まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

札所めぐり、そろそろ再開します

2020年05月31日 | ブログ

緊急事態宣言の解除を受けて、外の人通りや通勤の鉄道の混雑も少しずつ元に戻りつつある。ただその中で感染に対する警戒心というのはまだまだあるようで、人と人との距離を取る、マスクは着用するということは継続されている。

一方、これから暑くなる時季で熱中症の心配も出ている。職場でも厚生労働省発表の「令和2年度の熱中症予防行動」が回覧されてきたが、熱中症予防と新型コロナウイルス感染防止を何とか両立させようと、担当者の苦労がうかがえる。ただ、熱中症とコロナ、どちらが発症の確率が高く、どちらが命に関わるリスクが高いかと訊かれれば、そりゃ熱中症でしょう。「屋外で人と十分な距離(2メートル以上)を確保できる場合はマスクを外す」とあるのも現実的なこと。実際には、暑くて我慢できない時は人との距離が近い場合でもマスクを外すこともあるだろう。そこは杓子定規にとらわれないほうがよい。

世の中には商売上手な人がいるもので、このところネットにあふれているマスクの販売も、最初は中国製の不織布マスクが高値で売られていたのが、その価格も下がって納期も短くなったり、国内メーカーのものが出たり、洗って繰り返し使えるのを売りとした素材のマスクも新たに出るようになった。私も不織布マスクを使いつつも、そうした素材のマスクも購入して主に休日の外出用に使っている。そしてこの数日で目立つようになったのは、「冷感素材」「通気性」というもの。私も試しに使ってみたが、やはりラクである。通気性を強調しすぎるとマスクとしての意味合いはどうなのかという疑問はあるものの、熱中症予防もしなければならないとなれば夏に向けて新たな商品も次々に出てくるようだ。日常の通勤用も少しずつこちらに切り替えて行くかな。

さて本題である。国の方針としては、緊急事態宣言解除後の外出については、5月末までは県をまたぐ不要不急の移動は避けることとなっていたが、6月1日からは「東京、神奈川、埼玉、千葉、北海道との間の不要不急の移動は慎重に」となり、6月19日からは制限をなくすとある。もっとも観光については「県内で」とか「徐々に」とあるが、そこまで行くと何がどう違うのかと思う。「3密」を避けるという主旨なら、例えば旅行会社がツアーを組んで観光地を訪ねるとか、多くの人が集まるイベント(それ自体が観光になっている行事もある)を開くというのは慎重にしてくださいということだろう。個人の移動そのものを規制するものではないはず(現に、この週末にはすでにあちこちの観光地が県またぎを含めて人で賑わっていたことも報じられている)。

・・・ということで、6月以降、私も徐々に札所めぐりは再開するつもりである。西国三十三所についても6月からは納経所も再開し(一部の行事は中止が決定)、7月下旬には京都国立博物館で延期されていた西国三十三所関連の企画展も開催される。西国四十九薬師も次は泉涌寺の塔頭寺院である雲龍院だが、こちらも拝観を再開したとのことで訪ねる予定。そして中国観音霊場めぐりは山口県だが、こちらも6月19日からの移動制限解除を見据えて続きの計画を立てる。

もとよりマスク着用、手洗いの励行や、あまりに人が集まる場所は避けることは必要だが、少しずつリアルの楽しみも取り戻さなければ・・・。

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第27日(阿波池田~松山(堀江))

2020年05月31日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』(宮脇俊三著)のルートを訪ねる机上旅行。現在のJR最長ルートでは通ることのない四国を回っている。

机上旅行の第27日は四国のど真ん中の阿波池田から出発。特急「しまんと」でまずは大歩危・小歩危を抜ける。結構トンネルも多いところ。また『最長片道』でも触れられているが、並走する国道32号線の拡張工事のために景勝が減殺されているとある。よく、こうした渓谷沿いを走る列車を道路の側から撮影して、「ローカル線の旅はいいですなあ」とやっているが、実際に列車に乗ると川の対岸の道路のガードレールの白さが目につくことが多い。

また谷が深いところなので、田畑や家が崖の上に作られる。これも四国らしい景色の一つといえる。

山深い沿線を抜けて、高知平野に下る。高知を素通りするのも惜しいのだがそのまま先に進む。高知といえば太平洋、黒潮のイメージだが、高知から先もしばらくは比較的内陸のほうを走る。海に出るのは須崎からである。

窪川に到着。『最長片道』では1時間あまりの待ち時間があるが、見物のあてがないとして駅前の喫茶店で過ごしている。この日の宿泊を宇和島にしたが、時刻表の巻末の旅館案内を見て何軒か電話してもつながらなかったり、満員だったりという状況。そういえばかつての時刻表の巻末にそうしたページがあったのを覚えている。日観連とか、ビジネスホテル協会とか、そういう団体に加盟している施設が掲載されていて、そういうところのホテルなら問題ない、安心だというので私も高校生や大学生当時はユースホステルとともに活用していた。現在のようにネットの予約サイトでパソコンやスマホからサクサクと予約できるのとはまた違った味わい。

机上旅行では14分の連絡で9時40分発の予土線の列車がある。この前が6時22分発で、1本後が13時21分発だからこの時間に乗るのは貴重である。この列車は「鉄道ホビートレイン」で運転とある。0系新幹線をイメージした車体で、団子鼻もデザインされている。「四国のローカル線に新幹線が走っている」としてネタにされる車両である。予土線には他に「海洋堂ホビートレイン」や「しまんトロッコ」といった面白車両が走っており、観光路線の要素も担っている。

予土線は元々は宇和島~吉野生までの路線だったが、戦後になって愛媛と高知を結ぶことを目的とするようになり、江川崎、そして中村線(当時)と合流する若井まで2回にわたり延長された。若井まで延びたのは1974年のことだから『最長片道』の時はまだ4年しか経っていないことになる。この時も、線路の敷き方がトンネルや鉄橋でどんどん短絡した「新幹線的」として、この区間では鉄道が自動車より優位に立っているとしている。国鉄のローカル線廃止問題が出た時、予土線も輸送量では存続基準を下回っていたが、並行する道路が未整備ということで廃止を免れた歴史がある。私も四国八十八所めぐりの途中、四万十川に沿ってレンタカーを走らせたのだが、国道といいつつも道幅が狭く、離合するのも厳しいところもあった。四万十川の清流のイメージがあるからあからさまな新道を造るのも難しいのだろう。

この例外措置というのが明暗を分けたところがあり、窪川~若井~中村の中村線も存続基準を下回ったが、並行する道路も整備されているとして廃止となってしまった。実際は第三セクターの土佐くろしお鉄道に移管して線路は残り、後に宿毛まで路線も延長されるのだが、国鉄・JRとしては窪川~若井を手放した形になる。ということで、窪川から予土線の列車に乗ると、土佐くろしお鉄道の運賃210円が自動的に加算される。もちろん青春18きっぷの対象外で追加運賃を支払うことになる。「区間」ではなく「路線」単位、しかも数字だけで物事を決めた結果と言える。

江川崎に着く。『最長片道』ではここで宇和島行きに乗り換えとなっている。江川崎、かつて「日本一暑い町」の称号を得たことがある。2013年に当時の国内最高となる41℃を記録した。その日を含め、日本で初めて、40℃以上を4日連続で記録したという。江川崎ではこれを町おこしのネタとしてPRしていて、私が訪ねた時も江川崎駅に「日本一暑い らぶらぶベンチ」というのがあった。気候の暑さとカップルの熱さをかけたものだが、2018年に埼玉の熊谷が41.1℃を記録したために日本一はそちらに譲った。そのベンチ、今でもあるのだろうか。

愛媛県に入り、近永あたりからは宇和島近郊という感じになる。予讃線と合流する北宇和島は通過して、終着宇和島まで乗り越しとする。『最長片道』では、宇和島での宿がまだ取れていなかった宮脇氏が駅前の電話ボックスに入り、10円玉を電話器の上に積み上げて腰を据えて何軒でもかけるぞとダイヤルを回す。これも時代の光景だなと思う。幸い、最初にかけた1軒で空室が見つかり、無事にチェックイン。「取材ノート」によれば駅前にある宇和島国際ホテルで、これは私も泊まったことがある。

また「取材ノート」では、宮脇氏はホテルで紹介してもらった「魚亀」という店を訪ねている。カレイの唐揚げや縁側をいただいたとある。宇和島は魚の美味いところだが、郷土料理としては他に鯛めし、さつま汁も有名だ(さつま汁といえば、宮脇氏は後に『途中下車の味』という作品の中で宇和島を訪ねるのだが、同行した編集者が「カマボコになる前のドロドロしたもの」があると聞いて来て、その正体を町の人や店の人に尋ねるというくだりがある)。

机上旅行でもこの後の列車の関係から宇和島で1時間半の時間を取っている。ちょうど昼時、鯛めしでもさつま汁でも、ともかく海の幸をいただくことにする。

宇和島から予讃線に入る。ここは特急に乗り、宇和島の街を外れると法華津峠に差し掛かる。ミカン畑が山の斜面を覆うところで、愛媛らしい景色の一つとして鉄道写真の場所でも知られている。『最長片道』ではこの先三原まで進んだところで一時中断として東京に戻る予定となっている。「取材ノート」のメモには、「帰ってからの仕事の予定。宇和島でやるつもりがダメ。新幹線の中でメモろうと思う」とあるが、やはり旅先に仕事を持ち出してもなかなかはかどるものではなかっただろう。宿泊した宇和島ではまた深酒をしていたようだし。

八幡浜から伊予大洲に向かう。『最長片道』ではそのまま特急に乗り続けて松山まで行っているが、机上旅行では伊予大洲でいったん下車となる。1時間近く待ち時間があるが、大洲城や臥龍山荘を回るには足りないかな。

この先予讃線に乗るのだが、『最長片道』当時とは状況が変わっている。伊予大洲からは予讃線と内子線の2つのルートがあるが、『最長片道』当時の内子線は、伊予大洲の次の五郎から分岐して内子までの行き止まり線だった。当然特急や急行は伊予長浜経由の予讃本線を走っていたが、1986年に向井原から伊予大洲に向かう短絡線が開通し、内子線もその中に組み込まれた。このため、特急はすべて内子線経由となり、元の予讃線の伊予長浜経由の区間は鈍行だけが走るローカル区間となった。

この伊予長浜経由の区間だが、伊予大洲からは肱川の流れに沿い、伊予長浜からは伊予灘の景色を楽しむことができる。現在は「愛ある伊予灘線」の愛称があり、伊予灘を見下ろす下灘は青春18きっぷや他の旅行ポスターにも使われることが多い。机上旅行は「平日ダイヤ」ルールを取っているが、シーズンの土日であれば観光列車「伊予灘ものがたり」でたどるのもいいだろう。

向井原で内子線経由の短絡線と合流し、伊予市からは電化区間となる。松山に到着する。

『最長片道』ではこの後、予算本線で3駅先の堀江まで進み、仁堀連絡船に乗っている。宇高連絡船に加えてこの連絡船があるから『最長片道切符の旅』でも四国を回ることができた。ただ「連絡船」といいつつも堀江には鈍行しか停まらず、駅からも離れている。またその鈍行の松山での接続も悪く、乗ったのはいいが2駅目の伊予和気で列車の行き違い、追い越しで16分停車と、結構時間がかかっている。

さて机上旅行ではどうするか。もちろん仁堀連絡船は廃止されており、本州に渡るとなれば松山観光港から石崎汽船のスーパージェット、または瀬戸内汽船のクルーズフェリーに乗ることになる。時間は夕方なので松山に宿泊することにして、フェリーは翌日のこととする。ただ、かつてのルートの名残をということで、予讃線の堀江、そして呉線の仁方には立ち寄ることに・・・。

※『最長片道』のルート(第27日続き、第28日)

(第27日続き)阿波池田11:41-(「あしずり5号」)-15:00窪川16:11-(予土線)-17:07江川崎17:28-(予土線)-北宇和島通過)-18:46宇和島

(第28日)宇和島7:30-(「しおかぜ2号」)-9:14松山9:50-(予算本線)-堀江・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第27日)

阿波池田7:06-(「しまんと1号」)-9:26窪川9:40-(土佐くろしお鉄道~予土線 北宇和島通過)-12:23宇和島13:59-(「宇和海18号」)-14:42伊予大洲15:35-(予讃線愛ある伊予灘線)-17:11松山17:40-(予讃線)-17:55堀江・・・松山

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第26日(福山~阿波池田)

2020年05月30日 | 机上旅行

まだまだ続く『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。記事のタイトルに「阿波池田」という文字があるのでこの先四国に渡ることになるのだが、宮脇俊三が旅をした1978年と比べてみても、2020年はガラッと状況が変わっているところである。この日の行程はそれも含めての移動となる。

さて2020年の机上旅行の第26日は福山から出発。別に倉敷からでもよかったのだが、前日が江津から福山に移動するだけでも1日がかりの行程で、福山まで来たところで力尽きたといってもいい。そこはこの旅初めての瀬戸内の幸で回復したということで。

倉敷から伯備線に入る。す特急「やくも」に乗ってもいいが、この先の乗り継ぎを見れば鈍行でも同じである。ここは高梁川沿いにのんびり進むことにする。一方の『最長片道』ではとりあえず倉敷から備中高梁行きの快速に乗っているが、気動車が使われている。伯備線は1972年に新幹線が岡山まで開通したのを機会に、山陰方面の連絡線のエースとして活用されることになり、特急「やくも」も誕生したが、1978年当時は非電化路線だった。現在も走る振子車両が「やくも」に投入されて全線電化となるのは1982年のことという。

もっとも、2020年の時刻表を見ると、電化された伯備線の新見~伯耆大山~米子間で、普通列車に気動車の運行を表す「D」の番号が振られている列車があるのがわかる。キハ120という中国山地の各線を走るワンマン運転仕様の車両だが、客が少ない時間帯なのか、津山~新見の姫新線の運用の間に米子まで出稼ぎをするのか、何だか時代をさかのぼっているかのようである。

『最長片道』では、乗った列車が備中高梁までということもあり、次の新見行きまでの1時間18分の待ち時間を利用して、タクシーで備中松山城を訪ねている。タクシーで中腹まで行った後に急な石段を上ったとあるから、本丸まで行ったのだろう。「汽車の中に坐ってばかりいて体がナマった」「満員の通勤電車も大変だが、この石段を通勤するのも相当なことだ」と、ガチで山城を訪ねたことの感想が綴られている。備中松山城に行ったのは、列車に乗り詰めで内心おそらく退屈しているだろう同行の栗原氏への気分転換の意味合いもあったのだろう。

