まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大腸がん

2015年05月29日 | ブログ
食事しながら拙ブログをご覧でしたら、まずお詫びします。

私の職場は来月が定期健康診断で、40歳以上の従業員には、大腸がん検診として、検便のキットが配られる。

私も昨年初めてこのキットを渡されたのだが、子どもの頃の検便と比べて、今は綿棒のようなものでチョイチョイとつけて、それをそのままカプセルにはめこめば終わり。

そんなんで大腸がんの陰性陽性がわかるとは、さすが文明の利器である。

ただ、ふと思うのが、何で定期健康診断でわざわざ大腸がんだけ取り上げるのかなと。

日本人の死因で多いのは、がん、心疾患、脳疾患で(世代によっては肺炎が多いとか、自殺が多いとかあるが、それはおいといて)あるが、中でも最近は大腸がんが特に増えているのだとか。

このたび、俳優の今井雅之さんが記者会見で末期の大腸がんであることを発表し、それから間もなく、先日亡くなった。まだ50代だが、それだけに進行も早かったのだろう。有名人だから取り上げられるのもあるかもしれないが、がんの中でも最近増えたものというのが気になる。

大腸がんの要因は、喫煙と食生活とか。まあ喫煙はあらゆる病気につながるからわかるとしても、食生活の欧米化が大腸がんの増加を招いていると言われれば、うーん、てなもんである。欧米の食物は、日本人の大腸に負担を強いて、かつ悪いもんが棲み着きやすいものか。

確かに、欧米と日本の食習慣の違いは長くあったが、その垣根がなくなったら大腸がんか。どうなんだろう。

このように増えている大腸がんだが、早期に見つかって対処すれば完治するようだ。

私もこれからどんな病にかかるかわからない。肉体ではなく精神に来るかもしれない、いや既に来ている。まあそれはさておき、ちょっとした検査も、それが病気のダメージを少しでも軽減するとか、一気に完治するだけのことにつながれば。

まずはできることから・・・・。
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交流戦、まずは勝ち越しスタート

2015年05月28日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
今週から始まったセ・パ交流戦。今季は3試合×6球団で18試合、しかもホーム、ビジターのいずれかでしか対戦しないルールである。交流戦が導入された当初は、ホーム、ビジター3連戦に各チームを迎え、合計36試合でやっていた。それが半減するとは・・・ファンからすれば珍しい対戦がいろいろ観られていいはずだが、やはりそれを是としない層がたくさんいるということか。

さてオリックス・バファローズの交流戦最初のカードは、現在セ・リーグ首位のベイスターズ。交流戦での通算成績はバファローズがかなり上回っているが、やはりリーグ首位だけのことはある。

そのベイスターズ戦、第1戦はカラバイヨの2発などもあり快勝。第2戦は「ハマの番長」こと三浦の好投もあって逆転負け。そして第3戦は最後にヒヤヒヤしたが何とか勝利。まずは交流戦の最初のカード、勝ち越しは御の字ではないだろうか。

これに続いては大正ドームでのカープ戦。「大阪・広島 全面対決」というポスターをつくったり、オリ姫対カープ女子のイベントもあり、また多くの観客が見込まれるところである。昨年、神戸、広島でこのカードを1試合ずつ観戦したが、いずれも両リーグの首位チーム同士の対戦ということで楽しむことができた。それが今季は・・・・両リーグの最下位チーム同士の対戦か。

先発はバファローズが山崎福~金子~西、カープが黒田~ジョンソン~福井 という順番だろう。果たして、意地の見せあいということになるか。まずはいずれも5位に浮上できますように・・・・。
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第11番「醍醐寺」~西国三十三ヶ所巡り・26(上醍醐)

2015年05月26日 | 西国三十三所
さてこれから上醍醐に向けての上りである。案内では一時間余り山道を歩くことになる。上る人、下りる人それぞれポツポツといる。本格的な装備をしている人もいれば、何も持たずに歩く人もいる。

登山口の一丁の石柱のそばに籠があり、杖がこれでもかというくらい突っ込まれている。地面にも何本も置かれている。木もいろんな種類があるが、ちょうど手頃な長さの竹を見つける。何か細工しているのか結構硬く、私の全体重を乗せても折れそうにない。なるほど、竹やりが武器になるわけだ。普段杖やステッキを使うことはないのだが、さすがに西国一の難所となれば持ちたくなる。上りが何とか耐えられても、下りのほうが心配だ。私の場合、左膝の後ろにピリッと電気が走る感じがするので(和泉の施福寺でそうなった)。

まずは自然な山道を行く。最初はなだらかな勾配で、二丁、三丁と次々に石柱が見える。少しつづら折れになるが、それほどどうということはない。森林浴でもする気分である。途中たまに下りてくる人とすれ違い「こんにちは」と挨拶するが、団体のハイカーたちがいるわけでなく、静寂の中を歩く。

五丁あたりで、檜山というスポットに着く。ここが、豊臣秀吉が最晩年に「醍醐の花見」を開いたとされるところである。畿内から多くの桜の木を植えさせたという。「3月15日」というのは桜の開花時期からして旧暦なんだろう。この花見が戦乱で荒れていた醍醐寺の再建、復興にもつながった。ただこの檜山の場所も、大規模な花見を催すにはちょっと手狭ではないかなと思う。

もうしばらく平坦な道を行き、一丁ほど石段を上ると開けた場所に出る。ちょうど中間に当たる不動の滝。滝といっても、不動明王を祀った祠の脇から水が落ちているのだが、その水がそのまま手水となっている。ここで手を清めてお参りするとともに、さすがに歩いてきて暑いので水を腕にかけたり、顔も洗う。横には屋根つきのベンチもあり、ちょうど上醍醐に上る休憩スポットである。

ただその代わり、ここから勾配が急になる。石段や木の階段が続く。自然の石がゴロゴロした山道ではなく、階段状になっているし参道の中央にはロープも張られているのだが、細かな石が尖ったもののように足の裏を直撃するのも結構来るものだ。ここから息が上がり、ペースもぐっと落ちる。そんな急な坂が四丁、五丁と続く。全体を二十丁とすればだいたい3分の2くらいのところ。物事、全体の6~7割くらい来たところが一番しんどいとよく言われるが、この山道にもそれが当てはまる。このあたり、写真を撮ろうという気にならず、とにかく足を前に出すだけだ。

その勾配がゆるやかになったのが十六丁のところ。ここからが上醍醐の境内で、ここからは下りの区間もある。

寺務所の横を抜けると上醍醐の伽藍に入る。登山口からここまで40分弱。左手に石段があり、これを上ると祠がある。これが「醍醐水」である。

「醍醐味」という言葉がある。理源大師・聖宝が修験道の霊地を求めてこの山に上ったところ、一人の老人が現れ、そこに湧き出ている水を飲み「ああ醍醐味なるかな」と言った。その老人は山の神である横尾明神の化身で、聖宝は横尾明神から譲られる形でここを霊地としたというのが、上醍醐の由来である。仏教でいう「醍醐」というのは元々「熟成ヨーグルト」のようなものを指し、それが当時最上級の美味とされていたところから、ひいては「最上級」「本当の面白さや深い味わい」という意味を表すようになったとか。

その水が今も湧いており、飲めるようになっている。といっても手水場のように流れているわけではなく、開店寿司店のカウンターでセルフのお茶を飲む時に押すやつと同じものをコップで押して汲み出す。先ほど急な石段を息を切らしながら上って来たから、どんな水でも醍醐味に思えるのだろうが、それを差し引いても確かにちょっと甘いというか、いつも飲むミネラルウォーターとは一味違うように思えた。ならばということでペットボトルに少し分けていただく。

