まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第19番「革堂行願寺」~西国三十三ヶ所巡り・18(六角堂までぶらぶら)

2015年03月31日 | 西国三十三所
勝負の世界だからそりゃ敗けることはある。長いペナントレースの中では、4連敗くらいすることもある。

・・・ただ、開幕からの4連敗というのはいただけない。打線はあれだけ雁首揃えていても4試合中3試合で零封、投手陣も先発が早々と崩れるようになった。結構、重症ではないだろうか。いったいこれからどうなるのやら。

話を西国三十三所めぐりに戻す。

19番の革堂のお参りを済ませ、次は18番の六角堂を目指す。十分歩けるところだが、革堂を終えてまだ9時前、何もない日曜なら張本さんの「喝!!」を見ている頃合いである。せっかく洛中に来たのだから、小雨の中少しぶらつくことにする。

京都御苑が近いのでそちらに向かう。御苑の南東の角に出る交差点の手前に神社がある。下御霊神社。奈良~平安初期に政争や反乱の末に亡くなった8柱の霊を祭神とする。「御霊会」という行事があるが、こうした形で亡くなった人が怨霊となってこの世に災厄をもたらすというのは古くから信じられていたことで、それを慰めて逆に現世を守護してもらおうというのも、かなり昔から信仰されたことである。その代表的な人物が菅原道真で、そこから派生した天満宮、天神さん。

下御霊神社も革堂と同じ通りにあり、いずれも地元の人が気軽にお参りする雰囲気である。ただ、特徴的なのが、手水場にポリタンクを持ち込む姿。由緒ある水のようで、水を汲みに来る人への駐車禁止の貼り紙もある。リュックに水のペットボトルがあるので入れてもいいかなと思ったが、さすがにそのままでの飲用には適していないようで、持ち帰りはパス。

そして入った京都御苑。今、平安時代の作品「今昔物語」の原文を岩波文庫で読んでいるのだが、大宮御所や京都御所の塀や、幅広い道に当時への想いを掻き立てられる。

ちょうど桃園が見頃を迎えていた。晴天ならなおよかったなと、少し残念。

蛤御門を出て、南下して六角堂を目指す。するとすぐ右手に「護王神社」の幟が見える。「足腰」「猪」「和気清麻呂」という、三題噺のような言葉が並ぶ。初めて目にするスポットだが、先を急ぐわけでもなく、立ち寄ってみる。

神社には狛犬が付き物だが、ここは狛犬ならぬ「狛猪」。また手水場の水の出口も猪である。

外壁にも境内にも由緒の説明があり、これを読むとなるほどと思う。

和気清麻呂は奈良末期~平安初期の役人。彼の名前が一躍世に出ることになったのが、「弓削の道鏡を天皇にせよ」という宇佐八幡のお告げに対し、その真偽を確かめよという称徳天皇の命。道鏡からは「よい返事をすれば高い位を与える」と言われたが、清麻呂が宇佐八幡で聞いたご託宣は、「日本は古来から君と臣は定められている。だから道鏡を天皇にしてはならぬ」というものだった。私は以前歴史物の番組で、このご託宣を「答えは清麻呂、お主の心の中にある」としたのを見たことがある。つまり、あの答えは清麻呂の忠誠心から出たとするものである。まあ、そのほうが現実的だし、そうでなければ清麻呂が後生まで称えられることはなかっただろう。

で、足腰と猪だが、清麻呂が称徳天皇と道鏡によって九州に流される途中、道鏡は清麻呂に刺客を放ち、清麻呂は足の腱を切られる。そんな中、宇佐八幡のある豊前にたどり着くと、何頭もの猪が出てきて清麻呂を護衛した。こうして無事に配流の地に着くとともに、足の傷も治った。清麻呂は後に復権して桓武天皇の下で平安京の建設にも携わるなど大いに活躍した。

時代が下って明治大正昭和の大日本帝国。その10円紙幣に出るのは清麻呂である。その肖像画とともに社殿が描かれているが、それこそはこの護王神社である。また、時代によっては裏面に猪が描かれていた。ひょっとしたら、当時としては一般にも広く知られた歴史の一面なのかもしれない。

こんな三題噺で私も面白いなと思ったし、猪づくしもうならせるものがあった。京都には、まだまだ奥深い、知る人ぞ知るスポットが多数ある。

平安女学院大学の有栖川門の桜も見た後、四条烏丸まで来る。京都の中心街とあって、高いビルも建ち並ぶ。

ここで、バス停の広告に女子プロ野球・京都フローラのポスターを見る。前日28日に今季の開幕戦を迎えている。この29日も、西京極球場「わかさスタジアム」で兵庫ディオーネとの第2戦がある。これ、六角堂の後でも十分行けるのでは?

思いがけない女子プロ野球の登場である。これまでもせめて一度観戦したいなと思っていたが、いきなりこんな形とは。しかも日程を見れば、この日に行くのが最良のようだ。

・・・これも、革堂のばあちゃんの言っていた観音さんのご縁なのか。ただ、雨がどうなるか。まず、六角堂にお参りして、そこから考えよう・・・。
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第19番「革堂行願寺」~西国三十三ヶ所巡り・18(洛中の札所)

2015年03月29日 | 西国三十三所
あ~あ、オリックス・バファローズ・・・。

やってしまった、開幕3連敗・・・。

ちょっと、ムード的にどうなのかと思う。次はソフトバンクとの3連戦であるが、少しは打線のテコ入れも考えた方がよいのではないかと思う。

まだまだシーズンは始まったばかりであるが、これはよくない。皆さんの奮起を願うところ。

・・・さて、「そない言うんやったらあんたは(テレビででも)観戦してたんか??」と言われるのだが、私の姿は京都市内にあった。そう、西国三十三所めぐりである。

今回は、洛中にある第18番「頂法寺六角堂」と「革堂行願寺」の2ヶ所である。京都府内の札所めぐりはこれが初めてである。恥ずかしながらいずれも西国めぐりをするようになって初めてその名前を知ったところである。

それにしても、今回は楽に行けそうである。西国の札所というのは結構交通不便なところが多く、最寄駅から1時間近く歩くとか、山道を登るとか、バスが1日に2本しかないとか、いろいろである。まあ、それも修行の一つと言えるのだろうが(そうして訪れた寺院というのはいずれも心に残るものばかりだが)。

ただ、札所めぐりにも息抜きがあってもいいと思う。この2ヶ所がどのような基準で三十三所に加えられたかというのはわからないが(ものの本では、徳道上人が三十三の宝印を授かったとか、花山院が三十三所をめぐったとか、西国三十三所の成り立ちについていろいろと書いているが、「なぜそこが三十三所に選定されたのか」について解説したものはない)、東山から西山に抜けるにあたり、洛中もちょこちょこっと入れて都見物も兼ねて・・・ということで入っているのか。これまで山岳寺院が多い中、こうした平地にあるところもいいものだ。

どちらから先に行くかということだが、JRのスタンプを京都駅でもらうことを考えれば、まず北にある革堂に行き、南下して六角堂に行くほうが道順としては良さそうだ。革堂は鉄道なら京阪の神宮丸太町が最寄である。