机上旅行では伯備線は高梁川の渓谷の景色はそのまま走り抜け、新見に到着。1時間の待ち時間はとりあえず駅前をぶらつくくらいか。『最長片道』では夕方の日が暮れた時間に降り立ち、淋しい商店街に流れる『ジングルベル』を耳にしている。この淋しさ、現在でも同じようなものだと思う。そうした情景も目に浮かぶ。

『最長片道』と机上旅行では、それぞれ夜と午前中ということで車窓の雰囲気も随分異なるところだが、新見~津山の区間というのも中国山地の中ののんびりした区間である。宮脇氏にすれば『最長片道』本文で「新見から岡山までがもっとも出来がわるい」としているが、それは前後の接続を考えるとどうしようもない。時刻表頼りの長い行程を組んでいると、必ずどこかでそういう区間も出てくるものだ。

津山に到着。『最長片道』では列車の待ち時間が40分あまりあるので駅前で夕食もとったが、机上旅行ではわずか1分の接続で岡山行きの快速「ことぶき」に乗り換える。津山駅の構造として姫新線の新見方面行きと津山線は同じホームから発着するはずだから、「すぐの乗り換えです」で実際は問題ないだろう。津山の扇形機関庫を見る時間がないとか、それはまたリアル旅で補うことにして、ともかく岡山まで南下する。この先しばらく慌ただしい乗り継ぎが続く。

『最長片道』では津山を発車したのが20時48分、岡山までの最終列車である。6両編成だが1両に1人か2人しか乗っていないとある。現在はおそらく2両での運転だろうが、それでもこの時間なら1両に数人しか乗らないのではないか。夜、外にはネオンが灯るわけでもなく暗い中を淡々と走るのも悪くない。同行の「星の王子さま」こと新潮社の栗原氏が「一日じゅう汽車に乗っているのは・・・山登りに似てます。山登りは歩いているときがおもしろいのです・・・それだけです」という名言とも迷言ともつかない感想を漏らし、後に宮脇俊三関連の作品やネットの掲示板でもネタで取り上げられることになったのもこの区間である。

特に津山線は2020年でも(窓は開かないが)国鉄型の気動車が走る路線。この机上旅行では昼過ぎの移動だが、夜の移動もローカル線の楽しみに加えてもよいところで、いずれリアルでもやってみたいことだ。

岡山に到着。まず『最長片道』のまとめをする。22時17分に到着して、さすがに駅の中にほとんど乗客もおらず、改札口の端の囲いにぽつんと立っていた改札係に切符を見せる。「これ何ですか。これでも切符ですか」という反応。ここまでの間に無数の途中下車印が押され、券面の記載事項もほとんど見えなくなっていたと推測される切符である。

その岡山で1泊して、当初の予定では栗原氏とはここでお別れだったが、宮脇氏が早朝にホテルのフロントに下りると、栗原氏が笑顔で立っていた。栗原氏は結局岡山から高松までの切符を買い、宮脇氏とともに宇野行きの列車に乗る。当時、四国に渡るルートというのは宇野から高松への宇高連絡船である。宇野に到着し、そのまま高松への連絡船に乗る。2人は船旅ということではしゃいでいたが、時間は朝の7時台。当時は宇高連絡船を使っての通勤通学客というのもそれなりにいたようだ。宮脇氏が女子高生の一人に話しかけ、連絡船で高松の高校に通っているとの返事に「いいなあ」と言って、女子高生の頬がプッとふくれるという一幕もある。何や、ええオッサンが朝から女子高生にナンパですかいな・・・と見えなくもない。そんな中、時季的にちょうど日の出にいい時間だったようで、水平線からの太陽の景色も楽しんだようである。

・・・一方の机上旅行。津山で1分乗り継ぎの津山線快速で岡山まで来たが、今回は後の行程を考えてわずか6分で宇野線(瀬戸大橋線)の列車に乗り継ぐ。岡山駅はこれまで何度も利用しているので、経験上、津山線の列車に遅れがなければ乗り換えは(隣のホームの先だし)問題ないとして先に進む。現在四国へは瀬戸大橋を渡るルートだが、茶屋町で乗り換えて「宇野みなと線」の愛称がある宇野線の末端区間に向かう。

ご存知の方も多いと思うが、現在のJR線で「最長片道切符の旅」を行うと、四国はまるまる外れてしまう。1978年当時は、この先の松山の近くにある予讃線の堀江と、対岸の呉線の仁方を結ぶ「仁堀航路」というのがあり、宇高連絡船と合わせて四国の出入り口になっていた。今は両航路ともないが、それに近い手段で中国地方と四国地方を行き来することにする。

・・・その「宇高航路」じたいが運航休止となったのは今でも驚きである。2019年12月のこと。私も休止の前々日に乗りに行き、デッキでうどんを食べた。国鉄の連絡船の他に宇高国道フェリーなどの会社も運航していたが、最後残っていたのは四国フェリーだった。やはり利用客の減少、高速道路や瀬戸大橋通行料の値下げの影響である。

では、宇野まで来て高松までどうやって行くか。高松への直行便はないわけで、途中の島に渡って乗り換えである。その中で時間、距離とも最短なのは四国汽船の直島便である。かつての宇高航路に近いルートを取り、島の西側の宮浦乗り場には宇野、高松双方からの便が発着する。直島は最近はアートの島として人気なので、フェリーを利用する観光客も目立つ。

普通の旅行なら直島で時間を取ってアート現物も面白そうだが、今回はかつての宇高連絡船の代替ルートである。宇野から13時50分発の高速艇に乗り、15分で宮浦に着く。そしてその15分後の14時20分発のフェリーで高松に向かう。高松着がその1時間後なので、宇野から合計1時間30分。たまたまダイヤの接続がよかったのだが、一応海路でもそれなりの時間で行けることがわかる。フェリーにうどんがあるかどうかは知らないが、このルートでの四国行きというのもリアルでありだと思う。

高松からは高徳線である。『最長片道』では連絡船で高松に着いたところでそのまま折り返す栗原氏と別れ、すぐに急行に乗車する。一方机上旅行は高松で少し時間が取れるので、うどんの1杯くらいいただいてから特急に乗る。行程を見返すと新見を出てから慌ただしい乗り換えが続いていた。津山で1分、岡山で6分、せっかく寄った直島で15分とか。

一息入れたところで特急「うずしお」で徳島に移動する。屋島、五剣山といった四国八十八所めぐりでも訪ねた景色を懐かしく見る。

四国八十八所めぐりだが、次にもし四国を訪ねる機会があれば、四国八十八所の2巡目ではなく別の札所めぐりをしようと考えている。それは「新四国曼荼羅霊場」というもの。1989年(平成元年)にできた新たな札所めぐりだが、特徴的なのは「神仏習合」。88ヶ所のうち81ヶ所は寺院だが、7ヶ所は神社である。鳴門市の東光院(種蒔大師)から始まり、最初は鳴門近辺を回った後、反時計周りに香川、愛媛、高知、徳島と回る。四国八十八所には含まれない高知や徳島の山中も訪ねる。もし行くとなれば例によって公共交通機関利用で(この札所めぐりはあまり「歩き遍路」というのは想定していないようだ)、その意味での「難所」も結構ありそうだが、四国のより濃い部分に入って行くようなイメージがある。もっとも、行くとすればかなり先のことになると思うが。

徳島県に入り、板野や板東といった四国八十八所めぐりの発心の道場に縁のある駅を過ぎて、吉野川を渡って徳島市街に入る。徳島線の分岐である佐古は通過して徳島に到着。机上旅行では徳島着が17時過ぎで、時間的にも徳島の大衆酒場で一杯やるところだが、この先の行程を考えてもう少し先に進んでおく。特急「剣山」で徳島線に入る。

吉野川に沿って遡るように走る。四国の中心に近づくにつれて平野部が少しずつ狭くなり、山がちな区間となる。佃の手前で土讃線に合流する。その土讃線だが、讃岐山地を越えて箸蔵から一気に下り、吉野川の手前で急カーブのUターンを描いて川を渡り、徳島線と合流する。『最長片道』の時は、ちょうどこの後に乗る急行が急勾配を下って来るのが見えたとあり、宮脇氏も「写真ででもいいから人に見せたい。カメラを持ってくればよかった」と記している。普段カメラを持ち歩かない宮脇氏がそうした感想を持つくらいの景色で、私も四国の車窓では好きなポイントなのでうなずける。

阿波池田に到着。『最長片道』では3分後に到着したその急行「あしずる5号」に乗り継ぐ。机上旅行では19時すぎ。この後しばらく待って特急に乗れば高知まで行って、時間は遅いが高知で一杯ということも可能だが、せめて大歩危は明るい車窓で見たいし、この日の移動もハードだったので阿波池田宿泊とする。ホテルも何軒かあるが、目に留まるのは駅前にあるその名も「ホテルイレブン」。このイレブンが意味するのは、もう昔の話になるがやはり池田高校の「さわやかイレブン」だろう。阿波池田のある三好市のゆるキャラに、蔦監督をモチーフにした「つたはーん」というのがいるくらいだから。

かつてはその池田高校も全国的な人気を博した甲子園だが、2020年のリアル社会では全国大会が春夏とも中止ということになった。当然賛否両論あるわけだが、今は全国から大勢の人が参加するイベントというのがまだ難しいということであれば致し方ないだろう。「オンライン」というわけにはいかないし。

高校はともかく、阿波池田の夜というのはどのような感じなのだろうか。さすがに静かに過ごすことになるのかな・・・?

 

 

※『最長片道』のルート(第26日続き、第27日)

(第26日続き)福山13:47-(山陽本線)-14:27倉敷14:38-(伯備線)-15:18備中高梁16:36-(伯備線)-17:25新見18:04-(姫新線)-20:03津山20:48-(津山線)-22:17岡山

(第27日)岡山6:07-(宇野線)-6:56宇野7:15-(宇高連絡船)-8:15高松8:25-(「むろと1号」 佐古通過)-9:45徳島10:12-(「よしの川3号」)-11:33阿波池田・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第26日)

福山6:33-(山陽本線)-7:14倉敷7:25-(伯備線)-8:52新見9:53-(姫新線)-11:30津山11:31-(津山線快速)-12:39岡山12:45-(宇野線)-13:06茶屋町13:11-(宇野みなと線)-13:34宇野13:50-(四国汽船)-14:05宮浦14:20-(四国汽船)-15:20高松16:12-(「うずしお21号」 佐古通過)-17:15徳島17:57-(「剣山9号」 佐古通過)-19:17阿波池田

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第25日(江津~福山)

2020年05月29日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』(宮脇俊三著)のルートをたどる机上旅行。『最長片道』本文では第26日、そしてこの机上旅行は第25日と、ここまで机上旅行のほうが早いペースで来ているのだが(別に競争するわけではない)、机上旅行はここでリアルの壁に阻まれる。

この日はまずたどるのは三江線。最近の出来事なのでご記憶の方も多いと思うが、三江線は2018年3月末をもって廃線となった。営業キロは108キロあり、国鉄時代にも多くの路線が廃止されたが、JR発足後に100キロを超す長い路線が廃止されたのも極めて異例のことである。この区間を机上旅行でどうたどるか。代替バスがあるとはいうものの、JTB時刻表では路線図が途中で切れてしまっている。北海道の湧網線の区間以来のタクシーの登場というのも想定される。

まずは、1978年の『最長片道』で三江線を行くことにする。前日の倉吉から宮脇氏は「星の王子さま」こと新潮社の栗原氏と一緒に動いている。前夜は江津に宿泊して、当日朝6時24分発の三次行きで出発。12月のことでまだ暗いが、3両の座席は途中駅からの乗車も合わせて通学生で乗車率100%とある。高校生が膝の上に立てた鞄に顔を伏せて眠っているとあるが、社会人ならともかく高校生には朝6時台、それが毎日というのはつらいだろう。

車窓には常に江の川が見えるといっていい。列車は川べりぎりぎりを走り、堪えきれなくなったらトンネルに入るというのを繰り返す。また江の川の流れを利用するのか、川べりにはザッパ船がもやっているとある。今でもあるのだろうか。

駅ごとに乗って来て満員になった高校生含めてほとんでの客が、石見川本で一斉に下車する。三江線の主要駅といってもいい。ここで下車の様子が記されているが、まず下車する客が降り、乗車する客が乗る。これは当たり前のことだが、乗車する客の後にゆっくりと腰を上げた一団が降りるとある。石見川本では何分か停車していたのかもしれない。

ちょっと話を現在に戻すと、最近のローカル線の鈍行はワンマン運転が多く、途中の一部主要駅を除くと、乗車は1両目の後ろ側の扉、下車は一番前、運転席のすぐ後ろの扉からという方式が目立つ。そういう駅では2両連結だと2両目の扉は開かない。そんな運転なので、下車駅が近づくとあらかじめ運転席後ろの扉に移るところだが、中には2両目に乗っていて扉が開かないのを知っていても、駅に着いてからゆっくりと腰を上げて、1両目との連結部の扉を開けてのんびりと運転席後ろの扉まで行く客もいる。運転士もその辺りは毎度のことなのか、一々急かすようなことはしない。

さて三江線は再び江の川に沿い、三瓶山を見る区間も走りながら粕淵、浜原とたどる。この浜原は「三江北線」の終点であった。

三江線は三次側、江津側からそれぞれ建設が進められ、「三江南線」、「三江北線」と呼ばれていた。このように、いずれは結ばれることを企図して南北両側から建設を進めた路線は全国にもあるが、採算性、モータリゼーションの普及などの影響で建設が中止された区間も多い。そして、そうした南北路線のほとんどは行き止まり線単体ではやって行けず、そのまま廃止、あるいは第三セクター移管となった。

三江線はその中にあって全線が開通した。1975年8月のことだから広島東洋カープがリーグ初優勝に向けて快進撃を続けていた頃である。宮脇氏は三江線の全通前に、「陰陽連絡線」が新たに出来ることでせめて1本くらいは急行が走るのではないかと期待していたとある。『最長片道』本文によると、急行の名称は「ごうがわ」として、三江線経由の岡山~浜田行きとしている。また岡山発、浜田発それぞれの時刻表も設定して、岡山での新幹線の接続にも気を配ったと得意げにしていたが、実際ふたを開けてみると、急行はおろか三次~江津の直通列車すら走らなかった。事実は、全通当初は信号関係の工事が未完成だったために、「三江南線」の終点だった口羽駅構内で線路がつながっておらず、直通運転が始まったのは1978年になってからのことだったという。『最長片道』の時はまだ文字通りの全線開通から間もない頃である。

