カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ほぼトラ、になった世の中

2024-07-17 | HORROR

 ちょっと前までは「もしトラ」と言って揶揄していたわけだが、銃撃事件が起こり「ほぼトラ」「確トラ」という言葉まで飛び出してきた。ふつうにみて、確かにトランプで決まりそうだと誰でも思っていることだろう。「トランプを大統領にするために、神が彼を助けた」と言われるほどのアメリカン・ヒーローに上り詰めているからだ。
 トランプが大統領になるとどうなるか。関心は実際のところそこである。いちおうトランプの言動を信じるならば、中国との対立がさらに明確になり、保護主義的なアメリカの姿勢がさらに加速するだろう。移民受け入れも厳しくなろう。地場産業にも補助金を出すだろうし、金持ち優遇の税制になり減税もやるし、軍事力も増強するだろう。もちろんこれはバイデンだったとしても、基本的には同じなのだが、その加速の度合いがより明確化するので、他国への影響力も大きいとみられる。もちろん日本にとっても、ということになる。それによりアメリカがより強くなると表面的に考える大衆はあるだろうが、アメリカの強さは自由さにあるのは間違いないことなのだ。だから長期的には、徐々に停滞の道を歩むことにはなるだろう。それがトランプの4年で収まるのかは分からないが、これも他国に影響があることだろう。逆説的に、中国がさらに強くなるかもしれない。
 しかしながら、良い面は無いのだろうか。実際は、アメリカ大衆がいちばん望んでいるのがトランプなのである。いったんその望みが叶うのだから、そうした目先の失望よりも、さらに大きな期待の方が勝っていることには間違いない。トランプは日本の側からすると間違った人だが、アメリカ内部からすると正しいことを実行できる人だ。そういう意味では、アメリカのためになるのだから、好転するものも、それなりにたくさんある。アメリカによる世界の均衡のバランスは揺らぐかもしれないが、アメリカ国内だけは、そんなの関係ねえ、と言えるわけだ。本当にロシヤはウクライナに勝つかもしれないし、中東の衝突も激しさを増すかもしれない。アメリカは巨大な資源国だから、そういう意味ではさらに輸出を伸ばすかもしれない。その恩恵を受ける人も少なくないということだ。
 そうだとはいえ日本にしてみると、対立している米国のものより、協調しているものの方がはるかに多いのである。だから影響を受けて困ることにもなるのだが、一方でアメリカ協調が良い面も当然ある訳だ。例えばさらなるドル高は、関税を越えて日本に有利になる場合もあるかもしれない。アメリカの期待値のある株価の高騰は、他国経済も潤すかもしれない。北米に舵を切らざるを得ない国際企業の同調もあるということを考えると、日本を離れる企業の方が、多くなるかもしれないが。
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乾杯の前と宴会(その3)

2024-07-17 | 散歩

 本日参加組もそれなりにいるし、各自ホテルを取ってもらった関係もあり、いったん散会する。まだまだ外は雨で、いくらか雨脚は弱まっている感はあるものの、歩きにくい。懇親会場は遠く、まだ時間もある。待てないという声もあって、懇親会場の居酒屋の入っているビルの別の居酒屋で、乾杯の練習をすることになった。
 5時前だというのに既に別の客がいくつか居て飲んでいる。僕らのような背広組で、僕らのような人々なのかもしれない。実際の懇親会があるから乾杯の練習のあては腹にたまらないものということで野菜や枝豆などを食うが、やっぱりタコを食べようとか、なんだか焼いたものだとか、珍味だとか、気が付いたら一時間ちょっとで一人4000円。ビール2杯とサワーとかハイボールとかで、それなりにいい気分になってしまった。
 エレベータをさらにあがって、また注文受けていろいろ飲んで、もうあまり食は進まないという気分になったが、話の方は大盛り上がりで、ジャンジャン飲み続ける。ちょっと狭い会場だったし、移動がしづらく複数人と絡みにくかったが、それなりに皆騒がしかった。終わりに記念撮影して本当に散会。もういいだろうってことで、コンビニでワイン買って飲んだ。雨の所為なのかエアコンが壊れたという人の部屋があって、変えてもらったらしい。雨がひどいといろいろなことが起こる。
 翌朝は、一転晴れている。路面は濡れているものの(水たまりが結構ある)、やはり歩きやすい。気温が上がっている感じもあって、歩くには嫌な予感がするが、スイスイ会場について、朝のセミナーの準備をする。講師の先生も早々に着いて、雑談する。ここはそれなり便利だし来やすいところらしい。会員の一人はこの辺りに住んでいるそうで、自転車で数分だという。ここから都外に通勤しているということで、まったくいろんな人がいるもんだ。先日友人と飲んだ時も、この近辺に子供たちが住んでいると言っていた。学生だったり就職したりすると、この辺りに住むと便利なのだろう。ちょっと入ったら結構住宅がある訳で、土地を買ってまで住むには金がかかるのかもしれないが、ちょいと住むには勝手がいいのだろう。
 しっかりお勉強して(いやはや、ほんとにしっかり勉強してためになりました)、皆さんとお別れして、講師の先生や役員を伴って昼食会場へ移動する。遊園地の下をくぐってドーム球場の下の中華屋さんでランチ。僕らが座ると同じく、ドドドッと人がひしめくように店内に入って来て一杯になる。さすがだなあという感じか。講師の先生はフカヒレが有名といっていたが、ランチなのでホイコーローだった(もちろんスープもデザートもついていたけど)。
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二日目はほとんど缶詰だった(その2)