ということで、朝の淀屋橋から京阪特急に乗る。「関西私鉄・サイコロしりとりの旅」では何度となく乗った京阪特急であるが、西国めぐりで乗るのは初めてである。最前部に陣取って前方の景色を眺めながら走る。天気予報は雨だが、どこまで持ってくれるか。

最寄の神宮丸太町は特急が停まらないので三条で乗り換えとなるが、ホームの向かい側に停まっていた準急には乗らず、そのまま改札を出て地上に上がる。革堂には三条からでも歩ける範囲だし、久しぶりなので三条大橋や鴨川の景色を見ようかなと思う。

東海道五十三次の終着である三条大橋。弥次喜多の像も迎えてくれる。日曜の朝8時過ぎということで、繁華街は日曜朝独特の気だるさが残っている。そんな中、朝から外国の観光客も朝食代わりに何かつまみながら歩き回っている。

高瀬川に沿って歩く。関西にも桜の開花宣言が出たが、こうしたところに桜、また柳が植わっているのもいい感じである。あまりにメジャー過ぎて、観光地としての京都を避けているところがある私だが、来てみればいろいろと楽しみもあるし、発見もあるところである(単に私が知らなかっただけ・・・というところの方が多いが)。ここで雨粒がポツポツと落ちてくる。

寺町通というところに入る。三条から15分ほど歩いたところで、通り沿いの商店街に並ぶ形で「こうどう」の看板が見える。別にこの寺町通が行願寺の門前町というわけでもなく、「西国三十三所」の肩書がなければ、まず素通りしたことだろう。入山料、拝観料を取るわけでもなく、地元の人が気軽に入って拝んでいくところ。その点では、私の地元の葛井寺の雰囲気にも通じるものがある。

小ぶりな境内である。この行願寺は11世紀に行円上人が開いたが、元々は一条通りにあったそうである。それが幾度かの戦乱や火災を経て今の場所に移ってきた。もっとも、元々のところには「革堂○○町」という町名は残っている。

革堂という呼び名は、この行円上人がある日山中で雌鹿を射止めたところ、その腹から子鹿が産まれるのを見て発心し、仏の道に入った。その鹿の皮衣を身にまとって諸国を回ったことから、行願寺も革堂と呼ばれるようになったとか。

木の階段だが「履物のままお上がりください」の立札があるのでそのまま上がり、そこでお勤めである。今回は般若心経の写経もしてきたのでそれも納める。さて朱印帳と納経軸に朱印をいただこうとバッグをゴソゴソとやると、横の小部屋の電気がついた。

揮毫をしていただくのは、先ほどから境内の掃除をしていた女性の方。そしてその隣には御年何歳だろうか・・・お婆様がちょこんと座っている。ははあ、この方がネットで「革堂の名物ばあちゃん」としてあれこれ書かれている方なのかな。いや、ばあちゃんと言っては失礼だな。この革堂は尼寺であり、この方は庵主さんである。

朱印帳や納経軸に書いていただいている間、
「今日はどっからお参りにきはったん?」
「大阪の藤井寺です」
「(よく聞こえなかったのか)福井県?」
「いや、藤井寺です。5番(札所)の」
「ちゃんと回ってはるんやねえ~。これもええご縁ですよ」
「そうですか」
「今日は雨降ってお客さんも少ないやろうし、団体さんも入ってまへん。こういう時にお参りしはったらええご縁ですわ」
「ありがとうございます」
「この辺の方でも、来はれへん人は来はりまへんわ。それをわざわざ遠くから来てくれはるのは、観音さんのご縁ですわ」
「恐れ入ります」
「次、六角はんに行きはるんやろ? 道は・・・よう調べてはるやろうから大丈夫でっしゃろ。ようお参りでした。(隣の女性に向かって)慈悲の道も差し上げなさい」

他にお参りする人もいなかったからか、いろいろと話しかけていただいた。うーん、ネットで名物として語られるほどの方である。もっとも、その名物たる所以が「一言多い」とか「作法についてあれこれ厳しく説教をされる」「納経の字がひどい」という類のもののようだ。「革堂のばあちゃんに一言(説教を)言われるのがステータス」であるかのような発言もある。

同じようなこと、番外であるが三田の花山院に行った時に感じた。あそこも「厳しい」「納経せずに朱印帳を持っていったら怒られる」という類の書き込みがあったが、雪の中の参詣にえらく歓迎された。

・・・これらに言えるのは、やはりスタンプラリー感覚で訪れ、お参りもせずに朱印だけ求めるという手合いには厳しいということなのだろう。その厳しく言われた人たちがネットにいろいろ書き込んだのが噂となって広がったというところか。

町中の札所のこととて、境内は広くない。それでも鐘楼もあるし、七福神や百体地蔵もまつっている。

またそんな町中らしいのが、境内に猫が居ついていること。私が見たのはこれだったが、他の人のブログなどを見ると毛の色の違う猫の写真が掲載されている。何匹もいるのだろうか。

山岳寺院や観光寺院とは違う、地元密着のちょっとしたスポットと名物庵主。短時間の滞在だったがなかなか味のあるものだった・・・。
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2戦連続零敗って・・・

2015年03月28日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
今日も昼間出ていたのでネットでの結果チェックだが、オリックス・バファローズ、前日に続いての零敗ですか・・・。

先発バリントンは好投した。まあ、カープ時代もこの投手はよく見殺しにされていたのだが。

打線にお歴々が並び、多国籍軍だが破壊力は凄まじい・・・と思いきや、「そらないで」という結果である。

パ・リーグの他の試合は、開幕戦敗れたソフトバンクと楽天が勝ったので、バファローズだけが勝ち星なし。セ・リーグは・・・2試合はカープ、DeNAが勝ち、中日が2試合連続阪神にサヨナラ負けと、こちらも同じように悲惨なものである。

明日はルーキー・山崎福が先発。西武も新加入の郭が先発。やはり、先発オーダーは変えないだろう。さすがに点は取ってくれるだろうが・・・頼むで、ホンマ。
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大阪都構想・・・

2015年03月27日 | ブログ
今日から開幕のプロ野球、オリックス・バファローズは西武相手に零封リレー負け。ネットで結果を見ただけだが、ディクソンの好投が報われず、打線もあと一本がなかった。まあ、牧田の好投は個人的にはうれしいのだが、複雑な気持ち。

勝負事なので負けたのは仕方がない。ただ、シーズンが終わって、開幕戦が「微差が大差」の始まりだった・・・と振り返ることがないことを願う。

さて、タイトルは「大阪都構想」。あまり政治関係のことは拙ブログではとりあげないのだが、ここで少しだけ。

私は藤井寺市民だが、職場は大阪市内(と言っても端のほう)。勤務を終えて職場最寄りの駅に行くと、その区から選出された自民党の区議会議員がいて、支援者の人がビラを配っていた。