この新線区間に、山間部のトンネルとトンネルをつなぐ高架橋の上に建てられた宇都井駅というのがある。高さ20メートル、エレベーターもなく112段もある階段の上り下りが必要というのは当時のローカル線の駅では珍しく、その後も車窓のポイントになっている。

途中の区間は通学生もいなくなって空いていたが、口羽でまとまった乗車があり、そのまま三次まで向かう。江津から三次までの所要時間は3時間半。江の川沿いにのんびりとした走りだった。

三江線が全線開通したのが1975年で、廃止されたのが2018年。たった43年というべきか、43年もよく持ったなというべきか、その判断は難しい。地元の人にとってもどちらとも言い難い面があるだろう。ただ三江線の場合は、元々利用客が少なかった実態はあるが、それ以上に何回も豪雨災害に見舞われて、その復旧ひようがかさむという不運も大きかったように見える(特に2000年代に入ってからは、各地のローカル線が災害からの復旧断念で廃止されるケースも目立つ)。

そして廃止になってからの交通手段だが、三江線の線形が沿線の人の流れに必ずしも沿っていなかったことや、沿線の集落が江の川の対岸にあるところもあり、江津と三次を結ぶ、あるいは島根県側、広島県側それぞれの全域をカバーするバス路線はなく、複数のバス業者がそれぞれの駅、地域を補う形で運転系統が細分化された(例えばA駅からB駅まで、これまでは三江線で直接結ばれていたが、廃止後はA駅跡からCバスセンター行き、CバスセンターからB駅跡行きと別々のバス路線を乗り継ぐということ)。だからそれぞれの駅の様子を見ながらバスでたどるのは事実上不可能で、三江線からは外れても三次まで行けるルートを探す必要がある。

こういうのは自治体のホームページを参照するのがよいようで、三次市のホームページに掲載されている乗り継ぎマップがわかりやすかった。また沿線の川本町や美郷町も代替バス各線のダイヤを掲載しており、これらを見ながら進めてみる。代替バスには乗ったことがないので、完全に机上旅行である(時刻については、これまでの机上旅行と同じく「平日・通常ダイヤ」縛り)。

まずは江津から石見交通の路線バスで石見川本を目指す。この区間はJTB時刻表にも掲載されているが、1日6往復。このうち江津駅前を出る朝の便は2本あり、6時04分発か7時06分発かというところだが、その後の乗り継ぎを見ると6時04分発ではその先の待ち時間があまりにも長くなるため、7時06分発とする。バスは江の川に沿い、かつて駅があった地区をトレースしながら進むようだ。これで1時間あまり乗車して、8時20分に石見川本到着。休日ダイヤであればこの先浜原方面に向かうバスが9時ちょうどに出るのだが、今回は「平日縛り」。そうなると石見川本からの次のバスは11時ちょうどまでない。かと言って江津を1本後に出るバスでは11時発に間に合わない。駅前に商店街があるようだが、ちょっと2時間半の待ち時間は持て余しそうだ。

次に乗るのは大和(だいわ)観光という業者の路線バス。川本美郷線という、川本町と美郷町を結ぶ路線でこれが浜原駅まで行く。しかし本数はこちらもわずか6往復。しかし石見交通と大和観光の相互乗り継ぎはほとんど考慮されていないようで、あくまで川本を中心に各地を結ぶ運行体系となっている。なおこれは余談だが、山陰本線の大田市駅から、世界遺産の石見銀山を経由して川本まで走る系統もあるようだ。

石見川本でどうにか時間をつぶして、11時ちょうど発の浜原駅前行きに乗る。これで終点の浜原駅前に行ってもいいのだが、またしてもそこで3時間ほど時間をつぶさなければならない。そこで目に留まったのが、川本から30分ほど走ったところにある「ゴールデンユートピアおおち」というバス停。調べてみるとその名前のリゾート施設があり、温泉もあれば土地の料理がいただけるレストランもある。リアルでは木曜日定休日だそうだが、机上旅行ではそれを避けることができたとして、ここで時間を過ごす。三江線に乗りっぱなしではできない寄り道だ。次はこの「ゴールデンユートピアおおち」始発の14時18分発の上野行きに乗る。

次の乗り継ぎポイントは14時49分着の「グリーンロード大和(だいわ)」。三江線の駅でいえば新線区間の石見都賀が近い。ここには道の駅があり、バス乗り換えの拠点ともなっている。乗るのは備北交通作木線の14時57分発の三次行き。作木線のグリーンロード大和~伊賀和志間は1日2本しかなく、しかもこの便が最終である。乗り換え時間はわずかしかないが、まあ、よほどのことがない限り大丈夫だろう(さすがに道の駅で買い物する時間はないか)。これに乗れば「三江南線」の終点だった口羽地区も通過して、1時間20分ほどで三次駅前に到着。

ただし、この作木線は途中からは江の川沿いに走らず、国道54号線に入ってかつての布野村の一帯を走って直接三次に向かう。高架駅の宇都井や、かつて「秘境駅」にもランクインしていた長谷は通らない。三江線のルートに沿って走ることにこだわるなら、途中の「川の駅常滑(港別)」で別会社である君田交通の川の駅三次線という路線に乗り換える必要がある。ただし作木線との接続は悪く、20分前に出たばかりで次は18時台までない。というわけでルートからは外す。

朝7時に江津を出て、途中2時間半~3時間のインターバルが2回あったことを含めて三次に着くのは9時間後である。他の時間帯であればまた乗り継ぎのパターンも異なるだろうが、石見交通~大和観光~備北交通というのが一応三江線の後釜のルートということになりそうだ。ただいずれにしても、三江線の代替バスとはいうものの、江津から三次まで一気通貫で結ぶことは全く考えられておらず、それぞれの地区内の生活維持でかろうじて走っているのが現状のようだ。実際どのくらいの乗車があるのだろうか。またバスといっても実際はマイクロバスだったり、下手すればワンボックスカーを使っていたりというものかもしれない。

通勤を含めた日常生活ではクルマという人がほとんどだろうし、バスに乗るといっても結局は地元のお年寄りが病院や役場に行ったり、たまに江津や大田、三次に出ようかという時くらいだろう。あるいはスクールバスのようなものか。ちょっとこれでは外部の人に向けて、三江線の代替バスで観光に来てくれとは胸を張って言いにくいだろう。

そんな三江線の代替バスの旅行記がないかなと探したのだが、その前に目に留まったのが、2018年に廃止された直後の様子を、なんと江津から三次まで2日がかりで歩いて踏破したという記事である。それがpatoさんというライターが書いたこちらの記事(実は、以前に見て知っていたのだが)。沿線の雰囲気はこれでよくわかるし、バカバカしいことを大真面目にクリアする、ある種、宮脇俊三氏の世界に似ていなくもない。また最後の一節は、地域活性化というものについても考えさせられる内容になっている。

ともかく、相変わらず長々と書いたがようやく三江線区間をクリアした。この後は福塩線に乗り継ぐが、こちらも途中の府中までの非電化区間は本数が少ないところ、40分ほどで接続である。宮脇氏から車窓の地味さを評価?される路線だが、途中で暗くなり、福山に到着。結局は山陽側に出るだけで1日かかってしまった。

『最長片道』のほうでは昼過ぎに福山に到着。新幹線も停まる駅に来たことで同行の栗原氏は「大都会に来たようですね」とコメントしているが、駅の真横に福山城があるとはいえ、確かにそのように見えるだろう。この後は夜まで乗り継いで岡山まで行っているのだが、机上旅行では福山に宿泊。この旅で初めてとなる瀬戸内の幸をいただくことにしよう・・・。

※『最長片道』のルート(第26日)

江津6:24-(三江線)-9:55三次10:57-(福塩線)-12:44府中-(福塩線)-13:40福山・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第25日)

江津駅前7:06-(石見交通バス)-8:20石見川本11:00-(大和観光バス)-11:29ゴールデンユートピアおおち14:18-(大和観光バス)-14:49道の駅グリーンロード大和14:57-(備北交通バス)-16:15三次駅前16:53-(芸備線~福塩線)-18:37府中18:42-(福塩線)-19:30福山

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第24日(松崎~江津)

2020年05月28日 | 机上旅行

宮脇俊三著『最長片道切符の旅』のルートをたどる机上旅行も中国地方に入る。

『最長片道』の第25日、第26日は宮脇氏の旅に珍しく「同行者」がいる。本文中では「星の王子」、「王子さま」と呼ばれているが、「取材ノート」ではこの作品を出版した新潮社の「栗原氏」と記載されている。宮脇氏の鉄道旅行とはいかなるものかを見定めようというのが目的、とある。確かに、現在のように「乗り鉄」が社会的にも認知されているわけではなく、変わった存在にしか見られていなかっただろうから、宮脇氏の旅とはどんなものなのか、物珍しさということだろう。

星の王子は寝台特急「出雲1号」で倉吉に到着ということで、宮脇氏も松崎の旅館を早朝に出発する。鳥取では朝が早すぎるし、米子だと経路をはみ出すので、間の倉吉を選んだのだろう。宮脇氏のことだから、時刻表であらかじめ乗るルートの列車を決めておいて、事前に星の王子に寝台券を倉吉まで買うよう連絡したことだろう。当の本人は松崎に泊まったが、倉吉から乗る予定にしていた米子経由境港行きの鈍行に1駅前から乗った形で、倉吉のホームで無事に合流する。

一方こちらの机上旅行は、これまでの中ではもっとも遅いだろう、松崎を9時すぎとゆっくりの出発である。別に朝6時でも7時でも早起きして出発していいのだが、時刻表でこの後の行程をたどって行くと結局どこかで長時間の待ち時間となるので、ならば温泉地をゆっくり出発するのもいいだろう。たまにはこういう日があってもよい。

倉吉から伯耆大山にかけての距離も鈍行で淡々と進むのがよい。天気がよければ左手に大山の姿が見える。この山も、見る方向によって全く異なる景色が現れる。東側から来るとアルプスのように荒々しくとがった稜線が見える。山陰地方最古の駅舎が残る御来屋のホームから眺めることもできる。

伯耆大山で伯備線に乗り換える。特急「やくも」で突っ走ってもいいが、ここではちょうど鈍行列車が接続している。今度は大山も「伯耆富士」と呼ばれる三角錐の姿を見せる。陰陽連絡の幹線であるが、車窓は日野川に沿ったローカル線である。現在は2~3両の115系が走るが、『最長片道』の時は旧式の気動車6両が連なったとある。通学の高校生が座席でドスンドスンとやっていて、その振動が背中合わせに座っていた王子さまに伝わる。最近はマナーがよくなったのか、ローカル線でもそうした高校生も見なくなったように思う。おしゃべりくらいはするだろうが、多くは向い合わせでそれぞれスマホの画面に夢中である。

鳥取県から岡山県に入る。芸備線との分岐駅の備中神代に着く。『最長片道』では宮脇氏も王子さまも朝から何も食べておらず、駅前に何かないかと車内から目を凝らすが、ホルモン焼きの看板しか見えなかったとある。「石灰岩でも掘ったあとで焼酎をひっかける店」とあるが、どんな感じだったのだろうか。結局新見まで乗車する。経路計算なら備中神代~新見間の飛び出し乗車も可能だが(例:伯耆大山から特急「やくも」に乗って芸備線に乗り継ぐ場合、備中神代は停車しないので新見まで行ってから芸備線に乗り換えても同区間の運賃は取らない)、新見で改札口を出るとなると話は別で、きっちりと同区間の往復運賃を取られる。新見で無事に駅弁を仕入れることができたようだ。

机上旅行では備中神代で下車する。12時53分に着いて、芸備線は13時12分発である。そのまま新見まで行っても芸備線の同じ列車に乗れるが、乗り換え時間は2分しかない。それであれば、おそらくホルモン焼きの店など今はないだろうが、備中神代で20分ほど駅前の様子を見たほうがよさそうだ。こんな時でなければまず降り立つことのない駅だろう。

『最長片道』でも机上旅行でも、このエリアでネックなのは芸備線の備中神代~備後落合、そして木次線の備後落合~宍道の両区間である。特に芸備線の備後落合までの区間は、現在は1日4往復しかない(途中の東城まではもう何本か走っている)。備中神代13時12分発の前は朝7時29分発、後は18時25分発なので、この乗り継ぎはタイミングがドンピシャと言える。

以前に私が実際にこの区間に乗った時、踏切で引っかかって列車の通過を待っているクルマを見たことがある。開かずの踏切ならまだしも、1日わずか数本の列車が通過するタイミングである。この運転手はよほどこの日の運勢が悪かったのかなという感想を持ったのを覚えている。

『最長片道』では、王子さまが新見駅で購入した「備中新聞」に目を通している。「7人生まれて7人死んでいる」と、新見市で生まれた赤ちゃんと亡くなった方の住所年齢が書かれている。現在でもこうしたローカル紙ではこのような情報もあるのかな。なお、本文では「備中新聞」とあるが、「取材ノート」では「備北新聞」とあり、ネットで検索すると「備北新聞」と「備北民報」が出てくる。

広島県に入り、備後落合に到着。『最長片道』当時は広島~松江間の急行「ちどり」も走っていたが、現在は特に備後落合~出雲横田間は1日3往復しかない。備後落合に14時25分に着いて、14時41分発の宍道行きに乗り継げるのは、先ほどの伯備線~芸備線の乗り継ぎともどもドンピシャである。

とはいうものの、この木次線も難関の路線である。列車本数が少ないのはさておき、豪雨・豪雪による運休が少なくない。特にこの数年では、冬の時季は実際に積雪があるかどうかにかかわらず長期運休の印象がある。あるブログで「冬眠に入る」という表現があったが、言い得て妙である。実際には代替手段としてタクシーが運転されているようだが、クルマなら「おろちループ」などを通って普通にクリアできる区間である。かつてローカル線の廃止が相次いだ頃、木次線も営業係数上ではその対象となるところが、沿線道路が未整備ということで外されたことがあった。この先の三江線が廃止された時、「次は木次線が危ない」という噂も出たが、現時点では廃止の予定はないとのこと。それでも上記の「タクシー代行」の実態もあり、この先も予断は許さない。

出雲坂根のスイッチバックを通り、出雲平野に向けて下って行く。宍道から『最長片道』では浜田行きの鈍行に乗っている。福知山始発の客車列車で、この頃の山陰本線にはこうした長距離運転の客車列車がまだまだ残っていた。出雲市を過ぎ、石州瓦の民家の間から日本海の車窓を見る。