2008年に落雷で焼失した准胝堂はこの上にある。再び石段を上ると、ロープで仕切られた更地が広がる。ただ帰宅後に調べたところ、焼失した准胝堂は1968年に再建されたものだという。ではその前はというと、1939年に山火事で焼失している。この時には下の経蔵も焼失しており、こちらは再建されることなく現在も更地。他にもこの後で行く五大堂も1932年に護摩祈祷の火が屋根に燃え移って焼失している。下醍醐は戦乱で焼け、上醍醐は山火事や落雷で焼けるとは、醍醐寺、大丈夫か。

ここから山を越えた隣の岩間寺は「雷除け観音」として知られている。ひょっとしてそのご利益の裏には、醍醐寺が火事で焼ける、除けた雷が醍醐寺に落ちるというカラクリがあったりして・・・。

山上には国宝の薬師堂や五大堂がある。ただ堂内にいるはずの仏像は今はいない。火災を恐れて、下醍醐の霊宝館に安置しているとか。まあ文化財が焼失してしまうことを考えれば仕方ないか。五大堂では聖宝や役行者の銅像が堂の前でお出迎え。

そして最後の上りを終えて、標高450mの醍醐山頂に到着。途中の休憩やお参りを合わせてほぼ1時間だった。頂上には如意輪堂と開山堂がある。パラパラと数人の人が頂上に着いたということで一息ついている。

ここからは西側の眺望を楽しめる。少し霞んでいて遠くまでは見えなかったが、条件が良ければ大阪市内、あべのハルカスも見ることができるという。この景色を眺めつつ、御陵駅近くのコンビニで買ってきたおにぎりと、さきほど汲んだ醍醐水をいただく。おにぎりの塩加減と、醍醐水の甘さが口の中でいい感じで広がる。

さてここで次の行き先を決める。残りのグループも、結願の岐阜・谷汲山を除けば残り7つ。いよいよ、くじ引きとサイコロの選択肢も絞られてきた。今回出たのは、

1.丹後(成相寺、松尾寺)

2.姫路(圓教寺)

3.箕面宝塚(勝尾寺、中山寺)

4.近江(長命寺、観音正寺)

5.宇治(三室戸寺)

6.東山(今熊野観音寺、清水寺、六波羅蜜寺)

・・・時刻は12時前。もしここで「6.東山」が出るようなことがあれば、下山した後に地下鉄と京阪を乗り継いで、今熊野観音寺くらいは先行してお参りしようかと考える。距離で言えば「5.宇治」が近く三室戸寺も行けるが、ここは平等院をはじめとした宇治の世界遺産とセットで行ってみたい。

そして出たサイコロの目は・・・「1」。おっと、ここで西国巡りの北の端、丹後が出たか。

うーん、丹後とくれば、遠方ということ、周りには魅力ある観光地も多いこと、そして松尾寺へは松尾寺駅から徒歩50分しか手段がないということで、2つを一泊二日コースで回るように考えていたところである。ちょっとした旅行ということで行くのはうれしいのだが、後は日程をいつにするかである。日常の予定もあるし、宿も押さえなければならない。そうしてスケジュールを見るに、5月、6月中に行くのは厳しい感じだ。これから夏、しかも大阪より気温が高くなる日本海側である。乗り物を乗り継いで行く成相寺はともかく、松尾寺までの徒歩は厳しいものになりそうだ(だからと言って積雪や凍結のある冬期はもっと厳しいのだろうが)。

そろそろ下山する。ゼイゼイ言いながら上ってくる人たちに声をかけながら足取りも軽く・・・と行きたいところだが、十六丁地点から長い下りに差し掛かると、やはり膝の後ろに来た。ここで、上りはただ手に持っているだけだった杖が力を発揮する。上手い具合に身体を預けると足の痛みも軽減される。これを支点にして身体を前に押し出してやる形にもなり、ペースが速くなる。途中の不動の滝で少し休憩したが、40分ほどで麓の女人堂まで戻って来ることができた。帰りに重宝したこの杖も持って帰りたい気持ちだったが、さすがにこれは善意のものということでお返しする。

下醍醐の境内の外周の小道をそのまま進むと、元の仁王門に出た。このまま醍醐駅まで戻る。上り下りで大汗をかいたので、醍醐駅のトイレにてシャツを着替える。

この後はJRのスタンプをいただく。醍醐寺のスタンプは地下鉄東西線との接続駅である山科か六地蔵でいただけるのだが、帰りは新快速で一気に大阪に戻ることにして、山科まで出る。ここもJR東海道線、湖西線、京阪、地下鉄の4路線が乗り入れており(京阪と地下鉄は御陵で合流するのだが)、駅も大勢の乗降客で賑わっている。ここでスタンプカードを出すと「どちらの分ですか」と言われる。カードをよく見ると、山科は東山地区の清水寺、六波羅蜜寺のスタンプの対象駅にもなっている。それらは次以降のお楽しみとして、醍醐寺(上醍醐・准胝堂)のところにいただく。これでスタンプは20ヶ所たまり、プレゼントの応募の権利が発生した。

山上での醍醐水におにぎりは美味かったが、上り下りしてきたこともあり、やはりここは喉を潤したいところである。ふと京阪の踏切の南側に「山科酒場 見聞録 昼から飲めます」という看板を見つける。5月1日にオープンしたばかりとあり、ビルの地下への階段を下りると真新しい空間が広がっていた。カウンター、テーブル含めて30人くらい入れるか。テーブルの位置が高いので、場合によっては立ち飲み空間にもなりそうだ。

カウンターに先客2名。オープニングセールということで、1ドリンク、突出し、ハムカツのセットで500円というのがある。うん、醍醐水もよいが、身体を動かした後のビールというのも、「醍醐味」である。

見聞録というのはチェーンの居酒屋のようで、メニューも一般的なものが比較的安くいただける。造りの盛り合わせに出たサワラに太刀魚のあぶりもよかったし、京都らしさを感じたのがハモの梅肉。

カウンターにいた2人組は野球談議で盛り上がっており、往年の選手の名前やら何やら一杯出てきて、横で聞いていても楽しい。思わず話に参加しそうになるが、こうした店で見知らぬ横の人に声をかけるのも、話がはずむ場合と「オレの空間を邪魔するな」と言われる場合があるので、ここは話を肴に楽しむ。

ただそれが破られたのが、後からやってきたおっさんのグループ。最初は4人で入ってきたのが、いつしか連れなのか何なのか大量にやってきて、あっという間に14~15人に膨れ上がった。もう賑やかなこと。またその後も客がポツポツとやってきたこともあり、適当なところで席を立つ。

また次回の訪問が楽しみである・・・・。
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今年の夏は石川と富山に行きたいが・・・。

2015年05月25日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
記事の順番は、書き置きしていた西国三十三所の上醍醐を回る話だが(いったいどれだけの人が読んでいるのやら)、それはさておき。

近鉄~巨人~オリックス・バファローズで活躍した、タフィー・ローズの日本球界復帰のニュースにびっくりした。しかも入団するのはバファローズではなく、BCリーグの富山サンダーバーズ。ここはかつて同時期にいてまえ打線の中核を担った吉岡雄二が監督である。それもあって入団を決めたようだ。

BCリーグと言えば、元マリーンズのフランコが選手兼任監督で石川ミリオンスターズに復帰し、今も結構打っている。

富山がそれを見てか、吉岡監督とローズの何らかのやり取りがあったのかはわからないが、なんとまあ、びっくり。

BCと言えば初年度からNPBの選手がこれまでも指導者や選手として入団しているが、このところ新潟の高津臣吾とか、群馬のラミレス、福島の岩村明憲をはじめとした大物選手たちが、兼任監督や兼任コーチの形で入団している。高校や大学、社会人からトライアウトを経て入った若手と、外国からの野球修行者、そしてこうしたベテランがチームを構成しており、これはこれで結構面白い。今季、オリックス・バファローズの4番を張るカラバイヨも、群馬でのラミレスの指導もあって三冠王を取ったし。