内容は大阪都構想に反対するもの。確か、5月に大阪市で住民投票をして、その結果次第で、大阪市が特別区制に移行するというものである。

大阪都構想は以前から言われていたこと。ようやく住民投票まで漕ぎ着けて来たのだが、私には違和感が残る。

大阪都構想は、何も大阪市だけの問題ではないはずである。最初は、大阪市と堺市を合併しようかという威勢のいい主張もしていたし。

府と市の二重行政の弊害・・・まあ、確かにあるのかもしれない。ただ、二重行政は大阪市だけのことなのか。藤井寺市は全く関係のないことなのか。

住民投票は大阪市民だけに投票権があるが、これは大阪市だけの問題なのだろうか。同じ大阪府内の他の住民の意思は反映されないのか。

確かに居住は藤井寺だが、仕事は大阪市内だし、それ以外にも所用や遊びなどで大阪市内にはいくらでも足を踏み入れる。その時は大阪市の行政の恩恵を受けているのだし、単なる市町村合併とは異なる影響を受けると思う。

今ここで都構想の是非をいうものではないが、大阪市民だけでなく、せめて大阪府民の声は聞いておくべきではないかと思う。

果たして、どうなるのかな・・・?
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いよいよプロ野球開幕

2015年03月26日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
いよいよプロ野球開幕である。結局オープン戦の生観戦はなかったが、公式戦となればできる限り行きたいところである。

開幕一軍メンバー、開幕予告投手が発表され、オリックス・バファローズは埼玉西武ライオンズとの試合。予告先発はディクソンと牧田。それぞれエースの金子と岸が故障のため先発を外れた。今年も優勝へのカギを握るであろうディクソンにもちろん勝ってほしいが、西武牧田も私的には気になる投手であり、がんばってほしい。

先発ディクソンとなると、今年もやはり捕手は山崎勝となるのか。それもまたよろしい。

当面先発はディクソン~バリントン~山崎福~西~松葉~東明で、リリーフは昨年の「文字通りの」火消し・比嘉や岸田がいないが、阪神から来た白仁田に期待が持てる。馬原、佐藤、平野佳のリレーが昨年同様見られるのも楽しみ。

野手ではブランコ、中島、小谷野という看板が加わったほか、新人の西野、小田も評価が高い。こうした新しいメンバーも早く見たい。

T‐岡田も新婚でさらなる活躍を期待したい。昨年の復調とか、クライマックスシリーズで放った逆転3ランを振り替えると、彼女の存在が大きかったんやなと思う。

やはり、そういうお相手がいるというのは、何かをする上で大きな力になるもんやな・・・(と、遠くを見ながらつぶやいてみる)。

とまあ、開幕前の楽しみはいろいろあるが、勝負事、どうなるかわからない。ホークスとのデッドヒートになるのか、あるいは2009年の再来とならないとも限らない。

熱い戦いを期待します・・・!

ちなみにまつなるの初観戦は、ホーム開幕シリーズの第3戦、日曜日。
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大阪環状線 全駅発車メロディ

2015年03月23日 | ブログ
今朝、通勤のために天王寺から大阪環状線に乗った時に、発車間際に「あのか~ね~を~、鳴らすのはあな~た~」という、和田アキ子の一曲が流れた。

ああそうか、前日22日から、大阪環状線の全駅で発車メロディが流れるようになったんやな。

このところ、大阪環状線へのテコ入れが目立つが、全駅の発車メロディである。JR東日本では当たり前のように流れるが、西日本でここまでやるのは初めてである。これまで一部ということだが、大阪のやしきたかじん「やっぱ好きやねん」は有名だし、それ以外にも西九条の「アメリカン・パトロール」、京橋の「ゆかいな牧場」(元ロッテの大村巌の応援歌にもなった「イーアイイーアイオー」の歌)、森ノ宮の「森のくまさん」が流れていた。

それが全駅拡大である。選考基準は、駅の特徴や位置付けから来たもの、大阪らしいもの、大阪にゆかりのあるアーティストの曲というところである。または複数兼ねている。

天王寺の「あの鐘を鳴らすのはあなた」は、和田アキ子が大阪ゆかりというのと、鐘は四天王寺の鐘という感じでつなげたものである。

大阪らしさといえば、新今宮が「新世界」が近いからドボルザークを持って来たり、野田が中央卸売市場が近いからロシア民謡の「一週間」(日曜日に市場に行って~)だとか、森ノ宮の「森のくまさん」も「森」しか合ってないとか・・・駅の一つ一つにツッコミどころがあるところ。ただそれが、東日本などのような特徴の乏しいメロディに比べて、駅の存在感や個性を浮き出させている。

各駅のメロディの出自はJR西日本のホームページをご覧いただくとして、私が一つだけ、仕方ないが残念という駅について。

それは大正駅。ここは沖縄の何とかいう曲である。沖縄出身の方も多いし、国営放送の朝ドラの舞台にもなったところである。まあ、だじゃれやこじつけで選ばれた駅の曲に比べれば、至極当然だろう。

・・・ただ、個人的にはオリックス・バファローズの「SKY」を選んでほしかった。

東日本では(楽天の仙台は知らないが)、例えば水道橋の「闘魂こめて」とか、関内の「熱き星たちよ」、海浜幕張の「We Love Marines」がある(しかも上り下りでAメロバージョンとサビバージョンが分かれている)。

そうならなかったのは、やはりこの球団の大阪での位置付けが、大正での沖縄のそれよりも低いということの現れである。認知されていない現実。まあ、大阪の人間の見方はその程度。これが現実。

先の週末に大正ドームでオリックス対阪神のオープン戦3連戦あったが、関西のマスゴミは良くも悪くも全て主語は「阪神」。オリックス投手陣の好投に触れず、阪神打線の不調を嘆き悲しむ。まだ東京のマスコミのほうが、よほど公平に伝えてくれる。

頼むから、関西のマスゴミだけには「関西ダービー」という表現は使ってほしくない。そんな気さらさらないくせに、形だけ取り繕うなよ・・・・。
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春のゴルフコンペ

2015年03月22日 | ブログ
3月も彼岸となり、暖かくなる日も出てきたことである。

この週末は大正ドームでのオリックス・バファローズ対阪神タイガースのオープン戦、また22日には新しい「B’s Spirits」の金色ユニフォームが初お目見え、おまけに試合終了後はシーズン開幕へのファンとの決起集会のようなことが行われたそうだが・・・。

そんな中だが、私の姿は神戸市北区は北六甲カントリー倶楽部にあった。毎年春秋恒例の会社のゴルフコンペである。毎回大勢の人が参加して賑やかなものである。

山のこととて雨水が溜まっているのか、コース上にはところどころぬかるんだところはあるものの、晴天に恵まれ、暑くもなく寒くもなくという絶好のコンディションである。

スコアは相変わらずここで公開できるほどのものではないが、前半は何となくいい感じだったと思う。ただ昼食を挟んだ後半がいけない。それも最初の3ホール。そういればこれまでのラウンドでも、昼食後の最初というのはあまりよろしくない。別にビールを飲むわけではないが、食後というのがあまりよくないのかな。

今回は少しだけ順位が上がったが、全体に比べれば・・・・。

ちなみに毎回、バファローズのグッズであるボールを投入するのだが、持って行く分のほとんどがゴルフ場の肥やしになってしまう。どなたか拾っていただく方がいれば・・・。
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第14番「三井寺」~西国三十三ヶ所巡り・17(江若鉄道の思い出と「ジオラマ」)