机上旅行では宍道に着くのが17時半すぎなので、この先の日本海の景色は厳しそう。出雲市から鈍行に乗るが、日が暮れた後を淡々と進むことになるだろう。

この日の打ち止めは『最長片道』、机上旅行とも江津である。翌日の三江線のこともあるが、『最長片道』はよいとして、机上旅行では廃止後の三江線のルートをたどることになる。これは手持ちのJTB時刻表に掲載されていない区間もあり、ネットにてルートを検索する必要がある。

それは翌日のこととして、江津に宿泊。『最長片道』では、炉端焼きと寿司屋を兼ねた店に入り、ハマグリやら寒ブリのカマなどを食べている。王子さまも酒が強いようで、「昼間は一人旅がいいが夜は誰か相手がほしい」という考えの宮脇氏も楽しい夜になったのではないだろうか・・・。

※『最長片道』のルート(第25日)

松崎6:14-(山陰本線)-7:42伯耆大山7:49-(伯備線 備中神代通過)-新見10:18-(芸備線)-11:49備後落合11:55-(木次線)-14:42宍道15:39-(山陰本線)-17:13大田市17:21-(「石見1号」)-18:10江津

※もし行くならのルート(第24日)

松崎9:13-(山陰本線)-10:38伯耆大山11:14-(伯備線)-12:53備中神代13:12-(芸備線)-14:25備後落合14:41-(木次線)-17:37宍道18:04-(「やくも17号」)-18:15出雲市18:30-(山陰本線)-20:12江津

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芸能関係者に150万円給付ですって(怒)

2020年05月27日 | ブログ

人をおちょくるのもええ加減にせえよ。

芸能関係者に一律150万円を給付するのだとか。

これって、一部の芸能人(と称する連中)が「黒川氏を辞めさせろ」とかいうのをツィッターで拡散していた、あるいはその前に一部の大御所(と称する輩ども)が芸能人に経済的支援をしろとかほざいていたのに対する誠意だという。

何やねん、だから何で特定の産業に対して優遇措置をするのか。

やっていることは「お肉券」「お魚券」と何ら変わらないし、その政権批判のツィッターをかわすための措置。大きな声を挙げたら何でもするのか。

・・・そもそも、このコロナ禍で、貴様ら「芸能関係者」は何をしたのか? そもそも「芸能」が何か役に立ったのか? こういう状況下でゴルフ場や沖縄に行って女性と遊んで、勝手にコロナに感染して、なおかつ優先的に治療を受けることができる身分。

わけのわからん善意の押しつけのリレー動画とか、安倍が犬を抱いて紅茶を飲んでいる動画を広めさせるなど、世の中に不快を与えただけではないのか?

NHKのインタビューで、何とかいう日本人男性なのにカタカナの女性名を名乗っていた舞台関係者が芸術の危機とか言っていたが、何を寝言をいっているのやら。

世の中にはもっと危機感や差別、偏見の下で黙々と働いている人たちがたくさんいる。

芸能人の何が偉いのか。

 

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第23日(尼崎~松崎)

2020年05月27日 | 机上旅行

1978年『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行も関西から中国地方に入る。机上旅行では前回西明石からJR神戸線で戻った尼崎でいったん打ち切って帰宅したことにしており、次の日はこの後のJR宝塚線~福知山線に入る。

『最長片道』の宮脇氏は、尼崎をそのまま通過して大阪駅に出ている。切符の経路は尼崎から福知山線に入るが、この大阪~尼崎も経路計算の特例が適用されて、塚本や大阪で改札口を出なければ有効である。尼崎を通過する列車があるための措置である。現在の尼崎は新快速だけでなく特急「こうのとり」も停車するので、実際には大阪まで行かずとも尼崎乗り換えで便利になった人が多いが、現在でもJR神戸線を経由する特急「はまかぜ」や「スーパーはくと」は尼崎を通過しており、この特例は生きている。

『最長片道』では急行「だいせん1号」に乗っている。私も大昔に「だいせん」に乗ったことがあるが、その時は夜行急行だった。エーデル北近畿という名前だったか、運転台の後ろが名鉄パノラマカーに似た展望席に改造された気動車に乗った記憶もある。

現在はJR宝塚線として、京阪神の通勤路線の一つとして賑わう福知山線(あの列車脱線事故もあったが)、『最長片道』の当時は宝塚まですらも電化されておらず、大阪駅からディーゼル機関車に引っ張られた客車列車が走るのんびりした路線だったそうだ。宝塚方面の輸送は阪急電車一択の様相。尼崎~宝塚間の電化は1981年、その先福知山までの全線電化は1986年のことである。

尼崎では福知山線の支線というのがあった。尼崎港線という通称があり、現在はもちろん廃止されていくらか形跡があるかなという程度だが、かつての線形を見ると福知山線というのは尼崎港に向かうのが本来の設計で、大阪方面に後からわざわざカーブをきる線路を敷いたように見える。もっとも今はJR東西線が尼崎に伸びたこともり、この辺りの線路は実に賑やかなことになっている。

さて宝塚を過ぎ、宝塚から先の電化にともない、生瀬~武田尾の渓谷沿いの路線も新たにトンネル、高架橋で結ばれることになった。『最長片道』で宮脇氏も武田尾辺りの渓谷の景色をほめていたが、「複線化などしたら見えなくなること必定」という感想も持つ。当時「福知山線路線変更反対」という立て看板もあったようだ。たいていは「複線電化を!高速化を!」という看板が目立つものだが・・。

そうした動きもあってか、1986年に複線電化された結果当時の線路は廃線となったが、いつしか渓谷沿いのハイキングコースになっている。当初はJRとしては安全面から立入禁止の立場だったが、現在ではコースとして整備され、シーズンには大勢の人が訪ねるスポットになっている。

篠山口を過ぎて、谷川から加古川線を南下する。こちらも『最長片道』当時は非電化路線だったが、1995年の阪神淡路大震災の時に「迂回路線」の役割を担ったことから注目され、全線の電化工事が行われた。一方当時は鍛冶屋線、北条線、三木線といった支線が出ていたが、現在残るのは第三セクターの北条鉄道のみ。『最長片道』では乗ったのが昼下がりということで静かさ、けだるさという印象が持たれているが、現在でも確かに淡々と走るかなという印象の路線である。

加古川から姫路に移動して、ここから中国地方に向かう。『最長片道』で乗るのはここでも急行である。「みささ3号」倉吉行きと、「みまさか3号」月田行きの併結列車である。現在大阪と鳥取の間は、特急「スーパーはくと」が智頭急行を経由して高速で結んでいるが、当時は姫新線経由の急行というのがあった。現在の姫新線は急行はおろか、途中の津山まですら直通の普通列車もなく、姫新線という一つの路線なのに、終点の新見まで行くとなるとそれだけで半日仕事になってしまう。これから姫新線を細切れに乗り継いでいくが、その前に駅ホームの「駅そば」で腹ごしらえだ。

姫新線の当時の車窓で、宮脇氏は家の屋根の形の複雑さに注目している。現在でもこうした家は残っているのか。今度リアルにこの線を訪ねることがあれば外を注目しよう。

現在はワンマン運転の気動車がトコトコ走るが、のどかな景色を行くのはいいものだ。智頭急行と合流する佐用まで来るが、ここまで来てもまだ兵庫県である。佐用から津山行きのワンマン列車は途中スピードを落とす区間もあり、そろりそろりと走っていつの間にか岡山県に入る。

因美線の分岐駅である東津山に着く。このまま終点の津山まで行っても次の因美線の列車は同じなのだが、ここは経路にのっとって東津山でいったん下車する。駅前は国道53号線も走り、商店もいろいろあって思ったほど辺鄙なところではない。

『最長片道』では東津山は通過して津山に到着する。津山で「みまさか3号」月田行きを切り離し、代わって岡山からの急行「砂丘4号」を併結する。これも急行列車ならではの運用である。その結果因美線を合計10両で走るのだが、乗客はガラガラのようで、「だいたい因美線に10両編成なんて長すぎますわな」と運転士たちも雑談している。

この岡山発鳥取行きの急行「砂丘」も現在はなく、智頭急行経由の「スーパーいなば」である。ただこの「いなば」、岡山から鳥取に行くのに、わざわざいったん兵庫県に入って、上郡から智頭急行に入る。ちょっと落ち着いて考えよう。それでも「砂丘」より所要時間が短くなっているのも不思議なこと。それでも津山線はまだ県の南北を結ぶ路線だからよいとしても、因美線の県境越えの区間はJTB時刻表の冊子でも別枠となっている。

津山~智頭は優等列車に見放されたローカル区間だが、現在は年に何回か「スローライフ列車」というのが走っている。キハ47をかつての国鉄風にわざとアレンジして、かつての「汽車旅」の風情を味わってもらおうというものである。列車の運転に合わせて途中の駅でもイベントが行われるが、最近では飯田線の秘境駅とか、こうした「ローカル線の雰囲気を楽しむ」とか、こういうものが商品となり、指定席も早々に完売して当日は撮り鉄も含めて多くの人で賑わうのだから、世の中わからないものだ。私も人のことは言えないが。

そのうち、「秘境駅、ローカル列車に県外から多くの人が殺到して『3密』になってます!!」というわけのわからんリポートも出てくるのだろう・・(もう出ているか。現に、先日廃止になった札沼線の末端区間について、そういう状況、リスクを避けるために運転休止の日を突然前倒しにしたし・・・)。

『最長片道』。ガラガラでも急行は急行で、「みささ3号」は、津山で27分停車したのも含めても4時間半ほどで倉吉に到着。一方2020年の机上旅行では、鈍行乗り換えが続いたこともあり、姫路から6時間以上乗り続けた。『最長片道』と同じく鳥取で夕方を迎えた。

『最長片道』でも時間的には鳥取泊でもよさそうだったが、翌日の行程を考えて倉吉まで進んでいる。しかし、倉吉は駅と町の中心部が離れているところで、駅前には旅館、ホテルの類が見えなかったとある。急行列車の名前でもあり、有名な三朝温泉もあるが翌日の行程を考えると宿泊は難しい。そこで、1駅手前の松崎まで戻り、駅前の旅館に泊まっている。ここなら翌日の行程にも支障がないとの判断である。

この旅館は宮脇氏にとって「当たり」だったようだ。岩風呂に満足し、「板前が忘年会で出ておりまして」と恐縮される中で松葉カニの鍋を堪能し、宿の番頭が不調法にむいたという柿を全部食べたりと、元気を取り戻したようである。「取材ノート」によれば「一ふじ」という旅館のようで、これは現在も東郷湖のほとりで営業しているようである。

机上旅行はどうするか。手前の鳥取で泊まってもいいし、倉吉の駅前にも新しいビジネスホテルができている。ここはせっかくなので、「一ふじ」にするかはともかく、宮脇氏と同じく松崎の東郷温泉に泊まるのも面白いだろう。冬ならばカニを味わうこともできるが、そもそもこの机上旅行はどの季節を選んでいるのかわからない。この場所は夏に来たいとか、冬に来たい、紅葉の時季に来たいなどと好き勝手なことを書いている。まあ、それが時間と空間を自由に漂う机上旅行なのかもしれないが・・・。

 

※『最長片道』のルート(第24日続き)

大阪9:50-(「だいせん1号」)-11:24谷川11:28-(加古川線)-野村12:11-(加古川線)-13:09加古川13:17-(山陽本線新快速)-13:32姫路13:48-(「みささ3号」 東津山通過)-18:23倉吉18:37-松崎

 

※もし行くならのルート(第23日)

(自宅から)・・・大阪7:13-(福知山線 尼崎通過)-8:54谷川9:00-(加古川線)-9:28西脇市9:45-(加古川線)-10:31加古川10:38-(JR神戸線新快速)-10:49姫路11:21-(姫新線)-11:54播磨新宮11:58-(姫新線)-12:27佐用13:21-(姫新線)-14:15東津山14:42-(因美線)-15:46智頭15:54-(因美線)-16:44鳥取16:51-(山陰本線)-17:48松崎

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第22日(敦賀~尼崎)

2020年05月26日 | 机上旅行

『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行も関西を回っているところ。この数日のルートはリアルで日帰り、あるいは1泊旅行で訪ねることもちょこちょこあり、車窓の様子も思い出されるところなのだが、こうした視点で実際にルートをたどってみるとまた違った発見、面白さがあるのではと思う。

机上旅行の第22日は敦賀から小浜線に入る。今は電化され、1両または2両の電車がトコトコ走る路線だが、北陸新幹線の敦賀~新大阪のルートについては、小浜・京都ルートが採用されることが決定した。小浜線の東小浜駅近辺に新駅が設けられるそうで、後は朽木の山の中でも通すのだろうか。かつて若狭の鯖を都まで人夫たちが陸路延々と運んだ「鯖街道」も新幹線の時代となる。もっとも、敦賀~新大阪は財源確保等の問題から着工は2031年度、開業は2046年度と予定されている。私、生きているかな・・・。

さて『最長片道』では1978年の12月に突入。一度東京に戻っていた宮脇氏は朝の新幹線で米原までやってきた。米原から乗るのは急行「大社」という列車。この旅では大回り、遠回りをしながら各地を結ぶ急行列車に何本か乗っているが、この「大社」も結構ユニークな列車である。名古屋発大社行きという列車なのだが、その経路というのが、名古屋~(東海道本線)~米原~(北陸本線)~敦賀~(小浜線)~東舞鶴~(舞鶴線)~西舞鶴~(宮津線)~豊岡~(山陰本線)~出雲市~(大社線)~大社というもの。京都も大阪も岡山も経由しない、日本海側を延々と走るルートである。

あるサイトでこの「大社」を紹介して、1978年当時の時刻表を掲載していたのを見たが、名古屋を9時30分に出て、終点大社には20時23分に到着。11時間近くの乗車である。途中、米原、敦賀、豊岡で列車の進行方向が変わるし、敦賀では福井から来た編成を増結する。もっとも、福井からの車両は天橋立で切り離される。今では考えられない運転系統である。1966年から中部地方と山陰地方を結ぶ列車として運転され、夏の海水浴シーズンには賑わいを見せたそうだが、1982年に廃止されている。

宮脇氏も時間が許せば始発の名古屋から乗りたかっただろうが、『最長片道』のルートである敦賀~豊岡まで一気に移動できるのでこの列車を見つけた時はニンマリしたことだろう。なお、前回は富山から特急で移動した敦賀を通過してそのまま旅を中断しているが、そのまま敦賀で下車しても「大社」には間に合う時間だった(「取材ノート」でも、敦賀を通過する際に名残惜しそうなメモを残している)。

