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山登り

2005年06月21日 13時44分35秒 | 山紀行
山登り                 2005.02.08

 山登りが趣味だ。趣味と言えるレベルがわからないが、山から下りてきた後の温泉で「来月はどこに行こうかな」なんて考えるのだから、趣味といってもいいのだろう。
 山に登り始めたのが大学生の頃。丹沢の表尾根にちょくちょく行くようになったのが始まりだろう。その頃は自分の体力を測りにいくような山行で、いつも同じコースを歩いてた。「前より楽に塔が岳まで行けた」とか「今日はバカ尾根の下りでまいった」とかの感想しかもてなかった。バリエーションルートを探すわけでもなく、趣味とは言えないレベルだったろう。
 この頃、ひまにまかせて登山の本を読むようになったことは今に繋がる出来事だったかもしれない。ヒマラヤ8000m峰が登られていく紀行文を読み漁って、自分がその主人公であるような興奮を覚えてた。世界の山名や世界的登山家の名前も覚えた。しかし、自分の山行は別段進化することなく学生時代を終了し、社会人になった。
 確か入社した年の初秋だと思うが、周りの先輩が穂高に行く計画を始めた。なんで自分がそこに参加するようになったかはさだかでない。おそらく僕のことだから、山の事で知ったかぶりした会話を日頃してたのだろう。「あいつも山に興味ありそうだから、入れてやれ」くらいでメンバーになったのだろう。この山行は僕にとって初めての本格的登山で、泣きたい位辛かったのを覚えている。河童橋から岳沢小屋までの登り。小雨の中、30kg(確かではないが、おそらくそれ位)ほどのリュックをしょって、プロについて行かねばならん登山は苦しいだけだった。先輩が短パンで傘をさして、先頭を漂々と登る姿が憎かった。岳沢小屋に着いたときは達成感より、ほんとに泣きたかった。テントで寝て、翌日前穂、奥穂と登って、下山。岳沢からはまた思い荷物をしょっての下山だった。
 次に訪れた山行の機会は入社3年目。穂高を短パンで登った先輩とネパールへヒマラヤをみに行こうと計画を始めた事だった。1年後の5月の連休に有休をくっつけてヒマラヤトレッキング。仲間を募り、我々で団体を組んで行こうと始めた。計画を練ってる段階で私の結婚が決まり、この山行が我々の新婚旅行を兼ねる結果になるのだが。ポカラからゴラパ二峠までをトレッキングしてきた。マチャプチャリ、アンナプルナ、ダウラギリがすごかった。
 1977年にこんな体験をしたことは驚異的なことだったはずだが、僕としては山にのめり込んでいくきっかけにはならなかった。これからしばらくは子育てとクラブ活動としての野球にはまってて、山どころではなかった。
 40歳で野球の現役を引退すると、体を動かす機会が少なくなったこと、子供も手がかからなくなり、自由になる時間が増えたことで、空いた時間の消化手段が必要になった。なんとなく奥さんと2人で山に行くようになったのはこの頃からではないだろうか。丹沢もいろんなルートから歩いた。
車にテント道具を積んで登山道入り口の駐車場に行き、その日は車の後ろにテントを張って寝、翌朝早く山に入る山行を繰り返していた。この頃八ヶ岳を歩き回った。鳥海山、月山はこの頃の思い出の山だ。白馬、杓子、白馬鑓へは長女を連れていった。アイゼンを買おうと決めた山だ。北岳には次女を連れていった。これでわが国の1,2,3位の山に登ったことになる。
家族で白山にもいった。雨にたたられ、全員ずぶ濡れで逃げ帰った。雨具の重要性を思い知らされ、ゴアの雨具を買うことにした。飯豊に行ったのもこの頃だ。あそこも雨だったな。ログのペンションを見学がてら、唐松五竜も歩いた。新宿から夜行で行った燕岳・大天井・蝶が岳、北アルプスの稜線がきれいだったな。
 この当たりから「趣味の山」になったようだ。一方でゴルフに対して興味をなくし、やらなくなった。もうひとつ、里山での小屋暮らしを夢見始めたのは必然だったようだ。
 1998年に待望の小屋を白州にもった。M夫婦、Y夫婦という山友達ができ、小屋を基点にますます山に行くようになった。Yさんから催促されるように毎月山行予定を作るようになる。毎年1月の雪山も恒例になった。白州を基点にすると、北アルプス、八ヶ岳、中央アルプスがグランドになった。八ヶ岳は北の蓼科から南の清里まで繋がってしまった。5月の立山、日本にもこんなスケールの山があるんだと感激。夏の空木、嵐で小屋が飛ぶかと心配した。爺が岳・鹿島槍、雨飾山、火打・妙高、燧ヶ岳・尾瀬、会社の登山クラブでも那須、安達太良、谷川等も行った。
 日本狭しとよく行ったもんだ。日本百名山も40数山登ってきたことになる。
 今どうしても行きたい山が2つある。
 ひとつは甲斐駒ケ岳。僕の友人的山だ。白州の小屋の裏に聳えてる。なぜ友人かというと、これまで4度計画するも登らせてくれない山なのです。1回目は1998年、小屋を持った年です。記念登山とばかりにM夫婦、Y夫婦と計画したのですが、実行2週間前に突然の大病。緊急手術、入院。これでは行けない。その後毎年のように計画するのですが、天候に恵まれず登ってません。
 あとひとつは槍ヶ岳。山を趣味にしてる日本人なら登って見たい山ですよね。
 まだまだ生きたい山はある。剣岳、利尻岳、上州から関越の山もいい。
山は逃げていかないし、なくならない。心配は自分の体力がなくなることだ。人が2日で行くところを3日でいけばいのです。これからは時間があるのだから。まだまだマイペースで山を楽しみたいもんだ。
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