2024-07-16 | 散歩

 ホテルの朝食は冷凍食品を部屋のレンジで温めて食べるもので、ごはんも小さい弁当箱のような炊飯器で炊く。水分量を間違えたのか、なんとなくごっちんだった。それにやはり冷凍食品の所為なのだろうか、焼き鮭は何とかなったが、豚汁は今一つの味である。時間もかかるし不便だし、これは不評であった(それなのに翌日もパンの方を食べてしまった。パンは食べられたが、ミネストローネのスープは今一つなのだった。おそらくだが、野菜たっぷりでヘルシーさを出しているのだが、冷食なので今一つなのだろう)。
 当日はあいにく朝から雨で、移動が大変だった。東京は地下鉄が便利なのだが、いくら駅から近い場所であったとしても、いったん外に出なければならなくなると、雨には降られる。それもそれなりの雨量である。ホテルから会議室会場まで10分くらい歩いただけで、足元も肩回りもびしょ濡れになってしまった。朝は通勤通学の人の流れもあるし、実際の人以上に傘で込み合い歩きにくかった。
 まだ交差点にはデカい選挙用ポスターの看板が設置してあって、さすがに東京の選挙はたくさん出るんだろうなあ、と思ったが、後で考えると都知事選だけで、これだけのスペースを埋めるのか、と思うと驚くばかりだ(後に50人以上が出馬したらしいと知った。あの掲示板でも足りなかったのだ)。昨日とは打って変わって雨で気温が下がり、背広を着ていても汗は流れない。しかしながら雨でぬれているので、エアコンが効きだすと微妙に寒いのだった。
 朝は専門部会の会議で、三つの島をテーブルで作り、それぞれで話し合いをしてもらう。僕は流れで広報に混ざっている。ふた月ほど前にズームで話はしていて、今回発行の分はだいたい出来がっている。少し趣向を変えた特集などがあって、思った以上に成功している感じだった。校正が済んだらひと月もたたないうちに発行できるだろう。今後の特集の企画案なんかもあれこれ出して、年に三回発行の記事の案はだいたい出来上がる。依頼先の担当も決めて役割分担を終える。入れ替わった人もいて引継ぎもできたようだった。
 午前が終わって昼飯なのだが、これも雨である。参加者も増えてきて、それぞれバラバラに店を探して散っていく。僕らは坂道を下った先のファミレスに入った。ふつうのチェーン店で、ロボットが料理を運んでいる。トマトソースのパスタを食べたが、思った以上にもっちり緬で、なんだか食べにくいのだった。こういうのが巷では流行なのだろうか。支払いはペイペイで、これも店員がいないのだった。
 午後は運営委員会で、久しぶりなので自己紹介だけでも40分。それなりに皆まじめに会議ができた。決め事もちゃんとできた。協議会で実施している会員調査の内容がちゃんと評価され、会員施設はそれなりに恩恵を受けているところが多いことも知った。さすがにちゃんとやっている事業所が多い団体なのである。素晴らしい。うちも頑張んなきゃな。
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水道橋近辺を行く(その1)

2024-07-15 | 散歩

 久しぶりに出張で上京した。今回は事情があって水道橋に会議室を借りた。事情と言っても単純で、都合の広さの会議室が安くで予約できたためである。会議は午前からの予定だったので、準備もかねて前泊した。会議の場所は水道橋から本郷三丁目駅方面へ少し上ったところにあった。少し分かりにくい面構えだとはいえるが、交番も近いし(後で知ったが、交番の窓に会議場の道案内地図が張ってあった。よく聞かれるという事なんだろう)、なんとかなるだろう。
 今回は夜には居酒屋での情報交換会(懇親会)もあるし、また翌日もセミナーをやる。セミナー講師と昼食会も別会場だ。道を挟んで先向かいには、後楽園の東京ドーム球場がある。遊園地の遊具も見える。ひときわ目立ってそびえたっているのは、東京ドームホテルである。155m、43階建て。東京は高層ビルが多い訳だが、それでもこの地区では高さが際立っている。懇親会場はJR水道橋駅の西口近くのビルで、昼食会場は後楽園飯店だった。会議場からは徒歩10分はある。この日は6月とはいえうだるような暑さ。それらの会場を確認のため見て回るだけで、汗でドロドロになってしまった。おそらく最短ルートも分かったし、確認したらどこか見学しようか、ということになった。
 地下鉄にのってどこかに行ってもいいのだが、近くで、と言われたので、じゃあほんとに歩いて行けるところで、神保町の古本街ということになった。僕としては若い頃の出張のなじみの場所だ。それに散歩として歩数を稼ぐには都合がいい。水道橋は神田川に架かる橋である。歌に聞く神田川は風情がありそうだが、実際には深い溝に流れる水路のような濁ったものだ。その上に高速道路なんかが交差したり蓋したりしていて、鬱蒼という感じである。
 それを抜けて神田方面には多くの学校があるようで、いわゆる大学が立ち並んでいるという感じになっている。だからなのか古本屋だとか、カレー屋だとか蕎麦屋、喫茶店なんかが結構ある。中古レコード、楽器店、スポーツ用品スキー用品なんかも目を引くところだ。学生が立ち寄るところに僕らも立ち寄らせてもらう、ということか。小さな出版社も結構あるようで、聞いたこともない出版社の名前の看板が、あちこちにある。ビルの何階かに事務所や古本店などが入っている様子で、まさしく混沌としている。だんだんとそういう街並みの様相を眺めて、有名なスズラン通り等も冷やかした。別に本を買う目的でもなかったので店先の安売りの本を眺めた程度なのだが、この混沌ぶりは理解してもらえたのではなかろうか。
 ひときわ目立っていた三省堂のビルは、建て替えのためなのか平地になっていて、着工の準備がなされていた。実際に古本店を冷かしているのはご年配のリュック姿が多く、本を漁っているのは今は若者ではなく常連の老人なのかもしれない。歩いている若い人はいるが、店には高齢者ばかりなのだった。まあ、僕も今となってはアマゾンばかりなのだが……(若くも無いし)。
 さすがにつれの人にも疲れが見えて、帰りは電車一駅利用した。宿泊先ホテルに一休みして、その後食事となった。他にも前泊しているという情報のある別の同業の人を誘って、居酒屋で一献。久々に会うこともあって、なかなかに愉快な夜となった。もう一軒も居酒屋のはしごで、なにか日本酒とか奇妙なものを飲んだ。怪しいガールズバーなどがあるのは見て取れたが、もう怪しいのはいいか、ということでコンビニで解散したのだった。
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梅の不作

