菊」の冷酒。綾菊は香川でもポピュラーな銘柄だが、この一品は10年ほど前に香川大学、香川酒造組合、農協が共同開発した酒米「さぬきよいまい」を使ったもの。香川オリジナルの酒である。

さまざまなものをいただき、これで翌日の結願に向けて景気づけとなった。案内の通り、会計は1割引き、さらに10円単位は切り捨ててくれた。その会計の際、入った時は気づかなかったがあの「酒場詩人」・吉田類さんの2枚の色紙があるのが目に入った。後で「酒場放浪記」のサイトを見ると、高知県出身ということで、また飲みどころとして地元高知の店は多く紹介されているが、他の四国3県は八十八所めぐりと絡めての訪問である。昼に寺参り、夜は酒場めぐり・・・ええやないですか。四国八十八所めぐりの「夜の部」を「夜の八十八所めぐり」などと言って居酒屋で楽しんでいるが、やはり「先達はあらまほしきものなり」、である。ここ「ふるさと」は事前にチェックしていたわけではないが、酒場めぐりの大先達である吉田類さんも訪ねた名店だったとは、何かのお導きだろう。

まだ時間が早いのでアーケード街をぶらつく。高松のアーケード街の総延長は2.7キロと意外にも日本最長なのだという。そのシンボルがクリスタルドームだ。他にも大衆酒場あり、また高松に来ることがあればのぞいてみたいものだ。

締めはうどんということで、「うどん市場」にてつけぶっかけうどんをいただく。うどん店でありながらビールあり、地酒の飲み比べあり、しょうゆ豆などのつまみや骨付鳥まである店(さすがにアルコールは飲まなかったが)。

ホテルに戻り、大浴場にてリフレッシュする。いよいよ翌10日は結願に向けて大窪寺に行く。その前にしっかり眠ることに・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~第87番「長尾寺」

2019年02月16日 | 四国八十八ヶ所
志度寺から歩いて長尾寺に到着。境内に入るのに石段も何もなく、また外塀もないため境内までクルマでも入ることができる。

山門の脇には経幢(きょうどう)が2基、祠に収められて立っている。経幢とは経文を埋納する施設や供養の標識として立てられたもので、長尾寺のものは鎌倉時代後期に奉納された歴史的にも古いものだという。

山門をくぐる。山門に鐘がぶら下がる珍しい造りだが、やはり町中のためか撞くことはできない。

長尾寺は奈良時代、行基が聖観音像を安置したのが始まりとされている。また弘法大師が唐に渡る前に入唐求法の成功を祈願して7日の間護摩供養を行い、7日目の夜に護摩符を丘の上から人々に投げ与えたという伝説がある。これが現在も「会陽(えよう)」という行事で伝わっている。会陽と聞いてイメージするのは、岡山の西大寺の大会陽である。夜中、宝木をめぐってまわし姿の男たちが奪い合うというあの行事。一方長尾寺では本堂の上から餅を撒いたり、150キロの大鏡餅を持ち上げて歩いた距離を競い合う正月の風物詩となっている。

歴史としては幾度かの兵火で堂宇が失われ(おそらく、あの戦国大名の兵火にも遭ったのだろう)、慶長年間に生駒氏による復興、さらに江戸時代には高松松平氏の保護を受けたという。また、五来重の『四国遍路の寺』では、長尾寺はもともと志度寺の一つの支院で、それが独立したものだと推定している。

「七観音随一」といく額が掲げられる本堂、そして隣に並ぶ大師堂でお勤め。

本堂の脇には、「静御前剃髪塚」がある。静御前といえば源義経の側室。義経が兄頼朝と対立して落ちのびる際に別れ、捕えられて鎌倉に送られ、頼朝の前で「しずやしず~」の舞を舞ったことで知られている。その後の消息はよくわかっておらず諸国に伝説があるそうだが、ここ長尾寺では、静御前の母の磯御前が讃岐の生まれということで静御前も讃岐に渡り、長尾寺で出家得度したという。

こちらの境内でも梅の花が開いているが、梅ということでよく似合うのが天満宮。境内の一角に長尾天満宮の拝殿がある。天満宮といえば菅原道真だが、道真が讃岐の国司だった時に長尾寺の明印という僧と親交があったという。道真が九州に流される時、讃岐にも立ち寄り、明印と詩のやり取りをして別れを惜しんだ。そのことから後に天満宮が建てられたとある。