2015年03月21日 | 西国三十三所
三井寺のお参りを済ませて、隣接する大津市歴史博物館に向かう。プランニングの時点で、3ヶ所回っても少し時間が残りそうだったので、石山坂本線のどこか沿線に行こうかと調べていたら歴史博物館があった。ここはまだ訪れたことがない。

博物館のホームページを見ると、ちょうど4月までの企画展で「江若鉄道の思い出」というのが開催されているとあった。琵琶湖畔の白髭神社の鳥居と、湖岸スレスレを走る気動車の写真。一発で、ここに行くことを決めた。

三井寺の大門から歩いて2~3分の博物館。エントランスを入ると「企画展のお客様ですね」と声をかけられる。常設展との共通で400円である。

そのエントランスにはジオラマがある。往年の三井寺下駅の様子で、いろんな型の気動車や客車が見える。貨物の扱いもあったようだ。展示資料は撮影不可だが、ジオラマはOKとのこと。

また各駅のレイアウトを絵巻物風に描いた絵図が置いていたり、モニターでは往年の走行風景の映像が流れる。私の産まれる前のことだが、ああいう車両がのんびり走るというのも体験したかった。

江若鉄道は、琵琶湖の西部を走り近江と若狭を結ぶことを目的として、1921年に三井寺下~叡山が開通。その後1931年に浜大津~近江今津まで伸びたが、その後は資金難等もあり、結局若狭まで至らずに1969年に廃止となった。

ただ、これは「超ローカル線でどうしようもなくなって廃止した」ということでもないようで、その答えは今走っている湖西線にある。近江と若狭だけでなく、関西と北陸を結ぶバイパス線として高規格で建設され、特急も貨物も湖西線を走ることになった。その建設用地を差し出す形になったわけで、今でも湖西線の駅間距離が比較的短いのも江若鉄道の名残と言ってもいい。江若の名前は今はバスで見ることができる。

とまあ、そんな歴史があったわけだが、地元の人たちには愛されていた路線だったのは確かなようだ。今回の企画はジオラマや写真、思い出話のパネルが中心である。

展示室内は大勢の見学者がいて、ジオラマやパネルを熱心に見ていた。現在の国土地理院の地図を拡大したものにかつての江若鉄道の路線を加えたパネルでは、かつて利用していたのか、地図を指でなぞりながら会話する人もいる。

先に挙げた白髭神社だが、私もクルマで初めて通った時に、宮島の厳島神社ほどのスケールはないが湖面に鳥居が浮かぶ姿にうなったものである。今の湖西線はちょうどトンネルに入るので見ることができないが、こうして古きよき鉄道の風情を追体験するのもよい。

浜大津駅の精巧なジオラマもある。当時は膳所から浜大津まで貨物線があり、江若鉄道は貨物駅を間借りする形で駅舎とホームがあった。これは知らなかった。また現在の浜大津駅は、京都地下鉄に乗り入れる大津線と石山坂本線が同じホームだが、かつては大津線の線路は交差点を北に曲がり、別々のホームだったそうだ。現在は湖岸の整備が行われ、そうした形跡を見ることがない。

かつての駅舎で唯一現存しているのは、終点の近江今津。その駅舎は、西国三十三所巡りで竹生島に渡る前に見た。

その後、いろいろ写真を見るが、特に夏は琵琶湖で泳ごうという家族連れで賑わった様子が伺える。客車の窓も扉も全部開け放って客が鈴なりになっていたり、浜大津での京阪との乗り換え客が交差点にあふれていたり。

これらの写真やジオラマは、廃止当時に大学の鉄道研究会に入っていたとか、あるいは職員だったとかいう人たちが提供したものである。お別れ列車のヘッドマークも作成したとか。また、思い出エピソードのパネルも60歳代以上を中心にあれこれ寄せられている。私はリアルタイムで体験していないので、こうした展示を見ると、「もう少し早く産まれていれば」と思うばかりである。

その江若鉄道、湖西線の建設と引き換えに姿を消したわけだが、その湖西線も10年後にはどうなるか。

今月、北陸新幹線が金沢まで延伸開業した。今のところ、東京と北陸が近くなったという効果しかないが、北陸新幹線の最終目的地は大阪である。東海道回りだけでなく、北陸経由での幹線ルートを確保する役割がある。現在は敦賀までのルートは決まっているが、その先のことはわからない。

候補は3パターンあるが、その一つが湖西線ルートである。まあそれは自然な発想だが、実際通すとなるとどうなるか。今の高架線を改良するのか、はたまたもう一本線路を通すのか。仮に新たに建設したとして、さすがに湖西線を今の並行在来線のように第三セクター化するということはしないだろうが、かつて江若鉄道を廃止に追いやった湖西線がどうなるかと考えるのも皮肉なものである。

なかなかに楽しんだ企画展示の後は、常設展示を見る。大津市は近江八景を持つ歴史風情あふれるところで、大津、膳所、坂本、堅田といった主要エリアの歴史展示が興味深い。それぞれのジオラマも、(撮影不可なので画像はないが)かなり精巧にできている。案内映像でも「ジオラマを近くで見ると当時の雰囲気に近づける」ようなことを言っていた。先ほどの江若鉄道のジオラマは直接関係ないが、こうした見せ方はなかなかなものと思う。

博物館を後にして、この日はこれで帰ることにする。JRの西国三十三所巡りのスタンプ、三井寺は大津か大津京駅で押してもらうことになっている。どちらも同じような距離だが、通るだけで乗り降りしたことがない大津京駅に向かう。石山坂本線の線路と並走し、皇子山球場を遠くに見て到着。駅前は高層マンションが建ち並び、京都、大阪への通勤にも便利がよさそうだ。

ここから新快速に乗れば一気に大阪まで戻ることができる。やって来たのは何と12両。余裕で座ることができた。

さて西国三十三所巡り、次は初めての京都編である。暖かくなってきたことだし、これからどんなペースで回ることになるか・・・・。
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第14番「三井寺」~西国三十三ヶ所巡り・17(三井寺探訪)

2015年03月20日 | 西国三十三所
プロ野球開幕まであと一週間。そろそろ開幕一軍、開幕ローテーション投手の顔ぶれも固まる頃で、だいたい今日20日のオープン戦に先発する投手がそのまま開幕投手となるようだ。

・・・ということで気になるのだが、オリックス・バファローズの先発はディクソン。昨年のFA宣言時から今季の開幕投手を明言されていた金子は登板なし。やはり肘の具合ということだろう。

2年前だったか、オープン戦での登板なしでぶっつけでの開幕投手というのがあったが、今年はさすがにそういうことはしないか。まあ、元々FAかポスティングでいなくなる予定の投手だったわけだから、別にいいのでは。ディクソン、西、バリントン、松葉、東明、山崎・・・と頭数はいるのでとりあえず回せるし。むしろ比嘉、岸田の離脱が痛い。