そこにローズが入る・・・うーん、2009年限りで退団した時には交渉にも応じず、無言のまま帰国したイメージがあったのだが、やはり日本球界には未練があったのかな。

こうなれば、フランコ対ローズというのも見てみたい。今季、武蔵ヒートベアーズ、福島ホープスという新加入のチームもあり、まずは5月の連休での関東~北陸遠征(北陸新幹線乗りつぶし込み)を考えたが、結局断念した。ただ、石川対富山なら同地区だし、夏のどこかで観戦を組めないかなと思う。直接対決でなく、それぞれが別のチームと対戦するのを2日で観るのもよい。後は足をどうするかだけ。

さて、行けるのかな・・・?
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第11番「醍醐寺」~西国三十三ヶ所巡り・26(下醍醐)

2015年05月24日 | 西国三十三所
地下鉄東西線の醍醐駅に到着。東西線といっても山科からは進路を南に取り、六地蔵までつながっている。醍醐までは1997年に開通した区間で、駅の上にはアル・プラザを中心とした商業施設ビルや、新しいマンション、市営住宅が建ち並ぶ。地下鉄の新規開業に合わせた街づくりなのだろう。

駅から醍醐寺まではまず市営住宅の間の広い歩行者・自転車道を歩く。10分ほどで門前に出る。「西国第十一番霊場登山口」とある。「登山口」というのがいい。醍醐寺は「上醍醐」と「下醍醐」に分かれており、西国札所としては「上醍醐」である。醍醐寺を開いたのは弘法大師・空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝だが、元々は山岳信仰と修験道の流れを汲み、笠取山(醍醐山)の山上に准胝観音、如意輪観音を祀ったのが始まりである。それが時代を経るに連れて下の方にどんどんと広がり、大伽藍が造られた。これが「下醍醐」である。

醍醐寺の拝観はいくつかエリアに分かれている。歴代座主が居住する三宝院、下醍醐の伽藍、霊宝館、そして上醍醐である。それぞれに拝観料600円かかるというので、西国めぐりをされている方のブログの中には「醍醐寺はぼったくりや」という声もある。確かに全部を回ればそうなるが、霊宝館は春と秋の期間限定での公開でこの日は開いていなかったし、三宝院と下醍醐のセットだと1000円。上醍醐は別会計であるが、世界遺産の文化財を維持するということならこれはやむを得ないかな。

三宝院は室町時代には幕府にも影響力があったが、応仁の乱で焼失。復興したのは豊臣秀吉・秀頼の力によるものである。玄関から入るが、写真撮影は外の国宝・唐門と玄関の建物までである。通路を行き、葵の間、秋草の間、勅使の間を通って表書院へ。ここから眺める庭の配置が絶妙である。その奥は特別公開エリアということで、ここで引き返す。

そして仁王門から伽藍に入る。桜や紅葉の時期は大変な賑わいとなるが、この時季の午前中は人出もそれほどなく、ゆったりと観て回ることができる。緑に囲まれるというのも涼しげでよいものだ。四国八十八ヶ所の笈摺姿の人が目立つ。四国からツアーで来ているのだろうか。

まずは秀吉・秀頼が再建した国宝の金堂へ。再建と言っても、和歌山の湯浅にあった建物を移築してきたそうだ。ここが醍醐寺の本堂に当たるところで、本尊は薬師如来。観音めぐりではあるがこれが本尊なら素通りもアレなので、まずここで一度お勤めをする。薬師如来、日光・月光菩薩、そして四天王という「チーム薬師」が並ぶ。

そしてこちらが国宝・五重塔。戦乱や火災で焼失した建物の多い醍醐寺にあって、平安時代の建立当時の姿を残す数少ない建物である。やはり塔というのは人の目を引くもので、巡礼ツアーの人たちの記念撮影スポットにもなっている。

不動堂もある。堂の前に不動明王の石像を中心にロープで仕切られたスペースがあるが、ここで護摩を焚いて祈願する法要が行われる。パンフレットにその様子の写真が載っているが、屋外でやるにはさぞ豪快に焚かれるのかなと、ちょっと見てみたい気になる。

その奥の新しい感じの建物は、真如三昧耶堂。元々は法華三昧堂が建っていたのだが焼失し、1997年に新たに建立されたもの。「真如」と聞いてイメージするのは、真如苑である。真如苑・・・・親類に入信しているのがいるのだが、どうしても「カネ」とか「カルト」という言葉と結びつけてしまう。あれは独立した新興宗教なのかと思っていたが、開祖である伊藤真乗は、ここ醍醐寺で出家した僧である。また醍醐寺も真如苑を「自分のところの流派の一つ」と認めている。うーん、平安からの由緒を持つ寺が新興宗教のバックアップねえ・・・しかも境内に堂まで建ててしまうか。

また醍醐寺は、「岩間寺檀信徒のページ」などでは岩間寺を乗っ取った極悪非道のような言われ方をされている。まあ、そのページの言うところもどこまで本当なのかというのはあるが、拝観料のことといい、真如苑といい、どうも醍醐寺というのはカネ絡みであまりいいイメージを持たれていないような。

奥に進むと観音堂がある。西国のご朱印はこちらという案内がある。元々は大講堂として阿弥陀如来を祀っていたのだが、2008年8月の落雷による火災で上醍醐の准胝堂が全焼したために、准胝観音もこちらに移して祀っている。その火災では准胝観音も焼失したが、実は二体あり、そのうち一体は展覧会の出張のために無事だった。うーん、本尊が二体あるというのは、まさかこういうことを想定してスペアをもう一体こしらえていたのかな。奥の阿弥陀如来が大きいので「観音さんはどれ?」と一瞬思うが、手前の小さな厨子の中がそうである。ここで改めてお勤めを行う。

観音堂の中には新しい感じの納経所も設けられており、西国以外の薬師如来その他の朱印も一括してここで受け付けている。上醍醐の准胝堂の再建の動きもあるようだが、なかなか進まない。一方でこちらを観音堂と改めて、納経所も堂内に新設したということは、今後ずっとこちらで祀るということか。まあ、1時間かけて山の上を上ることを思えば、より多くの人が間近に拝むことができる点でいいのかもしれない。事実、ここで引き返す人も多い。

朱印帳と納経軸に朱印をいただき、これで醍醐寺はクリアしたことになるが、ここまで来ればやはり上醍醐は目指したい。寺のルーツであるし、火災がなければどのみち登らなければたどり着けない札所である。

奥には回転式の扉がある。上醍醐へはここから出る。出たところは醍醐寺の境内に並行する自由通路で、外から下醍醐を通らずとも直接上醍醐に向かうことができる。逆にここから下醍醐に入ることはできない。その扉の横に看板があり、焼失した准胝堂の再建として、上醍醐に本殿、下醍醐に拝殿を設けるとしている。ただし、上醍醐での再建は消防道路の建設も含めた防災・消防計画をセットだという。で、現在は下醍醐の拝殿というのが大講堂改め観音堂ということになる。消防道路の建設となるとかなり大がかりなものになるし、どうもこのままの形で落ち着くことになるのかな。

階段を上がるともう一つお堂がある。成身院、通称女人堂である。元々上醍醐は女人禁制で、女性はここから山の上の観音さんを拝んだという。もちろん今は誰でも上醍醐に行くことができるが、入山料の徴収場所となっている。堂の前には弥勒菩薩、理源大師聖宝、不動明王などの像があり、これから上る人たちを見送る。