2024-07-14 | Science & nature

 ニュースをみていると、梅の産地である和歌山では、記録的な不作なのだという。今年の冬は暖冬で、花が早く咲いて、雌しべが短くなるなどして受粉がうまく行かなかった。さらに春先に雹の降る被害もあり、未熟な実が落ちただけでなく、傷もついた。数も少ない上に、実のきれいなものも少なくなり、例年より高値になっているという。
 別段梅を漬ける家庭では無いので、今のところ実害は無さそうではあるのだが、先に梅干し自体が高値になるという事でもあろうし、数自体が希少になっていくかもしれない。よく知らないが、何年も在庫で漬けているようなところは、商売のチャンスかもしれない。
 実は梅が不作では無いかというよりも、自宅の梅がほとんど実をつけていないことには気づいていた。梅はずいぶん寒い時期には既に花をつけるもので、確かに暖冬というのもあったかもしれないが、ふつうに2月ころには咲いていた。以前からこんな早くに咲くのであるから、春の昆虫以外でも需要があるのかもしれないとは考えていた。梅の樹には鳥が結構やって来るので、そういう動物なんかも、受粉と関係があるはずである。雌しべの長さを気にしてなかったけど、それらの鳥の行動に合わない花の咲き方をしたということなのかもしれない。僕はてっきり何か害虫的な虫が付く時期があったのかもと疑っていた訳で、これが全国的なこととは思ってなかった。また庭の梅の木は、選定などの手入れはまったくしてない。母がまだ若い頃に植えた木だと思うので、梅の木自体が弱ってしまったのかもしれないとも思っていた。梅の実がたくさん生っているのは、風物詩ではあろうけれど、放っているのですべて落ちてしまう。なんとなく無駄にしているようで、心が痛まないではない感じでもあった。地面に落ちた梅は黄色から赤っぽい色に変色し、だんだんと腐ってしぼんでいく。そうなるともう近寄りもしないので、終わったな、と思うと梅雨も明ける、という感じだったろうか。これを書いている時期は、まだ梅雨入りさえしてないのだけれど……。
 子供のころには、この梅をたくさん漬けて、時折ザルに干していた。実際梅干はそうやって干すのである。最初に漬け込む作業は母がやっていたのでよく覚えていないが、干す作業は手伝っていたように思う。時期的に雨が多くなるころだから、雨が降りそうになると部屋に干した梅を取り込まなければならない。さあ降ってきた、となると、ワーッと言って梅を干したザルを運ぶ。なんだかそんなことが楽しかったような……。あとは大きな瓶に詰めた梅が、シソの赤色に染まっていくのをときどき眺めに行く。梅干は酸っぱい訳だが、眺めているだけで、なんだか口の中が酸っぱくなっていくような気分になったものである。塩分の加減の所為なのか、自家製の梅は、買って来るものより特に酸っぱいのであった。
 朝ごはんの締めには、一粒の梅干を食べている。高騰したら食べられなくなるのだろうか。代替品が出回るのだろうか。まだわからないが、やはりありがたいものなのかもしれない。
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先のことで目の前が曇る

