カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

日本はもう、何も学ぼうとしていない、としたら

2024-07-30 | 時事

 オリンピック自体がどうなっているのは僕には分からないのだが、これを書いているオリンピック開催前の状況で、日本の男子バレーが復活してメダルの可能性があることが報じられていた。栄光の時代から転落したまま半世紀の間、日本の男子バレーは国際的に低迷していたとされる。日本が金メダルを獲得してから、諸外国のバレーは日本の様々な技術を習得し、あっという間に追い抜き、そうして差を広げてきたのである。
 そんな日本の低迷に喘ぎながら、かつての日本のエースだった中川内は、米国にコーチの手法を学びに行く。そこでさまざまな手法を学ぶとともに、バレー先進地の彼らの言葉に耳を傾けた。そうして一番言われたことは、「かつて日本の松平をはじめとするバレーは、本当に素晴らしかった。私たちは必死になって日本に学んで追いつこうとした。だが、その後の日本は、長く低迷してしまった。日本はもう、何も学ぼうとしていない。本当に残念なことだ」と。中川内は迷いに迷い、そうして海外のコーチを招聘する道を選んだという。また日本の選手たちも、自らのレベルアップを目指して、積極的に海外のチームで活路を見出すものが現れるようになった。そうやって、日本は強くなってきたのだという。
 つまりはそういうことなのだ。これはバレーに限ったことではないのではないか。もちろん事情の異なることがたくさんあるだろうことは、承知している。しかし日本のバレー界は、明確に、謙虚に、事実を認めることから始めた。生まれ変わったのは、基本的にその気づきなのであろう。
 オリンピックの結果においては、僕はそれほど興味は無い。しかしながら、そのようにして必死になって戦っている選手やチームには、深い敬意を払いたい。そりゃあ僕も日本人には違いないので、日本を贔屓にしている気持ちはある。しかしながらだから僕らはどうするのか、そのことの方がずっと僕の関心の高い領域である。学び続ける事が今できる事になるように、その前の謙虚さこそが、誰にとっても必要なことなのだ。このような機会に気づかされるとしたら、オリンピックも意義深いものとはいえるかもしれないが。
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農耕民とは誰の事か

2024-07-30 | 境界線

 日本人のルーツとして農耕があって、皆が共同体として生きる日本独自の社会が形成されているのは、農耕民族日本人がある、という話は死ぬほど聞かされてきた日本人文化論である。多くの人にとっては、これが信仰にまでなっていると感じる。いわゆる揺るがない、当たり前で当然の事実であるという訳だ。
 しかしながらこれに納得したことが、僕自身は一度としてない。何故なら日本人のルーツは農耕民族ではないことくらいふつうに知っていることだし(というか農耕民になった歴史が西洋よりはるかに遅い)、その為に日本人が共同体で生きるようになった事実は、ほとんどない事だからだ。でも、このような感覚は揺るぎが無い人が多いようで、そう言った事実は違うといったところで、納得する人は見たことが無い。真実というのは、無駄な事実ということになるのだろうか。
 僕が個人的に日本人が農耕民族ではないと普段から感じているのは、日本人が農耕民族的な考え方をあまりしていない、とも感じるからかもしれない。僕の家はそもそも農家では無かったし、大人になって農業を仕事でするようになって初めて、ある意味での共同体的な考え方を知ったということもあるかもしれない。農業は基本的に住んでいるそばでやる場合が多くて、僕のような通いの人が共同体に入るのは、それなりに大変だった。しかもその共同体は、必ずしも皆で協力するためだけに存在するものでは無かった。いちおう水の管理など共同や役割分担をしてやるものがあるが、普段から水というのは取り合いがあって、いかに抜けがけして水を調達するのか、という競い合いがある。ちょっとでも気を抜くと、騙されるという関係にあるのだった。そういう意味では、お互いを監視し合う仲とはいえるかもしれないが、近隣関係が必ずしも良好でないのは、日本人の特徴ではなかろうか(まあ隣人関係は、西洋でも悪い人はいるだろうが)。
 僕が暮らしている地区においても、農業を営んでいる人というのは、圧倒的に少数派である。子供のころから同級生で農家というのは数えるくらいしかおらず、実際農業従事者というのは、日本全国でも少数派であったろう。地元がずっとここだという家が多数派であるにもかかわらず、農業従事者というのは、そもそも少ないのである。畑や田んぼがあるといっても、いわゆる兼業で、週末などに手入れするというところだって、そうそう多くは無いのである(僕の住む集落では皆無だ。田舎なのに)。
 そういった具合に何世代にもわたって農業さえ営んでいない人々が多数派であるのが、日本のふつうの社会の在り方だろうと思う。僕の住んでいるところが例外的な場所だとは考えにくい。もちろん以前はそうではないとはいえるかもしれないが、少なくとも農業や農耕の伝統を受け継いでいる人々が、ずっと暮らしてきたとは、とてもいえそうにないのである。
 また、僕の親世代だからと言って、すでに核家族化は進んでいた。僕の家がそもそも最初から勤め人であったわけだし、祖父も転勤族だったらしい。親戚を見回しても農業を営んでいるところは無かったし、庭に畑がある(売ることは無い)という程度は何件かあるくらいだったろう。いわゆる農家的な農耕的な考え方が何であるのか、かなりのミステリだと言ってもいいのではあるまいか。実際農耕民的な思考なんてものは、具体的に何を指して言っているのだろうか。少なくとも農耕民族的なアイディンティティを失った人々が大多数を占める国民性が、日本人なのでは無いだろうか。
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