最近はそんなこと聞かれなくなって久しいが、以前は好きな言葉は何かとか、座右の銘は何かとか、好きな漢字を書け、というのがあったように思う。奥さんの名前や生年月日を教えてくれ、というのも困るが(※1)、こういうのをいきなり聞かれても困る。
若い頃にはちょっとふざけていたこともあるので、好きな言葉と言われたらいろいろすぐに浮かんだもので、素直に「割引」とか「半ドン(※2)」とか答えていた。生徒としては、「挑戦」とか「夢(※3)」とか無難なものが多かったのだろうが、そういうのを言いたくない気持ちの方が強かった。
僕の友人に「臥薪嘗胆」や「捲土重来」というのが好きな奴がいて、それで四字熟語を少しは覚えたというのは良かったかもしれないが、最初につらいことがあるのはどうか、とも思っていた。でもまあつらいから忘れず努力できるというのはそれなりに合理的であるとは後で気づいたが、つらいのを忘れないのは精神的に不健康ではあろう。
それで自分なりのモットーのようなものをいうのもいいかな、とも思うのだが、実はそういうものもそんなに無いような気もする。その時に行きあたりばったりでそうするというか、考えを決めるようなところがあって、柔軟性があっていいともいえるが、優柔不断であるのも事実である。そもそもそんなに事前に何か考えるようなことも無い。
それでも僕なりに尊敬しているというか、尊敬できる人物像というのがあって、それは素直に誤りを認めるような人なのである。それは自分が悪かった。そう言えるような人に出会うと、ちょっとした感動を覚える。何でもすぐにごめんなさいと謝るような人もどうかとは思うが、もちろんそういうことではなく、たとえ最初に自分が正しいと思ったことであっても、途中で誤りに気づいたら、勇気を出して修正できるということだ。柔軟さがあり、深みがある。
尊敬できると思えるのは、そもそもそんな人間なんてほとんどいないからだ。人間には感情があり、よほどのことが無い限り、その時瞬時に判断できて正しい、なんてことはあり得ない。だからこそ誤りを認めることは難しく、皆が苦労しているともいえる。もちろん、僕を含めて。
「朝令暮改」は、あまり意味の良いとされる四字熟語ではない。それは分かっているが、ひょっとするとこれを悪いと考えている多くの人々というか、いわば多数派の無理解にあるのではないか。方針がころころ変わって振り回される身になってみると、お気の毒には感じられるものではあるが、朝令暮改をした人物というのは、迷いがあるというよりは、柔軟に物事を考えたいという思いもあるのではないか。僕としては朝令暮改ができることに、何かヒントを覚えるのである。しかしこれを好きな言葉とするには、やはり抵抗がある。自分の憧れや方針であるにせよ、何か理解を得られにくい感じはある。
そこで「君子豹変す」、はどうだろう。これも、実際は困った場合を指しているのが本来の語感だろうけれど、そもそも君子のような偉い人であっても、そうなる、というニュアンスもある。ましてや凡人ならどうなのか。君子にあやかって豹変しても良いのではないか。
ということで、僕の好きな言葉というか、生き方というか、方針というのは、これなのである。そのような人間になれたらいいな、という願望が込められているのである。
※1 たぶん保護法とかのたぐいで、そういうのがなくなった。思えば昔は情報駄々洩れで恐ろしい時代だった
※2 僕らの児童生徒時代の学校には、土曜が昼までという半ドンの日があったのである。半分休みで半ドンというが、半休という言い方をする大人もいた。ドンは休みの意味らしく、当時担任の先生に意味を聞いたら何故か怒られた記憶がある。単に自分の無知が恥ずかしくて逆切れしたのだろう。昔の先生は、ほんとにバカが多かった(今はどうだか知らないが)。
※3 実は「夢」というのは比較的新しめ、という気もする。以前の子供たちは、安易に夢を語らなかったという感覚がある。夢というと将来の職業めいた感覚があって、そんなことをしっかり言えるような子供にろくな者はいなかった。パイロットになるのはそれなりにむつかしそうだし、医者も今から勉強頑張りますって感じで敬遠されたのではなかろうか。だからスポーツ選手はともかく、教師や看護婦のようなものが多かった。また、大工などの職人系のものもそれなりにあったと記憶するが、それは彼らの親の職業だったのだろうか。少なくとも公務員というのは、純粋な子供では聞いたことが無いようにも思う。