「取材ノート」によると、乗車するのが日曜日ということであらかじめ指定席券を買っていたが、実際に乗ってみるとシーズンオフということもあり10パーセントほどの乗車率だったとある。しかし、指定席は番号を固めて発売していたようで、車内はガラガラなのに一部のボックスだけ複数埋まっている状況。

『最長片道』の1978年には、若狭湾では美浜、高浜といった原子力発電所がすでに稼働しており、この旅の直後の1979年には大飯原発が稼働を始めている。『最長片道』の中でも、対岸の大島半島にかかる新しい橋を目にして「ごく今様の機能主義の橋であるが、じつに美しい形」と評している。その橋の向こうに新たに原発ができたことを宮脇氏が知っていたかどうか。その後時代が下り、1979年に稼働を始めた大飯原発の1号機、2号機は2017年に廃炉となっている。2011年の東日本大震災・福島原発事故以降、原発に対する世間の見方も厳しく、さまざまな問題をはらみながら現在に至っている。

急行「大社」はそのまま西舞鶴まで行くが、2020年の机上旅行では東舞鶴、そして隣の西舞鶴で乗り換えが続く。西舞鶴から先の宮津線も第三セクターに転換され、北近畿タンゴ鉄道を経て現在は京都丹後鉄道である。水戸岡鋭治さんデザインの内装を持つ特急や観光列車も走り、鉄道としては明るいイメージもあるのだが、やはり冬の厳しい気候、どこかうら淋しさを感じさせる空は40年前と変わらない。宮脇氏も森鴎外の『山椒大夫』の素材がこの辺りにあることに思いを馳せ、「釉(うわぐすり)で黒光りする黒い屋根、厚い冬雲の下で波頭を白く立てる灰色の海」と、初冬の宮津線の車窓を物語の世界に寄せている。このあたりの記述はさすがにプロである。

丹後の海岸を見た後は天橋立を真横に見て、宮津から天橋立を過ぎる。リアルの話、少し前の冬にこの辺りに出張に出たのだが、京都丹後鉄道の特急車内で、雪のために一時立ち往生したことがある。その後列車が順次運休する中で、最悪どこかで宿を探さなければとも思ったが、運よく最後の1便に乗って宮津まで脱出できた。

『最長片道』では駅ごとに乗客が減り、峰山や網野を過ぎると宮脇氏の乗った車両には宮脇氏、3人連れのおっさん、一人旅のおばあさんの5人だけとなった。このおばあさんは宮脇氏が米原から乗った時にはすでに座っていて、名古屋から乗り通していると思われる。途中敦賀で進行方向を変えた時も前向きに座り直さず、同じところにきょとんと座って食事の時以外は身じろぎもしない。豊岡で宮脇氏が下車する際に行き先を訊くと「鳥取まで」という。当時は乗り鉄ということではなく、実際に所用があって、長距離だし時間もかかるが、乗り換えなしで特急より安く移動できるということで急行の需要というのがあり、それなりの数の利用客がいたことがうかがえる。

宮脇氏はこの日の宿泊地を京都として、豊岡から急行「丹後」に乗る。同じ急行でも、こちらは山陰本線ということで普通車は城崎あたりからの温泉帰りの客で満員で、グリーン車に乗っている。

一方の机上旅行では特急だ。「こうのとり」の新大阪行きでいったん福知山に移動して、「きのさき」京都行きに乗り換える。福知山は昔からの鉄道の要衝で、現在は京都・新大阪~城崎温泉・天橋立間の特急が相互に連絡している。福知山の改札を出なければ特急料金も通しで計算される。

京都に到着。『最長片道』では18時半の到着でこの日を終えているが、仕事かプライベートか、京都で人に面会していたようである。一方の机上旅行はもう少し移動することにして、西明石に向かうために新幹線ホームに向かう。リアルの移動なら新快速に乗ればすむことだが、『最長片道』のルートでは、京都~新大阪の新幹線が在来線より0.1キロ長いことと、新大阪~西明石は在来線とは「別の線」の扱いで経路計算を行うために、この区間は新幹線移動となる。

京都には1時間に何本も新幹線が停まるが、西明石に停車するのは新大阪からの「こだま」か、東京発岡山行きの「ひかり」しかない。京都から西明石まで乗り換えなしで行くには岡山行きの「ひかり」に乗るが、1時間に1本の運転である。リアルでそうした移動をする人はほとんどいないと思うが。

西明石からは取って返して山陽本線~東海道本線、現在の愛称ならJR神戸線に乗る。今度は新快速で、須磨の海岸を見た後、神戸、三ノ宮と過ぎて尼崎に到着。この先は福知山線~加古川線と続いて行くが、福知山線をたどるうちに夕方にさしかかるし、この先夕方から夜にかけて進んだところで適当な宿泊施設もなさそうなので、ここでいったん中断としてそのまま大阪に戻る。まあ、尼崎か梅田で一杯やってから帰るか・・・。

前日に自宅を出て、翌日の夕方で中断だから、途中乗り詰めで観光など一切ないが、これ、リアルに1泊2日の大回り旅として成立しそうだ。いずれやってみようかな・・・。

 

 

※『最長片道』のルート(第23日、第24日)

(第23日)宮脇氏自宅から・・・東京7:38-(「ひかり◯◯号」)-米原10:45-(「大社」 敦賀通過)-15:13豊岡15:24-(「丹後12号」)-18:31京都

(第24日)京都7:42-(「こだま◯◯号」)-8:31西明石8:37-(山陽本線~東海道本線快速 尼崎通過)-大阪・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第22日)

敦賀6:16-(小浜線)-8:13東舞鶴8:56-(舞鶴線)-9:02西舞鶴9:37-(京都丹後鉄道)-11:30豊岡11:42-(「こうのとり14号」)-12:42福知山12:44-(「きのさき14号」)-14:07京都14:43-(「ひかり511号」)-15:20西明石15:31-(JR神戸線新快速)-16:07尼崎・・・(このまま帰宅)

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第21日(山科~敦賀)

2020年05月25日 | 机上旅行

少し間を置いての再開であるこの机上旅行。いや、間を置いたのはちょうど関西まで来たところで原稿のストックが切れ、週末など使って再び書きだめした事情もあったのだが・・。

1978年に宮脇俊三が行った『最長片道切符の旅』。これを2020年に再現してみたらということで始まり、ようやく関西圏まで来た。

当時の『最長片道』、第21日は京橋をスタートして、片町線、関西本線、草津線、東海道本線と回って京都まで来た。本来であれば山科から湖西線に入るのだが、この後は特急で結んでいる。山科に特急は停まらないから、運賃計算の特例で、山科~京都間は経路から飛び出してもカウントしないことになっている。この先の近江塩津~敦賀間も同様だ。

『最長片道』で特急乗り継ぎとなったのは時間的なこともあるだろうが、当時は湖西線の普通列車の本数が少なかったことがある。途中の近江今津まではまあいいとして、問題は近江今津~近江塩津。湖西線は京都につながるから直流電化区間だが、近江塩津の手前で直流電化から北陸本線の交流電化に切り替わるポイントがあった。特急は直流・交流の両用の車両だったが、湖西線の普通列車には両用車両が投入されておらず、気動車で結んでいた。特に『最長片道』の時は1日5本しかなかったとある。そのため、青森行きの特急「白鳥」で、また昼前ということで食堂車で過ごしている。日本海側をずっとたどる「白鳥」か、懐かしいなあ。

さて2020年に話を移す。2006年に北陸本線が敦賀まで直流電化に変わったことから、京阪神から湖西線経由の新快速で敦賀まで直接行けるようになった。また近江塩津で湖西線、北陸本線の列車が接続するダイヤもできて、「琵琶湖一周」も短時間で可能になっている。現在のダイヤなら宮脇氏もわざわざ特急に2回乗らずとも、新快速や鈍行を使って乗り継ぎをしたかもしれない(特急の食堂車もない・・どころか、最近は特急の車内販売というのもほとんどなくなった)。

机上旅行は山科から再開だが、京都から7時ちょうど発の湖西線直通の近江今津行きに乗る。この列車は、私がリアルに早朝から青春18きっぷで北陸方面に向かう時に乗ることもある。冬の時季には高架橋から琵琶湖越しの朝日を見ることができる。この時間だと近江今津乗り換えとなり、その列車は近江塩津、敦賀を通り越して福井まで行く。青春18きっぷの時季はこれで福井、さらにその先の金沢行きにも乗り継ぐ人も見られる。敦賀までの直流電化に合わせて、北陸本線用にも直流・交流両用の電車が投入されており、この辺りの列車も柔軟な運用ができるようになった。この車両は金沢から先のIRいしかわ鉄道や、あいの風とやま鉄道にも活用されている。

話は長くなるが手前の近江塩津で下車して、30分ほど待つが米原行きで南下する。まず朝の時間帯は琵琶湖、余呉湖の眺めを楽しむところだ。

米原では少し乗り継ぎ時間がある。ホームには立ち食いうどんのスタンドがあるので小腹を入れるか。『最長片道』で宮脇氏は、米原駅は立ち食いそばがよく似合うといいつつも、隣の売店の燗酒にも色気を見せている。で、結局燗酒を飲みながら、立ち食いそばを食べる人たちの観察をしている。腕時計で図ると、成年男子で1分ないし1分30秒、2分以上かかるのはお母さんと子どもだけ、若い女性は立ち食いそばを好まないから計測できない・・としている。しまいには観察している自分も食べたくなって一緒にすする(「取材ノート」では、店の人と話をしながらだったのでゆっくり食べたとしながらも、それでも2分しかかからなかったとしているが、やってることは酒飲みそのままである)。

最近は駅ホームの立ち食いうどん・そばのスタンドを見かけることも少なくなったが、それでもまだまだ健在である。建物が小ぎれいになっていたり、うどん・そばのトッピングメニューも豊富になっている。私自身計測したことがないから何ともいえないが、トッピングがいろいろあるといっても、どのみちじっくり味わって食べるという性格のメニューではないし、1分とはいかないまでも確かに短時間で済む食事である。

米原から関ヶ原を越えて岐阜に出る。『最長片道』では急行「のりくら5号」で高山に向かう。机上旅行では特急「ワイドビューひだ7号」で一気に富山まで出てしまう。高山あたりも泊まらずとも観光くらいしたいところだが、今回は先に進むのが目的の旅なので通過である。

実際の話として、私自身2019年の年末に名古屋から富山まで「ひだ」に乗り通したのだが、東洋、西洋いずれからのインバウンド客があふれていたのを覚えている。飛騨高山を中心とした飛騨地方、確かに日本の原風景も多く残されているし、合掌造りの集落が世界遺産になったことも大きい。また高山市は早い時期から外国人観光客の誘致にも熱心だったと聞く。『最長片道』の時は観光シーズンから外れた平日だったために急行もガラガラだったようだが、現在はどうだろう。日本の冬景色というのも、特に温暖な地域の東南アジアからのインバウンド客には人気のようだし、海外旅行の場合は平日とか日曜とかいうのはそれほど関係ないから、そこそこ乗車率はあるのではないだろうか。

木曽から飛騨に入り、『最長片道』では急行から普通列車となった「のりくら5号」は通勤通学輸送もあり、高山に到着。家庭的なビジネスホテルのご主人に、(ガイドブックに載っているような店がシーズンオフで軒並み閉店のため)土地の人相手の飲食店があるエリアを教えてもらい、2~3軒ハシゴしたようだ。そして翌日は朝6時すぎの富山行きで出発している。

高山から北の区間はより一層ローカルムードが漂う。岐阜・富山の県境では峡谷の車窓を楽しむことができる。富山県に入ると遠くの立山連峰をバックに、富山平野の散村風景も見える。

富山に到着。現在は北陸新幹線も開通して新しい高架駅になっているが、かつての北陸本線は第三セクターに移管されている。こちらは「あいの風とやま鉄道」、そして実質は相互直通している「IRいしかわ鉄道」である。いつぞや通った長野県の「しなの鉄道」や新潟県の「えちごトキめき鉄道」もそうだが、各県ごとで第三セクター会社が仕切られている。県をまたぐ移動が少ないのかもしれないが、県で区切ってしまうのがお役所的でいかがなものかと思う(県が出資する第三セクターだからそうなるのだが)。

行政のうえで何らかの境界線、区分は設けないといけないから、「都道府県」というものを否定するつもりはさらさらないのだが、あまりそこに縛られすぎるのも柔軟性を欠く話である。例えば、今回の新型コロナウイルスの対応について、「都道府県をまたぐ不要不急の移動は自粛するように」とある。これを極端な杓子定規にとらえると、例えば兵庫県の尼崎という、大阪府に片足以上突っ込んでるような市の場合、同じ兵庫県の神戸はもちろん、姫路やら淡路島、丹波篠山に豊岡への行き来はOKで、すぐそこの大阪府内には入れないということになってしまう。当初、「大阪と兵庫の不要不急の往来を自粛して」と吉村大阪府知事が「一方的に」発言した際、「何やねん」と思ったものだ。

さすがにそれは非現実的な話で、現在は(知事どうしの仲はさておくとして)特に大阪、兵庫、京都が一体となって緊急事態宣言解除に動くなど、「県内」よりも「圏内」という捉え方である。それが実生活にもマッチしているだろう。

・・・何の話だったか、第三セクター鉄道のことだった。各県バラバラに細々とした路線を維持するのとは逆に、例えば「北陸鉄道」「信越鉄道(北越急行も含む)」といったような、もう少し広域経営ができないものかなと思う。今後北陸新幹線が金沢から敦賀まで延伸すると、福井県にも同じような第三セクター鉄道ができるが、その時に、えちぜん鉄道や福井鉄道と一緒に運営するという選択肢はないのだろうか。

『最長片道』では富山から特急「加越4号」で北陸線を抜け、次に乗る舞鶴線の始発駅の敦賀も通過して、名古屋まで戻っている。第16日の八王子からここまで続いたが、いったん中断して、3日後に再開している。何か所用でもあったか。

「取材ノート」には「アーロン回想解説メモ」というまた謎の言葉がある。調べてみると、会田雄次『回想アーロン収容所』という著作の解説を宮脇氏が書いたとある。著者の会田雄次は歴史学者、後に京都大学名誉教授だが、太平洋戦争のビルマ戦線に従軍して、イギリス軍の捕虜となってラングーンに拘留された。その経験をもとに書いたのが『アーロン収容所』という一冊で、連合国から日本人への報復であるかのような過酷な生活を記録したものである。その後の「悪口のわりに憎まれない人。臆病なくせに舌禍事件を起す人。切開しっ放しで縫合しない外科医」というのも、おそらく作品にそうした性格の人物が登場するのだろうが、現在でも実際に周りにそうした人物はいそうである。