納経所で朱印をいただく。

これで残すは88番の大窪寺となったが、これは翌日の10日に向かうとして、この日の行程はこれで終了。

すぐ近くにあることでんの長尾駅に向かい、瓦町に戻ることにする。この長尾線は長尾寺への参拝路線として建設された歴史がある(その後、讃岐白鳥までの延伸も計画されていたことがある)。2両編成の列車に揺られて高松市街に戻るが、また翌日ここにやって来る・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~さぬき市に残る遍路スポット

2019年02月15日 | 四国八十八ヶ所
志度寺から長尾寺を目指して、左手にオレンジタウンの住宅地を見ながら歩く。JR高徳線の線路も近くにあり、新型車両の特急「うずしお」が快音を響かせながら高松へと向かっていく。

歩いている県道3号線沿いに小屋がある。「萩の木地蔵休憩所」とある。遍路道には地元の人たちの手で整備されている休憩所がいろいろあるのだが、ここはベンチだけでなくお堂の造りである。

扉を開けて中に入る。元々は道沿いの地蔵堂だったのだろう。それを1間四方の小屋のような形で休憩所としている。お地蔵様の前で人一人が横になるくらいのスペースがあり、「お泊りの場合は賽銭箱をお地蔵様のほうに預けてください」という内容の貼り紙がある。

中には訪問ノートやさぬき市の観光パンフレットもあり、小さな納札箱もある。外国人の訪問も意識しているのか英語での案内表示もある。地元の人らしい手書きの案内によると、今から千数百年前に弘法大師が志度から長尾に向かっていたところ、この地に萩の木があり、これを採取してお地蔵様の像を彫り、その萩の木があったところに安置したという。また一方では、志度寺の本尊十一面観音を彫った木のあまりで造られたものだとか、さまざまな言い伝えがあるようだ。

ここまで県道3号線沿いに歩いてきたが、この萩の木地蔵の休憩所からはかつての遍路道に入る。地元さぬき市の手による案内板に従って先に進む。県道3号線から分かれる遍路道にはこの先さぬき市による標識が出てくるが、八十八所の結願に向けての応援であったり、さぬき市の観光PRの一つという感じにも見える。

先ほど萩の木地蔵の小屋で休憩したが、皮肉なことに外に出るとポツポツ雨が落ちてきた。事前の予報で天気が不安定とは聞いていたが、まあ小雨かと思うとそのうち強くなってきた。慌てて折り畳み傘を取り出す。

細道を歩くうちに、玉泉寺という寺がある。新四国曼荼羅霊場の札所にして「長尾寺奥の院」の立札がある。札所の長尾寺に着く前に奥の院に着くというのも妙な感じだが、雨も降っていることだし雨宿りではないが立ち寄ることにする。

石段を上がると背の低い藤棚があるために境内は狭く感じる。この奥が本堂で「日切地蔵菩薩」の額が掲げられている。日切地蔵とは、日を限って念ずれば功徳があるという地蔵菩薩である。

「大師堂はこの奥」という案内板がありそれに従うと、一般の札所にある独立した建物ではなく、小さな祠がある。ここには「満願大師堂」との手書きの額があり、中には小さな弘法大師像が安置されている。その両側には四国八十八所の公認先達たちの錦や金の納札が飾られている。まだ結願には至っていないし、四国八十八所で「満願」というのは、88番の大窪寺まで行き、さらに第1番の霊山寺に戻って「四国一周」したことを指すそうだから(これは1番から回った場合であって、他の番号の札所から始めた場合はその札所まで戻って「満願」となる)、少し気が早いように思う。

しばらく滞在して遍路道に戻る。先ほどの雨は通り雨だったようでしばらくすると止んだ。日切地蔵が何かしてくれたのかもしれない。

この週末は北日本から東日本にかけて観測史上最強クラスの寒波がやって来ていたが、こちらでは沿道で梅の花がほころびかけるなど、春の訪れが少しずつ近づいているようである。県道から離れて長尾の田畑の集落の中を歩いていく。江戸時代に建てられた石の道標も所々に残されている。

遍路道はいったん長尾寺の東門の前を過ぎる。ここは一度通り過ぎ、山門に回り込む。志度寺から途中の休憩や参詣を入れて1時間40分ほどで到着である・・・。
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