一方打つほうではブランコが欠場。これも風向きが怪しい・・・のかな。でもこれも計算のうちかも。それを見越してカラバイヨが一軍に呼ばれる日も遠くないのかなと。

いずれにしても長いシーズン、最後まで期待を持たせてほしいものである・・・。

・・・さて、すっかり前置きが長くなったが、ここから本題の西国三十三所巡りの続き。

京阪石山坂本線の三井寺で下車。この線はさまざまなラッピング車両が走っており、私が乗ってきた車両はアニメ「けいおん!」のもの。アニメには興味がないのでどうということはないが、車内のあちこちを撮影している人もいたし、浜大津の交差点では多くのカメラが向けられていた。私は決してそうではないが、鉄道とアニメを「兼業」している人は結構いるようである。まあ、どちらも度が過ぎればドン引きされる世界ではある・・・。

駅から琵琶湖疎水に沿って歩く。朝の雨や岩間寺の雪が嘘のように、青空も広がる。琵琶湖疎水は桜の名所とのことで、もう半月後ならそんな眺めも楽しめるところである。

三井寺の正面の入口は北側の大門であるが、これから向かう観音堂は三井寺駅寄りにあるのでちょうどよい。入山料を支払い、石段を上がる。それにしても、本日訪れた3ヶ所はいずれも入山料がかかるところで、合計1400円。そして3ヶ所で納経帳と納経軸に朱印を受けており、(300+500)×3で2400円。札所巡りというもの、結構コストがかかるものである。

まず訪れた観音堂。周りの建物と合わせて開放的な雰囲気である。まずここで本日3回目のお勤め。私のやっているのを見てか、後から隣で結構早口で般若心経を唱える人がいる。私のが教科書の本読みを当てられた小学生くらいの読みなのに比べれば断然流暢に聴こえる。

読経を終えて朱印をいただこうと窓口をのぞくと、後ろからドタドタと、そしてゼイゼイ言いながら女性が走り込んできて、「散華とご詠歌くださいっ!!」と怒鳴る。受付の年配の男性も戸惑う様子で「えーっと」と散華を1枚出すと、女性も「2枚なんです!あと、ご詠歌も2枚!!」と焦っている。ちなみにご詠歌の札をいただけるのは先達、または先達と同行した人である。2枚というのは、先達用の巻き軸状の納経帳と、他にもう1本納経軸でもあるのだろうが、何をそんなに焦っているのだろうか。

さて、女性に散華とご詠歌の札が渡った後で、私も朱印を受ける。納経帳と軸を差し出したところ、ちょうど奥から僧侶姿の男性が出てきた。すると受付の男性、「○○くん、これ頼むわ」と納経帳を僧侶に渡す。受け取った僧侶は納経帳を台の上に置き、左手で押さえることなく、右手でさらさらっと筆を滑らせて「一丁あがり!」のように納経帳を返してくる。その後で納経軸も「一丁あがり!」。

前の記事で石山寺を「女性的」としたが、ここ三井寺は、かつて朝廷に強訴を繰り返した僧兵のイメージがあり、「男性的」な寺院ではないか。

軸を乾かそうとドライヤーのある一角に行くと、先ほど鼻息荒く散華とご詠歌の札を求めていた女性が、先達用の納経軸をくしゃくしゃに丸めて、何をそんなに急いでいるのかという感じで出ていくところだった。先達もそんなことでいいのかなと思うのだが・・・。

観音堂からさらに上の高台がある。ここからは大津市街を一望することができる。正面のいいポジションには高層マンションが集中しているのが残念だが、天候が回復して比叡山から琵琶湖大橋まで見渡すことができる。結構いい眺めである。

三井寺ほどの由緒ある寺院となると、さまざまなお堂がある。入山料は600円とこの日の3つの札所では最も高いが、それら全てを拝観できるのだからよしとする。最も高台にある観音堂から下りる形でそれらを見て回る。その一つに水観寺というのがある。ここは薬師如来を本尊としており、日光・月光菩薩と十二神将という「薬師グループ」がお出迎え。西国四十九薬師巡りの一つで、今回は朱印はいただかなかったが、西国三十三所が終わったら、またいずれそれらを回ることもあるのかなと思う。

もう一つ、微妙寺というのがある。こちらは十一面観音を本尊とする。先の水観寺などと合わせて三井寺には5つの別所があったという。

まるで城郭のように構成された境内、さすが天台宗の寺門派の総本山である。歩き、本堂に当たる金堂に出る。靴を脱いで上がり、中を見て回る。現在の建物は豊臣秀吉の手によって再建されたものだが、もともとは智証大師円珍が建てたもの。なかなか重厚そうな造りである。本尊は秘仏であるが、横から後ろにかけて、さまざまな時代の仏像が並ぶ。これらの一つ一つに手を合わせると大変なご利益がありそうである。

和歌山にある紀三井寺は、「紀州の三井寺」であり、「三つの井戸がある寺」というのが名前の由来である。で、その本家である三井寺の名前の由来は、実は「三つの井戸」ではなく、「御井の寺」ということらしい。位の高い人が使う井戸ということで、そこに天智・天武・持持統という三代の天皇の産湯としてこの霊泉が使われたということで「三井寺」と呼ぶようになったとか。名前というのもなかなかわからないものである。

この後は、近江八景の一つである三井の晩鐘や、武蔵坊弁慶が比叡山まで引き摺ろうとした「弁慶の引き摺り鐘」などを見る。歴史のあるところで、全ての建物やお堂をじっくりと回ると結構時間がかかるので、この日はこのくらいにしておく。

この日3ヶ所を回り終えて、次の行き先を決める。サイコロの出目の候補は・・・

1.飛鳥(岡寺)

2.洛中(行願寺革堂、頂法寺六角堂)

3.山科醍醐(上醍醐、元慶寺)

4.北摂(勝尾寺、中山寺)

5.丹後半島(成相寺、松尾寺)

6.近江(長命寺、観音正寺)

・・・このあたりでそろそろ京都府内が出てもいいかなと思う。

次に行くとすれば、ちょうど桜が見ごろを迎えるだろうか、あるいはまだまだ早いか。

そして出たのは・・・・「2」。洛中、初めての京都府内である。2つの札所はいずれも小ぶりなところで、都市部なのでアクセスもよく、参詣自体にはさほど時間がかかるものではない。どうせ京都市内に行くのなら、他の目的の京都散策と合わせるか・・・・。

さて三井寺を終えたがまだ時間の余裕がある。そこで、この時間を利用して、隣接する大津市歴史博物館に向かう。そのお目当てというのが・・・・。
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第13番「石山寺」~西国三十三ヶ所巡り・16(石山寺一巡り)

2015年03月18日 | 西国三十三所
岩間寺から徒歩で石山寺に到着。先ほどの山の中とは異なり、水流豊かな瀬田川のほとりである。以前に一度来たことがあるが、それはもう20年以上前のことで、その時のことなどはほとんど覚えていない。実質初めてということで。

山門をくぐると貴族の格好のゆるキャラが出迎えてくれる。おおつ光るくんというそうだが、これは天智天皇を意識しているのか、あるいは石山寺~紫式部~源氏物語~光源氏という発想なのか。

入山料を支払うと如意宝珠をかたどった梅干しがついてきた。この時期「梅つくし盆梅展」というのが行われていて、境内のあちこちに盆梅が飾られている。盆梅展と聞くとどうしても長浜のそれをイメージするが、あそこまでダイナミックなものではなく、参道のちょっとしたアクセントのような感じである。