机上旅行も、夕方となった敦賀でこの日は打ち止め、宿泊とする。高山本線と北陸本線は特急に乗ったので距離は稼げた。

敦賀には何回か訪ねたことがある海鮮の店もある。富山、石川、福井と通過したから、北陸の幸はここで楽しむとするか・・・。

 

※『最長片道』のルート(第21日続き、第22日)

(第21日続き)京都10:52-(「白鳥」)-11:59敦賀12:35-(「加越6号」)-13:11米原13:30-(東海道本線)-岐阜14:38-(「のりくら5号」)-18:05高山

(第22日)高山6:05-(高山本線)-8:11富山8:14-(「加越4号」 10:34敦賀通過)-12:07名古屋・・・このまま帰宅

 

※もし行くならのルート(第21日)

(自宅から)・・・京都7:00-(湖西線 山科通過)-8:06近江今津8:14-(湖西線)-8:33近江塩津9:02-(北陸本線)-9:35米原9:56-(東海道本線)-10:32大垣10:41-(東海道本線新快速)-10:52岐阜11:08-(「ワイドビューひだ7号」)-14:47富山15:12-(あいの風とやま鉄道~IRいしかわ鉄道)-16:10金沢16:29-(「サンダーバード36号」)-17:55敦賀

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駅弁お取り寄せ 淡路屋「豚々拍子」

2020年05月23日 | ブログ

こうした状況で旅行や長距離移動をする人が少ない中、駅弁の業界というのも苦戦を強いられているようだ。

その土地の駅で弁当を購入するのは旅の楽しみの一つなのだが、東京駅や新大阪駅ほどになると、駅弁専門の店舗に各地の駅弁が並んでいる。製造や流通にはそれぞれ工夫があるのだろうが、私もたまに新大阪駅まで出向いては、各地の魚介類や肉類を使った駅弁を買って昼食や夕食とすることがある。ただ、新型コロナウイルスの影響で新幹線の利用客が減るとそうした店舗も一時閉店となった(現在は営業再開した模様)。

こうした状況で在宅での食事の機会が増えるのを背景に、あちこちでお取り寄せ、出前の利用が増えているという。駅弁でも改めてそうしたサービスが注目されている。

今回、神戸を中心に数々の駅弁を出している「淡路屋」のお取り寄せサービスを利用した。5000円以上の購入で京阪神向けの送料無料サービスというのもついているが、さすがに5000円は購入できないなと、きちんと送料を負担したうえで購入した。

その一品がこちら「豚々拍子」。「笑顔日本一駅弁の『豚々拍子』が復活。新型肺炎対策で笑顔不足の日本に、少しでも笑顔を届けたい!という思いから再販を決意。このたびリニューアル販売にこぎつけました」とある。「復活、再販」というのだから過去にあったのかなと見てみると、2004年に登場した弁当だという。今回のこの事態を受けて、5月に再登場と相成った。私自身は初めて目にする一品で、見た目が面白そうなのでお取り寄せ。

届いたのがこちら。角帽をかぶって笑顔の豚の形をした陶器である。価格1100円のうち、陶器代はどのくらい占めているのかなというくらい凝ったつくりである。

中身は台湾風の魯肉飯(ロールーハン)。角煮を細かく刻んだ混ぜご飯である。かつては排骨(パイクー)、魯肉、東坡肉(トンポーロー)の3種類の豚カツが乗っていたそうだが、今回はお取り寄せ販売のことも考えて揚げ物は避けたのかな。

ちょっと濃いめの味付けだが、ビールにもよく合う。もっとも、豚の頭の中に箸を突っ込むというのは何だか複雑な気分なのだが(考えすぎか)。

この陶器、角帽形の蓋をかぶせて、真ん中のシールをはがせば穴が出てくる。文字通り、豚の貯金箱としてお使いくださいとある。この辺り、淡路屋らしい。

淡路屋といえば有名なのがこちらの「ひっぱりだこ飯」。こちらも蛸壺を模した陶器の容器に、タコの煮付や、タコの出汁で炊いたご飯、そして隠し玉にタコ焼きが入るという一品。「豚々拍子」一品だけ注文ももったいないかなあと、今回セットで注文。この「ひっぱりだこ飯」の食べ方の一つに、途中からお湯をそそいで出汁茶漬け、ひつまぶし風に食べるというのがあり、実践してみた。これもなかなかユニークである。

これまで駅弁を予約して店舗で引き取ったことはあったが、お取り寄せは初めて。時季的なものもありクール便で到着した。容器に触れると冷気を感じたので、自然解凍ではないが、少し時間を置いてからいただいた。「豚々拍子」の具材を豚カツにしなかったのはこうした事情もあってのことかなと思った。ちなみに消費期限は到着日の22時~23時という標記だった。

物流や流通事情、また気候の面(これから夏季に入る)で全国どこの駅弁でも、というわけではないが、有名な駅弁業者のサイトなど見ると、いろいろなところでお取り寄せサービスが行われているのに気づく。予約期限もあるし、確実に受け取って食べることができる日の配達指定にする必要はあるが、他のところも試してみたいものである。

今度は海鮮系なんかどうかな・・・。

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京阪神の緊急事態宣言解除

2020年05月21日 | ブログ

数日前から言われていたが、大阪、京都、兵庫各府県の緊急事態宣言が、21日に解除となった。

「大阪モデルは前のめり」という声もあるようだが、現実のところでは京阪神というのは一つの圏内という見方もできるし、ともかく一歩前に進んだ形ではある。

これで残るのは東京、神奈川、千葉、埼玉の首都圏と北海道だけとなった。緊急事態宣言を5月末まで延長すると発表された時は、「そのままズルズルと、5月末になってもシレッとした顔でもう1ヶ月延長すると言うのでは?」と思っていたが、5月の連休から2週間が経過したところで、最悪のシナリオは回避できたとなったのだろう。

とは言え、ウイルスの脅威がまったくなくなったわけではなく、いきなり何もかもを元通りにするということでもないので、引き続き慎重な行動は求められるところ。それでも、口を開ければ自粛自粛、果てには自粛警察なる輩が跋扈するギスギスした世の雰囲気は少しは明るくなるだろう。

個人的には、その自粛警察とやらの他県ナンバー狩りや道路封鎖を黙認したり、むしろそれを率先して煽った徳島、岡山の県知事に対しては許さない感情がある。施策の是非はともかく、発信の仕方というのがあるだろう。

まあ、四国の「お接待」文化なんて、その根底にあるのは結局「カネをやるからお前はとっととここから立ち去れ」ということの裏返し。そもそも遍路なんて来ていらん存在なんですよ。大型連休中に納経所を全て閉めたのもその根底の価値観に則っただけのこと。

そして岡山は今後も「行ったことを後悔させられる県」なのでしょう。何がカモンベイビー岡山じゃ。ぼっけぇ、きょうてぇ。

すみません・・・気持ちを落ち着かせよう。

実際のところは全国的なイベントとなるとまだまだ難しい。夏の甲子園も中止になったし、プロ野球の開幕はまだ目処が立たず、大相撲も名古屋場所(開催は東京)が果たして開かれるのか。これらは例の一つに過ぎず、全国的には「あれは大丈夫か」「これは予定通りできるのか」「それは再開できるのか」というものが無限にあることだ。

「新しい生活様式」として示されていることに対して、個人的には賛同できない(したくない)箇所もあるが、実生活では落ち着いて、是非を判断して過ごすことにしようと思う。

・・・そこに来て、このアベノマスク。3日ほど前に投函されていた。安倍のしょーもない対応への不満から、当初は投函されても送り返そうかと思っていたが、こんなマスクでも調達や流通の過程で、個人として安倍や政府への不満を持ちながら、疑問を感じながらも携わった人がいる。それを思えば、とりあえず受け取るだけは受け取り、後でどうするかはゆっくり考えるほうが大人の対応だし、精神衛生上よろしい。負の歴史、これを見て「プチ臥薪嘗胆」するもよし、安倍への憎悪をたぎらせるもよし・・(皮肉なもので、安倍の地盤である山口県にはまだ1枚も配布されてないそうだ。この男は山口県のことなんか屁とも思ってないのだろう)。

現物を見ると、マスクじたいの性能はさておき、同封の「3密」の説明書のほうが立派に見える。

横に、前に当ブログでも触れた中国産の不織布マスクを置いてみる。実生活では他に、休日用ということで水着素材の洗えるマスクを使っている。プロ野野球西武ライオンズでは、球団ロゴや選手の背番号があしらわれたマスクカバーを発売したという(バファローズもやらんかな?)。他にも、鉄道グッズとして発売を始めた会社もある。まあ、アベノマスクに危機感を覚えた人たちが手作りマスクを編み出し、一部では新たな商品分野にもなったとも言える。アベノマスクのせめてもの間接的な効果として、評価しましょうかね・・。

これからも第2波、第3波があると言われるが、それはその時。悪態をつきたいところは山ほどあるが、そこは抑えて、落ち着いて。まずは一つプラスの展開になったことに一息つこう・・・。

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第20日(新宮~山科)

2020年05月20日 | 机上旅行

宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。行程が関西に差し掛かってくると、私も一部を切り取ってリアルに実施してもいいかなとも思うようになる。まあ、最長片道にこだわらず、旅のコースは目的地との往復ではなく、なるべく循環ルートで組むのが面白い。「往路」の距離が限りなく長くなるからである(宮脇氏がそうしたことを言ってなかったっけ)。

机上旅行の第20日は紀伊半島一周の後半である。以前に青春18きっぷ1回ぶんで、西国三十三所めぐりの那智山へのお参りも含めた紀伊半島一周の日帰りを行ったことがある。鈍行での移動というのはさすがに乗りごたえがあったなと感じる。乗りごたえがありすぎたか、帰りは松阪から近鉄特急で大阪に戻ったかな。

今回は特急で和歌山まで一気に移動する。本来なら鈍行に揺られながら海岸線を眺めるのが楽しいだろう。

私が初めてこの区間に乗ったのは、当時天王寺から新宮まで出ていた夜行快速。列車名はなかったが、「釣り列車」の通称があった。深夜~未明に南紀の駅に停まり、そこで下車して翌朝一番に海釣りをするために乗る客が目立ったからである。その時私が乗ったのは急行形の電車で、途中時間調整で長く停まる駅では車外に出て、入場券を買ったこともあった。新宮に着いてからはそのまま天王寺に戻ったり、あるいはその先紀伊半島の東側を回ったり、今思えば懐かしい・・。

さて、『最長片道』では、宮脇氏は新宮で列車の待ち時間があったので、駅近くにある浮島の森に立ち寄っている。天然記念物である浮島の森は、泥炭化した植物や倒木が積み重なり、沼の中に島が浮いているところからこの名がついた。もっとも、住宅地の中にあるためか、宮脇氏はラーメン屋の裏庭から漂う豚骨をゆでた臭いのほうがインパクトがあったようだ。このラーメン屋、今でもあるのだろうか。

新宮からの「くろしお」。『最長片道』当時は振子車両381系の新車が導入されたばかりのようで、車掌も「カーブの際は椅子の把手につかまるように」と案内していたとある。まずは三輪崎にかけての海岸線を行き、紀伊勝浦に向かう。『最長片道』では温泉帰りの客が結構乗ってきたようだが、机上旅行では朝の7時前。さすがにこの時間から乗る温泉客はほとんどいないだろう。

この辺りの海岸線も入り組んでいて、太平洋も姿を見せたり隠したりという中で、本州最南端駅の串本を過ぎる。この後も海岸線の景色を楽しめる。串本から西のほうが海岸も荒々しくなり、その分開けた地形に変わるという印象である。

白浜では温泉帰りの客も乗って車内も多少賑やかになるだろう。この辺りからはミカン畑も目立つようになり、時季ならば山にミカンが多く実る車窓を見ることもできる。その中で化学工場や火力発電所が目につくようになると、海南、和歌山と都市部に近づく。

このまま「くろしお」で天王寺まで向かいたいところだが、和歌山にて下車。ここから和歌山線~桜井線(万葉まほろば線)~関西本線(大和路線)と回ってからのことである。今はローカル列車(和歌山線、万葉まほろば線では新車導入)で淡々とたどるが、『最長片道』の時は急行「しらはま」に乗っている。白浜~和歌山~高田~桜井~奈良~京都という、まさにこの旅にうってつけの列車である。さらに調べると、この「しらはま」のうちの1本は、新宮~和歌山~高田~桜井~奈良~亀山~名古屋という運転もあったようだ。今ならイベント列車ででも再現は難しいだろうが、当時の「急行」というのは、いろんな町の乗客を拾いながら、また分割併合を行いながら地方と都市を結んでいたことがうかがえる。

もっとも、当時にも合理的な判断というのはあったようで、『最長片道』のルートを行くために宮脇氏が和歌山の窓口で、「和歌山線経由の奈良行き」の急行券を買おうとしたら、「天王寺回りのほうが早く着く」と係の人から教示される。確か東北でも、盛岡から花巻に行くのにわざわざ山田線~釜石線の急行に乗り通した際に車掌が驚いた反応があった。

『最長片道』では和歌山線は晩秋の夕方、そして急行ということもあり、宮脇氏もポケットウイスキーを飲みながら進んでいる。通りがかった車掌に「どこかで会いましたね」と声をかける場面も(それをよく「取材ノート」および本文に書いたなと思うが)。だいぶ疲れが来ているようだ。

机上旅行では、大阪近郊区間の外周である和歌山線~桜井線(万葉まほろば線)で奈良まで来た後は、大和路快速で天王寺に向かう。ここで下車して旅を中断するところだが、まだ昼間ということでこの先も進む。そのまま大阪環状線に乗り入れて、京橋まで行く。さらに学研都市線、関西本線と乗り継ぐ。何とか夕方までできりのいいところまで進めた後、帰宅しようと思う。

『最長片道』ではすっかり暗くなった中を天王寺まで進み、大阪環状線の外回りで大阪を経由した後に、京橋に到着。当時行き止まり線だった片町線で片町まで行き、ホテルに泊まっている。「取材ノート」によると「シャトーテル大手前」」というホテルに泊まったそうだが、ここも「かびくさい」「今回の最低」と書きなぐっている。ちなみに、「シャトー」という名前を見ると、場所が場所だけに「京橋は~ええとこだっせ~」のCMで知られるあのレジャービルを連想するのだが、関連はあるのだろうか。