2024-07-13 | 感涙記

 平日であれば軽く食事してから3、40分外に出て散歩する。そうして夕方家に帰る前にまた3、40分歩く。雨が降ればやめるが、小雨程度なら歩くかもしれない。夕方は用事のある時は歩けない。昼は、夏場は馬鹿らしくて諦める。以前は朝にも歩いていたが、朝歩くのは出張中くらい。朝食を食べて少し外に出る。そうすると便通によろしいような気もする。習慣ではあるが、しかしこれは少し無理して出ている感もある。面倒くさがりなので、本当は勤勉めいて歩きたくはない。カントでもないし、決められたことを几帳面にするタイプではない。だからそれなりに自分を奮い立たせて外に出る。でも不思議なもので、いったん歩き出すと、そんな気分でいた自分を忘れる。外は気持ちいい場合もあるし、いろいろと発見もある。鳥の声が心地いい時もあるし、花だって咲いている。季節の移り変わりも、実感として体感できる。日々の変化は着実にあって、同じ日なんて一日もない。
 僕のように歩いている人もたびたび見かけるが、ただ歩いている人より、圧倒的に犬の散歩をしておられる人が多い。昼はともかく、夕方はそれなりに多い。大型犬は最近はあまり見かけなくなった。以前ならレトリーバーが結構いたものだが、ここいらは南国でもあるし、世代交代したのかもしれない。そうしてちょっと前まではミニダックスだったが、これもずいぶん減った。柴犬は一定数いるが、雑種もそれなりである。というか、保護犬なんだろうか、時折家族でそのような犬を飼っている人を見かける。そうして圧倒して多いのは、トイプードルである。これも大きさはまちまちだが、ずいぶん小さいものと、中型犬くらいデカいものもいる。カットの仕方も様々で、エレガントから自然派まで一通りある。流行があるのかは知らないが、体にハートマークが入ったカットの犬もいる。茶色が特に多いが、黒もいるし白っぽいのもいる。日本の犬の半数以上が、トイプーになってしまったのではなかろうか。
 先日テレビを見ていたら、イタリア料理家のお宅での様子が流れていた。ソファーには犬のぬいぐるみがたくさんあって、最初はスヌーピーかな、と思っていたが、後になってこの家で飼っておられた犬に似たぬいぐるみだとわかった。ジャックラッセルで、目の周りだけが黒い短い毛の個体だったようだ。そのような犬は非常に珍しいようで、実物は探してもとてもいない。もう亡くなられているようで、いわゆるペットロスでもあるらしい。お話をしながら、思い出すとうっすらと涙が出てくるとのことで、実際光るものがあったようだ。まだまだ年齢的には60代といったところだろうから、また飼えないことは無いとは思うのだが、こればっかりは当事者でないと分からない感覚なのかもしれない。
 それというのも僕らだって、二年近くのペットロスの時を経て、やっと今の睦月ちゃんを飼うに至った訳であるし、僕らの今の年齢を考えると、この子がおそらく最後になるのではないかと推察される訳である。そう考えるだけで胸が締め付けられる思いがするし、実際そう考えながら車の運転をしていたら、涙があふれて困惑したこともある。まだ生きているにそう思うのだから、実際そうなってしまったら、いったい僕らはどうなってしまうのだろう。
 しかしまあ考えてみても仕方がない。絶対考えないようにするのはこれもまた困難だが、出来るだけ考えないようにすることは可能だろう。何しろ今は元気で、まだまだ先の話である。今を生きるだけでずいぶん大変なんだから、先の事なんてどうだっていいではないか。
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だんだんとしあわせの道を行く   日曜の夜ぐらいは……

2024-07-12 | ドラマ

日曜の夜ぐらいは……/新庄毅彦・朝比奈陽子・高橋由妃・中村圭良監督

 皆生活に不満があるというか、なんとなく恵まれない境遇にあえいでいる状態にある3人の女性を中心にお話が進む。三人は、あるラジオ番組が企画した聴視者を集めた旅行に参加することにより知り合う。そこでは普段の生活を忘れさせる楽しさがあり、友情が深まり、いわば特殊な人間関係が育まれる。そうして三人は、思い付きで宝くじを一枚ずつ買うが、その中の一枚が、それぞれの不幸な境遇にいる三人を変えることになるのだったが……。
 一人は車椅子の母と共に、バイトをしながら公営団地に住んでいる。とにかく普段から、笑顔になることはほとんどない。一人は祖母と共にちくわぶ工場に勤めている。嫌な上司もいるし、友人は皆無。過去に家庭の事情を抱えている様子である(後にひどい母親の存在が明るみに出る)。もう一人はタクシー運転手。元ヤンキーで本来は明るい性格のようだが、客との会話はちぐはぐになり、思うような接客や運転ができない。これも過去に何らかの家庭内の事件があるようだ(家出か?)。
 一人は車椅子の母の代理だが、他の二人はふだん聞いているラジオ番組の番外編のバスツアーに参加することになる。最初はぎこちないところもあるのだったが、気が付くと爆発的に仲が良くなり、これまでに感じたことのない充実感と楽しさを満喫するのだった。しかしバスツアーが終わると、当然元の生活に戻ってしまう。そのギャップが怖くて、三人は連絡先も交わすこともなく分かれてしまうのだったが……。
 ところが再度三人を引き合わせるのは、宝くじのあたり券だった。団地娘が律義にも、当たった券の賞金を三等分することを伝える。彼女らは一人一千万円ずつ手にすることになる。それだけでも凄いことなのだが、そもそも三人ともろくな境遇に無い。最初は無駄な支出をせざるを得ないことになり、なんだかそのままでは何にもならないことを身をもって知ることになる。だが幸い最初に少し無駄にしたにせよ、一人一千万だ。三人は共同して店を開くことにするのだった。
 見終わった今になって考えてみると、観ているときには少しくらい危うい感じの事件も起こっているにもかかわらず、何かとても平和で、満ち足りていて、いい人ばかりが居たような印象を受ける。宝くじで大金を手にするだけでもずいぶん危うい話なのに、これ以上健全な展開は無いのではないかとさえ思えてしまう。
 そうしてこれだけ年頃の男女がたくさん出てくるにもかかわらず、何か恋愛めいた展開がまったくないのである。いや、発展してもいい感じにもなるのだが、いわゆるセクシーな方には行かないというか。そういうドラマではないというのは分かるが、ここまで徹底して恋愛を排除した物語というのも、珍しいのではあるまいか。
 とにかく不思議なテイストがありながら、いつの間にか最後まで見続けてしまった。それはもう、面白かったという事になるのだろうか。
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日本からの外来種が海外で暴れている