さてここから、二十丁の上りである・・・・。
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番外「元慶寺」~西国三十三ヶ所巡り・25(山科の住宅地)

2015年05月23日 | 西国三十三所
・・・金子、散々な内容だったようですな。

やはり二軍での調整登板も何もなしで、一軍で好投できるほど甘くはないということ。一体、何様のつもりか。最後の砦どころか、何も見せ場ないまま沈没した戦艦大和のようなものだ。結局はファンに対しても、相手のマリーンズの選手にも失礼な試合ではなかったか。ネット記事やファン諸氏のブログを見ると、ボールも全然走っていなかったようで、果たして次の登板機会というのはあるのか。

・・・ということを、自分がこの試合を大正ドームで観戦して、金子に懸命な声援を送った上で書くのならわかるが、私はどこに行っていたのかというと、山科・醍醐。

いや、観音さんにも上醍醐の五大力さんにも金子の好投も祈願したのだが、お賽銭を寺にあげるくらいなら、チケット買って球団にお布施をしたほうがいいって・・・あんたこそ何様かと言われそうだ。まあ、それはそれ。

さて今回は醍醐寺と元慶寺という、「京都市地下鉄東西線シリーズ」である。世界遺産にも登録されている醍醐寺と、西国三十三所の中興の祖である花山法皇が出家した(させられた)いわれのある元慶寺。このうち醍醐寺は、西国の札所としては上醍醐の准胝堂が該当する。そこは下醍醐から山道を1時間かけて歩くしかない。クルマで近づくこともできないということで、西国の中でも最難関とされている。お参りというよりはトレッキング、ハイキングと言ったほうがよい。いずれ行くことは決まっていたことだが、行くなら暑い時期になる前にということで、この5月に挑むことにした。

醍醐寺と元慶寺、どちらから行こうかプランニングした。いきなり山道に挑むのもしんどいかなということで、準備運動を兼ねて元慶寺から行くことにする。地下鉄東西線の御陵駅から歩いて20分。京阪の三条から乗れば先に通る駅である。

京阪の特急の前面展望を楽しみ、三条に到着。ここで地下鉄に乗り換えるが、京都の地下鉄というのも結構運賃が高い。そこで目についたのが地下鉄の一日乗車券。600円で発売しており、地下鉄を3回乗れば元が取れるというものである。

御陵に到着。乗り入れている京阪京津線が分かれる。ホームも2層に分かれており、下が六地蔵、大津方面、上が三条、太秦天神川方面のホームで、京阪と地下鉄の乗り場がホームの左右に分かれている。

改札を出たところに元慶寺の道順の張り紙がある。手作りの案内図も置かれていて、道順がマーカーで記されている。地上に出て、集落への曲がり角さえ間違えなければ後は道なりで行けるようだ。道幅は狭いが閑静な住宅街を歩く。ただその途中でも「保育園の子どもたちや通勤者のために丹精込めて育てた花を折らないで」という、民家の前の植え込みに出された張り紙や、「空き巣注意」「ちかん注意」の看板があり、閑静な住宅街の中にも何かトラブルが起こる一角なのかもしれない。

JR東海道線の下をくぐるトンネルがある。幅が狭くクルマが通ることはできない。それでもそのトンネルに向かってクルマが突っ込んでくる。道を間違えたのかと思ったが、運転者は慌てる様子もなく手前で停止し、ちょっとしたスペースを使って向きを変える。トンネルの手前に保育園があり、そこに子どもを送った後でクルマの向きを変えるのが日常のようだ。

15分ほどで渋谷街道というのに出る。結構クルマの交通量がある。そこに元慶寺への入口を示す立て看板がある。年季が入っているようで結構凹んだ跡がある。その向こうに、田んぼと住宅に挟まれた幅の狭い道があり、突き当りに山門が見える。西国の寺によくある仁王門ではなく、龍宮造りである。両側には元々梵天と帝釈天が安置されていたようだが、のぞいて見ると額に入った写真が置かれていて、「京都国立博物館に出展中」とある。うーん、こういう小さな寺にいるよりは、保存する環境のよい博物館のほうがいいのかな。

元慶寺は花山天皇が藤原兼家の計略にはめられて出家をさせられたことで現在も西国番外として知られるが、寺の開基は僧正遍昭である。百人一首の「あまつ風 雲の通い路 ふきとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」の歌でも知られている。西国三十三所は観音さんを回るものだが、こちらの本尊は薬師如来。まあそこは番外ということで、お勤めを行う。ちょうどご夫婦の先客が納経所で、ご主人が住職らしき人と歴史談義に花を咲かせている。私が朱印帳を納経軸を持っていくと奥さんが「お父さん、行きましょう」と話を終わらせる。何だか話の途中に割り込んだようで申し訳ない。

こちらの朱印、やはり花山法皇ゆかりということで菊の紋が入る。寺自体は非常に小ぢんまりとしており、拝観料を取るわけでもなく、どこか人の家の庭にお邪魔したような感じである。その中で境内にはさまざまな花や木が植えられており、緑にあふれている。

参拝を終えて御陵駅に戻ることにする。細い参道からさらに脇道を入ったところに元慶寺の駐車場があるのだが、先ほどのご夫婦が運転するクルマが出るのに苦労している。そしてガリガリっという音がする。駐車場から参道に出ようと曲がるのだが、角の家の縁石を曲がりきれずに底を擦ったようだ。この元慶寺、ネットでは「マイカーで行くには最難関」という書き込みがあるくらいだ。参道の幅も狭いし、駐車場の出入りも困難。先ほど、参道の入り口の立て看板がだいぶ凹んでいると書いたが、ひょっとしたら曲がる際にぶつけたというのが結構あったのではないか。クルマで行くなら、寺自体の拝観も時間がかかるものではないし、横のスーパーやドラッグストアの駐車場に一時置かせてもらうのがベターかもしれない(ちょっとモラルには反するかもしれないが、その店でちゃんと買い物をすれば大目に見てくれるのでは・・・?)。

駅上のコンビニで、上醍醐に挑むための食料と飲み物を仕入れ、再び地下鉄に乗る。到着したのは醍醐駅・・・。
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いよいよ大変なことになった

2015年05月22日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
22日は仕事の関係で姫路へ。駅前から、改修されて鮮やかな白色が青空に映える姫路城の天守閣を見る。姫路は、西国三十三所で未訪問の書写山圓教寺がある。天守閣は、その時にでも上ってみよう。

さて帰りの電車で三宮を過ぎた時、「そういえば今日は神戸での試合だったな」と思い出す。さすがに引き返して観戦はせず、端末で経過をチェック。ディクソンが相変わらず好投しているようだが、バファローズ打線も点が取れない。

で、帰宅して結果を見ると・・・2対0。8回から登板の佐藤が今江への危険球で退場、代わった塚原がデスパイネに2ラン。これで勝負あり。マリーンズからすれば、実質1安打で勝ったようなもので、コスパ・イイ~ネ。

これで借金は最多の13。開幕当初で12だったことを思うと、その後は五分五分で来ていたわけだが、ここで3連敗はいよいよ厳しい。

そんな中で23日は金子のぶっつけ本番の登板だが、本当、最後の切り札である・・・。
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金子、投げるのか

2015年05月20日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
1人上がったと思ったら1人故障する・・・今季のオリックス・バファローズである。

さすがに大型補強のおかげで選手層は「厚く」なっている。昨年は、誰かが故障で欠けるとガタッと戦力が弱くなり、それが最後に響いたとも言える。

ただ、主力の故障でチャンスをモノにしたのが、カラバイヨであり西野。投手なら白仁田や塚原。いずれも大型補強の「目玉」ではなかったが、そんな選手が頑張っているのが楽しみである。特にカラバイヨ。

