ミナリ/リー・アイザック・チョン監督
劇中にも語られるが、ミナリとはセリのこと。川の岸などの水辺に自生するものだが、そのようにしてたくましく育つ象徴として、この題名になったのかもしれない。
韓国からの移民一家が、アーカンソーの田舎に越してくる。住居はトレーラーハウス。一家四人には十分だが、ついてきた妻は不満顔である。彼女はソウル生まれの都会人で、信仰にも篤い。まちも遠いが、韓国の教会さえ無い土地で、最初は夫と鶏の雌雄選別の仕事を熱心にしているが、それ以外の人間との付き合いもなく、夫が土地を切り拓いて畑をやろうとしていることに対しても懐疑的で、非協力的だ。さらにこの家庭にはまだ問題があり、息子のデビットが心臓病を患っている。見てくれる病院は大変に遠い。娘は従順だが、母とともに不満が無い訳ではなさそうだ。孤立した家族にあって、韓国から妻の母を呼び寄せることにする(共働きだし)。しかしこのおばあちゃんがちょっと風変わりで、息子との関係が、あまりよくないのだった……。
基本的にはホームドラマ的に、大草原の小さな家でいろいろな困難が持ちあがる。韓国の人は家族にも見栄を張るようなところがあるらしく、父親は頑張ってはいるが、自分本位で、何かと嘘をついては、今の失敗をはぐらかそうとする。そういう姿を見て妻は更に不信を募らせ、そもそも認めてさえいなかった田舎暮らしに対して、グラグラと揺れる心を抑えることができなくなっていく。息子の心臓病は心配だし、おばあちゃんは風変わりで口が悪く、たいして子供の世話として役に立っていないのであった。
聞くところによると、この映画は米国ではバカ受けして評価も高い。これだけ地味なのになぜ? という気にもなるが、いわゆるアメリカ開拓民の姿を、現代に移して再現すると、このようなものに近い感覚があるのではないか。皆夢と不安を抱えて、なんとか自分たちの力を信じて、この土地を切り拓いてきた。そうしてアメリカ大陸は、移民たちが住まう広大な国になっていったのだ。
移民のルーツは様々だが、ある意味で宗教でのつながりで、コミュニティを築いていく。そのような意味合いも含めて、ということになると、これはアジアでも韓国人でなければならない話になっていくだろう(キリスト教ということでは)。おそらくだが、日本人の感覚からはよく分からない構成になってしまうのは、そのような背景の為ではないかと推測する。それよりも、まずもう少し夫婦で話し合うべき問題がたくさんあるように思うが、先に成功するようになると納得してもらえる、という一点の希望にかけているものと思われる。劇中に言われてもいたが、そもそもこの夫は韓国では何かつらい思いもあって新天地を求めているのである。そういう気持ちは妻には必ず分かってもらえると、必死になっているのだろう。
微妙な破綻を迎えることになって物語は終わる。それは再生のスタートになるからだ。ギリギリのバランスを壊すことで、かえって気持ちを一つにできることもあるのかもしれない。そのように考えると、僕らは誰もが開拓民のようなもの、なのではなかろうか。