『最長片道』の第21日は片町からスタート。現在は学研都市線からJR東西線に変更されていて、JR東西線では大阪城北詰駅が近い。昔の片町線は一種独立した路線と言えて、片町~四条畷~長尾と進み、その先はかつて非電化区間だった。私が中学生時代にJRの乗りつぶしを志して初めてこの線に足を踏み入れたが、ローカル気動車(確かキハ28だったか58だったか)に乗るのはこの時が初めてだったと記憶している。現在の学研都市線は当時よりも本数は増えており、JR東西線を介してJR神戸線、宝塚線とも直通運転を行っている。

木津から加茂を経て関西本線に戻る。大阪側の大和路線、名古屋側の関西本線に挟まれる加茂~亀山のローカル区間。『最長片道』当時は急行も走り、その時乗った列車も4両あったようだが、現在は気動車が1~2両で結ぶ。関西本線は大阪~名古屋を最短距離で結ぶ路線ではあるが、前身の関西鉄道時代は東海道本線との競争に負け、国鉄になってからは近鉄大阪線~名古屋線に負け、そして現在のこの区間はローカル線となっているが、それよりも大きいのは名阪国道ではないだろうか。有料の高速道路ではなく無料の自動車専用道で、天理のところの急カーブという難所はあるが、交通量の多い道路である。また高速道路も、現在は第二京阪~新名神というバイパスルートもできて選択肢も増えている。

この区間に乗ると、関西本線の電化、複線化を訴える看板や横断幕を見ることもあるのだが、その実現性は果たしてどうだろうか。仮に実現したところで大阪から加茂、伊賀上野経由の亀山行き快速というのが運転される見込みもないだろうに・・。

柘植から草津線に入る。草津線も当時は非電化だったようで、『最長片道』ではここで名古屋発草津線経由の気動車急行「平安」に乗車している。この急行も奈良行きの「かすが」を併結しており、急行列車らしい小回りを利かせている。現在であれば、別に一つの列車ではなくそれぞれが系統立てられているが、都市間を結ぶ高速バスの感覚がそれに近いだろうか。

貴生川では信楽高原鐵道と近江鉄道が分かれる。この両線を改良して、近江鉄道の米原から学研都市線の京田辺を接続させる「びわこ京阪奈線」という構想がある。1989年だから平成元年に立ちあがった構想だそうだが、それから30年が経過して具体的にどうなったという話を聞かない。逆に、その一端を担うはずの近江鉄道そのものの存廃が議論されたほどで、廃止後の代替手段に対する地元自治体の負担が増えることからかろうじて逃れたくらいである。現在は、リニア中央新幹線、また京都側では北陸新幹線のルートや駅をどうするかのほうに意識が行っている模様だ。こちらもどうなるか。

ルートは東海道本線に入り、大津を越えて京都府に入る。『最長片道』の切符のルートでは、山科から湖西線に入り、近江塩津から北陸本線で米原まで出る。しかし当時湖西線内を走る鈍行の本数は少なく、特に近江今津~近江塩津が難関だった。そのため、運賃計算の特例を生かして山科から京都まではみ出し乗車して特急に乗り換え、山科、近江塩津を通過して敦賀まで行き、再び特急に乗り換えている。この辺りはまた次の記事で触れることにする。

私の机上旅行は山科で夕方となったこともあり、ここで打ち止め。そのまま大阪に戻る。北海道から通算して第20日で大阪に帰還となった。確かに最初のルール決めでは「通し打ち」ということを書いていたが、リアル旅行にせよ机上旅行にせよ、自宅近くまで戻ると何らかの形で中断するのは自然ではないかと思う。言い訳をするならば、仮に山科、あるいは湖西線沿線のどこかに宿泊したとしても、翌日以降の行程は似たようなものである。

というわけで、ここで机上旅行の時刻表をいったん閉じる(翌日には素知らぬ顔をして開けているかもしれないが)。

さてここからようやく西日本編。少しインターバルを置いて書くことになるが、どうか引き続きおつきあいのほどを・・・。

※『最長片道』のルート(第20日続き、第21日)

(第20日続き)新宮13:18-(「くろしお11号」)-16:27和歌山17:16-(「しらはま3号」)-19:20奈良19:21-(関西本線)-19:54天王寺19:59-(大阪環状線外回り)-20:25京橋-(片町線)-片町(宿泊のため移動)

(第21日)片町6:41-(片町線 京橋通過)-四条畷7:12-(片町線)-長尾7:40-(片町線)-8:14木津8:15-(関西本線)-9:30柘植9:40-(「平安」)-10:43京都・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第20日)

新宮630-(「くろしお12号」)-948和歌山951-(和歌山線~万葉まほろば線)-1258奈良1315-(大和路快速~大阪環状線)-1416京橋1423-(学研都市線区間快速)-1523木津1528-(大和路線)-1534加茂1542-(関西本線)-1636柘植1646-(草津線~JR琵琶湖線)-1756山科・・・(ここから帰宅)

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第19日(糸魚川~新宮)

2020年05月19日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』をめぐる2020年の机上旅行。通算で第19日となった。ここまで『最長片道』の宮脇俊三よりも半日早いペースで進んでいる。

糸魚川を早朝6時に出発。前日の夕方、もしくは当日の朝に駅近くの日本海の展望スポットに立ち寄っておきたいところだ。『最長片道』では昼間に松本まで急行で乗り通しているが、机上旅行では鈍行の乗り継ぎ旅となる。

大糸線も南北から少しずつ建設が進められ、全線が開通したのは1957年のこと。中でも小滝~中上間が難工事だったという。姫川によって深く刻まれた谷間に線路を通すだけでも大きな工事だったが、この姫川はなかなかの暴れ川、また周囲も豪雪地帯、断層地帯ということで、これまでにも豪雨、雪崩、そして地震により長期運休も発生している。私も以前に乗った時に、姫川沿いの南小谷までの区間でやたら徐行するという印象を受けた。車窓は姫川の渓谷あり、水力発電所ありとなかなか見ごたえはある。

南小谷で松本行きに乗り換えとなる。車窓も白馬の山々や仁科三湖など、なかなか風光明媚なところだ。ここで宮脇氏が思い出したのは、松本清張の『影の地帯』。木崎湖に沈められた箱詰めの死体を探す場面があったという。

これはまったくの余談だが、松本清張といえば、先日NHKのBS番組「新日本風土記」にて、清張の作品の舞台となった「鉄道」を訪ねるというのをやっていた。東京駅に始まり、ブルートレイン「あさかぜ」、木次線の亀嵩、能登半島、武蔵野、山陰本線、佐賀、関門海峡、そして先日廃止となった札沼線の石狩月形など・・・。清張は別に現在のような「乗り鉄」というわけではなく、当時の旅行手段は鉄道が中心で、時刻表を見ながらあれこれ思いにもふける旅好きだったとされる。一方で鉄道ファンの中には、清張を鉄道趣味の一ジャンル「読み鉄」とでもいうのか、作品に登場する鉄道場面をあれこれ「研究」して、著作まで出している方もいる。

信濃大町から安曇野の一帯を抜けて、松本に到着。ここから中央西線の木曽谷を行くが、『最長片道』、机上旅行とも特急で一気に名古屋まで出る。ただ時間だけ見比べると、『最長片道』の「しなの10号」は2時間35分、机上旅行の「ワイドビューしなの6号」は2時間9分と差がある。前者もすでに振子車両が使われていたが、当時は塩尻で列車の向きが変わる線形のため、その停車時間(『最長片道』の時は8分で、ホームで立ち食いそばをいただくだけの時間があった)も含まれる。

「木曽路はすべて山の中である」は、島崎藤村の『夜明け前』の書き出しであるが、山の中のわずかな土地に家々が集まって宿場町をなしている情景が目に入る。今でも馬籠や嬬恋に代表されるかつての宿場町が保存されているところもあり、JR東海の日帰りウォーキングの舞台にもなっている。『最長片道』の当時も「アンノン族」的な若い女性グループの旅行客がいたとある。「ディスカバー・ジャパン」という国鉄のキャンペーンは1970年から始まり、木曽路もその舞台として人気があったようだ。

なお、これは机上旅行のネタ探しの中で気づいたことだが、山口百恵さんの『いい日旅立ち』は、1978年の11月に発売されたとある。ちょうど『最長片道』の旅の途中のこと。宮脇氏は特に「取材ノート」でも触れてないようだが(いわゆる「ニューミュージック」には興味なかったようだが)、2020年でもバージョンは違うとはいえ新幹線の車内でも流れる曲。当時の旅の途中でも耳にしたことはあるはずで、なにがしかの感想があってもよかったと思う。

中津川で木曽谷を抜け、名古屋に到着。ここからは紀伊半島をぐるりと一周する。『最長片道』当時も四日市(河原田)~津を結ぶ伊勢線(現在の第三セクター伊勢鉄道)が通っていて、名古屋から伊勢方面への特急などは伊勢線を経由するが、切符のルートは関西本線で亀山まで出て、それから津に向かう。四日市との三角形の2辺を経由するルートだ。それよりも、宮脇氏も書いているように当時も「普通の旅行なら近鉄特急を利用」としている。

国鉄時代の名古屋近郊というのも「汽車」の感覚だったようで、名鉄、近鉄という2つの私鉄が圧倒的に優位だった。子どもの頃だから昭和50年代後半、「私鉄大百科」とかいう図録を読んだことがあるのだが、確か名鉄のコメントに、「名鉄のライバルはもはや国鉄ではなくて自動車だ」というようなことが書いてあったように思う。ただ国鉄からJR東海に移管してからは、東海道新幹線がもたらす莫大な利益のおかげもあってか、名古屋近辺の輸送も大きく改善されているのも確かだ。

『最長片道』では名古屋発亀山経由津行きという「客車列車」に乗っている。名古屋18時ちょうど発だが、平日なのに座席の3分の1も埋まらないという乗車具合で、「こういう列車の醸し出す雰囲気は、ローカル線ともちがう。同乗の客にはわるいけれど、人生の落伍者にあったような、うらぶれた気分になる」とまで書かれている。現在なら「客車列車を運転します」といえば乗り鉄、撮り鉄たちが黙っていないだろうが、当時とすればそういう感覚にもなるのだろうな。

一方机上旅行では名古屋駅で昼食をとってから亀山行きに乗車する。快速を含めて運転本数は国鉄当時から大きく増えている。とはいえ、車窓の賑わいや乗客数でいれば今でも近鉄のほうが優位という印象がある。「ひのとり」をはじめとして特急もバンバン出ているし。

亀山に到着。ここまで来ると関西本線の加茂行きに乗って大阪に戻りたくもなるが、ここから紀伊半島を一周。大阪に戻るのは翌日のことになる。現在の亀山駅はローカル列車が発着する駅だが、昔は戦前の伊勢神宮参拝もあり、その大半がこの亀山を通ったという。

『最長片道』当時は、近鉄や伊勢線のために「人の寄りつかなくなった旧家」のようにがらんとした雰囲気とある。その風情だけは今も残っているかもしれない。当時は三重県から各地に送られる小口荷物もあったようで、この時はミカンやら茶器やらにまじって、その中に島根県安来市行きの犬というのもあった。引き続きうらさびしい客車に乗り、7両で10人いるかいないかの客数のまま、津に到着。

『最長片道』本文には出てこないが、「取材ノート」には、津に泊まった大手チェーンホテルのレストランについて「やはりダメ」「『月給制の板前』はダメ。ソ連、中国でもダメだった」と書き、また余白の左頁には「『生活力のない男』の世界を書きたいから、中公を辞し、いま鄧小平」と書かれている。現在このホテルは別資本のホテルとして存在しているようだが、当時何があったのだろうか。「月給制の板前」というのは、レストランの係の人に愛想がなかったのか、料理が出てこなかったのかよほど不味かったのか、ある程度は想像はつくが、「いま鄧小平」というそのココロは一体なんだろうか。

(「取材ノート」は、『最長片道』本文では触れられない、宮脇氏の「毒」も結構含まれているようにも思う。旅の裏でどのようなことがあったのか、また宮脇氏の人間性の一端も垣間見られるところもあるが、読者としては「知らぬが仏」のほうがよかった面もある)

『最長片道』では翌日、ホテルの部屋の扉に新聞が差しこまれていて、大きな見出しで「大平総裁決定」とあったと記されている。この辺りは、私もいずれ現在読書中の『小説 吉田学校』でも登場する場面となる。

・・・さて、机上旅行に話を戻す。亀山からの鳥羽行き、当時の客車と違って現在はワンマンの気動車、それも最近登場したロングシート車である。見た目はJR東海の他の電車車両と変わるところはない。これで津、松阪を過ぎ、多気で紀勢本線の新宮行きに乗り換える。この時間だと特急「ワイドビュー南紀」の運転もなく、鈍行で行ってもそのまま早く到着する。ここは列車の中でのんびり過ごすことにしよう。

しばらくは紀伊半島と志摩半島の間の山中を抜け、荷坂峠を越える。紀伊長島辺りから太平洋も見え隠れするようになる。時間帯は17時前、日の長い季節なら海岸を見ることもできるだろう。この日は朝に日本海側の糸魚川を出発し、太平洋の黒潮を見るという場面転換が行われる。途中の木曽の山々や名古屋近郊の都市の景色も含めて、車窓を見る分には飽きの来ない展開だと思う。

新宮に到着。机上旅行ではここでこの日は終了。夜の部は、やはりマグロ、クジラ料理でしょう。そうした店は紀伊勝浦に集まっているのは承知のうえで、同じ商圏なのだから新宮近辺にもあるだろう。

翌日は机上旅行の通算で第20日、郡山からの再開から数えて10日目でようやく大阪に戻ることになる・・・。

 

 

※『最長片道』のルート(第19日)

(第19日続き)糸魚川12:04-(「白馬」)-松本15:07-(「しなの10号」)-17:42名古屋18:00-(関西本線~紀勢本線)-20:21津

(第20日)津8:20-(紀勢本線)-8:59多気9:10-(「はまゆう1号」)-11:37新宮・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第19日)

糸魚川6:01-(大糸線)-7:22南小谷7:27-(大糸線)-9:33松本9:52-(「ワイドビューしなの6号」)-12:01名古屋13:07-(関西本線快速)-14:09亀山14:16-(紀勢本線)-15:17多気15:23-(紀勢本線)-19:00新宮

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第18日(新潟~糸魚川)

2020年05月18日 | 机上旅行

こうしたことを長々と書く記事がどのくらい目に留まるのかはわからないが、早期に実際の旅行ができるよう、緊急事態宣言の全国での「適正な形」での解除を願って綴るところである。