2024-07-11 | Science & nature

 英国では日本からの外来種であるタデ科の植物イタドリが、猛威を振るっているという。あちらではジャパニーズ・ノットウィード(日本タデ)と呼ばれている。江戸時代にシーボルトが持ち帰って、英国に投機目的で送ったという記録があるという。最初は観賞用であったが、その後強い繁殖力で猛威を振るうようになり、今ではすっかり困った嫌われ者になっている。イタドリが植わっている土地は価値が下がり、もしイタドリがあるとわかっている状態で土地や家を売買すると、高額な賠償金を支払わなければならない法律まである。イタドリの駆除に何億円ものお金をかけて、行政が処分している現状もある。それでも完全なる駆除は困難で、イタドリは地下茎が少しでも残ると、休眠後にあらためて再生すると言われ、その後コンクリートも突き破るなどして成長し、繫茂する。イタドリが生息するとわかると土地の価値が暴落するので、専門の業者などを雇って駆除するより仕方がない。しかしながら完全駆除は非常に困難だから、後になってイタドリが成長してしまうと、膨大な額の損害賠償を請求される。小さな社会問題などではなく、ヒステリックな恐怖問題といえるようだ。
 過去にも紹介したことがあるが、日本発の外来種が海外で猛威を振るい人々を恐怖に陥れている例はたくさんある。有名なのは鯉だが、海外の川などの淡水の生態系を大きく変化させてしまっている。最初は観賞用などでもてはやされたのかもしれないが、もともと錦鯉などは人為的に改良されたものであって、自然に帰ると地味になり(捕食されないように)逆に天敵のいない環境で猛威を振るう訳だ。英国のイタドリは、まさにそのような環境下でイタドリにとって有利だからこそ、猛威をふるえている訳である。
 もちろん日本のイタドリも、時に新しく舗装された道などから伸びあがりアスファルトを破壊したりしているのを見かける。定期的に刈られるなどして保全されているようだが、またなんども生えてくるようだ。しかしながらイタドリ以外の雑草などの環境もあるのだろう。イタドリのみが広範に繁殖するようなことは、日本の自然環境にはないようである。イタドリを専門に付く寄生虫などもいるという。英国もこの寄生虫を輸入して対抗しているようだが、日本のように根付くものなのだろうか。他の生態系に影響が出る場合だって考えられるだろう。イタドリを人為的に移植したからこそ問題が起きたわけで、それをまた人為的に操作しようとしても、また別の問題が起こる可能性があるはずである。日本発なので気になるところではあるが、人間の行いが自然を変えてしまうのは、このような問題だけではない。その罪は重いものがあるけれど、人間の側が選択してもろくなことにはならない。少なくとも人間には、あまり学習能力が無い。外来種問題は、そのような宿題を人間に見せつけている事象なのである。
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思いは届けなければ   エゴイスト

2024-07-10 | 映画

エゴイスト/松永大司監督

 東京のファッション誌で働く浩輔は、ジムでパーソナル・トレーナーの龍太と知り合い、二人は惹かれあっていく。浩輔は田舎ではゲイであることを隠し通しているが、母を亡くし、老いた父が田舎で暮らしている(時々顔を見せてはいる)。一方龍太の方は母子家庭で育ち、母親と二人暮らしだ。そうして実は、主な収入源はウリ(売春)によるものだった。浩輔は何とか龍太を支援しながら、母子二人暮らしの生活を支えたいと思うようになるのだったが……。
 基本は二人の恋愛劇だが、後半はその龍太の母親との交流が描かれる。ゲイ同士なのでいわゆる普通の家庭は持てず、しかし家族づきあいはちゃんとしたいということなのだろうか。政治的な葛藤の話では無いが、浩輔は比較的成功して裕福で、ゲイの友人たちもたくさんいる。一方の龍太は、まじめに働いてはいるものの、大きな収入を得るほどではなく、老いた母親と二人暮らしはつつましいもののようだ。しかしながら東京で暮らしていくためには、体を売らなければやっていけない、ということなのかもしれない。浩輔との恋愛は本物だが、頼り切るというのも遠慮を感じているのだろう(特に金銭的援助をうけることに)。そうして事は急展開する。
 ファッションや仕草もあって、すぐに皆がゲイであることは見て取れる。そうして、セックスシーンもふんだんにある。まさに体当たり演技合戦ということになるのかもしれない。おそらく出ている俳優さんたちは、本物のゲイではない。しかしこれらを演じようと決めた、何らかのメッセージ性はあるはずである。仕事とはいえ、お金のためだけではないのではないか。さらに時代性があり、以前よりもゲイの演技に対する障害も、少なくなっているのではないか。それでもあえて今これらを演じることに、時代に対しての自らの解答があるのではなかろうか。観ながら、そんなことを感じさせられることになる。いわゆる皆、大変だけど上手いのである。そうして以前の僕と比較しても、捉え方が自然にあるようにも思う。かなりきわどいシーンが多くあるにもかかわらず、そこまで抵抗感が無いのである。そうしていわゆる美しさという感じも、ちゃんと伝わってくる。性的な感情の連鎖は僕には無いが、そうだろうという共感はある。抗いがたい恋の行方も、良く分かるのである。そういう意味では、やはり性別なのでは無いということを、自然に表現されているということなのだろう。
 ある意味で自分の思いを相手に押し付けているということで、表題があるのかもしれない。それは確かにエゴかもしれないが、エゴは愛でもある。つまりは、どう考えますか、という問いかけなのであろう。
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無茶なりの結果で前提をいじらない