石山寺でダイナミックといえばこの硅灰石。天然記念物である。ちょうどこの上に多宝塔を見ることができる。石山寺の地名の石は、この硅灰石を指すようだ。寺の創建も聖武天皇の頃というからかなり古い。

本堂に到着。舞台造りのかなり大きな建物である。先ほどの岩間寺の本堂が2つ入るくらいだ。

ちょうど、30人くらいの団体が外陣にいる。出で立ちからして巡礼のバスツアーだ。先ほど石山寺に差し掛かった時、観光バスが追い越して駐車時に入って行ったが、確か尾張小牧ナンバーだった。あちらのほうから来たのだろうが、岩間寺の行き帰りでは見なかったので、後から行くのだろうか。観光バスでも結構キツそうだが。

ちょうどその団体が先達の音頭で開経偈を読み始めたところである。私もそれに入ってもいいかなと思ったが、せっかくこうして自力で(行き先はくじ引きとサイコロ任せだが)来ているのだから、お勤めもバスツアー便乗ではなく、単独でやったほうが観音さんも認めてくれるように思う。ということで、団体のお勤めを横でありがたく拝聴する。

団体のお勤めが尾張小牧・・・もとい終わり、「12時にバスに集合です」の先達の声で自由散策となったのを見て、私も開経偈から始める。そして納経帳と納経軸に朱印を受ける。「ようお参りでした」と愛想よく返していただく。

本堂の一角に別間があり、そこには紫式部の人形がある。手前にはロボットの「MURASAKI」。ここで源氏物語の構想を練ったそうだが、当時の都からの距離感で言えば、石山寺というのは都市から離れた別荘地で、東京から見た軽井沢とか、大阪から見た・・・どこやろう?という形の保養地だったのかな。構想ができたかどうかはともかく、ここで構想を練るのがステータスとか。ちょうどありがたい観音様もいらっしゃることだし・・・。

石山寺は紫式部だけではなく、蜻蛉日記の藤原道綱の母とか、更級日記の菅原孝標の女とかも日記に出しているし、清少納言や和泉式部も触れている。そんなこともあり、結構女性的なイメージから来る雰囲気がある。

多宝塔から奥に広がる梅林を歩く。盆梅展もいいが、こうした梅林も素晴らしい。石山寺にこうした梅林があること自体初めて知った。

梅に混じって寒桜も咲いている。冬から春に移る風情を楽しむ。

一通り回り、山門から出る。ちょうど昼時で、門前には何軒かのレストランも賑わう様子。石山寺門前の名物はしじみめしとのことだが、鯉や近江牛といった他の名物と組み合わせると結構高くつく。結局、土産としてしじみの佃煮と鮒すしを買い求め、昼食は石山駅に戻ってからとする。

次の三井寺へは、石山寺から京阪石山坂本線で乗り換えなしだが、JRの西国三十三所キャンペーンの岩間寺と石山寺のスタンプは石山駅でしかもらえないので一旦下車することになる。石山駅に隣接した日本海庄やでランチ。うーん、これが夕方なら「生一つ」「はい、喜んで!!」となるのだが・・・。

石山坂本線も独特の存在である。電車は電車だが特にぶっ飛ばすわけでもなく、ほとんどが専用軌道だが浜大津駅前の道路の上を走るのも珍しい光景だ。

三井寺に到着。朝は雨や雪だったのだが、ここに来て止んだ。午後の時間も十分に取ることができたので、早速本日3つ目の参詣で・・・・。
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第12番「岩間寺」~西国三十三ヶ所巡り・15(岩間寺から石山寺へ)

2015年03月16日 | 西国三十三所
西国12番、岩間寺は奈良時代、元正天皇の病を法の力で治した泰澄大師がその褒美として建立した寺院である。

駐車場から入り、まず出会うのが「ぼけ封じ観音」。何でも「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の一つという。さすがは観音さん、いろんなご利益をさずけてくれるものである。私もたまに大ボケをかましてしまうことがあるので、ここは一つ手を合わせておく。

足元にある仏足石を踏むとご利益があるというが、見事に雪で埋まっていた。

山門、仁王門がなく露天にさらされた仁王像を抜けると本堂へ。小ぶりな建物だが、ちょうど屋根に雪が積もっており、山の中の静かな寺らしい佇まいを感じる。まずは雪を払い、息を落ち着かせてお勤めをする。吐く息が白い。

本尊の千手観音は「汗かき観音」とも呼ばれている。毎晩、観音が厨子から出て136の地獄を駆け回り、夜通し人々を救済し、日の出の頃に本堂に戻る時には汗びっしょりになっているからというものだ。かなりタフな観音さんやなあ。

また、これは直接千手観音がそうというわけではないが、岩間寺は「雷除け観音」とも呼ばれている。ここを開いた泰澄大師だが、雷がよく落ちるので困っていた。そこで自分の法の力で雷を封じ込めた。雷に落ちる訳を尋ねたところ、雷は「大師の弟子になりたかった」と答えた。大師は雷を弟子にする代わりに、岩間寺に参詣する人には雷の災いを及ぼさないことを約束させた。そのためか「電力・航空関係並びに旅行安全にお札やお守りをお受けになって」「雷除けのお札は、家の中心柱に北向きにお貼りください」とある。確かに、雷による停電というのもあるし、過去には落雷が原因で航空機が墜落する事故もあった。そういえば、岩間寺に入る前に「NTT専用用地」への道があり、その先には巨大な電波塔があったが、雷除け観音の横にそうした施設があるのも、その信仰に守られているということか。

ぼけ封じ、汗かき、雷除けといろんな顔を持つところ、本堂内の納経所で朱印を受ける。書いていただいた後、男性から「入山料、まだでっしゃろ?」と言われる。すると横にいた僧侶が「いや、この人はもう払うてまっせ」と言う。この岩間寺、11番の上醍醐方面から山道を通ってやってきた場合、先ほどの駐車場とは反対側から入ることになり、入山料を取る人はいない。その代わり、ここ納経所で納めるシステムのようだ。ただ、何で僧侶が「この人は払うてまっせ」と気付いたのか。ふと納経所を見ると防犯カメラのモニターがあり、駐車場のところが映っている。先ほど歩いて来た私をそこで見たのかな。おそらく山道のほうにもカメラがあるのだろう。前の記事でも書いた「檀信徒」に言わせれば「檀信徒や東海自然歩道を歩く人たちを醍醐寺が監視している」ということになるのだが、このご時世、防犯カメラはどこにでも設置されているものであるし、それは考えすぎではないかと思う。

本堂と不動堂の間に池がある。ここが松尾芭蕉が「古池や蛙とびこむ水の音」の句を詠んだとされる池である。ただ似たような話はあちらこちらにあるようで、真偽のほどは定かではない。まあ、芭蕉が亡くなったのは大坂だが、その墓は膳所にある木曽義仲の塚の隣にある。琵琶湖の景色を愛で、大津にもたびたびやって来て滞在したこともあるから、その間に岩間寺にも来ていたのだろう。「観音霊験記」によると、岩間寺に参籠して本尊の霊験を得て、その俳風を確立したというが、もうここまで来れば言うたもん勝ちである。