まだ借金は二桁。上位3球団の首位争いは熾烈だが、ここに来てロッテ、楽天の姿はチラリ見え隠れするようになった。

来週から交流戦が始まるが、その前のロッテ戦で金子がぶっつけ本番で先発するというニュース。2年前、オープン戦での登板なしで開幕投手として投げ、最終的には楽天田中に次ぐ好成績を修めた。その再現を狙ってのことというが・・・。

交流戦くらいの復帰はある程度目処が立っていたのだろう。ただ、交流戦で慣れない対戦相手や球場ではなく、相性のよい大正ドームで、現在Bクラスのチームという、少しでも楽なところということか。

ガラスのエースだから、そこまで配慮しなければならないのかな。

ただいくらなんでも、二軍の調整登板もなく、調子を見極めることなく一軍に上げるのは、他の選手に影響を及ぼすことはないだろうか。

一日も早くエースに戻ってきてほしい気持ちはわからないでもないが、悪いほうに転ばなければ・・・・。
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大阪都構想の住民投票は否決

2015年05月18日 | ブログ
昨日17日は大阪都構想の賛否を問う住民投票。公職選挙法と異なり投票当日でも運動ができるということで、昨日も所用で大阪市内にいたのだが、賛成反対両陣営が賑やかな選挙戦を繰り広げていた。

速報は国営放送の特番を見ていた(サンデースポーツが飛んだ形だが、放送は全国向けだったのかな?)。賛成が反対を1万~2万を上回るペースで読み上げられる。途中で区ごとの途中経過を読み上げるところでは、全く同数、あるいは反対がわずか上回る区もあったが、まあ全体では賛成が上回るのかなと。

それが急にアナウンサーのトーンが変わり、「反対が賛成を上回ることが確実となりました」と言う。画面はまだ賛成が多かったが。果たしてしばらくすると票が逆転し、橋下市長の敗戦の弁となった。ほんのわずかな差。結果がわかったところで眠りについた。

翌朝、いろいろ情報を見てみると、中心部の区では賛成が多く、周辺部(特に南部と西部)では反対が多いという、ものの見事に色分けされていた。また、各年代賛成が多く、反対が多かったのは70歳以上だけだったとか。また、投票率は結局66%にとどまった。若い人たちが投票に行かなかったとか、投票率の低さが組織票を持つ政党側(反対派)に有利に働いたとか、いろんな分析があるだろう。

この中で私が興味深かったのが、南北問題とでも言おうか、その地域のカラーが反映されたこと。その辺りは両陣営ともあらかじめ認識して、テコ入れはしていたのではないだろうか。特に南部、西部に住む人たちにどうアピールするか。古くから住んでいる人が多かったり、あるいは低所得者が多かったり。

・・・それにしても、賛否関係なく、「棄権」という選択をした3分の1の市民というのは何なのだろうか。マスコミも、こうした人たちの声を追いかけてはどうか。案外、そこに大阪府・大阪市が抱えている問題や、都構想でも現状維持でもない解決法があるのかもしれない(だからと言って棄権を正当化するものではないが)。

私は「自分に投票権があったら反対に入れる」と書いた。結果は反対が多くなったが、他の市民の方同様、別に今のままの大阪市で、何もしなくてもよいとは思わないし、自民党や共産党の議員を支持するつもりはない。今回の都構想の選挙で、市が抱える問題点がいろいろ明らかになったのだから、どないすんねんというところである。

橋下市長の政界引退表明にともない、維新の党の江田代表も辞任を表明するなど、憲法改正を含めた国政にも影響が出るとは。ただその前に、次の市長選挙はどうなるのか。反対派の代表であった柳本氏が出るのか、平松前市長が復活を狙うのか。一方維新も次の可能性がなくなったわけではなく、誰か後継者を出すだろう。松井知事を市長に鞍替えさせるのは考えられるとして、国会議員の誰かを担ぐかもしれない。本当に大阪都構想のためにできた政党なら、橋下市長が引退しても誰かが意志を継がなければ。

ともかく、こうした最後までわからない選挙というのを目にして、ある意味面白い期間だった・・・。
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いよいよ大阪都構想についての住民投票

2015年05月16日 | ブログ
このところの関西での話題と言えば「大阪都構想」の是非を問う住民投票である。

情報番組では賛成・反対それぞれの動きを伝えるし、テレビやネットでのCMでもそれぞれのキャンペーンが流れる。

あとは、17日の住民投票で方向性が決まる。

16日も所用で大阪市内に出ていたのだが、駅前では賛成・反対それぞれが街頭演説をしていたり、行進をしていたりと賑わっているように見えた。歩く私にそれぞれの運動員の方がチラシを差し出してくる。

・・・でもなあ、申し訳ない。投票権がないわけですわ。藤井寺市民には。

もし私が大阪市民だったらどうするか。投票には間違いなく行く。そして投じるのは「反対」票。

その理由ははっきりしている。この投票を大阪市民に限定したから。二重行政の解消とか、新しい政令市の在り方とかいろいろ言っているが、それならその一方を担う大阪府、そしてその大阪府に住む人の意見も反映されるべきではないのだろうか。

後は、最初は道州制だ、関西州だのと景気のいいことを言っていて、大阪府そのものの構造を改める、周辺の市も巻き込む、差し当たっては大阪市と堺市を合併するなどと言っていたが、それが結局は大阪市を再編するだけという、何ともみみっちい話になったこと。

だからと言って、現在の大阪市のままでいいという意味での「反対」ではない。反対派に対しても「だったらあんたらはどないすんねん」と言いたい。もっと前向きな市政の改革案を出してほしい。それがなく、自民党と共産党が足並み揃えて反対するくらいだから、よほど役所や労働組合の利権がなくなるのが嫌なんだろうなと思う。まずそのところを改めるということはしなかったのか。都構想の是非はともかく、維新の側からいろいろな問題提起はされているのだし。もし反対派が勝ち、橋下市長が大阪市長を辞任するとなれば、次期大阪市長は自民党の柳本氏になるか、平松前市長の復活となるのだろうが、だからと言って何か妙案を持っているようにも思えないし・・・。

大阪都構想も「大阪をどないかしよう」という案としては一理あるが、どうも拙速のように思うし、その通りに行くのがベストとは思えない。もっと良い案があるはず。それを検討しているとは思えず、「その案では問題解決にならない」という意味での「反対」である。

これ、投票率どうなんだろうか。良くて60%台かな・・・?
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第22番「総持寺」~西国三十三ヶ所巡り・24(亀とペットボトル)

2015年05月15日 | 西国三十三所
善峯寺参拝の後で東向日から総持寺に向かう。車中で読書していたのだが、夢中になって一旦総持寺を乗り過ごしてしまう。気づいたのは隣の茨木市。ここで向かいのホームに停車中の各駅停車に乗り換えて、今度はちゃんと総持寺に着く。

この辺りは閑静な住宅街が広がる。看板の矢印を頼りに5分ほど歩くと山門に出る。札所を示す石柱が立つが、その下には亀の像。亀の甲羅から石柱が生えているようにも見えるし、石柱で亀が押し潰されているようにも見える。

また手水があるが、ここはセンサー式で水が出てくる。札所の中でこの方式に出会ったのは初めて。

山門から境内に入る。先程の善峯寺が勾配差が大きかったのと対照的に、境内はフラット。駅からのアクセスも含めて、たまにはこうした寺もよいものである。拝観料、入山料も取らないし、参詣する人も観光や登山の出で立ちと言うよりは、ご近所の人がちょっとお参りするのがお似合いである。その点、私の地元の葛井寺にも似ているかな。