2024-07-09 | 時事

 僕はふだん民放は観ないのだが、健康診断で缶詰になっていたので仕方なく画像を見ていたら、都知事選の話題ばかりでびっくりした。よその国の事なんでまったく興味もくそもない分野だが、この国はいったいどうしたのだろうか。出来レースという訳ではないのだろうが、小池さんが勝つだろうことは誰でも知っていたことだ。まあしかしこの民放局の興味は少し違って、二番目に入った石丸伸二という人に対してだった。僕もまあちょっと前のSNSで話題のどこかの市長さん、というぐらいは知っている。こんな人が近くに居ると、精神的につらいだろうなあ、とは思う。つれあいに聞くと「誰?」と当然知らなかったので、郷ひろみになり損ねたような感じの人、と教えておいた(それで正しいかはわからない)。数日前友人のてっち君が二番手は彼ではなかろうかと予想していたので、これは一般的にはみんな知っていることだったようだ。
 でもまあそのテレビでは、とにかく石丸氏を持ち上げるだけ持ち上げるのである。なんだかヒトラー崇拝みたいで、気持ちが悪いったらありゃしない。彼は政治の天才で、これからの政治の世界を変え得る人なんだそうだ。へえ~。まあ、最初からヒトラーはヒトラーだったわけでは無いので、当たらないとも限らないが。やっぱり政治家より怖いのは、メディアや世論という訳だ。
 で、まあ都知事選の候補者乱立の無茶苦茶なありようを振り返り、それでいいのか? と問う。答えは言わない。それでいい訳ないだろ、ということだろうから。でもまあ、日本の民主主義的なありようの排他的な有様がこれだというのは、どうもその通りのような様な気がしていて、選挙がこの方向に行くのはいいことのように僕は考えている。損をしても身銭を切って政治に混乱をもたらし、自らの主張に終始する姿は、人の言うことを聞かない個人主義的な日本人の姿を如実に表してもいる。自分だけ良ければそれでいいというのは、日本人の根本原理である。政治の世界というより、選挙のありようがそうなっていいという都知事選は、見世物としては興味が無いが、ありようとしては正直でいいのではなかろうか。
 そもそも政党政治とはあまり関係ない選挙だったのだから、自民党がどうという事ともあまり関係が無いし、すくわれて事実上の大敗北の立憲民主党がどうということも基本的にはあまり関係ないだろう。ショックは受けても、それが都民世論というものだ。世論を反映させるために投票率をあげろと散々言われていた結果がこうなので、投票率どうのこうのというのは、つまるところやはりあまり正論でないことも明らかだろう。政治的に皆が関心を持つと、ろくなことにはならない訳だ(またそういう時代こそ、人間にとっては不幸なことは明らかだ。どうでもいいほど平和なのだから)。以前から言っていることだが、最適解の政治を目指すなら、AIに任せるのが一番であろう。
 アメリカの大統領選を前に、かの国ではろくな人間を選べない不幸な国だとののしっている人を何人も見るが、その前にこの国だって同じだと思うことの方が先である。もちろんその前に、選ぶ前の選択をできるように何をやるべきかは、よく分からない。やはり選挙に出る人は自由であることの前提をいじるのは、それなりに危険なことなのでは無いだろうか。
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秘密は先に明かしておきましょう   君への誓い

2024-07-08 | 映画

君への誓い/マイケル・スーシー監督

 実話をもとにしている作品。ある若い夫婦が追突事故に遭い、妻の方が記憶喪失になる。それも結婚前までの近年の記憶が、すっぽり抜け落ちてしまう。つまり結婚前彼女の家族とともに暮らしていたことと、結婚前に付き合っていた男との記憶がよみがえる訳だ。実際は彼らとの関係が悪くなり、その後夫とは結婚に至る経緯があったようなのだが、そこが抜けているので、過去のまだ良好だった家族との関係が蘇ることになる。関係が悪くなっていた家族としても、そのことを隠しておきさえすれば、娘が戻って来る。そうであれば、よく知りもしない夫と言っている男と一緒に居るよりも、過去の家族との方が居心地がいい状態になったのである。
 夫は必死になって記憶がよみがえるよう、現在の仲間たちと協力して妻と向き合うが、妻としては知らない人々との付き合いに、そしてその記憶が戻らない苦痛に、さいなまれることになる。そうして二人の気持ちは離れて行き、仕方なく離婚に至ってしまうのだったが……。
 彼女の過去には隠された問題があり、その為に家族は疎遠になり、前の彼氏とは破局を迎えたはずだった。しかしながら記憶を失くしてそれらを無しにしたい家族の思惑と、その秘密を明かすことにフェアじゃない(つまり自分たちの本当の愛があるのならば、元に戻るはずだと信じている夫の心情がある)と考える夫がいて、そうしてそのまま破局となる訳だ。それだけでは悲しい物語というだけで終わってしまうのだが……。ということだ。
 記憶を失くしているので致し方ないが、元は仲の良かったほぼ新婚夫婦が破局していく様は、正直言って複雑な心境になる。片方の愛とのバランスが極端に悪い。愛とはつまり二人で過ごした時間と記憶がいかに重要か、ということになる。だから破局は必然ということになるのだろうか。しかしながらもちろん、その前の条件がある。それが明かされないから破局に至るが、当然物語はそれが明かされることに至るのである。で、まあ、ということになるが、観ている人間にとっては、いまさらどうなんだ? とも思う訳だ。この女性が、限りなく身勝手に見えてしまう。こういう物語構成は、はっきり言って失敗なんじゃなかろうか。もしくは破局に至るにしても、多少の愛の芽生えを仕込んでおくとか、そういう事も必要だったのではなかろうか。
 エンディングに実話の方は、結局記憶は戻らないままだが、二人はその後二人の子供に恵まれたことを知らされる。実にめでたしめでたしなんだけれど、ほんとにこんな展開の後にそうなったんだろうか? 他人の恋愛にケチ付けても仕方ないが、どうにもしっくりこない感情が残ったのでありました。
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進化にとりつかれた人々の営み   進化のからくり

2024-07-07 | 読書

進化のからくり/千葉聡著(講談社ブルーバックス)