帰りは裏手にある奥宮神社を通ろうと、裏口から出る。ここに「入山料300円 納経所でお支払ください」という立て看板がある。その向こうには巨大な桂の木がある。千手観音は泰澄がこの桂の木から造ったものとされている。ここから雪景色を見る。

奥宮神社と上醍醐への分岐がある。ちょうど滋賀と京都の境目である。上醍醐へは7キロ、完全な山歩きコースで、慣れた人でも2時間以上かかる難関である。奥宮神社へも完全に雪の積もった山道である。時々滑りそうになりながら、15分くらいで到着。

奥宮神社というから岩間寺との神仏習合の歴史があるのかなと思うが、神社の創建は昭和40年代と新しい。また神社の住所は京都府宇治市となっている。小ぶりな拝殿だが、表の龍の彫り物はなかなか立派であるし、こちらはこちらで岩間山と、麓の千町集落の氏神さんという風情である。

岩間寺でも「奥宮神社(琵琶湖展望台)」という案内表記だったのだが、いざ展望台に出ると・・・ごらんの天候。何も見えないがこれは仕方がない。

さてここから下山する。奥宮神社から下る道も結構勾配がきつい。幸い、ここまで来ると雪が再びみぞれ~雨に変わったため、雪に足を取られる心配はない。元の道との分岐点まで戻ると、先が見えてきたようでほっとする。ちょうど中千町のバス停を出発してからちょうど2時間で戻ってきた。ここから石山寺、石山駅方面のバスは30分に1本程度の頻度で走っており、10分ほど後でバスがやって来る。ただ、ここまで歩いてきて身体がその気になっているのか、このまま石山寺まで歩き続けることにした。徒歩で次の札所に向かうのは初めてである。交通量の多い中、滋賀大学の横を通り、20分あまりで到着する。

岩間寺は西国巡りをするようになって初めて存在を知った寺だが、石山寺はさすがに有名寺院。賑わっている様子である・・・。
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第12番「岩間寺」~西国三十三ヶ所巡り・15(岩間山へ)

2015年03月15日 | 西国三十三所
西国三十三所巡り、今回は大津シリーズである。岩間寺、石山寺、三井寺の3つを回る。

このうち石山寺と三井寺は京阪石山坂本線でのアクセスである。駅から徒歩圏内である。一方で岩間寺は石山寺の南にあり、アクセスは厳しい。さまざまな案内では「石山駅から京阪バス『中千町』下車、徒歩50分」とサラッと書かれている。毎月17日はこの寺を開いた泰澄大師の法要が行われ、石山駅からシャトルバスが出るのだが、なかなか参拝できる土日とタイミングが合うものではない。まあここは運動も兼ねて歩くことにする。

順番とすれば札番通り、朝のうちに難関の岩間寺を済ませて、後は石山寺、三井寺と来れば電車もあるので都合がよい。

そうして岩間寺についてネットでいろいろと情報を集めていたのだが、その中で「岩間寺はもめている」「荒れている」という噂というか、情報を目にすることがあった。その根本に「醍醐寺が岩間寺を乗っ取った」という主張がある。それは「岩間寺檀信徒のページ」というのにいろいろと書かれている。それによると、真言宗の醍醐派に属する岩間寺の先代の住職が亡くなると、本山の醍醐寺の管長が岩間寺の住職に就任し、寺に副住職や職員の形で住んでいた先代住職の家族たちを強制執行の形で排除し、檀家や信徒の存在も否定したというのだ。そして僧侶や職員も醍醐寺から送り込み、岩間寺を醍醐寺の一部にしようとしているとか、それまで続いていた行事をないがしろにしたとか、山や境内の管理を行わず荒れ放題にしているとか・・・いろいろな悪行が書かれている。

一方で、岩間寺のホームページでは、岩間寺が歴史的に醍醐寺の別院的な扱いで庇護を受けていることなど、古文書の引用も含めてその正統性を紹介している。また亡くなった先代住職の一家がかつて醍醐派からの離脱を求めたこともあるという話もある。

どちらが正しいのか素人の私には判別できない。大きな声を出しているのが檀信徒側なのでそちらに支持は集まるのだろうが、私個人としては、その檀信徒の主張も感情的すぎて一方的な面もあるのではと思う。長い歴史の流れから言えば岩間寺(醍醐寺)側の言っていることのほうが正しいのではないかという気がする(醍醐派についてはネットでもさまざまな書き込みがあり、あまり良くないイメージも広がっているようだが、それとこれとは切り離して考えた方がよいのではないかと思う)。

JRで石山駅に到着する。天気はあいにくの雨。駅前に立つ松尾芭蕉の像も濡れている。午後からは止む予報なので、一瞬「順序を逆にして三井寺から行こうか」とも考える。ただそうすると、岩間寺で時間切れとなったりするのも厄介である。やはり難しいところから片づけよう。雨は降っているが傘を差せば何とかなるだろう。

バスは瀬田川沿いに出て、石山寺の前を通る。ここは帰りに寄ることになる。京滋バイパスの入口横を過ぎて、中千町に到着。住宅地の向こうに田畑が広がるところだ。バス停の交差点にあるコンビニで水など買い込み、岩間寺を目指す。

この道は「逢のみち湖のみち山歩みち」という、大津のウォーキングコースの一つになっているようだ。岩間寺までは「3.15キロ」とある。普通なら「3.1」か「3.2」とするのだろうが、この「0.05キロ」の単位に何かこだわりがあるのかな。

千町地区という集落を抜ける。少しずつ勾配が出てくる。沿道には「3月17日 開山泰澄大師忌」の案内貼り紙を見る。厄払祈願、写経会、不動明王の御開帳などの行事が行われるようだ。ここで「檀信徒のページ」を思い出すが、まあ普通に縁日行事が行われるのだなという感じで通り過ぎる。

雨が降っているが、歩くに連れて雨粒が大きくなるように見える。いや、雨粒が大きいのではなく、これはみぞれかな。たださらに進むと、降っているのは明らかに雪である。沿道の木々にもうっすらと積もっているのがわかる。

「子猫飛び出し注意」という立て看板を見る。鹿とかイノシシではなく、子猫ね・・・。この看板のある斜面の上には建設業者の資材置き場や現場事務所がある。ひょっとしたら、ここに野良猫一家が住みついているのかな。

奥宮神社への分かれ道の辺りから勾配がきつくなり、また路面にも雪が積もるところも出てきた。滑らないように自然と歩みが遅くなる。まさか雪道を歩くとは思わなかった。結構息が上がる。上から2人乗りのバイクが1台下りてきたが、ローギアでトロトロ走る。

それでも、徒歩50分のところを40分で境内の入口までやってきた。正しくは「岩間山正法寺」というが、この記事では通称通り岩間寺とする。駐車場の料金を収受するような建物が受付で、ここで入山料を納める。「この天気で下から歩いて来られたんですか! それはご苦労様でございます」と、係の人に驚かれる。いやでも、雪道でよかった。これが夏の西国巡りだと、大汗で熱中症寸前になっていることだろう。

ようやくお参りであるが、それはまた次の記事にて・・・。
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JR西日本の路線記号