一方でこんな連絡もあった。山口のJTBからである。

実は、現在ストップしている中国観音霊場めぐりだが、その先のコース、時期について事前に計画を組んでいて、その中で札所とは直接関係ないが、オプションにて山口県北部の元乃隅稲成神社、角島大橋というインスタ映えで人気となったスポットに行くことを考えていた。

これらは公共交通機関での訪問が難しい場所で、行くならレンタカーかなと思っていたが、山口のJTBが、新山口駅、湯田温泉を出発してこれらのスポットを回る日帰りツアーを実施している。連日土日を中心に企画されていて、8月のお盆休みの時期に合わせて申し込みをしていた(こうした状況になる前、2月の話)。

その元乃隅稲成神社だが、4月の緊急事態宣言を受けて「当面の間」参詣を中止して、境内や鳥居内の立ち入りが禁止されている。それは仕方ないとして、JTBからの連絡では、山口県の緊急事態宣言は解除されたものの、9月頃まで参詣中止を継続することになったという。そのため、それまでのツアーは全て中止、全額返金するとのことだった。理由は詳しく訊かなかったが、言っても山口北部の、安倍には清き1票を入れ続けた小さな漁村である。夏休みなどに大勢の人が押し寄せることが想定される中で、万が一のことがあれば・・ということなのだろう。

これが同じ山口県でも防府天満宮や瑠璃光寺、赤間神宮など、昔から全国的に有名な寺社ならともかく、この数年インスタで話題になった小さな神社である。本音のところではあまり多くの人に来てもらっても困るのかもしれない。それぞれ事情がある。私の中国観音霊場めぐりも早々に再開したい気持ちだが、それなら長門エリアはどう回るか。参詣再開を待つか、それとも飛ばして先に向かうか、また考えたい。

・・・さて、元々長文のところにさらに前置きが長くなったが、『最長片道』の旅の再開である。

『最長片道』では新潟から越後線で西に進む。砂地で住宅と野原が多い景色を、「取材ノート」では「南海電鉄の岸和田くらいか」とメモしている。いきなり岸和田という地名が出たのに驚くところ。内野を過ぎると穀倉地帯になり、夕日に映える弥彦山を見ている。

一方、机上旅行では夜も明けない早朝5時の出発である。前夜日本海の海の幸で痛飲して果たしてこの時間に出られるかだが、そこはちゃんと起床できたことにする。この時刻に出発するのは、後で乗る飯山線のダイヤの都合。越後川口9時03分に乗るのが目的で、これを逃すと4時間後の13時10分発になってしまう。

未明のうちに越後線を乗り通し、柏崎から信越本線で長岡の一つ手前、上越線の分岐駅である宮内を目指す。『最長片道』でも鈍行で宮内まで行き、上越線の列車を待つのだが、その間に特急「とき」「はくたか」が通過する。「取材ノート」では、「新潟方向へ向って『上野行』の表示をした『はくたか』が通過してゆくのも、おかしいし、宮内無視もいいところ」と記している。この「はくたか」は金沢発上野行きの特急だが、宮内を通過して長岡まで行って方向転換する。おそらく乗り換えの待ち時間ですることもなかったから、通過する特急に目が行ったのだろうが、この後東京に帰るのなら「はくたか」に乗っていたはずで、次の乗り換えの越後川口に特急が停まらないことへの恨み節もあるのかもしれない(特急利用でも、通過扱いの宮内~長岡間の運賃は不要)。

『最長片道』では上越線で越後川口に出て、20時前の列車で十日町まで乗って宿泊としている。泊まったのは駅に近い「百足屋」という旅館。わざわざ旅館の屋号を本文に出したのは、その由来をおかみさんに訊ねたというネタなのかな(宮脇氏の作品において、宿泊した旅館、ホテルの名前が文中に出ることは少ない)。ただその割には、「取材ノート」で「おかみさん、愛想わるくないが、全体に不潔な旅館」としている。

その「百足屋」、現在は「ホテルむかでや」という6階建てのビジネスホテルとして健在のようだ。ホームページでは、「何分、田舎のビジネスホテルなので高級ホテルのような豪華な雰囲気は味わえませんが・・・」とあるのは、うがった見方をすれば宮脇氏への当てつけ、あるいは臥薪嘗胆に見えないこともない。『最長片道』の時におかみさんの横でリンゴを丸かじりしていた女の子が継いだかどうかは知らんけど・・。

・・・机上旅行でもこの「ホテルむかでや」に泊まるのも一興かと思ったが、スケジュールの巡りあわせで通過となる。ただ、早起きして飯山線に乗ったのはいいが、十日町から先は2時間あまりの待ちとなる。現在では北越急行ほくほく線も通っていて、この先向かう直江津、糸魚川方面へはこちらが近道である。まあ、十日町はアートでの町おこしも行われていて、列車の待ち時間はそうしたスポットを見るのもいいだろう。

十日町からは新潟~長野の県境を信濃川~千曲川に沿って走る。『最長片道』では沿線の人家の屋根の形の多種多様さに注目している。現在では多くの家が建て直されているだろうが、雪が多いところには変わりない。途中、北陸新幹線の駅もできた飯山を通る。

豊野に到着。列車はこのまま長野まで行くが、ここから北に向かうために下車する。ここもかつての信越本線の一部だったが、北陸新幹線の開業にともない、しなの鉄道北しなの線に移管されている。この先は第三セクター区間が続く。まずは妙高、戸隠の山々を目指す上り勾配である。

妙高高原からは新潟県のえちごトキめき鉄道に移る。現在すべての列車が妙高高原で運転が分かれており、かつての信越本線の区間を通しで走ることはなくなった。

直江津に到着。信越本線、えちごトキめき鉄道、北越急行の列車が顔を合わせる交通の要衝である。私も旅程の関係で直江津に泊まったことが複数回ある。ただ夜の町というほどの町がなく、食事は駅弁・・・ということもあった。ただ「鱈めし」「鮭めし」「磯の漁火」など、今では北陸新幹線の上越妙高駅が販売の中心のようだが、こちら直江津でも改札口のところに駅弁のワゴンが出る。乗り換えの時間を利用していくつか買い求めよう。

直江津からかつての北陸本線、現在はこちらもえちごトキめき鉄道に入る。先ほどの妙高高原~直江津は「妙高はねうまライン」として、路線カラーは山をイメージした緑だったが、こちらは「日本海ひすいライン」ということで、路線カラーが青に変わる。また電化区間でありながら、途中の糸魚川で直流から交流に切り替わること、また沿線の利用客もそれほど多く見込めないことから、新しく投入されたのは気動車。それも通常は1両でまかなうという運転形態である。沿線は日本海の景色と長いトンネルが交互に繰り広げられるが、かつての本線、長い編成の列車が走っていた名残からか、それぞれの駅のホームは長く取られているが、今は1両の気動車がちょこんと停まるだけである。

糸魚川に到着。『最長片道』では急行「白馬」(金沢発大糸線経由松本行き)に乗り換えている。一方こちらの机上旅行では、17時を前にして糸魚川で中断とする。まあ、新潟を朝の5時に出たのだからここらで勘弁してもらおう・・。次に大糸線に乗るとしても、意地悪なことに直江津からの列車が着く5分前に南小谷行きが出たばかりである。夜の列車を乗り継げば信濃大町までは行けるが、そう無理をすることもないだろう。

一時は長野県にも入ったが、この日は新潟県の南西部をぐるぐる回って終わりである。行程地図を見ると逆Ωの形をしている。新潟県がそれだけ広いとも言えるが、『最長片道』の時とは異なり、新幹線はできたものの地域輸送がほとんど鈍行、さらに第三セクター化された現実を感じることになるようだ。

糸魚川の駅近くにも居酒屋、小料理屋はあるが、駅弁で晩酌というのも(過去にやったことがあるだけに)悪くないと思う。翌日は日本海から一気に黒潮の太平洋に向かうことに・・・。

 

※『最長片道』のルート(第18日続き、第19日)

(第18日続き)新潟15:09-(越後線)-17:31柏崎17:44-(信越本線)-宮内19:04-(上越線)-越後川口19:54-(飯山線)-20:31十日町

(第19日)十日町6:21-(飯山線)-8:47豊野9:24-(信越本線)-11:17直江津11:21-(「雷鳥16号」)-11:49糸魚川・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第18日)

新潟5:00-(越後線)-5:51吉田5:56-(越後線)-7:08柏崎7:48-(信越本線快速)-8:15宮内8:41-(上越線)-8:59越後川口9:03-(飯山線)-9:30十日町11:52-(飯山線)-14:17豊野14:36-(しなの鉄道)-15:06妙高高原15:10-(えちごトキめき鉄道)-15:59直江津16:13-(えちごトキめき鉄道)-16:55糸魚川

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第17日(越後湯沢~新潟)

2020年05月17日 | 机上旅行

そろそろ全体の半分に差し掛かる『最長片道切符の旅』。一度愛知県豊橋まで進みながら、飯田線、小海線、只見線などを通って福島県会津若松まで戻る、「阿呆らしさ極まって襟を正させるような趣さえある」区間をたどっている途中である。

さて『最長片道』では、只見線の小出5時36分発の始発列車に乗るべく、小出に泊まっている。おそらく当時も本数は少なかったのだろう。現在も小出から只見に向かうのは1日3本、手前の大白川まで向かうのが1本という本数である。小出からの始発列車が7時55分発とゆっくりなので、机上旅行では越後湯沢を朝出発しても間に合う。

只見線。小出、会津若松の双方から少しずつ開業して、最後に大白川~只見間が開業したのは1971年のこと。宮脇俊三氏はその開通日に会津若松から乗車して、只見の駅を埋め尽くす人と旗、そしてトンネルを抜けて田子倉ダムの水面が現れた時の車内の歓声が忘れられないと振り返っている。

新潟~福島にまたがる豪雪地帯を走ることもあり、開業したもののご多分に漏れず赤字ローカル線である。ただ険しい地形の中、並走する国道も冬季には通行止めとなり、地域の唯一の足になることから廃線を免れたという歴史がある。ただ時代が変われば何とやらで、現在では紅葉や雪景色で人気のローカル線となっており、インバウンドの客がわざわざ訪れるという。JRも観光列車を走らせることがあり、私もトロッコ列車に乗ったこともある。

その只見線だが、2011年7月の豪雨により橋梁、路盤が流出して、小出~会津坂下間が不通となった。特に被害が大きかった只見~会津川口間は当初復旧工事も行われず、東日本大震災の影響による費用面からJR東日本も復旧には否定的だった。地元でも賛否両論あったようだが、最終的には「上下分離方式」での再開に向けてJRと福島県が合意した。鉄道施設は福島県が保有し、列車の運行はJRが行う形である。やはり豪雪地帯ゆえに、現在は整備されているとはいえ国道が通行止めになるリスクがあることから、鉄道という選択肢も残しておくということだ。全線開通は2021年度を目標としている。

その前の机上旅行では、同区間は代行バスで結ぶことになる。只見に9時15分に着くと9時25分発の便があるが、これに乗っても着いた会津川口で2時間待ちとなる。次の11時25分発の便でも会津川口で16分の接続で同じ列車だ。こういう場合どうやって行程を調整するかだが、この机上旅行では、途中の会津塩沢で途中下車することを選択する。

実際に下車したことがないので何とも言えないが、この駅の近くに河井継之助記念館がある。継之助は幕末の長岡藩家老で、戊辰戦争では当時日本に3門しかなかった「ガトリング砲」で薩長方に応戦するも敗れ、負傷して越後と会津を結ぶ八十里の道をたどって会津に逃れる途中、この塩沢で亡くなった。その生涯は司馬遼太郎の『峠』などで描かれ、幕末の悲劇のヒーローの一人としてドラマでも有名な俳優が演じたりする。

・・・もっとも、この記念館が開いているのは4月下旬から11月まで。この机上旅行は何日に行うかということは考慮しなかったのだが、まあ冬季なら冬季で厳しい冬の雰囲気を体感するのもいいだろう。

会津川口からは会津盆地の西側を進み、会津若松に到着する。まずは磐梯山を眺めつつ西に向かう。『最長片道』の中で宮脇氏は、磐梯山を見て小原庄助を連想する。「朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上つぶした」と民謡に唄われる人物。宮脇氏も朝寝朝酒はしないとしながらも、汽車ばかりに乗っていて多少身につまされるところもあるようで、「この旅行が終わったら精々頑張らねばなるまい」としている。

喜多方を過ぎたあたりが『最長片道切符』の13319.4キロの中間地点という。日本の国土は狭いとよく言われるが、その中で多くの鉄道路線が張り巡らされていることを感じる。

「取材ノート」では会津若松からの急行でビールを飲みながら車内観察をしているようだが(あれ?朝酒ではないがしっかり飲み鉄しているな)、阿賀野川に沿って進み、新津に到着。『最長片道』はまだ昼すぎの時間だが、(1日先行しているとはいえ)机上旅行ではそろそろ夕方である。このまままっすぐ新潟に行きたいが、ルートではいったん羽越本線で新発田まで出て、白新線で新潟に向かう。新津で1時間近く待ってからたどることになる。白新線は暗くなってからの乗車だが、ここまで来たのだからそのまま新潟に向かう。

『最長片道』では、小出の出発が早く、そのまま列車を乗り継いだこともあって、1日で小出から会津、越後をぐるりと回って飯山線の十日町まで進んでいる。一方机上旅行はその半分くらいしか進めなかったが、只見線の代行バスや途中下車という別の楽しみもできたのかなというところである。

これで広尾から枕崎という『最長片道切符』の行程の半分が終わり、また久しぶりに日本海側に出たこともあり、ここは当然日本海の海の幸、また新潟県は山の幸も豊富なので、また一献となる。机上旅行だからよいとして、これ実際にこの通り旅に出て、夜の部で各地の美味いものを食べまくったとすれば通算でいったいどのくらい費用が飛んで行くのか、ヒヤヒヤするところだろう。小原庄助のように「身上つぶした」ということにならなければいいが・・・。

 

※『最長片道』のルート(第17日続き、第18日)

(第17日続き)小諸12:22-(「あさま8号」)-13:36高崎14:14-(上越線)-16:54小出

(第18日)小出5:36-(只見線)-10:05会津若松10:46-(「あがの2号」)-12:52新津13:12-(羽越本線)-13:46新発田14:02-(白新線)-14:44新潟・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第17日)

越後湯沢6:32-(上越線)-7:16小出7:58-(只見線)-9:15只見9:25-(代行バス)-9:40会津塩沢11:40-(代行バス)-12:15会津川口12:31-(只見線)-14:21会津若松14:33-(磐越西線)-17:11新津18:05-(羽越本線)-18:34新発田18:48-(白新線)-19:35新潟

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