 副題「現代のダーウィン達の物語」。その副題の通りの内容なのだが、ダーウィンの進化論に魅せられて生物のことが好きなったというよりも、さまざまな生物の不思議を確かめていくにつれて、その基本的な考え方の骨組みにもなっている進化論に思いをはせるようになる研究者たちの行動を記録しているという感じだ。現代の科学的な調査の方法の前に、生き物には向き合わなければならないし、その生き物たちと出合うためには、人間では侵入しにくい過酷なジャングルのような場所へでも厭わず出向く必要がある。生物は様々なところに住んでいて、さらにそのさまざまな場所に適応して進化し続けているのかもしれない。そうして進化の過程において、時代の変遷において、近隣の仲間と交雑したり、離れていってしまったりする。形を変える過程で、そこに住む捕食者などの影響を受けて、派手になったり地味になったり、大きくなったり小さくなったりする。また捕食者のみならず、寄生虫によっても運命を変えられるのである。
 著者はカタツムリを専門とする研究者だが、そのカタツムリのみならず、さまざまな研究者と互いに貝などの研究をするうちに、進化論としてどのような進化の形をとったのかという論文ができて、そうしてその内容について国際的に激しい論争になっているトピックを紹介している。自然を読み込む方法や考え方において、時代を重ねるごとに新しい見地が見いだされ、そのことで激しい論争を繰り返してきた歴史があるのだ。そうしてそれらの発見においては、熾烈な研究の争いがある。誰が先にその研究成果を上げられるか、時間と戦いながらも、手を抜くことなく広範に物事を捉えながら、研究は進めていかなければならない。それは単に研究費用を獲得するというような、矮小な競争なのではない(それももちろん大切なんだが)。人間の根源的な好奇心をもって、なんと好きというだけで、この世界で頑張っている人々がいるのである。それも基本的には優秀な頭脳の持ち主ばかりで、あまり合理的とは言えないながらも、研究に魅せられていくのかもしれない。まあ、スポーツをやったりサーフィンやったりあちこち移動したり、という楽しみはあるのかもしれないが……。
 この本を読んで進化論の歴史、とりわけ日本のそれについても一通り認識を新たにすることができた。それというのも僕が進化論や、動物などが好きな理由の一つが、若い頃に今西錦司の存在を知ったからかもしれない。偉大な先生だったから、日本にはその弟子たちも偉大な人が多い。サル学なんかでは、その系譜は今に続くのではないか。しかしながら若い頃に読んだそれらの説というのは、バッサリと現代では切り捨てられてしまっている。そういう事もちゃんとこの本ではふれてある。ああ、やっぱりそうだったんだな、と改めて思う訳である。
 それにしても進化論をめぐって、今でも世界中の学者たちが研究を重ね、珍しい進化の不思議について、新たな論文が書かれているはずである。何しろいまだに謎が解けていない分野もたくさんあるのだろうし、検証の必要なものだってごまんと眠っているだろう。そういう複雑さの統合のようなものが、まだ欠けているものがたくさんある進化論の姿なのかもしれない。英語で言えばエキサイティングな現場が、そこら中に広がっているのが地球なのである。神は細部に宿る。研究者が感じているのは、そういう事なのではあるまいか。
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木こりには友だちは……   怪物の木こり

2024-07-06 | 映画

怪物の木こり/三池崇史監督

 オープニングで、過去に誘拐された子供たちを使ったサイコパスの実験が行われた事件での、警察の踏み込み場面が流れる。そうして時は流れ、ふつうに暮らしているとはいえ(それぞれに問題は起こしている様子ではあるが)、実はサイコパスである人々が、何人もいるらしいことが示唆される。だが同時に斧で頭を割られて殺されるという、凄惨なる連続殺人事件が勃発する。そうして弁護士として成功している男が、斧を持った木こりの服をした男に襲われてしまう。弁護士の男は頭に傷を負うが、命は取り留める。連続殺人の犠牲者は、男女の別や年齢がバラバラで、一見何の共通点もなさそうである。しかし同じ施設ではないものの、養護施設出身者ばかりであることが、明らかにされていく。過去の誘拐サイコパス実験では、ほとんどの子供は実験に失敗し、死に絶えたと考えられていたが、生き残りは児童養護施設へ捨て子として預けられ、その後社会人として散らばって暮らしていたのだった。そうして実は弁護士の男も、事故であらためて脳チップが埋められていたことを知り、養護施設出身者でもあったのだ(だからサイコパスだったのだ)。
 その後も木こりの正体がはっきりしないまま、弁護士は木こりに襲われることになる。木こりの目的は、脳チップのためにサイコパスとなっている元子供たちを殺すことにあるらしい。そうして着実に、弁護士との距離も縮めている様子だ。弁護士の男は、恩があるが自分の利己的な利益のために殺した弁護士の娘と婚約している。一連の事件の中にあって、婚約者の娘と、本当の意味で感情的に距離を近づけていく。実は木こりに襲われて頭を負傷した折に、サイコパスを維持するための脳チップが壊れてしまったのだ。弁護士の男は、人間的に豊かな感情を徐々に取り戻していく中にあって(それも彼女の優しい感情に触れていくにつれ)、木こりという最大の脅威と、警察の捜査が伸びてくる中にある。元はサイコパスだったけれど、そうでなくなった今となって、いったい彼はどんな生き方をすべきなのだろうか。
 なかなかに重層的な物語が、それぞれの個人の事情と絡まって展開されていく。警察からはマークされているけれど、そもそもサイコパスとしても弁護士としても優秀な男は、仲間の医者のサイコパスと組んでもいて、人を殺すことなんてなんとも思っていなかった。一方サイコパスを次々に餌食として殺していく犯人の行く手は、一向に分からない。警察捜査は後手後手に回り、なかなか事件の核心に近づけていかないのである。
 そうしてクライマックスを迎えるが、観ているものにとって、一定の納得いく方向性に持ち込める提案がなされたように見えた瞬間、再度のどんでん返しが待っているのである。
 なるほど、してやられたものだ、と唸ってしまった。こうなってみると悲しい人間性の発露と残酷物語だった訳で、ご冥福をお祈りいたします。架空の人々だけど。
 キャストの面々から、なんとなくアイドル路線というか、テレビドラマ的な雰囲気があるが、作りとしては重厚的な大人の映画になっているのではなかろうか。サイコパスとしては恐ろしく見える男の哀愁が、見事に捉えられた作品になっているのであった。
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筋トレは続けられるか