2015年03月13日 | ブログ
通勤や仕事の移動でJRに乗るのだが、特に大阪環状線は環状運転50年以降、駅名票やトイレの改装など、ムードを良くしようという動きが目立つ。環状線を走るオレンジの103系や201系も数年後には新車に置き換えられるが、それを機に全面3ドア化になる。

さて環状線の車両だが、時折先頭に「O」の表示が入るのを見る。「O 大阪環状線」という形。また乗り入れ列車にも「Q 大和路快速」とか「S 関空快速」という表示が見られる。

路線や駅にアルファベットや数字で記号をつけるのは、外国人の利用者を意識してか、最近あちらこちらで見かける。大阪の地下鉄では、車内放送や案内パネルで「M‐17」などと流れる。

さて、JRの場合だが、「O」が大阪環状線というのは分かる。OSAKAの頭文字だし、環状線の形もイメージできる。ただ、大和路線が「Y」ではなく「Q」で、関空快速が「K」とか「A(エアポート)」ではなく「S」なのは何なのかなと思う。ちなみに今日は東西線~学研都市線に乗ったが、これは「H」だった。ちなみに「A」は京都線と神戸線であり、東西線とも直通する宝塚線は「G」だった。

ここまで書くと勘の良い方なら気づくだろう。JRの場合、大阪地下鉄のように路線名の頭文字ではなく、一番の幹線である京都線、神戸線(プラス琵琶湖線も)を最初の「A」として、後はエリア順に記号を当てはめているようだ。ただそれで行くと大和路線の「Q」は飛びすぎではと思うが、そこは昔風に言うところの東海道本線系と関西本線系に分け、後者は大阪環状線の「O」からスタートしたということだろう。

どちらが良いか。私は路線名の頭文字のほうがわかりやすいと思った。ただよく考えれば、それは路線名を知っているからそう思うことだろう。地理に不案内な人や、特に日本語のわからない外国人旅行者にとっては、地名は覚えにくいものである。そこを補助するのに、なるべく固まったエリアで順に記号を振ったほうが理解しやすいというのがあるのだろう。路線図を上から順に見ていけばたどり着くし、そこに路線カラーの情報があるのでより手助けになる。これはよく考えたなと思う。

最近、円安やらUSJ人気で、JR駅内でも外国人の姿をよく見るようになった。こうした、ちょっとしたことも利便性向上につながると感じたことである・・・・。
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トワイライトエクスプレス・最終運行

2015年03月12日 | ブログ
北陸新幹線の金沢開業が目玉である3月14日のJRダイヤ改正まであとわずかとなった。

世間では新幹線の開業に注目が行くところではあるが、一方で無くなることで注目される列車もある。その最たるものが、大阪~札幌を結ぶ「トワイライトエクスプレス」だろう。

この3月改正での廃止が決まり、チケットも駅の購入では秒殺で売り切れ、ネットでも高値で取引される有様。

その一方で、日本海側に来襲する寒波の影響で運休になったり、運転中に巻き込まれて立ち往生したりというのがあった。もっとも、途中で足止めされて○時間遅れで到着した・・・というのは、貴重な経験として乗客にはウケたようだが。

3月に入っても寒波の襲来で運休になった便もあり、果たして最終日の12日は運転されるのかという心配もあった。運休の可能性も少なからずあったそうだが・・・。

さて3月12日、私は午前中は仕事で梅田にいた。トワイライトエクスプレスには乗ったことがないのでそんなに入れ込んでいたわけではなく、朝の時点では何ら意識していなかった。

梅田での所用を終えて、阪急梅田からJR大阪に移動していた時である。歩道橋に大勢の人がいて、一眼カメラからスマホからガラケーまで、とにかくカメラが大阪駅のほうに向いていた。そこで「そういえば」と気付いた次第である。皆トワイライトを狙っているんやと・・・。大阪駅の駅ビルの外部階段もビッシリと人で埋まっていた。

本当に偶然、ちょうど大阪駅を出発したところである。歩道橋からも拍手が起こっていたが、一方では「何これ??」という感じで冷やかに通り過ぎる人も。この光景をいぶかしげに見ていた西洋人の男性に彼女らしき人が「Twilight Express's last run」(←文法的に合っているかどうかのツッコミはご容赦を)などと解説している。私も慌てて携帯電話を取り出して何とか撮影(とはとても言えない画像の粗さ)。もちろんホーム上では大変な騒ぎのようで、夜のニュースによれば、駅のホームで3000人以上の人が発車を見送ったとか。

この国での「機関車が客車を引っ張る時代は終わり。いわんや夜行列車をや」という環境のなせることだと思うが、残念なのは残念。せめて、こういう輸送体系があったということを語り継ぐしかないのかな・・・・?
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東日本大震災から4年

2015年03月10日 | ブログ
3月11日・・・東日本大震災の日である。あれから4年である。

今年は阪神淡路大震災から20年という節目であり、初めて1月17日に神戸にも行ったが、あの時は20年をかなり前のことに感じたものだ。

それに比べれば4年は短くも、また長くも感じる時間である。

先日、日曜日の報道系番組は東日本大震災関連を大きく取り上げていた。現地からの中継もあちこちからなされており、ご覧になった方も多いのではないだろうか。

中でも「復興が進んだ町」として注目が大きかったのが女川町。私も被災後訪れたことがあるが、高台の病院から見た景色は忘れられない。

女川町は津波で町のほとんどが流されたことから「ゼロからの町作り」を掲げ、若い人たちをメンバーの中心に据えることでさまざまなアイデアを出させた。また「津波に弱い」ことを受け入れる一方で「海と共に生きる」ことに軸を置いた。それらが町の人に受け入れられるところとなり、工事が急ピッチで進められている。今月には場所を移した新しい女川駅も営業するそうで、石巻線の全線運転再開というのは大きいだろう。東北線からのバイパス線もできるそうで、乗り鉄とすれば女川にはぜひまた行ってみたい。

そんな一方で、4年前から時間が止まったかのように伝えられているのが福島第一原発の避難区域。一部の町では帰還することもできるが、大部分が人の住めないままである。この先もどうなるのだろうか。

年月が経つに連れて、被災地間の格差が目立つようになる。いずれ多くの町が、震災前とは変わった新たな形を見せつつ復興ということになるのだろうが、福島はどうなるのかなと思う。

比較して申し訳ないが、阪神淡路大震災のような建物倒壊や、東日本大震災の津波は、破壊されたモノの姿は生々しいが、それを取り除き、新しいものを建てればハード面の復興は可能である。地震ではないが、大雨からの水害に遭った広島の八木もそう。痛々しいが、どんな被害だったのかは見ればわかる。

ただ、福島は津波より放射能である。建物はまだ普通に建っているのに、人は誰もいない・・・これこそゴーストタウンで、悲惨さよりも不気味さを強く感じる。原発の事故は、放射能という目に見えないもの。津波のように一瞬で町をさらうのも悲劇だが、放射能が年月をかけてジワジワと蝕んでいくのも不気味で、しかも逃れられない。

そう思うと、東北の復興というのは果たしていつのことやらとなるが、その前に福島も風化してしまうのではないかと思う。だからと言って私が具体的に何かできるわけでもなし。

せめて、この国のメモリアルデーの一つとして、3月11日というのはいつまでも忘れないというくらいしかないのかなと・・・。
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