本堂は戦国時代の戦乱で焼け、江戸時代に再建されたもの。至ってシンプルな造りである。ガラスの向こうに観音像らしき姿が見えるが、これは御前立ち。本尊の千手観音は4月の限定期間のみの開帳である。この千手観音、亀の上に乗っている。ポスターでその姿を見たが、浦島太郎のように腰かけるならともかく、立ったまま乗っているとやはり亀を踏んでいるようにも見える。

ここ総持寺は高野山真言宗である。ここからは私が父から聞いた話。数年前に亡くなった私の大叔父が高槻に住んでいたのだが、生前、この総持寺に直に葬儀の相談に来たそうだ。元々高野山真言宗の家系で、故郷ならば檀那寺にお願いするところ、大阪に出てきた身でそれができない。ついては、真言宗の古刹である総持寺でお願いできないか・・・と。いろいろお願いした結果、そういうことになったそうだ。

喪主の経験がないのでわからないまま書くのだが、誰かが亡くなると葬儀をするわけだが、あの宗教宗派に合わせた寺などはどういう仕組みで手配されるのだろうか。まあその辺りは葬儀社に委ねるのかな。生前に「こういう方式で」という故人の意志がはっきりしていればスムーズだろうし、名前は挙げないが新興宗教なら、その筋に連絡すれば教団のほうで万事整えるだろう。

ここで問題なのは、「うちとこは一応○○宗らしいけど、寺は全然知らん」という場合。いや、うちとこが○○宗ということすら知らない場合。こんな時は葬儀社が適当に見繕うのかな。一方で、全く頓着しないのなら別にいいが、同じ○○宗にもいろんな「派」がある。先の大叔父の場合は真言宗の中でも高野山と言い切ったから総持寺で行けたのだが、他の派だったらどうなのか。浄土真宗など、本願寺派だとか大谷派だとか、半ば抗争のようなこともあったではないか。

・・・考え出すとキリがない。ただ、一応どうすればいいかというのは、生前にある程度聞いていたほうがよさそうだ。

さてそんなことを思いながら、納経所へ。納経所も本堂の中にあるところ、外に独立して設けているところがある。総持寺は後者だが、建物が近代的である。吹き抜けになっていて、入ると休憩用の椅子が並び、右手には参詣用品がズラリ。正面のモニターには総持寺の紹介映像が流れ、その上には亀に乗った千手観音像の小型版がいらっしゃる。そして左手に納経のカウンターが並ぶ。さすが、西国の札所会、先達会を仕切っているだけのことはある。若い僧侶が書いてくれた朱印帳の字はみみっちく思えたが、それはさておき「駐車券はお持ちですか?」と訊かれる。駅からの歩きなので駐車券はないのだが、実は山門の脇にコインパーキングがある。単なる駐車ならカネを取るが、参詣者にはサービスしようというもの。これはいいサービス。駐車料金の扱いも札所ごとにいろいろあって・・・(以下略)。

そんな総持寺、周りのお堂もバリエーションに富む。弘法大師を祀る大師堂に、「チーム薬師」が揃う薬師堂。西国と四国のお砂踏みにボケ封じ観音。

その一角に、ペットのための観音像がある。ペットの名を記した卒塔婆もあるのだが、その前にあるケースに驚き。・・・これは洒落なのか、歴とした謂れがあるのか、ペットボトルが多数お供えされている。ボトルにはペットへの想いを込めたメッセージがぎっしり書かれている。そういうところまで受け持つ総持寺。

果ては、水路に鯉が泳いでいるかと思えば・・・その向こうでは亀が群れている。亀が多いと言えば四天王寺を思い浮かべる。亀に縁のある総持寺だからなのか、それとも放生会に関係するのか。

総持寺の開祖は平安時代の藤原山蔭。この山蔭、幼少の頃に舟下りの川に落ちて行方がわからなくなったことがある(実は継母が殺そうとして川に落としたもの)。

父の高房は、遺体でもいいからもう一度子どもに会いたいということで観音に祈ったところ、亀が山蔭を甲羅に乗せて現れた。山蔭が川に落とされた日、高房が漁師に捕えられていたのを「観音の縁日だから」と助けて放した亀である。よくある動物の恩返しの話である。

山蔭は無事に大人となり出世した。ある日、中国から香木が流れ着き、子どもの時に自分を助けてくれたのは観音様のおかげであるとして観音像を彫ろうと、山蔭は長谷寺に籠る。すると童子が現れて観音像を彫るという。ただし、千日の間、山蔭自身で童子の食事を作れという。その通りすると、千日目に童子は飛び立ち、その後には亀に乗った観音像があった。童子は長谷寺の観音の化身という伝説である。これを祀ったのが総持寺の由来という。またこの山蔭の料理も「包丁道の開祖」と崇められ、今では4月の開帳時の儀式として「山蔭流包丁会」が行われている。手に触れることなく包丁と箸だけで魚を捌くというもの。

境内を一周したところで、次の行き先を決めるサイコロである。亀を眺めつつ出た選択肢は・・

1.飛鳥(岡寺)

2.姫路(圓教寺)

3.箕面宝塚(勝尾寺、中山寺)

4.宇治(三室戸寺)

5.近江(長命寺、観音正寺)

6.山科醍醐(上醍醐、元慶寺)

そろそろ選択肢も少なくなり、同じ名前が続けて出てくる。飛鳥も何回も出てるがなかなか当たらない。そんなところで出たのは・・・「6」。

うーん、いずれ行かなければならないのは分かっているが、ここで「西国最難関」が出てきた。

帰りはJRの案内通り、摂津富田まで歩くことにする。参拝中もJRの列車の走行音が聞こえてきたくらいだから、線路に近いといえば近い。住宅地の中をぶらつき、線路に出たところで茨木市から高槻市に入った。

高槻といえば・・・この議員の地元である。こういう人が当選する高槻っていったい・・・・。

そろそろ駅前らしく商店が増えてきた。JRの摂津富田と阪急の富田は確かに近い。ここで昼食としてもいいのだが、結局はJRに乗り、大阪に戻ることに・・・・。
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第20番「善峯寺」~西国三十三ヶ所巡り・23(桂昌院玉の輿)

2015年05月13日 | 西国三十三所
東向日から1時間20分ほどの歩きで到着した善峯寺。この辺りは西山のハイキングコースとして知られているところで、先ほどのバスからもハイカーらしき中高年の客がぞろぞろと降りていた。ちょうど歩くには適した気候である。

山門の真下が受付になっており、ここで入山料を支払う。

ここ善峯寺は、平安中期の1029年に源算商人が開いたという。その年代といえば、西国三十三所は定められていたのかどうか。結構歴史としては新しいところである。

まずは石段を上がり、正面の観音堂を拝観というころで、手を清める。手水所の造りは札所それぞれの個性が出るところだが、ここ善峯寺は、竹をベースにしている。さすが西山の竹の多いところに近い札所である。まあ、出てくる水にさほどの差があるとは思わないが、こうしたところの造りを見比べるのも案外新たな発見があるのかもしれない。

ちょうど、「南無大師遍照金剛」の笈摺を身に着けたご夫婦とおぼしき二人連れが外で読経をしている。その後で私もお勤めを・・・というところで、ふと見ると内陣への扉が開いていて、「ご自由にお参りください」という札が出ている。せっかくなので靴を脱いで上がり、改めて中を見ると正面に観音像が見える。この本尊の千手観音、毎月第2日曜日に開帳するという。この日はそれに当たっており、別に事前の情報があったわけではないが、得した気分である。その千手観音像をちらちらと観ながら般若心経のお勤めである。