2024-07-05 | culture

 母がテレビを見ていて、「マッチョってなあに?」と聞いてきた。「まあ、筋肉隆々の男なんかじゃないの」というと「気持ち悪い」だって。確かに行き過ぎたものはそんな感じもするが、あれだけの筋肉になるには、大変な努力が必要だろう。休めば衰えるだろうし、一度マッチョマンになったら、なかなかやめられないものなのではなかろうか。
 筋トレはブームというか、一定の人気があるようだ。僕の知り合いには少ないが、筋トレをやっているという話は、ときどき聞かないではない。ジムに通っているなんて話も聞くし、田舎のまちにもそういうジムが成り立つほどには、愛好者がいるということだろう。ドラッグストアなんかに行くと、プロテインなんかも大量に売られている。すべてが筋トレ愛好者が買っているものでは無いのかもしれないが、やはり需要があるんだろうな、と思われる。
 僕自身も筋トレをしていたことは無いではない。学生時代は部活もあったし、決められた時間筋トレはさせられていた。胸囲は1mを越えたこともあるんで、ある程度頑張りはしたのである。今は腹回りが1mを越えてしまったが……。
 その後ダイエットもかねてちょっとばかりスクワットを続けたりなどはあるようだが、大人になってからはやはり続いてはいない。一定期間を過ぎると、いつの間にかやめてしまう。ハードにやるほどつらいことはやってないが、それでもやめてしまうのは、やはり筋トレ自体が、あんまり面白くないからではないかと思う。単調だし、飽きるのだ。一定の成果というか、だんだん痩せていくとか(腹まわりの脂肪が落ちるとか)、少し筋肉がついてきたというのは励みにはなるが、それ以上になるには、やはり修練が必要だ。そこまで行く前に、飽きてしまうのだろう。
 だから僕が筋トレをしている人たちを尊敬するのは、よくもまあ飽きもせずに続けられるということに尽きる。もっとも筋肉がつくと、自己肯定感が上がるとか、自信が付くなどということもあるらしいのだが、しかしながらはっきりとマッチョマンになるまでには、それなりの期間、継続して筋トレは続ける必要があるだろう。聞くところによると、お酒もあまり飲まないでやるらしいともいう。酒も飲まないで筋肉のつくような運動を毎日やるなんて、とんだ酔狂では無いのか。ただただすごいとしか言いようが無いではないか。
 という訳で、ぜい肉は付いても筋肉は付かない生活を続けているわけだが、母からは気持ち悪くは思われない、ということなのかもしれない。でも、どうして気持ち悪いと思うのだろう。こんど、ちゃんと聞いてみなくては……。
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アクション活劇娯楽のむつかしさ   リボルバー・リリー

2024-07-04 | 映画

リボルバー・リリー/行定勲監督

 舞台は大正末期。元敏腕スパイで、多くの人の暗殺に関わったとされる百合という女性がいて、今は花街でカフェのような店のおかみをしている。過去にかかわりのある家で惨殺事件が起こり、そこから逃げてきた少年と関わることで、日本の陸軍と海軍の暗躍に巻き込まれていくことになるのだった。
 はっきり言ってバカ映画に仕上がっている。アクション映画なので、多少の荒唐無稽があってもいいと思うのだが、その度合いが中途半端な抜け方をしている所為で、何かそのスリルも抜けているし、リアルももちろん無い。緊張感が無いというか……。いろいろと正義の制約があるようで、相手を打ち抜いても、急所を外してあるから大丈夫だとか、妙なこだわりがある。しかし撃たれた相手は即時に動けなくなっているわけで、急所を外されて死なずにいる撃たれた人間なら、その痛みに耐えかねずのたうち回ることだろう。また相手の軍人の部隊に対峙して、装飾品の多いスカートのいでたちでアクションを展開する。海外だとセクシーなどの露出があるという感じが多いが、日本の女優だと、そういう感じより線の細さのようなところが出てしまって、今一つという感じかもしれない。ギャップこそ驚きに通じて、本来はカッコいいのだが、かっこよさに突き抜けない何か引っかかりを残しているのである。助け出された少年も、なんとなくいつまでも馬鹿だし、イライラさせられる。お前の為なんだから真剣になんなさい、と説教したくなるのである。
 まあ、いろいろある訳だが、要するに合わない映画を観てしまったのだろう。でもまあ、最初の陸軍の残酷な感じと、その後の秘密めいた謎解きは、期待感はあったのである。これは大変なことになるぞ、って感じですかね。もちろん大変なことにはなっていくが、それは日本陸軍の戦闘能力の低さゆえなのだから、なんとなく悲しいというか空しいというか、という事なのである。言いたいことは、そういう惜しい感じだったのである。娯楽作は、もう少し何も考えなくても突き抜ける感じ、のようなものが必要なのでは無いだろうか。まあ、この種のハードボイルドが難しいのは、そういうあたりの勘どころなのではあるが……。
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