その後で、本堂左手でご朱印を受ける。先に納経軸に書いていただき、「先に乾かしてください」と言われて反対側の台に持っていく。その後で朱印帳を受け取る。

さてここ善峯寺は、観音像よりも名高いスポットがある。本堂右手の石段を上がって目の前に広がるのは長い松の木。樹齢600年を超えるという国の天然記念物にも指定された「遊龍の松」である。全長37メートルで「日本一の松」とも称される。石段を上がる際に枝の下をくぐる。ただよく見ないと、どこが根っこなのかわかりにくい。同じタイミングで松の木の横にいた男性グループも、「ここって松が有名らしいけど、いったいどこにあるんだ?」という感じで、近すぎて一瞬わからなかった様子である。

善峯寺は結構奥が深い。西国三十三札所の観音巡りだけでよければそれほど時間はかからない。ただ、時間があるのならせめてグルリとでも一周してみたい。まずは遊龍の松や、桂昌院お手植えの桜などを眺め、さらに上に行くことにする。

途中、釈迦堂に出る。ここは善峯寺の開祖である源算上人の手による釈迦如来像がある。釈迦如来像と言えば結構「上から目線」で構えているのが多いが、こちらの釈迦如来像は自ら手を合わせているという異例のポーズである。

その後さらに上ると、桂昌院の像と薬師堂に出る。山の頂上と言ってもいい感じで、薬師堂がここの奥の院の扱いである。

桂昌院といえば、江戸幕府5代将軍の綱吉の母である。出自は京都の武士であるとか、あるいは町人、農民の子どもだとか、いろいろな説がある。ただその後、3代将軍の家光の側室となり、そして綱吉を産んだ。もともと、当時の家督相続の定めでは綱吉が将軍になる可能性はほぼゼロだったのだが、さまざまなことが重なり将軍の座が回ってきた。綱吉の治世での出来事は「生類憐れみの令」と赤穂浪士の討ち入りで、綱吉や桂昌院は歴史的にあまり良いイメージがない。

「玉の輿」という言葉がある。その由来は桂昌院だという説がある。元々「お玉さん」と呼ばれ、それが将軍の側室、そして将軍の母にいわば出世したことが謂われとか。

玉の輿はともかく、一族にゆかりがあることから善峯寺には深く帰依しており、応仁の乱で焼けた伽藍の再興に尽くしたことで知られる。最後に寄った宝物館には、桂昌院や綱吉の肖像画や遺品が飾られていた。

この薬師堂からは京都市街が一望できる。東山、比叡山まで丸ごとで、風も心地よいし歩いてきた甲斐があった。寺のことなので夕方には門が閉まるが、夜は京の夜景が楽しめることだろう。また、境内は今は青いが楓が多く、紅葉の時期は山全体が彩られるだろう。事実、京都の紅葉の穴場スポットとして知られているようで、また季節を変えて来てみたいなと思う。

さらにもう一つ見つけたのが、休憩所に貼られていた「おちないお守り」の記事。ちょうど20年前に阪神・淡路大震災があったが、被害を捉えた映像で、倒壊した高速道路に突っ込んで前輪が宙に浮いて止まったバスというのがあったのは今も記憶に残る。間一髪のところで助かった運転手が身に付けていたのが、善峯寺のお守りだったという。そこから広まったそうだ。なるほど、来てみるといろいろ勉強になるものだ。

歩きの時間が結構早かったため、予定していたより一本前のバスに乗れそうだ。また坂道を下りバス停へ。狭いところで向きを変えるためツーマンでの運行だ。乗客は私の他にご夫婦と年配の女性が一人。いずれも札所巡りのようである。来た時にちょうど着いたバスに乗っていたようだ。帰りはやはり歩いてきた道とは違うルートで、地元の人たちを拾いながら、座席がほぼ埋まるくらいになって東向日駅に到着。ここで半分が下車し、残り半分が向日町まで乗った。

最初は向日町で昼食かなと思ったが、まだ時刻は11時。別に先を急ぐのではないが、これなら総持寺まで午前中で回れそうだ。ということで再び東向日に戻り、阪急京都線に揺られる・・・・。
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第20番「善峯寺」~西国三十三ヶ所巡り・23(京都西山歩き)

2015年05月11日 | 西国三十三所
昨年の8月から始めてそろそろ後半に入った西国三十三所巡り。前の記事で「できれば番外も含めて年内で」と書いたのだが、別に絶対達成しなければならないというものでもない。ただ、これから暑い夏を迎えるとなると、暑い時に歩く距離が長くならないようにしたい。夏は控え目にして、気候の良い時にできる限りのところには行っておくか。

さて、前回(というか5日前)の粉河寺、紀三井寺を受けて、10日に出かけたのは20番の善峯寺、22番の総持寺である。今回は「阪急京都線シリーズ」となる。鉄道の最寄り駅がそれぞれ阪急京都線の東向日と総持寺なのだが、JRの駅スタンプラリーは向日町と摂津富田。どの駅も乗り降りは初めてで、東向日と向日町は近そうだが、摂津富田と総持寺は離れている。JRのガイドブックではあっさりと「摂津富田から徒歩30分」と書かれているが。何せ、JR摂津富田と茨木の間にもう一つ新駅が造られるくらいである。

コースとしては阪急でまず東向日まで上り、片道30分のバスで善峯寺を往復。バスは向日町まで行くのでこれでスタンプをもらい、再び東向日まで戻って阪急で総持寺。帰りは摂津富田まで歩くか、しんどければ阪急で一駅富田まで乗って、そこからだと摂津富田は近いので歩くか。

という形にしたのだが、10日は天気も良いし、暑くなく寒くない予報が出た。とすると、お参りにアクセントをつける意味でも、東向日から善峯寺まで往路は歩くことにしよう。どうせ歩数も稼がないといけないし。善峯寺のホームページでは歩いたら2時間とあったが、距離にすれば7キロちょい。さすがにそこまではかからないだろう。

というわけで、朝の8時前に東向日を出発。他に巡礼らしき人はいない。ちなみにバスは寺の開門時間帯に一時間に一本の頻度で出ている。行って帰ってちょうど昼かな。

向日市役所、競輪場の横を通る。こんなところに競輪場があるとは知らなかった。後で、向日町、東向日から送迎バスがあるのを見たが、果たしてどれほどの収益があるのだろうか。

これを過ぎると「京都市」の標識が出る。京都市西京区、大原野と呼ばれる一帯である。引き続き閑静な住宅街が続く。ただ京都市とは言っても、バスの便は全て東向日、向日町と結ばれている。行政に関する表示も「向日」とか「乙訓」というのが目立つ。確かに住んでいるのは京都市だが、あまりそんな実感はないのかもしれない。

そんな住宅地の一角に「善峯寺」の看板が見える。後5キロ、道は合っている。

これを境に周辺は田畑が増える。ずっと昔から農村だった感じで、里山を歩くようで悪くない。古い造りの家屋も見えた。バス停の標識がないからバス通りとは違うのだが、善峯寺への看板はちょこちょこ出てくる。

大原野は竹林が多い。風致地区にもなっている。ただこの時期、青々と・・・とはいかず、竹藪もくすんだ色をしている。筍も収穫されたし。竹藪の近くで何やら燃やしているのを見る。ふと、「たけやぶやけた」(竹藪焼けた)という回文が頭をよぎる。

平坦な道が続いていたが、「よしみねゴルフクラブ」という打ちっぱなし場を過ぎ、京都縦貫自動車道の橋脚をくぐると上り道になった。竹藪も本格的、竹細工の店もある。そんな中で、シャッターに「松本明慶」と書かれたのを見る。現代随一の仏師であり、先日紀三井寺で拝観した巨大な千手観音像を造ったことでも知られている。ここは工房で、あの像もここで制作されたのかな。

十輪寺に差し掛かる。在原業平や、西国三十三所中興の祖の花山法皇ゆかりの寺だが、拝観時間前ということで素通り。この辺りを小塩地区と呼び、善峯寺へのバスも冬はここまでしか来ない。

だんだんと勾配が急になる。ただ、結構広い敷地を持つ家も多く、この辺りはひょっとしたらセレブの隠れ家的エリアなのかなと思う。その中で「善峯寺領」の石碑もあり、だんだんと近づいてくるのを感じる。最後は周りが木々に覆われ、急勾配に足が遅れる。ちょうどあそこがバス停かと見た時に、後ろから阪急バスが追い越して行った。チラッと見た限りでは、立ち客もいたくらいの結構な乗車だった。

バス停まで来たのであと少し・・・たが、ここからの参道も結構急で、5回くらい折り返す。地元の生徒だろうか、石段の上り下りのタイムトライアルをやっていた。

これを上りきり、ようやく東門に来た。後半の上りが結構きつく、ハアハアゼイゼイ言う。駅からここまで1時間20分ほどかかったが、最後の坂道はジワジワと効いた(バスがあるためか、善峯寺自体は難所と思われていない)。クルマで来たとおぼしき人から、「下から来はったん?」と声をかけられる。「駅から7キロ歩いて来た」と答えると呆れたような顔をされた。

山門の前で息を整え、参詣である・・・。
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第2番「紀三井寺」(2回目)~西国三十三ヶ所巡り・22(和歌の浦)

2015年05月09日 | 西国三十三所
紀三井寺を参詣した後で、どこに行こうかと思う。足を伸ばしてさらに南の御坊を目指すか(紀州鉄道、道成寺)、和歌山マリーナシティで温泉とマグロ料理にするか。あるいは和歌山市街、和歌山城や博物館を巡るか。

ここで思ったのが、「海を見よう」ということ。紀三井寺の境内から遠くに水平線を見るが、もう少し近くで見たい。西国の札所で海に近いところはそうあるものではない(成相寺は天橋立を見下ろす位置にあるが)。ということで、万葉集にも詠われた和歌の浦を目指す。紀三井寺の境内を出たところの国道の交差点から一本道である。ちょうど歩きの距離を伸ばすのに都合がよい。

和歌川の河口には干潟が広がり、その向こうには片男波の松並木が見える。天橋立を横から見ているような感じだ。紀三井寺を遠くに見る。

石造りの橋がある。不老橋という江戸時代から続くもので、石造りのアーチ橋は九州以外では大変珍しいという。その前にあるのが玉津島神社。この辺りはゴツゴツした岩山が並ぶが、和歌の浦は元々は島だったという。満潮時には島となり、干潮時には陸続きになる。奈良時代、万葉の歌に詠まれたのはこうした景色である。今は完全に岩山となり、目の前には埋立地が広がる。

さらに進むと紀州東照宮である。境内を進むと石段に出る。煩悩と同じ108段の石段を上ると社殿に出る。祭神は徳川家康と、初代紀州藩主の徳川頼宜。東照宮といえば世界遺産でもある日光東照宮をイメージするが、そのミニチュア版といった感じ。ただ紀州藩の守護神として長く繁栄をもたらしたところである。境内には神輿が飾られている。東照宮の祭りである和歌祭というのが5月17日に行われるということで、神輿や行列が和歌の浦周辺を練り歩くという。

参拝を終え、石段を下ろうとすると前方には片男波公園の鮮やかな砂浜が見える。なかなかの眺めである。泳いでいる人の姿も見える。帰りはあそこに立ち寄るとしよう。

たどり着いたのは和歌の浦の漁港。釣り糸を垂れる人もいるし、「おっとっと広場」では屋台も出て人で賑わっている。何でも「丼祭り」というのをやっているようだ。紀三井寺からそれなりの距離を歩いて来たし、軽く昼食ということにする。建物内には丼やラーメンが売られており、一番人気は地元の「和歌しらす」を使った「やぶ新」のしらす丼。ここだけが別に行列ができていた。

限定メニューの生しらす丼は売り切れていたが、釜揚げのしらすや、天ぷらなどがある。私が注文したのはその両方が乗っている「やぶ新丼」。それぞれの味を楽しむことができる。

ついでと言っては失礼だが、海鮮ものの丼を扱っていた別の店では、これも和歌山ならではのまぐろ・・・ではなく太刀魚の刺身の乗った丼をいただく。こちらもあっさりとした味でなかなかだ。

和歌の浦を楽しむならさらにこの先の雑賀崎まで行くところなのだろうが、ここで引き返して片男波公園に向かう。水浴びやバーベキューを楽しむ家族連れが結構いる。夏ならば大いに賑わうことだろう。

これで和歌の浦見物は終えて、駅に戻ることにする。バスの本数があまりないので歩けるところまで歩き、やってきたバスに乗り込む。JR和歌山駅経由の南海和歌山市駅行きというものだったが、帰りはJRで帰ろうということで「和駅」で下車。

JRで帰ろうということにしたのには理由がある。駅前にあるこの店。「多田屋」というところで、駅近の大衆酒場である。何と営業は朝の9時から。メニューは、この手の店なら考えられるものはほぼ網羅しているし、(飲まなかったが)全国の地酒も豊富である。昼間は定食メニューもやっており、食事だけの客も多い。ただ調理場が狭く、動線が細いので店員の動きが鈍くなり、注文を取ったり料理を運ぶのに手間がかかるのだが・・・。地元の人、ウォーキング帰りの人たちで賑わう。和歌山に来た時にはまた立ち寄りたいところ。

さて西国巡りもこれからが後半戦である。納経軸の「番外」には番外3ヶ所のほかに、高野山奥の院と善光寺のご朱印をいただくのが主流という。今年は高野山開創1200年ということだし、北陸新幹線開業で長野への新しいルートができた。できれば年内に満願できればと思うのだが、まあ札所は逃げないし、そこはあまり焦らずにやっていきたいと思う・・・・。
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大正ドームに行かれた方は踏んだり蹴ったりでは・・・

2015年05月08日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
順番で行けば、西国札所巡りの紀三井寺の後のことを書くところだが、それは週末に回して・・・。

ゴールデンウィークの9連戦を終えて、1日の移動日&休息を挟んでの大正ドームでのバファローズ対ファイターズ。

この試合を観戦したバファローズファンの何割かは、本当に踏んだり蹴ったりではなかっただろうか。

試合は序盤から先発東明が崩れてコンスタントに点を取られる。

打線は中島とブランコが1軍に復帰したものの、今季パッとしない伊藤が登録抹消。3番カラバイヨ、4番竹原という、開幕前には予想にも出なかったクリーンアップで臨むこの試合。

その中で見どころは、バットを折りながらもパワーでレフトスタンドまで運んだカラバイヨの一発だけだったか・・・。

これで借金は12にまで膨れ上がる。それは仕方ないにしても、JR大阪環状線の運休の影響はどうだったか。大和路線内での人身事故だったそうだが、今や複数の線区の列車があちこち入り乱れているダイヤ。どこかでトラブルが発生すれば、その影響は広範囲に亘る。私も帰宅は阪神なんば線で西九条乗り換えのところ、環状線運休のアナウンスを聴いて大阪難波まで乗り通し、地下鉄のなんばで乗り換えとなった。改札では大勢の人が振替乗車の証明書を求めて行列をつくっていた。

もし大正ドームに行かれて、帰りにJR大正から乗ろうとする、乗らなければ帰宅できないという方にとっては、実に踏んだり蹴ったりだっただろう・・・・。
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